第三部パラダイス #30

 マコトは、組んでいた脚、ある種のダンスをするかのように優雅な態度でほどいた。それは、きっと兎のダンスなのだろう。兎が嘘をつく時に、まるで道化師のような歌を歌いながら踊るダンス。それから、マコトは、一度、ぐーっと背凭れに背中を寄り掛かると。そこから、発条仕掛けのおもちゃの真似事でもしているかのようにして、勢い良く立ち上がった。

 ゆっくりゆっくりと、足元の世界が崩れてしまわないか確かめてでもいるかのような歩き方をして、今まで自分が座っていた椅子の後ろ側に行くと。両方の手のひらを、その背凭れの上に置く。ぐーっと、前のめりになるかのようにして、その椅子に寄り掛かって。そして、マコトは、話を続ける。

 まるで。

 兎が。

 嘘を。

 歌う。

 みたいな。

 話し方を。

 して。

「さてさて! こういうことを言うとですね、必ずといっていいほど、こういうことを言う方が出てくる。「お前は一つ大切なことを忘れている。そのように人間を変更するためには、科学の発展が不可欠だ。だが、科学が発展するためには、あらゆる科学的可能性が閉ざされないような記号的現象が整備されていなければいけない。そして、実は、私達が提示する思想こそがそのような整備を可能にするものなのだ」。あはは、このような主張に対してはですね、私はたった一言で反論することが出来ます。「バーカ」、これでお終いです。

「救いようがない! 本当に、救いようがないほどの思考能力のなさです! あのですね、ちょっと考えれば分かることでしょう。こういうことを主張する方々は、きっと、人間性に溢れた、自由で、平等で、博愛に満ちた記号的現象であるところの実存主義的な思想こそがそのような整備を可能にするとおっしゃるのでしょうがね。今、まさに今、たった今、そのような実存主義的な思想のもとで優生学はクソミソにいわれてるじゃないですか! 優生学は、否定され、排除され、破壊され殲滅され根絶され、優生学についての議論をすることさえも絶対的な禁止のもとにある。優生学の「ゆ」の字でも持ち出そうとすれば、その瞬間に、そのようなことをした方は人間ではないもののように見なされる。このような状況で、どの口が、科学的可能性に開かれた素晴らしい世界について云々官々なさっていらっしゃるんですかね。

「しかも、しかもですよ。その優生学批判には大した理論的根拠もないんです。本当にたまたま、全くの偶然として、第二次神人間大戦の際に、ケメト・タアウィに住んでいたウアス人が、優生学を理由に民族浄化されたというただそれだけの理由で、現在まで続く、このような異常な言語環境が作り出されてしまった。

「まあ、まあ、確かにひどい虐殺だったといえばひどい虐殺でしたよ。その虐殺のせいだけではなく、戦争それ自体によってもたくさんのウアス人が犠牲になったわけですが。それを考慮に入れたとしても、ケメト・タアウィにおける黒人人口とエスペラント・ウニートにおける黒人人口とを比較した場合、その数は十分の一にまで減ってしまっているわけですからね。

「とはいえ、とはいえですよ。その虐殺は、別に優生学によって導かれたものではないわけですよ。確かに、表面上は「優生学的に考えて神々の支配を受けやすいウアス人は劣った人間である」「従って人間至上主義の世界秩序を作ろうとする場合にはウアス人のような従属人種は排除されるべきだ」ということがいわれていました。でもね、別に、そのような科学的な証拠があったわけではないし、まともな優生学者の方々が従属人種なんていう差別用語を口にしていたわけでもないんです。

「まずはウアス人への憎悪があった。それまで、神々が作り出した世界秩序の中で、たまたまヤー・ブル・オンという強力な神の支配下にあったウアス人が何かにつけ優遇されていたということに対する憎悪があった。それが、第二次神人間大戦で爆発した。そして、その憎悪を正当化するために、優生学が利用されただけなんです。捻じ曲げられて使われたというそれだけの話なんです。優生学が間違っていたというわけではないんですよ。敢えて何が間違っていたのかという対象を名指しするとすれば、それは人間が間違っていたというただそれだけのことなんです。

「それにも拘わらず、あなた方がこの上なくお気に入りの実存主義は、優生学を葬り去ってしまった。さて、そのような状況下でも、なお、あなたがたは思想なるものの有効性をおっしゃるわけですか? 全く……本当に、薄気味が悪いほどの恥知らずとしか言いようがありませんね。いいですか、あらゆる思想はね、この世界を「その思想によって許されているもの」と「その思想によって許されていないもの」に分けるんです。つまり、思想というものがある限り、科学的可能性に開かれた素晴らしい世界なんてものは訪れるはずがないんですよ。

「あらゆる思想は消えてなくなるべきなんです。ただ一つ、たった一つ、存在することを許される思想があるとすれば、それは思想は間違っているという思想なんです。あらゆる思想を相対化して、客観的に見ることが出来るようにする思想。それだけは、あってもいい。というか、それはなければならない思想でしょう。そういう思想がなければ、きっと、人間は何かしらの思想を選択してしまうでしょうから。そんな思想があるのかといえば……まあ、ないわけではありませんね。それが思想と呼んでいいものであるかどうかは難しいところですが。それはね、砂流原さん。仮想現実と呼ばれるたぐいの思想です。

「本来は、というか、人間至上主義社会の完成までは、そのような思想の相対化というものは、空間的もしくは時間的に異なった世界間での比較によってなされていました。例えば、空間的に異なった世界というのは、ある記号的現象を共有する集団に対する別の記号的現象を共有する集団を指します。中央ヴェケボサニアの遊牧民的思想に対する、エオストラケルタ大陸東端及び西端の農耕民的思想だとか。神国主義的な多神思想に対する、トラヴィール教会の唯一主思想だとか。そういうことですね。あるいは、過去においては、集団の内部でもある程度の思想対立が起こっていました。神官階級と戦士階級との対立だとか、資本階級と労働階級との対立だとか、そういうような、いわゆる価値観の対立と呼ばれているタイプの対立です。

「一方で、時間的に異なった世界というのは、つまりは過去のことですね。過去において支配的だった思想を現時点で支配的な思想に対立させるという方法を使っていた。金銭によって価値を平準化する前は世界における支配的な取引の形態は贈与であった、と主張することによって現代的な市場社会を相対化するとか。インフラストラクチャーが国家的なやり方で整備される前は、各地域におけるエコシステムが廃棄物処理を担っていたと主張することで、現代的な大量生産大量消費社会を相対化するとか。まあ、まあ、そんな感じです。あるいは、もっと小規模なところだと、家庭における世代間の価値観の相違なんかでもそのような比較がなされることがあった。例えば祖父の世代と孫の世代が会話することで、互いの世代の価値観を相対化出来ていたわけです。

「それから、後は……まあ、ちょっと専門的な話になってしまうんですけどね、このような空間的・時間的な比較以外にも、公的領域と私的領域との比較というものがありました。正確にいえば、公的領域における共同体的関係性の構造を、私的領域が発生させる純粋な欲求によって破壊するという方法です。つまり、公的領域内部に社会言語的な形で構築された競争のルールが、純粋な欲求が満足するということを妨害した際に、そのような競争のルールとはなんの関係もないところで行なわれる私的領域の行為が、公的領域それ自体を破壊するというパターンですね。ただ、これは……非常に例外的なパターンですしね。それに、砂流原さん、覚えていらっしゃいます? 公的領域だの私的領域だの、そういったものの定義。あはは、私の説明なんて、もう全部忘れてしまったでしょう。まあ、まあ、だから、このパターンについては、そんなものもありますくらいでお終いにしておきましょう。

