第三部パラダイス #12

 ひどいことが起こった。

 真昼には許しがたいことが起こった。

 絶対に、許せないことが、起こった。

 順を追って説明しよう。それは、このようにして起こった。さすが看板メニューだけあってまあまあ美味いなと思いながら、真昼がテージャサ・マサラを黙々と食べていると。建物の方からどすどすとアミーンがやってきた。真昼がナンに手を伸ばしながら、そちらの方にちらと視線をやると、あのやけにでかい薬缶を持っている。たぶん、そろそろなくなる頃だろうと思ってヨーガズを注ぎにきたのだろう。

 真昼は、特に気にしないでナンの方に視線を戻した。一番最初の一回を除いて、左手で持って右手で引きちぎるようになっていたのだが。真昼は、今回の引きちぎりもそのようにして行った。そうして食べやすい大きさにしたナンを、鍋の中に突っ込む。そのナンの上に、左手でテージャサ・マサラを乗せる。

 そのくらいのタイミングでアミーンがテーブルの横までやってきた。真昼は、アミーンのことを全然気にしないで、堂々と左手を使い続ける。一方のアミーンはというと、そのような真昼のこと、こちらも全然気にしていなかった。

 以前も書いたことであるが、アミーン・マタームにはあちらこちらから様々な客がやってくる。まあ、上の階層にある以上は一定以上の階級に所属していなければ訪れることが出来ないのではあるが。それでも、アイレム教徒ではない客もかなり多いのだ。だから、別に、この店ではアイレム教の教えを客に対して強制しているわけではない。

 そもそも、アイレム教徒にとっては、食事をする時、デニーと真昼とが座っているようなテーブル席よりも、その横にある敷物の席に座る方が望ましいのである。なぜというに、ハディースによればアルハザードがそのようにして食べていたからだ。とはいえ、テーブルの方がいいという客もいるので、このような席も用意しているのである。

 ということで、真昼が左手を使っていようがいまいが、その程度のことはアミーンはまるで気にしなかった。とはいえ真昼の食べ方について気になる点がないというわけではなかった。

 「オ飲ミ物オ注ギスルネー」とかなんとか言いながら、薬缶の中のヨーガズを真昼のコップに注ぐアミーン……ふと、テーブルの上に目をやった。アミーンが目をやった先、二つの小皿があった。もちろん、チャツネの小皿とライタの小皿との二つである。

 実は、ライタの小皿については既に空になっていた。真昼は、なんだか残してしまうのももったいないなと思って、ちょいちょい使っていたのである。ただ、チャツネの小皿にはまだまだ結構な量が残っていた。あまりにも辛過ぎて、真昼ちゃんのもったいない精神ではカバーし切れなかったのである。いくらもったいないと思っていても、口の中の全体が激痛を感じるような物は、なかなか食べようという気にはなれない。

 アミーンが気になったのは。

 その、チャツネ、であった。

 いかにも大袈裟な感じで「サナガラサン、サナガラサーン!」と言うアミーン。そして、テーブルの上に薬缶を置くと、右の手でむんずとチャツネの小皿を掴んだ。テージャサ・マサラを包んだナンを口の方へと運びながら、一体何事かという視線でアミーンを見上げる真昼。そんな真昼の……完全に、虚を衝いて。

 アミーンは。

 小皿の中のチャツネ。

 一欠片の躊躇さえ見せず。

 一欠片の慈悲さえ見せず。

 鍋の中。

 テージャサ・マサラの上。

 ばばーんと。

 ぶちまける。

 口の中に食べ物が入っているにも拘わらず、真昼は、思わず「は!?」と叫んでしまっていた。正確には、食べ物でいっぱいのその口から出たのは「ほあっ!?」みたいな間の抜けた音であったが。とにかく、そんな真昼の絶叫などまるで気にすることなく、アミーンは、抜け抜けと、いけしゃあしゃあと、「コレ、タクサンタクサン入レタ方ガ美味シイヨー!」と言ってのける。

 いや……いやいやいやいや! ちょっと、ちょっと待てよ! 美味しいってお前……あたしはなー! 辛い物がなー! 苦手なんだよ!! 最初に言っただろ! お前が辛い食べ物と辛くない食べ物と、どっちがいいかって聞いた時に! 辛くない方がいいって! お前、何も聞いてなかったのかよ! お前なー! お前なー! おいしいかおいしくないかってのは個人個人によって好みの違いがあるんだよ! あたしは辛い物が苦手なんだから、あんまり辛くない物の方がおいしく感じるに決まってんだろ! それを、お前……お前……あのクソ辛いチャツネを、あろうことか全部入れやがったのか!? クソが、クソが、クソが! こんなん、辛過ぎて食えるわけないだろ!

 と、叫びたかった真昼であったが。ただ、なにぶん、口の中に物が入っていた。基本的には品位のある淑女であるところの真昼は、そのような状態で、誰かに罵声を浴びせるということを一瞬だけ躊躇してしまい。その一瞬の間に、アミーンは……真昼に向かって、お礼は結構ですよ的な、にかっとした笑みを向けてから。空になった二つの小皿と、それに薬缶とを取り上げて、すたこらさっさと行ってしまった。

 呆然、唖然、言葉もない。真昼は、ただただ緑色に染まったテージャサ・マサラを見下ろすことしか出来なかった。まだまだ結構な量が残っていたのに……全部辛くなってしまった。目の前のデニーは、そんな真昼の様子を見て、というかアミーンがチャツネをぶっかけた直後から、いかにも面白そうにけらけらと笑っていた。完全に他人事である。

 そんな、そんな……嘘だろ? 自分の脳味噌くらい、自分の好き勝手に食べさせてくれよ……と思ってしまった真昼だったが。もう取り返しがつかない、手遅れである。

 仕方なく、少しでもチャツネの味が薄れるようにと、テージャサ・マサラを右手で掻き混ぜてみる。チャツネは……なんだかんだいって、それほどの量があるわけでもないし。それに、この程度の量だったら辛みがいいアクセントになって美味しくなるのではないか? というような淡い希望を抱きながら。

 まあまあではあるが、緑色が、テージャサ・マサラの全体に分散したような気がする。鍋の中から右手を引き抜いて。それから、手のひらの全体についていたテージャサ・マサラ、その中指についていた部分を……舌の腹でべろりと舐め取ってみる。

 おっ、これは案外辛くないか?

 と、一瞬だけ。

 思ったのだが。

 その次の瞬間に、青易辛子の傍若無人な辛みが舌を突き刺した。凶暴にして冷酷、非道にして悪逆。真昼の味蕾の全てを焼き尽くす氷の爆弾。その炸裂によって、舌が丸ごと抉れてしまったかのような痛み。真昼は、思わず「ぐがっ……!」という叫び声を喉に詰まらせてしまう。

 と、変なタイミングで声を出したせいで。舐め取ったテージャサ・マサラが入ってはいけない方に入った。具体的にいうならば気管の方ということであるが、その痛みに近い辛さが、真昼の喉から肺に至る経路を焼灼する。

 真昼は「ぬがぁああああっ!」とかなんとか叫びながら、あまりの激痛に椅子の上から転げ落ちてしまった。それを見ていたデニーが、げらげらと声を上げて爆笑しているのが聞こえてきたが。今はそんなことを気にしていられるような状況ではなかった。喉を掻き毟りながら、げほげほと……いや、違う。ぐぇほ、がっ、がっ! ぐぇほ、がっ、がっ! みたいな感じ、やべー咳をする。

 石畳の上で咳をしまくりながら、のたうち回りながら。「デナ……がはっ……ぐっ……デナム・フーツ!」とようやく叫ぶことが出来た真昼。「あはっ、あははははははははっ! あーっはっはっはっ! ふふ……ははははははははっ! くっ、ふ……な、なあに、真昼ちゃん……」とこちらも笑い過ぎで息も絶え絶えになりながら返答するデニー。

