第三部パラダイス #11

 人間は、空に果てがないということをいつ頃知るのだろうか。観念的な意味ではなく、その肉体を襲撃する確かな触感としてそれを知るのは意外にも難しいことだ。もしかして……都会に生まれ、都会に育ち、都会に死んでいく人間は、生まれてから死ぬまでその事実に全く思い当たらずにいるのかもしれない。

 真昼は、最初にアーガミパータという土地を感じた時に。具体的には、マイトレーヤの寺院から連れ出された後、ウパチャカーナラが引き摺るルカゴに乗ってどこまでもどこまでも続く荒野を突っ切っていた時に。その絶望にも似た感覚とともに、初めて、本当の本当に、空に果てがないということを知った。

 それは……単純な恐慌だった。どきんどきんと抑え切れないような動悸がして、上手く呼吸が出来なくなった。息切れというか、吸っても吸っても、肺が機能していないかのように、はっはっという感じ、浅いところにしか入っていかなかったのだ。

 真昼は、何を恐れていたのか? 思うに……それは、非常に動物的な本能に近いものだった。ルカゴが、走っても、走っても、荒野は終わらない。どこまで行っても、どこまで行っても、何もない荒野しかない。

 進んでも進んでもどこにも辿り着かないということは、それはある意味で閉じ込められているのと同じである。何もない場所から絶対に逃げ出せないということは、何もない牢獄に閉じ込められているのと同じことである。広所恐怖症とは閉所恐怖症の一形式に過ぎないのだ。

 真昼が恐れていたのは、要するに、どこにも辿り着けないということ。目的の地、約束の地、自分にとって適切な環世界に辿り着けないのではないかということ。もっと正確にいえば……もう家に帰り着けないのではないのかということだ。

 空の果てしなさとは、差異の形式そのものさえも喪失してしまったところの、完全な混沌のことである。完全な無意味、そこでは無秩序な運動さえも成立することがない。なぜというに、世界の創造というのは、自由意志によっては決してなされ得ない御業だからだ。もしも創造が自由意志によってなされるのだとすれば、それはなされない可能性もあり、なされる可能性もあるということである。そうであるならば、その自由意志が、もしも世界を創造した時に。それは、世界が創造されなかったという可能性を見捨てたことになる。あるものだけを選び取り、あるものを捨て去る。それは、端的にいって無慈悲だ。選ばれるものの善性や、選ばれないものの善性の欠如といった付随的な要素は、ここでは全く関係のないことである。何かを取捨選択するという行為、それ自体が、完全に、弁護の余地なく、無慈悲なのである。創造主が無慈悲なことがありうるか? もしも創造主が無慈悲であるならば、すなわちそれは創造主が絶対的な悪であるということを意味する。そして、絶対的な悪が作り出したとされるこの世界は、つまり地獄だということになる。創造は、真実の意味で自由意志を持たない。創造は自由意志によってさえも強制され得ない。創造とは、それがそれであるという絶対的なアッラーによってなされる。そうしてこそ、初めて、世界は、アッラーを除いたあらゆるものであるところのアラームは、成り立ちうるのである……地獄ではないものとして。

 空の果てしなさを見た時に真昼が感じた恐慌とは、つまり、自由意志の地獄である。そこには何もない、自分がそこに所属していないということを意味する完全なabandonedを除いては。自由であるということは自由であるということを意味しない。どこにも辿り着くことが出来ない完璧な牢獄を意味する。人間は、動物なのだ。自分の巣の中に閉じ込められることで、平衡を保った知性の構造の中に閉じ込められることで、初めてその牢獄から解放されることが出来る。

 空。

 空。

 空は、怖い。

 どこまでも。

 どこまでも。

 続いて。

 もう二度と。

 おうちに。

 帰れない、ような。

 気持ちになるから。

 ただ、今の真昼にとっては。そのようなナイーヴさ、甘ったれたメスガキのような感覚は、はっきりいってお笑い種以外の何ものでもなかったが。今の真昼は空などというものを恐れることはなかった。無限に続く宇宙も、子供騙しのお化け屋敷ほども怖くない。なぜなら、真昼は、この世界が善なるものではないということを既に知っているからだ。

