第三部パラダイス #19

 目を開いても、暫くの間、二つの眼球は何も見ていなかった。右目も左目も世界の視覚的側面を映し出してはいるのだが。とはいえ、光のスペクトルが構成しているその情報の集合体を、脳髄が、欠片たりとも理解しようとしていないのだ。なぜというに、その情報を処理するための脳髄が未だに覚醒し切っていないからである。見えてはいるが見てはいない。

 確か、あたしは。

 夢を、見ていた。

 真昼の頭蓋骨の中に、恐る恐る巣穴から顔を覗かせる怯懦な齧歯類のようにしてそのような思考が現われて、それから囁いた。夢? そう、夢を見ていた。どうでもいい夢を、心の底からどうでもいい夢を。

 夢を見ていたということは、つまりあたしは眠っていたということだ。眠っていたということは、ついさっき目覚めたのだということである。ということは、あたしは、今、目覚めたばかりだということ。

 どうも、何かが上手くいっていないような気がした。なんだかよく分からないが決定的な部分に不具合があるような感じなのだ。その不具合がなんなのか分からない限り対応のしようがないのだが、とはいえ、その不具合は真昼の思考にまで影響を及ぼしているらしく、思考が全然働かない。

 どうしようもないままに、ただただ呆然と目を開いているうちに。だんだんと、思考の焦点が合ってくる。そして、真昼は、目の前にある光景について理解し始める。

 ああ、なるほど。

 どうやら。

 あたしは。

 今。

 目を焼かれている。

 そう気が付いた真昼は、ゆっくりと目を閉じた。その後で、首をほんの少しだけ傾げて、その光景から顔を逸らした。目を焼かれているといっても、何かしらの拷問によって炎を押し当てられていたというわけではない。そうではなく、真昼は、太陽を直視していたのである。

 しかも、アーガミパータの太陽である。その内側に神の胎児を宿した卵。以前も書いたように、アーガミパータの太陽は物理的な光で目を焼くということはない。とはいえ、それは、強烈なセミフォルテアを放射しているわけであって。そんなものを直視し続ければ、目という観念、あるいは目が目であるということを構成している魄は、確実にダメージを受ける。

 真昼は、青空を見上げていたらしい。太陽の昇りかけた青空を。太陽は、中天と呼ぶにはあまりにも下方過ぎる位置にあって。あの位置から考えると、今は早朝を少し過ぎたくらい。十時とか十一時とかそれくらいだろう。当然ながら、太陽は視界の真ん中にあったわけではないのだが。何しろ晴れ渡った青空には太陽以外の何ものも見当たらず、そのせいで、無意識のうちに、一番目立つものを目で追ってしまっていたらしい。

 もう一度、目を開く。今度、真昼の視線に入ってきたのは、岩石で形作られた壁であった。真昼がいる場所から百ダブルキュビトかそこらの距離が離れている。いかにも沙漠の真ん中に聳え立っていそうな、赤錆びたような色をした断崖だ。

 真昼は、その光景について、特に思うところはなかった。というか、何かを思うだけの明晰さが今の真昼にはなかった。とにもかくにも、全てがぼんやりとしていて靄がかかっているような感じ。全ての感覚が、頭蓋骨を、上滑りしている。

 頭蓋骨、は、なんというか、地獄の最下層から掬い取ってきた泥濘でその中を満たされているようだ。その泥濘の中で、脳髄が、腐りかけたスポンジになってしまったかのようにクソの役にも立たない。全身は、溶かした鉛を注ぎ込んだみたいにずっしりと重たい。それにも拘わらず、安物の空気人形か何かみたいに薄っぺらい感覚も覚えるのだ。筋肉は濁り切った下水のように痺れていて、骨の一本一本について、骨髄からすかすかになってしまったかのように軽々しい。他人事みたいな神経、紛い物みたいな血管。そんな感じだ。

 深く息を吸う。

 深く息を吐く。

 乾き切って。

 朽ち果てた。

 灰のような味がする。

 真昼は……とにかく、自分が、仰向けに横たわっているということはなんとなく分かった。だから、状況を変えるために、起き上がってみることにした。地面に手をついて起き上がろうとする……すると、手のひらが、「何か」に触れた。ざらざらとしてふわふわとしている。柔らかくて手が埋まる。

 今気が付いたのだが、真昼の体は、どうもそのような「何か」によって包み込まれているらしい。何なのかは分からなかったが、構わずに起き上がることにする。とりあえずは上半身だけ。その上半身から「何か」が滑り落ちる。

 真昼は、右手でそれを掴んで、自分の目の前まで持ってきた。それは、毛皮だった。砂だの埃だので薄汚れてはいるが、それでもきらきらとした黄金の色で輝いている毛皮。これは、えーと、確か……そう、ヒクイジシの毛皮だ。

 真昼の肉体は、数枚のヒクイジシの毛皮、それからその他の生き物の毛皮で埋め尽くされていたのだ。首だけが外に出ていて、あとは覆い尽くされていたらしい。真昼が、ちょっとやそっと寝返りを打っても、その外側には出られないくらいに。

 毛皮は、じっとりと、べったりと、濡れていた。もちろん、真昼の汗で濡れていたのである。よくよく自分の状態を確認してみると、真昼の全身はびっしょびしょに濡れてしまっていた。あまりに汗をかき過ぎて、シャワーを浴びた直後みたいだ。

 ふぅん。

 なるほどね。

 だんだんと。

 状況が。

 読めてくる。

 まずは、今の状況について思い出す。どこにいるのかといえば、ヌリトヤ沙漠。ティールタ・カシュラムから少しいったところにある、はぐれヴェケボサンの隠れ家……だったところ。そこで真昼は一晩眠っていたわけなのだが、何しろここは沙漠のど真ん中にある。四方を断崖に囲まれているから、風だとかなんだとかは防がれているのだが。それでも、夜中は、沙漠に特有のやべーくらいの寒さに襲われる場所だ。

 ということで、昨日、真昼が眠ってしまった後で。真昼が寝冷えしないように、デニーは、真昼の肉体を毛皮でくるんだのだろう。そのおかげで、昨夜は、まあまあ快適に過ごせたのだが。一つ問題があって、沙漠が寒いのは夜の間だけなのである。

 太陽が地平線に姿を現わしてから気温は爆速に上昇して。そして、ほわほわあったかな毛皮に包み込まれた真昼に襲い掛かった。「あったか」は、瞬く間に「クソ熱い」へと変貌して。それに伴い、真昼は、汗だっくだくの状態になったということだ。

 当然ながら真昼の肉体に含まれている水分量は無限ではないのであって、一定の水分を失ってしまった真昼は脱水症状になった。今の真昼は苦痛を感じない状態にあるので、頭痛も感じないし吐き気も覚えない。それに最低限の生存は保たれるので、死なないし、体は動作する。ただ、それでも、こんな風にまともに物事を考えられない状態になってしまったということだ。寒さで凍り付いた肉体がまともに動かなかったのと同じようなアレだろう。

 そういうことだ。とにかく、このような状態になっている原因は理解出来た。とはいえ、それによって状態自体がどうにかなるというわけではない。相変わらず、思考はぐらんぐらんとしている。眼球が頭蓋骨の底に落ちて、延髄とこめかみとの間を行ったり来たりしてるみたいだ。

 これを何とかしなければいけないだろう。どうすればいいか? 簡単なことだ、不足しているものを補えばいい。要するに、水を飲めばいいということである。

 だから、とにかく、真昼は……立ち上がることにした。雨でも降ってきてくれればここに座ったままでも問題ないだろうが、それは期待出来そうもないからだ。

 ふらり、と全身が傾ぐが、それは想定の範囲内だ。ぐわんぐわんと耳元で叫ばれているみたいに、とはいっても音がするわけではないのだが、とにかく視界が揺れている。頭を引っ掴まれて思いっ切り引っ張られたり押し戻されたりしているみたいに、頭蓋骨の重心が定まらない。

 よろけながらも立ち上がる。それから、反吐でも吐こう(重言ですね)としているかのように、ぐうっと上半身を前に倒して。軽く折り曲げた右膝を右の手のひらで、軽く折り曲げた左膝を左の手のひらで、それぞれ掴んだ。倒れないように全身の重心を落として、自分の膝から下の部分を支えにしたのである。

