第三部パラダイス #20

 と。

 そこまで会話が進んだ時。

 唐突に。

 ぽうんっと。

 音を立てて。

 デニーと、真昼と。

 二人の体を。

 泡のような。

 ものが。

 包み込んだ。

 真昼にとって、それは既に慣れに慣れてなれ寿司になっちまった感のある感覚であった。つまり、その泡のようなものは、デニーが展開した結界だったのだ。ちょうど、ティンガー・ルームで、デニーとミセス・フィストとが再交渉を行なっている時に、真昼が閉じ込められていたあの結界と同じ感じの結界であった。ただ、それと全く同じものかどうかということは分からなかったが。

 その泡は、二人の肉体を内側に含んだままで、ふわりんこと浮かび上がった。ふうと息を吹き込まれた石鹸玉がストローから離れてゆらりゆらゆらと空の方向に飛んでいくかのように。そして、そのことによって――実はこちらの方が重要な事実なのだが――アビサル・ガルーダの両手が自由になった。

 アビサル・ガルーダは、泡が手のひらから離れるや否や、右の手を背中に回した。そして……その必要がなかったので今まで全く触れていなかったのだが、アビサル・ガルーダの背中、例の傷口には、まるで剣を鞘に納めるようにしてヴァジュラが突き刺さっていた。REV.Mとの戦闘の後で、アビサル・ガルーダが自分で突き刺したのである。そのヴァジュラを、アビサル・ガルーダは、右の手のひらによって、再び引き抜いた。

 それから、そのヴァジュラ、中心に埋め込まれている小さな小さな宇宙の部分を掴んで。右の手の先でくるくると回転させ始めた。右だけではない、時折左の手のひらにも移して。右に、左に、右に、左に、持ち手を次々と変えながら。その回転の速度は次第に次第に増してくる。

 速度が増すにつれて、あの凄まじい雷撃を放った時のようにルテア化した二つの原理が混ざり合っていく。だが、今回のその速度は、あの雷撃の瞬間に到達した速度まではいかないようだった。それよりも少し遅い速度まで到達すると、それ以上に速度を上げることはしなかった。

 とはいえ混ざり合ったセミハの力とオルハの力とは、あらゆる法則に対する破壊の力、一般的にはアブディカティオ・イウリスと呼ばれている力を放出し始めていたのであって。静電気のようにばちばちと音を立てて弾ける破綻そのものがヴァジュラの全体に這い回っていく。

 そして、それは、ヴァジュラだけではなかった。REV.Mとの戦闘の際には、アビサル・ガルーダは、右手から左手、左手から右手、ヴァジュラを移動させる時に、上空に放り投げるようにして、なるべく自分の身体から離れるようにしてそれをしていたが。今のアビサル・ガルーダは、逆に、自分の体に近付けるようにしてそれを行っていた。体の前の側、体の後ろ側、まるでヴァジュラの回転で羽毛の先を撫でるようにして次々に移動させていく。その結果として……ヴァジュラが放っているアブディカティオ・イウリスは、アビサル・ガルーダ自身をも覆っていく。その静電気がアビサル・ガルーダの全身の羽毛を弾けさせ……そして、アビサル・ガルーダは、そのエネルギーをあたかも鎧のように身に纏う。

 これで、大体。

 いい。

 感じ。

 後は。

 それを。

 待つだけ。

 と……待つ暇さえもなく、起こるべきことが起こった。またもやまたもや、真昼が予想もしていないいきなりさによって。何が起こったのかといえば、ずどぐばあっ!みたいなめちゃくちゃな音を立てて、沙漠に広がる水溜まりのうちの一つが爆発したのだ。

 爆発? いや、違う。ライフ・エクエイションがあまりに勢いよく跳ね飛ばされたがゆえに爆発に見えたのだが。実際は、その水溜まりの内側から何かが飛び出てきたのである。びっくり箱を開いた瞬間のように、そこに隠れていた何かが姿を現わしたのだ。

 何か、大きな大きなもの。アビサル・ガルーダほどの大きさはないが、それでも、瞬間的に把握した大きさは、間違いなく数十ダブルキュビトの長さがある。長く、長く、まるで多足類か何かのような姿をしている。

 そして、真昼が、その何かの詳細な形状を把握する前に。更に、またもや……ずどぐばあっ! ずどぐばあっ! 花火仕掛けの散弾銃みたいな破裂音をぶっ放しながら、何匹も何匹も、全く同じ大きさと全く同じ形と、そのような姿をした何かが水溜まりの中から飛び出してくる。

 どうでもいいけど「ずどぐばあっ!」ってなんだか阿呆みたいな擬音語だな。とはいえそれ以外に表現のしようがないのだが、それはそれとして、飛び出してきたそれらの生き物は――そう、それらは生き物であったのだが――真昼が今まで見たことも聞いたこともないような生き物だった。

 敢えていうならば、大付属脚類に属する節足動物に似ているかもしれない。今から数億年の昔、人間至上主義者によって捻じ曲げられた歴史認識によれば、未だに生命体が地上へと進出していなかった時代。無論、その時代には、既にスグハだとかミ=ゴだとかいう生き物が、あるいは原型的・原初的な状態であった神々が、借星上のあらゆる領域で覇権を争っていたのだが。それはこの物語には関係のない話だから置いておくとして、哺乳類も鳥類も爬虫類も両生類も、魚類さえも影も形もなかった時代。海の中に遍く節足動物で満ち溢れていたその時代に、生態系の頂点に立っていたとされている生き物である。ただ、そういった生き物の数十倍、下手すれば百倍近い大きさではあったのだが。

 先ほども書いたことであるが、長い長いその全身は多足類のようにして無数の体節に分かれている。そして、それらの体節の一つ一つに、大付属肢類でいうところの鰭がついているのである。ただし、それらの鰭は、大付属肢類のように甲殻そのものが鰭の形に伸びているものではなく……蝶々の翅であったが。

 蝶々の翅というのは比喩的な表現ではない。本当に、そのまま、蝶々の翅にしか見えないものなのである。その生き物の体長は、先ほども書いたことだが、おおよそにして二十ダブルキュビト程度。翅を含まない場合の体幅は四ダブルキュビト程度なのだが、体側に生えている翅の開長は十ダブルキュビトを軽く超える。恐らく十五ダブルキュビトはあるだろう。

 一つの体節に一枚ずつついていて、蝶々のそれと同じように幅広い。横の長さが七ダブルキュビトから八ダブルキュビトくらいだとすれば、縦の長さも、翅の一番外側で測定した場合に五ダブルキュビトはあるだろう。そういった翅が一枚一枚重なり合って。大付属肢類の体側であたかも大波のようにして波打つ鰭。それと同じような器官となっているのである。

 翅は、今にも息を引き取ろうとしている生き物が、彼岸と此岸とのあわいで見る美しい幻のように幽く。表面は無数の鱗粉によって覆われている。そして、鱗粉の一つ一つは……どうやら、生命の力によって形作られているらしい。何がいいたいのかといえば、その翅は全体が、ライフ・エクエイションと同じような波動を帯びているということである。もちろん、全く同じではない。もう少し不純、というか、世界によって汚染されてはいるのだが。それでも、生命のエネルギーで光り輝いている。

 また、翅は体側にあるだけではなかった。体の一番後端、尾のようになっている部分の先。まるで扇のようにして翅が生えているのだ。恐らくは尾鰭のような役割を果たす部分、飛行時の方向転換に対して重要な役割を果たす部分なのだろう。