「とにかく、人間至上主義社会が完成するまでは、そのようにして、あらゆる思想が相対化され得ていたんです。しかしながら、ですよ。人間至上主義社会の完成とともに、そのような相対化は、空間的なものも、時間的なものも、公的領域と私的領域との対立さえも、完全に消え去ってしまった。なぜか分かりますか? 人間至上主義というものが、つまるところ、自分自身の絶対化の思想だったからです。自分自身の実存的な価値というもの以外のあらゆるものを相対化してしまう思想だったからです。

「人間至上主義を二つの単語でまとめてみましょう。まずは反骨です。この単語が意味するところは、あらゆる権威は悪であり、その悪に対する反抗は正しいという考え方です。これによって、他集団の思想であろうが過去の思想であろうが、現時点で自分が正しいと思っている思想、それが何であれ、思想でさえないなんとはなくの気分であったとしても、そのような気分を支配するところの、悪しき権威であるということになってしまいます。そのような悪しき権威が人間至上主義という正義の思想を否定することは絶対に許されない。と、このようにして、相対化の機能が失われてしまうわけです。

「もう一つは多様性です。あらゆる思想は相対的なものであって、自分自身が幸福になるための一つの手段に過ぎないということを意味する単語ですね。そうであるならば、どのような思想であっても、その思想が自分自身を不幸にするという場合、その不幸にするということ自体によって否定されるべきだ。そのような幸福・不幸というものの基準は、いうまでもなく自分自身が好きなことを好きなように出来るという――自分自身が何を好きであるかということはその時その時の気分で決まるわけですが――そのことだけに置かれるべきである。そして、自分自身が好きなことを好きなように出来るという状態を阻害するような思想は、いうまでもなく悪であって、耳を貸す必要はないのである。そのような悪の思想以外はあらゆる思想が許されるが、悪の思想は消滅させるべきだ。はい、こうして人間至上主義を相対化しようとする思想は全てが消し去られてしまうわけですね。

「そして、ですよ、砂流原さん。反骨と多様性と。人間至上主義なるものの最悪の問題はなんだと思いますか? それは、今までこの世界に存在したあらゆる思想よりも「優れている」ということです。この「優れている」というのはいうまでもなく括弧つきの「優れている」であるわけですが、この括弧の意味は、人間という生き物の、その大半にとって、最高に都合がいいということを「優れている」という言い回しで表現しているということです。

「ほとんどの人間は、自分自身が特別な誰かであって、それゆえに好き勝手することを許されていると思いたいんですよ。自分自身がすることは全て善なることであって、そして、その善なることを妨害するものはいかなるものであれ悪であると、誰かにそういって欲しいんです。もちろん、そもそも自分自身なるものが関係知性において形作られるものである以上、他者から何ものかを取り込まない限りは、それが存在することさえあり得ないわけですがね。とはいえ、ほとんどの人間はそのようなことを気にしないわけです。人間の本性なるものが、自分自身の内側にあるということを完全に信じ切っている。自分自身こそが自分自身の本質であるというでたらめな信仰を堅持し続ける。

「そして、人間至上主義は、まさにそのような欲望に対する理論的な裏付けを与えてくれるというわけです。その理論なるものは、いうまでもなく完全に底が抜けているわけですがね。とはいえ、ほとんどの人間は、そんなこと気にしない。というか、そういうことを気にすることが出来るほど、人間至上主義について考えることがない。それは、自分にとって都合がいい、だから信じよう。無意識のうちに確定してしまったそのような思考回路が、それを疑うことを許さない。

「そう、「優れている」んです。この世界におけるこの人間存在という文脈上では、人間至上主義以上に、人間にとって都合がいい思想はあり得ない。だって、その思想の根底が、そもそも人間の欲望それ自体の肯定によって成り立っているんですからね。だから、この世界に存在しているいかなる思想も、その「優れている」思想であるところの人間至上主義を打ち倒すことは出来ないんです。こうして、人間至上主義は絶対的になり、その思想にとって都合が悪い優性学も環境改変技術も、その存在さえ許されなくなるほどの弾圧を受けてしまうというわけです。

「そのような人間至上主義をなんとかして相対化するためにはどうすればいいのか。他の思想によってそれを相対化するのは絶対に不可能です。もし仮に、なんらかの思想が現在の人間至上主義にダメージを与えたように見えたとしても。それは、実は、人間至上主義の完成に貢献したに過ぎないんです。なぜって、人間至上主義にダメージを与えることが出来るのは人間至上主義よりも人間の欲望に対して都合がいい思想だけですが、それって要するに人間至上主義よりも人間至上的な思想だってことですからね。では、何も方法はないのか。実は一つだけあります。それが仮想現実です。

「まず、自然科学と自然魔学と、それに社会科学のあらゆる分野から、出来る限りの学者を集めてきます。その際には、支配的な学説を主張している学派からだけではなく、あらゆる学説を主張している学派から学者を収集するということを、まあ、出来る限りではありますが、心がけます。

「そして、そのように集めてきた学者を一堂に会し、一つの仮想的な世界像を構築させます。あり得たかもしれないが、あり得なかった世界。その世界では、人間は人間ではなく、人間よりも高等な、人間よりも優秀な、人間よりも完成した何かです。そして、その何かが支配する世界においては一体どのような思想が行なわれているかということを討論させるわけです。

「「この世界における」人間至上主義が正しいのはね、この世界のこの人間にとってだけなんです。この世界とは別の世界の人間ではない何か、人間以上の人間にとっては「この世界における」人間至上主義なんてクソの役にも立たない戯言に過ぎないわけです。だって、そういう存在は、人間とは、自分自身に対する認識も違えば、抱いている欲望も違うわけですから。ということは、そのような世界を思い描いて、そのような世界の思想を提示すれば、その思想に対して、「この世界における」人間至上主義はなんらの有効な反論も持ち得ないわけです。そして、初めて「この世界における」人間至上主義は相対化されうるわけです。

「勘違いしないで下さいね。これは、サイエンス・フィクションと呼ばれているところのくだらない作り話とは違います。ああいうものは、結局は人称的な限界に拘束されてる。つまり、そのサイエンス・フィクションを作り上げた人間の思想に拘束されてる。具体的な例で申し上げましょう。よくサイエンス・フィクションでは、非常に先進的な知性を有しているはずの生命体が、ヴィーガンとして描かれていますよね。他の生命体から生命を奪わないこと、もっと広く、他の生命体に苦痛を与えないことが絶対善として描かれている。しかしながら、これは、いうまでもなく「この世界における」人間至上主義的な偏見でしかないわけです。

「あのですね、本当の高等知的生命体が、あるいは、人間よりも高度な知性を有する宇宙生命体が。実際に、そのような価値観を持っていますか? そんな価値観を持っているのはごくごく一部の例外だけでしょう! 舞龍にせよミヒルル・メルフィスにせよ、それにアザーズにせよ、平然と他者を破滅させる無慈悲な生き物ばかりなんです。だって、そもそも、人間性がないんですから。人間性の名において肯定されることは、人間性の持ち主にとってしか善なることではないんですよ。そもそも共感能力がなければ、他者の苦痛を共有することが出来ない。他者の苦痛が分からなければ、他者に苦痛を与えないようにするということは価値判断の対象にさえなり得ないんです。

「皆さん勘違いされているようですがね、サイエンス・フィクションなんてものは、結局はフィクションの名に値するようなものではないんです。だって、それは、それを書いている人間なんですから。サイエンス・フィクションは、それを書いている人間、その自分自身なんです。都合よく捻じ曲げられた人間至上主義の一形式に過ぎない。そして、仮想現実は、まさにそのような自分自身を破棄するために、破棄するとまではいかないとしても限りなく限りなく縮小させていくために、存在しているんです。

