第三部パラダイス #32

 マコトは。

 そこで、また。

 嫌々ながらも。

 コーヒーを。

 一口分だけ。

 啜る。

 顔を顰めて、それを飲み下すと。

 この世の終わりのように。

 重々しく、首を横に振る。

 話を。

 続ける。

「ただ、それを考えていく前に、一つ準備段階的な議論をしておく必要があるでしょう。つまり、科学及び魔学、いわゆる自然学なるものは、思想なのかそうでないのか。あるいは、こういい換えてもいいでしょう。自然学は、価値中立的なものであるのか。このことについてはっきりさせておく必要があります。

「ほら、よくあるでしょう? サイエンス・フィクションとかで。まったく通行不可能であるはずの二つの種族が、非常に抽象的な化学言語、例えば数学の公式などをやり取りすることによって分かり合うというようなシーンが。もしこのようなことが本当であるのであれば、自然学はある種の絶対的な意味のようなものを持つことが出来るでしょう。なぜならば、それは、あらゆる生けとし生けるものにとっての普遍的真実となり得るからです。もちろん、知的生命体以外のあらゆる生命体にとってもそうであるでしょう。なぜならば、それが普遍的真実である限りにおいて、知的ではない生命体にも真実であるからです。

「ちなみに、この議論においては、例えば科学が扱っている対象はこの世界における法則についてだけであって、他の世界においては無効である、従って自然学は普遍的な真実ではない、といったような論理はとらないことにします。なぜというに、仮に、今の科学が対象としているものがこの世界についての法則だけであったとしても、もしも他の世界、あるいは外の世界などが現われた時、科学は、いや、魔学でもいいですけど、当然のようにそのような世界についても対象にするだろうからです。そうであるならば、自然学がこの世界の法則のみを相手にしているのは現在だけであり、未来においてはあらゆる世界を対象にしうるのである、という反論が成り立ちます。なので、このような論理は無意味といえるでしょう。と、そんなこんなでありましてですね……このことを考えるためには二段階の議論が必要となってくるでしょうね。

「まず一段階目、自然学が向かっている方向が確かに普遍的真実であると仮定した上で、その自然学という方法について考える必要があるでしょう。その方法によって、果たして普遍的真実そのものに到達出来るのかどうかという問題です。自然学という方法の本質とは「現実を記号化することによって分析する」ということです。つまり自然学というものは、一般的に考えられているように現実そのものを取り扱っているわけではなく、そういった現実におけるある基準点を恣意的に決定した上で、その基準点に対しての関係性を人間にも理解可能な形で象徴化するという行為なんですね。まあ、そんなことはいうまでもないことで、もしも人間が現実というものをそのまま把握出来るのだとすれば、自然学なんていう方法をとらなくても、現実は既にここにあるのであるからして、そのままそれをそれとして受け入れればいいだけの話なんですからね。

「そして、そうであるとするならば、それは真実ではないわけです。それは言語的解釈でしかない。えーとですね、それでは、分かりやすい具体例を使ってご説明いたしましょうか。科学の中でも最も価値中立的といわれている数学について見ていきましょう。数学は、例えば一個一個の数字を扱っている段階においては、確かに価値中立的に見えます。例えば一という数字だけを見れば、確かにそれはあらゆる一個のものを一という数字で抽象化してはいますが、それでも一という一つの現象を表わしている以上は、そこに恣意的なものはほとんどないように見えます。ただね、よくよく考えてみてほしいのですが、それは、例えばトラヴィール教会において、人間が理解出来るあらゆる法則の基礎となっている根源的法則を仮に「主」と呼んでいるということと何も変わらないんですよ。まあ、正確に言うと、トラヴィール教会における「主」は、存在における法則のみの擬人化なのですが、それはそれとしてですね。例えば、そのような法則を、科学では「原理」と呼んでいるわけでしょう? 基本的には、どちらであっても、あるものをある記号によって象徴化しているということに違いはないんです。

「確かに、一の方が、「主」よりも価値中立的に見えるかもしれませんがね。ただ、現実世界には一というそれそのものはないわけですよね? あくまでも、それは恣意的に定められた基準点なわけです。ということは、「主」だって、世界を理解するための基準点として仮に置かれているものである以上は、やはり一と何も変わらない記号的意味なんですよ。

「そのことは、このような個々の数字を複雑な数式に当て嵌めていくことによって一層はっきりとしてきます。例えば微分という操作について考えてみましょう。微分というのは、非常に単純化していうと……例えば一本の曲線を思い描いて下さい。このような曲線について、どこまでもどこまでも近付いていくと、最終的には限りなく直線に近付いていきますよね? そうであるのだとすれば、曲線というものを、このように限界単位まで微小化した際に見えてくる直線として扱おうという操作が微分であるわけです。

「つまりですね、砂流原さん。これは仮にそうであると恣意的に措定しているだけなんですよ。実際には、現実においては、曲線が直線であるのかそうでないのかという事実は、人間は未だに発見出来ていない。曲線が直線ではなく曲線でしかないという事実が、いつの日か明らかになるかもしれないんです。しかしながら、このように微分的な操作を加えると、少なくとも正しい解が得られる。だから、こうしてもいいだろう。数学というものは、その程度の正確性によって組み立てられているんです。

「こういったことは、数学のように現実から遊離した分野だけではなく、物理学だとか妖理学だとか、現実に密着した分野でも起こり得ます。例えば、砂流原さんにも分かりやすいように物理学の例をとってみましょうか。私達のスケール、私達が感覚しているようなスケールにおいては、時間は絶対的なものに思えますよね。どこでどのように運動している物体であっても、時間は同じように流れているように思える。ということで、過去においては、時間が絶対的なものであるという前提のもとに物理学は組み立てられていた。しかしながら、スケールがあまりにも巨大になった場合、つまり光速のようなスケールで見た場合には、実は、相対的に運動している二者の間では、時間は異なった進み方をしているということが分かるわけです。

「あるいは、非常に小さなスケールにおいて、つまり基本子だとか不定子だとかのスケールにおいては、この世界が局所的であるという前提さえも否定されてしまう。つまり、過去の物理学においては、ある空間を挟んで離れている二つの物体はなんの関係もない別個のものであるという前提のもとに論理が組み立てられていたわけですが、そのような前提も、やはり、私達のスケールでしか通用しない先入観でしかなかったわけです。

「私達のスケールを超えた世界では過去の物理学が通用しなくなってしまったように、微分だとか積分だとかそういったものだって、他の観点からみれば、非常に極端だと私達には思えるような観点からすれば通用しなくなるかもしれない。いや、分かりませんよ。結局のところ曲線はやっぱり直線で、微分はいついかなる時も正しいかもしれません。けれども、今の段階では、それがそうであるのかどうかということは誰にも分からないわけです。今の数学において無矛盾的であるというだけの話なんです。