 さて、翅の有様はこのようであるが、その生き物には翅だけではなく脚もついていた。ただし、翅と異なり、脚は、体節のうちの二番目から三つ、一番最初の頭部以外の三つにだけ生えていたのだが。一つの体節に一対ついていて、これは他の昆虫とさして変わるところのないごくごく普通の脚である。大きさとしては、全体の長さで三ダブルキュビトといったところだろう。

 そして、それから……その生き物が大付属肢類と似ているということについて、全身が無数の体節に分かれているという点以外のもう一つの点。それは、頭部に、三対の脚よりも遙かに特徴的な触肢がついているという点だ。大きさは脚の二倍近く、六ダブルキュビトはあるだろう。先端は固定爪と、そこから枝分かれした可動爪とに分かれていて。大型の鋏のような二本の爪の間には、そこに挟んだものを絶対に離さないようにするためのものだろう、猛獣の牙・猛禽の爪のように鋭い棘が無数に並んでいた。頭部には、それ以外には、直径一ダブルキュビトくらいの大きさの複眼が左右に一個ずつ、脚と同じほどの長さの触角が左右に一本ずつ、それに、口に覆いかぶさるようにして二本の鋭角が生えている。鋭角はそれほど大きくなく、ただ、先端には毒牙のようなものが生えている。

 そのような。

 生き物が。

 群れをなして。

 一斉に。

 アビサル・ガルーダに。

 襲い掛かってきたのだ。

 触肢の鋏を振り翳してアビサル・ガルーダに掴み掛かろうとする。その際に、これは真昼の見間違えではないと思うのだが、その鋏がなんらかのエネルギーによって燃え上がっているかのように見えた。その翅を輝かせているエネルギーと似ているものであるが、それよりも凶暴で残忍で、どこか禍々しさを感じるエネルギー。つまり生命の貪欲さのエネルギーである。

 最初の一匹が、とうとうアビサル・ガルーダに到達する……と、だが、鋏によってアビサル・ガルーダを捕獲することは出来なかった。アビサル・ガルーダが纏っていたアブディカティオ・イウリスのエネルギーが、鋏を燃え上がらせていたところのエネルギーと反発しあったらしい。ばぎぢぢっ!といったような凄まじい音を立てて、その生き物は弾かれてしまった。

 その生き物は、どこか蝉の鳴き声に似ているような音、あるいは、真銀の鑢と真銀の鑢とをこすり合わせたかのような、頭蓋骨を直接的に歪めてしまうような不快な騒音。を、全身の体節の一つ一つから響かせながら落ちていく。まあ、落ちるといっても地面まで落ちてしまうわけではなく、あくまでも一時的に飛行のコントロールが効かなくなって、数十ダブルキュビトほどの距離を落ちていったというに過ぎないが。

 一匹目、退けた。ただ、まだまだ襲い掛かってくる。今数えたのだが、生き物は十二匹ほどいて、次々と、嵐の海辺に打ち寄せてくる波浪のような間断なさで攻撃を仕掛けてきているのだ。しかも、二匹目は、どのような学習能力だろうか、一匹目が犯してしまった間違いを再び犯す気はないらしかった。

 アブディカティオ・イウリスは、要するに、対立する二つの法則性が反発しあうことによって生まれるところの、あらゆる法則性が破棄されてしまう場のことである。その場の中にあるエネルギーは掻き消されてしまうし、もしもエネルギーが無理やりその内側に入ろうとすれば、いうまでもなくその無為、つまりヒエラルキアに対するアナルキアによって、ある意味では革命的に排除されてしまうというわけだ。

 ということは、その場を侵食もしくは破壊しようとする場合、一番手っ取り早い方法は、アナルキアをモナルキアに転落させてしまうことである。全ての革命がそのようにして失敗する、その過程の再現を演じさせればいい。もう少し分かりやすくいうとすれば、あらゆるものが本質的に指向性として有している確率系の結晶化現象を利用するということである。

 ぎぃん、という凍り付いた空が割れたような音がした。二匹目の生き物が、その全身の体節で一斉に声を発したのだ。それは……ただの声ではなかった。呪文というか聖句というか、とにかくそういうたぐいの象徴的記号であったのだ。

 その瞬間に、ぽっぽっぽっというようにして、二匹目の生き物の周囲に不可思議な泡のようなものが出現した。あたかもライフ・エクエイションの水溜まりの中から現われたような、淡く淡く、それでいて虚ろな生命の色を満たした泡。

 その泡が、ふわりふわりとアビサル・ガルーダに近付いていって。そして、その肉体に吸着した。すると……アビサル・ガルーダの周囲、ばちばちと音を立てて纏わりついていたアブディカティオ・イリウスの電撃が、見る見るうちにその泡の中に吸い込まれていくではないか。

 三体(略)症候群のところでも少し触れたことであるが、生命力というものには、ある程度、媒介物として働くという機能が備わっている。これはそもそも生命が有する疎隔性、あれとこれとを分かつという分断の力によって、逆説的に多なるものが一つの過程として内的世界化することに由来する機能であるのだが。そういう細かいことは置いておいて、簡単にいうと、アブディカティオ・イリウスのアナルキアが生命的必要性の原理によってモナルキアに転落したということである。

 これで、もう。

 その鎧は。

 その剣を。

 防ぐことが出来ない。

 アビサル・ガルーダはどうするか。当然ながら、アビサル・ガルーダは……というか、アビサル・ガルーダを操作しているデニーは、このような展開になるということを予測していた。死霊学者の中でも最高レベル、恐らくは五指に入るほどの能力を持つデニーは、生命力というものについて知悉しているのだ。アブカディオ・イリウスが時間稼ぎにしかならないことくらいよくよく存じ上げている。ということは、もちろん、それは時間稼ぎだったのだ。デニーは既にその生き物に対する対抗策をとっていた。

 アビサル・ガルーダの傷口から、したしたと滴り落ち続けていた反生命の原理。無限の穢れ・永遠の鎖し・絶対的な忌まわしさの泥濘は、いつの間にか……ただただ無秩序に漏出するということをやめてしまっていた。

 傷口から、ある一つの方向に向かう流れになっていたのだ。一つの方向とは、アビサル・ガルーダの右手、というか、その右手に持たれたもの。つまりヴァジュラであった。

 ぐずりぐずりと、べじゃらべじゃらと、反生命の原理は、ヴァジュラに纏わりついていく。まずは、ヴァジュラの中心にある球体、オリジン・ポイントとの接続点に入り込んで、それを汚染する。すると、ヴァジュラの上方と下方とから放たれているエネルギーの波動、オルハの力とセミハの力とが、その根本的な部分から汚染されてしまうわけだ。

 力そのものが、反生命の力で、いわば運命の反転を起こす。光り輝いていたはずのエネルギーは絶対的な闇へと転落する。あらゆる至福を、あらゆる賛美を、内側に吸い込んで無化してしまうような、そんな暗黒の波動に転化する。その色は反転色になる。それから、その内側からは、どろどろと、猛毒のような態度で反生命の原理が染み出してくる。

 アビサル・ガルーダは。

 そのように。

 変化、した。

 ヴァジュラを。

 二匹目の生き物に。

 轟。

 斬。

 叩きつける。

 アビサル・ガルーダに向かって、躊躇いも迷いもなく一直線に突っ込んできた二匹目の生き物。その突撃の勢いを迎え撃つように、勢いよくヴァジュラを振り下ろしたということだ。ヴァジュラは……反生命という猛毒で、ひたひたと浸された、その武器は。ひどくひどく固い鎧、二匹目の生き物を覆い尽くしている甲殻を、ある種の爽快させ感じさせる無慈悲さによって切り裂く。

