第三部パラダイス #29

 ふっと、ヴェールが揺らめいた。一瞬の些喚き。マラーであったはずのその姿をすっぽりと覆い隠してしまった。結果として、マラーであったはずのその姿は観察不可能なものになる。観察者である真昼は、その姿を見ることが出来なくなる。

 だから、「それ」は、また不確定な何かになった。いや、何かではないかもしれない。何者でもないかもしれない。とにかく、「それ」は、マラーであるかもしれないがマラーでないかもしれないものに戻る。要するに、マイトレーヤに戻る。

 見下ろす無貌。千の顔。真昼は、暫くの間呆然としていた。眠りから覚めても、まだ夢から覚めていない子供のような顔をして。けれども、やがて、のろのろと立ち上がり始めた。右膝を落として。左の手のひらで左膝を包み込んで。俯いた顔のままでその場に立ち上がった。

 何かが死んでいた。真昼の、一番、一番、奥深いところで。何かが死んでしまっていた。それは、もう生き返らないだろう。心臓が笑っている。とくん、とくん、と笑っている。

 間違いばかりだった。本当に、間違うことばかりしていた。そして、全ての間違いが取り返しがつかないことばかりだった。間に合わないのだ。もう、あたしは、間に合わない。

 全ての優しい嘘が本当だったらよかったのに。この世界のどこかに、この世界の全てを作った、とてもとても善なる存在がいればよかったのに。そして、その全知全能の存在が、この世界の全てが幸福であるように望んでいればよかったのに。

 終わっていく。

 終わっていく。

 最終回が。

 終わっていく。

 真昼は、両方の手のひらで顔を覆った。悲しみとも孤独とも違う感情だった。ただ、ぽっかりとしていてすかすかだった。そして、許されていた。限りなく許されていた。もう、真昼は、二度と、マラーのことを思い出すことはないだろう。真昼の中の、マラーのことを殺した真昼は。優しく優しく処刑された。自らの意志によって。自らの手のひらによって。マラーのことを殺した真昼は、和解の後に自ら命を絶った。

 それは。

 ただ単なる事実だ。

 少なくとも。

 真昼以外の。

 人間に。

 とって。

 真昼の青春が、今終わった。真昼のモラトリアムが、今終わった。ただそれだけの話だった。心臓の音。心臓の音。心臓は、何も言わず、くすくすと笑ってる。真昼は呼吸をしている。今、何してる? 生きている。疑いようもなく、生きている。

 そんな風に、真昼が、自分の顔を覆ったままで、ただただそこに突っ立っていると。また、マイトレーヤの言葉が聞こえてきた。もちろん、それは人間的な意味における言葉ではない。それは、真昼がその言葉で話された事実を予め知っていた確率として提示される一つの現実における実現性に過ぎない。

 とにかく、その言葉を真昼は理解していた。つまり、真昼は、こういうことを理解していた。マイトレーヤは誰でもないし、マイトレーヤは誰でもある。真昼が望む、誰であれ、マイトレーヤはその誰かである。

 砂流原真昼は、今、和解した。過去の自分の、そのうちの一人と。けれども、砂流原真昼が和解するべき砂流原真昼は、一人ではない。過去における三人の自分。苦しみにのたうち回り、憎しみに溺れ、絶望の底で足掻いていた砂流原真昼は、あと二人いる。その二人とも、砂流原真昼は和解しなければいけない。そうすることで、砂流原真昼の望みは初めて叶えられる。砂流原真昼は初めて幸福になることが出来る。

 顔を上げることなく、両の手のひらにうずめたままの真昼の耳に、衣擦れの音が聞こえてきた。するすると、「それ」の体からヴェールが滑り落ちる音が聞こえてきた。

 観察は、別に視覚によって行なう必要はない。あらゆる干渉はデコーヒレンスを起こしうる。例えば、聴覚。真昼は、その音を聞くことによって、その姿を観察する。

 また。

 ヴェールの中から。

 誰かが姿を現わす。

 それは。

 もう。

 二度と。

 真昼が。

 出会いたくないと。

 思っていた。

 その、誰か。

「おやおや。」

 真昼の耳に、その声が聞こえる。

 いつものようにへらへらとした。

 何もかも、馬鹿にしたような声。

「随分とひどい顔をされてますね、砂流原さん。」

 真昼の精神が。

 ふっと揺れる。

 手のひらから顔を上げる。

 視線を、前方へと向ける。

 その先に。

 まるで。

 嘲笑。

 して。

 いる。

 ような。

 頬の傷。

「何か嫌なことでもあったんですか?」

 真昼は、息を飲んだ。暫く、大きく大きく目を見開いて。あと十数秒の後に地の上に墜落してきて、この世界にある全てのものをめちゃめちゃに叩き潰してしまう彗星でも見るかのようにしてその頬の傷を見つめていた。

 それから、その後で、ぎりっと奥の歯を噛んだ。一体この感情をどういい表わせばいいのだろうか。憎悪、嫌悪、劣等感。絶望の方向に捻じ曲がった共感。あるいは一度も愛してくれなかった母親に抱くような激しい怒り。

 マコト・ジュリアス・ローンガンマン。

 光り輝く希望だった人。

 その希望を、真昼の目の前で。

 笑いながら、放り捨てた、人。

 マコトは、そんな真昼の視線なんて全然気にする様子はなく。とはいえ、マコトは、デニーとは違う。マコトが、マコトのように切実なまでに相手の感情というものに敏い人間が、そのような視線に気が付かないはずがない。気が付いていながら、ただただ気にしていないという顔をしているだけだ。とにかく、マコトは、そんな顔をしたままで、言葉を続ける。

「ああ! いけないいけない、せっかく喜ばしい再会のシーンだというのに、早速失礼をしてしまいましたね。あなたのことを……砂流原の名前で呼ばないように、そう言われていたのに。ついつい、人間的な慣性で「砂流原さん」とお呼びしてしまいましたよ。これからは、そう呼ばないように気を付けないと。とはいえ、けれども、しかしながら。そうだとすれば、私は目の前にいるこの方のことをなんとお呼びすればいいのでしょうかね。「真昼さん」? いやいや、これだと少しばかり馴れ馴れしいような気がします。それとも、ただ「あなた」とお呼びするか。うーん、これもあまりよくないですね。なんというか、慇懃無礼な感じが拭えない。いっそのこと「your majesty」とでもお呼びしましょうか? あはは、本気にしないで下さい。冗談ですよ。」

 マコトだ。

 間違いない。

 この口調。

 この態度。

 この、乾いたような、笑い声。

「なんで……」

「はい?」

「なんで、あなたが、ここにいるんですか。」

 込み上げる吐き気のような嫌悪感を無理やりに押さえ付けながら、真昼はマコトに向かってそう言った。それに対してマコトは、ぴんと立てた人差指を顎の先に当てて。左側に、軽く、首を傾げてから、当たり前のことを当たり前に答えるようにして答える。

「なんでって、あなたがそれを望んだからですよ。」

「あたしは、あたしは……」

「マイトレーヤさんの話を聞いてなかったんですか? あはは、まあ、砂流原さんは、ちょっとそういうところがありますからね。思い込みが激しいというか、そのせいで、他人が話す話をしっかりと理解出来ないところがあるというか。まあ、まあ、そこが砂流原さんの良いところだとも言えないことはないですがねえ。いや、えーと、そうでもないか。

「マイトレーヤさんはね、誰にでもなることが出来るんです。マイトレーヤさんにそれを望む誰かが望むところの、誰にでもね。あなたが、決定したんです。砂流原さん。あなたが、マイトレーヤさんが私であるようにと決定した。だから、マイトレーヤさんは私になった。要するに、それだけの話です。

「まあ、とはいえ、もう少し詳しく説明することも出来なくはないんですけれどね。砂流原さんは……この世界を構成している三つの原理をご存じですか? ああ、そうですそうです。存在としてのフェト・アザレマカシア、概念としてのベルカレンレイン、そして、最後に、生命としてのジュノス。ただね、砂流原さん。存在だとか概念だとか、あるいは生命だとか。そう言われて、それが何かといいう具体的なことが分かりますか? 存在とはなんなのか、概念とはなんなのか。生命と呼ばれている私達は、一体、何ゆえに生命と呼ばれているのか。