「要するに、自然学で取り扱われている全ての議論は、人間の感覚をベースとして作り出された恣意的な記号に過ぎないんですよ。そして、そうである限りは、やはりなんらかの価値判断であり、なんらかの思想であるに過ぎないんです。科学は共通言語でもなんでもない。科学はね、一種の宗教なんです。それが力の焦点を決定し、あるいは世界に関する説明形式の一つであるという意味で、それは宗教以外の何ものでもない。そうであるならば、その宗教がドグマとしていること、この場合は人間的な感覚であったり、人間的な関係性の理解であったり、そういう人間的な現実把握の方法であるわけですが、そのようなドグマを共通して持つ何者かにしか通じ得ないんです。科学は普遍的言語ではないし、それどころか共通言語にもなり得ないんですよ。

「そもそもの話として、ある生命体とある生命体とが「通じ合う」ということを価値として定めていること、それ自体が一つの人間的な想像力の欠如に過ぎないんです。例えば孤立捕食種のように「通じ合う」という機能そのものが欠如している生命体もいます。あるいは、この広い広い世界にはコミュニケーションという概念さえ理解出来ない生命だっているわけです。コミュニケーションという方法さえ普遍性を持ち得ないのであれば、言語そのものがある種の限定性を孕んでいる。自然学は言語であり、自然学は信仰なんです。数学的記号さえも現実の取捨選択、あるいは恣意的な決めつけの上に成り立っている以上は、人間という種族の自己表出がべたべたと纏わりついている代物なんです。そして、そんな代物を普遍的真実といっていること自体が、要するに自分自身の肯定としての一つの思想なんですよ。

「そうであるならばですよ。例えば、物が上から下へと落ちていくことに関して、目に見えない天使がそのように物を上から下へと引っ張るがためにそのようなことが起きるのだと主張している宗教があるとします。そして、そのような天使は人間とは異なる完全な存在であるため、毎回毎回、絶対的な精度によって、科学でいうところの重力加速度と同じ速度でそのような力を働かせるのだといっているとしましょう。このような宗教が、科学となんの違いがあるというんですか? この天使の仮定が、科学における絶対空間だとか絶対時間だとかの概念と、一体なんの違いがあるっていうんですか? この宗教が、現実について認識も説明も出来ず、わけが分からないまま記号的な置き換えを行なうことしか出来ないのと同じように、やはり科学もそのように現実を取り扱っているに過ぎないんですよ。

「こういうことをいうと、必ずこのような反論が出てきます。確かに、科学もやはり恣意的な決めつけを行なっているかもしれない。だが、科学は、そのような決めつけが決めつけであるということを自覚している。そして、そのことによって、宗教のような排他的体系よりも価値中立的に世界の構造を描き出すことが出来る。その証拠として、まさに絶対空間と絶対時間と、この二つの概念は科学によって否定されたではないか。

「まさにこのような反論こそが科学の宗教性をそのまま映し出しているわけですよ、砂流原さん。つまりですね、宗教の宗教たる所以は、その教義が反論不可能であるからではないんです。そうではなくて、その絶対的な枠組みが破壊不可能であることによって、それは宗教なんです。つまり、先ほどの例でいえばですよ。重力は、人間のような姿をした天使が、その手のひらによって引っ張る力だという教義があるとします。しかしながら、天使のようなものの姿は見えない。その代わりに技術が発展して、重力の相互作用においては、重力子が担体になっているということが判明した。その時に、この宗教はどのような変更を行なうだろうか。

「この宗教は、重力子こそが天使であるという教義の変更を行なうんですよ。つまり、天使は人間の姿をしているわけではなく粒子状の存在であり、手で引っ張るわけではなく重力場となることによって重力の相互作用を発生させるという、教義の変更を行なうんです。このように教義が変更されたからといって、その宗教自体は破綻するわけではありませんよね? むしろ、事実によって裏付けられたことで、一層強力な枠組みとなるわけです。

「このような教義の変更が、科学においては、あなたがおっしゃったところの絶対空間と絶対時間との否定、そのような形で表われてきているというだけの話なんですよ。だって、こういった否定が行わわれたとしても、科学そのものの構造、科学という枠組みそれ自体は全く否定されていないわけじゃないですか。私達は、相も変わらずあらゆるものを数字という表現、つまり、人間の感覚をベースにした世界把握の方法こそが正しい方法であり、そのような世界把握は一つの基準点からの差異の関係性によって表現出来るという、関係性の絶対を信じ続けているわけです。フクロウ派がオンドリ派を否定しようとも相変わらずトラヴィール教会であるように、教義が変更された科学もやはり科学でしかないんですよ。

「科学がよく持ち出す、科学は宗教によって弾圧されただの、それによって真実が抑圧されただの、そういった話は、枠組対枠組みの闘争の話に過ぎないんです。ここで表現されているのは、宗教は抑圧的で真実を認めないが科学は偏見なく物事を見ることが出来るなどという話ではない。ただ単に、科学が、科学こそが絶対的な真実であるにも拘わらず、他の宗教はそれを認めないのであるという、まさに排他的な宗教の原理主義性を露わにしているに過ぎないお話なんです。

「と、まあ、このような議論によって、いわゆる自然学と呼ばれているものが、普遍的な真実を表わすものなどではさらっさらにないということ。人間の感覚を絶対視し、関係性こそ最も素晴らしい言語であると主張するところの、ただ単なる宗教の一種に過ぎないということをお分かり頂けたと思います。それでは、完全変質とは一体なんなのか。科学が人間至上主義的思想に過ぎないというのであれば、それは完全変質ではない。だって、少なくとも私達が定義したところによれば、それは思想というよりも現象なんですからね。まあ、実際にそうであるのかどうかということは置いておいてですね、そうだとすれば、科学だとか魔学だとかそういったものは、少なくとも完全変質それ自体ではないということになる。

「それでは完全変質とはなんなのか? 別に自然学的なあれこれでもいいですし、あるいは他の宗教によってもたらされるものでもいいのですが、そのような世界に関する説明方法によって作り出されたところの、現実における現象・事物をある程度制御し、あるいはある程度操作するところの技術。そのような技術によってこの現実にもたらされたところの結果こそが、完全変質なんです。つまり、方法はなんでもいい。なんかの影響を与え、そして、それが何かを起こした、その変化こそが完全変質なんです。

「それでは、完全変質は、本当に人間存在の問題を解決出来るのか。つまり、それが何であれ人間が起こしたことが、その結果として人間存在の問題を解決出来るのか。それを考えていきたいと思います。ただ、とはいえ、この問い掛けは答えを得るにはあまりにも抽象的過ぎるところがありますね。人間存在は、果たしてどのような問題を抱えているのか。そこのところがはっきりとしていません。もちろん、そのような問題をはっきりこれと指し示すことには非常な困難が伴いますし、そもそもそんなことは不可能なのかもしれませんが……まずは、仮に、どのような問題があるのかということの具体例を挙げていくことにしましょう。

