第三部パラダイス #31

「これは「内的必然説」の不必要に複雑だった部分を単純化した説で、簡単にまとめると、人間の行為の全ては外部から不可抗力的に与えられたものであるという説です。自分自身がそれをなすところの行為は、自分自身ではない何者かから与えられた所与の条件が、自分自身ではない何者かがそれと定めた契機によって、自動的に行なわれるものに過ぎないという説ですね。自分自身というものは非贈与性のもとにある何者かであるとする。

「この説の非常に特徴的なところは、自分自身というものが、偶然によって与えられたと主張するところですね。というか、この世界の何もかもが、完全な偶然性のもとに、なんの根拠もなく、なんの調和もなく、なんの因果もなく、ただただ偶発的な事象としてここにあるだけであると主張するわけです。本当は、私は私ではない何者かであることもあり得た。あるいは私というものが存在しないということもあり得た、私が完全な無であるということもあり得た。しかしながら、なんの理由もなく、私は私である。

「と、いうことはですよ。論理的に考えれば、これは虚無主義なわけですね。だって、この説によれば、私という私は、結局のところ何者でもないわけですから。私が私であることの本質的な理由もなければ、私の行為も、別に私がしていることではない。それならば、私はもう私と名乗ることさえ出来ないはずなんですよ。私は形而下においても私ではないし形而上においても私ではない、ただの無明の塊に過ぎない。

「しかしながら、「自動説」は、ここで奇妙なことをいい始めるんです。これはね、ふふ……はははっ! なんというか、非常に、非常に滑稽な、下手に色々いじくり回していたら存在の底が抜けたんで、慌ててそれを塞ごうとして間抜けな鼻面を突っ込んだというような感じの議論なんですけどね。なんと、この偶然は、未来から観察したときに必然に転化するということをいうんです。この転化の構造は二段階から成り立っているのですが、まず第一段階として、何者かから与えられたものに過ぎない自分自身という存在を、自らの意志によって受け止めるわけです。そう、なんと意志によって! なんとまあ、雄々しいばかりにまばゆい阿呆らしさですが、とにもかくにも、そのように受け止めることによって、自分自身という存在を、一つの実存として能動的に生きていくことが出来るようになると、こういう論理構成なわけですね。

「まともに物事を考えて喋ってるんですかね。まあいいや、それから、えーと、第二段階ですが、そのようにして自分自身を実存的に生きることによって、なんと、なんと、なななんと、現在というこの時間を生きる私のこの行為が、未来への可能性に繋がるというんですね。 未来への可能性! 私、安っぽい少年漫画以外で初めて聞きましたよ、この言葉。なんにせよ、現在を生きる私のこの行為は、未来において、なんらかの結実をなすところの可能性であると考えることが出来るようになるらしいんですね、「自動説」を主張する方々がおっしゃることによれば。現在における行為の意味が、未来の結果から、逆立ちした形で意味付けられる。虚無的な偶然に過ぎなかった私という存在が、未来に向かってある一つの可能的な投企をなすところの実存的な主体となる。その時に、初めて、全ての出来事は必然的な意味を持つ。無限に続く連鎖の中で、奔騰する一人の私になると。こういうことですね。

「いやあ、まあ、困ってしまいますね。一瞬、冗談でおっしゃっているのかと思ってしまいましたが、どうもどうも真面目にこのようなことを主張していらっしゃるようで。ちょっとまあ、一言申し上げさせて頂きたいのですが、甘ったれるのもいい加減にしろという話です。

「まず、この説を主張される方は、「私」というもののdepthを測り間違えている。「私」というものの悪を、全然理解出来ていない。私という「私」は、誰かから与えられたものではないんですよ。私は誰かのおかげで、というか誰かのせいで、「私」になったわけではない。だから、だからこそ、私は、私の苦痛を「私」として生きなければいけないんです。私が苦しみに泣き叫んでいる時、私が痛みにのたうち回っている時、私のその苦痛について、一体誰が責任を取ってくれるんですか? 誰一人、誰一人としてそんな責任は取ってくれないんですよ。つまり、私は、この「私」なるものを私によって受け止めなければいけないんです。

「「私」の苦痛を誰も肩代わりしてくれない。そして、「私」の悪も、やはり誰も許してくれないんです。「私」の悪について、誰がその悪を受け止めてくれますか? 悪である「私」を誰が抱き締めてくれるっていうんですか? 誰も、「私」の悪を、この「私」から掬い取ってくれはしないですよ。私が「私」であることの根源的原因、つまり、その苦痛と、その悪と。その二つには、まさにこの「私」以外の何者も介在していないんです。つまり、私を「私」として外部から与えたところの何者かなんていないんです。私は、「私」を誰かのせいには出来ない。

「確かに、確かにですよ。「私」は環境と遺伝と、その二つによってのみ構成されていて、私がそのような「私」として構成されたという事実には、私は一切関連していないのかもしれない。けれども、しかしながら。それでも、「私」の苦痛を、「私」の悪を、私のものとして私であることが出来るのは、ほかならぬ「私」だけなんです。いつまでもお父さんだとかお母さんだとか、先生だとかそういう何か庇護してくれる何者かにしがみ付いてひと時たりとも離れたがらないようなあなたには分からないかもしれませんがね、何もかも、何もかも、「私」という生命のどろどろとしたどうしようもない何もかもを、綺麗に綺麗にしてくれる何者かなんて、この世界にはいないんです。何もかも丸く収めてくれる超越的な何者かなんて、いるわけないんですよ。

「必然というものの恐ろしさを全然理解出来ていないんです。どうやらあなたは全てが善なるもので、この世界は素晴らしい縁起に導かれた聖なる浄土か何かだとお考えになっていらっしゃるようですがね。そんなことは、あり得ないんです。つまり、この世界には絶対に解決出来ない問題がある。それが、まさに「私」がいるということの絶望です。「私」というものは、与えられたものではない。自動的に動いているものではない。

「そもそも、あなたのおっしゃる与えられたというのはどういう意味なんですか? 自動的とは? 確かに、私は望んで「私」になったわけではない。しかしながら、「私」という人間において、望む望まないという問題は、極めて、甚だ、非本質的な問題なんです。「私」の本質とは何か? いうまでもなく、苦痛と、悪と、この二つです。生命の疎隔性の、その内側に対しては苦痛が。その外側に対しては悪が。これが「私」の本質なんです。そして、そうであるならば、「私」が悪をなした時、それは絶対に自動的にはなり得ない。私という「私」の本質的な悪が、まさにその悪をなしたからです。いいですか、人間は、その意志によって悪をなすわけではない。その悪によって悪をなす。そして、そうであるならば、自動的に悪をなしてしまうということはあり得ないんですよ。

「必然とは、こちら側によってはどうにもならないものなんです。この私が何をしても変えることが出来ないもの、過去とも未来とも関係なく、縁起ではなく、因果ではなく、この私には理解出来ないもの。そうであるにも拘わらず、ただ単にここにあるもの。つまり、今ここにあるということです。今ここにあるということの絶対性を、私達は必然と呼んでいるんです。

「偶然などという生易しいものと比べないで頂きたいですね。偶然は、こうであるかもしれないしこうでないかもしれないという観点を、言い訳のしようがない形で含んでいます。必ずこれであるという、必然が持つ冷酷さのようなものがない。必然は、まさに今ここにおいてそれがそれであるという絶対的に否定出来ないそれのことを指す。こうなってしまった以上はこうなるしかないということ、それは人間とは関係ないんです。そこには諦めさえ現われ得ない。なぜなら諦めることにさえ意味がないからです。