「まあ、生命は生命だ、以上お終いと言ってしまっても構わないんですけどね。一応は、それぞれに定義があるんです。まず、存在。これは確率です。こうあり得る、こうかもしれない、そのような現実。無限であり永遠であり、如何様でもあり得るベースメントとしての確率を、私達は存在と呼んでいる。次に概念ですが、これは決定です。あるいは観察と呼んでもいいかもしれませんがね。とにかく、それがそうであるということが一つのオプス・オペラトゥムとしてそのようにあるということ。それはある意味では何もない何かの本質とでもいうべきものですが、その後には、もう、あらゆるものが無からの創造としてそこにある。最後に、生命ですが……これについては、説明する必要はありませんよね? 砂流原さんもよくご存じの通り、生命とは疎隔のことです。外側と内側とを区別するということ、それが生命の定義です。

「さて、マイトレーヤさん、あるいはその他のどの如来の方々でもいいんですけど、こういった方々は、実はフェト・アザレマカシアのある一つの側面なんです。つまり、こういった方々は、純粋存在の断片としてこの現実に顕現しているところの調整されたインターフェイスだということです。

「つまりね、確率なんですよ。ヴェールに隠されたその中身は、どのようでもあり得る確率なのだということです。さて、この確率が何か一つの形象をとるためには、もちろん決定が必要です。つまり、概念がね。

「そこで、砂流原さんが出てくるというわけですよ。砂流原さんが、観察者として、自分自身の概念を、その存在における決定として適用する。そうすることで、マイトレーヤさんは、一つの決定した現実になる。

「そう、私にね。これが、ここに私がいる理由です。砂流原さん、あなたの中にある概念、あなたの中にある、「世界がこのようにあって欲しい」という概念が、マイトレーヤさんという確率を、そのような世界として決定したということですよ。あはは、要するにですね、もう一度言うならば……あなたは、あなたの目の前に私がいるということを望んでいたということです。」

 へらへらと。

 笑いながら。

 マコトは。

 違う……違う。残酷なまでの冷静さで真昼はそう思った。違う、そんなことを言っているんじゃない。あたしが言っているのは、つまりこういうことだ。あたしは、あなたなんて、望んでいない。あたしは、あなたともう一度会うことなんて望んでいない。もう、二度と会いたくなかった。思い出したくもなかった。反吐が出るようなその笑顔。その、あなたの本性そのものが傷になって人間の表面に現われ出たような、醜い醜い頬の傷。

 「いやー、あはは、なんというか……立ったままでこういう風に会話するのは、あまり、こう、comfortableといいがたいところがありますね。居心地が悪いというかいたたまれないというか、どうにも気不味い気持ちになりませんか? どこかに椅子でもあればいいんですが……」「望んでいませんでした」「はい?」「あなたのことなんて望んでいませんでした。もう一度、あなたと、会うことなんて……あたし、望んでなかった。全然望んでなかった」「あはは、そうですか。それは残念だ」マコトは、そう言うと軽く肩を竦めて笑った。

 それから、足元に落ちていたヴェールを拾い上げた。あの、マイトレーヤを覆い隠していたヴェールだ。真昼は、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、真昼に拒絶されたマコトが、そのままヴェールをかぶって消えてしまうつもりなのかと思った。けれども、すぐに思い直す。そんなわけがない。マコトという人間が、そんな殊勝な心がけであるはずがない。

 案の定、マコトは、そのヴェールをかぶることはなかった。自分の腰の辺り、それよりも少しばかり上のところまで持ち上げると。真昼の方を向いて、にーっと笑った。

 暫くの間、まるで手品師のような勿体振った態度でヴェールをゆらゆらと揺らしていたのだけれど。やがて、大きな声で「じゃじゃーん!」みたいなことを言いながら、そのヴェールをばばっと引き上げた。するとなんということだろう! そのヴェールの下から二つの椅子が現われた。

 その椅子についてどう表現していいのか分からない。それは椅子であったが、椅子以外の何ものでもなかった。つまり、なんらかの小説に「そこに椅子が置いてあった」と書かれていた時、そこに置かれているところの椅子だ。それは、つまり、非常に抽象的な椅子のイデアのようなものだった。

 マコトは、ヴェールを、そこら辺に放り投げると。適当に、二つの椅子を動かす。ちょうどいいと思える距離だけ離して、向かい合うような位置関係に置く。

 それから、そのうちの片方に座った。自分の近くに置いた方の椅子だ。その後で、もう片方の椅子を、右の手のひらで指し示すと。「砂流原さんも、どうぞ。お座りになったらいかがですか?」と声を掛けた。

「あたしは、座りません。」

「あはは、ご自由に。」

 真昼は、椅子のすぐ前に立っていた。座っているマコトのことを見下ろすようにして立っていた。両腕、その先の両方の手。震えてる。あまりに、重く、深く、激しく、全身を焼き尽くすようなこの感情のせいで。心臓が笑っている。真昼のことを笑っている。けらけらと笑っている。

 「あなたの……あなたのせいで、あたしは……」そこで一度言葉を切る。絶句する。それから、また、言葉を吐き捨てる「あたしが、こうなったのはあなたのせいだ」。

 マコトは軽く両手を上げて見せる。肩のすぐ横の辺り、お手上げのポーズをして見せる。大袈裟に眉を動かして、「こうなったというのは、どうなったんですか?」。

 さんざめく。

 悪意。

 きらきらと。

 きらきらと。

 綺麗な。

 星が。

 死んでいく。

 みたい、に。

 マコトは、ぐーっと背凭れに寄り掛かる。寛いだ感じで脚を組んで、それから、上になった方の脚、その太腿の辺りに、指と指とを絡ませた、右の手と左の手とを置く。両方の肘は、肘掛けの上に置いている。まるで、親しい友人と気の利いた会話をしているみたいな顔をして真昼のことを見上げている。

 どうなった? だが、どうなったというのだろうか? あたしは、一体どうなったのだろう。「あたしは」「はいはい」「悪いものになりました」「はい?」「何か、とても、とても、悪いものになりました」「へえ、そうですか。それに何か問題でも?」。

 問題? もちろん、ある。だが、何の問題があるというのだろうか? 「あなたが……あなたが言ったんだ。あたしが、何か、とても、とても、悪いものであると。だから、あたしは、何か、とても、とても、悪いものになってしまった。あたし、そんなものになりたくなかったのに。でも、なってしまった。あたしのせいだ、あたしのせいなんだ。全ての苦しみが、全ての痛みが。この世界が、こんな風になってしまったのは。この世界が天国ではないのは、あたしのせいなんだ。あたしが、天国の生き物ではないから。だから……あなたの、あなたの、その頬の傷はあたしのせいなんだ」。

 そこまで言い終わると、真昼は、暫くの間絶句した。言葉が出なかった、言葉がどこにもなかった。自分の頭蓋骨の中の、様々な論理が、一つ一つ破綻していくような音が聞こえた。論理は、真昼のことを見捨ててどこかへと消えていってしまう。後に残された感情は目に見えない幽霊になった。

 それは確かにそこにいるはずなのだ、だって、だって、そこにいる気がするのだから。でも、見えなかった、それに聞こえなかった。真昼には自分の感情が分からなかった。静かに、静かに、亡霊のように真昼のことを毀損する。ぐちゃぐちゃに矛盾した感情は真昼の中にある何もかもを台無しにする。

 真昼は目を閉じた。もう、それを、二度と開きたくないとでもいうように。強く強く目を閉じた。それから、その全身がゆらりと傾ぐ。その心が肉体を支え切れなくなったみたいに、その心が可能性を閉じてしまったみたいに。真昼は、そのまま、自分の後ろに置いてあった椅子に倒れ込んでしまう。

 立てない。

 立てない。

 もう。

 あたし。

 何も。

 出来ない。

 だって。

 何かをする、ための。

 資格のようなものを。

 誰かに。

 誰かに。

 取り上げられてしまったから。

 マコトの目の前の椅子、目をつぶったまま、座っている真昼。背凭れに背を預けることもなく、肘掛けに肘を置くこともなく。ただただ、処刑を待つ死刑囚のようにして、俯いたままで座っている真昼。

