第三部パラダイス #35

 言葉が言葉として真昼の口から嘔吐されるたびに、それはまるで最初から真実ではなかったかのように、しかし、しかし、これほどまでにその言葉が空虚であっていいものなのだろうか? 真昼は……今まで生きてきて……初めて、本当に初めて真実を語ろうとしているというのに。

 こんなことがあっていいのだろうか。あまりにも哀れで、あまりにも惨めだ。あまりにも安っぽいために、痛ましくさえ聞こえるほどだ。せめて、せめて、真昼が現実の人間だったならば。欠片の才能さえ持ち合わせておらず、ただただ無意味に言葉を重ねていくことしか出来ない、無能な作家に書かれた物語の中の登場人物ではなく。せめて、現実の人間であったならば。きっと、その言葉は、もう少し真実らしく聞こえただろうに。

 だが、しかし、それでもその言葉は真実だった。その言葉は真実だったのだ。真昼は、自らがそれであるところの何か、罪人になることさえ許されないほど巨大な重量を持った何かに耐えられなかった。そして、その重さに耐えられないという自分自身にも耐えられなかった。胸を張れ、胸を張るんだ! でも無理だった。真昼はそうするには弱過ぎたのだ。真昼は、所詮は作り物に過ぎなかった。誰かにとって都合のいい作り物に過ぎないのだ。

 なぜ、この世界は物語に過ぎないんだろう。なぜ、誰もが、誰もが現実に生きることが出来ないんだろう。この物語を書いている誰か、読んでいる誰かさえも、現実に生きることが出来ないのはなぜなんだろう。全ての言葉が、なんの役にも立たない台詞に過ぎないのはなぜなんだろう。真昼は証言をしなければいけなかった。なぜなら真昼は証言者なのだから。けれども、その口から出てくる言葉は悉くが台詞だった。これは悲劇ではないのに。

 真昼は愕然とした。呼吸が止まってしまうほど愕然とした。そして、口を閉じた。この口を開くということの愚かさに、ようやく気が付いたからだ。何を言っても無駄だ。被害者ではない。加害者なのだから。言葉は、決して、現実に起こしてしまった出来事とはつり合いがつかない。

 被害者が饒舌でありうるのは、それは、常に被害者が言葉で語るわけではないからだ。加害者は言葉で語るしかない。けれども、その言葉は、常に、傷跡とは、死体とは、つり合わない。つまり、真昼はパンダーラとはつり合わない。

 それにも拘わらず……真昼はここに立っていた。ここに立っているべきではないのに、つまり、いい換えるならば、生まれるべきではなかったのに。生まれるべきではなかった真昼が、死ぬべきではなかったパンダーラの目の前に立っている。

 パンダーラは、本来であれば、語る必要はないはずだった。なぜなら、パンダーラは、既に死者であったからだ。しかも、真昼のような、なり損ないの、紛い物の、死者ではない。弾丸の中に閉じ込められた一つの言葉によって、「死ね」という、何よりも明確で何よりも純粋な言葉によって死んだところの死者なのだ。そうだ、その通り、皮肉なことであるが、理想というものは弾丸では死にはしない。理想を殺すのはいつも言葉なのである。 

 パンダーラは、既にそれだけで全てなのだ。もう余計なものを付け足す必要はない。パンダーラは事実であり、世界に痛々しく開いた傷口だった。パンダーラは、その死によって、あらゆる言葉の全体よりも絶対的な言葉であったはずなのだ。パンダーラは、希望の終わりだった。パンダーラは、正義の終わりだった。

 けれども。それでも。パンダーラは、今、語らなければいけなかった。なぜなら、このままではいけないからだ。このままではいけないのだ、なぜなら、なぜなら……救われなければならないからだ。この世界が、救われなければいけないものだからだ。

 加害者が加害者であるということ。それが罪ではないという理由で決して許されない罪があるということ。そんなことは、絶対に間違ってることだった。言い訳のしようがないほど、いや、誰がなんと言い訳をしたとしても、決して、決して、聞く耳など持つものか。間違っているのだ、それは、間違っている。全ての言葉は呪われろ、全ての言葉は呪われろ! ホロコースト、燔祭の魚。一枚一枚の鱗は焼き尽くされていき、そして、その後に、ただ救いだけが残されている。

「お前は。」

 パンダーラ。

 あの時と全く同じ目をして。

 優しく、優しく、諦め切ったように優しく。

 真昼の視線と、その視線と、合わせながら。

 こう、言う。

「生まれるべきだった。」

 神の雷電がその身を打った。真昼の天頂から、真昼の根底まで、何かが、一直線に、貫いた。いうまでもなく、パンダーラは、真昼の存在を肯定したわけではない。真昼という生き物は、肯定し得ない生き物だ。真昼がこの世界でなしてしまった、その罪でさえない罪は、決して肯定不可能な行為だった。

 パンダーラがしたのは、肯定だとか、否定だとか、そういうことではなかった。その手前にあることだった。あらゆる情熱が、あらゆる冷酷が、生れ出る前の場所。あらゆる生命体の運動がたった一つの状態の中で混ざり合い、結局のところ、何もかもが曖昧な融点の中で溶け合ってしまう場所。パンダーラが立っているのはその場所だった。そこでは全ての肯定は無であり、そこでは全ての否定は無であった。それは新しい……全く原初的な領域だ。その場所では、一時間ごとに、一分ごとに、いや、それどころか一秒ごとに、蒼白な顔をした管理人が、一つ一つの闘争状態を贖っていく。全ての生命に対する、全ての生命の、絶対的に無慈悲で、それどころか感情というものが欠如した「取り扱い」。その牢獄の扉を、一つ一つ閉じ込めていく。

 パンダーラは。

 その場所を知っていた。

 だって。

 パンダーラが生まれたのは。

 まさにその場所だったから。

 パンダーラは。

 パンダーラの全ては。

 牢獄で生まれた。

 決して。

 その扉が。

 開くことのない。

 牢獄で生まれた。

 「この場所には、私とお前と、二人しかいない」パンダーラの口が、また動く。「つまり、ここには、善も悪もあり得ない」そして、言葉が紡ぎ出される。「ここは善悪の手前の場所だ」確かに、その言葉は、物語の中にいる登場人物が口にしている台詞に過ぎないだろう。「だから、お前は生まれるべきだった」けれども、その言葉は……真昼にとって、真昼という、たった一人の登場人物にとっては、どれほど真実であったことか。「そして、私は死ぬべきだった」どれほど、どれほど、本当の本当であったことか。

 真昼にとって……ただ真昼一人にとって……その言葉は、絶対的だった。その言葉に比べれば、あらゆる沈黙は、あらゆる死者の沈黙は、どれほどわざとらしく、どれほど陳腐であったことか。心臓の音が……真昼には、聞こえていた。真昼を構成している全ての筋肉を伝わって。真昼を構成している全ての骨格を伝わって。真昼の胸の中で哄笑する、晴れやかに、晴れやかに、まるで暴風雨のように晴れやかに笑い声を上げる心臓の音が。どくんっ! どくんっ! 一度、その心臓が鼓動を打つごとに、現実の全体が、爆発しているかのようだった。

 真昼は、口を開いた。息を吸う、悲鳴のように息を吸う。それから、真昼の口を衝いて、また言葉が出る。所詮は小説の、登場人物の台詞に過ぎない言葉が。「でも!」「何かが間違っている!」「何かが間違っているんです!」。「もちろん間違っている」。パンダーラが答える。死んでしまい、もう二度と生き返らない者として。「そして、間違っているべきだった」。

