第三部パラダイス #15

 さて、幸福についての議論は、これでひとまず行き着くところまで行き着いたはずだ。結論は出た、つまり、あたしの幸福とは、あたしが幸福であるということだ。そして、あたしが幸福であるということは、あたしが既に救済されているということである。あたしが「このあたし」として救われているということだ。

 それは、まあいい。簡潔にして当を得た回答だ、それに馬鹿らしいほど当たり前なところもあたしの好みに合っている。惜しむらくは、どうもそれが不可能であるように思えることだが、それは今は重要ではない。結局のところ、誰だって完璧な人生など送ることは出来ないのだ。ほどほどのところで満足するのも生きる知恵というものである。まあ、あたし、死んでるけど。

 とにもかくにも、今のあたしにとっての本題は、あたしの幸福についてのことではない。あたしの欠損についてのことだ。あたしのこの欠損とは、なんなのか。そもそもの話、あたしがあたしの幸福について考え始めたのは、それが、どうやら、あたしの欠損の輪郭を形成しているらしいからだ。

 あたしにとって。

 最も重要だった、はずのもの。

 今のあたしから失われた何か。

 最後に。

 あたしは。

 そのことに、ついて。

 考えていかなければ。

 いけない。

 絶対に、そうしなければならない。だから、そうする。否定学的な方法……導き出されたあたしの幸福を月の光として、この身のうちに、あたしの欠損を浮かび上がらせよう。

 そのために。

 まず。

 あたしは。

 あたしの。

 死について。

 本当の。

 本当に。

 考えなければ。

 いけない。

 あたしは、今、この時まで……あたしが死んだということについて、本気で考えてきてはいなかった。少し思索を巡らせた、少し深みに入り込んだりもした。それでも、真実として、それが何であるかということを考えはしなかった。

 別に、理由があったわけではない。死んだことについて考えることが、怖かったとか、悲しかったとか、つらかったとか、そういうことは一切ない。あたしが死んだということについて、あたしには、特に感想がない。それは、まあ、そのような過去形の出来事としてそこにあるだけの話だ。

 それは、あたしにとっては現実なのだ。現実は受け入れることが出来るものでも拒否することが出来るものでもない。既にそうであるということには、なんらかの価値やなんらかの意味があるわけではない。これは必ずそうなるであろうことについてもいえることなのだが、とにかく、そういったことについて何かを考えるということは、ある種の矛盾でさえある。現実を肯定するだとか否定するだとか、そういうことをするのは、真円を描く弧の中に一つの角度を探すような愚劣さだ。

 あたしが死んだということは。

 良いことでも。

 悪いことでも。

 ない。

 あたしが生まれたということが。

 良いことでも悪いことでもないように。

 つまり、あたしは死んでいるのだが、それはあたしの問題ではないということだ。ただし……それでも、あたしが死んだということは、このあたしの欠損に関連している。

 一度死んだ。そして、死んでしまったあたしが、死んでしまったあたしのままで、まるで生きているようなふりをして動いている。はははっ、死ぬってこんな感じだったんだ。本当に、死ぬということは、死ぬということだけでは、なんて無意味なんだろう。主体に起こることは、実存に起こることは、確かに全てが悲劇だ。さりとて、あたしは自由とは程遠いところで作動する自動人形のようなものである。

 人間には意味がない。

 人間には価値がない。

 だからどうした。

 現実の重量に比べれば。

 そんな物語には。

 なんの重要性もない。

 とにかく、あたしは、死を契機として変容した。それまでのあたしとは全く別物の、今のあたしになった。ということは、死という現象、あるいはそれに付随する何かが、あたしに決定的な影響を及ぼしたということだ。

 そして、これは何度も何度も繰り返して思考していることだが、その変容に魂の喪失は関係ない。今のあたしは魂を有しておらず、魂魄のうち、魄しかこの身のうちに宿してはいないが。それでも、それはあたしの精神の器官には関係していない。

 そう、精神の器官。それが、あたしが欠損したもの。あたしは、その精神の器官によって、世界の姿を、今とは全く違うものとして見ていた。今見ているこの世界……かつてなく明晰な形をしたこの世界ではなく。もっともっと複雑な、甘ったるく腐敗する過程のようなものとして見ていた。それは、本来はあたし達のものではないものをあたし達のものであるかのように見るということだ。

 この世界はあたし達のものではない。なぜならあたし達は生命だからだ。社会も、自然も、あたし達のものではない。人間と人間との間には本質的な連続性はない。あらゆる世界性との切断の上に、あたし達は成り立っている。

 そして、その現実的状態。あたし達が、一人一人、一体化していないということ。それを、そのまま、生きるということ。なんらかの意味ではなく、なんらかの価値ではなく、必然としてそれであるということ。それが生命だ。

 今のあたしは。

 そのように。

 生きている。

 自由なものとしてではなく。

 自由ではないものと、して。

 どうしてこのような変容が起こったのか? 「死」のその瞬間に、あたしには一体何が起こったのか? もちろん、その瞬間、あたしは苦痛であったのだ。その瞬間に、あたしは、それ以外の全てではなかった。ただただ苦痛であったのだ。あたしからはそれ以外の全てが失われて、あたしは苦痛そのものであった。

 ただの苦痛ではない。ちょっと風邪を引いた時の苦しさとか、どこかの角に足の小指をぶつけた痛みだとか、そんなものとはそもそも質的に異なった苦痛である。だって、その苦痛は、実際にあたしを殺したところの苦痛なのだから。

 生命にとって、唯一の現実であるところの苦痛だ。そのような苦痛、生命の「疎隔性」を破壊しうる苦痛だけが、人間において物語を抹殺しうる。

 あたしの主観には一切関係なく、あたしの意識には一切関係なく、あたしの認識には一切関係なく、そして、あたしの主体性とも、完全に関係がない。あたしに対して絶対的な理不尽として現実であるところの苦痛。その時に、あたしは初めてこの世界において現実を感覚する。

 そう、つまり、その苦痛は偶然が無意味であるということを教えてくれるのだ。必然だけがこの世界の本質であるということを教えてくれるのだ。優しく、優しく、まるで母親のように教え諭してくれるのである。