 「死ぬ、死ぬ……ぐぇほっ! ぐえ、ぐえ、がああああっ……がふっ! このままじゃ、死ぬ!」「あーっはっはっはっ! だーかーらー、真昼ちゃんは、もう死んじゃってんだってば!」「水……ぐぇほっ、ぐぇほっ! 水、水!」。正直な話、デニーの反応は一発ぶん殴ってやろうかとしかいいようがないものであったが。その怒りをなんとか抑えて、真昼は、そう頼み込んだ。

 「あー、お水ね。ふー、ははははっ、おっかしー!」とかなんとか言いながら、デニーはようやっとのことで椅子から立ち上がった。てってこてってこと真昼の方まで歩いてくると(急ぐ素振りくらい見せろよ!)。右の手で、テーブルの上から真昼のコップを取り上げた。

 それから、ちょこんっという感じ、石畳の上でのたうち回っている真昼の近くにしゃがみ込むと。暴れる真昼の顔を、左のおててでぐわしと捕まえた。忘れがちなことであるが、デニーちゃんはめちゃめちゃ強い生き物なのであって。その手に掴まれてしまっては、どんなに暴れようとしても暴れられなくなってしまう。

 とはいえ、咳が止まるわけではないのだから、そのままの状態で、ぐがほっ! げえあっ! げえあっ! みたいな咳をし続ける。そんな真昼のこと、左の手のひらで、その顎をぐいっとして、無理やり大きく開かせてから。デニーは……「はーい、お水ですよー」とかなんとか言いながら、その口の中、問答無用でヨーガズを注ぎ込んだ。

 コップを渡してくれればそれでよかったのに。というか、注ぎ込むにしても、もう少しやり方があるだろやり方が! そんな風に思ってしまうほど、血も涙もない注ぎ方だった。どぼどぼっという感じ、しかも、真昼が咳をしているまさにそのタイミングで注ぎ込んだのであって。当然ながら、ヨーガズは、気管に向かって洪水のように流れ込む。

 まあ一言でいうと阿鼻叫喚ですよね。真昼は口を閉じようとするが、デニーの左手に押さえ付けられているのでそうすることが出来ない。死ぬ! 死ぬ! 溺れる! まあ、正確にいうと、今の真昼は、心さえ強く持てるならば溺れることはないのだが。こういう状態で心を強く持てる人間なんてそうそういるもんじゃない。

 すげー勢いで気管に入ってくるヨーガズ、なんとか押し戻そうとする身体的機構。咳は、さっきまでの凄まじい咳の十倍以上凄まじい咳になる。もう、咳というよりも、なんかそういうおもちゃみたいだ。

 真昼の口から、ぼべっ! ぼべっ! とヨーガズが吹き上がる。また、そういうことが起こっているのは口だけでもなかった。気管を通って鼻の方に抜けてしまったらしく。春先の花粉症の人の鼻からどうどうと鼻水が滴り落ちるかのごとき有様で。白い液体が、真昼の鼻から流れ出てくる。

 「あははっ! 真昼ちゃんてば、大袈裟なんだからー」とかなんとかいいながら、真昼のことを見下ろしているデニー。まあ、実際、呼吸の必要のない真昼であるのだから、このような反応は大袈裟といえば大袈裟なのだが。真昼本人にしてみればそのようなことをいってられる状況ではない。

 ごぼごぼっ……があぶっ! があぶっ! と、もはや咳をしてるのか溺れてるのか分からない感じの咳をしながら。その瞬間に、真昼の頭蓋骨の中で、まるで閃光のような思考が弾けた。なんの脈絡もなく、一つの啓示のようにして、ある思考がそこにあった。

 そうかそうか、なるほど。つまるところ、その誰かにとって生きるということが重要だからこそ、わざわざ生きるということを否定しなければいけないのか。生まれたということ、死ぬということ。自分が好きだと思うこと、自分が嫌いだと思うこと。そういった全てのことが重要だからこそ、生命を否定しなければいけなくなるのである。それはそうだ、重要でないならばわざわざ否定する必要はない。とはいえ、重要であるがゆえに、それを完全に虚無と化してしまうことは出来ない。そのようなわけで、生命を否定する者こそ、どこまでもどこまでも生命に執着しようとすることになるわけだ。生まれてこなければ良かったという願いは、実際のところ、なんのことはない、幸福に生きることが出来ればよかったという願いに過ぎないのだ。これ以上新しい生命をこの世に作り出してはいけないという確信は、実際のところ、この世界は自分が生きるに値しないという過剰な自意識に過ぎないのである。重要であるはずのものが重要ではないことに対するどうしようもない感情こそが、生命の否定なのだということだ。生命そのものをどうでもいいと思っている何者かは、死のうとは思わない。積極的に生きようと思うこともない。そして、この世界には生きるという現実が存在していないという馬鹿みたいな仮定に執着することもない。生きることに対する、完全にフラットな客観性。ただただ生きているという、完全に静止しただけの現実がある。

 ええー? 本当に脈絡ねぇな。とにかく、唐突に、真昼はそう思考している自分を発見した……とはいえ、今は、その思考について色々と掘り下げている場合ではなかった。そんなことは今の真昼にとってはどうでもよかった。その思考が真実なのか真実でないのか、そもそもその思考にどんな意味があるのか。そんなことを考えている暇があるのならば、「ぬばたまの死んじゃうやべえこれは死ぬ」であるところの現在の状況をなんとかしなければいけないのである。ちなみに、この場合の「ぬばたまの」は死という現象そのものにかかっている。

 がぼがぼと。

 石畳の上で。

 溺れている、真昼。

 それでも、暫くして、ヨーガズのことを全部吐き出してしまうと……ようやく、あらゆる悲惨な出来事が収まってきた。さっきまでげぼっげぼっという潰れかけた蛙のような声を出していた真昼。まだ喉の奥が掠れていてぜーぜーといってはいるが、それでも、なんとはなしに大丈夫そうな感じになってきていた。真昼のそんな様子を見たデニーは、「どーお?」と言いながら真昼の顎を離す。「ちょーっと、落ち着いた?」。

 相変わらずぜーぜーいいながら、時折小さく咳をしながら、デニーのことをきっと睨み付ける真昼。デニーは、そんな真昼に向かって、「あははっ!」と笑うと。睨み付けられたことについては特になんのコメントもせずに、その場で立ち上がった。手に持っていた、ヨーガズが入っていたコップをテーブルの上に置くと。真昼の方を向いたままで、後ろ向き、すてんすてんと飛び跳ねるみたいに。自分の席まで戻っていくと……まるでありきたりな冗談でもいうみたいな態度で、すとんと座った。

 一方の真昼はといえば。暫くは、けほっけほっとしながら、ぐったりと横たわったままでいたのだが。やがて、ついに上半身を起こした。椅子にしがみ付くようにして全身を預けながら。ずるずると、やっとのことで、自分の体を椅子の上に引き上げる。泥の塊みたいにして、椅子の背凭れに全身を寄り掛からせて。はーっと、深く深く、思いっ切り、溜め息をつく。

 その、吐き出した息が、喉の奥をこすれて通る時に……少しだけ、ちりちりと痛みはしたが。ただ、あの痛み、辛味がゆえの火傷を負ってしまったかのような痛みはもうなかった。どうも、デニーのやり方、喉の奥に直接注ぎ込むようなあのやり方のおかげで、こびりついていた辛みの成分がすっかり洗い流されてしまったようだった。

 喉元。

 首輪のようになっている部分。

 中指と、親指と、指先。

 ゆっくりと撫でながら。

 たぶん、普通に飲んでいたら。もちろん、ヨーガズが気管の方に向かうことはなく、いつまでもいつまでもそういった成分が残り続けていたことだろう。ということは、無茶苦茶としか思えなかったようなデニーのやり方、顎を押えて無理矢理にでも気管にぶっこむというやり方は結果的には正しかったということだ。

