第三部パラダイス #28

 かわいそうに、砂流原真昼は気が狂ってしまったのだ。


 懶惰に、懶惰に、世界の初めての音は心臓の音だけが聞こえている。腐敗し切っていて、美しい緑色に濁った泥土の中から、ゆっくりと浮かび上がってくる死体のように。真昼は、そのように感じていた。その比喩的な意味合いにおける泥土は、ひどく、ひどく、熱を持っていて。そして、その熱は真昼の内側を満たしている……特に、その心臓を。

 そして、その心臓が、その熱を真昼の全身に広げていく。とくん、とくん、とくん、とくん。真昼は、随分と長いこと、その比喩的な意味合いにおける泥土の内側に沈んでいたに違いない。なぜなら、真昼の頭蓋骨の内側にある脳髄は、あわあわと、えろえろと、すっかりとcorruptionしてしまっていて。真昼は、恍惚と、恍惚と、していたからだ。

 真昼は口を開いた。まるで、誰かから優しく唇の上に落とされた口づけの残響を意地汚く飲み込もうとしてるみたいに。それから、その口は、周囲に存在する空気を吸い込み始める。たった今生まれたばかりの新生児がそうするようにして。

 それは、まさに泥土のような空気であった。柔らかい、柔らかい、そして、腐っている。新たな誕生に、腐り果てた泥土ほど相応しい象徴はないのだろう。地獄の底で死んでいった哀れな生き物の死骸は、いつだってこの世界を富栄養状態にする。

 真昼は呼吸している。自らの意思とは関係なく、自らの意識とは関係なく。一つの満ち足りた精神として。息を吸う、息を吐く、それを繰り返す。そこにはなんの関係性も介在していなかった。真昼は、ただ、真昼であるということをしていた。

 夏だ。

 唐突に思った。

 そしてそれは正しかった。

 蛞蝓の体を葉の上からそっと剥がし取るみたいにして、真昼はそっと目を開いた。右の目だけではなく、左の目だけでもなく、両方の目を。その時点、目を開く時点までは、自分が目を閉じていることさえも気が付いていなかったのだけれど、とにかく目を開いた。そして、その瞬間に気が付く。自分が泥土の底でどろどろと沈んでいたわけではなく、ただ眠っていただけであるということに。

 そう、真昼は眠っていた。

 それから、今、目覚めた。

 一度、二度、三度、まばたきをする。脊髄の内側をとろとろと流れる性的な快楽に指先を震わせながらも、ゆっくりとその場に体を起こす。手のひらにざらざらとした砂の感触。全身に、硬いものに横たわっていた時に特有の鬱血の感覚。そして、そうして、真昼はようやく周囲の光景を見回してみる。

 端的にいえば、そこは洞窟であった。それも自然に出来たタイプの物ではなく造成的に掘り出されたタイプの物だろう。そう思えるくらいには、真昼のいるその空間は直角と直線とによって構成されていた。

 正確なことは分からないが、恐らくは立方に近い形をしていた。縦横ともに三ダブルキュビトくらいの立方だ。真昼のことを完全に受容しているかのように、無干渉に、無介入に、ただその空間を包んでいる床、天井、三面の壁。そして、壁のうちの残りの一面は、出入りが出来るように削り抜かれていた。縦に二ダブルキュビトくらい、横に一ダブルキュビトくらい、ぽっかりとした穴。けれども、少なくとも今は、真昼はその穴からこの空間の外側に出ていくことは出来ないようだった。なぜなら、その穴は、鉄格子で出来た扉で閉ざされていたからだ。赤い砂が浮かび上がるように、赤く錆び切った、鉄格子。

 赤い砂、赤い砂だ。この空間のコンセプトとなっているのは。そこら中が赤い砂にまみれている。床も、天井も、それに壁も。真昼は、先ほど体を起こす時に床についた手のひらを自分の目の前に持ってくる。その手のひらについていたのは、ざらざらと、乾いた、赤い砂。

 どうやら随分と乾燥しているようだ。それに随分と暑い。一体、ここは、どこだろう。そして、なぜ、ここにいるのだろう。だんだんと……真昼の内側に、海が満ちてくる。その海は、全てを洗い流す洪水だ。いや、違う。既に全てを洗い流してしまった海だ。とくん、とくん、潮の満ち引きの音。真昼の内側にあったはずのものは、全て清められた。あとは空っぽの中に、その心臓だけが脈を打っている。それは、もう、ただの肉で出来たポンプではなかった。それは、それは。

 記憶。

 記憶。

 記憶。

 記憶、なんて。

 どうでもいい。

 仄暗い洞窟。灰の色と黄土の色とが混じり合ったような岩に刻み込まれた石窟。その石壁の、その石天井の、その石床のそこここから、様々な色合いの闇の色が、まるで鏡から見返してくる顔みたいにして真昼のことを見つめている。鏡? でも、真昼はもう鏡を割ってしまった。あれほど気に入っていた鏡だったのに。暇があれば覗き込み、そしてその中にある鏡像を、まるで本当の自分であるかのように見つめていたのに。それでも、割ってしまったのだ。あっさりと割ってしまって、その後でゴミ箱に捨てて。今では、もう思い出すことさえもない。ぼんやりと、朧で虚ろな光に照らし出されて……割れてしまった鏡の欠片のように、砂埃がきらきらと輝いている。

 光に。

 照らし。

 出されて。

 そう、この空間には光が差し込んでいた。定め事のように。本当に、うっすらと、眠りかけているような薄明ではあったが、それでも光が差し込んでいた。定め事のように。それは、もちろんこの洞窟自体が放っている光というわけではなく、この立方体に唯一開いた穴である、鉄格子の向こう側から差し込んでいたのだ。定め事のように。

 定め事のように。

 定め事のように。

 定め事のように。

 透き通るような光。この世界に生きる者の習性、少なくとも、この世界の裁かれる者の側に生きている者の習性……全てを受け入れるということ。そして、真昼は(本人がまさにそうであると受け入れている通りに)間違いなくこの世界の裁かれる者の側に生きている生き物だ。だから真昼は、その精神を本能的に「それ」の光の方角へと引き寄せられる。

 出来損ないの印刷機で印刷した聖書みたいにecstasyに打ち震えている体を、引き摺るようにして。あるいは、単に、愛していた全てのものを、美しかった全てのものを、もう二度と取り戻すことが出来ないやり方で失ってしまった人間のようにして。真昼は、伏せていた体を立ち上げた。その時に、ふと、足元で音がする。右の足元で、しゃらしゃらしゃらと。それから、足の裏が何か冷たい物を踏みつけたようだった。

 見下ろす、足元を。

 右足の下。

 黒く鈍い。

 金属の色。

 その金属の色は、真昼の足元から始まって、ずるずると引き摺るみたいにして壁のところまで繋がっていた。真昼は一瞬の間だけ、それが一体なんなのか分からなかったのだったけれど。けれども、その一瞬が過ぎると、すぐに理解出来た。足枷だ。この空間の中に誰かを繋ぎ止めていたはずの足枷。金属の足錠から、それと同じ材質で出来た金属の鎖が伸びていて。そして、それが右壁のところに鋲で打ち付けられている。

