第三部パラダイス #24

 ただ、そのように、本来であれば悪魔の軍勢が圧倒的有利にあるはずなのに……少し、おかしいところがあった。悪魔の軍勢が、天使を、殺しても、殺しても、天使の軍勢は全く減っていないのである。これは一体どういうことだろうか。始めのうちは、真昼も、天使の軍勢があまりにも多過ぎるためだと思っていた。けれども、やがて、その考えが間違っているということを知る。

 戦場となっている場所から視線を移して、生命の樹を見てみると。ぽこりぽこりと、世界の傷口、無数の何かが出たり入ったりしているということに気が付く。それらの何かは、なんとなく曖昧で、なんとなくぼんやりとしていて、まるで世界のどこにも位置していないかのようにさえ見える光の塊であったが。実は、それらの光の塊こそが繁殖階級のミヒルル・メルフィスであった。

 光の塊のように見えているのは、実は繁殖階級がその身に纏わりつかせている生命の樹の断片だ。ちなみに、これは、別にわざわざ纏っているというわけではない。繁殖階級は、常に、生命の樹と密接な関係にあるために、全身が自然と生命力に覆われてしまうのである。ちょうど蜜蜂がいつも花粉に覆われているのと同じようなことだ。

 繁殖階級は、人間的な文脈でいうところの科学者・魔学者・神学者・巫学者のような存在であって。普段は、生命の樹の周囲に渦巻いている「力」の中で、生命の力を研究したり、あるいはミヒルル・メルフィスの様々なオルタナティヴ・パターンを作り出したりしている。また、この天国に生息しているあらゆるミヒルル・メルフィスは繁殖階級によって厳密に管理された上で生産されている。そのことから繁殖階級は繁殖階級と名付けられているわけだが……なんにせよ、繁殖階級は、生命の樹の取り扱いに関しては最高レベルの知識と技術とを有している。

 そのような繁殖階級が一体何をしているのだろうか。どうも、よくよく目を凝らして見てみると、何人も何人もいる繁殖階級、腕に、生命の樹が光り輝いているその光の断片を抱き締めているということが分かる。

 それぞれ大きさは異なっているが、大体、一辺が一ダブルキュビトくらいから三ダブルキュビトくらいの大きさ。この現実とは全く異なった法則に支配されている世界線で結晶した結晶体のような形をしている。

 繁殖階級は、生命の樹の内部に突っ込んで、そこで光の断片を剥ぎ取ると外側へと戻ってくる。そして、それからどうするのかというと、戦場へと向かうのだ。戦場の上空、ちょうど真上の辺りまで辿り着くと、ぱっと腕を放して光の断片を投下する。すると、その断片が空中にふわりと浮かび上がる。

 暫くの間、光の断片は、特に何事もなく浮かんでいる。それから、やがて、形状が変化し始める。ぐにゃりぐにゃりと波打ち出す、というか、その内側で何かが蠢いているような感じだ。蠢きは次第に次第に大きくなって、まるで暴れているようになり……最後には、光の膜を破って何かが出てくる。

 それは、間違いなく天使の姿。

 つまり、殺されたはずの。

 ミヒルル・メルフィスだ。

 要するに、こういうことだった。確かに、アンチ・ライフ・エクエイションによる攻撃を受けたミヒルル・メルフィスは、その圧倒的なエネルギーによって跡形もなく消え去ったように見える。ただ、実際は、消え去っているのはあくまでも形而下の部分だけなのだ。形而上の部分、特に魂魄の部分については、無傷とはいわないまでも、復活可能な状態で残されたままなのだ。

 これはミヒルル・メルフィスが生命の樹とある程度接続しているということに関係している。普通であれば、生命境界が少しでも破損すれば、そこから魂が漏出して死に至るのであるが。生命の樹との接続が、一種の生命維持装置の役割を果たしているのだ。魂の漏出を防いでいるのである。

 もちろん、これは一時的な措置に過ぎず、そのままではやがて死に至るだけである。ただ、このように(いわば)彷徨う幽霊の状態になった形而上の部分に、生命の樹から剥ぎ取ってきた、純粋な生命力の塊を投下すれば。アンチ・ライフ・エクエイションの影響で失ってしまっていた生命力を取り戻すことが出来る。生命境界を補修することが出来るのだ。

 結果的に。

 墜落したはずの天使達は。

 また。

 この戦場に。

 帰還、する。

 生き返ったのは(元々死んでいなかったのであるからして生き返るというのは語弊があるかもしれないが)祭祀階級だけではなかった。例えば、地上に落ちていった光の断片は猟殺機関を復活させる。あるいは、数十人の繁殖階級が……アビサル・ガルーダに引き裂かれ叩き潰された洪龍型、もう動かなくなったその残骸に群がって。その全身に、大量の光の断片を投下する。すると、それらの光と光とが紡ぎ合わされて一つの巨大な繭に変化する。その繭の中で、洪龍型は完全な再生を果たすというわけだ。

 そのようにして再生を果たした天使達は、悪魔達に対して反撃を開始する。先ほど書いたところの、正生命の原理と反生命の原理との関係性。これは、実は論理の逆立においても成立する。つまり、反生命の波動が正生命の力の伝達を阻害するのと同じように、正生命の波動は反生命の力の伝達を阻害するのだ。そのことは、地上で繰り広げられている戦闘において、祭祀階級のアウラから放たれる波動がアンチ・ライフ・エクエイションを弱体化させているという事実からも証明出来る。

 従って、天使達の攻撃は、厳密にいえば完全に無効化されているというわけではない。それは、悪魔達にダメージを与えることは出来ないのだが。それでも、悪魔達がその身に纏っている鎧を破壊しているのだ。

 悪魔達がなんの被害も受けていないように見えるのは、ただ単に被害を受けた直後にその被害を回復しているからである。鎧が正生命の波動によって攻撃されると。即座に、その周囲にあるアンチ・ライフ・エクエイションの湖から、生命の暗黒に沈み込むような色をした液体が散乱する。あたかも地上から天空へと降り注ぐ雨のようにして被害を受けた鎧へと降り注ぐのだ。そして、その雨によって鎧は修復される。

 しかし、とはいえ……そのようにして、鎧が傷付いた一瞬を狙って。天使達が放った第二の攻撃が悪魔達の生命の本質まで貫通することがある。つまり生命境界に損害を与えるのだ。いうまでもなく、それは、一撃では致命傷にはなり得ない。未だ、それは、傷付いているとはいえ残されている鎧越しの攻撃に過ぎないからだ。ただし、何度も何度も繰り返して行われる攻撃は、確実に、悪魔達の生命の本質を蝕んでいく。

 そうして傷付いた生命境界は、デニーによって刻まれた魔学式によって、その瞬間その瞬間に弥縫されはするが。それでも、やがては、あまりに連続して行われる徹底的な攻撃によって、そのような修復も間に合わなくなる。

 すると何が起こるのか? いうまでもなく、その身体に纏ったアンチ・ライフ・エクエイションを保てなくなる。当然ながら、アンチ・ライフ・エクエイションというのは反生命の力であって、その範囲的な固定性は生命境界によって保たれてる。生命境界が、そこら中に穴が開いた壺のようなものになってしまえば。その穴、穴、穴から、暗黒の液体が漏れ出すのは当然のことだ。

 こうして。

 アビサル・ガルーダの。

 アビサル・レギオンの。

 鎧は。

 だんだんと。

 だんだんと。

 剥がれ、落ちて、いく。

 また……一つ、興味深い事実があった。それは、祭祀階級がその手に持ってる杖についてだ。もちろん、これは、攻撃の用途に使用されているのだが。その攻撃が、なんというか、他の攻撃とは異なっているのだ。

