第三部パラダイス #36

 さて、一方のパンダーラは。そのような真昼のことを、ただ、黙って見ていた。一言も口を挟むことなく、それどころか微動だにせずに。真昼の、その頭蓋骨の内側に、どろどろと、淀み、濁り、溜まり、ぐじゅぐじゅと腐りながら沈殿していた呪いを。真昼が、全て、全て、吐き出してしまうのを待っていた。

 そうして、その後で。真昼が……その全部を、吐き出してしまうと。パンダーラは、一度、たった一度だけ、目をつぶった。右の目、左の目、それに額の目。その全ての目をつぶって見せた。いうまでもなく、デウス・ダイモニカスにはまばたきをする必要などない。人間や、あるいは他の脆弱な生き物のように、目が乾くということがないからだ。デウス・ダイモニカスがこのように目をつぶって見せるのは……それは、いつであれ、一つの記号としてそうするのである。一つの記号的表情としてそうするのである。

 静かな、静かな、そして、どこまでも優しい諦めとして、パンダーラは目をつぶった。そして、数秒が経った後で、目を開いた。その目は、真昼のことを見ていて。まるで、それは……ただ真昼一人。まさに「この真昼」一人だけ。その、全てを許してくれようとしているかのように。

 パンダーラは。

 また口を開く。

「お前が運命に抗えないというのは分かっていた。」

 パンダーラは、それから、真昼の方に向かって歩いてきた。後ろを向くことさえ出来ないままに、ただただ後ずさっていく真昼の方に向かって。一歩一歩、決然とした態度で……一つの、巨大な、信念の形であるかのようにして。

 パンダーラは、もう一度、言う。まるで、聞き分けのない子供に、辛抱強く言って聞かせるように。「お前が運命に抗えないというのは分かっていた」「お前は弱い、あまりにも弱い」「お前が私の望んだように生きることが出来ないのは分かっていた」「お前が私のように生きられないということは分かっていた」。

 「分かっていたなら!」。真昼は、まるでパンダーラの言葉を遮るかのようにして叫んだ。真昼は、もう退いてはいなかった。あたかもパンダーラに向かって挑みかかるように……あたかも、一匹の子犬が、窓の外を、まるで子犬のことなど知らぬ顔をして走り去っていく救急車に向かってきゃんきゃんと吠えかかるように。パンダーラに向かって、こう叫ぶ。「分かっていたなら、なぜ手を差し伸べたんですか!」。

 「あたしに、あたしに……」「あたしに、なんで、手を差し伸べたんですか?」「分かっていたなら」「あたしが、その手を掴んで、そして、あなたのことを引き摺り下ろしてしまうと分かっていたなら」「なんで、手なんて、差し伸べたんですか?」真昼は、息が出来なかった。ただ心臓だけが、笑ってる、笑ってる、笑ってる。真昼は、真昼は……こう言う。「あたしがこんな生き物になる前に、殺してくれればよかったのに」。

 真昼は、両方の手のひらで顔を覆った。まるで、自分が世界のことを見られなくなってしまえば、世界の中から自分がいなくなってしまうと、そのような幼稚なことを考えている子供のようにして。真昼は、もう、現実を見ていたくなかった。現実における自分があまりにも醜いから。

 パンダーラは、しかし、そんな真昼に向かって、一歩一歩進んでいくことをやめはしなかった。やめて、やめて下さいパンダーラさん。あたしに……あたしに、それ以上近付いたら、あなたまで汚れてしまう。取り返しがつかないほど汚れてしまう。

 しかし、それでも、パンダーラは足を止めはしなかった。醜い真昼の醜さなど、まるで意に介することなく。あくまでも気高く、あくまでも誇りに満ちた有様で。張り詰めたように美しい姿勢のまま、真昼に向かって歩いてくる。

 そして、やがて……とうとう、取り返しがつかないことが起こってしまった。パンダーラは、真昼の目の前の場所まで辿り着いた。パンダーラは、真昼の目の前の場所に立ち止まった。真昼の、俯いた頭を見下ろしているパンダーラ。怯えている子犬のような真昼を見下ろしているパンダーラ。もしも、もしも、何もかもが正しいというのならば。あの過去はなかったことになるはずだ。真昼が、何度も何度も子犬を殴りつけたあの過去はなかったことになるはずだ。真昼は、優しく優しく子犬のことを抱き締めて。そして、大丈夫だよと言ってあげるはずなのだ。

 そして、いうまでもなく。

 ここは、この場所は。

 真昼にとって。

 どこまでも。

 どこまでも。

 都合のいい。

 物語の世界で。

 だから。

 だから。

 パンダーラは。

 目の前の。

 真昼のことを。

 優しく。

 優しく。

 抱き締めた。

 真昼は……びくっと体を固くした。しかし、抱き寄せるパンダーラの腕に抵抗することなど出来るはずもなかった。顔を隠したまま、現実における自分の醜さを否定したままで。ただ、パンダーラの腕に、都合のいい物語に身を任せる。パンダーラの声が聞こえる。「大丈夫」「大丈夫だ」、耳元で、まるで真昼のことを気遣うように囁くパンダーラの声が。

 真昼は、パンダーラに抱かれたまま。無力に。無罪に。まるで熱に浮かされたうわ言のように、何度も何度も繰り返す。「あたしは、この世界に存在しているあらゆる苦痛を誰かのせいには出来ないんです。この世界で行なわれているあらゆる悪を誰かのせいには出来ない。そうするわけにはいけないんです。絶対に、そんなことをしてはいけない、だって、それは、全て、あたしのせいだから。結局は、あたしが、この世界を、こんな世界にしてしまったのだから」、けれども、その声には、もう抵抗の意思はなかった。

 パンダーラの背の高さと、真昼の背の高さと、随分と違う。パンダーラに抱かれた真昼の姿は、母親の体に必死でしがみ付いている子供のようだ。パンダーラの胸、少しだけ下の方、真昼が頭を押し当てていて。パンダーラは、その真昼の頭を、ゆっくりゆっくり撫でている。まるで、この世界には何も怖いものなんてないと、子供にいい聞かせている母親のように。

 結局のところ、振り出された手形の何が救いだというのだろうか。生けとし生けるものが来世で救われるという約束の、一体、何が救いだというのだろうか。あたしは、まさに、今、ここで、苦しんでいるというのに。苦しんでいるのは、まさにこのあたしだというのに。