「そして、そのような具体例を挙げていくためには、実際に今ある問題を考えていくよりも、今となっては既に解決されたとされている問題を考えていった方が、より一層議論がしやすいと思います。なぜかといえば、先ほど私達が決めたところの定義によれば完全変質とは人間の行為が引き起こす結果のことであるわけですよね。そうだとするのであれば……もちろん、例えば優生学であるとか環境改変技術であるとか、そういうものによって加速されはするでしょうが、そういうものの前にもやはり人間には完全変質が起こっていたわけです。人間はとあるレベルからそれ以上のレベルになっているわけですね。そうだとすれば、そのようなレベルの上昇が本当になんらかの役に立っていたのかどうか。そのことを検証すれば完全変質が本当に役に立つのかどうかということをある程度は確認出来るというわけです。

「さて、いわゆる技術の進歩なるものによって人間はどのような問題を解決してきたのか。砂流原さんにも分かりやすいように、ここでは神学だの巫学だのはおいておいて、科学技術及び魔学技術に限定して考えていきましょう。まず、一番最初に思い付くのは生産技術の向上ですね。食料、それも主に農業に関するそのような向上について考えていってみましょう。

「農業技術の発展においては非常に重要な二つの要素を勘案しなければいけないでしょう。まず一つ目は、四大高等種戦争の勃発によって、イタクァが保有していた形相子偶有化系の品種改良技術が人間にもたらされたということ。こちらは科学的側面ですね。そして二つ目、第二次神人間大戦時に発達した結界技術を利用することによって、結界で囲った農地を魔学的に肥沃化することが出来るようになったということ。こちらは魔学的な側面です。この二つの技術革新は、それぞれ第一次農業革命・第二次農業革命と呼ばれていますが、その名前の通り、農業生産物の増産に莫大な影響を及ぼしました。特に第一次農業革命は、その革命によって世界の総人口を飛躍的に上昇させ、第二次神人間大戦を起こすための土台を形作ったといわれているほどです。

「形相子偶有化技術によって生み出された新品種の玉黍であるMrs.Wendy……あはは、Mrs.Wendy, so breedy.のMrs.Wendyですよ、とにかく、その玉黍は、単位面積当たりの収穫量を約二倍にまで引き上げた。あるいは、結界農法は主にサヴィエト・エスカリアなどで取り入れられたわけですが、エオストラケルタ大陸北方の広大な不毛の地、ステップ地帯を農業可能な土地へと変貌させた。現時点においてはまだ十パーセントを開墾したに過ぎませんが、それでも、それによって引き上げられた農業生産量は、例えば小麦で見るならば、サヴィエトにおける一年の消費量の約二十パーセントを占めるほど莫大なものです。

「このような科学的・魔学的発展は、いうまでもなく人間に対してある種の変質をもたらしました。もちろん、ちょっと考えた限りでは、人間を人間以上の何かに引き上げたようには見えないかもしれません。人間が肉体的な変貌を遂げたわけではないわけですからね。とはいえ、それは人間存在を人間の肉体の範囲内に限ったものの見方をした場合にはということです。人間存在を、人間の肉体と、それを取り巻く環境と、この二つの双方を合わせた何ものかであると定義すれば、このような技術の発展によって、ある意味では、人間存在が完全変質したのだといえないこともないわけです。

「それでは、このような完全変質によって人間存在における問題が解決したのであるか。ここで取り上げられる問題はいうまでもなく飢餓ですが、それは農業革命によって解決したのか。一見すると、という言い方はおかしいかもしれませんが、とにかく、見た限りでは、解決とまではいかなくても、そのような方向に進んでいるように見えます。

「つまり、農業革命によって、間違いなく飢餓という問題のうちの一部分は解決しているわけです。例えば第二次農業革命は愛国の農村部における貧困をかなり軽減しました。博愛中央の指導の下で、それぞれの地方政府が、それぞれの地方の環境条件に最適化した耕作地結界をインフラストラクチャーとして整備することによって、農産物の生産高を向上させた。そうすることによって、それまではちょっとした気候条件の変動によっていとも容易く飢餓が蔓延してしまっていた農村部の食糧問題を、そのほとんどの部分を解決してしまったわけです。

「え? ああ……あはは、そうですね。サヴィエトだとか愛国だとか、そういった人間至上主義過激派の国々が結界農法のような魔学的な技術を導入しているというのは少し不思議に思えることかもしれません。しかしながら、よくよく考えて頂きたいのですが、結界農法のような魔学的技術を使うということは、別に人間至上主義に反することではないわけですね。だって、魔学的な技術を支配し、あるいは実際に使用しているのは、ほかならぬ人間であるわけですから。まあ、まあ、休戦協定がありますから、そのような魔学的な技術が使用出来る方はごくごく一部に限られているわけですが……まあ、そういった話は今の議論とは関係ないので置いておきましょう。

「とにかく、農業革命によってたくさんの人々が飢餓状態から解放されたわけです。そうであるならば、完全変質によって、人間存在の問題が解決したように思える。いうまでもなく、そのような問題が、現時点において、絶対的かつ根源的に解決したというわけではありません。とはいえ、完全変質は、そのような問題を徐々に徐々に解決しつつある、そして、いずれの日にか、すっかりまるまる解決してしまいそうに思えるわけです。

「ただ、ちょっとここで立ち止まる必要があるかもしれません。たった今触れた通り、飢餓問題は未だにその全体が解決したというわけではないのですが、それがなぜなのか。つまり、なぜ結界農法は飢餓問題を完全に解決出来なかったのか。この問い掛けは、さほど重要ではないように見えて、実は、完全変質に関する非常に根本的な不完全性を理解する鍵となるものなんです。ということで、先ほど触れた愛国における事例から、このことについて考えていってみましょう。

「結界農法は、愛国農村部における飢餓問題のほとんどを解決出来た。しかし、その全部は解決出来なかった。そのような事態は、非常に多くの原因が複雑に絡み合ったことによって発生しました。そのような原因の中でも最も大きいものは、人口問題です。結界農法によって食料に関する不安が一時的になくなったことで、農村部において爆発的に人口が増加しました。具体的にいえば、結界農法が本格的に取り入れられ始めたベルヴィル記念暦九百五年から、その十年後のベルヴィル記念暦九百十五年までで、農村部の人口の増加率はなんと約十パーセントにも及んでいます。そして、ベルヴィル記念暦九百五年時点の農村部の人口と、現在の農村部の人口とを比べると、なんと約二.五倍にもなっている。明らかに人口が過剰になってきているわけです。

「もう一つ、問題の大きな原因となっているのが、それぞれの地域において、生産している農作物の種類が非常に偏ってしまっているということです。結界農法は、先ほども申し上げた通り、ある一定の範囲を結界で囲み、その結界内部を農作物の育成に最適な環境に変化させることで、普通であれば耕作が不可能な土地を耕作可能にするという技術です。ただ、ちょっと考えてみれば分かると思うのですが、いくら結界農法であっても、どんな農作物でも耕作可能な、それこそ魔法みたいな土地を作り出すことなんて出来ないわけですよ。となると、当然ながら、結界を作る際には、ある特定の農産物に最適化された結界を作ることになるわけです。

