第三部パラダイス #33

 マコトは、今度は。

 自分が座っていた椅子のところまでやってくる。

 その椅子のすぐ左側に立って。

 右の手を背凭れの上に置いて。

 一方で、左の手は、軽く、顔の横まで上げて。

 いかにもお手上げとでもいわんばかりの態度。

 ぱっと、開いて見せる。

 そうして。

 その後で。

 話を続ける。

「と、このようなことを申し上げますと――あはは、思想というものは雑草と同じでしてね、抜いても抜いてもまた生えてくるといいますか、いくら根刮ぎにしたと思ってもまた性懲りもなく別の思想が自己主張を始めるものなのですが――ここで、また、一つの思想がその姿を現わしてくることになるわけです。つまり、生命否定に連なる種々雑多な思想の系譜ですね。このたぐいの思想は、私個人の意見としましては、思想の中でも最も人間至上主義的な、最低最悪の思想であるように思えるわけですが、まあそれはそれとして、最後の最後に、この思想について見ていってみましょう。

「生命否定というものには、本当にうんざりするというかなんというか、数え切れないほどの種類があるわけですけれど、ただ、まあ、ほとんど似たようなものですし、そこまで細かい違いについて色々と考えていっても意味がないので、大雑把に二種類に分けて考えていきたいと思います。まず一つ目が積極的生命否定、もう一つが消極的生命否定ですね。

「まずは積極的生命否定ですが、これは、その名の通り、生命というものを積極的に否定していこうとする思想のことですね。具体的に言いますと、例えば反出生主義のような思想のことです。まあ、まあ、一時期、ファッション的な大流行をしたので砂流原さんもご存じのことと思われますが、こんな感じの思想です。人間存在の問題を根本から解決するためには、人間存在そのものをこの世界から消し去ってしまうしか方法はない、だから、人間はそもそも生まれてくるべきではなく、人間が人間を誕生させることについては、そのあらゆる方法において禁止しなければいけない。

「他にも、もっと過激なものになると、生まれることだけでなく生きていることさえも否定されるべきことなのだから、人間は、この世界を一瞬にしてなんの苦痛もなしに消滅させる兵器の開発のみに人間存在そのものを捧げるべきだという思想や、消滅の際の一瞬の苦痛の方が存在し続けることによってこうむるであろう苦痛の総量よりも遥かに小さいと想定されるのであるからして、今、まさに今、あらゆる兵器を利用して人間を殲滅し尽くしてしまうべきだという思想もありますね。

「さて、このような思想は二つのレベルで間違っています。まずは集団的なレベルで間違っていて、更に個人的なレベルにおいても間違っている。集団的なレベルで間違っているとはどういうことなのかというとですね……仮に、仮にですよ。こういう思想のベースライン、つまり、人間が生まれてきたことも生きていることも絶対的な悪であるという前提が正しいものであるとします。まあ、この前提からして間違っているのですが、それはともかくとして、そうであるとすれば、それを積極的に否定していくということは、つまり、生命そのものをその悪から解放するということになるわけですよね。人間が、そのようなことをすることが出来る時に、初めてこの思想は有効性を持ち得る。

「しかしながらですよ、しかしながら、人間はそんなことが出来るわけがないんです。人間が、なんらかの行為によって、生命という終わりなき輪廻から人間存在そのものを救い出せるはずがない。なぜか分かりますか? 人間は、生命を操作出来るほどの力を持った生き物ではないからです。そもそもですね、人間ごとき愚昧の輩がですよ、生まれるか生まれないかということの選択を出来ると考えること自体が異常なんです。

「ちょっとまあ、もしもまともな頭というものをお持ちであるならば、そのまともな頭で考えて欲しいんですけどね。人間存在は、この世界は善なる場所であり、生まれるということも生きるということも素晴らしいことであるから、そのような素晴らしいことをなそうとして、まさに人間が人間として、自覚的に発生したんですか? 全然そんなことはないでしょう! 人間は、なんだかよく分からないうちに、いつの間にか発生していたんですよ!

「つまりね、何が言いたいのかといえば、仮に、私達が、なんらかの兵器を使って、人間を、あるいは、現在という時間においてこの世界にいるあらゆる生命を、滅ぼすことが出来たとしても。どうせまた新しい生命が発生してくるに決まってるんですよ。そんなこと、当たり前の話でしょう。この世界は、どのようにしても滅ぼすことが出来ない、確率というもので満ち満ちているんです。そして、無限の空間の中で、永遠の時間の中で、いずれは、その確率は、生命を生み出してしまうんです。

「勘違いしているんですよ、積極的生命否定を主張なさっている方々は。人間が何か素晴らしい存在で、生命というものを不可逆的に破壊しうるほどに全知全能であると勘違いしている。けれどもね、そんなわけがないんですよ。何もかも、この世界で起こること起こらないこと、その何もかもが人間の支配の及ばぬところのものであり、世界というものは人間的な人間性の次元とは全く別の次元で動いているのであるし、生命というものも、人間が全くあずかり知らぬところで生まれてくるんです。

「そうであるならばですよ。人間は、生命というものを、もう二度と生まれてはこない形で滅ぼし尽くすことが出来ないというのであるならば。現在時点における生命の殲滅は、ただただ不幸の総量を増やすだけに過ぎないんですよ! 例えばですよ、例えば、その凄まじい爆発によって、人間の脳が苦痛を感じるよりも素早く生命を破壊することが出来る爆弾によって人類を皆殺しに出来たとしましょう。それでも、やはり、不幸の総量は増加するんです。なぜなら、人間は、それがどのような人間であっても、辺縁系のレベルでは、つまり最も原始的な本能のレベルでは、生命を維持することを望んでいるからです。

「これは非常に勘違いされやすいことなんですけどね、人間の思考、感覚、なんでもいいですが、そういった神経系の活動は、一つに統一されたまとまりのあるものではないんですよ。中枢神経の部位と部位とで全く異なった思考、感覚、そういうものが働いているんです。つまり、新皮質のような比較的新しい部分で何を考えていたとしても、辺縁系のような部分は全く別のことを感じているということはしょっちゅうあることなんです。そうである限りは、ですよ。新皮質における人間存在のいうことだけを聞いて人類を滅亡させるということは、辺縁系における人間存在のことを全く無視して、いわば暴政的に死を押し付けていることになるんです。そんなのはね、殺人なんですよ殺人。仮に自分では自殺だと思っていても、それは自殺ではないんです。そして、無理やり殺された辺縁系の不幸がこの世界に積み重なることになるんです。

「子供を産まないということもね、やはり同じなんですよ、同じように新皮質の暴政なんです。だって、辺縁系のレベルでは、子供を作る諸々の行為をしたいに決まってるわけですし、子供自体も欲しいに決まっているんですから。子供を持たないということ自体が既に不幸なんです。つまりね、集団的に見れば、現在というこの時間における生命を殲滅することには欠片の意味もなく、そのような殲滅の過程でただただ悪戯に不幸を増やしていくだけだということなんです。

「一方で、個人的なレベルでこの主張について見ていってみましょう。いうまでもなく、ここでいうところの個人的なレベルというのは、辺縁系における人間存在さえも排除したところの新皮質的な人間存在ということです。純粋に、死を望んでいる人間に死を与えることが正しいことであるのか。いうまでもなく、これもまた正しいことではないんです。なぜというに、この世界には死を望んでいない人間がいるからです。

「えーとですね、これは何を言っているのかということが分かりにくいかもしれないんですけれど、要するにですね、この世界に死を望んでいない人間、生きるということに幸福を感じていて、死にたくないと思っている人間がいるということは、つまるところ、死を望むというその願望は、人間存在そのものから自然的に導き出されるところの願望ではないということを意味しているんです。ある人間が死を望んでいるのは、生きるということそのものを拒否しているわけではない。その人間が生きていく中で、たまたま起こってしまったところの、生に対しては付随的に過ぎない苦痛、不幸、そういったものを拒否しているというだけの話なんです。

