第三部パラダイス #13

 まず考えるべきこと。生命の本質についての問題。それに関わる諸々の議論について。その欠損は……人間の生理学的医学的「変化」なのか? いや、違う。それとは全く異なるものだ。例えば痴呆症による「変化」、例えば脳外傷による「変化」。そういった「変化」は、結局のところ「変化」に過ぎない。それは真昼の変容ではない、全く異なったものだ。なぜというに、そういった「変化」の場合は、それを否定するにせよそれを肯定するにせよ、未だに自分自身という感覚の同一性が働いているからである。

 例えば、痴呆症の老人が、いつまでもいつまでも同じところを行ったり来たりしている場合。例えば、脳外傷を負った兵士が、戦場における闘争に身を投げ込むことの必要性を見失ってしまった場合。それは、別に、その人間がその人間であるところの絶対的必然性として、生命が喪失されたわけではない。

 例えば、その老人が、自分が自分であるということさえ思い出せないとしよう。あるいは、自分が自分であるということにさえもはや関心がないと仮定してみよう。それでもその老人は自分自身であるままである。なぜというに、それは記憶と欲望とを失ったというだけの話であるからだ。記憶は自分自身ではあり得ないし、欲望も自分自身とは無関係である。その双方を失ったとしても、その老人がその老人であったという事実に変わるところはないし、その老人の肉体がその老人としての生命体を継続しているということにも変わりがない。そもそも、原理的に考えてみよう。その老人がその老人であったという現実は、その老人の主体性のうちには存在していない。現実は現実の中にしか存在しないのだ。そうであるならば、その老人がその老人としての自分自身であるのかどうかということ受け入れるか、受け入れないか、それとも問題自体を放棄するかということは、その老人の選択によるものである。選択は偶然に過ぎず、偶然は主体によって操作可能だ。ということは、それは完全な破壊ではあり得ない。

 もしかして、選択ではないと強弁する者もいるかもしれない。その老人は、そのことを考える能力さえ失ってしまっているのだと。それならば、その老人に対して、無理やりその問題を押し付けてみればいい。その老人に対して、お前がお前自身であるのかどうか決めろと、殴りつけながら、蹴りつけながら、怒鳴りつけてみればいい。その老人は――植物状態でない限りは――そうされることを泣きながら嫌がるだろう。そう、その老人は嫌がっているのだ。考えることを。それは問題自体の放棄という一つの選択である。無論、その老人には、既に考えるという能力がないだろう。だが、能力の有無は選択可能性とは本質的に無関係だ。博士になる能力がないから博士にならないという選択をするように、大臣になる能力がないから大臣にならないという選択をするように、その老人は、考えるという能力がないから……というよりも、考えるという能力を取り戻すための努力をしたくないという、完全な怠惰から、考えないという選択をしているだけの話だ。人間が、外科的手術によって天使にもなれる、形相子操作によって悪魔にもなれる、そのような世界で。たかだかちょっと考える能力をなくしたくらいのこと、世界の終わりのようにぎゃーすかぎゃーすか騒ぎ立てないで欲しいものである。

 仮に、仮にではあるが、今まで出来なかったことが出来ず、苛立ち、苦痛を覚え、困惑を覚え、恐怖を覚えたとしよう、それはそれで、まあおかわいそうなことであるが、それもまた絶対的な破壊とは完全に無関係なことである。なぜというに、その場合、「過去にはこれこれのことが出来た」という形で以前の自分自身との継続性があるからだ。というか、そういった「変化」は、ただ単に、大切にしていた安物のガラス玉を取り返しがつかない形で割ってしまい、それをいつまでもいつまでも探している子供のように愚かだというだけの話である。それは確かに悲劇的ではあるが、ただし救済には値しない。

 あるいは、もしも……その老人の家族が、その老人のことを見て、まるでその老人がその老人ではないように見えたとしよう。そして、その老人は絶対的に破壊されてしまったと主張するとしよう。それは、結局のところ、余計なお世話である。その老人としては、家族がその老人のことをその老人と思おうと思うまいと、全然全く知ったことではない。その老人は、ただただ痴呆症に対する完全な介護を要求しているだけなのである。食事したい時に食事出来て、入浴したい時に入浴出来て、たまには爽やかな春風が吹く草原で心地のいい風を感じて、柔らかい寝床の中で眠る。そういった幸福さえ与えられていればそれでいいのだ。

 もしも、その家族が、その老人がその老人ではないという漠然とした感覚を抱き、それゆえに、その家族がかくあるべきと思い込んでその老人に押し付けていたところのその老人の像と、現実世界におけるその老人との和解をさせられなかったと考えたとしよう。結果的に、その家族がその老人の世話を十分に出来なかったという気持ちになったのだとすれば、まあ、それを十分に後悔し、必要なだけ罪悪感を抱けばいいとは思いますよ。でもね、それは、その家族の問題であってその老人の問題ではないんです。その老人がその老人としての絶対的必然性として生命を喪失しているのではなく、その家族が、その老人について、嫌悪し、忌避し、生理的嫌悪感を抱いているというだけの話なのだ。その老人がその老人であり続けているのにも拘わらず、ちょっとした外形の「変化」で、もう、見知った人の皮をかぶった見知らぬ人であるかのように不気味さを感じてしまっただけなのである。その家族が親愛の情の欠片もない非人間的な性格であるということと、その老人の絶対的必然性とは全く無関係である。その家族には、その老人が、絶対的に破壊されたと主張する権利はない、全くない、全然ない。

 何がいいたいのかといえば、疾病、外傷、精神医学的なトラウマといったような「変化」。あるいはただ単純な老いという「変化」でもいいが、そういうものは、全て自己同一性の喪失へと至ることがないということである。

 もしも、それが、絶対的必然性として、生命さえも変容させてしまいかねないものだという主張をする何者かがいるのであれば。それは、その何者かが、そのような物語を作り上げようとしているという、それだけを意味しているのだ。物語として現実を単純化しようとしているのである。

 それでは、一体、その何者かはどのような単純化を行なっているのか? いうまでもないことであるが、その人間がその人間であるところの生命が、人間性の身体性そのものであるという白痴じみた仮定である。

 その者は、要するに、脳髄から神経系、そして内分泌腺から分泌される化学物質、そういった物質の総体を、そのまま生命そのものと等置出来ると勘違いしているのだ。だが、これは、明らかに生命ではない。これが生命であるということはあり得ない。身体は、生命ではない。むしろ生命の「結果」なのだ。それを理解するために……身体を生命であると仮定するにあたって、最も重要だと思われる二つの現象について考えてみよう。

 要するに、欲望。

 それに、感情だ。

 まず、欲望について。よく、頭の悪い人間は、欲望そのものが生命体の本能であり、その個体の生物的独立性から導き出されるところの、完全に固有な性質であると勘違いする。だが、それは完全に間違いだ。

 性欲について考えてみよう。人間が、何者かに対して性欲を抱くとして、その決定にはいかなる要因が関係してくるのか? 最も外延的な決定から一つ一つ解体していく必要がある。