 他の攻撃は、正生命の波動を直接的に叩きつけるようなものであるが。その杖は、どうも正生命の波動で出来ているというものではないらしい。はっきりとしたことはいえないのだが……祭祀階級が、その杖によって悪魔のうちの一匹を殴打すると。その杖が、ぽんっと弾ける。そして、弾けた後に発生する、あのabominableなあぶくの一つ一つが悪魔の全身に付着する。すると、その全てのあぶくが、一斉に、何かよく分からない不気味なフィールドを発生させて……結果として、そのフィールド内部のアンチ・ライフ・エクエイションが、「貪られ」ていくのだ。他に表現のしようがない。それは、なんというか、寄生虫に似ていた。生命に対する寄生虫。正生命であろうが反生命であろうが構わずに、貪婪に食い尽くしてしまう寄生虫。

 エニウェイ。

 エニハウ。

 天使達の反撃は。

 悪魔達を。

 無慈悲なまでの。

 正確さによって。

 追い詰めていく。

 このままでは、恐らく、悪魔の軍勢に勝ち目はないだろう。そのことは、真昼の目には明白であった。だが、それでも。真昼は、悍ましいまでの安心感、吐き気さえ覚えてしまうような絶対的な信頼によって……完全に、理解していた。理解という表現でさえも生ぬるいほどに、それが絶対的に避けることが出来ない現実、予め用意されたところの決定された結末であることを知っていた。

 そう。

 デニーは。

 勝利する。

 当たり前だ。デニーが敗北する? あり得ない、あり得るわけがない。デニーは、絶対に、敗北することがない。仮にデニーが敗北するとすれば、それはデニーがそう望んだ時だけである。そしてデニーは敗北を望まない。ということは、極めて論理的な結論、否定しようがない完全性として、デニーは勝利する。

 この状態からどうやって勝利するのか? そんなこと、あたしに分かるわけないじゃん。でも、それでも、真昼は確信していた。今すぐに、この首筋を掻き切って死にたくなるほどの絶望感と共に。悪魔が……まさに、悪魔の軍勢が。天使達を皆殺しにすること、天国を破滅させること。その事実を確信していた。

 怖かった。真昼は、どうしようもなく怖かった。その事実に、とてもではないが耐えられなかった。押し潰されそうだ、この世界に構造的に埋め込まれた根絶不可能な悪に。悪そのものに。いつも、いつも、悪が勝利する。あたかも悪という実体のある何かが、生命そのものの予めの目的であるかのようなこの世界のあらゆる過程。あるいは、そう、例えるならば、あたし達の全てが、悪という原初的な原理から発生して、そして、また、あたし達の全てが悪に向かって帰ろうとしているかのような予感。

 驚くべきことだ、本当に。そもそも、真昼には、この世界に悪が存在しているということ自体が信じられなかった。だって、それは、あり得てはいけないはずなのに。一度も罪を犯したことがない子供が惨たらしく殺される。か弱い少女が、片方の眼球を抉り出されて、その眼窩に射精される。愛する人達を皆殺しにされた一人の人間の脊髄に、その愛する人達の苦痛に絶叫する残骸を注ぎ込む。肉体の一部をほとんど冗談のように改造される、あるいは排水管に、あるいは時計に、あるいはテレヴィジョンに。そんなこと、あり得てはいけないのだ。絶対に、何があっても。恐ろしい、恐ろしい、真昼は恐ろしい。まるで子供みたいに泣いてしまいたい。許されるものならば。けれども、今、真昼は、涙することを禁止されている。だから、真昼は、涙する代わりに問い掛ける。自分自身に、世界に、運命に。悪の名前は何か?

 ああ。

 そして。

 今。

 また。

 それが起こる。

 駄目。

 やめて。

 お願い。

 そんな。

 そんな。

 そんなことを。

 しないで。

 真昼は……まるで、縋るような眼をして隣にいる悪魔を見た。真横、左側、真昼の肩を優しく抱いて、いまにも倒れそうな真昼の肉体を支えている悪魔。悪魔、悪魔……夜の王。

 デニーは。

 笑っていた。

 まるで、神のように。

 美しい笑顔を、して。

 けらけらと。

 楽しそうに。

 その。

 殺戮を。

 笑っていた。

「あははっ! 真昼ちゃん、見て見て! ほら! どーん! またまた、しゅーてぃん・だーん! 今度のミヒルル・メルフィスは大きかったね。戦闘階級の中でも一番大きかったんじゃないかな? あー、すっごーい! 見た? 真昼ちゃん? ちゃんと見てた? ええー、見逃しちゃったのー? だーめじゃーん! アビサル・ガルーダがぼおおーってしてね、それでね、それでね、どばばあーって、祭祀階級があないあれーしょん! だよだよ!」

 その笑い声はいうまでもなく災害に似ていた。あらゆる種類の災害、燃え盛る火の山の咆哮、荒れ狂う暗い海の絶叫。あるいは、虚無とともに墜落してきて、地に生きる全てのものを払う天の星。そして、そういった災害の全てと完全に同じように。その笑い声は絶対的な純粋さであった。それは正当化出来ないものであるが、とはいえ罪ではないのだ。醜さではなく美しさであり、汚穢ではなく清浄であった。そして、それでいて、あらゆるものの破滅をもたらすのだ。

 夜の王は、そのような笑い声を上げながら戦場を見下ろしていて。ただ、そうではありながらも……冷静に戦況を分析していた。冷静? 例えば機械仕掛けの計算機械を冷静と呼ぶことが許されるならば、その意味で冷静だった。一切の不純な情報を交えることなく、論理をラダーして。そして、デニーは理解していた。真昼が、人間が、理解するのとは全く別の仕方によって。高等知的生命体のその方法によって理解していた。今が、「次の段階」に移るべき時だと。

 ふと。

 真昼の耳元で。

 笑い声が。

 停止した。

 災害の騒音、よりも。

 遥かに恐ろしい沈黙。

 それから。

 デニーは。

 また。

 口を開く。

 「んんー……で、もー」「デニーちゃん的にはあ、ちょーっとがっかりかなあ」「アビサル・ガルーダが一柱と、それにアビサル・ヴェケボサンが百三十八人でしょお?」「もーちょーっとくらい頑張ってくれると思ってたのになあ」「まだ、ぜーんぜん、ミヒルル・メルフィスの数を減らせてないのに」「もーお、反撃されちゃってるじゃないですかあ」「んもー、役立たずさん!」。そこまで独り言みたいにして呟いた後で。気を取り直したように、こう続ける「ま、しょーがないか」「アビサル・ガルーダはともかく」「アビサル・ヴェケボサンの子達は、所詮ははぐれヴェケボサンだもんね」「ちゃーんとした、使える兵隊さんになるわけないか」。

 それから、今度は、くすくすと笑う。何か悪戯を考えている子供のように。あるいは、一つの世界を破滅へと導く計画を密やかに滴り落としている悪魔のように。そうして笑いながら、デニーは、真昼の肩を抱えている方とは反対の手、左の手を差し出した。どこに向かって? 前に向かって。いうまでもなく、デニーから見た前の方向には、生命の樹が生えている。

 そっと差し出された手。手の甲が上を向いている。中指がぴんと伸ばされていて、軽く上に向かって反っている。その横、小指と薬指とは軽く下に向かって曲げられていて。人差し指は中指に従うようにして延ばされてる。そして、親指は、内側に向かって柔らかくカーブを描く。ただの手だ。どこも変わったところはない。デニーの、可愛らしい手。

 しかしながら、そうであるにも拘わらず……なぜ、これほどまでに禍々しいのか。なぜ、これほどまでに悪意を帯びているのか。真昼は、その手が、何かをするということを理解していた。この手が、この手が、戦況の全てをひっくり返してしまう。ああ、この手が、天国の破滅を告げる身振りを示す。そして、真昼には、それを止めることが出来ない。

