第三部パラダイス #21

 ベルヴィル記念暦八四四年十二月十二日、リュケイオン死霊学部学部長であるゾシマ・ザ・エルダーが、祭祀階級に所属するミヒルル・メルフィスの死霊と自らの魂魄とを融合させることに成功した。ゾシマは過去においても未来においても最も優秀な死霊学者の一人であり、この世界で唯一、死霊と魂魄とを融合させる方法を知っている人間であった。そして、その方法によって様々な高等知的生命体を自分自身と一体化させ、人間が決して知ることの出来ないような知識を得ていた。

 ミヒルル・メルフィスは高等知的生命体の中でも最も融合が難しい種族の一つであり、ゾシマは長い長い年月をその融合の研究に捧げていた。そのような状況の中で、第二次神人間大戦が勃発。神々陣営と人間陣営との壮絶な戦争に巻き込まれて死んでいったミヒルル・メルフィスの死骸をあらゆる方面から掻き集めたゾシマは、それらの死骸を研究材料として使うことでようやく融合に成功したのだった。

 なぜゾシマはそこまでミヒルル・メルフィスとの融合に強い執着を抱いていたのか。無論、ミヒルル・メルフィスの精神構造に対する知的好奇心もあったが、その真の目的は生命の樹であった。

 当時のゾシマは、学部生の中でも最も優秀な生徒であったニコライ・サフチェンコとともに、生命そのものの秘密を暴こうとしていた。だが、ジュノスの門までは近付くことが出来ても、そこまで行くたびに何度も何度もヘルム・バーズからの妨害に遭っていたのである。ゾシマは別のアプローチをする必要性に迫られていた。そこで思い付いたのが生命の樹だったというわけだ。

 当時の人間の大半にとっては、生命の樹というのは実在さえも怪しいと思われているような、そんなレベルの伝説に過ぎなかった。ほんの僅か、ごくごく一部の組織(例えば謎野研究所はユキヲノムウマからなんらかの情報を得ていたようだ)が、非常に不明瞭かつ不正確な情報を提供していただけであって。そのような情報に、アクセス出来る者さえ限られているくらいだった。

 そのような情報はミヒルル・メルフィスこそが生命の樹を守護する生き物であると口を揃えていっていたが……それでも、そういった情報は、あまりにも信頼性を欠いていた。また、それだけではない。実際のミヒルル・メルフィスについても、触れることどころか見たこともないという人間が大部分だった。ミヒルル・メルフィスは、神々のような強力な支配者達と不可侵条約を結び、生命の樹の付近に何ものも近付かないように色々な外交戦略を駆使していた頃であったが。いうまでもなく、人間は、そのような外交の対象ではなかったため、ミヒルル・メルフィスという生き物と接触する機会さえほとんどなかった。

 しかしながら、ゾシマは、リュケイオン付属図書館における禁書区画、通称オルガノン・トウ・ラゴ(一般的には「兎の内臓」と訳されることが多いがこの場合のオルガノンは器具・道具という意味で使われている)に残されているあらゆる記録を知悉していた。そして、その中には、リュケイオン初代学長であるミミト・サンダルバニーの残したミヒルル・メルフィスについての記録も含まれていた。ちなみに、このミミト・サンダルバニーは通称機関の研究所所長をしていたイースター・バニーと同一人物であるが、実は人間ではなくホビットである。

 そのため、ミヒルル・メルフィスがどのような生き物であるか、生命の樹とどのような関係があるのかということを知っていたのだ。そのため、生命の樹にアクセスするためには、どうしてもミヒルル・メルフィスの、しかも祭祀階級のミヒルル・メルフィスの知識が必要だということも分かっていたのだ。

 そして、ゾシマはその知識を手に入れたということだった。ミヒルル・メルフィスの精神を一欠片も残すことなく貪婪に食らい尽くしたゾシマは……即座に全てを理解した。生命の樹とは何か、いや、それ以上に生命の樹がどこにあるのか。そして、そのようにして理解したことをもとにして探検隊を組織した。

 探検隊? ははは、愉快な冗談だ。確かにそれはリュケイオンの大学史においては探検隊と呼ばれているが。その実態は、要するに、侵略のための軍隊であった。ゾシマ自身を隊長として、ニコライ・サフチェンコを副隊長として。死霊学部の学部生の中でも最も優秀な者(最も残酷な者)を七十七人、ゾシマが過去になんらかの理由で殺害した魔学者のリビング・デッドを七万七千七百七十七人。大軍勢を引き連れて、ミヒルル・メルフィスの住まうところ、つまり生命の樹を略奪しに向かった。

 ベルヴィル記念暦八百四十五年一月八日にリュケイオンを出発した探検隊は、一か月と十五日をかけてその場所に到着した。ウォッチドッグとの戦闘で、学部生を数人、リビングデッドを数千人失ったが、これは予想の範囲内だった。また、結界についても問題はなかった。ゾシマが融合したミヒルル・メルフィスは、当然ながら結界が持つ特有のオレンダ周波数と同調出来たからだ。探検隊は、完全に計画通り、ベルヴィル記念暦八百四十五年二月二十三日に生命の樹まで辿り着いた。後は、ミヒルル・メルフィスと戦闘を行い、生命の樹を奪い取るだけだった。そう、それだけのはずだった。

 しかしながら、そこで。

 全く、想定していなかった。

 出来事が起こってしまった。

 生命の樹を見た瞬間に……それを、その光を、感覚した瞬間に。そこにいた全てのリビングデッドは、一瞬にして蒸発してしまった。あまりにも凄まじい生命の力に、プカプカトン錯乱状態になることによってぎりぎりのところで維持されていた魄が耐えられなくなったのである。いや、それどころか、その魄を閉じ込めていた個体限定範囲自体が、あまりのエネルギーによって破壊され、断絶した非決定性の粉々の確率となって不確定性の中に消えて行ってしまったのである。また、それだけではなかった。学部生達も、そのエネルギーには耐えられなかった。学部生達の全身は、存在のレベルで、概念のレベルで、沸騰し。そして、次の瞬間には、ぱしゃんと弾け飛んで消えてしまった。

 結局、探検隊の中で生き残ったのはゾシマとニコライとの二人だけであった。しかも、ゾシマも無事では済まなかった。その生命の中に貪り食った無数の死霊、そのようにして蓄えた生命力のうちの八分の七は吹き飛んでしまって。残りはたった八分の一だけになってしまったのだ。というか、ゾシマが生き残ったのは、それだけの生命力を犠牲にしたおかげであった。融合したミヒルル・メルフィスの死霊に、その生命力を注ぎ込み、いわば盾として利用することで、なんとか消滅を免れたのである。

 無傷で生き残ったのはニコライだけであった。ニコライがどのようにしてこの破滅を逃れたのかということは、実は記録が残っていない。というか、探検隊の「探検」のこの部分は、記録がだいぶん混乱してしまっているせいで全体的によく分からないことになっている。なんにせよゾシマとニコライとは生き残った。そして、ほとんど辛うじてとでもいうべき有様でリュケイオンに帰還した。当然ながら、生命の樹の侵略など出来たはずもなかった、なんとか帰ってくるので精いっぱいだったのだ。

 ベルヴィル記念歴八百四十五年二月二十五日、ゾシマが組織した第一回の探検は、完全な失敗のうちに終了した。ゾシマはこの失敗で諦めることなく、この後で、もう一度、探検隊を派遣することになるのだが……まあ、その話についてはどうでもいいことだ。ここまでの長々とした話で、一体何が言いたかったのか? それは、つまり、要するに、生命の樹とはいかなるものかということだ。生命の樹が、どれほど凄まじい力を有するものなのかということだ。それは、ただ、それを感覚しただけで……リュケイオンの学部生でさえ消滅させるほどの力。

 そして、今。

 その力が。

 真昼の目の前。

 光り、輝いて。

 真昼は……

 真昼は……

 全ての疎隔が……

 破滅するのを……

 感じて……

 あ。

 あ。

 こ。

 れ。

 は。

 聖。

 な。

 る。

 聖。

 な。

 る。

 光。

 「それ」はhugeではなかった。つまり、人間の考えるような大きさというものでは測れなかった。「それ」はbrightではなかった。つまり、人間の考えるような明るさでは測れなかった。「それ」はholyではなかった。つまり、人間の考えるような美しさでは測れなかった。そして、そうであるにも拘わらず、「それ」は、真昼の知っている何よりも偉大であり真昼の知っている何より燦然であり真昼の知っている何より真聖であった。

