第三部パラダイス #23

 一般的に、オルタナティヴ・ファクトというものは、あくまでもそのオルタナティヴ・ファクトの制定者の生命境界内にとどまる精神的領域に過ぎない。例えばREV.Mとの戦闘の際、アビサル・ガルーダの起こした突風を防ぐために、デニーがオルタナティヴ・ファクトをもとにしてアサイラム・フィールドを作り上げたりもしたが。それは、あくまでも、オルタナティヴ・ファクトの周波数と同じ周波数で現実世界を震わせることによって、いわば同期的投影の形で結界を形作っただけのことである。これはよく使われる心身延長結界の一種類であるが、とにかく、オルタナティヴ・ファクトを生命境界の外部に展開したわけではない。

 オルタナティヴ・ファクトを生命境界の外部に展開することは、ほぼ不可能だ。なぜかといえば、オルタナティヴ・ファクトは結局のところ観念領域に過ぎないからである。これは世界に関する理解の基本中の基本であるが、現実というものは存在を概念的に定義することによって確定されている。つまり、現実に影響を与えるためにはその確定を撤回しなければいけないということだ。概念を引き剥がし、存在を払いのけ、そうして世界的な空白を作らなければいけない。たった一つの生命体が、自分自身の観念だけでそれを行なうのは、あまりにも困難なのだ。

 ただし……そう、何事にも例外がある。ごくごく一部の例外的生命体、その精神力が異常なまでに発達した生命体は。そうであると精神力によって思考する、それだけで、ある程度現実に対して影響を与えることが出来るのだ。これは非常に複雑な魔学的原理の複合的結合によって成り立つ現象なのだが、基本的には当然性理想世界浸食現象と呼ばれるものだ。ある生命体の精神が理想化(この理想化というのは魔学的な専門用語であり一般的な意味とは少し異なった意味を持つ)した世界が、現実世界よりも当然であると、律法的に是認されてしまうのである。

 すると、その当然とされた世界、つまりオルタナティヴ・ファクトが、現実において適用されることになる。無論、その領域は、時間的にも空間的にも限られる。その生命体が所有するそもそものオルタナティヴ・ファクトの大きさ、それがどれだけの範囲の現実を侵食出来るか、そういったことによって限定される。とはいえ、そのようにして展開出来たオルタナティヴ・ファクトの中では……そのオルタナティヴ・ファクトの所有者は、自由にファクトを操作することが出来る。いや、まあ、全ての物事が完全に自由になるというわけではない。例えば、別の生命境界を持ち、その内部に観念領域を所有しているもの、端的にいえば「他の生命体」は操作不可能だ。そうはいっても、そのオルタナティヴ・ファクトの内部では、オルタナティヴ・ファクトの所有者は、圧倒的に有利に物事を進めることが出来る。

 乾き切った骨が積み重なって出来た大地。

 一点の光さえも見当たらない暗黒の天空。

 降り注ぐのは、ただ、灰、灰、灰。

 今。

 デニーは。

 その。

 オルタナティヴ・ファクトを。

 現実に展開したというわけだ。

 そう、デニーは、強く賢い生き物なのだ。これほど広範囲にわたって、持続的に、オルタナティヴ・ファクトを展開出来るほどの精神力を有する生き物なのである。そして、いうまでもなく、ただ展開しただけだというわけではない。

 オルタナティヴ・ファクトによって浸食されたのは、世界のうちの入れ物の部分、ステージというかフィールドというか、領域的な部分だけだったのであって。先ほども書いた通り、ミヒルル・メルフィスの軍勢と生命の樹と、今までと同じようにそこにあるがままだ。ということで、これを敵に回して「戦争」という行為を行なわなくてはいけないという事実に変わりはない。

 ただ、少し考えてみて欲しいのだが。今のところデニーの側におけるまともな戦力としては、デニーと、それからアビサル・ガルーダと、この二つのforceしかない。まあ、真昼も戦えないというわけではないのだが。相手は大群で襲い掛かってくるところの高等知的生命体なのである。お世辞にも役に立つとは思えない。要するに、今のままでは、圧倒的に不利だということだ。

 ということは、戦力の増強は不可欠であるということだ。さて、そう考えた時に……オルタナティヴ・ファクトが、一般的には、どのように使用されているのかということを考えてみよう。それは、何かを入れるための入れ物、持ち運びしやすい袋だとか箱だとか、そういう風に使う。そうであるならば、デニーが、今、その入れ物をひっくり返したのと同じだということに気が付くだろう。中に入っていたものを全てぶちまけたということだ。

 では。

 その。

 入れ物の。

 中には。

 一体。

 何が。

 入って。

 いたのか?

 デニーが、くるりと振り返る。

 真昼の方を向いて、こう言う。

「真昼ちゃん。」

 玩具の兵隊。

「真昼ちゃん。」

 玩具の兵隊。

「ほら。」

 玩具の兵隊。

「プレゼントの箱を開ける時間だよ。」

 何か、とてもとても不吉な音がしたような気がして、真昼は、はっと振り返った。がじゃり、がじゃり、骨と骨とがすれ合う音。甲殻が崩れ、金属片が転がり落ちる音。高台から、その先にある沙漠へと向かって聞こえた音。

 アビサル・ガルーダの、ちょうど足元の辺りから始まっていた。そして、アビサル・ガルーダを先頭としているかのように、後ろへ、後ろへ、狂い果てた波が、うねり、蠢き、ひしゃげ、ざわめくかのようにして広がっていく。

 何かが……骨の山の中にいる。真昼にはそれが分かった。なぜなら、ぼこり、ぼこり、ただ土を盛り上げただけの墳墓みたいにして、骨の山のそこここに盛り上がりが出来ていたからだ。

 いくつあるのだろうか、とてもではないがぱっと数えられるような数ではない。恐らくは、百を少し超えるくらいだろう。大きさとしては様々で、ある墳墓は直径三ダブルキュビトくらい。ある墳墓は直径十五ダブルキュビトくらい。直径二ダブルキュビトちょっとといった感じのものもある。

 そして、それらの墳墓は、どくんどくんと心臓の鼓動のように蠢動していた。あるいは、もっと正確にいうのであれば、卵の中の胎児が今まさに生れ落ちようとして卵の殻を叩いているかのように。そう、その墳墓の中から、何かが……何か、死を象徴するものが、生まれ落ちようとしていた。

 がじゃり。

 がじゃり。

 どじゃ。

 ぐじゃ。

 ずるん。

 真昼の視線の先。

 墳墓から。

 それが。

 姿を。

 表わす。

 真昼から見て、一番近くの墳墓。その頂上部分を突き破って出てきたものは……手だった。どこからどう見ても手だ。手首、手のひら、五本の指。けれども、それは人間の手ではなかった。一つ一つの指先には、鱗のように固く引き締まった肉球がついていて。そして、諸刃の短刀よりも鋭く危険な爪が突き出している。それは、ネコ科の動物の手。ネコ科の動物の中でも最も力強い生き物の手。要するに、ヴェケボサンの手。

 何かを探るように、その手は、何もない虚空を掴んだり離したりしていたが。やがて、どぐじゃり、とでもいう感じの音を立てて、墳墓の頂上の辺りにべたりと手のひらをくっつけた。ぎぎぎぎ、と、そこに爪を立てて、手の全体を固定すると。ぐぐぐぐ、と、凄まじい力を入れる。すると……墳墓の中に未だ収まっていた他の部分、ヴェケボサンの肉体の全体が、一時に姿を現わした。

 がらがらと一つの骨の墳墓が崩れて、中からは一匹のヴェケボサンが生まれたということだ。また、生まれたのは、その一匹のヴェケボサンだけではなかった。先ほども書いた通り、墳墓の数は百を超えていたのであって。その一つ一つから、それぞれ一匹ずつのヴェケボサンが生まれたのだ。屠󠄀獅子刀を持ったヴェケボサン、天貫弓を持ったヴェケボサン、誰も彼も、明確な殺意をその身に纏ったヴェケボサン。あるいは……これは……あまりにも……あり得てはいけないこと……他の墳墓よりも小さい二ダブルキュビト程度の墳墓から生まれたのは、未だ幼さの残る子供のヴェケボサンであった。