「そうであるならばですよ、生命を終わらせるということの個人的な意味は、良くて次善の策でしかなく、悪くすればなんの解決にもなっていない現実逃避に過ぎないことになるんです。現実というものを無理やり捻じ曲げて理解してしまったために、間違った方法でなんとかしようとして、結局のところ取り返しのつかないことをしてしまったと、そういうものである可能性がかなり高い。

「例えばですよ、例えば……まあ、砂流原さんが月光国の方なので、月光国でよくあるパターンを考えていきましょうか。両親ともに非熟練労働者であるため、共働きであるにも拘わらずまともな生活収入を得られていないという貧困家庭に生まれてしまったパターンです。両親ともに生活に余裕がないために、子供に対して理想的な親として振る舞うことなど出来るはずもなく、ただただ職場での憂さを晴らすかのような態度で接する。教育の名のもとに怒鳴られ殴られ蹴られて、一方で、普段は恐ろしいほどの無関心。掃除なんて滅多にされない家の中、食事は出来合いの物が食べられればいい方という生活を送る毎日。

「遺伝からいっても環境からいってもさほどの向上は望めないのだから、高校卒業で地方公務員か何かを目指しておけばいいものの、学歴コンプレックスを持つ両親から大学受験を強いられて、幾つか受験してみる。けれども、やはり三流の私立大学しか合格出来ない。本当は国公立大学に入学したかったのだが、浪人などしている余裕はなく、奨学金という名の借金を背負いながらも大学を卒業。しかしながら、そんな三流大学ではまともな職に就けるはずもなく、やっとのことで手に入れた職は不安定な非正規雇用。経験を積むことも出来ないし、専門的な技術も手に入れられないし、結局は両親と同じような非熟練労働者になってしまった。

「職場は非熟練労働者を低賃金で使い潰すことで利益を上げていくタイプの企業であり、同僚は皆が皆ストレスで磨り潰されそうな顔をしている。人間らしい交流など望むべくもなく、それどころか、上司に至っては、そのようなストレスを部下にぶつけているかのように理不尽な要求ばかり突きつけてくる。その要求に応えられなければいうまでもなく怒鳴りつけられるが、例え応えられたとしても感謝されることはなく、それどころか一層苛烈な要求をされるだけである。会社に泊まり込みは当たり前、休日出勤は当たり前、そこまでして働いて手に入る賃金は、家賃・水道光熱費・食費・税金・保険料、そして奨学金の返済でほとんどがなくなってしまう。いうまでもなく結婚なんて出来るような状態ではないし、それ以前の問題として、そもそも恋人を作るような時間的余裕も金銭的余裕もない。仕事をしているか寝ているか、しかも寝ることさえもままならない毎日を送っている。これではもう、なんのために生きているか分からない。

「大体のところ、こんな感じですかね。ここに友人関係の希薄さだとか、親の介護だとか、それから遺伝的に担保された不安障害の傾向だとか、そういうのをお好みで追加して頂いてもいいのですが、とにかくこのような状況であるならば、生命を維持し続けるよりもそれを終わらせてしまった方がいいだろうと、積極的生命否定を主張される方々はそうおっしゃるわけですよ。

「確かにですね、そりゃあ、このような生活を送っていらっしゃる方が幸福ではないだろうということは認めますよ。だからといってですね、なんで死んだ方がマシだという話になるんですか! あのですね、こんなもんはね、たったの数日で幸福になることが出来るような不幸さに過ぎないんですよ。いいですか、まず給料を受け取った日に会社を辞めます。貰った給料で切れ味のいい包丁を購入します。上司だった人間の通勤ルートのうち、人気がない場所を選んで待ち伏せをして、上司を殺します。財布の中から金品を抜き取ります。実家に帰り両親を殺し、やはり家の中にある金目の物を残らず手に入れます。後は、手に入れた金で遊び惚ければいいだけの話なんですよ。

「まあ、まあ、これはあくまでもベースラインであって、例えば警察に見つからないように色々と工夫をするのも悪くないでしょう。死体を見つかりにくいところに隠すだとか、整形をするだとか、死体を発見するであろう警察本部が管轄する地域から離れたところに行くだとか、そういうことですね。あとは、こういう会社は金の管理も甘いでしょうから、総務部と色々仲良くしておいて金の在り処を突き止めて、それを引っ張り出してくるというのも幸福にとって効果的かもしれません。とにかく、こうすれば、不幸なんてものはいくらでも抜け出すことが出来るんですよ。

「つまりですね、私が何を申し上げたいのかと言いますと。こんなに不幸ならば自殺した方がマシだという考え方は、社会的な一般常識なるものによって去勢されたところの哀れな哀れな羊、先生に褒められることだけが唯一の幸福であると考える品行方正な優等生の考え方に過ぎないということなんですよ。実際は、幸せになる方法なんていくらでもあるんです。警察に捕まるかもしれない? いいじゃないですか、別に! 少なくとも今よりはマシでしょうよ! 自殺するくらいならね、社会を壊した方がよっぽど楽しいし、幸せになれるんです。

「飢饉のせいで食べる物がないなら近くにいるやつを殺して食えばいいし、不治の病にかかってしまったなら薬品企業に無差別テロを仕掛けて薬を作らせればいいんですよ。そういうもんでしょう、人生って。本来はそういうものなんですよ。そういうものだと思えないのだとしたら、あなたの頭がおかしいだけなんです。一般常識なるものに洗脳されて人間は本来どう生きるべきなのかということさえまともに考えられなくなっているだけなんです。結局、個人的なレベルで見た場合、積極的生命否定というものは、手も足も良識に捉われて思想の身動きが取れなくなってしまった全体主義体制側の良識護持者が、この社会を破壊するくらいなら、社会にとってなんの役にも立たないお前のようなやつは死んでしまえと、暗にこう主張しているに過ぎないんですよ。

「さて、積極的生命否定に関してはこれくらいでいいでしょう。そもそも、積極的生命否定は生命否定のうちでも中途半端な思想なので、それほど細かく反論していくにも値しないようなものに過ぎませんからね。ということで、次は消極的生命否定について考えていってみましょう。

「この消極的生命否定という思想は、積極的生命否定とは異なり、現実において生命を否定していくような積極的な行動をとることはありません。あるいは、何か、生命を否定していくことに関わる一定の態度をとるというわけでもない。世界に対してなんらかの影響を与えようという発想自体が欠けているため、そもそも思想と呼んでいいのかも怪しいところですが……ただただ「この世界において生命としてあるということはそれ自体で害悪なのだ」という確信と共に生きていくというだけの、生き方それ自体です。

「実は、この思想は更に二つのパターンに分けることが出来ます。まず最初のパターンは「この世界に生まれるということは常に害悪であるが生き続けるということは常に害悪であるわけではない」というパターンですね。こちらのパターンは……あはは、検討するにも値しないほど愚かな思想であるとしかいいようがないですね。まあ、とはいえ、一応は検討していきましょうか。まず、大前提として、人は皆いずれ死ぬわけです。ということは、生まれてしまった以上、自殺するということそのものには、なんのマイナス的な価値もないということです。なぜならそれは不可避のものなのであるからして、それがいつ起こるかというだけの問題だからです。

「いや、更に踏み込んでいうならばですよ。死ぬということだけを考えるならば、今死ぬということの方が、後で死ぬということよりも、どう考えてもマシなんですね。なぜというに、以前も申し上げたことですが、人間には定常安定化欲求というものがあるからです。つまり、その状態であることが長く続けば長く続くほど、その状態から離れるということが苦痛をもたらしてしまうようになる。まあ、大切な人が出来るとは限らないわけであって、大切な人との別れがつらくなるなんて話はしませんし、現世での栄光を手に入れられるかも分からないわけであるからして、そのような話をするつもりもありませんがね。そういうのを抜きにしても、人間の本能からして、長く生きれば生きるほどに死ぬということ自体がもたらす苦痛は大きくなるわけです。