「そうですね、その通りです。確かに偶然は無と接続している。そして、だからこそ、それは選民思想なんです。あらゆる偶然性の中で、ほからなぬこの自分自身が無ではないという、一つの選民的感覚を生み出すんです。しかしながら、いうまでもなく、自分自身なるものには無は含まれていません。なぜなら、私は、今、ここに、必然として「有る」んですから。私は選ばれたものではない。私は、ただ「有る」だけなんです。つまり偶然という考えは根本的に間違っているんですよ。

「いや、というかですよ、そもそもの話として、こういった非常に本質的な反論を行う前段階で、この説は完全に破綻しているわけですよ! このようなことを申し上げるのはあまりにも馬鹿馬鹿しいので、敢えて触れずにおいたんですけどね。自分自身が自分自身ではなく、何者かから与えられたものが何者かをきっかけとして自動的に過ぎ去っていくただ単なる過程であるにも拘わらず、どうやってそこに意志を見出すことが出来るんですか! 自分には自分の意志がないことを自分の意志によって受け止めるって、よくもまあそんな破綻した理論を堂々と提示出来るものですね!

「いや、分かりますよ。ここで意志といわれているものは人間存在の二重構造の中で考えなければいけない。まずは責任のレベルにおける意志であり、それは自分ではどうしようもない関係性の中で現われてくる。この意志はいうまでもなく幻想である。そして、その他に、人間には内的な意志というものがある。これは自分自身の内側に視線を向けることによって、関係性の中に投擲される前の純粋な自分自身を統御するものである。そして、そのような内省的な意志は現実に存在しうる。それくらいの論理は分かりますよ。

「私が言いたいのは、この二つの意志は、分かちがたく結び付き合っているということです。つまり、純粋な自分自身を統御しうるならば、少なくとも、世界における自分自身という一つの要素を、ある程度であれば統御可能ということになるでしょう! そうであるならばですよ、いうまでもなく、この二番目の意味における意志は、一番目の意味における意志に通じる部分があるということです。そうであるならば、行為に責任を持たなければいけない意志を否定することは、この説において不可能になるんですよ!

「更に、未来だとか可能性だとかそういうことをいい始めるに至っては、もう笑いさえ出てこなくなりますね。そもそも現在の自分自身に意味がないのならば未来の自分自身にも意味がないでしょう。だって未来の自分だって未来においては現在の自分なんですから、あるいは未来において自分自身の行為が他人に何かの影響を及ぼすとしても、その他人だって他人からすれば自分自身なんだから、やっぱり虚無の虚無なんですよ。基本的に、五W一H、その全てにおいて「現在の自分自身」しかいないのであるからして、いや、一Hは関係ないか、とにかく、現在の自分を虚無にしてしまった以上、あらゆる何もかもが虚無になるんです。そうであるならば、未来に結実するものなんてない。未来に結実するものがないのであれば過去にも可能性はないんです。この説によれば、結局世界は無明なんですよ。どういい繕おうとね。

「結局ね、こんなものは甘ったれた子供の破綻したメルヒェンに過ぎないんですよ。それでは、一体、なぜ、なぜ「自動説」などというものを主張し始めたのか。砂流原さん、この説の素晴らしい点、素晴らしく都合のいい点をお教えしましょうか。それは、世界の構造から、人間至上主義者が排除したいと思っているものを、非常に効率的に排除出来るということです。つまり、この説を使えば、自分の実存に押し付けられる自分以外の余計なものを綺麗さっぱり葬り去ることが出来るんです。

「砂流原さんは、ひょっとしてこう思われるかもしれませんね。それはおかしい、なぜなら、「自動説」は、そもそも自分自身というものを自分自身以外の何者かから与えられたものであるとしているではないか。そうであるならば、人間至上主義とは相容れないはずだ。あはは、まあ、まあ、おめでたいお考えですね。人間至上主義者というもののいいようのない悪質さというものをご理解していないようだ。

「いいですか、よくよく考えて下さい。「自動説」において、その自分自身を押し付ける何者かとは一体誰なんですか? 親? 違います。先生? 違いますね。権力者? もちろん違います。答えは、誰でもない、です。だって、親も先生も権力者も、その他あらゆる誰であっても、この「自動説」においては何者かから自分自身を与えられているんですから。つまりですね、ここで使用されている何者かという概念は、自分自身の実存に何かを押し付けようとするあらゆる誰かを否定するための、ただ単なる否定詞に過ぎないんです。

「要するにですね、この「自動説」という説は、なんのことはない、「この世界は本来的に素晴らしいものであるが何かとても悪い誰かしらが余計なものを付け加えてしまったせいで汚れてしまったのだ」「だからその余計なものを洗い流して綺麗にすれば素晴らしい世界に戻るのだ」という、シュブ=ニグラス主義の世俗的な一変種に過ぎないんですよ。いわゆる世俗的シュブ=ニグラス主義です。もっとも、基本的には、シュブ=ニグラス主義がシュブ=ニグラス主義的なものの根源的な原因であるというわけではなく、シュブ=ニグラス主義以前から存在し続けているシュブ=ニグラス主義的なものが表出した形として最も有名なものであるというだけの話なので、思想史だの宗教史だのをなさっている方は、この世俗的シュブ=ニグラス主義という用語を使うことを非常に嫌がられるんですがね。とはいえ、今の議論ではそのような正確さは必要ないので、この言葉を使わせて頂きます。

「まあ、それはどうでもいいことです。とにかく、私が言いたいのはですね。「自動説」は何も新しいことをいっているわけではない、極めてclassicな形の人間至上主義に過ぎないということですよ。自分自身以外の誰かから注ぎ込まれた自分自身とは関係ないものを自分自身から排除することで、純粋な実存になることが出来る。そして、そのような実存としての自分自身こそが最も素晴らしい自分自身なのだ。ほらね? これを、人間至上主義以外のどのような名前で呼べばいいというんですか?

「権力でも、あるいは文明でも文化でもいいんですがね。そのような穢らわしいものによって抑圧されている庶民がいる。そのような庶民は、本来、非常に自然な、人間という生き物が本来持っている人間性によって、世界と調和した理想郷を作り出すことが出来るのだ。それにも拘わらず、権力だとかなんだとか、そういった「賢しらなもの」が抑圧しているせいで、そのような理想郷が捻じ曲げられているのだ。あはは、世俗化した「無知の幸い」ですよ。あるいは、押し付けられる支配の感情がある。本来は、自然に湧き上がる関係性においては、人間は利他的な存在であるはずなのに、それを利己的な感情、例えば優越感でも負債感でもいいですが、そのような余計なものが混ざることで、関係性が不純になる。

「壁を壊せば人類は連帯出来る。共産主義、アナーキズム。こういったものはね、全て、世俗的シュブ=ニグラス主義なんですよ。そして、その根底にあるものこそが人間至上主義なんです。自分自身こそがこの世界で最も優れているはずなのに、それを邪魔しているやつらのせいで自分自身の本来の素晴らしさが発揮出来ないのだ。そういう、なんの根拠もない思い込みなんです。

