第三部パラダイス #34
いつものように、へらへらと。その引き裂かれた頬、人を食ったように笑いながら。マコトは真昼の目の前に立っていた。この空間には、この時間には。トゥシタと呼ばれているこの場所には、二人しかいなかった。椅子に座って。自らの顔を両の手のひらで覆い隠して。ただただ俯いている真昼と。そして、その前に立っているマコト。マコトは、真昼から、一ダブルキュビトよりも少し離れたくらいの位置に立っていて。マコトが座っていたはずの椅子は……いつの間にか、どこにもなくなっていた。
ただ、黙っていた。マコトも、真昼も。何も言わなかった。この現実と呼ばれていたはずの何かが、全部全部芝居事だったとして、その最後の最後の幕が下がった後みたいな静寂だった。
けれども、やがて、真昼の身体が動き始めた。それは、もうとっくに壊れてしまっていたはずの時計が動き出したかのように。そして、時間ではない、全く違う、何か別のものを数え出したかのように。それは、ある種の、摂理の運動だった。
虚ろに呼吸をしてる。のろのろと、顔に押し当てていた手のひらを離した。それからまるで、海の波が少しずつ少しずつ満ちてくるかのように。一つの世界を、暗く広い海が飲み込もうとしているかのように。その顔を、上へ上へ上げていく。
真昼の耳には。
聞こえていた。
何もかもが、終わってしまっても。
たった一つだけ残されているもの。
真昼の。
胸の中で。
とくん。
とくん。
ただ。
真昼のこと。
笑っている。
心臓。
この心臓が、仮に、誰かが真昼を騙すために作った偽物の心臓であったとしても。それがただの幻であっても、それがただの夢であったとしても。そのようなことは、真昼にとってはどうでもいいことだった。誰であっても、それを異端だとして反駁することなどできない。誰も真昼のことを邪魔することなどできない。なぜならそこには真昼の全てがあったからだ。その心臓の中に真昼の全てがあったからだ。だから、真昼は、どうでもよかった。真昼にとって、この世界さえも、この現実さえも、どうでもよかった。それが夢ならば、あたしは夢を見ていよう。真昼は、ずっと、ずっと、夢を見ていよう。真昼の夢を。真昼と、真昼の運命と、その夢を。目をつぶり、そして、二度と目を開かないでいよう。目覚めないように。この心臓が決してなくならないように。
例え、この世界の全ての重力と引き換えにしても。
例え、この現実の全ての快楽と引き換えにしても。
あたしは。
あたしは。
ただ。
「嘘だ。」
「はい?」
「嘘だ……嘘だ。」
壊れた時計だろう。確かに、それは壊れた時計だった、目覚まし時計をセットして、でも、その時間とは全く違った時間に鳴り出してしまった時計のアラームの音のように。真昼は、ただ、ただ、その言葉だけを繰り返し始めた。真昼は、マコトに向かって、まるで何かが壊れてしまったかのように、何かの部品がどこかにいってしまったかのように、繰り返し始めた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。」
「いいえ、本当ですよ。」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。」
「私が申し上げたことは、全て本当のこと。」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。」
「本当です、本当のことです。」
真昼は、いつの間にか、立ち上がっていた。
真昼が座っていたはずの椅子は消えていて。
そして、真っ白な、空白の中で。
真昼とマコトと。
二人は。
立ったままで。
向かい合って。
「嘘だ。」
「本当です。」
「嘘だ。」
「本当です。」
「嘘だ。」
「本当です。」
「嘘だ。」
「本当です。」
真昼の口調は、次第に、次第に、どこか、異常なものになっていっていた。壊れたものが、めちゃくちゃになって、膨れ上がり、そして、今にも爆発しそうな状態になっていくかのように。真昼の声は、少しずつ少しずつ熱を帯びていく。少しずつ少しずつ、叫び声のようになってくる。
「嘘だ!」
「本当です。」
「嘘だ!」
「本当です。」
「嘘だ!」
「本当です。」
「嘘だ!」
「本当です。」
真昼のそれは、既に絶叫と何も変わらないものになっていた。精神病院に響き渡る悲鳴、いや、それよりも、何か、奇妙な肉食の動物の咆哮のようなものだ。真昼とマコトと、二人の距離は、もう間近になっていた。僅か数センチの距離。真昼の叫び声、その声が、振動として届いてしまいそうなほどの距離。マコトの方が背が高い。だから、真昼が見上げるような形になっている。真昼は…分かっていた。理解していた。この女が、嘘をついているということを。あたしを、あたしのことを、騙そうとしているということを。うるさい、うるさい、黙れ! あなたの言葉は全て嘘だ! あたしは知っている、あたしは知っているんだ! なんで、なんで認めようとしないんだ。嘘だと、その全てが嘘なんだと! 真昼は、嫌悪していた。憎悪していた。最初の最初、この女に初めて出会った時から。これ以上ないというくらい汚らわしく思っていた。この女の笑う顔を、この女の、その、全てを馬鹿にしたような顔を。この女の、その、頬の傷を。真昼は、もう許せなかった。だって、今まで、ずっとずっと……ねえ、あたし、あたし、ねえ……ずっと、ずっと……しかし、言葉ではいい表わせなかった。この女に対する感情、その嘘に対する感情を。いや、それは感情でさえなかったのかもしれない。とにかく、真昼は、もう、嫌だった。もう許せないのだ。これ以上、嘘をつかれるのは、もう、嫌だった。
だから。
真昼は。
右の手。
拳を。
強く。
強く。
握り締めた。
ぎりっと、奥の歯を噛み締める。
右腕を大きく大きく振りかぶる。
そして。
真昼は。
全ての憎悪を込めて。
全ての嫌悪を込めて。
その。
頬の傷を。
思いっ切り。
殴りつける。
「嘘だ!!」