 比喩ではなく誇張ではなく真っ二つであった。二匹目の生き物の、その正中線に直接、被撃したヴァジュラは。鋭角と鋭角との間から切り入っていって、体節の一つ一つを切断していって。そして、尾鰭代わりの翅のところまで、完全な二等分にしてしまったのだ。二匹目の生き物は、そのまま、慣性の怠惰さで、アビサル・ガルーダを超えた先の方向へと進んでいったが。その後で、その慣性さえも喪失して、地上へと墜落していった。まずは一匹、仕留めたということだ。

 デニーは。

 そうやって。

 落ちていく。

 生き物。

 くすくすと。

 笑いながら。

 見下ろしていて。

「この子達を。」

 そうして。

 真昼に。

 対して。

 言う。

「みんなみんな、殺しちゃわないといけないから。」

 その後で、少しだけ考え直すような素振りをして。ぴんと立てた人差指を、唇のところにちゅっと押し付ける、あの身振りをしながら、こう続ける「んんー、まあ、そんなにかかんないかもしれないけどね」。

 アビサル・ガルーダに、更に突っ込んでいく生き物の群れ。今度は、一匹一匹攻撃を仕掛けるようなまどろっこしいことはしなかった。五匹が同時に襲い掛かったのだ。そんな場面を、ふわふわと浮かび上がっていく泡の中から見下ろしながら。真昼は、デニーに、問い掛ける。

「あれ、なに。」

「ウォッチドッグ・ミヒルル・メルフィスだよ。」

「ミヒルル・メルフィス?」

 デニーの言葉に引っ掛かった真昼。

 戦闘シーンから目を離して。

 顔を、デニーの方に向ける。

「あれが、ミヒルル・メルフィスなの?」

「うんうん、そーだよ。」

 そう答えてから。

 ちょっとだけ。

 フードの奥。

 首を傾げて。

 デニーは、付け加える。

「でもでも、あれ「が」っていうよりあれ「も」って言った方がいいかなー。」

「それ、どういうこと。」

「んーとねーえ、真昼ちゃん、ミヒルル・メルフィスについてどれくらい知ってる? んー、んー、あんまり知らないよねー。ミヒルル・メルフィスについてさぴえんすが知ってる情報って、ゾーシャちゃんが計画した例の探検隊が持ち帰った情報以外はほーっとんど伝聞ばっかりだもんねー。あのね、ミヒルル・メルフィスはね、幾つかのフエラ・カスタに分かれてるの。えーと、ほら、蟻とか蜂とか、そういう真社会性の生き物って、色々なフエラ・カスタに分かれてるじゃないですかー。兵隊カスタとか運搬カスタとか工事カスタとかそういう感じだね。ミヒルル・メルフィスもそういう生態なんだよ。

「ただねーえ、真社会性の生き物とミヒルル・メルフィスには、ひとーっつ、大きな違いがあるんですねー。それがなにかーってゆーと、ミヒルル・メルフィスの場合、自然な進化の結果としてそうなったってわけじゃないってゆーことだね。ミヒルル・メルフィスは、そもそも社会性昆虫じゃなくって単独性昆虫なんだけどね。でも、すっごくすっごくすーっごく頭がいい生き物なの。高等知的生命体の中でも、煉虎とか洪龍とかとおんなじくらい頭がいいっていわれてるくらい! だから、もともと一種類だけしかなかった自分達の形相パターンを、わわわーって変えちゃって、それぞれの役割にばーっちりぐっどなそれぞれの形相パターンを、アーティフィカルに作り出しちゃったんだよね。幾つも幾つも、自分達の形状のオルタナティブ・パターンを作り出しちゃったっていうこと。えーっと、そうそう、作為的進化ってやつだね。

「大雑把に言うと四つの階級に分かれてまーす。まずは祭祀階級だね。それから、戦士階級、労働階級、繁殖階級。まあ、こういう階級の名前って、あくまでもミヒルル・メルフィスを外側から観察した外部の生き物がそういう名前を付けたってだけで、実際は戦士階級よりも祭祀階級の方が戦闘能力が高かったり、労働階級が何をしてるのかっていうことの詳細がよく分かってなかったり、そーゆー感じなんだけど。とにかく! それぞれの階級が細かく細かく分かれてるーってわけ。

「そ、れ、で、階級があーんまりに細分化されてるから、ほとんど生態系みたいになっちゃってるんだね。あそこに生命の樹が見えてて、その生命の樹は結界で覆われてるでしょお? その結界の中は、ミヒルル・メルフィスのオルタナティヴ・パターンだけで構成された独自の生態系になってるってわけ。あー、あー、もーっちろん生命の樹を除いてってことだけどね! 生命の樹と、それからミヒルル・メルフィスだけの世界。獣も、鳥も、魚も、虫も、ぜんぶぜーんぶミヒルル・メルフィスなの。獣みたいな姿をしたミヒルル・メルフィス、鳥みたいな姿をしたミヒルル・メルフィス、魚みたいな姿をしたミヒルル・メルフィス、虫みたいな……あははっ! ミヒルル・メルフィスはそもそも虫だったね。

「そんな中でも、ミヒルル・メルフィスっていわれた時に、ミヒルル・メルフィスのことをあんまり知らない子達が思い浮かべるのは祭祀階級だね。生命の樹を生息地に選んだ昆虫が、ミヒルル・メルフィスとして進化したそもそもの形状。オルタナティブ・パターンじゃない、プリミティヴ・パターンの姿。んー、だーいたい、ミヒルルじゃない方のメルフィスとおんなじ感じのお体でね。他の階級とは違って、高等知的生物としての高度な知性も維持してるの。だから、ミヒルル・メルフィスのswarmが外部との交渉を行う時も祭祀階級が代表として派遣されてくるんだね。それで、そのせいで、ミヒルル・メルフィスのイメージになってるーってこと。

「あっ! そうそう! 勘違いしちゃダメだよ、真昼ちゃん。メルフィスからミヒルル・メルフィスに進化したんじゃなくって、ミヒルル・メルフィスがメルフィスになったんだよ。進化っていうか退化だけどねー。なんだか知らないけど色々とあって生命の樹を離れなきゃけなくなったミヒルル・メルフィスが、生命の樹の力がどんどんどんどんなくなってっちゃって、結局メルフィスになっちゃったっていうことだね。

「まあ、まあ、そーゆーお話は置いておいて! えーっと、どこまでお話ししたんだっけ。あっ、そーそー、階級についてのお話をしてたところだね。でね、でね、戦士階級の中で、いーっちばんよわよわなのが、あのウォッチドッグだーってわけ。

「ウォッチドッグっていう名前の通り、番犬としての役割をしてるの。つまりね、ほらほら、生命の樹って、すっごくすっごくすっごーい、でしょ? それで、ミヒルル・メルフィスが結界を作っても、ああゆーふーにエネルギーが漏れ出してきちゃうわけじゃないですかー。外側から、ぱーふぇくと!に隠しちゃう、見えない見えないーってすることが出来ないんだよね。

「だから、外側から見えちゃう範囲。まあ、だーいたいライフ・エクエイションがこーやって染み出てる範囲かなあ。その範囲に入ってきた生き物を、ウォッチドッグがずたずたのばらばらのぐちゃぐちゃの粉々にして殺しちゃうってわけだね。

「ヤクトゥーブちゃんも言ってたでしょお? この生命の樹を見つけたグリュプスの子が、ミヒルル・メルフィスに殺されちゃうーって、跡形もなく食べられちゃうーって、怖がってたって。そーゆー噂話が流れたのは、このウォッチドッグのせいなんだよね。まー、まー、ミヒルル・メルフィスは、ウォッチドッグも含めて、ライフ・エクエイションから直接的に生命力を贖ってるから、食べたりなんだりはしないわけなんだけど。でもでも、殺されちゃうってゆーのはその通りだーってゆーこと!」

