第三部パラダイス #18
特にどこへ行こうというアレもなく……ただ、あまり、デニーがいる場所から離れないようにして。そういえば、あそこにあるあの鍋、ガルシェルを煮込んでいるあの鍋以外にも。他にも幾つかの鍋が、そこここで火にかけられている。
その鍋のうちの一つに近寄っていく。確かに大きい鍋であるが、ガルシェルのあの鍋よりは小さかった。真昼の胸よりもちょっと下くらいまでの大きさで、踏み台がなくても十分に中を覗き込むことが出来る。
金属製の不格好な鍋、周囲にはほとんど消えかかったような魔学式が刻まれている。直接火の中に置かれているのだが、そのように周囲で燃えている火が、魔学式に向かって吸い込まれていくみたいに見える。しかも、それだけではなく、その魔学式に触れた炎は、より一層その勢いを増して燃え盛るのだ。恐らく炎を消えないように保っておく元素系の魔学式なのだろうと真昼は思った。まあ、実際には、魔学を八種類と神学と詩学とに分けるやり方はリュケイオンオリジナルのものなので、そういう風にはっきりと種類分けされた魔法であるかどうかは疑問だが。
さて、その中に入っている物だが……やはり煮込み料理だった。ただ、とはいえ、ヒクイジシを煮た物ではなかったが。最初、それがなんなのか、真昼にはよく分からなかったが。すぐにぴんときた。これは駱駝だ、駱駝の頭だ。
それだけではない、明らかに人間の手、親指から中指の辺りまでをぶった切った部分らしき物も浮かんでいる。たぶん、これは、はぐれヴェケボサンが襲った隊商の中でも、召使い辺りに位していた人間なのだろう。そして、こちらの駱駝は、荷物運びをしていた駱駝だ。つまり、隊商を構成していたメンバーのうち、身代金を請求出来なさそうなメンバーは、殺されて料理されてしまったということである。
あらまあこれは、なんとエコロジーに優しいことか。一度襲った隊商には捨てるところがないってわけね。真昼は、なんとなく面白くなってくすりと笑ってしまった。
しかも、そのすぐ近くにある焚火。これには鍋のような物はかけられていなかったのだが、その代わりに、周囲をぐるりと取り巻くようにして、地面のところに何かが突き刺さっていた。非常に長い棒のような物で、五つの節に分かれている。また、先端は三つに分かれていて……要するにメルフィスの腕だ。
それに、槍のような武器の先にメルフィスの頭を突き刺した物、幾つかあるのだが、それらを火で炙ってもいる。これらのメルフィスは、たぶん、隊商の護衛をしていた蛮族であろう。メルフィスの甲殻はかなり固いはずだが、ヴェケボサンならばがりがりと噛み砕いて食っちまってもおかしいところはない。
真昼は、どんぶりの中の肉塊をちょいちょいと摘まみながら。メルフィスってどういう味がするんだろうと思った。蝗とかは食べたことがあるけれど、あの感じなのだろうか。ただ、真昼が食べた蝗は甘辛く煮付けてあったので、実際の蝗がどういう味がするものなのかはよく分からないけど。
別に食べてみても良かったのだが。
生憎と、両手ともに塞がっていた。
なので。
そのまま。
また。
歩き始める。
ふらりふらふらと当てどもなく彷徨う。あたかも、都会の片隅、ビルディングとビルディングとの合間で方角さえも忘れてしまった秋風のように。
こちらに落ちている、𨪷らしき金属で出来た鞭みたいな武器に視線を落とす。ひどく長くて、鱗に似た形によって幾つもの節に分かれている。そして、その一枚一枚の鱗に文字のようなものが刻まれている。これはヴェケボサンが使用する武器のうちの一つで、魔学的なエネルギーを纏わせて相手を打ち据える物だ。
あるいは、あちらに落ちている、奇妙にも鋏に似ている道具。二つのナイフを向かい合わせに組み合わせて、しなやかな金属で繋いだような形をしている。これは、まあ、確かに鋏であって、毛刈りの鋏だ。ヴェケボサンが、皮膚病になったり、蚤だの虱だのが付いたり、そういう部分の毛を切る時に使うのである。
そんな風に、特に興味もないが、それなりに目新しさがある諸々の物品を見て回りながら。真昼は、どんぶりに手を突っ込んでは、肉塊を掬い上げて、がじがじと貪り食っていた。自分が人間であるのか、それとも人間に似た空っぽの入れ物なのかも分からなくなってしまいそうなほどに何も考えず、ただただぼけーっと歩き回っている真昼は……いつの間にか、洞窟のところまで来ていた。断崖の麓、例の抉れめぐれの部分だ。
広々とした空間……よくもまあこれだけの大きさの穴が開いているのにも拘わらずこの断崖は崩れてしまわないものだと、真昼はしみじみと感心してしまった。内部は外側よりも随分と雑然としている。奥の方には、というのは例の檻が置かれている辺りということだが、色々なものが詰め込まれていてちょうど倉庫のようになっていた。
真昼は、そちらの方に歩いていってみることにした。外側からだと薄暗くてよく見えなかったのだが、この距離から見てみると……なんだか妙に大きい袋が大量に積み重ねられているのが分かった。十や二十じゃきかない、百を超える数の袋。ひどく頑丈な麻の袋で、ちょうどヤクトゥーブの店に詰め込まれていた物と同じタイプのようだ。
ところどころが破れていて、そこから何かが転がり落ちている……ああ、これは魔石だ。真昼には、その魔石がどのような種類のものかは分からないが。まるで月の光を吸い取って、それをそのまま吐き出しているかのように艶めかしく輝いている。間違いなく、貴重な魔石であるはずだ。
つまり、これは、魔石の売買のためにティールタ・カシュラムに向かうところだった隊商の、その荷物だったというわけだ。後で、どこかのルートを使って売り捌くために、一時的に保管しているということだろう。
真昼は、その袋の山に更に近寄ってみる。指先を近付けて、袋の一つ一つに触れてみる。もちろん……もちろん、隊商は、一種類の商品だけを運ぶわけではない。種々多様な商品を運ぶのである。麻袋の、糸と糸とから、たらたらと滴り落ちる光で識別出来る、その魔石の種類だけで十数種類はあるだろう。
また、こちらの袋には奇妙な物が入っていた。なんだか柔らかくて、魔石じゃないな、なんだろうな、と思った真昼が、ぴんと伸ばした人差指の爪の先で、すうっと麻布を切り裂いて。中指と親指とで中に入っている物を引き摺り出してみると……それは、赤い繊維状の何かを集めて作った、小指の先ほどの大きさの球体だった。
どうも、その繊維は生きているらしく。真昼が一つ摘まみ上げると、少しだけほどけて、ほどけた糸状の部分がゆらゆらと踊った。これは、どうも……レーグートに似ている。あるいは、アカデといってもいいが。そのたぐいの菌類であるように見えた。そして、そのような真昼の推測は当たっていて、それは確かにその種の菌類であった。共振菌糸と呼ばれるたぐいの特殊な菌糸である。
一般的に、ごくごく単純化していうと。ナシマホウ界におけるアフォーゴモンのネットワークというものは、電波のネットワークであるといえるだろう。あちらから送信した電波をこちらで受け取る、それが幾つも幾つも網の目のように織り成されることによって出来上がるわけだ。特定のハード・タイプのサーバーを持つ場合だとか、あるいはピアトゥピアの場合もあるが、とにかく電波に変換された情報をやり取りしているわけである。
それと同じようなネットワークが、実はマホウ界にも存在している。それは念波によるネットワークである。電波を飛ばして網目を作るのと同じように、それぞれの生命体が発生させるところの、観念と観念とを繋ぎ合わせて、一つの巨大な共同幻想としての空間を作り上げるということだ。