 真昼は。

 どうしていいか。

 分からなかった。

 ただ、心臓の音を聞いていた。真昼の胸の中で、霹靂のように歌い、稲妻のように煌めく、心臓の音を。今、初めて、真昼は、パンダーラという生き物が生きた本当の絶望を感じていた。抗えないものに抗ってきた。抗う意味がなく、そして、その意味がないということを完全に知っていることの絶望を。

 例えば……こういうことをいう者がいるかもしれない。確かに、抗っても、抗っても、生き物は、結局は運命に対して敗北してしまうかもしれない。しかし、そのような結果は重要ではないのだ。重要なのは、そのようにして運命に抗ったという事実である。例え、最後の最後には敗北してしまったとしても。それでも、その抗ったという事実だけは残るのだから。

 もしかすると、このようなことをいう者がいるかもしれない。この世界におけるこの現実は、一枚の絵画のようなものだ。人間の、生き物の、あらゆる行為は、この絵画の中に描き出される一つの芸術である。その物語は物語として描かれる、それを消すことが出来る者など誰一人いない、その事実が事実として起こったことを消し去ることが出来る者など誰一人としていない。そうだとするのならば、その絵画の一部であったということは――その絵画の一部として誇り高く生きたということは――間違いなく意味があることなのだ。

 確かに、それは僅かな、ほんの僅かな慰めに過ぎないかもしれない。それでも、そのような慰めがあるということが。何もないわけではなく、まさに自分自身がいたというそのこと自体が、この世界にとって最も重要なことではないか? その事実は、祝福されるべきことなのではないか? その生は確かに幸福な生だったのではないか?

 そのようなことをいう者は、パンダーラの生を生きてみればいい。パンダーラの生において、最も悪いことは、最悪の最悪であることは、その幼少期が幸福であったということだ。パンダーラはシータ・ゴーヴィンデーサにおける王女として生まれ、何不自由ない幼少期を送った。パンダーラは、幸福を知らない少女ではなかった。それどころか、世界で最も幸福な少女であった。

 それが、その王国の滅亡とともに、真実の不幸に突き落とされた。絶対的な孤独の中で、人間程度の生き物には想像することすら出来ないような拷問の日々を送った。知っていた、知っていたのだ。パダーラは幸福を知っていた。そして、不幸の只中にあっても、その記憶は常にパンダーラを責め苛んだ。無知だったならば! 無知だったならば、どれほどよかっただろう! 幸福というものを知らなかったならば! だが、パンダーラは知っていた。

 終わることのない苦痛、その中でも、パンダーラは、ただひたすらに抗っていた。何に? 運命に。パンダーラは幼かった。まだ、希望を持つことが出来ていたのだ。抗って、抗って、抗い続けていれば。いつかは、自分が運命に打ち勝つことが出来るということを信じていた。

 そして、ある日、その希望が現実になった……かのように見えた。パンダーラは、スーカラマッダヴァから助け出されたのだ。とある一つの国家の、とある一人のエージェントによって。パンダーラの手は、実際に、その希望に触れたのだ! 何よりも、何よりも、力強い希望を! パンダーラは仲間を手に入れた、ともに運命に抗う仲間を。そして、手に入れたものはそれだけではなかった。パンダーラは、救いを手に入れた。パンダーラを、この絶望の底から助け出した者。そのエージェントこそが、パンダーラにとっての、真実の救いであった。

 全てが上手くいっていた。その時までは。スーカラマッダヴァとの闘い。運命との闘い。そのエージェントは、その戦いにおいて、パンダーラを助け、パンダーラを導いた。パンダーラは、どれほど幸福であっただろうか。孤独ではないということが、どれほどの救いであっただろうか。

 王国。国民。パンダーラは、その人々を率いて戦った。信じていた。恐らく、誰よりも、誰よりも、正義を信じていた。運命は、打ち倒すことが出来るものであると。自らの手で何かを掴み取ることが出来ると信じていたのだ。そして、実際に、パンダーラは掴み取ることが出来た。

 間違いなく、その時が幸福の絶頂だったはずだ! カーマデーヌを、母を、取り戻すことが出来た時には。誰が疑うことが出来るだろう。正義を、希望を。このような瞬間に、一体、誰が疑うことが出来るだろう。世界の全てが、途上はどうであろうと、最後の最後には、完全に善なるものになるということを。

 いうまでもなく、あらゆる転落は絶頂において開始する。これからが、まさにこれからが、反転攻勢だという時に。スーカラマッダヴァに対する反撃が、シータ・ゴーヴィンデーサの再興が、始まるはずのその瞬間に。パンダーラは、最も信頼していた者から、この地獄のような闘争を生き抜くための拠りどころとしていた者から、見捨てられたのだ。

 結局のところ、そのエージェントは、パンダーラを助けに来たわけではなかった。全く別の目的、パンダーラが知る由もない、何か全然違った目的のために来たのだ。そして、その目的の達成のために必要だったから、ただそれだけの理由でパンダーラを助けた。エージェントは、シータ・ゴーヴィンデーサにも、ましてやパンダーラにも、興味はなかった。

 エージェントは去っていった。パンダーラ一人を、この地獄の底に残して。パンダーラは……だが、それでも、運命に抗うことをやめはしなかった。なぜなら、パンダーラには、守らなくてはならない人々がいたからだ。パンダーラに頼り切って、既に自らの足で立つことも出来なくなってしまった、シータ・ゴーヴィンデーサの国民がいたからだ。

 ノブレス・オブリージュ。ただただ、自らが守りたいと思っているものを守るということ。いや、そうではなく……自らが見捨てられたようには、それを見捨ててはいけないと、強迫観念のように思い込んでしまったもの。つまり、自らの王国と国民とを守ることだけに全てを捧げることにした。

 そのためには、パンダーラは、人間至上主義勢力と手を組むことさえした。人間至上主義勢力が、一体どういう勢力であるのかということ。人間至上主義勢力と手を組めば、一体どういうことになるのかということ。そういったことを薄々分かっていながらそうした。なぜなら、それ以外に方法がなかったからだ。

 そして……いや……結局のところ、それは奇跡だったのだろうか? もちろん、それは奇跡だったのだ。しかしながら、それは、それは、決してパンダーラが望んでいたところの奇跡ではなかった。人間至上主義勢力は、スーカラマッダヴァの掃討作戦のために一つの軍勢を送り込んだ。そして、その軍勢の先頭には、一人のエージェントが立っていた。

 あのエージェントが。パンダーラのことを見捨てた、あのエージェントが。そう、人間至上主義勢力は、その闘争について最もよく知っている者、深く深くその闘争に関わっている者こそが、その軍勢を率いるに相応しいと判断したのだ。

 パンダーラの精神は、歪み、捻じれ、掻き乱された。その心は二つに引き裂かれた。心のうちの一つは、いうまでもなく憎悪だ。怒りだ、決して許し得ないものに対する怒りだ。よくも、よくも……また、この場所に立つことが出来たものだ。あれほどの裏切りを働いておきながら、平気な顔をして、自分は味方だとでもいうような顔をして。二度と、もう二度と、お前のことを信じることなどあり得ない。

 しかし、もう片方の心は……それは、間違いなく愛であった。愛の恍惚、愛の歓喜。まるで、幼い頃に生き別れになった親に、本当の本当に、心と心とで結び付き合った親に。また再び出会えた子供のような気持ち。溢れた、どうしようもない愛が心の中に溢れて、止めることが出来なかった。戻ってきてくれた! 私のために戻ってきてくれたんだ! 私は、見捨てられてなかった!