 デニーが。

 甘やかに。

 首を傾げる。

「ほーんと、デニーちゃんがいないと。」

 楽しげに。

 楽しげに。

 当たり前のことを言う。

「みんな、みんな、なーんにも出来ないんだから。」

 そうして、その後で……デニーの左手が、くるりと回転した。まるで、上と下とをひっくり返そうとしているかのように。まるで、正しいものと正しくないものとをひっくり返そうとしているかのように。あるいは、まるで、天国と地獄とをひっくり返そうとしているかのように。

 要するに手の甲を返したということだ。そして、その回転の過程において指先が柔らかく動く。その動き方は、例えば……デニーがお菓子作りをしていて、甘い甘い溶けたキャンディを指先で掬い取ろうとしているかのような。小指から順番に、薬指、中指、人差指。なんらかの種類の幼虫みたいな動き、妖艶な蠢動、次第次第に手のひらに向かって折り畳まれていって。それから、やがて、上を向いていた手の甲が完全に下を向く。

 と。

 その瞬間に。

 それ、が。

 起こって。

 しまう。

 サンダルキア……サンダルキアの洪水。ねえ、知ってる? サンダルキアが、どうして滅びてしまったのかっていうことについてのお話を。カトゥルン聖書のサンダルキア・レピュトス記に書いてあるお話。あたしね、教会で、何度も何度もそのお話を聞いた。それに、それだけじゃなくって、絵本も読んだ。暗く広い海、底の底に沈んでいくお姫様のお話を。

 あたしね、まだ覚えてる。その絵のことを。絵本のページ、右のページから左のページにかけて、大きく大きく書かれていたその絵のことを。真っ黒な、まるで夜の中でも一番暗いところみたいな真っ黒な洪水が、お姫様の住んでいるお城を飲み込んでしまうんだ。どうどうと流れてくる、夜が、夜が、夜が、月も星も死に絶えてしまったような、静寂の夜が。

 何も見えなくなる。夜、眠ってしまった後の世界みたいに。死んでしまった後の世界みたいに。サンダルキアの洪水は、お姫様を流し去ってしまう……暗く広い海に。海の中には、とってもとっても恐ろしい怪物がいる。その名前はバシトルー。でも、その怪物よりも、もっともっと怖いことがある。それは、お姫様の名前についての話だ。お姫様の名前は、バシトルー。つまり、お姫様は怪物で、怪物はお姫様で。赤い、赤い、原罪の色をしたお姫様は、今もまだ暗く広い海の底にいる。沈んでいく、沈んでいく……もう二度と覚めることのない眠りの中で。

 そう。

 それは。

 洪水だ。

 夜の。

 夜の。

 夜の。

 洪水!

 真昼の目の前で起こったことは、まさに、そのサンダルキアの洪水であった。つまり……何よりも、何よりも、黒い色をした黒。生命である光、そのものの反転色。アンチ・ライフ・エクエイションが、あたかも洪水のようにして、水柱を上げて噴き上がったのだ。怒涛という言葉も生易しい、波瀾という言葉も他愛ない。その、あまりにも凄まじい勢いは、神話さえも語り継がれる前の世界、サンダルキアという一つの大陸を飲み込んだ、その洪水の比喩でしか表現のしようがないものだった。

 デニーの指先の動きに。

 命じられるかのように。

 その洪水は、真昼の視線の先で起こった。ずっとずっと彼方のところ。要するに、生命の樹があるところ。いつの間にか、生命の樹の周囲に、まるで暗く広い海のようにしてアンチ・ライフ・エクエイションの湖が出来ていて。ひたひたと、あたかも底知れぬところから聞こえてくる災厄の予言のように寄せては引き、引いては寄せていたその湖が。その瞬間に、生命の樹が伸びていく方向に向かって爆発したのだ。そして、洪水は、信じられないほどの絶望によって生命の希望の光を塗り潰していく。瞬く間に、生命の樹を、その根元から、覆って、覆って、覆って。何もかもを隠してしまう障壁を作り上げていく。

 勘違いしないで欲しい。別に、アンチ・ライフ・エクエイションは生命の樹自体に対して攻撃を仕掛けているわけではない。生命の樹になんらかの損害を与えているわけではないし、あるいは反生命の原理によって生命の原理を浸食しているわけでもない。そんなことをするのは神々にだって不可能なことだ。神々に不可能だからといってデニーちゃんに不可能だとは限らないが、何にせよ、アンチ・ライフ・エクエイションは、生命の樹に対して影響を与えているわけではない。

 そうではなく、ただ塞いでいるだけだ。ミヒルル・メルフィスと生命の樹との接触を防ぐために、生命の樹の表面を覆い尽くしているのである。アンチ・ライフ・エクエイションによって覆われてしまえば……生命の樹が放出する正生命の波動は反生命の波動によって完全に遮断されてしまう。それに何より、繁殖階級が生命の樹からその断片を剥ぎ取ってくることも出来なくなる。

 そうすれば、戦場の天使達が復活することも、やはり出来なくなる。形而下の身体を持たない幽霊の状態のままで、本当に死んでしまうことを待つことしか出来なくなる。それに、それだけではなく……天使達が、生命の樹から、暴力に変換するための生命力を汲み出すことさえも困難になるだろう。今度は、生命の樹そのものの正生命の波動が阻害されてしまうことになるのだから。

 洪水が、洪水が、洪水が。地の底から天蓋へと向かって澎湃する。トルネード、タイフーン、渦巻き、逆巻き、暴れ狂う嵐。上へ上へと駆け上がっていく洪水は、その途中で、まさにたった今生命の樹の欠片を戦場へと運ぼうとしていた繁殖階級を飲み込んでいく。それは無慈悲な捕食であった。感情を、欠片さえも交えることなく。ただただ天使達を飲み込んでいく狂飆。そして、飲み込まれた繁殖階級は……反生命の波動によって、笑ってしまうほど跡形もなく消滅していく。

 そして。

 やがて。

 その洪水は。

 生命の樹を。

 完全に。

 包み込む。

 後には、光一つない闇だけが残された。光に似たものといえば、手が届かないほど上方に閉ざされているゲッセマネの牢獄、暗黒の太陽の栄光だけだ。何もない、何もない、正義も、希望も、生命の光もない。ただ、邪悪と、絶望と、殺戮の闇だけが……静かに、静かに、静止している。

 そう、そうだ。これは静寂だった。生命の樹が覆い隠された、その瞬間。天国は完全なる静寂に包みこまれた。その一瞬が凍り付いている。天国の全体が、冷酷なほど美しい水晶の内側に閉じ込められて静止してしまったかのようだった。その水晶を闇に透かして見れば、動いているものは灰だけだった。暗黒の天空から枯渇の大地へと、しんしんと降り注ぐ灰、灰、灰。

 天使達は動きを止めていた。奇妙なほど、その一瞬を切り取ったような姿勢で。それは自己の意志的なものによって動かなかったというわけではなかった。動けなかったのだ。動けなくなってしまった。遠隔操作で動作するオートマタの踊り子が、なんらかの理由でそのインストラクションを切断されてしまって。そして、踊ることが出来なくなってしまったかのように。

 死そのもののような静寂の中で、天使達に致命的な不具合が生じてしまったのだった。つまり……生命の樹との接続、切断されたとまではいわなくても、それは、限りなく弱く弱く、細く細く、完全な闇の中で今にも消えてしまいそうな蝋燭の炎のようなものに過ぎなくなってしまっていたのだ。例えば、祭祀階級の頭部に生えた角を見てみればいい。儚く消え去る寸前の淡い淡い夢のように、ゆらゆらと揺らいでいる。

