第三部パラダイス #16

 はい、ここで「勘違いされたら嫌だから念のために書いておくのコーナー」でーす! おやおや? 読者の皆さん、そんな嬉しそうな顔しちゃって! はっはっは、そんなにこの「勘違いされたら嫌だから念のために書いておくのコーナー」のことが好きなんですか? いやはや、困っちゃうな、人気者過ぎて。こりゃあ、ファンクラブの年会費だけでラグジュアリーな生活を送っちまえるまで、そう長くはかからなそうかな?

 と、まあ、クソ面白くもねぇ冗談は置いておいてですね。何を補足しておきたいのかといえば、真昼ちゃんがモノローグしたところの「真昼ちゃん百七十億年の歴史」についてですね。あれ、いかにも客観的な事実みたいに書いちゃってますけど、かなり真昼ちゃんの主観入っちゃってます。

 そもそも、あれは真昼ちゃんのモノローグなのであって、真昼ちゃんの知ってること以外は書かれてないんですよね。しかも、ほら、真昼ちゃんって、こう、勉強熱心じゃないタイプ(気を使ったいい方)じゃないですか。だから、そういう限られた情報が、しかもかなりめちゃくちゃなことになってるんですよね。

 何がいいたいのかといえば、あそこに書いてあることは、あんまり信用しないで下さいっていうことです。例えば、あそこには、マホウ界の歴史について全然書かれていないですし。この世界の初めてのナシマホウ族が生まれる前に、スグハっていう種族が宇宙の別の星からやってきて、ここを植民星にしようとしてたことだとかも書いてない。そのスグハが、ショゴスっていう原形質の生命体を作って使役していたんですけど、それが現在のナシマホウ族の祖先だっていうことも書いてない。そういうことは、人間が知っている借星史には全然書いてないから。

 それに、ですよ。ごくごく最近のことについても、真昼ちゃんが知らないことや、騙されていることもあるわけです。例えば砂流原深夜くんのことですが、この子はですね、別に死産で生まれてきたわけではないんです。実は、この子は、真昼と同じような奇瑞の持ち主だったために、生まれた直後に紫内庁によって密かに誘拐されてしまっただけなんですね。

 そのことを、静一郎は知っているのだが、正子は知らなかった。正子は、生まれてから暫くして死んでしまったと教えられていて。それが、真昼に、死産として伝わったわけだ。ちなみに、この深夜くんは、その後、紫内庁のエージェントとしてすくすくと順調に育っている。

 そして、後々、何年か未来において……コーシャー・カフェ内部の勢力争いに敗北したフラナガンが、デニーによってパンピュリア共和国を追われ、月光国政府に対して保護を求めた時に。深夜の方は紫内庁が派遣したフラナガンの護衛として、真昼の方はデニーから送り込まれた暗殺者として、壮絶な戦いを繰り広げることになるのだが。まあ、まあ、その話はこの話とは関係ないので触れないでおきますね。

 とにかく、真昼ちゃんのモノローグはあんま信じないどいて下さいね。一部正しいところもあるけど、大半は、まあ、でたらめに近いことが書いてありますから。そんなわけで、こんなわけで、そろそろ物語の本筋に戻ると致しましょー!


 次第に。

 次第に。

 降下していく。

 この空間における。

 真昼の位置が。

 こういう回りくどい書き方をすると何が起こっているのかよく分からないが、要するに、真昼がその手のひらの上に乗せられているところのアビサル・ガルーダが高度を下げているということだ。どのくらいの早さなのかはよく分からないが、二エレフキュビトほどの高さにいたアビサル・ガルーダは、その数秒後には一エレフキュビトほどの距離にいたので、秒速にして百ダブルキュビトは超えているはずだ。ただ、地上に近付くにつれて、その速度はだんだんと下がっていって。地上からぎざぎざと突き出ている、断崖というか岩山というか、その近くまできた時には、秒速にして数ダブルキュビト程度になっていた。

 高い高い上空から見下ろすと、さしたる迫力もなく、なんか砂場から突き出ている大きめの石の塊くらいにしか見えなかったのだが。ここまで近くなってくると、さすがにそこそこ見栄えがしてきたような気がする。峨々としているというか巍々としているというか、ここに叩きつけられたら間違いなく死ぬだろうなという感覚がある。まあ、真昼は死んでいるのでこれ以上は死なないのだが、それでも全身複雑骨折内臓破裂くらいはしそうだ。

 百ダブルキュビトから二百ダブルキュビトくらいの岩山が、幾つも幾つも集まって、それぞれがぐちゃぐちゃに混ざり合って、巨大な渓谷を形成しているという感じだ。岩山と岩山との間は、あるところでは隊商が一つ通るのがやっとというほどの大きさになり、あるところでは巨大な広場になり。あるところでは、まるでその内側にひっそりと何かを庇っているかのように、虚ろな物陰を作り出している。

 そして。

 アビサル・ガルーダが。

 向かっているのは。

 その物陰の。

 一つだった。

 幾つかある物陰の中でも、それは一番広く一番奥まったところにある物陰だった。かなり複雑な形をしているのでなかなか言葉で表現するのが難しいのだが……周囲の大部分は、のぼることもくだることも困難を極めるだろう、凄まじい絶壁によって囲まれている。ほとんど垂直といってもいいくらいの絶壁だ。そして、そこから出たり入ったりすることが出来るのは、たった二本の道、あちら側からこちら側へと抜けていく細長い道だけだった。道の広さは、四頭ほどのグリュプスが横並びになった状態で、やっと通っていける程度だろう。もちろん羽を広げていないグリュプスである。

 また、断崖によって囲まれている空間の範囲であるが。こちらは案外に広々としていて、恐らくは一万平方ダブルキュビトを超えている。基本的には平面的であるが、ところどころにごつごつとした岩が突き出していたりする。そういった岩の、一つ一つの大きさは、まあ数ダブルキュビトくらいの高さといったところだろう。数としては、多めに数えても数個だ。

