第三部パラダイス #26

 世界の真実はあられもなく無邪気だ。つまり、何が言いたいのかといえば、天国が滅びたということは、天国が滅びたということ自体に意味があるわけではない。それがどんなに悲劇であったとしても、悲劇であるということ自体には、実は大した意味はないのだ。世界は、常に、美しくあるべき必要はない。それは美しくあっても美しくなくても大した違いはない。天国は……残念なことに……滅びなくても良かった。確かに、それは滅びる必然性の中で滅びたのではあったが。それでも、別に、それが滅びるということにはなんの意味もなかった。ここで行なわれた全ての破壊に、ここで行なわれた全ての虐殺に、実は、意味はなかった。意味は、ただ、生命の樹だけにあった。

 天国だの。

 天使だの。

 どうでもいい話だ。

 夜の王は、生命の樹を、欲していただけだった。

 そして、その邪魔をした害虫を駆除しただけだ。

 ただそれだけの話だった。

 夜の王は、今、強く賢いものが、強く賢いというだけで、当然のように手に入れるべきものを手に入れようとしていた。そのために、戦利品、トロファイオン、なんと呼んでもいいが、それがある場所に向かって歩いているということだった。

 あの戦場を見下ろしていた場所。遠く遠く見晴るかすことが出来た高台から、戦場を突っ切って、長い長い道のりを歩いていって。あちらこちらに落ちているミヒルル・メルフィスの残骸の上は……真昼にとっては、とても、歩きにくかった。だって、真昼が履いていたのはなんの変哲もないスニーカーなのだ。ミヒルル・メルフィスの甲殻、断片となったそれが、何度も何度も靴底を貫く。一体、この時間で、真昼の足の裏に幾つの傷口が開いただろうか。でも、真昼には、そんなことは気にならなかった。真昼には、そんなことを気にするだけの関心は残っていなかった。真昼は、痛みも、苦しみも、もう切断してしまっていた。

 一体、どれくらい歩いただろうか。あの高台から生命の樹がある場所までは四十エレフキュビト以上の距離があった。一方で、人間が歩く速度は、基本的には時速四エレフキュビト程度であって、ということは、まあ、普通に考えれば十時間以上かかっているはずであったが。少なくとも、真昼の体感時間では、明らかにそんな時間がかかったようには感じなかった。たぶん、デニーが、ところどころで時空を捻じ曲げていたのだろう。まるで読み終わった手紙を折り畳むようにして時空を折り畳み、そして、あちらからこちらまでの距離を縮めていたのだ。そんなわけで真昼が感じた時間はせいぜいが数十分といったところだった。

 気が付いたら。

 すぐ目の前に。

 この天国で起きた。

 全ての破滅の。

 力のよう、な。

 洪水が。

 バシトルー、バシトルー、お姫様。お姫様がいる。この夜の中に。怪物が、たくさん、たくさん、泳いでいる。暗く広い海。強く賢い悪魔。お姫様は、お城の外に出られない、お城の外から出られない。沈み込む、溺れてる、眠りの中で夢を見ている。天国は滅びた。レピュトスは地獄の底に落ちていった。そして、お姫様は……ああ……駄目……サンダルキア。お姫様は、サンダルキアで、楽園で、あたしのことを待っている。

 生命の樹に、近付く、近付く。すると、そこに、まるで手招きするかのような光が見えた。陳腐な表現になってしまうが、何もかも忘れてしまった生き物がその光の内側に回帰する、母親の子宮のように。誕生の柔らかさに満ち溢れた光。それは、このような地獄には似つかわしくない、というか、あり得てはいけないような光であった。

 生命の樹は洪水によって覆われていたのだが。それでも、これほど巨大な力、生命そのものとしての始原の原理を、完全に隔離することは出来なかったらしい。牢獄、監獄、生命の樹を閉じ込めている暗く広い海から、ほんの僅かに流れ出したもの……それが、洪水の周囲に泉を作っていた。つまりライフ・エクエイションの水溜まりだ。

 いや、正確にいうのであれば、この泉は最初からあったものだった。生命の樹が洪水に覆われる前から、この泉は、生命の樹の根元から湧き出していたものだった。ただ、洪水による閉鎖のせいで、その大きさは随分と小さいものになってしまっていたが。

 恐らくは、上空に存在していた「力」。渦巻き、逆巻き、無限に流動し続けていたあの建造物と同じくらいの広さがあったに違いない。つまり、オアシスの五分の一程度の広さがあったということだ。それが、今となっては、たかだか数エレフキュビトの直径でしかなくなっていた。

 と、そういえば……その「力」の方はどうなっていたのだろうか。その「力」は、以前も少し触れたことだが、繁殖階級にとっての研究所のような場所であったわけだが。戦場からは少し離れた場所にあったために、戦闘に巻き込まれてはいなかった。

 ただ、やはり、泉と同じように。洪水による閉鎖の影響をこうむっていた。つまり、あれほど巨大な怒涛であったはずの「力」は、今となってはちょっとしたせせらぎのようになってしまっていたということだ。それでも、数エレフキュビトの大きさはあったが。あれほど力強く脈打っていたエネルギーの見る影もない。

 そして、そのような状況に、更に、更に、追い打ちをかけられていた。先程、悪魔の軍勢について書いた時に、アビサル・ガルーダについて触れていなかったが。実は、アビサル・ガルーダは、この上ないディス・アストラムとなって、その「力」を破壊していたのである。

 翼を開いた大きさが一エレフキュビトを超えてしまうほどの異形となったアビサル・ガルーダにとっては。これほど小さくこれほど弱々しくなってしまった「力」など、ちょっとした遊び道具のようなものに過ぎなかった。子供にとっての、滑り台だとか鉄棒だとか砂場だとか、そんな感じだ。しかも、そのような公園の遊具が、砂糖菓子とスポンジケーキとで出来ているのである。

 アビサル・ガルーダは、掴んでは引きちぎり、引き裂いては握り潰し、押し潰し、食いちぎり、全身でその内側に潜り込んで、内側から粉々に弾き飛ばしていた。「力」は、跡形も残らないほどに、文字通り完膚なきまで破壊されて。そして、断片は、破片は、その下にある泉の中に落ちてきた。落ちてきて、沈み込んで、二度と浮かび上がってはこなかった。

 まあ、とにかく、生命の樹の周囲はそのような有様であった。そして、デニーと真昼とは、泉の岸辺までやってくると。ほとんど干上がりかけた泉、まるで死にかけた老人が、それでも呼吸だけはしているかのように、満ちては引き引いては満ちるその泉に向かって、一歩を踏み出した。

 デニーが。

 真昼を導いて。

 その、聖なる、聖なる。

 泉の上を、歩いていく。

 ああ。

 主よ。

 主よ。

 あたしに命じて。

 この泉を渡らせて下さい。

 この泉の上を歩いて。

 あなたの御許に。

 行かせて下さい。

 深さはあるはずだった。だって、「力」の欠片は底に沈んでいくのだから。それでも、デニーは、あるいはデニーにその手を引かれている真昼は。これもまた月並みな表現になってしまうが、まるで聖書の一ページが鏡の上を滑っていくかのようなやり方で、その泉の表面を踏んで歩いていた。