 天使達は、恐れているわけではない。

 そもそもあらゆる感情がないからだ。

 天使達は。

 ただ。

 ただ。

 今にも消えそうな。

 生命の樹の、声に。

 それに合わせて。

 踊るべき音楽に。

 耳を。

 澄ませて。

 いるだけ。

 一方で、悪魔達はどうしているのだろうか。悪魔達も、やはり静止していた。けれども、天使達とは違い、悪魔達は閉ざされていないはずだ。だって、悪魔達が踊るべき音楽を奏でているのは。悪魔達のconductorの横で、あらゆる生命に対する殲滅の歌を歌っているのは。ほかならぬ、デニーなのだから。

 それでも、悪魔達も、やはり静止してた。ただ、とはいえ、その静止は天使達の静止とは性質の異なった静止であった。つまり悪魔達は何かを待ち受けていたのだ。何か……そう、新しいインストラクションが入力されるまで待機しているオートマタ。では、その新しいインストラクションとはなんなのか。

 と。

 その。

 時に。

 ふと……デニーが、真昼の方に視線を向けた。とても、とても、悪戯っぽい表情をして。まるで、真昼のために、何かとっておきのサプライズを用意していて、そのサプライズを、まさに今、明かして見せようとしているかのような、そんな楽しそうな笑い方で笑っていて。

 デニーの左手。

 閉じられたまま。

 戦場に向かって。

 差し出されていた。

 その左手が。

 ぱんっと。

 びっくり箱を開くかのように。

 勢いよく。

 開かれる。

 そうやって。

 左手を開くのと同時に。

 デニーの口が些喚いて。

 真昼に。

 向かって。

 こう言う。

「BOOM!」

 そして、それから、その瞬間に。生命の樹を覆っていたアンチ・ライフ・エクエイションが、凄まじい勢いで炸裂した。いうまでもなく、生命の樹に対する障壁は保ったままであったが。そのままで、外部に向かって、四方八方に向かって、アンチ・ライフ・エクエイションを撒き散らすみたいに吐き出したのだ。

 あたかも暴風雨のようにして、アンチ・ライフ・エクエイションが戦場の全体に荒れ狂う。横から、上から、下から。天使達にも悪魔達にも等しく降り注ぐ。ただ……その効果は、どちらに対しても等しいというわけではなかった。

 まず、天使達に対して。アンチ・ライフ・エクエイションは天使達に付着すると、その生命力溢れる部分に対する浸食を開始した。具体的にいえば、生命の樹との僅かな接続を保っている部分にということだ。もしも、アンチ・ライフ・エクエイションが、その部分を塞いでしまったら。生命の樹の音楽は、もう聞こえなくなってしまうだろう。だから、天使達は……アンチ・ライフ・エクエイションが自分の身体に付着すると。死に物狂いでそれを引き剥がそうとする。そこにはもう沈黙はなかった。そこにあるのは、反生命と踊るdance macabreだった。

 そして、悪魔達に対して。いうまでもなく、悪魔達は反生命によって生かされている。ということは、反生命の力をその身に受ければ受けるほどに力強くなるということだ。これは……悪魔達にとっての恵みの雨だった。

 今まで天使達の反撃によって追い詰められていた悪魔達。生命境界さえも保てなくなり、ただただ漏出していくアンチ・ライフ・エクエイションを止めることも出来なかった悪魔達。その全身に、今、恵みの雨が降り注ぐ。

 それは……恩寵を与えられた者の、歓喜の絶叫であった。あるいは予祝の凱歌といってもいいかもしれない。アビサル・レギオンは、一人一人のヴェケボサンが、天に向かって、手に持っている武器を突き上げる。屠獅子刀、天貫弓。そして、アンチ・ライフ・エクエイションに覆われた口、真っ二つに引き裂かれてしまいそうなほどに大きく大きく開いて。何度も、何度も、彼女達の王の栄光を讃えている。

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 ルイ・デナム・フーツ!

 あるいは、アビサル・ガルーダは。両方の羽、まるで世界の全体を闇の中に包み込もうとしているかのように開いて。両方の腕を高く高く天に向かって掲げて。アビサル・レギオンの、その轟々たる鬨号さえも掻き消してしまいそうな咆哮によって、たった一度だけ、しかしながら、その一度に絶対的な崇拝の感覚を込めて……こう叫ぶ。

 ルゥゥゥゥゥゥゥゥイ!!

 デナァァァァァァァァム!!

 フウゥゥゥゥゥゥゥゥツ!!

 「んもー、みんなってば!」「デニーちゃんでいいよーって言ってるのに!」その視線を、また戦場の方に向けて。にーっと子猫のような笑みを浮かべながらデニーはそう言った。ただ、戦場は、そのようなデニーのパーフェクトリー・ケアフリーなコメントには、全然似つかわしくない状況へと移行し始めていた。

 それは、いや、戦場と呼ぶことさえも躊躇われる何かになり始めていた。それを呼ぶための適切な名称は、例えばこうなるだろう。アバトアール、スローターハウス、虐殺領域。あるいは、生命のための処分場。

 王の栄光を叫び終わった後で……悪魔の軍勢は、総攻撃を開始した。今までとは比べ物にならないほどの凄絶さ・壮絶さによって、天使達の軍勢に襲い掛かったのだ。

 悪魔達は、弱体化していたその身体、アンチ・ライフ・エクエイションの燎嵐によって、元に戻るどころか、かえって、より強力に・より強大になっていた。一方の天使達は……生命の樹との絆、ほとんどを失ってしまっていて。その上、その全身を、あたかも致死性の疫病に侵されているみたいにしてアンチ・ライフ・エクエイションによって蝕まれているのだ。

 苦悶しているみたいに、痛喚しているみたいに、のたうち回る天使達。祭祀階級は、手に持った杖で、気が狂ったかのように自らの全身を打ち据えている。戦士階級は、それぞれの形状に従って、最も悲惨な方法で暴れ狂う。アルマディリディウムは全身を捻じ曲げ折り曲げ輾転し、猟殺機関は自らの刃で自らを粉々に刻もうとしているかのように藻掻き続ける。

 天使達は既に戦闘を行なえるような状態にはなかった。辛うじて、繁殖階級だけが、自らの身に纏わりついたほんの僅かな生命の樹の欠片によって冷静さを保っていて。何か、恐らくは生命の樹に関する膨大な研究の成果のうちの一つであろう、奇妙に生物じみた形をした道具を持って。生命の樹を完全に覆い隠してしまっているアンチ・ライフ・エクエイションに向かって果敢にも攻撃を開始していたのだが……とはいえ、それも、残念なことに全然無駄な攻撃であった。

 残念なことにというのは、いうまでもなくミヒルル・メルフィスのswarmにとってということであるが。とにもかくにも、アンチ・ライフ・エクエイションは、そのようにして攻撃を受けると……あたかも食虫の生き物の舌のごとく、べろんと、長い長い触手を生み出すのだ。攻撃を加えた繁殖階級をその舌によって巻き取って。そして自らの内側に捕食してしまうのだ。捕食された繁殖階級は、なす術もなく反生命の波動によって消し去られることしか出来なかった。

 要するに。

 天使達には。

 もう。

 何も。

 何も。

 できることは。

 ないということだ。

 天の戮民。文字通りの虐殺。暗く広い海に生息する、悍ましくも禍々しい怪物達が襲い掛かる。グラディバーンが祭祀階級を焼き払う。ヒクイジシが猟殺機関を焼き払う。グラディバーンに乗ったヴェケボサンは、闢矢の軌道上にあるあらゆるものを射落としていく。ヒクイジシに乗ったヴェケボサンは、屠獅子刀によって地のおもてにあるあらゆるものを薙ぎ払う。歩兵たるヴェケボサンは、大群をなして、触れたもの全てを貪り尽くし平らげていく。