 デニーは。

 そこまで。

 話すと。

 「と、ゆーわけで! あのミヒルル・メルフィス以外にも色々なオルタナティブ・パターンのミヒルル・メルフィスがいるってゆーわけだね」、と話をまとめた。

 ちなみに、これだけ長い長い長い(略)長い間、デニーちゃんがわっかりやすーい説明をしているうちに。戦闘は、随分と進んでしまっていた。

 まず、五匹、いっぺんに襲い掛かってきたウォッチドッグをアビサル・ガルーダがどう処理したのかであるが。二匹目を一刀両断にした時のように、甲殻で覆われた部分を狙うというわけにはいかなかった。なぜというに、甲殻を狙えば、それを断ち切ることが出来ないわけではないが、その硬度ゆえに大分手間取ってしまうことは間違いない。となれば、一匹の相手をしているうちに残りの四匹から攻撃を受けてしまいかねない。

 だから、アビサル・ガルーダは別の場所を狙うことにした。柔らかく、それゆえに、ヴァジュラによって容易く切り裂くことが出来る部分。そう、翅だ。

 その巨体に似合わぬ素早さ。あたかもアーガミパータに伝わる古典的舞踏のように優雅で麗媚で、官能的なまでに形式美を感じさせる動作によって、アビサル・ガルーダは襲いくるウォッチドッグの翅を次々に切り落としていく。

 ウォッチドッグは、基本的に、その翅に満ち満ちた生命力によって飛行している。翅を切り落とされてしまえば巨体を飛行状態に保ち続けるすべを持たない。そんなわけで、翅を切り落とされたウォッチドッグから墜落していく。

 もちろん翅を切り落としたくらいで死ぬような生き物ではない。しかも、ミヒルル・メルフィスは、メルフィスと同じように、それどころかメルフィスよりも遥かに優れた再生能力を持つ。だから、地上に墜落した後で、暫くすると、またもやその翅は生え揃ってしまうはずだ。実際に、五匹のミヒルル・メルフィス、体側からは既に新しい翅が生え始めていた。

 放っておけばまたもや襲い掛かってくるだろう。だから、そのような事態に陥ることを避けるために……アビサル・ガルーダは既に動いていた。残り五匹のウォッチドッグが、その十の鋏によって、今にもアビサル・ガルーダに掴み掛かろうとしているその瞬間に。アビサル・ガルーダの百ダブルキュビトを超える巨体が、ふっと消えた。

 真昼には分かった。真昼の全身が、その瞬間に放射された凄まじい魔学的エネルギーを感じていたからだ。つまりアビサル・ガルーダはデウスステップをしたのだ。それではどこに移動したのか? 実は、そのことさえも真昼は理解していた。デウスステップは、その移動の軌跡に、ごくごく僅かな魔学的エネルギーの痕跡を残す。これは、よほど魔学的な感覚の鋭い生き物しか感じ取れるものではないし。移動する者が隠そうと思えばいくらでも隠せるものなのであるが。とはいえ、その瞬間の、その痕跡は、真昼には夜に打ち上げられた花火のような明確さで見えていた。

 アビサル・ガルーダは。

 墜落した。

 五匹の。

 ウォッチドッグ。

 追跡、したのだ。

 ぱっと姿を現わしたアビサル・ガルーダは、既に、地上に落ちたウォッチドッグのうちの一匹、その頭を叩き潰していた。どちらかというとヴァジュラによって突き刺していたという方が正しいかもしれないが。なんにせよ、真昼が一度まばたきをして、もう一度目を開けた瞬間には、アビサル・ガルーダは次の一匹をヴァジュラによって屠っていた。頭部から斜めに入った切れ目は、四つ目の体節まで続いた後で、その部分を惨たらしく抉り出す。

 どうでもいいけど、真昼ちゃんまだまばたきしてるの? 目が乾いても問題ない体になったんだから、そんなことする必要ないのに……などといっているうちに、アビサル・ガルーダはもう一匹、もう一匹、ヴァジュラによって薙ぎ払っていて。そして、最後の一匹、その胴体を左手によって掴んだ後で、ヴァジュラ、その頭部を吹き飛ばしていた。

 アビサル・ガルーダの動作。

 REV.Mとの戦闘の時とは。

 明らかに。

 異なって。

 いた。

 REV.M戦の時には、甘さというかぬるさというか、そういうものが感じられた。どう見ても本気を出しているようには見えなかったのだ、弄んでいるような、戯れているような、子供がお人形遊びをしているような、そのようなやり方をしていた。他方で、今の、このやり方には。そのような生易しさは一切なかった。アビサル・ガルーダは、命あるものの抹殺を指示されたオートマタの確実さによって一つ一つのタスクを処理していた。

 ウォッチドッグ。

 というか。

 ミヒルル・メルフィスが。

 それほどの相手だと。

 いうことなのだろう。

 ところで、真昼には、ちょっとばかり気になることがあった。まあ、そこまでというわけではない。例えば、日常的にそのようなことが気になったとしても積極的に何かするほどではない。スマートデヴァイスの電源を入れて、検索アプリケーションを開いて、アフォーゴモンでそのことを調べることさえしないだろう。

 ただ、今は、それなりに時間があった。そして、わざわざスマートデヴァイスなど使わなくても、隣には、真昼よりも遥かに遥かに強く賢い生き物がいた。だから、真昼は、その生き物に、こう問い掛ける。

「ねえ、ちょっと気になることがあるんだけど。」

「ほえほえ? なあに、真昼ちゃん。」

「ミヒルル・メルフィスって、昆虫でしょ。」

「そーだよお。」

「あれ、あたしが知ってる昆虫とはかけ離れてんだけど。つまり、体節が三つに分かれていて、六本の脚があって、翅は二枚か四枚か。そういうのとは大分違うよね。体節は、なんか、数え切れないくらい多いし。脚は、一、二、三、四、五、六、七、八。あたしが間違ってるんじゃなければ八本もある。それに、翅だって、なんかすごいことになってるじゃん。一枚一枚は、確かに、言われてみれば、メルフィスの翅と似てるように見えなくもないけど……とにかく、あれ、本当に昆虫なの?」

「ほへへー、そーゆーことだね! えーっとねーえ、せーかくにゆーと昆虫じゃないねー。ウォッチドッグはね、どっちかっていうと、進化してるんじゃなくて。プリミティヴ・パターンからはかなり退化してる感じなんだよね。

「つまりねーえ、えーっと、色々な昆虫を思い出してみて。頭部と、胸部と、腹部と、別れてるでしょお。その腹部のところ。よーっく思い出してみると、腹部のところって、幾つも幾つも、線が入ってるよね。ぴっぴっぴーって、輪切りにするみたいに、横の線が。その線ってね、もともとは腹部がたくさんたくさんの体節に分かれてたことの痕跡なの。

「昆虫は、もともとは、ムカデだとかヤスデだとか、そういった種類の生き物と同じ多足類だったの。それが進化していくうちにね、こんなに体節いらないなーってなって、ああいう形になったんだね。そ、れ、で、ウォッチドッグは、昆虫が昔々のその昔にそーゆー形だった頃のそーゆー形まで退化しちゃってるってわけ!