 もちろん、あたしが死んだことは必然なのだ。真昼が真昼でなくなってしまったことは、まさに真昼にとって必然的な出来事であり、完全に「意味がある」ことだったのだ。「意味がある」、そして、「価値がある」。無意味なことや無価値なことはこの世界には存在していない、偶然などこの世界には存在していない。あらゆることは……そう、あたしの死は、起こるべくして起こったことなのだ。

 意味とは何か。

 価値とは何か。

 それは、生命の本質。

 つまり、運命だ。

 それがそうであるということ、この現実。それこそが意味でありそれこそが価値だ。もちろん、いうまでもなく、人間には意味も価値もない。ただ、人間とは完全に異なったものであるところの生命の本質には、意味も価値もある。そして、それは現実であるということだ。人間が生きるということは無意味で無価値だ。ただ、人間が生きているという現実は運命だ。そして、運命は人間のものではない。意味も価値も人間のものではない。

 世界の原理だ。重要なのは世界の原理なのである。この現実が、この現実として、この現実であるということ。そこには人間の人間性は一切関係していない。主体性はない、それゆえに多様性もない。多様性など無意味だ。一様であることのみに価値がある。

 人間が自分自身であるということ、自分自身としてこの世界に参加していること、それになんの意味があるか。もしも、あたしが、あたしの決意として善であろうとしたとしても。そこには価値はない。同じように、悪であろうとしても、それは反価値ではない。なぜなら、例えあたしが悪であろうとも、世界の原理には一切関係しないからだ。あたしの悪であろうとする決意は、現実の前には絶対的に無力である。従って、あたしは、悪であっても「良い」。あたしは悪であっても「良い」のだ。

 死は、あたしに、生命の「疎隔性」を気付かせた。そして、その結果として、あたしは善良であろうとすることをやめた。善良でなければならないと考えることもやめた。その結果として、善良ではない全てのものを否定しなければいけないという強迫観念も消え果てた。だから、あたしは、世界としての世界の中で自分が自分であるということを取り戻した。「この世界」の「このあたし」であることを現実化した。

 死ぬということも、自分がこの世界から滅びてしまい完全に消え去ってしまうということも、「このあたし」には関係がない。自分がいようがいまいが、世界が実在しようがするまいが、「このあたし」にとっては重要ではない。あたしに自由意思があるかどうかも、どうでもいい。そんなものは、所詮は戯論だ。現実とは、「このあたし」の力ではどうしようもないこと。何一つとして「このあたし」には属していないこと。絶対的な苦痛なのだ。

 そして。

 ああ。

 ああ。

 だからこそ。

 あたしは。

 安心して。

 幸福に。

 なりうる。

 この宇宙が始まった時の全て。それは、百七十億年前に始まったことであった。何もなかったところに、あらゆるものの根本的な法則が生まれ、それが真空を些喚かせる。エネルギーでもマテリアルでもない、その構造が、無垢な場を作り出す。やがて、相互的な関係性のうちに、法則は最適化を繰り返す。それによって、質量と運動とが論理付けられていく。空間において質量がどう位置しているのか、時間において運動がどう実行されるのか。最初の不定子の誕生だ。

 その不定子の原初的配列が法則を二つに分かつ。根本的な原理は、セミハの原理とオルハの原理と、この二つに分離する。そして、その二つの原理が不定子に適用されることで、基本子の中でも最も単純な種類のものが生み出される。

 この頃になると、最初に起こったあの些喚きの残響は収まってくる。物質を爆発的に運動させていたエネルギーは徐々に徐々に冷却していく。その結果として、宇宙は、放射というよりも安定によって支配されるようになってくる。

 安定の中で、何億年も、何十億年もかけて、基本子は成長していく。ある時は融合し合い、ある時は破壊し合い、宇宙の全体を満たしていく。基本子は雲を作り、その後で内側に向かって落ちていく。互いに互いを引き合い、その引き合う力の合計値があまりにも強くなると、一つの形として崩壊する。

 一つに、一つに、一つになっていって。それは、やがて、巨大になっていく。最初は、それは、構造における陥落部分に落ち込んだ気体の集合体だった。円盤状の軌跡を描いて集まってくる気体、その気体が、宇宙の寒さに耐え切れず、冷えて、固まって、密度を高めていく。そして、その密度が十分になったところで、初めて星が生まれる。

 小さな小さな星々だ。最初の星々は、星と呼べるほどの大きさでもなかった。ただ、それは無数にあった。無数の小さな小さな星で出来た、小さな小さな銀河。この銀河も、また無数にあった。どんなに小さくても、重力を持つものは引き合う。無数にある星と星とがぶつかり合って、巨大な星になっていく。無数にある銀河と銀河とがぶつかり合って、巨大な銀河になっていく。

 巨大な銀河が生まれる時には、当然、巨大なエネルギーが発生する。普通であれば宇宙に拡散してしまうようなエネルギーであるが、銀河の中ではそれが出来ない。星と星と、ぶつかり合うということ、それ自体の観念が、構造的な共同幻想を紡いで。銀河の全体を一つの巨大な結界にしてしまうからである。

 こうして捕らえられたエネルギーは、次第に次第に一つ所に集まっていく。そして、それは、一つの信仰になる。こうして神卵が生まれる。あたし達が呼ぶところの太陽である。もちろん、この時点では、神卵の中の神は姿を現していない。それはただただ偉大なものの信仰であるというだけだ。

 その太陽は巨大な観念重力によって、周囲の星々を自らの共同幻想の圏域に従えていく。こうして、ナシマホウ界における太陽系が作り出される。あるいは、太陽が持つ巨大な観念重力は、リリヒアント方向に概念平面を捻じ曲げる。こうして、マホウ界の原型となる陥穽が発生する。

 星は、星は、星屑は、捕食し合って。みるみるうちに惑星へと成長していく。幾つも幾つも惑星が生まれた、その中に。太陽から放射されるエネルギー、その熱量にとってちょうどいい場所にある物。ハビタブルなゾーンにある物。それが、あたし達が生息している、借星になる。