 頭がおかしくなりそうだった。憎悪の冷酷な氷と、愛の激しい炎と。その両方が、パンダーラの精神を嬲り蝕んだ。そのような中で、パンダーラと、その国民と、そして、人間至上主義勢力から送り込まれた軍勢は。スーカラマッダヴァに対して、最後の戦いを挑んだ。結果は、いうまでもなく勝利だった。なぜなら、パンダーラには、勝利の悪魔が微笑んでいたからだ。あのエージェントが微笑んでいたからだ。

 その瞬間のパンダーラの幸福感を、どう表現していいのか、全く分からない。パンダーラのように生きて、パンダーラのようにそれを経験した生き物にしか理解し得ない感情だ。つまり、その時……悪魔は、エージェントは。ただ一人、パンダーラのために微笑んでいたのだ。パンダーラのために、一つの天国を滅ぼして見せたのだ。スーカラマッダヴァが作り上げた、無教徒のための天国を。それが、パンダーラを苦しめたというだけで、それだけの理由で、まるで、食卓の上の埃でも払うように、容易く、呆気なく、滅ぼして見せたのだ。

 パンダーラの身を貫いた快感を、まるで憎悪の茨が絡み付いた氷の剣によって、脊髄の一番大切な部分を貫かれたような快感を。一体、どうして言葉に出来るだろうか。そう、パンダーラは、その瞬間に……いや、やめよう。過ぎた話だ。とにかく、パンダーラは勝利した。スーカラマッダヴァは滅び去り、アヴィアダヴ・コンダは、再びシータ・ゴーヴィンデーサの領土となった。

 いうまでもなく、理解していた。パンダーラは、完全に理解していた。エージェントが、再び、パンダーラのことを裏切るだろうということを。そして、あまりにも当たり前の事実として、エージェントは裏切った。再び、パンダーラを裏切った。

 エージェントは、パンダーラとともにスーカラマッダヴァの掃討作戦を進めている間。その背後で、別の勢力との交渉を進めていた。シータ・ゴーヴィンデーサがあった場所、スーカラマッダヴァがそこに天国を築いていた場所。いわゆる、ダクシナ語圏と呼ばれている領域の支配権について……ASKとの交渉を進めていた。つまり、もしもスーカラマッダヴァを排除し終わった場合。ASKに、その場所を売り渡すという交渉だ。

 赤イヴェール合金の調達に関する契約、包括的な軍事協力関係についての協定。パンダーラが知らないところで、パンダーラが知らないうちに、テーブルの上の料理は、その全てが並べられてしまっていた。そう、エージェントがテーブルの上を綺麗にしたのはパンダーラのためではなかったのだ。その料理はパンダーラのためのものではなかった。

 エージェントは、また、パンダーラを裏切った。優しい優しい笑顔をしたままでパンダーラのことを切り捨てた。エージェントは、パンダーラを、躊躇いもせずに売り払ったのだ。いや、それは躊躇う躊躇わないといった次元の話でさえなかった。そもそも、エージェントは、売り払うためだけにパンダーラを助けたのだ。

 凄惨なほどに聡明なデウス・ダイモニカスは。自滅と虚無とによってその生を彩られたデウス・ダイモニカスは。偉大なる王として定められていたデウス・ダイモニカスは……ついに気が付いた。この現実を定義しうる、たった一つの定義に。

 ああ、果たして、この現実においてこの定義以上に真実であるところの真実などありうるだろうか。世界中の、あらゆる哲学者、あらゆる科学者、あらゆる魔学者、あらゆる思想家にあらゆる宗教家に、そういった種類の生き物をたった一か所に集めて。永遠に近い間、無限のことを話し合わせたとして、果たして、何か、これ以上の真実を導き出しうるだろうか。いや、この定義に触れることさえ出来るだろうか。それは、そう、たった一つの定義なのだ。そこに何かを付け足すことも、そこから何かを差し引くことさえも出来ない。たった一つの定義に過ぎないのだ。しかも、それなのに、この世界の全ての苦痛であった、この世界の全ての絶望であり、そして、それが絶対に解決し得ないものであるということを、これ以上ないというくらい完全に証明していた。つまり、この世界に救いはあり得ないということを証明していた。ああ! そう、奇跡だった! そのデウス・ダイモニカスが、その定義に辿り着くことが出来たということは、間違いなく奇跡だった! そして、いうまでもなく、奇跡というものは必ずしも望まれた奇跡というわけではない。

 つまり。

 パンダーラは理解した。

 運命は、変えられない。

 運命を変えることなど出来ない。運命は決まっているのだ。いくら、それに抗おうとしてもそんなことは全くの無意味だ。パンダーラが生まれた時から、それどころかパンダーラが生まれる前から。時間と空間と、その手前のところで全ては決まっていた。それはそれなのだ。いってしまえば、それはそれなのだ。パンダーラがしてきたこと、その全ては、無駄だった。

 もう、パンダーラの内側には、希望と呼べるようなものは残っていなかった。理想? 正義? そのようなものもない。その定義、その瞬間、パンダーラの心の中から全ての炎は消えて失せた。時計は止まった。針は落ちた。全ては終わった。そして、自分以外の何ものもなくなってしまった絶対の荒野で、パンダーラは、ただ、こう呟いた。この瞬間よ、滅び去れ。お前は、とても醜い。

 とはいえ、パンダーラは、こういうことも理解していた。パンダーラは、もう、自分のために生きるということが許されていないということを。それどころか、何もかも諦めて自裁して果てることさえも許されていないということを。

 なぜなら、パンダーラは、王だからだ。パンダーラは王であり、王には国民がいるのだ。そして、王は国民を守らなければいけない。例え、自らがどれほどまでに傷付いたとしても……国民だけは守り切らなければいけない。命を懸けることは恐ろしくない。既に恐ろしいことは起こってしまった。恐れていたことはパンダーラを過ぎ去っていった。後は、既に捨てた命だけが残された。

 パンダーラは、ASKに戦いを挑んだ。その戦いが敗北に終わるということを、完全に理解した上で戦いを挑んだ。そうするしかなかったのだ。国を守るためには。国民を守るためには。

 実は……本当であれば……勝利と敗北と、それ以外にも方法はあったはずだった。つまり、戦いそのものを回避する方法があったのだ。戦うことそれ自体を放棄してしまえば良かった。絶対に失うわけにはいかないものだけを除いて、ASKに何もかも明け渡してしまう。あるいは、自分達を裏切った人間至上主義勢力と手を組んで、闘争ではなく和解という方法で物事に決着をつける。

 そうすれば、失うものは最低限で済んだだろう。少なくとも全てを失ってしまうということはなかった。だが、そうすることは許されなかった。なぜなら……パンダーラは、守るべきもの、その国民によってさえも、裏切られていたからだ。

 国民は闘争を回避出来るほど賢くなかった。パンダーラが知っているその方法、被害を最小限に抑える方法を受け入れるほど賢くはなかった。国民は、パンダーラを理解出来ないということ、パンダーラを決して理解しようとしないということによって、パンダーラを裏切っていたのだ。国民は、宣告した。パンダーラに。死ねと。死ねと。死ねと。自分達のために、傷付き、苦しみ、挙句の果てに、惨めに死ねと。