「ということは、生き続けるということと自殺するということとの質的差異は、死そのものに求めることは出来ないということになるんですよ。少なくとも、生き続けることを肯定的に評価するためにはね。ということは、非常に純粋な形で、世界の中で生命を維持するということが、世界から消滅してしまうことよりも、肯定的な意味を持つということを認めない限り、このパターンの思想を持つことは出来なくなるんです。

「つまり、このパターンにおいては、生命を維持することそれ自体は否定されていなんです。それでは、どういう場合に、生命を維持することが否定されるようになるのか。それは、生命が害悪であるという場合です。そう、そうなんですよ、このパターンにおいては、生命はそれ自体として害悪ではないんです! 生命の外部に害悪があって、生命が害悪であるかどうかは、その生命の外部にある害悪によって決定されるんです! ということはですよ、このパターンにおいては、もう生命否定そのものが成り立たなくなってるんですよ。

「そして、先ほど議論したように、生命の外部にある害悪というものは、よほど特殊な例外を除けばいかようにも排除しうるものなんです。ただただ良識なるものを絶対視している場合にのみ、それから逃れることが出来なくなる。そうであるとすれば、このような説はもう生命を害悪と認めることは出来ないんですよ! このパターンの思想がいっているのは、生命そのものが害悪であるという話ではない。その生命が所属している社会が害悪であると、ただただそういっているだけなんです。

「つまりね、このパターンの消極的生命否定もやはり良識の前に拝跪している、世間一般でそうであると認められているところのなんの根拠もない良識を無条件に認めているだけの思想に過ぎないんですよ。その良識とは、いうまでもなく自殺してはいけないという良識です。その良識をなんとか破壊しないために、色々な理屈をこねくり回しているだけなんです。いいですか、もしも生命が害悪だと主張したいのであれば、生まれることだけではなく、生き続けることもやはり否定しなくてはいけないんですよ。

「さて、そのようなわけで、生命否定の最後のパターンを見ていきましょう。消極的生命否定のうち、「生まれることも生き続けるということも常に害悪である」というパターンです。あはは、変に人間の行為の価値を認めようとする積極的生命否定だとか、言い訳がましくかつ未練がましい消極的生命否定のもう一方のパターンよりも、議論が原理的にすっきりしていて好感が持てますね。とはいえ、この説もやはり人間至上主義的な考え方がその根底にあるということは間違いないことです。

「まずですね、この説の最も人間至上主義的なところは、ここでいう害悪のうちに他者に対する責任なるものを含んでいるということです。つまり、このパターンにおいては、今ここにいるこの私自身の行為が、時間的に、空間的に、異なったどこかにいる、私とは全然関係のない他者――まあ関係のある他者でもいいんですが――に対して悪影響を及ぼしてしまう可能性があると、そういうことさえもこの私が生命としてあることの害悪に含んでしまっているんですね。

「いうまでもないことですが、これほど人間至上主義的な考え方もないわけですよ。関係知性に特有な、いわば知性の構造についてのある種のエラーでしかないものを非常に普遍的な世界原理であるかのように錯誤しているということ。こんな考え方は、人間的な考え方を、人間性なるものを絶対視する人間至上主義の誤謬に過ぎないわけです。何度も何度も申し上げていることですが、孤立捕食種が他者の犠牲を気にしますか? あるいは、全くなんの思考能力もない単細胞生物が、たまたま人間よりも巨大になって、そして人間を食い殺したとしましょう。その単細胞生物が罪悪感を抱きますか? 抱かないでしょう? 他者に悪影響を及ぼすということは、どう考えてもこの私にとっての害悪ではないんです。

「そうであるならば、いうまでもなく、生命がこの私にとって害悪であるということを主張するためには、まさにこの私が生命によって害悪を受けるということを証明しなければいけないわけです。そして、このパターンは、そのことの証明についても完全に失敗している。

「最初に考えていかなければいけないことは何かといえば、そもそも害悪とは何かということです。それはなぜあるのか。なぜ人間は苦痛を覚えるのか。なぜ恐怖を覚えるのか、なぜ不安を覚えるのか。それは、いうまでもなく、人間には自己保存の本能があるからです。苦痛にせよ恐怖にせよ不安にせよ、そもそもの話として、人間が、自己の生命を奪われることに対する防御機構として発展させたものであるわけです。つまりですね、害悪なるものは、それがそれとしてあるというものではなく、あくまでもなんらかの原因があって、それによって結果として起こるものでしかないということなんです。ということはですよ、害悪というものは、何か形而上学的な意味を持つ超越的な力の発露のようなものではなく、あくまでも一定の条件下において発生する自然学的な現象に過ぎないんです。いい換えれば、世界における本質的な現象などではなく、あくまでも付帯的な、シンベベーコスな現象に過ぎないということになるわけです。

「その証拠として、人間的な意味における害悪は、あくまでも生命の消滅をその最終的なト・フー・ヘネカとしているわけです。苦痛でも恐怖でも不安でも、無限に永遠に高まっていくものではない。あくまでも人間が死ぬということ、その点を最高点としているわけです。ということは、よくよく考えてみると、こういう結論に至るわけです。この世界において、生命によって引き起こされる苦痛というものは、基本的には「死ぬほどではない」。なぜというに、それが死ぬほどの苦痛であるならば、その時に人は死んでしまっているからです。

「つまり、害悪は、あくまでも基本的にはという条件付きの話ではありますが、二つの意味で克服可能だということなんです。まず一つ目の意味としては、それがあくまでもシンベベーコスなものであり、世界における普遍的な真理ではない以上、理論的にはこの世界から取り除いてしまうことが可能であるという意味で。もう一つの意味としては、人間にとって耐えることが出来ないような限界を迎えた場合に、害悪というものは、自動的に、死とともに切断されるのであるという意味で。

「と、まあ、このようなことを前提として、生命が害悪だと人間が考えるであろう最も典型的なケースについて考えていってみましょう。それは私達が自殺を図るというケースです。生命を害悪であると主張する方々は、私達がなんらかの理由によって、苦痛によってでも恐怖によってでも不安によってでもなんでもいいですが、そのような理由によって自殺を図るというのは、まさに生命が害悪であるということの証明であると主張します。生命が害悪であるからこそ、私達はその生命を消滅させようとするのだと。

「このような主張は、ちょっと考えると正しいように思えるかもしれません。ただ、そこで立ち止まらずに、もう少し深く考えてみて下さい。私達が自殺しようと考える時、本当の本当に、生命を消滅させようと望んでいるのか。それこそが、私達の偽らざる願いであるのか。あはは、抽象的に考えていても埒が明かないですから、具体的な例を挙げて考えていってみましょう。そうですね、ここはアーガミパータですから、アーガミパータでよくある例でいいますと……例えばですよ、暫定政府、つまり人間至上主義陣営に所属しているヨガシュ族が、神国主義ゲリラであるところのゼニグ族の拠点を襲撃したとしましょう。まあ、間違いなく兵士たちは皆殺しにされますよね。しかも、今までゼニグ族から受けてきた迫害を晴らすかのような凄惨な殺され方によってそれがなされるわけです。そして、まだ兵士にもなっていない幼い子供たちは強姦されたりだとか奴隷にされたりだとかするわけです。

「まあ、ここでは仮に強姦された上で奴隷にされたとしましょう。その後には、毎日毎日ろくな食事を与えられず、その上、朝から晩までどころか晩から朝までもこき使われるような人生が待っているわけです。奴隷にされた当初はこのような境遇に気が付くことが出来なくても、やがては気が付くわけです。自分の人生に、これから先、希望の一欠片さえないということにね。となると、もう生きていても仕方がないと考えるのも、まあ、まあ、故のないことではないわけですね。そして、このような悲惨な目にあった人間は、最終的に、自殺を選ぶわけです。