 俯いた姿勢のまま「あー、クソが!」「クソ気分が悪ぃ!」と叫ぶ。わざと大声を出して少しばかり気合を入れてみたのだが、見た目といいなんといい、二日酔いで苦しんでいるおっさんにしか見えない。とても良家の令嬢だとは思えない有様だ。

 と。

 瞬間。

 真昼は。

 凄まじい勢い。

 顔を、上げた。

 しかも、顔を上げただけではなかった。いつの間にやら左腕は重藤の弓に覆われていて、右手の指先はその弓を引いていた。その音がした方に向かって。

 そう、音がしたのだ。真昼の背後、断崖の上の方。からからという感じ、小石が岩肌を落ちていく音がした。それはなんらかの拍子に何者かが小石を蹴り落としてしまったという系統の音であったのであって。そして、その音は明らかにデニーが立てた音ではなかった。

 デニーは、こんな不用意な音の立て方をしない。もしも、いきなり背後に立ってしまうことによって真昼を驚かせないように音を立てたのだとしても。もっと、わざとらしい音を立てるはずだ。こんな風に、油断した結果として偶然立ててしまったような音は立てない。

 さてさて、そこにいたのは。

 もちろん、デニーではなく。

 一匹の。

 羚羊のような。

 生き物。

 まるで目覚めた後に消えていく夢のように曖昧な赤色、そんな色の、無数に枝分かれした角を生やしている。生やしている? いや、その角は、ごく一般的な鹿のように右側と左側とに分かれて生えているのではなかった。生き物の頭上、数ハーフディギトのところにふわふわと浮かんでいるのだ。つまり、生えているのではなく、ヘルメットの形をした衛星みたいにして浮かんでいるということだ。その角は、生き物の額の辺りから始まって、逆三角形に頭部を覆って。流れるようにして背後に向かっていき、首筋の辺りで左側と右側とに分かれている。両方とも、数本の角の分岐が螺旋を描くように絡まり合っていて……そこから先はかなり長く、少なくとも真昼の腕くらいの長さはあるだろう。

 生き物自体の大きさは、ごくごく普通の羚羊くらい。全身が赤っぽい色をしているのだが、とはいえ、角の色とは異なって赤錆色という感じ。ここら辺の断崖の赤っぽい色に紛れる程度の目立たない色合いである。

 尻尾は奇妙に幅広く、しかも長い。普通の羚羊の二倍くらいの長さがある尻尾で、先へ先へといくにつれて扇のように広がっていくのだ。

 また、よくよく見てみると分かるのだが、全身を覆っているのは、実は体毛ではない。羽毛である。そして口は明らかに哺乳類のそれではなく嘴であった。

 とはいえ、鳥類の嘴ではない。鳥類の嘴は啄むためのものだが、その生き物の嘴は、岩を掘り返してその下の植物を引き抜くための嘴であるようだった。

 真昼は、この生き物を見たことがあった。というか、ここに至るまでの真昼ちゃんアーガミパータ漫遊記の中でたびたび見掛けていた。例えばカリ・ユガ龍王領からアーガミパータ霊道へと向かう途中だとか、そのアーガミパータ霊道に乗って西へ西へと向かっている途中だとか。ヌリトヤ沙漠のあちこちで見かけたところの野生の生き物だ。

 正式名称をアラジフ・ヘリクシスという生き物で、基本的にはグリュプスと同じくオーウマリス(哺卵類)に分類される。とはいえ、グリュプスとは異なり知的生命体ではない。

 まあ、見て貰えば分かると思うのだが、強大な魔力を持つ生き物である。その角は正確な意味での物質ではなく、単純な観念に近いものであるが。それでも物質的に加工することが可能であるため、ガジャラチャの象牙やワークワーク・ケーカダーの蟹甲や、そういった物質と同じようにマジック・アイテムの材料として珍重されてきた。そのために……もともとは、その名前の通り、アラジフ半島にのみ生息していたのだが。アラジフ半島のアイレム教徒達が世界各地に拡散していく際に、このアラジフ・ヘリクシスを一緒に連れていったせいで、その生息域を広げていったのだ。

 そして。

 ここが重要なところなのだが。

 アラジフ・ヘリクシスには。

 ほとんど、危険性が、ない。

 嘴の構造から推測出来る通り草食の生き物で、とはいっても草というよりもレーグートのような菌糸類を好むのであるが、なんにしても肉食動物ではない。まあ、もちろん、肉食の動物に襲われた時には反撃を行う。その反撃は凄まじく、時にはヒクイジシさえも殺してしまうことがあるくらいであるが、襲われもしないのに自ら攻撃を仕掛けるようなことはない。ということで……真昼は、特にこの生き物を恐れる必要はなかった。

 ただただ通りかかっただけなのだ。もう少し正確にいうと、このアラジフ・ヘリクシスは群れのうちの一頭で、この辺りを偵察に来たのである。

 この辺りの岩山は、もともとはこの一頭が所属してる群れが縄張りとしている場所であった。だが、はぐれヴェケボサンが隠れ家を作ってしまったせいで追い出されてしまっていたのだ。アラジフ・ヘリクシスがいかに力強い生き物であろうと、さすがにヴェケボサンには敵わない。殺されて、角を鏃か何かにされてしまうのが落ちである。

 それゆえに、昨日までは、アラジフ・ヘリクシスの群れはこの場所に近付こうとさえしていなかった。ただ、昨日の夜におかしなことが起こった。信じられないほど強力な魔力の持ち主が、たった一人、現れて。そして、ここにいたヴェケボサンは、一人残らずどこかに消えてしまったのだ。殺されたのかどうなのかということは、なぜかはっきりしなかったのだが。とにかく、ヴェケボサンが放っていた魔力の感覚が完全に消滅してしまったということは確かだった。

 そして、朝になって、その強力な魔力の持ち主はどこかに行ってしまったようだった。どこかに行ったというか、まあ、近くにある水場に行っただけのことだったが。とにかく、谷間のあの場所からは離れていった。どうも、その強力な魔力の持ち主の、その魔力の残り香のようなものは残っているようだったが。とにかく、何が起こったのかということを確認しに行くには今のこのタイミングしかないだろう。そういうことで、この一頭が代表でやってきたということだった。

 で。

 今。

 この状況と。

 いうわけだ。

 アラジフ・ヘリクシスが魔力の残り香だと思っていたものは、要するに真昼であった。真昼の魄がデニーの魔力と完全に一体化してしまっていたために勘違いしたのだ。誰もいないと思っていたのにも拘わらず、何かがいきなり動き出したため、驚いて小石を蹴ってしまった。

 と、この辺の事情。

 真昼も。

 即座に。

 察しがついた。

 もちろんアラジフ・ヘリクシスの詳しい生態は知らなかった。なんかこれに似た生き物について家庭教師に教わったことあるな、という程度だ。とはいえ、ここに来るまでにヌリトヤ沙漠で何度か見掛けたあの感じ、無害な草食動物という感じは覚えていたし。それに、向こうがこちらのことを警戒しているその雰囲気からも危険性は感じられなかった。真昼にとっての脅威ではないということは即座に理解した。

 それにも拘わらず、真昼は、武装を解こうとはしなかった。それどころか、暫くの間、そのまま、矢を向けたままで何かを考えていた……そして、その次の瞬間、真昼はアラジフ・ヘリクシスに向けて矢を放った。

 セミフォルテアに。

 限りなく近い。

 純粋な。

 魔力の。

 矢。

 は。

 空間を。

 時間を。

 切り裂いて。

 その次の次の瞬間には。

 アラジフ・ヘリクシス。

 胸を。

 貫く。

 真正面、右脚と左脚との中間地点。首よりもずっとずっと下の辺りを、深々と突き刺した。その瞬間に、そのアラジフ・ヘリクシスの胴体は、がうっともばうっともつかない音を立てて燃え上がった。これは真昼が放った矢のエネルギーとアラジフ・ヘリクシスが肉体の周囲に巡らせている防御のエネルギーとが反応し合った結果として引き起こされた現象だが、なんにしても、爆発のように凄まじい閃光であった。