 来世で救われることが救いだというのならば、それしかあたしには救いがないというのならば。要するに、あたしは救われないということだ。だって、そうでしょう? ねえ、違う? あたし、何か、間違ったこといっている? まさに、このあなたが餓死しようとしている。まさに、このあなたが病にかかっている。まさに、このあなたが拷問されている。痛みにのたうち回っているあなたに、お優しい方々がこう言うのだ。今、ここで、どんなに苦しくても。あなたは来世で幸せになることが出来ます。自己陶酔に浸り切った目をして、偽善者の笑顔で笑いながら。

 うるさい。

 うるさい。

 黙れ。

 無意味だ。

 そんなのは。

 絶対に。

 無意味だ。

 だって、だって、全てを幸せに出来るような誰かがいるのならば。不可思議な世界に、浄土に、あたし達を生まれ変わらせて。そして、絶対の歓喜の中で幸福に満たしてくれるような誰かがいるのだとするのならば。なぜ、今、ここで、このあたしのことを救ってくれないの? なぜ、あの時、あそこで、あたしが、あの子犬を虐待するままにしていたの? なぜ、なぜ、なぜ……パンダーラ・ゴーヴィンダという、絶対の不幸を生み出したの? つまり、こういうことなのだ。パンダーラ・ゴーヴィンダという一人のデウス・ダイモニカスが、その、欠片も救いがない一生を終えた後では。あらゆる救世主は無効になる。あらゆる御伽話はお終いになり、ただ現実の世界だけが残される。

 でも、でも……それでも……今、ここに。この砂流原真昼の目の前に。そのパンダーラがいる。そのパンダーラが立っている。そして、真昼のことを抱き締めている。優しく、優しく、抱き締めている。まるで現実の世界ではないかのように。まるで御伽話の世界のように。

 真昼は……そう……真昼は……現実の世界なんかに生まれてきたくなかったのだ。どこか、どこでもいい、今ではない時間、ここではない場所、素敵な物語の中に生まれたかったのだ。ああ、これが、めでたしめでたしで終わる御伽話であったらどんなによかっただろう。

 真昼は、否定したくなんてなかった。主を。浄土を。否定したくなんてなかった。振り出された手形がこの手のひらの中にあれば、どんなに幸せに生きていけたことだろう。来世で幸せになれると、本当の本当に信じられたら。どんなに楽になることが出来ただろう。しかしながら、真昼の手の中にあった手形は、結局はおもちゃの手形だったのだ。本物ではない偽物の手形、その手形を振り出した銀行は存在せず、真昼は詐欺に遭っただけだった。手の中には紙切れだけが残されている。なぜなら、その手形をいくら、大事に大事に、そっと、握り締めていても。結局は、真昼は幸せになれはしなかったからだ。真昼の目の前で、パンダーラは、救われることなく、死んでいったからだ……しかも、真昼のせいで。ないのだ。ないのだ。浄土なんて。来世であたしが生まれ変わり、そこであたしが幸せになる、浄土なんて世界は存在しないのだ。ない! ない! ないんだ! そんなものはないんだ!

「あたし。」

 真昼は。

 真昼は。

 パンダーラの胸に。

 顔を埋めたままで。

 一つの告白。

 心臓の内側に。

 秘密のままで。

 閉じ込めていた。

 その告白。

 吐き出す。

「信じたいんです。」

 初めて。

 初めて。

 本当に初めて。

 パンダーラに。

 この、不幸だった人に。

 吐き出す。

「奇跡を信じたいんです。」

 このあたしに奇跡が起こるって信じたい。それが、真昼の偽らざる真実であった。心臓が歌っている。心臓が歌っているその声が聞こえる。どこまでも無邪気に、どこまでも無垢に、まるで、罪というものがない世界に発生した奇妙な昆虫の、生まれたばかりの幼虫のように。真昼は奇跡を信じたかった。でも、信じることが出来なかった。なぜなら、この世界は現実で、そんな馬鹿馬鹿しい御伽話が成立する余地は、立錐の分さえもなかったからだ。それが、つまり、真昼だった。真昼が真昼である全てであった。

 さて、真昼の、そのような告白に。真昼という人間の、その全てを投棄するような告白に。パンダーラは、暫くの間、何も答えなかった。それは、別に、何をどう答えればいいのか迷っていただとか、そういう意味の時間ではなかった。ただ待っていたのだ。真昼が落ち着くのを、真昼が、その答えを聞くことが出来るほどに落ち着くのを。

 そうだ、その通りだ。もちろん、いうまでもなく、パンダーラには分かっていた。既に分かり過ぎるほどに分かっていた。真昼が相対しているのは、束の間に消え去ってしまうような人間的な知性ではない。デウス・ダイモニカスの知性なのだ。人間から見れば、永遠であるかのような、絶対であるかのような、デウス・ダイモニカスの知性なのだ。

 パンダーラは分かっていた。真昼が何を求めているのかということを。そして、パンダーラはこのようなことも理解していた。結局、人間的な文脈においては、正しさなどは重要ではない。その人間が求めているものこそが、本当の本当に重要なのだ。準備は出来ていた。欺瞞の準備は出来ていた。欺瞞で何が悪い? もしも、欺瞞しか、そこにないというのならば。

 パンダーラは。

 一度息を吸う。

「一つ、聞きたいことがある。」

 そして、それから。

 真昼に、こう言う。

「私はお前を救ったか?」

 「え?」と真昼は声を漏らした。パンダーラの言っていることの意味が分からなかったからだ。どういうことだろう、これはなんなんだろう。何も分からなかった、だから、真昼は、口籠もるように言う「あたし……意味が分かりません」。

 素直なことだ。パンダーラは、そんな真昼に答える。「お前は、今、ここで、まさにこのお前として、救われていない」「この現実において、この世界において、お前を救うことが出来た者は一人もいないということだ」「もちろん私も含めてだ」「そうだとするならば、私はお前を、救わなかったことになる」「私はお前を救えなかった」。

 真昼は……真昼は……しかし……その通りだった。確かにその通りだった。しかし、それがどうしたというのだ? あなたは正しい人だ。そして、あたしは悪い子だ。例え、あなたがあたしを救えなかったところで、その構図にどんな変更が加えられるというのか。あるいは、あなたが不幸だったということ、あなたが一つの絶望であったということに、それが関係してくるとでもいうのか。

 あなたがあたしを救えなかったとしても……あなたは正しい! あなたは正しいんだ! 絶対に、絶対に正しい。なぜなら、あなたは……あたしを救おうとしてくれた。本当の本当に、紛れもない真実としてあたしに手を差し伸べてくれた。