そのような観念空間、高度な精神力を持つものであれば、特にインターフェースだのなんだのの必要もなくアクセスすることが出来るのだが。人間のような下等な生命体は、ナシマホウ界でいうところのスマート・デバイスだとかパーソナル・コンピューターだとかの、そういったたぐいの接続機器が必要になってくる。
それを作るために必要なのがこの共振菌糸なのだ。レーグートなどの同種の菌類と同じように、念波によって観念のやり取りをすることが出来るこの菌糸は、いわば送受信機のような役割を果たす。その送受信機を使って、観念空間に情報を送ったり逆に引き出したりする装置を作ることが出来るというわけだ。
読者の皆さんも、マホウ界に旅行などで行かれた時に、なんか携帯電話みたいな物を持ってるホモ・マギクスがいるなーと思われたら。それは、ほぼ間違いなくそうやって作られたイデア・インターフェースなので、そう思っておいてくださいね。
まあ、この共振菌糸という物以外にも様々な情報処理用の菌糸とかもあって。ナシマホウ界でいうところの回路みたいな物だと考えておいて頂けると分かりやすいかもしれないですね。さて、そのような商品の他にも、織物だとか金属だとか乾燥果実だとか、様々な物が袋詰めにされてここに積み重ねられているようだった。
とはいえ。
そういった、商品にも。
真昼は興味がなかった。
が。
だって、ねえ。なんというか……確かに、どれもこれも高価な商品である。これだけ山積みになった袋、全部持って帰れば間違いなく一財産築くことが出来るだろう。そして、今、真昼が、その全てを自分の物としたところで。それに文句を付ける何者かは、もう一人も残っていないはずなのだ。
こんな量持って帰れるわけがないではないかという指摘は全く無意味だ。別に真昼が持って帰る必要はない、デニーに持って帰らせればいいだけの話である。真昼が、ちょっと頼めば。たぶん、めちゃくちゃ文句を言うだろうし、やだやだと駄々をこねたりもするだろう。ただ、これを持って帰らないというのならば家に帰り着いた翌日に自殺してやるだのなんだの、適当なことを言って脅せば。恐らくは、嫌々ながらも、持って帰るということを了承するだろう。この程度の荷物、オルタナティブ・ファクトに入れればなんということもなく持ち帰れるのだ。そちらの方が、わーわー真昼と口論するよりも、よっぽど簡単に物事を進められる。
ただ、それで何を手に入れられるというのだろうか。金? ああ、金ですか。まあ、そりゃ、手に入れられるでしょうがね。真昼はそもそも砂流原の一族の人間なのだ。兎の耳を握り締めて生まれてきた子供とはまさに真昼のことなのである。
金なんざ、真昼にとって、空気や水と同じような物なのだ。あって当然、なくなるわけがない。真昼は、金などというものに飽き飽きしていた。金はいくらあっても足りないというが、真昼のように、ほとんど無限に湧き出る金の泉、その源泉に生まれ育ってしまうと。これ以上金なんてあってもしょうがないと思うようになる。
だから。
真昼は。
ふいと、そこから離れて。
別のところに足を向ける。
洞窟の奥を、その壁に沿うようにして歩いていく……数歩歩いたところで、何かの匂いがしているということに気が付いた。今まで、この要塞で嗅いでいた匂い、そのどれとも違う匂いが。
なんというか、動物の匂いではない。動物の匂いにしては重々しさが足りないのだ。かといって植物的な涼やかさもないし、金属的な鋭角な感じもない。なんというか、ぬるまったい腐敗臭というか。ひどく濃密なのではあるが、ふわふわと浮かび上がるような穢らわしさがある。
それとともに空気の質感も変わっていった。まるで手のひらで触れられるかのような、ぐったりとした軟性の厚みを帯びてきたのだ。なんというか、こう、大袈裟にいえば、蛞蝓の内部を進んでいるような、クラゲの内部を進んでいるような、そんな感じ。べっとりと不快な空気。
と、足が、スニーカーが、何かを踏んだ。ぐちゃりという音をたてて潰れる泥濘のような感触があったのだ。足元に目を向けると、何か、水溜まりのようなものが広がっている。まるで濁り切ったかのように、黄色と橙色と、それにクリーム色とを混ぜたような色をした何か。足を上げてみる。ねばねばとした、どろりとした何かが、靴の底にべっとりとくっついて糸を引く。
この匂いは、この空気の感触は、足元のこの粘液が発生源であるようだった。ふうん、と思いながら視線を動かしていく。粘液は、洞窟の床のかなりの範囲にでろでろと広がっていたのだが。その広がっている先、というか、広がり始めている根源に向かって視覚によって辿っていくと……それがあった。
何か異様なものの死骸が、幾つも幾つも、折り重なり積み重なりして転がっていたのだ。それは、真昼が今まで見たことのないタイプの生き物の死骸だった。どう表現していいものか……二つの部分に分かれている。まずは、多関節の棒状の部分である。昆虫類の脚に似ているのだが、それにしては巨大過ぎた。一本一本が馬だの牛だのそれくらいの太さと長さとがあったのだ。正直な話、メルフィスの手足よりも大きいくらいだ。そして、もう一つは、布状の部分だ。まるで天鵞絨か何かのように(何かと天鵞絨の比喩使い過ぎでは?)、一面に柔らかい繊毛がびっしりと生えているのだが。随分と分厚い布が袋状になっていたもの、それが、どこかで限界点を迎えて、勢いよく破裂したその後の残骸。ちなみに、その布が袋状であった時の大きさとしては、直径三ダブルキュビトから四ダブルキュビト程度の球状であったのであろうことが推測された。
袋の部分から、大体、八本くらい、脚の部分が不格好に突き出している。そのような死骸が、五十か六十か、まとまって山になっていたのである。そして、その死骸の内側に、この粘液が含まれていたようだ。
一体、これは。
なんの死骸か。
真昼は、どんぶりの中の物を相変わらず口の中に運びながら。ちょっと考えてみる。肉塊を、それがこびりついている骨ごと噛み砕きながら、なんとなく思い当たる節があるような気がした。これと似た何かを、ごくごく近い過去に見たことがあるような気がしたのだが……ただ、どうも思い出せなかった。
別に、これらの累々たる死骸がなんという生き物の死骸なのかということ。分かろうが分かるまいが、真昼の今後の人生にさしたる違いは及ぼさないだろう。ただ、とはいえ、なんとなく気になった。なんとなく引っ掛かるのだ、確かに、どこかで、見たことがある生き物であるはずなのだ。
放っておくのも気持ち悪い。
とはいえ、これ以上考えても思い出せそうにない。
それでは、どうすればいいか。
簡単なことだ。
分かるやつに。
聞けばいい。
「デナム・フーツ!」
くるりと、柔らかく風に翻る一枚の紙切れみたいに振り返って。それから、馬鹿みたいに声を張り上げた。デニーは、相変わらず、あの岩石の上に座って。ぱくぱくと内臓の断片を食べたり、ぺろぺろと自分の指先についた血液を舐めたりしていたが。真昼の声、きゅんと顔を上げて振り向いた。
真昼は……気が付いてみれば、いつの間にか、随分と遠いところまで歩いて来ていたようだ。あの鍋があった場所、デニーがいる岩石のところまでは、たぶん百ダブルキュビト弱は離れているだろうと思われた。だからこそあんな大声を出したわけなのだが、なんにせよ、声は届いたようだった。
きゃるーんとした顔をして、可愛らしく首を傾げるデニー。どんぶりを持ったままで、岩石の上からぴょっこりーんと飛び降りた。それから……右の手のひら、ぴんと指先を広げるようにして開いたままで、上の方向に真っ直ぐ伸ばした。