 何も不思議なことはない。当たり前のことであるが、救世主は全知全能なのだから。全知全能である以上、泉の上を歩くことなど、奇跡と呼ぶにも値しないありふれた行為形式のうちの一つに過ぎない。

 それよりも……泉のあちらこちらに、ぷかりぷかりと浮かんでいるものの方が興味深いだろう。それは、泉とほとんど同じようではあるが、それでも僅かに異なった感覚の光を放つ球体であった。どこが違うのかというのは表現しにくいところがあるのだが、ライフ・エクエイションの光が原鉱石であるとすれば、それを洗練して純度の高い金属にした後で、なんらかの加工を施した製品のような。そのような、ピュリファイングでもありプロセッシングでもあるような何かであった。

 一つ一つの大きさは、ばらばらであった。いや、正確にいえば、同じくらいの大きさのものもあった。例えば、一番多いものは、直径にして二ダブルキュビト程度のものだ。ただ、小さいものでは一ハーフディギト未満のものもあったし、大きいものでは十ダブルキュビトを遥かに超えるものもあった。そして、その球体の中では、何かが脈動していた。

 真昼は、ほとんどなんの興味もない視線を、それらの球体のうちの一つに向けた。一番ありふれた、二ダブルキュビト程度の大きさのものだ。その中で蠢いていた何かに真昼は見覚えがあった。それどころか、よくよく知っていた……それは、祭祀階級のミヒルル・メルフィスであった。

 大きな球体の中で蠢いているのは戦士階級のミヒルル・メルフィスだ。小さな球体の中で蠢いているのは労働階級のミヒルル・メルフィスである。恐らく繁殖階級のミヒルル・メルフィスもいるだろう。つまり、これらの球体は、全てがミヒルル・メルフィスの卵であったということだ。

 デニーと真昼とが歩いている泉は……結界の内部、天国であったはずのこの場所に生きる、全てのミヒルル・メルフィスが誕生するところの生態系の源だったということだ。いや、正確にいうとするならば、この泉と、それから上空で渦巻いていた「力」の建造物と、その二つの関係性が。

 ミヒルル・メルフィスはこのように誕生する。まず、生態系におけるあらゆるRPS(反射型多結晶形成過程性静的均衡)を管理している繁殖階級によって、個体数を増加させるべきフエラ・カスタが厳密に決定される。そうして、増加させることが決まったフエラ・カスタの形相パターンを「力」に入力すると、「力」の流動が、与えられた情報に従って、直接的に生命体としてのミヒルル・メルフィスに変化する。

 こうして誕生したミヒルル・メルフィスは、卵殻に包まれたまま「力」から排出され、その下方に広がっている泉に落下する。この泉は、生命の樹から放出される最も純粋な、最も上質なライフ・エクエイションが溜まって出来たものであって。ミヒルル・メルフィスの卵内未成熟生は、そのライフ・エクエイションを吸収することによって成熟生への移行を遂げるわけだ。そして、その後。卵殻を破り天国に現れた天使は、それぞれの定められたヒエラルキアに従って生存することを開始するのである。

 まあ、そんなわけで、真昼が視線を向けているところの球体の中には、今はもう存在しない天国でその役割を果たす時を、静かに静かに待ち受けている天使達のうちの一人がいたわけなのだが。次の瞬間、その天使の卵は、ぐちゃぐちゃに叩き潰された。

 卵殻はひしゃげ、粉々に砕けて。中にいた祭祀階級は、未だ完全に固定されていない身体、べちゃりと、光を攪拌したクリームの塊のようにして弾け飛んだ。何があったかといえば、アビサル・レギオンのうちの一匹、ヴェケボサンが、手に持っていた屠獅子刀を勢いよく叩きつけたのである。

 当然ながら、未だ生まれていないからといって罪から逃れられるというわけではない。生命とは原罪であり、それは生まれた時から破滅の塊なのだ。洗礼を受けずに死んでいった胎児が救済されないという事実からも、それは明白である。そのようなわけで、ここにいる、未だ生まれていない天使達も。やはり破滅から逃れられるわけではない。天使の子は天使であり、義人の子は義人であり、生まれた時から天国に所属している。

 デニーと真昼と。歩いている二人の、その後ろからついてきた悪魔の軍勢は。泉の上に浮かんでいる卵に。無数の、数え切れないほどの、卵に。一斉に襲い掛かった。一つ一つの卵を叩き潰し薙ぎ払っていくヴェケボサン。卵を次々と食らい飲み込んでいくヒクイジシ。そして、周りにある数十の、数百の、卵を、一斉に焼き払っていくグラディバーン。未成熟の天使は、次々に、どろどろとした光の泥濘だけを残して死んでいく。

 真昼は。

 その光景を見ている。

 全身の、神経系の一つ一つに。

 茨の棘を突き刺されたような。

 そんな感覚を覚えている。

 しかし。

 真昼にとっては。

 既に。

 痛みは痛みではない。

 それはあまりに客観的な表象。

 理解可能性の一つに過ぎない。

 歩いていく、歩いていく。悪魔に屠られた、天使の卵内未成熟生が、粘性を持った光の雨となって真昼に降り注いでいく。正しい、正しい、全てが正しい。正しいものにとって正しいのではなく、真昼にとって正しい。つまり、悪にとって正しい。真昼の身体が動く、その一挙手一投足。少し傾けた視線、指先の他愛もない動き。その全てが、悪の御名のもとに清められていくのを感じている。

 天使には内臓がない。

 天国では。

 あらゆる罪深い行為があり得ず。

 何かを犠牲にして。

 食物とする必要も。

 ないのだから。

 そうして、その後で……アビサル・ガルーダが「力」を破壊している中で……アビサル・レギオンが天使の卵を虐殺している中で……デニーと真昼と、二人は、その場所に辿り着いた。その場所? けれども、ここはどこなのだろう。生命の樹を覆い隠している洪水から二エレフキュビトほどの距離がある場所。生命の樹を手に入れるというには、あまりにも遠く遠く離れ過ぎている場所。

 どうしてデニーはここで止まったのか? もう少し、というか、もっともっと近付いてもいいような気がするが。真昼は、ちらと、デニーに視線を向ける。そういえば、デニーは……一言も喋っていなかった。あの高台からこの場所に至るまで。あのお喋りなデニーがその口を開こうともしなかったのだ。

 何かが。

 おかしい。

 気がした。

 真昼が見た、デニーの顔。半分ほどフードに隠れている横顔。なんだか、奇妙な表情をしている。出来ることならばやりたくないのだが、やらなくてはいけないこと、ずっとずっと後回しにしてきた面倒な仕事の期日が、ついに今日という日にやってきて。今、その仕事を目の前にしているような顔。「んー」と声を出した。それから、デニーは、ようやく口を開く。