 しかし、その足枷は誰の足も繋ぎ止めてはいなかった。真昼に踏みつけられた足錠は、かぱりと開いたままで。口を開いたままで死んでしまった肉食獣のように空白だ。それはただ真昼の足元に転がっているだけだ。

 真昼は、まるで興味がない視線で、暫くの間、それを見下ろしていたが。やがて、もともと味がなかったガムを吐き捨てるみたいにしてそれから目を逸らした。もう、これは、真昼にはなんの関係もないものだった。

 それから……それから、光の差し込んでいる方に目を向けた。光、光、定め事。真昼はその定め事が指し示す方に向かわなければならないのだった。なぜなら、なぜなら、真昼はそうしなければならないから。理由は単純だ、いつだって単純だ。なぜ真昼がそれをするのか、なぜそれをする者がそれをするのか。つまり、それは、それをしなければいけないからだ。

 真昼は、もう何かを迷うということはなかった。いや、実のところ、そもそもの話として、真昼は迷うということをしたことがなかったのだ。全ての生き物がそうであるように、真昼は迷ったふりをしていただけだった。というよりも迷うことが出来るふりをしていただけだった。

 それは既に決まっていることで、それをしないことなど出来ないはずなのに、しないことが出来ると偽っていただけ。真昼は、もう、そのようなことはしないのだ。なぜなら、起こってしまった全てのことは正しいと、何一つ間違っていることなどないと、そう教えて貰ったからだ。

 真昼にとっては、もうこの場所がどこなのかということさえも気にならないことだった。とはいえ真昼は……なんとなく、この場所について、ひどく「適切である」ような気がした。というか「好意」のようなものを抱いていた。なんというか、とてもとても、懐かしいような感覚。

 この暑さ、夏みたいな、いや、夏という名称さえも生ぬるいように感じるこの暑さ。あるいは、乾いている、乾き過ぎている、血と肉とに囲まれたことのない硬骨か何かのような暑さ。まるで、この洞窟のすぐそばに……何か、通常の生命体を遥かに超えたエネルギーを有する何かがいるみたいだ。そのせいで、この時空間からは、真昼とその何か以外のあらゆるものが蒸発してしまったみたいな。この比喩はある意味では正しかったのだが、それはそれとして真昼はそう思った。

 真昼は、知っていた。

 明らかに知っていた。

 この場所が、一体。

 どこであるかということを。

 足を踏み出す、蹴飛ばされた足枷がしゃらりと音を立てる。体が加速度運動をするたびに、その内側に満たされた恍惚感がうっとりと真昼を愛撫する。そして、その恍惚感に身を任せるようにして、真昼は体を引き摺っていく。この立方体の出口の方へ。この立方体の、閉ざされた出口の方へ。あるいは、ただ単純に、光の方へ。

 指先が鉄格子に触れる。

 頬をその金属に当てる。

 ざらざらとしていて。

 そっと、冷たい感触。

 決まり切った繰り返しのように……真昼が初めて感じたのは、視覚による感覚ではなかった。聴覚による感覚だ。さらさらと、途切れることなく、流れていく水音。どこか遠くで、真昼と不可分に結び付いた一体的感覚として、流れていく水の音。川だ、もちろん近くには川がある。それも、それなりに大きな川。

 その川は、ここからは見えなかった。というか、ここからはほとんど何も見えなかった。なぜなら見える必要などないからだ。真昼は知っている、全てを知っている。だから、真昼は、もう見る必要などないのだ。「それ」以外は。

 真昼が聴覚ではなく、視覚によって最初に捉えたものは、柱だった。真昼の体よりも太く高いだろう柱。八角形の形に刻まれた、ひどくシンプルな柱。それが大体一ダブルキュビトの間隔を空けて、何本も何本も並んでいる。

 その通りだ。いうまでもなく、この鉄格子の外は真っ直ぐな廊下になっている。しかも、なんとなく廊下と呼ぶのも躊躇われるような、かなり広い廊下だ。高さは四ダブルキュビト程度、幅は五ダブルキュビトもあるだろうか。まず真昼のいる場所から一ダブルキュビトほどの場所に最初の柱があり、それからその二ダブルキュビトほど奥にもう一列、全く同じような柱の列が並んでいる。更にその一ダブルキュビトほど奥が壁だ。その壁には、恐らく真昼がいる……細胞……いや、独房。その独房と同じような独房が、その先にも開いているだろうと思われる、鉄格子で閉ざされた穴が幾つか並んでいる。

 廊下は右側にも左側にも延びていたのだが、真昼は、まずは、右側を見た。廊下の、右の、奥の方。けれども、真昼のいる位置からは、そちらの方向はよく見えなかった。何かがあるのは分かる、何か、とても大きく開けた空間のようなもの。ホールのようなものがあるのは分かる。けれども、遠くの方に連なっていく柱の列のせいで、視界が遮られてしまうのだ。そういう意味では、廊下の右奥よりも、左奥の方がより良く見通すことが出来た。真昼のいる、この独房は、廊下の随分左奥の方にあるらしく、そちら側にはあまり柱が並んでいなかったから。ちなみにこの廊下自体の長さが二十ダブルキュビトくらいあって、真昼の独房は左奥から五ダブルキュビトほどのところに位置しているらしい。そして、光は。光は左側から来ていた。

 そう。

 左側から来ていた。

 だから、真昼は左奥へと目を向ける。

 そして、真昼は「それ」を見つける。

 一度、静かに目を閉じた。それから、ゆっくりと目を開く。そこには歓喜はなかった、ましてや恐怖も。どちらかといえば、それは諦めのような感覚だった。とはいえ、なんらの否定的な要素もない諦めだ。真昼はそれを見つけなければいけなかった。そして、それを見つけた。それだけの話だ。とはいえ、なぜ? なぜ、「それ」を見つけなければいけなかったのだろうか。というか、「それ」とは、一体なんなのか?