 生命の樹だ。いや、生命の樹なのか? 真昼は、何かが完全に「真昼ではなくなった」ことを感じていた。何かというのは要するに真昼の全てのことなのだが、その真昼の全てが、目の前にある「それ」と完全に一体化していたのだ。一体化というのも生ぬるいかもしれない。一体化という場合、それと混ざり合った真昼という真昼が担保されているが。今の真昼は、そのような真昼さえもなかった。敢えていうならば、真昼というものは空間と時間とのどこにもなかった、ない、ないだろう、そして、ただただ「それ」だけがそこにあるのである。

 端的にいって、「それ」は全てから疎隔されていなかった。それとも真昼が「それ」から疎隔されていなかったといった方が正しいだろうか。「それ」は、結局のところ、疎隔性それ自体であるがゆえに、逆説的にあらゆる疎隔は「それ」に対して機能することがなかったのだ。「それ」によって疎隔されるところの「それ」は、疎隔されるべき真昼自身なのである。だから「それ」には名前がなかった。名前とは差別であり、真昼と「それ」に差別がない以上は、真昼はそれを名付けることが出来なかったのだ。

 「それ」は。

 地上から。

 上空まで。

 貫いていて。

 しかしながら、その場合の地上だとか上空だとかそういった単語は、現在一般的に流通している単語とは全く異なった意味で理解されなければならない。例えば、現在、上空というものはその外側にある宇宙の象徴的一部分に過ぎないということを誰もが知っているし。地上というものはその宇宙に浮かんでいる小さな小さな土塊に過ぎないということも、やはり誰もが知っている。

 だが、「それ」が貫いているものはそういうものではなかった。「それ」が姿を現しているところの地上とはあらゆる生命体の始まりとしての大地であったし。「それ」が姿を消しているところの上空とはあらゆる生命体の終わりとしての天空なのだ。そして、しかも、「それ」は、そのような絶対的な地平の下・そのような絶対的な天蓋の上にある原初と接続しているのである。恐らくは、「それ」は、幾つも幾つも、数限りない時空間を、この時空間を貫通しているのと同じような態度で貫通しているのだろう。

 「それ」は……「それ」は……結界の外で見た時には、確かに樹であるように見えた。けれども、それは、すりガラス越しに見た揺らめくカーテンが手招きする人の姿に見えるのと同じようなものだろう。直接的に、感じることの出来るあらゆる感覚によって、それを感じた時に。それはどちらかといえば世界そのものの破綻であるように見えた。つまり、この世界の、罅割れである。下から上に一直線に走った亀裂。割れてはいけない、世界を包み込んでいる防壁のようなものが割れて。そして、その外側にある、何か、とても、純粋なもの。生命体がそこから来て生命体がそこへと帰っていく根源的な何かが、ほんの僅かにのぞいてしまっている。

 ああ。

 あたしが。

 あたしが。

 あそこにいる。

 あの光はあたしだ。

 あたしはあの光だ。

 だから。

 あたしは。

 あそこに。

 帰らなくては。

 あたしは。

 あたしに。

 帰らなくては。

「真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃーん!」

 真昼は、はっと気が付いた。真昼にとって、最も重要な声。真昼であると真昼が認識している真昼よりも遥かに遥かに重要な声、それゆえに、絶対的に服従すべき声。要するに、デナム・フーツの声によって。

 気が付いてみると、真昼は、自分の全身がぐらんぐらんと揺れているのに気が付いた。一体何が起こっているのか暫く分からなかったが、分かってみると単純な事実であった。デニーが真昼の肩を掴んでめちゃめちゃに揺さぶっていたのだ。どうも、立ったままで気を失っていた真昼のことを目覚めさせようとしているらしい。

 「真昼ちゃん、しっかりしてーっ!」と叫びながら、なおも揺さ揺さし続けるデニー。とはいえ、真昼はもうしっかりしていたのであって。「もう、もう、大丈夫だから! やめて、やめて、気持ち悪くなる! やめてって……やめろーっ!」といいながら、セミフォルテアに限りなく近い純粋な魔学的エネルギーを纏わせた拳で思いっ切りデニーのことをぶん殴った真昼なのであった。

 デニーちゃんの可愛らしいお体は、そのまま感傷的なまでに柔らかく弧を描いて、そのまま三ダブルキュビトか四ダブルキュビトか吹っ飛んで。そのままアビサル・ガルーダの手のひらの上から落っこちていってしまった。

 真昼はそれを見て、さすがにちょっと焦ったのか。「あっ、やばっ……」とかなんとか言いながら、慌てて手のひらの下の世界を覗き込んだ。真昼は、相変わらず第四趾の先端あたりにいたのだが、そこから見下ろしてみると。デニーは、意外にもすぐ近くにいた。どうも、例の見えない足場を展開して自分の体を受け止めていたようだ。

 べしゃーんという感じ、俯せの姿勢でその足場に横たわっていたデニーであったが。一秒か二秒か、真昼にとって気不味い沈黙が経過した後で、むくりっと元気よく顔を上げた。にぱーとした笑顔を浮かべながら「あー良かった! 気が付いたんだね、真昼ちゃん!」とかなんとか言う。

 すたっと元気よく起き上がると。スーツの裾の辺りをぱんぱんと叩いて、服の埃を払っているようなジェスチュアをする。いうまでもなく見えない足場の上に埃なんて積もっているわけもないのであって、これは完全に無意味な動作に過ぎないのだが。それはそれとして、一通りぱんぱんし終わった後で、その場でぴょーんとジャンプした。見えない足場からアビサル・ガルーダの第四趾までは、まあ大体三ダブルキュビトから四ダブルキュビトくらいだったのだけれど。その距離を軽々と飛び上がって、真昼が立っている指先、先っぽの先っぽあたりを両手で掴んだ。

 ぐぐーっと自分の肉体を引き上げて、指先に攀じ登ってくる。「ごめんねー、真昼ちゃん。個体限定範囲の内部にある法則が、上手くメラハ=メヌハ変換出来なかったみたいだね。えーっとねーえ、真昼ちゃんはもう死んじゃってるから、生命の樹のエネルギーのせいで生命力が暴走するってゆーことはないんだけど。それでも、あんまりつよーいつよーい生命のエネルギーをばばーってしちゃうと、存在と概念との結合が生命力によって引き剥がされちゃうことがあるんだよね。魄の構造も不安定化しちゃうし。で、も! もーお、だいじょーぶだよ! 真昼ちゃんの法則をかーんぜんにカタルゲーシス状態にしたから!」。

 ちなみに、カタルゲーシス状態とは要するに根本的な不活性化のことであり、あらゆる外的作用の影響を受けるというその関係性を内的世界から切断してしまうことであるが。なんにせよ、そのような専門用語を使用されても真昼には全く理解出来なかった。まあ、とはいえ、どうやら真昼は正気に戻ることが出来たようだ。真昼としてはそれでワンワンソイである。

 話しながらも、デニーは、いつの間にやらアビサル・ガルーダの指先に登り終えていて。真昼の真横に立って、いつものようににこにこと笑っていた。真昼は……真昼も、やはり、いつものように。右の手でぐじゃぐじゃと髪の毛を掻き回すみたいにして掻き乱しながら、気を取り直すかのようにして「それで」と言う。「あれが、あんたの言ってた生命の樹なわけ?」。

 書くまでもなくデニーの答えは「うんうん、そーだよー」であったのだが。とにもかくにも、冷静になってみると、実は、真昼の目の前に見えているものは生命の樹だけではなかった。その生命の樹を中心とした巨大な生態系……完全に閉鎖的な、一つの独立した世界であった。

 まず、結界の内部は完全な真円であった。生命の樹がその真ん真ん中にあるのだが、ちょうど、その生命力が隅々まで行き渡る範囲を結界で覆っているためにそうなっているのだろう。つまり、生命の樹がある一点を中心としてコンパスで円を描いた形だということだ。結界の内部は結界の外部から見た時よりもずっとずっと広かった。たぶん空間を捻じ曲げているのだろうが、直径にすれば百エレフキュビトを超えるほどである。ちなみに、結界の立体的な形状は、ドーム状になっているわけではなく、どこまでもどこまでも上に向かって伸びていく円筒状だ。これは、生命の樹がどこまでもどこまでも続いている以上は当然といえば当然の話だが。

 生命の樹は、先ほども触れたことであるが、時空間にその位置を占めているわけではなかった。どちらかといえば、その時空間に開かれた切断なのであって。それゆえに、直径だとかなんだとかではいい表わすことが出来ない。敢えていえば直径ゼロダブルキュビトということになるだろうか。

 その周囲に……これは……ある意味で……脊髄に水銀を流し込まれるような戦慄を感じる光景なのだが……無数の、本当に数え切れないほどのミヒルル・メルフィスが群がっていた。恐らくは、というかほぼ確実に祭祀階級のミヒルル・メルフィスだろう。その様子は、卑近な例を使うとすれば、どこか深い深い森の中に強力な光を放つビーム装置を設置したとして。直線によって夜を切り裂くその光の柱に、夥しい量の虫が集まっているような感じとでもいえばいいだろうか。そして、それらのミヒルル・メルフィスが「音楽」をしていた。「音楽」、儀式、破裂せんばかりに脈打つ心臓の鼓動のように、静かな静かな呼吸のように。それは錯乱、ここではないどこかに落下していくような熱狂。