マコトは……確かに、真昼はさして力が強いわけではない。確かに、あの地獄、アーガミパータで、五日と少しの時を生き抜きはしたが。それでも、所詮は少女なのだ。とはいえ、その時の真昼は、実は、正確にいえば、少女ではなかった。ただの少女ではなく、燃えるような憎悪と腐るような嫌悪とに取り憑かれた少女だ。そのような怒りは、時に、人間という生き物を、獣に変える。獣、ただただ暴力という本能を剥き出しにした獣。あらゆる理性を失って、ただただ、目の前にいるこの女を殴りたいという衝動。そのようにして殴りつけられたマコトは、もう、その場に立っていることなど出来はしなかった。
後ろ向きに倒れ込む、いや、そんな生易しいものではない、なかば吹っ飛んでしまうかのようにして、背中から、横倒しに落ち込んでいってしまう。
その瞬間に、真昼は、ようやく、はっと冷静になった。自分が何をしてしまったのか一拍子遅れて頭蓋骨が理解し始めた。握り締めた右の拳の痛み。
ずきん、ずきん、ちょっと笑ってしまいそうなほど、間抜けな馬鹿みたいに痛む。殴りつけた方がこれだけ痛いならば、殴りつけられた方はどれほどの衝撃だっただろうか。マコトは、仰向けになって、倒れたままで、ぴくりとも動かなくなってしまっていた。真昼は……どうすればいいのか分からなかった。そもそも、自分が何をしたのかさえ、その正確なところを理解出来なかったのだ。一体、これはなんだ? この、滑稽な、茶番劇はなんなんだ? そう、茶番劇だった。要するに、茶番劇に過ぎなかった。真昼は、そのことを、よく分かっていなかったのだが。しかしながら、幸いなことに……マコトは、そのことを十分に承知していた。
ああ。
低能。
この世の。
全て。
だから。
マコトは。
いつも。
いつも。
それを。
笑い飛ばす。
「あはっ……あはは……」
倒れ込んだマコトの声が聞こえた。
いうまでもなく、それは笑い声だ。
「あははは……はは……ははは!」
倒れたまま。
そのままで。
マコトは。
笑う。
「あははははははははははははははははっ!」
ただ、それは、これまでの笑い方とは全然違った笑い方だった。今までみたいな、どこか、何というか、芝居じみた感じ。非常に優秀な役者が、やりたくもない役を、それでも誠実に演じている時のような、美しい芸術品のような笑いではない。嘲笑ではないのだ。それは、本当に、心から笑っている哄笑であった。
暫くの間、そのようにして笑っていたのだが。マコトは、やがて、「はーあ」とかなんとか溜め息をつきながら、その笑いをやめた。それから、起き上がり始める。ゆっくりゆっくりと、少しだけ億劫そうに。右の手のひらをついて、上半身だけを起き上がらせる。
いかにも痛々しげに頬を押さえていた。左の手で、左の頬を。真昼に殴られた方の頬を。それによって、マコトの、あの傷が隠れていた。マコトの顔を、常に、笑顔にしていたあの傷。何もかも馬鹿にしたような顔で笑わせていた傷。今、マコトは、笑っていなかった。
本当に。
たぶん。
少なくとも、真昼が。
マコトに会ってから。
初めて。
「それでいいんですよ。」
マコトがぽつりと呟いた。
あたかも、不幸な少女のような声で。
一度も愛されたことがない。
少女のような、声によって。
「それでいいんです。」
それから、立ち上がった。左の手は頬を抑えたままだったので、右腕の力と、それに、脚の力だけで。ひょいっと脚を折り曲げて、右の手のひらに力を入れて。その力と、脚の発条とを使って、軽やかに立ち上がったということだ。
真昼は、マコトの笑っていない顔を初めて、こうして、正面から見たのだった。今までは、例え真面目な顔をしていても、その頬の傷のせいで、どこか道化じみた顔になっていたが。こうして、その傷さえも隠されてしまっていると……マコトの顔は、一つの悲劇だった。限りなく突き放されていて、限りなく捨て去られていて。哀れで、悲しく、孤独な悲劇であった。
いや、劇でさえない。
端的な、事実だった。
「あの……あたし……」
「砂流原さん、あなたは正しい。あなたの言う通りだ。他人が何を言おうと、それは、あなたにとっては嘘です。嘘なんですよ、全部、全部。思想も、哲学も、倫理も、宗教も、魔学も、科学も、あるいは、私が口から出まかせにのたまったところの「真実」というやつも。全部、クソの役にも立たない戯れ言に過ぎない。あなたにとっての真実は、あなただけなんです。例え、あなたが、空っぽな細胞に過ぎなくても。あなたが生きるということが苦痛に過ぎなくても。あなたが悪に過ぎなくても。
「人間は……ねえ、砂流原さん。「人間にはなんの意味もない」。「ただ生まれて死ぬだけだ」。そんなことをいう方は、馬鹿なんですよ。そんなことをいう方は、なあんにも分かっちゃいない。「人間が生きる目的は快楽だけだ」、そういうことをいう人間は、完全に間違っているんです。そのような言葉は、真実でもなんでもありません。だって、ねえ、砂流原さん。人間が生きるということには、意味があるんですから。
「あなたが、まさにあなたこそが、生きる意味なんですよ。あなたというあなたこそが、一つの意味、この世界にたった一つの意味なんです。あなたがあなたとして生きていること。あなたがこの世界を意味付けているということ。これ以外に、どんな意味が必要だっていうんですか? あなたが目で見るもの、あなたが耳で聞くこと。あなたが感じるこの世界の全てが意味になる。そして、現実が、あなたになる。
「あなたは、この世界で、最も重要な人なんです。つまり、あなたは……善なんです。砂流原さん。あなたは、善なんです。現実というものの中で、本当の本当に、善なるものなんです。あなたは理解出来ないかもしれない。あなたは否定するかもしれない。それでも、あなたは善なんですよ。
「だって、悪がこの世界にあるんですから。あなたという生命は、結局のところ苦痛です。そして、その苦痛は、間違いなく悪です。それならば。そうだとするならば。やっぱり、この世界には善があるんですよ。悪があるところの善がある。それは間違いのないことです。そして、あなたの生命に、この世界の全ての悪があるというのならば。やはり、あなたの生命の中に、この世界の全ての善があるんです。