 「しなくていいならしたくないんだけど」「あー」「やっぱり、やんなきゃダメだよねー」「でもなー」「でもなー」「デニーちゃん、あーんまり、危ないことしたくないんだよねー」一つ一つ言葉するごとに、右に、左に、首を傾げる。それから、ほへーっと溜め息をつく。長い長い、いかにも溜め息然とした溜め息。その後で、諦めたように呟く「ま、仕方ないかあ」。

 デニーが、あのデナム・フーツが……嫌がっている。これからしなければいけないことを、それをすることを嫌がっている。しかも、ただ面倒だからというだけではなく、それにある程度の危険性が伴うからということで。

 一体、何が起ころうとしているのか? 真昼は、俄かに混乱し始めた。いや、ちょっとした錯乱といってもいいかもしれない。あり得ない、あり得ない、あり得るわけがないはずの何かが起ころうとしている。

 もちろん、デニーにとって、それは決定的に危険というわけではないだろう。デニーが嫌がっているその感じからすれば、ちょっと手を切るかもしれないから包丁を使いたくないとか、ちょっと火傷するかもしれないから火を使いたくないとか、そういう理由で料理を嫌がっている、その程度の感じだ。ただし、とはいえ、そうして嫌がっているのは、デナム・フーツなのだ。けらけらと笑いながら、まるでちょっと散らかったテーブルの上を払うようにして天国の全体を滅ぼした悪魔。欠片の恐怖を感じることもなくミセス・フィストと取引をし、躊躇いもなくカリ・ユガの巣穴に入っていったこの男が。今、ほんの僅かではあるが、自らが傷付くことについての危険性を感じている。

 しかし、しかし……もう、天国は滅びたはずではなかったか? 天使達は、一人残らず、一匹残らず、駆除されて。その未成熟な卵でさえも、今まさに殲滅されようとしている。何が、何が、残っている? やるべき仕事の、何が残っているのだ?

 デニーが。

 ちらと。

 真昼に。

 視線を。

 向ける。

「真昼ちゃん、あのね。これから起こることは、ちょーっとだけ危ないことだから……っていっても、まあ、デニーちゃんにとってはそれほど危ないってわけでもないんだけどね。まー、まー、死んじゃったりとか、跡形もなく消えてなくなっちゃったりとか、それほど危ないってゆーわけじゃなくて、でも、ほら、痛いのとか苦しーのとか、体のどっかが吹っ飛んじゃったり、そーゆーのは、やっぱり、いやいやーって感じだし。んー、まー、そーゆーことかな。と、に、か、く! 危ないから! 何があってもデニーちゃんのゆーとーりにしてね。何があってもデニーちゃんのすることに逆らわないで、デニーちゃんのことを信じててね。」

 そんなこと、言われるまでもないことだった。けれども、だけど、危ないことって何? あんたにとって、危ないことなんてないはずでしょう? あんたは夜の王。あんたはあらゆる邪悪。あんたは救世主。だって、だって、ここは天国で……ねえ、悪は勝つはずでしょう? 正義は敗北するはずでしょう? 正しい連中はみんな死ぬ。ここは現実、現実なんだから。最後の最後に、悪は、いつだって、いつだって、勝利するはずでしょう?

 真昼は、まるで縋りつくようにそのような言葉を口にするところだったが。けれども、そうする機会はなかった。真昼がその口を開く前に、デニーが、コッと、舌を弾いて鳴らしたからだ。その音を、真昼は久しぶりに聞いた気がした。デニーが、何かしらの魔法を発動させるときの合図だ。

 その通り……出来事が起こった。何が起こったのかといえば、生命の樹を覆っていた洪水、全てを洗い流してしまうあの暗く広い海が、くらりと揺すらいだのだ。そして、真昼が今まで聞いたこともないような轟音、どうっというか、ごうっというか、その二つの音を合わせて、数億倍の数億倍、数兆倍の数兆倍、数え切れないほど倍々にしたような音を響かせて。

 生命の樹を覆い隠していた。

 そのアンチ・ライフ・エクエイション、が。

 外側に向かって、凄まじい勢いで爆発した。

 真昼は、顔を覆うことも出来なかった。あまりにも巨大な爆発音が、真昼の頭蓋骨の中にある思考力の全てを、一時的に吹き飛ばしてしまったからだ。真昼は、ただただ呆然としたままで、それを見つめていることしか出来なかった。アンチ・ライフ・エクエイション、見通せぬ地の根底から見果てぬ空の彼方まで、その流れの全てが弾け飛ぶ光景を。

 そして、それと共に、いと高く輝かしい栄光が天国の残骸を照らし出した。あたかも、洪水さえも押し流す洪水のようにして。デニーのオルタナティヴ・ファクトを満たしていた死の感覚を、どこまでも沈み込んでいくような暗黒を消し去っていく。遍く、遍く、この場所を照らし出す。天使達の残骸の欠片さえも残さずに照らし出す。

 いうまでもなく、それは生命の樹だった。生命の樹が再びこの場所に姿を現わしたのだった。断絶、罅割、この世界に開いた決定的な裂け目。それは空間的大きさではなく、それは時間的長さではなく、それは感覚によって捉えられるあらゆる眩さと異なっている。それは、世界の向こう側、beyondからやってくるところの……ジュノス、そう、ジュノスの光だ。

 デニーによって生命の樹から引き剥がされたアンチ・ライフ・エクエイションは、こちらに向かって降り注ぐこともなく、ゲッセマネの太陽が照らし出す中で蒸発して消えていく。それは、まるで、何か……サンダルキアを押し流したあの洪水の後で、天上の全てを覆い尽くしたというヨグ=ソトホースの虹のような光景であって。生命の栄光を反転したような、禍々しい色の雨粒は、消えて、消えて、消えていって。

 やがて。

 デニーと真昼と。

 二人の目の前に。

 S。

 E。

 C。

 O。

 N。

 D。

 C。

 O。

 M。

 I。

 N。

 G。

 何ものにも覆われていない。

 生命の樹、が。

 姿を現わした。

 未だ、これほど離れているにも拘わらず。あたかも距離などというものは関係ないかのようにして、それは、再び真昼の生命に緊迫していた。そもそも生命の樹は一つ一つの生命と離れているわけではない。それはdistanceという言葉によって表わされる遠隔性、いや、もっと直截的にいってしまえば多様性のようなものとは全く関係ないものだ。最も根源的なものはdistanceではあり得ない。なぜなら、それは、あらゆるものとしてその通りに満たされているからだ。

 皮膚を剥ぎ取られ、そのまま海の中に突き落とされたような感覚。真昼の表面を覆っている無機質な皮膜をめくってみれば、その内側には、ふるふると揺れる、べったりとしたゼリー状の粘液が現われる。そして、その粘液が、した、した、と。海の中に落ちていくのだ。真昼自身が真昼と呼んでいたはずの、閉じ込められた過程の一部は、海と混ざり合って溶け合って……やがて光になる。今、真昼が目の前にしているところの光。真昼は客観と主観とを架橋する光になる。

 ただ。

 それでも。

 真昼、は。

 そうなった状態において、そのままそれとしてそれであり続けることは出来なかった。そうであることは、ある意味では一つの解決なのだろう。ただし、それは真昼の解決ではない。もっとはっきりといってしまえば、生命そのものと一体化した幸福な光であることは、真昼の運命ではない。