 廊下の左奥、その突き当たり。そこは壁龕のように岩壁を削り抜いて作られた空間になっていた。奥行きはよく分からないとして、高さと横幅とは共に三.五ダブルキュビト程度。壁龕と呼ぶには少し大き過ぎるような気もする空間ではあったが……ただ、真昼が見なければいけなかった「それ」は壁龕自体ではなかった。その中に、じっと、佇んでいるものだ。

 何か。

 巨大な。

 ものが。

 そこに。

 佇んでいる。

 それは人間ではない、明らかに人間ではない。三.五ダブルキュビトの高さがある壁龕の、ほとんどぎりぎりのところまである背丈。べっとりと沈み込むような闇の中で、生命として分類出来ないもののように、じっとそこに立ち、真昼の方を見つめている。あまりにも、あまりにも、非人間的な。真昼は知っている……確かに「それ」を知っている……なぜなら、「それ」について、教えて貰ったから。

 そう、違う。

 あれは違う。

 生物ではない。

 如来だ。

 アクショードゥフカ、アミターシタ、ヴァルナメダー、マイトレーヤ。如来はどれも全て同じ姿をしていて、どれがどれだか区別がつかない。けれども、真昼は、あれが、アクショードゥフカでもなくアミターシタでもなくヴァルナメダーでもなく、マイトレーヤであるということを知っていた。ここはマイトレーヤの石窟寺院であり、実に当たり前の話であるが、マイトレーヤの石窟寺院にいるべきなのはマイトレーヤだからだ。

 時間でもなく、空間でもなく、可能性でさえなく。そういったあらゆる次元を構成している最も基本的な構造、絶対的な暗黒の闇を紡ぎ、それを織物にして纏っている。すっぽりと隠すようにして、全身を波打つヴェールのようなもので覆っている。そのヴェールから外に出ているのは顔と、それに両手とだけだったが。けれども、それは、顔でも手でもなかった。それは何ものでもなく、そして、何ものでもあり得るものだった。それは、存在しうる全ての存在である。それだけではなく、存在しない存在でさえある。

 その顔には、何もかもがあり、何もかもがなかった。目も、鼻も、口も、耳も。「ある」と同時に「ない」という状態にあった。完全な不確定性において、その顔は、無貌でありながら、千の姿を持っていた。あるいは、ヴェールから見えているその手は。何本でもあり得た。一本であるかもしれないし、千本であるかもしれない。ただ、とはいえ……どうやら、真昼が見ている限りにおいて、それは右の手と左の手と、二本の手であるようだった。つまり、いわゆる両手であった。

 その両手は。まるで目の前にいる何者かを、計り知れない愛によって抱き締めようとしているみたいに、真昼の方に差し出されていた。ただ、その両手に抱き締められるのは難しいだろう。その差し出されている両手は、既に、しなやかな猫科の動物によって占有されていたからだ。ヴェールで覆われたマイトレーヤ、その手の先、左手と右手との両方の先には、それぞれ一匹ずつ、豹のような生き物がいた。この世界が始まる前のような暗黒の毛並み、黒豹だ。ゆったりとそこに座っていて、大きさとしてはマイトレーヤの腰くらいまでの大きさ。恍惚とした表情で、まるでうっとりと夢を見ているかのように口を開いて。そして、マイトレーヤの手、それぞれ右手と左手とを、愛撫するかのように舐めている。

 そして、光は、定め事のようなその光は、マイトレーヤの背後で光り輝いていた。マイトレーヤを中心として、まるであらゆる生命を育むこの世界で最も純粋な「力」を太陽が放射しているかのようにして。いや……違う……それは光ではなかった。闇であった。絶対的な暗黒が、あたかもマイトレーヤが光り輝いているかのようにして、暗く暗く沈んでいく闇が、放射されているのだ。存在そのものの闇、存在そのものがそこにあるというだけで、そこに生まれる闇。それが、光背ではなく、闇背として放射されている。

 如来、タターガタ。

 斯くの如く来たる。

 そこにいた。石造ではなく。本物のマイトレーヤが。マイトレーヤ自身が。真昼は、今までマイトレーヤに出会ったことなどないはずだ。だから、それがマイトレーヤであるかどうかなどということは分からないはずだった。それでも、真昼は分かっていた。それがマイトレーヤであり、それ以外の全てでもあるということを。それは存在それ自体であるということを。

 マイトレーヤは、そこに立っていた。そして、「そこに立つ」ということをするその行為と同時に、別の行為をしていた。いや、もしかしたらそこに立っていなかったのかもしれない。それは誰にでも分かることだが、実は誰にも分らない。なぜというに、どちらも正しく、どちらも正しくなく、どちらも正しいわけでもなく正しくないわけでもないからだ。非局所性。

 マイトレーヤが纏っているヴェールが柔らかく揺れた。それがそうであるかもしれないしそうではないかもしれないという同時性の中で、マイトレーヤはゆっくりと壁龕から足を踏み出した。足があるのかどうか分からない、マイトレーヤの足はヴェールによって覆われているために誰も観測することが出来ないからだ。観測出来ないということは、マイトレーヤには、足があるということもありうるし、足がないということもありうるということだ。それでも、とにかく、マイトレーヤは足を踏み出した。

 少し高い段差になっている、その場所から、音もなく降りると。その先にある廊下を、真っ直ぐに、真っ直ぐに、歩いてくる。真昼から見て廊下の左側から、真昼から見て廊下の右側へと。二匹のbeastはそのようなマイトレーヤについてこちらにやってくる。如来と、二匹の脇侍。

 マイトレーヤが歩いていくその背後。一歩一歩歩くごとに、その一歩一歩には、黒い黒い蓮の花が咲き乱れる。乾き切って、朽ち果てた、岩の上……まるで、何か、長い長い布を引き摺って歩いているかのように。マイトレーヤが歩いて行った軌跡は、蓮の花によって覆い尽くされる。

 一ダブルキュビト。

 二ダブルキュビト。

 三ダブルキュビト。

 四ダブルキュビト。

 五ダブルキュビト。

 そして、マイトレーヤは、いつの間にかそこにいた。まるで、壁龕の中から、一瞬にしてこちら側に顕現したかのように。もちろんマイトレーヤはその距離を移動してきたのだが、とはいえ、間違いなく、壁龕から一歩も動いていないはずなのである。そこにいたはずの確率が、ここにいた確率になる。移動した確率と移動していない確率、どちらの確率も相対的で平等だ。

 マイトレーヤは、真昼の細胞、真昼の独房、その目の前にいた。そして、その中にいる生き物のことを、つまり真昼のことを見ていた。不思議なことに――実際は何も不思議ではないのだが――この距離から見ると、マイトレーヤは、普通の人間と変わらない程度の大きさであるように見えた。つい先ほどまでは、あの壁龕、三.五ダブルキュビトの高さがあるあの壁龕と同じほどの背丈があったはずなのに。今、真昼の目の前にいるそのマイトレーヤは、真昼よりも少し背が高いというくらいだった。

 真昼は立っていた。真昼はそこに立っていた。そことはどこか? そこはどこでもあり得た! どこでもあり得たのだ! なぜ……なぜ、いつもいつも、世界は一つの仕方でしかあり得ないのだろう。なぜ、二つのやり方で、誰かは誰かであることが出来ないのだろう。なぜ、お花屋さんであるとともにケーキ屋さんであるということが、ヒーローであるとともに怪獣であるということが出来ないのだろう。なぜ、選択を繰り返し、その選択によって、あらゆる何もかもを、あらゆるきらきらとしたものを失わなければいけないのだろう。消えていった、全ての素敵な世界は、今はどこで何をしているのだろう。