「いうまでもなく、庶民は理想郷を築くことは出来ません。それが理想郷のように見えるのは、その共同体が非常に強い拘束力でまとまっているからです。共同体の価値観にそぐわないものを強制し、どうしても内包出来ないものを追放するからこそ、それだけ調和した社会が築けている。あるいは関係性も、やはり、利他的であることはあり得ない。それが利己的でないように見えるのは、その利己性の矢印が相手ではなく関係性の構造全体に向かっているからです。それは、単純な対他者性としての利己よりも、ある意味ではずっとずっと悍ましいものです。なぜなら、そのような利己は、関係性それ自体を自分に都合のいいように捻じ曲げようと画策するからです。それは、結局のところ、その関係性の絶対性に沿うことによって形作られるところの、オートマティカルな全体主義へと帰結する。壁を壊せば人類は殺しあうんです。なぜというに、想像の共同体を形作るための鋳型を失うから。どのように共同体を作ればいいのか分からなくなるから。結果的に、人と人とはどのように分かり合えばいいのかも分からなくなってしまうんですよ。

「結局ね、こういった全ての議論は、たった一つの措定されたドグマから導き出されているんです。つまり「私こそがこの世界で一番正しい」というドグマです。それなのに、親は分かってくれない、先生は分かってくれない、権力者がこの素晴らしさを理解してくれない。だから、こんな世界は間違っているんだ。この私の素晴らしさを理解してくれなかった全ての愚か者が作り出した余計なものを破壊して、この世界を本当にあるべき形にしよう。理想郷にしよう。世俗的シュブ=ニグラス主義の根底にあるのはね、結局のところこれなんです。

「ということで、「自動説」では人間至上主義は否定出来ないということについてはご理解頂けたと思います。「自動説」の問題点は、そもそも、その目的が「自由と責任と」を否定することにはなかったことにあります。つまり、「自動説」の目的は、自分自身という存在の浄化にあった。そのために、あらゆる押し付けられるものを否定する。それが思想的に形成されたところの実存の一形式であっても否定する。そして、そのような押し付けではないところの、真の自分自身の実存を手に入れる。それこそが「自動説」の目的であった。そのため、本来的な目的ではない「自由と責任と」の否定に関しては等閑になってしまったわけですね。それでは、まさに「自由と責任と」を否定する、それだけのために作り出された説であればどうであろうか。そのような説であれば、人間至上主義を否定出来るのではないだろうか。

「その説が、いわゆる「無自由説」と呼ばれている説ですね。これは、なんというか、わざわざそれを思想として主張する必要もないほど当たり前のことを大前提として定義します。それは、この場所にある、この時間にある、まさにこの現実だけが現実であるという事実です。つまり、この現実以外の現実はあり得ない。私達のような不完全な知性、下等な知性の持ち主は、常に、この現実以外の可能性を考えてしまいます。そのように出来ているのだから仕方ないといえば仕方ないのですが、例えばですね、まあ、分かりやすいのでコインの例を出しましょうか。私と砂流原さんと、この二人で、コインを投げて裏が出るか表が出るか、そのような賭けをするとします。仮に、砂流原さんは表が出ると賭けて、私は裏が出ると賭けたとしましょうか。私がコインを投げる、コインは私の手のひらの上に落下する。そして、結局のところ、表が出る。

「私は賭けに負けたわけです。そうすると、もう、この場所、この時間、まさにこの現実においては、私が賭けに勝つということはあり得ないわけです。そんなことは当たり前のことですよね。でも、私達のような特殊な知性の構造をしている生き物は、もしかしたらこの賭けに勝てたかもしれないと考えてしまうわけです。私は、もしかしたら、裏が出る方に賭けることが出来たかもしれない。そう考えてしまうわけですね。

「つまり、私は、私が選ぶことが出来たはずの選択肢がもう一つあったかもしれないということを考えるわけです。このような思考方法は一つの単純な図形として書き表すことが可能です。まず、一つの直線を描きますよね。これが選択を行なうまでの私です。そして、その一つの線が、突如として二つに分かれる。これが意味するところのものこそが、私の選択可能性です。つまり、先ほどの賭けでいえば、私が表が出ると賭けるか、それとも裏が出ると賭けるか。そういう可能性を表わしているわけですね。

「さて、このような図を思い描いた時に、一つの疑問が生じてきます。それは、果たして私はどの時点において自由を行使したのかということです。もう少し分かりやすく言えば、私は、図上のどの時点でコインが裏向きに落ちる方に賭けることを決めたのか。私は、図上のどの時点で分岐した二つの選択のうちの片方にいくことを決めたのか。

「まずは、まさに分岐点のその時点において決定したと仮定してみましょう。そうであるならば、私の決定は、私が二つに分かれた線のうち、片方の線を選んだということになんらの影響も及ぼさないことになります。なぜというに、分岐点の真上においては、私の前には、未だに二つの線のどちらのルートも開かれているからです。私は、決定した後も、どちらのルートをとることも出来る。それでは、分岐点の直後に私の決定の位置を置いたら? これもやはり、私の決定には意味がありません。だって、私は、もう一つのルートに足を踏み出してしまっているんですから、私の決定はあらゆることが終わってからなされたことになる。こう考えていくと、どうも、図上のどの地点で決定したとしても、私の決定にはなんの意味もないことになってしまうわけです。つまり、私は、少なくともこのような図の考え方をすれば、自由を行使することなどあり得ないことになってしまう。

「あはは、まあ、まあ、これは「無自由説」においてはちょっとしたお遊びのようなものに過ぎないんですけどね。こんなものいくらでも反論出来るでしょう。例えばですよ、決定を図における一つの点としてしまうのがいけないのである。分岐上で、私という一つの点を、二つのルートのどちらかに押し出す力こそが決定なのだ。こういう反論が成り立ちますよね。力という表現の擬人化された感覚が嫌なのであれば、線上の分岐していない部分に対する分岐した部分の関係性、もちろん選択された方のルートの、ということですが、そのような関係性そのものが決定なのだといい換えてもいい。あるいは、世界と決定との関係をこのような単純な図上に表わせるという考えこそが非現実性一方向限定抽象化記号論的誤謬であるという反論も、まあまあ故のないものではない。えーと、他には、私は数学に関して詳しくないのでちょっと分からないんですけど、微分だとか積分だとか、そういうものを使って反論することも出来るでしょう。つまり、数学的に、どちらかを選択しているがそれでも選択した後ではないというゼロ・ポイントを無理矢理作り出してしまうということです。それだって、この問題が思想的問題であり、また、取り扱われている命題が人間によって無矛盾的に言語化出来る命題である以上、絶対的に可能であるということは間違いのないことです。

「分岐を分岐たらしめる決定が図上のどこでなされたのかという問題は、実はどうでもいいことなんです。重要なのは、重要なのはですよ。現実において、まさに私達が生きているこの現実において、そのような二つに分岐したルートのうちの一つのルートしか存在していないということなんです。つまり、この世界においてはこの世界しか存在していないということです。だって、そうでしょう? 現実において、この世界以外の世界がありますか? 仮にこの分岐の図が正しいとして、図示されたルート、その両方が同時に存在しているということがあり得ますか? 私が賭けに負けたという世界において、私が賭けに勝ったというルートが、何か反存在のような形でそこに有りますか? ないでしょう? つまり、可能性なんてものは、この世界には存在していないんです。