 その「音楽」について書く前に、まずは、その祭祀階級らしきミヒルル・メルフィスについて書いておく必要があるだろう。とはいっても、ここからでは、生命の樹が放つまばゆいばかりの輝きのせいではっきりとは見えなかったのだが。それでも、ウォッチドッグとは全く異なる姿をしているということは分かった。というか、それは、ミヒルルがつかないメルフィスとほとんど同じような姿をしていたということだ。人間のような二足歩行、三つの体節に分かれている全身。四本の腕、それに、蝶々のような翅。

 その翅によって、生命の樹の周りをひらひらと舞い飛んでいた。乱舞は、飛踊は、ある一定の律動に従って行われていたのだが。その律動というのは、ミヒルル・メルフィスの群れの全体が、一人一人のミヒルル・メルフィスが発音器官によって叫んで、叫んで、叫んでいるその歌声を紡ぎ上げることによって形作られているらしかった。

 その音は……例えるならば、太陽ほどの大きさがある巨大な機械が、一つ一つの惑星を飲み込んで、噛み砕き、磨り潰し、粉々の砂の欠片にしてしまう時に出るような音だった。ごごーん、ごごーん、とでもいう感じ。波が打ち寄せては引いていき引いていっては打ち寄せるような周期性によって、地獄の最も深いところに落とされた数億体数兆体の機械人形が一斉に絶叫を上げたとしたらこのような音になるだろう。ただ、その音は、ある意味では金属的であるが。それ以上に、どこか生命のようなものを感じさせるところがないわけではなかった。どう表現すればいいのか分からないのだが、一番近いのはやはり蝉の声だろう。神々にも近い力を持つ蝉が、この世界で最も栄光と喝采とに満ち溢れた真夏の日、一つの讃歌のようにして歌っている蝉時雨。

 その歌声の満ち引きにあわせて、ミヒルル・メルフィスの大群がダンスしているというわけだ。百や二百では数え切れない、下手をすれば千を超えるミヒルル・メルフィスが。まばゆい灯火に蝶々が近付いたり離れたりするようにしてダンスしている。ある意味では、その様は、きざはしと天使とという非常に使い古された図像的イメージに似ていただろう。ミヒルル・メルフィスは、一度はそのきざはしをのぼり、天蓋の向こう側へと消えていくかに見えるのだが。それからまた、こちら側に戻ってきて、地上ぎりぎりのところまで下降していくのである。透き通って、透明で、屑星の星々のように輝いているミヒルル・メルフィスの大群が……一つの銀河のようにしてきざはしをのぼりおりしている。それは、どこか、純粋な力のようなものを感じる光景だった。

 穢らわしさだとか清らかさだとか。

 そういった、区分を。

 超えたところにある。

 剥き出しの力。

 世界を動かす原因そのものとしての力。

 ところで、そのような銀河の中で、時折、ある一定の現象が起こることがあった。ミヒルル・メルフィスのうちの一人が、その他のミヒルル・メルフィスに、唐突に取り囲まれて。ばらばらに引き裂かれてしまうのだ。これは比喩だとかそういうわけではなく、本当に、一つ一つの体節、脚部の節、触覚の節、そういったものを切断されて。粉々のミヒルル・メルフィスの部品にまで分解されてしまうのである。それから、その部品の状態として生命の樹……世界の傷口の中に投げ込まれるのだ。

 その後で、必ず、その世界の傷口から一人のミヒルル・メルフィスの姿が現れる。ごくごく普通に、論理的に考えれば、このミヒルル・メルフィスはばらばらにされたミヒルル・メルフィスなのだろうが。ただ、はっきりとはいえないレベルで……どこか違っているように見えた。投げ込まれる前のミヒルル・メルフィスと、投げ込まれた後のミヒルル・メルフィスとでは、奇妙な部分が奇妙に異なっている別人に見えたのである。

 ミヒルル・メルフィスの「音楽」に完全に同調した形で行なわれる一連の行動であった。恐ろしいまでに規則的なラダー・プログラムに従って、数式よりも露骨な客観性によってなされるところの共同の作業。と、いうことは、なんらかの意味がある儀式なのだろうが、どのような意味がある儀式なのかということは真昼には分からなかった。

 生命の樹は。

 そのような。

 永遠に続く祭礼の。

 只中に。

 あった。

 わけであるが。

 ところで、その周囲はいかなる世界であったのだろうか。つまり、ミヒルル・メルフィスの作り出した孤立系は一体いかなる場所であったのだろうかということだ。

 まずは一番外側を見てみよう。デニーと真昼と、それにアビサル・ガルーダがいる最外縁部である。ここには外部の世界と大して変わらない光景が広がっていた。つまり光り輝くように純粋な真白の砂が敷き詰められた沙漠ということである。

 しかしながら、少し先に行ったところからは……もう、すぐに、オアシスとなっていた。オアシスというのはケメト・タアウィの言葉で大釜を表わすウェハトからきているのだが。その場所は、大釜のような窪地にこそなってはいなかったが、沙漠の真ん中、その部分だけがぽっかりと浮かんでいるかのように不可思議に異質な環境になっていたということだ。

 ただのオアシスというわけではない。一般的に、オアシスと聞いて思い浮かべる環境というのは、青く澄んだ湖があり、降り注ぐように木々が葉を茂らせ、色とりどりの花が咲き乱れるような場所だろう。まあ、それほど理想的な場所ではないにしても、水があり、植物が生え、虫に魚に鳥に、爬虫類に哺乳類に、様々な動物が生きている場所ではないだろうか。

 しかし、その環境にあるのは、そのような多様性ではなかった。いや、ある意味では多様ではあるのだが。そこにあるものは、生命の樹から溢れ出てこぼれ落ちた生命力と、それにミヒルル・メルフィスだけだったのだ。

 そこここに湖のような姿をして作り出されている地形は、いうまでもなくライフ・エクエイションで出来ている。ただ、これはちょっと驚くべきことなのだが、そういった湖は、外部の世界でそうであったようにライフ・エクエイションそのものの色をしているというわけではなく、青々と透き通った色をしていた。いうまでもなく、普通の湖の色というわけではない。その青は、世界の脊髄を粉々に砕けば、そこからたらたらと滴ってくる髄液。例えるならばそんな色をしていたのだ。だが、とはいえ、それは真昼が知っているライフ・エクエイションの色ではなかった。そして、その周囲には、まるで生きるということのこちら岸とあちら岸とその二つを分けている普遍にして不滅の川、そのすぐ近くに咲いているかのような。甘く甘く、どこか誘うように揺れる花々が咲いていたのだが……これが、どうも普通の花ではないようだ。

 例えば、カーマデーヌは牛のように見えるが牛ではなかった。スナイシャク特異点だった。そのようにして、この花々は花々ではなく別の何かなのだ。それでは、この花々はスナイシャク特異点なのか? いや、それも少し違うような気がする。スナイシャク特異点は、カーマデーヌがそうであったように、生命力そのものというわけではない。あくまでもジュノスから生命力を引き出すことが出来る接点を中心として構成された、一つの生命体なのだ。一方でこの花々は……生命力そのものであった。つまり、生命の樹から種が落ちて、そこから生えてきた生命の樹の分身のようなものだったのだ。とはいえ、生命の樹がそうであるような世界に開いた傷口という感じでもない。どちらかといえば、そのような傷口から生えてきたところの生命力が花の形をとったものといった方がいいだろう。要するに、生命体ではなく現象なのである。

 薔薇のように。何枚も何枚も花弁を束ねて、それを世界の底へ底へと向かう渦巻に投げ込んだような花。色は、赤、黄、紫、橙、一本一本が、あたかも思考不可能な何かを見ている時に眼球そのものが感じるであろう鮮やかさによって咲き乱れている。そして、そのような一本一本の色が、何か真昼には分からない、黙ったままで死んでいく秘密にも似た配列によって並べられている。虹だ。真昼にはそれが虹に見えた。とはいえ、もしもこれが虹だとするのならば、この世界に生きている全ての生き物は予め生まれてくるべきではなかったのだろう。

 また、花だけではない。全く同じ、生命力がそれであるところの現象として、木々が生えていた。その木々は、きらきらと輝く黄金の色をした幹に(しかもその黄金は神々の皮膚を剥ぎ取ってその下から姿を現わす皮下脂肪のように美しい黄金だ)、心というものを取り返しがつかないほど汚染してしまう猛毒のような緑色をした葉、葉、葉をつけていた。丈の高いものは、アゴンヤシの木だとかなんだとか、いかにもオアシスに生えていそうな形をしているが。その根元の辺りに蹲っている丈の低い灌木もあった。そのような木々が、湖と湖との間を埋めているのである。