 一番特徴的なのは、道が入ってきて、それから抜けていく方とは反対側の断崖、それが内側に向かってカーブを描いているということだ。つまり、ほんの僅かではあるが、その平地を庇するような形になっているのである。せいぜいが、全部の指をぴんと立てた巨人の手、その第一関節だけを曲げたといった程度の庇だが。それでも上から見えにくくなっている。

 全体的に評価すると、いわゆる「天然の要塞」というやつだった。あまり使用したくない、あまりにも使い古された表現ではあるが、まあまあ間違いがない。

 下りていく。

 下りていく。

 今。

 その高度は。

 その物陰の。

 入口辺りに。

 辿り着く。

 その距離から要塞の内部を見ていくと……それが、ますます要塞らしい形をしているということが分かる。要塞を囲っている断崖、その頂上というかなんというか、とにかく一番上の辺り。そこら辺に、何やら、幾つも幾つも穴のような物が掘られているのである。まあ、幾つも幾つもといってもせいぜい五つか六つかといったところだが。上からは見えにくい角度で、明らかに人工的に彫り抜かれたものだった。

 それらの一つ一つが、どうやら、上からの侵入者を確認するための見張りが配置されるための空間らしかった。なぜそれが分かるのかといえば、真昼の強化された視覚は、それらの穴の中に、ある種の装備を確認していたからだ。

 明らかに人間の物とは思えない、巨大な武器。平均身長が二.五ダブルキュビトを超す種族のための武器、恐らくはヴェケボサンのための武器だと思われた。矢を射るための弓らしき物や、あるいは魔学的な投石装置と思しき物。発射時に爆薬を使わなくてはいけないような物は見えなかったが、そういう物を使うと、あの穴自体が崩れてしまう恐れがあるからだろう。

 そういった装備が、そのセントリーボックスの中に……落ちていた。無造作に、ただただぽとりと落ちていた。ちゃんと置いてあるという感じではなく、それを持っていた何者かが、不意に、跡形もなく、消えてしまったという感じだ。そう、消えてしまった、セントリーボックスには、そこにいなければならない一人のセントリーの姿も見えなかった。単純な空白だ。

 これだけの穴があるのにも拘わらず、一つの、たった一つの、人影らしきものさえ見えない。その事実だけでも、なんとなく胸騒ぎがするような奇妙な出来事であるが。実は、問題はそれだけではなかった。

 真昼の目は、目ざとくも、断崖の上の上、穴が開いているところよりも更に上のところ。一定の間隔を置いて打ち付けられている、小さな小さな楔のような物を認めていた。それらの一つ一つは、せいぜいが人間の足首から先程度しかない。赤イヴェール合金で作られた単純な形をした楔だ。

 数を数えると十七ある。普通の状態の真昼であれば、これが何か分からなかっただろうし、そもそもこんな目立たないものに目を留めさえしなかっただろう。だが、今の真昼は、それに目を留めたし、それが何かということも、いわば獣の本能として直感的に理解出来た。あれは……結界だ。というか、正確にいえば結界を作るための依り代となる物。

 こんな場所になんの目的もなく楔を打ち込むわけがない。何かのために打ち込まれた物だ。そして、十七という数は完全猟犬数である。そのような力ある数字を使っているということは、なんらかの魔学的な意味を持つことは間違いない。この十七の楔は、何かの魔学的エネルギーを固定するための装置だ。また、それらの楔が撃ち込まれている場所のことについても考えてみよう。まるで、断崖の内側の、この空間に蓋をするような場所だ。ということは、可能性としては二つ。この空間を攻撃するための物か、この空間を保護するための物か、どちらかだ。楔をよく見てみると、少し錆びがついているということが分かる。つまり、相当長い間、魔学的な負荷がかかり続けたということだ。ということは、攻撃ではなく保護のために使われたということである。よくよく考えてみれば、確かに断崖が庇のようになっているとはいえ、上から見ればこの空間が見えないというわけではない。そして、この辺りは、いつグリュプスが上空を通っていくかもしれない地帯だ。そうであれば……もしもこの空間になんらかの基地のような物を作るとすれば。当然ながら、感覚を遮断し、内側に何があるかを感覚出来ないようにするための結界が必要になってくるということだ。

 ここまではいい。別におかしいところはない。問題は、それが結界を作り出していないということだ。それだけではない、消えている。それらの楔にかけられていたはずの魔法が完全に消えているのだ。楔は、不気味にも、虚ろだった。

 と……そういえば。これが結界を作るための物であるとすれば、当然ながら、断崖が囲い込んでいるあの平地には基地のような物があるはずである。そう思って、真昼が、改めて平地を見下ろしてみると。確かに、そこにそれはあった。

 といっても、今までそれに気が付いていなかったというわけではない。それは、気が付かないには、あまりにも大々的過ぎた。広々というほどではないが、それなりの大きさはある平地。その中でも、カーブを描いて庇のようになっている断崖の方から、道が通っている方向に、平地全体の三分の二程度の範囲。あたかも遊動民の宿営の場所のようにして、五つの天幕が張られていたのだ。

 特になんの規則性もなく、ぽつんぽつんと、適当な間隔を置いて張られている。随分と粗雑な作りの天幕だ。まずは、そこそこの高さの柱を、一列当たり五本程度、三列にわたって立てる。真ん中の柱の列が一番高くなるようにして、だ。それから、その柱の列ごとに梁を渡して、その梁の上に天幕をかける。そして、天幕の裾を、地面の上に打ち付ける。後は、ところどころに紐を掛けて、その紐を地面に打ち付けることで補強したり。あるいは、入り口になるところ、先ほど立てた柱に加えて、更に二本。真ん中の柱の右側と左側とに、入り口を支える柱を立てたり。そういった細かいことはするが、その程度だ。