 アラジフ・ヘリクシスは何が起こったのか分からないようだったが、それでも、その爆発の音に驚いたのだろう、その場から跳ねとんだ。と……アラジフ・ヘリクシスがいた場所は、断崖の相当上の方で、しかもかなり足場が悪いところだったのだが。当然ながら足を踏み外して落下し始めた。

 がづん、がづん、と生々しい音がする。肉体のそこここが岩石に当たって、骨が折れる時の音だ。そして、やがて、その肉体は地上に落下して。ひときわ大きなぐぐぶん、という音を立てる。陶器を入れた綿入れの袋が落下して、中の陶器が割れたような取り返しがつかない音だ。

 真昼は、その様子を、まるで人間とは思えないくらい感情の籠もらない目で眺めていたが。やがて、軽く首を傾げた。上げっぱなしにしていた左手を静かに下ろして、その過程で武装を解く。それから、歩き始める。もちろん、仕留めた獲物に向かって。

 冷静に考えよう。

 論理的に考えるべきだ。

 確定している情報の幾つかを措定して。

 必然的に導き出される結論を確認する。

 まず、大前提として真昼は喉が渇いている。水分を摂取したいという欲望がある。別に何も飲まなくても死にはしないだろうが、それでも、真昼が何かを飲むべきである以上は、何かを飲むべきだ。なぜというに、人間の生死など判断の材料とするに値しないほど些細なことであるというのならば、ここでもやはり何かを飲まなくても死にはしないということは無視していいほどにディテールでしかないところのノイズに過ぎないからだ。

 さて、それでは周囲の状況だ。昨日とほとんど変わらない状況であるが、幾つかの違いがある。まず、そこここで燃えていた火のほとんどは消えている。ほとんどいう表現を使ったのは、たった一つだけ消え残っている火があって、それはガルシェルの入った鍋を燃やしているところのあの鍋であった。あの火はセミフォルテアの炎だからそう簡単に消えることはないのだろう。鍋は、溶けてしまったりしているわけではなかったが。とはいえ、その中から不気味な煙がずもうずもうと吐き出されていた。たぶん中の物が焦げてしまっているのだろう。

 まあ、こういったことはどうでもいい違いだ。ただ、もう一つ、見逃すことが出来ない違いがある。それは、血が、乾いているということだ。あちらこちらを濡らしていた、恐らくヴェケボサンのものであるはずの血液。それが、からからに乾いている。天幕を汚していたものはもともとそのような模様がついていたかのような染みになっている。血溜まりであったものは罅割れた地面の一部のようになっている。

 ここからどのような推測を導き出すことが出来るか。一つ一つ考えていこう。まず、このような血液の状態を見れば、昨日の夜に真昼が眠ってからたった今のこの時間まで、その数時間でこの隠れ家は相当乾燥してしまったのだということが分かるだろう。ということは、この隠れ家に存在していたはずの水分は、あらかた蒸発してしまったのだと考えなければならない。

 ダイオウサバクダニの弾けた腹から飛び散った水分などは跡形も見当たらないに違いない。それでは、鍋の中の水分はどうだろうか? ガルシェル、あるいは駱駝だの人間だのを煮た料理。それらも、やはり期待出来まい。なんせ血溜まりだったはずの物があのようになってしまうくらいの乾燥なのだし……それに、鍋は、どの程度の間火にかけられていたのだろうか。

 デニーが、眠る前にわざわざ火を消して回るような生き物であるとも思えない。鍋は、自然と火が消えるまで煮立てられていた可能性が非常に高い。そのことは、ガルシェルの鍋を熱しているあの火が消えていないということによって裏付けられるだろう。そして、それだけ長い間、火にかけられていたのだとすれば……鍋の中の水分は、例えこの乾燥によって乾き切っていなかったとしても、残っているということは期待出来まい。

 ということは、真昼が摂取することの出来る水分など。

 この隠れ家にはまず残っていないと考えるべきだろう。

 さて、そのような状況の中で、真昼の目の前に一匹の生き物が現われたわけである。これは別にアラジフ・ヘリクシスである必要はなく、体内に一定の血液を保有していそうな生き物であればなんでもよかったのだが。とにかく、その生き物の中には、大量の水分が期待出来た。

 そう。

 つまり。

 真昼は。

 血液を飲むために。

 その生き物、を。

 殺したのである。

 乾いていた。信じられないほどに。体内における最低限の精神的構造だけを残して、他のものは全て不可逆的に喪失されてしまったかのような、耐えられない渇きであった。これは空腹とはまた異なった渇きである。空腹の渇きは渇望であった、そこには欲望が未だ残っていたのだ。一方で、今のこの渇きは枯渇であった。真昼の内側からは、欲望さえも消えていた。そこにあるのは思考そのものが死に瀕しているという感覚である。苦痛から苦しみや痛みを取り除いたもの。リビングデッドの感覚。自分という感覚が極限まで削り取られ、最後に無がそれそのものとして彫刻された空虚だけが残された状態。

 生きながらに死んでいるかのように曖昧な歩調で、崖下に落下したアラジフ・ヘリクシスの死骸に向かって歩いていく真昼。その途中で、一つの鍋のそばに通りかかった。まるで、花瓶に生けられたまま腐り果ててしまった造花のように滑稽に……その鍋の中からは、人間の手のひらがのぞいていた。

 焼けたように破れた皮膚、漿液の痕跡が残された筋肉。ずるりと滴り落ちた表層の下で、薄汚い骨が乾いている。その肉片には蠅がたかっていた。数え切れないほどの蠅が、均整を欠いた水玉模様みたいに蠢いている。

 匂いがする。いや、それは匂いというよりも、鼻の奥を刺激するただの刺激といった方がいいかもしれない。あまりにも強い匂いはほとんど痛みに近いものである。鼻の奥の粘膜だけではなく、眼球を覆う粘膜さえも刺激するその化学的な不快さの向こう側に……鍋の中の物が見えた。水分などほとんど残っていない、どろどろの、腐敗の塊が。

 推測は、正しかったようだ。

 これで、渇きは、癒せない。

 鍋から視線を逸らし、歩き続ける。ぼんやりと開いたままの口、うっすらと靄がかかったような視線。時折、風に揺らぐようによろめく。そうして、この、百ダブルキュビト程度の距離を歩いていく……それから、そこに、辿り着く。

 真昼は、あたかも、そのまま死んでしまったかのような態度によって立ち止まった。アラジフ・ヘリクシスの死骸のすぐそばに。真昼の目の前で、その羚羊は横たわっていた。息を吸うこともせず、息を吐くこともせず、瞬きさえせずに。その肉体は、身動き一つなくそこに横たわっていた。あり得ない方向に捻じ曲がった首、胸の真ん中に深々と突き刺さったままの矢。

 真昼は、その死骸に向かって屈み込んだ。右の手のひらで矢の端を握り締めて、一時に引き抜く。傷口から、血液が漏れ出してくるようなことはなかった。魔学的エネルギーの炎が焼灼してしまったのだろう。

 それから、真昼は、また何かを考え始めた。暫くの間、屈んだままで、右の手のひらで握り絞めた矢を見下ろしていたのだけれど。やがて、視線はそのままで、その場に立ち上がった。

 ふっと、その右手を、真っ直ぐに伸ばす。基本的に……この矢は、物理的な確定性を伴った具体的な矢ではなく、ただの周波数である。真昼が初めて重藤の弓を使ったシーンで説明しかけたことであるが、重藤の弓は鳴弦をベースとした武器だ。ということは、この矢のように見えるものは、基本的には結界を形作っているものと同じように観念としてのエネルギーなのだ。

 ということは。

 術者が望めば。

 その形を。

 自由に。

 変えられる。

 はずなので。

 あって。

 今。真昼がそうであるように命じた形に従って、真昼の右手の中で、その光の形が変質し始めた。もともとは矢であったその形が徐々に徐々に歪んでいく。鏃であった部分が長くなっていって、矢柄の部分は短くなっていって。そして、最終的に、鏃は刃になり、矢柄は柄になり……その矢は短刀になった。

 その変容が完成すると。真昼は、ふっと、視線を死骸の方に向けた。折れるべきではない方向に折れた頸椎の先、頭部に。頭部の全体を覆うように編み込まれた角の塊、未だに、頭部から少し上のところでゆらゆらと浮かんでいる。