「もちろんですよ、いうまでもなく、この世界ではない世界があったとして、それが私が賭けに勝った可能性の世界だとして、そのような世界が存在しているということはあり得ます。というか実際に存在しているんですが、その話をするとなるとマルチバース理論を説明しなければいけなくなるのでやめておきますね。とにかく、私が賭けに勝った世界は存在し得ますが、ただ、そうだとしたところで、この世界にはなんの関係もないんです。だって、こちらの世界の私と、あちらの世界の私と、なんの関係があるっていうんですか? こちらの世界の私が、例えばこっち側の頬もsmileyに切り裂いたとして、あちらの世界の私になんの痛痒も与えない。つまりね、こちらの世界とあちらの世界とは、よく似てはいるが全然別の世界なんですよ。あちらの世界の私は、私によく似ている別人と、全く何も変わらないんです。つまり、まさにこの私というものは、自分自身というものは、たった一つの方法でしか自分自身であることが出来ないということなんです。

「さて、この結論からは二つの異なった命題を導き出すことが出来ます。まず一つ目は、自分自身は自分自身の行為について、あるいはこの世界内部に起こる現象について、起点となることが出来ないという命題です。なぜというに、この世界に存在するあらゆる何者にとってもこの世界がたった一つのルートにおいてしか成り立たないというのならば、そのようにしてなされる行為であれ、そのようにして発生する現象であれ、既に始まっているからです。それは、この世界の始まりの時に全てが始まっていて、この世界の終わりの時に全てが終わっている。そして、そのルートを、私達は変えることが出来ない以上、私達は、私達という自分自身によって、何かを始めることは絶対的に不可能なんです。

「そして、二つ目。それは、私達が別様でありうることは出来ないという命題です。この世界においては、たったの一滴たりとも他の可能性というものが含まれていない。この世界においては、私達がもしもこうだったら、もしもああだったら、そう考える際に思考の内部に立ち現われてくる別のルートなるものは、絶対的にあり得ない。そうであるならばですよ。私達が、私達という自分自身によって、「他の」行為をなすことも、「他の」現象を起こすことも、原理的には不可能なんです。「他の」何かを発生させようとして私達が行なった何事であれ、結局は「この」ルートにおける何かしらなんですからね。

「そうであるとするならば、この二つの命題から、更に一つずつ、新しい結論を導き出すことが出来るでしょう。まず前者について、もしも私達が何かを始めることが出来ないのだとすれば、それは私達には自由がないということになります。そもそも自由とは何か? 行為をするにあたってなんの障壁もないということです。つまり、私達がどこかへと進むにあたって、その進路がどちらを向いたものであろうとも、それを塞ぐものがない場合、私達は自由であるということが出来るわけです。もしも、私達が、何も始めることが出来ないとすれば。それは、常に一方向のみへと私達を方向付ける絶対的な障壁の中を進んでいるのとなんら変わりないことになります。それは、どこにもないように見える障壁であるわけですが、そうであったとしても、確かに存在している障壁なのです。

「そして二つ目の命題からは私達には責任がないという結論を導き出すことが出来る。なぜというに、もしも私達が何か他の行為をなすことが出来ないのだとすれば、それは強いられて何かを行なったということと、理論的には何も変わらないからです。私達がその行為をするのは、その行為をすることを避けられなかったからそうするしかなかったためである。そうであるならば、私達は、そのことについて責任を持つことは出来ない。自分自身がそれをするしかなかったのにも拘わらず、その行為について自分自身を責めるということは不可能なことですからね。

「ここまでが「無自由説」の、いわば準備的段階ですね。そして、ここからが「無自由説」が最も主張したいと考えている部分です。つまり無自由とは何かという部分です。この世界はこの世界としてしか存在しえない。それは別の姿になることも出来なければ、初めから存在しないということさえあり得ない。そうであるならば、その世界であるところの私達は、自由ではないというだけでなく、不自由であるということもあり得ないということになります。なぜなら、何者かが不自由であるというのは、その何者かが誰かしらに何かを押し付けられる場合にそうであるといえるわけだからです。自分自身が自分自身に関することを他者によって決定されてしまった時にその自分自身は初めて不自由となりうる。

「しかしながら、今まで議論してきたように、現実においては、その決定ということさえ行なわれ得ないわけです。なぜなら、最初から最後まで、既にそのように存在しているから。そうであることがそうであるようになっている以上、そこには選択肢において決定する何者も存在しえないわけです。何かの目的があるわけではなく、何かの意味があるわけでもなく、何かの方向性があるわけでもない。そういう意味では、それは因果的強制における必然でも、諸可能性からの選択における偶然でもない。それは、時空間とも可能性とも関係ない地点で、創造されることも消滅することもなく、ただ単純にそれがそれとしてあるというだけの、単なるそれであるわけです。つまり、この現実は、盲目にして白痴の絶対者が、なんらの決定もせずに行なっているところの遊戯でしかない。その中では、そもそも自由であるかという問いさえも意味を失い、無自由だけがただそこにあることになる。

「はい、これが「無自由説」の、大変大雑把な要約になります。さて、これが人間至上主義を否定出来るのかというと、言うまでもなくそんなことは出来ないわけですね。これは、人間至上主義を否定するどころか、むしろ強化する思想なんです。なぜというに、これは、実は、自分自身以外のあらゆるものを否定しているが、たった一つだけ、自分自身というものだけは否定出来ていないからです。正確に言えば自分自身というものの絶対的影響性です。

「実はね、砂流原さん。「無自由説」には、一つ、大きな大きな欺瞞があるんです。それは、それがそれで「ありうる」という選択可能性を否定しているにも拘わらず、それがそれに「なりうる」という絶対的影響性を否定していないということです。よくよく考えてみればお分かりになると思うんですけどね、例えば最初にご説明した分岐図。いうまでもなく、あるものが別のものになるという過程が成立している限りにおいてのみ、この図は成立しえます。なぜというに、世界を直線的に図式している以上、そこでは少なくとも「整理された世界像」が採用されているからです。

「確かに、ここにはあなた方がおっしゃる意味においての因果関係は存在しないでしょう。また、あなた方がおっしゃる意味においての時間の流れというものも関係してこないでしょう。それは、何かを選択するものとしてのそのようなものということですが、そうではあったとしても、その世界が人間にとって非常に都合がいい形で整理されているというのは否定出来ないことです。

「つまり、この説においては、実は、たった一つの現実だけがそこにあるということが想定されているわけではないんです。線上で常に動き続ける現実と、その後方にある現実になったものと、その前方にある現実になるもの、この三つが常に想定されているんです。いうまでもなく、それは時間的に創造されたものではなく、あたかも一つの固形物として同時にそこにあるものですが、とはいえ、それでも、それが三つの種類に整理されているということは間違いないんですよ。

「そうであるとすれば、ここには変化があるんです。それは予め変化したものとしてあり、そして変化するというその一塊の事実は決して変化しないものなのですが、そうであったとしても、それはやはり変化なんですよ。そうであるならば、そうであるならばですよ。いうまでもなく、私達は選択肢というものを有していない。物事を操作しうるという可能性はないし、物事を他の何かに変化させることも出来ない。しかし、それでも、私達は絶対的影響性だけは持ち続けることが出来るんです。

「「無自由説」がよく使う二つの比喩を使ってそのことを説明していきましょう。まずは先ほども使った絶対者の比喩です。盲目にして……ああ、そうですね! あまり差別的な用語を何度も何度も使ってしまうのはよろしくありません。いい換えましょう。えーと、目がご不自由にして知性もご不自由な絶対者が、この世界を、空間的な意味においてだけではなく、時間的な意味においても、その全体を一時に作り出した。それは、幾つかの選択肢から作ったわけではなく、それ以外には何もない中で、それを作る以外にはないという状況下で、ただそれがそこにあるという意味で、それを作ったということです。