何をするのかと思って真昼が見ていると、左手に持っていたどんぶりを、ぱんっと跳ね上げるようにして放り投げる。どうやら中の物はもう食べ終わっていたらしく、何かがこぼれることもなく……上に飛んでいったどんぶりは下に落ちてきて。そして、右手、ぴんとしている中指の上、すとんと乗った。
なんだかちょっと信じられないようなバランス感覚だった。指の上、あの一点に。どんぶりの、しかも縁が乗っかっているのだ。どういうことかといえば、どんぶりは底のところを下にして真っ直ぐに乗っているわけではなく。真横になった状態で、あの曲線部分を指の上に乗せているのだ。
それから……デニーは、左手の人差指の先でどんぶりを弾いて。すると、どんぶりは、独楽か何かのようにくるくると回転し始めた。そのまま、暫くの間、どんぶりを回していたのだけれど。その速度がだんだんと緩やかになってきた瞬間に、またもやどんぶりを上空に向かって弾き飛ばした。
一体あいつは何をやってんだ? 呼ばれたんだからさっさと歩いてこいよ、とかなんとか思って見ていた真昼であったが。そのようにして投げ上げられたどんぶり、つい目で追ってしまった。満天の星の方に向かって、緩やかな放物線を描きながら、ふわりと舞い上がるどんぶり。ピルエットを踊っているかのように回転しながら、その放物線の頂点に到達した時に。
ふっと。
消えた。
しかも、どんぶりだけではなかった。そのどんぶりを放り投げたデニーも。どんぶりが、その最も高いところに到達した瞬間に……まるで巫山戯ているみたいにして両腕を真横に伸ばして、右足の爪先を支点として、その場で、とんっと飛び跳ねて。その飛び跳ねた先で、月夜に踊る兎にも似た態度によって、たった一度、回転して……そして、その回転のまま、まるで最初からそこにはいなかったかのようにして消えてしまったのだ。
「は?」と思わず声を出してしまった真昼。あいつ、なんだよ、どこ行きやがった? とかなんとか思いながら、辺りをきょろきょろと見回していると。すぐ背後で、とんっと、地面の上に何かが落ちた音がした。ふっと、振り返ると、そこにデニーがいて、にーっとした笑顔で笑っていた。「なあに、真昼ちゃん」「デニーちゃんのこと、呼んだ?」僅か一ダブルキュビトほどの距離。
いうまでもないことであろうが、先ほどの音はデニーが着地した音であった。トウを立てたままで、優雅に、瀟洒に、デニーのローファーが大地に触れた時の音。要するに……回転しながら飛び上がったデニーの、そのジャンプは、御神渡りだったということだ。あちらからこちらまで一瞬で飛んできたのだ。
普通であれば、この程度の距離を御神渡りするなんてこと、あり得ないようなことだ。以前にも書いたことであるが、御神渡りは、魔力の消耗が非常に激しい動作なのであって。こんな短距離をいちいち飛んでいたら身が持たない。ただ……デニーはデニーだ。この程度の魔力の消耗など大したことではない。
ちなみに、デニーと一緒に消えたどんぶりであるが、デニーと一緒に現れることはなかった。このどんぶりが一体どこに行ってしまったかということについて、これから先真昼が知ることは決してないし、また読者の皆さんにもそのことが明かされることはないだろう。こういうどうでもいい秘密は秘密のままにしておく方がいいのだ……人生というものは解けない謎が多ければ多いほど充実していくものである。
真昼は。
忌々しげに舌打ちをしながら。
デニーに。
こう言う。
「驚かせんじゃねーよ、馬鹿。」
「ほえ? 驚かせるってどーゆーこと?」
「だから、いきなり……いや、いい。」
もちろん、デニーは真昼を驚かせたつもりなどさらさらなかった。呼ばれたから来ただけだ、しかも、真昼ちゃんのために、一瞬でも早くそこに辿り着こうとして、わざわざ御神渡りまで使ったのである。喜ばれこそすれ、驚かれるとはどういうことか。
真昼は、それはもう深く深く溜め息をついて。それから、「あのさ」と、例によって例のごとく、いつものセリフを口にした。「あれ、何」「あれって?」「あの、死んでるやつ」「あー、ダイオウサバクダニだね」「ダイオウサバクダニ?」「そーそー、ダイオウサバクダニの死体だよー」。
読者の皆さんは覚えていらっしゃいますよね? ダイオウサバクダニ、ティールタ・カシュラムの説明の時に一瞬だけ触れたが、サバクダニの大きいやつである。「ダイオウサバクダニっていうのはねーえ、えーと……ダニだねっ!」「そりゃあそうだろうな」「んー、ダニってさーあ、真昼ちゃんが知ってるよーな、小さい小さいダニのことね。そーゆーダニって、ちゅっちゅって血を吸うと、体がまんまるにぷくーって膨れるでしょ? 血をさーあ、いっぱいいっぱいお体の中に溜めておくじゃないですかー。その感じっ!」「いや、何がだよ」「だーかーらー、ダイオウサバクダニはね、そういう感じで、お体の中に栄養を溜めておくことが出来るの! こーゆー、沙漠っていうか、荒野っていうか、そーゆーところって、そんなにいつでも栄養が手に入るってわけじゃないじゃないですかー。だから、ダイオウサバクダニに栄養をたーっぷり溜めておいて、それで、もしもの時の非常食にするんだよねー」「つまり、これ、はぐれヴェケボサンの非常食だったってこと?」「いっえーす! そーゆーことだよ真昼ちゃん! あとねーえ、ちょーっとだけ、形相子だとかをいじくって、栄養じゃなくてお水を溜められるようにしたタイプのダイオウサバクダニもいるんだけど。そーやって、お水を溜めておく役割もあったんだよー」。
真昼は、「ふぅん」と言うと。改めて死骸の山に視線を向けた。なるほどなるほど、どこかで見たことがあると思ったが、あの顔である。破裂した布の先についているあの顔.二本の触肢、挟まれた口器。まるで表情のない、どこに目があるのかさえよく分からない前頭部。ティールタ・カシュラムで見た、猿ほどの大きさがあるダニのそれにそっくりだったのだ。
分かって。
ようやく。
すっきりした。
すっきりした途端、急速に関心がなくなってしまった。もう、全部全部どうでもよくなってしまった。目の前にあるこれは、はっきりいって、ダニが死んでるだけのことである。だからどうしたという話だ。
ところで、ほら、あれ、そういう種類のおもちゃあるじゃん。なんか、猿でもなんでもいいけど、そういう動物が器持っててさ、その器の中に、延々と手を突っ込んだり手を引っ込めたりして、その動物が、何かを食べ続けてるみたいに見えるおもちゃ。あの感じで、ただただ無感情に、全自動食べ食べマシーンみたいにして、ガルシェルを食べていた真昼であったが。また、その器の中に手を入れてみると……もう、一つの肉塊も残っていなかった。いつの間にか食べ終わっていたのだ。
器の中、入れた手。二度、三度、ぐちゃぐちゃと掻き混ぜるみたいにして動かして。真昼はようやくそのことに気が付いた。ダイオウサバクダニの死骸の山から目を離して、器の中に視線を落として。それから、また、液体を掬ったり落としたりしてみる。やっぱり、肉塊は一つも残っていなかった。残されているのは液体だけ。だから、真昼は、どんぶりに口をつけて、その液体を一気に飲み干した。ごくごくと音を立てて飲み込む、その液体は……喉の奥に向かって、ずるずると引き摺るみたいにして落ち込んでいくその液体は……なんとなく舌の上にべたべたと残る、ただただ血の味しかしない、粘性の液体であった。
飲み干した後で。
手に持ったどんぶり。
ちらと、一度、横目で眺めてから。
ぶんっと、そこら辺に放り捨てる。
どんぶりは。
ぶーんと吹っ飛んでいって。
洞窟の端っこ。
がらーん!