 生まれたのは。

 ヴェケボサン、だけ、と。

 いうわけでさえなかった。

 例えば、あの直径十五ダブルキュビトの大きさがあった墳墓。あそこからは、まず、ヴェケボサンの手が突き出して。そして、その次に、巨大な二枚の羽が姿を現わした。しかもそれは鳥の羽ではなかった。翼膜としての羽、金属のように硬質な皮膜のような羽。つまり、グラディバーンの羽。そこから生まれたのは、まるで騎兵のようにグラディバーンの上に乗ったヴェケボサンだった。あるいは、あちらの直径十ダブルキュビトの大きさがある墳墓。そこからは、悍ましいまでに無数の牙が生えた大顎が姿を現わして。そして、そこから生まれたのはヒクイジシだった。ヒクイジシに騎乗したヴェケボサンだ。

 あちらから、こちらから、次々に生まれる。こちら側の……軍勢が。つまり、デナム・フーツの軍勢が。そう、それは、間違いなくデニーのものだった。デニーの玩具であった。

 とはいえ、これらがデニーの玩具だというのならば、デニーはどこでこれらを手に入れたのか? だって、デニーは、このアーガミパータに来た時には、一人の兵隊さえ連れてこなかったのだ。正確には連れてこられなかったといった方がいいかもしれない、それだけアーガミパータに入るための門は狭き門なのだ。まあ、それは、こちら側に来てから、手近にいた正規軍だのテロリストだのを殺して自らの兵隊として使役していた。とはいえ、そういった兵隊は、ここまでの道程で全て消費し尽くしたはずだ。一体、これだけの兵隊をどこで手に入れたのか?

 いや、演技的無知はやめよう。真昼は知っていた、完全に知っていた。デニーが、いつ、どこで、これを手に入れたのかということを。デニーは、これらの兵隊を、昨日の夕刻、はぐれヴェケボサンの隠れ家で手に入れたのだ。

 全て。

 全て。

 真昼は。

 知っていた。

 知っていて。

 知らないふりをして。

 見逃していた、のだ。

 あの時、真昼がいたところ。アビサル・ガルーダの手のひら、そこから下へ下へと向かったその場所で。行なわれていたことというのは、つまり虐殺だった。デニーは、殺していた。殺して殺して殺していた。そこにいた全ての生き物を、一欠片の生命さえも残らず皆殺しにしていたのだ。笑っていただろう、けらけらと、さも面白おかしそうに。デニーは笑っていたはずだ。笑いながら、奇襲を仕掛けたのだ。ヴェケボサンに油断などというものがあるのかどうかは知らないが、とにかく、夕刻になり、食事の支度をしていたヴェケボサン。その日の獲物に沸き立ち、恐らくは何かしらの快楽のための薬物も使用していただろう。そのような状態の、祝宴の、只中に落ちていって。そして、無邪気で無慈悲な爆弾のように暴れ狂った。大人も子供も関係なく。ヴェケボサンもグラディバーンもヒクイジシも関係なく。切り殺し、刺し殺し、焼き殺した。そして、そのようにして作り出した死体を……今、このようにして、軍勢として使用しているというわけだ。

 真昼は。

 知っていた。

 知っていた。

 全て、知っていたのだ。

 それが、してはならないことだということ、絶対的な悪だということさえ知っていた。けれども、それでも、真昼は、そのことについて何も考えなかった。まるで完全に何一つそのことについて知っていない一つの無能なコンピューターのようにして。なぜ、なぜ真昼はそんなことが出来たのか? そこまで恥知らずなことが出来たのか? いうまでもなく、それは、それが真昼にとっての現実ではなかったからだ。それは真昼が犯した悪ではなかった。真昼が殺したわけではなかった、ヴェケボサンの幼い子供から、惨たらしくも心臓を抉り出したのは、真昼ではなかった。それどころか、真昼はその光景を見てさえいなかったのだ。だから、真昼にとっては、それはどうでもよかった。真昼にとっては、善も悪もない世界で起こった一つの現象に過ぎなかった。

 ただ、今……真昼は、それを見た。その結末を見た。それどころか、その現実は、今や真昼の血肉となっていた。真昼が知らないふりをしている間に、それは、真昼自身の悪になっていた。驚くべきことだった、まさかこんなことが起こるとは。だが、それは、実際に起こったのだ。

 悪などないはずではなかったか? さりとて、これを悪ではないと、真昼はそう断言することが出来るのか? 一つの集団が、命あるものの集団が、まだあどけない子供までいる集団が。痛みと苦しみとの絶叫の中で、皮膚を刻まれ、骨を砕かれ、内臓を引き摺り出され、そうして死んでいったのだ。ただ……ただ、利用されるためだけに。兵隊として利用されるためだけに。

 そして。

 その兵隊とは。

 真昼のための。

 兵隊。

 ところで、そうして、骨の中から再びの誕生を果たしたところのはぐれヴェケボサンの皆さんであったが。「ヴェケボサン」と「皆さん」とで韻が踏めますね。とはいえ、それはリビング・デッドとしての復活というわけではなかった。

 ヴェケボサンの一匹一匹、あるいは、グラディバーンでもヒクイジシでもいいのだが。デニーによる虐殺の際に負ったのであろうと思われる全身の傷、ほとんど真っ二つにされた首だとか、胸の辺りにぽっかりと開いた穴だとか、ぐじゃぐじゃに潰れた頭蓋骨だとか、そういった傷口から、たらたらと、黒い液体が滴り落ちていた。あるいは、死者のようにぼんやりと開かれた口の端から涎のように。あるいは、夢を見ているかのように曖昧に開かれた目の端から涙のように。黒い色、を、した、何かが、流れ落ちる。

 そして、最も決定的な事実は……まさに、その眼球の色について。二つの眼球が、あるいは、そのうちの一つが食いちぎられている場合は一つの眼球が。やはり、黒く塗り潰されていたのだ。あたかもこの世界における生命というものの完全な反転色であるかのような色……つまり、反生命の原理によって。

 そこにいる兵隊の全てがアビサル・ガルーダと同じようにアビサル・マジックで蘇らされていたのだ。これだけの……これだけの生き物、というか生きていたものに、アビサル・マジックを使うということ。それが、どれほどに凄まじいことなのか想像がつくだろうか。普通の魔学者に出来ることではない。

 以前も書いたことだが、「死者のabyss-form化」を行なうためには、「摂理化した契約」を書き換えることによって対象となる死者の生命境界内部における存在・概念の結合条件を生命から反生命に反転させる必要がある。当然ながら、ある特定の死者をabyss-form化しようとする時には、その死者に最適化した、非常に精密な「詐欺または強迫」を行なわなければいけない。ここでいう「詐欺または強迫」というのは、一般的な意味で使用しているのではなく契約学的な意味での使用であり、それは律法を仮定的な虚偽性の方向に強制的に捻じ曲げるということであるが。とにかくここでいいたいことは、それぞれの死者によってそれぞれの契約改定の方法があるということだ。

 つまり、これだけ大量の死者をabyss-form化するためには、それと同じほど多くの修正作業を行なわなければいけないのだ。それは、例えていえば、どこが異なっているのか全く分からないのだが、とにもかくにもほんの僅かに異なっているところの、恐ろしく複雑な数学の問題を、一つ一つ丁寧に、百以上、こなさなくてはいけないという感じである。しかも、その計算を少しでも間違えてしまった場合、自分が死ぬだけでなく世界が滅びてしまう可能性さえある状況下で。まあ、デニーちゃんには良心というものが欠片もないのであって、そのような状況下でも、少しの緊張も感じないわけであるが。それでも、ヤバい意味でヤバい作業だということに変わりはないのである。