 けれども、真昼にはそのようなことはまるで気にならなかった。真昼は、既に収縮した確率波のある一点に過ぎなかったからだ。真昼にとって、あらゆる確率は既に失われたものに過ぎなかった。真昼は、真昼が真昼でなかったならばということさえも考えることはなかった。なぜなら、真昼が真昼でないということはあり得ないこと、それどころか、そのような疑問さえも思い浮かぶことがないこの世界であるからだ。真昼は、既に、ここにいた。ここに。この細胞に。真昼が真昼であること、真昼の全てが、本当の本当に始まったこの場所に。そして、真昼は、もう、ここ以外のどこにもいなかった。

 つまり。

 真昼は。

 観測者。

 だった。

 観測者の目の前に、マイトレーヤは立っていた。その背後から、闇が放射されている。闇は、闇は、闇は……真昼が観測している目の前で、どんどんと広がっていった。また、それだけではなかった。マイトレーヤの足元、既にマイトレーヤの周囲を取り巻くようにして咲いていた蓮の花が。ずるり、ずるり、と、真昼の方に広がってきていた。

 真昼は立っていた。独房の中で、ただ、ただ、じっと立っていた。両手で鉄格子を掴んだまま、鉄格子越しに。感情の欠片もない、冷め切った視線で、マイトレーヤのことを見上げていた。闇が広がる、黒い蓮の花が広がる。それから……遂に、鉄格子の向こう側にやってくる。

 鉄格子が、闇に包み込まれると。まるで、現実の中のそうではなかったかもしれない確率、この鉄格子が最初から存在しなかったかもしれない確率のように、その現実が侵食されていく。現実は現実ではなくなる。そして、あらゆるものがまるで夢のように確率化していく。

 それから、その後で。真昼が、「それ」に包み込まれる。まずは、鉄格子を掴んでいた手が、闇の顎門によって飲み込まれる。次に、足元が、黒い蓮の花の花畑の中に沈み込んでいく。浸食は、次第に、次第に、真昼を引き摺り込んでいって。最後には、真昼の全身が包まれる。

 真昼は。

 真昼は。

 マイトレーヤの。

 ヴェールの内側。

 に。

 飲。

 み。

 込。

 ま。

 れ。

 る。

 ああ……真昼は、墜落していく。あるいは、上昇しているのかもしれない。どちらなのか、真昼には分からなかった。ただただ、そこには闇が広がっていたからだ。それは空間であるわけでもなく時間であるわけでもなく、それゆえに、真昼は、あらゆる関係の中で加速度運動しているわけではなかった。ある物質、ある何かしらとの関係性の中でしか、存在は存在出来ない。そうであるのだとすれば、この瞬間、いや、時間の外側にあるこの場所において、真昼は存在さえもしていなかった。ただ、真昼は、真昼であるという現実であったはずの、一つの闇であった。

 真昼は、何も見えなかった。真昼の目という現実さえも、既に闇であったからだ。その絶対的な闇の中で、全てのもののの基本構造がそこに生まれそして死んでいく闇の中で。あらゆるものがパラメーター化される、場という、存在の基底さえも失われた闇の中で。真昼は、ただ、ただ、夢を見ている。

 死んでいるわけでもない。

 生きているわけでもない。

 そのような。

 真昼である真昼が。

 闇に、沈み込んでいって。

 闇から、浮かび上がって。

 そして。

 それから。

 真昼は。

 いつの間にか。

 そこに、いた。

 ふと気が付くと、そこは光に満ちていた。違う、そうじゃない。先ほどまでの絶対的な闇の放射ではない。それは確かに光であった。例えるならば……聖書の冒頭で。主が「光あれ」といったその瞬間にあった光のように。全てのものの始まりの時に起こった爆発、アーキブームの光のような根源的な光。

 真昼は立っている。とはいえ、どこに立っているのだろう。そこには真昼が立つことの出来る足場などないはずだった。そこには光しかなく、真昼の上も、真昼の下も、真昼の右も、真昼の左も、真昼の前も、真昼の後ろも、全てが光だけによって満たされていたからだ。それでも、真昼は立っていた。

 そして、その目の前にはマイトレーヤがいた。真昼がここに立つ前に立っていた、あの場所で。あの洞窟のあの独房でそうだったように。あの時とまるで同じ距離で、あの時とまるで同じ状態で。ただし、いうまでもなく、真昼とマイトレーヤとの間を閉ざしていた鉄格子はもう存在しなかったが。

 それに、二匹の黒豹もいなくなっていた。

 この場所には、真昼と、マイトレーヤと。

 それだけが、あたかも孤独であるように。

 適切な距離を保ったまま、存在であった。

 真昼は……辺りを見回した。まずは首を右に向けて、次に首を左に向けて。それから、また、マイトレーヤの方に視線を戻した。真昼は、別に、怯えたりはしなかった。あるいは驚くということもなかった。極めて冷静に。あたかも一続きの自然法則が働くかのような態度で。マイトレーヤに向かって、こう問い掛ける。「ここはどこ」。

 マイトレーヤは言葉によっては答えなかった。なぜなら、マイトレーヤには口があったが、一方で口がなかったからだ。マイトレーヤは、その存在するという確率も存在しないという確率もどちらもある口を開く代わりに、真昼に対して、真昼が既にその答えを知っているという確率を提示することによって答えた。

 そう、真昼はその答えをもう知っていた。そして、ここはあらゆる確率の狭間の場所だった。ここでは、何もかもがあり得ることで、何もかもがあり得ないことだった。箱の中に閉じ込められた兎が、箱を開くまでは生きているのか死んでいるのか分からない兎が、その不確定な瞬間に存在である場所。未だ死んでいると同時に、もう生き返っている真昼。どちらでもない真昼がどちらでもない真昼であるその瞬間にいるべき場所。

 つまり、ここはトゥシタ。

 そして、マイトレーヤは。

 その祝祭を、主催する者。

 真昼は、この場所に至る前に生命の樹の内側に入った。そして、その結果として、ジュノス、真昼の生命であったはずの生命が、真昼の生命であるという状態に戻るのである。真昼は生き返るのだ。だが、今は、その瞬間だった。今の真昼は、生きているわけでも死んでいるわけでもない。箱の中の兎だ。

 しかし、なぜ? なぜ真昼はここにいるのだろうか。確かに、真昼は、今、どちらでもない状態にある。とはいえ、真昼が死んだ時にもやはり今と同じような状態になったはずなのだ。真昼はその時には兜率に挙げられることはなかった。

 それなのに、なぜ、今は。

 この場所に招かれたのか。

 「なぜ」「なぜ、あたしはここにいるの」。マイトレーヤによって、その質問に答えが与えられる。より正確にいうのであれば、真昼は答えを予め知っていたことになる。なぜなら、真昼がそれを望んだからだ。