 そんな真昼に対して……マコトは。暫く、何も言わなかった。何も言わないままで、じっと、真昼のことを見つめていた。ひどく生真面目な顔をして、何かを我慢してるみたいにして。けれども、やがて、その我慢にも限界がきたらしかった。

 唐突に、ぶはーっと吹き出した。それから笑い始めた。これ以上ないというくらい爽快な笑い声で、これ以上ないというくらい痛快な笑い声で。聞いている者の神経を無意味に逆撫でするあの笑い声で「あーっはっはっはっ!」と笑い始めた。

 そのまま、腹を抱えて笑い続ける。椅子に座っていなかったら、あまりの笑いに体を支え切れなくなり、そのまま笑い転げてしまっていただろうと思うくらいの笑い方だった。げらげらと、心の底から……真昼のことを……喜劇。祝福、祝祭。

 そう、それは、何か喜ばしいものだった、真昼のことを祝っている。初めて立つことが出来た子供が、その後、すぐに転んでしまったのを見て、それを見て笑う母親のような笑い方だった。それは愛なのだった、随分と歪んだ愛ではあったが。

 そのようにして、かなり長い間笑っていたマコトであったが。どれくらい笑っていたのだろうか、ようやくその発作も収まったらしかった。「あー、いや……あはは、すみません、すみません」とかなんとか言いながら。あまりに笑い過ぎてしまって涙が出た、その涙を手の甲で拭っている。はーっ、と、わざとらしいくらい大きく溜め息をつく。それから、椅子に凭れ掛かっていた体を、前方に向かって傾ける。前方にいる、真昼の方に向かって、その身を乗り出す。

 そうして。

 その後で。

 こう。

 言う。

「全く、あなたは本当に人の話を聞かない人ですね。」

 優しく。

 優しく。

 幼かった頃の自分に向かって。

 いい聞かせる、みたいにして。

「私の言ったことを、何一つ理解していない。」

 それから、マコトは、真昼に向かって右腕を伸ばした。椅子と椅子とは、いつの間にか、さっきまでのそれよりも、非常に近い位置関係になっていて。そのせいで、マコトは、容易に真昼に触れることが出来た。マコトの右の手が、真昼の膝の上に置かれていた真昼の左の手に触れる。そのまま、マコトは、自分の手のひらで、真昼の手を包み込む。真昼はされるがままになっている。

 言葉を。

 続ける。

「砂流原さん、砂流原さん! 私は、あなたになんと申し上げましたか? あなたにアドバイスを差し上げたはずです、たった一つだけね。私がなんて言ったか、あなたは覚えていますか? 私はね、「他人のことなど気にしないことだ」と言ったんです。誰が何を言おうと、その言葉を信じるなと、そう言ったんです。誰が何を言おうと……もちろん、私も含めてね。

「あはは、あなたはちょっと他人のことを信じ過ぎるところがある。ねえ、砂流原さん。私はね、嘘をついたんですよ。私は適当なことを言った、自分でもまるで信じていないことを言った。それなのに、あなたは、そのようにして言葉にされたことの全てを信じてしまった。あなたはね、私のことを疑うべきだったんです。このマコト・ジュリアス・ローンガンマンという人間も、やはり自分と同じように愚かな人間であり、この人間が口にした全てのことも、やはりちょっとした嘘に過ぎない。そう思わなければいけなかった。それなのに、あなたは信じた。全部を丸ごと信じてしまった。結局のところ、それが良くなかった。

「ねえ、砂流原さん。人間が、一度でも救われたことがありますか? 人間の思想によって、人間の哲学によって、人間の倫理によって、人間の宗教によって。あるいは、人間の科学によって。人間が心の底から救われたことなんてありますか? ないんですよ、一度たりとも。ただの一度も、そういった記号的諸現象は人間を救わなかった。ねえ、砂流原さん。人間には何もいらないんです。なーんにも。なぜなら、記号によって記号化される全ての記号は、要するに馬鹿が馬鹿なことをいっているに過ぎないからです。

「そうですね、どこから説明すればいいのか……一つ、別の世界を想像してみて下さい。今、ここにある世界とは全く異なった世界。私達がいる世界とは全く別の世界を。その世界には、人間しか知的生命体がいません。例えば、神々だとか、洪龍だとか、煉虎だとか。あるいは、ノスフェラトゥも、ホビットも、イタクァも、ソクラノスもいない。それどころか、この星の外側にいるはずの別の知的生命体さえも確認されていない。そんな世界です。あはは、そんな世界は、ちょっと想像しがたいかもしれませんがね。まあ、やってみて下さい。

「その世界について、そうだな……色々なことを考えることが出来ますね。例えば、月光国は、きっと全く別の名前で呼ばれているでしょう。どういう名前がいいでしょうかね、月光とは全く反対の名前……日光国? うーん、あまりぴんとくる名前ではありませんね。月光の中にあるのではなく、日の根本にある、そうだな、日本国なんてどうでしょう。「にほん」、いや「にっぽん」かな。あはは、きっと、その世界では、砂流原さんの故国はそんな名前で呼ばれてるんじゃないですかね。

「まあ、そんな詮のない話はどうでもいいんですがね。私が言いたいのは、そういう世界において、果たして私達の世界のあらゆる記号的諸現象が意味をなすかということです。きっと、なんの意味もなさないに違いない。私達の世界における思想、あらゆる思想は、まるで見当違いな戯言になってしまうでしょう。そして、いうまでもなく、あちらの世界の思想は、こちらの世界の思想においてなんの意味もなさない。

「あちらの世界では、どのような思想が発展しているのか。そうですね、これは、もう、想像するしかないことですが……まず、確実に言えることは、人間至上主義という単語は向こうの世界にはないでしょう。もしくは、あったとしても、まるで異なった意味を持つ言葉になっているか。こちらの世界で人間至上主義という時には、いうまでもなく、その言葉に、ある種の捻じ曲がった劣等感のようなものが含まれています。人間至上主義という言葉には、その言外に「いうまでもなく人間は最も優れた生き物ではないが」という前提が含意されています。

「しかし、あちらの世界では、人間は、人間こそが最も優れた種族であるということを確信している。人間よりも優れた生き物について想像することさえ出来ないでしょう。例えば、あちらの世界において「人間よりも優れた生き物がいる」という際には、それはこちらの世界においていわれるその言葉とは全く異なった意味を持つ。こちらの世界では、その言葉はまさしく切迫感を持っていわれます。人間は、いつでも握り潰される。ヴェケボサンによって、ユニコーンによって。あるいは、休戦協定が効力を発している地域においてさえ、人間にはノスフェラトゥという天敵がいます。あるいは、あはは、スペキエースでもいいですがね。とにかく、人間は、そういった種類の生き物に、いつでも滅ぼされる可能性があるという危機感のもとにその言葉は発せられる。

「しかし、あちらの世界でその言葉が発せられる時には。ある種の傲慢としてそうされるに違いありません。例えば「動物は賢い」「動物は人間とは違い自然が生み出す循環を破壊しようとしない」「だから賢い」、そんな感じですかね。しかしながら、動物は、別に人間がいうところの知性によってそうしているわけではありません。たまたま、循環の中に組み込まれているだけです。知的生命体ではない動物がそうであるのは、循環の外側にはみ出してしまったら、その瞬間に絶滅してしまうほどに脆弱な存在に過ぎないからです。循環から外部に出ようとしている動物はいくらでもいます、ただ、あまりにも愚かであるがゆえに、それを成し遂げられなかったというだけです。

「もちろん、あちらの世界でそういうことをいう方々も、その事実について完全に理解しています。理解した上で、ほとんど許しがたいほどの偽善としてそういっているに過ぎないんです。そういう方々は、動物が人間より優れているなんていうことを考えているわけではない、それどころか「人間性」というものを絶対視している。「人間性」を基準に物事を見るということの偽善を、傲慢を、全く無視してしまっている。そして、その「人間性」という吐き気がするような基準を、本来であれば全くそれと関係がない動物の世界にまで広げているに過ぎない。「人間性」という観点から見れば、自然を大切にしているように見える動物は偉い。だから褒めてあげよう。それくらいのことしか考えてないんですよ。