「砂流原さん、あなたの全ては善なんですよ。そうだとは思いませんか? いや、構いません。別にあなたがそう思わなくても。だって、それは本当のことなんですから。あなたが真実であり、あなたが善であり、あなたがこの世界の何よりも美しく、そして、あなたが、一つの奇跡であるということは。結局のところ、この世界で、唯一信じるに足る本当のことなんですから。
「そう、あなたが……あなたが、あなたの運命に出会えたということだけが、あなたが唯一信じるに足る奇跡なんです。他のことは、全て、どうでもいい。他のことは、全て、嘘だ。あなたは今まで、何度も何度も見捨てられてきた。真実に、甘美に、正義に、そして、何よりも、愛に。けれども、もう……もう、二度と、見捨てられることはありません。なぜなら、あなたは、あなたの運命に出会えたのだから。良かったですね、運命は、あなたの運命だけは、あなたを見捨てない。そして、あなたは幸福になる。」
マコトは。
傷付いた。
少女の。
ような。
真昼は、信じられなかった。マコトがこのようなことを言うなんて。いや、マコトがこのような顔をするなんて。この表情は、まるで、まるで……MJLのようではないか。真昼が憧れた人。真昼が、心の底から尊敬していた人。希望であり、曙光であり、人類の星の時間である人。死んだはずの人。へらへらと笑うあの女によって、惨たらしく殺されたはずの人。
ああ、あなたは……本当にいたんですね。あなたは、本当にいたんだ。ただ、あたしが見ていなかっただけで。あたしが気が付くことが出来なかっただけで。あなたは、ずっと、ずっと、あたしと一緒にいたんだ。あたしが生まれてから、あたしが死ぬまで。あたし、あたし、あなたに会いたかった。あなたみたいに、本当に、本当に、あなたみたいになりたかった。
マコトは。
真昼を。
じっと。
見つめて。
「砂流原さん。ここだけの秘密ですよ。実は、私も、こういう人間になりたかったんです。誰かを愛したかった。希望を持ちたかった。正義というものを信じていたかった。この世界は、何よりも、何よりも、素晴らしい場所で。諦めさえしなければ、現実は、私のことを決して見捨てはしないと。そのように、心の底から、感じてみたかった。でも、無理だったんです。私には無理だったんですよ。まあ、環境とか、生まれてから経験したこととか、そういうものも関係しているかもしれませんがね。それよりも、たぶん生まれつきだと思います。生まれつき、私は、こういう人間ではなかったんです。そして、結局のところ、この頬の傷に相応しい人間になってしまった。それで全部お終いです。」
マコトは、そこまで言うと。
ふっと口を噤んでしまった。
真昼は、その言葉に対して、どう答えていいか分からなかった。ただ、それでも、一つだけ、分かったことがあった。分かったこと、というか、感じたこと、気が付いたこと、突然の啓示として、その心の中に、すとんと落ちてきたこと。それは、要するに、このような啓示だった。ああ、間違ってなかったんだ。全て、全て、何もかも、間違ってはいなかったんだ。心配することなんて何もない。この世界は完全に正しい場所で、生きるということは、とても、とても、素晴らしいことなんだ。何も、心配することなんてない。大丈夫なんだ。全部、大丈夫なんだ。
こうなってしまったのであれば。今まで自分が、なぜあれほどまでに絶望していたのかということは、真昼にはもう分からなかった。全てが遠い遠い世界の幻、とても遠いところから聞こえてくる、もう忘れてしまった声のようなものに過ぎなかった。真昼は、あの時の自分に、心の一欠片まで失ってしまった少女に、いってあげたかった。大丈夫、大丈夫だよ。この世界は善なる場所で、あたしは善なる生き物なんだ。だから、大丈夫なんだよ。
だって、ほら、あたしが憧れていたこの人は。
やっぱり、あたしが憧れていた人だったから。
そうして、暫くの間、マコトと真昼とは、ただただ黙ったままで。まるでほんの少し、ほんの僅かだけ、この世界から浮かび上がっていて。生まれてから今まで、一度も、世界に足を下ろしたことがない生き物のようにして見つめあっていたのだけれど。やがて……マコトが、ふっと、笑った。
いや。
笑ったというか。
左手を、左頬から。
ぱっと離したのだ。
そして。
あの傷が。
頬の傷が。
世界の全てを嘲笑うような傷が。
また、その姿を、現わして。
マコト。
ジュリアス。
ローンガンマン。
は。
へらへらと。
笑いながら。
こう、言う。
「なんてね。」
「あはは」と、いつものような穢らわしい声をして笑う。今まで、真昼の目の前にいた生き物、MJLのように見えたあの生き物の、その全てが他愛もない嘘だったとでもいうようにして笑う。それから、続ける。「冗談ですよ、冗談。まあ、まあ、私はこういう人間ですからね。生きるということに対して定言的明法のような希望は特にありませんよ。結局のところ、私は……あの人が望むものを演じているだけなんです。あの人が、私の運命ではないということがはっきりと明確化した今も。私は、いつまでもいつまでも、あの人のための、都合のいい生徒を演じている。確かに、私としては、それが本望というわけではありませんが……あはは、まあ、人生そんなものですよ」。
「さて、私のことなどどうでもいいことです。少なくとも、今はね。重要なのは、あなたについての話です。なぜなら、あなたが望もうと望むまいと、この物語の主人公はあなたなんですから」。そう言いながら、マコトは、くるっと真昼に背を向けた。それから、いつものような、役者じみた動作によって、真昼から離れていく方向へと歩いていく。
「いうまでもなく、これはなんの解決にもなっていません。私が申し上げた全てのこと。あなたが、あなたにとっての意味であるということ。それがどうしたっていうんですか? この世界が善なる場所で。現実というものが、常に完成へと向かう一つの進化の過程であったとして。そのことが、果たして何かを解決するか? もちろん、何も解決しない! 苦痛は相変わらず苦痛のままですし、悪は相変わらず悪のままです」。