「そのためには、その世界を構築するための学者の数は出来る限り多くなければいけない。なぜなら一人一人の自分自身が要素として持つ重要性を出来る限りゼロに近付けなくてはいけないからです。そして、そのように集められた学者は、絶対的な匿名性のもとに扱われなければいけない。つまり、あらゆる議論は非人称的に行なわれなければいけないということです。やり方は、まあ、色々あるでしょう。真っ白な布で全身をすっぽりと覆い隠して、声は変声器で変えるとかね。あるいは、全てのやり取りを、印刷した紙で行なうとか。その紙に書かれていることは、予め、専門の校閲集団によって、あらゆる個性を剥奪した後に会議の場に持ち込まれることにする。こううすれば、誰が何を発言したのかということは、限りなく曖昧になっていきます。

「そうして初めて、そのフィクションはフィクションになりうるんです。自分勝手な、独りよがりの、自分自身を正当化する言い訳でしかないサイエンス・フィクションであることを脱してね。本当に役に立つフィクションは、自分を肯定するフィクションではないんです。この世界に存在意義があるフィクションは、自分を否定することが出来るフィクションだけなんです。そうではないフィクションは、全体主義的な思想体制を強化するだけであるという意味で、端的に有害なんです。

「さて、このように作り出された仮想現実という思想は、いうまでもなくこの世界において適用出来るわけではありません。だって、この世界のこの人間存在とは全く異なった価値観によって作られた思想ですからね。適用しようとしても、理解することさえ覚束ないでしょう。でもね、それでいいんです。なぜなら、既に議論した通り、あらゆる思想は有用であるように見えるだけで、実際に有用な思想なんて一つもないからです。あらゆる思想は仮想現実と同じように無用です。

「ただ、仮想現実は他の思想とは違いたった一点だけ有用であり得ます。それは人間至上主義を、この世界のこの人間存在が作り出した中で最も「優れている」思想を相対化しうるということです。正確にいえば、仮想現実が相対化するのは人間それ自体なんですけれどね。とはいえ、どちらにせよ、人間至上主義がただ単に恣意的に定められたところの観念の形式に過ぎず、人間それ自体という問題を解決するためにはなんの役にも立たないということを教えてくれるということには違いありません。

「こうして仮想現実によって完全変質が保証されるわけです。要するに、まとめると以下のようになります。まず、人間とは全く異なった高等知的生命体が支配する世界を一つのフィクションとして思い描く。そのような高等知的生命体が支配する世界は、当然ながら、私達が生きている世界よりも高度な世界です。そのような高度な世界における思想が、私達が生きている世界における思想とは全く異なったものであるということを認識することで、私達の世界の思想、つまりこの場合は人間至上主義ですが、そのような思想は、非常に下等な生き物が勝手に決めつけた偏見の体系でしかないということを認識出来るようになる。そして、その結果として、現在の人間が抱える問題の全てが記号学的現象から発生しているわけではなく人間そのものから発生するということを認識出来るようになる。こうして、人間そのものを解決する完全変質への可能性が開かれるわけですね。

「はい、ここまでが第二段階です。そして、この第二段階を前提として踏まえることで、ようやく最後の段階、第三段階について思考することが出来るようになるんです。つまり、全ての思想を否定する思想に本当に意味があるのか。あるいは、完全変質によって、人間が人間以上になることによって、本当に問題が解決するのか。いうまでもなく、どちらもその答えはNOであるわけですが……あはは、先走るのはあまり良くないことですからね。順を追って、一つ一つの段階を踏んでいきましょう。

「思想を否定する思想に意味があるのかという点について。というか、もっと正確に言うならば、人間至上主義を否定する思想というものが本当に可能なのかについてですね。これについては、いきなり仮想現実の無意味さについて話していってもいいのですが。ただ、まあ、先にそれ以外の思想について話していきましょうか。いうまでもなく、この世界には、仮想現実以外にも、なんとかして人間至上主義を否定しようとする思想があります。そういった思想についてまずは考えてみましょう。」

 マコトは、そう言うと。

 椅子の背凭れに置いていた、手のひら。

 そのうちの右の手のひらを差し上げる。

 人差指と中指と、二本だけを立てて。

 その他の指は、内側に、折り曲げて。

 二という数字を真昼の方に示すようにして。

 それから、続きを話し始める。

「人間至上主義というものは、基本的には、二つの形式によって否定されうるといわれています。一つ目が「意識と意思と」を否定するということ。二つ目が「自由と責任と」を否定するということです。一つ目から見ていきましょうか。「意思と意識と」、これは、記号的現象によって形作られた人間の内的世界を否定するということです。そうすることによって、そもそも自分自身という何かが存在しているということさえ否定してしまおうというやり方ですね。えーと、正確には、物理的身体は厳然たる事実として残り続けるので、自分自身という全体における疎隔性を否定しようとするということでしょうか。

「あはは、ここでいう疎隔性は巫学における学術的用語としての疎隔性というよりももっと通俗的な使い方で使っていますがね。何が言いたいのかといえば、人間が周囲の環境から独立して生きているということを否定しようとするということです。人間は環境を支配出来るわけではない。人間は、人間がその中で生存しているところの環境を自由にコントロールすることは出来ない。そして、その環境なるものの中には、自分の肉体の全体も含む。簡単にまとめるとこのような形になりますね。

「この説における最も嘲笑に値する誤謬は、そもそも、この説の全体が心身二元論を前提としない者にとっては全く意味をなさないということです。分かりやすく説明していきましょう。この説には幾つかの派閥があるので、その主なものを取り上げて具体的に検討していきますね。えーと、最初は「二段階構造説」と呼ばれているものです。分かりにくいところだとか論争があるところだとか、全部省略してしまって、一番単純な形式でこれをまとめるとこういうことになります。意識というものは人間の思考の二段階構造における二段階目に過ぎない。なんらかの行為を行なおうと思考する時、人間は、既に、無意識のうちで判断を行なってしまっている。意識というものはその判断を追認しているに過ぎないものだ。

「まあ、それはそうでしょう。その通りだと思いますよ。人間が関係知性の持ち主である以上、意識というものは他者との関係性におけるインターフェースに過ぎませんからね。判断は、この説においては無意識と呼ばれているわけですか? とにかく、判断が、インターフェースではなく、判断を行なうための部分によって判断されている、なんていうことは当たり前の話です。

「問題は、だからどうしたという話です。あのですね、その判断が意識的に行なわれようが無意識的に行なわれようが、その判断をくだしているのがまさに自分自身であるということは変わりがないじゃないですか! 全然、なんの意味もないんですよ。この説が主張していることには。意識があろうがなかろうが、私が決めたことは私が決めているんです。ということはですよ、私が、まさに私が、私の生存している環境に影響を与えようとしているその行動を支配しているんです。私が私の主人であるという論理的構造を、この説は一切否定することが出来ない。

「この説を主張している方々は、どうしてこの説に意味があると思ってしまうのか。それは、いうまでもなく……あはは、「無意識」的な前提として、心身二元論を設定しているからです。心と体とは異なったものだと思い込んで、その前提を否定し得ないものとして説を組み立てているからです。つまりね、物理的な体以外に、何か、非常に神秘的な、心なるものが存在していて、その心こそが自分自身の本質であると考えているんです。その本質たる心と比較すれば、体の方は、その心が依存しているところの環境に過ぎない。だから、その環境が心とは関係なく行なっていること、つまり無意識的な判断は、自分自身には属していない行為だ。