からん。
からん。
と。
音を立てて。
落下する。
「それで。」
「それで?」
「どうすんだよ、これから。」
いやいやいや! ぶん投げるなよ、どんぶりを! そりゃあ、中の物も食べ終わって、そこそこお腹いっぱいになったんなら、どんぶりはもう使わないし持ってても邪魔だろうけどね? でもですよ、普通はですよ、そんな乱暴にぶん投げたりはしないの! シビライゼーションされたシビリアンの方々はですよ、そっと、そこら辺に、置いておくとか、そういう奥ゆかしい態度をとるもんなの! っていうかさ、真昼ちゃん、さっきから挙措という挙措がめちゃくちゃ過ぎない? 野生のホモ・サピエンスかよ!
まあ、そのような野蛮と粗野とを剥き出しにした真昼ちゃんの行動なのでありましたが。デニーはというと、その程度のことを気にするようなことはなかった。ちらっと、真昼の方に、あざとらしい横眼を向けて。それから「どうするって、どーゆーこと?」と問い掛ける。
「だからさ、お前のいう準備ってやつは終わったんだろ?」「うん、終わったよー」「じゃあ、これから行くのか? 世界樹だかなんだか知らないけど、その場所に」。真昼ちゃんとしては、ガルシェルを二杯食べたことによってまあまあお腹がいっぱいになったらしかった。二杯でいっぱいとはこれいかにという感じだが(笑)、とにもかくにも、休憩は十分であって、次の行動に取り掛かる時がきたと考えているようだ。
ただ、デニーの方は。
そうでもないらしい。
「ええー? 行かないよー。」
「は? 行かないって……」
「真昼ちゃん、真昼ちゃん! ほら、周りを見て! もう、まーっくらでしょお? 夜だよ、夜。もう、お時間は、夜なんですよー。ということで、今日のデニーちゃんのお仕事はおしまいでーす。世界樹があるところに行くのはまた明日! 真昼ちゃん、もうお腹いっぱいなの? お夕飯はお終いでいいの? それじゃあねーえ、今日はねーえ、もう、おやすみなさーいってするの。」
言っていること。
意味は、分かる。
確かにその通りだ、デニーと真昼とが普通の人間であるのならば、デニーが言っていることは百パーセント理に適っている。今まさに終わろうとしている今日という日は……あまりにも、たくさんのことが起こり過ぎた。早朝のカリ・ユガとの会見。昼の少し前にはREV.Mの襲撃に遭い、昼から午後にかけてはティールタ・カシュラムの観光をした。そして、今は夜というわけなのだが、これだけの過密スケジュールの一日を過ごしたわけだ。普通の人間ならば、ばたんきゅーと倒れて、明日の昼ぐらいまで目覚めることなくぐーぐー眠ってしまってもおかしくない。
ただ。
一つ注意しなければいけない点があって。
デニーも真昼も普通の人間ではないのだ。
デニーは、まあ、デニーだし。それに、真昼の肉体は既に死んでいる。姿形はいかにも人間のように見えるが、人間らしい世界の法則に則って存在しているわけでは、全然ない。決して傷付くことのないその肉体は、どんなに過酷な一日を過ごしたところで、疲労の疲の字もないのである。
「あたしさ。」
「んー?」
「別に眠くないんだけど。」
これは実際その通りのことであった。真昼は、全然疲れていなかったし、全然眠くもなかった。非常にフラットなコンディションなのであって、今から寝ろといわれても寝られるような感じはない。それどころか、今まさにこの瞬間、この要塞にREV.Mが攻撃を仕掛けてきて。血で血を洗うような壮絶な戦闘を繰り広げなければいけないとしても、余裕で大丈夫なくらいだった。少なくとも、デニーが隣にいるのであれば、負ける気とかまるっきりしませんという感じ。
だが、デニーは、そのような真昼に対して「んもー、真昼ちゃんてば!」と言った。ぎゅーっと握った拳、手首を内側に曲げた、その手の甲の側を腰に当てて。ちょうど両手ともに「手を腰に当てる」感じの、あのポーズを取る。それから、真昼の方にちょっとだけ上半身を傾けて。いかにもぷんぷんしている感じ、「わがままはだめだぞっ!」と窘めるような口調で言う。
「わがままっつーか……」と言いかけた真昼に向けて、人差指をぴんと立てた右手、ぐっと突き出して。その言葉を遮った後で「明日は朝早くに起きなきゃいけないんだからねっ! もう寝ないとダメだよっ!」と続ける。
「少なくとも、フランちゃんが何かしてくる前にはアーガミパータからえすけーぷ!しておきたいからね。そーなると、明日の午前中には、真昼ちゃんを生き返らせなきゃいけないじゃないですかー。となるとですよー、やっぱり、お日様が出たらすぐおはよーってするくらいの気持ちでいないとね!」。
なんだか一方的に話を進めていくデニーに対して、なんとか言葉を挟もうとして真昼が口を開く。「いや、だからさ」「ふあ?」「別に、今日、寝る必要ないじゃん」「ええー、どーゆーこと?」「あたしのさ、この体って、これ以上傷付いたりなんだりしないようになってるわけだろ。じゃあ、寝ても寝なくても大して違いはないんじゃねえの? それならさ、今日、寝ないで、そのまま世界樹ってとこ行きゃいいじゃん。そうすれば、その世界樹ってとこで何をすんのか知らないけど、夜の間には全部終わらせられるんじゃねえの?」。
そこまで言うと、真昼は、少しだけ何かを考えてからこう付け加える「っていうか……たぶんだけどさ、今まで聞いた話からすると、世界樹の周りにはミヒルル・メルフィスっていう種族が棲み着いてんだろ? だとすれば、その世界樹を使ってあたしを生き返らせるには……あたしを生き返らせるってのもなんか変な言い方だけど……その連中をさ、倒すのか裏をかいて忍び込むのか知らないけど、なんとかしなきゃいけないわけじゃん。それなら、明日になるのを待つよりも、夜の間になんとかした方がやりやすいんじゃねえの?」。
デニーは、暫くの間、真昼が何を言っているのか分からないという感じで、フードの奥、可愛らしく首を傾げていたのだけれど。その暫くの間が過ぎると、ようやく何を言っているのか分かりかけてきたようだった。「それって、真っ暗けっけの夜の方がミヒルル・メルフィスに見つかりにくいーってこと?」「そうそう、そういうことだよ」。
そう答えた真昼に対して、デニーは屈託なく「あははっ!」と笑い声を上げた。「そんなわけないじゃーん!」「は? どういうことだよ」「あのねー、ミヒルル・メルフィスは、さぴえんすと違ってあんまり視覚に頼ってないの。そりゃー目が見えませーんってことはないよ? でも、ミヒルル・メルフィスは、ほっとーんどの感覚を霊覚に頼ってるんだよ。えーと、まあ、分かりやすく言うと、魂魄を感じる感覚だね。魂魄の、匂いみたいな、そういうのを感じることが出来るってゆーこと。だから、夜だろーが朝だろーが、ミヒルル・メルフィスにはあんまり関係ないんだよお」。そう言ってから、「それにミヒルル・メルフィスは睡眠を取るタイプの生き物でもないしね」と付け加える。
そう言われると、真昼としては「ふうん、そうかよ」としか答えようがなかった。まあ、言われてみれば確かにその通りだ。夜に攻撃を仕掛けたほうが朝に攻撃を仕掛けるよりも成功率が高いという理屈は、相手の感覚がlight的なものに依存している場合に限ったものである。まあ、正確には、神卵光子だのなんだのの影響も関わってくるので、一概にどうこういうのは難しいのだが。それにしても、ミヒルル・メルフィスに限っていえば、朝でも夜でもさして変わらないのだろう。
暫くの間、沈黙が続いた。真昼は、自分の爪の先に視線を落としていた。今気が付いたのだが、爪と指先との間、ひどいことになっていた。砂だの泥だので薄汚く汚れていたのだ。真昼は、左手の親指から順番に順番に。爪と指先との間に入ってしまった物を掻き出していく。左手に関しては右手の人差指の爪で、右手に関しては左手の人差指の爪で。