「まあ、とはいえ、それでもこれは和解ではある。おめでとうございます! 砂流原さん! あなたは、また一人、あなた自身と和解することが出来た。そして、結局のところ、そのような和解こそがこの秘跡の全体の目的であるわけです」。
そんなことを言いながらきょろきょろと辺りを見回していた。視線は下の方に向けられていて、どうやら何かを探しているらしかった。そしてその何かはすぐに見つかったようだった。「あったあった」と呟きながらそちらへと歩いていく。
マコトが探していたものは……いうまでもなく、そのヴェールであった。マイトレーヤのヴェール。真昼と、マコトと、その二人以外に、この場所に、唯一あるもの。「要するに、今、あなたは、救いの御業へと至る道を一歩一歩歩いているということです。あなたがその身に受けた苦痛を、あなたが犯してしまった罪を、三人の象徴的人物に仮託して。それらの象徴的人物と和解を果たす。そうして、あなたは、あなた自身の罪に対して、あなた自身として許しを与えていく」。
マコトは、落ちていたヴェールを、ひょいっと拾い上げる。それから、真昼の方に振り返る。さほど離れた距離にいるわけではなかった。とはいえ、近過ぎるというわけでもない。ちょうどいい距離にいるマコトは、にーっと、ずっとずっと前に捨てられて、とうに野良猫になってしまった猫のような顔をして笑っていて。それから、また、口を開く。「さて、これで、あなたは二つの幸福と和解したことになる。まず一つ目が、マラーさんの姿に仮託されたところの、少女の無垢の幸福です。二つ目が、私の姿に仮託されたところの快楽主義者の幸福。あなたは、最後に、もう一つの幸福と和解しなければいけない。今までの二つよりも、ずっとずっと重要な幸福……少なくとも、あなたにとってはということですが……何よりも重要な幸福。つまり、善き生き方の幸福です」。
マコトは、何か、子供らしいような仕草によって。そのヴェールを、ケープか何かみたいにして、ふわりと背中に羽織った。それから、そのヴェールを、徐々に、徐々に、上の方へと上げていく。自分の肩から、自分の頭へと向かって……ちょうど、さっき、マラーがそうしたように。
「今から、あなたは、あなたが最も会いたいと思っている人、あなたが最も会いたくないと思っている人に会うでしょう。おやおや、砂流原さん! そんな顔をしないで下さい! 安心して下さい、大丈夫ですよ、あなたが救われることは、もう決まっているのですから。一つの運命としてね」。
「ああ、いけないいけない、私はまた、少し喋り過ぎてしまったようですね。結婚式のスピーチと、それに小説の中のキャラクターのモノローグは短ければ短い方が喜ばれるというのに。まだまだあなたとお話をしていたいところです、とはいえ、名残惜しいですが、そろそろお別れしなければいけないでしょう。なんにせよ……あなたの幸福をお祈りしていますよ。本当に、心の底からね」。
マコトは、もう、ヴェールを自分の頭の上まで引き上げていた。ヴェールの下から見えている顔が言葉を紡いでいるような状況で、後は、その手を放しさえすれば、マコトの姿はヴェールの下に消えてしまうだろう。そして、マコトが、真昼に別れの挨拶をして。その手を放そうとした瞬間に……ふっと、何かに気が付いたような顔をした。何か、聞き忘れていたことに思い当たったとでもいった表情だ。マコトは、軽く首を傾げた「そういえば、最後に一つだけお伺いしておきたいことがあるのですが」。頬の傷が、ひどく、面白そうに、笑っていて。「今度お会いした時、私は、あなたを、なんとお呼びすればよろしいですか?」
真昼は。
その問い掛けに。
迷うことなく。
こう、答える。
「砂流原……砂流原、真昼。」
マコトは。
それから。
それから。
ただ、笑って。
そして。
ぱっと。
その手を。
離す。
確率はまた拡散した。あらゆる確率が、一つの波動粒子のようにして、また、この世界の全てを満たしていく。もちろん、あらゆることがあり得るのだ。ただし、選ばれるものは、その中の一つの現実に過ぎないのだが。誰が選ぶのか? 観察者が。決定者が。つまり、真昼が。
マコト・ジュリアス・ローンガンマンは消えた。この世界で、最も邪悪な人間は。そして、最も悲しい人間は、真昼の目の前から跡形もなく消え去った。誰が、自分が邪悪であることを望むであろうか。誰だって、ヒーローになりたいのだ。誰だって愛されたいのだ。けれども、選ばれるのは、いつだって一人だけだ。そして、選ばれなかった人間は邪悪な人間であることしか出来ない。
マコトの言う通りだった。つまり、マラーもマコトも、真昼なのだ。真昼が、もしかしたらそうなっていたのかもしれない姿。真昼はマラーになっていたかもしれなかった。無垢な少女のままで死んでいったかもしれなかった。あるいはマコトであったかもしれなかった。本当に愛していた人から愛されることなく、ただただ空虚な、抜け殻のような人生を生きていたかもしれなかった。
マイトレーヤは、じっと、真昼のことを見下ろしていた。そこには誰の顔もなく、そこにはあらゆる存在の顔があった。それは、マラーかもしれない。マコトかもしれない。あるいは、他の誰かかもしれない。
けれども、その目の前にいる真昼は。他の誰でもなかった。真昼は真昼だった。他の誰でもない。他の、真昼でさえない。この真昼だった。この真昼として、絶対に決定していた。そして、それが、それこそがマコトが言っていたことだった。
真昼の胸の内側で。
心臓が笑っている。
とくん。
とくん。
優しく。
優しく。
真昼が真昼であるということ。
その何もかもを肯定している。
ずっとずっと、求めてきた。今の今まで。確かなものを。何か、確かなものを。それを、あたしは、いつも……あたしの外側に求めてきた。正義の人、正しく生きる、反骨の、不屈の、ヒーロー。あたしにとって、それは、不変のもののように見えた。だから、あたしは、あの女を、マコト・ジュリアス・ローンガンマンを崇拝していたのだ。