「それで、そーゆー体節の一つ一つに発音器官が発生してるわけだね。蝉がさーあ、みーんみーんって鳴くでしょ? その時に、そのみーんみーんってゆー音をさせてる発音器官とおんなじ感じの発音器官。そんな風に、発音器官をたくさんたくさん用意しておくことで、複雑な象徴的記号を演奏することが出来るようにしてるんだね。

「それから、あと、翅も! 一つ一つの体節にさーあ、一対ずつ翅があるでしょお? そんな風にすることで、一枚一枚の翅が保持してる「新しい天使の秘密の名」を、いってみれば直列の回路として定義付けてるわけだね。ああーっと、「新しい天使の秘密の名」ってゆーのは、リュケイオンでよく使う専門用語なんだけどね。んー、まー、記号の法源的側面のことかなあ。とにかく、こーすることによって、おーっきな翅が二枚だけあるってゆー形状よりも、エネルギー効率がばーっつぐんに良くなるんだね。

「さっきも言ったことだけどー、ウォッチドッグは、プリミティヴ・パターンよりもずっとずっと退化してて、高度な知性があるわけじゃないから、内的世界における観念そのものを複雑化することが出来ないんだよね。だからねーえ、記号を複雑化して、それを高出力の魔力を使っていっきにどっきゅーんってしちゃわないと、ある程度のレベル以上の魔法を使うことが出来ないの。そんなわけで! まあまあ強力な魔法を使うために、あーゆー形状になってるわけだね。

「あと、真昼ちゃん、脚の話もしてたよね。真昼ちゃんはあ、ウォッチドッグには脚が八本あるって言ってたけどお。でもね、でもね、本当はね、脚は六本だけなんだよ。魔学的な象徴領域の形成に使う翅とは違って、脚は歩いたりなんだりするのしか使わないし。それに、ウォッチドッグは、飛んだりだとか泳いだりだとか、そういうのが基本的な移動手段だから。そんなにたくさん必要ないんだね。最初の一対、あの頭のところについてる脚みたいなのは触肢、まあ、付属肢っていったら付属肢なんだけど、真昼ちゃんが言ってる脚っていうの、つまり昆虫の歩脚とはちょーっと違うものだね。

「えーっと、基本的には口器の一部で……なんて言っても分かんないよね。簡単にいっちゃうと、蠍とか蟹虫とか腕虫とか、蛛形類の生き物がいるでしょ? そーゆー生き物の腕とおんなじものだね。あーゆー感じで相手のことを掴むことが出来る器官があると、何かを殺したいなーって思った時にとーっても便利でしょ? だから、いったん退化した状態から原型になる付属肢を蛛形類の方向に進化させることで、ああいう器官を作り出したんだね。

「まー、まー、そーゆー感じかな。つまりね、ウォッチドッグは、自然の中で進化した生き物のための分類項目には当て嵌まらない生き物なの。そういう生き物を継ぎ接ぎにして、一番使いやすい形状にした生き物なんだね。」

 そこまで言うと。

 どーお、分かった?

 とでもいうみたいに。

 デニーは。

 真昼の顔を見て。

 フードの奥の方で。

 軽く、首を傾げた。

 「随分と」「んんー?」「随分と、面倒なことをするんだね。そんなに複雑な形相調整をするくらいなら、出来合いの生き物を使えばいいのに。どこかから都合のいい生き物を捕まえてきて、妖理的にでも物理的にでもいいけど思考能力を操作して。それで、奴隷として使えばいいのに」「あー、まー、ミヒルル・メルフィスって、ミヒルル・メルフィスってゆー種族しか信じてないからね」「そういうもんなの」「そーゆーもんだよ」「へえ、そう」。

 さて、そんな会話の最中においても熾烈かつ苛烈かつ猛烈かつ鮮烈なbattleは続いていたのである。地上に墜落した五匹のウォッチドッグを始末し終わったアビサル・ガルーダ。その結果として、残り五匹まで減ってしまったウォッチドッグ。

 まず仕掛けたのはウォッチドッグの側だった。というか、アビサル・ガルーダが地上のウォッチドッグを始末している間に、既にその攻撃は始まっていた。残された五匹のウォッチドッグは、アビサル・ガルーダから少しだけ距離をとって、その周囲を回転し始めた。直径にして五百ダブルキュビトくらいの円を描いてぐるぐると回り始めたのだ。

 当然ながら、ただ単に威嚇のためにそんなことをしているわけではない。ウォッチドッグ達は……また、一つ一つの体節から、音を発していた。先ほど、二匹目としてアビサル・ガルーダに襲い掛かったウォッチドッグが発したところの音とは少し違った調子。どちらかといえば、それは冷たく、甘く、透き通っていて普遍的な、まるで一欠片の神の骨が罅割れた時のような音だ。

 その単調な音楽がある種の基底詩行となって。五つの楽器、五匹のウォッチドッグ、が、作り出した領域の全体に。自己表出性も指示表出性も有さない記号、自己増殖する客観的な方法機械としての記号が、自動的に律法結晶化していく。

 それは……そう、生命力だった。もちろん、アビサル・ガルーダが、その虐殺を執行している場所は。ライフ・エクエイションの水溜まりと水溜まりとの間、さらさらとした白い光、を放っている砂の上であったのだが。アビサル・ガルーダの周囲の水溜まりが、急激に強力なエネルギーを放ち始めたのだ。先ほどまでも、確かにエネルギーを放っていたのだが。それよりも強く強く、更に凄まじい波動に変化し始めたということだ。

 真昼は……ふと気が付く。そのエネルギーを浴びている自分の全身が熱のようなものを帯び始めたということに。それは、例えば、栄養のある物を食べ過ぎた後で全身の血の巡りが良くなって、その結果として皮膚が真っ赤に染まってしまったような感じ。それが何十倍も何百倍もになった感じだった。血液は、熱いというのを通り越して沸騰しているようで……いや、違う。「ようで」ではない。血液は、実際に沸騰し始めていた。

 皮膚の下でぼこぼこと音がしている。というか、皮膚自体が、泡立ち、煮立ち、沸き立っている。ぶくりぶくりとしたあぶくが出来上がっては弾けて弾けては出来上がって。

 これは、つまり、あまりに過剰な生命力を真昼の肉体的な部分が受け止め切れなくなっているということらしかった。そして、これがウォッチドッグ達の攻撃の第一段階だったのだ。過剰な生命力を注ぎ込むことで、相手の肉体を破綻させるということ。許容範囲以上の空気を風船に吹き込んで破裂させようとするのと同じ意味合いの攻撃である。

 ただ……この攻撃は、アビサル・ガルーダには全く通用していないようだった。アビサル・ガルーダの肉体は、真昼のように異常をきたしているわけではなかった。どうも、アビサル・ガルーダの内側にでらでらと満ち溢れている反生命の原理がこのことに関係しているようだ。傷口から滴り落ちる反生命の原理、その波動が、さっきまでよりも強力になっている。周囲のライフ・エクエイションが放つエネルギーと同じくらい強力になっているということからそれが分かる。ただ、どのような理論で攻撃を防いでいるのか。中和しているのか無効化しているのかといったようなことは真昼には分からなかったが。

 ということで、ウォッチドッグ達は、攻撃の第二弾に移ることが必要であるようだった。体節と体節とが織り成す音楽が、先ほどとは少しだけ調子を変える。すると、今度はライフ・エクエイションの水溜まり自体が沸騰し始めた。

 ぼこぼこと泡立つ……と、そのようにして、ぽこんぽこんと吐き出されたあぶくが、球体となって浮かび上がった。ふわり、と宙に浮かびあがって。それから、急に、目に見えないほどの速度で回転し始めた。

 球形は、縦に押し潰された楕円形になって。それから円盤状になる。幾つも幾つも無数に浮かび上がった円盤、ほとんど二次元そのもののような平面になって。次の瞬間、アビサル・ガルーダに襲い掛かった。