 今から、六十三億年前にこの星は誕生した。誰からも望まれず、誰からも祝福されないままに。まるで私生児のように密かに、この星は宇宙の銀河の片隅に生まれた。

 生まれたばかりのこの星には、たくさんの、たくさんの、星々がぶつかってきた。そのようにしてこの星は大きくなっていったのだ。ただ、ある日、ある時、ある瞬間。あまりにも大き過ぎる一つの星が、この星にぶつかってきた。そのぶつかってきた星は、この星よりは大きくなかったが。この星に近い大きさだったのだ。そのせいで、その星は、この星に捕食されることなく……かえって、この星の一部を抉り取った。

 そうして、その抉り取った時の衝撃で、二つに砕けた。砕けたままで、この星の引き合う力に捕らえられた二つの星は。やがて、片方はアノヒュプス、片方はナリメシアと呼ばれることになる。月の誕生だ。

 また、これはナシマホウ界で起こったことだが。マホウ界でも何かが起こり始めていた。それがなんであるかということの詳しいことについて、あたし達は、まだ知らない。それでも、借星が、ドリームランドと接したことによって起こったことだということはわかっている。もともとドリームランドにあった、巨大な何か。星に似ているが星ではないもの。誰もそれがなんであるかを知ることが出来ない秘密。それが、バルトケ=イセムと呼ばれることになる、三つ目の月となった。

 三つの月は、あらゆる方向から来るあらゆる天体の衝突から借星を守ることになった。もちろん、この時期には、太陽系にあるほとんどの天体は、ある程度の大きさにまとまっていたので。その結果として、衝突の回数が少なくなっていたということもあるが。借星は、ようやく、落ち着いてクールダウンすることが出来る状態に置かれることになる。

 それまで、この星は、イヴェール・オーシャンによって覆われていた。様々なイヴェールの、つまり生起金属の、原型となりうる物質と。それに、それ以外の物質とが、あまりの高温ゆえにどろどろになって溶け合った極子のスープである。このようなマグマは、やがて層として分化して。イヴェールをあまり含まない地殻部分、イヴェールを多量に含んだ粘性流動層、そして、そのほとんどがイヴェールによって構成された核となった。

 また、そのようなマグマの海、内側、外側、関係なく、ある力が蠢動を始めていた。借星という一つの巨大な観念重力に捕らえられた、この宇宙の様々な種類の魔学的エネルギーが。紡がれ、織り成されて出来た、形而上学的な力。ゼティウスだ。ゼティウスは、いわば自己増殖・自己変質を繰り返して自動的に情報の混沌を秩序化する信仰装置とでもいえるものであって。その一つ一つが、やがて、地球をも破壊する力、即ち神々になる。

 水蒸気や二酸化炭素や、そういった物で構成された原始大気の温室効果のおかげで、暫くは温度を保ってはいられたものの。やがて冷却の段階に入ったこの星では、まずは地殻部分が固体化して大地が作り出される。そして、更に、その温度は下がり続けて。原始大気の中に含まれていた水分が、液体化して、雨となって大地に降り注ぎ始める。雨は、長き長き間にわたって降り続け……そして、大地の上に、巨大な海を作る。

 海、海、海。ナシマホウ界の生物の、その全てが生まれたところ。様々な物質が、結合と分離とを繰り返して。飽きもせず、倦みもせず、人間などには数え切れないほどの回数の実験を繰り返して。やがて生まれた、非常に特異な物質。炭素を中心にして作り出された生物の材料。有機物。

 有機物同士が集まって、それは一つの形となる。何かを包み込むための形、内部と外部とを断絶させ、内部の独立を保つための形。つまり、生命の「疎隔性」のための形。袋状の、一つ一つ孤立した海、それは液滴と呼ばれる最初の生命だ。

 しかしながら、これは未だ人間が生物と呼ぶものではない。この液滴が、周囲の様々なエネルギーを使って、その内側に様々な化学物質を取り込んで。そして、それらの物質を内側に溜め込みたい、外側に逃がしたくない、そのような強欲から、膜を作る。袋状の構造を更に強化するために、後々になって細胞膜と呼ばれる器官を作り上げるのだ。

 強欲は、更に更に、内側に化学物質を取り込む。だが、その質量が一定以上になると、細胞化し始めた液滴は、一つであり続けることに耐えられなくなる。つまり、自己組織化した構造が、それ以上の質量を受け入れなくなるのだ。結果的にどうなるのか? 一つであったものが、二つになる。

 膜の内側に、これまでの器官とは全く異なった器官が生まれる。それは収縮環と呼ばれる、一つのリング状の器官だ。今までの器官は、その全てが、一つであるということのための器官であった。だが、この収縮環は、二つになるための器官なのだ。収縮環は、出来上がり、細胞化し始めた液滴の周囲、ぐるっと一周するような状態になると。自らが収縮することによってその袋状の物質を締め付け、やがては切断してしまうのだ。こうして、この星の上に、自己増殖する物質が誕生した。

 液滴の構造は、やがては、ホメオスタシス維持のための、簡単な代謝を可能にし始める。こうして、液滴は、生命としての状態を安定化させることに成功する。また、液滴の強欲は、やがては、ただただ物質を取り込むというだけでは満足に至らなくなる。液滴は、液滴そのものを飲み込むようになって。そして、無数の液滴の構造が、一つの液滴の中で、安定した協力関係を作り上げるようになる。こうして、液滴の進化は加速度的に進み……やがて、人間の定義によっても生物と呼ばれうるもの。細胞になる。

 単細胞生物の誕生だ。暫くの間は、細胞は、それ自体だけで進化していた。それ自体の内部構造をいかにして複雑化しうるかということに進化の焦点を絞っていた。けれども、やがて、その複雑化には限界が来る。単細胞生物から多細胞生物へと移行するべき時がやってきたというわけだ。

 最初は、それは、刺激に対してそれぞれ異なった反応を示す細胞が、幾つか集まって出来上がった寄せ集めの塊だった。それらが次第次第に一体化して、一つの生物になる。つまり、その形相子のレベルで融合することによって、ある刺激にはあのような細胞になり、ある刺激にはこのような細胞になるという、特殊な発生能力を手に入れたということだ。

 そのような細胞は、一つでありながら一つではない。その身の内に、機能分化の可能性を秘めているわけなのだから。そのような細胞が、くっつき合った塊の状態で増殖すると。外側の危険な刺激を受ける部分は全体を防御するための殻になる。そして、内側の代謝に関する刺激を受ける部分は代謝のための消化器官になる。こうして、自動的に、様々な用途の器官が一つになった生物が生まれる……つまり、多細胞生物が。