「一見すると、というか一聞すると、このような創造においては自分自身の位置はないように思えます。しかしながら、実はそうではない。このような創造において、自分自身はこれ以上ないというくらい重要なものになるんです。なぜなら、それがそれである以外ないというその中で自分自身が自分自身であるというならば、それが例え人間存在の基準ではないにせよ、それよりも遥かに高い、存在そのものの基準において、絶対的な真理だということになるからです。

「あはは、人間至上主義を否定しようとする立場からすれば非常に絶望的な結論ですがね。しかしながら、そうならざるを得ない。なぜかといえば、そのようにして創造された(あるいは創造さえされることもなくただただそこにあった)世界において、もしも自分自身というものがなければ、それは、その世界があらゆる意味で成立しなくなってしまうからです。だって、少し考えれば分かるじゃないですか! この自分自身が、この世界における、あらゆる構造の、まさに根底にあるんですよ! この自分自身がなければ、あれもそれもこれも、この現実の形では存在し得ないんですから。ここで、存在し得ないという可能性がないというのは無意味です。だって、その可能性が存在しないことこそが、自分自身が絶対に必要であるということのこれ以上ないというくらいの証明になってるんですから。ということは、自分自身は、あらゆるものに対して、絶対的に影響性を有しているというわけです。

「あるいは、そこまで極端な自分自身の絶対視までいかなくても、もう一つの比喩、つまり永劫回帰の比喩を使って考えてみると、非常にカジュアルな意味で自分自身は絶対的影響性を持つことが分かります。因果関係によって必然的に生起するという意味での必然性ではなく、他にもそうであり得たはずなのにたまたまそれに邂逅するという意味での偶然性でもなく、ただ単に現実であるという、いわば必然と偶然との対消滅としての無自由においては、なんらの法則もそれを支配することが許されていない。従って、私達が出来ることは、もちろんここでいう「出来る」という言葉の意味は可能性を意味しているわけではないのですが、とにかく出来ることは、ただ単なる現実を、ただ単なる生きるという方法で、愛することも肯定することもなく、そのままにそれであるということだけだ。それは、あたかも、全く同じように何ものでもない現実が、何度も何度も、永遠に繰り返され、私達はその中で、その繰り返される現実を、受容することも拒否することもなく、ただただ私達であるということしか出来ないという状態と同じことである。

「これが永劫回帰の比喩ですね。この比喩を聞けば分かると思うのですが、無自由説は、明確に、あるものの後にあるものが来るということを認めているわけです。あるものの後にあるものが来る、そしてそれは変えられないということを、その説の根底に持っているんです。なぜそう断言出来るのかといえば、この比喩において、「繰り返し」という言葉が現われるからです。そこからは無限に断絶した完全なる単一としての現実が永遠に疎隔されているという発想が、ちょっと異様であるようにさえ感じさせる周到さによって排除されている。そうではなく、この世界というものは、あるものの後にあるものが来る、つまり「特定のあるものが別のものになる」という整理性が関わってきているんです。

「いうまでもなく、私は、これを連続性と言うような愚は犯しません。また、これは、無自由説がいう意味における因果ではないということに関しても喜んで認めましょう。しかしながら、ここには、確かに法則があるんです。その法則は、無自由説がいう意味の法則ではないでしょう。それはあるものを強制する法則ではない。そうではなく、あるものを絶対的に整理する範疇としての法則がここに存在していると言っているんです。

「そうであるならば、そうであるならばですよ。その法則の中で、私自身は、私自身の次に来るであろうあるものに、絶対的な影響を及ぼしているんです。ここで、私がそれを選択したのではないだとか、私がそれをすることと次に来るであろうものとの間には直接的な関係があるわけではなくただ単に私の後に次に来るものが来るだけだとか、そういう言い訳じみた反論をしても無駄です。なぜなら、次に来るものが私なくして次に来ることはあり得ないからです。あなたがそういったんでしょう? ほかならぬ、あなたがそういったんです。現実はこの形以外ではあり得ないと。それならば、私がそれをしないということがあり得るかあり得ないかに関係なく、私がそれをしなければ、私の次に来るものは絶対に私の次に来ることが出来ないんです。なぜなら、私がそれをしないかどうかということを仮定することが無意味である以上、私の次に来るものは、私がそれをした後に、私の次に来るということを、ただただ絶対的な受容として認めなければいけないからです。

「ここなんです。ここなんですよ、無自由説が、決して人間至上主義に勝利し得ない理由は。つまり、人間至上主義にとっては、実は、自由であるかどうかなんでどうでもいいことなんです。人間が、というか、自分自身が、この世界で最も重要な絶対的影響性であるということが主張出来ればそれでいいんです。自分自身が、この世界を変えていける何かであると主張すれば、それこそが、それだけが、まさに人間至上主義の主張したいことの全てなんです。

「無自由説においてはですよ。それと呼ばれるものがなんであれ、それは、選択の余地が全くないのであったとしても、現実は、まさにそれによって影響されている。ここでは絶対的影響性が、無批判的に、それどろか無思考的に前提化されているんです。しかも、しかもですよ。そこには、なんらの必然性もない。つまりそれが自分自身ではない何かによって決定されている、無因無縁の運命であるということさえあり得ない。そうであるならば、その絶対的影響性は、まさに私が私であるという現実によって、ただ単に措定されてしまうわけです。私が私であるということは私が私であるということによってのみ規定されている。ということは、つまり、ここでは、私は私になってしまうんです。私は私で、しかも、それゆえに、絶対的影響性を有している。

「つまりね、砂流原さん。無自由という言葉は、実際にはなんの意味もない言葉なんです。何も表わしていない、完全に無意味で、具体的に定まった意味など何一つ表わしていない言葉なんです。もっと言ってしまえば、それは、ただ単なる否定詞なんですよ。自分以外のあらゆる思想を無意味にしてしまおうという、その思想の主張者が持つ、非常に自己陶酔的な欲望が仮託されたところの、一つの否定詞に過ぎないんです。だって、だってですよ。そもそもこれは、非現実性一方向限定抽象化記号論的誤謬を多分に含んだ、現実というものの直線的図式化をもとに作られた言葉なんですから。そもそも大前提からして虚無の虚無なんです。

「まあ、いいですよ、その図式は大して重要ではない、そこから導き出された議論が問題なんだと、そういうことにしましょう。けれども、その議論だって低能のすちゃらかぼんちきみたいなものでしょう! 先ほども申し上げた通り、それが仮に選択不可能なものであったとしてもですよ、それが、仮に、絶対にそれ以外の行動をし得ないという行動であったとしても。そのようにして私がそれをした行動によって、世界に現実が導かれているんです! もしも、もしもですよ、私がそれをする可能性があり、それをしない可能性があり、どちらの可能性においても、私が何をしても、この世界に影響がないというのならば。それは、確かに、私は無意味ですよ。でも、そうではないじゃないですか!

「無自由説においては、必然とは異なって、私の外部に私を決定する者がいないんです! そうであるならば、私の行為は、まさに私の行為になるんです。そして、そのまさに私の行為によって世界が世界として成り立っているんです。もちろん、いうまでもなく、ここで「成り立っている」という言葉を使うのはおかしいという主張がなされうることを私は理解しています。しかしながら、それがそうでなければそうであり得ない場合、それは存在にとって完全な要素なんですよ! そして、そうであるならば、それがないということはあり得ないんです!