 地上の様子は大体においてそんな感じであった……ああ、触れるのを忘れていたが、そういった花々だの木々だのが生えているのは、その外側の沙漠と同じ、真っ白な砂であった。とにかく、そのような環境の中に、様々な形態をとったミヒルル・メルフィスが、あちらこちら蠢いていた。

 これらの地上にいるミヒルル・メルフィスは、そのほとんどが労働階級のミヒルル・メルフィスだった。例えば、花と花とを忙しく行ったり来たりしている、蜂蜜を集めたりだとか受粉を促したりだとかする蜂みたいなことをしているミヒルル・メルフィス。大きさも蜂と同じくらい、一ハーフディギトか二ハーフディギトかそれくらいである。あるいは、ムカデのようなヤスデのような、とはいえウォッチドッグのような翅は生えていない、細長い体をしたミヒルル・メルフィス。一ダブルキュビトくらいの長さだろうか。こちらは木々に巻き付いたりして、その木になっている実を取って、それを丸々飲み込んでいる。六足歩行の哺乳類みたいな姿をしたミヒルル・メルフィスに、蝶々の羽が生えた鳥のようにそこら中を飛んでいるミヒルル・メルフィス。水生昆虫が魚と同じように収斂進化を遂げた挙句の果てのようなミヒルル・メルフィスさえもいた。

 そんなこと分かるわけがないので、真昼は、それらのミヒルル・メルフィスが、この孤立系の中で果たしてどのような役割を果たしているのかということは分からなかったのだが。なんにせよ、ある種の生態系が営まれているということは確かであるようだ。そして、その生態系に接続するようにして……地上とは全く違う種類の環境が、上空、特に生命の樹の周囲に構築されていた。

 生命の樹を中心として、幾つも幾つもの楕円形を複雑に組み合わせたような周回軌道を描いて……非常に原始的な、聖性と蛮性とを同時に併せ持つような、ひどく露骨に剥き出しになった「力」そのものの流れが渦巻いていた。その「力」の内側では、あらゆるものが一つのものになってしまうような気がする。しかも、完全に一体化してしまうのではなく、ぼんやりとした曖昧な、輪郭を持たない印象の塊となって、境界線なく融合してしまうのである。それは物質とエネルギーとのまさに中間地点にあるもの、今まさにエネルギーから形作られているところの物質。

 「力」は、時折、一部分が沸騰でもしているかのようにぼこぼこと泡立って。それから、ぽこりと、球体とも多角形ともいい切れないようなあぶくが吐き出される。そのあぶくは、「力」の流れに従うみたいにしてふわふわと浮かび上がって。それから、そのまま生命の樹の周囲を回転し始める。なんとなく放物線ともなんともいい切れないような奇妙な軌道を描きながら。生命の樹の周囲には、そのようなあぶくが、大小様々、無数に浮かんでいた。

 「力」そのものは非常に巨大であって。ちょうど祭祀階級のミヒルル・メルフィスが銀河を形作っているその外側を覆っていたのだが……地面から見て垂直の範囲としては、真昼から見えている生命の樹の五分の一を覆うほど広がっていたし、それだけでなく、地面から見て平行の範囲としては、大きさも長さも様々な無数の支流を生み出しながら、オアシス的部分の上空、やはり五分の一ほどの距離まで広がっていた。

 そして、そのような「力」には、幾つも幾つも穴が口を開けていた。それらの穴がなんなのかというと、ごく稀にミヒルル・メルフィス(戦士階級にも労働階級にも見えないので恐らく繁殖階級だろう)が出たり入ったりすることから考えると、なんらかの建造物なのだろうと思われた。

 生命の樹から生命力を引き摺り出してきて、それによって作り上げた建造物なのだろう。そう考えてみれば、その「力」の形状は昆虫類が本能だけで作り上げた巣みたいなものにどこかしら似た形をしているように見えなくもなかった。ただ、とはいえ、あまりにも流動的であったが。

 また、そこにあるのは、そのような構造物だけではなく……いや、「ある」というよりも「いる」といった方がいいのかもしれない。それは生き物なのだから。ただ、それは本当に生き物なのだろうか? それが生き物であるとすれば、それはあまりにも非生物的過ぎた。それは、どこからどう見ても、兵器にしか見えなかったのだ。例えば戦車、例えば軍艦、例えば戦闘機、例えば軍事衛星。そういった、軍事的に使用されるビークルのたぐいにしか見えない。

 他に似ているものを挙げるとすれば……そう、ウォッチドッグだ。ただ、それからは、ウォッチドッグにはあったような生物的感覚が完全に消え去っていた。ウォッチドッグは、どこか、生物に特有の未完成な曖昧さのようなものが残っていたが。それは、完全なる完成形であった。

 つまり、戦士階級のミヒルル・メルフィス、その中でも最も強力な種類のうちの一つであったのだ。端的にいえば、洪龍に節足類の甲殻を装備させたような生き物だった。蝶々のような羽の一枚一枚は、あまりのエネルギーによって、実際に燃え上がっていて。そして、その肉体には腕のようなものも脚のようなものも付属していなかった。その代わりに、その肉体の周囲には、純粋な生命力がくるくると螺旋を描きながら回転している。恐らくは、その生命力を手足の代わりとして攻撃するのだろう。

 五十ダブルキュビトを軽く超える大きさをしたそのような生き物が、十数匹、生命の樹の周囲をぐるぐると巡るようにして飛行していたのだ。そして、最も衝撃的なのは……戦士階級のミヒルル・メルフィスはその生き物だけではなかったということだ。球形の甲虫のような種類、蠍のような尾を複数持つ種類、空中を歩く蜘蛛のような種類、蝶々の羽をもつカマキリのような種類。大型も小型も様々なミヒルル・メルフィスが、その建造物の周囲に、あるいはオアシスのそこここに、無数に群がっていた。

 さて。

 その場所。

 閉ざされた世界の光景は。

 そのようなものであった。

 そのような光景を見て、真昼は、さすがになんらかの感情を呼び起こされずにはいられなかった。だが、それは単純な感動ではなかった。なんというか、肯定というよりも否定の感情。異常なもの、ひどく均衡を欠いた奇形の姿を見て感じるような嫌悪に近い畏怖とでもいうべきもの。

 これに似た感情を、アヴマンダラ製錬所を見た時にも感じた。生物的感覚の欠片さえも感じさせない無慈悲なまでの合理性によって成立しているところの六角柱。あるいは、その柱の根本に作り上げられた機械仕掛けの生態系。閉ざされたまま、内部だけで自足している、一つの領域。

 二つの構図はほとんど収斂進化と見紛うほどに似通っていた。ただ一つだけ違いがあるとすれば、それは、今見ているこの光景の方が一層閉鎖的であるということだ。ASKの場合は、一応は企業の有する一不動産である。アヴマンダラ製錬所は、アーガミパータの地下資源を採掘し、それを製錬し、外の世界に販売するという目的のもとに作られていた。つまり、いくら閉鎖しているように見えても、結局のところはより大きな有機的構造の一部、一つの内臓のようなものに過ぎないということだ。一方で、ミヒルル・メルフィスには、外の世界などなかった。ここだけで何もかもが完結していた。生命の樹という要素とミヒルル・メルフィスという要素と、この二つだけで完全に完成している。他のあらゆるものは邪魔ものでしかなく、排除されるべき何かでしかない。ここは、一つの、孤立した、世界であった。

 つまり。

 この世界の中では。

 真昼は。

 単純に。

 悪であった。

 ただ単に。

 存在しているという。

 それだけの、理由で。

 ああ……そうか、あたし、今、悪なんだ。不意に気が付いたその事実に、真昼は素朴な感動を覚えた。ちなみに、この感動という言葉は一般的に使われる意味とは少し異なっている。なんらの価値判断も含むところなく、ただただ心が動いたという意味だ。なんとなく、心臓の辺りを亡霊の銃弾で打ち抜かれたような。それは静かな静かな感動であった。ああ、あたし、悪いことをしようとしているんだ。何かが取り返しもつかないほどに間違ってしまったようだ。けれども、真昼は、いつこんなことになってしまったのか皆目見当もつかなかった。

 まあ、それはそれとして。アビサル・ガルーダは、勿体振っているかのようにゆっくりゆっくりと、結界の内側、白い砂の沙漠を飛んでいって。やがて、沙漠とオアシスとが接続している辺りに辿り着いた。