 とてもではないが。

 人間には。

 不可能だ。

 そのようにして作り出された、これはアビサル・レギオンとでもいうべき軍勢だろう。普通のリビング・デッドであれば、デニーが使用可能な魔力の範囲内に限定される一人一人の兵隊のアビリティが。高等知的生命体であるところのヴェケボサンであっても、セミフォルテアを武器として使用出来る強力な魔獣であるところのグラディバーン・ヒクイジシであっても、最大限引き出された状態であるということだ。

 しかも、それだけではなかった。よくよく見てみると、一人一人のヴェケボサンは、その肉体の全体に、何かが刻まれていた。ひどく痛々しい、肉が剥き出しになるほどに深く抉られた傷口は何か禍々しい色をした光を放っている。えろえろとした悪夢に浸されて、鈍く鈍く腐り果てた金属のような色。そして、その傷口が描き出している図形は……間違いなく魔学式であった。

 あらゆる説明をすっ飛ばして結論だけいうならば、それは、ヴェケボサンのオルガニカ・プシコロジカが、反生命の力、アンチ・ライフ・エクエイションを、直接的に消化可能にする魔学式である。そんなことが出来るのかというと、まあ出来ない。普通ならばそんなことが出来るわけがない。ヴェケボサンを強化するのは動物生気であるが、動物生気とは要するに極限まで濾過されたところのアピテモン・デア・デア基底装置稼働能力のことであって、それは生命的なあらゆる構造とは全く異なったものだからだ。それは、疎隔の構造ではなく決定の構造なのである。物事を決定的に動かすための構造なのである。

 ただ……忘れてはいけないのは、その魔学式を、その肉体に、慈悲の一片さえも見せることなく刻み込んだのはデニーだということだ。そして、デニーに不可能なことはない。それがいい過ぎだというのならば、少なくとも、人間には不可能なことの大部分は、デニーには可能なことである。

 そんなわけで、その軍勢のヴェケボサンは。その肉体がアンチ・ライフ・エクエイションに浸されれば浸されるほどに強力な力を得ることが出来るというわけである。また、それと同じような魔学式がグラディバーン・ヒクイジシにも刻まれていて、それは、騎乗しているヴェケボサンが強化されるのに同期して騎獣もやはり強化されるように調整した魔学式であった。そんな魔学式は、絶対に、何があろうと、ありうるわけがないのだが(以下略)。

 さて。

 と。

 こ。

 ろ。

 で。

 「ところで」の一単語でめちゃめちゃ改行したな。まあいいけど。いや、えーと、なんだっけ。そうそう……確かに不可能を可能にして、その軍勢は、アンチ・ライフ・エクエイション、反生命にとってのスナイシャクのような役割を果たすその力を食らえば食らうほどに力強い存在になることが出来るようになった。とはいえ、普通の状態では、それはそれほど役に立つ変更点ではない。なぜというに、アビサル・レギオンの状態になろうと、その個体個体が有する反生命の力は、所詮は個体がもともと有していた生命力の範囲内に収まるからである。

 そう、本来であれば。

 本来の現実であれば。

 しかしながら。

 ここは。

 本来の現実では、ない。

 デニーにとっての現実。

 デニーのオルタナティヴ・ファクトの。

 その内側なのだ。

 先ほども書いた通り……この、もう一つの現実においては。本来はライフ・エクエイションをきらきらと湛えた湖であったはずのそれが、アンチ・ライフ・エクエイションをどろどろと溢れさせる湖に変わり果てている。そういったアンチ・ライフ・エクエイションの湖が、いつの間にか、あちらからこちらから集まってきていた。どこに? もちろん軍勢がいる場所に。城塞も天幕もないその宿営に。

 定義、定義、エペイソデオン、記号的弾道、韻律。詩は美しいだけでは意味がない。それは力でなければいけない。全てを地の上から払いのける嵐。天から落雷する畏怖。そして、いうまでもなく殺戮とは一つの詩的芸術である。

 ある意味では、舞踏のためのテトラメトロスのように、けれども、その意味を誰も理解出来ない方法で整列している軍勢。その足元に……そっと、アンチ・ライフ・エクエイションの湖が流れ流れていく。合唱隊、コロスの足元に。

 とぷん、と音がしたような気がした。多分気のせいであろう。それでも、いつの間にか、その軍勢の全体はアンチ・ライフ・エクエイションの湖に浸かってしまっていた。大体、ヴェケボサンでいうと足首の辺りまでだ。せいぜいが水溜まりというくらいの深さ。それでも、その水溜まりは、あまりにも広い範囲まで広がっていた。百人以上のアビサル・レギオンも、アビサル・ガルーダでさえ、その水溜まりに浸されていたのだ。

 それから。

 その水溜まりが。

 唐突に。

 捕食を。

 開始する。

 真昼が見ているその光景、そうとしか表現のしようがない現象が始まった。軍勢を、さぱりさぱりと、音もなく洗っていたアンチ・ライフ・エクエイション。それが、いきなり、ざばりと波立ち襲い掛かったのだ。アビサル・レギオンの一人一人の足元にそれぞれ一つずつ。あたかも怪物の顎門のようにして、アンチ・ライフ・エクエイションの水柱が上がった。そして、兵隊の全身をその顎門の中に飲み込んでしまった。

 それから……絶叫。もちろん、その絶叫は、水柱に包み込まれた兵隊が苦痛のあまり吐き出したところの叫び声であって。あたかも寄生虫の大群のように、無理やり喉をこじ開けて胃の腑へと入り込んでくるアンチ・ライフ・エクエイションのせいで、くぐもった音になってしまってはいたが。それでも、そのあまりにも悲痛な鳴き声、絶望以外のなんの意味も表わしていない本能的な悲鳴は、真昼の耳まで聞こえていた。

 水柱は。その絶叫を嘲笑うかのようにして、ごぽごぽと泡立ち始めた。その泡立ちは次第次第に沸騰の度合いを増していって、やがて、何か……奇妙な形状を表わし始める。これはどう表現したらいいのだろか。とにかく見たままをいうとすれば、それは、巨大な影を纏った、ヴェケボサンや、ヒクイジシや、グラディバーンや、そのような姿であった。

 もともとのヴェケボサンは、大体、二ダブルキュビトから三ダブルキュビトといったところだったが。今となっては、その二倍以上の大きさになっていた。つまり、最低でも五ダブルキュビトだとか、大きなヴェケボサンであれば十ダブルキュビト近くになっていたということだ。また、ヒクイジシやグラディバーンや、そういう生き物に至っては、二十ダブルキュビトだとか三十ダブルキュビトだとか、そういった規模になっていた。

 全体が、完全に、アンチ・ライフ・エクエイションに包み込まれている。その、あらゆる生命体が終わりの時に帰っていくであろう、「母なる海」の絶対的対立物とでもいうべき疑似的な液体の内側に取り込まれている。ざらざらと波立ち、したしたと滴り落ちる液体……それが、内側の、反生命体を取り込んで。そして、その反生命体を、更なる、更なる、異形の怪物に変化させてしまったということだ。

 その大体の形状は、少し前に書いた通り、もととなる反生命体の姿に似ている。ただ、それよりも……遥かに研ぎ澄まされた姿をしていた。例えば、もとの姿が磨製石器の刃だとすれば、今のそれは月光刀だ。あるいは、もとの姿がスリングショットだとすれば、今のそれはアサルトライフルだ。それは、既に、生き物を殺すためだけの形状、殺戮に最適化された姿であった。どろどろとした影が揺らぎ揺らぎ、ぼんやりとした輪郭は水面に映し出された月の光のように曖昧だ。それでも、その怪物が、疫病のように死をもたらすものであるということは明白である。

 全体が、ただただ暗黒に包まれていて。その暗黒を、デニーが刻み込んだ魔学式だけが引き裂いている。そして、目があるべき場所に、なんらかの感覚器官が……腐敗した血液にも似た赤色をしている、眼球に似た球体が、埋め込まれている。