 空は空に過ぎず、世界は世界に過ぎない。そして、そこに無限があろうがなかろうが、真昼には関係がない。真昼が自分の家だと思っていたものは、ある一定の空間を観念的に区画したところの、何一つ根拠のない措定に過ぎない。お化け屋敷の仕掛けを、昼間の太陽のもとで見た時のように、すっかりと拍子抜けしてしまうような現実であるが。とはいえ、現実は現実だ。アッラーは……あらゆる生命の上に慈悲を恵み賜う。例え地獄に落ちた生命にも。そうだとすれば、どうして地獄を恐れる必要がある?

 空は空。

 それは、決して肉体的な苦痛ではない。

 ねえ、そうでしょう、デナム・フーツ。

 さて、真昼は。今というこの現実の真昼は、空を見上げていた。アミーン・マタームのテラス席。食事中に、ずっとずっと座っていたあの椅子に戻ってきて。そこに座ったまま、ぐったりと背凭れに寄り掛かって、ただただ空の方を見ていた。

 遠く、遠く、空の彼方では……一匹のテーワルルングが、あちらへひらり、こちらへひらり、特に目的もなさそうに空に浮かんでいた。そこからは誰も逃れることの出来ない広大な範囲を持つ青い牢獄の中に、一滴だけ赤い血液を垂らしたかのように。その血液は牢獄から逃げ出そうとすることなくただただその中で生きている。生きている、生きている、死に向かって墜落しているわけではない、それは確かに生きている。

 死は、生の過程の一部ではない。死は、生の完成ではあり得ない。真昼はそれをよく知っている、死というのは、結局のところ、生の破壊以外のなんらの意味も持たない。生きるということは、あのテーワルルングがそうしているように……青い牢獄の中で、赤い一滴の血液であることだ。生き物は、生きている限り生きている。無限に続く無意味、永遠に続く無意味、その中で、結局のところ、生きている時だけ生きている。

 そして。

 真昼は。

 生きている。

 生きて。

 生きて。

 自分の脳髄が。

 調理されて提供されるのを。

 ここに座って、待っている。

 ああ、また、なんか変なことを考えていた気がする。よく覚えていないけど、たぶん空のことを考えていた気がする。全くそれは理に適ったことで、なぜというに、真昼が座っている場所からは、ほとんど空のことしか見ることが出来ないからである。

 前にも書いた通り、アミーン・マタームは上の階層の中でもかなり最上部に近い場所にある。ここから見上げることが出来るものといえば、空の他には……アイレム教徒のための信仰の領域くらいだ。そして、今の、この、真昼にとって。信仰というものは完全な他人事だった。

 もちろん、過去のある一時期には、真昼は信仰に頼ろうとしたこともあった。だが、今となっては、真昼は、もう理解してしまっていた。信仰というものは、誰にとっても常に他人事なのだ。それは、どう足掻いても自分の信仰、まさに今の、まさにこの自分の信仰にはなり得ない。なぜというに、信仰とは、インサーン・カーミル……「完全な人間」のためのものだからだ。主は主の似姿しか愛さない。

 だから、真昼は、カ・マスジドにはあまり興味を示さなかった。あの、他人事のような美しさよ! その内側に怪物を閉じ込めた水晶の水滴よ! そのまま、そのまま、美しくあれ。だって、所詮は私のものではないのだから。

 また。

 変なこと。

 変なこと。

 ばかり。

 考えている。

 なんだか……あの時から。つまり、死んだ生き物として、死んだ生き物のままで、こうして動作を始めてから。ずっとずっと、考えがまとまらないのだ。なんだか不思議なことに、自分の考えがばらばらとしていて。色々な、わけの分からないことを考えてしまうのだ。ついさっきまで考えていたことと、今考えていることと、その二つが変に矛盾していたりもする。