 そして、アビサル・ガルーダは……見よ! 見よ! 神にも等しい、偉大なる巨鳥がもたらす破壊を! その手が把握しているヴァジュラは、既に武器と呼べるような代物ではなかった。それは一つの巨大な惨禍であった。アビサル・ガルーダの手元で渦を巻く銀河、星一つ生まれることのない完全なる静寂の銀河。それが死の嵐にも似た態度によって戦闘階級に襲い掛かる。

 切り裂き、突き刺し、叩き潰し、打ち砕く。あるいは……その銀河の暗黒が、少しでも触れた部分から。まるで忍び寄る死神のようにして、戦闘階級の身体に反生命の刻印が押される。その暗黒は、戦闘階級の健全な生命、愛と希望とに満ち溢れた生のサイクルを徐々に徐々に蝕んでいくのだ。そして戦闘階級は、その全身をネクロフィリア、死への愛によって覆われる。

 攻撃を受けた天使達は、なんとか態勢を立て直して迎撃しようとする。もしくは、そこまでは出来ないとしても、なんとか防御だけでも行なおうとする。ただ、それも無駄な足掻きとしかいいようがない行為だった。天使達は、先ほどまでの力強さを完全に失ってしまっていた。数式じみた冷静さに裏付けられたところの、極限まで秩序立った統率力さえも、もう見ることが出来なかった。

 まるで、スター型接続を行なっていたネットワーク、中心となる通信機器に不具合が生じてしまったせいで、全ての子機に異常が生じたかのように。まるでというか事実その通りなのだが、一人一人の、一匹一匹の、天使が、まともに動くことさえ出来なくなっていた。それは、困惑しているとか、怯懦しているとか、そういうことでさえなかった。そのように主体的な意思のようなものがあるとすれば、まだ立て直すことも出来るだろう。だが、天使達は……あたかも、回路の一部分が焼き切れたオートマタ、脳髄の一部が欠損した脊椎動物、そんな動き方をしていた。

 つまり、既に正常な思考能力さえも失っていたのだ。ミヒルル・メルフィスという生物にとって……自己とは、自己ではない。自己プラス生命の樹こそが自己なのだ。というか、自己における自己の部分など限りなくゼロに近く、生命の樹がその大半を占めている。ということは、生命の樹との接続が失われてしまった場合、そこに残されるのは、身体を動かすことさえままならない不具の巫蟲だということだ。

 全身の動きが継ぎ接ぎで、空間軸も時間軸も適合していないような。整合性が取れておらず、支離滅裂な。右と左と、上と下と、そんな基本的な違いも理解出来ていないような。均衡も、秩序も、欠片も残存していない天使達の動作。それでは、相手からの攻撃を防御することは不可能だ。いわんや、相手に向かって攻撃を行なうことなど出来るわけもない。

 圧倒的だった。

 一方的だった。

 死が。

 死が。

 死が。

 天の御国の。

 義人達に。

 襲い掛かる。

 天使達は、次々と、地獄の底に落ちてくる。その形而下の身体は跡形もなく消え去って。幽霊になった形而上の生命も、降り注ぐ反生命の雨に洗い流されるかのようにして虚ろに滅びていく。この絶望の闇を、ごくごく仄かに照らし出していた天使達の光は……まさに、誕生日のケーキ、蝋燭が呆気なく吹き消されるかのように消えていく。そして、悪魔の軍勢は、闇の中にますます凄まじさを増していく。

 ああ。

 そして。

 真昼の聴覚に。

 聞こえてくる。

 災害が。

 災害が。

 災害が。

 底抜けにハッピーで。

 子供みたいに無邪気。

 悪魔の。

 王の。

 笑い声が。

 デニーが、また、あの笑い声で笑い始めていた。どこまでも晴れやかで、どこまでも屈託がなく、どこまでも楽しげな。楽しみにしていた夏休み、雲一つない快晴のような笑い声。真昼は、実は、この笑い声よりも美しいものを知らなかった。この世界には、このデニーの笑い声ほどに、真昼が愛するに足るものなど何一つないのであった。真昼は……それを聞くと……もう二度と助からない猛毒、全身の神経系を腐敗させる神経毒を注射されたかのように恍惚とする。

 デニーは、非常に機嫌が良かった。いや、まあ、デニーちゃんは、この世界においてほとんど逆らうものもいないほどに強く賢い生き物であるため、機嫌が悪くなるような出来事など滅多にないのだが。今、この時、特に機嫌が良かったということだ。

 真っ直ぐにぴんと伸ばした人差指。真昼の肩を抱いている方とは反対の、右手によって戦場を指差して。あられもない陽気さで笑っている。もう、勝利は確定しているからだ。敗北はあり得ない、後は害虫を駆除するだけ。殺して、殺して、殺すだけ。

 さすがのデニーちゃんとはいえ、ミヒルル・メルフィスのswarmを一つ全滅させるというのはなかなか困難な仕事であった。アビサル・ガルーダのように、王レベルの力を持つ兵器や。あるいは、アビサル・レギオンのように、手足として利用出来る理想的な駒がいなければ不可能だっただろう。このような攻撃力によって、ミヒルル・メルフィスの防御力をある程度削っておけたからこそ、この結界の内部にオルタナティヴ・ファクトを展開出来たのである。真昼には、全然、そうは見えていなかったが。今回の侵略は、かなり危うい計画の上に成り立っていたのだ。

 とはいえ、ここまでくれば。

 もう。

 安心。

 安全。

 だ。

 城砦は夜暗に消えた。

 兵隊は狂気に陥った。

 だから。

 デニーは。

 ここまで。

 ご機嫌に。

 笑っていたと。

 いうわけ、だ。

 デニーは、笑って、笑って、笑って。高らかに哄笑して。そして、それから……唐突に、真昼のことを抱き締めた。あまりにも突然のことだったので、真昼はどうすればいいのか分からなかった。押しのけることも受け入れることも出来ず、ただただぽかんとしている。そんな真昼のことをお構いなしに、真昼の胸の辺り、真昼の両腕の上から、ぎゅーっと抱き締めるデニー。

 幼い子供がじゃれついているみたいだった。あんまり幸せで、幸せ過ぎて、なんの考えもなく飛びついてきた、子猫だとか子犬だとか、そういった感じだ。それから、真昼の体をぎゅーっとしたままで、地面とは平行の方向にくるくると回転し始める。とんっとんっと軽やかな足取り、まるで魔法みたいにスイングして。真昼の体をぐるぐると振り回す。つまり、どういうことかといえば、なんとなくダンスしているような感じだ。

 その、ダンスのようなめちゃくちゃなステップが……次第次第に、明確なワルツの楽譜を踏み始める。ワルツァン、ワルツァン、運命がくるくると回転しているのが分かる。真昼の周りで。真昼のことを、まさにその中心として。世界に存在する全てのものが、螺旋を描きながら、深淵に、奈落に、絶対的な悪の問題に転落していくのを感じる。

 落ちていく、落ちていく、明確に落ちていく。それが事実であるということを、あたしは知っている。これは喜ぶべきことではないか? だって、あたしは恐れていたのだから。自らの肉体に重力が働かなくなることを。自らの身体的感覚が世界の全体から遊離することを。今、あたしの全てが絶叫している……悪の、名前を、教えてくれと。

 喜べと?

 これを?