あたしは、だから、そのせいで、散乱した。あたしは拡散したのだ。この世界の、不確かな、ヒーローの物語に。あたしの存在は、あらゆる確率に拡散した。けれども、それらの全ては、それらの全ては、結局のところ可変的な何かに過ぎなかった。ヒーローは、現実の中で敗北する。そして、崩壊し、最後の最後には消滅するものでしかなかった。あたしは、少しずつ、少しずつ、死んでいったのだ。あたしはあたしではないものになっていった。あたしの意味は、あたしの意味ではないものになっていった。あたしは、あたしを喪失していった。
あたしは……ねえ、MJL。あたしは、もう、そんな愚かなことはしない。あたしは、あたしの運命を受け入れる。あたしは、もう、抗わない。あたしが悪であるということに抗うようなことはしない。なぜなら、それこそ、あたしが、ずっと、ずっと、求めてきたものなのだから。あたしの悪こそが、あたしにとっての、本当の善なんだ。あたしという確率が収束する。あたしはたった一つの運命に収束する。悪という運命に。絶対悪という運命に。あたしは、運命を……その救いを抱き締める。強く強く抱き締めて、もう二度と離したりはしない。
さようなら、MJL。
あたし、あなたみたいにはならない。
絶対に、あなたみたいにはならない。
あなたみたいに。
可哀そうな人には。
砂流原真昼は和解した。過去の自分のうちの、もう一人と。誰よりも愚かだった、誰よりも醜かった、誰よりも哀れだった、自分自身と和解した。これで、真昼は、二人の自分と和解したことになるわけだ。残る自分は一人だった。苦痛に満ちた世界の中で、この地獄の底で、この真昼のことを見上げている真昼は。罪、罪、罪。真昼が、その涙を贖わなければいけない最後の真昼。
真昼は、目の前に立っている「それ」の姿をじっと見ていた。もう目を逸らすつもりはなかった。受け入れよう。そこに現われる自分がどんな自分であったとしても。
そして、そして……「もし主が存在するのであれば全てが許されている」。そして、真昼は、真昼を許そう。一つの被造物として。主の前に立つ一人の被造物として。
使徒的人間。虚無的なもの。主は、その光と闇とを分けられた。主は光を善と名付け、闇を悪と名付けられた。人は苦痛に沈み、そして、また、幸福のうちに救われた。それが生命である。ああ……分かる。今なら分かる。悪もまた恩寵なのだ。悪もまた、主の救いの一つの形なのだ。
だから心配しないで。
大丈夫、怯えないで。
ねえ。
過去のあたし。
許しを求めて。
あたしの前に。
姿を現わして。
あたかも、そのような真昼の願いを聞き入れるかのようにして。いや、マイトレーヤ、あらゆる存在の絶対的幸福。まさに、そのような真昼の願いを聞き入れて。「それ」が、ゆっくりと、そのヴェールを、一つの身体から滑り落としていく。
確率が、この世界の全てであったはずの確率が。観察者の観察、その決定によって、たった一つの身体へと収束した、その姿。ヴェールの下から現われてくる。真昼が……真昼が、もう一度、本当に、もう一度だけでいい。心の底から会いたいと思っていた、その姿に。あるいは、もう二度と会いたくないと思っていた、その姿。真昼の罪そのもの、真昼の全ての悪の、最初の最初の罪そのものとしての姿に。
まず真昼の目に入ってきたのは。
その頭に生えた角、それらの角。
あたかも、鉛の冠のように。
あるいは、金の冠のように。
その終わりなき闘いの日々によって。
取り返しがつかないほどに穢されて。
それでも。
未だ。
力強く光輝いている。
デウス・ダイモニカスの。
四本の角。
聖なる生き物の白い肌。呼吸さえ止まってしまいそうな、完全な空白としての白い肌。その右の腕は、二の腕の真ん中からすっぱりと切断されている。惨たらしく、しかし、それでも、誇り高く。希望の朝を待ちわびている、星一つない闇夜にも似た色をした髪は、あたかも獰猛な獣のようにして、荒々しく切り裂かれていて。そして、その背後に、美しい、美しい、典礼の讃歌のようにして広げられているのは……孔雀の羽。
ああ。
真昼は。
思った。
ああ。
あたし。
この時が来るから。
消えてしまうことが出来なかったんだ。
あなたという存在と。
切り離されて、から。
あらゆる痛みをこの身に受け止めて。
あらゆる苦しみを杯から飲み干して。
あらゆる醜いものになってしまって。
死ぬことさえ、許されずに。
今、分かった。
そういったこと。
あらゆる受難の。
全部全部の理由。
贖罪。
変容。
その全てが。
この時のためだった。
あなたの。
前に。
また。
立つことになる。
この時のためだった。
何か、とても、とても、純粋な……証言のようなもの。ばたんという音を立てて、真昼自身が閉じたばかりの扉のようなもの。怒りでもなく、憎しみでもない。ましてやjudgementであるわけがない。そして、恐らくは、justiceでさえない。そのようなものが、完全な沈黙のうちに結晶化した宝石。それが、三つの目として真昼のことを見下ろしていた。
そう、三つの目だ。二つだけではなかった。その額の目、撃ち抜かれたはずの三つ目の目。その目が、真昼が覚えている通りの形、真昼が覚えている通りの色によって、真昼のことを見ていた。そう、完全であった、それは完全であった。「死」そのものを言葉として閉じ込めて、その弾丸によって撃ち抜かれたはずの目。焼き尽くされた灰となって、さらさらと跡形もなく消え去ったはずの目。それが、今、真昼のことを見ていたのだ。
ああ。
あなたは。
あたしが。
殺した。
人。
パンダーラ。
パンダーラ・ゴーヴィンダ。
この世界で。
最も善き人。
だった、人。
真昼は、真昼は……本来であれば、真昼は、跪くべきだったのだろう。パンダーラの足元に跪くべきだった。自らの責任を認め、自らの罪を告白して。そして、許しを請うべきだった。悔い改めるべきだった。「もう二度と!」「もう二度とあのようなことはしない!」、そう叫ぶべきだったのだ。
しかしながら、真昼はそうすることが出来なかった。なぜなら、これは悲劇ではなかったからだ。悲劇と呼ぶにはあまりにも巨大な罪を……いや、被害を。disasterを、真昼は引き起こしてしまっていた。もう、無理なのだ。それを悲劇のような形式によって定義することは。真昼が自らの罪として背負うことが出来るだけの被害の量と、真昼が真実において客観的にそれを作り出してしまった被害の量と。その二点間の距離は、あまりにも開き過ぎてしまっていた。もはや、真昼は、自らの罪を自らの罪と認めることさえ出来なくなってしまっていた。