 そのような粗雑な作りをしている天幕。五つあるうちの一つだけが、他の四つよりも一回りか二回りか大きいように見える。小さい方の天幕は、縦の長さが三ダブルキュビトくらい、横の長さが六ダブルキュビトくらいだろう。大きい方の天幕は、縦の長さが五ダブルキュビトくらい、横の長さが十ダブルキュビトくらいといったところか。まあ、ここまでは特に変わったところのない天幕であったが……ちょっとばかり、変わったところがないわけではなかった。その幕の部分が、どうも金属で出来ているらしいのだ。

 しかも、真昼が間違っていなければ、これはフーバイトと赤イヴェール合金との合金のはずだ。フーバイトというのは、あらゆる種類の波動を消滅させる物質である。それ自体は金属ではないのだが、これで合金を作ると――どのような金属を混ぜるかにもよるが――例えば、物理的な振動を抑える物を混ぜれば防爆効果や防音効果や、そういった効果が期待出来るし。あるいは魔学的耐性の高い物を混ぜればある程度の魔法を防ぐことも出来る。つまり非常に特殊な兵器を作る際に使われる金属なのだ。

 赤イヴェール合金が混ぜられているので、どこかから魔法で攻撃を受けた時に、その攻撃をある程度は防ぐことが出来るということだ。しかも、かなり使い古されている。何度も何度も外敵からの襲撃を受けたと思しく、幕の全体がぼろぼろになっているのだ。ということは、この要塞を作った何者か(複数)は、そのような修羅場を何度も何度もくぐってきたことになる。

 それから……天幕と天幕との間には、ぽつりぽつりと焚火のような物が燃えていた。ような物という曖昧な表現をしたのは、不思議な色をして燃えているからだ。赤々と、赤過ぎる。なんらかの魔法がかかっていることは間違いない。たぶん、それほど簡単に消えないようにする魔法、それに、周囲の魔学的エネルギーを吸収することで燃料の消費を最小に抑える魔法ではないだろうか。

 小さ過ぎるし、たくさんあるので、数を数える気にもならないが。十数個は確実にある。もしかしたら二十を超えているかもしれない。そして、そのような焚火の周りには、様々な生活用具がおかれていた。例えば、金属製の鍋だとか、金属製の皿だとか。あそこには、楽器らしき物まで落ちている。薪が重ねて置かれていたり、あるいは、どう見ても獣の皮をそのまま剥ぎ取ったらしき物が敷かれていたりする。

 そして、またもや奇妙な出来事であるが……これほどの、明らかな生活の痕跡があるにも拘わらず。その平地部分には、生きているものの姿は、たった一つしかなかった。その一つ以外には、人間どころか、ヴェケボサンどころか、生き物の影すら見当たらない。その一つ以外には、動くものは全くなかったのだ。

 平地の状態と相まって……まるで、その一つを残して、ここにいた全ての生き物が、不意に消え去ってしまったみたいだった。あまりにも、あまりにも、濃厚な生活の残り香。鍋は火にかけられたままだし、皿の上には夕飯らしき物が残ったままだし。転がったコップから漏れた液体は、まだ乾いてもいない。あそこに落ちているのは、たぶん煙管のような使い方をする道具なのだろうが、先端からは未だに煙が燻っている。

 一体、この要塞に。

 何が起こったのか。

 そして。

 あの一つの姿は。

 何者の姿なのか。

 もちろん、真昼には、そのどちらについても見当がついていたのだが。ただし、そのことについて、はっきりとした答えを出している暇は、今の真昼にはなかった。

 あることに気が付いたからだ。先ほども書いたように、この要塞、平地の面積は、大体において二千平方ダブルキュビト。これは、百ダブルキュビトかける二百ダブルキュビトの長方形と同じくらいの大きさということである。

 一方で、今、真昼が乗っているアビサル・ガルーダは、身長百ダブルキュビトを超えるような生き物なのである。まあ、まあ、入れないということはないのだが。どう考えても、アビサル・ガルーダが入ってしまったら身動きが取れなくなってしまうほど狭いということには間違いがない。

 アビサル・ガルーダには意識らしき意識もない状態なので、狭いからって気にすることはないだろうが。ただ、あそこら辺にあるものは全部踏み潰すことになるだろう。それに、入る時はいいだろうが出る時に大変だ。ということは、アビサル・ガルーダが、あの平地にまで降りていくメリットは何もないことになる。

 いや、正確にいえば何もないというわけではない、少なくとも真昼にとってはメリットがある。真昼は、残念ながら、飛行用の道具を持っているわけではないし飛行用の魔法を使えるわけでもない。アビサル・ガルーダがこのまま降りて行ってくれれば、真昼は、何事もなくあの平地に着けるだろうが……そうではない場合、真昼は、非常に困ったことになるだろう。

 ただ、そのようにして困ったことになるのは真昼だけである。アビサル・ガルーダを使役している何者かではない。要するに、デニーは、全く困らない。そうである以上、デニーにとっては、アビサル・ガルーダをこの要塞の内側に踏み込ませる必要はないということになる。

 ということは。

 アビサル・ガルーダが。

 これ以上。

 降下する可能性は。

 全く、ないわけで。

 ところで真昼は右手と左手とのちょうど中間の辺りにいた。アビサル・ガルーダが手のひらを合わせている、その二枚の手のひらが、ちょっとした鱗の谷のようなものを作り出していて。その谷にすっぽりと嵌まるみたいにして、ごろんと俯せに寝っ転がっていたのだ。谷の、右斜面と左斜面と、肘をついて。右の第四趾と左の第四趾との間から、のんびりと下界を眺め下ろしていた。

 そして、真昼が、これはちょっと不味いかもしれないぞと思い始めたその瞬間に。真昼の腹の下にあったもの、真昼の肘の下にあったもの、要するに真昼を支えていた全てのものが。ふっと消えてなくなっていた。