 ぼうっとしていて、思考の全体が砂嵐に巻き込まれてしまったかのようにざらざらとしていて。一番重要なのは思索に関する記憶が続かないということだ。一瞬前まで考えていたことをすぐに忘れてしまう。そのせいでその忘れてしまったこととは全く関係のない別のことを考え始めてしまう。深い深い海の底で微生物の死骸の上に預言書を書き写しているみたいな気持ちになる。しんしんと降り積もるこの世界の無限の死が、真昼が書き写した部分をすぐに覆い隠してしまうのだ。だから、真昼は、いつもいつも、預言書をどこまで書き写したのか分からなくなってしまう。

 ただ、それは……混沌というわけではない。真昼が考えていることの全部が、全く関係のない無秩序な羅列というわけではない。確かに、それらの思考は、一つ一つが関係なく立ち現われてくるように思える。矛盾し合う非論理的なうたかたであるかのように思える。ただし、それは……確かに、混沌ではない。

 どちらかといえば、それは沸騰に近いのだ。真昼の中で、何かが沸騰している。何かが、液体から気体へと相転移しようとしている。鍋の中で煮立っている熱湯の、その一つ一つのあぶくが、要するに今の真昼の思考なのだ。あぶくとあぶくとは無関係であるかもしれない、非連続的であるかもしれない。ただ、それでも、確かに、そこには、なんらかの変化があるのだ。真昼は変化しようとしている。ただ、何に?

 ここに。

 座ってから。

 五分が。

 経った。

 料理が出来るまでには。

 まだ時間があるだろう。

「だからねーえ、ほんとーはデニーちゃんも参加しなきゃいけないんだよね。セラエノ会議に。でもさーあ、デニーちゃんとしては、いっぱいいっぱいいーっぱいお仕事が溜まってるわけなんですよ! さっきも言ったけど、ワトンゴラとピープル・イン・ブルーとの交渉も今がいーっちばん重要なところでしょーお? デニーちゃんも、いちおーは、ハウス・オブ・ラヴの代表団のメンバーに入ってるし。まあ、あくまでも裏方だけどね! それでも、少なくとも、実務者レベルの協議をまとめちゃってからじゃないと、この星を離れるわけにはいかないんだよねー。

「っていうかさーあ、それ以前のお話として、ピープル・イン・ブルーがドンガガジに入ってくる前に、ワトンゴラにある通称機関の記録を、全部全部、消え去れーってしておかなきゃいけないんだよね。だって、あそこの記録が表沙汰になっちゃったら、ワトンゴラ政府がハウス・オブ・ラヴの傀儡政権だったってばればれになっちゃうからね。まあ、記録さえ消せれば、あとはマコトちゃんとかにお願いして、いくらでもダメージ・コントロールは出来るんだけどね。

「あ、真昼ちゃん、ドンガガジって知ってる? ワトンゴラの首都のことだよ。あははっ! さすがにそれくらいは知ってるよねー! まあ、とにかく、そんな感じなんだよね。だから、デニーちゃんとしてはレノアに代わりに行って欲しいって思ってるの。でもでも、きーてよ真昼ちゃん! レノア、行きたくないってゆーんだよ! それはねーえ、レノアだって、リュケイオンの学部長さんだから……あ、レノアはね、契約学部の学部長さんなんだけど。そこそこお仕事があるってゆーのは分かるんだよ。でも、同じリュケイオンで学長さんやってるゼノンが会議に出てるんだよ! じゃあ、レノアだって行こうと思えば行けるじゃないですか! 少なくともさーあ、レノアって、絶対絶対、デニーちゃんよりも忙しくないと思うんだよねー。セラエノ会議が面倒だから行きたくないって言ってるだけなんだよ。

「まあ、レノアのお気持ちも分からないわけじゃないんだけどねー。だって、セラエノ会議って、この銀河にある、ほっとーんどのハビタブル・ゾーンが代表団を送り込んでくるわけだから。それに、一つのハビタブル・ゾーンごとに一つの代表団ってわけでもないから、すっごくすっごくすーっごくたくさんの代表団が参加するんだよねー。借星だけで……えーっと、十二の代表団が参加してるわけでしょ? それで、銀河全体だと、なんとなんと千六十八の代表団が参加していることになるんです! こんなにたーっくさんの代表団が参加してるんだから、とーぜんだけど、まともに会議が進むわけがないんだよねー。