 もちろんだ、その通り。いうまでもなく、これはワルツだ。真昼のことを抱き締めていたはずの、デニーの両腕は。いつの間にか、その右手は真昼の右手を優しく導いていて、その左手は真昼の左手を優しく導いていた。デニーのステップは、やはり、真昼が、次に、どこに足を躍らせればいいのかということを示してくれている。これはデニーが教えてくれるダンスだ。何もかも、何もかも、強くて賢いデニーという生き物が教えてくれるダンス。けれども、これは、これだけは絶対にはっきりさせておかなければいけないことであるが。「それを」「踊っているのは」「真昼である」。この全体的な悪の中心にいて、その悪の回転を指揮しているのは、ほかならぬ真昼なのである。

 ねえ、だって。

 真昼は。

 天国を。

 滅ぼす。

 お姫様。

 そのことは。

 逃れることの出来ない。

 絶対的な、真実だから。

 真昼が……真昼が、昨日の夜に。アビサル・ガルーダの手のひらの上で踊っていたワルツ。世界の全てを浅はかにも見下ろしながら、神にも等しい力を持つ鳥が掲げる、その場所で踊っていたワルツ。それを、デニーが、真昼と、踊っている。

 そのワルツは、この世の全ての邪悪のためのダンスは。やはり、一人で踊るというのには、少々向いていないようだった。昨日の夜、あらゆる冠を投げ捨てて、ただただ裸足で踊っていたお姫様。目の前の、夜の王と、踊っている、踊っている、踊っている、その身のこなし、手の動かし方、足の動かし方、回転するタイミング。その全てが、昨日の夜のあのダンスよりも、遥かに遥かにパドレアのリズムに満ち溢れている。ラベキカ・ルベキカ、夜の王のリードが、そのワルツの完全性を現前させているのだ。

 そして、そのワルツをもっともっと素晴らしいものにしているのは……虐殺と破滅と。今、まさに、天国が崩れていこうとしている、その音楽である。真昼には聞こえていた。その耳に。その目に。既に失われてしまってそこには空白しかないはずなのに、その虚無の心臓にさえ聞こえていた。天使達が、焼かれ、砕かれ、惨たらしく殺されていく時の絶叫が。その絶叫は、いうまでもなくある特定の生命の声ではない。決して起こってはいけないことがまさに起こってしまった時に、正義の全体が、善良の全体が、その存在意義をかけて叫ぶ抗議の声なのだ。絶対に破壊され得ないもの。仮に破壊されたとしても、その後に必ず残らなければいけないはずのもの。つまり、生命の生命、生きているもの全ての絶対的な本質が、今まさに破壊されようとしてるその時に、世界が絶叫する、その絶叫なのだ。真昼に、真昼に、叫んでいる、悪の名前は何か!

 ミヒルル・メルフィスは……ただ死んでいくというわけではない。それは、生命としての根底から、完全に、絶対的に、抹消されていくのだ。その過程からその結末まで、これほど悲劇的な絶望が、果たしてこの世界にあり得るのだろうか。まず、ミヒルル・メルフィスは、それまでそうであるべきようにそうであるべきであった生命の形式そのものを取り返しがつかない形で強奪される。全身は、爆発した、生命に反するものの原理によって浸食されて。今まで接続していたはずの、生命の原因、生命の始動にして目的である生命の樹から切断される。そして、ただただ放り出された虚無の中で、形而下の形状だけではなく、形而上の霊魂さえも、この世界で最も邪悪な悪魔によって殺害されるのだ。

 そして、それだけではない。それだけならばまだ耐えられもしよう。だが、それだけではないのだ。最も残酷な、絶対的に許されるべきではない究極の悪は……つまり、ミヒルル・メルフィスは、生命の樹を奪われるということなのである。生命は、生命を失っただけで死ぬのだろうか。いや、そうではない。絶対にそうではない。生命が失われた後にも、未だに残っているもの。生命の残りのものが死んだ時に、初めて生命は死ぬのである。あらゆるものが終わるところで、初めてそれも終わるのだ。そして、今、ミヒルル・メルフィスは、死に、死に、死に、その上、残りのものさえも奪われようとしている。誰によって? いうまでもなく、真昼によって。真昼の蘇生、ただそれだけのために。

 憎悪。

 憎悪。

 今。

 天国が。

 真実の憎悪を。

 絶叫している。

 ああ。

 それは。

 なんて。

 甘く、甘く。

 このダンスに最適な。

 音楽。

 真昼は……心臓が、締め付けられるようだった。本当に、例えようもなく、絶望的な苦痛だった。吐き気がする、嘔吐するものが何もないはずなのに、それでも無限の悪夢を嘔吐しなければいけないような、そんな吐き気だった。

 ぐるぐると回る。酔ってしまったのかもしれない。真昼は、おっ、おっ、と嗚咽を上げ始める。それから、その嗚咽は悲鳴になる。あぐっ、がっ、ぐうっ、という悲鳴。そして真昼は、ダンスをしながら朱殷の反吐を吐く。今朝飲んだ物、アラジフ・ヘリクシスの血液を吐き戻す。

 赤い、赤い、色が、回転する。鮮血の清々しさなどとうに失って。赤黒く腐りかけた血液が真昼の消化液と混ざった物。ダンスする、その足元に吐き戻す。跳ね返った吐瀉物が、真昼のスニーカーを、それにデニーのローファーを穢す。デニーは「あははははっ!」と笑っている。

 デニーの笑い声の中で。

 希望が。

 希望が。

 きらきらと光っている。

 いうまでもなく。

 それは。

 ミヒルル・メルフィスのための希望ではない。

 真昼のための、真昼のため、だけの、希望だ。

 夜の王が、笑う、笑う。天国の滅亡を笑っている。ここには、確かに天国があったのだ。天国があったはずなのだ。もちろん、真昼はその天国から拒絶された。何よりも純粋な憎悪によって、天国は、真昼を、排除しようとした。けれども、だからといって……真昼が、生きるという、それだけのために。天国を一つ、破滅させるということが許されるのか?

 夜の王が、歌うように、こう言う「あははっ!」「真昼ちゃん!」「火を放て!」「火を放て!」「決して消えない火を放て!」「全ての天使が!」「天国の、全ての生き物が!」「燃え盛る炎に包まれる!」「皆が皆!」「狂気にのたうち回りながら!」「凄まじい絶叫を上げる!」「全ての!」「全ての!」「この天国の全ての天使が!」「真昼ちゃんのことを!」「憎悪の目で見上げている!」「真昼ちゃんのことを!」「殺して、殺して、この世界から完全に消し去ろうとするかのような目つきで見上げている!」「ああ!」「真昼ちゃん!」「ほら!」「この天国をあげる!」「この天国を銀の皿の上に置いて!」「真昼ちゃんの足元に持ってきてあげる!」「あははっ!」「真昼ちゃん!」「どーお?」「これが」「真昼ちゃんの」「欲しがっていたもの」。

 そう。

 その通り。

 夜の王の言う通り。

 これが、あたしの。

 求めていたものだ。

 全身が震えている。まるで熱病に侵されているかのように。血液が凍り付いてしまいそうなほど暑い。神経が焼き切れてしまいそうなほど寒い。体の内側から、強い酸みたいにして、恍惚が肉と骨とを溶かしていくような気がする。口の中、血液と胃液と、混ざり合った味がして不味い。

 憎悪だ、憎悪だ。天国の全体があたしの肉体を憎悪している。当たり前だ、これは戦争なのだ。あたしは、天国の全体を食い尽くそうとしている。後には何も残らない。天使達がここに生きていたという痕跡さえ残らない。あたしは、全てを食い尽くす。銀の皿の上に乗せられた全てを。

 真昼は。

 涙を。

 涙を。

 流せない。

 だから。

 その代わりに。

 その口から。

 言葉を流す。

「お願い……」

「ほえ?」

「やめて……こんなことしないで……」

 真昼は、もう、上を向くことなど出来なかった。顔を下に向けて、足元の、骨の山、血の海、を、見つめながら。自らの内側に残っていた、本当に、ただただ、ほんの僅かな、義認を、絞り出すみたいにして。血反吐の匂いがする声、掠れてほとんど聞こえない声で、そう言った。それから、まるで、自らの真の意思に完全に逆らっているかのように弱々しい声で、こう続ける。「お願いだから……あたしのために……この天国を滅ぼさないで……」。