「あのね、それが自由でないというのならば何が自由だっていうんですか? そりゃあね、あなたの定義では自由ではないといえるかもしれませんよ。でもね、普通の人々は、あなたのようにお賢くていらっしゃらない人々は、それを自由と呼ぶんです。つまり、私の行為が私の行為だけに基礎付けられていて、その行為が絶対的影響性を有するならば、それが自由なんです。何かが何かに変化する、「なりうる」ということを認める限り、そのような自由は否定出来ないんです。あはは、いいですよ、無自由的自由とでもお呼びになればいいんです。そして、一度お聞き頂ければお分かり頂ける通り、そんな言葉は全くの無価値なんです。

「まあ、この無自由説という主張における誠実な部分に対する反論はこのような感じなんですけれどね。ただ、しかし……実はね、砂流原さん。この無自由説における最悪の部分、最も醜い欺瞞の部分、この無自由説なるものを主張する方々が、どれほどまでに、名誉欲と劣等感と、嫉妬、我欲、自分の上にあるあらゆるものを引き摺り下ろして自分だけが絶対の頂点に立ちたいという欲望によってのみ突き動かされている方々かということを証明する部分について、実は、私は、今まで触れていなかったんです。

「砂流原さん、砂流原さん、これは本当に信じられないことなんですが……この無自由説を主張している方々は、この無自由説によって、世界が大々的に変化するだろうという予言をしているんです。予言! まさに予言! つまりですよ。自由という迷妄、不自由という迷妄、そういったものを信じ続けている愚かな大衆達に対して、この無自由説という絶対無謬の福音をもたらすところの自分自身、まさしくphilosophyの使徒である自分自身。この絶対的なる真実によって、ようやく愚昧な羊達は惰眠を貪ることをやめるだろう! そして、真実を悟った大衆は、変化する! 変身する! 今よりも、ずっとずっと真実に相応しい生き物に! 今の人間とは全く異なった真実的な生物に変化する! ははっ……あははははははははっ! ああ、失礼、笑っちゃいますよね。とにかく、無自由説を主張している方々は、そう主張しているわけです。

「つまりですね、無自由説を主張している方々は、さらっさらに信じちゃいないんですよ。自分自身が無力だなんてことは。それどころか、自分こそがこの世界で最も力を持つ生き物だと確信しているんです。ああ、反吐が出るほどの欺瞞! とはいえ、ここまで正直に、あられもなく、薄汚い支配欲を剥き出しにされると、なんというか、清々しくさえ思えてきますね。

「人間至上主義者なんです。まさに、典型的人間至上主義者なんですよ。無自由説を主張する方々は。人間至上主義を否定なんて出来ないんです、無自由説では。それどころか、無自由説は、人間至上主義の最終形態とでもいえるものかもしれない。自分自身というもの以外の一切の素晴らしいものを絶対的に否定して、自分自身だけが崇め奉られるに足る絶対的な真実であると主張しているんですからね。

「影響可能性を認めている。より真実的な世界とより虚偽的な世界との差を認めている。そして、無自由説こそが、影響可能性によって、より真実的な世界に導く。ここで、無自由説はより真実的な世界というものに何かの価値を認めているわけではない、ただ単に、それがそうなるということを主張しているだけだ、みたいなことをいうのをやめて下さいね。私は価値の話をしているわけではない。方向性の話をしているんです。つまり、あなたは、方向性を認めている。虚偽から真実への方向性を認めている。虚偽と真実とを完全に同じものとして扱っていない。ということは、そこには、必ず方向性があるんです。そして、その方向性には、やはり非可逆的な重力がある。虚偽を清めたところの真実という、世俗的シュブ=ニグラス主義以外の何ものでもない力が働いているんです。いいですか、そして、そのような清めに関わる司祭こそが自分であると、あなたはそう主張しているんです。

「また、この問題が純粋に真実的な問題であるという反論も想定出来ます。無自由説というのは説ではない、ただ単に真実なのだ。だから、無自由説などというものが主張されるかされないかに関係なく、人間存在は無自由という真実に目覚めていくだろう。そうであるならば、このような過程に、無自由説を主張する自分自身など必要ない。無自由説を主張する自分自身に価値があるわけではなく、それは完全に無自由な入れ物に過ぎない。従って、無自由説は人間至上主義ではない。そんな反論ですね。

「まあ、いいですよ、無自由なるものが仮に真実だとしましょう。そうだとするならば、可能性なんてないはずですよね? つまり、無自由説が主張されないままに人間存在が無自由なるものに目覚める可能性なんてないんです。あなたが無自由説を主張しないで、無自由が、ただただ目覚めていく過程なんて、その可能性がない以上、それを議論することさえ無意味なんです。無自由は、無自由説によって、それを主張したあなたによって、まさに目覚めた。そして、その事実を、あなたも知っているはずなんです。それを完全に認識している。ということは。そうであるならば。あなたは、あなたこそが真実を広めているのであると、そして、世界はそれ以外の方法ではあり得なかったと、そう確信しているんです。

「問題は、自由か不自由かではない。力ある者か無力なる者かの問題なんです。人間至上主義にとって重要なのは、意識でも意志でも自由でも責任でもない。この現実において自分が力あるものであるという優越感なんです。そして、あなたは、自分が無力であるとは欠片も考えていない。絶対的影響を認めていて、真実が方向性の先にあるということを認めていて、しかも、しかもですよ、図示されたところの現実という、ある種の象徴さえも認めている。あなたはね、自分が力ある者だと信じ切っているんです。自分には内側があり、その内側が満たされていると信じ切っている。本当に無力で、本当に内側がないと思っているなら、物事が何かに「なりうる」ということなど認めないはずです。真実と虚偽との間に差なんて認めないはずです。

「「世界に自由はなく従ってお前はなんの力も持たない」と、まさに自分自身の自由によって、そう言って悪いのなら無自由的自由によって、そのように相手に思い込ませることで、自らの自由だけを絶対かつ唯一の高みに到達させたいという、非常に浅はかな欲望が、このような不毛な説を作り出した。つまり、この説は、「自分は頭がいいがお前は頭が悪いというこの事実は無自由的な現実である」ということ以外の何事もいっていないんですよ。

「それでは、そもそも、なぜ「無自由説」はこのような欺瞞的態度に陥ってしまったのか? いうまでもないことですが、それは、必然と偶然との対立という、人間至上主義以降に支配的になったテーゼから抜け出すことが出来なかったということに起因しています。砂流原さんは月光国の方ですから、もしかしたらご存じかもしれませんが、人間至上主義という思想が発達してくる前は、「必然的にこうである」という概念に対立する何かは、偶然ではありませんでした。その概念に対立する何かは「必然的にこうではない」という概念であって、偶然は、その二つの間のどこかしら、中途半端な中間地点に過ぎなかったんです。つまり、偶然という言葉は、人間の無知を表わす言葉に過ぎなかったんです。あはは、考えてみれば当たり前のことですがね。あらゆるものは必然的にAでありBではない。ただし、人間は、それがAであるかBであるか分からない。だから、AであるかBであるか分からない状態を仮に偶然と呼ぶ。これが、偶然の、本来の意味なんです。