 だから。

 パンダーラはそうした。

 抗った。

 抗った。

 抗った。

 死に物狂いで。

 全てを犠牲にして。

 それでも抗った。

 運命に。

 そして。

 それから。

 その最後。

 何もかも失って。

 諦めとともに死んだ。

 この世界におけるこの現実が、美しい一枚の絵画であるという者は。このようなパンダーラの生を生きてみるがいい。もしもこの世界が絵画であるというのならば、それは取り返しがつかないほどに黴が生え、既に崩れかけたところの絵画であろう。それは醜い、悍ましいほど醜いのだ。つまり、この世界のこの現実とは……パンダーラが、呪いの言葉を吐いたその瞬間。その瞬間の連続として完成されたところの絵画なのである。

 確かに生き物は何かを成し遂げたかもしれない。だが、それは全て、苦痛と悪と、その二つのために成し遂げられたことなのだ。結局のところ、それら成し遂げられたことの全ては、凄惨な拷問、過酷な搾取、そして、あたかもケレイズィのごとく冷酷な、頽廃し切った快楽のために成し遂げられたのだ。それに何かの価値があるか? それに、何かの、善き価値があるのか? そんなものはない、そんなものはあり得ない。生き物が生きた全ての歴史には、たった一滴の慰めの絵の具さえ落とされることはなかった。それは、ただただ醜い。

 そう。

 醜いのだ!

 世界は。

 現実は。

 ああ。

 あたしは。

 醜い。

 ねえ。

 パンダーラさん。

 それなのに。

 なぜあなたは。

 そんなことを。

 言うの。

 なぜ、なぜ、あなたそれほどまでにあたしを受け入れられるの? 受け入れられるべきではないあたしを受け入れられるの? あなたが……あなたがその身に受けた、全ての悪を受け入れられるの? パンダーラのその生は、悲劇でさえなかった。ただただ、それは苦痛でしかなかった。秘密を教えてあげようか? 今まで誰も口にすることがなかった、最悪の、最悪の秘密を教えてあげようか? 実は、幼いパンダーラは、カーマデーヌを操作することが出来なかった。あまりにも幼いうちに一族が皆殺しになったしまったため、その操作方法を教わることが出来なかったのだ。そして、更に、スーカラマッダヴァは、幼いパンダーラがカーマデーヌを操作出来ないということを知っていた。知っていた、知っていたのだ! スーカラマッダヴァは、幼いパンダーラを拷問しても、いくら責め立て、虐げても、なんの意味もないということを知っていたのだ! それではなぜスーカラマッダヴァはパンダーラを拷問したのか。快楽のためか? 純粋で無垢なパンダーラの顔が、精神が、苦痛で歪むのを見るのが楽しかったからか? いや、違う。もしそうだったらどんなによかっただろう。そうであれば、どんなにパンダーラは救われたことか。それならば、少なくとも、その拷問にはなんらかの意味があったわけだ。結局のところ、その拷問にはなんの意味もなかった。拷問者は、上からの指示で、ただただ機械人形のように動いていただけだ。その上なるものは、その指示を、一つの組織的な決定として発生させた。恐らく、「そうするべきだ」という、ただただそのために、その決定は発生したのだ。そこには意味らしい意味は何一つ介在していなかった。ああ! せめて! せめて、パンダーラがその操作方法を知っていたならば! 知っていて、敢えて拷問に耐えていたのならば! それは悲劇になり得ただろうに! 果敢に、勇敢に、拷問に立ち向かったパンダーラという肖像! しかし事実は違った。パンダーラは、なんの理由もなく、何も理解出来ないままに、ただただ全く無意味な拷問を受け続けていたのだ。それは、つまり、banalityだった。banalityしかなかった。パンダーラのその絶望的な状態には、ただbanalityだけが一つの力として働いていた。

 完全に意味のない苦痛。

 ごく普通になされる悪。

 パンダーラさん。

 あなたは。

 それさえも。

 行われるべきだったというの?

「子犬を。」

 真昼は、いつの間にか。

 その口を、開いていた。

「子犬を殴ったことがあります。」

 その口。

 勝手に。

 話し始める。

 誰にでも一つはある。

 自分以外の誰も知らない。

 些細では、あるが。

 決して許されない。

 罪の記憶。

「あたし、子犬を殴ったことがあります。子犬は、全然、何も悪いことをしていなかったのに。あたしは、子犬を殴ったことがあります。何度も何度も、子犬がどれほど助けを乞おうと、殴り続けたことがあります。それは、確か、あたしが十六歳の頃でした。母が自殺してから、あたしは、何度も何度も家出して。そのたびに、誰か、誰でもいい、あたしみたいな少女のことを性的に支配することに快楽を覚える男の家に転がり込みました。別に誰でも良かったんです。あまり清潔ではない人は嫌でした。あと、父に似ている人も嫌だった。でも、それ以外なら誰でもよかった。あたしは、十四歳からそういう風にして家出を繰り返していたから、十六歳にもなると、男の人を捕まえること、男の人に捕まることにも十分に慣れていました。

「その男の人は、すごくすごく安っぽいところに住んでいました。建てられてから一体何年経ってるのかも分からないようなアパートでした。たぶん、三十年か四十年くらいは経ってたんじゃないかな。小さなアパートでした。二階建てで、一階に二部屋、二階に二部屋。その男の人が住んでいたのは二階の東側の部屋でした。実は、そのアパートに住んでいるのはその男の人だけで、その男の人が住んでいる部屋以外は空き室だったそうです。あんまりに借主がつかないものだから、下にある二部屋は、もう大家さんが物置として使っているって、その男の人が言っていました。

「中に入るとすぐにダイニングキッチンで、その奥に、右側に一つ、左側に一つ、それぞれ部屋があって。左側の部屋が、ベッドルームでした。ベッドルームっていうか、畳の部屋で、畳の上に敷かれていたのは布団でしたけど。それで、右側の部屋が、テレビだとかなんだとかが置かれている部屋でした。お風呂とトイレとは辛うじて別でしたけど、トイレにはもちろんウォッシュレットなんて付いてなくて、お風呂なんてバランス釜でした。あたし、その頃、バランス釜なんて知らなかった、どうやって使えばいいのか全然分かりませんでした。

「子犬を飼っていた。子犬を一匹飼っていた。友達から貰ってきた子犬だそうです。友達は、その男の人とは違ってお金持ちで。大きな家に住んでいて、大きな犬を二匹飼っていた。その二匹が、雄と雌と、それで、やることをやって、子犬が産まれた。そのうちの一匹を貰ってきたんだそうです。本当は、そのアパートはペット禁止なんだけど、大家さんには内緒で飼っているんだと言っていました。どうせ大家さんは滅多に顔を出さないし。それに、このアパートには自分しか住んでいないんだから、鳴き声で迷惑をかけることもないだろうって。もし隣に幽霊でも住んでるなら別だけどって、面白くもない冗談を笑いながら言っていました。

「あたし、その子犬が、すごく嫌いだった。すごくすごく嫌いだった。本当に、生まれてから一年もたってないような子犬でした。こんなに小さくて、ふわふわしてて真ん丸で。真っ黒な黒い色と、真っ白な白い色と、二つの色にくっきりと分かれたハスキー犬でした。エスカリアン・ハスキー、父親の犬も母親の犬も血統書付きの犬で、だからこの犬も血統書付きなんだって、その男の人が言っていました。