 いうまでもなく。

 デニーは。

 真昼が。

 本当に。

 言いたいこと。

 理解していた。

 そして。

 真昼が。

 デニーに。

 なんと。

 答えて。

 欲しいのかと。

 いうこと、も。

 だから。

 デニーは。

 As。

 Your。

 Wish。

 こう答える。

「あははっ、安心してよ、真昼ちゃん。これはね、この、全部全部は、真昼ちゃんのためにしていることじゃないの。だって、ねえ、そーでしょー? デニーちゃんは、ただ単に、デニーちゃんのお仕事のためにしてるんだから。このね、全部全部はね、コーシャー・カフェのお仕事のためにしてることなの。確かに、デニーちゃんは、真昼ちゃんのことを生き返らせるために天国を滅ぼすんだけどね。でも、そうやって真昼ちゃんを生き返らせるのは、ほら、真昼ちゃんも知ってるでしょ? 真昼ちゃんを、ディープネットとの取引材料として使うため。ただそれだけのためなんだよ。真昼ちゃんはね、歯車なの。この全体の殺戮機械の、この全体の破壊機械の、この破滅全体の、ただの、小さな、小さな、歯車に、過ぎないの。だから、安心して、真昼ちゃん、安心して、全部、全部、デニーちゃんに任せて。デニーちゃんは、真昼ちゃんのこと、なーんでも知ってるよ。だから、デニーちゃんに、全部、任せて。」

 ああ。

 なんとまあ。

 お優しい。

 ことです。

 いうまでもなく、今、デニーの口から、あまりにも甘過ぎる毒のようにして真昼の耳に注ぎ込まれた言葉の全ては嘘であった。真昼には絶対的な確信があった。デニーは、この全てを、真昼のためにしているのだ。真昼のためだけにしているのだ。それは、信仰というにはあまりにも激しく打ちのめし、愛と呼ぶにはあまりにも深く深く刻まれた確信であった。ここには、デニーと、真昼と、その二人の関係性しかない。デニーは……コーシャー・カフェなど関係ない。ディープネットなど関係ない。ただ、真昼を、真昼という一個の生命を救うためだけに天国を滅ぼそうとしているのだ。

 あらゆる。

 あらゆる。

 あらゆる。

 悪が。

 ただ。

 真昼の。

 ため。

 だけに。

 この世には、名付けられざる悪がある。悪の名前、悪の名前。あたしは、その名前が知りたい。悪とはなんなのか? 今、真昼が悪だと感じているこの全ては、一体なんなのか?

 例えば……あたしは、今朝、一匹の鹿を殺した。あの鹿を殺すということは悪なのだろうか。あたしは、ただ、喉の渇きを潤すためだけに。その鹿の喉を切り裂いて、その傷口から血を啜るためだけに、殺した。それは悪か? 問うまでもない。悪だ。それは、文字通りの意味での血への渇望である。血の渇望とは、あらゆる意味において原初的な、生きることへの渇望である。バイオフィリア。一見すると、これは悪ではないように感じられるかもしれない。なぜというに、それは「生」であり「愛」であるからだ。そして、いうまでもなく「自由」な行為である。何ものにも支配されず、何かを支配しようとするわけでもない。自発的な個人の自発的な行動だというわけだ。しかし、しかしだ、そもそも「自由」が悪なのだ。それは絶対的な悪なのである。鹿は、鹿は、殺される時に、相手が「自由」な「生」を「愛」しているのかどうかということを考えるだろうか? 「自由」な「生」を「愛」している者によって、殺されるからといって、それを喜びと思うだろうか。低能。そんなわけがない。そもそも、あらゆる「自由」は、ただ単なる自己愛なのである。自分だけが幸せであればいいという最悪な形の自己愛に過ぎない。どんな言い訳をしようと、それは悪だ。

 それでは、悪は、何か、あらゆる不可能性であるのか? あらゆる概念の、あらゆる存在の、その手前にあるところの根源的原因。名状することなど絶対に出来ない原初的な真実。そういった世界的な構造に、始原的に、中核的に、刻み込まれているところの、ある一つの差異のようなものなのか? 「なぜ」という問いを完全に否定するもの。ただただ「あってはならないもの」。名前を問うことが決して出来ないもの。要するに、それは……常に、世界から自己自身を断絶させるところのその断絶、結局は、独立した個人と独立した個人とが理想的な関係を築くという、ただただそのような、いかにも人間的な、反吐が出るほど欺瞞に満ち溢れた「哲学的」肯定性を肯定するためだけに、その対義語としてわざわざ否定形で現われたものであるに過ぎないのか?

 いうまでもなく、否、否、断じて否だ。そのような悪の理解は、結局のところ、世俗的シュブ=ニグラス主義の誤謬に陥っているに過ぎない。人間は、生命は、あらゆる現世的存在は「拘束」のもとにある。そして、その「拘束」を断ち切って、真実の意味で自由になることこそがこの世界の目的である、これが世俗的シュブ=ニグラス主義だ。何がいいたいのかといえば、たった今、述べたような、悪の理解は、悪を理解しようとしているわけではないということだ。それは悪を直視しようとしていない。それは、絶対的な当為からの逃走を正当化しようとする卑劣で惰弱な知的詐欺に過ぎないのである。

 それを端的に証明するためには、ただこう断言するだけで足りる。つまり、悪は正当化出来ないのであると。悪は善になり得ない。悪は善を掴み取るための契機とはなり得ない。それはあらゆる反省を、あらゆる自己同一化を、決定的に阻むものだ。もしもその悪によって、なんらかの善なるものをこの世界に持ち込めるのだとすれば。例えば、その悪が規範の手前にあって規範自体を不可能化し、そのことによって、規範が無条件に肯定されることを阻止し、結果的により世界を純粋化する(いうまでもなく現在の世界に存在している当為の無効化によってということだ)のだとすれば。それは悪ではない。

 要するに、無力なものは無力なのだ。絶対的なものにおいて、証人が現われることはあり得ない。なぜというに、生命の疎隔性は乗り越え不可能だからである。もしも証人という定義が可能であるとすれば、それは証人ではなく証人の紛い物としてしか成り立たないだろう。

 また、こういってもいい。あたし達には、この世界の手前などというものはあり得ないのだと。あたし達に与えられたものはこの世界で全てであり、この世界の丸ごとの外側には何もない。というか、そもそもこの世界には外側があり得ない。根源的なものはない。比喩的な表現をするならば……言語があるだけだ、記号があるだけだ。あたしなんてない。あたしが考えている本当のことなんてない。そこには容器の形があるだけであり、その中に注がれているものはない。あたしが話している言葉、あたしが考えている言葉、それがあたしだ。あたしが言葉を話すのではなく、言葉があたしの形である。それと全く同じように、この世界がこの世界の形である。この世界の手前には、何かとても理想的な、光り輝くアーキタイプの世界があるわけではない。確かに、この世界は不純だが、不純であることが真実なのだ。不浄を排除することは出来ない。世界の不浄性は、あたし達の肯定を求めてはいない。

 悪は、そう、その名前を問いうるものだ。それは、いうまでもなく概念ではない。それは、いうまでもなく存在ではない。とはいえ、その両方の手前にあるというわけでもない。悪とは、まさに現実なのだ。現実においてあらゆる方法で現われるところの、現実とは決して切り離せない、本質的な帰結なのだ。現実が、その最終局面においてそのようにして現われるところの、もう二度と取り返しのつかない最終局面。それが悪なのである。悪は、決して、廊下ではない。悪は、決して、階段ではない。それでお終い、それで最後なのだ。悪について語る言葉の全ては虚偽である。もしも、それが、悪の名前を問う絶叫でないのならば。