「それが人間至上主義以降、人間を、例えば神々のような絶対的な力、絶対的な知性を有する生き物と対等の立場に置く必要性が出てきた。神々とは必然的な生き物です。けれども、人間は、どうやっても必然的な生き物になることは出来ない。これでは対等ではありえない。では、どうするか? 必然という言葉が本来持つ意味を捻じ曲げることによって、必然と偶然と、その二つを対等の立場に立たせたることにしたんです。その二つが、あたかも同じくらい重要な意味を持つもの、対立する二つの概念であるかのように詐称したんです。

「そもそもですよ、砂流原さん。必然とは因果関係におけるそれでも縁起におけるそれでもなかったんです。例えば、ニルグランタにおいては、今でも、アージーヴィカと呼ばれる六つの法理論を学ぶことを求められています。これは神話時代に作り出された法理論であって、従って人間至上主義以前の人間存在がどのように思考していたのかということをはっきりと化石のように残している貴重なものなのですが、そこでは宿命のことを無因無縁であると定義しています。「あらゆるものは、原因結果という関係性もなく、縁起のような法則性もなく、何かが作り出すわけでもなく作り出されるわけでもなく、それがどのような力であったとしても何一つ作用する力なしに、ただ単純に、それがそれであるということが決まっているからそれがそれである」。これが、最も原初的な形の必然論なんです。

「これはね、砂流原さん。考えてみれば当たり前のことなんです。だって、因果でも縁起でもいいですが、そういうものは結局のところ人間の理解の範囲内における恣意的な措定に過ぎないんです。例えばですよ、因果、つまり原因と結果と、この二つが関係するためには、必ず時間というものが必要になってきます。原因が起こって、そこから結果が導き出されるんですからね。つまり、因果関係は、結局のところは時間の下位概念なんです。

「しかしながら、時間とはそもそもなんであるか。それは絶対のものなのか、何者であっても変えることが出来ない究極の所与のものなのか。いうまでもなく、答えは否です。時間というものは、この世界において必然的に決定されているところの法則の一つでしかない。それは所詮は恣意的なものに過ぎないんですよ。この世界ではない場所、この世界の外側では、そのような法則は通用し得ないんです。ということは、時間は、「その法則がそのようであることが必然的である」という意味で、必然の下位概念でしかあり得ないんです。

「つまりね、砂流原さん。人間至上主義者は、必然を、本来よりも二段階も下の概念にまで引き摺り下ろしてしまったんです。本来は因果関係よりも上の上に位置しているはずの必然という概念を、それと同じ意味を持つものとしてしまった。そして、本来は「人間という生き物は世界がどうなってるか欠片も分からないほどに下等である」ということしか表わしていない偶然という言葉を、人間性の象徴として崇め奉り始めたんです。

「いうまでもなく、それがそれとしてそうあるのは偶然ではない。必然なんです。実際に、もうそれがそれとしてそうあるんですからね。そして、そのようにしてそうであるのは、そのようにしてそうであるから「ではない」んです。だって、そんなこと当たり前でしょう? そのようにしてそうであるのがそのようにしてそうであるからならば、それは因果関係なんですよ! 原因と結果が同一であるというだけで、因果関係であることには違いがないんです。そのように主張するのは、この世界の全てが、人間にも理解できる因果関係によって定義されてるからだと叫んでいるのにも等しいんですよ。

「その結果として、人間が人間であるから人間であるという、人間存在そのものが人間存在の基盤となる人間至上主義原理主義的な発想が生まれてくるんです。実際は、この世界は、人間存在は、あるいはこの世界の外側も含めて、人間には全く理解出来ない必然によって定められているんです。法則でさえない法則、因縁でさえない因縁、決定と表現することさえ出来ない決定によって、無空間的に、無時間的に、無可能性的に、これがこれであるんです。「なりうる」という時間的な法則でさえ必然によって決められてる。それは人間的観点から見た出来損ないの恣意でしかないんです。そのような、それがそれであるということの中に、私達が何ものも見いだせないのは、そこに何もないからではない。単純に私達が、そこに何も見いだせないほどに愚かだからに過ぎないんですよ。以上が「無自由説」に対する反駁です。」

 マコトは、そこまでを話し終えると、ふっと、足を止めた。今まで、真昼のことを獲物としているかのように、ぐるぐるぐるぐるとその周囲を回転していたマコト。まるで、何かに思い当たったとでもいうかのようにして立ち止まって……それから、ちらりと、視線を向ける。軽く、首を傾けるようにして。何に視線を向けたのか? 今まで、マコトがそれを手放してから、ずっと、そこに落ちていた、マイトレーヤのヴェールに、だ。

 とん、とん、と。なんとなく軽やかな感覚さえ抱かせるような足取りによって、そのヴェールのすぐそばまで歩いていくと。腰から上、上半身だけを、あたかも慇懃無礼に挨拶でもするみたいにして折り曲げた。そのまま、右の腕を伸ばして。小鳥が餌を啄むような軽快さによってそのヴェールを取り上げる。

 そのまま、マコトはくるっと振り返った。真昼の方を向いて、また手品のような手つきをして見せる。ヴェールを広げて、ある空間を、真昼の目の前から区切って見せて……それから、また、「じゃじゃーん!」と言いながら、そのヴェールを取り払って見せた。今度、そのヴェールの中から姿を現したのは……一つのマグカップだった。

 なんだかひどく古いマグカップだ。随分と使い込まれているらしく、上の縁のところが少し欠けているほどであった。真っ白な陶器のカップ。黒い文字で、シンプルな書体で、「WORLD'S GREATEST JOURNALIST」とだけ書かれている。

 そのようなカップが、たった一つ、テーブルだのなんだのの支えもなしに、ぽかんと空中に浮かんでいたのだ。マコトは、そのことについては、一切疑問を抱く様子もなく。ぱっと、白昼の盗人のような手つきでそのカップを取り上げた。

 ひどく優雅に、感傷的でさえある有様によって、そのマグカップを口元に持ってくると。中に入っていた液体を、一口分だけ口に含んだ。ちなみに、その液体とはなんの変哲もないコーヒーであって……恐ろしく安っぽい味がするインスタントコーヒーだった。マコトは、その一口分のコーヒーを飲みくだすと。いかにも不味そうな、泥水でも啜ったような顔をする。いうまでもなく、マコトは泥水を啜ったことがあるのだが。このコーヒーに比べれば、はっきりいって、泥水の方がマシなくらいだ……イエロー・タイムズのオフィスに、福利厚生として備え付けらえているコーヒーに比べれば。

 マコトは。

 ちょっとわざとらしいくらい。

 不愉快そうな顔をしたままで。

 話を続ける。

「さて、これで、人間至上主義を否定したと自称している説のうち、最も有名かつ少なくとも取り上げるに足るだけの内容を持ちうる五つの説について、そのそれぞれを議論し終えたことになります。結論としては、どの説も人間至上主義を否定し得なかった。それどころかかえって人間至上主義を強化する内容であったということが理解出来ました。あはは、まあ、まあ、こんなこと議論する前から分かり切っていたことですけれどね。結局のところですよ、あらゆる思想というものは「言語構造によって意識した理論を」「自らの意志によって」「自由な観点から判断・検証を行ない」「それがどのような結果を招くにせよその責任を自己のみに負わせつつ」発せられるものなのですから。ちなみに、ここでいう責任とは、どちらかといえばその思想を主張したことに対する栄光の享受という意味合いの方が強いのですが、とにもかくにも、そうである以上は、思想という方法で人間至上主義を否定することは不可能なんです。構造的に、そんなことは出来ないようになってるんですよ。