 とはいえ、正しいか正しくないかの区別と納得出来るか出来ないかの区別とは全く異なった条件のもとに成立するものである。そして、今の真昼の中では、デニーのその行為に納得するための条件は全然揃っていなかった。椅子の上にへたり込む前からずっとずっと睨み付けていた視線を一層鋭くしてから、こう言う。

「お前さ……」

「もー、真昼ちゃんてば! たにんぎょーぎ!」

「は?」

「いいよいいよー、お礼なんて!」

 どうもデニーは真昼が口を開いたということについて、ありがとう的なコメントを言うためなのだろうと誤解したようだった。よくもまあ、これだけ剣呑な面をした人間にありがとう的なコメントを期待出来るものだと思うが。もしかして、真昼がデニーに向かって凄まじい勢いで怒鳴り散らそうとしていることなど承知の上で、そういう面倒なことが起こらないように、わざわざそんなことを言ったのかもしれなかった。

 実際、出端を挫かれた真昼は、ぎゃーすかぎゃーすか怒鳴り散らす気も失せてしまって。吐き捨てるように「お前……本当におめでたいやつだよな」と言うだけで口を閉じてしまった。真昼としても、デニーが本気で言っているのか、それともただただ自分がいなされただけなのか、どちらなのか分からなかったが。それでも、これ以上は何を言っても無駄だということだけは理解していた。

 さて。

 それから。

 もう一度、溜め息をついて。

 テーブルの上、鍋の中。

 テージャサ・マサラを。

 じっと見つめて。

 自分の考えを。

 整理し始める。

 なんというか……これ……辛……辛……辛い! クソ辛いぞ、これ。一体どういうことだよ。なんなんだよなんなんだよ、なんならチャツネ単体で食べるよりも全然辛いわ。なんだよこれ、一億兆倍くらい辛いんじゃねぇの?

 一億兆倍というのは明らかにいい過ぎだし、それ以前の問題として一億兆などという数字は存在しないのだが。確かにチャツネだけで食べるよりもテージャサ・マサラに入れたやつの方が辛いというのはその通りだった。

 これは少し考えて貰えば分かると思うのだが、そもそもテージャサ・マサラ自体がそこそこ辛いパカティなのである。今、真昼の目の前の鍋的な物に入った料理は、その辛い物に、更に辛い物を追加したやつなのである。

 つまり、真昼が先ほど感じた辛さというのは、テージャサ・マサラの辛さの上にチャツネの辛さがプラスされた辛さだということだ。しかも、実は、このチャツネは、パカティ的な食べ物に投入された時に最大限の効果を発揮するようにと細心の注意を払って調整されたチャツネなのである。詳細についてはアミーン・マタームの秘密の隠し味に関係してしまうことなので省かせて頂くが……ただ、一言。このチャツネにはダニッチ大陸産のティカ・ティカをとあるやり方で加工した物が入っているということだけは書いておこう。

 と、いうわけで。テージャサ・マサラは、真昼にとっては食えたもんじゃないというレベルの辛さになってしまっていた。いや、まあ、正確にいえば、かなり無理して食おうとすれば食えないというわけでもないといったくらいであるが。椅子から転げ落ちたのも、料理の辛さが原因というよりも、そんな辛いもんが気管に入ってしまったからというアレの方が大きい感じだったしね……とはいえ、食わなくていいんなら食いたくない。

 クソッ、クソッ、クソがっ! 真昼は、心の中で何度も何度も叫ぶ。なんでだ? なんであたしだけがこんな目にあわなきゃいけないんだ? なんで、あたしは、自分の脳味噌を辛い辛いと藻掻き苦しみながら食べなければいけない? あたしが何をした? あたしが、一体、何をしたっていうんだ?

 いや、まあ、真昼ちゃん、パンダーラを見殺しにしたりだとかマラーを見殺しにしたりだとか色々してますけどね。なんなら真昼ちゃんのせいで一つの抵抗組織(アヴィアダヴ・コンダのダコイティのことです)が丸ごと滅亡してますし。とはいえ、今の真昼にとってそういったことは問題ではなかった。

 こんな……こんな……客が食ってるもんに勝手にチャツネをかけんなよ!! 真昼がいいたいのは、まさにそのことだった。その一点だけが、今の真昼にとっての真の問題だった。他のことはどうでもよかった、今の真昼にとって「客の食ってるもんに勝手にチャツネをかける店員のおっさん」という問題は、この世界に存在する全ての問題とほとんど等価であった。

 それどころか、他の、いかにも重要そうに見せかけられた問題が解決しようとも。戦争、疫病、貧困、飢餓、そういったあらゆる問題が解決しようとも。今の真昼にはなんの意味もなかった。それで世界を愛することが出来るようなことはあり得なかったし、この世界と和解するようなことも、絶対に出来なかった。そもそも、そもそもだ。真昼の脳味噌なのである。真昼の脳味噌なのだ。それなのに、なんでこんなことが起こるのか。なんでこんなことが起こってしまうなどということがあり得るのか。

 ちょっと辛いからといって……いや、この辛さはちょっとではないが……とにかく、死ぬ気で頑張れば食べられる程度の辛さであるのに。ちょっと、なんというか、自分の脳味噌を残すというのは嫌過ぎる。自分の脳味噌が、このまま生ゴミとして捨てられて、蠅がぶんぶん飛んでいる中で少しずつ少しずつ腐っていくのである。とてもではないが耐えられることではない。これを残すわけにはいかないのだ。となれば、である。このクソ辛いやつを、辛い辛いといいながら、口の中から喉の奥にかけて激痛に耐えながら、食べ続けなければいけないのだ。ほとんど拷問じゃないか!

 許せない……絶対に、許せない……真昼の感情は、もう、アミーン個人に収まり切ることは出来なかった。その行為を実行したアミーンだけではない。その行為が実行されたこの世界に対する感情にまで拡大していた。真昼は、もう、世界の全てが許せなかった。こんな……こんな世界……滅ぼしてやる!!

 しかしながら。

 いくら許せなくても。

 真昼には。

 世界を、滅ぼすだけの。

 力などないのであって。

 実際に真昼が出来ることといえば、あっちの方にあるあの建物に向かって、「すみませーん」と声を掛けることだけだった。建物の中から「ハイハーイ、ワタシ、ココニイルヨー」という声がして。またもや、出入口のところから、ひょっこりと顔をのぞかせるアミーン。そんなアミーンに向かって、真昼は、テーブルの上に置かれていたコップを手に取って。そのコップを掲げて、軽くふるふると振って見せながら「飲み物、飲み物を下さい」と言った。

 コップの中のヨーガズは、全部、真昼が飲むか。あるいは大部分が真昼によって吐き出されて、真昼の服と石畳の上とをびっしょびしょに濡らしていたのであって。もう空っぽになっていたのである。そして、今テーブルの上で禍々しい存在感を放っている「これ」は、とてもではないが飲み物なしには食べられない。

 アミーンは、「ワカタヨワカタヨー、疾風ノヨウニ用意シ、閃光ノヨウニ持ッテイクヨー」と答える。こいつ時々わけ分かんないこと言うな。それはそれとして、アミーンは、ひょんっという感じで建物の中に引っ込むと。疾風の速度よりは遥かに遅いが、まあまあ、十秒かそこらで出てきた。

 右手には例の薬缶を持っていて、ぶらんぶらんと揺らしている。揺らしているどころか、デニーと真昼とがいる席にやってくる途中で、ぐるりーんと一周、地面と垂直の方向にぶん回したくらいだった。遠心力だのなんだののおかげで中の液体はこぼれなかったが、真昼としてはそういうことはしないで欲しかった。