 アビサル・ガルーダが右の手のひらと左の手のひらとを離したのだ。真昼が乗っていた手のひら、右側と、左側と、それぞれぱっと離れていってしまって。真昼が体を預けていた谷が真っ二つに引き裂かれたのだ。

 これはもう真昼にはどうしようもないことだった。明らかに真昼がどうにか出来ることを超えていた。ということで、真昼はそのままフリーにフォールしていくことしか出来なかった。いや、空気抵抗があるからフリー・フォールではないか。

 アビサル・ガルーダは、そのまま、ずごうっという音を立てて、凄まじい勢いで上昇していって。いつの間にかその直上にぽっかりと穴を開けていたデニーのオルタナティヴ・ファクトの中、すぽふんっという感じで入り込んで、消えていってしまった。一方の真昼はというと……今までの真昼とは違い、「がああああああああああああああああっ!」とも「だああああああああああああああああっ!」とも叫ぶことはなかった。

 こうなることは、もう予想出来ていたことだ。冷静に考えれば当たり前のことであって、わざわざ驚くには値しない。真昼は、墜落しながら、ふーっという感じ、軽い溜め息をついて。それから、「やっぱりね」と呟いただけだった。

 さて、問題はどうすればいいかだ。いや、まあ、このまま何もせずに落ちていっても大丈夫といえば大丈夫だろう。今の真昼は何がどうなっても死なないようになっているので、地面に激突したところで死ぬということはない。それに、恐らくは、痛みも苦しみも感じないだろう。

 ただ、今までの数時間で経験したことから推測するに無傷というわけにはいかなそうだ。この肉体は、凍らせれば凍るし、切りつければ切れる。ということは、激突した場合も激突したなりの障害を負うことになる。あんまり想像したくないが……恐らくは、ぐちゃぐちゃになる。

 うーん、この高さだと……ビルディングに直せば三十階から四十階くらいかな? それに、上から叩きつけてくるようなこの気流についても考慮に入れなければいけないだろう、もちろんアビサル・ガルーダが急上昇した時に起こした気流である。まず、まあ、全身の骨は砕けるだろう。粉々というほどではないだろうが、よほどの奇跡が起こらない限り原形をとどめるということはあるまい。また、衝撃で、内臓の大半は破裂するはずだ。すぱーんと一発景気良く。筋肉だの血液だのと混ざり合って、肉体の全体がどろどろの流動体を詰め込んだ袋みたいになる。で、だ。その袋の外側、つまり皮膚に、砕けた骨が突き刺さって。勢いよく破裂した袋はその内側の流動体をそこら中にぶちまけるだろう。びちゃっという汚い音を立てて、真昼はぐちゃぐちゃなどろどろになって爆発する。

 いくら死なないっつったってですよ。

 それは。

 ちょっと。

 避けたい。

 わけでして。

 そりゃ、デニーなら、それくらいぱぱっと治してしまうだろうが。そういうことではないのだ、これは乙女心&オーシャン・スカイの問題なのである。真昼だって年頃の女の子なのであって、化粧もしていない内臓を他人に見られるのは恥ずかしい。

 なーんとかしなきゃなんねーな。えーっと、たぶん、こっから地上までは百ダブルキュビトとちょっとだ。地面までどのくらい時間かかるかな。重力加速度? だっけ? それと距離とを掛けるか割るかすれば導き出せるんだったような気がするんだけど、いかんせん授業を真面目に聞いてなかったので全然覚えていない。とにかく、この感じだと五秒くらいだろう。いや、もう一秒経ったから四秒か。さて、その間になんとかしねーとな。

 真昼は、小声で、素早く口を動かす。「雷静動、水破」、ちなみに今の真昼は、パンダーラに強化して貰ったおかげで呪文を唱えなくても重藤の弓を起動出来るようになっていたが。とにもかくにも、その呪文、さーっというようにして、真昼の左手の入れ墨に魔力がいき渡って。動き出したその入れ墨は、真昼の左手、親指から小指にかけて弦を張り詰める。

 それから、空中で身をよじらせて、くるんと半回転する。つまり、下を向いていた肉体、上を向かせたのだ。躾をされていない野生の猫のように全身の筋肉にぐっと力を入れて。左手、空に向かって、真っ直ぐに伸ばす。

 両腕は矢を番えた形。そこから、ぐーっと弓を引き絞る。すると、弓になっている左手の先から構えを取っている右手の先にかけて、一本の矢の形が、壮絶に光り輝く……セミフォルテアの矢が形成されたということだ。

 真昼は、口先をささやかに滑らせるような態度、「兵破」と呟く。その瞬間、その矢、弦楽器を爪弾くような軽やかさで射出されて。まるで太陽でも射落とそうとしているかのように、空の方向へと一直線に飛んでいく。

 と、まあ、ここまではごくごく普通に重藤の弓を使っただけであるが。真昼ちゃんがちょっとした仕掛けを打ったのは、ここからだった。上に、上に、上に向かって飛んでいったセミフォルテアの矢が――正確にはセミフォルテアに限りなく近いほどに純粋な魔力の矢であるが――空中で、急に停止したのだ。ぐざすっという、嫌に耳障りな音を立てて。しかも、ただ止まったというだけではない。止まった後、あたかも何かに突き刺さったかのようにして、るるるるーんと震えているのだ。

 いや、違う、「ように」ではない。その矢は実際に突き刺さっていたのだ。ただ、何に? 何に突き刺さったというのか? 矢が刺さったそこには、矢が刺さるべき何ものも見えなかった……ただ、何もない空間を除いては。

 そう、それこそが矢が刺さったものだった。つまり空間そのものに刺さったのだ。普通の物質で出来た矢にはそんな芸当は不可能だろう。生半可な魔力の矢でも無理だ。だが、真昼が放ったのは、セミフォルテアの矢だった。