 一つ目、対象に対する外形的特徴について。筋肉質な肉体を好むか、それとも肥満体を好むか。髪が長い方がいいか短い方がいいか。性格的な外形は、優しい方がいいか厳しい方がいいか。放任主義に魅力を覚えるか、執着されることに好意を抱くか。そういった全ては、完全に、社会的に決定される。もちろんだ、いうまでもない。あちらの文明では富裕の象徴としての肥満が好まれるし、こちらの文明においては勇猛果敢を意味する筋肉が好まれる。開放的な家庭で育てば放任を求めるだろうし、過保護な家庭で育てば執着を望むだろう。つまり、人間が、ある外形的特徴に性欲を抱く場合、それはいかなる意味においても個体の身体そのものを原因としているわけではないのだ。

 二つ目、対象の性別。これは少しだけ複雑になってくる。まずは性別的役割に関する欲望であるが、例えば男性の男性性を愛する場合、女性の女性性を愛する場合。この場合は、いうまでもないことだが、やはり社会的に決定されている。なぜというに性別的役割は社会が恣意的に定めるものだからだ。特に、男性も妊娠可能となった現代社会においては、どちらの性別が子供を産むべきであるかということさえも完全に社会的強制によって決定する。そうであるならば、性欲を抱く性別的性質は、それを丸ごと社会が決定しているのである。

 一方、難しいのは性別的性質ではなく性別そのものに性欲を抱く場合である。肉体によって象徴される男性、あるいは肉体によって象徴される女性について。これは……とはいえ、これも、やはり身体そのものが導き出す性欲ではない。なぜというに、人間が人間として人間の性別的肉体性を決定したわけではないからだ。人間が人間の設計図を引いたわけではない。人間が、男性を、女性を、決めたわけではない。となれば、その性欲は設計図を引いたものに由来する。それでは、そのintelligentなdesignを行なったのは何者か? いうまでもなく、環境だ。

 このような論理は、三つ目の決定とも関係してくる。つまり、人間が、人間に性欲を抱くか、それ以外のものに性欲を抱くか、それとも何ものにも性欲を抱かないかということだ。ズーフィリアやフェティシズムや、そういった場合は、いうまでもなく社会的条件、意図した教育や意図せざる教育や、そういったものと関係してくるが。ある特定の対象を愛するという能力を有しているか、それともそれを有していないか、そういった決定については、これもやはり設計図を引いた者に由来するだろう。そもそも性欲を抱く場合にその対象があるべきであるということは設計図によって定まっていることだ。また、ある人間が特定の対象を愛することが出来ず、精神的高まりそのものが性欲の指向性である場合。これもやはりそのような設計図においてそうだからこそそうであるのだ。

 要するに、何がいいたいのかといえば、人間の性欲は環境によって最適化されたところの成果物であるということだ。それが社会環境であるか自然環境であるかということはこの際関係ない。それが、人間が人間であるということ、まさにその人間の人間性、あるいは身体そのものからは、決して導き出されることがないということ。そのことが重要なのだ。

 ちなみに、勘違いして欲しくないのは、ここで話していることは、あくまでも「理由」の問題であり「対象」の問題であるということである。もう少し分かりやすくいえば、ここで取り上げられている概念は、未だ方向が決定されていないところの方向性としてのコナトゥスではなく、そのデュミナスがエネルゲイア化したところの欲望であるということだ。

 このことは、例えば睡眠欲や食欲や、そういった欲望について考えてみると分かりやすいだろう。つまり、人間は、睡眠を知らなければ眠ることを欲望しないし、食事を知らなければ食べることを欲望しないのである。

 いうまでもないことだが、この場合においての知るというのは、認知を経て獲得した理解という意味だけではなく、身体そのものがその行為をするべきであるのかするべきではないのかという判断を行なえるかどうかという意味をも表わしている。

 もしも、人間が食べるという行為を社会環境によって教育されていなければ。もしも、人間の肉体が眠るということの方法を予め自然環境によって記憶させられていなければ。それは、食欲だの睡眠欲だのという欲望の形で成立することはないのだ。それは、具体的な形のない、ただ単なる衝動、要するにコナトゥスのままなのである。

 あるいは、呼吸について。なぜ人間は生まれた直後に呼吸することが可能なのか? 誰からも教わることなく呼吸することが出来るのか? もちろん、それは、自然環境によって以前的に理由付けられているからだ。予め、人間は、呼吸するように、その身体に知らしめられているのである。

 コナトゥスは、それをなすべき「理由」が与えられなければ、行為であるところの「対象」が与えられなければ、欲望とはなり得ないということだ。そして、その双方を与えるのは、まさに社会環境であり自然環境であるということだ。そうであるならば、欲望の本質は人間の身体そのものによっては決して原因されないという結論を出さざるを得ないだろう。

 ちなみに……これは非常に重要な部分なのであるが、コナトゥス自体には人間が人間であるということのいかなる神秘も賭けられていない。コナトゥス自体はどのコナトゥスとも取り換え可能な一種の内臓的器官に過ぎない。それは臓器のようなものなのだ。確かに臓器がなければ人間は死ぬかもしれないが、ただし臓器自体にその生命が生命であることの全ての神秘が満たされているということは出来ない。それと同じなのだ。

 なぜというに、その衝動は純粋な力であるからだ。具体的かつ物質的な力であり、そこにはいかなる神秘も隠されていない。もしかして、衝動は臓器とは異なり実際の物体ではないではないかという愚かしい反論があるかもしれないが。それならば体温といい換えても構わない。体温は実際の物体ではない。純粋な力であり純粋なエネルギーである。ただ、それでも、それは神秘ではない。肉体を動かすための一つの器官に過ぎない。

 衝動それ自体は。

 あらゆる人間において全く同一の。

 交換可能な肉体的器官に過ぎない。

 それは本質ではない。

 さて、それでは感情についても考えていってみよう。とはいっても、やはり感情も、欲望とさして変わるところがない。それどころか、感情というものが欲望よりも一層意識的構築物に依存する部分が多い以上は。それが、環境に、特に社会的環境によって最適化されている部分が、欲望以上に大きいということは間違いないことなのだ。

 いうまでもなく、人間があることに対して怒りを覚えるのは、それが怒りを覚えるべきことであると社会的に決定されているからである。喜びについても悲しみについても楽しみについてもそうである。極限してしまえば、私が悲しんでいるのは、私が悲しいから悲しんでいるのではなく、社会が悲しんでいるから悲しんでいるのだ。人間が関係知性を有する生命体である以上は、人間の感覚も、やはり社会的な追認による結果に過ぎない。感情とは、ある個体の行動だの感覚だの、そういったものに対する社会からの評価のことなのだ。

 もちろん、そこにはコナトゥスが関係してはいるのだが。先ほども書いた通り、それはただの衝動であって、決定的に形作られてはいない。ある行為に対するある個体のある激しい衝動は、社会がそれをどう定めるかによって、怒りにもなりうるし、悲しみにもなりうる。

 ということは……これは、当たり前のことであるが。情動によって引き起こされる行動などありはしない。あくまでも、行動と感情との関係は、次のように成り立っている。まずはコナトゥスがある。そのコナトゥスが、環境的に決定付けられることによって一定の方向を指し示す。そして、人間はその方向に従って行動を起こすのだ。意識が感情を起こすのは、あくまでも、その行動に対する後付けの評価としてだ。