「しかしながらね、砂流原さん。人間至上主義者でなければ、心身二元論なんて、はなっから信じていないんです。兎の耳の先ほどにも信じていないんですよ。そして、心身二元論を前提としなければ、体も、やはり自分自身なんです。つまり、無意識的に行なわれている判断なるものも、やはり自分自身の判断なんですよ。これでは人間至上主義は否定出来ないんです。だって、そうでしょう? まさに自分自身が自分自身の判断を行なっている、自由に決定しているんですから。そりゃあ、意識を自分自身とする意識自身のような考え方は、この説によってなくなるでしょうがね。その後には、どうせ、他の人間至上主義的な説が出てくるに決まっているんです。例えば脳髄自身だとか、神経系自身だとか、肉体的自分自身だとか。こんな説じゃあね、自分自身は否定出来ないんです。

「これは、このような説に近似したあらゆる説にいえることです。例えば、「二段階構造説」は心身二元論を物理的なレベルで当然化したものですが、それを社会的なレベルで当然化したものが「システム形成説」ですね。この説は、人間の思考は社会的なシステムによって予め規定されているというものです。人間の人格だの能力だのは生まれ持った遺伝、あるいはその中で育ってきた環境によって決定される。その人間がそのようになったのは、その人間がその人間になろうとしてそうなったわけではない。そうである以上、人間には自由意志などあり得ない、というあれですね。

「まあ、そうですよ、そうですけどね。だ、か、ら、どうしたっていうんですか? そんな当たり前のことはね、どんな低能白痴だって理解しているんですよ。問題なのは、最も重要なことは、そんな当たり前のことをどんな大声で叫んだって、そうやって形成された自分自身がやっぱり自分自身だっていうことを否定出来ないってことです。

「そりゃあ、否定しませんよ。ここにこのようにして存在しているこの私なるものが、環境と遺伝と、その二つ以外によっては定義し得ないということはね。でも、そうして作られた私はやっぱり私なんですよ。そして、ここで、こうして、こういうことをしたいなぁだとかこういうことをしたくないなぁだとか、そう思ってるんです。もちろん、そう思っているのは環境だとか遺伝だとかのせいですよ。でも、それが何によって形成されているのかなどという問題とは全く別の問題として、やっぱり私は意志をしているとしか思えない状態にあるんです。それこそが本当に厄介な問題なんですよ。

「これもね、やっぱり心身二元論なんですよ。遺伝だとか環境だとか、そういう物理的な次元とは全く別の次元に、何か光り輝くイデア的な存在として心というものがなければいけないという強迫観念がもたらした無駄な議論なんです。何度でも何度でも申し上げますがね、そんなものはないんです。全然ない、全くない。まさに、遺伝が、環境が、自分自身なんですよ。

「あらゆる判断基準が社会的条件に拘束されている。例えば、人間が人間を殺すことはなぜいけないのか。そこには、たったの一つも、その禁止が合理的であるという根拠はない。ただ社会的条件によって決定されていることを、私達が、それ以上は思考することなく、ただただ受け入れているからそのように思われているだけだ。あらゆる人間の判断の基礎はこのように決定されている。そりゃあそうですよ、そうですけどね、そこに、その判断の前提を受け入れている「私」がまさに存在しているじゃないですか! そのようにして形成されている「私」がいるじゃないですか! 心身二元論なんていう馬鹿げた常識を、いい加減放り捨てて、ただただ現実を見つめて下さい。私はいるんです。そして、そのようにして遺伝と環境とに定義された意志が、まさに存在しているんです。

「あなたね、例えばですよ、あなたが実際のところは宇宙のあちらこちらにふわふわ浮かんでいる塵のようなもので出来ているのだ、だからあなたは実際にはあなたとして存在しているわけではなく、宇宙の塵に過ぎないのだっていわれながら指を一本一本切り落とされていったとして、少しでも、ほんの少しでも、その激痛が治まると思いますか? 治まるわけがないでしょう! 問題なのは真実ではないんです。まさにここにある苦痛こそが問題なんですよ。そして、ここで苦痛のアレゴリーによって表現されているのは、自分自身が自分自身として存在しているようにしか思えないこの現実です。

「社会的条件は、規範は、まさに現実なんです。あなたのクソほど意味もない「システム形成説」なんかよりも、よっぽど重要な現実なんです。虚構を虚構だといって馬鹿にするのはやめて下さい。もしも虚構を馬鹿にしたいなら、あなたのおっしゃる真実とやらで虚構を消し去ってからそういって下さい。

「あのね、それが正しいか正しくないか、それが真実であるか真実ではないか、そんなことにはなんの意味もないんですよ。なぜか分かりますか? そもそも、大前提として、あらゆる意味が無意味だからです。あらゆる真実が虚構だからです。恣意的なprejusticeに過ぎないんですよ、真実なんてね。例えばですよ、一足す一は二であるとして、しかも、確かに、一つの林檎と一つの林檎を足し合わせると二つの林檎になるとします。それでも、一足す一は二という数式はprejusticeに過ぎないんですよ。なぜか分かりますか? それが真実であるということは、結局のところ、最終的には、人間によって決定されるからです。

「私はね、別に、真実なるものの不可知性を言ってるわけではないんです。人間の感覚に限界があるだとか、そもそも脳が正しいことを認識しているのか間違っていることを認識しているのかどうやって理解するのかとか、そういうことを言いたいわけではない。それ以前の問題なんです。真実という概念は真実ではないということを言っているんです。真実という真実が、あらゆる恣意性から離れたところに、ただただ疎隔的な現実として存在しているという、その思い込みが馬鹿げていると言っているだけなんです。

「だって、そんなこと、当たり前でしょう! 「合理的な裏付けのある科学的な事実」なるものが、物理的に、人間の認識の外側に、確かに存在しているとしますよ。それが、ただそれだけの事実で、そうであるということの特別な地位を獲得し得ますか? そんなことあり得ないに決まってるじゃないですか! だって、それがあるということの「それがある」性は、それがあることによって決まるわけではなく、それがあるということの恣意的な決定によって決定されるんだから! つまり、真実であるかどうかということは、絶対的な真実ではないんです。せいぜいが、ちょっとしたクイズとその答えとの関係性程度の重力しか持ち得ない。

「私達にとって本当に重要なのは、私達なんです。つまり、私達に対する絶対的影響性なんです。真実に真実としての重さがない以上、私達に影響を与え得ない全ての物質及び現象は、完全なる非現実なんです。それがそうであるということが現実になりうるのは、絶対的影響性によって初めてそうなりうるんですよ。まあ、絶対的影響性については「無自由説」を反駁する際にもう一度取り上げますがね。とにかく、意味が意味を持つのは意味があるからなんです。意味がなければ意味がない、それが真実であっても、虚構と何も変わらない。

「簡単に言えば、実感があるかどうかが重要なんです。ちょっと正確な言い方ではないんですけど、それでも分かりやすいでしょう? それが認識に過ぎないのだとすればそれは無力なんです。無力であるということは何も出来ないんです。「合理的な裏付けのある科学的な事実」なるものが重要なのは、それが物理的に存在している確かな真実であるというからではなく、それがその重要性に引き合うほどの影響力を持っているからに過ぎないんですよ。実体としての世界が、一体どうしたっていうです? あのね、実体としての世界なんてものは吹き消せば消えてしまう蝋燭の火なんですよ。そして、消えてしまった蝋燭の火にはなんの意味もないんです。

「ということで、「意識と意志と」を否定することによって人間至上主義を否定することの無意味さについてはそろそろお分かり頂けたのではないでしょうかね。要するに、このようなやり方では、何か素晴らしく真聖な自分自身というものの本質なるものを否定することは出来るでしょうけれども、自分自身それ自体を否定することは出来ないということです。この肉体として物質的に自分自身が存在することは否定出来ない。

