第三部パラダイス #22

〈swarm。〉

〈が。〉

〈陶器で出来た白い蛆虫。〉

〈の。〉

〈希望。〉

〈を。〉

〈聞く。〉

 その声は……いうまでもなく、プリミティヴの声なのであって。つまりミヒルル・メルフィスの声なのだが、それにも拘わらず、その退化した種族であるところのメルフィスの声とはどことなく違ったところがあった。

 どう違うのかというのは、正直な話、具体的には表現しにくい。それはメルフィスと全く同じように腹部の発声器官から発されている声なのだが。それ以前の問題として、それは予めそこに用意されていたものなのだ。何をいっているのか分からないと思うのだが、声が声として声になる前に、それは未来的な必然性として情報化されているのである。なんというかデジャヴーのような感じとでもいえば分かりやすいだろうか。先に情報が提示されていて、それに遅れて声がやってくるという感じ。

 プリミティヴの精神(いや別に精神だけじゃないけど)が直接的に生命の樹に接続されていることと関係しているのだろう。つまり、プリミティヴの精神(いや別に精神だけじゃないけど)の一部はこの時空間とは全く異なった系統性の中にoikonomeinされているわけである。簡単にいえば、プリミティヴが何かを言葉にする際に、観念の運動はこの時空間の外側からこの時空間へと他摂的に移動してくるわけだ。それゆえに、時間軸だとか空間軸だとかが少しずれている感覚を受けるのだろう。

「デニーちゃんのお話を聞いてくれるのお?」

〈affirmative。〉

「わー、嬉しーい!」

 また、その喋り方について。どことなくノスフェラトゥの喋り方に似ているように思われる方もいらっしゃるかもしれない。つまり、単語と単語とが断絶していて片言のように聞こえるということだ。だが、この二つの言葉の構造は似ているようで根本的に異なっている部分がある。

 まず、二つの喋り方の似通っている点を示してみよう。それは、言語の内側に自己表出性をほとんど作用させないということである。例えば自己表出性の強い助詞とか助動詞だとかについて。ノスフェラトゥはそういう単語を一切発することがない。ミヒルル・メルフィスも、例えば「は」を使うか「が」を使うかという時に、限定の意味での自己表出性が多分に含まれる「は」を使うことはほとんどない。二つの喋り方のどちらであっても、ひたすら指示表出性を極限まで推し進めたものだ。

 ただ、一点、大きな違いがある。まずノスフェラトゥの喋り方であるが……全然正確ではないのだ。つまり、ノスフェラトゥは、名詞だとか動詞だとかだけを断片的に放り投げるように喋るため、聞いている方はその一つ一つの断片がどう繋がるのかが全く理解出来ない。これはノスフェラトゥとノスフェラトゥとがそもそもノソスパシーによって会話していたということに由来している。要するに、ノスフェラトゥは、精神と精神とを直接的に交わし合うという手っ取り早い方法を使っていたため、わざわざ自分の伝えたいことを言語化するという能力が決定的に欠けているのだ。そのため、現在においても、必要最低限(場合によってはそれ以下)の言語だけを発して残りの情報はノソスパシーによって伝達しようとする傾向がある。だから、ノスフェラトゥと正確な会話を行なえるのは、ノソスパシーをやり取り出来るほどゼノン小球が発達している生き物である場合か、もしくはマコトのように異常なまでに文脈を読み取る能力が発達している場合のみである。

 一方でミヒルル・メルフィスであるが、こちらは非常に正確な喋り方をする。名詞と動詞とがこれ以上ないほど明確に接続し、誰がどのように聞いても理解出来るように喋るのだ。ノスフェラトゥとは異なり、必要であるならば助詞も助動詞も使用する。これは、ミヒルル・メルフィスが、ある意味では非常に外交的な性格を持つということに由来する。何がいいたいのかといえば、例えばノスフェラトゥの目的は破壊・殺戮・自己保存の三つだけである。ということは、外交的な能力を発達させる必要はあまりない。攻撃したいと思えば攻撃すればいいし、自分より強い相手からはただ逃げればいいだけである。一方でミヒルル・メルフィスの目的は生命の樹の保護なのだ。ということは、そこまで好き勝手出来ない。生命の樹を守るためにはあらゆる手段を講じる必要がある、場合によっては、戦争的な手段だけではなく外交的な手段をとらなければいけないということだ。そして外交の場においては言語の正確性というものが何よりも重要となってくるというわけだ。

 と。

 まあ。

 ミヒルル・メルフィスは。

 そんな、喋り方を。

 するわけであって。

 ちなみにプリミティヴが使ったswarmという主語は、その言葉の通り、この結界内に世界を築いている群れの全体を代表しているということを意味している。基本的にミヒルル・メルフィスの喋る言葉の全てはswarmが主語であって、それは一人一人のミヒルル・メルフィスが独立した個人であるという以前にswarmの一部分一部分であるということを示している。

 それはそれとして、どうも会話の流れからすると……現在の状況、デニーとプリミティヴとの関係性は肉体的交渉から言語的交渉に移行したらしかった。プリミティヴは、デニーに対して、生命の樹を覆い隠している結界の内側にどのような目的で侵入してきたのかということを質問しているらしい。

 そんなん襲い掛かる前に聞けよ!と、人間至上主義的な文脈に慣れている方は思ってしまうかもしれませんが。それは偏見というか、非常に偏った考え方なのであって、前提が完全に間違っている。そもそもの話として、この結界の中には入ってきてはいけないのだ。どんな事情があったとしても駄目なものは駄目なのであって、一歩でも足を踏み入れた瞬間、殺されようが何をされようが仕方がないことなのである。

 ということで、まずはこのプリミティヴが襲い掛かってきたということだ。このプリミティヴは正式にはセンチネル・ミヒルル・メルフィスというフエラ・カスタに所属しているミヒルル・メルフィスであって、その名の通り歩哨としての役割を担っている。結界に侵入してきた異物に対する第一波の攻撃を務めている。プリミティヴ・パターンは他のあらゆるオルタナティヴ・パターンのベースとなるパターンなだけあって、ミヒルル・メルフィスの中でもジェネラリティに非常に優れている。だから、どのような異物であってもある程度の対処が可能なのである。

 センチネルによって排除が不可能であった場合、シークエンスは第二段階に移る。つまり今のようなコミュニケーションによる交渉だ。これは、デニーのようにある程度の言語的交渉が出来る相手に対しては言語的交渉が行なわれるが。孤立捕食種のように文字通り言葉が通じない相手に対してもある程度のコミュニケーションが行なわれる。形容矛盾になってしまうが、コミュニケーション不可能な相手に対するコミュニケーション。要するに、タンディー・チャッタンにおいてデニーがシャーカラヴァッシャを相手に行なったようなたぐいのコミュニケーションである。

 このコミュニケーションが不調に終わった場合、シークエンスは第三段階に移るわけだが。その話を今ここでするのは時期尚早であろう。結局のところ決裂する交渉なのだとしても――それは確実に間違いないことである――とにかく、今は、話し合いをしている最中なのだから。

 デニーが。

 背中の後ろ、右手と左手と、軽く指先を組んで。

 上半身を、可愛らしく、きゅんと前方に傾けて。

 それから。

 キャンディを舐めるように。

 甘く。

 甘く。

 口を開く。

「デニーちゃんはねーえ、生命の樹が欲しいの。」

 その言葉に対して、プリミティヴは一言も言葉を発しなかった。提示された情報だけではあまりにも不確定で不正確で、曖昧に過ぎる。ということは、明らかにデニーの言葉がそこで終わるものではないということ。それを、プリミティヴは理解しているのだ。だから口を挟むことなく次の言葉を待っているのである。一方のデニーは、暫くの間、にこにこと笑っていたのだが。やがて、その笑顔のままで話を続ける。

「デニーちゃんの後ろにさぴえんすの女の子がいるでしょーお? この子はね、真昼ちゃんっていってね、んー、見て貰ったら分かると思うんだけどお、死んじゃってるの! もうかーんぜんに死んじゃってて、残念ご愁傷様ーって感じなわけなんですねー。まー、まー、デニーちゃんとしてはそれはそれでぜーんぜん構わないわけなんだけど、でもでも、やっぱり、そーゆーことを気にする子もいるわけなんだよねー。

「えーっとねーえ、何がいいたいのかってゆーと。この子は、すっごくすっごくすっごーく大切な取引に、取引材料として使われる予定なんだけど。死んじゃってるとね、取引材料としての価値がなくなっちゃうんだよね。んー、取引の相手の子がね、そーゆーこと気にする感じの子なんだよね。死体じゃダメーって感じの子なの。だからねーえ、デニーちゃんは、この子を生き返らせなきゃいけないわけなんですねー。

