第三部パラダイス #14

 以上の議論により、あたしの幸福が解釈可能なものであるということを証明出来た。つまり、それは思考可能なものなのだ。あたしはそれが何かということを一つの真実として把握出来る。ということで、あたしは、それについて安心して思考を進めていくことが出来る。

 とはいえ、それがなんであるかということを一体どこから探っていけばいいのだろうか。まず、最初にやるべきことは……一般に幸福であるといわれていることについて検討していくことであろう。取っ掛かりはどこでもいいのだが、まずは一番目につくもの、一番大きいものに手を掛けるのがやりやすい。

 さて、一般に幸福といわれているものは一体なんだろうか。それを考えていく上で、またマコトに頼ることにしよう。マコトほど「一般」というものに詳しい者はいないのであるし、また、それについて、戯れのように容易く説明してみせることが出来る者もいないのであるから。

 マコトは、人間の言語的な領域・社会的な領域を公的領域と名付けた。そして、それを、あたしの目の前で、いとも鮮やかに、バースデーケーキでも切り分けるようにして、四つの象限に切断してみせた。公的領域における構造の四分類。政治的構造、経済的構造、文化的構造、社会的構造、意味論的にいえば、この四つに秩序化出来るということだ。

 そして、先ほども証明してみせたように、あたしの幸福は、言語的な解体が可能である。それは知性によって把握可能な具体的な本質で「なければならない」。そうである以上は……あたしの幸福、少なくともそれについて考えていくためには。このように四つに分けられた、一般的な人間の、言語的な秩序の構造から始めるというのは、非常に理に適ったやり方であるといえるだろう。

 とはいえ、ここで、マコトが構成した論理を丸ごとそのまま使用するということは出来ない。マコトの場合、この四つの象限に、それぞれについての人間の欲望を当て嵌めていった。政治的構造には「権力の欲望」を。経済的構造には「貨幣の欲望」を。文化的構造には「名誉の欲望」を。そして、最後に、社会的領域には「愛情の欲望」を。だが、あたしは、欲望について考えていこうとしているわけではない。

 結局のところ、これら四つの欲望は……マコト自身がそう言っていたように、闘争領域における強奪、関係性についての搾取に過ぎないのである。それが達成されるためには、誰かの犠牲が成り立たないといけない。勝者がいて敗者がいる。選ばれる者と選ばれない者とがいる。要するに、それは、選択なのである。それが選択である以上、それはあたしのための何かではない。まさに……まさに、栄光によって選ばれた者、受選者のための何かだ。

 ということは、幸福について考えるにあたってはこれらの欲望を「螺旋化」していかなければいけないということである。「螺旋化」というのは、本来的な意味においては同一平面上の主体同士の闘争領域でしかないこれらの構造的欲望を、上下方向に向かって螺旋的に褶曲・剪断することによって、栄光から隔離するということだ。あるいは、こういっていいのであれば、このあたしのこの世界に内属させるのである。

 マコトが提示した残り二つの欲望。上昇していく「清めの欲望」と、下降していく「穢れの欲望」。この二つの方向に構造的欲望を移動させるということ。それが螺旋化だ。欲望を幸福として理解するためにはこの方法しかない。

 移動する方向が上であるか下であるか、そのようなことを問うのは意味がない。そもそも、欲望は上に向かうと同時に下へも向かっているのだから。清浄は汚穢であり、汚穢は清浄である。それは、結局のところ、何かを変えうる偉大な力であるという意味において全く同じ事柄なのだ。問題なのは……闘争が行なわれる平面から欲望をずらすということである。

 それでは具体的に考えていこう。四つの欲望は螺旋化によりいかなる純粋な力に姿を変えるのかということを。少なくとも、関係性においては選択する必要がない純粋な力。

 一番目。

 権力に。

 ついて。

 権力とは未来を表現することに関する欲望だ。何も分からない推測することしか出来ない未来についての計画的決断を行なう。その計画的決断について、誰が最も賛同を得ることが出来るか。権力とは要するに、想像に関する承認の問題なのである。

 さて、ここから闘争的平面性を捨象した場合、一体いかなる力が生まれうるか。誰の計画でもない計画、誰のものでもない決断。あらゆる人間にとって共通の表現。それは、選ぶ者と選ばれる者とが同じ場所にいる場合にのみ初めて成立する未来へのヴィジョンである。そのヴィジョンにおいては、権力は自らを犠牲に向かって投げ出す。つまり、権力の獲得が、同時に、最底辺の被差別者へと転落するということを意味するのだ。

 なぜというに、そのヴィジョンを決定した者は、実は権力の獲得者ではないからである。そのヴィジョンは、人間を超越した何者かから予言されたものなのだ。かくあれかしと命ずる者から与えられたに過ぎないのだ。それが神であれ、あるいは共同体内の共通する意思と認識とであれ。表現者と権力者とは乖離している。ということは、権力の獲得者は、結局のところは、そのヴィジョンを提示した何者かの奴隷に過ぎないことになる。ここに、奴隷的権力者が誕生する。

 そして、そうであるならば。奴隷的権力者は、実際は権力を求めているわけではないのだ。なぜというに、それは奴隷的権力者への承認ではなく、超越者に対する承認であるからである。もちろん、権力者さえも、自らの承認を超越者に対して完全に明け渡している。権力者が求めているのは、結局のところ、権力ではない。この明け渡すという感覚、権力への欲望の完全な消失である。