「また、愛国における結界農法の導入が中央集権的な形で行なわれたということも考慮に入れておかなければいけないでしょう。つまり、博愛中央が全体的な計画を立てて、それぞれの地域に対して、その計画に従ったインフラストラクチャーの整備をさせていったということですね。で、そういう中央集権的なやり方をする場合、往々にして効率化が重視されることになる。農業における効率的なやり方というのは、これはもう集約的な方法でそれを行なうことであるわけですね。

「結果的に、次のようなことが起こったわけです。つまり、博愛中央が、それぞれの地域に最適な、というのはそのような作物を作るための結界を維持する魔学的エネルギーが最低限で済むということですが、そのように最適な作物を決定する。もちろん、国策的にどのような作物がどれだけ必要なのかという観点をも考慮に入れてこの決定はなされたわけですが、とにもかくにも、各地域は、そのように中央によって決定された作物、せいぜいが数種類の作物だけを耕作することになったわけです。その数種類の作物しかまともに育たないような結界が整備されたわけです。

「ということは、どういうことかといえば、それまで農村部がそうであったような、自給自足の生産体制ではなくなってしまったわけですね。例えば、茶葉だけを生産している地域に住んでいる方々が、その茶葉で飢えを凌ぐことは出来ないですし、あるいは米でも野菜でも果物でもいいのですが、そういうものだけ食って生きていけるわけではない。

「ところで、愛国は、第二次神人間大戦後の短期間は共産主義体制をとっていました。エコン族の神々を警戒していたんですね。資本主義のことを神授的資本主義と呼んで注意深く退けていた。しかしながら、やがて、共産主義では国家が立ち行かなくなり――あはは、愚かな人間の限界、計画経済の失敗ですね――結局のところは、エコン族の神々を受け入れざるを得なくなった。裏で手を結んだわけです。そして、愛国は、現在では、いわゆる「人間的均衡を保った博愛主義」と呼ばれる体制をとっています。手っ取り早くいえば、まあ、国家介入型の修正資本主義ですね。つまりですね、地域間における物品の交換は、共産主義的に全てが管理されているわけではなく資本主義の原理にのっとって行なわれているわけですよ。

「ということはですよ。以上の様々な要素が絡まり合うと、次のような結果が因果の帰結として起こってしまうわけですね。つまり、ある地域において、博愛中央からその農作物だけを生育するように指示された農作物の生産量が非常に増加する。自然とその農作物の価値はその地域の生活レベルをぎりぎり保てる程度まで低下する。そこで予想外の事態が起こることによって、というのはつまりコーヒーブームの突然の到来によって茶葉の消費量が劇的に落ちてしまうとかそういうことですが、その地域で生産している農作物の価値が、その地域の経済が全く立ち行かなくなるまでに、その地域の生活を保てなくなるレベルまでに、下がってしまう。こういうことが起こりうるようになってしまうわけですね。

「と、まあ……以上のような二つの理由だけを挙げてみても、非常に不吉な事態が想定されてしまうわけです。つまり、まず第一段階として人口の莫大な増加が起こり、結界農法によって増加させた食糧生産をも上回りかねないほどになってしまう。そのことによってただでさえ逼迫していた食糧事情が、第二段階、その地域で生産していた農作物価格の凄まじい下落が起こることでほとんど破綻してしまう。茶葉だけならいくらでもあるが、まともに食える物が地域にはほとんどなくなってしまう。今の愛国農村部は、そういったことが起こりかねない状況にあるんですね。

「というか、実際に起こってしまってるんですよ。例えば飛馬道南部ですが、ここに割り振られた農作物は主に輸出に回される高付加価値品、贅沢品というか嗜好品というか、とにかくそういうたぐいの果物でした。非常に高価な農作物であったために、最初の頃は上手くいっていたのですが……ただ、飛馬道が非常に不運であったのは、そのような果物の主な輸出先がサヴィエトだったことですね。砂流原もご存じの通り、愛国とサヴィエトとは、ただでさえ領土問題でぎくしゃくしていた。それがエスカリア独立戦争後、サヴィエトから一方的に独立したエスカリアの国際的な地位を巡って遂に決定的な対立関係が生まれてしまったわけです。

「今では、まあまあ関係も改善されたわけですがね。それでも、エスカリア独立直後は、お互いに経済制裁に次ぐ経済制裁でまともな貿易が行なわれないというレベルにまで達していたわけです。飛馬道南部の方々は、その煽りをまともに受けてしまった。大量に生産した果物がほとんど売れなくなってしまったわけです。

「そして、なお一層最悪なことに、飛馬道南部は愛国農村部において二番目に人口増加が高い地域だった。膨大に増えた人口を養う手段が、エスカリア独立戦争によって、一瞬にして消えてしまったわけです。あはは、一時期の飛馬道南部は悲惨な状況だったらしいですよ。高い果物を、豚だの鶏だのそういった家畜に食わせてなんとか食いつないでいたけれど、そういった家畜も全部食べてしまうと、もう畑で腐りかけた状態で転がっている果物しか食べる物がなかったわけですからね。

「まあ、まあ、おかげで飛馬道南部では干し果物の技術がかなり発達したそうですがね。それはそれとして、ここで農業革命に関する重要な問題点が浮かび上がってくるわけです。それは、農業革命によって解決したはずの問題が、農業革命という技術が持つ特性のようなもの、つまり人口増加だとか生産物偏向だとか、そういった特性によってふたたび立ち現われてくるということです。

「ちょっと考えた限りでは大したことがないように思われるかもしれません。これは農業革命にとって、というか完全変質にとって本質的な問題ではないように思えるかもしれない。だって、このケースにおいて、農業革命が農業革命として達成しなければいけない結果は達成されているように思えるから。その結果とは、つまり農業生産の増加ですね。そうであるならば、その他の問題に関しては、また別途考えるべき問題であって、この農業革命という完全変質にはなんの問題もないのだと、そう思えるかもしれない。

「しかしね、そういった考え方は、実はおかしいんです。これは人間的な、極めて人間的な観点から問題を捉えようとした結果、非常におかしな結論に陥ってしまったとしか言いようがない考え方なんです。なぜかというと、そもそも、私達が農業革命によって達成しようとした結果は、農業生産の増加ではないからなんです。そうではなく、ここで目標とされていたのは、飢餓の克服なんです。そもそもの話としてですよ、農業革命の目標が農業生産の増加だという主張は、トートロジーと言わないまでも、非常に奇妙に捻じ曲がった主張と言わざるを得ない。

「だってですよ、なりふり構わなければ農業生産なんていくらでも増加するんですよ。例えば、地上の全ての都市を完全に破壊した上で、その都市の住民を皆殺しにして肥料に変えて、そのようにして作り出された耕作地において、都市に住んでいなかったがゆえに生き残った人間を奴隷として働かせることで農業を行なえば、農業生産は増えるんです。そりゃあ、たぶん、一時的にしか増えないですし、結果として人類は滅びるでしょうよ。でもね、ここで言いたいのは、まさにそういうことなんです。私達が問題解決という場合の問題解決とは、ただ単に農業生産を増やすだけじゃ駄目なんですよ。あらゆる条件を勘案して、そのような条件を全てを満たした上で、まさに完璧な結果として、人間存在に傷一つなく、飢餓が解決されなければいけない。