「そ、こ、で! ばばーん! 生命の樹が必要になってくるわけ! 生命の樹から、直接、べべーっと、魂を引っ張ってきて、真昼ちゃんの内的世界に取り戻すーってことだね。他にも方法はないわけじゃないんだけど。魂を偽造する方法はばれちゃうと大変なことになっちゃうし。ヘルム・バーズとこれ以上取引するのはちょーっと大変なことになっちゃうかなーって感じだし。他の方法はね、全部大変大変なの。だからあ、大変じゃないこの方法があ、デニーちゃん的にはいーっちばんなんです! と、ゆーわけで! ここの生命の樹を使わせて貰いに来たーってゆーこと!」

 デニーは。

 そう言うと。

 分かったかなあ、とでも。

 いっているかの、ように。

 フードの奥。

 首を傾げた。

 デニーは……会話している間中、ちょこまかちょこまかと動き回っていた。ぴんと立てた人差指でプリミティヴのことを指差したり、その指先をふりふりと振って見せたり。「やれやれ」とでもいうように両腕を軽く広げて見せた上で、その場でくるんと背を向けて見せたり。その後で、またくるんと向き直って。拳の形にした両手、左手を腰に当てて、右手を上の方に突き出して、そんなポーズをしてみたり。あるいは、大きく開いた両手のまま、単純にばばーっと両腕をばんざーいのポーズにしてみたり。なんだか楽しげでさえあるような話し方だった。

 一方で、プリミティヴはといえば。

 ヴァジュラの中に閉じ込められて。

 ほとんど身動きさえ取れないまま。

 甲殻に覆われた。

 昆虫の、全くの無表情のまま。

 デニーに。

 こう言う。

〈陶器で出来た白い蛆虫。〉

〈の。〉

〈希望。〉

〈は。〉

〈生命の樹。〉

〈を。〉

〈利用すること。〉

〈利用。〉

〈の。〉

〈内容。〉

〈は。〉

〈ジュノス。〉

〈への。〉

〈接続。〉

〈並列の接続詞。〉

〈砂流原真昼。〉

〈の。〉

〈魂。〉

〈の。〉

〈不正。〉

〈な。〉

〈resurrection。〉

〈以上。〉

〈swarm。〉

〈の。〉

〈認識。〉

〈に。〉

〈錯誤。〉

〈が。〉

〈ある。〉

〈場合。〉

〈は。〉

〈訂正。〉

〈を。〉

〈要求。〉

〈する。〉

 ク……クソまどろっこしい……! 正確に正確に話そうとするその心がけを否定するつもりはないのだが、あまりにも度が過ぎていて逆に分かりにくくなっている典型的パターンといっていいだろう。特に腹が立つのは「並列の接続詞」というところである。そりゃあ、まあ、共通語にはこういう場合に使用出来る並列の接続詞が色々とあって、そのどれかを選ぶことで若干の自己表出性が出てしまうことは否定しないが。とはいえ、会話の途中でいきなり「並列の接続詞」って言うか普通? 言われた方からすれば、その瞬間に何がなんだか分からなくなって混乱するわ。っていうか、swarmだとかaffirmativeだとかresurrectionだとか、ちょいちょい汎用トラヴィール語を使ってるんだから、ここも別にandでいいだろ! 言語の法則性を明確にしろよ!

 と、そんなことを叫びたくなってしまう話し方だったが。ただ、デニーにとってはこの上なく分かりやすいものであったらしい。というか、デニーほど賢い生き物にとっては、恐らく、この世界に分かりにくいことなどないのだろう。なんにせよ、そのプリミティヴの言葉に対して、いつものように、ににーっと笑って。それから「んーん、どこも間違ってないよー。その認識でだいじょーぶでーす」と答えた。

 それから。

 一拍分、の。

 間を置いて。

 プリミティヴは。

 先ほどのデニーの問いに対して。

 この上なく明確に、こう答える。

〈negative。〉

 「ええー!」だとか「そんなー!」だとか、一欠片の感情さえも感じさせない、いかにもわざとらしいジェスチュアによって、思いもよらぬ回答にショックを受けてます感を出しているデニー。もちろん、この回答は思いもよらぬ回答でもなんでもなく、従ってさざ波程度のショックも受けていないのだが。それはそれとして、またもやアホほど行替えする喋り方でプリミティヴが続ける。

〈陶器で出来た白い蛆虫。〉

〈の。〉

〈希望。〉

〈は。〉

〈生命の樹。〉

〈を。〉

〈破壊。〉

〈する。〉

〈並列の接続詞。〉

〈再生不可能。〉

〈の。〉

〈状態。〉

〈に。〉

〈する。〉

〈理由の説明開始。〉

〈生命の樹。〉

〈を。〉

〈vessel。〉

〈と。〉

〈して。〉

〈特定。〉

〈の。〉

〈生命体。〉

〈の。〉

〈魂。〉

〈を。〉

〈ジュノス。〉

〈から。〉

〈resurrection。〉

〈する。〉

〈際。〉

〈本来。〉

〈は。〉

〈不可逆。〉

〈な。〉

〈現象。〉

〈で。〉

〈ある。〉

〈回帰性ウムスセビシン現象。〉

〈を。〉

〈可逆化。〉

〈する。〉

〈ため。〉

〈に。〉

〈生命の樹。〉

〈それ。〉

〈自体。〉

〈の。〉

〈疎隔性。〉

〈を。〉

〈exhaust。〉

〈する。〉

〈必要。〉

〈が。〉

〈ある。〉

〈結果の導出。〉

〈生命の樹。〉

〈は。〉

〈内的世界。〉

〈の。〉

〈完全性。〉

〈が。〉

〈棄損。〉

〈される。〉

〈こと。〉

〈に。〉

〈なる。〉

〈結果の導出。〉

〈生命の樹。〉

〈は。〉

〈確率=決定平衡性領域。〉

〈に。〉

〈おける。〉

〈個別。〉

〈を。〉

〈保つ。〉

〈こと。〉

〈が。〉

〈不可能。〉

〈に。〉

〈なる。〉

〈結果の導出。〉

〈生命の樹。〉

〈は。〉

〈ジュノス。〉

〈に。〉

〈向かって。〉

〈崩壊。〉

〈する。〉

〈理由の説明終了。〉

〈swarm。〉

〈は。〉

〈生命の樹。〉

〈の。〉

〈完全。〉

〈な。〉

〈喪失。〉

〈の。〉

〈許容。〉

〈が。〉

〈不可能。〉

〈結論。〉

〈negative。〉

 か、勘弁してくれ~! 今のセリフで何回改行したと思う? 百三回だぜ百三回。たかだか「そんなことしたら生命の樹がぶっ壊れちゃうから駄目です」だけの内容に百三回も改行するなよ~! と、思わないことはないが。とはいえ、swarm側の主張はこれ以上ないくらい明確に提示されたわけだ。

 つまりデニーの希望とswarmの主張とは全面的に衝突しているのだ。デニーとしては真昼を生き返らせるために生命の樹を使わせて貰えればいいとそれだけを望んでいるわけだが、それだけのことをしてしまえば生命の樹は完全に消え去ってしまう。となれば、生命の樹に全面的に依存して存在しているところのswarmの世界もやはり消え去ってしまう。というか……そもそも、ミヒルル・メルフィスが生きる必然性とは、生命の樹を守ることなのである。つまり、生命の樹が守られないというのなら、swarmからは、あらゆる必然性が失われてしまう。

 とはいえ、デニーちゃんとしたって、はいそうですかで引き下がれはしないのである。そういうことが出来るのならば、そもそも、パヴァマーナ・ナンディを越えてヌリトヤ沙漠を越えて、襲いくるウォッチドッグどもをばったばったと薙ぎ倒した挙句の果てに、こんなところまでやってきていないだろう。ということで、もう少し食い下がるしかない。

 今はまだ。

 第二段階。

 理性的な交渉の段階なので。

 デニーは。

 あくまでも紳士的に。

 礼儀正しく。

 こう続ける。

「んんー、でもでもー! デニーちゃん、そんなこと言われても困っちゃうよー! だって、このまま真昼ちゃんが死んじゃったままだと、取引に使えないでしょー? すっごくすっごくすっごーく大切な取引がだーいしっぱいってなっちゃうわけでしょー? そーなったらさーあ、デニーちゃんさーあ、こらーっ!って怒られちゃうよっ! デニーちゃんはあ、怒られたくないもーん。だからあ、swarmがダメーって言っても、デニーちゃんは、生命の樹を、使わせて貰いまーす!