「その上で、本当に人間よりも優れた存在に思いを致すことさえもしない。例えば、あはは、砂流原さんもご覧になりましたよね。カリ・ユガを。偉大なる洪龍の王を。他愛もなく自然を捻じ曲げて、その影響なんて気にも留めない。砂漠の中に一つの巨大な湖を作り出す。凄まじい嵐によって人間が作り上げたものを一瞬にして吹き飛ばす。あるいは、宇宙空間さえもやすやすと渡り歩いて見せる。まあ、歩くというよりも飛ぶといった方が正しいですがね。なんにせよ、本当に人間より優れた生き物とは、ああいう生き物のことをいうんです。そして、あちらの世界の方々はそういうことを考えもしないんです。

「きっと、フィクションの中でさえ考えられないに違いありませんよ。考えたとしても……例えば、洪龍のような生き物は、人間にとってどこまでもどこまでも都合がいい生き物として描かれているでしょう。例えば、非常に強力な生き物ではあるが、最後には必ず人間によって打倒される生き物として描かれているか。あるいは、人間と友好的な関係性にある同盟者として描かれているかもしれません。人間よりも遥かに遥かに知的なこの世界の洪龍とは似ても似つかないような、ほとんどただの動物としての知性しかない動物として描かれていて。そして、非常に賢い人間という生き物によって家畜化されている生き物として描かれているかもしれない。この世界において現実にそうであるように、洪龍が絶対的な支配者であり、人間はどうでもいい害虫、家に勝手に住んでいるゴキブリか何かのような扱いを受けている、そういう描き方は、ほぼ確実にされていないでしょう。

「そして、例え、そのような描き方をされていても。その状況の中で、それでも、人間の方が優れているという信じられないような主張がなされているでしょう。つまり、洪龍には「人間性」が欠けていると。人間らしさ、人間的なこと、人間としての尊厳。そういったことが欠けていると。それがなんだかは知りませんよ、なんでもいいんです、人間の優位が主張出来れば。あちらの世界の方々は、人間が優れていると確信し切っている。だから、人間が人間らしいというだけで、それだけで優れていると当たり前のように信じているんです。例えば、自由であるということ。なんらかの強制から自由であるということ。例えば思いやり、多様性への配慮。実存的な思想、偶然の中に自己を投企する決断の力。愛、信頼、勇気。世界に対して、自分は、知的な方法で理解をしている。そういったことによって、人間は、人間よりも偉大な生き物よりも、さらに偉大だと、そのように描かれているでしょう。

「けれども、私達は知っています。本当に、人間よりも偉大な生き物とともに生きている私達は、現実として理解しています。そういったいわゆる「人間性」というものが、私達の救いにとってなんの意味もないということを。私達を、人間よりも偉大な生き物から、どのような意味においても助けてくれはしないということを。「人間性」というものは、人間と人間との関係性の中で、人間が作り出す社会で、しかも、そのごくごく限定された特殊なケースにおいてのみ役に立つということを。

「「人間性」なるものがあちらの世界で意味を持っているのは、ただただ人間よりも優れた生き物があちらの世界にいないからなんです。こちらの世界では、人間が下等知的生命体に過ぎないこちらの世界では、「人間性」は一つの重要な思想としての地位を保ちえない。なぜというに、人間が下等である以上、「人間性」もやはり下等な何かに過ぎないからです。

「一方で、ですよ。こちらの世界における思想も、やはりあちらの世界では役に立たない。全然役に立たない。なぜというに、こちらの世界の思想は、その全てが人間以上の生き物を基準として作られているからです。それは、世界の支配者としての思想ではない。それは従属者の思想であり、それは被抑圧者の思想であり、それは奴隷の思想なんです。いうまでもなく、あちらの世界における人間は奴隷ではない。掃除の時についでに家の外に掃き出されてしまうような不快害虫ではない。そのような人間に、こちらの思想の何が役に立つというのでしょう。役に立たないというか、端的に間違っていると考えられてしまうに違いありません。こちらの世界から見てあちらの世界の思想が間違っているようにしか見えないという事実と、それは全くの対称形です。

「つまりね、砂流原さん。どちらの思想も間違っているんです。そして、どちらの思想も正しい。多様性の観点から相対的に考えてみれば、そんなことは分かり切ったことなんですよ。これを理解するのが、第一段階です。」

 マコトは。

 そこまで。

 話すと。

 それまで自分の右手で触れ続けていた真昼の左手から、ふっと、その手のひらを離した。それから、今度は、左の肘、だらく、ゆるく、肘掛けの上に載せて。軽く、その背凭れに背中を寄り掛からせた。緩やかに足を組む……ただ、少し、奇妙な足の組み方だった。左の脚を右の脚の上に乗せて、その後で、左の足首から先、足のところを、左脚の脹脛の裏側に回す。つまり二重に足を組むような形だということだ。そして、そのように組んだ足を、あたかも一つの挑発のような形として真昼の方に伸ばしている。

 ほんの少しだけ前に傾けた上半身。

 真昼のことを見下ろすような。

 その表情に。

 柔らかく握った左手。

 親指から人差指まで。

 そっと、触れさせるようにして。

 それから。

 マコトは。

 含み笑いのような口調で。

 こう続ける。

「さて、この結論からどのような第二段階を引き出せるかといえば……あらゆる記号的現象は構築に過ぎないということです。恣意的に組み立てられた構築に過ぎないんです。そして、それは、なんの意味も持たない。ああ、勘違いしないでくださいね。私が、いわゆる「脱構築の哲学」とやらの信奉者であるとか、そういうことを言いたいわけではありません。以前も、確か申し上げたことですが。その「脱構築の哲学」なるものも、やはり実存主義の一形式に過ぎない、一つの思想に、一つの構築に、過ぎないんですから。そもそも脱構築なんてする必要はないんです。だって、脱構築した後の哲学だって、それが記号的現象である以上は、やはり恣意的な構築なんですよ。

「いいですか、端的に言えばですよ。思想という構築は人間が世界とどう噛み合っているのかという関係性を説明しようとするその行為を指し示している。しかしながらですね、その行為は予め失敗することが決まっているような愚行なんです。だって、当たり前でしょう? 人間も世界も常に変化し続けているんですよ。それは定常的な構造によって捉えることが出来るような代物ではない。それどころか、人間が思想という行為によって観察した結果として、人間も、世界も、その思想が説明しようとしているレベルでは変化してしまう。となれば、変化後の関係性はいうまでもなく観察前の思想によって上手く説明出来るわけがないんです。無駄、無駄、無駄、全部無駄なんですよ。つまり、構築というもの、思想というもの、それ自体が無意味だと、私はそう言っているんです。

「もう少し違う角度から見ていってみましょうか? 思想というものを、その必要性から考えてみましょう。これは恐らく砂流原さんも同意して下さることだと思うのですが、思想というものは常に生命体的な必要性によって規定されています。もう少し正確に言えば、生命体の必要性であると、世界認識の方法によって偽りの論理上に信仰配置されたものによって規定される。あはは、まあ、この言い方にはもう少し後の段階における結論も含まれていますがね。とにかく、この人間の思想は、この人間によって決めつけられるということを私は言っているんです。

「ということはですよ、人間を完全変質させてしまえば、その思想は無効になるんです。というか、実は、その思想が解決しようとしていることは、本来的な意味で人間の完全変質でしか行わわれえないことなんですよ。ああ、違います違います。勘違いしないで下さいね。私がしているのは、「科学的な可塑性」という話ではありません。それは、やはり全くの無駄です。