 また、多細胞生物の発生と同時に、もう一つ非常に大きな変化が起こる。その変化の原因となったのは海中における化学物質の希薄化だ。生物が発生する前の海中には、あるいは、生物がそれほど多くなかった時代の海中には。大量の化学物質が溶解していた。様々な物質が高濃度で含有されていた。

 しかしながら、生物が発生したことによって、そういった化学物質が次々と生物化していって。それだけでなく、この星自体が冷却していくことによって、海中に溶けていた化学物質が固体化していくことで。その液体の内部からは生物が使用可能な化学物質がどんどん失われていってしまったのだ。

 生物がその構造を保つためのエネルギーを、そういった化学物質に頼ることが出来なくなった。それでは、一体どうするか? 化学物質ではなく、生物が生息しているその場所にほとんど無尽蔵にあるもの。つまり、海の水と、太陽の光と、それに大気に頼ることにしたのだ。

 太陽光を色素極子で取り込むことによって使用可能なエネルギーにする。そのエネルギーによって、水を分解する。分解された水の部品によって、大気中に含まれている二酸化炭素を、生物が使用可能な有機物に変換するというわけだ。

 この光合成の誕生は、生物が、光・水・空気といったありふれたものによって安定化することを可能にしたという意味でも大きな変化であったが。もう一つ、別の意味も持っていた。つまり、それは、この星に酸素が供給され始めたということだ。

 光合成の主目的ではないところ。水が分解された後の部品のうち、有機物を作るのに使用されないもの。酸素は、光合成が活発に行なわれ始めると同時に、海中に大量に放出され始めた。

 そして、海に溶け込んだ酸素は、生物にとっては致死的な猛毒であった。酸素は非常に化学反応性が高い。それが触れたものをすぐに酸化させてしまう。それゆえに、生物を構成している有機物を簡単に破壊してしまう物質なのだ。ただし、その化学反応性の高さゆえに、これを使用可能になれば大量のエネルギーを発生させることも出来る。酸素は海中のあらゆるところにあり、生物は、もはやそれによって死に絶えるか、あるいはそれを利用するか、二つに一つという状況にまで追い込まれる。こうして、生物は、酸素をエネルギー源とする好気呼吸の能力を手に入れることになる。

 また、酸素の影響はそれだけにとどまらなかった。酸素は、やがて海中にとどまらず大気中にも放出されるようになる。当時、海の外側は生物が生きていけるような状況にはなかった。太陽から降り注ぐ紫外線が、生物の安定した状態を破壊するほどに強かったのだ。だが、こうして放出された酸素が層を作ることによって、そのような紫外線を抑えることになったのだ。

 酸素基本子二個で出来た酸素極子が紫外線によって分解されて、一個と一個との酸素基本子になる。そうして出来た一個の酸素基本子が、酸素基本子二個で出来た酸素極子とくっついて、酸素基本子三個で出来た特殊な酸素極子になる。その酸素極子が、更に一個の酸素基本子と結び付いて、酸素基本子二個で出来た酸素極子が二つ出来る。これを繰り返して層になる。

 こうして出来た酸素層が、大気の上層部で、生物に有害なレベルのスペクトルであるところの紫外線を吸収するようになったということだ。このようにして、生物が海中から地上へと進出する土台が整ったのである。

 まず生存の場を地上に移したのは植物であった。光合成には大気に含まれる二酸化炭素が必要である以上、大気から海中に溶け込んだ二酸化炭素を使用するよりも、そのまま大気中の二酸化炭素を使用した方が効率的である。そういう意味ではこの陸上進出は極めて論理的だったといえるだろう。

 ただし、地上は水中よりも遥かに環境の変化が激しく、また、水分を獲得することが困難な場所であった。そのため、地上に進出するにあたって、植物はより頑丈な外殻を獲得する必要があった。外部の環境から内部の環境を保護し、更に内部の水を保持し続けることが出来るような外殻である。

 このような植物の陸上進出によって、陸上には、いわば小規模な海とでも呼べるようなものが点在することになった。つまり、一つ一つの植物が、非常に高濃度な原始の海をその身のうちに保っているということである。こうして、陸上が海中化していくにつれて。また、そのような植物によって光合成が行なわれ、地上の酸素濃度が上昇していくにつれて。動物が地上に進出するための環境が整っていくことになったわけだ。

 まずは無脊椎動物が陸上で生存を開始した。そして、次に、脊椎動物が。最初に陸上に進出した動物は、無脊椎動物にせよ、脊椎動物にせよ、さしたる理論的確信もなくそのようなことをしたのだと思われる。ただ単に、深層の海よりも浅瀬の海の方が光合成をする植物が多く生息しているため、そこに生息し始めた。ただ単に、浅瀬で生息している以上、潮の満ち引きによって陸上と接する機会が多かった。ただ単に、そのように陸上と触れ合っているうちに、陸上で呼吸出来るような器官が発達してきた。ただ単に、その器官が陸上への進出を可能にした。

 しかしながら、そのような方向性の連続が、結果的に一つの完全な結果を生み出すことになったのだ。生物は、植物としてだけではなく、動物としても地上に進出することとなった。

 往々にして……人間は、勘違いしがちなものだ。情報の価値とは情報があるということ、それ自体によって成り立っていると。違う、全然違う。情報の価値とは、それが「ない」ということにある。つまり、余分なノイズが剥ぎ取られたことによって、本当に有用な情報のみが露出するということにある。よくよく考えてみれば分かるのだが、あらゆる情報は、この世界の混沌状態において、そのままそれとして既に存在しているのだ。情報は、獲得する必要などなく、あたし達に与えられている。ただ、それだけでは価値がない。有用な情報を覆い隠している部分が排除されて。認識可能なまでに整理されて初めて価値ある情報となる。

 そして、生物の進化も。要するに、混沌が有用な情報として整理されていくという過程の、その一形式を指しているのだ。そうであるとするのならば、生物の進化は、海中のような場所では起こりにくい。海中のように、生物にとって有利な環境、生ぬるく適切に安定した環境においては、環境によってノイズが切除されていくということが起こりにくいのだ。