全部の指、比較的マシな状態になる。それから、真昼は、また口を開いた「でも」。親指の腹で、それぞれの指の爪をこすっていく。一本一本、今度は爪の表面についている汚れを綺麗にしているのである「あたし、眠くない」。
自分で言っておいて聞き分けのない子供みたいなセリフだなと思った。ただし、一つだけそういう子供と違っているところがあって、真昼は実際に眠くないということだ。真昼は、例え眠らなくても一切の悪影響をこうむることがない。
真昼の。
その言葉に。
デニーは。
くっと、首を傾げながら。
真昼の方に視線を向けて。
可愛らしく。
にーっ、と。
笑って。
愛も信仰も持たない。
一匹の昆虫のような。
そんな。
無垢な声で。
こう、言う。
「ねえ、真昼ちゃん。」
「なに。」
「デニーちゃんが、なんで、もう寝ようって言ってるのか分かる?」
「なんで。」
「それはね、真昼ちゃんが眠たいなーって思ってるからだよ。」
真昼は。
その言葉、に。
撃ち抜かれる。
急に、自分の足元がゆすらいだような気がした。どんっという巨大な衝撃が走ったような、わけのわからない空間に放り出されたような気がした。自分という生き物と、それから他の全てのものとの境界が、指先から溶けていっているような感じ。自分がここにいるということにさえも確信が持てなくなる。何がなんなのか、何も、何も、分からなくなってしまう。
実際には何も起こっていない。真昼は、ただただ、デニーのその言葉によってそのような反応を起こしたのだ。真実として、現実として、真昼は眠たいとは思っていない。そもそも真昼が眠たいと思うことは論理的にありうることではないのである。
それにも拘わらず、デニーは、真昼が眠りたがっていると言っている。そして、デニーは、絶対に間違うことがない。そうであるならば……間違っているのは現実の方ではないか? 真昼の精神は、そのような、逃れようのない疑惑に囚われたのだ。
どんなに、どんなに、考えても。真昼は、眠りたがってはいない。そのことについては、確信を持っていえる。ただ、そのように確信を持っているのは、所詮は真昼に過ぎないのである。現実がそうであっても……論理的にはあり得ないということが絶対であっても……本当の本当に、そうなのか? 揺らぐ、揺らぐ、根底が。真昼の、基盤が、揺らぐ。
ただ。
それは。
大した。
ことでは。
ないのだが。
真昼は、その瞬間に、真昼の実存が完膚なきまでに破壊されたということを感じていた。とはいえ、そこには不安も恐怖もなかった、たかが実存である、それがどう変容したところで、あるいは取り返しようのなく喪失されたところで、相対的な現象に過ぎない。無限に意味が差異化される、現象の生成が引き起こされるフィールドが、それ自体として解体されたのだとしても。その解体自体もやはり現象なのだ、そうだとすれば、それには大した意味はない。というか、端的にいって無意味だ。
別に、だからどうしたという感じだ。ゼロ・サイン、その名の通り、そんなものは存在しない。完璧な始まりなどは存在しない、完璧な世界が存在しないのと同じように。あらゆる秩序の全体は、一つのゼロ・サインによって基礎付けられているわけではない。無数の準混沌の関係性の結果として、体系であるように見えているだけだ。そもそもこれは秩序ではない。
世界が停止したら。
どうすればいいか。
簡単なことだ。
世界を停止させた、その巨大な力に。
ただただ身を任せればいいだけの話。
真昼は、「へえ」と言った。それから、デニーの方に視線を向けて「そう」と続ける。真昼は、自分という生き物に一切の幻想を抱いていなかった。自分の考えていること、自分の思っていること、一切、信用していなかった。だから、例え、自分が眠くないということを理解していたとしても。その理解を、一切、信じてはいなかった。
そもそもそれは真実ではない。
そもそも真実など存在しない。
いや……まあ……流石にそんなことはないんじゃない? 眠くないんなら眠くないでしょ、普通。ただ、そういった常識というか一般論というか、今の真昼には全く通用しなかった。とにもかくにも、デニーの発した言葉、その一挙手一投足、それこそが真昼にとっての絶対なのだ。ただ、そうであることをデニーに言うのは、真昼のプライドからして死んでもお断りなのであったが。
「分かった? 真昼ちゃん!」と言いながら、真昼の顔を覗き込むデニー。真昼は、そんなデニーとまともに顔を合わせる形になって……いかにも不愉快そうに舌打ちをした。けれども、顔を逸らすようなことはしなかった。
真昼は、デニーの言葉に、一言も答えを返さなかったが。それでもデニーは、暫くしてから、満足そうに「あははっ!」と笑った。「分かったみたいだねー」と言いながら。するりと無造作に、まるでガラス細工で出来た掏りの手のような繊細さで。デニーの右手が真昼の左手を取る。一本一本の指と指とを絡ませて、まるで恋人のように手を繋ぐ。
それから、とんっと、まるで飛び跳ねるみたいにして駆け出した。いきなり腕を引っ張られた真昼は「なっ、お前……!」と何かを言いかけたのだけれど。とにもかくにも、その腕を引かれるままについていく。
洞窟から出る。満天の星空の下に引き摺り出される。あらゆる生命体を、悪意と憎悪とに引き攣った両目で見下ろす、二つ月の下に引き摺り出される。
死に絶えた要塞。その要塞の主達は、一つの、一つの、死体さえ残さずに消えてしまった。真昼は、悪魔に手を引かれて、その要塞の中を駆けていく。
寒い、寒い、信じられないくらいに世界が冷たい! 沙漠には、昼間の温度を蓄えておくための機構がほとんど存在していないために、夜には氷点よりも低い温度に下がることさえある。夜の帳が下りてから、まださほど時間が経っていないのにも拘わらず……沙漠の大地は、もう、既に、死に始めているらしい。
ああ、そう、そうだ。ここには生命の温かさなんてどこにもないんだ。だって、あたし自身さえ死んじまってんだから。ただただ死んでいく夜なんだ、ただただ冷酷であるところの夜なんだ。そんな夜を、あたしは、生きている。これまでもずっと、これからもずっと。
なんて、なんて、笑っちゃうようなロマンティック。Romantic、roma、力ある者の手によって掬い上げられるということ。あるいは、逃れることの出来ない運命の力を感じるということ。真昼が、その肉体で、その左手で、感じていることの全て。
そう。
その通り。
あたしは特別ではない。
あたしは特別ではない。
あたしは特別ではない。
この世界は聖書ではない。
あたしは聖書を殺した英雄ではない。
哲学は。
倫理は。
取るに足らない。
他愛のないもの。
あたしの思考の全ては。
無限の微分も。
無限の積分も。
あり得ない。
適当にでっち上げられた既製品。
絶対の混沌などなく。
原基の純粋性もなく。
言語以前の無限もなく。
無意味さえ存在しない。
ただただ。
人間的な。
人間的な。
中途半端な。
関係性があるだけ。
自惚れるな。
たかが人間。
お前は。
聖なる。
モナドでは。
ない。
急に、デニーが足を止めた。非常に月並みなことであるが、あまりにも急停止だったために、真昼はデニーの背中にぶつかりそうになってしまう。まあ、デニーの魔学式によって強化された反射神経によって事なきを得たのではあったが。それはそれとして、デニーが足を止めたその場所は、要塞のそこここで燃えている焚火のうちの一つの、そのすぐ近くであった。