 その角の、二本に分かれている螺旋、そのうちの一方を掴んだ。それから頭部ごと引き上げる。ずるり、ずるり、ぐらり。真昼の腕に引き上げられて、頭部から上半身までの部分が持ち上げられて。真昼の左手に掴まれたままで、だらんとぶら下がる。

 上の嘴と下の嘴との間から垂れた舌は未だ変色していなかったが、それでも、その口の中からは匂いがした。口、奥、奥、内臓。まさに死に始めた生き物の、腐り始めた匂いがした。

 真昼は不愉快そうに顔を歪める。

 真昼は不愉快そうに舌打ちする。

 その後で。

 真昼は。

 右手に持った短刀。

 一閃。

 その首を。

 断ち切る。

 ざんっという鈍い響き。短刀が、アラジフ・ヘリクシスの肉体を頭部と胴体との二つに分かつ。胴体の方は、支えを失って、ぐじゃり、と潰れるみたいな不快な音を立てて落ちた。それから、一瞬、間があった。一瞬だけ何も起こらない瞬間があった。だが、その直後に、ずざああああああああっと音を立てて、頭部と胴体との切断面、両方の切断面から、凄まじい勢いで血が噴出し始めた。

 矢は、刺さってしまったせいで、傷口を焼灼してしまったが。短刀は、真昼があまりにも早くその切断を終えてしまったために、傷口を塞ぐまでには至らなかったようだ。銃創からも出血が起こるのと同じようなものだろう。

 とにかく。

 血が出たということだ。

 真昼が求めていた物が。

 得られたということである。

 後は。

 享受。

 するだけ。

 魔学的なエネルギーによって形作られた短刀を、ぱっと手のひらの中に消し去ると。真昼は、アラジフ・ヘリクシスの角を、まるでシャワーのグリップみたいにして持ち上げた。そして、目に見えないなんらかの力によってその角と接続している頭部を自分の真上に掲げる。まさに今の今まで生きていた血液、鮮血が、真昼の頭の上に降り注ぐ。アーガミパータの、この気温の中では……人間の体温さえもアラジフ・ヘリクシスの体温さえも軽々しく超えてしまうような気温の中では。その血液は、むしろ爽やかな涼しささえも感じる。生暖かさのようなものは一切ない。

 そのような血液の、全然どろどろとしていない、さらさらとした瑞々しさを全身で受け止めながら。乾き切った口、一滴の唾液さえ残っていない口、開く。すると、その口の中は、瞬く間に血液で満たされる。

 赤、赤、赤、舌の上が赤く赤く塗り潰される。生き物の生命の味がする。昨日の夜のガルシェルよりは少しばかり上品な味であるような気がした。煮詰めているわけではないし、草食動物の血液だからだろう。

 その匂いは透き通るように甘く、それでいて鋼の器が鳴り響くような冷たい冷たい金属の味。死んだばかりの獣の味は、こういう味がするのか。処刑場にだけ生育する不思議な果実を二つに切って、そこから滴り落ちる、蒸留された罪人の体液のような味がする。美しく、けれども穢らわしい。

 まあ、ただ、穢らわしかろうがなんだろうが今の真昼には関係がなかった。口を開いたままで、だらだらと滴り落ちてくる血液を、ごくごくと飲み落としていく。

 うーん……なんというか……微妙だ。いや、不味いわけではない。そういうこと以前の問題として、あんまり喉の渇きを癒されているという感じがないのだ。血液は、その九十パーセントが水分であるというのだから、それによって喉の渇きを癒せると思ったのだが。よくよく考えてみれば、キャベツだのレタスだのも九十パーセント以上が水分だった。ということは、この行為は、水分補給の観点からいうと、キャベツだのレタスだのを食べるということとさして変わらないことになる。まあ、ハムスターみたいな生き物は水を飲まなくてもそういった葉物野菜を食べて水分補給をすることが出来るみたいであるが。それは乾燥地帯に適応した生き物だからである。世界有数のウォーターたくさんあるエリアであるところの月光国に生まれた真昼としては、喉が渇いた時には普通に水を飲みたいところだ。

 とはいえ、まあ、贅沢をいっていられる状況ではないのであって。真昼は、ありがたく血液をごくごくさせて頂くことにした。喉の奥に飲みくだして胃の腑に溜まる。次第に、次第に、固まってきて粘性を帯びてくる。暫くの間、ただただ無心に、降り注いでいる血液を飲んでいると。まあまあ、満足が出来るわけではないが、それでも何かが満たされてきているのかもしれないという可能性のレベルで枯渇が癒されてきている気がしてきた。

 数十秒後。

 放血の勢いは弱まってきて。

 だんだん。

 だんだん。

 最後には。

 止まる。

 もちろん、完全に停止したというわけではなく、ぽたりぽたりと滴ってはいるが。ただ、飲むという行為の対象になるほどではない。せいぜいが舐めるくらいだろう。真昼は、掲げていた首を、すっと下ろして。それから、右手は、それを、そこら辺に放り投げる。どずん、という音を立てて落ちた。真昼から少し離れたところに転がり落ちた、アラジフ・ヘリクシスの頭部。

 こう、はっきりいってしまうと……全然足りない。心ゆくまで喉を潤したという満足感がない。先ほども書いたように、血液は、所詮は血液なのであって。首を切り落とした直後こそさらさらとした液体であったのだが、最後の方は、なんとなく固まり始めていて、液体を飲んでいるというよりも、レガ・ディ・コムーネだとかアフランシだとかの料理に使われるタイプのべっとりとしたソースを無理やり飲みくだしているような感覚になってしまっていた。

 そう、ソースだ。先ほどは、血液中の水分の割合の話をしたが。一方で、その塩分の割合はというとなんと約一パーセントにもなるのである。まあ、確かに、全身から汗をだらだらと垂れ流している真昼は、それと同時に塩分も垂れ流しているのであって、それを補給出来るのは素晴らしいことであるが。なにぶんその濃度が高過ぎる。ピリスティーンのようなスポーツ・ドリンクの濃度で〇.一パーセント、経口補水液でさえ〇.三パーセントである。正直、これでは、真昼の体内の塩分濃度はほとんど下がらない。従って、喉の渇きもそこそこしか癒されることはない。

 さて、これは。

 どう、するか。

 ちらと足元を見下ろす。まだ一日も履いていないのに、あまりにも過酷な使用環境のせいで既にぼろぼろになってしまったスニーカーに……ひたひたと血潮が押し寄せてきていた。アラジフ・ヘリクシスの胴体の方から吐き出された血液が、巨大な血溜まりとなって真昼の足元に広がっているのだ。アラジフ・ヘリクシスの胴体を中心として歪な楕円を描いていて、真昼の両足はその血溜まりに浸されてしまっている。それほどの量を吐き出しても、まだ、なお、胴体からは止まることなく血液が流れ出し続けている。

 真昼は、胴体の、その傷口に向かって屈み込んだ。右手と左手とで、アラジフ・ヘリクシスの首を引っ掴んで。持ち上げて、その傷口を自分の顔の方に引き寄せる。がーっと、まるで叫び声でも上げるかのようにして、大きく大きく口を開くと。どろどろと血液が流れ続けているその傷口に噛みついた。

 脊髄に歯先が当たってしまわないように、赤く赤く塗り潰された肉に。懶惰に滴り落ちる薔薇の花弁に、似た、色を、した、肉に。真昼は口をつけて……そこから血液を吸い出す。舌の面をくすぐるように動かしながら、ぎりぎりと歯を突き刺しながら。ずるずると、卑しく、浅ましく、血液を吸い出す。

 ごくり。

 ごくり。

 野良のノスフェラトゥが。

 ソフィスティケートの欠片もなく。

 獲物のスナイシャクを吸うように。

 真昼は。

 血溜まりの真ん中で。

 極めて冷静に。

 その死骸から。

 血液を。

 吸い出して。

 いて。

「あれー、真昼ちゃーん?」

 背後で声がした。だが、真昼は、驚くようなことはなかった。先ほど、アラジフ・ヘリクシスに対して見せたような過剰な反応を示すことなく。白々しい礼儀正しささえ感じさせるほど落ち着き払った態度によって、その傷口から口を離した。