 俗流の神経科学においては、よくこのようなことがいわれる。感情を起こす部分に障害を負った人間が行動に対して無関心になることから人間の感情は行動に不可欠であることが分かる、と。それは因果関係が全く逆なのであって、そもそも、そのようにして障害を受けたのは感情ではない。コナトゥスなのだ。コナトゥスが障害を負ったことによって、行動を起こし得なくなり、それゆえにその評価としての感情が失われたのである。

 さて。

 これで。

 欲望も感情も。

 人間の生命の。

 その本質では。

 ないということが。

 証明出来たはずだ。

 欲望や、感情や、そういったものが社会に対して影響を及ぼしているのではない、反対に、社会こそが身体に影響を及ぼしているのだ。身体とは、結局のところ、環境による成果物に過ぎない。例えば、欲望も感情もなくなった人間が……今までの人生の全てを費やして築いてきたものを、それゆえに失うとしよう。仕事に対する興味を失い、家族との温かい交流が断絶してしまったとしよう。それは生命の本質とは一切の関係がない。

 欲望も感情も、生命の論理とは無関係だ。

 それは、舞龍を見れば分かる。

 自己同一性は、自己の必然とは無関係だ。

 それは、ダガッゼを見れば分かる。

 人間という限定的感覚のその視野狭窄のせいで。

 関係あるように見えている、それだけのことだ。

 そもそもの話、仕事にせよ、家族にせよ、社会によって強制的に押し付けられたものに過ぎないではないか。それが失われたところでごちゃごちゃというのは、ヒステリックに「家族と私とどちらが大切なのか」と詰め寄ってくる恋人のようなものに過ぎない。それは、河原芝居であればまともに扱うこともあるだろうが。とはいえ、思想的な、哲学的な、生命の本質とはなんら関係がない。

 あるいは……欲望がなくなったせいで何も物を食べなくなり餓死することはあるかもしれない。感情がなくなったせいで高所に対する恐怖をなくし、墜落死することもあるかもしれない。身体の不全によって、人間の生命が失われるということもあるかもしれない。だが、それがどうした? 生命の獲得も生命の喪失も、等しく生命の本質とは関係がない。

 そして、何度も何度も繰り返すが、コナトゥスもやはりそうではない。それがそれであってもそれでなくてもその通りであるものが本質であることはあり得ないからである。以上の証明から、人間の身体、人間のソマティックな総体が人間であるということは、絶対にあり得ないという事実を確認することが出来た。

 それでは、人間には本質などないということになるのだろうか。生命という感覚は錯覚であり、あらゆることが否認されることになるのだろうか? それがそれであるという肯定でもなく、それがそれでないという否定でもなく、それがそうであるという可能性もそうでない可能性もあるという、常に「予期」された状態だけがあるとでもいうのか?

 もちろん違う。もちろんそんなことは有り得ない。なぜなら、もしも、そのような可能性があるのだとすれば。いうまでもなく、パンダーラが死ぬ必要はなかったのだし、それに、マラーも、今、真昼の隣で笑っていなければならないはずだからである。この世界には選択の余地などない。この世界には可能性などない。そこには「予期」などなく、常に現実だけがある。

 現実から排除された可能性というのは、常に、幸福な者の甘ったるいノスタルジーの中にしか存在し得ない。現実しかない、現実しかない、現実しかない。この世界には、絶対的な必然性として現勢力化した、この世界しか存在しえないのだ。偶発化することは危険である。なぜなら、それは強者のみが勝利する世界だからだ。偶然とは選択であり、選択とは、要するに、選択されたものと選択されなかったものと、この二つの存在の発生である。

 これは真実だ。

 偶然という言葉を。

 口に、するものは。

 皆。

 悪。

 言い訳はやめろ。

 お前にその権利はない。

 だって、結局のところ。

 お前は。

 未だ。

 生きているのだから。

 いやー、個人的にはそんなことないと思いますけれどね。まあ、真昼ちゃんがそういう風に思ってるらしいのでそう書いておきましたが、そんな、悪だとかなんだとか断言するのはちょっと良くないんじゃない? なんかさ、そういう風に断言するのって、ちょっと……マコトみたいだよ? いや、それが悪いっていってんじゃなくてね。ほら、えーと、なんていえばいいのかな。世の中には色々な人がいて、色々なことを考えてるんだからさ。ダイバーシティだよダイバーシティ。多様性に対する寛容を大切にしようね、真昼ちゃん。

 それはそれとして。とにかく、この世界には、本質がある。人間の本質、生命の本質。そして、そういった本質は、絶対に、偶発事物に対して脅かされることはない。なぜというに、この世界には偶然というものは存在しえないからだ。この世界は、絶対的な計画、intelligentなdesignによって貫かれているからだ。それが偶然に見えるのは、その計画を、そのdesignを、人間が理解出来ないという、ただそれだけの理由なのである。偶然というのは、全体的な必然の一部分を切り出してきた、その断面に過ぎない。

 さて、それでは。

 その本質とは何か?

 何が人間の本質なのか?

 何が生命の本質なのか?

 そんなことは。

 いうまでもない。

 要するに。

 それは。

 世界だ。

 世界とは、その部分部分が孤立して存在可能な何かではない。その全体において自己原因としてのスブスタンティアなのである。つまり、世界には、その全体にしか本質はあり得ないのである。人間の身体は、その個別性のゆえに本質にはなり得ないのだ。人間の欲望と人間の感情とは、それが外部から投げ与えられた何者かに対する反応でしかないという意味では、知性となんの変わりもなく、やはり人間の本質ではないのだ。

 感情や欲望や……そういったたぐい、あるいは記憶に変更が加えられたとしても、それは生命の本質には全く関係がない。それは、あくまでも、自由だの主体性だの、そういった二次的な錯覚に関係するところの、あまり重要ではないパラメーターのようなものに過ぎないのだ。

 世界の必然性に影響を及ぼそうとする試みが必ず失敗に終わる以上(なぜというにその影響もまた予め定められていた必然だからだ)、生命が生命として発揮する力は物理法則のように無意味だ。そうであるとすれば、生命とは、そもそも、世界によって包含的に拒否されたところの一つの過程に過ぎない。

 そして、世界が常に変容し続けていること、生命が過程に過ぎないこと。それを考えるならば、生命というものは、決して塑像のような安定性があるものではないということが理解出来る。それには、決して、可塑性などという概念を当て嵌めることが出来ないのだ。なぜなら、それは常に変容を続けるものだから。そもそも塑像ではないものに可塑性はない。もしも、それが破壊的な形で唐突に変化したように見えるならば。それは、常に起こり続けているところの世界の変化を観察し切れない人間的視野狭窄のせいなのだ。全てを見渡そうとする支配者にとっては、常に全てのことが本質であるが。自分のことしか見えていない奴隷は、往々にして自分の都合で真実を捻じ曲げる。

 つまるところ、あらゆる構築は。

 既存の構築からしか生まれない。

 自由はない。解放はない。ある生命が、完膚なきまでに破壊されて、次の瞬間には全く別の生命になってしまうことは絶対にあり得ない。なぜというに、人間は、世界によって常に形成され続けているからだ。世界を川に例えるならば、人間は水である。世界が山だとすれば、人間は土である。陳腐な例えであるが、確かにそれはその通りなのだ。