 単純だし、陳腐でさえあるが、とはいえ効果的な攻撃だった。ライフ・エクエイション、生命の力をそのまま武器として相手に叩きつけるというわけだ。ミセス・フィストとの戦いで、ミセス・フィストのことをライフ・エクエイションに閉じ込めたことがあったが。そこからも分かるように、ライフ・エクエイションは、ある意味では非常に強力な物質となりうる。それは生命力そのものを無効化できない限り破壊不可能な武器なのだ。

 一枚、二枚、三枚……数百枚の円盤が、一斉にアビサル・ガルーダに襲い掛かる。アビサル・ガルーダは、ヴァジュラによってそれらの円盤を次々に叩き落していく。その動作は、祭礼の日に神々に対して捧げられるところの荒々しい舞踏にも似た精密さであって。円盤は、一枚たりとも、アビサル・ガルーダに触れることさえ出来ずに弾き返されてしまう。

 ただ、なにぶん数が多過ぎた。第一陣の段階で、既に数百枚であったのだし。その後も次々と作られ続けているのである。本気を出しているとまではいえないにせよ、能力のうちのそこそこの部分を発露させているはずのアビサル・ガルーダであっても、捌き切るということに対してなかなか苦労させられる量だ。

 また、円盤の一枚一枚がさほど大きくないということも難易度を更に引き上げる要因であった。直径にして一ダブルキュビトいくかいかないかというところだろうか。百ダブルキュビト以上の大きさがあるアビサル・ガルーダからすれば、服のボタンだとか一星玉だとか、それくらいの大きさのものを、正確に跳ね飛ばしていかなければならないわけである。

 いうまでもなく、防ぎ切れないということはあり得なかった。アビサル・ガルーダを操作しているのはデニーなのである。まあ、操作といっても、その一挙手一投足まで完全に支配しているというわけではなかったが。それでも、デニーほど強くて賢い生き物に、失敗という不完全性があるわけがなかった。

 問題なのは、反撃に転じる暇がないということだ。アビサル・ガルーダの動作は、現時点では、その全てが円盤への対処に割かれてしまっている。反撃するだけの余裕がないのだ。結局のところ、ウォッチドッグ達をなんとかしなければこの攻撃は終わらないのであって……ということは。

 アビサル・ガルーダは。

 ヴァジュラ以外の。

 攻撃方法を。

 使う必要が。

 ある。

 いつの間にか……アビサル・ガルーダから漏出している反生命の原理。また、その流れていく先が一定の方向に固定されていた。一つの方向に、いや、二つの方向に流れていく。アビサル・ガルーダの背中、に、生えている、二枚の羽。

 聖書から破り取ったばかりのひどく透き通ったページを、少しばかり甘過ぎるチョコレートでコーティングしていくように。羽は、羽は、反生命の原理によって包み込まれていく。じっとりと、べっとりと、覆い尽くされていく……そして、そのような被覆の過程と同時に。アビサル・ガルーダは、ずるり、と、両の羽を広げ始めた。さほど勢いよくというわけではない。むしろ、次々と襲いくる円盤、容赦のない攻撃を被弾しないように。感情の断片さえ感じさせない慎重さによって広げていく。

 羽が、完全に、反転した生命の色に染まるのと。アビサル・ガルーダが羽を広げ終わるのとは、ほぼ同時であった。そして、そのようにして広げられた羽、反生命の原理が、どこか奇妙な方法で震え始めた。それは、なんというか、アスファルトの道路の上に出来た水溜まり、その水面に、ぽつぽつと降り注いでくる雨によって波紋が描かれるかのような。波紋と波紋とがぶつかり合って、複雑な、ひどく不均等な模様が描かれていくような。

 激しくはない。激甚さのようなものはない。ただただ静かに、たふん、たふん、たふん、と震えるだけだ。それにも拘わらず、その振動は、世界の全体を揺らしているかのように響き渡っていた。たふん、たふん、たふん、その振動は真昼にも聞こえていた。それどころか、真昼という生命の内側を、惨たらしい方法で、忌々しい方法で、侵食しているかのようだった。

 真昼には何がなんだか分からなかったが、正しい意味での生命、この世界におけるこの世界としての生命に対する、なんらかの否定詞の残響のようなものの感覚だった。その一語が差し挟まれることによって、真昼という生命の、その統辞的関係性の全体が、ちょっとした異常をきたしてしまうということ。

 真昼は、たぶん、振動の直接的な対象ではないから「ちょっとした異常」程度で済んでいるのであろうが。一方で、そのような否定詞、残響ではなく文法的な転落そのものを叩きつけられた相手は……要するに、生き残っているウォッチドッグ達は。あたかもに目に見えない何者かの手によって掴まれたかのように、唐突に、その場所で停止した。

 空中で、何ものにも支えられないままに、動くことが出来ないらしい。しかもそれだけではなかった、アビサル・ガルーダの両の羽に浮かび上がっている波紋、二次元でも三次元でもない不可思議な波紋、それが、ウォッチドッグ達の表面にも浮かび上がっていた。共鳴しているのだ、暗黒の夜に響き渡る基底音に、反転した生命の心臓の鼓動に。

 実際に何が起こっているのかは分からなかったが、真昼が見た限りでは、ウォッチドッグ達の生命力そのものが阻害されているようだった。そして、もちろん、ミヒルル・メルフィスであるところのウォッチドッグ達にとっての生命力は、通常の生き物にとってのそれよりも、遥かに重要なものである。ウォッチドッグ達は、苦悶の表情というものがあればそれを浮かべているであろう、恐ろしいまでの無慈悲さの中に、抗いようもなく固定された標本の昆虫も同然であった。

 これで、後は。

 とても、楽だ。

 確かに、アビサル・ガルーダの周囲にはある程度は自律的に維持され続ける象徴の領域が完成している。工程を開始した機械が人の手によって動かされなくなってもプロダクトリーを作り続けるのと同じように、その領域は円盤を作り続ける。とはいえ、その領域自体を保証する基底詩行は失われているのだ。ということは、領域を一度吹き飛ばしてしまえばそれでお終いということだ。

 アビサル・ガルーダは、羽と羽とを広げたままで、ぐっと腰を落とした。人間とは逆の方向に動く膝、実際には足首だが、それを深く深く曲げて。次に放つべき一撃に備える。

 ヴァジュラで。

 円盤を。

 撥ね。

 撥ね。

 撥ね。

 そして。

 出来た。

 一瞬の隙。

 その二枚の羽。

 一つの領域を。

 閃。

 一歩踏み込んだ右足を軸足にして、残した左足で円を描くかのように。アビサル・ガルーダは、その場で旋回した。低く低く保った重心のままで。その縁に刃の鋭さを宿す笑い独楽にも似た礼儀だ。大きく広げられた二枚の羽が、周囲に展開する領域そのものを切り裂いて……そして、未だに残っていた無数の円盤ごと、跡形もなく吹き飛ばす。

 爽快な春嵐だった。そのような風が吹いて、停滞していたあらゆるものを消し去ったのだ。こうして、アビサル・ガルーダは自由となって。後には、動くことさえ出来ないウォッチドッグ達だけが残された。

 アビサル・ガルーダは、いかにも手すさびという感じで、指先、ヴァジュラをくるくると回しながら、ウォッチドッグのうちの一匹に近付いていく。別に急ぐ必要はない、逃げ出す可能性も、いわんや襲い掛かってくる可能性もないのだから。

 時間をかけて、ようやくウォッチドッグに手が届くほどの距離までやってくる。ゆっくりゆっくりヴァジュラを振りかぶって……振り下ろす時は一瞬だった。ウォッチドッグの頭は粉々に砕かれて。肉体の残りの部分、は、ぐじゃりと落ちる。