「「科学的な可塑性」なるもの、要するにplastique。plastiqueというアフランシ語はパンピュリア語のplastikosからきている言葉ですがね。これはplasso、ある特定の静態的な形状を意味しています。つまり、「科学的な可塑性」というのは、一つの確固とした実体を前提としているということなんです。まあ、「科学的な可塑性」ということをおっしゃっている方々は自分はそんなことを考えていないと主張なさるかもしれませんがね。でも、それは欺瞞ですよ。よくよく考えてみて下さい。可塑性という時に、確かにそこには変化が予想されています。しかしながら、その変化というものはAという状態からBという状態への変化なんです。無限に永遠に変化し続けるがゆえに特定の時点時点では取り出すことが出来ない変化ではない。まるで、その観察者が任意の状態を取り出して、その状態について判断をくだすことが出来るような、そのような変化しか考えていない。

「それは、贈与と需要と、爆破と消滅と、そのような関係性において定義付けられる同一性の解体です。もともと主体と呼ばれていたはずのものが、自己によって自己のうちに、受動的にでもなく能動的にでもなく、いわば自体的に運動し、変形し、それを発見するという過程。それが「科学的な可塑性」です。そこにおいては、確かに、全く新しい意味における自分自身というものが想定されているでしょう。けれどね、それは所詮自分自身でしかないんですよ。それはね、所詮は自由のために抑圧に対して抵抗する実存に過ぎないんです。抵抗さえも解体され、実存さえも無意味化する、完全なる必然性の世界とは似ても似つかない。

「そもそも、別様な同一性ってなんですか? 私が言っているのは、同一性というものそれ自体が脱するべき構造であるということです。「科学的な可塑性」は、結局のところ、必然的にそのようになることを何もかも受け入れる多型体ではない。というか、もっと正確に言えば、「科学的な可塑性」は他者を前提としているのです。自分と他者と、この二者の境界を、一つの記号として否定し得ていない。

「これがどういうことかというとね、つまり、この「科学的な可塑性」というものは人間を前提としているということなんですよ。しかも、人間的な思想によって定義も進歩も可能な人間がね。今、人間はAという状態にある。Aという状態においては、人間にはこのような問題点がある。だから、Bという状態に移行しよう。こういう発想が、無意識のうちに内包されている。もちろん「科学的な可塑性」をおっしゃる方々はそのようなことを直接的に主張することはありません。

「例えば、このような、非常に欺瞞に満ちたいい換えをします。人間は破壊的可塑性によってあらゆる自己同一性を破壊されうる。そして、その後に残るものは、人間の最も単純な形、つまり人間の祖型である。ここには無意識の破壊衝動も、あるいは欲望のようなものもない。この現象は、あらゆる意味を欠いた剥き出しの現実である。しかしながら、それゆえに、ここには主体性を脱構築する可能性が開けてくる。ここにこそ、主体を前提とした支配・被支配の構造を破壊し、それゆえに真実において他者に開かれたところの、調和的関係性が展望されうる。

「あはは、まあ、まあ、一体なんと申し上げてよろしいやら。ここまで論理的に破綻したことを、ここまで堂々と主張されると、もしかしてこちらが間違っているのではないかと思ってしまいますよ。つまりね、砂流原さん。「科学的な可塑性」をおっしゃる方々は、そもそも自分自身の実存そのものを手放すという、そういうことをする気なんてさらさらないんです。騙されないで下さい、こういう方々は、主体だのなんだのの脱構築を目指しているなんて、いかにも格好良いことをおっしゃっていますがね。その主体の材料それ自体の同質性を放棄してしまうほどにラディカルな発想の転換を求めているわけではないんです。

「可塑性という単語は、そもそも何か材料があって、その材料がその材料である限りにおいて変質するということです。それ以上の意味は内包していない。そして、「科学的な可塑性」とかなんとかいうことをおっしゃる方々にとっての材料とは、実存なんです。自分自身なんです。自分自身にとって都合のいい思想、自由でも平等でも多様性との和解でも愛に満ちた調和でもなんでもいいですがね、そういう思想については、変える気なんてさらさらないんです。破壊的な可塑性は人間の全てを破壊する、ただし、自分自身にとって都合のいい思想は除いて。「科学的な可塑性」などということをおっしゃる方々は、そういうことをいっているんです。要するにね、それは、ただ単に過去を破壊したいだけのことなんです。人間を本来的に形作っている過去というもの、あるいは経験というもの、その支配をただ否定したいだけ。もっと本質的なことを言ってしまえば、自分に対して偉そうな態度をしてきた過去の世代から自由になりたいという、ただそれだけのことなんですよ。

「完全変質は、これとは全く異なった現象です。「科学的な可塑性」とやらが、外部からの全くの偶然性によってもたらされると主張されているのとは全く反対に。完全変質は、必然的な流動として、この時この場所に起こっている。それは世界が生命体にとって常に内的であることと同じように、常に内的な過程です。それは、出来事、つまり苦痛を受け入れる装置それ自体の分裂と同化と、それに変容を通じて実行されます。

「つまりですね、例えば……砂流原さんはアザーズという生命体をご存じですか? あはは、そうですそうです、私達の住んでいる銀河を滅ぼそうとして、今まさに侵略戦争を吹っ掛けようとしている方々ですね。このアザーズという生命体には、実は自分自身の苦痛という感覚も自分自身の快楽という感覚も存在していないんです。こういった感覚は、人間にとって、受容・拒否システムだとか、あるいは世界認識それ自体と密接な関係にあるわけですけどね。アザーズには、そもそも、そういった感覚自体が、自分自身の内側に存在していない。

「それどころか、その受容・拒否システムが、いわゆる精神という入出力体系の中で完全な独立性として存在しているんです。精神的構造の中で、完全に、全自動的な器官と化してしまっている。それゆえに、アザーズには「自分の身体」という感覚も「自分の思考」という感覚もないんです。だって、受け入れることだとか排除することだとか、そういう自分の境界線に関する事柄について、それをそれとして定義した上で行なっているわけではないんですから。そもそも境界線自体が、いかなる意味においても定義されていないんです。

「だから、マントファスマさんのように……ああ、マントファスマさんはアザーズからこの銀河に送り込まれたある種の大量破壊兵器なんですけどね。とにかく、マントファスマさんのように、恐ろしいほど利他的なスーパーヒーローになることが出来るわけです。マントファスマさんのようなアザーズにとって、自分自身というものがない。他人だけがある。そして、その本質的な共感性ゆえに、他人の苦痛こそが自分自身の苦痛であると感じられる。結果として、非常に本質的な意味で利他的な生き物、つまり利他的であることが利己的である生き物であるということが出来るというわけです。ああ、もちろん、それが生命体としての自己保存を無効化してしまうということはありませんよ。受容・拒否システムはそういう感覚とは別個に、全自動的に働くわけなので、自分が攻撃された際にはそれを優先的に回避することが出来るわけですから。

「え? なんでそんなことを知っているのかって? アザーズについては、この銀河の生命体はほとんど何も知らないはずなのに、どこからそういう情報を手に入れたのかって? あはは、砂流原さん。ジャーナリストはね、実は全知全能なんですよ。この世界の何もかも、ジャーナリストが知らないことはない。ただ、普段は、新聞記事に乗せる情報を操作しているだけなんです。まあ、とにかく……私が言っている完全変質とはこういうことです。つまりですね、象徴的な何かと生物的な何かを対立させて象徴的なものの意味を問い直すだとか、そういう風に新たな構造を作り出してその構造の中でフィッシャー・キングを気取ろうとしているわけではない。象徴的なものの絶対的無意味さを言っているんです。私がしたいことは生権力の否定ではない。生権力の完成です。

「一つ一つ順を追って説明しましょうか? まず、自己同一性について考えてみましょう。「科学的な可塑性」をおっしゃる方々は、この自己同一性を何がなんでも否定しようとします。なぜなら自己同一性は絶対的な必然性、あるいは運命による支配だからです。自己同一性を否定することで、そういった必然性から自由になろうとしているわけですね、可塑性によって自己同一性が破壊されてしまうなどといかにもそれが否定的な意味合いを有しているようなことをおっしゃるかもしれませんが、実のところ、「科学的な可塑性」をおっしゃる方々は、それを心の底から望んでいる。自己同一性の破滅を望んでいる。自由に、自由に、自由になるためにね。