 両手で掴んでいた首、左手だけを離して、それから立ち上がる。右手は未だその首を掴んでいるために、アラジフ・ヘリクシスの胴体はずるんずるんと引き摺り上げられることになる。背後からした声……真昼は、なんとなく、投げやりに、振り返る。

 そこには、いうまでもなく、デニーがいた。そして、真昼は、そこにデニーがいるであろうということを知っていた。まるで数分前に注文したコースの、最初のアペリティフが今テーブルの上に置かれただけとでもいうかのように、それがそうであるということを完全に知悉していた。

 あまりにもわざとらしく、あまりにも馬鹿丁寧であった。そのデニーのやり方は、真昼に対しconsiderate過ぎたのだ。背後から近付くことによって、真昼が驚いてしまうことがないように。デニーは、わざと自らの存在がそこにあるということについてのシグナルを発し続けていた。足音をさせなくても歩けるはずなのに、わざと足音を立てて。魔力の気配を感じさせなくても近付けるはずなのに、わざと魔力を発して。もしも、これで、デニーがそこにいることに気が付いていなかったら。真昼は、夜空に星々が輝いていることさえ気が付かないめくらの兎だろう。

 デニーは。

 可愛らしく。

 首を傾げて。

 真昼に。

 こう問い掛ける。

「なーにしてるの?」

「見て分かんねぇのかよ。」

 真昼は。

 不快そうに。

 ぎぎっ、と。

 歯を噛んで。

 それから。

 答える。

「鹿を殺して、その血を飲んでんだよ。」

 んー、まー、その通りですね。鹿ではなくアラジフ・ヘリクシスですが、それ以外はその通りです。そんな見たまんまの答えに、デニーは、何がおかしいのか「あははっ!」と笑うと。そのまま、真昼に向かって、てってこてってこと歩いてきた。

 現段階で、真昼とデニーとの距離は十数ダブルキュビト程度であるが。その距離からでも、デニーの様子がいつもと異なっているということに気が付いた。いや、正確にいえば、デニーの周囲の様子がいつもと異なっているのだ。

 何か、なんだかよく分からないが、球形の物体がぐるぐると円を描きながらデニーの周囲を飛び回っているのだ。しかも、その数は一つではなかった。一つ、二つ、三つ。合計して三つの、完全な真球だ。その大きさは一つ一つが直径にして一ダブルキュビト程度。そして……その色は透明といえば透明といえないことはないのだが、どことなく灰色と緑色との中間くらいの色に濁っている。恐らく、デニーが魔力で回転させているのだろうが。とはいえ、それがなんなのかということ、真昼には見当もつかなかった。

 どこから。

 ともなく。

 飛んできた。

 蠅。

 アラジフ・ヘリクシスの。

 腐敗が始まっている死骸。

 あるいは血まみれの真昼に。

 たかる。

 その蠅を。

 左手で。

 追い払いながら。

 真昼は。

 また。

 口を。

 開く。

「それで、あんたは何してたの。」

 少し考えてから。

 こう付け加える。

「あたしが目を覚ますまで、あんた、今まで、どこか行ってたんでしょ。どこに行っていたの。なんのためにそこに行ってたの。そこで何をしてたの。そういうことを質問してる。」

 これは非常に賢い質問の仕方で、答えが欲しいことを具体的に提示しているため、何度も何度もデニーに聞き返されるという不愉快な思いをしなくても済む。そんなこと当たり前だろということを聞き返されたくなければ、そんなこと当たり前だろということまで言明しておけばいいのである。

「えー? 見てのとーりだよー。」

「見ただけじゃ分かんないから聞いてんだよ。」

「お水をね、汲んできたの。」

「水?」

「そーだよー、お水!」

 そこまで話した段階で、デニーは真昼から二ダブルキュビト程度のところまで近付いてきていた。そこで立ち止まる。ぎりぎり血溜まりの外側だ。

 デニーの周囲を回転していた球体は、回転をやめてその場に静止した。デニーの、右側一ダブルキュビトのところに一つ、左側一ダブルキュビトのところに一つ、それに頭上五十ハーフディギトのところに一つ。

 デニーは、とってもキュートなやり方で後ろ手を組んで。右足の爪先を、左足の踵のすぐ後ろのところ、斜め左の位置にとんっと落として。それから、腰の辺りから上半身を傾げながら、先ほどの言葉を続ける。

「ここからねーえ、少しだけいったところに水場があるの。谷間を流れてる川っていうか、んー、どっちかっていうと、ちょっとした水溜まりって感じかなー。そこにね、お水を取りに行ってたの。だってだって! 真昼ちゃんてばすっごーく汗かいてたから。おめめを覚ましたら、きっと、とってもとっても喉が渇いてるかなーって思って! どう、どう、喉、乾いてるでしょお? ほらねっ! だから、お水があった方がいいかなーって思ったの。どおお? デニーちゃん、気がきーてるでしょー!」

 デニーは。

 また、姿勢を、真っ直ぐに戻すと。

 両手のひらを口のところに当てて。

 くすくすと笑った。

 要するにこれらの三つの球体はただの水らしい。ただの水といっても、これほど濁っている以上、なんらかの汚染物質は混ざっているのだろうが。

 考えてみれば、はぐれヴェケボサンが隠れ家を築いた以上は、近くに水場があってしかるべきだろう。その水場まで水を取りにいっていたらしい。

 なるほど。

 なるほど。

 そういうことか。

 真昼は、アラジフ・ヘリクシスの胴体を掴んでいた右手をぱっと離した。たらたらと未だに血液を滴り落としている死骸、持ち上げられていた部分は、ずべしゃりっという音を立てて血溜まりの中に落ちる。血溜まりの、どろどろに固まり始めた血液が、跳ね跳んで、真昼が履いているジーンズの裾に付着する。

 一歩。

 二歩。

 血溜まりを、歩いて。

 デニーに近付く真昼。

 三つある透明な球体のうちの、一つ。

 デニーの頭上にあるそれを指差して。

 それから、こう問い掛ける。

「じゃあ、これ、あたしが飲んでいいわけ。」

「もーっちろんだよー!」

 可愛らしく、にぱーっと笑いながら。「そのために汲んできたんだよー!」と付け加えるデニー。ふむ、それはありがたい話だ。真昼はアラジフ・ヘリクシスの血液を、結構な量飲んでいた。たぶん、数リットルは飲んでいるだろう。それでも、まだ、決定的に喉が潤ったという感じはなかった。

 正確には、もう、真昼の肉体は十分に潤っていた。デニーの魔学式が刻まれたその肉体は、水分の吸収を、一般的な人間の肉体よりも遥かに効率的に行なえるのであって。それに、いかにアラジフ・ヘリクシスの血液の塩分濃度が高いといっても、その濃度は真昼の体内の塩分濃度とさして変わらないのである。醤油だの海水だのを飲むのとは全然事情が違う。

 ただ、とはいえ、そのような実際的な肉体の完全性と、欲望の充足という側面は往々にして剪断を起こしているものだ。つまり、この場合の欲望とは、いかにも水という感じの水をごくごくと遠慮仮借なく飲み干す時の、その喉越しのことである。

 そのような満足感は、いくら鮮血であっても、血液では到達することが出来ないものだ。ソース的な物ではなく、清涼感を感じる飲料水でないといけない。この……うーん、あんまり綺麗じゃない水に清涼感があるかというのは、ちょっと微妙なところであるが。とはいえ、明らかに、血液を飲むよりは喉越しを味わえるだろう。ということで、この水を飲むことが出来るというならば喜んで飲ませて頂きたいところであった。

 ただ。

 一つ。

 問題があって。

 これ、どうやって飲めばいいわけ? ふわふわと浮かんでいる球体のうち、先ほど指差した一つ、頭上の高い位置にある一つを見上げながら真昼は思案した。まず、あれは、届かない。爪先立ちになって思いっ切り手を伸ばせば触れることくらいは出来るかもしれないが、だからといってどうしようもないだろう。一方で、デニーの右と左とに浮かんでいる二つの球体であるが。まあ、確かに、届きはする。届きはするが、あの球体の状態でどうやって飲めばいいのだろうか。手のひらで掬い取って飲む? それとも顔を突っ込んで飲む?