 そこは、なんとなく地面が盛り上がっていて、丘陵というか小山というか、ちょっとした高台になっている部分であった。まあ、月光国でいえば、郊外の住宅地の裏手にある、まあまあ小高い裏山とでもいうくらいの高さだろうか。もちろん生命の樹より高いわけがないのだが、とはいえ、見晴らしはいい。オアシスの全体を見渡すことが出来るし、それに、生命の樹を、何も遮るものもなく見上げることが出来る。

 そんな場所にアビサル・ガルーダは着地した。そっと、音を立てることもなく両足をそこに降ろす。それから(人間とは逆方向に曲げた)片膝をついて屈み込むと。優しく優しく、間違っても傷付けることがないようにとでもいいたげな手つきで。デニーと真昼とが乗っている両方の手のひら、その手の甲を地面の上につけた。

 ご親切にもぴったりと地面にくっつけられた第四趾から、ぴょーんと飛び降りるデニー。「真昼ちゃん、一人で降りられる?」「馬鹿にすんじゃねえよ」という言葉を交わした後で、アビサル・ガルーダの指先をとんっと蹴って飛んだ真昼は。とすんっという軽い音を立てて地面に着地した。

 まるで草原のようにして、生命力によって形作られた草が高台の一面を覆い尽くしていた。時折、その草と草との合間に、ひどく純真で、ひどく可憐で、真っ白な花が顔を出していた。アビサル・ガルーダが起こした風の名残のようなものに揺れて、なんとはなしに世界そのものの儚さに震えているみたいに見える。

 何か、とても。

 場違いなほど。

 優しい。

 優しい。

 光景であった。

 恐らく、天国とはこのような場所をいうのだろうと真昼は思った。全てが静寂のままに、あるべきものがあるべきところに収まっている。草原は数式のように風に靡き、花々は意味の虚ろさを指し示すかのように揺れている。空は……空は、今気が付いたのだが、相変わらず真っ青だった。どんな原理なのか分からないが、結界の内側でも空は青いらしい。ただ、そこには神の卵はなかったが。全ての光は生命の樹から来たっているのだ。まあ、とはいえ、青空は青空だ、清廉で潔白な爽快さ。全てが正しい、全てが正しい。ただ、惜しむらくは、この天国には真昼の居場所がないということだった。ここは真昼がいるべきところではないのだ。なぜなら真昼は正しくないからである。

 そして。

 恐らく。

 たぶん。

 デニーも。

 真昼は、自分が間違った側に立つことを恐れてきた。今までの十六年間、それだけを恐れてきた。暇があれば、暇がなくても、常に自分に問い掛け続けた。自分がしたことは間違っていないか、自分が悪をなしているのではないか。真昼にとって、間違うということは死ぬことよりも恐ろしいことだった。けれども、今、実際に、間違っているということを確信してしまうと……これほど安堵するべきことは他にはないような気がした。今、自分は、悪の側に立っている。それだけで心の底から幸福感が溢れてくる。子宮の中にいるかのように、温かい気持ちに包み込まれる。救われていると感じる。本当に。

 デニーが、春風がスキップしているような足取りで歩いていく。前へ、前へ、生命の樹がよく見える方向へ。真昼はその後をついていく、足を踏み出した先にあるものを踏み躙りながら歩いていく。草を、花を、よくよく考えてみれば、自分は、いつだってこのようにして歩いてきたのだ。下を見なかったから気が付かなかっただけで。

 やがて、デニーが立ち止まる。高台の先端辺り。暫くの間、そこから見渡せる景色を見渡した後で。ぐぐーっと両方の腕を上げて、ぎゅぎゅーっと伸びをした。全身を、背中の方に少しばかり反らしてしまうほど思いっ切り伸ばして。それから、すとんっと両腕を下ろす。気が抜けたようにほへーっと息を吐き出す。

 それから。

 フードの奥。

 可愛らしく。

 首を傾げて。

 こう言う。

「真昼ちゃーん。」

「なんだよ。」

「あれはね、プリミティヴ・パターンのミヒルル・メルフィスだよ。」

「は?」

 と、真昼の声が空気を震わせるか震わせないかのタイミングで、凄まじい勢いで突風が叩きつけた。吹き飛ばされそうになった真昼は、両方の腕で頭を庇うような姿勢、思わず身を屈めて重心を落とした。そうして、その後で……風はすぐに治まった。その一陣だけだったのだ。真昼が、恐る恐る顔を上げると。その視線の先で、デニーが、何かを、遮っていた。その何かと真昼との間に立って、真昼が攻撃を受けるのを防いでいたということだ。

 真昼は、それを見て、今まで子猫だと思っていた生き物が立派な肉食動物であったことに気が付いた時のような、そんな印象を受けた。デニーは、左腕、自分の顔の前に掲げていて。その手の甲で攻撃を受け止めていた。腕の全体は、結界を破った時みたいにして反生命の原理によって覆われていて。その振動によって無力化したらしい。

 そして、右手は、体の横に下げていたのだが。そちらもまた反生命の原理によって覆われていた。そちらは、右手よりも遥かに遥かに強く脈動し始めていて……ふ、と。デニーは、その右手によって、攻撃してきた何かを薙ぎ払った。

 五本の指の一本一本を抉り出すような形にしていて。それを、反生命の原理が更に研ぎ澄ませている。その構造は、あたかも、爬虫類にせよ哺乳類にせよ、大型の捕食者の鉤爪に似た武器になっていた。一気に前に踏み込んで、野獣そのものといった感覚によって放たれた攻撃は……だが、すんでのところで躱された。

 その時点で、ようやく真昼は、襲い掛かってきた何かの姿をはっきりと認めることが出来た。それはメルフィスに似た何かだった。とてもとても良く似た何かだった。

 ハンミョウのような顔、蝶々のような翅。頭部と胸部と腹部とに分かれた体節、触角は一対、翅は二対、脚は三対。まるで人間みたいに二足歩行に適した直立の身体構造。そして、いうまでもなく高度な把持性。

 しかしながら、メルフィスとは明確に異なっている部分があった。まずは翅だ。その翅は、どうやら実際の物質ではなかった。確かに、形としては蝶々のそれに似ているのだが。ただ、それは、はっきりとした形を持つものというよりも一種のアウラのようなものだった。例えば、ナリメシアでもアノヒュプスでもいいが、月食によって太陽が隠される時に。皆既日食の瞬間、月の影の周囲、光の環のようなものが出来ることがあるが。その生き物の翅はそのような何かであった。ただし、完全なエネルギーであるというわけでもないらしい。あたかも宗教画、聖なる人物像の周りに描かれる光背のような何かであった。

 その全身は、完全に透き通った甲殻によって覆われていた。陳腐ないい方になってしまうが水晶細工そのものといった感じだ。そして、甲殻の内部に見えている内臓は、一般的な生き物のそれとは明らかに異なっている。なんというか、光り輝く宝石を粉々に砕いて、透明な瓶の中に注ぎ込んだような感じだ。その砂が、その生き物が何かの動作をするたびに、真昼には理解出来ない不可思議なやり方で動くのである。幾つかは、宝石がそのままその中に落とされたような結晶もその中に入っていて。そういった結晶は、動かないように固定されていた。一つ一つが何かの回路のようなやり方で別の宝石と接続している。

 そして、最も注目すべき点は……その頭部にあった。二つの眼球があるところ、二本の触覚があるところ、その更に後ろの方、後頭部とでもいうべき部分から、左側に一本、右側に一本、計二本の角のようなものが生えていたのだ。

 鹿の角に似ている。いや、というよりも、樹に似ているといった方が正しいだろう。幾つも幾つもに枝分かれしながら上方へと向かっていくその姿は間違いなく樹であった。

 角のようなものではあったが、角ではなかった。なぜというに、光り輝くそれは、翅がそうであるのと同じように、明確に物質という概念とはかけ離れていたのだ。とはいえ翅のようなマンドルラというわけでもなかった。それは、端的にいって、生命の樹であった。つまり世界に入った罅割れから漏れ出す光だったのだ。

 要するに、その生き物の頭部には生命の樹と全く同じものが生えていたということだ。もちろん、その大きさは――とはいっても、生命の樹が時空間に開いた傷口である以上、空間的な尺度では測れないのではあるが――遥かに小さかったが。生命の樹は大地から天空までを貫いてしまうほどの長さがあったが、それらの角は、せいぜいがその生き物の頭部よりも少し長いといった程度だ。

 どうも、それらの角は、その生き物から直接的に生えているというよりも、どちらかといえば生命の樹がその生き物に寄生しているように見えたのだが(例えばヤドリギのように)。それはそれとして、恐らくは、ある種の送受信機のようなものなのだろう。それらとは別に触角があるのでアンテナと呼ぶのは少し変な気もするが、そういったたぐいの何か。それらを使って、この生き物は、生命の樹となんらかの通信を行なっているのだろう。