 論理及び定義。

 まず、悪はただ自らにおいて悪になる。

 そして、あたしの内側にしか悪はない。

 悪の問題の。

 最悪の点は。

 あらゆる善が善ではなく。

 あらゆる悪が悪ではない。

 そんな瞬間に。

 あたし達が。

 必ず。

 絶対に。

 避けようもなく。

 悪を。

 選択すると。

 いうこと。

 あたしが……あたしが生きてきた、全て。その全てが悪であったということを、どうしてあたしは否定出来るのだろうか。あたしが、どこまでもどこまでもマラーのことを救おうとしたこと。自分自身の命を懸けて、あるいは、アヴィアダヴ・コンダのみんなの命と、パンダーラさんの命と、引き換えにしてまでマラーのことを救おうとしたこと。それは、もちろん悪だ。あたしは、悪をなそうとは考えていなかった。けれども、結果として、一つの王国の、最後の最後に残った欠片を粉々に砕いてしまった。もしもこれを悪といわないというのならば、一体この世界の何が悪であるというのだろうか。あるいは、そのようにしてまで救ったマラーの命を……あそこまで容易く、手放してしまったということ。マラーがそれを望んだということは関係ない。これは、あたしと、悪と、その二つだけの問題なのだから。あたしが悪をなしたのか。マラーを、カリ・ユガに食わせたということ。マラーと引き換えに、あの兵器を、アビサル・ガルーダを手に入れたということ。それは、やはり悪なのだ。それは、あたしの、あたしの、悪なのだ。

 あたしが生きるということの全ては悪を積み重ねてきたことであった。だって、あたしが、生きるために。そのために使われた金は、つまり、この世からスペキエースを抹殺するために作り出された兵器を売り捌いて作られた金なのだから。あたしが指を一本動かすたびに、何千の、何万の、スペキエースが死んでいく。あたしの心臓が鼓動を一つ打つたびに、スペキエースが叫ぶ。悪の名前! 悪の名前は何か! あたしの肉体の内側には、悪が、悪が、悪が満ちている。誰もその名前を知らない悪が。

 あたしが、あたしが、何かをする。それは、全て、悪として結末する。あたしが、肉を食べる。あたしは、肉になる生き物を殺す。あたしが、植物を食べる。あたしが食べた分の植物を食べられなかった生き物が餓死していく。もしも、あたしが、世界の全ての生き物が食べられるだけの植物を育てようとすれば。あたしは、それだけの植物を育てるために、どれほど多くの環境を破壊しなければいけないだろう。そして、もちろん、その環境でしか生きていけなかった生き物は惨たらしく死んでいく。あるいは、そのようにして植物を育てるための仕事の総量、そのような施設を作るために、どれだけの奴隷を生み出さなければいけないのだろう。施設は、常に崩壊し続ける。その崩壊を弥縫するために、どれだけの資源を奪わなければいけないだろう。あるいは、もっと単純に。あたしが誰かを守ろうとする。すると、他の誰かが傷付く。あたしが正しいと思うことをする。すると、全然関係ない誰かが死んでいく。ねえ、一体どうすればいいの? 誰も傷付けずに生きていくにはどうすればいいの? あたし、分かんない。分かんないよ。

 悪が意志を手放すことだったらよかったのに。それなら、あたしは強い意志を持つだけでよかった。悪が自分自身を喪失することだったらよかったのに。それなら、あたしは、自分自身を強く強く握り締めていればよかった。悪が生命として衰退していくことであったらよかったのに。それなら、あたしは前へ前へ進んでいくだけでよかった。悪が弱さならばよかったのに。それなら、あたしは、ただ強くあればよかった。

 あたしが知らないところで、あたしが知らない誰かが、あたしのために、あたしが全然知らない悪いことをしている。いつも。いつも。今、この時も。あたしが知らない誰かが、あたしの知らないところで、あたしの全然知らない理由で、あたしのために死んでいく。いつも。いつも。今、この時も。あたしが生きる全ては悪だ。あたしが何をしようとそれは悪という結末に終わる。あたしという生き物は、生きているだけで悪だ。

 それでは、生きるということそれ自体が悪なのか? 生命という現象こそが悪なのか? 馬鹿、阿呆、そんなわけがない。なぜなら、もしも生命が悪だというのならば、そのような生命を消し去る行為の全ては善であるはずだからだ。それならば、あたしは善ということになる。これ以上はあり得ない至高の善となる。そして、もちろん、あたしは善ではない。ということは、生命は悪ではないのだ。生きるということは悪ではない。「あたし」が、「あたし」という生き物が、生きるということ。それが悪なのだ。

 でも、なんで? なんであたしが生きているだけで悪になってしまうの? だって、あたし、何も悪いことをしていないのに。ねえ、何が悪いの? あたしが生きていることの何が悪いっていうの? 悪って何? 悪いことって何? 悪の名前は何? 未だに名付けられていない、その悪の名前はなんなの?

 ああ。

 問い掛けるまでもない。

 だって。

 悪は。

 今。

 まさに。

 目の前に。

 あるんだ。

 それは、哲学者だの倫理学者だの、この世界で一番くだらない連中が頭の中だけでこねくり回す抽象的な悪ではない。そうではない、そんな、紛い物の、偽物の、クソの役にも立たない、欺瞞でしかない、ただただ自己満足の、論理的に破綻した、自己満足ではない。本物の悪だ。本物の悪が、あたしの、まさに、目の前で、行なわれている。

 天使達は、既に……その大部分が墜落していた。ほとんどが跡形もなく消え去ってしまっていて。まだ、辛うじてその形を残している天使達は、蠢いていた。骨の山の上で、身体の形状が残っている部分を、あたかも滑稽な悲鳴のようにして痙攣させていた。ぴくぴくと、うごうごと、ぐにぐにと。そうして残っている部分でさえも、反生命によって腐敗の症状みたいに蝕まれていく。

 生き残っている天使達は……文字通り、何もかもを懸けて、何もかもを投げ出して、必死の抵抗を試みている。もちろん、感情も、意志も、自我さえもないミヒルル・メルフィスに対して必死という表現を使うのはおかしいかもしれない。それでも、真昼には、それは、必死としかいえない何かだった。数式的なまでの論理的完全性によって、あらゆるものを放棄し、ただただ生命の樹を守るためだけに行動している天使達。

 何も出来ずに。

 殺されていく。

 落ちる。

 落ちる。

 天使が。

 落ちる。

 ああ。

 ただ、殺戮。

 ただ、虐殺。

 まるで子供の他愛もない遊びみたいに。

 あるいは精密で無意味な機械のように。

 生命そのものを破壊する。

 悪。

 それは、決して起こってはいけないことだった。それは、決して折り合いがつけられないことだった。だって、これは、この悪は……あたしのために行なわれているのだから。あたしという一つの生命によって完全に、アラリリハ、祝福を受けた悪魔の軍勢なのだ。あたしが、あたしに、あたしの、あたしを、あたし、あたし、あたし、あたし。

 違う……違う、違う! 今は思索を巡らせるべき時ではないのだ、今は問い掛けている時ではないのだ。今は、断じて、精密な論理を組み上げて、この世界の正確な構造図を描いているべき時ではないのだ。今は、あらゆる哲学者が考えることやめるべき時だ。今は、あらゆる倫理学者が考えることをやめるべき時だ。今は、あらゆる生き物が立ち止まることをやめるべき時。立ち止まることをやめて、まさに行動を起こすべき時。もしも、今、行動を起こさないとするのならば。そのようにして行動を起こすことが出来ないあらゆる思想は完全に無意味である。今だ! 今だ! 今なのだ! 止めなければいけない。目の前で行なわれている、この絶対的な悪を止めなければいけない! そう、あらゆる思想は、悪を、悪を、止めるためだけに存在しているのだ。悪を目の前にして未だ思想を続けているような思想など、なんの思想的価値もない。

 考えることなどやめろ!

 今は!

 ただ!

 叫べ!

 叫べ!

 叫べ!

 真昼は。

 口を開く。

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