「しかしながら、自己同一性というものは、机上の空論はどうでもいいとして、現実のレベルにおいては全然否定しようのないものです。えーとですね、例えば、私の頭蓋骨を開いてみるとしますね。それから、砂流原さんの頭蓋骨を開いてみます。そして、私の頭蓋骨の中から、私の脳味噌の半分を取り出して、砂流原さんの脳味噌にくっつける。砂流原さんの脳味噌も、やはり半分取り出して、私の脳味噌とくっつける。さて、それでは、この時の私は私なのか? いうまでもなく、私は私です。なぜというに、私が私としてそれを感じているからです。

「過去の私がどうだったかなどということは関係ないんですよ。全く関係ない、なんにも関係ない。私が私である限り、いつだって私は私なんです。そもそもですよ、私は、ある別の人間の生殖細胞と、ある別の人間の生殖細胞とが受精して発生したわけなんです。それでは、私は、生まれた時から私ではないというんですか? 違うでしょう? 私は私なんですよ。

「私が私という事実は、現実のレベルでしか存在していない。そうであるならば、現実のレベルにおいて私が私である以上、象徴的なレベルで何をいおうとくだらない戯言に過ぎないんです。つまり、私は、無数に分裂しようと、何かと同化しようと、あるいは完全に変質してしまおうと、そこに疎隔性がある限りは、まさにそれは私なんです。その私が過去の私と同一の存在であるのかどうかなんていうことは、象徴的な戯言なんですよ。私が私は私だと思えば、もう私は私なんです。少しずつ私が砂流原さんと入れ替わったとしても、入れ替わった状態そのままの私がいるだけです。

「細胞の一つ一つに疎隔性がある。私と砂流原さんとが混ざり合う。そこには、私の疎隔性と他人の疎隔性とが混ざり合った私の疎隔性がある。それは一つ一つの必然性であって、自分が自分だと思う自分は自分であっても自分でなくてもやはり自分なんです。それは、苦痛と悪との原理です。そこには、つまり、私の苦痛と、私の悪と、その二つがある。それでは苦痛がなくなったら? 私が私の苦痛を感覚しない私になったら? 苦痛がないものも私なのか、もちろん私です。それがそこにあるというだけで、それが有する疎隔性は、やはりこの世界を侵害しているのですから。受け入れている、差し出している、それは、やはり、悪としての私です。

「それでは、その疎隔性を失ってしまったら? その時、生き物は何になるのか? 私が、私という疎隔性を失い、あらゆるものに向かって開かれてしまったら、その時に私は何になるのか? もちろん、それでも私は私です。なぜというに、それは、やはり、必然の中における一つの過程に過ぎないからです。一方で、それでは、私はどうなるのか。私でなくなった私はどうなるのか。いうまでもなく、私が私ではなくなった瞬間に、その私は私ではなくなるだけです。私は私ですが、それは無限でも永遠でもなく、決して滅びないものでもない。いつかは滅びる、それだけの話です。何か難しいことはありますか? あはは、何もありません。

「私というものを、何か過大評価し過ぎなんですよ。要するにね。私は、何か超越的な存在でもなければ、絶対的な概念でもない。普遍性でもなければ不変性でもない。それが、完全変質の基本的なテーゼです。と、いうと……「科学的な可塑性」をおっしゃる方々は、自分達も同じことをいっているというかもしれないですがね、でも、違います。全然違う。

「私が私ではなくなってしまえば、私が私として求めていたものは、もう私にとって必要なものではなくなる。これが完全変質に関する最も単純化されたテーゼです。あらゆる記号的現象は私が私として求めているものについての必要性の記述に過ぎない。ということは、私が私でなくなれば、その記述は完全に不要なものになる。あはは、馬鹿みたいに当たり前のことですね。けれども非常に多くの方々がこの当たり前のことを理解することを拒んでいる。

「さて、このテーゼを、少し前に申し上げた一つの事実と併せて考えてみましょう。その事実とは、あらゆる思想の不可能性についての事実です。人間と世界との関係性は常に変質し、しかも、その変質を記述しようという記述によってさえも変質してしまう。それゆえに、思想によって世界と人間との正確な記述を行なうことは絶対的に不可能であるし、いうまでもなく、そのような不正確な記述によって人間の必要性を満たすことも出来るはずがない。

「思想は不可能なんです。つまり、記号的現象として人間存在を解決することは出来ない。それでは、人間という問題は、一体いかにして解決されうるのか。あはは、いうまでもありませんね。問題が解けないのならば、問題自体を無効化してしまえばいい。つまり、人間を完全変質させてしまえばいいのです。

「ああ、ちょっと待って下さい。もちろん、人間のようにあまりにも不完全な生命体にとっては完全変質は一つの不可能性です。しかしながら、その不可能性については、もう少し後の議論で触れることにしましょう。今は、とにかく、完全変質によってしか人間という問題を解決出来ないという話を終わらせてしまわないといけない。

「さて、真実について考えてみましょう。まあ、まあ、なんでもいいですよ、なんの真実でも構いません。「今ここにあるこの現実とはなんなのか」「私にとって時間とはどういう意味を持つのか」「私にとって空間とはどういう意味を持つのか」「生きているというのはどういうことなのか、そもそも生命というのは存在しているのか」「なぜ人間を殺してはいけないのか」「なぜ他の誰でもなく私という人間が存在しているのか」「そもそも私とはなんなのか」、なんでもいいですよ、どれもこれもくだらない、ちょっとした思い付きのような疑問ばかりですが、こういった真実のことです。

「こういった真実はなぜ問われるのか。もちろん、こういった真実が、何か普遍的な原理に関係していて、その解決が人間にとって絶対に重要だからではありません。いうまでもなく、こういった真実に関する問いを問い掛けた誰かが、なんとなく気になったからです。本当にそれだけなんですよ、それ以上でも以下でもない。ということは、こういった真実は、何かしらの本質でもなんでもないんです。人間存在にとって、こういった真実は、本当に、なんらの位置も持ちえない。あのですね、私が言ってるのは、必要だとか必要ではないとか、そういう次元の話ではありません。そういう次元の話でさえないんです。こういった真実に関する問いは、そもそも完全な形の問いとして成立し得ないんです。

「だってそうでしょう? 例えば「そもそも私とはなんなのか」という疑問についてちょっと考えてみて下さいよ。この疑問って、「私」と呼ばれるところの何ものかが、この問い掛けとして問い掛けられるような様態としてあるということを前提としていなければ成立していない問いなんです。つまりこの問いは、問いとして成立する前にかなり恣意的な決めつけを行なっている。

「それは問いではない。ある種の出来合いのパズルでしかないんです。そこに出来合いのパズルがあるからパズルなのであって、出来合いのパズルがなければ、それはパズルとして存在することさえできない。あはは、「針の頭の上で何匹のティンダロスの猟犬が踊ることが出来るか?」。なんの役にも立たず、なんの必要性もなく、それどころか知的な貢献さえもすることがない。哲学だかなんだか知らないですが、勝手にやってくれという話です。

「さて、このような真実が、そうであるにも拘わらず、なぜ問われるのか。なぜ、こういったどうでもいいことが問われ、それどころか、あろうことか、権威ある学問として成立してしまっているのか。砂流原さん、それはね、そこにパズルがあるからですよ。その問いを、無理やり作り上げているからです。そして、人間という生き物が、たまたま、それを疑問に思うように出来ているからです。ただそれだけの理由なんです。つまりね、このような真実は、実は、別に真実ではないんです。恣意的に決めつけられた問い掛けに対する恣意的に作り上げられた解答に過ぎない。そうであるならば、このような真実は、今のこの人間存在が今のこの人間存在である限りにおいてしか真実として成立しえないんです。

「ということはですよ、現在、哲学として成立している全ての問いは、人間という生物状態によって規定されているに過ぎないんですよ。そうであるならば、その生物状態が無効化された時には、そのような全ての問いは、真実として無効化するんです。どういうことかといえば、人間の思考が、なんらかの形で脳髄に変更を加えられることによって変更した途端に、あらゆる哲学なるものはこの世から消え去ってしまうということです。