「さて、この人は、本当に自分の生命を消滅させることが望みだったのか? 心の底からそれだけを望んでいたのか? いうまでもなく、その答えは否です。このような人間が本当の本当に望んでいるのは、自分の生命の消滅ではない。自分のことを迫害した人間の生命の消滅、つまり、この場合で言うところの、暫定政府に所属しているヨガシュ族の生命の消滅なんです。

「そんなことはね、当たり前なんですよ。あなたは誰かから迫害された時に自分の生命を憎悪しますか? まあ、そういう方もいないわけではないでしょうが、そういう方は、明らかに変な人なんです。普通であれば、自分の生命ではなく、迫害したその誰かのことを憎悪するんです。あのね、本来であれば、自殺するというのは間違っていることなんですよ。道徳的にどうだとか倫理的にどうだとかそういうことではなく、本来自分がしたいことを見誤っているという意味で間違っているんです。

「私達は、本来ならば、私達が自殺しようと思うに至った状況を作り出した相手を、生まれてきたということを後悔するというぐらいの拷問にかけてから殺したいんです。目を抉るだとか耳を削ぐだとか、指の一本一本を骨まで鑢にかけたり、あるいは鏡の前に座らせてから頭蓋骨を開き、脳味噌を少しずつスプーンで掬っていって、絶望と恐怖とで満ちていた表情が少しずつ少しずつ白痴になっていくところを鑑賞するのでもいいですが、そういうことをしてゆっくりゆっくり殺していきたいんです。そうして相手を殺してから、後はもう贅沢三昧、北の果てから南の果てまで珍味旨酒を平らげつくし、金をばらまき子だくさん、美しい絵画に美しい音楽に、あらゆる感覚の快楽を尽くした上で、自然学者に自分の身体を改造させ、絶対的な幸福を味わい続けるところの、この世界が存続しうる限りに生き続けることが出来るようにする。これが、私達の本当の願いであるわけです。

「つまり、私が言いたいことは、私達、生きている、生命は、死なんて望んじゃいないんです。生命を終わらせることなんてさらさっさらに望んじゃいない。どんな拷問を受けている時でも、本当に望んでいるのは、その拷問が終わって快楽三昧の生を謳歌することなんです。どんな絶望の底に沈んでいる時でも、本当に望んでいるのは、希望に満ち溢れた明日が来ることなんです。ということは、ということはですよ。生命というものは害悪ではないんですよ。生命というものは、結局のところニュートラルなものでしかない。あくまでも生命は生命に過ぎないんです。

「あはは……砂流原さんは、どうやら、私がこれほど回りくどく説明しなくても、とっくにご理解なさっているようですね。そうですよ、その通りなんです。砂流原さんがお考えになっている通り、消極的生命否定を主張する方々が生命を嫌悪するのは、それが生命であるからではない。それが、消極的生命否定を主張する方々が望んだ生命ではないからなんです。

「というかですね、もう少し正確にいうと……本来であれば、本来であればですよ、生命そのものは害悪でもなんでもないはずなんです。それにも拘わらず、強固なまでにそれを害悪であると主張するのは、なんのことはない、そういった方々が、この世界はもっともっと素晴らしい場所でなければいけないはずなのに、この世界はそうなってはいない。そうであるならば、この世界は間違った世界であり、害悪の世界である。従って、そのような世界における生命も、やはり害悪なのだ。そう考えているからなんです。要するにですね、消極的生命否定には、自分が考えている世界こそが正しい世界なのであるという、そういう人間至上主義的な考え方が根底にあるんですよ。

「人間は、実際、生命というものを愛しているんです。これ以上ないというくらい愛している。本当に、心の底から、無条件で、生命を愛しているんですよ。もしも幸福に生きるという選択肢があるのであれば、それにも拘わらず自分が生命であるというその生命を消し去ってしまいたいと思うような人間なんて、そういう特殊な病気を患っているのでもない限りこの世界には一人もいないんです。それどころか、私達は、死にたくないと思っている。この世界において、永遠に幸福であり続けたいと思っている。ここで、そのように執着している生命から無理やり引き剥がされる死というものがあるからこそ生命は害悪なのだ、なんてことをいわないで下さいね。だってですよ、死というものは、別に生命にとって必須のものではないんですから。そうであるならば、この場合、生命が害悪なのではない。人間にとっては、死と、それに続く生命のない状態こそが害悪なんです。

「そう、生命あるものにとっては、生命は、本来であれば、それだけで幸福なんです。ただ、この世界において本質ではない、付帯的なものでしかない害悪が、その幸福を妨げているだけなんです。そして、生命あるものにとっては、生命がなくなることは害悪なんです。つまり、なんの偏見もなく考えるのであれば、積極的であれ消極的であれ、生命否定なんて考え方は出てくるわけがないんですよ。人間至上主義的な考え方に、つまり、自分自身という存在が素晴らしい存在であって、そんな素晴らしい存在にこの世界は似合わないという考え方がない限りは、生命とは幸福なんです。

「あはは、まず、大前提としてですよ。私達の精神構造は、死を受け入れるようには出来ていないわけですよ。だって、私達は長い長い進化の果てにいるわけでしょう? ということは、その精神構造は、生き残って子孫を残すことに特化したものであるに決まっているんです。心理学用語をわざわざ使う必要もないんですけどね、私達には、そもそも、生命というものに対する希望的観測偏向性があるんです。例えば記憶について考えてみても、私達は、悪いことがあった記憶よりも、良いことがあった記憶を思い出しやすい。客観的に見てどれほど不幸な人生を送っているように見えたとしても、本人は、他人が思っているよりもずっとずっと幸福な人生を送っていると思うように出来ているんですよ。そして、幸福という問題が、明らかに客観的に決定されるのではなく、主観的に決定されるものなのであるからして、私達は、生物的に、幸福であるように出来ているんです。そうではない方は、まあ、まあ、現在進行形で拷問でもされているんじゃない限り確実にご病気ですので、お薬でもお飲みになったらよろしいんじゃないですかね。マルトラリンを七十五ミリログ飲むだけでも随分と良くなりますよ。

「消極的生命否定につきましては、こんな感じですかね。後は……余計なことではありますが、もう一つ申し上げるとすれば、消極的生命否定は、自分が生命ではないということが可能であると考えているという点においても、非常に人間至上主義的なところがありますね。人間という生き物は、生命の疎隔性によって与えられるところの外と内とという区別から類推して、物事を何かと二項対立で捉えがちなところがあります。例えば、「有る」と「無い」とというのが典型的ですね。

「しかしながらですよ、「有る」と「無い」ととは対立的な何かなのか。というか、そもそも「無い」ということはあり得るのか。私達は「無い」ということがあり得ることを前提として考えてしまいがちですが、人間という生き物は全知全能ではないわけであって、「無い」という「無い」が本当にあり得るのかということは分かっていないわけですよ。そもそも、純粋な「無い」ということはあり得ないかもしれない。この世界においても、その外側においても、ただただ、何か曖昧な絶対性が、あらゆるものを不可逆的に「有る」ということにしてしまっているのかもしれない。

「そうであるとするならば、私達という生命が「無い」ということは、その前提からしてあり得ないわけです。生まれる生まれない以前の問題として、私達がここに生命としてあることは、このようにしてあるということは、絶対的な必然性として、空間の外側、時間の外側、において、そうあり続けること以外にはあり得ないかもしれないわけです。

「あるいは、あるいはですよ。仮に「無い」ということが出来るとして、私達は、その「無い」という状態が「有る」という状態よりもいいことであるとどう知ることが出来るのか。だって、私達は「無い」ということがどういうことなのか分からないわけです。それは「無い」のだから、苦痛も恐怖も不安もないでしょう。しかしながら、それが現在の状態よりも良いかどうかということは、私達には絶対に分からない。そうであるとするのであれば、その状況下で、生命が害悪であると決めつけるのはどう考えてもおかしいわけです。人間至上主義的な、人間の観点を絶対だと考える決めつけ以外の何ものでもないわけですよ。と、まあ、そんなわけで……生命否定についても、結局のところは人間至上主義に過ぎないということがお分かり頂けたと思います。」