 一方で、陸上では。その過酷な環境下では、ノイズは次々と破棄されていく。不要なものは消えさり、その結果として真に有用な情報だけが整理されていく。進化とは能力を付加していくことではない。常に切り捨てるということだけが洗練に繋がる。

 海中では起こり得ないような、次々と引き起こされる想定外の環境変化によって、地上の生物は海中の生物よりも素早く進化を続けた。不要なものは何度も何度も絶滅し、そのたびに、極限まで有用化された情報の中から秩序としての生物が発生した。

 それは爆発的なものではなかった。そのように、鈍く、盲目な進化ではない。どちらかといえばアサルトライフルから放たれた銃弾のような進化だ。生物は、一直線とはいわないまでも、それに近い軌跡を描きながら、ある一つの方向へと進化を続けていった。

 魚類から発生した両生類が爬虫類となり、爬虫類はやがて哺乳類を生み出す。鼠のような生き物が猿のような生き物になり、やがては、最後に、人類が発生する。種々多様な人類は、やがては、たったの二種まで収斂していく。ホモ・マギクスに……それに、もちろんホモ・サピエンス。今から七十万年前、ダニッチ大陸で、最初のホモ・サピエンスが産声を上げた。

 ホモ種は脆弱な生物だった。少なくとも、当時、既に、世界中で生存競争を繰り広げていた知的生命体の、どの種よりも弱く愚かな生物だった。ノスフェラトゥのような圧倒的な力はなかった。ホビットのような優秀な知性はなかった。偽龍のように神々の頸木を脱することも出来なかったし、ライカーンのような頑健な肉体も有していなかった。メルフィスやダガッゼや、そういった生物のような環境適応性もなかった。

 ホモ種には、他の生物よりも勝っている点など何一つなかった。だが、恐らく、それがホモ種に幸いした。あらゆる生物よりも劣っているがために、あらゆる生物のもとで、いわば家畜化したのだ。洪龍の下でも鵬の下でも、ユニコーンの下でもヴェケボサンの下でも、もちろん、いうまでもなく、神々の下でも。ホモ種は、そのような強力な生き物の庇護下に置かれ、幸福な奴隷として、他の生物には望めないような繁栄をほしいままにした。

 そして、それぞれの生物から、それぞれの知識を獲得していった。イタクァからは自然科学的な知識を、ホビットからは魔学的な知識を。ヴェケボサンやユニコーンや、そういった支配階層の生物からは社会科学的な知識を。それに、もちろん、神々からは神学的な知識を。それぞれ、かなり不完全な形ではあったが、獲得し、蓄積し、それを共有し合っていった。

 そうやって蓄積していった知識が、ある時、一斉に爆発した。人間は反乱を起こした。第一次神人間大戦、第二次神人間大戦、神々との間に起こしたこの二つの闘争を経て、人間は、ナシマホウ界における地上世界、その大部分の支配者となった。ただ、あくまでも大部分だ。その全てを手中に収めたというわけではない。幾つかの地域では闘争が続いているし、それに、未だに神々の支配下にある地域もある。例えば、月光国。

 月光国においては、第二次神人間大戦後も、その国家制度は神国主義体制のもとに置かれていた。つまり、ツクヨミを中心とした絶対神制のもとにあるということである。ただし、それはあくまでも国家制度としての形に過ぎない。つまり、近代的人間至上主義的な価値観においては、神々の専制の下にあるように見えるというだけのことである。

 月光国の権力は、そのような国家観が前提とする単純なシステムとは遥かに異なった生態系のもとにある。つまり、権力には明確な中心がないということだ。例えば、確かに、公的権力は月光政府のみがこれを支配しているが。一方で、技術的な権力については、政府から独立した謎野研究所が占有しているといっても過言ではない。また、世俗的な権力、つまり大衆の深層心理に影響を与えるカルチュラルなレベルでの支配には月光国正教会が大きく食い込んできているし、それに経済的権力の大部分はディープネットのもとにある。そして、これらの権力主体が様々に癒着し、あるいは、ある一面において敵対し合って。月光国の複雑な国家制度を形成しているわけだ。

 さて、そのような権力主体の一角には、先ほども触れたようにディープネットという企業が存在している。これは、月光国岸母邦に本店所在地を置くファニオンズ特許情報非公開企業だ。企業が公開している情報はあまりにも少なく、歴史に残されている記述はあまりにも曖昧であるため、その企業がいつから存在していて、どのような軌跡を辿ってきたのかということはほとんど分かっていないのだが。少なくとも、第二次神人間大戦の前から存在していたことは確実だ。

 一説によれば、月光国の神々が対スペキエース用技術を開発するために設立した研究機関がそのままディープネットという企業になったという話だが。とにかく、第二次神人間大戦中に製造された対スペキエース兵器は、それがどちらの陣営が購入したものであっても、そのほとんどはディープネットが販売した物だった。そして、そのような特需を発条として世界的軍需企業に成長したディープネットは。現在では、サリートマト及びキューピッズ・ボウと並んで、戦闘に直接使用される正面兵器の製造開発における世界三大企業のうちの一つとなっている。

 さて、そのディープネットであるが、ほとんど貴族共和制のような経営体制をとっている。つまり、開発や製造や、財務に営業に購買に、そういったそれぞれの部門ごとに特定の親族が担当しており、その部門のトップレベルは全て世襲制で決定されるということだ。そのような部門の一つ、財務部門を担当している一族が、砂流原の一族だ。

 砂流原と書いて「さながら」と読む。これは「砂」を「さ」と音読みしているわけではなく、「すなながれはら」と読んでいたものが約まってこのような読み方になったものだ。もともとは岸母邦の総社にて神職を務めていたという由緒正しい一族である。それが、いつ頃からかは分からないが、ディープネットの幹部としての地位に収まったのである。