 一匹目。

 二匹目。

 三匹目。

 四匹目。

 五匹目。

「これでお終い?」

「うん、お終い!」

 デニーは。

 くすくすと。

 笑いながら。

 続ける。

「やっぱり、そんなに時間かかんなかったね。」


 その場所から結界の境界線までは、さほど時間がかからなかった。というか、文字通り一瞬だった。「ここから先はねーえ、ウォッチドッグがあーっちこっちにいるんだよ。もうもう、うじゃうじゃーって、わちゃわちゃーって、そーゆー感じ。だからね、あんまりゆっくり進んでると、まーたウォッチドッグが集まってきて、どどーんばばーんってされちゃうの」「そうゆーわけで! 一気にびゅびゅーんといっちゃいまーす!」、というデニーの言葉の直後には。アビサル・ガルーダのデウスステップによって、結界の境界線の目の前にまでやってきていたということだ。

 ちなみに、なぜ最初からデウスステップを使わなかったのか、アビサル・ガルーダの持つ魔力からすればはぐれヴェケボサンの隠れ家からここまでの距離くらい余裕で移動出来たはずではないか、という疑問に対する回答であるが。それは、生命の樹がある場所の正確な位置が分からなかったからである。デウスステップも万能ではない、以前も書いた通り、それは単なる移動手段でしかない。だから、どこに行けばいいのかも分からないのにそこに行くことは出来ないのである。

 ただ、現段階において。

 生命の樹は目に見えていたのであって。

 デウスステップを。

 使うこと、に、ついて。

 なんらの不都合もない。

 十二匹のウォッチドッグとの戦闘が終わった後、デニーと真昼とは、アビサル・ガルーダの手のひらにまた戻っていたのだが。そのようにして掲げられた先……結界が、あたかもミヒルル・メルフィスという生き物から他のあらゆる生き物に対する絶対的な拒否の観念そのものであるかとでもいうかのごとき冷酷さによって、内側と外側とを閉鎖していた。

 近くに来て、実際に見てみると、遠くから見た時よりも遥かに根源的な意味での遮断であるということが分かった。一般的に、何かを遮断しようとした時には、例えば壁だとか幕だとか、そういった別の「ある」ものを使ってそれを行うものだ。つまり結局はその結界が「ある」ということを防ぐことは出来ない。それでは何かを完全に隠すことは出来ない。

 一方で、このミヒルル・メルフィスの結界はそこに「ない」ものだった。つまり、その結界が覆っている全体は、結界さえも含めて、完全なまでに存在しないように感じられるのだ。結界の周波数も掴めない。敢えていえばその周波数は静寂だ。

 もしも、この結界が隠そうとしているものが生命の樹ではなく、内側からエネルギーが漏れてくることもなければ。きっと、ここに何かが「ある」ということに気が付く者はいないだろう。ただただ何も「ない」沙漠が見えているだけだろう。

 そのようにして、明らかに何もないはずのそれが光り輝いていた。これは、ちょっと、実際に見てみないと分からない感覚かもしれないが。例えるならば、両側から物凄い力を加えられて、断層と断層とがずれてしまったプリズムが。あり得ない角度から照射された光によって、複雑な剪断に従ってばらばらに分割されながら、それでも光り輝いている光景とでもいえばいいだろうか。

 樹の形に……天空に向かって、一つの直線を描いている光が。結界によってばらばらにされて、捻じ曲げられて、樹の形になっていた。枝のように見えているのは、実際は枝ではなく、結界の虚無によって捻じ曲げられたエネルギーの方向性がそう見えているだけだろう。枝、枝、枝、無数に分かれて歪んでいる。無理やり歪められた鏡に映し出されたかのように。

 つまり。

 何がいいたいのかといえば。

 それほどまでに。

 生命の樹から放たれる光。

 歪めて、しまう、までに。

 この結界は。

 強力だと。

 いうこと。

 さて、さて、そのような結界、どうすれば対処出来るというのだろうか。贔屓目によって見ることなく、完全に客観的に評価するとすれば。はっきりいってデニーがデニー自身の力によってこの結界を破るということは不可能だった。というか、この結界は。神々の感覚さえも感覚出来ないものであるはずなのと同じように、神々の力でさえも破壊出来ないものであるはずだ。この結界を破壊するためには、間違いなく桑樹級対神兵器が必要になってくる。パンピュリアの三天使だの神剣ブラディゲートだの、そういったものを使ってようやく突破出来るというレベルなのだ。

 ただ、真昼は、そのように物事を冷静に見るという能力を失ってしまっていたので。ただただ端的な現実として理解してしまっていた。それが不可能であったとしても、デニーには出来ないことなどないのだということを。そう、デニーに出来ないことはないのだ。それが、現実なのだ。現に、今……デニーは、結界に向かって歩き始めた。

 とっ、とっ、という感じ、軽くスキップでも踏むみたいにして。デニーと真昼とはアビサル・ガルーダの手のひらのところ、その真ん中辺りに立っていたのだが。そこに真昼だけを残して、デニーは、第四趾の指先に向かって進んでいった。

 左手の第四趾、先端に立ったデニー。くるっと、腰の辺りから上半身をひねるみたいにして振り返る。真昼の方を見て「待っててね、真昼ちゃん」と言う。それから、とっと右足を前に出した。指先のその先の空間、何もないはずの空間に。

 いうまでもなく何もない「はず」であるというのと実際に何もないのとは全然違う。何もない「はず」というのはただ単なる思い込みに過ぎず、常に何かがある可能性が担保されている。そして、そこには、もちろん、それがあった。つまり、デニーが魔学的エネルギーによって作り出したところの、例の目には見えない足場があった。

 真っ直ぐ真っ直ぐ、何も知らない子供のように素直に結界まで続いている足場。デニーは、美しいこの世界の全てを肯定している一つの旋律みたいに晴れやかなステップを踏みながら進んでいく。とんっと跳ねて、爪先で笑うように着地して。その着地の瞬間に、その爪先を支点としてくるりと半分だけ回転する。ふわりと花束のようにスーツの裾が揺らめいて。後ろ向きに、たんったんっと二歩ほど進む。ばーっと両腕を広げる、後ろ向きに倒れ込むみたいにまた半回転する、それから、そのまま、緩やかに歌うみたいに、るー、るー、と足を滑らせて……楽しげに、楽しげに、デニーは、生きることそれ自体を楽しんでいるかのようにして。

 その様には、どこか悍ましいまでの禍々しさを感じさせるところがあった。生きることそのものに対する賛歌。生きることの肯定、生きることの幸福、底抜けに明るいそのダンスは……どこか……例えば、麻酔もしないままに胸の真ん中を切り裂いて、その中から、未だに脈打っている心臓を取り出して見せるような。そんな残酷さのようなものが感じられたのだ。

 生きること。

 そのものに。

 付随する。

 何かとても。

 悪い、もの。

 デニーは。

 それを知っていて。

 しかも。

 その上で。

 生きることを。

 ただただ。

 そのまま。

 生きている。

 そして……デニーは、いつの間にか、結界が作り出している内側と外側との境界、手を伸ばせば触れられるほど近くまでやってきていた。るんっという感じで、両方の足、その踵をくっつけて。両方の手は背中の方できゅっと結んで。爪先をちょこんと上げたままで、上半身を軽く前に向かって傾けているという姿勢で、浮き浮きとした様子を隠そうともせずに立っているデニー。