「「どう、可愛いだろ?」って。「君みたいな女の子は、こういう可愛い子犬が好きなじゃない?」って。あたし、曖昧な返事をして笑っていたんですけど。本当は、嫌いだったんです。だって、その子犬……すごくうるさかったんです。すごくすごくうるさかったんです。子犬って、鳴くじゃないですか。きゃんきゃんって、聞いている方の頭の中に、金属で出来たがらくたを放り込んで、がちゃがちゃと掻き回すみたいな声で。頭が痛くなるような声で、きゃんきゃんって。あたし、それが嫌だった。本当の本当に嫌だった。耐えられないくらい嫌だった。

「そのアパートの近くに消防署があったんです。五分くらい歩いたところに、少し広い公園があって、その公園は何もない公園で、奥の方に二つ、ベンチがあるだけ。ただただだだっ広い開けた空間っていう感じだったんですけど、その隣に消防署があったんです。それで、結構頻繁に、救急車が出動してたんです。確か、朝から昼にかけての時間帯に一回、夜に一回、深夜に二回。それくらいの間隔だったと思います。大きな大きなサイレンの音を辺りに撒き散らしながら、そのアパートのすぐ近くを通り過ぎていった。

「それで、そのたびに、その子犬が鳴くんです。きゃんきゃんきゃんきゃん、まるで、あたしに対する嫌がらせみたいに鳴くんです。あたし、それが本当に嫌でした……でも、その男の人は、全然気にしていませんでした。子犬が鳴くたびに、「おいおい、駄目だぞ」なんてこと、呑気な顔をしていいながら。ただ、子犬を抱っこして、よしよしって撫でているだけなんです。それじゃ……それじゃ、子犬が、鳴くのをやめるはずがないじゃないですか。救急車が通るたびに鳴くことを、やめるはずがない。ちゃんと躾けないと、鳴くのは悪いことだって教えないと駄目なんです。

「あたし我慢出来なかった。どうしても、我慢が出来なかった。それで、ある日、本当にどうしようもなく我慢出来なくなってしまったんです。その男の人は、ちょうど外出していた時間でした。その男の人は、性風俗の店で働いている人で。平日の深夜の時間帯、その男の人は、夜の街に仕事に行っていました。それで、深夜……その日は、特に救急車が多い日でした。一回目は我慢しました。二回目も我慢しました。三回目も、四回目も。その子犬が、どれだけ、喉も張り裂けんばかりに悲鳴を上げていても。きゃんきゃんと泣いていても。自分の耳を塞いで、そうやって我慢していました。それでも、五回目で、遂に我慢出来なくなった。

「パンダーラさん、ねえ、その子犬は……ただ怖かっただけなんです。窓の外から、この家の外から、何がなんなのかも分からない、全然分からない音が聞こえていて。それで、怖がっていただけなんです。あたしが、耳を塞いで、布団を頭からかぶって。その子犬の鳴き声に耐えている、そのすぐそばにやってきて。怖い怖いって鳴いていただけなんです。でも、それでもあたしは我慢出来なかった、どうしても、我慢出来なかった。

「あたしは、静かに布団から這い出しました。それから、今まで頭の下に敷いていた枕を右手に持ちました。あたし、思ったんです。躾けないといけないって。誰かが躾けないといけないって。怒りを感じていました。きちんと躾けていない、その子犬の飼い主の、その男の人に。ほとんど爆発しそうなくらいの怒りを感じていました。あたし、息をするのも難しいくらいに怒りを感じていた。はっはっはって、まるで全速力で走った後みたいに、呼吸が乱れて止められなかった。

「あたし、その子犬にも怒りを感じていた。まるで、天使みたいになんにも知らない、一歳にもならない子犬が。ただの獣が、誰からも何も教えられることもないのにも拘わらず、きゃんきゃんという鳴き声を上げて泣いてはいけないと、そういうことを、生まれつき知っていなければいけないとでもいうみたいに。あまりにも理不尽じゃないですか? そんなこと、あり得るわけがないのに。それなのに、あたし、その子犬にさえ怒りを感じていた。

「あたし、右手に枕を持っていた。右手で、強く強く、枕を握り締めていた。クッションみたいな枕で、でも、少しだけ硬めの枕だった。あたしの足元で、子犬が泣いていた。きゃんきゃん、きゃんきゃん、って。怖い怖いって、あたしに縋りついていた。いや、もしかしたら、あたしに教えてくれていたのかもしれない。同じところに住んでいるあたしに。群れの仲間であるあたしに。何か怖いものが近付いているって。なんだか分からないけれど、危険なものが近付いているって。逃げろ逃げろって。

「あたし……あたし……殴った。殴りつけた。枕で、その子犬を。今でも覚えてる、その瞬間の子犬の顔を。目を。その目のことを……今でも覚えてる。どうしても忘れられない、絶対に忘れられない。こわいでも、やめてでも、怯えでも痛みでもなかった。ただ、驚きだった。そんなことは起こってはいけないことが起こった時に、生き物が、必ず、する、顔。あたし、一度、その子犬を殴った。二度、殴った。三度、四度、五度。あたしは殴った。

「殴れば殴るほどに、体の中に、何か、とても美しくて、とても綺麗で、とてもきらきらした、とても透明な、何か、透き通るような感覚が広がっていく。ああ、正しいことをしていると思う。あたしは、間違いなく正しいことをしていると思う。この世界の間違いが正されていく。醜いものが、あたしの目の前で、消え去っていくという感覚。恐ろしいのは……あたしが恐ろしいのは……その感覚が、少しも悪いものの顔をしていないこと。それは、本当に、世界で一番正しいものの顔をしていた。あたしは興奮した。あたしは快感を覚えた。あたしが正しいことをしていると確信していた。

「子犬は、もう、鳴いてはいなかった。悲鳴を上げることさえ出来ていなかった。逃げていた、逃げていた、逃げていた。でも、逃げることが出来なくなっていた。あたしが部屋の隅に追い込んで、そこから一歩も動けないようにしてしまっていたから。ただ、ただ、部屋の隅で丸くなって。部屋の隅に体をくっつけて。頭を出来るだけ下に下げて。なんとか自分の体を守ろうとしているかのようにして、小さく小さくなっていた。

「あたしは、子犬のそんな態度も許せなかった。子犬が、子犬がしてしまったことを全く反省していない。心の底からあたしに謝罪しなければいけないはずのその子犬は、全く謝罪する気持ちがないんだ。そう思うと、あたしは、もう、何かが切れてしまっていた。何度も何度も殴りつけた。何度も何度も、数える気さえなくなるほどに。殴れば殴るほど、殴る腕に力が入ってきた。何か不思議な化学物質のせいで、あたしの力が、見る見るうちに凶暴な獣のようなものになっていった。

「あたしは、それから、それから……はっと気が付いた、気が付いたんです。あたしの鼻を刺すようなその匂いに。生暖かい匂いに。それは、おしっこの匂いでした。犬のおしっこの匂い。あたし、いつの間にか、殴りつけるのをやめていました。そして、ようやく、自分が殴りつけているものを冷静な目で見ることが出来たんです。それは……子犬でした。あたし、驚いた。とても驚いた。あたしは、子犬を殴りつけていたんです。こんなに小さい、こんなに可愛らしい、子犬を。全力で殴りつけていた。

「子犬は震えていた。震えながら、小さく小さくなっていた。右の前脚と左の前脚と、その間に顔を挟みこんで。しっぽは後ろ脚にくっつくように丸めていて。布団の上で、無力に、丸くなっていた。どこも見ていない目、何も見ていない目。目を見開いたままで震えてた。そして……おしっこを漏らしていた。恐怖のあまり、苦痛のあまり、おしっこを漏らしていた。あたし、あたし……何がなんだか分からなくなった。