「おんなじなんですよ、何も変わらない。いわゆる農業革命も、今私が提示したような極端な事例も、結局のところ何も解決出来ていないという意味では同じなんです。農業生産が増えたからいいだろうというのはね、欺瞞なんですよ欺瞞。物事の全体を見ることが出来ないがゆえに、問題の本質を理解出来ないという人間の愚かさ。また、自分が何かを成し遂げたということを、それがどれほど無意味な結果であったとしても、なんとか肯定したいという人間の愚かさ。そういった愚かさが、本当は何も解決していないということを見えなくしているんです。

「問題を解決した、それによって何か別の問題が起こったが、そのような問題は副作用に過ぎない。実際に問題は解決されたのだから、そのことの方がはるかに重要だ、こういう見方はただ単に間違っているんです。正しい見方はこうなんですよ、「副作用が出た以上は問題は解決していない」。問題の解決とは、常に最終的な解決を指すんです。副作用が出たということは、問題は、少しも解決していないということなんです。

「つまりね、農業革命は、結局のところ何も解決出来なかったんですよ。諸条件を全てクリアしてこの世界から飢餓をなくすことに完全に失敗したんです。まず第一に、その革命を享受出来たところでは、農業革命自体が構造的に内包している欠陥によって失敗した。つまり、農業革命によって農業生産が増加しても、その増加に追いつかないほどのスピードで人口が増加してしまう。その人口増加に合わせて更に農業生産を増加させて……といった風にどこまでもどこまでも繰り返していけば、結局のところ、最終的には物質的な限界が来る。つまり、これ以上は品種改良が出来ないというところまできてしまったり、生産を増やすための土地がなくなったり、そういう終わりを迎えてしまうということです。

「そして第二に、そもそもそのような革命を起こすことさえ出来なかった方々もいるわけです。例えば、ダニッチ大陸においては第二次神人間大戦の影響が尾を引いている。あはは、あそこは神々への依存が非常に強かった地域ですからね。人間だけでは集団を統率していくことさえままならない状態にある。パンピュリア共和国のノスフェラトゥの介入によって……というか、まあ、正確にはノスフェラトゥの威を借りたミミト・サンダルバニー個人の介入といった方がいいのですが、とにかく、そのような介入によって辛うじて国家の体裁を保つことが出来ていたワトンゴラのような例外を除けば、ダニッチ大陸は未だに混沌の中にあるわけです。そのような場所では、そもそも、農業革命なんかにかまけている暇はないわけですよ。もっと切実な、現実の、集団的な、革命に次ぐ革命、内紛に対処しなければいけないわけですからね。あるいは、中央ヴェケボサニアの国々のように、単純に技術面で追いついていない国々もある。結界農法を行なうことが出来るほどの魔学力がなく、そのせいで広大な草原地帯を未だに開墾出来ずにいる中央ヴェケボサニアのようなね。

「要するに、何もかも駄目だったわけです。農業革命が出来たことっていうのはね、所詮は右にあった問題を左に動かした、その程度のことなんですよ。と、まあ……こういうことを言うとですね、例えば、このような反論をしてくる方がいらっしゃるんですね。確かに、農業革命は、飢餓という問題を解決することが出来なかった。その解決に向けて大幅な前進をしたということさえ出来ないかもしれない。だが、しかし、確かに一歩は踏み出したのだ。そして、そのことについてはお前も認めているはずなのだ。なぜなら、お前は、愛国における結界農法の導入について話した時に、農村部の飢餓が改善したといったじゃないか。例え一部であっても、例え一時的であっても、そのように改善していくのであれば、それはやはり問題解決に向かっていることの証明なのだ。

「はい、はい、はい、なるほどなるほど。確かに、私も、あなたがおっしゃるところの「改善」というものがなされたことに関しましては、それは否定はしませんよ。それどころか、私はこのようなことさえも認めましょう。私が先ほど挙げたところの、農業革命における様々な問題点。それが農業革命そのものの問題であっても、あるいは農業革命を起こすことが出来ないという問題であっても、やはり、いずれは、完全変質によって解決するでしょう。例えば人口増加の問題であれば、人間の本能をなんらかの方法で操作することによって、その空間において最適な人口を常に保ち続けることが出来るようになるでしょう。あるいは、ダニッチ大陸の混乱は社会的インフラストラクチャーの整備によって治めることが出来るでしょうし、中央ヴェケボサニアの技術だっていずれは進展するでしょう。私は、そのような「改善」を否定しません。

「私が言いたいのは、そのような「改善」なるものが、決して解決には繋がらないということなんです。どのような「改善」が行なわれたとしても、必ず、絶対に、何があろうとも、人間存在という一つの絶対的問題は解決しない。よくよく考えてみて下さい。今まで、幾つの「改善」がなされたと思いますか? 今まで、幾つの完全変質がなされたと思いますか? そのことによって、人間存在が、一体、ほんの僅かでも素晴らしいものになりましたか?

「いくら自然学が発展しても、今、まさにこの時、餓死している人がいるじゃないですか! あるいは、そのような自然学の発展のせいで、今、まさにこの時、地獄のような生を送っている人がいるじゃないですか! 人間が、例え下等であったとしても知的生命体になった。そのことで、一体、どれほどの人間が絶望の底で藻掻き苦しみながら死んでいくことになったと思ってるんですか? 人間が過去の人間から現在の人間に完全変質したことで、科学の名のもとに、魔学の名のもとに、どれだけの非道が行なわれてきたか! 人間が人間としての知性を発達させることで、一体どれだけ残酷な快楽が生み出されてきたか!

「まさに今、その眼窩に射精するために、目を抉り出されている少女がいるんです。まさに今、兵器として利用するために、脊髄に金属を流し込まれている少女がいるんです。そのことについて、あなたはどう言い訳なさるおつもりですか? あなたはこういうことすらも問題解決に繋がる「改善」であるとおっしゃるんですか! いい加減にしてください! このような苦痛は、このような絶望は、まさに完全変質によって新しくもたらされたものなんです。そして、それは、放っておけばそのような問題が生まれ得なかったはずの、新しい最悪の問題なんです。

「つまりね、自然学が発展し、現在の人間存在が過去の人間存在以上の何かになったことで、人間存在はより良いものになっているのではないんです。確かに、ある一部では「改善」されてもいるでしょう。しかしながら、他の一部では、問題はさらに悪化している。これこそが、先ほど私が申しあげた、「右にあった問題を左に動かした」ということの意味なんです。問題は解決したのではない。過去においてそのような形であった形とは全く違う形になったという、ただそれだけの話なんです。

「そして、あなたが人間存在が良いものになったと考えているのは、それは、あなたがたまたま「右側」にいたというだけの話なんです。たまたま、あなたが眼窩に射精された少女ではなかった。たまたま、あなたが脊髄に金属を流し込まれた少女ではなかった。たまたま、あなたが被害者ではなかった。ただそれだけの話なんです。確かにあなたの問題は「改善」されたのでしょう。しかしながら、あなたの問題が「改善」するために、一体どれほどのものが今まさに犠牲になっているのだと思いますか? どれほどの実験動物があなたのために苦痛にのたうち回り、後進国の人々があなたの欲望を満たすためにどれほど搾取されていると思いますか? 「左側」にいる人々が、一体、どれだけの問題を抱え込まなければいけなかったと思っているんですか?