「そりゃあ、会議の参加条件にある一定以上の知性は求められるから、さぴえんすが会議する時の会議みたいに変なところで時間がかかったりするわけじゃないんだけど。それでもさーあ、やっぱり、知的種族ごとに知性の形態が変わってきちゃうからねー。その通訳とかで時間がかかっちゃうの。けーっきょく、一週間とか二週間とかぶっとーしで会議してもなーんにも決まらないとかいうとこになっちゃうんだよねー。あ、この一週間とか二週間ってゆーのは借星時間でってことだよ。

「会議に出てもさーあ、あんまり意味がないんだよねー。まあ、他のハビタブル・ゾーンからの情報を収集することは出来るから、全然意味がないってわけじゃないんだけど。でもね、でもね、なーんにもしないってわけにもいかないんだよね。なんでかーっていうとね……あっ! 今からデニーちゃんが言うことはとってもとっても秘密のことで、関係者以外には絶対絶対話しちゃいけないことになってるから、真昼ちゃんも絶対絶対話しちゃだめだよ……あのね、あのね、リュケイオンで、占秘学部と銀門学部とが合同で出した予測だと、アザーズは銀河のこっち側から侵略を始めるーって感じらしいんだよね。

「真昼ちゃんも知ってると思うんだけど、借星は、銀河のこっち側にあるハビタブル・ゾーンの中ではいーっちばん端っこにあるんだよね。だから、もしもアザーズがどっかーん! ってしてきたら、まず最初に借星がどっかーん! ってなっちゃうんだよね。そーなると、八神戦争の時みたいに他のハビタブル・ゾーンが滅ぼされてる間に傾向と対策とーってわけにはいかなくなっちゃうじゃないですかー。と、ゆーことは、アザーズが来る前に、なんとかして対処方法を考えとかなきゃいけないーってゆーことなんだよね。

「まー、まー、カリ・ユガのお話を聞いた限りだと……アザーズとどんぱちぱっぱってしても、ぜーったいに勝ち目がないから。セレファイスをどーにかするしかないーってゆー方向にまとまりそうな感じらしいけどね。でも、そーなると、今度は銀河連合軍をどーするのかーっていうだーいもんだいが出てきちゃうよねーえ。

「知的生命体の種族の中には、この種族とこの種族とはあーんまり仲が良くないなーっていう関係もあるし。同じ知的生命体の種族同士でもばちばちーってなっちゃってる集団もあるから。そういうのをさーあ、一つの銀河連合軍にまとめるのって、はっきりいって無理無理! なんだよねーえ。ってゆーかさーあ、そもそも、銀河のこっち側と、銀河のあっち側と、その両方で、危機感も違ってくるじゃないですかー。あっち側からすれば、こっち側が滅ぼされてる間、色々と準備が出来るわけでしょーお? そうなると、真剣さも違ってきちゃうんだよね。最悪の最悪、銀河のこっち側が攻撃されるのを見て、色々な情報を収集してから判断したいって考える集団も出てくるし。そうなると、そういう集団って、連合軍が組織されるのを妨害したりし始めるから。そーなってくると、もー、もー、どーしよーもないよねー。」

 世界が滅びるか、あるいは滅びないか。

 そんな話、いかにも他愛なく。

 まるで甘えた小鳥の声ように。

 口ずさんでいる。

 デニー。

 この席に座ってからの五分間……いや、それどころか、屠殺場から席に戻るまでの一分かそこらの時間から。デニーは、ずっとずっと、そんな話を続けていた。自分の仕事の話、ワトンゴラで何をしているのかという話。それから、今、まさに、銀河の全体を巻き込んで始まろうとしている戦争の話。