 閃光の速度よりは全然遅いが、数秒で辿り着く。それから、「オ待タセシタネー、待ッタ?」とかなんとか言いながら、真昼のコップに中のヨーガズを注ごうとすると。それを、真昼が、「あ、すみません」と声を掛けて止めた。

 「ハイ? ドウシタンダヨ、サナガラサーン」「あの、それごと置いていって頂けますか」「ソレゴト?」「えーと、その、薬缶ごと」。言いながら、真昼は、アミーンが持っている薬缶を指差したり、自分で薬缶を持っているような仕草をして見せる。

 コップ一杯でこれを食べ切るという自信は真昼にはなかった。コップは、まあ、ピッチャーくらいの大きさがあるが。薬缶は、そのコップ二つ分くらいの大きさがある。なので、薬缶ごと置いていって欲しかったというわけだ。

 さて、その要求に対してアミーンはどう答えたのか「ハイハイ、ソウイウコトネ、ワカタヨワカタヨー」と言うと、素直に薬缶をテーブルの上に置いた。まあ、アミーンの置き方だったんで、テーブルの金属と薬缶の金属とがぶつかり合うかなり大きな音、がいーんという音が響き渡りはしたが。その要求が断られるということはなかった。

 それから。

 それから。

 真昼は、コップの中。

 ヨーガズを、注いで。

 親の仇のように辛い。

 自分の脳味噌を。

 胃袋に落とし込む作業を。

 再開したのでありました。

 と、まあ、そんなアクシデント、真昼にとっては絶対に許せないような事件もあったわけですが。その他は、特に何事もなく、滞りなく全ての物事が進んだわけですよ。

 ひー、ひー、辛いよう、という感じではありながらも。一つ目の薬缶、中のヨーガズを全部飲み干して、追加でもう一つヨーガズが入った薬缶を頼みながらも。それでも真昼はテージャサ・マサラを食べ終えることが出来た。後半になると、なんか舌が麻痺してきてしまって、これくらいの辛さの方が舌に対する刺激もあってちょうどいいんじゃないか……?とかなんとか思い始めたりもしたが。ただ、最終的には、やっぱりチャツネは入れない方がいいに決まっているという結論に至ったのだった。

 その後で、アーガミパータ産の茶花を使った最高級のバーゼルハイムとともに、優雅なデザートタイムとなった。デザートは、一つのお盆の上にたくさんの種類のデザートが乗せられた盛り合わせだった。ライスプディングにニンジンケーキに。ナッツをパイで包み込んで焼いた物。それから、小麦粉を使った生地の間にチーズを挟んで、その上にとろりとしたシロップをかけて、生地がカリカリのパリパリになるまで焼き上げたクナーファと呼ばれるお菓子。シャリシャリとした触感の、スポンジケーキのようなキャンディのような、サミードゥ・タイプの小麦粉を使ったハルヴァという名前のお菓子。

 そういったお菓子を一つ一つ味わいながら、合間合間に香り高いバーゼルハイムを楽しむ。真昼は、そういう高価な物については色々と教え込まれていたので、漂ってくる香りを嗅いだだけで分かったのだが。東アーガミパータにある、ラチョージリンという、バーゼルハイムの世界三大名産地の一つにも数えられる土地で採られた茶花を使った物だった。しかもその中でも、無教徒によって経営されているサーマンニャファラ茶園のものだ。サーマンニャファラ茶園とはどんな茶園か、そもそもなんで無教徒が茶園を経営しているのか、そういうことを書いているとめちゃくちゃ長くなってしまうので、ここでは省略させて頂きますが。もしも気になる方がいらっしゃったら『緑のしずくに恋してる――サーマンニャファラ茶園の愉快なテロリストたち――』が入門書としては一番分かりやすいだろう。これは、色々とあってサーマンニャファラ農園で茶摘みの仕事をすることになった月光国出身二十代独身女性が書いたコミックエッセイである(月光国出身二十代独身女性は世界各地に無数にいてそのようにして経験したことをすぐコミックエッセイにすることで有名だ)。無教徒に関する研究で著名な国際政治学者が監修を行っているのである程度は内容に信頼が置ける。なんにせよ、少なくとも人間が手に入れられる紅茶の中では最も高価なバーゼルハイムのうちの一つだということだ。

 退屈そうな、暇そうな、顔をして。両手を椅子の座面の上にべたーっとついて。右足と左足と、ぶらーんぶらーんと、代わる代わるという感じで前後に揺らしているデニーを目の前にして。そちらの方に視線を向けることなく、ただただ青い空を見上げながら。デニーのこと、待たせているかのように、わざとゆっくりバーゼルハイムを口にしながら……三十分ほどは、そのデザート・タイムを楽しんだだろうか。

 そうして。

 最後の一滴まで。

 バーゼルハイムを飲み干してから。

 「じゃ、行こっか」ということで。

 お会計になった。

 こいつ、金、全然持ってないくせにどう支払いするつもりなのかな、とかなんとか思いながら。完全な他人事を眺めるかのようにして、しげしげと興味深そうな視線をデニーに向けていた真昼であったが。結局のところ、なんだか拍子抜けしてしまうような方法で、その状況を切り抜けたデニーなのだった。

 アミーンを呼んで、いざお会計という段になると。「じゃー、いつものとーり、お会計はフランちゃんにつけておいてねー」とだけ言ったのだ。なるほど、確かに、わざわざデニー自身が払う必要はないわけだ。フラナガンとかいう男が常連客であるならば、その男に払って貰えばいいだけの話なのである。

 というわけで、コースを全て食べ終わり、お会計も済ませて。「アリガトゴジャマター」「フーツサン、マタ来テヨー」「サナガラサンモ、来テネ来テネー」とかなんとか言いながら、見たことも聞いたこともないような奇妙なダンスでお見送りするアミーンの、そのどう見ても人のことを馬鹿にしているとしか思えないダンスに見送られながら、アミーン・マタームを後にしたところのデニーと真昼となのであった。

 真昼的には。

 もう二度と。

 来ないかなと。

 いう、感じだ。

 そしてですね、それからというと、せっかくだからということでティールタ・カシュラムの最上階、アイレム教徒のための信仰の領域に足を延ばして。カ・マスジドを訪って、その周囲に広がる空中庭園を散策して。下の階層に戻ってからは、なんとなくそこら辺のバーザールを冷やかして。とはいっても、金を持ってないので本当に見るだけだが、それでもまあ楽しいっちゃ楽しいというか、デニーが本当に色々なことを知っているので、まるで博物館で借りることが出来る展示品の音声ガイドでも聞いているかのように、ぴゃいぴゃいと喋り続けるデニーの他愛もない話を聞き流しながら。時間も時間、日も傾いてきて、もうそろそろ夕方にでもなりそうだという頃になって、ようやくティールタ・カシュラムを後にした二人なのだった。

 まあ、観光の詳細は省かせて頂きますね。本筋にはさして関係もありませんし、ティールタ・カシュラムの大体の印象については既に書いてあるし。それに、読者の皆さんもそんなに興味ないでしょう。

 バーザールを歩いている時、たまたま、少し先のところで掏りに失敗した乞食の子供がいて。そういうことはバーザールではよくあることなのだが、とにかく、その乞食の子供は、掏りをしようとした相手から全身の骨が粉々になったんじゃないかと思うくらいぶん殴られて、そのまま地面に倒れて動かなくなってしまったことだとか。あるいは、ちょうど死刑の執行があるということで急いで行ってみると、その死刑場は足の踏み場もないほどの人込みで。それだけでなく、グリュプスを始めとした様々な物見高い種族が集まって、死刑場の空、まるで猛禽類が獲物の上を円を描きながら飛行しているかのように飛行していて。そんな混雑の中で、何をして処刑されるのかよく分からない三人の死刑が執行されたことだとか。そういった全てのことを、真昼は完全な他人事として、観光者の視線で眺めていたこと。