「だ、け、ど! でにーちゃんとしてもね、なーるべくswarmと全面戦争でーすってなるのはご勘弁頂きたいぜーしょんなんだよね。だってだって、swarmって、ふつーだったら、神々だとか洪龍だとか煉虎だとか、下手したらASKだって駆除するのが難しーって感じなんだから。ってゆーことは、今の状態のデニーちゃんじゃあ、とーってもじゃないけど勝てるわけがないもん。まー、まー、もちろん、皆殺しにする方法がないわけじゃないからここにいるわけなんだけど。でもでも、やっぱり、どんぱちぱっぱになるのは避けたいなーって思ってるわけですよー。

「と、ゆーことで! 今からね、幾つかね、デニーちゃんがご提案をさせて頂きまーす! つ、ま、り、デニーちゃんもちょーっとだけswarmに譲歩するから、swarmもデニーちゃんにちょーっとだけ譲歩して欲しいなーっていうこと。こんぷろまーいずだよ、こんぷろまーいず! やっぱりさーあ、こっちもそっちもちょっとずつ歩み寄って、そーして平和が生まれるんだよね! らぶ、あんど、ぴーす! 愛と平和だよ、愛と平和。んー、swarmとしてはそれでいい? デニーちゃんのご提案を聞いてくれる?」

 その問い掛けに。

 プリミティヴは。

 〈affirmative〉と答える。

 デニーは。

 口の端。

 可愛らしく。

 きゅーっと。

 笑って。

 それから。

 続ける。

「まず一つ目のご提案! とーっても寛大なデニーちゃんは、swarmに一日だけお時間をあげます。そーすれば、その一日の間に、この生命の樹から他の生命の樹に移ることが出来るでしょお? んー、デニーちゃんは、他の生命の樹がどこにあるのかーってことはぜーんぜん分からないし、この近くにあるのかどーかも知らないけど、でも、まあ、皆殺しにされるよりはいいでしょ! で、一日経って、swamがいなくなってから、デニーちゃんは、ゆーっくり生命の樹を使わせて貰うってゆーこと。この方法なら、swramも皆殺しにならないしデニーちゃんも生命の樹を使えるし、どっちも大満足! じゃない?」

〈negative。〉

「んー、じゃあ、二つ目のご提案ね。とーっても寛大なデニーちゃんは、この生命の樹じゃなくて他の生命の樹を使うことにしまーす! でもでも、さっきも言ったことだけど、デニーちゃんは他の生命の樹がどこにあるのかーってこと、全然知らないんだよね。だ、か、ら、この生命の樹を守護してるswarmに、他の生命の樹を紹介して貰うってゆーこと! そーすれば別にこの生命の樹を使う必要はないもんね。

「でもでも、やっぱり、そーすると、ここからそこに行くまでの時間がかかっちゃうし。それに、この生命の樹のswarmがその生命の樹のswarmに警告をしないっていう保証もないわけじゃないですかあ。つまりね、デニーちゃんがそっちの生命の樹を使いに行くよーっていうことについて警告を受けて、そのことを予め知ってれば、そっちのswarmはデニーちゃんを迎え撃つ用意が出来るわけだよね。それだと、デニーちゃんとしてはべりーべりーでぃすあどばんてーじなわけですよお。

「で! それを避けるために! デニーちゃんがそっちの生命の樹に行くまでに、ここのswarmには、そこのswarmを、予め皆殺しにしておいて欲しいんだよね。そーすればそこのswarmのミヒルル・メルフィスはもう一人もいなくなるわけだから、デニーちゃんを攻撃ーってすることが出来なくなるわけでしょ? それにそれに、それだけじゃなくって、デニーちゃんがその生命の樹に行くまでにそこのswramを皆殺しにしておいてくれるんだったら、デニーちゃんがどんぱちぱっぱってする時間が節約されるわけだから、時間の無駄にもならないよね。わあ、かーんぺきじゃないですか! デニーちゃんも満足だし、ここのswramは生命の樹をないないってしなくて済むし! どーお?」

〈negative。〉

「とーっても寛大なデニーちゃんからの、三つ目のご提案だよ! デニーちゃんの代わりに、swarmが、ヘルム・バーズと交渉する。ヘルム・バーズと交渉して、真昼ちゃんの魂をジュノスからこっち側に戻して貰う。もーっちろん、タダってわけにはいかないと思うし。まあ、デニーちゃんの予想だと、十中八九はここの生命の樹を取引の材料に使うことになると思うけど、でもでも、swarmのすっばらしー交渉力によっては、もしかしてのもしかして、生命の樹をないないってしなくても真昼ちゃんの魂をこっち側に戻して貰えるかもしれないよね。んー、無理かな? 無理かも。でもでも、デニーちゃんとどんぱちぱっぱっていうことになれば、デニーちゃんはぜーったいに生命の樹をデニーちゃんのものにするわけだし。それよりはいいんじゃない? んー、どーかな? どーだろ。まあ、とにかく、swarmがヘルム・バーズと交渉してくれるなら、デニーちゃんは生命の樹には手を出さないよ。これでどう?」

〈negative。〉

 身もなく。

 蓋もなく。

 剥き出しの言葉で。

 そう答えるプリミティヴ。

 そんなプリミティヴに対して、デニーは……フードの奥、可愛らしくて真ん丸なおめめを、ぱちくり、ぱちくり、非常にゆっくりとした動作で二度ほどまばたきさせた。別に、面食らったとかなんだとか、意外性だの不快感だのを感じている様子はない。ただただ瞬きをしただけだ。それから、右の人差指、左の人差指、ぴんと立てて。残りの指を組み合わせてぎゅーっと握り締めた後で、くっつけたままの二本の人差指を、きゅっとした唇に押し当てる。それから、ごくごくと屈託のない言い方で「ふーん」と言う。

 両手を顔の近くから離して、無理矢理に花弁を些喚かせるようにして軽く開く。胸の前で真っ直ぐにして、ぽんっぽんっという感じで何度か拍手の真似事をする。拍手というか、ただただ手を叩いているだけといった方がいいかもしれない。「んー」と喉の奥で声を出しながら、何かを考えているような顔をしている。フードの奥で、首、右に傾げて左に傾げて。その後でまた真っ直ぐにして……ひと際大きく、ぱんっと手を叩く。

 そうして。

 その後で。

 デニーは。

 あっさりと。

 こう、言う。

「じゃー、しょーがないね。」

 ヴァジュラの中に囚われてから今のこの時まで、初めてプリミティヴが身動きをした。というか、正確にいえば、プリミティヴの頭部に寄生している生命の樹の断片が揺らめいた。結果として、プリミティヴの周囲に展開している防御壁が、まるでノイズが走ったテレビ画像のようにざざっと揺らぐ。

〈陶器で出来た白い蛆虫。〉

〈の。〉

〈提案。〉

〈が。〉

〈終了。〉

〈した。〉

〈と。〉

〈swarm。〉

〈が。〉

〈認識。〉

〈した。〉

〈swarm。〉

〈の。〉

〈認識。〉

〈に。〉

〈錯誤。〉

〈が。〉

〈ある。〉

〈場合。〉

〈は。〉

〈訂正。〉

〈を。〉

〈要求。〉

〈する。〉

 その長ったらしい上に焦れったらしい質問に、デニーは、一言、「んーん、それで間違いないよ、だいじょーぶ」と答えた。その答えを受けて、プリミティヴの頭の上、生命の樹の断片がますます揺らぎ始める。プリミティヴを包み込んでいるエネルギーが……反生命の原理に影響されているだけとはいいがたいほど、目に見えて不安定になっていく。明らかに何かが変わろうとしている。何かが、より悪い方向へと変わろうとしている。しかし、何が?