真昼は、シータ・ゴーヴィンデーサという一つの王国を滅ぼした。真昼は、ミヒルル・メルフィスの完全な天国を滅ぼした。しかも、それは、他の何もののためでもなく、ただただ自らの欲望のために。それに――これが何よりも最悪なことなのだが――真昼は、その過程で、何一つ、自ら行なうということをしなかった。全く自らの手を汚すことなくそれをした。悪。そのような罪は、人間一人が背負えるようなものではないのだ。だから、これは、もはや裁きではなかった。
真昼が立っている場所は法廷ではなかった。なぜなら、ここで起こっていること、絶対的な現在形によってしか把握し得ないところの「今の時」は、法律上の出来事ではなかったからだ。真昼が犯してしまったそれは犯罪ではなく、もっといってしまえば、罪ではなかった。真昼は裁かれないという意味で、裁きによって裁き得ないという意味で完全な無罪であった。ただ、それでも、それは何かではあった。
「今の時」は……それは、救世主が来る前の、生命があるものの時間ではなかった。とはいえ、救世主が来た後の、世界が終わってしまった後であるというわけでもなかった。それは、つまり一瞬であった。救世主が、まさにこの世界に現われたところの、その現前の瞬間であったのだ。その時だけだ。その時に限って、この世界にあるあらゆる法廷が閉鎖される。あらゆる裁きは、あらゆる罪は、あらゆる罰は、延期される。救世主が来る前の時間に向かって。あるいは、救世主が来た後の、世界が終わった後の世界に向かって。律法はその効力を停止するのだ。だから、真昼は、その時において、ただただ剥き出しの生を生きている。
そう、真昼は人間と呼ばれるべき生き物ではなくなってしまっていた。というか、生き物でさえなかった。真昼は、その身に受けたあらゆる痛みによって捻じ曲げられ、その心にどろどろと纏わりついている苦しみという事実によって腐敗させられて。真昼という名前で呼ばれていたはずの真昼であったものではなくなってしまっていた。真昼の内側にあったはずの真昼は、もう、剥ぎ取られ、消えてなくなってしまっていた。真昼は、既にその生命さえ失ってしまっていたのだ。真昼は生きていなかった。とはいえ死んでいるというわけでもなかった。今の真昼は……あらゆるものを失って、それでも生き残っている、何かだった。
そう、今の真昼は。
残りのものだった。
真昼は裁判官ではなかった。真昼は検察官ではなかった。真昼は弁護人ではなかった。そして、真昼は罪人ではなかった。真昼は、その全てではなく……ただ、それが失われた後に残っている残りのものだった。つまり、証人だった。いうまでもなく、この場所は法廷ではない。それでも、真昼は、何かを証言する必要があった。何を? 何かを。それを語ることが出来ない何かを。真昼は、そのために、そのためだけに生き残ってきたのだ。死の後も、なお生き残ってきたのだ。
だから。
だから。
真昼は。
今という。
この瞬間に。
動くことが。
出来なかったのだ。
跪くことが出来なかった。それどころか、パンダーラの、その三つ目の目から視線を逸らすことさえ出来なかった。真昼の罪の、いや、罪でさえないところの何かの象徴。
これは悲劇ではない。だから、大袈裟な身振り、芝居じみた慟哭によって、何かが変わるというわけではない。仮に、真昼が、そのような行為によって何かを変えようとすれば。そのようなことをすれば、この奇跡的な瞬間の全ては瞬く間に消えて失せるだろう。それは、完全なる失敗に終わるだろう。それは、明らかに……真昼が……真昼の……証言する能力の、欠損という結果に終わる。しかし、真昼は扉を閉めた後なのだ。
繰り返し、繰り返し、真昼は、この場に立っていた。この瞬間、つまり世界が救われるその直前の瞬間は、その瞬間を生きる者にとっては永遠だった。この瞬間は永遠に回帰する。何度も、何度も。そして、真昼は、いつもパンダーラの目の前に立っている。自らが証言するはずの証言の目の前に。自らが証言し得ない証言の目の前に。
ここは裁判所ではない。
ここは、アルシーヴだ。
真昼は生き残った。
変わり果てて。
処刑。
首を刎ねられて。
死んで、さえも。
なお。
真昼は。
生き残った。
証言するために。
決して証言し得ないものを。
残りのものとして。
証言する、ために。
真昼は、ただ立っていた。馬鹿のように、阿呆のように、白痴よりも白痴のように。あらゆる人間らしい感覚を、痛みを、苦しみを、絶望さえも失った、人間ではないもののように。なぜ真昼は動けなかったのか? 真昼は動くということを知らなかったからだ。動くということが何か、真昼には理解出来なかった。今の真昼が知っていること、理解出来ることは、たった一つだけだった。それは、「本来はこうあるべきではなかった」ということだ。
確かに、その通りだ。「本来はこうあるべきではなかった」、けだし名言である。それは、人間の、最も原初的な感覚であり、最も根源的な感覚である。それは、あたかも恐怖のようなものだった。恐怖よりも恐怖らしい恐怖だ。理性というものが、それを律法によって分析した。それは律法のカテゴリーによって範疇化された。あるものは罪となり、あるものは罰となり、裁きとなり責任となった。だが、真昼が感じているそれはそのような理性的なものではなかった。ただただ、決して正当化出来ないものだ。決して贖罪出来ないものだ。なぜなら、真昼は、無罪だからだ。
真昼は。
真昼は。
しかし。
どうすればいいのか。
どうしようもないものを。
一体どうすればいいのか。
真昼は。
口を開いた。
口を閉じて。
そして、また、口を開いた。
それから。
こう言う。
「ごめんなさい。」
悲劇的ではなく。
謝罪でさえなく。
まるで。
ただ単に。
事実を。
述べる。
ように。
「生き残ってしまって、ごめんなさい。」