 望んだ? さりとて、真昼がどうしてそれを望むことが出来るというのだろうか。真昼は、マイトレーヤについても、トゥシタについても、あるいは無教という宗教についても。ほとんど知識がないはずであった、僅かな知識といえば、誰でも知っているような一般常識についての知識、左道曼荼羅のようなテロリストについての知識、それにマコトが言葉したほんの少しの情報の断片だけである。真昼が……真昼が望んだから、全てのことは起こる。だが、真昼は何を望んだのか? そして、マイトレーヤは、一体、その望みを望んだ真昼をどうしようとしているのか? 「ねえ、あなたは誰」「あなたは何者なの」「そして、あたしをどうしようとしているの」。

 タターガタ、如来。斯くの如く来たる者。過去においてはヴァルナメダーと呼ばれた。東においてはアクショードゥフカと呼ばれている。西においてはアミターシタと呼ばれている。そして、今、あるいは未来においてはマイトレーヤと呼ばれるだろう。無教、Nastikaの創始者。「Nを信じる者」と呼ばれるその信仰におけるN。それは、全ての、全ての、幸福。

 真昼はNの福音を知っている。生き物は幸福になるために生まれてきた。幸福になるためだけに生まれてきたのだ。決して不幸になるためではない。真昼は、決して、不幸になるために生まれてきたんじゃない。マイトレーヤは真昼にそのことを教えるためにやってきた。フェト・アザレマカシアからやってきた。マイトレーヤは、真昼を幸福にするためにやってきた。

 マイトレーヤ。

 それは。

 真昼の、ための。

 都合のいい幻想。

 都合のいい幻想? そう、都合のいい幻想。分からない、あなたのいっていることの意味が。あなたの答えは、あたしの質問に対する答えになっていない。あなたが幻想だとするならば、その幻想は一体誰なの? あなたという幻想は、一体、誰なの? 誰にでもなれる。それは、どういうこと? マイトレーヤは誰にでもなれる。砂流原真昼が望んだ誰にでもなることが出来る。

 うるさい、うるさい、うるさい。わけの分からないことをいわないで。砂流原真昼は分かっている。全てのことを分かっている。ただ、理解したくないだけで。けれども、理解したくないということもやはり嘘だ。なぜならマイトレーヤがここにいるから。なぜならマイトレーヤがそれを砂流原真昼に理解させようとしているから。砂流原真昼は、本当はそのことを望んでいる。そのことを理解することを望んでいる。

 あたしが、あたしが、何を望んでいるというの? 砂流原真昼は望んでいる。復活を。再生を。世界に向かって二度目の誕生を果たすことを。だが、その誕生は一度目のそれとは異なるものでなければいけない。砂流原真昼の二度目の誕生は、救われた状態においてなされるものでなければいけない。

 そして、その救いのためには、今ここにいる砂流原真昼は、他の全ての砂流原真昼と和解しなければいけない。今、この場所における砂流原真昼は、今、この場所における砂流原真昼が幸福になるために、そのためだけに、あらゆる苦しみを、あらゆる痛みを、その身に受けなければならなかった砂流原真昼と、和解をしなければいけない。

 過去における、あらゆる苦痛、それを身に受けた砂流原真昼。その苦痛はなければならないものだったと、それどころか、その苦痛は苦痛ではないと。二度目の誕生の瞬間に、その苦痛から、まさに苦痛そのものが洗い流されなければいけない。砂流原真昼は恢復されなければいけない。砂流原真昼のあらゆる涙が贖われなければいけない。

 和解のその瞬間に、全ての罪が既に許されていたということを知る。全てのものが、生きているものも生きていないものも、あるいは存在し得なかったものでさえ、絶対の歓喜の歌を歌いながら起き上がる。

 つまりそれが砂流原真昼の望みだ。

 マイトレーヤは、そのためにいる。

 やめて。

 やめてよ。

 そんなこと。

 いわないで。

 真昼は……恐れていた。何を? 分からない。何かが、たまらなく怖かった。心臓が笑っている。真昼の胸の中で、心臓が、くすくすと可愛らしく笑ってる。恐れる必要なんてないのに。けれども、真昼は恐ろしかった。

 変わってしまうことは、もう怖くない。真昼の内側には、もう真昼であったはずのものは残っていないからだ。生き返るということも怖くない、生きていても死んでいても何も変わらないということを知っているからだ。

 真昼は。

 恐怖。

 して。

 いた。

 楽園を。

 いや、いや、来ないで。あたしのことをそんな目をして見ないで。救いの御業は創造の瞬間よりも偉大であるということ。本当に、本当に、救われてしまったの? 全てが? あの時に、あの場所で、苦しんでいた、まさにあのあたしさえも? あり得ない、そんなことあり得ない。過去の呪詛と和解する。いうまでもなく、そんなことは出来るはずがない。けれども、救いの御業は創造の瞬間よりも偉大なのだ。

 救ったのはマイトレーヤではない。他の者が、救世主が、砂流原真昼を救ったのだ。マイトレーヤが行なうことは告知。砂流原真昼が救われたということの告知。

 やめて、やめてよ! その手で触れないで! あなたのその手で触れないで! あなたの腕は千の腕。この世界の全てをその手によって掬い上げるための千の腕。

 幸福になるために、砂流原真昼は、その心臓の音に耳を傾けなければならない。この場所で、今、まさにその胸の中にある心臓の音に耳を傾けなければいけない。これは祝祭だ。心臓の音。その心臓は砂流原真昼の再生の象徴だ。砂流原真昼の心臓は失われた。そして、今、その胸には新しい心臓が収まっている。生きろ、生きるのだ。その心臓が胸の中で歌う通りに。

 やめろ! 黙れ! あたしの前に立つな! あたしという生き物の前に立つな! あたしという細胞が観察されている。しかし、砂流原真昼、それを観察しているのは誰だ? 観察者は誰だ? もちろん、いうまでもなく、観察者は砂流原真昼だ。砂流原真昼の目の前に立っているのは砂流原真昼だ。そして、砂流原真昼という細胞を観察しているのも砂流原真昼だ。

 なんなの……なんなの? これは、なんなの? ここで起こっていることは一体なんなの? あたしはどこにいるの? あたしは何を望んでいるの? あなたは誰? あなたは誰なの? マイトレーヤと呼ばれているあなたは誰なの?