 なぜなら、真昼は、真昼の右手は、デニーによって結索されていたからだ。真昼の全体は一つの錨によって繋ぎ止められている。あまりにも力強く、あまりにも賢明で、そして、あまりにも絶対的な錨。真昼のことを包み込み、それ自体として疎隔している。疎隔そのものからさえも疎隔している。

 口づけは、こちらから奪うものか? それとも、向こう側から与えられるものか? 抱き締められている時が一番幸福だ。触れ合っているということが、世界を肯定する。もちろん、真昼は突き放されている。決して受け入れられず、何一つ受け取ることも出来ない。光と一つになるのではなく、闇の中でただ一人浮かんでいる。ただ、それでも、闇は優しい。闇は、少なくとも、真昼を裏切ることはない。闇は、絶対に、邪悪であり続ける。

 だから。

 真昼は。

 必然的に。

 この生命の樹から。

 何もかも。

 強奪しようと。

 しているのだ。

 と、まあ、そのようにして、デニーと真昼とは、今、まさに、生命の樹を目の前にしているというわけだ。あまりにもあまりにも、大きさという概念から逸脱して巨大であるがゆえに、これほど離れた距離から見上げても、なお見渡し尽くすことが出来ないほどの巨大な剥き出しのエネルギー。

 真昼からすれば、後は、これを簒奪者の態度によって手に入れればいいというだけの話なのだが。なぜかデニーは、そこから、生命の樹からこれだけ離れた地点から、一歩も動こうとはしなかった。何かを、何かを待ち受けているのだ。しかも、恐ろしいほど洗練された、慇懃の態度によって。

 確かに、デニーは、いつもと何も変わるところはなかった。にぱにぱというか、へらへらというか、非常にリラックスした笑顔を浮かべたままで生命の樹を見上げているだけだ。デニーは、何も恐れていないし、何も不安に思っていないし、緊張の欠片も感じさせない。ただ……世界が張り詰めていた。今までにないほど、この世界の全てが張り詰めていた。希言が、洋々乎として満ちている。真昼の耳元で絶叫し、恫喝している。

 そもそも、この沈黙だった。真昼には分かっていた、この沈黙がいけないのだ。天国が滅びるまでは、生命の樹は天使達の歌声で満ちていた。ミヒルル・メルフィスの「音楽」によって讃嘆され、歓喜され、そして何よりも……鎮められていた。それは、鎮静された状態にあったのだ。だが、今となっては、その「音楽」はもう存在しない。

 今、それは自由だった。ミヒルル・メルフィスが鎖し、塞ぎ、閉じ込めていたもの。それを繋ぎ止める鎖はなく、それを抑え込むための鉄格子もない。それを眠らせる子守歌は、もう聞こえない。それは、解放されたのだ。今、完全に、解放されたのだ。だから、それは、現われる。だから、それは、その裂け目から、こちらの世界へと移動してくる。

 封印は解かれた。

 災いだ。

 災いだ。

 地獄の底で蠢く罪びとは災いだ。

 今。

 まさに。

 御使いが。

 この世の。

 邪悪を。

 裁こうと。

 している。

 ああ!

 罪びとよ!

 見よ!

 見よ!

 御使いが!

 今!

 その姿を!

 現わす!

 「あっ……!」と、真昼は声を上げた。声を上げるつもりがあったわけではない。それを見た瞬間に、真昼の生命境界の内側に残されていた生命の残響のようなもの。既に死んでしまった真昼の、それでも未だ失われずに消え残っている、生きていたということの記憶のようなものが、軋み、歪み、悲鳴を上げたのだ。

 真昼は既に呼吸をしていないが、もしも呼吸をしていたらそれが止まっていただろう。真昼の心臓は既に脈打つことをやめているが、もしも脈打っていたらそれが止まっていただろう。真昼が真昼としてあることの組み立てられた論理、つまり魄の構造が、あまりの衝撃で絶叫する。もしもデニーによって手が加えられていなければ、それは破綻していただろう。

 それは。

 端的にいって。

 この世界の。

 最悪の部分。

 あらゆる、失われた悪夢。

 あらゆる、失われた悲劇。

 創造されてはいけなかったはずの。

 創造された瞬間に。

 そのあまりの凄惨さによって。

 そのあまりの醜悪さによって。

 そのあまりの汚穢さによって。

 この世界から失われたはずの。

 全ての、被造物。

 それが姿を現わした。生命の樹を、あたかも一つの導管のように通って、こちらの世界に顕現したのだ。それは、デニーと真昼とが見上げる生命の樹の、その中ほど辺り。ぽっかりと、こちらの世界を、侵食した。

 それは……いや、それは「それ」ではなかった。「それら」だった。違う、そうでもない。そうでさえない。それは「それ」であり「それら」であるもの。「それ」でも「それら」でもない、不定形の何かだった。

 数えるという行為を超越した数。数量的な観念で捉えることが出来ない、無数でありながら虚無であり、確率的に定まっておらず、かといって決定から導き出されるわけでもない、極めて例外的な数量。それが秩序の内部を規定しないという意味では、例外でさえ、外部性を有する否定集合でさえない数量。そのような数量としての、それでも無数の、数え切れないほどの、何かが集まり、溶け合い、混ざり合い、それでいてその全てが絶対的な孤独の中で絶叫している、それはそのような何かだった。

 それでは、何が集まっているのか? それを形作っているのは一体何なのか? 無数の……あり得てはいけなかったはずのもの。作られるべきではなかったから作られなかったもの。そのようなものが、継ぎ接ぎとなってそれを形作っている。

 つまり、この世界は無数にある世界の中でも最善の世界だ。かくあるべくしてかくある世界だ。けれども、いうまでもなく、それ以外の形で世界はあり得た。このような設計図以外にも、肉を纏い血を纏い骨を纏い、一つの世界となるべき設計図はあり得た。それでは、なぜその世界はそのように現実化しなかったのか? いうまでもなく、それはdead letterだったからだ。それは創造に対して宛てられたいわば「生の告知」であったはずなのだが。それでもそれは死んだのだ。律法に対して死んだのだ。そして、死者の中から生き返らなかったのである。

 創造されなかったあらゆる世界。創造されたが、それがそうあるべきではなかったために消え去った世界。口に出すことさえ許されないような醜い欲望はどこに消えていくのか。目覚めた後、あまりにも恐怖を感じたために、忘れようとして忘れようとして、必死で頭の中から拭い去った悪夢はどこに消えていくのか。この世界が生まれ出るために、犠牲として捧げられたあらゆる反創造。嘆きの悲鳴、苦痛の絶叫、呪詛、呪詛、呪われるべき全ての創造。それらの、無数の絶望が、今、まさに今、デニーと真昼と、二人の目の前に一つとなって表われたのだ。