 権力を求めないということ。

 跪き、自らを空白にするということ。

 つまり。

 それは。

 信仰。

 政治的構造において最も純粋な力とは信仰である。信仰という、関係性を脱した関係性。非関係的同一化。信仰において、人間は自分と他人とを一体化させることが出来る。何者とも関係する必要はない、信仰の中で、自分は他人であり、他人は自分であるのだから。ということは、そこには選択はないはずである。そうであるならば、これは、あたしの幸福である可能性がある。

 二番目。

 貨幣に。

 ついて。

 貨幣とは自然を伝達することに関する欲望だ。確かにそこにあるが理解不可能な自然そのものについて技術的計算を可能にする。そのようにして可視化された数字を、関係性の中で、より多く獲得するということ。貨幣とは要するに、観念的な領土の所有に関する問題なのである。

 さて、ここから闘争的平面性を捨象した場合、一体いかなる力が生まれうるか。この世界で最も原初的な技術、計算され得ないものを計算する。関係性の外側に具体化されるもの。それは、人間が何かを具体化する時にその根源に定置されるべきエネルギーである。そのエネルギーは、貨幣を完全に解体した先に存在する。人間はなぜ貨幣を求めるのか? 人間は、いかなる衝動から、この世界を貪ろうとするのか?

 いうまでもなく、進化だ。その根底には進化がある。ここでいう進化とは、生物学的な意味でのそれではなく、もっともっと単純に、一つの個体についてのあらゆる変化を先へ先へ進めていく根源的な力を指す。その力は、あるものがあるものであり続けるという持続の感覚を破壊する。完全な混沌を次々と変化させて何かを作り出す。形ある何か、それゆえに把握可能な何かを。それは、そこにあるという意味では伝達可能なものであるが、とはいえそれ自体を交換することが出来る貨幣ではない。そこにあるもの、そこにしかないもの。つまり究極的私有財産だ。

 そういう意味では、究極的私有財産の真実の目的は、関係性においての交換ではない。なぜというに、自分自身の可能性を所有するということこそ究極的私有財産だからである。そこで行われる伝達とは、人間から人間への伝達ではない。世界から人間に対しての、人間から世界に対しての、伝達なのだ。世界の前に立つということ、その場所において、あらゆる存在は一つに溶けて消え去る。

 貨幣の底の底にあるもの。

 世界を自分化するということ。

 つまり。

 それは。

 生の躍動。

 経済的構造において最も純粋な力とは生の躍動である。生の躍動という、自分化の可能性。世界を取り込むという意志。生の躍動は、領土という感覚を規定する感覚、つまり身体性を極限まで推し進めたところに存在する。生の躍動においては、あらゆるものが自分の身体のextensioとして存在している。そこには選択はあり得ない。あらゆるものが自分なのだから。ということは、選択はないはずである。そうであるならば、これは、あたしの幸福である可能性がある。

 三番目。

 名誉に。

 ついて。

 名誉とは身体を尺度することに関する欲望だ。理性と感性と、この二つの基盤となる潜在的な身体的感覚についての象徴的意味付けを行なう。その象徴的意味付けの中で、自分は一体どの位置にあるのか。名誉とは、要するに、実在の相対性における基準の問題なのである。

 さて、ここから闘争的平面性を捨象した場合、一体いかなる力が生まれうるか。比較を排除された意味、混沌そのものを象徴する零記号。身体そのもので感じるということ。それは、自分自身の絶対的位置が動かされるというエモーションである。そのエモーションを感じる時、人間はあらゆる基準を放棄する。ただただ実在そのものが、直感的な運動を起こすのである。

 そこには根拠がない。そこには説明がない。そこにあるのは、ただただ意志だけだ。意思というよりも、世界そのものが動き出す時の力のようなもの。それは相互的な関係性によって動くわけではない。ただ動くのだ。つまり、それは確かに尺度ではあるのだが、それが尺度である理由を誰も理解出来ない尺度だということだ。ただただ観照されるもの、直観的な畏怖。ア・ポステリオリにではなく、ア・プリオリにイデアであるもの。そう、それは客観的理想とでもいうべきものだ。

 確かに、それは個体によって主観的に認識される。ただし、その主観からは主観性の一切が排除されている。理性で行なわれるわけでも感性で行なわれるわけでもない認識。純粋な衝動として行なわれる認識。価値の価値の価値の価値。普通の価値は、他の基準となる何かの価値によって価値化されているに過ぎないが。それはそれ自体として、いわばアブダクション的に価値なのだ。

 他者との関係性において判断され得ない名誉。

 相対的ではない、絶対的な位置。

 それは。

 つまり。

 美。

 文化的構造において最も純粋な力とは美である。美という、比較不可能な基準。絶対的な位置を移動するということ。美は基準である、何者の恣意性も受け付けない基準である。美は美として完全に独立しており、その上で全ての人間の内的基準となっている。美に賄賂を贈ることは出来ない。その前では全てのものが平等に裁かれる。それは差別しない、それは選択しない。そうであるならば、これは、あたしの幸福である可能性がある。

 四番目。

 愛情に。

 ついて。

 愛情とは過去を蓄積することに関する欲望だ。過去において経験した一つ一つの矛盾についての慣習的反復を行なう。慣習的反復は記憶された混沌を一つの体系として結晶化させるが、その体系の中で自分はいかなる役割を与えられるのか。愛情とは、要するに、統合に際して何を与えられるのかという問題なのである。

 さて、ここから闘争的平面性を捨象した場合、一体いかなる力が生まれうるか。恣意性を含まない慣習、ただただ反復するということ。それは、何者でもないそれ自体を受け入れるというアクセプトである。そのアクセプトが受け入れる時、そこには自分と他者との区別はなくなる。無条件にして絶対の受容。