 そういったことについて、大抵の読者は全く興味がないものだ。なぜなら、殴り殺された乞食の子供も、処刑された三人の罪人も、ヒーローではないからである。ヒーローではない生き物のこと、あるいは、事件ではない日常のこと。そういうことについては誰も興味を持たない。そういうことを延々と描き続けると――もちろん、もちろん、そういうことこそが世界を変えているのであり、その部分を記述しない限りは世界の真実について絶対に理解することなど出来ず、そして、これはいくら指摘してもし足りないことであるが、そういった世界の現実を誰もが完全に知悉してはいるのであるが――読者は、この作家は才能がないと断定するのである。

 読者は現実を理解出来ない。読者は思うだろう、なぜ、わざわざ、真昼が食事をする場面を延々と描き続けてきたのか? ただ、一人の少女が食事をしているだけではないか。こんなもの、全て省略してしまえばいいのに。もしかして……ああ、そうか、この描写はただただ露悪的なだけなのだ。ただただ、少女が食人をしているシーンが書かれているだけなのだ。ただただ、少女が自分の脳髄を食べているシーンが書かれているだけなのだ。そのせいで、自分は、こんな、読んでいても苦痛でしかない、何も起こることのない退屈な描写を読まされたのだ。

 違う、全然違う。真昼が食事をする場面が描かれたのは、それが現実だからである。そして、あらゆる現実は、この世界に決定的な変容をもたらすからである。真昼にとって、アミーン・マタームでそれをしたところの遅めの昼食は、決定的な変容の契機であった。そう、それは真昼を変えた、それが行われる前の真昼とは全く異なったものに変えてしまった。それは、パンダーラの死や、マラーの死や、そういったあらゆる出来事と同じくらい真昼にとっては重要な出来事だったのである。

 なぜなら、現実は、必ず、それを変えるからだ。現実は、それがどのような現実であれ、世界を変える。それまでの世界とは全く似ても似つかないものに変えてしまう。そのことに読者が気が付かないのは、そのことに我々が気が付かないのは、そのことに人間そのものが気が付くことがないのは、それは、その変容に気が付くことが出来ないくらい人間が愚かだからだ。人間は……よほどの変容でなければ、気が付かない。読者が思うような、魅力的な登場人物、胸躍る出来事、そういったことが起こらなければ変容に気が付かない。だが、本当に重要なのは、一瞬一瞬で生起しては消えていく、無限の「普通」である。物語に描かれることのない、永遠の現実である。

 連続的な生起から切断されて、一冊(二冊でも三冊でもいいけど)の本の中に閉じ込められたところの、ただただそれだけが虚空に浮かんでいる物語の中の事件は、現実には絶対に起こり得ないが。現実は、今、今、今、そして「この今」さえも、まさに起こっていることだ。物語は、たとえ未完であっても、例え前後の状況が説明されていても、現実に比べれば砂の一粒ほどの重さもない。

 物語には、意味がない。

 それどころか、有害だ。

 なぜなら。

 それは、思考の。

 怠惰であるから。

 全ての物語は、想像力を、奪うがゆえに。

 絶対に、この世界から追放されるべきだ。

 ねえ。

 そうは。

 思わない?

 いや……まあ……あっはっは、そうはいってもですね、読者の皆さんが興味のないことを延々と書いていくのは良くないことですよ。読者の皆さんだって、別に娯楽として読んでるだけですからね。死ぬまでの暇潰しに読んでるだけで、別に、世界の真実なるものには興味ないわけですから。というか、世界の真実なるものを知って、人生どうなるわけでなし。そうであるならば、面白くないところはがんがん飛ばしていった方がいいわけです。と、そんなわけで、真昼ちゃんの観光はカーットさせて頂きまーす。

 そうして。

 そうして。

 デニーと、真昼と、二人は。

 ティールタ・カシュラムを。

 後にして。

 今。

 また。

 荒野の上を。

 飛んでいる。

 荒野、荒野、荒野。いつもいつも、あたしの目の前には荒野しかないなと真昼は思った。そこは荒野ではなかった場所かもしれない。あるいは、真昼が通り過ぎてから荒野ではない場所になるかもしれない。だが、それがどこであれ、真昼が通るその瞬間には荒野になる。真昼にはアーガミパータという土地がそのような何かであるように感じられた。

 日が傾いている……地平線に半分ほど食われた太陽が、食いちぎられた内臓の断面から、赤光の洪水を垂れ流すようにして出血している。荒野の全体が、黄昏時の、腐りかけた橙色の光に濡れている。真昼は……なんとなく、その光景の内側で溺れているような気分になる。息がしにくいような気がしてくる。赤い光、どろどろと真昼を包み込んで。口を開ければ、ずるりとその中に沈み込んでいくような気がする。

 砂と骨と、捻じくれた仙人掌と。それに、時折、恐らくはイヌ科の動物なのだろうが……ゆらゆらと揺れる、ぼんやりと暗い、影そのもののような四つ足の生き物が、断崖の影を、まるで夢に出てくる幽霊のように通り過ぎていく。その、生きているのか、それともただの陽炎なのか、それさえも分からない何かの姿以外には……少なくとも真昼には、動くものの姿は何も見えなかった。

 沙漠のこの辺りは……どこまでもどこまでも続いていそうだったのっぺりと平坦な砂の海が、そろそろ尽きてきたという場所だった。平面よりも高い位置にあるものといえば砂丘くらいだったのに、今では、遥か遥か彼方、見下ろす地上には。焼かれた煉瓦のように赤茶けた色の断崖が姿を現わし始めている。

 高さとしては数十ダブルキュビト程度、一番高いところでもせいぜい百ダブルキュビトを少し超えるくらいだろうか。粒子が粗いざらざらとした砂が、粗雑な鑢で削られたかのようにでこぼことした平地を覆っていて。そのような平地を囲っている城壁みたいにして、巨大な岩石の塊、断崖が、聳え立っている。

 デニーと。

 真昼とは。

 その断崖の。

 ずうっと上。

 地上から数百ダブルキュビトのところ。

 飛行していた。

 いうまでもなく、アビサル・ガルーダに乗って飛んでいるのだ。ティールタ・カシュラムを出て、その街を少し離れて。隊商が行き来するルートからもそれなりに離れたところまでやってきてから。デニーは、初めて、オルタナティヴ・ファクトを開いてその中にいたアビサル・ガルーダをこちら側の世界に召還した。そして、今というこの現在は……アビサル・ガルーダに乗って、荒野を移動し始めてから、数時間が経過したところである。

 アビサル・ガルーダは、デニーと真昼とのこと、スカーヴァティー山脈の上空を飛んでいた時と同じようにして持っていた。つまり、自分の頭上に向かって天の金環を掲げるかのような仕草によって掲げていたということだ、両方の手を器にして、その中に、二人のことを乗せて。

 アビサル・ガルーダが空を飛ぶ方法に関しては何も変わるところがない。ただし、それ以外のことで今回の飛行とスカーヴァティー山脈の時とでは少しだけ異なっていたことがあった。それは、真昼が全身に感じている振動だ。

 とはいっても、それは物理学的な振動ではない。妖理学的な振動である。真昼を、いや、それどころか、アビサル・ガルーダの全体を、そのような振動が包み込んでいる。要するに、何が起こっているのかといえば……結界だ。

 目をつぶって、周囲のあらゆる物事に神経を張り巡らせるようにして感覚を研ぎ澄ましてみれば。その振動がアビサル・ガルーダの羽から放たれているものだと分かる。ということは、どうやら共同幻想によって発生するところのオレンディスムス結界ではないらしい。恐らくは、アビサル・ガルーダという生き物の観念的な身体を利用したところの心身延長結界だろう。