 ああ。

 それは。

 つまり。

 悪魔だ。

 御伽話の中。

 絵本に描かれた。

 悪魔。

 そのものの。

 姿。

 アビサル・レギオンの兵隊、一人残らず、一匹残らず、そのような姿へと変貌を遂げた。そして、また、変貌は……実は、アビサル・ガルーダをも襲っていた。絶叫とともに、アビサル・ガルーダの全身は一つの殺戮兵器へと変貌したのだ。

 その大きさは、さすがに、ヴェケボサンほど巨大化したわけではなかったが。それでも二倍近い大きさになっていた。つまり、その高さが二百ダブルキュビト以上。仮に両の羽を伸ばせば一エレフキュビトに到達するという大きさである。

 そのようなアビサル・ガルーダを先頭にして。

 正しい意味で生きているわけでも。

 正しい意味で死んでいるわけでも。

 そのどちらでもない。

 完全に。

 絶対に。

 間違った。

 深淵の。

 軍勢が。

 その場所に。

 現われたと。

 いうわけだ。

 真昼は、全身から力が失われていくのを感じた。それを見たせいで、その軍勢を見たせいで。あまりの……恐怖……いや……そう、「正しきものの不在の感覚」。そこにしっかりと立つことが出来る、善なる足場、精神的な安定感のようなもの。そういった全てのものががらがらと崩れ落ちていく感覚を感じたのだ。

 そして、そのゆえに、立っていることが出来るだけの精神力さえも完全に喪失してしまった。ただただその場に頽れることしか出来なかった。がしゃんという音を立てて、骨の山の上に膝をついて。それから、やはり骨の山の上に両方の手のひらをついて、辛うじて上半身を支える。

 「あはっ……あははっ……あははははははははっ!」、きらきらに楽しそうな笑い声でデニーが笑う。「真昼ちゃん! 真昼ちゃん!」「どーお、気に入った?」「全部、全部」「真昼ちゃんのために用意したおもちゃだよ!」「真昼ちゃんのための、このパーティーを、さいっこーに楽しくするために!」「そのためだけに、デニーちゃんが作ったおもちゃだよ!」。

 そうして……その後で……デニーは……真昼がいる場所に近付いてくる。膝の骨を砕かれたように、腰の骨を砕かれたように、あるいは、安寧としてその内側で眠ることが出来る泥濘に似た固定観念を、粉々に打ち砕かれたかのように。ただただ、立つことも出来ず、その場所で跪いている真昼に向かって。

 真昼は、見上げている。そのようにして近付いてきたデニーのことを。そういえば、そうやって空の方向に視線を向けることでようやく気が付いたのだけれど。デニーのオルタナティヴ・ファクト、その空には、一つの天体が浮かんでいた。

 それは、まるで、皆既日蝕の時の太陽のような姿をした天体であった。つまり、それ自体は完全な空虚。暗黒、絶対的な闇なのであるが。そこから、何か、信じられないほど邪悪な、信じられないほど強力な、信じられないほど凄惨な、力が、放射されている。そして、その力が、禍々しく悍ましい輝きとなって溢れ出しているのである。

 その天体の、最も太陽に似ている点は、内側に何かが閉じ込められているという点である。太陽が、神の卵であって、最も偉大な神の胎児を宿しているように。その天体は……いわば……そう、牢獄であった。その天体の内側には、何かが投獄されていた。その何かが、絶対に外に出てこないように、絶対に自由になることがないように。

 その何かは……いや、そんなことがあるだろうか? 驚くべきことに、真昼の見た限りでは、その牢獄に閉じ込められていたのは人間の女であった。その周囲に、八つの力、何か計り知れない力を纏わりつかせている人間の女。デナム・フーツのオルタナティヴ・ファクト、その内側の、最も高きところ。そのような場所に封印されている何か。神々さえも畏怖すべきほどの栄光を放っている何者かが人間であることなど、ありうるだろうか?

 真昼が後々になって(つまりデニーの奴隷であるところの暗殺者となって)知ることになる事実であるが、それは間違いなく人間だった。名前はゲッセマネ、「聖なる油を搾る者」。自らの生命境界内部に、八神戦争の際に地球にやってきたところの外宇宙の神々、その全てを宿した兎魔学者。その力はたった一人でパンピュリアの三天使にも匹敵し、王の位を手に入れた歴史上三人しかいない人間のうちの一人。そして……デニーが個人的に所有する死者のうちで、紛うことなく最強の者。あまりにも力強き者であるがゆえに、デニー自身もまともなコントロールを行なうことが出来ず。それゆえに、オルタナティヴ・ファクトの内側に、九と十七と七と、最高の神学的防壁を施して封印しているのである。

 ただ、現在の真昼はそのような事実を知る由もなかったのであって。また、この物語に関係ある事実であるというわけでもない。とにかく、ここで、いいたいことは。その空には、偽物の太陽が、聖なる、聖なる、邪悪さによって暗黒の輝きを放つ太陽が浮かんでいたのであって……デニーは、その太陽を、あたかも救世主のしるしのようにして背負いながら、真昼がいる方へと歩いてきたということだ。

 真昼の目の前に立つ。真昼のことを見下ろしている。ににーっと、これ以上ない純粋さ、一片の曇りさえも見当たらない清らかさによって笑顔を浮かべながら。背中に回した手、腰の辺りで指と指とを織り成して組んで。ほんの僅かに上半身を傾けて、首筋を真昼の方に向けて。ゆらゆらと柔らかく揺れるフードの奥で、跪いている真昼の顔を覗き込む。

 その顔の背後には、主の栄光が輝いている。悪魔も……悪魔も、やはり主が作り出した計画なのだ。それならば、ああ、救世主、救世主、救世主に似ている。この男が、デナム・フーツが、主がもたらす救いの性質を背負い、そして現われるところの救世主であるということも、やはりあり得ないことではないのかもしれない。主の計画は、時には、笑ってしまうほど計り知ることが出来ない。

 ただ。

 そうであるならば。

 救い、とは。

 なんなのか。

 ああ、今……デニーが、背中で組んでいた手のひらと手のひらとをほどいて。それから、真昼に、右手を差し出す。「さあ、真昼ちゃん」「そろそろ行かないとね」「真昼ちゃんがこのパーティの主役さんなんだから」「そんな主役さんが、いつまでもいつまでもこんなとこにいちゃ駄目だよ」。

 真昼には、その手を拒絶することなど出来ない。もちろん、もちろんだ。誰が主の計画を否定出来る? 否定というのは、主の計画の内部で、その実現のために行なわれるべき何かであって。主の計画の外側からそれを否定することなど誰にも出来ない。だから真昼にはそもそも選択肢がない。

 デニーの右手が真昼の右手にそっと触れる。と、その瞬間に、デニーは、優しく優しく真昼の右手を引き上げる。くっ、と引っ張られた真昼は……決して解けることのない氷、で、出来た操り人形のように艶やかに。デニーの方に向かって全身を立ち上がらせる。いうまでもなく、それは真昼自身の力によるものではない。真昼の肉体は、既に虚しくなっている。そこからは、既に、孤独さえ失われてしまっていて。それは不在の不在の不在である。

 デニーの力だ。全てはデニーによって操作されているだけの話だ。真昼は立ち上がり、そして、デニーによって抱き寄せられる。あたかも綿菓子のように柔らかく、あるいはプディングのように甘く。真昼は、ただただそこに寄り掛かっていることしか出来ない。

 「さあ、こっちだよ、真昼ちゃん」「あの場所からなら、全部全部が、いーっちばんよーく見えるからね」、そう言いながら、デニーが真昼のことをエスコートする。前へ、前へ、進んでいく。肯定的な行動、積極的な行動、どこまでもどこまでも前向きに世界を進んでいくということ。そして、二人は、初めてのpromenadeのような足取りによって……骨を積み重ねた高台の上、一番高くなっている場所までやってくる。