 捕食に似ている。他者の肉体を自分の肉体に取り込むようにして、他者の実在を自己の実在に取り込むということ。もっと簡単にいえば、他者が必要不可欠であるということ。ここにおいて、自分の役割は他者の役割と完全に一体のものになる。他者がいなければ自分はあり得なくなる。他者を自らの頭蓋骨に閉じ込める、他者を自らの脳髄とする。いや、むしろ、自分自身を他者に向かって投棄するといった方がいいかもしれない。自分は無となりそこに他者が流れ込む。自己放棄的愛。

 それは確かに関係性なのではあるが、肉や骨や、あるいは血液のようにして実在に内在している関係性なのである。その愛は、欲望というよりも生理的な欲求なのだ。行動原理について他者に依存すること、理由について他者に依存するということ。空っぽの容器の中に蓄積される全てが他者であるということ。他者についての記憶を中心とした体系。その愛は他者から求めない。なぜなら、既に全てを与えられているから。

 他者によって混沌を秩序化する。

 完全に開かれているということ。

 それは。

 つまり。

 無償の愛。

 社会的構造において最も純粋な力とは無償の愛である。無償の愛という、放棄によって成り立つ意味。境界の超越。無償の愛と、いわゆる愛情とは、全く異なったものである。愛情は、結局のところ他者を観客として演じるということだ。一方で、無償の愛は、他者とともに演じるということである。他者は、舞台上で、他者ではなくなる。自分自身の延長となる。そうであるならば、これは、あたしの幸福である可能性がある。

 このようにして。

 螺旋化は。

 なされた。

 あたしの前に。

 提示されたのは。

 四つの。

 純粋な。

 力。

 と、まあ、ここからこの四つの云々官々が真昼ちゃんの幸福であるかどうかについての真昼ちゃんの解釈作業が始まるわけなんですけれどね。その前に、ちょっといっておきたいんですけど、ここまで書いたこともここから書かれることも、全部真昼ちゃんの独断と偏見とであるということです。あくまで真昼ちゃんがそう思ってるだけってことね。例えば、ここまでのところでいうと……アブダクションってそれ用語的におかしくないですかとか、無償の愛と愛情との区別にちょっと無理がありませんかとか、他にもわんさかわんさか、個人的に突っ込みたいところはあるんですけど。っていうか、そもそも全体的に知らんがなって感じなんすよね。純粋な力ってなんなんだよーそんなことうだうだ考えてるくらいならなんか面白いことして物語を進めてくれよーって感じ。とはいいましても、真昼ちゃんがそう考えているからね、仕方なーくそのまま書き写してるんですよ。ここまで書かれたこと、ここから書かれること、色々と問題はあるだろうけれど、そういう問題の責任はぜんぶぜーんぶ真昼ちゃんにあります。それだけは覚えておいて下さいね。では真昼ちゃんず・しんきんぐに戻ります。

 ああ。

 それでは。

 解釈を。

 解釈を。

 していこう。

 この四つの純粋な力が。

 このあたしの幸福、に。

 本当に、値するのかということ。

 そうしていかなければ。

 ならない、のだ、から。

 なぜなら………なぜ? ははっ、馬鹿みたい。そんなことを聞くなんて、物の道理も分からない子供じゃあるまいし。なぜという言葉はこの場所ではなんの意味も持たない。ここは、あたしがそれを解釈しなければいけない時に立っているこの場所は、空白の場所だからだ。全てはここから始まるのである。とにかく、あたしは、しなければいけないからそれをするのだ。あたしは、このあたしの幸福がなんであるかを理解しなければいけない。それには理由はない。だから、なぜという問い掛けは成立しない。

 四つの純粋な力。

 解釈することで。

 それが。

 このあたしにとっての。

 幸福であるかどうかを。

 検討していこう。

 例え。

 その思考が。

 どのような、結果に。

 終わるのだとしても。

 まずは信仰について考えてみよう。信仰という力において、重大な問題となってくるのは、それが結局のところ自分と他者との関係性に還元されてしまうということである。例え、それが超越的なものと一体化する自分自身という信仰であったとしても、一体化する前の「このあたし」は、間違いなく超越的なものと一体化していない。ということは、そこには、「このあたし」と他者という確固とした関係性がある。

 この場合、他者は問題ではない。問題なのは「このあたし」の方である。つまり、「このあたし」がいなければ信仰は成り立たないという一点において、そこには比較されるべき主体が存在してしまうのである。一見すると、信仰において、「このあたし」と「このあたし」以外の何者かとは、超越的なものを通じて融合しているように見える。だが、それは完全な間違いだ。「このあたし」と「このあたし」以外の何者かとは、平等にはなりうるのだが、融合まではしていないのだ。

 それは、信仰において救われるのがまさに「このあたし」だということから理解出来る。あるいは、超越的存在と一体化する主体といってもいい。例えば超越的存在と一体化することで他者を救うことが出来るという信仰であるとしよう。それでも、他者を救うためには、まず「このあたし」がいなければいけないのだ。一体化するための「このあたし」がいなければいけない。