 さて、以上が。

 その生き物の。

 大体の素描であるが。

 それでは、果たして。

 その生き物は。

 何なのか。

 そこまで考えが至った瞬間に、真昼は、はっと理解した。この生き物によって攻撃が行なわれる直前にデニーが発した言葉。それは、この生き物がなんであるかという真昼の疑問を先取りして行なわれた回答だったのだ。つまり、この生き物こそがミヒルル・メルフィスのプリミティヴ・パターン。形相パターンに対してなんの加工も施されていないところの原型なのだ。

 とかなんとかですねえ、真昼ちゃんがですねえ、クソ呑気に考え事なんてしている間にもですねえ、デニーちゃんとプリミティヴとはですねえ、凄烈な戦闘を繰り広げていたんですよお。なんか馬鹿みたいな口調になってしまったが(なんで?)、それはそれとして、デニーの攻撃を回避したプリミティヴが、次にどのような行動をとったのかというところから見ていこう。

 いうまでもなく追撃を行なっていたのだが、高等知的生命体らしい非常に賢明な判断として、その第二撃もやはり真昼に向かって行なわれたものだった。プリミティヴは、その賢さゆえに、デニーと真昼との戦闘能力の差異。それに、二人の関係性、デニーが真昼のことをなんらかの理由で庇わざるを得ない状況にあるということさえも完全に見抜いていたのだ。

 そうとなれば馬鹿正直にデニーに対して攻撃を仕掛ける必要はないわけだ。なぜというに、AとBとの戦闘において、もしもAが任意の第三者Cを庇わなければいけないというのならば。それは、自分が支配可能な領域、つまり自分の身体範囲を超える領域を守らなければいけないということを意味しているからである。当然ながら、そのようなアクションについては、Aは、一定程度の余分な動作を行なわなければいけなくなる。そして、その余分だけAからは余裕が削られていくというわけだ。Aからすれば、Cを攻撃され続けるということは、その分だけハンディキャップを負い続けるということに等しい。

 さて、そんなプリミティヴの攻撃であるが。実は、プリミティヴは、その手に一つの武器を持っていた。それは端的にいって一本の杖であったのだが……ただ、それが何で出来ているのかということが全く分からなかった。

 常にぼこぼこと泡立ちながら、それでいて一つの個体としての輪郭を保っている。今にも一つ一つの断片に分解してしまいそうなのだが、それでも一本の杖だ。なんとなくどこかで見たことがあるような気がする何かで出来ている。どこかというのは、どこどこの道だとかどこどこの駅だとか、学校だとか図書館だとかコンビニだとか、そういった場所ではなくて。例えば夢の中だとか、例えば子宮の中だとか、そういう世界の底の底のどこかである。

 とてもとてもよく知っているのだが、それと同時に、とてもとても恐ろしい気がする。いや、なんというか……abominableなのだ。死に至る病に罹患したことによって腐敗し始めた、そのために自分の肉体から切断した、非常に重要なものであったはずの内臓。コンセントを抜いた冷蔵庫の中にずっとずっと入れておいたそれを……とっくに腐り果てたはずのそれを、冷蔵庫の扉を開いて、そっと覗いた時に感じるような。そんなabominable。

 そして、そのような何かの表面に浮かんでくる一つ一つのあぶくが、ふっと、何か、ある種の生き物のような形態をとることがある。いや、生き物以前の何かというか、生き物以後の何かというか、とにかく曖昧な、決して焦点が合うことのない形象。そして、その形象の、口とも手ともつかない部位の、牙とも爪ともつかない何かが、真昼のことを襲うのである。

 プリミティヴが、するんと上空から滑り込むようにしてデニーのことを越えて。その先にいる真昼に向かって杖を振り下ろす。すると、その杖から吐き出されたあぶくが、なんだかよく分からない器官によって真昼のことを引き裂こうとするのである。

 一方の真昼であるが……あれ、なんだろうなと思いながらその様を見上げていた。ここでいう「あれ」というのはその杖の材質のことであるが、真昼にとってそれは思い出せそうで思い出せない何かなのだった。いや、「だった」じゃないよ「だった」じゃ! そんなのんびりとしてる場合かよ! 今にもプリミティヴの攻撃によってどーにかなっちまいそうな場面なんだぜ!? もっと緊張感を持てよ緊張感を!

 と、まあ、そんなことを思ってしまう方もいらっしゃるかもしれませんが。真昼にとって、今のこの状況は、別に危機的状況でもなんでもなかった。なぜというに、ほら、すぐそこにデニーがいるからである。真昼にとって、デニーがいるということは、要するに自分には危険がないということであった。自分は絶対に守られている。それは、つまり、真昼にとっては、どんな堅固な神々の軍勢に守られているということよりも、どんな強固な対神兵器用シェルターに守られているということよりも、安全であるということを意味していた。

 そして。

 その真昼の。

 絶対的な、確信は。

 完全に正しかった。

 デニーの可愛らしい上半身が、まるでジャスムでジズムなリズムに合わせているかのようにして、真昼の方に向かってくっと揺らめく。頭を斜め上に傾ける感じで、肩越しに軽く振り返ったということだ。

 その顔には、当たり前のことであるが余裕の笑みが浮かんでいた。プリミティヴが真昼を狙うであろうことなど、強くて賢いデニーちゃんにはぴりぴりぱったりお見通しだったのであって。それに対する対策などオールレディに考えてあるのだ。

 ところで、先ほど、この世界の光は全てが生命の樹から来たっているということを書いた。いや、まあ、正確にいえば生命エネルギーの現象である花だとか木だとか草だとかも、ちょっとやそっとは輝いていないわけでもなかったのだが。それでも大部分の光は生命の樹が放つそれであった。そして、デニーと真昼との位置関係として、生命の樹から見ると、デニーが真昼の前に立つ形になっている。ということは、当然ながらデニーの影は真昼に向かって伸びているわけだ。

 その影が……どこか、おかしかった。というのは、あまりにもその色が濃過ぎるのである。というか、例えば真昼の影などを見てみると、高台の上に生えている草も輝いていないわけではないのだから、そういった光によって影は薄まり薄まり、ほとんど見えないものとなっている。生命の樹があまりにも強力な光を放っているために、影が出来ていないというわけではない。ただ、それは、真っ暗な部屋の中で、ディスプレイの照明を最低まで落としたパーソナルコンピューターの画面の上に手のひらを翳して。その手のひらを直接懐中電灯か何かで照らした時に、照明がついたままの画面の上に出来る影と同程度のものでしかなかった。

 一方で、デニーの影は、その部分だけが切り取られて黒々とした暗黒の底に沈められてしまったかのようだった。つまり、この影は……影ではなかった。それは、要するに、デニーの身体から伸びている反生命の原理だったのだ。

 プリミティヴの攻撃が真昼に叩きつけられる直前に。真昼の周囲、囲い込むみたいにして広がっていたデニーの影が、月光の下に照らし出されている夜の海のように些喚いた。その些喚きは、急速に嵐によって吠え猛る荒波になる。

 ざばり、ごばあっと暴れる影が、瞬く間に真昼の全身を覆っていく。真昼の全身は、まるで繭に包み込まれるようにして包み込まれる。そして、結局のところ……プリミティヴの攻撃は、真昼ではなく、真昼を包んだその繭に叩きつけられることになった。

 しかも、それだけでは終わらなかった。杖が接触した瞬間に、その繭は、まるで嘲笑うかのような態度でぶにゃりと歪んだ。叩かれた部分がぼこっと凹んで、その凹んだ分の体積が外側に溢れ出る。それから、その溢れ出た体積が……がばり、と、杖の先端を捕獲してしまったのである。そのまま、急速に、杖を遡っていって。反生命の原理は、杖を掴んでいるプリミティヴの第二対の腕、手のひらへと向かっていく。

 とにもかくにも、杖は固定されてしまったわけだ。どうやら容易に動かせそうにはない。そのようなプリミティヴには一定の隙が出来てしまったわけであって……デニーは、戦闘相手の隙を見逃すような愚かな生き物ではない。

 傾けていた上半身、その傾きに全身を任せるようにして、まるでどこかからどこかへと墜落する時のような勢いでプリミティヴに襲い掛かる。両手に纏わせた反生命の原理、十本の月光刀のように、凶悪さ・残忍さを感じさせるまでの長さによって研ぎ澄まされていて。杖を動かすことが出来ないままのプリミティヴを、あたかも抱き締めようとしているかのように、その両方の手のひらで掻き裂こうとする。

 プリミティヴは……さすがに、杖から手を離した。それから、アウラのような翅から最大限のエネルギーを放つことによって、急速に上空へと飛翔する。またもやぎりぎりのところでデニーの攻撃を避けたというわけだ。