「あたし、急に、ぞっとしました。さっきまで、あれほどすうっとしていた全身に、何かべっとりとしたものが、ずるずるとしてべっとりとしたものが、するりと忍び込んでいたことに気が付いたみたいに。あたしの全身が、そのべっとりとしたものに、内側から覆い尽くされていたことに気が付いたみたいに。

「あたし、手に持っていた枕を投げ捨てた。そしてよろめくみたいにしてその部屋を出ていきました。もう、子犬の方を見ることが出来なかったから。あまりの罪悪感で、あまりの恥辱で。もう一度でもその子犬のことを見てしまったら……その、べっとりとしたものに、完全に取り込まれそうだった。あたし、もう駄目だった、もう駄目だったんです。何もかもダメだった。だから、その家を、飛び出しました。もうその家の中にいることさえ出来なかった。その家を飛び出して、そのまま走り出した。

「合鍵は貰っていたんですよ。「俺がいない時にはこの鍵使って勝手に出かけてよ」って。でも、合鍵を探して、鍵をかけて、それから出ていくなんて、そんな暇はなかったんです。合鍵は家に置いたままでその家を飛び出しました。合鍵だけじゃなくて、あたしの荷物、あたしの物だった物、全部全部そこに置いて。もともと、家出だったし、どうせろくな物は持ち歩いてなかったけど、そういう物を全部おいて、飛び出してしまった。そして、その家に戻ることはなかった。その男の人に会うこともありませんでした。それからどうしてるのか、今何をしているのか。そもそも生きているのかどうかも、もう分かりません。

「もちろん、その子犬とも、もう二度と会うことはありませんでした。あの子犬と……あたしが、何度も何度も殴りつけた子犬と。おしっこを漏らしてしまうまで、あたしが追い詰めた子犬と。あたし、分からない……いや、分かる。分かるんだけど分からない。一体、なんであたしがあんなことをしたのか。なんであんなことが出来たのか。あれほど無力な生き物を、全く罪のない、たただ哀れな生き物を、あそこまで、なぜ、虐待出来たのか。あそこまで無慈悲に暴力を振るうことが出来たのか。

「あたし、走った。走って走って走った。あたし、靴を履いてなかった。靴を履いているだけの余裕もなかった。早く、早く、ここから逃げないと。実現してしまった暴力のその場所から逃げないと。あまりに、あまりに、ひどいことをした、その自分がしてしまったことに追いつかれてしまうということが分かっていたから。逃げないといけなかった、今すぐに、靴を履くために立ち止まることさえ出来ないほどすぐに。裸足で、アスファルトの上、舗装された道、砂利が足の裏に突き刺さって、あたし、走って走って走って、それで、いつの間にか公園に着いていた。

「あの公園です。あたし、言いましたよね? 消防署の隣に公園があったって。その公園です。あたし、公園にいた。公園の入り口で、一度、立ち止まって。それから、そのまま、公園の一番奥まで歩いていった。ベンチが置いてあったところです。三つのベンチが、等間隔で、ぽつん、ぽつん、ぽつん、って。三つのベンチが置いてあって。その、あたしから見た時に、一番左側のベンチの、一番左端に、すとんと、落ちていくみたいにして座りました。

「誰もいなくて。公園には、というか、この世界のどこにも誰もいない感じで。当たり前ですよね、深夜だったんですから。たぶん、三時も回っていたと思います。三時半くらいだった。そんな時間の住宅街に、誰かがいるはずもありません。あたしだけ、あたしだけが、どこにも行けないで、そこにいたんです。どこに行くことも許されないで、そこにいたんです。

「あたし、公園の街灯に照らされてました。なんだか息が詰まるような、機械油か何かみたいにざらざらした街灯の光に。街灯には虫がたかっていて、だから、じゃりじゃりっていう、誰かが暗がりの中で砂を噛んでるみたいな音が聞こえてきていました。虫が、光に、吸い寄せられたりはなれたりして、街灯にぶつかっている音です。蜘蛛の巣のことを覚えています。街灯の光のすぐそばに、蜘蛛の巣が張っていました。その蜘蛛の巣の真ん中に、大きな大きな蜘蛛が、一匹だけいて。長い長い脚。ほっそりとした体つき。黄色と黒の縞々がおもちゃみたいに、全然動かなかった。

「言い訳が……言い訳が出来ないわけじゃないんです。例えば、例えばですよ。深夜の三時過ぎに、住宅街で、あんなにきゃんきゃんきゃんきゃん鳴いていたら。それに苛々していたのは、絶対に、あたしだけではないはずです。あのアパートの近くの人達はみんな迷惑していたはずなんです。絶対絶対迷惑してた。でも、そういう人達は、その子犬を躾けることが出来ない、どうしようもない。だから、あたしが躾けるしかなかった。

「あるいは、こういう言い訳も出来ます。あたしは寝不足だった、ずっとずっと寝不足だった。あたしがうとうととしかけると、あの子犬がきゃんきゃんきゃんきゃん鳴いて、あたしが眠るのを邪魔する。つまり、あたしは、あたしも、やっぱり暴力を受けていたんです。あの子犬に暴力を受けていた、睡眠を妨害されて、とてもとても残酷な暴力を受けていた。それならば、あたしが何か、その暴力に暴力を返しても、何も問題ないはずだ。

「いくらでも、いくらでも、思い付きました。あたし、ベンチに座って。ただただ街灯を見上げたまま、いくらでも言い訳を思い付くことが出来た。でも、それは言い訳だったんです。それは、所詮は、ただの、言い訳に、過ぎなかった。本当のことは全然違った。あたしは、住宅街の他の人達、子犬の鳴き声に迷惑している人達のために子犬を躾けたわけではなかった。あたしは、暴力を受けたことの復讐として暴力を返したわけではなかった。

「あたしは、あたしは……何か、明確な理由があってそうしたわけではなかった。あたしは、そうしたいからそうしたわけでさえなかった。何か、あたしの中にある、本当のあたし。本当の本当のあたし。あたし自身、あたし以外の何ものでもないあたし。それが、言い訳のしようがないくらいの悪だった。そして、その悪が、それをなしたんです。あたしが悪だったから。他の何ものでもなく、あたしそのものが悪だったから。その悪であるところのあたしが、子犬を殴ったんです。何度も何度も殴ったんです。

「あたしの悪は、何かドラマティックなものではありません。そうではないんです。例えば、小説だとか漫画だとか、あるいは映画とか、そういったものに出てくるような、どこか首尾一貫していて、それを見た時に感動さえ覚えるような、価値がある悪ではありません。あるいは、そういった、ドラマ的なものには、いわゆる小悪党とでもいうべきキャラクターが出てくることもあるでしょう。あたしの悪は、そういったものでさえないんです。そういった小悪党には、それでも何かしらの価値がある。その物語の中に出てくるべき意味がある。あたしの悪には……そういった、意味さえ見当たらない。ただただ醜く、自分勝手で、卑劣で、物語の中に唐突に出てきて、歯車が一つも噛み合わず、何もかも、物語の中にある美しい構造のようなものが、そこで完全に破綻してしまうような、無意味なんです。いや、違う。物語そのものから無視されてしまうような、物語の中で語られることさえない……つまらない悪。信じられないほど、表現することも出来ないほどの、想像することも出来ないほどの、つまらなさ。物語的な悪ではないんです、壮大な悪ではないんです、いわゆる本質的な悪ではないんです。単に浅薄で、そして間の抜けた悪なんです。あたしの悪は、悲劇ではないんです。罪じゃない、そんな上等なものじゃない。あたしは、あたしは……ただただ、恥ずかしい生き物だった。あたしという存在そのものが、世界にとっての恥辱だった。