さて、一方のパンダーラは。そのような、真昼の、贖罪でさえない贖罪、告白でさえない告白、ただ単なるホスチア。トラヴィールによって焼かれたために、永遠にこの世から失われたカトゥルンの言葉の、その灰のような言葉に対して。ただ、静かに、静かに、目を閉じた。
ゆっくりゆっくりと首を横に振る。右に、左に、左右に。絶対的な否定の意味を込めて、首を横に振る。「砂流原真昼」「私は、お前に言ったはずだ」「恥じるな」。一度、二度、首を振って。また、目を開いた。じっと、真昼のことを見下ろしている。睨んでいるわけではない。憐れんでいるわけでもない。ただ、事実として、その視線を真昼に向けている。それから、また、口を開く「立て」「胸を張れ」「そして、黙って見据えていろ」。
立てということの意味……それは、自分の足で立てということだった。そして、見据えるべきなのは、自分の運命だった。ただ、真昼には、もう、どうすればそのようなことが出来るのかが分からなかった。なぜなら、真昼は、決して自らの足では立ち得ないものだからだ。決して自らの運命を自らの目によって見据えることが出来ないものだからだ。真昼は、至福の生を生きているわけではない。真昼は、そのような生を想像することさえ出来ない。なぜなら、真昼の永遠は回帰するからだ。何度も何度も、真昼は、絶対に引き受けることが出来ない被害が起こったその瞬間を生き続けている。そうすることしか出来ないのだ。なぜなら、真昼は、生き残ってしまったからだ。
「あたしは」、そこで、真昼は、また口を閉ざしてしまった。人間のあらゆる言葉は舞台上で発せられる台詞に過ぎない。そうであるとするならば、これが裁判ではなく、これが悲劇でさえないという以上、真昼が発するべき言葉は何もないはずだった。真昼は、決して何も話すことが出来ないものであるはずだった。
しかしながら、それでも、真昼は話さなければいけなかった。なぜなら、真昼は……真昼は……そうしなければいけないからだ。そうすることを絶対的な命令として命じられているから。召命されているから。真昼は、無限回という回数、ここに召命されているのだ。唯一の証言者として。裁きの場ではないこの場所に。
なぜ真昼は話さなくてはいけないのか。なぜなら、話さなければ、それは失われてしまうからだ。失われてしまって、二度ともとには戻らないからだ。実は、それでも構わないのだ……少なくとも、世界にとっては。だが、真昼にとっては、そうであるわけにはいかなかった。なぜなら、真昼は、真昼は、見捨てられたくないからだ。この世界において、たった一人、誰からも顧みられず、誰からも掬い上げられることのない人間であるということに耐えられないからだ。
せめて、これが罪であれば。
まだ償うことができるのに。
真昼は。
ただ。
ただ。
何か。
決して。
逃れられないものの。
ゆえに。
話し始める。
「あたしは、あなたを殺しました。」
言葉がこれほど白々しく響くことがあるということを真昼は知らなかった。全ての言葉の、現実に対する耐えられないほどの軽さというものを真昼は初めて知った。この世界の、あらゆる詩は、生ぬるい血みどろに頭まで浸かって何も見えなくなった愚か者の自己陶酔に過ぎない。あらゆる小説は甘ったれた子供の傲慢なのだ。だが、それでも、真昼は話さなければいけなかった。なぜなら、真昼が立っているこの世界は、トゥシタは、真昼にとって都合のいい一つの物語でしかなく……そして、主人公であるところの真昼が何か話さない限り、物語は進まないからだ。
「あたしは、あなたを殺した。でも、あたしは、そのことについて謝ることが出来ない。どうしても、出来ないんです。それはなぜかといえば、もしも、あたしが、ここで、今、あなたに謝ったとしても、それは、あたしがまた罪を重ねるということに過ぎないからです。あたしが謝るということで、あなたに何か償うことが出来ますか? そうだったら、そうだったら……どんなによかっただろう。でも、実際は、あたしが謝ったとしても、それは、あたしの愚かさを、あたしの浅はかさを、あたしの醜さを、曝け出すということに過ぎません。あたしは、結局のところ、あなたに許して欲しいだけなんです。
「もちろん、あたしは罪の意識を感じています。あたしは、自分が悪いことをしたという自覚がある。でも、それがどうしたっていうんです? あたしがしたこと、あたしがしてしまったことに比べて、一体、その罪の意識というものがなんの役に立つというんですか? あたしに分かるのはこのことだけです。あたしは、それをするべきではなかった。しかし、それをしてしまった。そうだとするならば、それは、もう二度と取り返しがつかないことだ。そういう意味で言うならば、あたしは罪を犯したというわけでもないんだと思います。あたしは、ただ……災害だった。一つの、とても、とても、悪い災害だった。」
真昼は、そこで一度言葉を止めた。そして、縋りつくようにしてパンダーラの方を見た。真昼は何かが起こることを望んでいた。例えば、空から苦い光を放つ星が降ってきて、この世界の全ての取り返しがつかない事物を洗い流してしまうようなことが。そういう取り返しがつかない事物の中で、最も取り返しがつかないことは、真昼自身が生まれてしまったことだ。
しかし、パンダーラは、何かを答えるようなことをしなかった。ただ、じっと、真昼のことを見つめているだけで。そのようにして見つめられていると……真昼は、また、衝動を感じた。つまり、話さなければいけないという衝動を。証言不可能なことについて証言しなければいけないという衝動を。
勘違いしてはいけない。それは、決して、被害を受けた者のための証言であってはいけないのだ。いうまでもなく、被害者は証言不可能な者ではない。被害者は、常に、絶え間なく証言している。その傷跡によって。その死体によって。被害者は証言する。美しく、威厳に満ち、悲劇的で、物静かに……しかし、口を閉ざすことなく。被害者は証言し続ける。
決して、絶対に、証言することが出来ない者とは。つまりは加害者のことだ。なぜなら、あらゆる生き物が加害者に対しては耳を塞いでしまうからだ。加害者の証言は、結局のところ誰も聞かない証言なのだ。だから、真昼は、加害者のために証言しなくてはいけないのだ。