 ということで、なんらかの種類の結界が、アビサル・ガルーダと、アビサル・ガルーダが持ち運んでいる二人のことを保護しているということだ。保護している? いや……違う、たぶん違うだろう。デニーはいうまでもなく、アビサル・ガルーダも、真昼でさえも。今のところ、結界によって守られなければいけないほどの脅威に襲われているわけではない。

 ということは、結界のもう一つの利用法ということだ。その内側にあるものを隠すということ。保護ではなく秘匿、防御ではなく韜晦。これから向かう場所、デニーと真昼とが向かっているその場所、そこにいる何者かに対して、接近そのものを覆い隠すための結界だということだ。

 それでは、その隠蔽は。

 何者に対して行われているのか。

 いや、それ以前の問題として。

 アビサル・ガルーダは、二人は。

 一体、どこに向かっているのか。

 ところで、その前に……アビサル・ガルーダによって運ばれている二人についても触れておこう。まずは真昼について、右側の手のひらの上、指の付け根の辺りにいた。真ん中ではなく、それよりも少しだけ右側のところ。そこに、胡坐をかいて座っていた。脚と脚とを折り畳んで、重ねて。右の腿の上に、右の肘をついて。その上に顎をのっけて、いかにもかったるそうな顔をしていた。左の手はといえば、左の脛の辺りからだらりと垂らしている。だらしない猫背の姿勢のままで……呆けたように口を開きっぱなしにして。そして、次第次第と死んでいく太陽を見ていた。

 そして、そんな真昼が何を考えていたのかといえば。あんだけ馬鹿みたいに(というか実際に馬鹿として)ぐちぐちぐちぐちとクソの役にも立たないこと、徹底的に自分、自分、自分のことばかり。自分は世界にとってどういう存在なのかとか、世界は自分にとってどういう存在なのかとか、延々と考え続けていたところの、あの真昼が。今、なんと、なーんにも考えていなかった。

 いや、そうじゃない、マラーが死んだ直後のような状態であるわけではない。あの時の真昼は、何も考えていないようで、実は考えていた。いつもと考えていることと全く同じこと、つまり、自分についてのことを。ただし、それは、幾分かの恣意性によって一定の方向に決定付けられたところの一つの秩序としての思考であったわけではなく、ただただ空漠的な方向に閉鎖したところの混沌であったというだけなのだ。

 分かりやすくいえば……真昼の思考能力では処理し切れないほどの社会的に強制された感情シュミレート、罪悪感や解放感や、憎悪に媚愛に嫌悪に快感に、それに諦念といったあらゆる感情が。懶惰に溶解し、破滅的に暴発した結果として、真昼は自分が何をどう考えているのかということが分からなくなってしまったということだ。空に溶けていってしまった。出来損ないの未熟児が、どこにも行けばいいのかも分からぬままに空に溶けていってしまったようなものだ。どこにも行けないまま無限の空間に漏出していく。考えなければいけないこと、考えていることが多過ぎて、結局、空の内側で泣いている嬰児。

 今の真昼はそのような愚かであるがゆえの皮肉な逆説に縛獲されているわけではない。そうではなく、本当に、単純に、ぼけーっとしているだけなのだ。感覚としては、夏休みも中頃になって、どこかに行くだとか誰かと遊ぶだとかいうような予定もない日。別に追い詰められているわけではないのだが、そろそろ宿題をやった方がいいかなあと思いながらも、それに手を付けることもなく。ただただ、よく晴れた青空、流れていく雲を眺めていく、あの時と同じような心的状況である。

 真昼は、沈んでいくアーガミパータの太陽を見て。今、初めて、綺麗だなと思っていた。アーガミパータの絶望的な状況、そこに住む生き物の絶望や苦悶や、そういった全ての背景を捨象して、ただただ、すごく綺麗だなと思っていた。

 しかも、そこになんらかの象徴的な美を見ているわけでさえなかった。それは……初めて海を見た生き物が、その広大さに衝動的な畏怖と魅惑とを感じるような。芸術的なもの、欲望的なもの、人間の身体的感覚以前にある感覚だった。

 それから、そのような。

 真昼の隣に突っ立って。

 デニーが、地図を見ていた。ヤクトゥーブから購入したあの地図だ。そこには、世界樹が生えている場所だのはぐれヴェケボサンの隠れ家だの、万年筆で印を付けられていて。その地図と現在地とを照らし合わせて何やらかにやら確かめているらしかった。

 「ねえねえ、真昼ちゃん、こっちでいいんだよね?」「んー、なかなかつかないねー」「あ、真昼ちゃん! あんなところ、グリュプスの隊商が飛んでるよ! 迷っちゃったのかな?」「あ、あれがこれかな? ほらほら、ここに書いてあるやつ。あれ、これだよね? これだよこれだよ!」「あーっ! あったあった! じゃー、こっちで合ってるね! 良かったー!」「あははっ、あれ、あれ、あれ見てよ! 誰か死んでる! やっぱりさぴえんすはすぐに死んじゃうねー」「もーそろそろ日が暮れちゃうね、真昼ちゃん。んー、まあ、日が暮れてからの方が奇襲とかしやすいから、そっちの方がいいかなーって思ったりもしなくもないんだけどお。でも、やっぱり、明るいうちに着いちゃいたいよね!」。

 ちらっちらっと地図を見せながら、真昼に向かって、ぴーちくぱーちく囀っているデニー。もちろん、真昼はほけけーっとしてしまっているので、そのような囀りには一言も言葉を返さなかったが。とはいえ、デニーも答えを求めているわけではない。

 そもそも、デニーはデニーなのだ。これほど強くこれほど賢い生き物が、進行方向がこちらで正解なのかどうかなどということを、他の生き物に対して問い掛ける必要性などあるだろうか? これはもちろん反語なのだが、なんにしたって、デニーには地図さえも必要ないくらいなのだ。それでも真昼に向かって色々と話し掛けているのは……要するに、ただ何となくそうしているだけなのである。何か目的があるわけではなく、子猫が鼠にじゃれついているようなもの。

 そのようなわけで、デニーは、というかデニーに操作されているアビサル・ガルーダは、目的地へと至る完全に正しいルートを辿っていた。移動方法は、ここまで読み飛ばさずに読んで下さっているならばお分かり頂けると思うが、デウスステップではなく通常の飛行モードだ。

 時速としてはスカーヴァティー山脈の上空を飛んでいた時と同じくらい、時速二百エレフキュビトくらい。それでまあ、正確なところは時計がないので分からないが、数時間は飛んでいるわけだから。たぶんティールタ・カシュラムから千エレフキュビト程度のところだろう。

 先ほど、デニーが「もーそろそろだね!」と言っていたので、目的地は近いはずだ。となると、その距離と方向と、それに、この辺りの地形。あちらこちらに巨大な岩石が突き出している地形から考えてみるに……目的地は……と。

 その時。

 デニーが。

 口を開く。

「あっ! あれあれ、あれだよ真昼ちゃん!」

 楽しそうにぴょんこぴょんこと飛び跳ねながら、そう叫んだデニーが指差した先。ひときわ大きな渓谷が姿を現わした。まあ、大きいっつったって、今まで真昼が見てきた数々の偉大なもの達と比べれば、全然、こう、「都会で生まれ育った人が田舎のコンビニの駐車場を見た時」くらいの「大きい感」しかなかったが。とはいえ、周囲の断崖と比べても一.五倍くらいは大きかった。

 その渓谷に近付くにつれて、アビサル・ガルーダの速度がだんだんと遅くなっていく。ティールタ・カシュラムの近くにある、(そこそこ)巨大な渓谷。地図上に標しなされた二つの印のうち……つまるところ、目的地は、はぐれヴェケボサンの隠れ家だったというわけだ。「ちょうどいい感じ」、の、盗賊団がいるはずの場所。