 そんなことを考えていると、デニーが、つっと身を乗り出してきた。真昼の顔に、その顔を寄せて。それから、口元、右側に右の手のひらを添えて。そっと内緒話でもするみたいにして言う。「あーんってして」「は?」「お口を、あーんってして」。

 言ってることの意味は理解出来た。口を開けと言っているのだ。とはいえ、なぜなのか。真昼は、その理由は分からなかったが……それでも即座にその口を開いていた。デニーの言葉は、デニーの言葉だ。その言葉の理由を理解する必要などない。

 目の前にある、デニーの顔。

 刺すみたいに。

 露呈された獣性によって。

 じっと、見つめ、ながら。

 真昼は。

 低脳のように。

 さまだれなく。

 口を開く。

 すると、デニーが、前のめりになっていた姿勢をもとに戻して。それから、一歩、二歩、退いた。真昼の方を向いたまま。まるで、後ろ向きに転んでしまいそうになったので、とっ、とっ、と後ろ向きにスキップしたというか、そんな感じの退き方だった。

 その後で、後ろ手に組んでいた手のひらのうちの右の手のひらを真昼の目の前に差し出すと。その人差指をぴんと立てた。くるんくるん、というように、暫くの間、空気を掻き混ぜるみたいに回転させていたのだけれど。やがて、その人差指、ぴしーっとでもいうようにして真昼のことを、というか、開いたままになっている真昼の口のことを指差した。

 と、デニーの頭上にふわふわと浮かんでいた球体が……その球体からは、くるくると回転するデニーの人差指の動きに合わせて、まるで糸玉がほどけていくかのようにして、一本の水の流れが吐き出され始めていたのだが。その水の流れが真昼の口に向かって蠢いた。空中を移動して、真昼の口まで到達すると。そのまま、その内側に、するりと潜り込んだ。

 それはあまりにも唐突に起こったことだったので、真昼には準備する暇がなかった。蹂躙だとか、凌辱だとか、そういった態度によって喉の奥を侵犯してくる水。しかも、ただの水ではない。いかにも生水といった感じの、じっとりと濁った、うっすらと淀んだ、そんな味がする水である。

 反射的に吐き出そうとしてしまったが、あまりにも凄まじい勢いで突っ込んでくるために、真昼の喉の筋肉程度ではどうにもならない。まあ、その精密かつ繊細なコントロールがゆえに、気管の方向に行くことはなく、ただただ食道に流れ込んでくるだけなので、咳き込んだりなんだりしそうになるということはない。それに、そもそも、真昼は呼吸の必要がない。とはいえ、それでも、この圧迫感というか、この閉塞感というか、あまりにも強過ぎて圧倒されてしまう。

 真昼は立っていられなくなってしまう。どうどうという怒涛として流れ込んでくる水。膝からも腰からも力が抜けてその場にへたり込む。じたばたと暴れるようにして、両手で水の流れを掴もうとする、掴んで自分から引き剥がそうとするが。所詮は水だ、そんなことが出来るわけもない。

 「あっ、そうだ!」、無駄な足掻きをしている真昼の耳にデニーの声が聞こえてくる。「真昼ちゃん、お顔も、お靴も、およーふくも、とーってもぶらっでぃ!」「血でべーったべたになっちゃってる」「ふふふっ!」「だからさーあ」「ついでに」「ぜーんぶ」「綺麗にしちゃおうね」。

 と、今度は、デニーの左右に浮かんでいた球体が蠢き出した。蠢くというか、ぱんっと破裂したのだ。大量の水滴、細かい細かい球体に分裂して、そのまま真昼のことを襲う。まるで横から叩きつけてくる豪雨のようにして真昼の肉体に突撃する。

 今度は、真昼は、地面に座っているその姿勢さえ保てなくなった。傍若無人なそのストームに押し倒されて、大地の上に仰向けにひっくり返ってしまったのだ。触れることは出来るが抑えることは出来ない。受容することは出来るが拒否することは出来ない。そのような、水、が、真昼を襲う。

 全身、外側、内側、その全てを洗い流される。まるで、もう全てが終わってしまった後に施される洗礼のように。何もかもが手遅れになった後で、胎児のまま死んでいった子供に施される洗礼のように。真昼の細胞は、その一つ一つが水の中で溺れていく。

 いうまでもなく。

 これは、信仰の問題ではない。

 洗礼はそれ自体が問題なのだ。

 真昼はのたうち回る。抗い得ないものに抗おうとして。水を引き裂こうとして、水を叩き潰そうとして、水を引き剥がそうとして、両手を振り回し、無様に足をじたばたとさせる。喉を掻き毟り、口を塞ごうとする。けれども、水を防ぐことなど出来ることではない。だから、真昼は、やがて……諦めた。全身は弛緩して、大地の上に横たわったままになる。されるがまま、侵犯されるがままになる。嵐は、常に、過ぎ去るのを待つしかない。

 真昼の喉が、十分過ぎるほど潤った頃。あるいは、真昼の全身を汚していたアラジフ・ヘリクシスの血液が綺麗さっぱり洗い流された頃。ようやく、その嵐は終わった。始まった時と同じような唐突さによって、真昼の内側を洗っていた奔流も、真昼の外側を洗っていた暴風雨も、停止した。

 後には。

 大地の上に転がって。

 ぜえぜえと。

 はあはあと。

 必要もないのに。

 荒い息をついている。

 放り棄てられたような。

 真昼だけが、残される。

 「どーお、真昼ちゃん」。一歩、二歩、真昼の方に歩いてきたデニーが真昼の顔を覗き込むようにして見下ろしながら言った。腰の辺りから体を曲げて、ひらひらと揺らめくフードの奥でくすくすと笑っている。「お水は、満足、しましたかー?」と続ける。悪意も邪心も欠片も感じさせない声で。

 びしょびしょに全身を濡らしたままの真昼。丁字シャツとジーンズとはべっちゃりと皮膚に貼り付いていて、スニーカーの中はひたひたと水で浸されている。顔に纏わりついた髪の毛。それから、口の中に、消え残っている、生水の味。

 立ち上がることもせず。

 横たわったまま。

 真昼は、答える。

「満足するかよ、こんなクソ不味い水で。」


 小さかった頃は平気で虫に触ることが出来た。カブトムシやクワガタムシや、甲虫のたぐいはもちろんとして。カマキリにバッタに、蝶々、蜻蛉、蝉。ゴキブリだの蛾だの、そういった虫も触ることが出来たし。芋虫も毛虫も全然大丈夫だった。虫という生き物全般に対して、不快感を抱くことがなかったのだ。

 それが、いつから駄目になったのだろう。覚えていないが、いつの間にか虫という生き物に触ることが出来なくなった。ゴキブリなど、見かければすぐに叩き殺してしまうし。甲虫類のような子供には人気がある虫でさえなんとなく触りたくない。いつから、あたしは、これほどまでに虫のことを不快に思うようになってしまったのだろう。

 いや、この感覚は不快という感覚よりもずっとずっと深いものであるような気がする。不快というのは、具体的な被害があって、それゆえに遠ざけておきたいというものだが。虫に対するこれは、この感覚は、そこまで具体的なものではない。ぼんやりとした嫌悪感……というよりも、これは、恐怖感に近い。あたしは虫を恐れているのだ。

 よくよく考えてみる。この感覚を解剖してみる。すると、その生理的な恐怖感が輪郭を持って浮かび上がってくる。まず、先ほども触れたことだが、これは具体的な被害に対する恐怖ではない。例えば、毛虫であれば、その毒針毛に触れれば危険かもしれない。あるいは、蝶々だの蛾だのに触れて鱗粉にかぶれるということもあるだろう。だが、蝉に害があるか? 蜻蛉に害があるか? それでも、このような虫に対しても、薄められた麻酔のような嫌悪感が常に付き纏う。

 そうではない、そうではないのだ。そうではなく、これは……絶対的な他者に対する不安なのだ。全く異なった生物学的構造を持つものに対する不安。人間という種とは相容れない生き物に対する不安。言葉が通じない、表情が通じない。共通認識を持ち得ず、意思疎通することが出来ず、それどころか認識だとか意思だとか、そういったものがあるのかさえ分からない。こちら側が向こう側のことを理解することが出来ず、向こう側もこちら側のことを理解しないということに対する恐怖なのだ。