〈最終確認。〉

〈陶器で出来た白い蛆虫。〉

〈は。〉

〈swarm。〉

〈に。〉

〈対して。〉

〈宣戦布告。〉

〈を。〉

〈する。〉

〈swarm。〉

〈の。〉

〈認識。〉

〈に。〉

〈錯誤。〉

〈が。〉

〈ある。〉

〈場合。〉

〈は。〉

〈訂正。〉

〈を。〉

〈要求。〉

〈する。〉

 デニーは……ちらっと真昼の方を振り返った。二秒か三秒か、真昼の顔をまじまじと見つめる。それから、特に何か声を掛けることもなく、またプリミティヴの方に視線を戻した。にーっと笑う。いつものように。無垢に。純粋に。あたかもin nocensであるかのように。悪というものがなんであるのかということを、全く理解出来ない顔をして。

 そうして。

 プリミティヴに。

 向かって。

 無邪気に。

 答える。

「デニーちゃんは、swarmに対して、宣戦布告をします。」

〈Message received and understood。〉


 その瞬間に、消えた。プリミティヴの周囲に展開し、ヴァジュラが有する破滅の力からプリミティヴを防御していた卵の殻のような球体が、ばぢっという静電気の炸裂のような音だけをその後に残して、完全に消滅した。

 いうまでもなく、プリミティヴがヴァジュラによって死に至らしめられていなかったのは生命の樹から引き出してきたエネルギーによって守られていたからである。ということは、そのエネルギーが消えてしまったというのならば、プリミティヴが生き残るための条件は一切なくなってしまったというわけだ。

 プリミティヴは、ヴァジュラの破滅の力に、絶対的な無防備の状態で晒されることになる。それだけの激甚な奔流、怒涛のように叩きつけてくる破壊的な暴力に耐えられるわけもなく……当然の結果として、プリミティヴは、叩き潰され押し流され焼き尽くされ、この世界から跡形もなく消え去ってしまった。

 後には。

 その頭部、に。

 寄生していた。

 生命の樹の。

 断片だけが。

 残されて。

 その断片さえも、ヴァジュラに纏わりついていた反生命の原理が発してる波動のせいで、揺らぎ、薄らぎ、やがては消えていってしまったのだが。ただし、その前に何かがなされたようだった。よくよく見ていなければ分からないほど僅かな現象であったのだが、つまりそれは……その断片を通じて、生命の樹の本体に、ある種の情報のようなものが送信されたということだった。

 それはもちろん、プリミティヴ……というか、結界内部に侵入してきた異物を排除するべきセンチネルが。まさにその異物であるところのデニーによって殺害されたという情報であった。しかもそれだけではない。その異物はswarmから生命の樹を強奪するために侵入してきたということ。その強奪のためにswarmに宣戦布告したということ。そういった情報も含まれていた。

 要するにそういうことだった。センチネルはsentinelであるとともに、ある種のsensor、感覚器官でもあったということだ。人間が皮膚を切断されると、同時に、その内部にある神経線維も切断される。それによって、自分が危機的状況に陥っているということを中枢神経系が理解する。それと同じことなのだ。センチネルは、自らの死によってswarmの全体に危険を知らせる。最初の防波堤であるとともに、その防波堤が破壊されたことを知らせる役割をも果たしているのだ。

 さて。

 その事実は。

 伝達された。

 交渉の。

 第一段階も。

 第二段階も。

 成立しなかったということ。

 今。

 交渉は。

 第三段階に。

 移行すると。

 いうこと。

 それは……真昼の視線の先で……生命の樹が……生命の樹が……ぱっくりと開いた生命の門が……來媚! 來媚! 來媚! 綴羅、塑暁、爨火、迎詩、娯餮、盲坐、禁理、禁理、禁理、禁理、生きる光、生きる光、力、法廷、一つの法廷、一つの法廷、ラ、ラ、ラ、グラガガラグラグラグガ、ムゥルングルフフー、ウゥンガン、ウゥンガン、シューシャガァ、リューラ、ラガ、ラガ、来流、洪解、是根、動眩、秘典楽の鼓、禦を歌う、些喚く、些喚く、臓、脊華開、殴て、殴て、殴て、巫融、巫融、巫融、即、蠱、禦を歌う、禦を歌う、ラ、ラ、ラ、ラグラ、ラグラガ、ガラグララグラ、フェコ、ムリュス、ニュマンパ、ヤランパ、ヤランパ、リギンディーヤ、ザ、ザ、ドンガ、ウュングル、フュングル、スサーサ、ルールーツァラ、グ、グ、ダア、ルルルー、ス、フフゥタァグン……イア、イア、ジュノス。

 イア、イア、ジュノス。

 イア、イア、ジュノス。

 イア、イア、ジュノス。

 つまり。

 それは。

 光。

 アビサル・ガルーダが、デニーと真昼との目の前、視界を遮るかのようにして大地に突き立てていたヴァジュラをそっと引き抜いた。閉じ込めていたプリミティヴが死んでしまった以上は、もうそうしている必要がないからだ。あたかも舞台の上の幕を上げるみたいな態度によって上げていく、上げていく、上げていくと……その向こう側に、その光景が広がっていた。

 この世界の中心に、それがそれとしてそれであるところの生命の樹が。これはどう表現すればいいのか、とにかく、唐突にその光を強めた。それは爆発的なエネルギーの上昇ではあったが、とはいえ爆発ではなかった。こうっという感じ、静かに、静かに、それが放つ生命のエネルギーを強めたということだ。

 がくん、とでもいうように。今までの光の感覚から、完全に一段階強まった光。結界の内側の世界は、今までの光でさえも、中天に太陽が輝く真夏の昼日中のように明るかったのに……今では、もう、太陽が爆発した後の世界、あと数秒後には光の洪水に飲み込まれて消えてしまう世界のように光り輝いている。

 つまり、それが警報だった。この結界の内側、歩哨がもたらした情報をもとに、この世界を構成している全てのミヒルル・メルフィスに対して出された警報。

 交渉は第三段階に入った。

 そして。

 それが。

 意味することは。

 要するに。

 総力戦。

 ああ。

 その。

 相手は。

 相手は。

 そう。

 磁器で出来た白い蛆虫。

 まず、銀河がその流れを変えた。本当の意味で無数の、数え切れないほどの群れをなして、生命の樹の周囲で儀式を行っていた祭祀階級のミヒルル・メルフィス。崇高で真聖なる蝶々の翅、それらの全てが一つの巨大な怒涛のようにしてこちらに向かって来た。こちらというのはいうまでもなくデニーと真昼とアビサル・ガルーダとが立っている高台の方ということだが、向かってきたのは祭祀階級のミヒルル・メルフィスだけではなかった。先ほどまで、優雅に、優美に、それでいて惨たらしいほどの荒々しさで空を泳いでいた戦士階級のミヒルル・メルフィス。やはり、祭祀階級のミヒルル・メルフィスに導かれるようにして、銀河の流れに飲み込まれるようにして、こちらに向かい始めた。

 蝶々の……蝶々の群れというものを見たことがあるだろうか。基本的に蝶々というのは単独性昆虫だ。群れを作らずに孤立して行動する。ただし、ある特定の種類は、ある特定の場合に、集団行動を取ることがある。例えば給水、例えば繁殖、一斉に羽化して短い一生の間を集団で行動し続ける蝶々もいるし、あるいは少しでも多くの個体が生き残るために集団で砂漠を渡るという蝶々もいる。オアシスからオアシスへ、移動する間に死んだ仲間の体液を栄養源とすることで生きながらえるのだ。

 一匹一匹では、夢や、幻や、移ろいゆき二度と戻らない儚さの象徴であるかのように見える蝶々であるが。だが、それが大群として現れた時に、その巨大な群体の構造は……ある種の悍ましさ、禍々しいものを見たという恐怖の感覚を発生させる。一匹一匹の蝶々、そのひらひらとしたひらめき、今にも消え去りそうな儚さ、それが、どこか、死せる魂を思い出させるからだ。無数の死、無数の死、目の前で、無数の死が羽搏いている。何か正しくないことが起こっている。歪み、が、蠢いている。

 祭祀階級のミヒルル・メルフィス、その大群が真昼に感じさせたのは、例えばそのような印象だった。それらのミヒルル・メルフィスは……あっさりいえば、センチネルと全く同じ構造、プリミティヴ・パターンのミヒルル・メルフィスだった。この全くという表現は全然大袈裟なことをいっているわけではなく、祭祀階級(センチネルのように外交フエラ・カスタに所属するものも含む)のミヒルル・メルフィスは、一人残らず、一片とて変わらない形相パターンによって質料化しているのだ。

 メルフィスと大体同じ形状、頭には生命の樹の断片が寄生している。透明な甲殻、宝石のような内臓、そして、マイエスタス・ドミニ、この世界の支配者であることを表わす光背であるかのような四枚の翅。

 その四枚の翅が、ひらりひらりと時空間を揺らしている気がする。そのせいで、真昼が見ている光景そのものが、不安定化しているようにさえ見える。巨大な、巨大な、生命の歪みが、こちらに向かってくる。

 そして、一層のunheimlichを感じさせるのは、いうまでもなく戦士階級のミヒルル・メルフィスであった。基本的に、戦士階級のミヒルル・メルフィスには、人間がいうところの思考能力というものが備わっていない。その知性は、全てが本能で構成されている。同族を守護しようという本能、外敵を抹殺しようという本能。それが高等な知性まで高まったものだ。