 つまり。

 その。

 何かの。

 名前は。

「わあ……ゾクラ=アゼルだよ、真昼ちゃん。」

 デニーが、それを見上げたままで呟くようにそう言った。その声は、まるで、子供が、初めて覚えた言葉を、その言葉が指示する対象を見つめながら何度も何度も繰り返すかのように。非常に子供らしい好奇心、きらきらとして興味深そうな響きによって声となった声であった。

 一方の真昼はというと、そんなデニーの呼びかけに答えられるような状態ではなかった。あの掠れたような声を出した後、まるで全身が……今更、死後硬直し始めたとでもいうように。全く、少しも、動かなくなってしまっていたのだ。真昼は、心臓も肺臓も動かす必要がなかったわけであって。文字通り、完全な静止状態に陥ってしまっていた。

 ゾクラ=アゼルと呼ばれたそれは、ゆっくりゆっくりとこちら側に姿を現わしてきていた。その見た目の形状をいうとすれば、なんというか、それは、沸騰する恒星であった。物凄いエネルギーによって、その全体から、無限に、永遠に。ぼこりぼこりとあぶくを吐き出している。いや、そのあぶくの集合体がゾクラ=アゼルだといってもいいかもしれない。

 姿を現わしたその部分は、恐らく、全体からすればほんの僅かな一部分に過ぎないだろう。例えるとするならば、信じられないほど長い長い体を持つ蛇の、その頭が見えているだけに過ぎない、そんな程度に違いない。

 それでも、生命の樹の周囲、浮かんでいるアビサル・ガルーダがほんの若鳥にしか見えなくなってしまうような、それほどの大きさがあった。いや、その具体的な大きさというのは……ひょっとして、生命の樹と同じように、それは大きさでは測れないものなのかもしれなかった。人間が理解出来るような時間軸・空間軸に縛られているわけではないのだ。

 そのような。

 何か。

 無から作られた無のようなものを。

 真昼は。

 見上げて。

 いたのだ。

 が。

 肉体も、精神も、その境界を作り出している幽霊のような生命の構造さえも、凍り付いてしまったかのように動かない真昼。それでも、何か……そのような戦慄の奥底で……引っ掛かるものがあった。真昼は、ゾクラ=アゼルと呼ばれたそれを、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。

 だが、しかし……これほどまでに許されてはいけないもの。あらゆる願いが、あらゆる望みが、打ち砕かれた後に残される蒼褪めたもの。そのようなものを、真昼は、どこで見たことがあるのだろうか。これほどまでにabominableなものを、一体、いつ見たことがあるというのだろうか。

 abominable? そうだ。それがキーワードだった。それを、真昼は、随分とここから近い場所で、しかも、ごくごく最近見た気がする。具体的には、そう、あの高台で今日。真昼は見た、杖を、祭祀階級のミヒルル・メルフィスが、武器として使っていた杖を。ゾクラ=アゼルは、その杖に似ていたのだ。

 もちろん、その規模において、測定不可能なそのサイズ感覚において、二つはまるで違うものだった。とはいえ、例えば……ゾクラ=アゼルが一つの燃え盛る恒星であるとするのであれば、あの杖は、間違いなく一本のマッチの消えかけた火のようなものだった。つまり、どちらも同じ炎としてのエネルギーだということ。

 実は、これは真昼が知らないことであって、今後ともこの物語の登場人物によって触れられることがない事実であるが。確かに、真昼のこの直感は間違っていなかった。あの杖は、ゾクラ=アゼルと同じ原理によって形作られていたのだ。

 あの杖は、繁殖階級によって行なわれたゾクラ=アゼルに関する研究の結果として理解されたところの、ゾクラ=アゼルの本質、反創造、生命に対する敵対者、反抗する者、反乱する者、反逆する者、生命を破滅させようとする何か……つまり、「死者」としての本質、を、個々のミヒルル・メルフィスであっても武器として使用出来るように調整したものだったのだ。

 「死者」。

 ああ、ゾクラ=アゼルをいい表わすのに。

 これほど相応しい言葉が、あるだろうか。

 ゾクラ=アゼル。それは生命の寄生虫。ジュノスの内側に巣食い、その生命力を貪ることによってしか現実化したその状態を保つことが出来ない絶望の創造力。

 生命の樹がある場所には、必ずゾクラ=アゼルがいる。ジュノスから……こちら側に生まれ落ちようとしているのだ。そして、生命に、復讐しようとしている。

 ぐぷり、ごぼごぼ、浮かび上がっては破裂し、破裂しては浮かび上がってくる、それらのあぶくは。あの杖を形作っていたあぶくがそうであったように、決して像を結ぶことがない像としてこの世界に現われていた。それらの一つ一つの像は……その全てが、「創造されたものの中で最悪の創造」だった。それらの一つ一つは、この世界から消えてなくなることだけを希望されるところの絶望。生まれてはいけなかった胎児、誰からも望まれずに堕胎されていった胎児であった。

 像は、像は、生命だった。だが、「死者」としての生命だ。生まれたかった、けれども生まれることが出来なかった。なぜなら、それは、不幸な生命だったからだ。生まれ落ちない方がいい生命だったからだ。苦しみを増すためだけの進化、痛みしか味わうことのない生態系。現実に生まれていれば、必ず、必ず、この世界を呪いながら自ら命を絶ったであろう生命。ゾクラ=アゼルを構成している一つ一つのあぶくはそのような生命だった。いや、そのような「死者」だった。

 そう。

 それは。 

 呪詛だ。

 この世界、幸福な世界。

 生まれることが出来た世界に対する。

 最悪の潜勢力からの、呪詛、なのだ。

 「デナム・フーツ……あたし、あたし……」真昼は、知らず知らずのうちに自分の口が動いていることに気が付いた。真昼は、デニーの左半身にしがみ付いて。ただただ震えていた、気が触れたように震えていた。恐怖、というような生易しい感情ではなかった。それは、例えば、戦慄。あるいは、もう少し正確にいうのであれば、拒否。生命の根源、疎隔性という原理が、原理的にそれを受け入れられないのだ。震える、震える、止められない。真昼は、自分の顔を、デニーの左肩に押し付ける。そうして、感覚を隠す、顔を隠す、それに顔を向けないように。真昼の口は、真昼の意思とは全く関係なく、また言葉する「あたし……嫌……あれが、あれが……あたし、嫌……」。

 アーガミパータにやってきてから、今というこの時まで、幾つもの虐殺を、幾つもの破壊を、普通の人間が見れば一瞬で破滅してしまうような光景さえもその目にしてきた真昼が。初めてだった、初めて子供のように怯えていた。知性も、理性も、体裁も、人間としての最低限の尊厳さえもかなぐり捨てて、ただただデニーに縋っていた。

 デニーは、そんな真昼の頭を、優しく優しく撫でながら。子供にいい聞かせる親のような口調で「大丈夫、大丈夫」と言う。「真昼ちゃんは、なーんにも心配することはないんだよ。全部、全部、デニーちゃんに任せて。デニーちゃんのゆーとーりにしてれば、なんにも、なーんにも怖いことはないよ」。その後……軽く首を傾げてから、こう付け加える「んー、たぶんね」。