「いうまでもなく、そのような人称性の誤謬を避けるために私達は仮想現実という思想を提起したわけです。つまり、仮想現実においては、誰か特定の人間が、その特定の人間が正しいと思っていること、真実、善良、甘美、あるいは愛、なんでもいいですが、そのような正義によって何かを主張するわけではない。その主張者が、そのように作り出された仮想現実の世界で主張されるあらゆる主張、それらに対して、その主張こそが絶対的な正義であり、それ以外の主張は全て間違っていると、そのようにして作り出された主張ではないわけです。そうではなく、それらの主張は、ある一定のパラメーターを入力すると自然に出力されてくるところの、ただ単なる現実、つまり、こういう条件下では人間はこのようなことを考えるという、ニュートラルな、中立的な、事実として立ち現われてくるものであるわけです。

「まあ、まあ、ここに欺瞞があることはもちろん否定出来ませんよ。だって、いうまでもなく、そのように形作られたところの仮想現実は、実際に現実としてそこに存在しているわけではなく、ある意味で記号化された象徴に過ぎないんですから。人間が作り出す象徴というものが現実それ自体を直接的に定義するものではなくなんらかの関係性としてしか定義出来ないものである以上、たとえ仮想現実であったとしても絶対的な中立性を保つことは不可能です。それは、ある程度までは、否定の集合によって肯定を定義するような形でしか世界を形作ることは出来ないでしょう。

「とはいえですよ、重要なことは。仮想現実においては、そのように集合するところの否定の構造が、他者に向かっている構造ではなく、自分自身に向かっている構造になっているということです。仮想現実が作られた目的は、つまるところ自己を懐疑するためですよね? この世界において、この世界を所与のものと確信してしまってる自分自身が、自分自身が自分自身であるがゆえに、まさにこの自分自身として信じてしまいそうな思想を、この自分自身ではない、他の世界の自分自身を通して会議するということが仮想現実の目的であるわけです。ということは、他の思想とは、その構造が明確に逆転しているわけです。つまり、他の思想においては、その思想の刃が自己の方向から他者の方向へと向いているわけですが、仮想現実においては、自己が仮定として置いた他者、つまり他者的自己の方向から、自己の方向へと向いている。

「つまり、あらゆる思想は否定詞であるわけですが、仮想現実においては、その否定詞は自分自身を否定しているわけです。あらゆる思想と同じように世界を二つに分けるのではあるが、普通の思想が自己と他者とを分けるところを、仮想現実は自己と他者的自己とに分ける。そして、その他者的自己を正しいものとするがゆえに、自己を……まあ、否定するとまではいかなくても、否定しようと思うことは出来るようになるわけです。自己を絶対視しないように心がけることが出来るようになる。

「つまり、私が何を言いたいのかといえば。確かに、仮想現実は人間至上主義を否定することは出来ません。だって、人間至上主義は人間に最適化された思想なんですからね。仮に、仮にですよ。人間以上の何かと人間とを比較したとしても、やはり人間にとっての人間至上主義の「優れている」という評価は揺るがないでしょう。あるいは、人間以上の何かとなった人間も、やはり「この世界における」人間至上主義とは異なった形の人間至上主義を持っているはずです。人間にとってこれ以上に都合がいい思想が出てくることはあり得ない。しかしながら、しかしながらですよ。仮想現実は、ある世界において常識となってる人間至上主義を、別の世界で常識となるであろう、人間を超えた人間にとっての人間至上主義をもって相対化することが出来るんです。毒をもって毒を制するではありませんが、こうすることによって、ある程度、人間至上主義の最も有害な作用を弱毒化することが出来る。非常に全体主義化しやすいために、容易に弾圧の道具となってしまうという作用をね。

「仮想現実は、人間至上主義の人間至上主義的な部分、つまり自分自身にとって自分自身が最も特別であるという主張を否定することは出来ません。ただ、それでも、他のあらゆる思想とは異なり、完全変質という現象を引き起こすための技術の発展を人間至上主義が抑圧することを防ぐことは、ぎりぎりではあるが可能だということです。まあ、ここで非常に本質的なことを言ってしまえば、恐らくは、どのような思想の下にあっても、ある程度は、そのような技術の発展はなされるでしょう。なぜかというと、このことについては最後の最後に結論をまとめる時に話そうと思ってるのですが、人間のあらゆる思想が意識においてなされるものである以上、それは既に決まっていることの正当化に過ぎないからです。思想は思想において意味を持たない。人間の慣性を説明するという意味においてしか意味を持つことが出来ない。ただ、とはいえ、仮想現実が、他の思想よりも、自分自身を疑う方向に人間存在を向けていくということは言えるのではないでしょうか。

「と、まあ、ここまでは、仮想現実はいかにも他の思想よりも優れていると私が言っているように思われるかもしれません。ただね、砂流原さん。仮想現実は、大きな大きな欠点を有しているんですよ。思想としては致命的な欠点を。というか、その欠点を有しているがゆえに、逆説的に他の思想よりも全体主義化しにくいという構造になっているわけですが、その欠点というのは、要するに中身がないということです。

「つまり仮想現実はあらゆる思想を相対化して全体主義を防ぐための思想であるわけですよね。ということは、当然ながら、仮想現実自体が肯定されるべき思想となってしまってはいけないわけです。それが人間存在にとっての意味、目的、あるいは思想的な方向性を示すものになってはいけないんです。そうなってしまえば、仮想現実という思想自体が全体主義化してしまうんですからね。ということは、仮想現実は、単なる比較対象以上のものになってはいけない。そうならないということで、初めて仮想現実は仮想現実として機能するわけです。

「もちろん、仮想現実のベースとなる世界像を作り出すにあたって人間以上の人間というものが想定される以上、人間が人間を超えていくための方向性をその思想の原理的部分には内包しているわけですが。ただそれは思想的な方向性ではない。あくまでも知性的な側面における方向性です。あはは、砂流原さん、覚えていらっしゃいますか? 以前お話しした知的生命体の定義について。「システム」と「ニュートラライズ」と。あくまでもこの二つの観点から見た時に、どちらにいけば人間が下等知的生命体から高等知的生命体へと進んでいけるかという方向性に過ぎないわけです。

「まあ、まあ、厳密にいえば、それがなんらかの価値判断である以上は、このような方向性においても、思想的な部分を何ほどか含んでいないとは言い切れないわけですがね。ただ、その思想というのは、実は仮想現実そのものから導き出される思想ではないわけです。これは、完全変質という現象から導き出されている思想なんです。だって、そもそも、仮想現実は完全変質を可能にするために、その現象にブレーキをかけていた思想的欺瞞を取り除くことを目的として作り出された思想なんですから。そもそも、仮想現実自体に意味があるわけではない。それによって可能になるところの完全変質こそが、仮想現実の本質であるわけです。

「さてさて、論点の所在がはっきりしてきましたね。つまり、全ての思想を否定する思想自体には意味がない。それによって可能になるところの完全変質こそが、全体的な目的となるところのものである。そうであるならば、仮想現実を否定したいのであれば、仮想現実自体ではなく、完全変質を否定しなければいけない。ということで、第三段階で最も重要な論点、完全変質は本当に人間存在の解決になりうるのかという議論に入っていきましょう。」

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