 それゆえに、その全ての挙措、その全ての挙動、跗節のちょっとした揺らめきから、翅の先の柔らかい傾きまで、その全てに破壊そのものの観念のようなものが纏わりついている。いってしまえば、戦士階級のミヒルル・メルフィスにとっては、一挙手一投足が相対する者の根絶を表わす記号なのだ。

 そういった戦士階級のミヒルル・メルフィス、実は、先ほど触れた空中を飛行しているミヒルル・メルフィスだけではなかった。結界の全体に警報が鳴り響いた、その少し後から。真昼は、足元に何かしらの震えを感じていた。地震のようなのだが、少し違うところもあった。地震は地面の全体が揺れているように感じるが、その震えは……どこかで、複数の点が、別々に、地面の上に波紋を描いているような感じなのだ。ここではない、先へ、先へ、行ったところ。オアシスの内側、その円周のどこか。咲き乱れる花々の下で何かが蠢動している。

 と、真昼の視線の先で、どうっと音を立てて、花畑のうちの一つが吹っ飛んだ。しかも、それは一度だけ起こったわけではなかった。あちらで、こちらで、どうっどうっどうっと、大地の部分部分が連続して炸裂する。それらの箇所は、いうまでもなく、真昼が感じていた震えのオリジン・ポイントだった場所であって……その下から、何かが、現われた。

 高さは、直立した姿勢ならば数十ダブルキュビトだろう。どう見ても五十ダブルキュビト以上はある。基本的な形状は、祭祀階級のミヒルル・メルフィスに似ていないこともない。人間のように、地平線とは垂直方向に立ち上がっている生き物だということだ……二足歩行ではないにしても。

 ただ細かい点がかなり異なっている。まず、その生き物には翅が生えていなかった。その代わりに全身が装甲のような甲殻に覆われている。確かに、他の戦士階級のミヒルル・メルフィスも兵器じみた甲殻によって覆われているが。とはいえ、その甲殻は全身を覆い尽くしているわけではない。

 一方で、その生物の装甲は全身のほとんどの部分を覆い尽くしていた。例えるならば、ダンゴムシだとかワラジムシだとか、そういうアルマディリディウムに属する節足動物に似ているというのが一番分かりやすいかもしれない。つまり、あたかもarmadilloのようにarmadoであるということ。

 全身の最下層に、四つほど、他の体節よりも幅広い体節がある。ここの部分には、それぞれの体節に各一対ずつ、計四対、蜘蛛のように長い長い脚がついている。そして、そこから先は、アルマディリディウムのように、一つ一つが極めて短い体節が連なっていて、その部分の脚は退化して失われてしまっているらしい。ここから先を上半身と呼ぶとすると、上半身は、先ほども触れた通り、地面から起き上がった形になっている。

 その先に、また大きな体節が二つついてる。一つ一つの体節にやはり一対ずつ腕がついていて、これは巨大な屠獅子刀のようになっている。面白いのは、下の腕は前の方に向かってついているのだが、上の腕は後ろの方に向かって捻じ曲がってついているところだ。これは、きっと、背後から襲い掛かかられた場合に使用するのだろう。そして、その更に上に頭部がある。頭部はまさにアルマディリディウムのそれであるが、ただ一点異なった点があって、装甲の上のところ、ぼこぼこと、あたかも戦闘機のキャノピーのような構造物。透明な覆いのようなものがついていて、それが目に類する感覚器官だということだ。合計して八つついていて、それぞれが別々の方向を見られるようになっている。

 一つ一つ、全ての体節が、その背中の側だけではなく、その腹側まですっぽりと装甲に覆われている。また、それだけではなく、例えば腕だとか脚だとか、そのように剥き出しになっている部分も、非常に複雑に組み合わさったパズルのような形で装甲が覆っているのだ。装甲を構成する一つ一つの板が、まるで寄せ木細工の仕掛け箱のように複雑に動くことで、これほど完全に覆い尽くされているにも拘わらず、非常になめらかな動きをすることが出来ている。

 空の巨獣と。

 地の巨獣と。

 それぞれが。

 あたかも。

 殺戮のためだけに作られた。

 冷たい冷たい機械のように。

 こちらに。

 向かって。

 来る。

 しかも向かってくるだけではなかった。その中の一匹、洪龍じみた姿形をした戦士階級のミヒルル・メルフィスが、頭部が二つに割れてしまうのではないかと思うほど大きく大きく口を開いた。すると、その口の内側が、衝撃と畏怖と、白昼さえも打ち砕く稲妻のような明るさによって閃裂する。

 そして、その光のそのままに……そのミヒルル・メルフィスは嘔吐した。どどごぷっとでもいうような感じ、凄まじい光が一気に吐き出される。それは要するに、どろどろとした生命力の波動であって。そして、それが吐き出された方向、いうまでもなくデニーと真昼とが立っている方向だった。

 かなりの距離があった、そのミヒルル・メルフィスは生命の樹のすぐ近くにいたのだし、デニーと真昼とはオアシスが始まる辺りにいたのだから。けれども、それでも、そんな距離を、波動は一瞬にして伝わってきた。当然だ、それは生命の力なのであって、生命は空間でも時間でもないのだから。生命の力は、全く別の「何か」を伝わってくる。

 真昼には。

 その「何か」が見えない。

 しかし、デニーには。

 それが、見えている。

 それを。

 時空間との。

 関係性の中で。

 整合化出来る。

 だから……デニーは、目の前の何もない一点を、中指の先で、ぴんっと弾いて「いた」。中指を親指の先で弾き出すという空間的・時間的な過程を経ることなく。生命がその中で範囲を持つところの領域において、既にその行為を終えて「いた」。どろどろに溶けたアイスクリームを辺りに撒き散らしながら完全な最短距離を直進してくるビーム、のような生命力の波動が。デニーと真昼とが立っている高台に到達する、その直前に。まさにその指先がそのビームの先端と触れ合うほどのタイミングで。

 そして、指先が弾いた世界の一点から、とぷんっとでもいうように波紋が広がった。その波紋は瞬く間に広がる夜よりも暗い暗黒であって、つまりは反生命の波動であった。指先が弾いたその一点から、指先が衝撃を加えた方向とは垂直の関係性になる方向へと、あたかも一枚の盾のように広がっていく波紋。

 あたかも、いや、まさに盾として。波紋は、デニーと真昼と、ついでにアビサル・ガルーダの目の前に、一枚の黒い黒い膜を作り出した。黒、反転した光としての暗黒。

 そして、反転されざる光は、その暗黒に衝突すると。まるで炎を満たした水盤の上に雪の結晶を落としたかのようにして。触れた先から、溶けて、溶けて、消えていく。

 くすくすという密やかな笑い声が聞こえる。いうまでもなく笑っているのはデニーだ。両方の手のひらで口元を押さえて笑っている。何がおかしいのだろう、真昼には全く分からない。いつもいつもそうだ。真昼には分からない。デニーが、なぜ、笑っているのか。ただ……なんとなく……それが、その笑い声を聞くということが、目くるめくばかりに美しいなんらかの恍惚に似ているような気がするだけで。まあ、それはそれとして、今起こった一連の事態から、真昼にも理解出来たことは二つだけだ。

 まず一つ目。ミヒルル・メルフィスは、近距離攻撃だけではなく遠距離攻撃も出来るということ。しかも、そういうことが出来るのはあの洪龍のようなミヒルル・メルフィスだけではないようだ。断言は出来ないが、例えば、あのアルマディリディウムのようなミヒルル・メルフィス。じっと目を凝らして見てみると、その四本の腕、屠獅子刀のようになったその刃の部分。どろどろと、ライフ・エクエイションが纏わりついている。恐らくは……相手に向かって屠獅子刀を振り抜くことで、あのライフ・エクエイションをスローイング・ナイフのように飛ばすことが出来るのだろう。戦闘階級のミヒルル・メルフィスの一匹一匹が、そのような何かしらの遠距離攻撃方法を備えているのだと思われた。

 そして、もう一点。これは、実は、非常に重要な点だ。洪龍のようなミヒルル・メルフィスがビームを放った時、そのビームが向かう先には他のミヒルル・メルフィス達がいた。主に祭祀階級のミヒルル・メルフィス達だが、そういったミヒルル・メルフィス達は、当然のごとくビームに巻き込まれていた。それなのに……一人たりとて、一匹たりとて、そのビームによってダメージを負っている様子はなかった。

 つまり何がいいたいのかといえば、ミヒルル・メルフィスの攻撃はミヒルル・メルフィスには通用しないということだ。そもそもの話として、ミヒルル・メルフィスはこれ以上ないというくらい生命の樹に適応進化してきた種族である。生命力の波動であろうと、あるいはライフ・エクエイションであろうと、そのような種族にダメージを与えることは出来ないのだ。