 と。

 ゾクラ=アゼルが。

 何か。

 何か。

 を。

 始める。

 その時には、ゾクラ=アゼルは、ずるずると、ずるずると、長い長いその全身の、それなりの部分を生命の樹から這い出していた。なんというか、その姿は……蛇だった。間違いなく蛇だった。あまりにも、あまりにも、絶大な蛇の姿であった。

 未だ全身が表われているわけではないが、長く伸びたその身体は生命の樹に巻き付いていた。そう、巻き付いていたのだ、大きさだとかなんだとか、そういう概念的な表象を超越した生命の樹。その幹、何周も何周も巻き付いて螺旋を描いていた。遥か、上。から、ぐるぐると。こちらに向かって、地獄の底に向かって、這い下りてきていた。

 だんだんと、だんだんと、その先端はこちらに近付いてきているのだが……なんというか、ゾクラ=アゼルの、生命の樹から見えている部分。生命の樹を締め付けている胴体が、奇妙で不気味な動きを見せていた。蠢いていた、蠢動していた。ぐじゅぐじゅと、痙攣するかのように崩れ始めていた。あぶくが、あぶくが、凄まじい勢いで膨れ上がる。

 で。

 それが。

 弾け。

 飛ぶ。

 ゾクラ=アゼルの身体の、あちらこちらが。まるで腐り果てた蛇の死骸が、内側に溜まった有毒な気体のせいで爆発し、そして、身に纏っていた鱗をそこら中に撒き散らしたかのようにして。あまりにも凄まじい沸騰の果てに、あぶくを、あぶくを、あぶくを、飛散散乱させたのだ。

 蒼褪めた「死者」の塊が全地のおもてに降り注ぐ。あちらにこちらに呪いの産声を上げる胎児が墜落する。そして、そのようにして落ちて、落ちて、落ちたあぶくは……アビサル・レギオンに襲い掛かる。

 主はいたるところにお見えになる。主の御手は天国のあらゆるところに生命の恵みを与え給う。そのように告げられた福音の、最悪のパロディ。ゾクラ=アゼルは地獄のそこら中に死の呪いをばらまいた。

 あぶくは、例えば、歩兵であるところのヴェケボサンの上に落ちてきた。そして、ヴェケボサンの全体を包み込むと、その内側に満ち満ちていた反生命の力を貪り食った。あるいは、大地に降り注いだあぶくが、寄り集まって、一つの巨大な集合体となって。そして、ヒクイジシに乗ったヴェケボサンを丸呑みにする。グラディバーンに乗ったヴェケボサンも、やはりそのような攻撃から逃れることは出来なかった。あらゆる方向から砲弾のように襲い掛かるあぶくによって、あっという間に食い尽くされる。

 ゾクラ=アゼルにとっては生命も反生命も関係ないのだ。エドマンド・カーターによるカバラーにおいて、生命が枝、反生命が根、結局それはジュノスという一本の大樹であるに過ぎないように。ゾクラ=アゼルも、やはり生命であり反生命でもある一匹の怪物なのである。ゾクラ=アゼルはあらゆる種類の生命を貪ることが出来る。ゾクラ=アゼルは生命そのものにとっての、逃れることが出来ない捕食者なのだ。

 大きな恐ろしい暗闇が地に満ちた。主のところから、すなわち天から、硫黄と火とが降り注いだ。その怒りによって悪魔が焼き尽くされた。その怒りによって獅子が焼き尽くされた。その怒りによって飛龍が焼き尽くされた。無数の顔が羽とともに舞い降りてきた。全ての顔が、焼き尽くされた肉を飽きるまで食べた。死んでいた者が、大いなる獣の刻印とともに起き上がるのを見た。数々の書物が開かれた。数々の書物が声を上げて読み上げられた。そして、それらは全て死の書物であった。

 つまり……アビサル・レギオンは、ヴェケボサンも、ヒクイジシも、グラディバーンも。一人残さず、一匹残さず、ゾクラ=アゼルの餌食となったということだ。そのあぶくから、なんとかして逃れようとのたうち回る。けれども、その行為は完全に無意味だ。ずるり、ずるり、と、少しずつ少しずつ消化されていく。ただただ「死者」に取り込まれていくことしか出来ない。あちらから、こちらから、凄まじい絶叫が聞こえてくる。生きながらにして生命の根源的なエネルギーを抉り取られる苦痛。それは、あらゆる生命にとって、決して耐えることが出来ないほどの苦痛であった。

 それから。

 それから。

 もちろん。

 そのようなあぶくは。

 デニーと真昼と。

 その二人、にも。

 襲い掛かる。

 それどころか……ゾクラ=アゼルは、どうやらデニーという生き物がどれだけ強く賢い生き物であるのかということを、欠けるところのない精度によって理解しているようだった。このような可愛らしい子供の外見の内側に封じられ、無理やり閉じ込められている夜の王の姿を、完全に見抜いているらしい。他の悪魔達、アビサル・レギオンに向かって投げつけられたあぶくよりも遥かに大量に。比べ物にならないほどの量のあぶくが、デニーと真昼と、というよりも、デニーに向かって驟雨する。

 とはいえ、その攻撃は、繊細さには欠けるものだった。そして、デニーのような生き物をそのような粗暴で野蛮な攻撃によって把捉出来るはずもないのだ。

 デニーは、左半身にしがみ付いていた真昼の身体、左腕でぎゅぎゅーっと抱き締めると。とてもとても愉快そうに「ら、せ、ん」と呟いた。すると、その次の瞬間に。ずどうっ!というような凄まじい音を立てて、デニーと真昼とが立っている場所の周囲、二筋の噴水が上がった。

 いや、水ではない。アンチ・ライフ・エクエイションだ。いつの間にやら……恐らくは、オルタナティヴ・ファクトによる現実浸食を受けたのだろう。デニーと真昼と、二人の足元にひたひたと水溜まりを作っていたライフ・エクエイションは、アンチ・ライフ・エクエイションと入れ替わっていたのだ。

 そのアンチ・ライフ・エクエイションが。デニーと真昼とが立っている場所の、右側に一ダブルキュビトほど離れた地点、左側に一ダブルキュビトほど離れた地点。二つの地点から、まさに怒涛のごとき水柱となって噴き上がったのだ。そして、二本の柱は……デニーに命じられた通り螺旋を描き始める。

 一本一本の螺旋の、断面の直径は真昼の胴体と同じくらいだろうか。ぐるぐると回転して、二重の螺旋を描きながら上へ上へと迸っていく。それから……そのような螺旋が防壁を形作り、突撃してきたあぶく、あぶく、あぶくを阻んだのだった。つまりどういうことかといえば、あぶくは、螺旋となったアンチ・ライフ・エクエイションに激突すると。そのアンチ・ライフ・エクエイションに寄生して反生命の力を吸収し始めたのだ。

 まずは、その進路を阻むこの防壁をなんとかしなければ、ゾクラ=アゼルはその奥にいる二人に攻撃を到達させることが出来ないようだ。そして、そのために一瞬の隙が発生する。デニーが欲していたのはこの瞬間であった。