 ここからなら。

 このパーティの。

 あるいは。

 戦争。

 侵略。

 虐殺。

 の。

 全部。

 全部。

 が。

 見える。

 悪とは欠如である……要するに、善の欠如である。それは、そこには善きものが何もないということだ。主は選ばれるべきものを選ぶ。そして選ばれるべきではないものは捨てられる。主はかくあるべきものに対して然を宣告する。主はかくあるべきではないものに対して否を宣告する。悪とは、捨てられ、否を告げられたものだ。もちろん、天国においてはそのようなものはあり得ない。だから、それは虚無である。それは不可能の不可能として、ただ単なる否定「された」ものとしてのみ記述される。

 ああ、そうであるならば、今、真昼が見ているその光景は……まさに、悪だった。そこには善なるものは何もなかった。ただただ、死という事実そのものさえも死に絶えたような死骸が、どこまでもどこまでも続いていく。空には何もない、反転した色によって輝き続ける暗黒の太陽、罪人の牢獄以外には。降り注ぐのは、慈恵の雨でも奇跡の雪でもなく、乾き切った灰。そして、地上のそこここには、アンチ・ライフ・エクエイションが湖として滴っている。完全なる死の世界、生命が欠如した世界だ。

 これが。

 デナム・フーツの。

 素晴らしい世界だ。

 ピップ・パップ・ギー。なんて楽しいんだろう。ぽっかりと空虚な心臓が、まるでクラックルでフリッズルでスパークルなハートビートでドキドキしているみたいだ。真昼の心臓が真昼に向かって、鼓動の一つ一つで問い掛けている。何で? 何で? 何で? 何で? 真昼に向かって悪の名前を問い掛けている。

 けれども、そんなことは、やっぱりデニーには関係ないことなのであって。デニーは、右の腕、真昼の肩に回して、真昼の肩を抱いて。そうして、ぐったりとした真昼の全身を、べったりと自分に寄り掛からせてから。相変わらずきらきらとした輝くような笑顔を浮かべたままで、左手で、真昼に指し示して見せる。

 そこから見える。

 光景の全てを。

 絶対的な悪。

 その内側で。

 あたかも。

 悪の原因である。

 真昼のことを。

 排除しようと。

 しているかのように。

 こちらに。

 こちらに。

 向かってくる。

 天国の。

 軍勢を。

「真昼ちゃん! 真昼ちゃん! 今からね、デニーちゃんがね、ここから見えるものの全て、ここから見える天国の全てを滅ぼしてあげる! 真昼ちゃんのために、真昼ちゃんだけのために! それから、それから、あそこに見えるとーっても素敵なもの! とってもとってもとーっても素敵なお花を、真昼ちゃんにあげる! どお、どお、ねえ、どーお? 真昼ちゃん! 嬉しい? 嬉しいでしょーお!」

 デニーが言うところの「お花」とは、要するに生命の樹のことであったが。それはそれとして、真昼は、その問い掛けに答えることが出来なかった。何かを、何かを、あたしは、どうしようもなく間違えてしまった。そして、そのせいで、とんでもなく悪いことが起きようとしている。絶対に起こってはいけない邪悪がこの世界に起ころうとしている。

 あたしは。

 天国を。

 滅ぼそうと。

 して、いる。

 しかし真昼に何が出来るというのだろうか。当然ながら、真昼には、何も出来ないのだった。それは、真昼が、弱いだとか、愚かだとか、そういうところとは別の次元にある、何か決定的な法則のようなものであった。天国には悪魔が入ることが出来ない。それと同じような、破棄することの出来ない法則。真昼は、その肩に回されているデニーの右腕さえも振り払うことが出来ない。

 そして、その、デニーは。くすくすと、デニーがそう笑うであろう笑い方で笑った。そう、全てはその通りにそうなるのだ。そう、今となっては教会こそが主の王国なのである。天の王国は不要だ、なぜなら天の王国は幸福を奪うからだ。天の王国に入ることが出来ないものから幸福を奪うからだ。あらゆる生き物を罪人と定義する教会の王国だけがその強奪を阻止することが出来る。

 デニーは。

 笑いながら。

 そっと。

 真昼の。

 耳元に。

 口を寄せる。

 そして。

 まるで。

 永遠の愛を囁く。

 恋人の、ように。

 こう。

 囁く。

「ケーキの火を吹き消すよ、お願い事をして。」

 その瞬間。

 全軍が。

 作動する。

 アビサル・ガルーダが羽搏いた。神にも等しい魔法の力が、一つの凄まじいテンペストとなって高台の上に荒れ狂う。ごうっと吹き荒ぶ風、骨が、生命だったものの見る影もない残骸が、まるでパーティ・ポッパーの中の紙吹雪のようにそこら中に飛散する。

 生命の希望、その光、を、反転したような絶望の暗黒を身に纏ったままで。翼を広げたアビサル・ガルーダ、一エレフキュビトを超える巨体。パリウド搭載型対洪龍戦術ミサイルのような凄まじい勢いで飛び立った。その高台から、遥かなる高みへと向かって一気に上昇する。ちょうど、ミヒルル・メルフィスの軍勢が、こちらに向かってある種の災害のように進軍してくるその高さまで……そして、その高さまで辿り着くと。そのまま、あらゆる破滅をもたらす万雷のごとき咆哮を上げながら突撃を開始した。

 そして、そのアビサル・ガルーダを先頭にして。

 アビサル・レギオンも、一斉に、侵攻を始める。

 グラディバーンに乗ったヴェケボサンは、アビサル・ガルーダに劣らない荒々しさによって離陸した。ただ、とはいえ、どちらかといえば、ミサイルというよりもなんらかの射出装置によって発射される戦闘機のような有様ではあったが。アビサル・ガルーダのように垂直に上昇するのではなく、一定の角度によって、アビサル・ガルーダのことを追いかけるかのようにして飛び立ったということだ。そのまま、ほとんど実体と一体化したアンチ・ライフ・エクエイションをだらだらと垂らしながら、ミヒルル・メルフィスに向かって砲弾のように飛んでいく。

 あるいは、ヒクイジシに乗ったヴェケボサン。それに、何に騎乗しているわけでもない、いわゆる歩兵のヴェケボサン。がじゃんがじゃんと、確かに生命であったはずの残骸を、まるで無関心に踏みくだしながら。あたかも獲物を見つけた肉食の獣のように駆け出した。理性も知性も、そこには欠片も残っていなかった。ただただ溢れるような殺意、そして溢れるような悪意。ほとんど生命としての渇望といってもいいほどの激しさによって、目の前にいる全てのミヒルル・メルフィスを殺し尽くそうとしている。そのような態度で駆ける、駆ける、駆けていく。

 そして。

 その侵攻の過程を。

 真昼は、見ている。

 用意された。

 最高の。

 特等席で。

 頭上をグラディバーンが飛んでいく。貪欲に、貪婪に、開かれたままの口から、だらだらとアンチ・ライフ・エクエイションを滴らせながら。真昼が立っている場所、そのすぐ横を、ヴェケボサンが駆け抜けていく。あるいはヒクイジシが、狂暴そのものといった叫喚の鳴き声を上げながら突進していく。音が聞こえる。空気が真っ直ぐに切断される音が。骨の山が蹴り飛ばされ、死の断片が粉々に割れていく音が。鼻を通して頭蓋骨を貫くのは、虚無の匂いだ。真昼は虚無に匂いがあるということを初めて知った。そう、虚無には匂いがある。その虚無が、この世の善きもの全てを滅ぼそうとしている時には特に。

 百を超えるレギオンが、真昼の上を、右を、左を、突っ切っていく。真昼を中心として、その侵攻が行なわれていく。なぜならば、その万軍の主は……真昼だからだ。アラリリハ。褒め称えよ、褒め称えよ、万軍の主を褒め称えよ。力強き鷲よ、翼を掲げよ。勇敢なる獅子よ、こうべを上げよ。今、栄光の王が、高きところで望まれる。天国の滅びを望まれる。この栄光の王とは誰か? 悪の名前、悪の名前、悪の名前とは何者の名前か。