 あなたが……ねえ、パンダーラさん。あなたが運命に逆らえなかったとして、あなたの何が悪いというの? あなたは、だって、運命に逆らおうとした。あたしと違って、逆らおうとしたんだ。だから、あなたは悪くない。あなたは正しい。

 真昼は。

 そう言おうとした。

 でも。

 その言葉を遮るように。

 パンダーラが、続ける。

「私がお前を救えなかったのなら。」

 遠い。

 遠い。

 御伽話のように。

「私は間違っていたということだ。」

 「そんな……」真昼は、思わず声に出していた。パンダーラにひしと抱きついたままで。いや、それどころか、先ほどまでよりも、一層強くその体を抱き締めて。真昼は続ける「そんなことありません!」。

 「あなたは、正しい人です」「あなたは、絶対に正しい人です」「あたしを救うことが出来なかったとしても、あなたは正しい人なんです……あなたは、正しい人なんです」。パンダーラは、駄々っ子のようにそう言う真昼に答える「私は間違っていた」。

 パンダーラの声。これほどまでに確信に満ちた声。あたかも、一つの山脈が、風雨、風雪、その峻酷な環境によって次第次第に削り取られて、一つの偉大なる彫刻と化した、その彫刻のような毅然。そのような声によって、パンダーラは、真昼に教え諭す。

 真昼は。

 ただ黙って。

 聞いている。

「それは正義の顔をしているかもしれない。しかし、そうであるならば、お前を救わなくてはならなかった。お前を救えないとするならば、それが正義だということはあり得ないのだ。それは、お前にとっては正義ではない。もしも、仮に、この世界に生きる全ての生命を、いや、この世界そのものさえも救うことが出来る救世主がいたとしよう。そして、その救世主が、この世界そのものを実際に救ってしまったとしよう。しかし、それでも、その救世主が、お前一人を救えなかったとすれば、この世界を救い、それでも、ただお前一人を救い損ねたのだとすれば。もう、その救世主はお前の前で救世主を名乗ることは出来ないのだ。なぜならお前は救われていないのだから。」

 パンダーラは。

 そこで。

 一度。

 言葉を。

 止めた。

 それから、今度は……少し、ほんの少しだけ。何か、とても、とても、哀れみに満ちた口調。とはいっても、慈悲というよりも、まるで自分自身、過去においてとてもとても愚かだった自分自身に言い聞かせるようにして。

 柩。

 柩。

 それは柩。

 言葉を。

 続ける。

「お前は……お前は、あの男を拒むことが出来たはずだ。お前を責めるつもりはない。しかし、お前は、このことの全てが始まってしまう前に、あの男を拒むことが出来たはずなのだ。なぜなら、お前は理解していたはずなのだから。あの男に出会った後、すぐに。お前は理解していた。あの男が邪悪であるということを。あの男の口にすることは、全て、嘘か、悪意のある真実であるということを。それでも、お前はあの男を拒むことが出来なかった。私は……私は、それを拒むことが出来なかった。なぜなら、私には分かっていたからだ。完全に、絶対に。疑いようもない明確さとして、私は理解していた。この男が、この男だけが、たった一人、この男だけが、私にとっての奇跡となりうる男だと。」

 閉ざされた柩。

 消え去ってしまった。

 失われて、しまった。

「奇跡はある。それはある。」

 遠い。

 遠い。

 記憶から。

 声が聞こえる。

「それは、確かに、あるんだ。」

 でも、それなら、なぜあなたはあんな死に方をしたんですか? それなら、あなたはなぜ不幸になったんですか? あなたはなぜ救われなかったんですか? 「あたしは……あたしは怖い」「何がだ」「奇跡が、あたしを裏切ってしまうことが。ねえ、パンダーラさん。もしも、奇跡が、あたしのことを裏切ったら。あたしのことを裏切ってしまったら、あたしはどうしたらいいんですか? ねえ、あたし、怖いんです。あたし、奇跡に裏切られるのが怖いんです」「奇跡は、絶対にお前を裏切らない」「でも、あなたは……」「言ったはずだ」パンダーラは、真昼の目の前から失われてしまった、全ての、全ての、美しかったものの象徴のように、ただ、こう答える「私は死ぬべきだった」。

 絶対。

 零度。

 よりも。

 冷たく。

 まるで、世界の全てが凍り付いてしまったかのようだった。世界が、世界そのものの自重に耐えることが出来なくなって内側に潰れていく。存在と存在とが、互いに動きあう距離さえもなく一つの塊となる。そして、最後にその塊は、小さな小さな氷の粒になってしまう。確率さえも凍り付いた、氷の粒に。

 その氷の粒には、結局、一人半の分の空間しか残らなかったのだ。パンダーラと、その胸に抱かれている真昼と。そのような、一人と、半分と、その分の空間しか残らなかった。そして、二人は遥か遥か未来の世界で。トゥシタと呼ばれる世界で、凍り付いた氷の中で耳を澄ませている。

 遠い遠い過去の声を聴こうとしている。さっきまでは聞こえていたはずのその声を。でも、もう、その声は聞こえなくなってしまっていた。今は、ただ……真昼の胸の中でくすくすと笑っている、心臓の音が聞こえているだけだった。つまり、ここには、もう奇跡しか残っていない。

 奇跡。

 奇跡。

 奇跡。

 それだけ。

 それだけだった。

 それだけあれば。

 あたし。

 生きていける。

 世界の……世界の冷度。こんなにも、こんなにも、冷たいなんて。まるで幽霊みたいだ。もう死んでしまった幽霊が、まだ、透明な浮遊する記憶として残っているみたいだ。見えない、聞こえない、触れられない。愛することも憎むことも出来ない。だから、冷たい。ああ、生きている。あたし、生きている。あたしだけが生きている。だって、その胸の中で……心臓が、笑っているから。

 ねえ、パンダーラさん。あなたは死んでしまったんですね。ここにいる、このあなたは、幽霊なんですね。あたしは、今、初めてそれを認めることが出来る。あなたは、本当の本当に死んでしまった。なぜなら、あなたは死ぬべきだったから。

 「あたしは愛したかった」「愛すればいい」「あたしは愛されたかった」「愛されればいい」「あたしは善くありたかった」「善くあればいい」「あたしは正しくありたかった」「正しくあればいい」「あたしは生まれたくなかった」「お前は生まれなかった」「父親が人殺しでなければよかった」「お前の父親は人殺しではない」「母親が自殺しなければよかった」「お前の母親は自殺していない」「あたしはテロリストに誘拐なんてされたくなかった」「お前はテロリストに誘拐されていない」「あたしはこんな地獄に来たくなかった」「お前はこの地獄に来なかった」「あたしは醜くなりたくなかった」「お前は醜くない」「あたしは許されたかった」「許されればいい」「あたしは誰かに許されたかった」「許されればいい」「あたしは誰かを救いたかった」「救えばいい」「あたしは自分が救われたかった」「救われればいい」「あたしはあなたに死んで欲しくなかった」「私は死んでいない」「あたしはあなたに死んで欲しくなかった」「私は死んでいない」「あたしはあなたに死んで欲しくなかった」「私は死んでいない」。