 そういえば……その「ちょうどいい感じ」とは一体どういう意味なのだろうか。盗賊団にちょうどいいも何もないと思うのだが、とはいえ、デニーが口にしたその言葉の意味をヤクトゥーブは理解していたようだ。

 というか、それ以前の話として。世界樹がある場所に行く前に、デニーは、なぜここに来なければいけなかったのだろうか。確か、プリアーポスとかいう何者かとの電話では、世界樹に行く前に何かしらの準備が必要であるというようなことを言っていたが。その準備に関係があるのだろうか。

 とにもかくにも、アビサル・ガルーダは、その渓谷の上空に辿り着いた。ふわりと風に舞う一枚の羽根みたいな柔らかさで、空中、停止すると。そのまま、くうっと体を起こす形、真っ直ぐに起立するような姿勢になった。デニーと真昼とが乗っている手のひらは相変わらず頭上に掲げている。

 真昼は、さすがに、白昼に惰眠を貪っているかのようなあの状態から覚めて。それから、ふーっと大きく息を吸って、はーっと大きく溜め息をついた。その後で……右の手で、首輪のようになっている、あの首の周りの傷をがりがりと掻きながら。いかにも面倒そうにデニーの方に首を傾ける。

 透明な泥濘のような視線で見上げる真昼。

 そんな真昼に向かって笑いかけるデニー。

 こう言う。

「ついたよ、真昼ちゃん。」

「どこに?」

 何が面白いのか、デニーは、その真昼の質問にけらけらと笑った。それから、くるんという感じ、体の向きを変える。真っ直ぐ前を向いていた体を右側に、つまり真昼がいる側に向ける。

 くうっと、デニーは、上半身を傾けてきた。腰の辺りから、前に、前に、上半身を曲げていく。座っている真昼の顔に、立っているデニーの顔が近付いていく。

 フードの奥で、にーっと笑っていて……ゆらゆらと揺れている、フードの縁……緑色の目、緑色の目……まるで、奥津城に沈んでいく時のように……優しい、優しい、デニーの目。

 デニーの顔と真昼の顔との距離が、吐息の温度が混ざり合うほど近くなると。デニーは、そっと、真昼に向かって手を伸ばした。右の手のひらで右の頬を。左の手のひらで左の頬を。それぞれ、卵を包み込む親鳥の羽毛のような柔らかさで触れる。

 デニーの目が真昼の目を覗き込んでいる。と、ふっと、そのようにして交わされていた視線が外れた。どうしたのかといえば、真昼の顔に触れているデニーの手のひらが、そっと、真昼の顔を傾けたのだ。

 デニーの顔が、真昼の顔を、真昼から見て左側に傾ける。ほんの僅かだ。傾けてから、それから、デニーは、今度は、そうして傾けた真昼の顔に、更に、更に、自分の顔を近付けていく。

 デニーの口が、真昼の横顔に、というか真昼の左耳に近付いていく。ああ、耳を食われる、耳を食われる。鱗で呼吸する魚、耳喰鬼。にーっと笑っている、その口が、真昼の、その耳に、あと少し、あと少しで、触れそうになる、その時。

 デニーの。

 口が。

 開く。

 「真昼ちゃん、真昼ちゃん」「あのね」「デニーちゃんは」「ちょーっとだけ」「やらなきゃいけないことがあるの」「世界樹に行く前に」「真昼ちゃんのために」「世界樹を花束にして」「真昼ちゃんの手のひらに」「そっと持たせてあげる前に」「やらなきゃいけないことがあるの」「だからね、真昼ちゃん」「待ってて」「終わるまで」「ふふふっ、大丈夫だよ」「すぐに、終わる」「すぐに、終わらせてくるから」「だから」「ほんの」「ちーょっと」「待ってて、真昼ちゃん」「デニーちゃんが」「やらなきゃいけないこと、終わらせるまで」「えんえんしないで」「待っててね」。

 そうして。

 その後で。

 デニーは、ふっと。

 真昼の頬を離すと。

 傾けていた姿勢を、元に、戻して。

 体の向き、真っ直ぐに前を向いて。

 一歩。

 一歩。

 前に進んでいく。

 デニーは、第四趾の付け根の辺りに立っていたのだから、当然ながらその向かう先は第四趾の指先である。鱗に覆われているためによく見えない関節、一つ目の関節、二つ目の関節、三つ目の関節、通り過ぎて。その先にある爪にまでやってくる。ただ一点しかない……爪の先端。どうやってバランスをとっているのか、とにかくその上に立って。それから、ちらと、顔だけで真昼がいる方向に振り返って。

 はらり。

 はらり。

 美しく死んだ紅葉が。

 諦めたように葉脈を。

 この世界の方向へと。

 広げていくみたいに。

 デニーは。

 世界に向かって。

 優し気に。

 両腕を。

 広げて。

 フードの奥で微笑んでいるのは。

 絶対零度の、弾丸のような笑顔。

 ああ。

 だから。

 その後。

 デニーの身体は。

 くらり、と傾げ。

 そのまま。

 そのまま。

 始まることも終わることもなく。

 楽園の、外側に、広がっている。

 空に。

 落ち。

 て。

 く。

 ちなみに、これは比喩的表現ではなく、デニーは実際に落ちていった。アビサル・ガルーダの爪の先から、飛び降りるというよりも、ゆらりと揺らいだその一瞬に墜落していくといった感じで。あの渓谷さえもなんだか作り物の模型に見えるような高さから。といってもせいぜい二エレフキュビトくらいなのだが、その高さから、拍子抜けするような当たり前の態度で身を投げたのだ。

 真昼は、デニーがそのように行動をしてから。五秒ほどの時間が経ってからようやく動き出した。今まで胡坐を組んでいた脚を崩して、その場に立ち上がって。それから、いかにも億劫そうに、一歩、二歩、足を踏み出す。アビサル・ガルーダの指間腔から地上が見下ろせるところまでやってくる。

 立ったまま、ぼんやりと見下ろすと……地上までの距離、その半分くらいのところにデニーの姿が見えた。五百ダブルキュビトくらいの距離ということだが、それでも、デニーによって色々と強化された真昼の視力であれば、デニーがどのように墜落していくのかということ、十分に見えていた。

 デニーは、楽しそうに笑っていた。落ちていく自分に纏わりついてくる風、デニーの肉体が大気を引き裂くことによって発生する風。そんな風と、殺し合うみたいに戯れている。くるくると回転し、ふわりと揺らめき、踊るように、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ。スーツがひらひらと笑っている。かぶったフードの端から、緑色の髪が、火花のようにちらちらと見えている。

 ふっ、と……見下ろしている真昼と、見上げているデニーと。その二人、目が合った。この距離で目が合うというのはなかなかあり得ないことのように思えるかもしれないが、それは一般的な人間を基準にして考えればの話である。二人の視力というものを考えれば、全然、あり得ないことではない。

 デニーが、真昼に、笑いかけた。デニーに笑いかけられると、そのたびに、真昼は、深く深く密やかな気持ちになる。これほど邪悪な生き物がこれほど無邪気な笑い方をするなんて。しかも、その笑顔は、自分に向けられているのだ。まるで世界の秘密が自分だけに開示されたような気持ちになる。

 デニーが、手を振っている。デニーは、ぶんぶんと、いたいけな子犬が、飼い主を見て尻尾でも振っているみたいに手を振る。そんな風に、真昼に向かって手を振る。無論、真昼はデニーの飼い主ではない。逆だ、デニーが真昼の飼い主である。それを認めた瞬間に――さりとて、それをいつ認めたのだろうか――真昼は、全てが美しく、全てが優しく、どこまでもどこまでも透明な幸福の内側に溶けていくような気がした。頭蓋骨に穴が開いて、そこから脳髄が溶け出していく。甘い甘いシロップの海に。そんな気がした。