 暫くの間、そのまま、なんだかわざとらしいくらい真面目な顔をして結界を見つめているデニー。あたかも、ほとんど破壊不可能といってもいいようなその結界を、一体どのようにして破壊すればいいのかということ、悩みに悩んで悩み抜いているとでもいいたげであったが……いうまでもなく、その有様はただの演技に過ぎない。デニーは、その結界を破壊する方法など、とっくのトークンピーナッツに理解している。

 突然。

 そのフードの奥で。

 デニーが。

 にーっと。

 笑った。

 上げていた爪先をすとりと落として、その勢いで傾けていた上半身を真っ直ぐに伸ばした。後ろで結んでいた両手、ぱっと離して。それから、ぱーっと開いたままの手のひらにして、ひらひらとひらめかせるみたいに自分の顔の横のところまで差し上げた。両方の腕、肘を軽く曲げて、右手は顔の右側に、左手は顔の左側に。

 後ろから見ていた真昼は、何か、奇妙な間違いが起こっているということに気が付いた。デニーは手のひらに何もつけていないはずだった。手袋だのなんだのに覆われてない素肌の手のひらであるはずだった。そうであるにも拘わらず、二つの手のひらは、何かに覆われていて……いや、違う。今まさに覆われ始めている。

 それは。

 暗黒。

 暗黒。

 エディカ。

 ラパ。

 ラパ。

 ケクトミミ。

 スィテ。

 ロラロ。

 つまり。

 反生命の原理。

 ちなみに、呪文っぽいというか聖句っぽいというか、なんだかよく分からない片仮名の羅列というのはこれまでもちょいちょい文中に出てきましたが。実際のところはこれは呪文でも聖句でもなんでもなく、なんとなくその場その場の雰囲気で書いてるだけのやつなので、辞書とかで調べても全然無駄です。特になんの意味もありません。

 でもかっこいいでしょ? それはそれとして、デニーの両手、その素肌の上を、次第に次第に反生命の原理が伝っていっていた。真昼の視線の先、手首から手の甲へ、手の甲から指先へ。

 真昼のいる位置からはデニーの顔は見えなかったが、もしも見えていれば、その右目から、その左目から、その口から、ある種の体液のようにしてだらだらと反生命の原理を滴り落としているところを見ることが出来ただろう。そして、そこから、首を、腕を、肩を、通じて手のひらまで流れていたということだ。

 これは、一体、何者の反生命の原理なのだろうか? アビサル・ガルーダのものか、それともデニーのものなのか。まあ、誰のものであるにせよ、両手の全体が覆われると、そこで漏出は停止した。デニーは、感触を確かめようとしているかのように、両手の指、小指から順番に、静かに静かに折り曲げて。一度拳にした手のひら、今度は、指の全体を一時に開いて。

 それから。

 デニーの両手。

 その表面を覆う。

 反生命の原理が。

 震える。

 ウォッチドッグとの戦闘で、アビサル・ガルーダの両羽を覆っていた反生命の原理が震えた時と、全く同じ振動の方法によって震え始めたのだ。そして、信じられないことが起こる……あたかもその振動に共鳴しているかのようにして、結界の表面が、ごくごく僅かであるが波立ち始めたのだ。

 真昼は、その時に、ようやく気が付いた。内側にあるあらゆるものを見せかけの空虚によって覆い隠しているその結界が、何かの力によって満ち満ちているということに。デニーの両手が放射している振動に対する、結界の抵抗。そのせいで、紛い物の空虚が剥がれ落ち始めたのだ。結果として、真昼の目にも、真昼の感覚にも、その結界の本質が見え始めた。

 結論をいうと、それはオレンディスムス的な論理で作られたところの律令演繹結界であった。これは結界を構成する方法の中でも比較的高度なもののうちの一つなのだが……まずは、結界を作ろうとしている一つの集団が、ある特定の律令に関する共同幻想を形作る。そして、そのようにして完成した境界性の内部領域に、その律令のエネルギーを引き摺り出す。

 こうして出来た結界は、律令のエネルギーをそのまま内側に含んだオレンダ周波数によって完成する。もう少し分かりやすくいうとすれば「律令の持つ法的効力そのものを、集団の構成員全体が精神的な構造の最も基礎的な部分で畏怖する共同幻想によって方向付けることで、根源的に作動させるところの、外的世界全体に対する禁忌化あるいは追放刑」だ。

 もちろん、そこまで専門的なことを真昼が理解していたわけではないのだが。それでも、その結界がある種の引き出されたエネルギーによって構成されているということくらいは分かった。そして、それは、明らかに、生命力であった。

 この世界における正当な生命の原理。その力は、生命の樹が発しているエネルギーと同じ種類のものであって……と、ここまで考えが及んだ時に、真昼はようやく気が付いた。ああ、分かった、この結界は生命の樹の力を引き出すことによって作り出されたんだ。だから、だから、ここまで凄まじい結界、神々さえも破壊不可能なほどの結界になったんだ。

 と。

 いうことは。

 その生命力を一部でも無効化出来れば。

 この結界に、穴を開けることが出来る。

 真昼の視線の先で、デニーが、ぱんぱかぱーんとでもいうようにして両腕を大きく大きく振りかぶった。というか、端的にいえば、ばんざーいのポーズをしたということだ。右腕と、左腕と、一番上のところで、ずばばーんと、広げられる限り広げた二つの手のひら。そうして、その後で……デニーは、他愛なく、呆気なく、軽々しく。ちょっとした冗談みたいに、その両手のひらを結界に向けて振り下ろした。

 とぷん。

 と。

 水面が。

 揺れる。

 ように。

 その結界。

 波紋する。

 あたかも一滴のしずくを落とした鏡面にミルク・クラウンが描かれるように。デニーが触れた部分を中心として、外へ外へと広がっていく巨大な波紋が広がった。デニーが触れた部分というのは、実はたった一点だったのであって。デニーは、右手と左手とを重ねて、その一つの点に触れたわけなのだが。その一点が、とぷん、とぷん、とぷん、とぷん、という感じ、沈んでは浮かび、浮かんでは沈み、波の形を作り出しているのだ。

 その波は……次第に……高く高く、深く深く、結界に刻み込まれていく。結界の境界線、不可触にして不可侵であるはずの、一枚の二次元平面的聖別は。ゆらりゆらゆらと移ろいゆく、鏡面の上の影のようにして、hikesiosとしての安定性を保てなくなってきて。やがて、やがて、最後には。

 鏡籟。

 鏡籟。

 散晶。

 円放華。

 斬透透。

 ざぷん、と。

 音を立てて。

 結界。

 デニーの。

 手のひらが。

 触れている。

 その。

 部分。

 が。

 破綻する。

 あまりにも深まり過ぎた、波の一番深いところ。それがとうとう結界の向こう側に到達したのである。綻び、ほぐれというかほつれというか、小さな小さな虫食い穴は。波が外側に広がる速度によって広がっていって……最終的に、数百ダブルキュビトもの大きさの、巨大な傷口になる。

 さすがに結界の全体(それは一体どれほどのhugeであるのだろうか?)を崩壊させるまでには至らなかったが。とはいえ、アビサル・ガルーダがそこを通過するには十分な大きさである。

 つまり。

 デニーは。

 いとも容易く、あり得ないことを。

 やり遂げた、と、いうことだった。

 デニーは。

 真昼のために。

 切り裂き得ないものを切り裂き。

 そして、その穴の向こう側には。

 生命の樹が。

 真昼のための。

 命の。

 花束。

 が。

「お待たせ、真昼ちゃん。」

 にーっと、純粋無垢な笑顔。

 真昼の耳元でデニーが囁く。

「天国を一つ、滅ぼしに行こっか。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る