 これはなかなかよろしくない話であって、普通、これだけの大軍を相手にする場合は、ある程度は同士討ちを期待出来るものだ。流れ弾に当たるだとか、間違って味方を攻撃してしまうとか。だが、相手がミヒルル・メルフィスの場合は、そういった幸運は一切期待出来ないようだ。あちら側の戦力の全てをこちら側の戦力によって撃破しなければいけない。

 と。

 そのような。

 legion。

 は。

 それ自体が。

 一つの。

 巨大な。

 拒否。

 拒絶。

 絶対的な抗原抗体反応、の。

 記号であるかのようにして。

 冷酷なまでに。

 完全な均整を。

 保ったまま。

 真昼を。

 真昼を。

 滅ぼそうと。

 やってくる。

 のであって。

 ああ。

 そう。

 ここは。

 罪を犯したことのない。

 生きたanimalisの国。

 義人の天国。

 義人の天国。

 義人の天国。

 恩寵のみによって生きる霊よ。

 自然なる生命を持たぬものよ。

 穢れよ。

 穢れよ。

 穢れたる者よ。

 今。

 この時。

 この天国より。

 立ち去れ。

 真昼は……真昼は……少し、混乱してしまった。これほど明確な、これほど純粋な、これほど剥き出しの敵意というものを向けられたのは初めてだったからだ。確かに、真昼は、サテライトから敵意を向けられた。とはいえ、その敵意なるものは、実は真昼に向けられたものではなかった。サテライトは、今までサテライトのことを虐げてきた全ての人間達、その象徴として真昼に憎悪と瞋恚とを差し向けていただけであって。結局のところ、真昼はなんでもなかった。真昼という人間は、ただただそこに悪を注ぎ込まれるための器であるというだけであった。

 そもそも、憎悪が、瞋恚が、無垢なるものではない。どれほど清められているように見えても、そういった感情は所詮は感情に過ぎない。感情というものは導出されるものではない。欲望も、感情も、世界がそのように動く方向性にべたべたと塗りたくられたところの不純物に過ぎないのだ。例えば怒りだとか憎しみだとか、そういったものは、そもそも存在している自らの先入観とは異なった方向に何か物事が動いていくことへの嫌悪感でしかないが。とはいえ、その先入観はいうまでもなく絶対的な必然ではない。生活の慣性のようなものに過ぎない。

 そこには、義人の天国の軍勢には。感情はなかった、いわんや欲望さえも。そこにあるのは……いうならば「根源悪の排除」であった。そこに悪がある。悪が。絶対的に取り除かれなければいけない、この世界の腐敗。例えばなんらかの病気に感染した一本の大木から患部を取り除く作業のようなものだ。つまり、それが、敵意である。世界が定めた善の格率。悪そのもののために悪を犯すところの悪を排除しようとする方向性。

 真昼は。

 真昼は。

 しかし。

 ということは。

 真昼は悪なのか?

 もちろん、悪だ。それは真昼にも分かっている、はずだ。真昼はそれを完全に理解している、はずだ。ついさっき、たった今、それを確信したばかりではないか。あたしは悪の側に立っている、デナム・フーツの側に立っていると。そして、そのことを確信することによって、いいようのない絶対的な最後の福音のような幸福感を感じたばかりではないか。

 それなのに真昼は……今、何かが、どこかが、間違っているということを感じていた。真昼はここに立っていてはいけないような気がした。というか、もっと正確にいえば、こんなことをしてはいけないような気がした。今から起こること、起こるはずのこと。それは絶対にしてはいけないことではないのだろうか。

 真昼は、確かに、悪であることを受け入れたような顔をしていた。だが、その実、真昼が受け入れたのは悪ではなかった。むしろ、善が不在であること、悪が不在であること、この世界には疎隔された苦痛があるだけだということについてであった。真昼は、現実における悪そのものを直視してはいなかった。

 現実が、もう二度と取り消すことが出来ない現実が、今、真昼の目の前に現われようとしている。今までの真昼は現実ではなかった。自分ではそれを現実だと思っていたが、それは現実ではなかったのだ。今までは、現実は遠く遠くに響き渡る予兆でしかなかった。だが、今、この時に、現実が起ころうとしている。

 悪が起ころうとしている。

 でも。

 でも。

 ねえ。

 じゃあ。

 悪って何?

 真昼は……悪が、分からなかった。悪って何? 価値でもなく論理でもなく、理由でも苦痛でも本質でもない。自らが悪をなそうとして悪をするその意志ではなく、あるいは悪を悪と思うことなくただただ無自覚に無批判にそれを行なうということでもない。自らが、完全な正義をなしていると、確信とともに思うこと。そして、多様な観点によりそれを確認して、それがやはり正義であると論理的に導き出すこと。過去においても現在においても未来においてもそれが正義だと承認され続けること。そして、その正義によって、悪を、一つの巨大な爆弾で滅ぼすということ。そこまでした正義であっても、やはりその正義は、悪であるところの悪として悪であること。これが根源悪の問題である。真昼は、それを、知っている。アミソリフ・イカサガン、あるいはアユスカビフ。悪とは何か?

 悪の名前。

 悪の名前。

 この世には。

 未だ名付けられざる悪がある。

 そして、悪が……真昼の、目の前で行われようとしている。もちろん、それを、真昼は、完全に分かっている。でも、それでも……なされることの全ては正しいことだ。それならば、その悪は本当に止めなければいけないものなのだろうか? 止めたいのか、止めたくないのか、あるいは止まるのか止まらないのか。真昼には、何も分からない。ほんの一瞬前、善の格率が働き出す前は、真昼は、あれほどの、完全な理解の中にいたのに。今では、何も分からなくなってしまっていた。善の格率は真昼の全てを破壊した。なぜならここは天国であり、真昼は天国の住人ではないからだ。

 いや、分からないというのは違うかもしれない。考えたくないのだ。これを考えてはいけない気がする。なぜなら、そもそも答えは決まっていて、しかもその答えは絶対にその答えを答えとして答えてはいけない答えだからである。

 The show must go on、全ては必然の中で決定されている。真昼が止める止めないを考えても無駄だ。なすべきこと、なすべきではないこと、真昼には分からない。真昼はあまりにも不完全であり、また、下等な生命体なのだから。

 だから、真昼は。

 悪の。

 悪の。

 悪の名前。

 それを理解出来るほど。

 強く、賢い、生き物に。

 問い掛けようとする。

「デナム・フーツ……」

「しーっ、静かに!」

 けれども、その問い掛けは遮られた。いつも通りの悪戯っぽい顔をして、柔らかく、柔らかく、首筋だけでデニーが振り向く。フードがふわりと揺れる。デニーは、人差指を可愛らしく真っ直ぐにして。ちゅっとした唇にそっと触れさせて。ジェスチュアにおいても、そのbe quietを示している。

 そして、その唇が、些喚くような密やかさによって笑う。「お口を閉じて」「その舌をしまって」「そして」「それから」「今までで」「一番」「幸せそうに」「笑って」「だって」「ねえ」「ほら」「真昼ちゃん」「あれは」「全部」「全部」「真昼ちゃんの」「ための」「祝祭」。それから、また、向き直る。生命の樹の方向に、今にも軍勢が向かい来たるその方向に。

 大きく大きく両腕を広げる。まるで誕生日の子供のように。大好物が並べられたテーブルを、積み重ね上げられたプレゼントを、それに、今まで見たことがないほど素敵なケーキを目の前にした子供のように。そして、天を仰ぐように顔を上に向ける。

 「ふふっ……」「ふふふふっ……」「あはっ!」「あははっ!」「あははははははははははははははははっ!」あまりの幸福に耐え切れないというように笑う。それから、誰に向かってというわけでもなく、ただただ叫ぶ「さあ、パーティの始まりだよ!」。

 そんなデニーに対して、真昼は、何も言えなかった。口を閉じて、その内側に舌をしまって。けれども、幸せそうに笑うことさえも出来ないまま、ただただ呆然としていることしか出来なかった。なぜというに、それは、それは、あまりにも……悪い冗談だったからだ。そうとしかいいようがない。これは、理性だの悟性だの、あるいは感性さえも超えたところにある、何かとんでもなく馬鹿げたジョークだった。

 笑ってしまうようなジョークは、一度だって嘘だったことはない。それが信じられないほど馬鹿馬鹿しく感じられるのは、それがまさに間違いのない現実だからである。そう、確かに現実だった。完全に、一片の疑いさえなく、デニーの言う通りだった。つまり、それは、真昼のためのパーティだった。