 もちろん、真昼は手を振り返さない。人間は子犬ではないからだ。人間は飼い主を憎悪するものである。その代わりに、真昼は……いかにも不愉快そうな顔をして、ぎっと歯を剥き出しにして見せた。それから、口の形だけを動かして「そ」「の」「ま」「ま」「お」「ち」「て」「し」「ん」「じ」「ま」「え」とだけいうと。それから、ふいっと、指間腔に向けていた視線を逸らした。

 それから、真昼は……ひらりと身を翻すと。一歩、二歩,三歩、四歩、五歩、アビサル・ガルーダが器としている手のひらの中心の辺りまで歩いて来た。

 デニーが、これからどうなるのか、一体何をしようとしているのか。真昼はどうでもよかった。なぜ、ここから飛び降りたのか。この高さから飛び降りて、果たして無事に地上に辿り着けるのか。地上に辿り着いてどうするつもりなのか。地上には何があるのか。あの渓谷には何があるのか。何がいるのか、デニーとヤクトゥーブとの会話に出てきたはぐれヴェケボサンの盗賊団とはどういう存在なのか。デニーが、その盗賊団と会ってどうするつもりなのか。地上では、何が起ころうとしているのか。そして、それが、どのように真昼と関係してくるのか。

 全てのこと、真昼は、一切、興味がなかった。なぜというに、真昼には分かっているからだ。一番重要なことについて、真昼は、完全に理解していた。要するに……デニーは何があっても真昼のことを見捨てないということ。

 もしも真昼を見捨てれば、デニーにとって、大変大変不都合なことになる。そして、デニーは、自分に災難が降りかかるようなことは絶対にしない。ということは、デニーは、自分の保身のためには、絶対に真昼を見捨てない。

 それだけ分かっていれば。

 真昼には、十分、だった。

 だから、これ以上、デニーがしようとしていること、デニーがするであろうことを見ている必要はなかった。どうせ、デニーは、真昼にとって絶対に必要なことをして、真昼のもとに帰ってくるのだ。実際、自分で言っていたではないか。やらなければいけないことを終わらせてくるだけだと。

 そんなわけで、真昼は、真昼のことを乗せている器、アビサル・ガルーダの二枚の手のひらの、その中央部分に、どすんと、倒れこむみたいにして、荒々しく、騒々しく、座った。

 その座り方は……先ほどまでのそれではなかった。胡坐に見えないこともないのだが、少し違っているのだ。胡坐の場合、両方の足は、腿の下に隠れて見えないが。真昼の座っているそれは、それぞれの足の甲が、反対側の腿の上に乗ってしまっている。左足は右腿の上に、右足は左腿の上に。足のひらがすっかり見えている。ちなみに、上になっているのは左側の足だ。それから、その手の位置であるが、これもやはり違った。先ほどまでよりももっとだらしない感じだ。まず右の腕だが、右の膝の上、力なく乗せている。腿の辺りに前腕を置いて、右足がある辺りに手の甲を置いて。それから、手のひらを上にしている。一方の左手であるが、左膝よりも少しだけ内側、左脛の辺りからだらんと垂らしていた。手のひらを自分の方に、手の甲を外側に向けて。あまりにも力を抜いてしまっているので、中指の先などは、アビサル・ガルーダの手のひらの上についてしまっているくらいだ。

 そのような姿勢で座ったままで。真昼は、また、視線を、遠く遠く、神の卵が荒れ果てた大地の底へと溺れるように沈み込んでいく、その方に向かって。まるで世界の全てをabandonしてしまったような視線を向けていた。放棄。遺棄。bannus、禁止された者。もちろん、生命はどこかから追放されることはない。生命は常に自分という内的世界から外的世界を追放するのである。

 さて、それから。

 真昼は。

 考えた。

 デニーが何をするにしても、いつ頃帰ってくるのだろうか。分からない、分からないが、一つだけいえることは、デニーはすぐに終わると言っていたということである。たぶん、そんな時間はかからないだろう。とはいえ、一瞬で終わるということもあるまい。なぜというに、真昼をここに置いていったからである。もしも、まばたきするよりも早く終わらせることが出来るというのならば、真昼がついていっても構わないはずだ。

 少なくとも、真昼がついてくると足手まといと感じるか、あるいは真昼がいると危険が及ぶ可能性があるか、どちらか(両方かもしれないが)の要因がない限りはデニーは真昼を置いていかないはずである。それほど時間はかからないが、とはいえ、それなりの作業工程は予想される。恐らくは……数十分、長くても二時間か三時間か、それくらいだろう。

 その間、何をしていればいいのだろうか。ここには何もない。ここにいる真昼に手渡されているものは、空しかない。それならば、さっきまでと同じように、ただただ呆けたように空を見ていればいいのかもしれないが。とはいえ、さっきまで、真昼が何も考えずに空を見ていられたのは……すぐ近くで、デニーが、詮のないお喋りをしていたからである。

 いつまでもいつまでも続く、蝶々の羽のはためきのような、春風に揺れる花びらのような、さらさらと落ちてくる無意味な言葉の驟雨の中に真昼はいた。それに、眼下の景色も、ほとんど変わりないとはいえ、そこそこ動いてはいた。そういった、様々な変化、退屈しのぎ、なんと呼んでもいいが、それらの無意味なノイズが真昼の中にある何かの「何か」を洗い流していたのだ。

 それらがなければ、真昼には、自分の中にある、その「何か」しか残されていないのである。それは不安か? 違う。それは恐怖か? 違う。それは欲望でもなければ倒錯でもない。分裂でもない。可塑性でもない。ただただ現時点での真昼が現時点の真昼であるという、その不動のトートロジーからしか生まれ得ないkerokerogomyである。ちなみに、kerokerogomyとは、名付けられるべきであるにも拘わらず未だに何者によっても名付けられていない根源的原因を仮に呼ぶ際の名前だ。

 今。

 悲鳴が聞こえた気がする。

 自分の部屋にいる時。

 窓の外側で聞こえる。

 静かな雨音のように。

 きらきらと。

 美しい。

 美しい。

 心の底から。

 恍惚とする。

 絶叫。

 目を……目をつむった。真昼は、自分の内的世界にいる。そして、kerokerogomyの欠片を、海の中に落としてみる。暗く広い海。怪物がいるはずの、その海に。何も、慄くことなんてない。生き物が夜を恐れるようにして、生き物が火を恐れるようにして、真昼がその怪物を恐れる必要はない。なぜなら、真昼は、デナム・フーツによって守られているのだから。円環、怪物と王子様と。始まりはない。kerokerogomyが、深く深く海の底へと沈み込んでいって……やがて、何かが、真昼の頭蓋骨の中で呼吸をし始める。

 呼吸の音。

 吸って。

 吐いて。

 吸って。

 吐いて。

 聞こえる。

 真昼。

 真昼。

 ねえ。

 あたし。

 何かが。

 変わってしまった。

 それは分かってる。

 でも。

 一体。

 何が変わったの?

 死、死ぬということ。それを境にして、真昼は変わってしまった。いや、そのいい方は正しくない。真昼は……何か、真昼ではない存在に変容してしまった。欠損、何かが欠けたことによって。それは、例えば、人差指と中指とを立ててピースを表わしていたサインが、人差指の欠損によってファックに変わるようなものだ。いや、違うか。ごめん全然違うわ。

 つまり……

 つまり……

 要するに……

 欠損は、欠損そのものとしては理解出来ない。

 それが何ではないか、何とは異なるか。

 否定学的な方法でしか捉えられない。

 なぜなら、それは、そこにないから。

 今の、真昼、にとって。

 それは存在しないから。

 だから。

 真昼は。

 一つ一つ。

 順を追って。

 その欠損が。

 何ではないか。

 考えて、みる。

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