 そうであるならば、そこには、「このあたし」と他者との選択が生まれてしまうのだ。選択的な関係性。もちろん、超越的なものによって誰もが平等に救われるという信仰もありうるだろう。それでもそこには選択がある。それは、超越的なものが選択する選択ではなく、「このあたし」がする選択である。つまり、一体化されていない他者に対して感じる、「このあたし」の方がより信仰しているという選択だ。確かに、与えられる救いは平等である。だが、それを求める信仰は平等ではない。いや、正確にいえば、それは超越的なものによって未来において平等化されうるが、この現在において、まさに選択されているのである。

 「このあたし」は、また、他者からも選択されうる。つまり、他者は、あらゆるものを救う超越的なものと「このあたし」と、一体どちらを選択するか? いうまでもなく、あらゆるものを救う超越的なものである。そうであるならば、信仰の名のもとに、「このあたし」は他者から切り捨てられるわけだ。これは間違いなく闘争領域であり、そして「このあたし」の敗北である。

 そして、超越的なものは、もちろん、「このあたし」だけを救うというわけではない。「このあたし」だけではないあらゆる生けとし生けるものを救うのである。ということは、実際のところ、超越的なものは「このあたし」を選択するわけではないのである。ということは、「このあたし」は、この世界の何もかもから「選択されない」。

 つまり、何がいいたいのかといえば、信仰によって何かを得られるか得られないかは、完全なる偶然によって決定されるということである。信仰は選ぶ。救われるべき者を選ぶのである。そうであるならば、これは、完全に、「このあたし」の運命ではない。

 ところで、このような信仰の構造に類似しているのは、無償の愛であろう。ということで、次に思考の対象とするのは無償の愛だ。ここでは、そのようなことがありうるのか否かということを考慮の外に置いた上で、他者から無償の愛が与えられるということを措定してみる。その場合、その無償の愛は「このあたし」の幸福になりうるのか。

 ここでは、信仰において存在した問題のうちの少なくとも一つは解決される。その問題とは他者からの選択の問題だ。無償の愛の場合、「このあたし」は間違いなく他者から選択されている。というか、そこには選択がない。なぜなら、他者から「このあたし」に与えられる無償の愛においては、「このあたし」は他者だからだ。他者において、「このあたし」は選ばれるべき選択肢というわけではなく、むしろ選択の前提となりうる世界の全体性になるわけである。他者にとっては、「このあたし」は必然である。

 ただ、信仰において付随的な問題であった問題が、無償の愛においては非常に深刻な問題としてクローズアップされてしまう。それは「このあたし」が選択するという問題だ。つまり、「このあたし」が他者に対して無償の愛を与えうるか。これは無償の愛にとって最も本質的な問題だ。なぜなら、無償の愛とは、まさに「このあたし」と他者との双方向的な必然性によって成り立つからだ。「このあたし」が他者を必然化出来なければ、そこに救いはない。

 そして、いうまでもなく、「このあたし」は他者を必然化出来ない。なぜならば、「このあたし」にとって、愛は必然ではないからだ。愛は、選択の上に成り立っている。この他者でもあの他者でもなく、まさにその他者を選択したことによって成り立っているのである。もしも、これが、信仰であるならば。何か超越的なものを選択する必要はない、なぜというに、そういった超越的なものは一つしかないからだ。だが、他者は一人しかいないわけではない。他者というものは、多数の選択肢から成り立っている。

 無論、その他者に対して無償の愛という関係性で臨む段階に至っては(もちろんそんなことが出来るかどうかという問題はあるが)、その他者は必然化しているだろう。ただ、その前の段階では、必ず選択をしなければいけない。そして、選択をするという以上、それは完全な偶然である。いわば、ここには信仰とは逆転した偶然の構造があるというわけだ。「このあたし」にとって、無償の愛は無償の愛ではない。無償の愛の不可能性。無償の愛は、あたしの運命ではない。

 それでは、美はどうであろうか。よく、美は、無償の愛に似ているといわれる。対象に対する無償の愛であると。もしも、無償の愛と似たものであるのならば、それもまた「このあたし」の幸福ではないことになるが……さて、どうだろうか。

 美を解体する必要がある。美という感覚はどのような感覚なのか、なぜあたし達は、あたし達人間は、美を感じるのか。それは、恐らくは、理性的な段階と感性的な段階と、この二つの段階に分かれている感覚だ。

 最初に、理性的な段階について考えていこう。これは社会的に傾向付けられた嗜好性である。もう少し正確にいうのであれば……マコトの言葉を使うならば、定常安定化欲求である。あたしは、なぜ「レカのための葬送曲」を好むのか? もちろん、それは、幼い頃から聞かされ続けてきたからだ。ゲコルティエが作曲した音楽、その全てに通底する曲調。説明しがたい癖のようなものが、あたしの嗜好性に拭いがたく刻印されているからである。

 その曲を聞かされ続ければ、それがどのような曲であっても、ある程度の親密性が、あたしとその曲との間に生まれるものなのだ。そして、あまりにも何度も何度も聞かされ続けると、その曲に対する拒否感が生まれるだろう。あるいは、ある曲を明るい気持ちの時に聞けば、その曲に対して明るい印象を抱くことになるだろう。あるいは、ある曲を暗い気持ちの時に聞けば、その曲に対して暗い印象を抱くことになるだろう。

 これは、あらゆる美の感覚に対して共通する感覚である。例えば、ある絵を美しいと思うのは、それがその美しいと思う者にとって親密な物であるからだ。その者の定常性に寄与し、その者の安定性を保持するからこそ、その絵は美しい物となりうるのである。彫刻も、建築も、そのようにして美しくあるのである。