「そして、そのような形であっても。自分自身が存在する以上、その自分自身は最終的には栄光の玉座に祭り上げられてしまうんですよ。それどころか非イデア的な自分自身というものはイデア的な自分自身よりも遥かに遥かに人間至上主義的な実存であるということさえ出来るんです。なぜだか分かりますか? そもそもですよ、イデアというアイデアは――あはは、ちょっとした冗談ですよ――何か「より良きもの」があるという前提のもとに成り立っているわけです。ということは、そのアイデアを許容しなければならないのであるならば、いうまでもなくなんらかの種類のヒエラルキアを認めざるを得なくなる。

「つまりね、自分自身が自分自身であるということだけで絶対的に肯定されるべきものではなくなってしまうんですよ。自分自身は、結局のところヒエラルキアの中で評価されるべき何かになってしまう。これは人間至上主義の教義からいえば絶対に許されてはいけないことなんですね。だって、人間至上主義は、自分自身という実存こそが絶対的に肯定されるべき何かであると主張するわけですから。ああ、ここで注意しなければいけないことはね、砂流原さん。人間至上主義は、自分自身が「主」だとか「支配者」だとか、そういうことは主張していないということです。それは、ただただ自分自身を肯定する。そして、その他のあらゆるものを否定する。まあ、とにかく、人間をイデア化してしまえば、そのようなことが出来なくなるわけです。

「しかしながら、人間を非イデア化してしまえば。それは、あらゆるヒエラルキアから離れたところにいる何者かになる。あらゆるヒエラルキアを完全に無効化することが出来るんです。例えば「システム形成説」であれば、あらゆるヒエラルキアは単に暴かれるべき虚構になってしまうわけですね。だって、その説によれば、あらゆるヒエラルキアは関係性が生み出したろくでもない迷信に過ぎないわけですから。第二次神人間大戦の英雄であるキャプテン・エスペラントが正しい人であると讃嘆することは後世の審判に過ぎなくなりますし、その反対、ゾシマ・ザ・エルダーのあらゆる悍ましい生物実験……いや、死物実験といった方がいいですかね、あはは、まあ、なんにせよ、そのような実験を悍ましいと非難する全ての罵声は気違いのたわ言になってしまうというわけです。

「しかしね、砂流原さん、そんなわけがないんですよ。これも、やはり、先ほども議論したことですがね。そもそもそのようにして主張される「あらゆるヒエラルキアは虚構である」という、その「虚構」こそが虚構なんです。全ての「真実」が虚構であるというのであれば、なぜ「虚構」だけが真実であり得るんですか? なぜ、偶然にも、偶然にも! あなたがそれを真実だと主張している「虚構」だけは真実であると認められるんですか?

「科学的合理性も、現実の世界に確固として実在している物理的な世界も。ただ単にそれがそれであるというだけではそれがそれであるという地位を得ることは出来ないんです。そうであるならば、あなたが恣意的に線引きした「真実」なるものと「虚構」なるものとの境界線も、やはり低能のうわ言に過ぎないんですよ。そして、その線がない以上、「虚構」もやはり意味をなさない。もちろん、もちろんですよ。あなたはこういう言い訳をするかもしれません。自分は現実を真実として認めているわけではない。それどころか、現実はまさに虚構の集合体であると主張しているのだ。あらゆる錯覚がプロセスとして成り立ち、そのプロセスが関係しあうことによって、そこに現実が関係性として生まれてくるのだ。

「認知症を患っていらっしゃる方ですか? あのね、私はそんな話をしているわけではないんです。今は、人間の認識としての現実なるものの話はしていない。なぜ、あなたは、確固とした物質として厳然と実在している実在があるとして、その実在を、認識抜きのその実在を、「真実」として認めているのかと、そういう話をしているんです。まあ、実在じゃなくて科学法則だの魔学法則だのでもいいですけどね。とにかく、その「真実」の真実性はいったい何者によって保証されているのか。そして、あなたがそれを「虚構」であると主張する際、その「虚構」という言葉の真実性は何者によって担保されているのか。それを聞いているんです。そして、それを保証するものなんてどこにもないんですよ。

「自分は物質に本質を認めてはいない、全ては関係性だと認めている、なんて話をするのはやめて下さいね。だから、そういう、話を、している、わけでは、ないんです。科学的合理性だとか、具体的原因性だとか、なんでもいいですがね。そのようなものによって基礎付けられている何か、それが本当にありうるかということは別にして、仮にそれが仮説的な何者かであったとしても、そのような何かと。そういったものに基礎付けられていない、あなたがおっしゃるところの関係性的な何かと、その二つの違いはどこから生まれるのかと聞いているんです。世界がね、普遍的な本質があろうが、関係性に過ぎなかろうが、何も変わらないと言ってるんですよ。私はそういうことを言っているんです。あなたが強迫神経症のように合理性に執着するのはなぜなのかと問うているんです。

「いうまでもなく、その執着には「合理性」がないんです。あのね、勘違いしないでくださいよ、私は別にヒエラルキアがあなたがいう意味での「虚構」ではないといいたいわけではないんです。社会制度があなたのいう意味で「虚構」ではないといいたいわけでも、人間が認識する現実があなたのいう意味での「虚構」ではないといいたいわけでもない。そもそもあなたの主張が破綻しているといいたいんです。あなたは馬鹿で、自分の考えていることをまともにまとめることも出来ず、あちらこちらで馬鹿が露出している馬鹿な議論しか出来ない馬鹿だといいたいんです。もっとはっきりと言ってしまえば、あなたの「虚構」の定義はあまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて使い物にならないと言っているんです。あなたは議論の土台にさえ上がっていない、だから、あなたの全てが無意味だ。そう言っているんですよ。

「さて、なぜあなたはそのような馬鹿になってしまったのか。いうまでもなく、あなたが人間至上主義者だからです。あなたはね、実は、本当の本当の、心の奥底では。意志も意識もどうでもいいと思っているんです。意志だろうが、意識だろうが、そんなものがあろうがなかろうが、あなたにとってはどうでもいいことなんです。あなたは、とにかく、どうにかして、自分が世界で一番賢いと主張したかった。ただそれだけなんです。

「そうするための最も効率的な方法は何か? いうまでもありませんね、何もかも相対化してしまえばいいんです。何もかも、世界でそれが真実だといわれている全てのことが「虚構」であると主張すればいいんです。そうすればあなたは、つまり全ての真実を相対化しうる立場に立っているあなたは、自動的にこの世界で最も賢い誰かになれるというわけです。

「ああ、空の空! なんという空虚! この世の全ての真実のことではありません。あなたのことですよ。あなたに比べれば、まだ「二段階構造説」を主張している方々の方が誠実です。本当に、私はね。心の底からそう思います。なぜというに、あなたは、全ての真実は相対的なものであると主張しようとして、結局のところ、人間至上主義を絶対化したに過ぎないからです。この世の中で最も有害な影響力がある「真実」、もちろんここではこの「真実」なる言葉は皮肉として使用しているわけですが、そのような「真実」の前に拝跪する愚昧の司祭になったに過ぎない。

「つまり、つまりね、砂流原さん。「意識と意志と」を否定する方々は、結局のところ、自分自身という非常に抗いがたい思想に屈して、その前で惨めったらしく腹を見せて横たわっている低能どもに過ぎないんですよ。あのね、砂流原さん。そういう低能どもに限って、こういうことを言うんです。自分の主張を規範論として読み解くのはやめて欲しい。自分は、この主張を認識論として構成しているのだから。あらゆる規範から距離を置いた地点から、そのあらゆる規範を相対化することにこの主張の目的がある。つまり、この主張は、今まで規範論が目を背けていたところの問題の原点に目を向けるためにあるのだ。