 絶対に範囲が決定されている。常に変容し続けることは間違いないが、ただし、それは、その生命がその生命であるところの範囲を超えることはない。自分が自分以外の何者かになることはあり得ない。他者によって、お前はお前ではないといわれることはあり得るだろう。あるいは、社会による恣意的な決めつけ、そうであるべきだとして強制的に押し付けられる偏見によって、自分が自分であるという事実が、自分にとっても捻じ曲げられて。自分でも自分が自分でないように思えることもあるかもしれない。だが、それでも、自分は自分だ。自分は粉々に破壊されることはなく、自分は他者になることが出来ない。

 もしも、自分は別様になりうる可能性があるなどという者がいれば。それは自分がどこまでもどこまでも自由であると愚かにも過信しているだけだ。自らの運命を変えることが出来ると過信したカトゥルンのように。破壊さえも世界である以上、世界を破壊し得る力など存在しない。自分の全ては自分であり、身体によって環境から逃れようとする試みの全ては失敗に終わる。

 そう、つまるところ、世界は完全なのだということだ。そして、世界は絶対なのである。それが不完全であるように、絶対ではないように思えるのは、それは人間が不完全であり絶対ではないというただそれだけの理由なのである。理由、理由? そう、世界には理由がある。人間には意味も価値もないが、世界には理由がある。因果的な本質がある。

 そのことは、世界が全くの偶然に、いかなる法則性もなしに破壊され得ないということから証明可能だ。確かに、それがそれであり続けるという人間的意味はない。それがそれでなければならないという人間的価値はない。それでも、それはそれなのだ。そして、それはそれであり続ける。

 非理由の名において、この世界が別様の姿を現わすことは絶対にあり得ない。なぜなら、今ここにいる、この世界においての、まさにこの「あたし」は、必然的存在者だからだ。確かに、異なる可能性においての「あたし」は「あたし」ではないだろう。それに、今の「あたし」ではない「あたし」は、現在のこの自然法則とは異なる法則に支配されている可能性もある。だが、まさにこの「あたし」、「あたし」という名の「あたし」は、理由以外の何ものによっても侵害され得ない絶対者なのである。

 偶然性という詐術によって、虚無を形作ることが出来るだろう。あらゆるものがなんの理由もなくそこにあると思い込むことも出来るだろう。偶然性は暴君だ、あらゆることがあり得るかのように錯覚させることが出来る暴君である。それは、可能性も、時間も、空間も、あらゆることを破壊することが出来る。ただし、偶然性にはたった一つだけ出来ないことがある。それは、この「あたし」をこの「あたし」でなくしてしまうことである。なぜならこの「あたし」は、既にこの「あたし」としてこの「あたし」であるからだ。そこにはいかなる別様も存在していない。それは不動であり、それは不易である。それを変えることが出来るものが唯一あるとすれば、それは全能性を有した理由だけだ。「あたし」は、何か、最後に到来したものではない。なぜなら、到来するものは常に有限であるが、「あたし」は統御されざる無限であるからだ。到来するものは常にectypusでありderivativusであるが、「あたし」はarchetypusでありoriginariusだからである。要するに、「あたし」は不可謬である。

 もしも。

 それでも。

 お前が「あたし」に理由がないというのなら。

 この「あたし」がこの「あたし」ではないと。

 証明してみせろ。

 ええー? そうっすかね? なんか、そんなこともないような気がするけど……ものはいいようってやつじゃない? それ。真昼ちゃんがいいっつーんならいいけどさ、まあ、いいたいことは分かるよ。えーと、この一瞬後に全てが変わってしまうとしても、その全てが変わってしまうことが予め定められていた以上は、そのようにして変わってしまうことも、ある種の理由律に従ってるっていいたいんでしょ? それで、その予定的決定は、それがその可能性軸においてそうなってしまったということによって実際に証明されているって。でもさ、それって、そもそも理由律っていう前提条件が……まあいいや、これは真昼ちゃんの独白なのであり、結局のところ、他の誰が納得しなかったところで、真昼ちゃんが納得すればそれでいいのである。

 兎に角。

 魚に毛。

 生命、の。

 本質とは。

 無論、それは思考ではない。そして、世界に対する真昼自身の思考でもない。そして、世界と真昼との相関主義的な関係性でさえない。なぜというに、関係性とは無関係に、あたしは世界に参与しているからだ。思考しようとしなかろうと世界は現実であり続けるが、かといって、あたしは、世界に参与している。なぜなら、あたしは、世界によって必然化されているからだ。救われていない、苦痛的な、地獄的な、決して実現しなかった幸福の象徴として、あたしは、このグランマテイオンに書き記されている一つの運命なのだ。

 そう、運命。あたしは、この世界に、運命として参与している。それは思考よりも遥かに純粋で遥かに深淵な参与の方法だ。なぜというにあたしとしてグランマテイオンに記されたところの印が、決して洗い流されることのない、この場所・この瞬間・この可能性である場合。要するに、あたしは、世界だからだ。

 現実としての世界。世界が……世界が真実であるかどうかは、現実性には一切関係ない。あたしが現実であるかどうか、あたしの世界が現実であるかどうか。それは……ただただ絶対であること、つまりはその内部にいることで強制的に生命化されるということ。それだけが、その問いの答えに関係があることだ。

 要するに。

 何がいいたいのかといえば。

 生命の本質とは。

 現実としての世界において。

 現実としてのあたしである。

 その。

 運命であると。

 いうことだ。

 実際に生きているのか、それとも死んでいるのかということ。それは生命の本質とは完全に無関係である。生命の本質とは、その運命であるということだ。その運命の形が生命の本質、あたし自身なのである。実際にそれが物質化したところの身体は、結局のところはその運命の形の中に注ぎ込まれた結果に過ぎない。そのようにして行われたところの成果物でしかない。

 つまり、あたしとは構築だ。しかも、関係性ではないところの構築である。あたしと世界との関係性とは全く無関係の、必然的な、絶対としての、構築である。世界そのものでありながら、普遍的ではない構築……そもそも存在しない構築である。世界そのものの中に、あたしの形がある。具体的であり、存在そのものであるところの、一つの形状としてのあたしが。そして、その構築された形状のことを、あたし達は生命の本質と呼んでいるのだ。

 そして、あたしは、他ならぬこのあたしは、その形状から脱することは出来ない。脱形状・脱構築を行なうことは絶対に出来ない。なぜかといえば……もしもあたしが構築を脱した瞬間に、あたしは、このあたしではないものになってしまうからだ。このあたしではないあたし。それと同時に、このあたしも、そのままこのあたしであり続ける。このあたしは既に存在してしまったのであって、その存在したという現実の中にあたしとして残り続ける。

 するとどうなるのか? いうまでもなく、それは他人事になるのだ。このあたしについてのそれではない、ただの他人事。あたしは、あたしという形状を脱したそれについては、本質的な興味も本質的な関心も持てなくなる。あたしがそれをあたしについてのそれとして扱うことが出来るのは、それがこのあたしの本質だからだ。あたしであるという必然性も絶対性もない場所には、あたしはいない、取り除かれるべきあたしの苦痛もなければ、救済されるべきあたしもいない。苦痛も救済もない場所には、真剣さもない。脱構築とは、所詮は、子供の遊びだ。