 ただ、もちろん、美とは理性によってのみ快いものというわけではない。ここで、感性の段階についても考えていく必要がある。一般的ないい方に従うとすれば、本能的に求められる美である。例えば、音楽というのは環境音及び人間が動作する際に肉体内で聞こえる音、この二つがパターン化されたものだという。つまり、狩りの時に聞こえてくる音響パターンが血沸き肉躍る音楽となり、自分の巣の中で眠る時の音響パターンが心鎮める音楽となるということだ。

 あるいは、絵画でいえば、それもまたパターンであるという。血管を通る血液の比率によって変化する皮膚の色のパターン、あるいは、海洋・森林・砂漠・氷原といった環境における色のパターン。そういった様々なパターンが予め脳髄の内部にインプットされていて、そのパターンが誘う感情が、色彩に対するあたし達の反応を決定付けている。あるいは、その色彩の配置、絵画に描かれているものの形状。不安を誘うか、恍惚を誘うか。そういったものは、人間が絵画以前に行なっていた行為に対して、生存に優位な決定付けを選択するために決定された生理学的反応だということだ。

 あたしはこれが正しいのかどうかということを判断するだけの知識を持たないが。とはいえ、それは至極正しい主張であるように思われる。なぜというに、あたしの中にある美に対する反応、その感性的な部分を深奥まで感覚してみれば。それは、結局のところ生物学的な何かに過ぎないように感じられるからだ。動物としての肉体が環境に対して返す脊髄の反応に過ぎない。そうであるならば、美について、その感性的段階は、生理学的反応であると結論付けてしまって構わないだろう。

 こうして美に対する二つの段階について確認することが出来た。第一段階として、生理学的反応がある。第二段階として、社会的条件付けがある。そして、美がこのようなものであるならば……美もまた、やはり、「このあたし」の運命ではない。

 それについて、詳しく議論していく必要はないだろう。こういったものが「このあたし」の幸福ではないということについては、解釈不可能なものがあたしの幸福ではないと議論した際に、もう充分議論してきたのだから。

 とにかく、社会的に条件付けられたものは偶然でしかなく、それは選択であり、「このあたし」の運命ではない。それに、生理学的反応についても、やはりそれは選択だ。自然環境によって選択された結果なのである。それは偶然でしかなく、やはり「このあたし」の運命ではない。その裏面に選択されなかったものがある限り、選択されないということについての絶対的な絶望がある限り。美では、あたしは、救われない。

 それでは、最後に生の躍動について見ていってみよう。ただ、とはいえ……ははっ! これもまた、「このあたし」の幸福には値しない。議論しなくても分かるくらい明確に、生の躍動なるものは、忌々しいほど受選者的なのだから。

 生の躍動とは、つまり人間的な身体性の内側に世界を取り込むということである。時間と空間と、この二つを創造的な運動性のもとに方向付けることによって、あらゆるものに対して爆発する意志を認めるということである。この意志というのは、いうまでもなく人間にとっての意志ではない。もっともっとも広い意味での意志。物質にとっての重力だとか電磁力だとか、そういったものと同じように、いわば世界が向かう方向性を導いている力である。

 つまり、その意志は、意志に従えるものと従えないものとを分けるのだ。その意志が、人間から見て複雑な方向に進んでいくものであるか、あるいは人間から見て単純な方向に進んでいくものであるか。それは大して重要な問題ではない。問題なのは、方向性があることそれ自体なのである。ある一つの方向がある限り、必ずそこにはもう一つの方向がある。そして、ある一つの方向に進むことが意志的に決定付けられているのならば、もう一つの方向に進むものは、要するに選ばれなかったものなのだ。

 内的な衝動、絶対的な肯定。それは、自らが存在しているということそれ自体の喜びであり、自らがこの世界においてあらゆる可能性があるものであるということについての喝采だ。だが、喝采とは栄光のためのものである。それは物語化された世界の中にしかない。そして、あたしは、物語の主人公ではない。

 確かに、生の躍動のうちにあるものは、選択を行なわないだろう。生の躍動のうちにある者にとっては、世界それ自体が自分の可能性になるのだから。全ては自分であり、自分は全てである。ただ、それはどうでもいいことなのだ。これは、それ以前の問題なのである。つまり、生の躍動が「このあたし」を選ばないということなのだ。そして、「このあたし」を選ばないというのならば、それが「このあたし」の運命であるはずがない。

 ああ。

 ああ。

 そう。

 その通り。

 それらは。

 全て。

 あたしの幸福ではない。

 結局のところ、蘿洞砂、それらの全ては偶然に過ぎない。偶然に、選ばれるべきものだけが選ばれる、受選者だけが選ばれる。それを理解するには、実のところ、このような論理的思考をわざわざ巡らせる必要などなかったのだ。この世界がこの世界としてあるがままに、なんらの物語的黙殺を施すことなく、完全なる現実としてその現実を見渡してみればすぐに分かることなのだから。

 だって、そうでしょう? 誰も、信仰として信仰している者などいない。この世界の最高の信仰でさえ、自分の人生を自分の人生としてそう生きているだけだ。誰も、無償の愛を全てにしている者などいない。どんな愛でさえも、自分が自分として愛するという構造を破壊することは出来ない。誰も、美を美しく思うことは出来ない。誰もが、誰もが、美の中に自分を映し出す鏡を見ている。誰も、生の躍動をそのまま生きることが出来ない。ただ単に、自分の可能性を実現する方法としているだけだ。