 人間が泣き叫んで慈悲を乞うたところで、虫はその慈悲の意味を理解出来ない。というか、そもそも理解という構造自体がその中枢神経系に備わっていない。虫は、そう動くだけだ。虫は中枢神経系がそのようにそうである通りに動くだけだ。虫には感情も情動も情緒もない。虫は、何かを憐れむことはない。虫は、何かを愛することはない。子供を育てる虫がいるが、その虫は子供を愛しているから子供を育てているわけではなく、子供を育てるということが子供を育てるということであるからこそ子供を育てるということをするのだ。

 あるいは、虫は恐怖を感じることさえない。例えば死について。虫にとって、死ぬという現象は死ぬという現象それ自体としてそこに存在しているだけだ。虫は、死を理解することも知識することもなくただただ死んでいく。虫には死は重要ではない。苦しみも痛みも、なんらの精神的重量を持つことがない。なぜなら、虫は、ただそれを生きているだけだからだ。それゆえに、いくら人間が虫のことを恐怖によって統御しようとしても。それは完全に不可能なことだ。虫は支配するべき内容を何ものも持たないがゆえに支配不可能である。

 だから、あたしは虫に対して恐怖を感じるのだ。虫という生き物にはなんらの偶然が介在することもない。虫は何も感じない、虫は何も選ばない。虫が、もしもあたしの頭蓋骨を開いて脳味噌を食うということをその通りにその通りであるところの虫であるならば。その虫は、あたしがどんなに悲鳴を上げようと、あたしがどんなに罵倒しようと、まるで意に介さないだろう。そもそも介するための意がないのだから。そして、あたしは脳味噌を食い尽くされて死んでいくのだ。

 大人になっても虫に対して嫌悪感を抱いていない人間は、どうもこの辺りのことを決定的に勘違いしているようだ。勘違いというか、現実を自分の都合のいいように捻じ曲げている。虫を擬人化して、あたかも人間のような感情がある生き物であるかのように見ているのだ。例え、相手が人食いの虫であっても。誠心誠意、気持ちを込めてお願いすれば見逃してくれるとでも思っているのである。だが、現実にはそんなことはあり得ない。虫には気持ちがないのだから。

 虫には意志の力が通用しない。虫には信念の力が通用しない。虫に対しては「受動的な抵抗」などなんの意味もない。虫は正義を知らないし虫は権利を知らないし虫は良心を知らないし虫は責任を知らない。虫は気高さを理解出来ない。人間的能力の美徳など虫には関係のないことであるし、虫にとってはよく生きることの偉大さなどなんの価値もない。感性を持たない虫にとって芸術など意味をなさないし、いうまでもなく、「自らの進む道」を「自らの手で掴み取った」ということにもなんらの崇高さも感じない。虫にとっては、ただそこにある現実だけが現実なのだ。

 虫には潜勢力がない。

 虫は。

 主のgloriaを。

 霊のskotosを。

 知らないのだから。

 虫は現勢力であり続ける。

 それが人間を恐怖させる。

 あたしは。

 子供の頃。

 それを理解していなかった。

 愚かな。

 愚かな。

 あたし。

 でも。

 今のあたしは。

 そのこと、を。

 完全に理解している。

「わーっ、見えてきた見えてきた!」

 いかにも能天気なデニーの声によって、真昼は思考の沈静から引き摺り戻された。まるで他愛もない夢を見ていたのにいきなり叩き起こされたみたいだった。

 なんだか、すごくぼんやりとしていた。目を開いていても何も見ておらず、耳を開いていても何も聞いていないような状態で。何かを……考えていた気がする……でも、何を考えていたのかということは、思い出せない夢を思い出せないように思い出せない。何か、虫に関することだった気がする。それから、たぶん、重要なこと。とてもとても重要なこと。

 まあ、でも、いいか。あたしにとっての重要なことなんて、どうせあたしにとっては重要ではない。それよりも、今、デニーが何かを言っている。首筋、柔らかくあたしの方を振り向いて。フードの奥、きらきらした可愛らしい笑顔で。「真昼ちゃん、見えてきたよー!」。

 デニーと真昼とはアビサル・ガルーダの上にいた。例によって例のごとく、何者かに捧げようとしている瞬間みたいにして頭上に差し上げられた両手。右手のひらと左手のひらと、二つ合わせてお椀のようにした、その上に。デニーは、指先の方、先端の先端、そこから下の方に向かって身を乗り出すようにして景色を見ていた。真昼は、手のひらの真ん中辺りで胡坐をかいて座っていた。左肘を左腿の、右肘を右腿の、上に乗せて。両手の指を組み合わせて、だらしなく背を丸めて。どこかを見るとも見ないともなくただただ風を感じていた。アビサル・ガルーダの巨体によって引き裂かれた大気が生み出す風を。

 真昼が水浸しの水死体にされた、その後で。デニーと真昼とはあの隠れ家を後にしていた。アビサル・ガルーダに乗って(ちなみにあの隠れ家から上空にいるアビサル・ガルーダの手のひらまでの移動はデニーによるデウスステップによってなされたのであったが)、遠く遠くひたすら沙漠を飛行してきていた。時速は二百エレフキュビト程度。どこからどこに向かっているのかということは、何もない沙漠のことであるからして、真昼には確信が持てなかったが。とはいえ、どうも……ヤクトゥーブから購入した例の地図の記憶と照らし合わせてみれば、世界樹があるという場所に真っ直ぐ向かっているようだった。

 そのような状況下で。

 デニーが真昼に。

 声を掛けてきた。

 と。

 いうことですね。

 真面目に時間を図っていたわけではないのではっきりしたことはいえないのだが、それほど経っているわけではないはずだ。恐らくは数十分。長くて一時間といったところだろう。

 いつの間にかアビサル・ガルーダの速度が遅くなっていた。せいぜいが一般道路を走るファミリーカーといった程度の速度だ。そして、その分、周囲の光景をよく見ることが出来た。

 今まで、真昼は、景色なんてものは全然見ていなかった。いや、だってですよ、ここ沙漠ですからね。岩、どーん! 砂、どーん! 以上、お終い! って感じの景色ですから。そんなものを見てもなんも面白くないわけですよ。だから、自分の内的世界にゆらりゆらりと沈み込んでいたわけだ。

 ただ、今、ふっと気が付いてみると。状況はまるで変化してしまっていた。何かが……全く……変わってしまっていたのだ。先ほどまで真昼がいたあの沙漠と、この沙漠とは、全く異なったものであった。

 まず、色が異なっていた。先ほどまでの色は、ブラウン、褐色をベースとしていた。赤く焼け焦げたような茶色、朽ち果てて薄汚れた骨のような灰色。それに、ざらざらに死に絶えたような黄土色。生命というものが枯渇して、そのあとに残されたところの、干乾びたような世界。何もかもが失われたような、抜け殻の世界。そんな色をしていた。

 けれども、今、真昼が見ているものは。

 光り輝くばかりの、生命の振動だった。

 勘違いしないで欲しい。そこに、生き物が溢れていたといいたいわけではない。そこは相も変わらず沙漠であった。動くものどころか植物の姿さえ見えないような荒れ地が、どこまでもどこまでも広がっている。それでもその景色は生命力そのものの象徴であるかのようだった。

 例えば、それが生命を感じさせるのは……太陽が生命を感じさせるのと、全く同じような意味だ。沙漠の中でも、最も不毛であるはずの形態。それは砂沙漠であった。砂、砂、砂。幾重にも幾重にも堆積した、結び付き合うこともない無数の個別としての砂だけが広がっている。

 そして、その砂が、光り輝いているのだ。光、というか、限りない生命力の波動を放っている。一粒一粒の砂が、完全な純白、真っ白な色をしている。そして、それが数え切れないほど集まっている。白い、白い、白銀、呼吸出来なくなりそうな。畏れの感覚さえ抱かせるような。

 ただ。

 その白銀は。

 最も目を引く。

 光景ではない。

 その沙漠には、もっともっと重要なものがあった。重要というのは、本当に、文字通りの意味で重要なのだ。白銀の砂は、「それ」がなければ、これほどのエネルギーによって輝いているわけではないはずだった。なぜというに、白銀の砂は、「それ」のエネルギーを反射して輝いているだけであったからだ。本当に、生命であるのは、「それ」であった。そう、それは本当に生命であった。つまり、ライフ・エクエイションであった。