「あるいは、あるいはですよ。こういったくだらない哲学なるもの、ティンダロスの猟犬のダンス以外の思想について考えていってみましょう。一般的に、実用的であると考えられているところの、政治・経済・社会・文化的な思想についてです。こういった思想は、一見すると、形而上学的な問い掛けよりも役に立っているように思われます。けれどね、砂流原さん。それは大きな間違いなんです。このような思想も、ティンダロスの猟犬のダンスと同じくらいクソの役にも立たない代物なんです。

「なぜというに、こういった思想も、やはり人間の生物状態によって規定されているからです。というかね、より正確にいえば、こういった思想は次のような状況にあるんです。本来は生物状態そのものが問題となっているにも拘わらず、その本質的な問題から目を逸らしている。そして、その問題となっている生物学的状態に関係する記号的現象によってわけの分からないパズルを幾つも幾つも作り上げて、そのパズルを解けば問題そのものが解決すると、無理やり思い込んでいる。

「例えばですよ、差別という問題を考えてみましょうか。これは、どう考えても、明らかに、人間という生き物の中に差別という感情を発生させてしまう生物状態があることそのものが問題なわけです。ここで「そのような差別という感情にも一定の役割がある」「差別感情自体を完全に消し去ってしまうのは有害である可能性がある」なんていう馬鹿げた反論をするのはやめて下さいね。それならば、差別という感情を適切にコントロール出来ない生物状態が問題なんだといい換えれば済むだけの話ですから。どちらにしても、ことの本質は人間存在そのものなんです。

「それなのに、思想は人間それ自体を所与のものとして扱う。人間は悪くないといい張るんです。そして、そのような悪くない人間は悪くないのだから、他に悪いものがあると考える。別に制度でも教育でも文明でもレッテルでもシステムでもなんでもいいですけどね。悪いのはそちらであるとする。そちらをなんとかすれば、問題は全て解決すると、そう主張するわけです。

「しかしながらですよ、解決するわけないじゃないですか。絶対に不可能ですよ。だって、そういった記号的現象をどう変えたところで、人間の内側に生物学的状態として現実に存在しているところの差別という感情、あるいはその感情を適切にコントロール出来ないという事実でもいいですけれど、そういったものが消えてなくなるわけがないんだから。あたかも記号的現象が現実においてなんらかの決定権を有しているかのように主張する主張は完全に間違っているんです。bodies that matter。問題となるのは、常に、現実において物質として存在している身体なんです。

「そして、そう考えることによって立ち現われてくるところのより重要な理解。それは、生物状態が記号的現象によって決定され得ないものである以上、今、ここで、人間が有しているこの生物状態が絶対的に正しい普遍的な規範ではないということです。つまり人間が人間でなければならない理由なんて何一つないんですよ。人間は、別に、全然、アザーズであっても構わないわけなんです。どうですか、考えてみて下さいよ。人間が、もしもアザーズであったならば? ほら、差別なんていう問題は、その瞬間に、ぜーんぶ解決してしまうじゃないですか! 先ほども申し上げたように、アザーズには自他の区別がない。そのような区別がない以上、差別感情も生じ得ない。めでたしめでたしという話です。

「生物的な生によって象徴的な生を破壊する。人間を、人間でなければいけないという規範的構造から解き放つ。そうすることによって、ポスト・ヒューマンでもプレ・ヒューマンでもなんでもいいですが、結局のところ人間を基準にしなければ物事を考えることが出来ない「科学的な可塑性」を超えた先にいく。それこそが完全変質です。完全変質は、例えば、後生説的形相変異に「生物がただプログラムされた存在ではない」という本質的な自由を見たり、形相生体分枝技術に「人間が持つ原初的な抵抗の力」という統一性の破壊を見たり、そういうことはしません。そんなことはね、結局は安っぽい雑誌に載っている当たりも外れもしない星占いと大して変わらないんですよ。完全変質はそんなことはしない。まさに、そのような人間至上主義的な態度、「本質的な自由」というものの重要性だとか、「統一性の破壊」というものの必要性だとか、そういった脱構築的な構築さえも脱構築し、それによって最終的に、この私という「ただ一つの生」だけを思考の対象とする。そういうことなんです。

「殺人。これは二つの解決策がありますね。まずは、人間の、誰かを殺したいという欲望を消し去るという方法です。こうすれば殺人自体が消えてなくなるでしょう。あるいは、それとは反対に、人間の、誰かに殺されたくないという欲望を消し去ってしまうか。そうすれば殺人という現象自体は残るでしょうが、それはもう問題ではなくなります。だって殺されても別に構わないんですから。殺人は、挨拶だの取引だの、そういったごくごく一般的な関係性の構造の中に吸収されていくでしょう。

「暴政。力ある者が力なき者に対して、搾取し、虐待し、抑圧的な関係性の中で絶対的な支配者として振る舞うということ。これは支配と被支配との関係性を最適化することによって解決します。まず、支配者に対しては、公正な支配を行なうこと以外のあらゆる欲求を除去するという処置を行なう。次に、被支配者に対しては、支配に対するあらゆる反感を除去するという処置を行なう。こうすることで、被支配と支配との理想的関係性を構築する。

「戦争。他者を犠牲にしても自己の安全を図ろうとする生存本能があらゆる戦争の根本にあります。だから生存本能をなくしてしまえばいいんです。そうすれば戦争はなくなる。まあ、そんなことをすれば、人間は生きるということにも死ぬということにも無関心になり、次々に死んでいってしまうでしょうがね。とはいえ、そもそも生存することが善ではなくなる以上、それはいかなる意味においても問題ではありません。問題は解決です。

「ほらね? どうですか? あらゆる問題は、人間を人間以外の生き物にすることによって解決するんです。え? なんですか? ああ! なるほど! ええ、ええ、そうですね……その通りです。今までの問題は、基本的に、人間の記号的現象が問題となっているあれこれでした。つまり、そもそも人間そのものに胚胎しているところの問題です。そうであるならば、人間が人間として思考する思考に変更を加えることで解決するのは当たり前の話です。それではそれ以外の問題はどうなのか。

「つまり、環境的な問題ですね。例えば、そうですね、一番分かりやすいのは飢餓の問題でしょうか。まあ、飢餓の問題も飢餓の問題で、飢餓なんて問題ではない、餓死することは悪いことではないという思考に変化させてしまえばそれで済む話ですが……とはいえ、まあ、まあ、誰でも餓死するのは嫌ですからね。そのような解決策以外の解決策を考えてみましょう。

「飢餓はどうして起こるのか? 非常に当たり前の話ですが、全ての需要に対して供給が行なわれないということによって起こります。ここで重要なのは、あくまでも問題は「供給」であるということです。「生産」「配分」「輸送」、そういったあらゆる過程の全体としての「供給」であるということです。いくら需要に見合った生産が行なわれたとしても、その生産物が需要者に到達しなければ、やはり飢餓が起こるんですからね。

「さて、思想は、現在の人間の記号的現象を最適化することでこのような問題を解決しようとします。弥縫、荀且。資本主義から共産主義への制度移行だとか、同情の感情、利他の自然、奉仕の伝統。あるいは、信仰によって隣人への愛を獲得する。あはは、まあ、まあ、どれもこれも馬鹿馬鹿しい。そんなことがね、出来るわけがないんですよ。だって、そもそも、人間が使用出来る資源の絶対量が足りていないんですからね。ここでいう資源とは、もちろん、食料資源の話だけをしているわけではありません。人間の身体的な資源、人間の知性的資源、そういったものも含みます。つまり、人間は、このような問題を解決するにはあまりにも弱くあまりにも愚かだということです。あはは、いうまでもなく、私を含めてということですけれどね。

「例えばですよ、隣人の愛だのなんだの、まあまあ簡単にいって下さいますが、それってどうやって世界中にいき渡らせるんですか? 綺麗事は大変綺麗で結構ですが、それをどうやって実行するんですか? あのね、世界の大半の人間は、言ってしまえば凡夫なんですよ。ろくに物事も考えることが出来ない馬鹿なんです。思考しない、反省しない、話し合わない。どうすれば世界がよくなるかなんて、心の底からどうでもいいと思っている。全てが空言で、全てが戯言で、ただ、現実に生きている。そう、現実に生きているんです。生きるということの切実さの中を生きているんです。生きるということだけが重要なんです。