「あるいは、あるいはですよ。いいですよ、認めましょう。仮に、今はそうではなかったとしても。未来においては、語の真実の意味において物事が改善していくということを。つまり、問題が、単にその場所を移動するというだけではなく、世界から確実かつ不可逆的な形で苦痛の総量が減っていくということを。私は、そのことさえも認めて構いません。しかしながら、それでも人間存在の問題は解決しないんです。なぜだか分かりますか? それは、人間という生き物は、それどころかこの世界におけるあらゆる存在、あらゆる概念、あらゆる生命は、この世界そのものをこの世界そのものとして完全に理解することが絶対的に不可能だからです。

「まず、第一に、問題の解決とは何かということをあなたの絶対的な真実に賭けて考えてみて下さい。果たして、果たしてですよ。この世界に、たった一人でも、苦しみのために、痛みのために、悲哀のために、絶望のために、涙を流す人間がいるのであれば。それは人間存在の完全な解決といえますか? 言えません、言えませんよ、そんなことはね、その心の中に少しでも誠実がある人間であれば、絶対に言えないはずなんです。一滴の涙であっても、真実に流されるのであれば、ただそれだけの理由で、この世界は完全な失敗なんです。そうであるならばですよ、次第次第に世界が良くなっていくなどということには全く意味がないんです。あらゆる生き物が、それどころか、あらゆる「それ」と名指し出来るものが、絶対的かつ不可逆的に苦痛から解放される。これだけが、問題の解決といえる何かなんです。

「そうであるならばですよ。私達は、この世界そのものを理解出来ない限りは、問題を解決出来ないんですよ。だって、この世界に一つでも問題が残り続ける限りは、人間存在は解決され得ないんですから。どこにも問題が残らないためには、世界そのものが現在においてどうであるのかということの全てを知らなきゃいけないのは当たり前の話でしょう?

「あるいはですよ、今起こっていることからも明らかなことですが、ある完全変質には必ず副作用がついてくるんです。私達が知性を有し始めたから、より一層残酷な行為をするようになった。私達が世界をよりよくしようと思って何かをする時、その行為には、必ず反作用が起こってしまうんです。そうであるならば、世界が現在どうであるかということだけではなく、このことをすればこうなるということ、時間軸における可能性についても完全に理解しておかなければならない。

「つまり、世界を完全な形で把握しなければいけないんです。しかしながら、残念なことに、それは私達には不可能なことなんです。いえ、いえ、違います。これは人間という生き物が所詮は下等知的生命体に過ぎないだとか、そういったことを言っているわけではありません。例え、今の人間がどれほど愚かであっても。完全変質によって――現実にそれが可能かどうかはおいておいて――少なくとも理論上は――高等知的生命体になることはあり得ることなんですからね。

「私が言っているのは、私達がこの世界よりも小さい存在である以上は、私達の中に世界をそのまま包み込んでしまうということは論理的に不可能だということなんです。えーとですね、もう少し分かりやすく申し上げますと……私、こういう言葉を使うのは、あまり好きではないんですけどね。エントロピーってありますでしょう? 一般的な意味においては確率決定系における無秩序を数値的に表わしたものですが、ここでは無秩序そのものを指し示す言葉として使わせて下さい。

「さて、私達が何かについての知識を得るためにはですよ。私達の無秩序が、つまりエントロピーが、その何かよりも小さくなければいけないんです。なぜかといえば、私達は、あるものを理解する際に、そのものが秩序的である分だけ私達の秩序を消費しなければならないからです。ここでいう私達というのは非常に広い意味でとっていて、私達自身及び私達を取り巻く環境ということなのですが……例えばですね、私達がスマートデヴァイスを使ってある情報を処理する場合、その分だけエネルギーを消費するでしょう。その結果として熱を放出する、その結果としてエントロピーは増大する。これは、実は、不可避の現象なんです。

「この世界においてエントロピーが、その総量において小さくなるということはあり得ないんです。いや、正確にはあり得るのですが、その確率はあまりにも少ない。エントロピーが大きくなるという確率が、エントロピーが小さくなるという確率に比べてあまりに大き過ぎるがゆえに、なんらかの特別な出来事が起こらない限りは、そんなことは起こるはずがないといってもいいような状況なんです。私達のような生物が発生したということは、確かにこのエントロピー増大の法則に反しているように思えますが、実際には、私達が生まれたということで、宇宙の他の部分にあったはずの膨大なエントロピーが消費されている。結果的に、私達プラス私達の環境という広い意味での私達について、エントロピーは増大していることになるわけです。

「それで、ですよ。これは砂流原さんも同意して下さるでしょうけれど、知識というものは間違いなく秩序なわけですよ。様々な物質や現象、あるいは関係性といったものを整理して、それを一つの秩序系として理解することが知識であるわけです。そうであるならば、とある何かしらについての知識を得ようとする際には、やはりその秩序と同じ分だけの、あるいはそれ以上のエントロピーが生まれ出なければいけないんです。

「例えばですよ、例えば、このマグカップを例にとってみましょう。このマグカップを完全に理解するには、このマグカップ一つ分の秩序を知識の形で新しく作り出す必要がある。私達は、脳髄だとかなんだとかの情報処理器官を使ってそれを作り出すわけですが、その際に、食べ物だとか飲み物だとか、そういったものから低エントロピーを取り出して、その分だけ私が所属している環境のエントロピーを増加させているわけです。まあ、いうまでもなく、私達はマグカップそのものを物自体として完全に理解出来るわけではありませんので、私達が理解出来た分だけしかエントロピーを増加させていないわけですが……とにかく、知識は、そのような代償がなければ獲得し得ない。

「そうであるならば、世界そのものを世界そのものとして完全に理解するためには、世界そのものと、少なくとも同じ分だけのエントロピーの低さがなければいけないんですよ。それだけのエントロピーが利用可能でなければ、そのような知識は作り出せない。ただ、これは当たり前のことなんですが、この世界の内側に所属している私達、この世界の全体ではない私達は、そんなエントロピーは持っていないわけです。だって、私達は、世界の一部に過ぎないんですからね。世界全体のエントロピーを使い尽くしてしまうことなんておおよそ不可能なわけです。