赤々と、ちょっと不自然なくらい赤々と燃えている炎。実は……今までしっかりと見ていなかったので、全然気が付かなかったのだが。今、ようやく気が付いた、それは何かの燃料によって燃えているわけではなかった。普通であれば、例えば焚火だとかそういった物質を焼いて炎を作るものである。だからこそ「焚火」というのだが、その炎は、地面の上、何ものもないままに、直接燃え盛っているのだ。
これは、実は、他の焚火も同じであって。もう少し、よくよく見てみると……それらの焚火、一つ一つ、それぞれの下。地面の上に、例のアラゼスクのような魔学式が円を描くようにして刻まれていた。
真昼の予想は、炎を長持ちさせるような魔法が使われているのではないかというものであったが。どうもそうではなく、炎の自体が魔法らしい。魔学的エネルギーを集めて炎のように燃やしているのだ。
これは考えてみれば非常に理に適っているやり方だ。なぜって、ここは沙漠なのだ。例えば薪のような植物性の燃料は一切期待出来ない。ヴェケボサンほど魔力の強くない生き物、ホモ・マギクスの隊商などは、駱駝の糞を乾燥させた物を燃料として使ったりもするが。それは、一晩中、炎を持続させるといったような真似をすると、とっても疲れてしまうからである。一方で、ヴェケボサンであれば、そのくらいのことをしても大して疲れることはない。それならば、限りある燃料に頼るよりも、周囲から無限に収集出来る魔学的エネルギーを利用した方がいいに決まっている。
ちなみに、ガルシェルを煮ている焚火とは違って、この焚火はセミフォルテアの焚火ではなかったが。それでも、かなり強力な観念によって燃えているらしかった。デニーと真昼とが立っている場所は、焚火から一ダブルキュビト強離れたところであったが。この夜の冷たさは随分和らいでいた。
さて。
ところで。
その場所。
何枚も何枚も、獣の毛皮が集められていた。グリュプスの毛皮にライカーンの毛皮、十数枚の毛皮が集められて、ごちゃごちゃに積み重ねられていて。そして、一番上のところ、ひときわ大きなヒクイジシの毛皮が整然と敷かれている。ぱっと見たところでは、毛皮で作ったふかふかのベッドみたいだ。はぐれヴェケボサンがこのようなベッドを必要とするとは思えないので、恐らくはデニーが作った物だと思われた。そこら辺にばらばらに置いてあった毛皮を一箇所にまとめたということである。
デニーと真昼とは、今、そのベッドのすぐ近くに立っているというわけなのだが。ぼんやりと、阿呆みたいな顔をして焚火を見ている真昼のこと。デニーは、悪戯っぽい顔をして振り返った。いかにも楽しそうに「ま、ひ、る、ちゃーん」と口ずさむ。
それから。
デニーは。
「えーい」と言いながら。
真昼の左腕を、ぐいっと、引っ張って。
獣から引き剥がした皮で作ったベッド。
デニーの体、真昼の体。
二つの体。
同時に。
一緒に。
ベッドの上。
倒れ、込む。
倒れ方としては、腕を引っ張られた真昼が「は?」とかなんとか言いながら体のバランスを崩して。デニーがいる方向に転倒する。真昼が、デニーを巻き込むみたいに。あるいは、まるで、デニーのことを押し倒すみたいに。そして、そのまま二人で倒れ込んだということである。まあ、もちろん、真昼の肉体一つくらいであればデニーが支えられないわけがないのであって。実際のところは、デニーが、自分が倒れ込みながらも、真昼のことを引っ張り倒したといった方が正しいのであるが。
とにかく、二人ともベッドに横倒しになった。真昼が右側にいて、左側を向いている。デニーが左側にいて、右側を向いている。つまり、互いが互いの方を向いた横向き、まともに見つめあうような位置関係ということだ。
デニーは、いつの間にか繋ぎ合っていた手を離していて。その代わりに両腕を真昼の腰の辺りに回していた。抱き締めるという感じではなく、添えているだけといった感じ。ただ、それでも、真昼は抱き寄せられていた。
顔と顔との距離、二十ハーフディギトもあればいいという程度。そんなごくごく近くで……デニーは、フードの奥、くすくすと柔らかい音を立てて喉の奥で笑った。まるで、今にも獲物の鼠を弄んで殺そうとしている子猫が喉を鳴らしているかのように。
一方の真昼はというと、目を逸らしたりだとかなんだとか、そういったことは一切なかった。ただただ不愉快そうに口の端を捻じ曲げて。ただただ嫌悪感を剥き出しにしてデニーを睨み付けて。それから、相手の喉元を食いちぎろうとしているみたいな声をして「何すんだよ」と吐き捨てた。
「真昼ちゃんはあ」「まだまだ寝られないよーって思ってるんでしょお?」「でもでも、本当は、すっごくすっごく眠たいんだし」「それに、明日も早いから、もう寝ちゃった方がいいわけだよね!」「だからね!」「デニーちゃんが!」「一緒におねんねしてあげる!」「そーすれば」「真昼ちゃんは」「きっと」「すぐに」「夢の中」「だよ!」。
たくさんたくさんの骨を積み重ねて作った山の上から銀で出来た鈴を転がした時みたいな、きらきらと綺麗で透き通った声でそう言うと。デニーは、真昼のこと、更にぎゅーっとした。デニーの体と真昼の体と、二つの体細胞がぴったりとくっつき合うようにしてくっつき合って。真昼の顔は、優しく、優しく、デニーの胸の辺りに引き寄せられる。
先ほどまで腰に当てられていた両手は、今となっては背中、というか肩の近くに、そっと触れていた。やがて……そのうちの右手が、とん、とん、とん、と真昼の背中を叩き始めた。真昼の心臓が、そういえば今は止まってしまっていて物音一つ立てもしない真昼の心臓が、生きていた時に鼓動を刻んでいた、ちょうど、その速度と全く同じ速度によって。
あたしの心臓、と、真昼は思った。あたしの心臓、あたしの心臓、こんなところにあったんだ。別に、探したりはしていなかったんだけど。こんな近くにあったなんて、ちょっと拍子抜けしてしまった。とん、とん、とん、素敵に扉を叩いている。とん、とん、とん、あたしの胸の奥の扉を叩いている。
すぐに。
すぐに。
入れてあげるよ。
真昼は……ひどく恍惚とした気分になっていた。全身を包み込んでいる、この冷たい冷たい心臓の音。ああ、なんて冷たいんだろう。まるで、どこかの墓穴の中に、どこまでもどこまでも沈んでいっているみたいだ。何もない、空っぽな空洞であるところの真昼の肋骨の中に、死ぬということそのものみたいな、艶やかな冷酷が響いている。
真昼は、なんとなく、全身が痺れてくるような感覚を感じた。全身の細胞の一つ一つが腐敗して、水晶みたいに透明な液体をたらたらと垂らしながら溶けていくみたいな、そんな感覚。舌の上に、吐き気がするような甘さを感じる。それから、次第に次第に力が抜けていく、体の全体に血管を通じていき渡っていたはずの力が、瞼を開けていることさえ出来なくなりそうなくらいに。どこかから、抜けていってしまう。
暫く、なされるがままでいたのだけれど……真昼は、それでも、血管の奥の方に残っている、力の最後の一滴を振り絞って。自分の顔を、デニーの胸の辺りから引き剥がした。それから、まるで上目遣いで見上げるかのようにして、デニーの顔に、うっとりと溶けてしまって焦点の合っていない視線を向ける。
快感に。
震えるような声。
真昼、は、囁く。
「デナム・フーツ。」
「なあに、真昼ちゃん。」
「いいか、よく聞けよ。」
「うん、きーてるよ。」
「あたしは、まだ、眠くない。」
デニーは、真昼のその言葉に……「ふふふっ!」と笑った。あまり大きな声を出して真昼のことをびっくりさせてしまわないように、小さく小さく、些喚くような声で。それから、真昼の方に、静かに静かに唇を寄せて。まるで口づけでもするように……その口元が、真昼のその言葉に対して、あられもなく、こう答える。「お休みなさい、真昼ちゃん」。