 それは神々が使うところの力である。使い方さえ正しければ、空間を引き裂き、時間を引き摺り回し、可能性にさえ介入出来るような偉大な力である。まあ、そこまで正しい使い方をするためには、ヤー・ブル・オンのような強さや、ヘルメス・トリスメギストスのような賢さや、そういったものがなければいけないが。とにかく、セミフォルテアで出来た矢、セミフォルテアと同じほど純粋な魔力の矢を空間に突き刺すくらいのことなら真昼程度の生き物でも余裕で出来るのである。

 その矢は虚空に突き刺さり……そして、よく見ると、その矢、矢筈の辺りから、何かがしゅるしゅると尾を引いていた。ゆらゆらと揺らめいて、夜のような色をしてどす黒く光り輝くそれは……間違いない、藤の蔓だ。真っ黒い色をした藤の蔓、真昼の入れ墨だったはずのそれだ。

 魔力が込められた藤の蔓が、セミフォルテアの矢の一番後ろの部分に巻き付いて。そして、その蔓をずっとずっと追っていくと、当然ながら真昼の左腕に絡み付いている。

 そう。

 要するに。

 真昼は。

 命綱を繋ぎ止めたのだ。

 何もないはずの空間に。

 落下し始めてから、真昼が矢を放つまで、四秒程度の時間が経っていた。真昼の肉体は地上から十数ダブルキュビトのところまで迫っていたということだ。矢は、その辺りに突き刺さって。魔力で出来た命綱によってその矢と結び付けられた真昼の肉体は、しゅるるるるっという感じ、そのまま落ちていく。

 そして、地上から二ダブルキュビトから三ダブルキュビトくらいのところで、ぐらんっと揺れるみたいにして停止した。何本も何本もの蔓を、余裕を持って編み合わせた命綱は、ゴムほどではないにしても、ある程度の弾性を持っていて。その弾性によって衝撃が分散される。落下する時の重力だの、上から叩きつける気流だの、相当な勢いが出ていたのだが。デニーによって強化された左腕は、なんとかぶっちぎれなくて済んだようだ。

 ある程度、そういった勢いを殺して。ゆらゆらと軽く揺れるくらいになってから。真昼は、右手、中指と親指と、なんだか勿体振ったような態度でぱちんと鳴らした。すると、そのぱちんという音と合わせるみたいにして、空間に突き刺さっていた矢、ぱっと消えてしまった。

 結果的に真昼を支えるものは何もなくなってしまったわけだ。当然ながら、真昼はまたもや落ちていくことになるわけだが。今度はたったの二メートルとちょっと、上からの気流もない。これくらいの力であれば、真昼の強化された肉体にはなんの問題もない。

 テーブルの上から飛び降りた飼い猫のような優雅さで、またもや体をひねると。仰向けになっていた姿は、地面と垂直の姿勢になる。そのまま、地上までの距離を移動した真昼の肉体は……いとも容易く地上に着地した。貴族の挨拶のように瀟洒に、銀の食器のように精到に。ほんの僅かに、膝を曲げて力を和らげただけで。真昼は、傷一つなく、地上に降り立ったということだ。

 その後で……しゅるるるるっと、真昼に向かって落ちてくる命綱。真昼は、まるで、自分の体の近くにいる蠅を振り払ってでもいるような何気ない仕草によって左腕を軽く振るうと。その振った時の勢いによって、落ちてきた命綱が、しゅるるんと真昼の左腕に吸い込まれていった。そうして、その後で、黒い色をした藤、何本何本もの蔓は。何事もなく、また、真昼の左腕に描かれたただの入れ墨に戻ったのだった。

 さて。

 ところで。

 真昼が。

 降り立った。

 その場所は。

 平地に広がっている宿営の、中央よりもやや外れたところだった。庇のような形になっている断崖にやや近いところ、五つある天幕のうちの一つに間近いところだった。断崖から見て左側、数えて二つ目の天幕である。

 そして。

 この宿営において。

 唯一。

 動いている。

 生きている。

 その姿の。

 すぐ。

 近く。

 その生き物は……鍋を覗き込んでいた。焚火の上にかけられて、まさに今、その中に入っている物をぐつぐつと煮込んでいる鍋を。そこに突っ込まれた棒のような物を両手で掴んで、ご機嫌な様子でぐるぐると回している。なんとはなしに、楽しげに、小声で歌を口ずさんでいるようだった。それは真昼も知っている曲で、ダンシングラビット・ウィズ・シークレットフィッシャーズの" I Am Your Retribution "だ。

 その鍋と、その生き物と、比べてみると。鍋の方が若干大きいようだった。そもそも、その鍋は、たぶんヴェケボサンのような大柄な生き物が使うために作られた鍋なのだろう。真昼の背丈を超えるくらいの大きさの鍋であって。一方の、その生き物は、大体において真昼と同じくらいの背丈しかなかった。

 だから、普通であればその生き物が鍋の中を覗き込めるはずがないのだったが。その生き物は、以上の問題に対して、非常に画期的な解決策を用意していた。つまり、足元に踏み台を置いたのである。そうすれば踏み台の分だけ自分の背丈が高くなるので、無事に鍋の中を覗き込めるようになるというわけだ。

 ただ、その踏み台が……何か、奇妙だった。普通の踏み台というのは、四角かったり、かくかくとした階段状になっていたり、とにかく人工的な角度によって特徴付けられているものだが。それは、なんというか、非常に生物的な感じがしたのだ。複雑に重なり合って一つの形を作る曲線と、それに奇妙に腐敗したように見える柔らかさ。

 なんだか手のような形をしたものが生えている。なんだか足のような形をしたものが生えている。なんだか、あれは……頭? もしかして、ひどく歪んでしまった頭部? しかも、それが、無数に突き出ているのだ。手足だったら二本だけではなく、頭部だったら一つだけではない。