「パンダーラさん、あたし……そのことを、思い出すんです。今でも思い出すんです。ふとしたきっかけで、いや、きっかけなんてなくても。まるで世界が、あたしに思い出させているみたいに。お前は、物語の主人公なんかではない。そもそも、物語の登場人物でさえない。お前は、そういう、素晴らしい、世界に適合した存在になることは出来ないんだ。なぜなら、お前は凡庸だから。悲劇の舞台に上がれば、その舞台をぶち壊してしまうほどに凡庸だから。あたし、思い出した。何度も何度も思い出した。

「あたし、何度もお願いしました。何度も何度も、教会に行くたびにお願いしたんです。あんなことをした後でも許されたいって。あんなことをしてしまった後でも、救われたいって。でも、許すって、何を許すっていうんですか? あたし、だって、罪を犯してないのに。罪と呼べるほど、何か、ドラマティックなことをしたわけではないのに。罪だったら、それが罪だったらよかった。世界の構造に適合した、意味がある、価値がある、律法に適った行為だったらよかった。それなら許されることも出来たはずなのに。でも、子犬を、無抵抗な子犬を、何度も何度も殴りつける、特に意味もなく、ただ苛々したから殴りつける、そんなことをした人間が、どうして許されるっていうんですか? どうすれば許されるっていうんですか?

「つまり、つまり……あたしは許されてはいけないんです。つまり、もしもこの世界に秩序があるのならば。何か、この世界に、美しい調和のようなものがあって、この世界の最後の最後には、あらゆるプラスの計算とマイナスの計算とが終わった後には、何もかも、生きているものも生きていないものも、これ以上ないというくらいの至上の幸福に包まれて、絶対的な平和と、絶対的な安寧と、そのような、完全な、天国によって大団円を迎える物語だというのならば。あたしという生き物は許されてはいけないんです。あたしという生き物は、この世界にはいてはいけない生き物、この物語には登場してはいけない生き物なんです。なぜなら、あたしは子犬を虐待したから。子犬を、罪のない子犬を、いたいけな子犬を。

「誰が否定出来るっていうんですか? 誰がそれを否定出来るっていうんです? お漏らしをするまで子犬を殴りつけたあたしを、一体、誰が許せるんですか? ねえ、パンダーラさん。もしも、世界の最後の最後で、このあたしさえ幸福になって。あたしが殴りつけた子犬と抱き合って、互いに惜しみない愛を注ぎ合って。そして、この世界が存在するということ、生命があるということ、この子犬が、このあたしが、生まれたということ。それを心の底から祝福出来るとするならば。そんな世界は、屑なんです。存在する価値のない屑みたいな世界なんです。

「だって、だって、計算が合わないじゃないですか! 全然、計算が合ってない! 間違っている、取り返しがつかないほど間違っている! あの子犬の痛み、あの子犬の苦しみ、あの子犬の、あれほどの悲痛が、贖われていないじゃないですか! あたしが……あたしが地獄に落ちなければいけないんです。あたしが地獄に落ちなければ、世界は正しいものにならない。

「でも、この世界に地獄があるとするならば、それって、その世界って、一体なんなんですか? 全然正しい世界じゃないじゃないですか。つまり、あたしが……あたしのせいで……あたしが悪い子供だったから……あたしが……あたしが……あたしが、救いようのないほどに悪い子供だったから……地獄なんていうものが出来た。あたしのせいだ、あたしのせいなんだ。あたしのせいで、地獄が出来た。そして、この世界は、取り返しがつかないほどに間違ってしまった。この世界は、幸福な世界になれたはずなのに。物語に、とても、素敵な、物語に、なれたはずなのに。

「だから、あたし、お願いしたんです。何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。あたしが……あたしが、始めから、あんなことをしなかったことになりますようにって。あたしが子犬を虐待しなかったことになりますようにって。あたしが殴らなかったことになりますようにって。あの子犬が、どんなに、声の限りに叫び続けても。あたしは、優しく、優しく、あの子犬を抱き締めて。怖くない、怖くなんだよって。優しく、優しく、頭を撫でて。そう言ってあげることが出来ていたことになりますようにって。あたしが……あたしがあたしでなくなりますように。あたしが、あたしではない、何かとても美しい誰かになりますようにって。あたしが、あたしが、この物語に相応しい、理想的な、価値ある、意味ある、登場人物になれますようにって。

「何度も何度も、パンダーラさん、本当に、あたし、何度も何度もお願いしたんです。でも、でも……それなのに……なんで……なんで……何が悪かったんですか? ねえ、パンダーラさん、何が悪かったんですか? あたしが悪かったのは知ってます、でも、あたしの何が悪かったっていうんですか? あたし、あたし……ごめんなさい……本当にごめんなさい……でも、あたしだって……あたしになんてなりたくなかった……

「あたし、まだ、あたしのままなんです。悪い子のままなんです。恥ずかしい子のままなんです。あたし、信じていました。主のこと、主がいるっていうこと。この世界の全部全部を作り出して、この世界の全部全部を愛していて、この世界の全部全部を、最後の最後には救ってくれる主のことを。カトゥルンが犯した原罪をなかったことにするために、トラヴィールとして、主の愛するひとり子として、この世界に生れ落ちてきて。そして、あらゆる生き物の、あらゆる生命の、罪を、背負って。カトゥルンの本を焼き捨てて下さった、主のことを。あたし、信じていた。

「でも、あたしは……あたしは、まだ、あたしのままで。あたしのままで、教会の床に、跪いていて。あたし、あたし……泣きながら、何度も何度も、あたしが、あたしが、地獄に落ちますようにって、あたしが地獄に落ちて、あたしが誰か、他の誰かになってしまいますようにって、あたしが救われますように、あたしが救われますようにって、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。でも、あたし、全然……全然、何も変わらなくて。

「パンダーラさん、あたし、その時、やっと理解出来たんです。あたし、ようやく分かった。この世界の何が間違っているのか。あのね、パンダーラさん、この世界の、本当の本当の問題は……主がいらっしゃらないっていうことなんです。全知全能の主が、お空の上にいらっしゃらないっていうことなんです。だって、だって、そうでしょう! もしも、主がいらっしゃるなら! あたしが生まれることを、許すはずがなかった! あたしみたいな生き物がこの世界に生まれることを許すはずがなかった! あの子犬の……まさに、あの子犬の、償われることのない悲しみが、生まれることを許すはずがなかった。

「ねえ、パンダーラさん。主がいましますならば、全ては許されたはずなんです。例え、あたし達が悪であっても。あたし達が悪をなした罪なき生き物が、苦しみと痛みと、そして贖われることのない不幸に涙を流したのだとしても。なぜなら、主は、あたし達を救うから。全ての涙から……あたし達を……奇跡によって、お救いになるはずだから。無限で、永遠で、絶対な、主は……被造物であるあたし達を……お許しなる。最後の最後に、全てを清算する、あたし達が犯してしまった全ての間違いを清算する! そして、涙は贖われるんです。結局のところ、この世界は、めでたしめでたしで終わる物語になるんです。