真昼は、その言葉を聞くと、もう目を開けていられなくなってしまった。力尽きるかのように、両方の瞼が閉じる。そして、ふっと吹き消されるみたいにして、世界を照らし出していた意識の光が消えていくのを感じる。
真っ暗で。
とろとろとした。
眠りの底に。
墜落する直前。
ふと、真昼の頭蓋骨の中に。
一つの言葉が浮かんでくる。
夜の王。
夜の王。
そうして。
その後で。
真昼は。
これ以上ないというくらい。
安寧の眠りに。
落ちて、いく。
nympha。
nympha。
nymphomaniac。
救いとしてのcopulatory。
ねえ。
あたし達は。
何かと一つになることによってのみ。
生命を、持つことが出来る、被造物。
今、真昼は夢を見ている。あの夢だ。決して悪夢ではない夢、悪夢ではあり得ない夢。とても、とても、美しいあの夢。どこまでもどこまでも生きるということ、あるいは死ぬということのエネルギーに満ち溢れた真夏のアーガミパータ。そのどこかにあるはずの……あの夢。
爆発するインフレーションに満ち満ちたアーガミパータの、そのどこかであるはずにも拘わらず。この夢の中には、この夢の中だけには、生きるということがなかった。あるいは死ぬということも。ここには何もない。この場所はあらゆる熱量を失い、実際に何かがここにあるということのかけがえのない現実も、結局は何もなかったのだという取り返しのつかない虚無さえもない。ここにあるのは棺だけだ。冷たい冷たい棺。幾つも幾つも並べられ積み重ねられた、無数の棺。もう決して悲しまなくていい、もう決して喜ばなくても、怒らなくても、楽しいと心の底から叫ぶことさえしなくてもいいということの幸福感のようにそこにある棺。それに、それから、全てを塗り潰している緑色。
ああ、沈むように暗い緑色。夜のように冷たく、夜のように優しく、ただただ緑であるという意味でだけ緑である。その緑は、一種の全体主義なのだ。けれども……その全体主義の下では、きっと誰しもが安らぐことが出来る。ダコイティの森にいた、あの全てを諦め切った男も。タンディー・チャッタンで、建物に全身を押し潰されて死んでいったあの少女も、孫娘の死に打ちのめされて死んでいった老人も。タンガリ・バーザールのとあるカルティエールで、素晴らしく美しい卵型の時計を盗もうとして、結局殴り殺されてしまったあの少年も。ここでなら安らぐことが出来る。あるいは……ありきたりな物語の、ありきたりなお姫様だって、ここでなら髪をほどいて寛ぐことが出来るだろう。
真昼は。
まるで暗く広い海のような。
その緑色に横たわっている。
霊廟の中心。
犠牲の祭壇。
お菓子を食べ終えた子供が。
どこかその辺に放り捨てた。
プラスチックの袋のように。
幸せに。
幸せに。
横たわっている。
そう、真昼は幸せであった。何かを愛しているわけでもなく、何かを信じているわけでもなく。美しいという現象のただなかにいるわけでもなく、生き生きと躍動する運動の中で生きているわけでもない。それでも、幸せであった。
そして、その幸せは……恍惚とした幸福感が浸透してくるわけではなかった。あるいは、全身が幸福感に貫かれて打ち震えているわけでもない。いってみれば、それは確信であった。というか、確定した現実であった。深く深く、そして冷酷なまでに数式的に。真昼は、自分が、幸せであるということを知っていた。あるいは、別の言い方をすれば。真昼はただただ心臓の鼓動として幸せであったのだ。
心臓?
でも。
あたし。
心臓。
を。
なくして。
しまった。
ような。
気が。
する。
けど。
そう思って、真昼は、自分の心臓に向かって意識を集中させてみた。すると、そこに何かがあるということに気が付いた。そう、そこには何かがある。ただ、それは、どうも真昼が知っているところの心臓ではないようであった。
人間的な意味での心臓はもう少し不完全なものだ。脈打ち方、まるで出来損ないのポンプみたいにして。規則正しいといわれれば規則正しいようにも思えるし、規則正しくないといわれればそうとも思える脈打ち方をするものだ。
けれども、真昼の心臓があるべき場所に収まっているそれは。もっともっと、例えば踊っているみたいだった。ダンス、ダンス、ダンスを踊っている。しかも、人間のダンスではない。これは、地獄に落ちた人間の周りで悪魔がダンスするダンスだ。誘う、誘う、甘く抱き締める。引き裂く、叩き潰す、戯れに口づけをする。粉々に砕く、また一つにする。それから、美しく美しく笑う。
とくん。
とくん。
とくん。
とくん。
真昼の胸の中で。
何かが。
美しく。
美しく。
笑っている。
真昼はすぐに思い出す。これがなんなのかということ。真昼の心臓があるべき場所で笑っている、この心臓はなんなのかということ。ああ、そう、そうだった。これは、蛆虫だ。空っぽで、空っぽで、なぁんにもなかったあたしの肉体の中に。あるいは精神の中に、真昼であったはずのものを食らい尽くして流れ込んできた蛆虫。それが今、あたしの心臓であるところのあたしの心臓。
無数の蛆虫が、そこにあったどうでもいいものを食べ終えてしまって。それから、ぐずぐずと、ぞわぞわと、そこに蝟集してきて。心臓の形に群がって一つになったもの。
ああ。
そうだ。
これが、あたしの心臓なんだ。
真昼は、その音を聞いている。
真昼は、まるで、信じられないほど大切なものを一度なくしてしまって、その後でそれを取り戻したような感覚で。あるいは、ただ単に天啓の典型として。それが自分の心臓であるということを理解した。無数の蛆虫が自分の胸の中で蠢いている。あたかも心臓であるかのような形で一つの形に集まった蛆虫の群れ、身を這わせ、身をよじらせ、身をくねらせ。互いに互いの形と絡み合うような蛆虫の群れ。その塊が、自分の心臓であるということを。
その理解が正しいのか? あるいは間違っているのか? それはもちろんどうでもいいことだ。重要なのは、これが、この蛆虫の塊が、確かに真昼の胸の中にあるということだ。確かに、真昼の胸の中で、鼓動しているということだ。それ以外に一体どんな重要なことがあるのだろうか? これは、今まで真昼の胸の中にあった出来損ないの心臓ではない。誰もがそれを真昼だというが、それでも決して真昼ではなかったところの心臓ではない。
もしかしたら、その心臓は真昼のために鼓動しているわけではないかもしれない。あるいは、いつか真昼のことを裏切るかもしれない。真昼の胸の中から、真昼を見捨てるようにしてどこかにいってしまって。後には、また空っぽの真昼が残されてしまうのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいいのだ。重要なのは……本当に、この世界で、たった一つ重要なことは。今、まさに今、その心臓は真昼の胸の中で鼓動しているということだ。
真昼は。
右手と。
左手と。
そっと。
自分の胸に。
当ててみる。
真昼の心臓が。
誰も望んでいなかった。
奇跡みたいにして。
冷たく。
冷たく。
鼓動している。
と……瞬間、真昼はそのことに気が付いた。今、自分は動いている。まるで全身のあらゆるorganが、筋肉が、血液が、骨組織が、あらゆる内臓が、この見せかけの皮膚の下から奪われてしまったかのように動かなかったこの肉体が。死んでしまった人形のように硬直していた肉体が、動いている。
それだけではなかった。夢を見始めた時にはあれほどまでに客観的であった全ての感覚が、今となっては一つの総体としての主観性に戻っていた。あたしがあたしとしてあたしであるという、はっきりとした現実がそこにはあった。もちろん真昼は夢を見ているのだが、それでも真昼は真昼だった。