「だから、問題に、原点なんて、ないんです。あなたが勝手に作り出しているだけなんですよ。教えてあげましょうか? 人間存在は常に慣性によって動いていくんです。人間がそのようにして移動する移動を動かしている作用点なんてない。そうである以上、その作用点に至るための支点もあり得ないんですよ。あなたが人間存在の真実の形だと主張しているところの関係性、関係性によって形成された現実、そんなものはないんです。「あらゆるものは変化していくという現象」もないし、「個々の人間が有している思想から全く遊離した位置にある普遍的真実の形をとった虚構」もない。何もない、空の空なんです。

「あのね、あなたは全然勘違いをしている。思想にとって重要なのは、あなたが異常なまでに固執している本当の真実なるものではないんです。そんなものはどうでもいい、あるのかないのか以前の話としてどうでもいいんです。思想にとって、本当に、絶対的に重要なのは、その思想の内容ではない。だって、本質的なことを言ってしまえば、全ての思想が同価値に無価値である以上、何を言っても同じなんですから。そうではない、その思想を語る時に最も重要なのは、その「態度」なんです。

「全ての思想に意味がないように、あなたの言うことにも意味がない。あなたが人間至上主義であると私が指摘するのは、あなたの主張する内容によってではない。あなたが何か言う時の全て。あなたがどのような行動原理に支配されているのかを見せる、あなたの語り口。あなたが本当は何を欲望しているのかという、あなたの視線。あなたのちょっとした身振り、あなたの指先の動き、あなたがいつ脚を組み替えるか。もちろん、これは比喩的な表現ですが、要するにそういうことなんです。

「あなたが、まるで、自分が主張する思想以外の全ての思想を馬鹿にしているような語り口で思想を語る時。それが、その語り口こそが人間至上主義なんですよ。あなたのそのクソ生意気な口調こそが、この世界で最も有害な思想なんです。あなたがあなたの本の後書きで自分がいかに優れた人間であるかを語る時。自分が一人の実存として自立していると語る時、あなたが妻だの友だの子供だのを持ち出して誰かから教わることの謙虚さを傲慢にも語る時。あなたが自分の主張する内容が誤解されていると居丈高に嘆く時、あなたが自分の書いた原稿はどの出版社からも受け入れられなかったとにやにやしながら嫌らしく書き殴る時。その時、あなたは、まさに、何一つまともな思考をすることなく、人間至上主義の全体主義の中での一個の歯車としての役割に安住する、救いようのない低能になるんです。なぜだか分かりますか? なぜなら、その時、あなたは、自分自身を絶対的なものだと信じているからです。自分自身の言葉を信じているくせに全ての言葉は虚構だと語ることは欺瞞ですよ。どう言い逃れしようとね。

「何度でも、何度でも申し上げますがね。思想の内容なんていうものは暇潰しなんです。なんとなくそれを解いてみたら、ちょっと頭がすっきりした気になれるという程度の、暇潰しのパズルなんです。そんなどうでもいいものに執着するよりも、あなたの、まさにあなたの、現実における行動について気を付けることの方が何倍も何倍も重要なんですよ。いや、あはは、何倍という言い方はおかしいですね、ゼロに何をかけてもゼロなんですから。あなたの思想にはゼロの意味しかないので、それを何倍にしてもゼロのままです。とにかく、私達が、人間が、本当に注意しなければならないのは、人間存在としての運動、人間存在としての慣性なんです。そして、その慣性は思想の内容には宿らない。思想を語る、その態度にしか宿らない。まあ、そういうことです。」

 マコトは、そこまで話すと。

 ふっと、背凭れから離れた。

 また、ゆっくりゆっくりと歩き始める。ただし、今度は、真昼が座っている椅子の方に向かって。その椅子に、近付いて、近付いて……それから、その椅子と、すれ違った。つまり、真昼が座っている椅子の横、真昼から見た時に左側を通り過ぎていったということだ。そのまま、真昼が座っている椅子の真後ろまで行くと、くるっと方向を回転した。それから、今度は真昼から見て右側を通り過ぎて、真昼の真ん前に出てくる。そうして……くるくる、くるくると。まるで、鮫が、船の上の獲物の血の匂いを嗅ぎつけたかのように、真昼の椅子の周りを巡る。

 巡る。

 巡る。

 マコトの言葉も。

 マコトの、嘘も。

「さて、「意識と意志と」を否定する方々についてはこれくらいにしておきましょうか。もう十分だと、砂流原さんも思っていらっしゃるでしょうからね。次は「自由と責任と」を否定することによって人間至上主義を否定しようとなさる方々についてお話ししましょう。このような方々も、やはり幾つかの種類に分類することが出来ます。その中でも特に有力なのが「内的必然説」「自動説」「無自由説」の三つです。

「まずは「内的必然説」から見ていきましょうか。これは世界全体の構造について、自分自身を中心とした因果の連鎖であると定義する説です。自分自身を、世界が発生する一つの場として捉える説ですね。これは非常に複雑な説で、どれくらい複雑かというと、この説を主張している方々自体が、自分がいっていることが実際にはどういうことなのかということについてほとんど理解出来ていないというくらいの複雑さなのですが。まあ、まあ、ここでは敢えて単純化して説明していきましょう。

「まずですね、この説は、自分自身というものを、無数の条件が集合することによって世界的に定義されているところの一つのプロセスとして確認します。ここら辺は「システム構造説」と同じですね。しかしながら「内的必然説」は、ここから「システム構造説」とは全く異なった方向の欺瞞に議論を捻じ曲げていくことになります。

「ここまでの議論から全く素直に考えてみれば、あらゆる人間の行動は、例えそれが能動的に行なった行動だったとしても、それは実際は受動的行動であるという結論が導かれてきますよね。そんなこと、いうまでもない当たり前のことですよ。だって、人間のあらゆる行動は、自分で決定しているわけではなく、世界によって決定されているんですから。

「ここで、世界によって構成されている自分自身もやはり世界の一部である世界である以上は、世界でもある自分自身が世界によって動かされているという状態は、はっきりと能動とも受動ともいうことは出来ない、なんて馬鹿なことをいうことはやめて下さいね。論理的に考えて下さい。まず、自分自身は自分自身でしかなく、世界の全体ではない。そして、この議論においては、その一部であるところの自分自身は世界化されたものとして取り扱われているわけではなく、ある種のorgan的な何かとして取り扱われている。ということは、そのorganがorganとして自律的に行動していない以上は、やはり、その行動は受動でしかないんですよ。

「それなのに、にも拘わらず。「内的必然説」は、それを受動としては扱わないんです。とはいえ能動として扱うわけでもない。そのどちらでもなく、「自分自身の内側に必然として立ち現われてくるところの一つの行為」であるとするんです。つまり、あらゆるプロセスが自分自身という焦点に収束することで、その結果として、自分自身である私が行なった行為が必然的に現われてくると、こう主張するわけです。

「本当に、これは、なんというか……まあ、いいでしょう。とにかく、ここで重要なのは、なぜ「内的必然説」がこのように混乱した、複雑に捻じ曲がった論理を主張するに至ったのかという、その病的なまでに欺瞞に満ち満ちた心理学的な構造についてです。つまりね、砂流原さん。「内的必然説」を主張する方々は、耐えられないんですよ。自分が自分の主ではないということが。自分自身が自分自身にとって最も重要な何かではないということが。