「パンダーラさん。」

「ああ。」

「あたし、あなたに死んで欲しくなかった。」

「私は、今、ここにいる。」

 いうまでもなく、パンダーラはここにいない。パンダーラは死んだのだ。ここにいるのは幽霊だ。ここにいるのは真昼の記憶だ。世界は終わった、世界はとうに終わってしまった。世界は、もう、滅びたのだ。真昼だけを残して滅びてしまった。そして、後には……真昼にとって都合のいい御伽話だけが残された。「パンダーラさん……あたしを離さないで……あたしを抱き締めていて……もっと、もっと………強く、強く……あたしのことを抱き締めて……お願い……あたしを離さないで……あたしを一人にしないで……」真昼は、頭蓋骨から、絞り出すようにして声を出す。

 しかし。

 残念な、ことに。

 もう時間だった。

 恐れることはなかった。何も恐れることはないのだ。なぜなら、「それ」は、真昼とともにあるのだから。「それ」は常に真昼とともにある。今までも、ずっとずっと真昼とともにあったし。それに、これからも、ずっとずっと真昼とともにあるだろう。

 真昼は、いつも「それ」を探していた。自分の頭上に。自分の足元に。自分の前に、自分の後に、あるいは自分のそば。「それ」を探し続けていた。真昼は「それ」を見つけられなかった。どこを探しても「それ」を見つけられなかった。当たり前だ。「それ」は、いつも、真昼とともにあったのだから。

 恐れることはない……今、真昼は、楽園へと昇っていく。暗く広い海、底の底から、浮上していく。怪物は天使達に引き渡されるだろう。天使達は怪物の上に硫黄と火とを降り注がせるだろう。それから、怪物は、閉ざされた城の中に閉ざされるだろう。しかし、それでも恐れることはない。お姫様は眠っている、眠っている、眠っている。そして、幸せな夢を見ている。

 「それ」は真昼とともにいる。真昼が、あの時、殴った子犬は。真昼が自らのために犠牲とした全てのものは。真昼が虐げた全てのものは。そして、そして……パンダーラは。いつだって、真昼とともにいるのだ。いつだって、真昼のことを抱き締めてくれているのだ。強く、強く、真昼のことを抱き締めてくれているのだ。

 真昼が罪を犯さなかった時。真昼が罪を犯すことが出来なかった時。それがあまりにも大き過ぎる罪、裁くことさえ不可能であるところの罪であるがゆえに、真昼が無罪であった時。パンダーラは真昼の目の前に現われた。冷たく冷たく凍り付いた世界、もう滅びてしまった世界から来た恐ろしい復讐の幽霊として現われた。

 だから、真昼は、もう恐れる必要などないのだ。いうまでもなく真昼の内側は暗い。なぜなら真昼は空っぽの細胞だからだ。その内側は暗い、その場所が明るくなるためには、奇跡が、一つの奇跡が、入り来たって、その座を占めなければならないほどに。だから奇跡はそこにあるのだ。だから、奇跡はそこにあるのだ。

 そう、奇跡は、奇跡は真昼とともにある。真昼の胸の中で、とくんとくんと脈打っている。真昼は、奇跡を、侮り、怒らせ、その前に失墜し、世界と現実との価値を踏み躙り、正常性を失い、正しさを失い、そのために自分の被造的生命を致命的に損なうことによって、無力化し虚脱した……そして、まさにその時に、奇跡は訪れた。奇跡は、真昼にとって都合のいい御伽話として訪れた。一体、それ以上に何を望むというのだ? 真昼は主人公だった。この物語の主人公だった。真昼は、暗く広い海で夢を見ながら眠り続けているお姫様だった。ああ、作者さえそれに同意するだろう。もしもこの全てのことに作者というものがいるのであれば。その作者さえ、この物語の、最初の最初から、真昼こそが主人公だったと。そのように同意するだろう。

 境界がある。

 もちろんだ。

 ただ。

 真昼にとって、その境界は。

 もう、どうでもいいものだ。

 パンダーラが……真昼の体に回していた手を、そっと離した。真昼のことを傷付けることがないように。真昼という、壊れやすい、骨と肉と内臓とで出来た細工物を、壊してしまわないように。真昼はされるがままだった。真昼は、少しずつ少しずつ離れていくパンダーラの体。少しでも長い間触っていようと、その指先までその体に触れていたのだけれど。それでも、もう、縋りつくようなことはしなかった。

 今度はパンダーラが……真昼の方を向いたままで、後ろに向かって退くように、真昼から離れていく。一歩、一歩、一歩、また一歩。二人の距離は離れていく。

 腕を伸ばせば、ちょうど手と手とが届かない距離。その場所で、パンダーラは立ち止まった。真昼は、顔を上げていた。その視線を、パンダーラに向けていた。

 真昼は、自分の足で立っていた。

 しっかりとその胸を張っていた。

 そして。

 黙って。

 パンダーラを。

 見据えていた。

 大丈夫、大丈夫だよ、パンダーラさん。あたし、もう大丈夫。あたし、受け入れられる。あたしがあなたを殺してしまったということを。あたしが天国を滅ぼしてしまったのだということを。あたしが、暗く広い海、そこに住んでる、怪物だということを。

 そう、真昼は残りのものなのだ。全ての悪を、全ての加害者を、全ての罪ではない罪を。ただ一人その身に背負い、証言を続けていたところの、残りのものなのだ。世界が滅びた後で、法廷がただの瓦礫の山と化した後で。その後で、それでもなお、証言を続けていたところの、証言者なのだ。しかし、やがては、その証言にも終わりの時が来る。

 いうまでもなく主はおらず、いうまでもなく浄土はない。現実がやがては滅び去り、そして世界の全てに救いが訪れる時、生命の真実の喜びが訪れる時など、決してあり得ない。あらゆるものは続いていく。苦痛と悪と、その、絶対に絶対であるものの、身体の内側で。

 それでも、それでも……真昼の証言には、終わりの時が来る。何もかもが書き留められる、ぼろぼろの法廷記録に。真昼が証言するべき全てのことが書き留められて。そうして、真昼の証言が終わる時が来る。有刺鉄線が眠りにつく。悲惨が悲惨ではなくなる時。冒涜が冒涜ではなくなる時。