ああ。
所詮は。
人間だけど。
それでも。
それでも。
ねえ。
あたし。
皮膚の下の、あらゆるorganが、今では全くの現実として真昼の肉体であった。ただし……その心臓も、その肺臓も、その肝臓も、その腎臓も、その脾臓も、その膵臓も。胃も腸も膀胱も胆嚢も。頭蓋骨の中の脳髄までも、それは人間にとって人間の肉体であると思えるところの人間の肉体ではなく、蛆虫がそうであるような形をしているところの organであったが。
そこにあったもの。空っぽの空白のような、クソの役にも立たない役立たずは、食い尽くされたのだ。そして、そこに、蛆虫が、蛆虫が、蛆虫が、収まったのだ。数え切れないほどの蛆虫が真昼の肉体の各器官として収まったのだ。
だから、今、真昼は動くことが出来るようになったということだった。血液のふりをした蛆虫が全身を巡っている。肺のふりをした蛆虫が呼吸している。そして、脳髄のふりをした蛆虫が、真昼としての真昼の主観性を頭蓋骨の中に閉じ込めている。
と、いうことは。今の真昼には何も見えないということだ。だって、真昼は、この夢を見始めた時のように、自分で自分の姿を見下ろしているわけではないのだから。真昼は真昼の肉体の中で、真昼の目をもって物事を見ている。そして、今、真昼の両目は瞼によって閉ざされている。
真昼、は。
目を開く。
眼球のふりをした蛆虫が、真昼が目を開いた先の光景を見ている。変わりはない、客観的に見ていた時と全く同じ霊廟の光景が広がっているだけだった。まあ、広がっているといっても、閉所恐怖症を起こしてしまいそうなほど狭い空間であるのだが。
真昼は、右脚を、膝の辺りから軽く折り曲げた。ちょうど膝を立てる形になるのだが、そうして折り曲げた脚を、ぐっと自分の体の方に引き寄せる。右足は祭壇から浮き上がる。右の手のひらと左の手のひらとで抱えるみたいにして、その右膝を掴む。それから、右脚の全体にぐーっと力を入れて、また右足を祭壇の上にくっつけようとする。すると……上半身が、膝を抱えている両腕に引き寄せられていくかのようにして起き上がった。
まあ、要するに、体を起こしただけだ。結果的に、姿勢、左脚を真っ直ぐに伸ばしていて。右膝を立てていて、その右膝を両方の手のひらで軽く掴んでいて。そして、上半身が起き上がった状態になる。
立てた膝に凭れ掛かるようにして、ぐったりとしている真昼。そのままの姿勢で周囲を見回してみる。何も、何も変わらない。たくさんの棺だけが詰め込まれた霊廟の真ん中、その祭壇の上にいる真昼。
ああ。
いや。
違う。
ある。
あそこに。
何かがある。
あらゆる現実を、現実としてではなく、一人の観察者として客観的に観察していた時には全く気が付かなかったことなのだが。そこに「それ」があった。
今まで全然気が付かなかった「それ」。真昼は、たった今、この時まで、この霊廟を完全な密室だと思っていた。出口も入口もない、窓もない。ただただ拒絶するような、ただただ閉鎖するような、絶対的な壁。障害物でさえない、それ以上世界がないということを象徴するものとしての壁。そのような壁によって閉ざされていた場所だと思っていた。
けれども、「それ」があった。真昼がいる場所、その祭壇から降りた先。数ダブルキュビト先にある「それ」。並べられた棺の列と棺の列との間。石材によって組み立てられた壁に、「それ」が……一つの扉があった。
それについて具体的に表現するのは困難だ。というか不可能だろう。それは扉ではあるが。扉でしかない。開き戸とか引き戸とか、シングルドアとかダブルドアとか、そういうものではない。また、横の長さも縦の長さも、大きさという要素もない。ただ単に扉なのだ。ただ、ここから出るというそれだけの内的限界値しか持ち得ない扉そのもの。
ただ、とはいえ、それでもそれは扉ではあった。
そして、この空間には扉などないはずであった。
一体どういうことなのだろう、などというまどろっこしいことを真昼が考えることはなかった。なぜというに、これは夢だからだ。現実には現実の現実があるように、夢には夢の現実がある。夢の原理、夢の中にいるにも拘わらずそれを受け入れないということに論理的正当性はない。そして、その夢の原理に従えば、ここに扉があるということは当たり前のことだった。
真昼は、ゆっくりと体を傾ける。体の左側に左の手のひらをついて、その腕に体重の五分の一ほどをかける。少しだけ左脚を浮かせて、左足を祭壇の下に降ろす。そのまま、右足も祭壇の下に降ろした後で、右の手のひらを祭壇の上につく。これで祭壇の上に座っている形になった。上半身を少しだけ前の方に傾けて、まるで耳を澄ませているかのようにして扉をじっと見つめている。
扉とは潜勢力である限りの潜勢力の現勢力のことである。それは未だなされない決定ではあるが、とはいえ不確定であるというわけではない。つまり、真昼は運動の各時点において開かれていない扉であり続けるということだ。そして、それらの各時点において、既に開かれてしまった扉についての取り返しのつかない奇跡に打ち砕かれ続ける。無論、扉を開いたのは真昼ではない。
蛆虫。
蛆虫。
皮膚の一枚下を。
ずっと。
ずっと。
真昼という生き物が。
心の底から。
渇望していた。
奇跡みたいに。
蛆虫が愛撫している。
真昼は、祭壇の上についていた両の手のひらに力を入れて、祭壇の上から立ち上がった。足の裏に緑色の冷度を感じる。脊椎を持たない生物のような冷酷。幾何学的に描かれた図形と同じくらい左右対称な生物のような冷酷。
それから、歩き出す。遠くも近くもない位置。壁に、いつの間にか表われていた扉の方に向かって。たった数歩で、その扉の目の前に辿り着く。ただ、自分が何歩歩いたのかということはよく分からない。全てが曖昧だ、夢のように。
開かれていない扉は、人間のような不完全な生き物にとって、いつだって一つの賭けだ。それは「開かれている」、開かれていないという、その不確定性によって、それ以上は不可能なほどに「開かれている」。それは律法によってこの世界が形作られる前の例外状態であり、それゆえに一切の現前が禁じられたままで静止しているshabbatの一瞬にも似ている。とはいえ、それは、いつかは開かれるのだ。誰によって? もちろん、その扉がその者のために作られたはずのその者によって。その扉が誰のために作られたのかということは主の召命であり主の召命は人間には理解出来ないのだが、とはいえ、それを理解するべき者はその者としてのその者ではない。その者の内側に、主によって満たされた精霊なのだ。
些喚く。
胎盤から送られてくる。
どろどろとした養分のように。
とくん。
とくん。
とくん。
とくん。
真昼の心臓のふりをした、蛆虫が。
つまり、それを理解しているのだ。
その扉は。
真昼のために。
そこに、ある。
扉だと。
真昼の皮膚の内側で、蛆虫が筋肉としての働きを果たす。真昼の右腕がゆっくりと上がっていき、目の前にある扉に触れようとしている。そう、この扉は真昼のためのものだ。真昼がそれを決定する、真昼だけがそれを、未だ確率でしかないそれを決定出来る。なぜなら、真昼は、生まれたからだ。あの祭壇の上で。蛆虫の群れと一つになることによって、初めて生命を得たからだ。
幸福な夢。
幸福な夢。
真昼は。
幸福な夢を見ている。
そして。
それから。
真昼は。
扉に。
手を掛ける。
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