「だから、素直に自分は世界によって受動的に決定されているといえばいいものを、なんだか分かったような分からないような、無意味に複雑な論理構造を作り出して、自分自身を決定付けているのが世界における自分自身という要素であるというクソまだるっこしいことをいい始めるわけです。

「わざわざ議論するのも馬鹿馬鹿しいですが……この議論は、「システム形成説」と全く同じ間違いを犯しているわけですね。自分自身というものを、わざわざイデア的な自分自身と非イデア的な自分自身とに分離しているということです。この説におけるイデア的な自分自身は主人公としての自分自身です。つまり、自分が自由ではないということに気が付くところの、パンピュリア悲劇における主人公のように芝居がかった何者かということですね。そして、非イデア的自分自身というのが、その受動的でも能動的でもない行為が行なわれる場としての自分自身ということです。

「もちろん、いうまでもなく、この二つの自分自身を分離させる必要などどこにもないわけです。芝居がかった身振り手振りで、わざわざ自分が自由ではないと気が付く必要なんてない。ただただ自分の外部にある必然を受け入れてそのままそれを実行すればいいだけの話なんです。しかし「内的必然説」を主張する方々はそれが出来ない。なぜなら自分が大好きだから。自分が大好きで大好きで仕方がないから。

「そりゃあ、私だって自分は好きですよ。自分が好きだということについては人後に落ちない自信はあります。とはいえですよ、だからといってね、よくもまあ、これだけ破綻した主張が出来るものですよ。全く、このような低能であるということ、そして、その低能が全世界に露呈してしまうことが恥ずかしくないのでしょうかね。まあ、とにかくですよ、「内的必然説」を主張する方々は、この説の名前ともなっている内的必然などという概念をわざわざ作り出してしまったわけです。

「つまり自分自身の全ては自分自身の内部にある本質によって決定されていると、こうのたまうわけです。そして、世界において自分自身が行動する行動は、世界からの影響を受けた自分自身の本質が、その影響によって変化することによって引き起こされると主張なさるわけですね。で、あるからして、全ての行動は、自分自身の本質が、ある種の表出として立ち現われてくるところの、何かしらの変化形態であるということになるわけだと。

「この場合、自由なるものは端的に否定されることになるわけです。なぜかというと、自分自身の行動は自分自身の自由によってはどうにもならないところの二つの決定項によって予め定められているわけですからね。その二つの決定項とは、一つ目が自分自身の本質であり、二つ目が外部から受ける影響です。ちなみに、前者の自分自身の本質とは、自分自身としての形態をとったところのプロセスのことを指しているため、自分自身ではコントロール不可能なものとして定義されています。

「そして、「内的必然説」を主張する方々は、この行為において、自分自身の本質が強く表われている場合にその行為が良いものであるとする。一方で、世界からの影響が強く表われている場合にはその行為が良くないものであるとする。これはなぜかというと、いうまでもなく、「内的必然説」を主張する方々にとっては自分自身が最高の実存であるからです。そのような実存を、一層尊重している人間は、善なる人間として義認されるわけです。

「あはは、全く……このような議論は、口にしているだけで刻一刻と自分が阿呆になっていくということを実感してしまいますがね。とにかく、この説は、たった一言で破綻してしまう説なんですよ。つまり、「なぜ自分自身の本質なるものを世界から分離させなければいけないのか」。あのね、当たり前でしょう。あなたのおっしゃることに従えば、自分自身は、世界におけるプロセスの重合体によって形作られているんでしょう? それならば、その本質は、要するに世界のことじゃないですか! なぜわざわざ自分自身の本質なるものを措定しなければいけないんです!

「誤解しないで下さいね。私が言っているのは、自分自身を世界から分離するなということではないんです、自分自身の本質なるものは、論理的に存在しえないと言っているんですよ。仮に、仮に存在しえたとしても、それは世界なんです。自分自身の本質なるものを措定して、その外側に世界を、その内側に内的必然を、それぞれ配置するのは、はっきりいって気が狂っている。

「そもそもね、内的必然なんていうものはあり得ないんです。形容矛盾だ、論理的に破綻している。それは、結局のところ、自由なんですよ。自由に過ぎないんです。いいですか、あなたのような白痴にも分かるように一つ一つ説明していきましょう。まず、第一に、自分自身なるものが、自分自身ではコントロールし得ないあらゆるプロセスから「自然に」導出される一つの解であるというあなたの仮説が正しいとしたところでですよ。そのように導出された自分自身は自由なんですよ! なぜか分かりますか? あらゆる思考の過程が外的に規定されたものだとしても、自分自身が自分自身であるとしてそこにあると定義されていて、しかも、その自分自身がその思考を「内的」な過程として処理している以上、その思考をしているのは自分自身だからですよ! その過程がいかにコントロール不可能だとしても、その過程によってコントロールすることが可能である以上は、その思考は自分自身が自由に行なっている思考だという結論になってしまうんです。

「馬鹿の議論なんですよ。あり得ないものをあり得るといい張っている白痴の議論なんです。つまり、あり得ないんです。私の思考の過程がプロセスによって決定されている以上、その思考を行なっているところの私の本質は、内的には存在し得ないんです。私の本質は、私の外側にあるんです。私は私の外側から強制的に与えられる行為を受動しているんです。そして、この構図こそが、必然という単語の正しい意味なんですよ。

「さて、私のこのような批判に対して、きっと「内的必然説」からはこのような反論が出てくることでしょう。お前の批判はそもそも「名前に対する批判」でしかない。つまり、議論における枝葉の問題を、些末な問題を殊更に取り上げて声高にあげつらっているに過ぎないのだ。このような議論において本当に重要な問題点とは、お前が常日頃からそのように主張している通り、その議論が本当に有用であるかどうかという点である。そして、自分がしている議論は、人間存在にとって非常に有用である。なぜなら、この議論によって人間は責任から解放されるからだ。

「この議論において、人間がなした行為は二つの次元で捉えられる。まずは、いうまでもなく自分自身がその行為を行なったという次元である。これを加害性の次元と呼ぼう。そして、もう一つの次元が、そのような行為をなすように世界によって強制されたせいでその行為を行なったのだという、被害性の次元である。

「この二つの次元に行為を分けることによって、人間がなした行為は、通常のパースペクティヴとは異なるパースペクティヴにおいて理解されることを可能にする。まず、人間がなした行為は「自分自身の責任によって行わわれた行為」という側面を喪失する。なぜなら、それはある面においては強制によって行なわれた行為だからである。一方で、人間がなした行為は「自分自身に帰属する行為」であり続ける。なぜなら、それは間違いなく自分自身によって行なわれた行為だからである。

「このように理解されることによって、その行為をなした人間は、一方では無意味に追い詰められ責め苛まれることがなくなる。今までの理解であれば、本来はその人間に選択肢はなく、遺伝や環境や、そういった要因によって、その行為を取る以外にはなかったはずであるにも拘わらず、その人間は、責任という観念を、全く根拠のないその責任という観念を無理やり押し付けられることによって無意味に非難されていた。だが「内的必然説」の理解によれば、その行為をなした人間は、その人間の責任によってそれを行なったわけではなくなるのであるからして、そのような非難は正当性を失うのだ。

「他方で、その行為をなした人間には、その行為によって世界に生じたあらゆる結果が帰属することになる。なぜなら、それは、やはり自分自身がなした行為だからである。それは、しかしながら、責任という形で帰属するわけではなく、その人間の内的な必然性にあたかも一つの刻印のごとく帰属するだけなのである。それが良き結果であるならば、それは勲章として帰属するだろう。そして、それが悪しき結果であるならば、それはいうまでもなく汚点となる。人間は、その帰属の性質が自分自身の本質に与える影響、つまり自分自身の本質を輝かせるか穢してしまうかということを客観的に観察することによって、逆説的に、その行為の結果を、主体的に、実存的に、受け入れられるようになるのだ。