 貴族的なあらゆる一族の例に漏れず、砂流原は膨大な親族集団を形成しており、それは大まかにいって本家と分家とに分かれる。幾つも幾つもある分家のうちの一つ、最も有力な分家のうちの一つに、砂流原静一郎という男がいた。砂流原信子と砂流原康成との息子だ。佐藤大学付属棒踏小学校、佐藤大学付属佐藤中学校、佐藤大学付属佐藤高等学校、佐藤大学商学部と、砂流原の一族の典型的学歴を積み重ねる。佐藤大学商学部在学中には、リュケイオン契約学部に一時期留学している。その後、新卒採用にてディープネットに入社。財務関係の仕事に就く。砂流原の名に期待される優秀さを完全に発揮し、数々の役職を歴任。最終的には、グループ財務統括本部長を任されるまでになる。

 また、そのような経歴を刻み込む前のことであるが、二十六歳の時には結婚している。相手は二歳年下、二十四歳の舞勇正子。見合い結婚、というよりも、はっきりといってしまえば砂流原の一族と舞勇の一族との間で決められた政略結婚であった。二人の間には愛の繋がりはなく、ただただ義務的な家制度が鎹となっているだけであった。当然のことながら、静一郎は、そのような夫婦関係よりもディープネットでの仕事を優先し。そのため、二人の間に初めて子供が作られたのは静一郎が三十二歳の時であった。

 生まれる前に砂流原深夜と名付けられたその男児は、残念ながら死産であった。この死産が衝撃となり正子は精神を病み始める。そして、その後、またもや夫婦関係は途絶えてしまうが。跡継ぎを作るようにという親族からのプレッシャーにより、その四年後、静一郎が三十六歳、正子が三十四歳の時に、ようやく第二児を作ることになる。高齢出産の直前という出産のタイミングでありながらも、その第二児は、第一児とは異なり、無事に生まれる。多少、新生児の平均体重よりも軽量ながらも健康な女児だった。

 それは。

 今から。

 十六年前の出来事。

 砂流原真昼は。

 あたしは。

 この世界に。

 生まれた。

 この世界がこの世界になってから、この宇宙が発生してから、百七十億年の間に起こった全てのこと。あたしがあたしへと至る、砂流原真昼という一人の人間が誕生する、何もかもの連続。それは、要するに、必然の必然であった。あらゆる出来事は、つまり、砂流原真昼、「このあたし」が「このあたし」になったということは。それ以外にいかなる選択肢も可能性もない絶対であった。

 「このあたし」は、生物としての形相子のレベルで、社会的な関係性が生み出す無意識のレベルで、「このあたし」として決まっている。どのような肉体を持つのかということ、どのような精神を持つのかということ。何を好み何を嫌うか、何を面白いと思い何をつまらないと思うか、欲望の性向、常識的偏見、本能と感情と、それに、いかなる愛を愛するか。そういった全部全部は、あたしが生まれたその瞬間から、いや、宇宙が生まれたその瞬間から、いや、宇宙が生まれる前の真空、そこに起きたその些喚きによって。絶対的に、決定されていたのだ。

 「このあたし」が幸福になるという時の、その幸福は。もちろん、「このあたし」に帰属するものではない。「このあたし」がそれを幸福であると思うのは、その「世界以前の些喚き」によって必然的に決定されていることなのだ。つまり、その幸福は、「このあたし」がそれを幸福であるとしようと孤絶のうちに決意したから幸福になったわけではなく、必然によって絶対的に強制されたからこそ、幸福として運命付けられたのだ。その幸福であるということに、あたしの主体は、あたしの実在は、一切関係していない。それが幸福であるということに、あたしの価値は関係していないし、あたしの意味は関係していない。幸福には名前がない。ちょうど奇跡のように。

 あたしが何をしようと無意味だ。

 あたしが何をしようと無価値だ。

 あたしは、何者にとっても。

 このあたしにとってさえも。

 何者でもない、虚無だ。

 そして、だからこそあたしは。

 この世界の、至高者、なのだ。

 そう、関係がない。「このあたし」には、全く関係がない。あたしがどのようにして生まれてきたのか、人間がどのようにして生まれてきたのか、生命がどのようにして生まれてきたのか、この星がどのように生まれてきたのか、この星系がどのようにして生まれてきたのか、この銀河がどのようにして生まれてきたのか、この宇宙がどのようにして生まれてきたのか。その百七十億年の全て、何もかもの連続は、あたしにはなんの関係もない。「世界以前の些喚き」さえも、「このあたし」にとっては、なんの関係もない。

 なぜなら、関係がないからだ。だって、そうでしょう? それは既に起こってしまったことであり、起こってしまったことはその通りにそこにあるだけのものだ。それについてはあたしにはどうしようもない。

 怪力乱神について考える意味などない。それはあたしが考えてどうにかなるものではないからだ。逝く者は斯くの如く、人間によって止まることはない。

 確かに運命はそこにある。あたしの全ては必然によって決定されている。そして、だからこそ、「このあたし」は安心して幸福になることが出来るのだ。

 もしも、「このあたし」が正しいからこそ「このあたし」であるというのならば。それほど不幸なことはない。なぜなら、正しくなくなった瞬間に、「このあたし」は「このあたし」ではなくなるからだ。もしも、「このあたし」が、主体的に実存として自立して、人間としての意味を持ち、人間としての価値を持ち、この世界に意識的に参加して、何者からも騙されることなく、何者からも利用されることなく、ただただ真実を理解して、その真実をもとに、個人として生きるということを決定しなければ幸福になれないのであれば。それほど惨めで、切なく、絶望的な不幸は、あたしには思い付けない。なぜなら、そのようなことをするためには、「このあたし」は、数え切れないほどの他者を最低最悪の不幸に叩き落とさなければいけないからだ。

 倫理や、哲学や、そういったものではないのだ。あたしは、倫理的に主体でありたいわけではない。哲学的に実存でありたいわけでもない。あたしは、幸せでありたいのだ。多様な個性が調和的に生きるということなどあたしには関係がない。自分自身として生きることもあたしには関係がない。あたしがあたしとして生きるということさえも、あたしには興味がない。

 つまり、あたしは「誰か」にとって「誰か」であろうと思っているわけではないのだ。あたしは生命として生きられればいい、一個の生命、無個性で、抽象的で、科学的で、客観的な一個の生命。お前は人間ではないと拒否されて堕胎された一個の胎児のように生きていられればいい。