 マコトは。

 それから。

 また。

 真昼の方に向かって歩いていく。

 真昼の椅子と、すれ違って。

 その真後ろまでやってきて。

 くるりと振り返って。

 でも。

 今度は。

 真昼の周囲を、回転する。

 つもりはないらしかった。

 真昼の。

 真後ろ。

 立って。

 それから。

 真昼の右肩に右の手のひらを。

 真昼の左肩に左の手のひらを。

 とても。

 親しげに。

 まるで。

 年の離れた姉のような手つきで。

 優しく。

 優しく。

 触れる。

「さて、さて、砂流原さん! かくして議論は行き着くべきところまで行き着いたわけです! 何もかも無意味な、それがなされてもなされなくても、世界に対してなんらの影響も与えないような議論は、ね。残念ながら……ある時、ある場所で、ある出来事が起こった。別の出来事も起こった。また、別の出来事も。そして、その全てが良きことだった! この議論も、結局のところは、そのような良きことの一つに過ぎないんですよ。

「あはは、証明された! 証明されたわけです、しかも、極めて無意味に、まるで静寂の海の中で眠る胎児のように無意味に。人間は、決して、救われない。人間の思想によっては救われない。人間の哲学によっては救われない。人間の倫理によっては救われない。人間の宗教によっては救われない。あるいは、科学によって、魔学によって……人間は、そのようなものによって救われることがない。救われたふりをすることは出来るでしょう。あるいは、救われたと思い込むこと、救われたのだと騙されることは出来る。ただ、それでも、真実において救われることなど出来ない。

「あらゆる社会学、あらゆる自然学、そういった記号的現象は、結局のところは、人間の思考によって、人間至上主義的に構築されたところの虚偽に過ぎないんですよ。それは、あたかも黒い色に塗り潰された羊が、闇夜の中で遊んでいるようなものなんです。しかも、世界の終わりの日、太陽さえも神々に吹き消されてしまった闇夜にね。無意味、無意味、無意味! 人間は無意味なんです。

「一つの思想が人間を救う? 科学によって人間という種は発展し、素晴らしい世界を作り出せる? いいですか、よくよく考えてみて下さい。そういった記号的現象は、誰が、どのように、作り出すんですか? いうまでもなく、人間の意識が、人間の意識によって、作り出すんです。砂流原さん、私達、人間はね。あらゆる記号的現象を意識の上側でしか作り出すことが出来ない。一方で、ですよ。意識とは何か。無意識の追認に過ぎない! 人間が、無意識の下側でそのように選択した選択について、他者とコミュニケート出来るように、一つの観念として形状を与えたものに過ぎないんですよ!

「そうであるとするならば、ですよ。あらゆる記号的現象は、実は、無意識に行なわれた選択の追認でしかないんです。思想? 思想というものは、人間が無意識になしたところの判断の正当化です。科学? 科学というものは、人間が無意識に世界を整理したその整理を可視化したものに過ぎない。つまりね、人間のあらゆる記号的現象は、動物が、非常に野蛮に、非常に愚昧に、本能だけで行為しているところのその行為そのものなんです。要するにね、人間が、社会学的に、自然学的に、何をいおうと。それは馬鹿が馬鹿なことをいっているのと何も変わらないんですよ。

「あはは、砂流原さん! 自らの言葉に呪われろ! 自らの言葉に生き、自らの言葉に死ね! ゆりかごに刻め、墓に刻め、そして、その言葉を頭蓋骨に刻み付けよ! いいですか、ある主張をなした人間が、その主張通りの行動をしていない。あるいは、ある主張をなした後で、全く別の主張をする。そして、厚顔無恥にも、自らの非を全く認めようとしない。そのようなことはよくあることですよね。あまりにもよくあることなので、そのようなことが行なわれても、もはや誰も気が付かないくらいです。そのようなことが当たり前で、言葉と言葉と、あるいは言葉と行為とが一貫している方が異常者であるように扱われる。

「それがなぜか分かりますか? そう、そう、その通りですよ! つまり全ての言葉が、結局のところ平等だからです。全ての主張は、あるいは行為に意味付けられるところのその意味は。完全な出来損ないであるという点において完全に平等なんです。あらゆる言葉はなぜここまで無意味なのか? あらゆる言葉はなぜ現実においてこれほど無力なのか? 決まってる! そんなことは決まってるんですよ、お馬鹿さん! それが結局のところ出来損ないだからです。それが、結局のところ、意識の上側において構築されたところの、無意識の下側でなされた全ての出来事にかんする、決疑論的な義認に過ぎないからです。

「いうまでもなく、私は、別に、そのことを責めているわけではありません。あはは、愚かな生き物が愚かな生き物のことを愚かであるからといって責めることになんの意味がありますか? 気を付けて、愚昧なる人よ! 主が空からご覧になっている! つまり、私が何を言いたいかというとね。もう、不可能なんですよ。記号的現象によって人間をより良きものにすることなんて、絶対に不可能なんです。ただ、何かが動いていく、記号的現象は、そのようにして動いていった何かに、ただただ流されていくしかない私のことを弁護することしか出来ないんです。主の前で私のことを弁護する、クソの役にも立たない弁護士。それが言葉なんです。どんなに自らを疑おうとしても無理なんですよ、自らは、疑えない。

「言葉自体が自己肯定的なものなんです。それによって構成された私達の思考の回路は、もう、どう足掻いても、自分自身のことを否定するようには出来ていない。否定出来ないのだとすれば、もう、人間は、言葉で、思考で、人間以外の何かになることが出来るはずがない。いうまでもなく変わるということは否定から始まるんですからね。もう、人間は、人間として、言い訳をすることしか出来ないんです。それがそうであることの正当化をすることしか出来ないんですよ。それが人間の機能で、それ以外の機能を人間は持たないんです。そうであるとすれば、私が愚かであることは、もう仕方のないことなんですよ。それを責めても仕方がない。自らの目の中の暗い星を見ることが出来ないのかと他の人間を責める人間が、そもそも自らの目の中の暗い星を見ることが出来ていないんです。

「世界は、社会学が回転させているわけではない。現実は、自然学が進行させているわけではない。結局は、ただ蟻塚が大きくなっていくだけなんです。ただ、鳥の巣が大きくなっていくだけなんです。全てのことは必然、全てのことは運命。絶対的に決定されているところの、動物的本能の所産なんです。私達の記号的現象は、その全てが現実の世界とは完全に無関係に存在している。言葉は言葉を記憶出来ない。思想は、科学は、その全ては、出来合いのパズルをその場その場で解いているだけなんです。喜ばしい祝福! どうですか、砂流原さん! あなたはこれほどまでに喜ばしい祝福を、想像することさえも出来ないでしょう!