 一体あの不気味な物体はなんなのか、と、真昼は一瞬考えてしまったが。はっと気が付いて、何もかも混ざり合った集合体としてではなく、その本当の輪郭が見えてくると、あっという間に疑問は氷解してしまった。

 なんだ、あれは、ただの人間の死体だ。ただの人間の死体を、幾つも幾つも、雑に集めて積み重ねて、段々にしているのである。たぶん、十体かそこらだろう。それがちょうどいいくらいの高さの足場になって、その生き物の体を支えているのだ。だから、手足が何本もあるように見えたというわけだ。真実とは、いつだって、分かってしまえば拍子抜けするような簡単なことだ。

 ちょーんとわざとらしく爪先足立って、鍋の中の物を掻き回していた生き物であったが、ふと、鍋から顔を上げた。真昼がそこにいるということに気が付いたらしい。というか、とっくに気が付いていたのだろうが、今気が付いたような顔をしてこちらを向いたということだ。

 それから、ぱーっという感じで表情を明るくさせると。両手で握っていた棒をぽいっと放り捨てるみたいに手放した。鍋の方を向いていた体、くるんっと可愛らしく、真昼の方を向いて。それは……例えば小さな蝶々がお花畑をひらひらとひらめいているような足取り。すとんっ、すとんっ、と、死体を踏んで、その踏み台の上から降りてきた。

 無残に潰れた手の甲を踏み躙り、惨たらしく引きちぎられた足を足蹴にして。その生き物は、三段ほどの段を降りて、地上に降り立った。一番目の段は右足、二番目の段は左足、そして、最後の段は、ぴょんっと飛び上がってから、すとりっと、お行儀よく両足で着地して

 その生き物は。

 デニーは。

 真昼に。

 向かって。

 こう言う。

「真昼ちゃん、真昼ちゃん!」

 にぱーっと。

 無邪気な笑顔。

 浮かべたまま。

「準備、終わったよーっ!」

 つまり、こういうことらしかった。この場所で、なんのために何をどう準備していたのかは分からないが。なんにしても、その準備なるものが終わったために、真昼をここに呼び寄せたということだ。呼び寄せたというか、まあ、アビサル・ガルーダにぺぺっと落とさせただけであるが。

 「ごめんねー、待たせちゃって」だの「思ったよりもねーえ、時間がかかっちゃったんだ!」だの「あんまり壊しちゃうと後で使えなくなっちゃうからねー」「手とか足とか頭とか、ばばしーってしないようにしてたら、もうこんな時間!」だの、そんなことを言いながら、相変わらずのうきうきハッピーなテンション。とっとっとステップを踏むような足取りで真昼の方に近付いてくる。

 「それ」「え?」「死んでんの」「それって……あー、これ?」「それ」「うんうん、死んでるよ!」「なんで死んでんの」「なんでって、あははっ、決まってるじゃーん! デニーちゃんが殺したからだよー!」「ああ、そう」。踏み台を指差しながら、何が面白いのかけらけらと笑っているデニー。

 「この子達はねーえ、えーと、たぶん、ここら辺を通った隊商の子達だと思うよ。よく分かんないけどお、蛮族ーって感じじゃなかったからねっ」「隊商?」「そーそー。それでそれで、さっきまでここにいたはぐれヴェケボサンの子達に捕まっちゃったんだよー、きっとねー」。

 そう言った後で、フードの奥、可愛らしく首を傾げて見せる。「この子達の中にはあ、攻撃用の魔法が使える子とか、使えそーな武器を使える子とか、ぜーんぜんいなかったから。護衛として雇ってた蛮族の子達は、みんなみんなはぐれヴェケボサンに殺されちゃったんじゃないかな? それで、抵抗出来ないような子達だけここに連れてきて。後で、この子達のお友達から身代金をらーんさむしようと思ってたんじゃないかなー。それか、おなかすいた時に食べよーってしてたか。どっちにしても、こういう人間の子達は何かと便利に使えるからね! ほらほら、あっち、あっち、あっちの方! あそこのね、檻の中に入れられてたんだよ」。

 欠片の屈託もない笑顔。

 真昼に向かって。

 にぱっと、笑う。

 真昼は、この場所の地図を買う時にデニーとヤクトゥーブとの間に交わされた会話、この場所の立地、残されている生活空間から導き出される代替のイメージ、ここに誰もいないということ自体、それに、今のデニーのセリフから。ここで何が起こったのか、デニーが一体何をしたのかということ、なんとなく分かってきてはいたのだが。それでも、こう問い掛ける。

 「今さ」「んー?」「あんた、はぐれヴェケボサンって言ったじゃん」「んあー、そうだね」「その、はぐれヴェケボサンって、要するにヴェケボサンの盗賊団ってこと?」「え? あー、んー、そーだね、大体のはぐれヴェケボサンは、盗賊だとか山賊だとか海賊だとか、そーゆー感じのお仕事をしてる子達だね。でも、蛮族やってる子とかもいるよ。んーと、んーと、はぐれヴェケボサンっていうのはねーえ……普通のヴェケボサンって、ほら、テングリ・カガンとかさーあ、そういうリーダーを中心にして一つの集団を作ってるじゃないですかー。でもでも、とーぜんだけど、そーゆー集団じゃないないっていうヴェケボサンもいるわけで。そーゆー子達のことをはぐれヴェケボサンって呼んでるの。集団から追い出されちゃった子とか、自分から飛び出しちゃった子とか。それで、そーゆー子達は、あんまり難しいこと考えたくないよー好き勝手にやりたいよーって子達だから、今、真昼ちゃんが言ったみたいに、盗賊みたいなことをしてる子達が多いんだねー」。

 真昼は、少し考えてから続ける。「ここにいたのは」「うん」「ここにいたのは、その、はぐれヴェケボサンってこと?」「うんうん、そーだよ」「で、そのはぐれヴェケボサンは、盗賊団だったわけ?」「いっえーす、その通り!」。