「まあ、まあ、実際のところは手がないわけじゃないんですけどね。砂流原さんはケレイズィという種族に会ったことがありますか? あはは、もともとは借星で発生した種族で、色々あって今は別世界に生息しているんですけどね。ケレイズィは、その個体個体の周囲に、奇妙な球体を浮かばせていることがあるんです。で、それは、実は、オーダーズ・ヴォイドだったかなんだったかを応用して作り出したエントロピー減衰装置なんですよ。私は詳しいことは存じ上げないんですけどね。ああいった減衰装置を幾つか利用すると、この世界と同じか、それ以上の低エントロピーを作り出すことが出来るらしいんです。そういった方法をとれば、この世界一つ分の知識くらいであれば作り出すことが出来ないわけではないんですが……とはいっても、こういうのは非常に特殊な例ですからね。

「とにかく、ここで言いたいのは、この世界全体についての知識を得るということは人間には不可能だということです。ということは、ですよ。ここから、次のような二つの命題が導き出されることを避けることは出来ないんです。一つ目、人間はこの世界のどこに問題があるのかその全てを把握することが出来ない。よって、人間は、人間存在が流す涙を最後の一滴まで探し出すことは出来ない。二つ目、人間はある方法によって何かを改善しようとした時にどのような副作用があるのかということを完全に把握することが出来ない。よって、人間は、何かを解決しようとした場合に新しく問題を発生させてしまううことを避けることは出来ない。そして、この二つの命題から導き出される最終的な結論は、以下のようになるわけです。人間が完全変質によって人間存在そのものの問題を解決することは絶対に不可能である。」

 マコトは。

 そこで、一度。

 話を、止める。

 それから、カップの中に残っていたコーヒーを、一気に、全部、飲み干した。飲みくだした直後、吐きそうな顔をして、えーっと舌を突き出して。暫くの間、その究極の不味さとでもいうべき不味さに耐えていたのだが。きっと、これと同じほど不味いコーヒーなど、パンピュリア共和国夜警公社ブラッドフィールド本社通常化班のコーヒーくらいだろう。とにかく、なんとか、全部を飲み終わったらしかった。

 それから、またヴェールを拾い上げると。そのヴェールを適当に折り畳んで、一つの袋のような形を作り上げた。左の手に袋を持って、右の手にカップを持って。左の手を下ろして、右の手を上げて。そして、いかにも無造作に、ぱっと、右手、カップを離した。

 そのまま、あたかも、数学上でしかあり得ない自由落下という概念であるかのようにして、カップは、現実離れしたすべらかさによって落下していって……袋の中に落ちた。マコトは、それから、今度は、ぱっとヴェールを離した。袋の中に入っていったはずのカップは、もう、どこにもなくて。ただ、ひらひらと、ヴェールが落っこちただけだった。

 どこでもない。

 その場所、に。

「あはは、結局のところね、完全変質なんていうものは、大して頭が良くない動物の、くだらない悪足掻きに過ぎないんですよ。以前も申し上げましたよね? 人間がやってることなんて蟻が蟻塚を作ってるのと同じようなことなんだって。実は、人間どころか、人間以上の生き物どころか、この世界において過去に行なわれた行為、この世界において現在行なわれている行為、この世界において未来に行なわれるであろう行為、その全てがそういったたぐいのものに過ぎないんですよ。蟻が蟻塚を作ることが出来ても、鳥が言語を操ることが出来ても、猿が道具を使うことが出来ても、結局はこの世界全体を理解出来ていないように。人間も、人間を超えた人間以上の何かも、やはりこの世界全体を理解出来ないんです。

「例えばですよ……まあ、まあ、人間は粗雑な生き物ですからね。どれほど高等な生き物に進化出来たとしても限界はあるでしょう。いくら形相子をいじくったところで炭素ベースの生命体以上にはなれないですし、仮にスペキエース関連の技術を利用して形相子の一部分を偶有子化したとしても、ブラックホールのような超高密度の時空間そのものになることは出来ないでしょう。どんなに進化したところで、もとがもとですから限界があります。人間という存在を、人間そのものの肉体と、人間が作り出した機械と、その相互の改良過程……つまり、人間が高度な機械を作り出し、その機械によって人間の肉体を優れたものとし、そうして優れたものとなった人間が一層高度な機械を作るというループ構造と捉えたところで、このことには何も変わりありません。結局は、人間自体の限界によってそのループがいつかは破綻する。

「ただ、ここで、例えばの話として、人間存在をそれ以上のものとしてみます。人間が、これまで存在していたあらゆる生き物、どのような存在よりも優れた存在になりうるものと仮定します。で、そうであったとして、だからどうしたっていうんですか? 自分自身で自分自身を改造出来たとしても、あるいは、非常な幸運によってなんらかの進化の飛躍が起こったとしても、所詮はね、それは生物学的な改善に過ぎないんですよ。つまり、この世界のエントロピーが上昇するということが、この世界の構造としてあり得ないことである以上は、人間は、この世界のエントロピーが定める以上のものとなることは出来ないんです。

「もちろん、もちろんですよ、エントロピーを増加させる方法を発見出来れば、人間はそういった世界超越者になることも出来るでしょう。しかしながら、そのような知識を得るためには、そもそも「現在におけるエントロピーの低さを超えるエントロピーの低さ」についての知識が必要なわけですよね。そうである以上は、現在のエントロピーの低さに囚われている限り、そのような知識を得ることは絶対に不可能なわけです。つまり、人間がそのような知識を得ることは、世界の構造からして無理だというわけです。

「知識そのものが完全になり得ない以上、何かを知ったとしても何かを知ったこと以上の意味はない。あるいは進化に進化を重ねて超越的な力を得てもやっぱり意味がない。なぜというに、そもそも世界には意味がなくて、因果も縁起もなくて、全ては目的なく、「なりうる」ことが出来る何ものでもなく、ただただそこにあるというだけのそこにあるものに過ぎないからです。例えば、ブラックホールになってしまうほどの超巨大な知識を溜め込んだ生命体が、そのようなブラックホールを一つ一つ繋ぎ合わせて、神々さえ到達したことがなかったような知性を作り上げて、人間には認識しえないような方法で世界を認識することが出来るようになったとしましょう。それで、一体、何がどうなるっていうんです? やることはね、人間と、それどころかやっと単細胞生物になったような生命とだって、なんにも変わらないんですよ。

「何もかも、所詮は量的な違いに過ぎないんです。質というものが端的に否定される以上は質における変化なんてあり得ない。生命体はトラヴィール教会における主のような世界超越者にはなり得ないんです。何もかも、蟻の脳味噌で理解出来ることと人間の脳味噌で理解出来ることとの違いを超える違いにはなり得ない。やってることはね、単細胞生物も宇宙抽象生命も変わらないんです。つまり、食べるか寝るかその他の暇潰しをするか。それだけなんですよ。

「集合知性は素晴らしい! へえ、そうですか。でもね、人間だって細胞と細胞とが大量に集まって一つになった多細胞生物ですよ。その集合知性とやらとどう違うっていうんですか。宇宙は、単純に、この星がどこまでもどこまでも延長したような存在ではない! 宇宙には人間が知らないような奇妙な他者が、人間がコミュニケーション出来ないような他者がいるのだ! なるほどなるほど、左様ですか。それでは、あなたは単細胞生物とコミュニケーションがお出来になるんですか? それがどこまでも複雑であろうと、それが人間のパースペクティヴで理解出来ないものであれば、それはただ単に現象であることとどう違うんですか? それが人間的な意味でないというならば、それが意味であるということをどうして意味化出来るんです? それが人間的な意味ではないのにも拘わらず人間的な意味で意味とすることは傲慢ではないんですか? 意味というものが人間が恣意的に考え出した本来は存在しない概念である以上、人間的な意味ではない意味は、ただ単に単純か複雑かの違いだけで、結局は単細胞生物的な現象だと考えるのが人間至上主義を否定するような考え方ではないんですか?