 それは、ただ真昼のためだけに作曲された一つのオーケストラの交響曲であった。これほど壮大で、これほど絶美で、そして、これほど完全な構造を持つ音楽を、真昼は決して知らなかった。あらゆる楽器の代わりに、ただただ生命そのものの力が奏でる音楽。一片の狂いさえなくそれがそれであるべき場所に収まった多様性。互いが互いに調和しあい、あるいは仮に盲目であり聾唖であっても、その関係のうちに理想化された統一性。あらゆる楽器が、あらゆる生命が、一つ一つの部分の合計としての機能においての重要な側面、かけがえのない部分である。そう、これはまさにcorrective umweltであった。一つの世界、最も正しい構造を持つ、円環としての世界。あらゆる特徴が、ある種の記号論として、一つの意味を示しているのだ……砂流原真昼の根絶という意味を。

 そうだ、そうだ、その通りだ。あの全部は、この上なく美しい敵意は、真昼にのみ向けられたものだ。一見、あれは、デニーに対して向けられているように見える。ただ、それは間違いだ。だって、そうでしょう? ミヒルル・メルフィスが、あそこまでの敵意によって守っているもの、つまり生命の樹を、貪り食い尽くそうとしているのは、自らのものとしようとしているのは、真昼なのだから。デニーは死んではいない、死んでいるのは真昼だ。生き返ろうとしてるのは真昼だ。そう、そうだ、真昼さえいなければデニーも生命の樹など求めなかったのだ。今から起こる全ての悪は、真昼によってこの世界にもたらされるものだ。

 祭祀階級のミヒルル・メルフィスが。

 その手に持っている杖。

 センチネルが持っていたものと。

 全く同じ、杖の形をしたもので。

 あたかも。

 太鼓を叩くかのように。

 時空間そのものを叩く。

 どおん。

 どおん。

 この世界。

 そのもの、が。

 響くような音。

 その音に合わせ。

 ひらり。

 ひらり。

 アウラが瞬く。

 力が揺らめく。

 恍惚と目眩く。

 踊る。

 踊る。

 銀河が踊る。

 あたしのために。

 銀河、が、踊る。

 あたしの目の前にあたしの現実がある。今、あたしの現実がある。苦痛ではない、苦痛とは全く異なった種類の現実が。苦痛は……真昼にとって、それは、真昼とは全く関係がない場所にある現実であった。確かに苦痛を感じているのは真昼以外の何者ではないが、ただし、それを選んだのは真昼ではない。いや、選ぶというよりも……それを「決定」したのは真昼ではない。例え全てのことが必然であるとしても、真昼は、その必然の必然性として、やはり決定することがあるのだ。確率が収束する、その一点としての決定を。そして、苦痛は、真昼の決定とは全く関係ない部分にある。

 ということは、苦痛はある意味では他人事なのだ。なぜなら、どうしようもないから。それは押し付けられたものだ、真昼がどうにか出来ることではない。一方で、悪は……悪は、必然性の中で、絶対に逃れられない必然性の中で、それでも真昼が決定するものだ。そうだとすれば、まさにそれは真昼自身の問題である。それは必然としてこの世界に予め埋め込まれており、真昼には絶対的に逃れようもないものなのだが、それでも真昼自身が招いたものなのだ。それが、悪だ。

 悪。

 悪。

 悪の名前。

 ねえ。

 教えて。

 あたしは。

 知りたい。

 悪の名前を。

 と……デニーの笑い声、どこまでもどこまでも軽やかに転がるような笑い声が、突然に止まった。デニーは、両腕を、ゆっくりゆっくり下ろしていって。天を仰いでいた顔を、ふっと前方に向けるように戻して。それから、くっと首を傾げた。

 フードが、ゆらんと揺れる。デニーは、目の前にある完璧な光景に、完全に完全なガラス玉みたいな光景に、どこか瑕疵があるとでもいいたげに。けれども、それが、どこがおかしいのか分からないとでもいいたげに、暫く何かを考えていた。

 その後で。

 こう呟く。

「でもさーあ。」

 ぽつんと。

 残酷に。

 投げ出す。

 みたいに。

「ちょーっとだけ、ハッピーが足りないよね。」

 え? ハッピーが足りないって何? 具体性が全くないので全然分からないが、とにかく、デニーは、目の前の光景のどこかに物足りなさを感じているらしかった。「なんかさーこーさー」「もーちょっと」「うーん」「ばばーって感じがあるといいよね」「こう、どどーん、ががーん、っていうかさーあ」「せっかくのパーティーなんだから」「もーっと素敵に、もーっと最高に、なるといいよね!」「ね、真昼ちゃん!」みたいなことを言っている。全然なんにも分からないですね。

 しきりと、あっちを指差したりこっちを指差したり、身振り手振りでこんな感じだということを表わしながら、あーだこーだと言っている。真昼を振り返ったり、目の前の光景に視線を戻したり、そんなことをしながら、何かを主張していたのだけれど。やがて、始まった時と同じような突然さによって、ふっと、そういったあれこれを止めた。そうして、その後で……また、あの、凍り付いてしまいそうなほどの無邪気さを感じさせる声で、こう呟く「んー、swarmは、みんな、みんな、真昼ちゃんを歓迎するのに忙しいみたいだし」「ここはデニーちゃんがなんとかするしかないよね!」。

 と。

 そう言って。

 それから。

 それから。

 デニーは……そっと、両方の目を閉じた。両方の手、胸元に押し当てるようにして、右の指と左の指とを柔らかく組ませ合う。それから、淡く、淡く、まるで自分の内的世界の内側に沈み込んでいくかのような態度によって、軽く俯く、頭部を前方に傾げる。それは、つまり、祈り、祈り、祈りのような姿勢。

 デニーのような強く賢い生き物が何かに祈るとすれば、無論、それは自分自身に対する祈りだろう。さて、それでは。デニーは、一体、何を祈っているのだろうか。

 静かに、静かに、口元がゆすらぐ。そして、声が、些喚く、些喚く、誕生日の子供がケーキの蝋燭を吹き消す前に願い事をする、その願い事のように無垢な祈りを。

「すてきな。」

「すてきな。」

「せかいに。」

「なーれ。」

「デニーちゃんが。」

「おもったとーりの。」

「せかいに。」

「なーれ。」

「すてきな。」

「すてきな。」

「せかいに。」

「なーれ。」

「デニーちゃんの。」

「だーいすきな。」

「せかいに。」

「なーれ。」

 可愛らしく、可愛らしく、デニーは、その祈りを繰り返す。あまりにも純真な心を持つがゆえに、何度も何度も願えば、その願いが現実になると心の底から信じることが出来る、そんな幼児みたいにして。

 ああ。

 でも。

 デニーは。

 幼児ではない。

 古い。

 古い。

 生き物。

 とわに近い年月を、経て。

 死をも超えるほどの力を。

 手に入れた生き物。

 だから。

 その祈りは。

 自らに対する願いは。

 必ず。

 必ず。

 現実になる。

 ふ、と。真昼は、何かが腕に触れたのを感じた。ぼろぼろになった丁字シャツ、剥き出しになった腕に、空の方向から何かが落ちてきたようだ。ちらとそちらの方に目を向ける。そして、腕に落ちてきたそれを、指先で掬い取る。

 それは……雪? 確かに、それは雪に似ていた。一瞬だけ、そうであるように見えた。けれども、そうではなかった。雪ならば、真昼の皮膚に触れた時点で、その熱によって消えてしまっていただろう。というか、そもそも、真夏のアーガミパータに雪が降るわけがない。

 しかも、それは、雪の純白とはかけ離れた色をしていた。灰色をしていた。いや、灰色というよりも、ただ単なる灰の色。何か生きていたはずのものが、腐り果てて、朽ち果てて、完全に死に絶えた後。その後にそれだけが残される灰の色。

 例えば、真昼の母親は。死ぬ前に、ろくに物を口にしなかったため、ほとんど栄養を摂取していなかった。また、様々な薬品を投与されていたために、肉体は崩れ落ちる寸前だった。それゆえに、その死後に、肉体を火葬してみると。骨の形などほとんど残ることなく、その金属の台の上には灰だけが残されていた。

 それは、その灰だった。

 そう、枯渇の象徴としての灰。

 そう、死そのものとしての灰。

 つまり。

 それは。

 デニーのオルタナティヴ・ファクトから。

 しんしんと、降り注いでいた、ところの。

 あの灰。

 はっと、真昼は、弾かれるようにして空を見上げた。その方向から、降りしきる、降りしきる、それ自体が世界の全ての音を食い尽くしてしまっているかのような完全な無音の中で降りしきる……無数の死の欠片、灰が、降りしきる。まるで、あたかも、パーティの紙吹雪みたいに。