 それから真昼は。

 周囲に。

 視線を。

 向けてみる。

 ぽつりぽつりと燃えている焚火。その炎がぱちぱちと音を立てながら吐き出す光の中に、抉り取られるみたいにして照らし出されている光景。改めてよくよく見回してみると……この要塞は、思っていたよりも広いようだ。

 どういうことかといえば。上から見た時には気が付かなかったのだが、庇のようにこちらに向かって突き出している断崖、その根元の辺りはぽっかりと口を開けた洞窟になっていたのである。いや、洞窟というのは少し違うかもしれない。広々と開いた入り口、大規模なホールみたいな形。

 平地の方は一万平方ダブルキュビトほどの面積だということは既に書いたが。断崖の下の部分も、それくらいの広さの空間、何か途轍もない大きさの怪物に抉られたみたいにして開けていたのである。そして、天幕こそ張られていなかったが平地と同じような生活空間が広がっていた。

 高さもかなりのものであり、五ダブルキュビトくらいある。一体どうやって出来たものなのかは分からないが……推測するに、もともとあった洞窟を、さらに掘り抜いて広げた物だろう。最初にこのような洞窟が出来たのは、あちらから入ってこちらへと出ていく道、あれと関係しているに違いない。あの道は、恐らくは、こういう荒野に特有の鉄砲水によって抉られて出来た物だろうが。あの角度からいって、入ってきた鉄砲水は、ちょうどこの洞窟がある辺りに直撃する。それからあちら側の道に向かって出ていくのだ。その鉄砲水の勢いで出来た洞窟だろう。

 ちなみに、デニーがさっき指差した場所、あそこで死んでいる人間達が入れられていたという檻は、その洞窟の奥の奥、一番奥にあった。一辺が三ダブルキュビトくらい、サーカスで動物を入れておくような持ち運び出来るタイプの檻だったのだろうと思われる物で、どうも三つか四つ並んで置いてあったらしい。随分と頑丈そうな金属で出来ていたようだ、しかも格子の一本一本に何かしらの魔学的な模様が描かれていたと思しい。明らかに、人間を閉じ込めておくにはオーバースペックな檻だ。きっと、この盗賊団が捕まえたなんらかの生き物を、それがどのような生き物であれしまっておくためのものだったのだろう。だから、どんな攻撃を受けても壊れないような作りにしていたのだ。

 最も。

 今。

 その檻は。

 全て。

 ぐちゃぐちゃに。

 原型も残さず。

 叩き潰されて。

 いたのだが。

 さて、ところで。平地の上にも、洞窟の中にも、その光景の中には……やっぱり、動いているもの、生きているものは、何も、何も、見えなかった。一通り視線を流した真昼は、デニーの方には視線を戻さないまま口を開く。「何人くらいいたの?」「はぐれヴェケボサンのこと?」「そう」「んー、どーだろー、百人くらいじゃないかなー。あんまり気にしてなかったからね、でもでも、それくらいはいたと思うよっ!」。

 今、真昼は過去形を使った。はぐれヴェケボサンについて「いる」ではなく「いた」と言った。そして、デニーは、それを訂正することなく受け入れた。ということは、やはり、ここには既にいないということである。どこかに行ってしまったか、あるいは殺されてしまったかだろう。

 デニーの性格、それに、あそこに積み重なっている人間の死体について考え合わせると。恐らくは後者であることに間違いはない。ただ、それでは、疑問が残る。いや、いや、違う。百人ものヴェケボサンをどうやってデニーが殺したのかということではない。そのことについてはなんの疑問もない、いくらヴェケボサンが高等知的生命体であるとはいえ、デニーの強さ、デニーの賢さ、それと比較すれば野鼠ほどの脅威でさえない。

 そうではなく、真昼が疑問に思ったのは、その死体が一体どこにいってしまったのかということだ。百人近くのヴェケボサンが、たった今、デニーによって虐殺されたわけなのだが。ここには、ヴェケボサンの死体は一つもない。

 先ほどは見渡す限りの光景に動いている生き物はいないと書いたが。ヴェケボサンの死体も、やはり、どこにも見当たらなかった。天幕の下は? ない。洞窟の奥は? ない。ここから見えない場所に置かれているという可能性もほとんどあり得ないことだ、視界を遮るようなものはほとんどないし、それに、いくら夜とはいえ、真昼の強化された視覚であれば、星明りに月明かりに、焚火の光で十分に見える。

 あそこにある例の踏み台、積み重なっているのは全て人間の死体だし、その数もせいぜいが十かそこらしかない。一瞬、あの鍋の中で煮込んでいるのかとも考えたが。明らかにヴェケボサンの死体が百も入るほどの大きさはない。二人か三人か、どんなに圧縮しても四人入ればいいといったところだろう。

 目を凝らしてよくよく見てみると。

 あちらに。

 こちらに。

 虐殺の痕跡のようなもの。

 見て取ることが出来る。

 例えば、真昼から少し離れたところ、とんっと意味もなく片足で立っているデニー。その足元は、まるで雨上がりの翌日、アスファルトの路上に出来た水溜まりのように、べっとりとした血溜まりが出来ている。深さは分からないが、大きとしては直径一ダブルキュビトもあるだろうか。砂混じりで、まさに今乾き始めたところという感じ。そういう血溜まりが、そこら中に出来ている。血液は、天幕にも飛び散っているし、鍋にも飛び散っているし、皿にも飛び散っている。

 それだけじゃない。そこここにある生活の痕跡も、そういう視点で見てみれば、皿はひっくり返されている、楽器は放り捨てられている、毛皮は蹴散らかされてめくれている。それに……生活の痕跡のそこここに、ちらちらと、不穏な気配が紛れ込んでいる。あそこに落ちている巨大な刃物は、どう見ても料理をするためのものではなく、屠獅子刀だ。それに、ヴェケボサンでなければ引くことも出来ないような巨大な弓。天幕のそこここに突き刺さって、引き裂いている矢。