 マイトレーヤは誰にでもなれる。

 砂流原真昼が、望む、誰にでも。

 するり、と、マイトレーヤが身に纏っていたヴェールが、その確率を覆っていたヴェールが、滑り落ちた。真昼の目の前に「それ」が顕わになる。観察者の目の前に「それ」が顕わになる。観察者が「それ」を観察する。「それ」は観察された瞬間に決定する。確率は収縮する、ただの一点に収縮する。つまり、決定する。マイトレーヤが何者であるかということが決定する。「それ」は、真昼の目の前で、真昼の望むものになる。真昼がもう一度会いたいと思っていた誰かの姿になる。

 だから。

 だから。

 この時、この場所。

 まさに。

 この真昼の。

 目の前に。

 マラーが。

 立って、いた。

「え?」

 本当に……本当に残酷なことが起こった時。人間は、その出来事に対して何も行動を起こすことが出来ない。それが、あまりに残酷で、あまりに惨いことであるせいで。人間は、それについて考えることさえも出来なくなるのだ。今の真昼が、まさにその状態だった。真昼の目の前には、マラーがいた。マラーが、本当のマラーが。本当の本当のマラーが、生きていた時の姿のまま、傷一つない姿のままでそこに立っていた。

 そんなことはあり得ないことだった。あり得ないだけではない、あり得てはいけないことだった。何が……何が良くないことなのかは分からないが。それでも、それは不適切で、不健全なことだった。死んだはずの……確かに死んだはずのマラーが。真昼が、自らの安全と引き換えに、龍王に対して生贄に捧げた。そのせいで無残に死んでいったはずのマラーが。そこにいるということは、口では説明出来ない倒錯であった。

 しかし、それでも、それは現実であった。どれほどまでにそれが良くないことであっても。否定しようがないほどに、マラーはそこにいた。真昼よりも少しだけ低い背丈。純粋な、子供の視線で。真昼のことを見上げている。何も疑うことがない、生きるということは失うことであり、この世界はそれ自体として自体的に悪であるということを、未だ知らない生き物の顔をして。

 それは愛だった。それは信仰にも近い愛の感覚だった。そのような顔をして、マラーは、真昼のことを見ていた。これ以上ないというくらいの尊敬。これ以上ないというくらいの信頼。無防備に首筋を見せる羊のような態度によって、マラーはそこにいた。そして、真昼のことを見上げていた。

 母を見る。

 子のような。

 この上なく。

 無慈悲な。

 笑顔。

 で。

 「あ、あ、あ……」と、真昼は言った。上手く呼吸が出来なかった。まるで、自らが殺した被害者の亡霊を目の前にした殺人者のように。助けて、助けて。でも、何から? 真昼は、もう罪人ではなかった。真昼にとって、罪という概念は、冷たい星々の光によって一つずつ一つずつ切断されて。奇妙な音楽とともにどこかに流れて消えていってしまった。その音楽は、一つの比率だ。何かの差異が、結局のところ関係性としてさえも認識されなくなった時に、空で、空で、星々が形作る形はほどけていく。そして、何もかも、何もかも、最初からやり直しになる。

 マラー、マラー、許して。でも何を? 真昼は、声を出そうとした。必死で、叫ぼうとした。マラーに対して許しを請おうとした。けれども、声が出なかった。口だけがぱくぱくと動く、まるで阿呆のように。

 何をどうすればいいのか分からない。とっくの昔に、法廷で裁かれた殺人の罪が戻ってきたみたいだ。ただ、法廷で裁かれたとしても、いうまでもなく殺された本人が真昼のことを許したというわけではない。

 そう。

 許すはずが、ない。

 マラーが、真昼を。

 許すはずがないのだ。

 それなのに、マラーは、真昼の目の前で笑っていた。まるで、まるで……そう、許しているかのように。いや、違う。そうじゃない。それは許すなどという生易しい感情ではないはずだった。マラーの心の中にある感情は、もっと、もっと、radicalなものだった。それは感謝だ。心の底から、真昼に対して、感謝していた。真昼がマラーに対してした全てのこと。良いことも悪いことも関係なく、その全てに、本当の両親に対する愛よりも、深い深い愛によって報いようとしているのだ。

 駄目、駄目、マラー。ねえ、駄目だよ、マラー、そんなことしちゃ駄目。あなたを、あんなに、卑劣に、卑怯に、見捨てたあたしを。そんな目をして見ちゃ駄目、あたしのことを愛しちゃ駄目。だって、そんなこと……そんなこと、絶対に間違っているから。

 世界の正しさに適合していない。世界の天秤が正しく傾かない。傷には傷を、害には害をもって報いなければ。そうしなければ世界がおかしなことになってしまう。関係性、差異、星の外側に投げ出された命。真空は常に埋められなければいけないんだ。

 真昼は負債を負っていた。返し切ることなど出来はしないほど巨大な負債を。そして、その負債は絶対に贖われなければいけないものであったはずなのだ。なぜなら……なぜなら、それは足場だから。マラーが、真昼が、その上に立つことが出来る立脚点。

 それは、星だ。この星なのだ。人間は、無重力の空間で生きていくことなど出来はしない。なぜなら、人間という生き物は、どこかそこにいることが出来る場所がなければするするとほどけてしまう生き物だからだ。以前も一度触れたことがある事実だが、広大とは閉塞なのである。どこへ行っても同じだということは、結局のところ、どこか一点に閉じ込められているということと何も変わらない。それは恐怖にも似た不安だ。なぜというに、それは、結局のところ、捨てられるということだからだ。無限に、永遠に、繰り返し繰り返し、捨てられ続けるということだからだ。

 だから……でも……それでも……マラーは微笑んでいた。なぜなら、天使だからだ。マラーは、実のところ。天使だったからだ。マラーは、きっと、真昼のために命を捨てたことによって天使になったのだ。

 ねえ、天使ならば星は関係ないよ。星の重力は関係ない。だって、だって、その背中には羽が生えているから。どこへでも行けるよ。ふわりと浮かんで、それから笑って。何もない、何もない空間の中で、ただマラーだけが笑っていて。

 どこへでも行ける。あなたがいれば。だって、あなたがあたしの場所だから。あなたがいる場所があたしのいる場所だから。太陽もない、月もない、明るく輝く星々もない、この無重力の空間でも。あなたがいれば、あたしの相対性。

 マラー、あなたが。

 あたしの、相対性。

 真昼の耳元で、真昼の声で。何かが言葉する言葉が聞こえている。馬鹿みたいなことを、でも、まるで誘うようないい方をして。ああ、やめろ、やめろ、こんな声に耳を傾けちゃいけない! でも、確かに天使だった。マラーは天使だった。

 悪魔なのに。

 あたしは。

 もう。

 悪魔に。

 全てを。

 明け渡したのに。

 負債は人間の法律に過ぎない。天使にも悪魔にも関係ない。そして、ここにいるのは、悪魔に「人間」を売り払った人間、それに天使だけだ。そうであるならば、この関係性のもとに負債は成立しない。真昼は負債を後生大事に抱えてそれを自分自身の存在の重りにすることは出来ない。何もない空間の中でその場所だけを自分自身の渇望する位置として定める碇とすることは出来ない。

 ねえ。

 でも。

 大丈夫。

 だって。

 ここに。

 天使が。

 いるから。

 真昼は、いつの間にかその場に頽れていた。爪先が、馬鹿みたいに地面に対して直角になっていて。膝をついて、脹脛の上に腿を置いて。足は、まるで正座でもしているように、けれども限りなく力なく。あるいは、肩から先、両腕はだらりと垂れている。指先が、怯えているかのように軽く震えている。