「でも、主はいらっしゃらなかった。だって、あたし……どんなに、どんなに耳を澄ませても、あたしのお願いに応えてくれる主のお声を聴くことが出来なかった。だって、あたし、あたし、まだあたしだから。子犬を虐待した、最低で、最悪の、あたしのままだから。だから、あたし、絶対、分かったんです。絶対、絶対、分かったんです。この世界には主はいらっしゃらない。誰もあたしのことを愛してくれない。愛してくれていない。全てが、全てが許されない。なぜなら、主がいらっしゃらないから。

「主がいらっしゃらないなら正義もあり得ない。正義をお決めになる主がいらっしゃらないなら、どうして正義があり得ますか? 正義があり得ないなら悪もあり得ない。この世界には、正義も悪もない。ただ、子犬を虐待したあたしがいるだけなんです。あたしに虐待された子犬がいるだけなんです。そんな、そんなこと……そんな残酷なこと、あるんですか? あっていいんですか? まるで、テストに、答えのない問題が出たみたいです。その回答欄に何を書いても、もちろん何も書かなくても間違いになる。あたしは……どうしても、そのテストに正しい回答をしなくてはいけないのに。それなのに、そのテストには、正しい答えがないんです。

「あたし……パンダーラさん、あたし、どうすればいいんですか? どうすればよかったんですか? 分かってます、全部全部分かってます。あたしは、あの子犬を殴らなければよかった。抱き締めてあげればよかった、撫でてあげればよかった。キスをしてあげればよかった。怖くないよ、怖くないよって言ってあげればよかった。でも、あたしはもうあの子犬を殴ってしまったんです! 取り返しがつかないんです! この世界は、あたしのせいで、取り返しがつかないほど間違ってしまった後の世界なんです! あたし、どうすればいいか分からない……もう何も分からない……だって、だって……あたしは無力だから……あたしは何も出来ないから……あたしは……ねえ……パンダーラさん……主が……主が……主がいないから……あたしの悪を贖ってくれる人がいないから……」

 真昼は。

 真昼は。

 あなたはわたしのほかに、なにものをも主としてはならない。けれども、もしも、主さえも「ほかのもの」であったならば? 主が主ではなく、天国が天国ではなく、ここに人間しかいないならば? これが、地上の王国に過ぎないのならば? 人間は、一体、どのように生きていけばいいのか?

 この世界において、まさにこの世界において、一つの全き現実として、トラヴィールは、生ある者の全ての現在を一身に背負われたまま、カトゥルンの本を焼かれた。予定。それは予定だ。主は、自らをのみ棄却された。自らをのみ、罪とされた。そして、その他のあらゆる生き物を救済された。受肉の神秘、受肉の歓喜、主の選び。そう、主は選ばれた。生き物の全てを、救済に予定された。これは、一般的抽象的な超越の理論ではない紛れもない現実として、まさに特別的な具体的な現実として。原神話・原伝説・原歴史として起こったことなのだ。そう、それは現実であるがゆえに無力ではなく、確固とした力を持つのだ。だが……それが現実ではないのならば? それが、単なる嘘に過ぎないならば?

 まさにそのものが。特殊的なものが。具体的なものが。実は嘘であるならば。大切な大切なぬいぐるみがただのぬいぐるみに過ぎないならば。いつも抱き締めて眠っていたブランケットがただのブランケットに過ぎないならば。信じていたものが、愛していたものが、実は嘘であるならば。生きるということの指針にしていた思想がただの思想に過ぎないならば。お腹を痛めて生んだ実の子供がただの子供に過ぎないならば。そして、まさに、その通り、それはただの嘘に過ぎなかったのであるが……一体、人間は、どうやって生きていけばいいのだろうか。

 もしも人間が、美しく、秩序立っていて、それに、それに、完全な調和のもとに生きているなんらかの生き物であるならば。それでも、きっと生きることが許されることもあるだろう。だが、真昼は子犬を虐待したのだ! 真昼は子犬を虐待した! そして、全ての人間は、まさに真昼と全く同じように子犬を虐待したのだ。全ての人間は、まさに収容所の職員と同じように、許されないほどに凡庸な悪なのだ。そうであるならば……しかし……けれども……もしも人間が悪ならば?

 誰かが誰かを虐げること。誰かが、誰かを、同じ人間であるにも拘わらず、人間であると認めず、その生きる権利さえも認めないということ。それを、人間が、決してやめることが出来ないとするならば? もちろんだ! もちろんやめることが出来ないのだ! なぜなら主がいらっしゃらないから! この世界には、この現実には、主がいらっしゃらないから! 全ての罪は許されない! 全ての罪は許されない! でも、全ての罪が許されないならば、人間はどうすればいい?

 解決策はない。なぜなら人間は全員が全員、悪だからだ。もしも一人でも善人がいれば、誰であれ受け入れ誰であれ信じて誰であれ愛することが出来る完全な善人がいれば。きっと世界は変わるだろう。たった一人でよかった、たった一人でよかったのだ。だが、いなかった。結局、そんな善人はいなかった。自分だけを罪とみなして他のあらゆる人間を義とすることが出来るトラヴィールはいなかった。人間は、隣人しか愛せない。人間は自分と同じ立場に立っている人間しか愛せない。人間は収容所の職員を愛せない、人間は、子犬を虐待した真昼を愛せない。だから、お終いだ。全部全部お終いなのだ。ざーんねんでした! この世界は失敗作で、あなたは絶対に救われません。

 ねえ、パンダーラさん。

 そうだったんでしょう。

 結局、そういうことだったんでしょう。

 そして。

 だから。

 あなたみたいに必死で生きた人があんな風に死んで。

 あたしみたいな悪いやつが、こんな風に生きている。

 真昼は……よろめくようにして、後ろに向かって一歩退いた。一歩、一歩、もう一歩。これ以上、パンダーラの近くにいるわけにはいかなかった。穢れるからだ。あたしの悪で、パンダーラさんが穢れてしまう。あたしが吐き出す言葉は一つの呪いであり、それはどろどろと真昼の口から滴り落ちていく。この世界に生み出されて、蠢く、蠢く、悍ましい生命であるかのように、真昼という悍ましい生命そのものであるかのように。

 ただ、それでも。真昼はパンダーラから目を背けることが出来なかった。パンダーラから、パンダーラの顔から。あたかも、この世界の全ての苦痛を……いや、違う。全然違う。その顔は、そんな一般的抽象的な代物ではなかった。そうではなく、パンダーラのその顔は……真昼の。たった一人、真昼一人だけ。まさに「この真昼」の苦痛だけを、「この真昼」の代わりに背負っているかのような。そんな顔をしているパンダーラ。

 その顔から、目を背けることが出来なかった。目を背ければ足元が崩れてしまうとでもいうかのように、目を背ければ呼吸が止まってしまうとでもいうかのように、目を背ければ全てのことが本当になってしまうとでもいうかのように。真昼は、パンダーラの顔を直視したままで。真昼は、後ろを振り返ることさえも出来ず。そのまま、後ろへ、後ろへ。パンダーラから少しでも離れる方向へ、よろめいていく。

 心臓が。

 痛い。

 痛い。

 痛いほど。

 笑ってる。

 あたしの胸の中で。

 これ以上、ないというほどに。

 楽しげな、幸せそうな、哄笑。

「あたしは運命に抗えなかった。」

 だから。

 ねえ。

 あたしは口を開く。

 あたしは。

 本当の。

 本当の。

 呪いを。

 吐き出す。

「あなたが、運命に抗えと言ったのに。」

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