 見て取れる痕跡から、それが起こった時の状況を推測出来る。恐らく、ここにいたはぐれヴェケボサンにとっては、デニーの襲撃は予想外だったのだろう。つまり奇襲だったわけだ。そう考えると……デニーが、なぜアビサル・ガルーダの周囲に隠蔽用の結界を張り巡らせたのかということが分かる。はぐれヴェケボサンに、奇襲を気取られないようにしていたのだ。

 デニーは、この要塞のど真ん中に突然落下してきた。しかも、落下の最中に、断崖の上の方にある見張り台にいたヴェケボサンを的確に処理しながら。ちょうど夕食の時間だったのだろう、鍋で料理を作ったり、楽器で騒ぎ立てたり。存在中枢刺激系のスパイスを使って、陽気な一時を過ごしていたに違いない。

 落下地点を中心として、その付近にいたヴェケボサンは何が起こったのかも分からないうちに殺されたと思われるが。さすがヴェケボサン、戦闘に特化した種族だけあって、すぐに態勢を立て直したようだ。生き残った者達は、それぞれがそれぞれの武器を取り、デニーに向かって一斉攻撃を開始したのだろう。

 戦闘は熾烈を極めた。とはいえ、それはあくまでもヴェケボサンにとってであって、デニーにとってはちょっとしたお遊び程度、口の中に閉じ込めた蝉を鳴かせ殺す猫のような態度であっただろうが。なんにしても、ヴェケボサンは、死に物狂いの反撃を試みたのであって。たぶん、人間達が入っていた檻が、あのような残骸に成り果ててしまったのはそのせいだろう。戦闘に巻き込まれたのだ。中の人間達も、その時に死んだに違いない。

 いくら抵抗しても無駄であった。ヴェケボサンは、次々に斃れていき。やがて、一人残らず殺されたのだ。そして、その後で……そう、死体だ。死体はどうした?

 ヴェケボサンの死体は失われた、しかも、ヴェケボサンの死体だけが失われた。人間の死体はあそこにあるのだから、要するにそういうことなのだ。それでは、なぜ人間の死体は失われなかったのか? ここに、何か重要な意味があるような気がする。

 準備。

 準備。

 この虐殺は、世界樹の奪取。

 その準備のために行われた。

 そして。

 ヴェケボサンの死体だけが。

 この場所から失われている。

 ここまでヒントが出てくれば、というかそれよりも随分前に、読者の皆さんは、どういうことなのかお分かりになってますよね。真昼も、さすがに、薄々感付いてはいたが。まだ、そのことが正しいのかどうかの確信はなかった。

 別に、真昼が正しかろうが正しくなかろうが、世界の大勢には全く影響はないのだが。とはいえ、気になりはする。なので、真昼は、そのことについてデニーに質問しようとする。

 しかし。

 真昼が。

 口を開いた時。

 デニー。

 はっとした顔。

 何かを思い出したかのように。

 両方の手で、口元を押さえて。

 こう言う。

「あっ! そうそう、真昼ちゃん!」

 地面についていた片足を軸に、くるんと半回転。真昼に背を向けて、すててっという感じで走り出す。とはいっても、それほどの距離を移動したというわけではない。すぐそこ、踏み台のところに戻っただけだ。

 すてんっ、すてんっ、という感じで、足取り軽やかに踏み台を上がっていって。一番上まで来ると、体を鍋の方に向ける。それから、にぱぱっと笑った笑顔、顔だけを真昼の方に向けて。歌うように、こう続ける。

「んふふー、おなか減ってるでしょー?」

 真昼は……確かに、空腹であった。アミーン・マタームであんだけ食っといて、もう腹減ってんの!? と思われるかもしれないが。ちょっと、もう一度、詳しく思い出してみて欲しい。アミーン・マタームで、どのようなことがあったのかということを。

 そう、真昼ちゃんは、テージャサ・マサラを食べるために自分の脳の一部を提供したのである。しかも、その時に体内の血液を全て失っているのだ。アミーン・マタームで食べた物は、大部分が、その時に負った損傷の回復に使われてしまったのであって。むしろ、ちょっとマイナスが出てしまったくらいだ。

 そんなわけで、じゃーっかん、飢餓状態に陥りかけていた真昼は。確かに、さっきから気になっていた。その鍋の中の物が。火にかけられて鍋で煮込まれている物が。

 夕食時に鍋で煮込まれている物。まず間違いなく食べ物だ。ただ、なんというか……食べ物であるはずなのだが……食べ物だとすると、こう、匂いがおかしかった。

 明らかに、人間の常識で「食べ物」だと思える匂いではないのだ。というか、なんの匂いかということははっきりと分かる。これは……まず感じ取れるのは、錆びついた鉄の匂いだ。ひどく酸化した金属の匂いなのである。そして、そのような匂いの中に、まるで鼻の奥をぐさぐさと突き刺しているかのような、凄まじい獣の匂いが混じる。つまり、総合的に解釈すると、これは野生の獣の血液が発する匂いだ。

 隠し味に血液を少々加えてございますとか、そういう生半可な匂いではない。鍋の中に血液をぶっこんで、そのままぐつぐつと煮込んでいるような匂いなのだ。明らかに、有史以来人間が生み出してきた料理のレパートリーにはあり得ない。

 ただし――これは非常に不吉な事実であるが――この鍋で煮込まれているものが、もしも食べ物であるとすれば。それは、人間の食べ物ではない。ヴェケボサンの食べ物なのだ。ということは、つまり、人間の食べ物の匂いがしなくても、なんの不思議もないということである。

 さて。

 デニーは。

 いつの間にか。

 その手に。

 器を。

 一つ。

 持っていた。

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