「つまり、そういうことをおっしゃる方々は、本当に未知のものについて語っているわけではない。ただ単に「自分の考え出した未知のものはすごいだろう」といっているだけなんです。「どうだ、自分はあまりにも頭がいいから他人からするとこんなにも未知のものなんだぞ」といっているに過ぎないんです。つまり、骨の髄まで人間至上主義者だということですよ。

「まあ、とにもかくにも、私が言いたかったのは、完全変質でさえも人間存在を解決するには至らないということです。で、ですね。やっぱりというかなんというか、まあ毎度毎度のことなんですけど、私がこのようなことを言うと、それに対する反論が出てくるわけです。つまりこういう反論ですね。確かに、完全変質によって、人間存在を完全に解決することは不可能だろう。ただ、それでも、少しでも良くしていくことは出来る。問題の犠牲者を少しでも減らしていくこと、苦痛を和らげること、絶望を減らしていくことは出来る。それは、確かに意味のあることだ。

「いいですか、砂流原さん。私が、一体、このような意見の何が気に食わないか。このような意見を聞くと、なぜはらわたが煮えくり返るほどの怒りと憎しみとを感じるのか。それは、このような意見が、選ばれた側の者の意見だからです。完全変質によって利益を得た者の意見、権力者の、搾取者の、持てる者の意見だからです。つまり、このようなことをいうのは、救われなかった者のことを平気で踏み躙り、お前達が受けた被害など自分達が得た利益からすれば些細なことだと嘲笑う絶対的な強者なんですよ。

「そりゃあ、あなた方は幸せでしょうよ。あなた方は、完全変質によって問題を解決することが出来たんでしょうよ。じゃあ、救われなかった者はどうすればいいんですか? 未だに救われておらず、また、完全変質によって人間存在がそうでありうる最終的な段階まで到達した時に、未だに救われていない誰かはどうすればいいっていうんですか?

「いいですか、砂流原さん。「全ての人間が救われた」と「たくさんの人間が救われた」とは全く違うんです。全然違う。前者は解決ですが、後者は解決ではないんです。それどころか、より大きな問題にさえなりうるんです。だって、ちょっと考えてみて下さいよ。自分以外にもたくさん不幸な人間がいると思うと、なんとなく不幸の感覚がマシになった気がするでしょう? 一方で、世界で自分だけが不幸であると思うと、そこにはもういかなる救いもない。孤独であるということは孤独であるというだけで不幸なんです。つまり、「たくさんの人間が救われた」ということは、それだけで不幸の副作用を起こしうるんです。「私だけが救われない」という名前の副作用をね。

「救われる人間の量が多ければ多いほど現在よりも問題の総量が減るという考え方は、それ自体として、絶対的に許され得ない傲慢なんです。まさに人間の人間による人間のための思考法、人間性の思考法なんですよ。問題の解決に量は関係ない。問題というものは、問題が解決された時にしか解決され得ない。というか、「全ての人間が救われた」という状態にならない限りは、問題を解決したと思っている人々は、ただ、問題が解決していない人々に対してその問題を移転したというだけの話なんです。どんなに多くの人間が問題を解決したとしても、最後の最後に、たった一人でも救われていない人間がいるならば、その人間が、世界中の全ての不幸を背負っているというだけの話なんですよ。

「人間という生き物は、いつだって自分は何もかも理解しているのだと、そう考えていますけどね。それは勘違いなんです。私達はね、分からないんですよ。何も分からないんです。結局何がどうなっているのかということ、実際に今何が起こっているのか、何をどうすればどうなるのか、なーんにも分かっちゃいないんです。だから、人間が問題をどうにかしようとして何かをしても、それは絶対に問題の解決には繋がらない。だって、そもそも、これをこうすれば問題を解決すると人間が考えていること、その全てが、完全に、どうしようもなく、間違っているんですから。

「私は先ほど、完全変質について、動物が何かを使ったり何かを作ったりするのと変わらないというお話をしました。けれどね、実は、人間がやっていることはそんなレベルの話でさえないんです。動物どころか、そもそも中枢神経系がないような、思考能力が欠如しているような、そういう生命体がやっていることとさえ、何も変わらないんですよ。植物が成長していく、単細胞生物が増殖していく。人間の、あるいは動物の思考が、「より良く」を目指すものではなく、「より大きく」「より多く」を目指しているに過ぎない以上は――人間が、どれほど、自分は「より良く」を目指しているといっているのだとしても、それが原理的に不可能であり、また、それだけではなく、人間がそう思っていると思っているのは関係知性がもたらす調整機能が全く意味のない調整的結果としてそのようなノイズを出力しているだけの話であり、実際はその方向性の本質的な意味でそのようなものを目指していないのである以上は――あらゆる生命体は、結局のところ、落ちるべき坂道を転がり落ちている以上の何もしていないんですよ。

「それでも、「より大きく」「より多く」なっているのであれば、人間存在が巨大になることによって、その中から何か「より良い」ものが生まれてくるかもしれないではないか、量が多いということは、それだけで可能性が高まるということなのだ、という反論があるかもしれません。あるいは、人間が行為を続けていけば、偶然、たまたま、何か「より良い」ということが起こりうるかもしれないではないか、何もしなければ何も起こり得ないが何かをすれば少なくとも可能性だけはあるという反論もありうるでしょう。結局のところ、私が申し上げた意見は、ただただ極端なだけの意見だ。現実を見ておらず、抽象的で、それゆえに、世界がほどほど良くなる、それで充分であるという、妥協的な発想が完全に欠如しているのだと、そういう反論がなされることも十分に考えられます。

「でもね、そういう反論は、全部全部、完全に無意味なんですよ。なぜかといえば、私達は知っているからです。人間存在がその本質として有している問題は、そのほとんどが、まさに完全変質が起こったことによって発生したのだということを。よくよく考えてみて下されば分かると思うのですけれどね、人間はなぜ苦しみを感じ、なぜ痛みを覚えるんですか? いうまでもなく、中枢神経系でそう感じているからでしょう? つまり、中枢神経系がなければ、このような問題は初めから起こり得なかったんです。ということは、少なくとも、このような問題だけを取り上げて考えれば、人間が単細胞生物から完全変質を起こさなかった場合、それは起こりえなかったことになるんです。そうであるとすればですよ、私達にとって、完全変質という現象、それ自体さえも、やはり人間存在がその本源として有しているところの問題であるとさえ言うことが出来るんです。」

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