 ああ、そう、レギオンは……その、全てが、全てが、悪魔だった。笑ってしまうほど典型的な。まるで絵本にも出てきそうな姿をした悪魔だ。全身は、光と敵対する暗黒によって覆い隠していて。そして、その暗黒から、ただ、眼だけが。原罪の赤によって塗り潰された眼だけが見えている。

 そして、その悪魔達のconductorは、なんとなんと、真昼なのだ。真昼こそが、悪魔達の、王。悪魔達が今からなすこと、その全ての残酷は、真昼のために行なわれることなのだ。ということは、真昼は悪魔なのか? もちろん、悪魔だ。あたし達は、みんな悪魔だ。だって、ねえ、ここは地獄の底なんだから。どこもかしこも、天国も、結局は地獄の底の底なんだ。ああ、全部、いつか聞いたことがある諺の通りだ。地獄の底であたしのことを助けてくれるのは悪魔だけだ。

 悪魔の大軍は。

 あたかも。

 機械仕掛けの。

 絶滅装置の。

 ようにして。

 無慈悲に。

 進んで。

 進んで。

 進んで。

 そうして。

 やがて。

 滅ぼすべき。

 天国の。

 先端に。

 達する。

 真昼の耳に、笑い声が聞こえている。デニーが、高らかに、高らかに、まるでこの世界の終わりの時を告げる黙示録のような笑い声で笑っている。真昼のすぐ横で、楽しそうに、楽しそうに、笑っている。「あははははははははははははははははっ!」「真昼ちゃん!」「真昼ちゃん!」「ねえ!」「見て!」「あれを見て!」「今!」「天使達が!」「落ちていく!」。

 そして……その全てが始まった。最初に行なわれたことは、あまりにも呆気なく、あまりにも非道であったため、真昼には現実のことだとは思えないほどだった。なんというか、びっくり箱を開いた時に出てくる偽物のピエロのように現実味がなかったのだ。

 最初にミヒルル・メルフィスの軍勢と衝突したのは、いうまでもなくアビサル・ガルーダであったが。そのアビサル・ガルーダが、殺戮のみを目的として建築された建造物のように魁偉な嘴を開くと。まるで、あらゆる災いを告げるたった一つの予言であるかのような態度で……地獄の炎を吐き出した。

 そう、それは炎だった。けれども、正確にいえば炎ではなかった。ごうごうと燃える破滅の火炎、に、しか、見えないそれは。絶対的な暗黒によって溺れるように沈み込む、反生命の原理だった。つまり、アビサル・ガルーダは、炎を吐き出すようにしてアンチ・ライフ・エクエイションを吐き出したのだ。

 その炎に巻き込まれたのは、ミヒルル・メルフィスの軍勢の最前線を飛行していた者達。つまり祭祀階級のミヒルル・メルフィスだった。それらの者達は、当然ながら防御態勢をとった。具体的にいえば、全身を、何か真昼には全く理解出来ないたぐいの、不可思議な虹色で輝く光の球体で覆い隠した。ただ、それは全くの無意味だった。炎が触れるとともに、その球体は、どろりと腐敗するかのように溶け出して。そして、内側にいた……天使は。翅の欠片さえ残らず焼き尽くされた。

 百では決してきかぬ数の、数百の天使達が消えていった。そして、そのようにして消えた天使達の周囲にいた天使達も無事では済まなかった。ある者は、飛散したアンチ・ライフ・エクエイションの火花によって炎に包まれて。また、ある者は、ぎりぎりのところで回避したものの、取り返しがつかないほどに羽を焼かれてしまい、そのまま墜落していった。

 その光景を、凄惨以外の言葉で、どうやっていい表わせるだろうか? しかも、アビサル・ガルーダの攻撃はその一撃では終わらなかった。二度、三度、四度、天使の群れに向かって、何度も何度も炎を吐き出す。そして、そのたびに、数え切れないほどの天使達が掻き消されていく。

 いうまでもなく。

 そのような攻撃を黙って受け続ける天使達ではない。

 ちょうど、四度目の吐炎が終わった、タイミングで。

 反撃が、始まる。

 戦士階級のミヒルル・メルフィス、そのうちの洪龍のようなミヒルル・メルフィスが戦線に到達したのだ。十数匹の龍が、アビサル・ガルーダに向かって、一斉に襲い掛かる。確かに、アビサル・ガルーダは二百ダブルキュビト以上の巨体ではあったが。とはいえ、龍も五十ダブルキュビトを超える大きさである。そのような生き物に纏わりつかれれば、さすがのアビサル・ガルーダも、天使達を掻き消す片手間に対処するというわけにはいかない。

 があっと、涙の谷のように冷酷な顎門を全開にしながら、アビサル・ガルーダを食いちぎろうとしてくる龍。そのような姿に向かって……全力で、ヴァジュラを叩きつける。すると、これほど凄まじい悲鳴を生き物が上げることが出来るのかと思ってしまうほどの悲鳴、対神兵器が炸裂する一瞬の閃光にも似た絶叫を上げながら、龍の頭が叩き潰される。

 しかし、とはいえ、その龍がそのような惨劇となっている瞬間にも、別の方向から、別の龍が、アビサル・ガルーダに攻撃を仕掛けているのだ。一匹は羽に噛みつき、一匹は足に噛みつき、一匹は腕に噛みつき。そして、その他の龍のうちの何匹かは、あらゆる方向からあの生命力のビームを叩きつけている。

 アビサル・ガルーダは、そのような同時多発的な攻撃によってそれなりにダメージを負っているようだったが。残念ながら致命傷には程遠いようだった。その証拠に、アビサル・ガルーダは。あたかも屠殺の用途だけに特化した装置のような冷酷さによって、次の龍に対する攻撃に取り掛かったのだった。

 ところで、その悪魔の大軍は。

 アビサル・ガルーダだけでは。

 ないのであって。

 グラディバーンに乗ったヴェケボサン達も、既に戦線に辿り着いていた。このような悪魔達は、二つの攻撃方法によって天使達を攻撃しているようだった。

 まずはグラディバーンによる攻撃だ。これは、基本的にはアビサル・ガルーダのそれと同じような攻撃だった。つまり、反生命の原理によって包み込まれたグラディバーンは、セミフォルテアの代わりにアンチ・ライフ・エクエイションを吐き出していたということだ。もちろんその大きさは十分の一程度だったので、アビサル・ガルーダほどの範囲を焼き尽くすということは出来なかったが。それでも祭祀階級のミヒルル・メルフィスを数十は掻き消すことが出来た。

 また、その上に乗っているヴェケボサンであるが。こちらは、弓矢によって攻撃を仕掛けていた。もちろん、ただの弓矢ではない。天貫弓と、闢矢と、ヴェケボサンが戦闘の際に使う、ただでさえヒュージな弓矢。その全体にアンチ・ライフ・エクエイションが纏わりついたもの。矢を見てみれば、その太さは下手をすれば人間の子供ほどもある。その長さは数ダブルキュビトにも及ぶ。これは、矢というよりも……むしろロケット弾と呼んだ方がいいような代物だ。

 そのような矢を天貫弓に番えて、そして放つ。その狙いは、祭祀階級のミヒルル・メルフィスというよりも、むしろ戦士階級のミヒルル・メルフィスであった。つまり、一匹一匹が飛行する戦闘施設、浮遊要塞のようにさえ見えるところのミヒルル・メルフィス。その多種多様な兵器に矢を撃ち込んでいたのである。

 矢は、兵器に着弾すると。その突き刺さった箇所から、あたかも疫病のごとく広がっていった。アンチ・ライフ・エクエイションは、猛毒のように、矢から兵器の全身に感染して。そして、その反生命の暗黒が兵器の生命の力を蝕んでいくのだ。矢は、一本ではなく、二本三本と撃ち込まれていき……そして、やがては、その戦闘施設も陥落する。