「勘違いしないで下さいね。私は、何もかもが真実ではないと殊更に言い張ろうとしているわけではありません。だって、何もかもが虚無であるのならば、そのように言い張ることさえ虚無なのですから。何もかも真実ではないのであれば、何もかも真実ではないという真実さえ真実ではない。それは虚偽だという意味で真実ではないわけではなく、ただただ言葉の羅列でしかない、そして言葉の羅列はなんの意味も持たないという意味で真実ではないんです。そのようなことを言い張ろうとする方々の、なんと滑稽なことか! あはは、いいんですよ、砂流原さん! お笑いなさい、あの道化じみた、サーカスの猿をお笑いなさい! そのようなことを、大声を上げて叫んで回るのはね、良くて潔癖症、悪くて無意味な自己陶酔、どちらにしても迷惑この上ない。私はね、どうでもいいんですよ、それが真実であろうがなかろうが。手を突っ込んで掻き回すのをやめてくれといっているんです。それでそこそこ上手くいっているのならば、ことを荒立てないでくれ。何か悪いことが起こったら、その場その場で、少しずつ良くしていけばいいだけなんです。何をそんなにくだらないことを喚き立てているのか。静かになさい、寝ている人もいるんですから。人間は無意味、人間は無価値、そしてあなたのその主張もやはり無意味で無価値なんですよ。

「言葉! 言葉! 記号的現象! あはは、人間の言葉なんて、世界が、現実が、口を開いたら、その声にそっと掻き消されてしまう程度の代物に過ぎないんです。人間そのものさえも、その声には掻き消されてしまう。そして美しい旋律だけが残る! 世界の歌声よ! 現実の歌声よ! それは祝福だ! そう、それは、私の祝福! 砂流原さん、全ての思想はね……ジュブ・ニグラス主義のもとに書き表わされたところの、ゼパウスの黙示録に過ぎないんです。しかも、出来損ないのね。

「この世界は醜い。この世界は間違っている。なぜなら、本当は美しく正しいはずの何かに、邪悪な、邪悪な、何かが同化してしまっているからだ。その余計なものは、もちろん本来的な意味での私達ではない。本来の私達は、その余計なものによって汚されているだけなのだ。だから、その余計なものを、世界から洗い流さなければいけない。邪悪な、邪悪な、何かを滅ぼせ! 黙示録的な最期! 邪悪な、邪悪な、何かは、清らかな光によって、つまり、本来の私達の光によって消え去るだろう! そして、その後に、王国がやってくる。何もかもが理想的に美しく、何もかもが完全に正しい、王国がやってくるのだ。全ての記号的現象はね、このような思考形式をトレースしているだけなんです。思想? 科学? 全部、全部。自分だけが正しいと叫ぶ偽預言者の叫び声なんです。

「ああ、救いようがないほどの愚かさだと思いませんか! もしも救いというものが現実として存在しているのならば、もしも愚かさというものが現実として存在しているのならば、という条件付きの感想ですがね。なんにせよ、完全なものがあるという感覚。あるいは、未来により良いものがあるという感覚。あるいは、過去により良いものがあるという感覚。それらの全ての愚かさ! この世界がこの世界としてあることが、その全てが平等であるというのならば、私達はいつだって地獄の底で踊る罪びとなんですよ。今のこの世界は不純だ、そして、私は、その不純を正すために選ばれた人間だ。だから、だから、九つの地獄と七つの天国に手紙を送ろう! つまり、全ての言葉は、自分こそが特別な人間だと、そういっているに過ぎないんですよ。

「つまるところ、ですよ、砂流原さん。私は、いわゆるところの、「そのままの生」を生きるべきだということを言っているわけでさえないんです。「そのままの生」! ああ、これこそまさにゼパウスの黙示録における王国を、人の手によってもたらそうとする傲慢なんですよ。そうは思いませんか、砂流原さん? 所詮はね、否定詞、否定詞、否定詞なんです。このような思想さえ、人間なんです。人間至上主義的な否定詞として使われているに過ぎない。それは結局のところ、自分以外のもの、自分に押し付けられたもの、自分の気に食わないものを否定したいというそれだけのことなんですよ。自分が大好きで大好きで仕方がない。

「また、自分の外側にある何かを掴み取って、それで自分自身を否定しろと言っているわけでさえない。だって、そのようにして掴み取るのは、そのようにして自分自身を否定するのは、一体何者なんですか? 結局は自分自身でしょう? そうであるならば、その時点で、既に外部世界は外部世界ではなくなる。自分自身にとっての絶対的単一性を有するところの、自己陶酔的な内側でしかない。内側によって内側を清める? 御冗談でしょう。つまり、これもまたゼパウスの黙示録に過ぎないんです。人の手によってもたらされる王国なんですよ、自分自身の中にある、自分自身ではないところの穢れを洗い流そうとしているだけなんです。

「この言葉には命があった! そう、その通り、言葉は一つの生命なんですよ。それ自体が、あらゆるものを内側と外側とに分ける境界だという意味で。それ自体が疎隔性をもたらすものであるという意味で。それ自体が、内側には苦痛を、外側には悪をもたらすものであるという意味でね。そうであるとするならば、それがどんなに素晴らしいものであったとしても。それが記号的現象であるならば、それは、世界を内側と外側とに分けるものなんです。そして、その外側にいる何かを排除しようとする。そうであるとするのならば、そうであるとするのならばですよ。全ての記号的現象は、いつだって選ばれることのない私を、蔑み、嘲笑い、奪い、傷付け、そして殺すところの「正義」に過ぎないんですよ。全ての記号的現象は、救いではありません。それは搾取でしかない、暴力でしかない、つまり、天国の門に過ぎないんです。

「自分の内側にいる悪魔を取り除こう! まあ、まあ、結構なことです。そのためには、多様性、様々な人々をこの門の内側に招き入れて、この天国を素晴らしいものにする必要がある! そうですか、それは素晴らしいことですね。ただ、あなたが追い出した悪魔とやらは、一体どうすればいいんですか? 天国の門で野垂れ死ねとでもおっしゃるんですか? それとも、悪魔は、悪魔だけは自分とは関係のないものだ、悪魔がどうなっても知ったことではないと? いいですか、砂流原さん。もしも本当にそれが救いだというのならば、悪魔さえも受け入れなければいけないんですよ! 善と悪との境界を取り払わなければいけない、天国の門を打ち壊さなければいけない。つまり、記号的現象を何一つ信じることなく、この世界において自分自身を含めた全てのものを救わなければいけない。そんなことは、人間には不可能なんです。

「この世界を醜いという方々は、そもそもこの世界が美しいものでなければいけないと思っているんです。いや、違う、自分が美しいと思うものでなければいけないと思っている。もっと端的にいえば、自分が美しいと思うものが、現実において、それがそのようにしてあるということを信じているんです! しかしね、そんなものはそもそもないんです。この世界は、このままで、完璧に美しく完璧に正しいんですよ! いいですか、そう思わなければいけないんです。そう思わなければ、私達は、この世界を救うことなんて出来ないんです。

「そもそも、この世界は本当に醜いのか? 分からない、私には分からない。人間が、この世界は醜いという時。いうまでもなく、その意味は、「人間が醜い」ということです。人間によってなされたことの全てが醜い、人間によってなされた全てのことが間違っている。そういいたいわけです。しかしですよ、あなた方は、本当に人間を非難しているんですか? それは、やはり、人間のことを称讃する別の仕方に過ぎないのではありませんか?

「あなた方は、凄まじい悪を人間はなしたとおっしゃいますがね。その内容は、せいぜいのところ、少女の眼球をくりぬいてその眼窩に射精するだとか、あるいは少女の脊髄の中に溶けた金属を流し込み兵器として利用するだとか、そういった程度のことでしょう? 面白半分に人を殺す、自分が栄光を手に入れるために他人を足蹴にする。戦争で、一つの都市を皆殺しにする! 強盗、強姦、殺人。あるいは独裁。いつもいつもおんなじことを、まあ飽きもせずにやるものです。面白味の欠片もない! この程度のことが、あなた方のおっしゃる凄まじい悪なるものなんですか? あはは、ご冗談を! 結局は、人間のすることです。なんにでも理由があるし、なんにでも限界がある。最終的には、暴力か、搾取か、それくらいのことしかしていない。あとは、規模の問題に過ぎない。

「つまり、つまりね……この世界に記号的現象さえなければ。この世界は正義と平和とに満ち溢れた理想的な世界になるであろう。悪は、自らを「正義」であると思うことから生まれてくるのだ。砂流原さん、いいですか、私が言いたいことは、こういうことでさえないんです。そもそもですよ、人間は、悪を犯したことがないし、悪を犯せないし、悪を犯すことはないんです。なぜというに、人間が悪を悪として行なうことは不可能だからです。悪を悪として現実化するのは、この世界がこの世界としてそのようにある、その意味においてだけなんです。