 不意に、真昼は気が付くのだ。自分は証言するべきではなかった。なぜなら、真昼の証言など、誰も聞いていないからだ。そして、真昼は口を閉ざす。真昼は黙るべきだった。

 この世界は間違っているべきだった。悪はなされるべきだった。それを、誰も認めることは出来ないだろう。真昼でさえも、真昼自身でさえもそれを認めることは出来ない。それでも……それは、そうであるべきなのだ。なぜなら、そうでなければ、生き物は、生命は、許されないからだ。主がおられず、浄土さえない、この世界では。そうでなければ、絶対に、許されないのだ。この世界において、苦痛は、ただ、なんの意味もなく、その苦痛である。そして、そうであることの運命には抗うことが出来ない。運命に抗うことは出来ない。真昼は生まれるべきだった。真昼の父親は人殺しであるべきだった。真昼の母親は自殺するべきだった。真昼はテロリストに誘拐されるべきだったし、真昼はこの地獄に来るべきだった。そして、真昼は、パンダーラを殺すべきだった。

 真昼が。

 その全てを。

 認めた時に。

 和解は。

 なされた。

 ふわり、とヴェールが揺らめいた。パンダーラの頭上、一ダブルキュビト程度のところ。いつの間にか、ヴェールは、そこにあった。ゆらりゆらりと揺らめきながら、それでも、そのヴェールは、ゆっくりと、ゆっくりと、パンダーラに向かって落ちてくる。時間だ、時間が来たのだ。和解はなされたのだ。

 パンダーラは。

 また。

 口を。

 開く。

 あの時に。

 自分が真昼に殺された、あの瞬間に。

 真昼に言い残したことを言うために。

「もしも、あの男が、この世界を笑いながら滅ぼしたとしても。お前一人をその中から救い出せば、あの男は救世主だ。あの男こそが、お前にとっては救世主だ。もしも、あの男が、笑いながら、私のことを、銃弾で撃ち抜いたとしても。あの男こそが、私にとっての救世主だった。なぜなら、あの男は……あの男は、私のことを、救ったからだ。あの男だけが、私のことを、救ってくれたからだ。」

 ああ。

 そうだ。

 そうだ。

 その通りなのだ。

 ふわり、ふわり、ヴェールは、パンダーラに触れた。ゆらん、と、柔らかくパンダーラの頭部を包み込む。ゆっくりと、ゆっくりと、パンダーラの全身を包み込み始める。

 ねえ、パンダーラさん。あたし、怖くないよ。もう怖くない、窓の外を過ぎ去っていく、あたしのことなんて知りもしないで過ぎ去っていく、あの救急車のことなんて。もう全然怖くない。だって、だって、あなたは……あたしのことを抱き締めてくれているから。強く強く抱き締めてくれているから。だから、安心して。安心して、消えて。もう大丈夫、もう大丈夫だから。

 ヴェールがパンダーラを包み込んでいく。その頭を、その肩を、その腕を、その手を。その胸を、その腹を、その腰を、その脚を、その足を。柔らかく、包み込んでいく……そして、ヴェールが、パンダーラを包み込み終わってしまう、その瞬間に。最後の最後に、ヴェールから、ただ、その口だけが見えている瞬間に。パンダーラのその口が動く。「あの男は」そして、真昼に、こう言う「あの男は、いつも、正しい」。

 それで。

 お終い。


 世界は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、主の霊が水のおもてをおおっている。暗く広い海。赤い龍。バシトルー、バシトルー、お姫様のための嘘。

 ねえ、パンダーラさん。あたしね、あなたが優しい人だっていうことを知ってるよ。あなたは、とてもとても優しい人で。あたしのために……あたしのために、嘘をついたっていうことを知っている。ねえ、パンダーラさん。今、パンダーラさんが言ったことは、全部全部嘘なんでしょう? あたしが、あたしが救われるために。全然、本当でもなんでもないことを言ったんだ。あたしが、あなたほど強い人ではなかったから。あたしが弱い人だったから。だから、あなたは、そんなあたしを許してくれたんだ。優しい優しい嘘で許してくれたんだ。

 あたしは、本当は、本当の本当は、救われないんだ。ねえ、そうなんでしょう? パンダーラさん。あたし、知ってるよ。あたしは許されない、あたしは救われない。あたしには、奇跡なんて訪れない。あなたに奇跡が訪れなかったように。あなたに奇跡が訪れなかったのと、全く同じように。

 なぜなら、あたしは、それだけ悪いことをしてしまったから。あたしは弱い人で、耐えられなかったから。耐えることが出来たはずのことを、結局は、耐えることが出来なかったから。あたしはヒーローではなかった、あたしは物語の主人公ではなかった。あたしは結局は、ただの人間だった。

 耐えることが出来ることの全てに耐えることが出来ればよかったのに。あたしの全てを懸けて、耐えることが出来ればよかったのに。そうすれば、あたしは……あたしは、人間ではないものになれたはずなのに。

 あたしは。

 あなたのような人に。

 なれた、はずなのに。

 あたしの劣悪、あたしの惰弱、あたしの怯懦。あたしの、恥辱。その全ては、あなたの前では無効になった。あなたは手前に立っていたから。あなたは超人ではなく証人だったから。

 あなたは証人だった。あなたは、あなたは収容所から来たわけではない。あなたはあの爆弾の下から来たんだ。あたしたちを……弱い人を……悪い人を……吹き飛ばし、叩き潰し、引き裂いて、消し去った、あの爆弾の下から来たんだ。

 あなたは、あの爆弾の下で死んでいった全ての人を許すためにやってきた。決して許されないもの、許され得ないもの。誰もが目を背け、誰もが耳を閉ざし、そのせいで、律法さえも見捨てたもの。罪にさえならないものを許すために。

 悪を許すにはどうすればいい? 罪でもなく、責任でもなく、ましてや倫理でもない。判決不能を、それゆえに、誰もがただ単純に否定する悪を、どうすれば許すことが出来る? ねえ、パンダーラさん。だから……だから、あなたはあたしに嘘をついたんでしょう? あたしを許すことが出来ないから。だから、あたしを許すことが出来ると嘘をついた。そうするしか方法がなかった。そうしなければ、あたしを救うことが出来なかった。