 けれども、しかし、だけど……それはおかしい。だって、なぜって、この灰は、デニーのオルタナティヴ・ファクトの内側にしか降らないものであるはずだからだ。こんなに禍々しいものが現実の世界に存在しているはずがない。

 以前もエレファントが説明していた通り、オルタナティヴ・ファクトとは、現実にあるこの世界ではない。ある特定の魔学者が、その内的な観念世界を具現化したある種のポケットバース的時空間である。まあ、そういった細かいことは真昼は知らなかったのだが。とはいえ、今までの経験、デニーがそこから何かを取り出したりそこに何かをしまったりするのを見てきた経験から、それがデニーの精神世界的な何かであるということはぼんやりと理解していた。というか、そうでなければ説明がつかなかった。このような……邪悪そのものが、この世界であるわけがない。この世界であってはいけない。

 なぜ、なぜ、何が起こっている? 何かがおかしくなっている。この世界が、軋み音を立てて、無理矢理捻じ曲げられている。真昼は、はっと顔を上げて、縋るような視線を上の方に向けた。そこに、きっと、オルタナティヴ・ファクトの穴が開いているに違いない。そこから、この灰は落ちてきているに違いない。

 しかしながら――真昼自身がそうであるだろうと薄々予想していた通りに――そこには何もなかった。オルタナティヴ・ファクトの穴は開いておらず、なんということのない青空から、不躾なまでの唐突さによって灰がひらひらと舞い落ちてきているだけだった。

 間違いない。

 この世界。

 自体。

 が。

 どこかおかしく。

 なり始めている。

 デニーの声、繰り返す、繰り返す、お願い事の声。それがこの世界をおかしくしている。デニーがそう望んでいる通りの世界に、忌まわしく悍ましい世界に変貌させようとしている。そして、その変貌の過程は、誰にも止めることが出来ない。

 ごうっと、風が吹いた。真昼の全身を吹き飛ばそうとするかのような、それどころか、世界を覆っている正しさの感覚、正常、善良、一つの完全な結晶のように整えられた秩序、全てを吹き飛ばそうとするような風が吹いた。

 真昼は、思わず、両方の手のひらで顔の全体を覆った。それから、まるで全身で全身を庇おうとしているみたいに上半身を前方に倒した。軽く膝を曲げて、腰から体を折り曲げて。肘が膝にくっつきそうなくらいの姿勢だ。

 なぜなら、その風はあまりにも禍々しかったからだ。それは、端的にいえば死の匂いであった。墓場の方向から吹きつける風、ありとあらゆる疫病を運んでくる風。それに触れたものを、腐敗させ、崩壊させ、心の欠片も残さず消し去るような滅びの風。そして、風は、死を運んできた。死の雰囲気、辺りに満ち溢れる死の感覚。それは、風と共にここにやってきて、そのまま、嘲笑うかのような酷薄さでとどまった。

 真昼は……見ていた。覆った手、指と指との隙間から。風が吹き抜けたその場所が一体どうなったのかということを。それは驚くべき光景だった。それは吐き気がするほどあり得てはいけない光景だった。

 死の風が吹く前は、そこは草原であった。生命の樹から直接放たれたところの生命力によって形作られた、この世界の生の喜びそのものを表象する草々が、優しく優しく吹き抜ける善の意思に満ち溢れた微風によってさらさらと揺れていたのだ。

 しかし、死の風が吹き抜けると。草原は瞬く間に死に絶えた。生命力は虚ろになった。善の意思は完全に消えてなくなった。そして、草は、死の風が触れた瞬間に腐敗し、そのまま枯れ落ちた。ざらざらと、あまりにも空っぽな色をした、乾き切った灰になって。その灰さえも死の風によって跡形もなく吹き飛ばされた。その後に残されたのは、ただただ不毛の大地だけであって……いや、違う。不毛の大地さえ残されなかった。

 風が吹き終わると。真昼は、顔から手のひらを離した。今起こったこと、あまりにもあってはいけないことに、言葉さえも出ずに呆然としながらも。ゆっくりとその場に膝をついた。何が起こったのかを実際に手で触れて確かめるためだ。

 そこに生えていたはずの草は消え去っていて、剥き出しの大地だけだった。真昼はそれに触れる。両方の手のひらで、そっと、そこにあるものを掬い上げる。それは沙漠の砂だった、オアシスの外側に広がっているその砂と同じ砂だった。

 と。

 その砂が。

 どろどろと。

 溶け出した。

 「え?」と、真昼の口から声が漏れる。砂は有機物ではない、分解されるべき物がないのだから腐敗するはずがない。そうであるにも拘わらず、その砂は、絶対的な悪意そのものに触れたことによって根底的な構造が耐えられなくなったとでもいうようにして。悪夢のような糜爛の香気を放ちながら溶けていった。

 真昼の手のひらの上だけで起こっていることではなかった。それどころか、砂という物質だけに起こっていることでもなかった。草が、花が、木々が、湖が、大地が、天空が。生命の樹と、ミヒルル・メルフィスの軍勢と。その二つを除いた全てが。真昼の視線の先、その先に広がっている全ての全てが。つまり、この時空間自体が。絶望的な断末魔の声を上げるかのようにして、どろどろと腐敗して溶けていく。世界が、世界が、溶けていく。

 どうしようもない腐敗、形而下だけではなく、形而上に及ぶ腐敗。そこにあるそのものの、第一原因から腐り果てていく、そんな腐敗が、結界の内側に広がっているこの世界に蔓延していた。一体、一体、何が起こっているのか?

 真昼が膝をついている大地が、だらりだらりと、醜悪な何かになって流れ落ちていく。そして、その裏側から……あたかも、人間の皮膚をかぶった怪物のその皮膚が溶けて流れ落ちていってしまったかのように。何か、異形の何かが姿を現わす。

 それは……骨? そう、骨だった。というか、骨と、それに類する「生命であったはずのものの残骸」であった。例えば、これはヴェケボサンの骨。例えば、これはユニコーンの骨。例えば、これは宝石のように硬く凍り付いたテーワルルング。例えば、これはメルフィスの甲殻。例えば、これはダガッゼの金属片。そういったものが、うずたかく山のように積み上げられていて。そして、その上に真昼は跪いているのだ。

 死骸。

 死骸。

 死骸。

 見渡す限りの死骸。

 そう、真昼がいるこの高台だけではなかった。見渡す限りの光景が、そのような、累々たる死骸の山になっていたのだ。どれほどの……どれほどの生命が失われたのだろうか。これほどの死骸が生み出される過程においては。

 しかも、それらの残骸は完膚なきまでに死んでいた。つまり、真昼のように魄が残ってる状態ではないということだ。それはただの物質になっていた。生命の欠片さえ残さない物質。リビングデッドにもならない残りのもの。

 冷酷なまでに。

 完全に。

 絶対に。

 生命であることを。

 奪われ、た。

 残りのもの。

 生命に満ち溢れていたはずの世界は、今は死の静寂に包み込まれていた。大地は、骨の山と化した。見渡す限り、乾いた骨、乾いた骨、乾いた骨。そして、オアシスの湖の代わりには……そこここに、反生命の原理が、絶対的な暗黒として沈み込んでいる。

 一方で、視線を上に向けてみよう。天空が……青く澄み渡り、生き生きと輝いていたはずの天空が。暗く暗く沈んでいく。いや、これは既に暗いという感覚ではなかった。黒く、黒く、暗黒に塗り潰されていて。絶対的な悪意によって塗り潰されていて。そこには、他の何ものも表われてはいなかった。ただの悪、innocentとしての悪。

 つまり。

 それは。

 冷たい。

 冷たい。

 呪い。

 そう、天空であったはずのそこには。デニーのオルタナティヴ・ファクトそのものであるところの、呪われた暗黒が広がっていた。そして、その暗黒から、はらはらと、灰が舞い降りてきていた。もう、それは……それは、真昼には否定出来ないことだった。何が起こったのかということ、今、この瞬間に、真昼には完全に理解出来た。そして、そうやって理解したことを真昼は否定出来なかった。なぜならそれは事実だからだ、事実を否定することは誰にも出来ない。事実だ、要するに、この世界は、デニーの、オルタナティヴ・ファクトと、入れ替わってしまった。

 デニーが。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 目を開く。

 その後で。

 フードの奥。

 うっとりと。

 微笑んで。

 言う。

「みんな、デニーちゃんの内側にようこそ。」

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