 ああ、そう、間違いない。真昼はそれを知っていた。真昼は、よくよくそれを知っていた。実際に見て、その波動を全身で感じて。アヴマンダラ製錬所、ティンガー・ルームと呼ばれていたあの空間。ASKによって捕獲されたカーマデーヌ、乳房から、無理やり、奪い取られていたもの。

 存在でもなく、概念でもなく、生命そのもののエネルギー。無限の色彩を帯びている、白夜の心臓。遍く世界の全ての生き物、を、ミキサーの中に突っ込んで、引き潰して、磨り潰して、余計なものを濾過して。その後に残された残りのもののような液体。生命の海。まさに、生命の、海。

 ライフ・エクエイションが、沙漠のそこここで、水溜まりのようになって溜まっていたのだ。水溜まりというには少し大き過ぎる気がするが、ただ、湖だとかなんだとかいうには不確定過ぎる。砂が流動し、沙漠自体が姿を変えてしまえば、それに伴って、これらの水溜まりも姿を変えてしまうだろう。砂丘と砂丘との間に、数百ダブルキュビトの長さにわたって広がっている。幅は位置によって変わってくるが十数ダブルキュビトくらい。不格好な形、恐らくは自然に作り出されたのだろう。幾つも、幾つも、そのような水溜まりが出来ていた。

 陳腐な表現になるが。

 神秘的、としか。

 いいようがない。

 光景。

 真昼は……胡坐をほどくと。右膝を立てて、その上に右の手のひらをついて。左の手のひらは地面(というかアビサル・ガルーダの手のひらの上)について、いかにも粗野な態度で立ち上がった。それから一歩一歩歩いて指先の方に向かっていく。もっと景色をよく見るためだ。手のひらの真ん真ん中でも見えないことはないのだが、やっぱり見にくい。

 一番先端まで辿り着く。デニーの、すぐ右側のところまでやってくる。それから、その場所に左の膝をついて、地上の光景を見渡してみる。聖なる聖なる白い沙漠。

 「これってさ」「ほえほえ?」「あれだよね」「あれって?」「ASKの、あの、ティンガー・ルームっていう場所で……」「あー! うんうん、そーだよ。スナイシャク特異点から引き出されるライフ・エクエイション。ASKが、カーマデーヌから、ぎゅぎゅーってしてたのと同じやつだね」。

 なんでこんなところにこんなものが? そう問い掛ける必要はない。デニーが、勝手に、きゃらきゃらと可愛らしい小鳥のような声で説明してくれるからだ。「これはねーえ、世界樹のとってもとってもとーっても近いところだけで見られる現象なんだよ。世界樹からてろてろって滴り落ちたライフ・エクエイションが、世界の底に沈みこんで一つの流れになるの。そーゆー流れは、すぐにジュノスの方向に消えていっちゃうんだけど。世界樹の近くではね、こーやって、ところどころで表面のところに染み出てくるんだよ」。それから、いきなり「あっ、違う違うっ!」とかなんとか言いながら、ふるふると首を左右に振って。ぴーんと伸ばした人差指で、アビサル・ガルーダの進行方向を真っ直ぐに指差しながら続ける「そーじゃなくって! あっちだよあっち、あっちを見て!」。

 いうまでもなく。

 真昼が。

 それに。

 気が付いて。

 いなかった。

 わけがない。

 それを見逃すはずがない。確かに、それはここから数エレフキュビトは離れたところにあっただろう。けれども、ここは遮るものの何もない砂漠なのであって。そして、それ以前の話として、それは巨大であった。見逃すことが出来ないほどに。

 それは……さりとて、それをなんと表現すればいいのだろうか。真昼の頭蓋骨の内側には、それをたった一つの単語で表現するための、そのたった一つの単語が、まるで鮮烈な色彩を撒き散らす破滅のように炸裂した。iconostasis。偶像、の、停滞。

 樹だった。一本の樹、生命の光によって形作られた樹。地上から天空まで。空の空の空の、その先の、宇宙よりも遥かに高いところ。生命というものの内側の、最も高いところにまで到達しそうな高みまで伸びているであろう樹。

 ただ、真っ直ぐ真っ直ぐに伸びている光の柱。今まで、アーガミパータにおける、様々な、大きな大きなもの、を、見てきた、真昼でさえも、その柱のこと、絶対的なまでに、究極的なまでに、巨大だと思ってしまうほど大きな柱。それは、たぶん、形而下における大きさというものを超越してしまっていたのだ。それどころか、それは形而上の概念でさえ捉え切ることの出来ないものであった。それは、要するに生命の大きさであったのだ。あらゆる生き物の、生命のエネルギーの、その総和。それが流出している。それが巨大さとして提示されているのだ。

 ただ、その威力が……崇拝するべき偶像におけるア・プリオリな畏れの感覚が、真昼の眼前で停滞していた。どういうことかといえば、なんらかの障壁によって覆い隠されていたのだ。恐らくは、一種の結界だろう。生き物が持つあらゆる感覚、五感だけではなく、統一力や神力や、そういったものを感じる感覚。あるいは生き物が持つ最も原始的な感覚であるところの生命そのものを感じる感覚さえも遮断しうるところの、絶対的な結界。そのような障壁によって、樹は、覆い隠されていたのである。

 ただ、真昼が見ているこの光景に関しての真の畏怖、この瞬間にもその御許に身を投げ出して拝跪してしまいかねないような感覚を抱かせる凄絶さの理由は……そのような結界によって覆い隠されているにも拘わらず、その樹が、なおも、見えているということだ。

 真昼は理解出来た。結界が、どれほどに、強力なものであるのかということが。今まで見てきたいかなる結界、ダコイティの森を覆い隠していた結界も、タンディー・チャッタンの砂嵐の結界も、あるいは、デニーが作った、あの、アビサル・ガルーダの突風を防いだ結界さえも。この結界に比べれば破れやすいオブラートのようなものに過ぎないだろう。

 それでも、その樹は、見えているのだ。恐らくは神々の力さえも、神々の感覚さえも、塞いでしまうであろう結界。その結界を突き破って、その樹のエネルギーは、この世界の最後の日に地のおもてにある全てのものを洗い流してしまう洪水であるかのようにして溢れ出している。

 それが。

 真昼の。

 視線の先に。

 あたかも。

 一つの。

 美しい。

 絵画の。

 ように。

「あれが生命の樹だよーっ!」

 何がそんなに楽しいのか分からないが、とにかくぴこ抜けぽこ抜けに楽しそうに、ばばーんと両手を上げながら。デニーは、真昼に、そう言った。

 「なんかさ」「ほえ?」「薄らぼけてない、あれ? ぼんやりとしてるっていうか」「あははー、そりゃーそーだよー。外側から見えないようにミヒルル・メルフィスが結界を張ってるんだもん。ミヒルル・メルフィスは一人一人が神的ゼディウス形而上体とおんなじくらいの力を持ってるし、そんなミヒルル・メルフィスがみんなみんなで共同幻想をレイトゥールギア化してるんだから、ふつーだったらぜーんぜん見えないはずだよ。あのねー、真昼ちゃん! それでも見えてるってゆーのは、生命の樹からぼわわーっぶわわーってなってる生命力がそれだけすっごいからなんだよ! すっごいすっごいすっごーいの!」。真昼は、そんなデニーの言葉に、大した感動もなく「ふーん」と答える。

 「ヤクトゥーブちゃんが言ってたグリュプスの子は、たぶん、こーやって結界の外側から見たんだと思うよ。どれくらい近付いたのかーってことは分かんないけど、結界の中には、結界とおんなじくらいすっごいすっごいすっごーい力を持ってないと入れないはずだからね。それに、結界の中に入ったら、たぶん、結界の外側には帰ってこられなかったと思うし」。

 「とにかく」真昼は、アビサル・ガルーダの指先に立ったまま、生命の樹に視線を向けたまま、デニーに言う「もう、すぐ、着くってことだな」。そんな真昼の言葉に対して、デニーは、右の人差指を、右の頬に、つんっと当てて。右側にほんの僅かに首を傾げながら、こう答える。

「んー、それはどーかなあ。」

「は?」

「もうちょーっとだけ、時間がかかると思うよ。」

「それ、どういうことだよ。」

「それはねーえ。」

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