 許せないということは、悪いことで。

 それは、強い人がすることではない。

 あなたは……どうしても、あたしを救いたかった。どうしても、どうしても。あたしのような、弱い人を、救いたかった。あなたは、そのために、あたしの目の前に立った。もう、あなたは死んだはずなのに。あたしに殺されて死んでしまったはずなのに。あなたは、もう、どこにもいない人のはずなのに。それでも、あなたはあたしの目の前に立った。なぜなら、あなたは……優しい人だから。強く、優しい人だから。

 ねえ、パンダーラさん。

 あたしね、もう大丈夫。

 あたし、分かった……どうしようもないことはどうしようもないって。あたしはどうしようもなく怪物で、どうしようもなく夢を見ているだけなんだって。自分がお姫様だっていう、夢を見ているだけなんだって。怪物はお姫様の夢を見ている。お姫様は怪物の夢を見ている。だから、あたし……眠り続ける。お姫様が眠っているベッドの中で。ずっとずっと眠り続けている。もう、目を覚まさない。もう、二度と。

 もう、二度と、奇跡を手放さない。あたしの奇跡を。あたしのための奇跡を。あたしのためだけの奇跡を。あたしの……運命。あたしは、もう恥を感じない。なぜなら、あたしは、もう人間ではないから。あたしが人間ではなく、もっともっと、何か、凡庸なもの。機械のように凡庸なもの。生きていないもの。死んでしまったもの。あたしの心の中の最も重要な部分が死んでしまって、もう二度と生き返らないもの、そういうものであるということを、あたしは、あたしに、認めるから。あたしは、もう、何も恥じらわない。なぜなら、あたしの頭上で爆発したからだ。あたしの頭上で、あの爆弾が爆発したからだ。パンダーラさんは死んだ。あたしは死んだ。お前のせいで。他ならぬお前のせいで。パンダーラさんのせいでもあたしのせいでもない。他ならぬお前のせいで。あたしの心臓が笑っている、強く、強く、何よりも力強く。あたしは、もう恐れない。あたしは、その笑い声と共に笑う。

 心臓と共に笑う。

 笑う。

 笑う。

 哄笑する。

 あたしは奇跡とともにある。

 あたしは。

 もう。

 奇跡を。

 恐れない。

 このようにして和解はなされた。真昼は、凄絶な笑い声、悍ましいほどに快哉で惨たらしいほどに爽快な笑い声とともに、和解した。もう二度と、絶対に取り返しがつかない形で和解してしまったのだ。真昼には、もう関係なかった。誰が何を言おうと。誰が、どのようにして、どれほど、苦痛の底でのたうち回ろうと。真昼には、全然関係ないことだった。苦しめばいい。苦しめばいい。激痛に身をよじらせ、気が狂って涎をだらだらと垂らせばいい。最後の最後には、もう何もかも、人間性さえも失って、虚ろな目をしたまま、次第に次第に、生きたまま腐り果てていけばいい。あたしにはもう関係ない。もう、全然関係ない。だって、パンダーラさんは死んでしまったから。パンダーラさんは死んでしまったから、お前のせいで、お前達のせいで。もう、あたしには関係がない。この世界のあらゆる善良さは、あたしにとって、何の関係もない。

 お前達のせいで。

 あたし。

 本当に。

 本当に。

 パンダーラさんに。

 生きていて。

 欲しかったのに。

 哄笑する真昼の目の前には、マイトレーヤが立っていた。まるで、世界の終わりのその日のように。誰もが世界の終わりを望んでいる。誰もが、何もかもめちゃくちゃになってしまうことを望んでいる。なぜなら、楽しいからだ。血は沸き立ち、骨は歌い、肉は踊り、そして内臓は恍惚として溶けていく。皆が皆、死んでしまえばいい。絶対的な不幸の中で死んでいけばいい。あたしは、それを見て笑っているから。あたしは、あたしだけは、そんなあんた達のことを見下ろして、大きな大きな笑い声を上げて笑っているから。

 真昼は、笑っていた。笑って、笑って、笑っていた。そうして、その後で、暫くして。ようやく、その笑いも収まってきたようだった。だんだんと、その笑いは、収まってきて。やがては、真昼の「はーあ」という溜め息、美しいほどに残酷な溜め息とともに、それは完全に終わった。

 真昼は、その後で、マイトレーヤの方に視線を向けた。恐怖の欠片も感じさせない視線によって。まるで挑みかかる獣のような視線をして。なぜなら、もう、真昼は恐れていなかったからだ。マイトレーヤがそれであるところのそれを。告知を。砂流原真昼が救われたということの告知を。

 真昼は、楽園を恐れなかった、なぜなら、真昼は既に楽園の生き物だからだ。真昼は気が付いた。ああ、ここは……サンダルキア。それは悪魔の住むところ。あらゆる穢れた霊の巣窟。また、あらゆる穢れた憎むべき蛇の巣窟。退廃と享楽と、そして、主の前に罪であるところのあらゆる罪がなされるところ。そして、あたしはお姫様。その楽園の、真ん中の真ん中、アレクの山で眠っているお姫様。アレクの山で夢を見ているお姫様。

 救いの御業は創造の瞬間よりも偉大だ。なぜなら、この世界の全ては、まさに、その救いの御業のために作り出されたからだ。この世界は……この世界が創造され、生命が罪を犯し、それゆえに堕落し、しかしながら救いの御業があり、そして生命が救われたのでは、ない。そうではない。全く、全然、違う。

 この世界は、まさに、真昼が救われるために創造されたのだ。全部、全部。あらゆる苦しみは、あらゆる痛みは、あらゆる悪は。まさに、真昼が救われるそのためだけに作り出されたのだ。だから、救いの御業は偉大なのだ。いうまでもなく、いうまでもなく真昼は罪を犯さなかった。そうではないのだ。初めに救いがあった。まさに、初めに救いがあった。この世界は、真昼が救われることによって初めて完成する世界なのだ。

 ああ。

 本当に。

 あたし。

 まるで。

 奇跡みたい。

 真昼は、絶対に、完全に、はっきりと、理解していた。全ての生き物が、何者の介在もなしに、予め救われていなければいけない。まさにこの世界において、まさにこの現実において、救われていない生き物さえも。予め、救われていなくてはいけない。そうでなければいけない、そうでなければいけないのだ。そうでなければ、真昼は救われない。真昼は救われないのだ。そうでなければ、真昼は真昼と和解出来ないのだ。

 決して救われ得ない者を、いかにして救えるのか? いうまでもなく、その答えは簡単だ。笑ってしまうほど簡単だ。つまり、決して救われない者は、結局のところ救われることはない。考えるだけ無駄だ、全然無駄なのだ。救われない者は、絶対に救われないのだから。