「悪とは、この世界が動いていく、その力の問題なんです。もしも世界に悪が生まれてしまったのならば、それは、その力が悪を生み出してしまったからなんです。思想も、哲学も、倫理も、宗教も、悪とは関係ないんですよ。そのようなものが何もなくても、思想的な何ものもないままに、世界の運動は、ただただ、その力の中で、全てを収まるところに収めてしまうんです。悪をなすということは善をなすことと同じくらい困難なことであり、恐ろしいまでの難行なんです。あはは、それが出来る人間なんてね、この世界にはいないんですよ。

「人間は、善をなすことが出来ないというだけではない。悪をなすことさえ出来ないんですよ! これほどの無意味! これほどの虚無! 記号的現象の、これほどの透明さよ! それでも、あなた方は、こうおっしゃるでしょう。お前がその程度の善というもの、悪というもの、それでも、人間は、喜び、傷付き、その中で生きていくのだ。そうであるとするならば、その程度のことをすることにも、やはり意味があるのだ。

「滅びよ! 滅びよ! 賢しらなるもの、堕落の兎よ! いいですか、そもそも、あなたの言葉が、あなたの行為が、一体何をしたっていうんですか? あなたは、一度でもサンダルキアに燃える硫黄と雹とを降り注がせたことがあるんですか? あなたは、一度でも、レピュトスを、不落の天国を、地に落としたことがあるんですか? つまり、あなたは、一度でも全体主義的な集団の誕生を、その集団において暴政を行なうところの暴君の誕生を、食い止めたことがあるんですか? ないでしょう? 一度もないんです。要するに、そういうことなんですよ。記号的現象の全ては、自己正当化に過ぎない。つまり、「自分が正しい側にいる」ということを、人間はやめることが出来ないんです。

「そして、そのような暴君でさえ、その人間が暴君になろうとして暴君になったわけではない。先ほども申し上げたことですが、その人間が暴君になったのは、そのような慣性に動かされたからです。別に、正義が正義であることを主張したがゆえに、悪へと転落したとかなんとかいうような、あなた方好みのドラマティックなことが起こったわけではないんですよ。いわば、海で鮫が暴君になるように、陸で獅子が暴君になるように、空で鷲が暴君になるように、ただただ自然なことが自然に起こってしまっただけのことなんですよ。人間は世界に逆らって悪になるわけではない。世界がそう命じたから悪になるんです。

「あはは、ここには出口なんてありませんよ。

「そもそも閉じ込められていないんですから。

「ああ! 砂流原さん! お願いします、そろそろ分かって下さい、理解して下さい、私が申し上げたことを! 私の言葉は耳に甘くはありませんか? あなたの心を溶けた毒で包み込みはしませんか? いいですか、私があなたに言っていることは、私があなたに言いたいことは、たった一つなんです。「他人のことなど気にしないことだ」。

「他人の言うことなど気にしてはいけないんです! なぜなら、他人がなんて言おうとも、そのようにして言われた言葉は言葉に過ぎないからです。それは記号的現象でしかなく、そうである以上は、この世界において、この現実において、完全に無意味なんです。それは、救わない、あなたのことを、絶対に、救わない。記号的現象は虚無なんです。そして、人間が記号的現象によってしか思考出来ないことを考えるのであれば、私が考えていることも無意味であるし……砂流原さん、あなたが考えていることも、やはり無意味なんですよ。

「あなたが、今まで考えてきたこと。あなたが感じたこと、あなたの心が動かされてきたことの全て。それは、完全に無意味なんです。あなたの憎悪には、あなたの悲しみ、あなたの怒り、あなたの喜び、あなたが愛したその愛の全てには。あなたが、本当に、心の底から願ったその願いの全てには……つまり、あなたの心には、なんの意味もなかったんです。あなたは、あなたの心によって、誰かを救うことが出来ましたか? 誰か、本当に救いたいと思った誰かのことを、一人でも救うことが出来ましたか?

「あはは、虚無の虚無、無意味の無意味、あなたという生き物は、結局のところ、空っぽの細胞でしかないんですよ。もしも、仮に、あなたの人生が一つの小説だとしたら。アーガミパータに来てからあなたがしたこと、考えたこと、その全てが一つの小説として描かれてきたのだとすれば。そのような小説には――いうまでもなく、あらゆる小説に存在意義がないのと同じように――全く、なんの存在意義もないものとなるでしょう。その小説を書いた方、もしそんな方がいるのだとすれば、よくもまあこれだけ無意味な時間を過ごしてきたものです。もう少し建設的な、何か、農家になるとか、漁師になるとか、そういうもっと生産的なことをして、しっかりと働いていた方が遥かに有意義な時間を過ごすことが出来たんじゃないですかね?

「あなたの人生にはなんの価値もない。そうであるとするならば……ねえ、砂流原さん。顔を上げて下さい。そして、笑って下さい。例えばこの世界がまるで楽園であるかのように。だって、あなたは、この世界に必要とされていないんですよ。あなたが何をしても、この現実には、なんの影響も与えないんです。それならば、それならばですよ、あなたがそんな悲しそうな顔をして、あなたが今までしてきた全てのことを、その絶望によって贖おうとする必要はないんです。

「あなたは、とても、とても、悪いものになってしまったのかもしれない。でもね、それはあなたのせいではないんです。この世界が天国ではないのは、あなたが天国の生き物ではないのは、あなたのせいではないんですよ。だって、あなたが何をしても、なんの意味もないんですから! それは原罪なんですよ! ルカトゥスが、最後の最後まで自らの罪を認めなかったように。あなたは、贖罪をする必要なんてないんです。あなたは、あなたを、憎悪することはないんです。」

 マコトは。

 静かに。

 静かに。

 上半身を傾ける。

 真昼の。

 左耳に。

 そっと。

 唇を。

 寄せて。

 あたかも。

 その耳に。

 甘い。

 甘い。

 毒を。

 注ぎ込むように。

 こう。

 囁く。

「全能のひとり親である主は。

「御子トラヴィールを通して本を焼かれ。

「再び世界をご自分と和解されました。

「主が、教会の奉仕の務めを通して。

「あなたに無知の幸いを与えて下さいますように。

「ねえ。

「砂流原さん。

「許します。

「許しますよ。

「私は、主の愛によって。

「あなたの罪を許します。

「私の頬を引き裂いた、あなたの罪を。」

 それから。

 いかにもお道化たように。

 ぱっと、その顔を上げた。

 真昼の肩から手を離す。両手を背中で組んで、すとん、すとん、と、何かの悲劇を演じているクラウンであるかのように大袈裟な歩き方によって、真昼の目の前までやってくる。ほんの少しだけ首を傾げて。その口調は、いかにも陽気な口調に戻って。

 マコトは。

 終わり口上を述べる。

 三流役者、みたいに。

 こう続ける。

「だから、笑って下さい。だから、あなたは、世界で一番幸福に生きて下さい。誰を犠牲にしたとしても。どんな、汚穢を、この世界に撒き散らしたとしても。ねえ、もしも、この世界になんの意味もないんだとすれば。救いになんて、なんの意味があるんですか? この現実に意味がないとするならば、そもそも、あなたが救われることは、本当にありうるんですか? あなたは空っぽなままです。あなたが満たされることはあり得ない、あなたが救いによって満たされることなんてあり得ないんですよ。絶対に、無限に、永遠に。あなたは虚無なんです。

「人間は! 生き物は! 滅びることもなく、ただ骰子が投げられて、その目が無意味に変わりゆくように生まれたり滅びたりする生命は! 結局のところ、世界を決定付ける一つのパラメーターに過ぎないんです。そもそも救われることなどない。ただ、ただ、空っぽの細胞が、腐敗した血液の中を漂っているだけ。

「あなたは救いを信じているのですか? あなたは運命を信じている? あなたは、決して、裏切らないものを信じているんですか? あはは、おやめなさい! それはあなたの運命ではない、あなたのことを裏切らないものなんてない。あなたが信じているそれは、いつか、必ず、あなたが信じているものとは別のものになる。そして、あなたの信じていた全てが、結局のところ無意味であるということが分かるだけなんです。