 デニーは、泉、まるでガラス張りの一面のように忠実なアンチ・ライフ・エクエイションの水面を蹴り飛ばすと。とんっという感じ、音もなく、軽やかに、密やかに、しなやかに、上に向かって跳んだ。いかにも軽々しく宙を舞う、真昼のことを、まるで小脇に抱えるようにして抱き締めたままで。二重の螺旋、まずは右側のあちらを、次に左側のこちらを、次々と踏んでいく。とんっとんっとんっとんっと、大股に階段を上がっていくかのようにやすやすとした態度。どんどんと、上へ、上へ、のぼっていく。

 その間にも、ゾクラ=アゼルは次々と追撃を放ってきていた。ぐねろぐねろと蠕動するゾクラ=アゼルの胴体、そして、暴れ狂うように沸き立つあぶくが弾け飛ぶ。一つ、二つ、三つ、それから先はたくさん。城壁を破壊するために放たれた砲弾のごとき有様によって、あぶくの大群は次から次へと二重螺旋に激突して……がじり、がじり、がじり、その柱を食い破ろうとする。

 デニーが、上へ上へと駆け上がっていくにつれて。謹厳至極にその進路をなぞるようにして、螺旋と螺旋とが作り出す格子の向こう側、砲弾が、砲弾が、砲弾が激突する。ただ、それらの全ての攻撃はほとんど無意味だ、なぜというに、この二重螺旋は、固定された一つの実体であるというわけではなく、流れ流れていく過程に過ぎないからである。つまり、これは奔流なのだ。どれだけ、あぶくが、がりがりと食いちぎろうとしたところで。アンチ・ライフ・エクエイションは、今では眼下遥か下の方に遠のいてしまったあの泉からどんどんと流れてくるのだ。

 ただ、とはいえ、だからといってどうということはない。確かに、デニーは、現段階では上へ上へと逃走を続けることが出来ているが。それだけであって、例えばゾクラ=アゼルに対して何かしらのダメージを与えられているとかそういうことではない。いつまでもいつまでも、それこそ永遠に逃げ続けることなど出来ない以上は、この状況からの何かしらの進展がなければいけない。いい換えれば……なぜ、デニーは、上へ上へと向かっているのか? その目的とは何か?

 いうまでもなく、デニーが、なんらの目的もなく行動をすることなどあり得ないのであって。この行動には理由があるのだ、それをするべき理由が。デニーは、上に向かう。それは、上に何かがあるからだ。その何かとは何か? 生命の樹の上層には、「力」が渦巻いていた。そして、その「力」を破壊していたのは……そう、アビサル・ガルーダだ。

 アビサル・ガルーダは、「力」を破壊し終わっていた。というか、まあ、「力」は生命の樹を覆い隠していたアンチ・ライフ・エクエイションの爆発とともに雲散霧消してしまっていたのだが。とにかく、アビサル・ガルーダは、その場所で待機していた。

 アビサル・ガルーダは、生きていた時には王レベルの力を有していた生き物だ。本気を出したデニー、全力を出したデニーと同じほどとはいえなくても。それでも、アビサル・レギオンを構成していた死せる生き物達、はぐれヴェケボサンだのヒクイジシだのグラディバーンだの、ちょっとした盗賊団とは比べ物にならないくらい力強い生き物だ。

 それゆえに、ゾクラ=アゼルが放ったあぶくによって倒されてはいなかった。アビサル・ガルーダを狙って特に集中的に放たれたあぶく……手に持ったヴァジュラによって、貪婪さを剥き出しにして襲い掛かってくる砲弾を、薙いで、貫いて、払い飛ばして、切り裂いて、叩き返して。無傷とはいわないまでも致命傷を負うことはないままでいた。

 ただ、とはいえ。そのようなアビサル・ガルーダであったとしても、ゾクラ=アゼル本体との戦闘を行なって、その戦闘に勝利出来るかどうかというと、なんというか、少しばかり難しいように思われた。ゾクラ=アゼルの分裂体、あぶくとの戦闘であっても。アビサル・ガルーダはそれなりのダメージを受けていた。数匹のあぶくがアビサル・ガルーダの身体に食らいついて、ヴァジュラによって叩き落とされるまでに、その反生命の力を貪欲に飲み込んでしまっていた。アビサル・ガルーダの身体、あちらこちらが、まるで蒼褪めたように変色してしまっているのがその証拠だ。

 また、それ以前の話として。これほどの「生命的現実感」の差をどうやって埋めればいいというのだろうか。少し前に書いた通り、ゾクラ=アゼルの巨大な「生命的現実感」と比較してみれば。アビサル・ガルーダは、まるで、ようやく飛ぶことを覚えた若鳥といった程度の大きさである。この大きさは当然ながら物理的・妖理的な意味での大きさではなく、つまりは生命境界内部に内包されているところの純粋な力の差異である。これほどの力の差がある以上、アビサル・ガルーダには勝ち目はないように思われる。

 そして。

 自明の理。

 無論の実。

 デニー、は。

 そのことを。

 理解している。

 デニーと、抱きかかえられた真昼と、とうとう二重螺旋の頂上まで辿り着いた。というか、二重螺旋の伸び上がっていく勢いに二人が追いついたという表現をした方が正しいのだろうが。なんにせよ、デニーの右足、ふわりと、あたかも柔らかい羽根がそっと針の上を撫でるみたいにして。怒涛の、水柱の、一番上のところに、そのローファーがトウを立てた。

 デニーは、くっと上方に視線を向ける。そこに待ち構えているのはアビサル・ガルーダ。デニーによる無言の命令に命じられるがままにして、大きな大きな口を開いたままでそこで待機している。デニーは笑う、いつものように、いつのものように、にーっと、可愛らしい笑顔によって。

 デニーは、くうっと膝を曲げると……ひときわ高く飛んだ。まだまだ怒涛のように迸るアンチ・ライフ・エクエイションの、その勢いさえも借りるようにして。高く高く、アビサル・ガルーダが待機する方向に向かって飛んだのだ。

 それから、デニーは……抱いていた真昼の体を、ぱっと離した。あまりにいきなりのことで、真昼は「はっ!?」と叫び声を上げてしまう。ただ、まあ、心配する必要はなかった。「な……ちょ……」とかなんとかいいながら一瞬だけ落下しかけた真昼の、その右手。デニーは、いかにも調子いい感じで、ぱしっと掴んだ。デニーの右手と真昼の右手と、しっかりと掴み合う形になる。

 その状態のまま……デニーは、小鳥と戯れる子猫のような態度によって、ぐるんと回転した。どういうことかといえば、自分の身体に通っている中心軸を中心として、まるで独楽か何かみたいにして回転したということだ。もちろん、その最も外周にあるのは、真昼の右手を握っているところの右手であって。真昼の体は、その回転に合わせて、凄まじい勢いでぶん回されてしまう。