 一方で、取り残された杖の方はどうなっただろうか。実は、プリミティヴは、上昇していくとともに、その腹部にある発音器官から、一定の音声記号を発していた。ほとんど聞き取れないほど僅かな鳴き声のようなものに過ぎなかったのであるが、杖が反応するには充分であった。

 今まで一つの形を保っていた杖。その音声記号に反応して、ぼこぼこぼこっという音を立てながら、凄まじい勢いで泡立った。泡立っただけではなく、そのようにして発生した泡、泡、泡、無数の泡に分裂してしまったのだ。それらの泡は、あたかも、その一つ一つがなんらかの生き物の出来損ないであるかのようにして蠢いて……反生命の原理がそれらの一つ一つを把捉する前に、捕獲されていたトラップの中から逃げ出してしまう。

 ふわりふわふわと浮かび上がって、プリミティヴが上昇していった方向へと向かっていって。その周囲に、プラネットに対するアステロイドのように纏わりついた。

 プリミティヴは、ある程度、デニーから距離をとると。空中に浮かんだままですらりと静止した。それから、いかにも無造作に、第二対の腕、右の手のひらを差し出す。

 すると、ばらばらのあぶくだったものが一気にそこに集まっていった。またもや一つの杖の形となって、結局のところ、何もかも元通りになってしまったということだ。

 ただ、とはいえ。

 少なくとも。

 プリミティヴは、もう、真昼を。

 攻撃出来なくなったということ。

 状況は均衡した、そして、その均衡をすぐさま破棄したのはデニーであった。反生命の原理を纏ったままの左の腕、ざあっという感じで真横に突き出す。それから、その先にある手のひら、ぐっと握って、ばっと開く。

 そのようにして開いた時の衝撃で、あたかも爆発した散弾のようにして、指先から反生命の原理が弾き飛ばされる。ぽつりぽつりという感じのドットになって、それらのドットは……その直後に、デニーの斜め上方に浮かんでいるプリミティヴを、あたかも点繋ぎ遊びの点々のようにして取り囲んでいた。

 と。

 瞬間。

 点と。

 点と。

 が。

 結び付く。

 つまり、それぞれの点から線が放たれて、全ての点と点とが、あたかも網目模様を形作るかのように接続したということだ。点々は無数に飛散していたのであって……その中心部分にいたプリミティヴからすれば、これはたまったものではなかった。線と線とがプリミティヴの各部分を貫いて、その全身をばらばらにしてしまったのだ。

 一瞬、これで勝負がついたと思った真昼だったが、どうもそうではないらしかった。なぜかといえば、ばらばらになったプリミティヴの一つ一つの断片が、あたかも意思を持っているかのようにして……いや、それらの断片は実際に意思を持っていた。そして、そのようにして網目の外側にするりするりと抜け出ていってしまったのだ。

 実はプリミティヴは反生命の原理によって切断されたわけではなかった。その直前に全身の自切可能な部位を自切して、それによって攻撃を回避していたのだ。以前、メルフィスの生態を説明した箇所で触れたことだが。それぞれの断片の自律性を確保する神経節と、それから、それぞれの部分から全身を再生させることが出来る再生原基、その二つは、ミヒルル・メルフィスにも備わっていた。しかもプリミティヴのように上層のフエラ・カスタに所属するミヒルル・メルフィスは、そこから更に一歩踏み込んで、肉体を一つ一つの断片として、それらの断片のそれぞれを操作したり。あるいは、その状態から再生原基の再生能力を利用して一つの全身として復活したりすることが出来るのである。

 ばらばらになったプリミティヴと、同じくばらばらになった杖と。明確な敵意を持った一つの流れとなってデニーに襲い掛かる。それは、まさに、どこかしら秩序そのものに対する不敬ささえ感じさせるような自由さであった。いや、自由というよりも放埓といった方が正しいだろうか。

 第一対の腕、転節から先の部分が、あたかも飛去来器のように連続して襲撃してくるかと思えば。四枚の翅のそれぞれが光焔の激しさでエネルギーを放出する。そして、それを回避したかと思えば、第二対の腕、跗節の三本の爪で把握した杖を振り回しながら突っ込んでくる。

 この杖がまた曲者であった。いつの間にか、ばらばらの状態から一本の状態に戻っていたのであったが。その一本が、ぐにゃぐにゃと歪み、あちらからこちらから顎門のようなものを突き出しながらデニーのことを引き裂きに掛かるのだ。一つの形に固定されたものであれば、あるいは変形するものであっても物理法則に完全に支配されているものなら、その軌跡は比較的容易に予測出来る。だが、この杖は、それ自体がそれ自体に特有の動的法則に従って攻撃を仕掛けてくるのだ。これでは予測のしようがない。

 ただ、それでもデニーは……その全ての攻撃を適切に回避していた。第一対の腕が襲い掛かってくると、とふっと大地を蹴って跳び上がり、一つ一つの飛去来器をとんっとんっと蹴り飛ばして。焼き尽くそうとでもするかのように四つの方向からエネルギーの波動を放ってくる翅については、一度、くるんと丸くなって、その周囲に、真昼を包み込んでいるのと同じ反生命の繭を作った。そして、一定程度のエネルギーをやり過ごした後、その出力が弱まったタイミングで、その繭を一気に破裂させる。すると、四枚の翅は、その破裂のエネルギーによって逆に吹き飛ばされる。

 それから、杖であるが……これはもう一つ一つの攻撃を捌いていくしかなかった。第一対の腕、脛節から先、しなやかな手首の動きを器用に扱いながら。右の腕と左の腕と、驚嘆してしまうほどのコミュニケーションによって杖を振り回す。そして、その杖自体が、前から後から、右から左から、上から下から、あらゆる角度から攻撃を加えてくる。デニーは、腕に纏わせた反生命の原理によって、そういった攻撃を弾き返していく。

 一見すると防戦一方であるが、ただ、デニーが、デナム・フーツが、この程度の相手に対してなんの作戦もなくこのような状況に陥るはずもなかった。デニーには見えているものがあった、つまり、それは、連続する攻撃また攻撃の向こう側に浮かんでいるものである。デニーが巻き込まれている連続攻撃から離れたところ、そういった攻撃には全く加わらず浮かんでいる、プリミティヴの二つの部位があった。頭部と、腹部と、この二つである。

 頭部は、まあいいだろう。そこに生えている二本の角、寄生しているかのような生命の樹の断片からエネルギーを引き摺り出しているのだろうということを考えれば、破壊されるかもしれない戦闘に軽々に加わることは出来ない。では、腹部はどういうことなのだろうか? これは……実は、その音声器官から発されている音楽に理由があった。

 この音楽が杖の動きを制御しているのだ。このことについては、後々、ミヒルル・メルフィスによって生命の樹の内部に封印されていたゾクラ=アゼルが現われた時に説明を加えることになるだろうが。実は、杖は、ミヒルル・メルフィスの一部ではなく、別個の武器である。そのため、真昼を守っている繭から逃れた時もそうであったように、なんらかの記号によって操作をする必要がある。

 そういうわけで、その記号を、腹部によって発生させているのである。だから、腹部を攻撃されるわけにはいかないのだ。腹部を破壊されてしまえば、もう杖を操作することが出来なくなってしまうのだから。

 さて。

 デニーが。

 狙っているのは。

 その点、だった。

 一つ一つの攻撃を捌きながら、デニーはじっと窺っていた。その時が訪れるのを。そして、杖による連続攻撃の間を縫って……再び、第一対の腕、二つの飛去来器が、斬撃を放ってきた時に。それは、やっと訪れた。

 確かに飛去来器による攻撃は、杖による攻撃だけに気を取られていて別方向からの攻撃を予想していなかった場合は非常に効果的な攻撃になっただろう。だが、デニーは、それほどまでに愚かではない。

 デニーは、それが間違いなく来ることを理解していた。そして、そうなってくると……当然ながら、杖による攻撃と、飛去来器による攻撃は異なった主体によって行なわれたものである。ということは、飛去来器が攻撃を仕掛ける際には、その攻撃に道を譲るために、どうしても杖は攻撃の手を緩める必要がある。そこに、隙が生まれる。デニーは、つまり、その隙を待っていた。

 ざっと空を踏んで、デニーは跳ね上がった。あたかも九夜月のように柔らかく肉体を揺らめかせて。それから、たんっと、飛去来器のうちの一つに飛び乗る。さらりとスーツの裾が翻り、フードの奥で、デニーの可愛らしい目が、そのラインを捉える。飛去来器が飛んできた軌跡、杖の攻撃が空白になっている一本の道筋。