 生命の本質とは。

 あたし。

 あたし。

 あたしの世界。

 世界のあたし。

 あたしがそれであるところの。

 一つの。

 運命だ。

 さて、これで生命の本質がなんであるかということが理解出来た。それは必然的絶対的な運命である。そして、この理解から、ある一つの回答を導き出すことが出来る。それは、あたしの欠損が生命の本質に関わることでは「ない」ということだ。

 当たり前のことだ。生命の本質は、決して欠損することがないのだから。そうであるならば、あたしの欠損は、生命の本質であるところのいかなる事物にも関係がないということになる。

 いうまでもなく……それは、あたしにとって、本質的なものだ。あたしが失ったもの、あたしから欠如したもの。それは、一度失われてしまったら取り返しがつかないものであって、もともとはあたしの中心であったものだ。とはいえ、それは、この意味においての本質では「ない」。

 kerokerogomy、いうまでもなく、本質とは、複雑にカッティングが施された宝石を様々な角度から見た、その断面のようなものである。一つのkerokergomyがあり、そこから、様々な角度における本質が導出されうる。そういう意味で、真昼から欠損されたものとは、他の角度から見たkerokerogomyなのだ。それは真昼の中心であるが、生命の本質ではない。

 また、生命の本質に関する以上の議論から、もう一つ、非常に有益な結論を導き出すことが出来る。それは、自分が自分ではないのだとすれば、自分は自分が自分であるということについて悩む必要はないということである。

 なぜなら、生命の本質から、これは延長的に導き出される命題なのであるが。人間にとっての問題は、常に「この場所」「この時」「この可能性」におけるこのあたしの問題だからである。それ以外の問題は、全て他人事だ。

 あたかもこの自分と同じ自分であるように思える、別の場所、別の時、別の可能性のあたしについての問題について考えることは、基本的には他人の問題である。それがこのあたしの問題を解決しうる限りにおいて、それはあたしとの関係を持ちうる。そもそもの話として、このあたしと、このあたし以外のあたしとの間には、いかなる関係性も存在していない。このあたしではないあたしが苦痛を取り除かれたところで、このあたしの苦痛は絶対に取り除かれない。それは、紛れもない真実である。

 自由な主体性が人間にあると考えるから。選択可能性があると考えるから。あるいは、主体性があっても、それが無力なままに破壊されうると考えるから。あるいは、選択が不可能であるとしても、ある結果は必然的に導かれたものではなく偶然にそうなっただけであり、全く別様のものとなりうる可能性があったと考えるから。一瞬過去の自分が、一瞬未来の自分が、この自分と関係あるものと考える錯誤を犯すのだ。

 運命は変わらない。

 偶然はあり得ない。

 それは到来しない。

 それは、そこにある。

 このあたしとこのあたし以外のあたしとの間には、そもそも同一性のようなものはない。そして、同一性がないのだから、あたしが何者であるかという実在論的な問いは完全に無意味になる。なぜなら、このあたし以外のあたしがあたしではなく、また、このあたしでさえも原理的にいえばあたしではない以上は――以前にも一度書いたように、真実においてこのあたしであるところのこのあたし自体と、生命の本質であるところの運命とは、究極的には無関係なのだ――あたしは世界に実在しないからである。実在しないものの実在論などあり得ない。それは、端的にいって破綻だ。

 あたしは実在ではない。

 あたしは主体ではない。

 そうであるならば、このあたしはこのあたしのことだけを考えていればいいのである。このあたしがあたしではないのか、このあたしがあたしであるというのはどういうことなのか。そういった、このあたしを前提としない、このあたしが絶対的に必然的であるということを措定しない問いを行なうことは、無意味であるというだけではなく、有害とさえいえるだろう。

 このあたし以外のあたしを考えれば、自然と、あたしの思考におけるこのあたしの濃度は低下していく。そして、他のあたしが思考に混入する。そして、他のあたしがこのあたしとは完全なる赤の他人である以上、他のあたしについて考えることは、なんの意味もない。となれば、このあたしがあたしではないかもしれないということ、過去においてそうであったあたし、未来においてそうであるだろうあたし、そういうものと比較して考えるということは、本当に必要な思考の濃度が薄まってしまうという意味において、実害があるのだ。

 仮に、あたしが破壊されたものだとしても。

 あたしは。

 破壊される前のあたしについて考える必要がないし。

 破壊された後のあたしについて考える必要がないし。

 その破壊についてさえ考える必要はない。

 なぜならば。

 あたしにとっては。

 この、この、あたしこそが。

 原初的で完全で。

 絶対に破壊不可能な。

 根源としての。

 基礎としての。

 あたしだからだ。

 もちろん、繰り返しになるが、このあたしはあたしの生命の本質ではない。例えば、あたしが舞龍であれば、このあたしをあたしとして定義することはあり得ないだろう。個別知性の持ち主にとっては、関係構築に必要なこのあたしの独立的感覚というものはなく、全てにおける全てを独立した当然性として当然的に当然化しているからだ。あるいは、あたしがダガッゼであれば。このあたしとあのあたしと、それにまた別のあたしが、並列的にあたしであるという状況が実現しうる。その場合、それらのあたしを相対的に決定するところの原理こそがあたしとして優先されるのであって、このあたしは、あくまでも従属的な器官として利用される。あたしにも舞龍にもダガッゼにも適用可能な、共通の生命の本質とは、やはり運命だけなのだ。

 ただ、しかし、そうではあっても。そんなことは、このあたしには関係ないのだ。どうでもいい、現実だの、世界だの、そんなことは心の底からどうでもいいのである。なぜかというに、あたしにとっての運命付けられたあたし、生命の本質が構築したあたし、結果物・成果物としてのあたしは、まさにこのあたしをこそあたしだと確信しているからである。

 真理には意味がない。真理は、現実の名に値しない。なぜならば、真理は何も変容させないからである。真理は真理なのであって、それが勝手に変わっていくことがないからこそ真理と呼ばれうるのだ。変わっていかないものは、他のものも変えることはない。それに、他のものから変えられることもない。あたしが真理について知っていようと知っていまいと。あるいは、真理について何を考えようと、真理に対していかなる行為を行なおうとも。真理にはなんの関係もない。

 要するに、真理はただそこにあるだけなのだ。あたし達に出来ることは、何もない。受け入れることさえ出来ないだろう、受け入れようとも受け入れずとも変わらないものをどうして受け入れられる? そして、そうであるならば……何もせずただそこにあるものは、あたしにとってはなんの意味もない、あたしが、それを現実として考えるべきものではない。考えても考えなくても、どちらにせよそれはそのままそれなのだから。

 あたしにとって。

 本当に重要なのは。

 本当に考えるべきことは。

 あたしが何者であるか。

 あたしの本質について。

 では、ない。

 それは。

 それは。

 そう。

 あたしが。

 いかにして。

 幸福に。

 なるか。

 それだけが……それだけが、あたしにとって、本当に重要なことだ。なぜ? それは、あたしが幸福になりたいからだ。幸福になることが良いことか悪いことか、そんなことは知ったことじゃない。あんたが、お前が、幸福になりたいのかどうか、それもあたしには関係ない。幸福になろうとすることが不幸を呼び寄せるとかそういった話もあたしにはどうでもいいし、幸福を求めない精神的状態こそが安全であり安寧であるところの涅槃を保証するとか、本当の本当に、クソどうでもいい。