 なぜなら、「誰か」であるということは選ばれていることだからだ。それは受選者の特権なのだ。「誰か」でなければ生きることが出来ないというのであれば、それは必ず特権者と非特権者とを生み出す。誰にも「誰か」であると思って貰えない者はどうすればいい? 誰からもお前には生きる価値がないといわれた者は、どうすれば生きていける? それは受選者の傲慢なのだ、それは受選者の卑劣なのだ。お前が「誰か」でなければ生きる価値がないというのは、それは既にお前が「誰か」だからだ。

 闇の中で闇でしかない者も。

 やはり、それは生命なのだ。

 なぜそうであるかを理解する必要はない。それは倫理の仕事であり、哲学の仕事であり、即ち「このあたし」にとってはなんの意味もない仕事である。あたしは奴隷でも構わない。あたしは家畜でも構わない。あたしは何か絶対的な悪にただただ利用し生かされているだけの存在でも構わない。

 そう、あたしは死んでいる。それでも、そのことには意味もなく価値もない。生きているという者として選ばれているということに興味はないのだ。人間が客観的な事実と呼ぶ現象、生きているとか死んでいるとか、それさえも、実は客観的な事実ではない。それが名付けられている現象である以上、それは客観的ではあり得ないのだ。

 あたしが死んでいるのか、あたしが生きているのか、そういった「客観的な事実」に関わらず、「このあたし」は「このあたし」として幸福になろうとしている。幸福でありたいと思っている。それだけが、「このあたし」にとって重要なことだ。あたしにとっては主観的だとか客観的だとか、そういった区別も意味がない。なぜなら、「客観的な事実」さえも、そう選択されなければ「客観的な事実」にはなりえないからだ。栄光に照らし出されることのない闇の中にあるものは客観的でさえない。

 「あたしと世界は一つではない」。生命は疎隔されている、運命的な必然の中で。あらゆる全体論的知覚は錯覚であり、生まれなければよかったという論理的に矛盾した錯誤の嘆きである。バジリスクは正しい、テーワルルングは正しい、舞龍は正しい。個別知性を持つ生き物は正しい、孤立捕食種は正しい。あたし達が液滴として世界からあたし達自身を切り離した時、それは既に始まっていたのだ。確かに、あたし達の思考は社会から切断された一個の断片に過ぎないだろう。だが、あたしの生命はこの世界ではない。「このあたし」の幸福は、この世界とは一切関係がない場所にある。世界が幸福に満たされても、「このあたし」が幸福にならない限り、「このあたし」は幸福にならない。

 ねえ、デナム・フーツ。

 あたし、馬鹿だったね。

 だって、死ぬまで気が付かなかったんだもん。

 でもね、死んだことで、ようやく気が付いた。

 こんなもの、必要なかったんだって。

 だから、あたし、捨てた。

 いらないから、ぽいって捨てちゃった。

 ねえ、デナム・フーツ。

 あたしの欠損。

 あたしが捨てたもの。

 ようやく、分かった。

 それは。

 それは。

 金の冠。

 真昼は……すっと、アビサル・ガルーダの手のひらの上に触れていた左手、中指の先を引き上げた。誘魔、誘魔。もう、そうしている必要がなくなったからだ。それから、足と足とを組んでいるその形を解いて。左手を膝につきながら、右手をアビサル・ガルーダの手のひらの上につきながら、立ち上がった。ゆっくりゆっくりと、一つ一つの動作を愛おしむようにして、その場に立ち上がった。風が吹く、冷たい風が。真昼の頬を切り裂いて一筋の傷を付けようとしているような、この世界の敵意ある風が。

 ああ、美しい、美しい世界。この世界の全てが真昼を憎み、その憎悪によって真昼のことを滅ぼそうとしているのを感じる。成道。道は成った。真昼は理解したのだ。そして、真昼はこの世界の敵となった。

 折しも、その光の最後の一片がこの世界から失われようとしている、その瞬間であった。夜だ、夜だ、夜が来たのだ。真昼が瞑想しているうちに、いつの間にか、太陽は、荒野の果てに沈んでしまっていた。

 黄色い光が橙色になり、赤になり、鮮血のような赤になり。やがて血液は腐敗していく。赤黒い血液の色が、腐って、腐って、どす黒い泥濘の色になる。太陽は、一片の光さえも残すことなく消え去った。後は、密やかな星々が、まるで軽蔑しているかのように真昼のことを見下ろしているだけだ。

 ああ、明晰! なんという透徹! 真昼は踊り出したいような気持ちだった。そして、踊ってはいけない理由など何もない。だから踊り始めた。真昼は様々なダンスを知っていた。砂流原の家に生まれた者として、幼い頃から上流階級の様々な嗜みを身に着けさせられていて。そのうちの一つにダンスもあったからだ。月光国の舞踊からラビット・トレイルまで、真昼の肉体は無数のダンスが規定する体の動きを記憶させられていた。

 しかし、それらの全てのダンスは、今のこの気持ちに相応しいものではないような気がした。なんというか、スタンピードが足りないのだ。めちゃくちゃさがない。魂を失った真昼の、この冷酷で冷徹で、それでいてファジーな画然性を表わせるほどのトータリタリアニズムな感覚がそこにはない。要するに、時代遅れなのだ、真昼のアヴァンギャルドな感性、最新で新鋭な論理を受け入れられるような器ではないということである。

 しかしながら、幸いなことに、真昼は一つだけ知っていた。今のこの気持ちを受け入れることが出来るだけの、パリーでヘンリーでクラッキーなダンスを。それは、あの日のダンスだ。あの時のダンスだ。つまり、最後の審判の前日、エーカパーダ宮殿で開かれた饗宴で、デニーと踊ったあのダンスだ。

 真昼を構成する細胞の一つ一つがロックンロールにスイングする、ダンディン・ダンディンなあのダンス、獣、獣、獣のためのあのダンス。それこそが、真昼に、世界の全てに憎悪されている今の真昼に、相応しいダンスだ。

 ワルツ。

 ワルツ。

 邪悪な獣のためのワルツ。

 真昼の体は。

 自然に。

 そのダンスを。

 踊り始める。

 たった一人で。相手もなしに。それでも、あたかも一緒に踊っている誰かがいるかのようにして、真昼は踊り始めた。アビサル・ガルーダの手のひらの上で、真昼の両足は、生命が躍動するようなステップを踏む。くるくると回転する真昼の腕には、誰の目にも見えない誰かが抱かれている。