 ああ、見えた。

 デニーにとっては。

 あくびが出るほど。

 あまりにも、容易。

 後は、指先一本分の時間も躊躇うことがなかった。飛去来器の上、るんっと立てた爪先。それを支点として、鮮やかな子供のように一度回転するデニー。その回転の勢いによって、右腕に纏わりついていた反生命の原理が、勢い良く打ち出される……いうまでもなく、僅かな隙となっている一本の道筋に。反生命の原理は、身体の断片によって構成された包囲網を脱出して。そのまま急激に捻じ曲がった軌道を描いて標的へと突っ込んでいく、その標的とは、いうまでもなく、プリミティヴの腹部であって。

 あと。

 五ハーフディギト。

 四ハーフディギト。

 三ハーフディギト。

 二ハーフディギト。

 一ハーフディギト。

 しかし。

 そこで。

 唐突な。

 閃光。

 何が起こったのか? 腹部の上に浮かんでいた頭部、二本の角が、凄まじい生命力の波動を放ったのだ。そのあまりにも強力な波動は、それを放ったプリミティヴの形相パターンまで不安定にしてしまったほどであったが……それだけ強力なだけあって、今のこの瞬間にも腹部に襲い掛かろうとしていた反生命の原理は、完全な行動不能状態に陥ってしまった。

 無効化されたのだ、いや、無効化というか、それよりも厄介な状態。つまり、その場に固定されて完全に動けなくなってしまった。ある種のコンクリートが振動に反応して硬化するような、そんなイメージである。もちろん、そんな長い間固まり続けるというわけではないが。ただ、少なくとも、今は固まってしまった……デニーの右腕を包み込んだままで。

 プリミティヴは。

 この状態を。

 欲していた。

 要するに罠だったということだ、包囲網から抜け出すことが出来るルートをわざわざ作り出して相手の攻撃を誘発したということだ。このような攻撃は、あまりにも強力であるために、そう何回も使うことが出来ない。その上、ある一点が攻撃の範囲内に入っていれば、そこを伝って、波動の影響を全体にいき渡らせることも出来るが。ただ、その一点は、攻撃を発する頭部にかなり近いところまでおびき寄せなければいけない。危険なく、プリミティヴ側の完全な制御下で、攻撃をさせなければいけない。ということで、このような罠を張ったというわけだ。

 なんにせよ、罠は成功した、少なくともそのように見える状況になった。デニーは反生命の原理によって呪縛されてしまって、身動きが取れなくなってしまった。今、今、まさにこの今、プリミティヴが決着をつける最高の機会がやってきた。

 ここで普通に杖による一撃を加えることが出来ればいいのだが……ただ、残念なことにそういうわけにはいかなかった。先ほども書いたことだが、あまりにも強力な生命力の波動によって、プリミティヴは全体的に不安定になっているのだ。

 ばらばらになった全身、ばらばらのままの状態では上手く動かすことが出来ない。動かせることは動かせるのだが、この程度の力で攻撃したところでデニーに致命傷を負わせることは絶対に不可能だ。ということは、まず、身体を一つに戻さなければいけない。安定出来るだけの一体化を取り戻し、デニーに致命傷を負わせられるほどの攻撃を放てるようにしなければいけない。

 ということで、戦闘が行なわれている場所から少し離れた場所に浮かんでいた頭部、それに腹部、デニーがいるところまで近付いていく。途中で、ばらばらになった身体の部位を回収して、一つ一つを繋ぎ合わせながら。反生命の原理を固定しておけるうちにデニーをこの世から葬るために、可及的速やかに移動する。

 数秒もかからないうちに、プリミティヴはデニーのすぐ目の前までやってきていた。デニーが軽く見上げた先、斜め上に、ペンテコステの絵画に描かれるヨグ=ソトホースの御使いのような信聖さによって浮かび上がっている。身体のほとんどの部位、体節も翅も脚も、第一対の腕さえも既に回収し終わっていて。後は、杖を掲げ持っている第二対の腕を接続するだけの状態であって……その接続も、たった今完了したところだ。

 プリミティヴが杖を振り上げる。デニーは、両腕を固定されてしまっていて。あるいは、その両脚さえも、影のように纏わりついている反生命の原理によって動かすことが出来ない。文字通り手も足も出ない状況なのであって……しかもそれだけではない。生命力の波動が、プリミティヴの形相パターンを不安定化させているのと同じように、デニーの形相パターンもやはり不安定化させているのであって。まともに魔力を使おうとすれば、デニーを構成している形相が崩れてしまうことになりかねない。今のデニーには、反撃も、防御も、完全に不可能である。そして、今、この瞬間に、プリミティヴの杖が振り下ろされた。

 ああ。

 そう。

 これは。

 まさに。

 全て。

 全て。

 デニーの。

 計画通り。

 デニーが、楽しい楽しい悪戯が成功した子供のような顔をして、フードの奥、にーっと笑った。そして、それから、プリミティヴのことを見上げたまま、可愛らしいお口で「Gotcha!」と叫ぶ。すると、その瞬間に、デニーの目の前、ということはプリミティヴのいるまさにその場所にということだが、何か巨大なエネルギーの塊が墜落してきた。

 プリミティヴは、なすすべもなくそのエネルギーの塊に閉ざされる。一体これはなんなのか? デニーは動けない、それどころか魔法さえ使えないはずではなかったのか? そう、その通りだ。「デニーは」何も出来なかった。だが、この場所にいるのはデニーだけではない。巨大なエネルギーの塊、反生命の原理がだらだらと纏わりついたその天譴を見上げていくと。

 それは。

 要するに。

 アビサル・ガルーダが。

 握っている。

 ヴァジュラ。

 で、あった。

 デニーがアビサル・ガルーダに攻撃させたということだ。デニーと違い、生命力の波動からある程度離れた場所にいたアビサル・ガルーダは自由に動くことが出来た。ということで、プリミティヴの杖がデニーを打ち砕いてしまう前に、逆にヴァジュラをプリミティヴに叩きつけたのだ。

 それでは、デニーは、一体なぜこの攻撃を行なわなかったのか? つまり、最初からヴァジュラによって叩き潰していれば、これほど戦闘に時間をかけなくても良かったのではないのか? うんうん、そういう疑問が出るのももっともですね。

 ただ、よくよく考えてみて欲しいのだが、通常の状態のプリミティヴは、非常に高度な影響力の行使をすることが出来る。魔学的なものにせよ科学的なものにせよ世界に対する法則性の適用については通暁しているのだ。ということは、それが可能な状態にある時であれば、瞬間移動だのなんだの、それくらいは兎にステップを踏ませるよりも簡単に出来てしまうのだ。

 あるいは攻撃が直撃する寸前に身体をばらばらにして回避することだって出来なくもないだろう。ということは、確実に仕留めるためには、ある程度は行動の自由を奪っておかなければいけないのである。

 ということで、デニーは、まず、生命力の波動を発生させることによってプリミティヴの形相パターンを不安定化させたのである。こうすれば、こちらも魔法が使えなくなるが、相手の行動もかなり限られることになる。そして、相手がこちら側を攻撃する一瞬の空白を衝いてアビサル・ガルーダを動かしたということだ。

 さてさて、これで。

 ティアー・トータ。

 と。

 いう。

 わけ。

 か?

 生命力の波動の効果が次第次第に薄れてきたのだろう、プリミティヴに攻撃した時のまま、ぐねぐねと曲がりながら伸びたままの状態で固まっていた反生命の原理が、したりしたりと解けていく。ずるりずるりと、また、デニーの腕の方に戻っていく。

 それに伴って、デニーも動けるようになってきたのだろう。まずはくるりと真昼の方を振り返った。えへへーっという感じの笑顔で笑いかけた後で、右手、人差指と中指と、軽く投げキッスをする。すると、真昼を包んでいた反生命の繭は、ぱんっと弾け飛んで消え去る。

 それから、また前方を向く。プリミティヴを叩き潰したヴァジュラが大地に突き刺さっている方向に……いや、いや、ちょっと待って。そのヴァジュラの力、惨たらしささえ感じるほど凄まじいエネルギーの内側に、何か動くものがあった。

 ああ、それは……つまり……プリミティヴは叩き潰されていなかった。ばぢばぢと霹靂のような音を立てて弾けて弾けて弾けるエネルギーの中。まるで琥珀で出来た化石のように美しく、時空間自体が固まった球体が出来ていた。そして、その中で、プリミティヴは、生きていた。傷一つなく、完全に無傷で。

 その球体は、プリミティヴに生えたあの角から発生していた。その亀裂から、生命の樹の樹液のような何かが染み出してきていて。それが、文字通りの、生命の琥珀を作り出したということだ。確かに、ヴァジュラに纏わりついている反生命の原理に影響されているのだろうか、なんとなく不安定なところはあったが。それでも、それは破壊されてはいなかった。

 デニーは。

 その琥珀の中の。

 プリミティヴと。

 真っ直ぐに。

 向かい合って。

 すると。

 まるで。

 その琥珀自体が響くような。

 美しい。

 美しい。

 宝石の。

 声が。

 聞こえる。

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