 次々と襲い来る祭祀階級をグラディバーンが駆逐しているうちに、その上に乗っているヴェケボサンが戦闘階級を撃墜していくという方法によって。グラディバーンに騎乗しているヴェケボサンは、最も強力な洪龍型のミヒルル・メルフィス以外のミヒルル・メルフィスを撃墜しているのだ。

 さて、空中戦は。

 そのような形で行なわれているが。

 一方で、地上戦は。

 どうなっているか。

 あたかもタイプ・ヴァゼルタ超高速輸送ビークルのごとく、骨の山を踏み砕き蹴り砕きながら突進していく地上部隊。その先に広がっているのは……さっきまでそこにあったはずの、生命のオアシスは消え去っていて。ただただ不毛の荒野、死さえも死んだ滅びの大地に、労働階級のミヒルル・メルフィスが、点々と、取り残されているだけの光景だ。

 そのような労働階級を……無慈悲な刃が切り裂いていく。地上部隊のヴェケボサンが手にしていたのは、ただでさえヒュージな屠獅子刀が、アンチ・ライフ・エクイションを纏った暗黒、まるで死神の欠片のような姿をした刀であったのだが。ヴェケボサンが、なんらかの種類の収穫、命そのものの収穫ででもあるかのようにしてその刀を振り回すと。刃は、そこから、更に更に刀身を伸ばして。周囲、半径にして十数ダブルキュビトの距離にいた労働階級は、一気に薙ぎ払われるのであった。それだけではない。ヴェケボサンが、ある特定の標的を狙って刀を振り抜くと。その刀からは、あたかも波動のようにしてアンチ・ライフ・エクエイションが放たれる。つまり、この屠獅子刀は、飛び道具の役割も果たしていたということだ。また、ヴェケボサンが乗っているヒクイジシは……やはり、グラディバーンと同じように、アンチ・ライフ・エクエイションを炎のように吐き出して、周囲を焼き払っていく。そして、そのようにして、天国にいた全ての生き物が粉々に打ち砕かれていくのだ。草食動物のような姿をした生き物も、肉食動物のような姿をした生き物も。等しく消し去られていく。

 そして。

 やがて。

 悪魔の地上部隊は。

 天使の地上部隊と。

 激突する。

 アルマディリディウムを中心として……ただ、実は、それだけではなかった。まず、祭祀階級のミヒルル・メルフィスもその戦闘に加わっていた。いうまでもないことであるが、地上における戦闘には航空支援は不可欠なのであって。その役割を祭祀階級が担っていたわけだ。

 基本的に、航空支援といえば、まず思い浮かべるのは攻撃機による攻撃と爆撃機による爆撃とだろう。祭祀階級による支援をそのどちらに分類すればいいものか、非常に難しいところだ。

 まず大前提として考えなければいけないのは、祭祀階級による攻撃は、天使の地上部隊に一切影響を与えないということだ。人間至上主義的な文脈においては、航空支援にまつわる最も厄介な問題は、どうやって味方の部隊を巻き込むことなく敵方の部隊を叩くのかということであるが。ミヒルル・メルフィスの場合は、それを一切気にする必要がないのである。

 祭祀階級は、それぞれの翅、アウラに、あたかも凸レンズに直射日光を集中させるかのようにして、周囲の生命力の波動を集中させて。それから、それを一気に解き放つ。祭祀階級の翅、一度の翅搏きが、地上に突風のように吹きつけて。そして、悪魔の地上部隊が纏っているアンチ・ライフ・エクエイション、その一部を弱体化させるわけだ。

 そして、そのように弱体化した悪魔の地上部隊を、地上にいる戦士階級のミヒルル・メルフィスが攻撃する。戦闘階級も、もちろんアルマディリディウムだけというわけではなかった。アルマディリディウムが戦艦だとすれば、小回りがきく駆逐艦のような存在もいたわけである。オアシスがまだ生命で溢れていた頃は、それらの姿は木々によって遮られて見えなかったが。今となっては、木々なるものは一本も残っておらず、従って、それらの姿は剥き出しになっていた。

 それは奇妙な多足の怪物であった。身長としては一ダブルキュビトかそこらだろう。非常にほっそりと洗練されていて、無駄な部分が完全に削ぎ落されていて。基本的に、その形状から感じるものは……奇襲兵、暗殺者、そのような役割に相応しい姿をした残酷さだけだ。

 足の数は四本であり、全てが直翅目の昆虫の後ろ脚であるかのように、発条仕掛けであるかのような力強さに満ちている。また、その一つ一つの関節は、一種の球体関節になっている。つまり、その関節はどの方向にも自由自在に曲がるようになっているということだ。

 その足が、甲殻に覆われた、これまた球体のような形をした腰部に接続していて。その腰部から、ほっそりとした、多関節の、胴体部分が伸びている。これは非常に不気味な姿をしていて、見た目からするとムカデだとかヤスデだとか、そういったものに似ていなくもないのだが。ただ、こちらも一つ一つの関節があらゆる方向に捻じ曲がることが可能になっている。また、体節に生えているはずの脚は全て退化してなくなってしまっている。そして、その胴体の最上部に、二本の腕がついた体節が、二つついていて。一本一本の腕が、アルマディリディウムのそれと同じような、屠獅子刀のような刃になってる。

 頭部であるが、これはプリミティヴ・パターンと同じような、ハンミョウのような形をしていたが。ただ、その目(というか感覚器官)の数は八個であった。頭部の全体に満遍なくついていて、明らかに、どこにも死角がないようになっている。また、これは実はアルマディリディウムもそうなのだが、触角は見当たらなかった。恐らくは、戦闘時に狙われることがないように頭部のどこかに収納してあるのだろう。

 このような。

 カマキリと。

 蜘蛛と。

 バッタと。

 ムカデと。

 混ぜたような姿をした。

 猟殺機関とでもいうべき。

 ミヒルル・メルフィスが。

 空中における。

 祭祀階級と。

 同じくらい大量に。

 並んでいたわけだ。

 双方の地上部隊がぶつかり合って……それは、明らかに、人間至上主義的な意味での戦争という行為ではなかった。そこには作戦も戦略もなく、ただただ殺意と殺意と。互いを排除し、立ち塞がるものを殲滅しようとする剥き出しの感覚があるだけだった。それはある意味では完全に論理的でさえあった。神々によって研ぎ澄まされた数式であるかのように、そこには余分なものは何一つなかった。ただ単なる暴力だけがあった。

 まず、ヒクイジシに乗っていないヴェケボサンであるが。一斉に、アルマディリディウムに群がり始めた。ヴェケボサンは、五ダブルキュビト以上の身体であるとは思えないほどの敏捷さ・器用さによって、アルマディリディウムの肉体に攀じ登っていくと。その装甲と装甲との間、僅かな隙間を集中して攻撃し始めた。

 それに対して、アルマディリディウムは。そんな攻撃をほんの僅かさえも気に掛けることなく、ただただ、大地を震わせるような咆哮を上げつつ、目の前にいる全てのものを薙ぎ払っていく。その咆哮は、どうやらライフ・エクエイションが振動する周波数と全く同じ叫び声であるらしく……生命力の波動、辺りにいるヴェケボサンを、虫けらを払うかのように跳ね飛ばしていく。

 ただ……どう考えても、ヴェケボサンによる攻撃を無視し続けるのは得策ではないように思われた。なぜというに、アンチ・ライフ・エクエイションは、その装甲の隙間から、密やかな破滅のように忍び込んでいって。そして、アルマディリディウムを内側から侵食していっていたからだ。装甲は、どす黒く腐り果てていって。それから、一枚一枚、見る影もなく剥がれ落ちていく。

 そのような隙を見逃すところのヴェケボサンではなかった。装甲が失われたところ、次々と屠獅子刀を突き刺していって。アルマディリディウムの巨体を、見る見るうちに解体していく。アルマディリディウムは……自らの身体が崩壊していっても、まるで意に介さずに攻撃を続けているのだが。それでも、やがては、最後には、足元から頽れて陥落する。