 もう、立ってなどいられなかったのだ。もう、真昼は悲しみではなかった。もう、真昼は恐れではなかった。もう、真昼は、押し潰されそうなほどの絶望感ではなかった。なぜなら、目の前に天使がいるからだ。

 震えていた。慄いていた。目の前にいる者のあまりの優しさに。そして、それに対する、自らの、あまりの卑小さに。罪悪感が……罪悪感があった。罪という概念が成立しない世界の罪悪感が。どうすればいいのか分からない。試験に出された答えのない問題には答えがない。

 呼吸をしている。

 息を吸う。

 息を吐く。

 心臓の音が聞こえる。

 マラーが、その無知で無学で、そして、無限の微笑みのままで。こちらに向かって、すっと両腕を差し出してきた。頽れた真昼の姿は、そのせいで、マラーと同じくらいの目線になっている。真昼の顔は、マラーが真っ直ぐに前を見た時に来る視線の位置、それよりも少しだけ下の位置にある。

 だから、マラーは少しだけ俯いている。マラーの視線は、真昼の顔を直視している。何か、あたかも、愛という一つの信念によってそうしているかのように。マラーは怖気付くことなどなかった。ましてや、憎悪することなど。何もかも受け入れる者は、常に勝者だ。

 マラーの、両方の手のひらが。優しく、優しく、真昼の頬に添えられる。マラーの左手が真昼の右頬に。マラーの右手が真昼の左頬に。真昼はされるがままだった。されるがまま、マラーのことを見上げていた。

 問題なのは。本当の本当に問題なのは。実は、真昼がマラーのことを生贄にしたことではない。真昼が、マラーへの憎悪からそれをなしたということだ。それこそが、いや、それだけが、絶対に許されてはいけないことなのだ。

 生贄にしたということは、その事実それ自体は、実は罪でもなんでもなかった。それは単なる「なされたこと」である。真昼が……マラーを、この上なく嫌っていたということ、嫌悪していたということ。そして、その憎悪ゆえに、心の底から、マラーが、この世界から消え去るということを、そのことを真昼が望んでいたということ。それが真昼の本当の罪であった。

 無論、そこには真昼の自由などなかった。真昼は、間違いなく、マラーを憎悪するということ。マラーがカリ・ユガに食われて、自分の目の前からいなくなってしまうということ、それを、切望すること、渇望すること、そのこと以外に出来ることはなかった。だが、それでも、それは悪なのだ。絶対的な悪なのだ。それは罪であり、許されてはいけないのだ。

 マラーは、真昼が犯した全ての罪の象徴であった。真昼が、ヒーローになろうとして。正義の味方になろうとして、それゆえに強奪し、搾取してきた全ての罪なき人々の象徴であった。だから、真昼はマラーを憎悪したのだ。

 マラーを憎悪してはいけなかったのだ。なぜなら、マラーは、生まれてから一度も罪を犯したことがなかったからだ。マラーは、何一つ、何一つ罪を犯したことがなかった。マラーは眠っていただけなのだ。無原罪の青によって外世界から隔離されてベッドの上で眠っていただけなのだ。

 真昼は、その寝顔が憎かった。妬ましかった。真昼が、これほど薄汚れて、自分で吐き散らした反吐の中をのたうち回るようにして生きているというのに。安らかな顔をして、生きるということ自体が悪だということなど知らぬ顔をして生きているマラーが、どうしても、許せなかった。

 真昼は。

 何も知らず。

 世界が。

 とても。

 とても。

 素晴らしい場所だと。

 自分は。

 そんな素晴らしい場所で。

 生きるに足る人間、だと。

 そう思っていた。

 真昼自身が。

 許せなかったのだ。

 それが真昼の罪だった。それが、真昼に帰責されるところの罪だった。これほどまでに巨大な罪が、果たしてありうるだろうか? マラーは、悪くなかった。マラーはなーんにも悪くなかった。それなのに、マラーは、真昼に唾を吐きかけられ、これ以上ないというくらい残酷な裏切りの中で死んでいったのだ。そして、最悪なことは、その惨たらしい死に様を見ることによって、真昼が心の底からの喜びを覚えたということだ。これ以上ないというくらいの、正義の執行を感じたということだ。そう、それは確かに正義の執行だった。罪人たる真昼の、絶対的な悪の感覚にとっては。

 マラーの目が。

 二つの眼球が。

 真昼を見ている。

 真昼を覆っているものを突き抜けて。

 底の底、精神の根源を見通している。

 ああ。

 マラーが。

 見ている。

 真昼の、最も、醜い感情。

 つまりマラーへの憎悪を。

 優しく。

 優しく。

 見つめている。

 そう、もしも、マラーがその感情を知らないならば。真昼が、どれほどマラーを憎んでいるのか嫌っているのか。真昼の腕に縋りつくマラーに燃えるような瞋恚を覚えていたということ、真昼のことを信じ切った笑顔を向けるマラーに生理的嫌悪感さえ抱いていたということを知らないならば。確かに、マラーが、未だ真昼のことを愛しているということにも説明はつくだろう。そして、実際に、生きていた時のマラーは知らなかった。本当は、真昼がマラーをどう思っているのかということ。その自分勝手で利己的で、あまりにも身勝手な憎悪を知らなかった。

 しかし、今のマラーは、全てを知っていた。全てを知ってしまった上で、なおも、真昼のことをその微笑で見つめていたのだ。マラーは確信していた。マラーは、間違いなく確信していた。今、自分が見つめているこの人が、自分が最も愛するべき人であると。自分が命を懸けてでもその全てを肯定するべき人であると。なぜなら、一度、助けてくれたからだ。この人は一度助けてくれた。それだけで、この人を愛するには十分なことだった。

 ねえ。

 心配しないで。

 悲劇も。

 所詮は。

 人間の。

 ための。

 もの。

 マラーは、そっと、真昼の額に唇を寄せた。そして、一度、たった一度だけ、そこに口づけを落とした。優しく、優しく、この上なく優しく。何もかも知っているよ、でも、大丈夫。それでもあなたは生きるに足る人だから。

 それから、そっと、その額から唇を離す。マラーは笑っていた。あの時と全く同じ顔をして、真昼のためにその身を捧げた時と全く同じ顔をして。欠けるところの一つもない笑顔。穢れ一つない笑顔。この世界の始まりの、最も純粋な生き物の笑顔。つまり、archaic smile。知らない、知らない、憎悪を知らない。ただ愛だけを知っている。真昼に対する愛だけを知っている。

 無限の肯定が、まるで太陽が放射する光のようにして、真昼の内側に流れ込んでくるのを感じる。あなたがいて、幸せだったよ。あなたがいてくれて、幸せだったよ。あなたが、どんな、人間でも。それでも幸せだった。だって、あなたが助けてくれたから。だから、幸せに生きることが出来た。

 それに比べれば、あなたがあなた自身を責めているあなたの裏切りは、本当の本当に些細なことなんだよ。あなたは誰かに助けて欲しかった。でも、誰も助けてくれなかった。あなたはあなたが本当に欲しかったものを与えてくれた。その事実に比べれば、何もかも何もかもどうでもいいこと。