 どうしようもない。見捨てるしかない。Sorry please。だって、なぜなら、あたしは救われているから。今、ここにいる、「このあたし」は救われているのだ。後のことは知ったことではない。あらゆる苦しみは。あらゆる痛みは。あらゆる悪は。つまり、あらゆる被造物は。ただ、あたしが救われるために生み出されたのだ。あらゆる創造は、あたしの救いのためだけに生み出されたのだ。

 真昼は。あらゆる、過去の真昼は。マラーを見捨てた真昼は。マコトを憎悪した真昼は。そして、パンダーラを殺した真昼は。全部、全部、「この真昼」が救われるための、単なる使い捨ての道具に過ぎなかった。使い終わったら、ぽいっと捨ててしまうだけの、道具に過ぎなかった。

 涙は……涙は贖われた。真昼の流した涙の、一滴一滴は、美しい奇跡に変わった。洗い流された、洗い流されたのだ。真昼の涙によって、楽園は洗い流された。全ての苦痛は、全ての悪は。既に洗い流されていた。少なくとも「この真昼」にとっては。楽園を洗い流した洪水。楽園は沈んだ。暗く広い海の、底の底に。お姫様はもう二度と楽園から出ることは出来ない。もう二度と、お姫様は目覚めることは出来ない。バシトルー、バシトルー。赤い龍。その姿を見た時に、誰もが叫ぶ。見ろ! ここに救いの御業があるぞ!

 真昼は自分自身であったはずの自分自身を殺した。真昼は運命によって押し付けられた役割を受け入れた。そして、最後の最後に、真昼は奇跡を手に入れた。これが和解だった。真昼は、最もその身に苦しみを受けていた自分と、最もその身に痛みを受けていた自分と、和解した。

 ああ、この陶酔! ああ、この恍惚! それはまさに祝祭の感覚であった。そうだ、これは祝祭なのだ。兜率の天は、真昼のために、真昼のためだけに設営されたところの復活祭であった。既に、とっくに、真昼は復活していた。例えようもなく、信じられないほどに。既に救われていた。マイトレーヤは、そのことを気が付かせただけだ。マイトレーヤ。如来。斯くの如く来たりて幸福の福音をもたらす者。

 勘違いしてはいけない。マイトレーヤは、実は人間なのだ。人間は、実はマイトレーヤだ。人間と、いや、あらゆる生き物と。マイトレーヤとの間には、一つの差異もあり得ない。結局のところ、最後の最後に人間はマイトレーヤになる。絶歌。遠い遠い未来において、あらゆる人間はマイトレーヤになる。だからこそ、マイトレーヤの慈悲は絶対なのだ。

 キリスト、もしもマイトレーヤが人間になれないというのならば。ブッダ、人間がマイトレーヤになれないというのならば。マイトレーヤと人間との間に差異があるというのならば、その慈悲はどうして絶対になりうる? マイトレーヤは、人間を救い上げる。マイトレーヤは、「マイトレーヤの幸福」まで、人間を救い上げる。それは罰を伴わない慈悲だ。

 慈悲。あるいは、不確定性。ある一つの値が決定してしまった場合、他の値は決定されざる値であることしか出来ない。例えば……どこかからどこかへと移動している一人の人間について考えてみよう。その人間が今どこにいるのかということを、知ることは出来るだろう。世界を一度停止させて、その人間がどこにいるのか、その位置を測ればいいだけだから。だが、その人間の位置を理解してしまえば、その人間がどのような速度で移動していたのかということは絶対に分からないのだ。なぜなら、その位置を図った瞬間、全ての世界は停止しているからだ。停止している世界の中では速度は分からない。あるいは、その人間がどのような速さで移動しているかということは知ることが出来るはずだ。動作する世界の全体の内部で、その人間の部分の動作を測ればいいだけの話だ。だが、その人間の速度を理解してしまえば、その人間がどの位置にいるのかということは絶対に分からない。なぜなら、その速度を測る場合、全ての世界は動作していなければいけないからである。動作する一つの点の位置を、どうして測ることが出来る?

 つまり、一つの決定が行なわれるためには……一人の真昼が選ばれるためには。他の真昼は、選ばれないものでなければならない。一人の真昼が真昼になるためには、他の真昼は犠牲にならなければいけないのだ。生きているわけでも死んでいるわけでもない真昼が、生きている真昼として決定されるためには。あらゆる、あらゆる、死んでいる真昼が。犠牲者として消え去らなければいけない。それが、つまり和解だった。それこそが和解だった。ラ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、リ、ラ、ラ、ルー。ル、リ、エー。ル、リ、エー。全ての呪詛を忘れ去るということ。決して、決して救われないということを知りながら。救済それ自体をもはや望まないということ。transparent。unleashed。さようなら、全ての天使達。全ての科学が消え去り、全ての魔法が消え去り、そして、ただただ、ヴェールを取られていない自分自身の姿だけが残されている、その瞬間。その瞬間に、真昼は、初めて、真昼と和解することが出来るのだ。

 さようなら。

 さようなら。

 いつも泣いていた。

 かわいそうな真昼。

 ねえ。

 ありがとう。

 あたし。

 あなたと会えて。

 よかった。

 心臓の。

 音が。

 聞こえる。

 生きろ。

 生きろ。

 生きろ。

 だって。

 奇跡は。

 死んだ者の奇跡じゃなくて。

 生きている者の奇跡だから。

 真昼は幸福だった。真昼は心の底から幸福だった。真昼は心の底からこう叫ぶことが出来た。世界よ! 世界よ! 今、この瞬間において永遠であれ! お前は美しい! 真昼は、遂に理解したのだ。今、ここにいる、「この真昼」は。何者の介在もなしに、予め救われていたということを。

 祝祭のフィナーレだった。そうして、その後で……生きろ、生きろ、生きろ。そうだ、その通り。準備は整ったということだった。還相の準備は出来たということだった。

 ボーディサットヴァ。菩薩。真昼は、マイトレーヤとなるべき自分について知った。いつの日か如来となるべき自分自身を知った。それは運命であり、それは変えることなど出来ないことだ。真昼が望むか望まないかということさえ関係ない。ただ、真昼は如来になるのだ。なぜなら、真昼は、幸福だから。慈悲によって絶対の救済に気が付いたから。

 そうであるならば、真昼は、今、救わなくてはいけないのだ。菩薩として救わなければいけない。誰を? 自分自身を。現実の世界における生命としての自分自身を。浄土から穢土へと還る。そして、利己の行、己を救わなくてはいけない、なぜなら、現実の世界において救済されて、初めて真昼は如来になるのだから。真実の幸福に到達するのだから。