 一方で、ヒクイジシに乗っているヴェケボサンであるが……猟殺機関を、それに祭祀階級を相手にしていた。天使から悪魔への攻撃。祭祀階級については先ほど書いた通りの方法によって攻撃していたのだが。一方の猟殺機関は……ちょうど、アルマディリディウムに対するヴェケボサンのような攻撃方法であった。つまり、一人一人のヴェケボサンに一斉に群がって。そして、その身体を切り刻もうとしていたということだ。また、アルマディリディウムのように、腕の先の刃にライフ・エクエイションを纏わりつかせて、それを遠距離攻撃用の武器として使うことも出来た。

 一方で、悪魔の地上部隊はどのように反撃していたのかといえば…数え切れないほどの猟殺機関については、ヒクイジシの火炎が焼き払っていた。一方で、祭祀階級に向けて、あたかも対空砲のごとき有様によって、次々とアンチ・ライフ・エクエイションの刃を放っていくヴェケボサン。その刃は、正確に、祭祀階級を貫いて。そして、反生命の原理に感染させていく。いうまでもなく、祭祀階級は、刃の一撃によって仕留められるような存在ではない。デニーとの戦闘の際に見せたように、プリミティヴ・タイプのミヒルル・メルフィスは、全身がばらばらになってもそのままの状態で生き続けることが出来るからだ。ただ、反生命の原理が感染すれば。やがて、その身体は、生命力の波動を失ってしまって。どろどろと腐敗して、そのまま滅びて消え去っていくことになる。

 戦場は。

 そのような。

 状況で。

 あった。

 の。

 で。

 あ。

 る。

 が。

 一見すると、悪魔の軍勢が有利であるように思えた。どうも、なんというか、はっきりしたことはいえないのだが……天使による攻撃は、悪魔に対して、ほとんど効果がないように、そう真昼には見えたのだ。

 例えば、洪龍型がアビサル・ガルーダに向かって生命力のビームを放っても。何度、何度、それがアビサル・ガルーダに直撃しようとも。アビサル・ガルーダが身に纏っているアンチ・ライフ・エクエイションに触れた瞬間に、そのビームは、まるで水面の泡が解けていくかのような態度で消えてなくなってしまう。

 それは、アルマディリディウムが刃に纏わりつかせているライフ・エクエイションについても同じであった。生命力の波動がヴェケボサンを跳ね飛ばしはするが。決して致命傷になっているようには見えない。物理的に突風に吹き飛ばされただけという感じなのだ。ヴェケボサンは、すぐに起き上がってきてしまう。

 真昼には、どうも、生命の樹から放出されている生命力、ミヒルル・メルフィスが暴力的に利用しているところのそれが、アンチ・ライフ・エクエイションによって無効化されているように見えた……そして、その真昼の推測は、完全に正しいとまではいえなくとも、完全に間違っているというわけでもなかった。

 そもそもの話として、大前提となる事実を二つばかり振り返っておこう。一つ目、正生命の原理と反生命の原理とは、作用反作用の関係性にあるということ。二つ目、反生命の原理は、この世界においては正生命の原理とは反対の効果を発生させるということ。つまり、これは、概念と存在とを分離させることによって現実を確率搖動状態にある純粋決定に変換してしまうということだ。

 さて、この二つの事実のうちの二つ目の事実について考えてみよう。ここから論理的な結論として引き出されるのは、基本的に、反生命の原理を武器として利用することは不可能であるということだ。なぜというに、それは、あまりにも危険過ぎるからである。反生命の原理が、なんの拘束もなく顕現した場合、その顕現した時空間から現実は破綻し始めてしまう。本来は確率が決定されることによって完成している秩序が崩壊し、この世界の全体が、完全に個別化したフェト・アザレマカシアとベルカレンレインとに回帰してしまうのである。もちろん、敵も味方も関係ない。というか、反生命の原理を顕現させた者自体が、その顕現の瞬間に消え去っているだろう。

 これを避けるために、アビサル・マジックにおいては「摂理化した契約」を書き換える必要がある。つまり、反生命の原理が正生命の原理として機能するように世界を修正するということだ。ただし、そのような書き換えを行なえば、いうまでもなく正生命の原理が反生命化する、つまり、致命的な危険性を帯びてしまうのであって。その書き換えの範囲は極めて慎重に限定されなければいけないわけだ。

 さて、そのようなわけで、デニーは、アビサル・マジックを行なう際に、反生命の原理の危険性に対して非常に強力な二つの拘束をかけているわけだ。まずは、反生命の原理の破滅的な力そのものを奪ってしまい、正生命の原理と同一の効果を持たせるという拘束。そして、そのような原理的逆転現象が起こる範囲を、反生命が発生させる生命境界内部に限定するという拘束。

 この二つの拘束のせいで、反生命の原理それ自体は、絶対安全とはいわないまでも極めて無害なものとなっている。せいぜいがミヒルル・メルフィスが生命力を武器として利用している、そのレベルの危険性しかない。

 ただ……ここで、一つ目の大前提についても考える必要がある。つまり、反生命の原理と正生命の原理との関係について。この二つは絶対的な対関係にある。プラスの力とマイナスの力との関係性にあるということだ。

 ということは、それらの原理が発生させる波動について考えてみると。これは、正生命の原理が波動における山の部分だとすれば、反生命の原理は波動における谷の部分ということになる。例えば、地面のある部分を掘り起こせば、そうして掘った部分は凹みになり、掘り出された土の部分が凸みになるが、これとちょうど同じような形であるということだ。

 そして、そのようにして掘り起こした土を穴の中に戻せば、また地面が平面に戻るように。正生命の波動と反生命の波動とを合わせれば、それらの波動は互いに打ち消しあってフラットな状態に戻ってしまうのである。

 これをデニーは利用している。要するに、悪魔の軍勢が纏っている反生命の原理は、通常よりも遥かに強力な反生命の波動を放っているのだ。そのせいで、ミヒルル・メルフィスが正生命の波動を放ってきたとしても、それを完全に消滅させることが出来るということだ。

 また、それだけではない。ここで使用しているところの「波動」という単語は多分に比喩的な意味合いを含んでいるのだが、正生命が持つ力にせよ反生命が持つ力にせよ、それらは、この「波動」によって法適用されている。いうまでもなく「波動」は力それ自体ではないが、それでも力を伝えているのは「波動」なのだ。ということは、「波動」が弱まれば、ミヒルル・メルフィスは、正生命の原理から力を得ることが出来なくなる。必然的に、ミヒルル・メルフィスは、本来の強力さを発揮することが出来なくなる。

 このことは、現在の戦闘において祭祀階級よりも戦闘階級の方が主要な役割を果たしているということからも理解出来る。以前もデニーが言っていたように、本来であれば戦闘階級よりも祭祀階級の方が戦闘能力が高い。ただ、それは、祭祀階級の方が生命の樹との強い紐帯を有しているからなのだ。生命力を大量に利用出来るので、その分全体的な能力が強化されるというわけだ。だが、現在の戦闘では……その紐帯が阻害されている。生命力を利用しにくい状況にある。そのために、比較的生命力とは関係なく暴力を行使出来るところの戦闘階級が活躍しているということだ。

 とはいえ。

 その戦闘階級も。

 生命力を。

 利用して。

 戦っている。

 わけであり。

 結果的に、悪魔の軍勢の方が有利であるように見える状況になっているというわけだ。確かに、ミヒルル・メルフィスは高等知的生命体の中でも最強に近い生き物である。神々と同等であるか、下手をすれば神々よりも強力な力を有している。とはいえ、その全ての栄光は、生命力によって成り立っているのである。水中では最強に近い鮫という生物が陸上に揚げられた途端に哀れで惨めな弱者に転落するように。生命力を遮断されてしまえば、ミヒルル・メルフィスは、その力の大部分を失ってしまうのだ。

 結論をいえば。

 反生命の原理を利用出来る。

 デナム・フーツという生き物は。

 ミヒルル・メルフィスにとって。

 ほぼ、唯一の、天敵。

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