 虚無的な奇言。確かに、それは力のある言葉だ。だから、魅力を感じるかもしれない。それでも、それは夜の夜だ。底の抜けた夜、星が砂時計のように落ちていく。ナリメシア、アノヒュプス、月の光だけが白々しく、軽蔑し切った視線でこちらを見下ろしてる。全ては他愛もない物語に過ぎない。物語が終われば、良い子は寝る時間だ、ただし、あたしは良い子ではない。

 言葉に意味はない。かといって、身体に意味があるわけでもない。この世界の全てに意味がないわけでもない。要するに、「このあたし」に意味があるのだ。そこを理解しなければ、何も理解することは出来ない。あたしが意味を作り出すわけではない。あたしには主体も実在もないのだから。かといって、世界が意味を作り出すわけでもない。世界とあたしと、この関係性に意味があるわけでもない。運命が、必然的に、意味になる。

 そう。

 運命。

 四つの純粋な力について、それらの全ては、確かに「このあたし」の幸福ではなかった。とはいえ、それらについて論理的に梯子をかけていったその先に、あたしは何かを見つけた。それは、「このあたし」の運命だ。つまり……つまるところ……「このあたし」の運命が「このあたし」の意味であるならば。「このあたし」の幸福は、ああ、天与、運命でなければいけないのだ。それは、運命によって、運命的に定まっていなければいけない。

 いや。

 良くない。

 感情的だ。

 あたしは、感情的になってはいけない。

 一つ一つ、論理によって追っていかなければいけない。

 意味への解釈、有用な価値、あくまでも合理的に。

 目をつぶったまま飛び降りるような欺瞞は退けろ。

 四つの純粋な力があたしにとって不完全であったのは、それらが、未だに平面性を基礎とし続けていたからである。つまり、それらは現実ではないということだ。人間的な自分自身によって、物語として反解釈され続けていたということだ。それではいけない。もっともっと、原理的に考えなければいけない。この世界から物語を抹殺し、現実を救出しなければいけない。

 現実の中で「このあたし」が幸福であるにはどうすればいいのか? その答えへと至る有用な端緒を、先ほどの四つの純粋な力についての考察から引き出すことが出来るかもしれない。その考察の中で……あたしは……何度も何度も救いという言葉を使った。「このあたし」が救われるということ。「このあたし」の救済。

 人間の頭蓋骨の中にある本質的な衝動は、常に苦痛から逃れることにある。どこで読んだ本だったか……たぶん、どこかの男の家で読んだのだろう。ある両性具有の哲学者が、その著作の中でこう書いている。女性の快楽は男性の快楽に比べて本質的ではない。なぜなら、女性の快楽は純粋に快楽のみの快楽であるが、男性の快楽とは、快楽の欠如という苦痛から逃れるための快楽なのだから。あたしは女だし、男であったこともないので、それが本当なのかどうか分からないが。それでも、あたしが耐えることが出来なかったあの空腹、胃の腑に引き摺り込まれるような飢餓は、今までのどんな衝動よりも本質的であったということは分かる。

 根本的な問題について考えてみよう。衝動の究極的な目的とは何か? それは快楽を求めることではない。それは苦痛から逃れることなのだ。なぜというに、快楽は、いつも他人事だからである。快楽はいつも他人の快楽でしかないのだ。それは、受選者のためのものだ。受選者が物語で演じるものでしかないのだ。一方で、苦痛はいつも自分のものである。苦痛だけが自分のものなのだ。

 愛の交歓、自然の慈愛、心地よい草原の風が吹き抜ける中、遥か遠くに偉大なる山々を望みながら、愛する人達と愛を語り合う。まるで母親に抱かれているかのように海の中を泳ぎ、安心し切ったままで世界を善なるものと感じる。他人事だ。全部、全部、他人事なのである。

 そういった快楽を、心の底から、本気で、真剣に、現実だと思うことは出来ない。人間は、恍惚とした呆然の中で、ただただ薄らぼんやりとそれを受け取ることしか出来ないのだ。そう、快楽とは受け取るものなのである。そして、受け取る以上は、それは全て他人事なのだ。

 快楽は、いつも余分なものだ。

 それは、快楽を感じられるほど。

 選ばれた者のための。

 余分に過ぎないのだ。

 苦痛は現実だ。というよりも、苦痛を感じている時、それは初めて現実になりうる。あたしの中のぼんやりとした焦点は、苦痛によって初めて正しく働く。今までの人生で……あたしは、たぶん、一度も現実の中で生きてはこなかった。このアーガミパータに来てから。このアーガミパータで過ごした五日間で。初めて、あたしは、本当に生きたのだ。本当の苦痛の中で、本当の人生を生きた。いや、生きている。今、あたしは、生きている。

 そうであるならば、「このあたし」の幸福が、まさに「このあたし」の現実の中にあるものであるならば。それは、要するに、苦痛に関係しているはずだ。そして、苦痛が幸福であるわけがないので(これについては議論するまでもないだろう)(「このあたし」がそれを幸福ではないと思っている以上、それは「このあたし」の幸福ではない、以上、証明終了)それは苦痛がないということであるはずだ。苦痛から助け出されるということ。

 この命題は真である。

 「このあたし」にとって。

 幸福は。

 救済だ。

 さて、そうであるならば。「このあたし」の幸福がなんであるかを知るためには、あたしにとって救済とは何かということを考えていけばいいことになる。あたしは、どのように救済されるべきか。あたしは、いかにして救済されるべきか。

 それを考えていくためには、また蘿洞に戻る必要があるだろう。蘿洞に入り、その砂を求めなければならない。つまり、それは、平面性の完全な捨象とはいかにして成り立ちうるかということだ。人間の言語的な関係性、社会における現実の物語化。これはいかにして抹殺し得るのか。