「「内的必然説」によって、人間は、責任とは異なる、全く新しい行動原理を手に入れることになるだろう。それは世界に対する応答という行動原理だ。責任という言葉によって罪の意識を外側から押し付けられるのではなく、自分自身の行為が、自分自身の本質において、世界というプロセスの中で一つの結果として結実するということが、自分自身の内的必然の中で必然的に理解されるのである。それは、まさに、世界に対する応答として、あらゆる行為を、本心から、自らのなした行為であると受け入れる行動原理なのだ。それは、つまり、自らによって自らになされるところの、内側から出てくる更生である。

「はあ、はあ、なるほどなるほど。左様ですか。つまり、あなたは全体主義を全面的に肯定するということですね。しかも、人間の内心を体制に従順な形で改造することを目的とした、最低にして最悪の全体主義を。そうですよね、そうとしか考えられない。だって、あなたは、外側から責任を押し付けるという、ある意味ではその人間の内面の自由を肯定することになる、慈悲深い矯正を排除して。内面そのものが作り変えられない限り真の反省は訪れないというお考えを主張なさっているのですから。

「あはは、まあ、そういう冗談は置いておいてですよ。あなたの最大の問題は、いいですか、あなたの最大の問題は、社会が善なる場所であるか悪なる場所であるかということの決定に対して、人間の実存がなんらかの役割を果たすという、なんの根拠もない信仰を信仰しているということです。いうまでもなく、そんなことはない。そんなことはあり得ないんです。

「人間が自分自身の行為を心の底から反省するかどうかなどということは、この世界になんらの影響も及ぼさないんですよ。人間が、その内側から、その本質として更生されるかどうかなんていうことはね、絶対的にどうでもいいことなんです。そもそも、責任なんて必要ないし、行為の結果を個人個人に帰属させる必要もない。それが必要だと考えるのは、それは、あなたが、あらゆる判断の基準を人間性に置いているからです。

「確かに人間性の観点からみれば、一人の人間が自分がなした行為が悪しき結果を起こしたことについて心の底から反省し、そのような行為を二度としないようにということを自分の実存によって感じるということ。つまり、正義は、非常に意味があることでしょう。しかしながらね、人間存在にとっての有益性という観点からみれば、正義なんていうものはクソの役にも立たないんです。

「いいですか、例えばですよ、薬物中毒の方々を例にとって考えてみましょうか。そういう方々が、心の底から薬物中毒になったことを反省して、そのような行為をしないように決意し、そしてその決意を常に心の中に持ち続けることによって、薬物中毒との戦いという叙事詩的な戦いを人生に拠って戦うこととね。脳味噌にささっと作用して、簡単に薬物中毒から抜け出せるように、どこにあるのか知りませんが、その中毒を起こしている脳味噌の部分を治してしまう薬を使うことによって、お手軽に薬物中毒から抜け出すことと。結果としては、何も変わらないんです。

「あるいは殺人を犯した人が心の底から反省をして殺人をやめることと、殺人の欲求を起こす脳味噌の一部を切除されて殺人をやめることと、これもまたなんの変わりもない。変わりがあるとすれば、殺人犯が反省していた方が、被害者遺族がなんとなくすっきりするという、それくらいのものなんですよ。

「つまり、そもそも加害者性などという次元を前提する必要なんて欠片もないんです。被害者性だけで十分なんです、いや、被害者性さえも必要ないかもしれない。そこに事実があるだけでいい。世界を修正していくためにはね、事実だけがあればいいんです。わざわざ小難しい議論をこねくり回して、責任だの帰属だの、どうでもいい定義にむきになっているくらいならね。事実を確認し、その事実を修正する方法について考える方がよっぽど有意義なんですよ。

「皆さん勘違いなさっているようですがね、責任でも、あるいは結果の帰属の認識でも構いませんが、そのような主観的な要素は、人間存在にとってなんらの有用性ももたらさないんです。それはあくまでも人間性の次元でしか作用しない。そして、もしも、人間性の次元にこだわるのだとすれば。そうなのであれば、わざわざ帰属なんていうややこしい概念を使うよりも責任という概念を使って叩きのめした方がよほどすっきりするんです。有用性の議論をする前に、その帰属という概念のもととなる内的必然なるものが、責任という概念と同じように論理的にあり得ないということを議論しましたよね? 両方とも論理的にあり得ないならば、一層すっきりする方を利用した方がよほど有用というものです。

「と、こういうことを言うと、「内的必然説」を主張する方々は、行為者の視点から物事を見るべきであるという反論をなさるでしょうね。つまり、責任という概念を使った場合、行為者にとっては、自分がそれをすることは避けられなかったにも拘わらず、あたかもその選択をなしたことは行為者の自発的かつ全面的な決断のもとに行なわれたかのようにみなされてしまう。一方で、帰属という概念を使えば、その決断ではなく結果だけが行為者に対して帰属することになる。結果として、行為者は、その行為に対する純粋にして絶対なる開始を請け負う必要がなくなるのだ。

「あのね、いくらそうすることが自分にとって都合がいいからって、論理によって現実を捻じ曲げるのはやめて下さい。ごくごく普通の人間がですよ、誰かに何かの責任があると主張する際、それは別に「行為に対する純粋にして絶対なる開始」などというものを背負わせようとしているわけではないんです。色々とあったのだろう、その行為には行為者の外部から与えられたところの様々な影響が関連しているのだろう、だが、とはいえ、その行為をした以上、その決断をするにあたって、行為者自身がなんらかの決断をなしたことは否定出来ないことだ。そうであるならば、行為者は、その決断についての関与の分だけ責任を請け負うことになるだろう。これが一般的な責任概念なんですよ。

「そして、一方で、帰属からしてもですよ。行為者がその行為から完全に解放されるというわけじゃないじゃないですか! その結果が行為者に帰属する以上、少なくとも、その選択については行為者に帰属するということなんですから。そして、その選択なるものは、様々なる影響のもとにあるとはいえ、そのような不純性のもとで、やはり行為者の行為であるという確認から逃れられるわけではないんです。

「ということは、ということはですよ。同じなんですよ! 同じなんです、責任も帰属もどちらも同じように、外部からの影響と、行為者自身の決断と、その割合によって決定されるんです。ということは、帰属という概念を採用したところで、やはり行為者はblameされてしまうんです! こんなことはね、ちょっと考えれば分かることでしょう。あなたはね、世界に対する応答とやらによって、行為者が、自分自身の行為を、実存的に受け入れられるようになる。そうなれば、もう行為者は他者から責任を押し付けられなくなるとおっしゃいましたがね。じゃあ、行為者が受け入れなかったらどうするんですか! その行為の結果を受け入れなかったら!

「自分の責任じゃない以上、この結果は自分の本質とは関係ない、自分がこのように行為することを促した何者かに帰属するべき結果だといい出したら、あなたはどうするんですか? もうそうなったら結果を押し付けるしかないでしょう! その行為者に、やはり、押し付けるしかないんです。何も変わらないんです。行為者の視点から見ようがね、やはり「内的必然説」にはなんの意味もないんですよ。

「まあ、そんなところですかね。つまり、この「内的必然説」は、論理的に成り立ちえないし、有用性から考えてみても非常に中途半端だということです。唯一、人間性という観点からみた場合のみまあまあ正当化可能というところですかね。ただ、その人間性なるものを肯定的に受け止めることが不可能である以上、そのような観点は完全な無意味ですが。それでは次に「自動説」に関する検討に移りましょう。」

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