「あたしは、不思議に思っていたんです。ずっとずっと不思議に思っていた。何か、とても残酷なこと、とても悪いことをする人達のことが。なぜそんなことをするのかということが、どうしても理解出来なかった。例えば、ただ、見た目が自分と違っているから、肌の色でも人種でも、あるいは性別でもいいですけど、そういう理由で、そういう違っている人達のことを、まるで奴隷みたいにして扱う人達のことが。そういう違っている人達のことを、収容所に入れて、殴り、蹴り、嘲笑い、唾を吐きかけ、そして、最後には餓死させるような人達のことが。
「でも、今なら分かります。そういう人達が、一体、どういう人達なのかということが。そういう人達は、悪い人達だったんです。暴力的な、他人を愛することが出来ない、人を人とも思わないような、生命の素晴らしさというものを決して理解することが出来ない、頭のおかしい異常者だったんです。そして、なぜあたしがそのことを知ったのかといえば、結局、あたしも、やっぱり、悪い人だったからです。
「今なら分かる。今なら分かります。全部全部分かるんです。あらゆる本で、あらゆる言葉で、悪い人のことを口を極めて罵る人達。軽蔑し切ったような口調で、悪い人のことを皮肉げに話す人達。そういう人達は怖くないんでしょうか? もしかして、自分が、悪い人なのかもしれないのかということが。
「そういう人達は、言葉ではなんていっていたとしても、本当は、本当の本当は、自分と、悪い人とは、全く違う生き物だと思っている。そういう悪は他人事で、自分は、絶対に悪いことをしないと思っている。だから自分には悪い人を裁く権利があると思ってる。言葉では、言葉ではなんていっていても。
「結局、そういう悪い人について書かれた全ての本は、自分は正しい人だと、そういっているだけなんです。どこか安全な場所で……快適な書斎で。暖かい暖炉、柔らかい絹の洋服、それに、机の上には、どこかの可哀そうな少女の写真が入った写真立てなんかを置いて。自分とは全く種類が違う、気が狂った怪物のことを、断罪しているだけなんです。でも、実は、そんなことが出来るわけがないんです。なぜなら、その気が狂った怪物と、それから自分とは、少しも違わない姿をした生き物だから。本当は、あたしは、その怪物だったんです。あたしが怪物ではないように見えたのは……つまり、ぬくぬくとした書斎にいたからなんです。ただ、それだけの理由だったんです。
「今なら分かります、分かるんです。悪い人のことを、白々しい言葉によって責め立てていた人達よりも、収容所の職員の方がずっとずっとまともな生き物だったということが。だって、そういう職員は、少なくとも恥じらいを感じていたんです。自分が取り返しのつかないことをしてしまったということを知っていた。もちろん、それを言葉にしてはいませんでした。だって、それは言葉に出来ないことだから。全ての言葉は罪を償うのには十分ではないから。あまりにも軽過ぎるから。
「でも、自分が正しい人間だと思っていた人は……つまり、あたしは、恥じていなかった。どこまでもどこまでも恥知らずだったんです。あたしは、収容所の職員を見て、自分がこれほどの悪をしてしまったのだということを恥じもしなかった。ましてや恐れることなどあり得なかった。
「本当は、あたしは恐れるべきだったんです。自分が悪い人であるということを。あれほどまでに傲慢に、なんの考えもなしに、他人のせいにしてはいけなかった。むしろ恐れるべきだった。自分が収容所の職員であるということを。自分が、これほど残酷な悪をなしてしまったことを。
「常に……悪だけが問題だったんです。しかも、自分がなしてしまったその悪だけが問題だったんです。あたしが、あなたを殺してしまったということが問題だったんです。世界の始まった時から、世界が終わるその時まで。あたしがあなたを殺してしまったということだけが、本当に、本当の、悪だったんです。
「あたしは……ねえ……教えて下さい……あたしは、どうすればいいんですか。どうすれば、これをなかったことに出来るんですか。パンダーラさん、あたし、初めて分かりました。あなたを殺して、初めて分かったんです。謝ったりだとか、許したりだとか、そういった全てのことは、なんの役にも立たない出来損ないに過ぎないって。出来損ないの出来事に過ぎないって。だって、そうでしょう? そうじゃないですか? あたしが謝って、あなたが許して。それで、何が変わるっていうんですか。あなたは死んでしまった、あなたはもう二度と生き返らない。あたしは……あたしはあなたを殺したくなかった! あなたを殺したくなかったんです! あなたに、死んで欲しくなかったんです……だって、あなたは……あなたは、死んではいけない人だったから……絶対に、死んではいけない人だったから……教えて下さい、お願いです。お願いします。どうすれば、あなたが死ななかったことになるんですか。どうすれば、あたしが、あなたを、殺さなかったことになるんですか。あたし、なんでもします、本当になんでもします。手でも、足でも、眼球でも、好きなものを差し上げます。生きたまま脊髄を引き抜いてくれても構いません。あなたの代わりに殺されます。あたしを撃ち抜いて下さい。あたしの頭蓋骨を撃ち抜いて下さい。罵り、蔑み、嘲笑い、死骸に唾を吐きかけて下さい。餓死します。何も食べず、何も飲まず、衰弱して、それでも死ぬに死に切れず、ただただ呻き声を上げながらそこに横たわっています。やがて雪が降ってきて、あたしの体を凍えさせるでしょう。あたしは排泄物を垂れ流します。あたしは殴られ、蹴られ、そして、自分が誰かということさえも分からなくなって、何も見ていない虚ろな目であなたのことを見ながら死んでいきます。ねえ、パンダーラさん。そうすれば、あなたは死ななかったことになりますか? あたしが、あなたを殺さなかったことになりますか? あたしは……あたしは……あたしは、生まれるべきではなかった。」
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