 マコトのいうところの公的領域が交わることのない、純粋な私的領域を仮定するのだ。つまり、思考の標的を「清めの欲望」と「穢れの欲望」と、この上下運動にだけに絞るということである。それは螺旋でさえない。一次元的な運動だ。

 清めをこちらに引き寄せる。穢れをこちらに引き寄せる。清めによって肯定される、穢れによって肯定する。それはどのような関係性か? 世界における混沌を、そのまま自分の現実に向かって引き込むということだ。そこには言語による物語化は必要ない。それは、そのまま、秩序になるのだ。つまり、自分という領域の内部に混沌を抱え込むということである。そこにある関係性は、もはや関係性ではない。そのvanity pointにおいて、他者という混沌は、既に自分という現実であるからだ。

 つまり、それは。

 他者と。

 自分と。

 その二つ。

 別のものを。

 運命のもとに。

 たった一つの。

 現実にすること。

 それは理想であってはいけない。理想は物語だからだ。物語は偶然であり、物語は選択であり、結局のところ、それは「このあたし」には絶対に実現しない。それは現実でなければいけない。それはそこになければいけない。ただただそこになければいけない。なぜなら、現実とはただただそこにあるものだからだ。そして、運命とは、既に起こってしまったところの現実である。

 救い。

 救い。

 極限まで単純化した救済を考えてみよう。

 「このあたし」が、他者に救われる。

 これは「このあたし」の幸福なのか。

 この救済には、二つのパターンが考えられる。その二つの違いは非常に精妙であり、ある種の切り紙の細工のように捉えがたいところがあるが、とにかく一つずつ考えていってみよう。まずは、絶対他力とでもいえるような立場についてだ。

 この立場を取る場合、あたしは、救われるということを信じていればいい。いや、信じている必要さえない。ただただ自分が救われていないということを現実として現実であればいいのだ。救われていない自分、救いを求めている自分を、そのままに生きていればいい。

 そうすれば、「このあたし」が救われるということを信じていようといまいと。あるいは、他のあらゆる条件、善であろうが悪であろうが、智であろうが愚であろうが、大であろうが小であろうが、凡であろうが聖であろうが。なんら関係なく、「このあたし」は救われるということである。

 ここではっきりと断っておくが、これは信心の問題ではない。これを信心の問題とする者は、皆が皆、頭がおかしいのだろう。信じる必要はない、なぜというに、信じることが条件であるというのであれば、信じられないものは救われないからだ。そのような救済は無意味である。この世界に存在する価値がない。救われていない者とは、常に、信じることさえ出来ない者なのだから。そうではなく、救われていないのであれば、救われるということ。これが絶対他力の条件である。

 これは非常に有望であるように思われる、救われていないという現実が、そのまま救われているという現実に移行するのだから。ただし、一つ、たった一つだけ問題がある。それは、あたしは本当に救われていないのだろうかということだ。

 別に、この観点から見れば救われているだとか、あの観点から見れば救われているだとか、そういう馬鹿げたことをいいたいわけではない。そういう相対的な話ではなく、本当に、絶対的な現実として、あたしは救われていないのだろうか。

 あたしが救われていないという状態であるためには、あたしは、救われていない状態であるとして選ばれていなければいけない。つまり、救われているかいないかということは完全な偶然によって決定されるということだ。そこにはいかなる必然性も関与していない。だって、あたしが救われていないという必然性なんてどこにもないじゃない? そうであるならば、救われていないという状態さえも、受選者のためにしか用意されていないのだ。

 また、もう一つ大きな問題がある。あたしは果たして救われていないと「思っているのか」という問題だ。実際に救われているか救われていないのかではなく、そう「思っているのか」どうかということ。

 実際に、あたしが救われていない者として選ばれていなくても、あたしがそう思っていれば救われる余地はあるだろう。それが絶対他力の立場だからだ。だが、あたしがそう思うためには、あたしがそう思えるだけの能力がある人間でなければいけない。つまり、あたしが有能かそうでないかということが、あたしの救いに直接的に関係してくるのだ。

 この場合、無能なる者は救われないことになる。無能なるあたしは、その無能さゆえに救われないということになる。これほど悲惨なことはあるだろうか? 絶対他力の立場においては、無能者は切り捨てられるのだ。救われる価値のないものとして、見捨てられ、破滅の底に落ちていく他ないのである。

 つまり、絶対他力の立場は「このあたし」にとっての救いではない。こんなものが「このあたし」の救いであるはずがないのだ……それでは、もう一つのパターンはどうだろうか? こちらは決定不二と呼ばれる立場である。

 この立場においては、救われるということは既に決定している。そこにはいかなる疑問も挟まれることはない。救われるということ、救済に、いかなる選択もあり得ない。つまり、救われている者であろうとそうでない者であろうと、救われていると思っていようとそう思っていまいと、関係なく救済されるということである。救われることを望んでいない者さえ救われる。

 というよりも、この世界において、救済以外の何ものもないと考える立場。それが決定不二だと考えた方がいいだろう。その救済においては救われる者の区別はない。救われる者と救う者の区別もない。あちらとこちらの区別なく、過去現在未来の区別なく、生と死との区別さえない、つまり内側と外側との区別がないのだ。

 無論、それを信じているか信じていないかということも全く問題にならない。そして、捨てているか捨てていないかさえ関係がない。自力であるか他力であるかさえ、ここでは大した意味を持たないのだ。ただただ、それがそうであるままに、救済は絶対化されているのだ。