 あたしが、幸福を、望んでいる。それだけが、あたしにとって意味のあることだ。それだけが、あたしにとって現実なのである。そう、このあたしにとっての現実だ。

 寂静も、寂滅も、そもそも自分という感覚がないがゆえに、何ものも失うことなく、精神的な平穏の中にいるという境地。それがどうしたっていうの? それは、このあたしを幸福にしない。もちろん、別のあたしを幸福にすることはあるだろう。でも、このあたしを幸福にしない。今、この瞬間のあたしを幸福にしない。

 それに、もっともっと重要な問題がある。それは、誰もが涅槃に到達出来るわけではないことだ。これは、もっともっと重要(more important)というよりも、あらゆる物事において最も重要(most important)な問題といった方がいいかもしれない。誰もが、それを、出来る、わけでは、ない。

 そうしようとひたすら精進出来るだけの下地がない者はそれが誰であれ涅槃に対する努力さえすることが出来ない。精進可能性のある社会的環境にいなければ。ろくに教育も受けておらず、日々の生活にも困る、餓死寸前、常時病弱、そのような人間が、そもそも涅槃に入ろうとすることさえあり得ない。あるいは、もしも、その脳髄が涅槃に適していないものであれば? 鳥が泳げないという意味において、魚が飛べないという意味において、その脳髄が涅槃出来ないような構造の脳髄であれば? もちろん、その脳髄の持ち主であるところの人間は、涅槃に入ることが出来るわけがない。

 つまり、涅槃は、偶然なのだ。その状態に入れるかどうかということは、完全に選択の結果なのである。所詮は、それは選民にのみ許された贅沢なのだ。涅槃を中心にした思想において、見捨てられた者は永遠に幸福になることなど出来ず、地べたを這いずりながら薄汚れた泥水を啜ることしか出来ない。そうであるならば、それを……幸福を求めないということを幸福の中心に置くことは、完全な誤りであり、完全な悪である。そう断言出来る。

 そして、最後に付け加えるのであれば。例え、そのような涅槃の境地に至ろうとも……あの絶対的な苦痛、あたしではない何ものかに押し付けられる苦痛からは逃れられない。あたしが、本当に逃れたいと思っているものからは逃れられないのだ。そうだとすれば、幸福を求めないということはあたしには意味がない。

 この、あたしは。

 幸福になろうと。

 することが。

 必要なのだ。

 そして、幸福になろうとすることが、このあたしにとって、最も重要なことであるならば。それは、いうまでもなく、あたしの欠損に関係する何かであるはずだ。

 何度も何度もいっていることであるが、あたしの欠損は、あたしにとって最も重要だったはずの事柄に関する欠損なのだ。その精神の器官は……それが欠損する前のあたしが、幸福になるためにあったはずの器官なのである。

 もちろん、そのあたしは今のあたしとは完全に異なったあたしであるが。それでも、今のあたしの幸福は、その欠損した部分の周縁に、あるいは周辺に、位置しているはずである。その欠損部分を囲うようにしてその幸福はあるはずなのだ。

 そう、そうだ、そのはずなんだ。だって、だって、あたしが、その欠損であるのは……その切除は、その破棄は、あたしが幸福ではないことによって起こったはずだからである。あたしは、それが、あたしの幸福に必要ないから、それが欠損したのだ。そうなんだ、そうだとしか思えない。そうに違いない。何の、証拠も、ないけれど。でも、絶対にそうでなければいけないのだ。

 ああ。

 ねえ。

 そもそも。

 あたし。

 なんで。

 この欠損について。

 考えてるんだっけ。

 ああ。

 なんか。

 へん。

 考えて。

 考えて。

 考えると。

 あたし。

 頭が痛い。

 これってさ、たぶん。

 脳味噌、半分くらい。

 食べてしまったせいかな。

 何か……何かが、真昼の傷口に触れた。そして、真昼は、その時に初めてそれが傷口であると認識した。無論、それは傷口だった、それはただ単なる欠損ではなく、精神の境界を切り裂いて、精神の器官を抉り出したところの、切除の傷口であったのだ。真昼は、その時までそのことについて全然気が付いていなかった。それは、あたかも、自分が死んでいたということに気が付いていなかったように。自分の首がサテライトによって切断されて皮一枚で繋がっているだけだということに気が付いていなかったかのように。

 痛みがあったわけではない。それに、血流のような何かが迸ったわけでもない。そこには何もないから、そういうことは起こらないのだ。ただ、それでも、真昼は、未だ生々しく口を開いている傷口に触れた時の、あの直接的な感覚を感じた。神経そのものに触れているような、触れられているような。

 それについてはっきりとさせてはいけないような気がする。傷口をむやみに触れてはいけない。この欠損について、なぜ、自分は、考えているのか。それが何であっても真昼にとってはさして重要ではないはずのその欠損を、なぜ、真昼は、それがなんであるかということを探り当てようとしているのか。星のない夜に、目には見えない扉の目には見えない鍵穴を探しているかのように。なぜそれをしなければいけないのか。真昼は、そのことを、はっきりと理解してはいけない気がする。

 傷口の奥。

 触れてはいけないところは触れてはいけない。

 だから。

 真昼は。

 それ以上。

 そのことについては。

 考えないことにする。

 とにもかくにも、この欠損がなんであるかを知るためには、あたしはいかにして幸福になるのかということを考えることをしなければいけないということだ。それを考えれば、欠損、そのぽっかりと開いた穴の周囲がどのような構造になっているのかが分かり、そうすれば、その欠損が一体なんなのかということも見えてくるはずである。

 ところで、あたしがいかにして幸福になるかということに関しては、あたしの主観は徹底的に排除されなければいけない。それを考えるにあたっては、あたしが幸福であるという事実と、その事実に到達しうるための客観的な方法のみが思考の対象となるべきなのである。

 あたしが幸福であるという状況は、あたしが幸福を感じているという感覚は、ただの現実であって、あたしの主観的な恣意性とは全く関係がないことだ。あたしが何を感情として生起させ、それが何であると偏見によって決定付けようと、現実にはなんの影響も及ぼさない。

 あたしがあたしのことを幸福であると思おうと、あるいはそう思うまいと、あたしが幸福である場合には、あたしが幸福であるという現実は変わりえない。それは、あたかも、このようなことである。一つの政治体制について、その体制が間違った方向に進んでいると考えた愛国者達が、議会議事堂を襲撃することで体制の方向を正しい方向に戻そうとした場合。確かに、それは、体制側からすればある種のテロリズムであり、国家を破壊しようとする行動であると主観的に考えるであろうが。それでも、実際のところは、現実においては、それは国家を正しい方向に進ませようとしてなされた行動なのである。その事実は絶対に変わらない。体制側の主観は、現実とは一切関係がない。

 つまり、主観は現実を選択出来ないのだ。もしも、主観によって現実を選択しようとすれば、それは純粋な虚偽である。本当のことに対する裏切りであり、最悪の形の差別であり、根拠がないままに行われる圧政である。