 だから。

 許すよ。

 あなたがしたこと。

 全部、全部、許す。

 真昼は……真昼は……震えながら、両腕を差し上げた。ゆっくりゆっくりと、上に動かしていって。そして、その手のひらで、自分の頬に触れているマラーの手に触れる。右の手で左の手に、左の手で右の手に。それから、そのまま動けなくなる。

 欺瞞だ、欺瞞だよ、そんなの。あたしは、あなたのためにそれをしたわけではないのに。あたしは、ただ、自分のために。それをすることによって、自分自身が間違っていないと証明するためにそれをしただけなのに。ううん、違う。もっと、もっと、それは醜い動機からなされたことだった。つまり、あたしは、間違っているといいたかったのだ。あたしを見捨てた全ての存在が間違っていると叫びたかっただけだったんだ。本当は、あたしは、助けられるべき存在だったと。それを証明して見せるために、怒りと憎しみと、この世界の中心に、その感情をぶちまけるために。そのためだけに、あなたを助けようとした。

 知ってる、知ってるよ。あなたのことは、全部知ってる。でもね、それも、どうでもいいことなの。例え、それが、嘘であっても。それが偽善であっても。あなたは、それでも、助けると言ってくれた。そして、本当に助けてくれた。ねえ、人間が、それ以上に、何を望むというの?

 あたしはあなたを助けなかった。あたしはあなたを助けられなかった! ううん、助けてくれた。あの教会から助け出してくれた。でも、あなたを見捨てた! それはどうでもいいの。あなたと出会ってから……ずっと、ずっと、幸せだった。あの瞬間も、龍王に噛み砕かれたあの瞬間も、幸せだった。それでいい、それで十分なの。ねえ、それ以上に、何を望めばいいというの? もう、それ以上は望まない。あなたは助けると言ってくれた。本当に助けてくれた。そして、幸せだった。それだけで、本当に、必要なことの全部。ねえ、違う?

 あたし、あたし、でも……

 黙って。

 黙って。

 何も考えないで。

 そして、ねえ、あなたも幸せになって。

 だって、あなたには、その権利がある。

 真昼は、歯を食いしばっていた。何かに必死に抗おうとして。でも、何に? 一体何に抗っているの? それが何であったとしても、それに抗う必要なんてあるの? いうまでもなく、そんな必要はない。なぜなら、世界は優しいからだ。世界は善なる場所だからだ。この世界は、本当の本当に幸福になるに値する世界なのだ。だから、何も、抗う必要なんてない。愛で満ちている。真実の愛で。真昼は、真昼は……歯を食いしばることをやめた。そして、まるで、生まれたばかりの赤ん坊が、初めて母親の顔を見た時のような顔をして。その口を開こうとした。最後の最後の言葉を、何か、マラーに向かって、言葉しようとした。

 でも。

 マラーは。

 真昼が何かを言葉する前に。

 その口を、塞ぐようにして。

 こう言う。

「アトゥ、パラヴァーイレイ。」

 大丈夫だよ、大丈夫。何も心配する必要ない。何も言う必要なんてない。だって、何もかも分かっているから。あなたのこと。あなたの優しさも。善も、愛も。それにあなたの背負っている、重い重い荷物のことも。全部全部分かってる。

 だから、あなたも分かって。あなたが許されているということ。あなたはなんの罪も犯していないということ。あなたは幸せになるべきだということ。なぜなら……あなたの目の前にいる、このマラーという少女は、もう幸せなんだから。

 マラーが、そっと、口を寄せる。

 真昼の耳元に、柔らかく近付く。

 微笑む唇。

 慈愛に満ちた唇。

 真昼にこう言う。

「ま、ひ、る。」

 なあに。

 マラー。

「あ、り、が、と、う。」

 ありがとうって言うのはこっちの方だよ。

 またあたしの前に姿を現わしてくれてありがとう。

 あたしに幸せになれっていってくれてありがとう。

 マラー。

 あたし。

 あたし。

 ねえ。

 あたしのこと。

 許してくれて。

 ありがとう。

 真昼は……慈しみと許しと。罪によって損なわれた何かが、少しずつ、少しずつ、恢復していく。誰も罰を与えていないにも関わらず常に罰せられているという感覚から解放される。それは和解だ、精神が回転している。くるくる、くるくると。何かが変わっていく。何かが、根源的に変わっていく。切断が起こり、連続性が更新される。

 katarrassein。マラーが生きたその生と、真昼が生きるであろうその生とが交換される。それが和解だ。真昼はマラーによって和解する。真昼の罪過の責任は、誰も苦しむことなく、誰も痛みを受けることなく、福音の中で消えていく。

 罪を知らない者が死んだ。それで十分なのだ。真昼が何を贖わなければいけなかったのかは、今となっては誰も分からないことだが。それでもそれは十分に贖われた。解けるはずのない氷が解けていく。やがて幸福な春がやってくる。

 マラーが、唇を、真昼の耳元からそっと離した。それから、一度、にっこりと笑った。微笑よりも綺麗で、微笑よりも素敵で、まるで……天使のような笑顔をして笑った。

 ふっと、真昼の頬からマラーの手のひらが離れた。力ない真昼の手のひらは、それを繋ぎ留めておくことは出来なかった。真昼の手のひらは、ゆっくりゆっくりとその位置を下りていって。そして、また、体の両側に垂らされる。

 マラーは、一歩、後ろに下がった。それから、もう一歩。もともといた位置に戻る。すると、その足元には、あのヴェールが落ちていた。マイトレーヤがかぶっていた、あのヴェールが。マラーは、とてもとても優雅で、とてもとても瀟洒で。柔らかい体つきで、そのヴェールを拾った。手のひらにそれを持って……それから、また、真昼の方を見る。

 ああ、マラー、分かった、分かったよ。あたし、間違ってた。あなたの言う通りだった。この世界は善なる場所で、人間は信じられる生き物だった。そして、あたしとあなたの間にあったものは。利己的な偽善じゃなかった。憎悪と、それを理解出来ない愚かさじゃなかった。それは、確かに、愛だった。

 マラーは、真昼に向かって軽く首を揺らして見せる。あのジェスチュアだ。アーガミパータに特有の、首を左右に揺り動かして見せるジェスチュア。肯定、肯定、真昼に対する絶対の肯定。優しく優しく包み込むようなポジティブなジェスチュア。

 その後で、手に持っていたヴェールを、少しずつ、少しずつ、上に向かって引き上げていった。右手と左手と、ヴェールの端を掴んで。頭の上から背中にかけて流れ落ちるように、まるで自分の全身にかぶせるような位置にまで引き上げていった。

 そして。

 それから。

 マラーは。

 ただ。

 愛。

 だけ。

 笑って。

「ま、ひ、る。」

 こう。

 言う。

「さ、よ、な、ら。」

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