 金の冠、金の冠! あたしは王子様に憧れていた! あたしは王子様に助けて欲しかった! あたしは王子様になって、世界の全てを救いたかった! 馬鹿みたい、今となってみれば、なんて幼稚な憧れだったんだろう。まるで、ありきたりな物語みたいだ。子供が、眠りに落ちる前に、優しい優しいお母さんに聞かせて貰う物語みたいだ。

 あたしは選ばれない。王子様によって選ばれることはないし、王子様として選ばれることもない。そんなこと、あたし、生まれる前から分かってたんだ。ただ、それを受け入れられなかっただけで。でも、あたし、もういい。もう、受け入れた。王子様は、勝手にお姫様を救っていればいい。あたしには関係のない物語の世界で。あたしは、まあ、あたしで勝手にするから。

 真昼が踊る、踊る、踊ると、真昼に触れた世界が、そのたびに呪詛の声を上げる。真昼には、それがたまらなく愉快だった。今なら世界を愛せるような気がした。無償で、愛せるような気がした。もちろん愛するだけだ、真昼は世界を救わない。

 あはっ……あははっ、あははははははははっ! 真昼は、なんか全てのことがくだらなく愛おしく思えてきた。魂が震えていた。魂が、雷鳴の鳴りやまない嵐の夜みたいに浮かれ騒いでいた。真昼は、とっくに死んでいて魂なんてないはずなのに。

 金の冠なんて! ああ、金の冠なんていらない! 王子様の頭の上、あの金の冠なんていらない! あたしの苦痛、逃れることの出来ない現実としての絶対的苦痛。それに比べれば、あの金の冠になんの意味がある? まるで、子供が玩具の冠を求めていたようなものだった。大人になれば、それどころか大人になる前に、どこかになくしてしまって。なくした後は思い出しもしない、金鍍金の安ぴか物の冠を求めていたようなもの。ねえ、でも、そういう安ぴか物の冠と、本物の金の冠とどう違うの? だって、どっちも、クソの役にも立たない。

 欠損。真昼は、自らそれを抉り取って捨てたのだ。あたしが正義であることは意味がない、あたしが邪悪であることと同じほどに意味がない。世界とあたしとの関係性にも意味がない。価値を追い求めてもなんの役にも立たない。問題なのは、てめぇらがあたしだと思ってるものじゃない。「このあたし」なんだ。問題なのは、理想なんかじゃない。ここにある苦痛なんだ。そして、そのような全てのことを定めたのは運命であり、あたし達はそのような運命から逃れることは出来ない。そもそも、あたし達の生命、その本質が、紛れもなく運命なのだから。

 真昼は、今や、信仰のような精度によって理解していた。あたし達は、皆が皆、意味や価値や、そういったものによって定められたところの誰かではない。生命の疎隔性によって定められる、絶対的なココナッツだ。あたし達は、人と人との関係性の中で、世界に包み込まれるようにして生きているわけではない。そうではない、全く反対なのだ。あたし達は、この世界を否定したから生まれてきた。生きている限り、この世界を否定し続ける。そして、それは必然的に決定されている絶対なのだ。

 憎悪、憎悪だ! 世界はあたしの肉体を憎んでいる! そして、あたしの肉体は世界を憎んでいる! あたしの肉体が物を食べなければいけないのは、それは世界を愛しているからではない。もしもあたしの肉体が世界を愛しているのならば、それならば世界から奪うのではなく世界に与えるだろう。世界の一部を、咀嚼し、嚥下し、この身のうちに閉じ込めなければいけないその衝動は、要するにあたしの肉体の憎悪からきている。これは戦争なのだ、領土を巡る戦争。あたしの肉体は、代謝により、世界から良いものだけを奪い取る。そして、この世界に、文字通りクソを撒き散らす。

 何が金の冠だ。戦争の場に、どんな馬鹿がきんきらきんに輝く冠をかぶってくる? 軽蔑、嘲笑。阿呆らしい、なぜあたしはそんなものを求めていたのだろう。きっと、目覚めていなかったのだ。あたしは、生きている間、ずっと夢を見ていたのだろう。寝る前に、お母さんに聞かされた物語。その物語の夢を見ていただけだ。そして、あたしは死んだ。そして、あたしは目覚めた。

 Buddha。

 あたしは。

 目覚めた。

 それで。

 そうして。

 じゃあ。

 今のあたしが。

 求めているものは?

 真昼の足元には……世界が広がっていた。真昼は、神にも等しい力を持つ鳥の両手のひらの上に乗っている。その鳥は、真昼を恭しく掲げている。真昼はいと高きところにいる、この世界の誰よりも高きところで踊っている。

 踊っている。

 踊っている。

 神よりも。

 高きところで。

 お前は何が欲しい?

 では、この世界を。

 あたしは、ほら、この世界が欲しい。この世界を銀の皿の上に置いて、あたしの足元に持ってきて。世界の全ての人間が、世界の全ての人間が、あたしのことを見上げる。あたしのことを、まるで縋るような哀れな目つきで見上げる。ああ、火を放て。銀の皿の上、乗せられた世界に、決して消えない火を放て。全ての人間が。全ての生き物が、燃え盛る炎に包まれる。絶対に逃れられない痛み、絶対に逃れられない苦しみ。皆が皆、苦痛にのたうち回りながら、悍ましい悲鳴を上げる。あたしは、それを、笑いながら見下ろしている。あたしは世界の破滅が見たい! ただただあたしのためだけに、世界が破滅していく様を見ていたい! ただただあたしのためだけに、惨たらしく地獄の底に落ちていく生き物達のことを見ていたい! 地獄の底でのたうち回ってる連中を、あたしが、あたしだけが、大笑いしながら見下ろしている! ああ、ねえ、それがあたしの求めているもの。

 踊る。

 踊る。

 真昼は踊る。

 まるで、虚無を、戴冠した。

 お姫様のように笑いながら。

 そして。

 それから。

 その、めちゃめちゃなダンスを。

 ただ。

 憎悪に冷たく冴えた星々と。

 それに。

 眇目のように。

 均整を欠いた。

 二つの月だけが。

 見つめている。

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