 もちろん、現実における主観は、現実の中にあるがゆえに、現実に影響を及ぼしうる。それを否定しているわけではない。ここでは、ただ単に、現実を選択しうる主観が存在しないということをいっているだけなのである。

 河原芝居の中では、現実は掴み取るものだとかなんとか、愚にもつかないことがいわれることがあるが。実際には現実は掴み取ることなど出来ない。現実とは、既にそうであるように定められている決定、既に起きてしまった出来事なのであって、それは主体的に選択され得ない。

 それが、例え、あたしの幸福であろうと。それによりあたしが幸福になるという場合のそれは、あたしの主体的な選択によっては決定され得ない。あたしが、あたしの幸福を、主観によって決めることは出来ない。あたしは、ただ、運命によってあたしが幸せだと思うことが出来るだけなのだ。

 さて。

 以上のこと。

 前提として。

 それでは、あたしの幸福がなんであるのかということを考えていこう。その際、まず最初に考えるべき、いわば思考の橋頭保ともいえる問題は、それが解釈可能なものか解釈不可能なものかということだ。橋頭保なんて真昼ちゃん難しい言葉知ってるね。

 なぜというに、解釈不可能なものであるなら、それに関して何かしらの思考を巡らせることは無意味だからだ。そのようなものには思考するべき内容がない。それはあたしにとっての(もちろんあたしにとっての)、究極的な運命の形状を「模倣」しているわけではない。そうではなく、あらゆるあたしとの関係性を超えたところに、transなappearanceとして、まさにそれがそのもの自体として存在している。それはある意味では紛い物の奇跡であり、強迫神経症の患者が衝動のままに歌う歌のようなものである。

 そうであるならば、それについては、あたしとの関係性において、まさにそれを生命として生きるということは完全に不可能なことである。その解釈不可能性、いわゆる反解釈なものとともに、融合ではなく並走として、あたしが出来ることは。結局のところその中で疑似的に経験を行なうということだけである。ドラマティック、ヴァーチャル・リアリティ。反解釈なものは他人事だ。あるいは自分の方に引き寄せることも出来なくはないが、結局のところ、それは幼稚な自己愛の次元に終わるだろう。真剣な現実として反解釈なものを受け取ることは不可能だ。

 透明性。

 目に見えないもの、は。

 目に見えないのである。

 解釈不可能なものとは、結局のところは、世界の全てがaestheticなものであると信じる信念からのみ生じうるだろう。ということは、解釈不可能なものとは、意味のないことを主張するための権利のことであり、身体的行為に対して超越的規範を従属させようとする姿勢のことである。それは、いうまでもなく、自分自身なるものの意志という形をとるだろう……そして、超越的規範への反抗としての意志は、当然のことながら、目をつむってなりふり構わず駆け回ることに似ている。本人としては一つの方向に走っているつもりなのだろうが、目をつむっているので実際に自分がどちらに走っているのかということは分からない。

 というわけで、もしもあたしの幸福が解釈不可能な何かであるならば。それについて、これ以上は、何かを考える必要はない。それは、考えることなど出来ないことだ。つまり、感じるべきことなのである。それは、走り出すためのエネルギーであり、走り続けるヴァイタリティであり、そしてこれは皮肉としていうのだが、転生するための本質を何ものも持たないにも拘わらず、それでも自分は転生したと主張する厚かましい図々しさである。

 あたしの幸福、は。

 解釈不可能なのか。

 結論から、先に提示するとすれば。

 いうまでもなく、答えは否である。

 結局のところ、解釈不可能なものの問題点とは、そこに必然性がないということだ。つまり、それは完全なる偶然の支配下にある。解釈不可能なものというのは、一つの意志を描き出す一本の線のようなものだ。その線の方向性は、常に選択によって決定する。しかも、その選択が正しいのか正しくないのか、そのような区別とは一切関係のないところで行なわれる、選択それ自体としての選択である。必然に導かれざる選択。

 それは方法であるが、何ついての方法でもない。正確にいえば、力それ自体についての方法である。力それ自体に対する信仰、力それ自体に対する従属。力それ自体に跪き、その足の裏を舐めるということ。方法の方法。それは、確かに、あらゆる関係性を内包することが出来るだろう。ただ、あたしの運命との関係性だけは、決して、絶対に、そこにはない。最も重要な関係性、あたしとそれ以外との二項対立が存在しない。そこにはあたしではない何者かについての関係性しかない。

 もちろん、styleとcontentとは切断されるべきものである。前者は純粋な力であるのに対して、後者はあたし自身とそれ以外との関係性なのだから。

 styleというのは、力に対する感覚である。それは、あたかも、神秘主義における神秘そのもののようなものだ。原初的な感覚、何ものにも依存することのない真実それ自体。それがstyleである。つまり、styleというのは、その内側にある内臓的部分としての力だということだ。自分自身にとってだけ「本質的な」(ということはもちろん本来の意味での「本質的な」とはいえないのだが)内容、それがstyleである。

 一方で、contentというのは包み込むということである。あたしを包み込んでいる外部的な形状、それがcontentだ。それは常に意志とは全く関係ない部分に存在している。意志の外部にあり、意志に対して強制する。そして、意志は、強制によってのみ方向性を与えられる。contentとは様式なのだ、様式それ自体なのである。そして、様式こそが、解釈された事物の価値、事物の有用性を発生させるところの原理だ。

 解釈の不可能性は、常に様式を軽蔑する。自分自身の意志のみを重視する。もしも、解釈の不可能性が、逆説的に様式のようなもの、そこに宿る信念のようなものを主張したとしても。それは、実際は、自分自身の意志にとって非常に快いものであるからそうしているに過ぎない。意志は様式に釘付けされはしないのだ、それは常に偶然による選択を選択肢として担保している。意志は、都合が悪くなれば、様式などすぐに投げ捨てる。反解釈は、結局のところ、様式を擁護しはしない。自分にとって都合よく捻じ曲げられた「様式のようなもの」を称賛するだけだ。

 あたし。

 は。

 反吐が出るような。

 選択への、嫌悪感。

 あたしたちは。

 必然性によって強制されないwillのことを。

 willfulnessと呼んでいる。

 解釈とは、解釈されたこととは、この世界そのものの真実、絶対的な、超越的な、有無をいわさない強制、有用な価値、「現実」主義、それがそれであると断言すること、意志とは無関係にそうであると結論付けること、知性による意味、強制。それこそが、まさに、絶対的価値だ。最高の価値なのである。要するに、それは、あたしにとっての価値なのだ。

 反解釈によって、運命に強制されていない意志によって、無意味な力、閉鎖的な自由、willfulnessに選択されたものは。あたしには関係ない。痛ましいほどにあたしから疎外された地点で衝動的感覚として選ばれたものは。結局のところ世界をあたしの方に引き寄せることはしない。世界を、まさに、このあたしのための、この世界に変えることはない。

 このあたしのものではないなら。

 解釈不可能なものが。

 このあたしの幸福で。

 あるはずが。

 ない。

 MLJの……いや、マコトの言葉を使うならば。それはブルジョワジーのための幸福だ。この言葉を使うと少し語弊があるというのならば、受選者のための幸福といい換えてもいい。