 つまり。

 時が来たのだ。

 復活の時が。

 再生の時が。

 二度目の誕生を。

 果たすべき時が。

 いうまでもなく、マイトレーヤはそのことを理解していた。マイトレーヤは、それを理解することも出来たのだし、理解しないことも出来たのだし、理解するわけでも理解しないわけでもないということも出来たのだから。あるいは、マイトレーヤは、理解するべき主体ではないということも出来た。それか、理解そのものであるということも。

 マイトレーヤがそのどれであったとしても、そのどれでもなかったとしても。マイトレーヤは、ただ、真昼がそうであるように望んだ姿になるだけだった。なぜなら、マイトレーヤは、結局のところ、真昼にとって都合のいい幻想でしかないのだから。そして、真昼は望んでいた。絶対の真実として望んでいた。生命を取り戻すということを。生き返るということを。また、あの世界に帰って……真昼にとって、一番大切な人と再会することを。

 真昼を助けてくれた人。

 真昼を幸せにしてくれた人。

 真昼の運命。

 真昼の奇跡。

 真昼の。

 真昼の。

 真昼の救世主。

 あたしは。

 ただ、あんたのために。

 あんたのため、だけに。

 生きたいと。

 心の底から。

 そう。

 望む。

 だから……マイトレーヤのヴェールが、また、その身体から滑り落ちる。千の顔が。あるいは、無貌が。千の手が。あるいは無腕が。たった一つの姿に収束する。世界の全て。無限。永遠。絶対的な不確定性が、その他の全てを捨てて。そう、観察者である真昼は、その他のあらゆるものを捨て去って。そして、マイトレーヤは、真昼は、その姿になる。

 それは。

 一つの。

 扉。

 マイトレーヤのヴェールが滑り落ちた後に、マイトレーヤであったはずの時間と空間との領域にあったものは、一つの扉だった。それは、決して不確定性としての扉ではなかった。なぜなら、真昼は、全ての値を決定していたからだ。真昼は、この扉以外の全てのものを、完全に不必要なものとして、完全に破棄してしまっていた。それゆえに、その扉は、既に一つの確率であることをやめてしまっていた。

 その扉は可能性ではなかった。どこに繋がってるのか分からない可能性としての扉ではなかった。真昼は知っていたからだ。真昼は、絶対的に知悉していたからだ。その扉がどこに続いているのかということを。その扉は真昼であり、真昼はその扉であった。それは、まさに、今ここにある扉だ。そして……他のいつでもない、他のどこでもない、まさにあの現実に繋がっている扉。楽園に繋がっている扉。

 その扉は緑色がかった鏡で出来ていた。磨き抜かれた緑色の鏡で出来た扉だった。その扉には戸枠も敷居もなく、ドアハンドルさえも付いてない。ただ戸板だけがあるだけだった。

 そして、その戸板には、その鏡には、当たり前のように真昼の姿が映されていたのだけれど。その姿は、なんだか……少し違っていた。この真昼とは違う真昼が映し出されていた。

 とても、とても、異形の姿だった。今の真昼よりも数歳年上で、恐らくは二十代前半くらいだろう。まるで、行きたくもない葬式に無理やり連れてこられたかのような服装をしている。ひどく着崩した、真っ黒なスーツ。緩め過ぎて首に掛かっているだけという感じの、真っ黒なネクタイ。そして、そのような服装が、これもまた真っ黒なコートに、すっぽりと覆い尽くされている。真っ黒な? いや、少し違う……ところどころ、どす黒く濁った赤に、つまり、乾き切った返り血の赤に、したり、したり、濡れていて……ああ、これは。まるで、安っぽいヴィデオ映画に出てくる、ギャングの暗殺者みたいだ。

 そして。

 その。

 真昼は。

 一枚の。

 仮面を。

 かぶっていて。

 その仮面の。

 向こうから。

 こちらにいる。

 真昼を。

 ただ。

 じっと。

 しかしながら、今は関係のないことだった。この真昼の姿は、今の真昼には関係がない。確かに真昼はそこへ行こうとしている。この扉を通って、その場所に行こうとしている。とはいえ、これは今でもないし、ここでもない。そして、「この真昼」から「あの真昼」への変貌は、いうまでもなく既に起こっていることなのだ。それは止めることが出来ないことだし、それ以外にはあり得ないことなのだ。初めから、初めから決まっていた。預言のようなものだ。それには理由がなく、また、それには原因と結果との関係性もない、ただ、「あの真昼」は「あの真昼」なのだ。「あの真昼」は、斯くの如く来たる。

 真昼は……一歩、一歩、その扉へと近付いていく。「この真昼」が近付いていくごとに、「あの真昼」もこちらへと近付いてくる。当たり前の話だ。だが、それでも、それは一つの過程だ。鏡に映し出された真昼の表情は。霊廟で安らかに眠るように、その霊廟の緑色に染まった真昼は。仮面に隠れて窺うことが出来ない。鬼遣らい、鬼遣らい。辟邪、あたしはあんたを邪魔する者を皆殺しにする。なぜなら、あたしは葬礼の鬼だから。無論、鬼を払うためには自らが鬼神と化さなければいけない。

 真昼は辿り着く。鏡の、すぐそばに。手を伸ばせば届く距離だ。だから、真昼は手を伸ばす。ゆっくり、ゆっくり、手を伸ばす。そして……「この真昼」の指先が「あの真昼」の指先に触れる。鏡の表に触れたような、冷たい感触。冷酷さ。あたかも温血動物ではなく、冷血動物に触れたような。しかも、それは、爬虫類でもなく、鳥類でもなく、魚類でもなく。例えば、節足動物の指先に触れたような。そんな絶対的な隔絶を感じる。

 いや、違う……違う。もう隔絶はない。なぜなら、真昼のこの心臓は真昼のものではないからだ。この心臓は、人間の心臓ではない。哺乳類の心臓ではなく、温血動物の心臓ではなく、脊椎動物の心臓でさえない。節足動物の心臓なのだ。真昼は、もう、そこに隔絶を感じることはなかった。むしろ、それこそが真昼であった。真昼は分かり合うことが出来た。心と心とで、心臓と心臓とで分かり合うことが出来た。もう、冷たくはない。

 ああ。

 心臓が。

 あたしのこと。

 祝福、してる。

 Happy。

 Happy。

 Birthday。

 Make。

 Your。

 Life。

 Great。

 Again。

 あたしは。

 救われた。

 だから。

 あたしは。

 この心臓が。

 歌う通りに。

 この。

 扉を。

 開け放つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る