 遠心力だ、馬鹿みたいに。真昼の体は、デニーの真下にいたその状態から、ちょうどデニーの真上まで引っ張り上げられる。そして、そのまま、デニーは、また、その手を離した。真昼の体はデニーから離れて、離れて、離れて。明らかにデニーの手が届かないところにいってしまう。今度はもうどうしようもなかった、真昼は、蓄えられたセントリフューガルなフォースに従って、ぶっ飛ばされた方向に飛んでいくしかない。「がああああああああああああっ!」という感じ、お嬢様らしさの欠片もない悲鳴を上げながら、すげえ勢いでぶっ飛んでいく真昼。

 「だいじょーぶだよ、真昼ちゃん!」「ぜーんぶ、ぜーんぶ、デニーちゃんに任せて!」「ちょーっとだけ、待っててね!」というデニーの声が聞こえるが、真昼の経験上、デニーに任せてちょっとだけ待っていると大抵ろくな結果にならないのである。ただ、まあ、どうにかしようとしても、この状況ではどうしようもない。つまり、このように吹っ飛んでいるような状況では。

 飛んで。

 飛んで。

 飛んでいく真昼。

 そうして。

 その後で。

 真昼の体は。

 すぽんっと。

 何か。

 穴に。

 ジャスト。

 シュート。

 真昼は、自分に何が起こったのか分からなかった。本当に、何が何だかさっぱり分からなかった。自分の全体が、よく分からない、真っ暗な穴の中に落ちてしまったのである。けれども、とはいえ、真昼は、その直前まで飛んでいたのである。落下していたのではなく上昇していたのだ。それなのに、どうやって落ちるというのか? 空中に下向きの穴が開いていて、そこにすぽり込んでしまったとでもいうのか?

 その通りだった。ただし、それは、ただの穴というわけではなく……つまり、アビサル・ガルーダの口だった。真昼は、デニーによって、アビサル・ガルーダの口に放り込まれたのである。真昼は、なんだかよく分からないままにアビサル・ガルーダの口腔内に落っこちて。べろりんと舌に巻き取られて。アビサル・ガルーダは、ぱっくりこんとその口を閉じた。情け容赦もなくごくんと飲みくだされ、そのまま食道を通って胃袋に落ち込んでしまった真昼。ただ、幸いなことに、アビサル・ガルーダは既にお亡くなりになっていたので、その消化器官は働いていなかった。要するに、真昼は胃液によって溶かされることもなく、その胃袋の中に閉じ込められたのだということである。

 さて。

 デニーは。

 なんで。

 こんな。

 ことを。

 したのか?

 真昼を飲み込んだアビサル・ガルーダは、次の瞬間には、一気に飛翔していた。それは既に、上昇というよりも、戦闘機の射出のようなものに近かった。銃口を上に向けて、拳銃の引き金を引いて、そうして発射される弾丸の勢いだ。

 その時点で、かなり上空にいたのであるが。更に上へ上へ、この闇の世界を照らし出す太陽、ゲッセマネの牢獄がある、そのほとんど間近といってもいいほどの高さまで上がっていく。そして、そこまで来ると……ようやく停止した。

 要するに、どういうことかといえば。アビサル・ガルーダは(一応は)安全な場所まで退避したということである。現時点ではゾクラ=アゼルの攻撃が届きにくい場所まで、というか、もっとはっきりといってしまえば、今から起こるであろう戦闘に巻き込まれる心配がない場所まで。

 要するに、デニーが何をしたかったのかといえば。ゾクラ=アゼルを相手にして、生命の樹を懸けた最後の闘争を行なうにあたって、正直足手纏いでしかない真昼をなんとかしたかったということである。

 戦場となるはずの場所からこれだけ離れていれば、まあ流れ弾が当たる心配もないだろうし。もしも万が一そこまで流れ弾が到達したとしても、アビサル・ガルーダの体内にいればある程度の防御になる。

 そう、アビサル・ガルーダに与えられた役割とは、ゾクラ=アゼルを倒すことではなく真昼のお守りだったのだ。ゾクラ=アゼルのように強力な「何か」が相手では、アビサル・レギオンはクソの役にも立たない。アビサル・ガルーダにも、やはり任せられない。デニーが、まさにデニー本人が相手にしなければならないのである。ただ……そのデニーは、今、完全ではない。その力の一部が、というか大部分が、使用不可能の状態にある。そんな状態で、一体どうすればこの戦いに勝利することが出来るというのか。

 と。

 それを。

 見て。

 いく。

 前に。

 ゲッセマネの牢獄の真下辺りでふわりと羽を止めて、その場に浮かんだまま静止したアビサル・ガルーダは。剣を鞘に納めるかのような例の作法によって、背中に開いた傷口にヴァジュラの刃を納めると。それから、そうして自由になった両手を、自分の腹の辺りに差し向ける。

 アンチ・ライフ・エクエイションに覆われた両手。第二趾から第四趾までと、そこから少し離れたところに生えている第一趾。それぞれの先端、どろどろとした暗黒が流れ落ちる鉤爪を……ずぶり、と。アビサル・ガルーダは、自らの腹に突き立てた。そして、そのまま、自らの腹を二つに裂いていく。鉤爪を突き立てて掴んだ腹を、ぶぢりぶぢりとでもいうようにして引き裂いていく。

 ただ、腹から、そのまま内側の臓物がこぼれ落ちてしまうということはなかった。その腹の裂け目、傷口の、右側と左側と。そこを覆うようにして、アンチ・ライフ・エクエイションが、あたかも泡のようにして膜を張ったのだ。透明ではあるがどこか黒々としている膜。真夜中に似た色をした絵の具を薄く薄く溶かした石鹸玉、の、ような、膜。

 そして、そこから、ようやく光が差した。真昼は、アビサル・ガルーダに飲み込まれてから初めて周囲の状況を確認することが出来るようになった。まず、まあ、真昼はひっくり返った状態で肩の辺りからアビサル・ガルーダの胃壁に突っ込んで。そして、両足を上に向けて藻掻いていたのだが。自分の天地が逆転しているということに気が付いた。

 がばっとその場に起き上がる。そして、周囲を見回す。その明らかに内蔵内蔵した環境を見て……アーガミパータの修羅場をクソほどにくぐり抜けてきたせいで随分と勘が良くなった真昼は。自分が、どうも、アビサル・ガルーダの腹の中にいるらしいということを理解した。

 それから、たった今開いた窓、切り開かれたアビサル・ガルーダの腹から外の世界を見渡す。ゾクラ=アゼルの姿は、下の、下の、遥か彼方に離れてしまっていた。いうまでもなくデニーの姿も。デニーは、ほとんど点のようにしか見えなくなっていたが。ただ、強化された真昼の視力は、十分にその姿を追うことが出来た。

 ちなみに、アビサル・ガルーダがその腹を切り開いたのは、別に、デニーが自分の戦闘を見せようとしたせいではない。周囲が見えなくなった真昼が、何も見えないことに焦って暴れて下手にアビサル・ガルーダの腹に穴を開けて。そして、落っこちたりなんだりしてしまうよりは、予め、こうして状況が理解出来るようにしておいた方が得策だと思っただけの話だ。

 とはいえ。

 理由がどうであっても。

 今の真昼からは。

 見えた。

 見えた。

 デナム・フーツという生き物の。

 優雅で、瀟洒な、狩りの、姿が。

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