 救済以外には何もない。何もないのであれば、そこには選択肢は生まれ得ない。その救済は偶然ではなく、必然である。ということは、この立場であれば、「このあたし」は救われうる……ように思える。

 だが、ここで一つ大きな問題が出てくる。あまりにあまりに大きな問題だ。つまり、この時間、この空間、この可能性にいる、まさに「このあたし」が「このあたし」として救われていないということだ。

 決定不二の真実性を疑っているわけではない。そもそも、これは単なる思考実験に過ぎないのだから、それは思考実験の中では絶対的に真実である。つまり、あたしの救済は決定されている。けれども、まさに「このあたし」は救われていないのだ。

 要するに、決定不二において救われるあたしは「このあたし」ではない。「このあたし」というのは救われていないあたしであり、そして、決定不二において救われるはずのあたしとは、まさに決定不二において救われたところのあたしなのである。

 「このあたし」は救われない。もちろん、後々になって救われるという安心感はあるかもしれない。けれども、それが現実のものとはなっていない以上、「このあたし」には救済に対する確信はない。「このあたし」にとって、救われるか救われないかは、結局のところ可能性の話でしかない。つまるところ偶然なのだ。それが絶対的に決定された救済であろうと、「このあたし」にとっては、それは未だに可能態にとどまるのである。

 そうであるならば、「このあたし」にとって、ここになく、また絶対的な確信を抱けるわけでもない、可能態の救済が、果たしてどれほどの意味を持つのか。それは他人事に過ぎない、「このあたし」にとっての現実ではないのだ。そうであるならば「このあたし」は救われない。決定不二でさえも、この空間、この時間、この可能性において、苦しみ、痛み、悩み、つらさを抱え生きている全ての人間にとっては完全に無意味なのだ。

 確かに、決定不二はあらゆるものを救済するだろう。あらゆる空間の、あらゆる時間の、あらゆる可能性の、あらゆる衆生を救うだろう。ただし、「このあたし」だけを除いて。そうであるのならば、決定不二は、「このあたし」の救いではない。

 そう。

 救済の根本的な原理。

 他者が「このあたし」を救うということ。

 これは「このあたし」の救い、ではない。

 これでは駄目なのだ。これでは、全然、駄目だ。「このあたし」を救えない、ほとんど原理的な部分で、この世界の、この現実の、絶対的な決まり事のレベルで。他者、は、あたし、を、救え、ない、のだ。

 他者が何をいったところであたしには無意味なのだ。あたしにはそれを信じることが出来ないのだから。他者が何をしようとあたしには無意味なのだ。あたしはただ単に動かされるところの客体に過ぎないのだから。結局のところ、他者が何をしようともそれは可能性の範囲にとどまる。それは偶然でしかなく、従って、あたしは選択される。

 その他者がどれほど力を持っていようとも。全知全能であろうとも無意味である。なぜなら「このあたし」が全知全能ではないからだ。「このあたし」が全知全能ではない以上、この世界は、この現実は、「このあたし」にとっては必然ではない。畢竟、それは偶然そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないという範囲にとどまる。

 もしも、お前が、「このあたし」が救われると断言したとしよう。あたしはそれをどう信じればいい? 信じることが出来ない者に信じろというの? それか、信じても信じなくても同じだと、いずれは救われるといわれても。まさにここにいる「このあたし」が救われていないのならば、それになんの意味がある? たった今、地獄の底で、苦痛にのたうち回っている「このあたし」のことを、一体誰が救うというの? ねえ、ねえ、教えてよ。お前はいったんだから。衆生を救うと。生けとし生けるものを救うのだと。じゃあ、それならば、「このあたし」を救ってみせてよ。

 もちろんお前は救えない。

 それならお前は。

 ただの詐欺師だ。

 ここに至って……ようやく、あたしは、「このあたし」の幸福が何かということを理解する。それは救いだ。そうして、それだけでなく、それは他者が介在しない救いでなければいけない。なぜなら、他者が介在する限り、それは偶然になるからだ。偶然とは、つまり地獄である。地獄の底で無残に引き裂かれ、冷酷に見捨てられ、そのまま腐り果てることである。偶然、それは無限の破滅であり、永遠の腐臭である。常に最悪が与えられるということである。少なくとも、受選者ではない者にとっては。

 ダコイティの森にいた。

 全てを諦め切ったあの男。

 タンディーチャッタンで。

 建物に潰されて死んでいった少女と。

 孫娘の死に、倒れて、死んだ、老人。

 あるいは。

 タンガリ・バーザールで。

 殴り殺された。

 掏摸の、少年。

 お前のいう、救いは。

 物語は。

 偶然は。

 彼らの、彼女らの。

 救いではないのだ。

 そうではない。「このあたし」が救われるためには。まさに、「このあたし」が、「このあたし」だけが。何者の介在もなしに、予め救われていなければいけないのだ。救われていないあたしが、救いを求めているあたしが、その空間で、その時間で、その可能性で、ここで、救われていなければいけないのである。そう、あたしは「救われていないあたし」であってはいけないのだ。「救われているあたし」でなければいけないのである。その時、初めて、あたしは救済される。

 ただ。

 一つ。

 問題がある。

 「このあたし」は。

 世界において。

 現実において。

 まさに。

 救われていないのだ。

 そうであるならば……

 そうであるならば……

 あたしは。

 失われた心臓の鼓動のように。

 こう問い掛ける。

 決して救われ得ない者をいかにして救えるのか?

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