「あのね、隣人の愛というものを持てるのは、ある程度余裕がある方だけなんですよ。この余裕というのは、もちろんあらゆる物質的資源の余裕ではありません。物質的資源は、ここでは全く関係ない。そうではなく、精神的資源の話をしているんです。つまり、思考の中にある、そういうことを考えるシステムの問題なんです。例えば、生まれた時からそのようなシステムを強制的に思考にインストールするような環境下にいれば、きっと、物質的にどのような貧困に陥っていようとも、そのような素晴らしい人間性を持ち続けるということが出来るでしょうがね。そもそも、そのようなシステムがインストールされていない方、そして、そのようなシステムをインストールするだけの余裕がない方は、もう無理なんです。凡夫はね、どうしようもない馬鹿だから凡夫なんですよ。

「つまり、あらゆる思想は、その適用の不可能性が絶対的に決定されているんです。なぜというに、そういった思想は、世界中の全ての人間……とまではいわなくても、少なくとも必要な数の人間にインストールされなければ有効に機能することはないが。しかしながら、世界の大半の人間は、そういうシステムをインストールするだけの余裕さえない凡夫だからです。

「これが資源の知性的問題ですね。あるいは、身体的問題について考えてみましょうか。そもそもの話としてですよ。人間が生きるためのエネルギーを獲得するための方法が、あまりにも少な過ぎるんです。エネルギーなんてそこら中にあるじゃないですか、水力でも風力でも、太陽光でも構いませんよ。あるいは、それが極端だっていうのならば、有機物だっていくらでもある。そこら辺に生えている植物、そこら辺を飛んでいる昆虫。そこら辺の土にだって含まれてるわけで、そういったものを食べて生きることが出来たっていいはずでしょう。

「あるいは、砂漠地帯だとか氷原地帯だとか、そういう有機物さえもほとんどない場所に住んでいる方々もいらっしゃいますがね、そういう方々だって、腐敗した食料を食べられれば、問題の解決は容易になるはずなんです。だって、そういう方々が食料を手に入れにくいのは、その大部分が輸送上の問題に起因しているわけでしょう? 輸送中に食料が腐ってしまう、あるいは、腐らないように輸送するのに莫大なコストがかかる。

「そのように、エネルギー源として利用出来るものがあまりにも少な過ぎる。そして、そうして摂取したエネルギーを、百パーセント有効活用出来るわけでもない。もしも、人間が、なんでもかんでも、エネルギーとして利用出来るものを利用出来るならば。そして、その効率が、百パーセントであるならば。この問題の解決は随分と簡単になるはずです。

「しかも、しかもですよ。そのようにごくごく僅かなエネルギー源さえも、人間は選り好みするわけですよ。あれは食べたくない、これは食べたくない、好き嫌いせずに黙って食べろといわれれば、人権を振り翳して、食べる物も選べないなんて、こんな非人道的な取り扱いは人間性の観点から許せないという。そして結局は、食べる物がなくなって餓死していくというわけです。

「あのね、砂流原さん。冷静に考えて下さい。このような状況下で飢餓の問題が解決可能だと思いますか? もうね、無理ですよ、絶対に不可能です。前提条件があまりにもめちゃくちゃなんです。これはね、そもそも解決出来るわけがない問題なんです。ということで、問題自体に変更を加えないといけない。解決策は二つしかないんです。まず一つは、人間を変えること。そして、もう一つは、環境を変えること。思想によってどうにかなるわけがない。現実によって解決する以外に方法はないんですよ。

「人間を変えるということ。方法は、形相子操作でもなんでもいいですがね。この世界中にいる凡夫を造成的に変化させて、飢餓問題を解決するのに最適な人間にするということ。隣人愛に満ちた、なんでも食べられる生き物に変えてしまえばいいんです。ああ、そうそう、太陽光を利用出来るようにするために光合成が出来るようにしてもいいかもしれませんね。とにかく、そういうことです。

「はい? あはは、ええ、ええ、まあその通りですね。これは優生学です。少なくとも優生学的な考え方です。劣った人間は排除して、優れた人間の世の中にしようというわけですから。しかしですね、優生学の何が問題なんですか? 餓死していく人々の生命の重みに比べて、その反論は少しでも論理的正当性を持ち得ますか? 持ち得るというのならね、じゃあ、そう言って下さいよ。今まさにあなたの目の前で餓死していくその瞬間の子供に「お前の生命は私の心配に比べれば些細なものだ」って、そう言って下さいよ。それが出来ないというのならば黙っていて下さい。

「環境を変えるということ。大々的に世界の温暖化を促進して、現在では氷原に覆われているエオストラケルタ大陸の北側を大穀倉地帯に変える。あるいは人工降雨システムを開発して、砂漠を森林に変える。そうすることで、食糧生産を飛躍的に拡大する。もしくは、そうですね、どのような環境下でも生育可能な食用植物を造成的に作り出して、世界各地でその植物を栽培する。こうすれば、少なくとも、最低限の食べ物を確保することは出来るようになるでしょう。

「ああ! また何かおっしゃりたいことがあるんですか! 分かりました分かりました、いいですよ、結構です。なんでもおっしゃって下さい。え? あはは、まあ、そうですね。そのように、大規模に環境を変化させてしまった場合、その副作用として何が起こるのかということは全くの未知数です。例えば、温暖化の結果として、全く未知の農業害虫が生まれてしまうかもしれない。あるいは、人工降雨によって、他の地方に雨が降らなくなるかもしれない。形相子操作を施した植物は、形相子が不安定化している。そのような形相子が自然界を汚染すれば、その結果は予測不可能だ。

「でもね、それがどうしたっていうんです? 世界規模で破滅的な環境の変化が起こって人類が滅亡することの何がいけないっていうんですか? いいじゃないですか、人間なんて滅びたって。環境破壊の結果として滅亡する。あるいは、先ほどの例で挙げたような形相子操作を人間に施した結果として、思わぬ副作用があり、人間という種が不安定になり、やがては滅亡へと至る。どちらもあり得ますがね、滅びるなら滅びるで構わないでしょう。どうせ、人間なんて大した種族ではありませんよ。滅びて、何か、世界に重大な影響を与えるような種族ではない。

「そんなことよりもね、このように変化を起こすことで、人間が、もっともっと最適な存在になるということの方がよほど重要なんです。あのですね、砂流原さん。勘違いしないで下さい。人間は希望に満ちた素晴らしい種族ではありません。人間は、人間存在は、最悪なんです。今の人間は、最悪の状態にあるんです。これ以上は悪くなりようがない。滅びたとしてもね、滅びた方がまだいいというくらいの種族なんですよ。人間は。

「だって、そうでしょう? 今、世界で、どれだけの人間が苦しんでいると思いますか? どれだけの人間が、差別で、殺人で、暴政で、戦争で、飢餓で、苦しんでいると思いますか? というか、たった一人でも救いを求める人間がいるとして、そのような人間を生み出してしまった人間という種族は存在するに足る種族だと思いますか? 砂流原さん、砂流原さん、私にはね、絶対的な確信があるんです。もしも、たった一人でも人間が苦しんでいるというのならば。それと比べれば、人類の全体が滅びてしまった方がマシだっていう確信がね。

「と、こんな感じですかね。まあ、まあ、幾つか取り上げた問題の例と、その解決策については、あんまり考えないでぱっぱっぱっと喋ってしまったものなので、細かいところはもう少し詰めていく必要があるということは言うまでもありませんが。それでも私が言いたいことのベースラインはご理解頂けたのではないでしょうか。要するにね、この世界には解くことが出来ない問題があるんですよ。「記号的現象をどのように変更すれば世界はより良い場所になるのか」。こんな問題はね、解けるわけがないんです。観念を変えるだけで世界がより良い場所になるわけがない。提起された問題自体が間違っているんです。そうであるならば、その問題を破棄して、全く別の問題を提起しなければいけない。そして、それが、「どうやって人間を変更すれば世界はより良い場所になるのか」という問題です。人間こそが問題なのだから、人間を人間以外に変えていくことでしか問題は解決出来ないんですよ。」

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