 受選者というのは魔学的な専門用語であり、ある魔法に使用者ロックがかかっている、特定の限定された者しか法適用することが出来ないという場合。そのような属人的な魔法を使用出来る者のことを受選者という。ここではその意味を拡大してただ単純に選ばれた者という意味で使用している。何かに選ばれた者、選択によって選ばれた者。見捨てられなかった者。それをすることが出来るとされた者。そうすること、そうであるということ、それを許されている者。

 ブルジョワジーという場合は市民階級に限定される。例えばそれ以上の社会階級の者は含まれないし、それ以下の階級の者も含まれない。他方で、受選者といった場合、あらゆる階級の者を含めることが出来る。例えば下層労働者階級の者であっても。経済的には恵まれていなくても、誰かからの愛を受けていれば、それは受選者である。マコトの言葉を使うならば……栄光。栄光をその身に受けている者。それがどれだけか弱い栄光であっても、それは受選者である。

 解釈不可能なものとは、つまり、理解することが出来ないものである。もう少し適切ないい方をすれば、全知全能ではないものである。(あたしにとっての)超越的規範の基礎付けがない以上は。(あたしにとっての)絶対的な何かの模倣ではない以上は。それは、(あたしにとって)あらゆる生き物に共通な論理を持つというわけではない。

 ということは、結局のところ正しいか正しくないかで判断されてしまうということだ。もちろん、必然的な判断ではなく相対的な判断として。自分の意志にとって正しいか正しくないかである。意志がそれであると選択したものは全て良きこととされるが、この世界にあるあらゆる物事を、丸ごと、そのまま、それがそうであるという形で肯定することは、反解釈には絶対に出来ない。なぜというに、反解釈にとっては、自分の意志によって選択されなかったものは、何もかもが軽蔑するべきもの、それどころか無視されてしかるべきものとされるからだ。反解釈は、自分の意志で選び取った世界だけを残す。それ以外のものは全て排除した後で、臆面もなく、ここにあるものは全て良きものだといってのける。

 反解釈は、栄光の中に世界を限るということである。栄光の光に照らされていない見えないものは存在しないと主張することである。自分自身が良しとしたこと以外は捨て去ることである。そして、必然性によって強制されない自分自身にはなんらの本質もない以上、その意志は「なんとなくそう思うから」「誰かがそういっていたから」「それ以外のものは気に食わないから」「とにかく反抗したいから」という意味でのwillfulnessである。

 そして。

 これが。

 最も。

 重要な。

 ことだが。

 そのようなものは。

 決して、あたしを。

 選ばない。

 あたしは……確信している。そのようにして何かを選ぶものが、あたしのことを選ばないということを。このあたしは、絶対に選ばれないということを。その幸福が選択によるものであるとすれば、このあたしは間違いなく選ばれない。

 これは合理的な判断ではない。何か理由が、何か理論があるわけではない。そうではなく、ただ単にそれが現実なのだ。ただ単にあたしは選ばれない。誰からも選ばれない。嘘じゃない、本当のことだ。あたしは選ばれない。あたしは、常に、見捨てられる。誰もあたしを愛さない、誰もあたしを救わない。

 そして、そうであっても、あたしは幸福にならなければいけないのである。誰もあたしのことを救わなくても、あたしでさえあたしのことを救うことが出来ないこの絶対的な必然性の中で、あたしは救われなければいけないのである。要するに、それがあたしにとっての幸福であるための、最低条件なのだ。

 それならば、あたしの幸福が解釈不可能なものであるということはあり得ない。解釈不可能なものはあたしのことを選ぶことがないからだ。解釈不可能が選び出すものは、常に選ばれる誰か、受選者である。

 解釈不可能なものには隔絶がある。このあたしがいる、この場所、この時間、この可能性との、修復不可能なまでの断絶がある。解釈不可能が、「ここ」から離れていく過程にあるのか、それとも「ここ」に接近していく過程にあるのか。そんなことは、あたしにとっては、クソどうでもいいことだ。あたしにとって重要なのは、たった一つ意味があることは、それが「ここ」にないということである。それは、この世界にはない。

 この世界は超克されるべきものではない。弁解されるべきものでも崇拝されるべきものでも改造されるべきものでも軽蔑されるべきものでも喪失されるべきものでもない。あたし達がそれに対してとることが出来る方法は二つだけだ。一つは、それがその通りにそうであることを理解しないままに受け入れること。つまり、動物のように無視をするということ。もう一つは、それがその通りにそうであることを理解した上で受け入れること。つまり、無神経にワルツを踊るということ。この二つだけだ。

 前後即因果の誤謬。

 例え、この世界を超克したどこか。

 どこか遠いところで正しいと思われても。

 それはその内部においてのみ正しいのだ。

 この世界では。

 別に。

 正しくはない。

 つまり、あたしが、何がいいたいのかといえば。解釈不可能なものは、既に選ばれている者のための何かであり、既に幸福である者のためのものだということだ。この世界では既に救われているために、この世界における不幸を、この世界における苦痛を、軽んじることが出来る者のためのもの。この世界ではないどこかについて考えるだけの余裕がある者のためのもの。

 そういった者にとって、「それ」ははっきりと提示されている必要はない。なぜなら切実さがないからだ。空腹がないからだ、飢餓がないからだ。「それ」について理解しなければならない、「それ」を獲得しなければならない、そういう必死さがないからだ。この世界において、まさにこの世界においてという感覚。このあたしが咀嚼し、このあたしが嚥下し、このあたしがそれを取り込まなければならないという感覚。

 それを。

 優雅に見下し。

 瀟洒に嘲笑う。

 それが、受選者の態度である。

 受選者は、表現されたものを嫌う。なぜというに、それは選択出来ないからだ。受選者は、よく、何ものも完全には表現出来ないなどとのたまう。最も単純なものでさえも、その全体を描写することは不可能だなどとのたまう。だが、それは絶対的な虚偽だ。というか、詐術である。なぜならこのあたしにとっての全てとは、まさにこのあたしにとって表現されたものの全てだからである。それ以外のものは、余計なものでさえない。存在しないのである。無論、このあたしにとってであるが、ただ、このあたしが他人事を気にする必要がどこにある?

 沈黙を好む。受選者は、口の前に人差指を一本立てて口を噤んでいる誰かを好む。それは、その沈黙の分だけ自分が戯れ言を話すことが出来るからである。

 最も重要なものは常に話されたものだ。常に表現されたものであり解釈されたものだ。なぜならば、解釈されなかったものは永遠に無力だからだ。それは存在せず沈黙している。受選者は無力を好む、それは無害だからだ。何も話さないものは何も話さない、あたし達はそれについて理解出来ない。理解出来ないものはどのように選択しても構わないものだ、そして、そういう場合、いつだって受選者が選ばれる。あたしは選ばれない。沈黙の中で受選者は永遠に救われ続ける。あたしは、あたしは、深海の底で泣いている。

 解釈されたものだけが。

 本当に。

 この世界の中。

 存在している。

 この世界に。

 影響を及ぼしうる。

 反解釈は。

 選ばれなかった者が。

 深海の底で流す、涙。

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