「いうまでもなく、あなたは、それが見捨てるということさえも運命であると思っている。ただね、あなたがそれを信じることが出来ているのは、それがあなたを見捨てないからではないんです。それが、それを、裏切らないから。運命が運命を裏切らないから、あなたは運命を信じることが出来ている。ああ、可哀そうに! あなたはあまりにも短い間しか生きていないから、きっと知らないのでしょう! 運命が運命を裏切ることがあるということを。

「ねえ、砂流原さん、あなたには運命は訪れない。そうであるならば、何も信じないことです。何者も信じることなく、ただ自分だけを、ただただ自分の快楽だけを追い求めなさい。それが、それだけが人間がそのようにして生きていくべきたった一つの方法なんですよ。

「だって、だってですよ。この世界において、ただ一つ、自分だけは絶対的なんですから。自分がいるということだけは決して変わらないんですから。まあ、まあ、色々とうるさいことを、ぐちゃぐちゃとのたまう方々はいらっしゃるでしょう。自分というものは本当はないんだ、自分というものさえ虚無なんだ、そんなことをね。でも、そうったことは、全部全部無視していいことなんです。それが例え真実であったとして、それに一体なんの意味があるんですか? ほら、ほら、そのようなことをおっしゃる方々を地獄の底に落としてご覧なさい。そして、地獄の縁からその底を眺め下ろして、こう叫んでご覧なさい。「お前は、自分などないといった! それなら、お前が今そこで味わっている苦痛は、全て幻に過ぎないだろう!」それでお終いですよ。

「主の恵み、主の証し。主の聖名の下に、人間がこの世界において与えられたものはたった一つなんです。主の権限によって、私以外の何者も侵すことが出来ないように、そう定め事とされたものはたった一つなんです。つまり、それが自分なんです。内側に向かっては苦痛として、外側に向かっては悪として、そのように疎隔された自分としての生命だけは、どのような思想もどのような科学も否定することが出来ない。自分を否定する全ての思想は欺瞞であり、自分を否定する全ての科学は傲慢なんです。

「他者なんてどうでもいいんです。本当に、心の底からどうでもいい。だって、それは、所詮は、記号的現象として基礎付けられたところの関係性から発生する虚偽に過ぎないんですから。結局のところ私は私なんです。私の苦痛は誰かから与えられたものではない。私の悪は誰かのおかげで私の悪となったわけではない。私という私が私であるということ、その私のものではないはずの原罪においては何者も介在者ではあり得ないんです。ただ、そこでは、「私」という場所では、二つの絶対者が相対しているだけ。つまり、この私と……あはは、主、ヨグ=ソトホース。

「私を形作る力、力の方向性、力の意志、そのようなものはね、この世界には存在していないんです。そのように見えているものは、その全てが幻想であり幻影なんです。あなたの目の前に一つの暗く広い海がある。その底の底で、化け物が、お姫様の化け物が、つまりバシトルーが、心臓を動かしている。その心臓が、どくん、どくん、脈打って……そして、海のおもてが揺らめく。しゃらしゃらと、ただしゃらしゃらと。その揺らめきがあなたの影を揺らしている。あなたはね、そんな夢を見ているだけなんですよ。

「ねえ、あなたの悪を許してくれる人なんていなんです。あなたの悪を許してくれる人なんていないんですよ。ああ、ご覧なさい! その顔を上げて、その眼を見開いて、そしてご覧なさい! 私の顔を! この私の引き裂かれた顔を! どうですか、あはは、思いのほか醜いでしょう? そういうことなんですよ。この世界は、この現実は、つまりそういうことなんです。

「だから、砂流原さん! お願いです、私は、あなたに、心の底から懇願します! どうか、どうか……本当に、幸せになって下さい。例え、何を、その対価に払ったとしても。自分以外の全てを捨てて、ただ自分の幸福だけを手に入れて下さい! ねえ、いいじゃないですか、どうしてあなたはそんなに苦しそうな顔をしているんですか? たかが他人の苦しみに、ただ単に他人が苦しんでいるだけだというのに。

「例えば、あなたが一人のアトナ人を誰かから匿っているとします。誰がいいですかね、まあ、まあ、どこかの宗教的な集団の、祭司長か誰かからとでもしましょうか。そして、その宗教的な集団の祭司長から、あなたが、取引を持ち掛けられたとします。もしも、そのアトナ人の居場所を教えれば、銀貨を三十枚与えよう。そして、これは非常に素晴らしい巡り逢いであると私には思えることなのですが、あなたは、ちょうど、銀貨が三十枚欲しいところだった。さて、そうであるとするならば……ねえ、躊躇うことなんてありませんよ。そのアトナ人を裏切りなさい。

「お売りなさい、お売りなさいよ! 銀貨三十枚で売り飛ばすことです! 祭司長に引き渡せばそのアトナ人は殺される? 十字架に打ち付けられた上で槍によって刺し殺される? だからどうしたっていうんですか! あなたには関係のないことです! そのアトナ人は、本当はこの世界の救世主であって、もしもそこで死ななければ、この世界の全体を丸ごと救うかもしれない? この世界から争いがなくなり、この世界から憎しみは消え去り、そして、誰もが理想郷で生きることが出来るようになる? どうだっていいことじゃないですか! そのアトナ人が、今、まさに今、あなたが欲しいと思っている銀貨三十枚を、あなたに与えないのだとすれば。例え、そのアトナ人が救世主であったとしても、そのアトナ人は生きる価値はないんです。

「あなたは何をしても許されるんです。だって、結局のところ、誰も許してくれないんですから。あなたは、あなたが幸福になるために何をしても許される。人を殺したいのであれば人を殺せばいい。人を裏切りたいのであれば裏切ればいい。騙し、蹴落とし、見捨て、そして、嘲笑いなさい。あなたが誰かから搾取したいというのならば、誰かから搾取すればいい。あなたが誰かに暴力を振るいたいのであれば、暴力を振るえばいい。だって、ねえ、結局のところ、あなたがすることの全ては悪なんですから。

「例えば! あなたの目の前で! 一人の! 全く! 罪のない! 少年が! 犬の群れに! 生きたまま! 食い殺されようとも! 脛の骨が剥き出しになり! 頭蓋骨が噛み砕かれ! 腸が腹から漏れ出し! そして! その少年が! まるで! 助けを乞うように! こちらを! 見ていても! それが! ねえ! それが! どうしたって! いうんですか! あはは、それは私には関係のないことです。私は、私が幸福であるのならば、誰が犬の餌になろうと構いはしない。

「この美しい現実という名前の世界においては、あなたの苦痛だけが真実なんです。あなたが苦しみを感じ、痛みを訴えているということだけが本当に本当のことなんです。だから、あなたは、その真実のためならば全ての虚偽を引き換えにしても構わない。苦痛を和らげるためならば……ああ、運命! 運命さえも運命の天秤にお掛けなさい! そして、結局は、天秤はあなたの側に傾く。運命でさえ運命ではなくあなたを選ぶ。

「あはは、さて、さて、少しばかり長くなってしまいましたが、これで、私が言いたかったことの全てはお終いです。つまりは、まとめるとするならば……砂流原さん。あなたが何かをしたいというのならば、その資格など必要ないということです。あなたはもとから罪人だったし、今も罪人なのであるし、そして、未来においても罪人であり続ける。決して救われない。あなたには運命は訪れない。だから、だから……自分の足で、真っ直ぐに立ちなさい。踊り上がって歩き出しなさい。まるで、救世主に出会い、精霊に満たされた足なえのように。そして、あなた以外の全てのものを、あなたの快楽に利用出来るものか否かによって分かちなさい。あはは、あなたの運命さえもね。」

 そして。

 それから。

 マコトは。

 死人のように。

 口を、閉じた。

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