 アザーズという種族、別の銀河で発生したと思しき生命体の集団が借星が所属しているこの銀河に近付いてきているのだそうだ。その生命体は、現時点では隣の銀河にいるのだが。その銀河は、アザーズとの戦争の末に敗北して、今、まさに、完膚なきまでに滅ぼされようとしている。

 隣の銀河の有する暴力はこの銀河が有する暴力とほとんど等しいものだった。隣の銀河がアザーズに勝てなかったというのならば、この銀河がそれに勝てるわけがない。ということで、そのアザーズにいかにして対処すればいいのかということを議題として「七つ星の図書館」という場所で会議が開かれているらしい。

 セラエノ会議と呼ばれる会議であり、銀河全体の知的生命体が、それぞれの集団から代表者を送り込んでいる。また、その会議にはイス・ディヴァイダーズという組織も関わっているらしい。その組織は、汎時空間潜勢力維持調整機構という真昼には何をしているのかよく分からない組織なのだが。なんにせよその組織から、実はアザーズは、セレファイスという都市によって操られているのだという情報がもたらされたのだそうだ。

 そして、そのセレファイスというのは、どうもドリームランドにあるらしい。ということで、そのセレファイスに対して色々な調査が行なわれたのだが。どうやら、そこの支配者であるロード・クラネスは……夢を、完全に自由自在に操る力があるらしいのだ。夢の中では全知全能の力を持つらしい。

 さすがに全知全能の力を持つものは倒しようがないわけで。これではアザーズも倒せないしロード・クラネスも倒せない。そんな八方塞がりの状況の中で、アザーズは、あと一年もしないうちに隣の銀河を滅ぼし尽くし、こちらの銀河にやってくるだろうという情報が入ってきた。この銀河が滅びるまでのカウントダウンは、もう始まっているのである。

 と、いうような話。

 あたかも、大したことのない世間話のように。

 いや、まさに大したことのない世間話として。

 デニーは。

 真昼に。

 話していたのだ。

 話を聞く限りでは、銀河の滅亡は間近に近付いているらしいのだが。デニーには、そのことに対する、焦燥感というか悲壮感というか、そういった感覚は一切見当たらなかった。

 そのアザーズは……あるいは、ロード・クラネスでもいいのだが、デニーでさえ太刀打ちすることが出来ない相手なのである。というか、デニー以上の存在、神々のような存在でさえ敵わない。それでも、デニーは、そのことについて大した問題だとは思っていないらしい。

 なんかちょーっと面倒、くらいのテンションなのだ。まあ、デニーは、めちゃめちゃ強くてめちゃめちゃ賢いので、いざとなれば、この銀河を捨てて別の銀河に住めばいいだけの話だといわれれば、その通りなのだが。それにしても、今まさに銀河の存亡を決する戦いが始まろうとしているという緊張感が欠片もなかった。

 そして。

 そのような緊張感は。

 真昼にも、なかった。

 デニーの、そのような話を聞いても。真昼は、まるで興味というものを持てやしなかった。この話は、もちろん、真昼にとっても他人事ではない。だって、この銀河が滅びれば、真昼だってやっぱり滅びてしまうのだから。そうだとすれば、少しは興味を持ってしかるべきだった。

 デニーから、きたるべき銀河戦争についての情報を根掘り葉掘り聞き出す。そして何をどうすればその戦争に勝てるのかということを死ぬ気で考える。あるいは、デニーが、これほど重要な戦争に関する会議に、ただただ面倒だからという理由で出席しないということを叱責する。

 それくらいのことはしてもよかったはずだ。だが、真昼は、デニーの話に対して一切のレスポンスをしなかった。デニーが、それを、どうでもいい世間話として話したのと同じように。真昼もまた、それをどうでもいい世間話として流したのだ。

 なぜか? そもそもの話として……人間のような下等な生き物は、よくよく勘違いしてしまうことなのだが、情報は力ではない。愚かな大衆は、権力者に対して、あたかもそれが絶対的な力を持つ効果的な反抗的行為であるかのようにして、情報開示を要求するが。それは、ただただ子供が駄々をこねるのと同じほど無意味なことなのだ。

 まず最初に、その情報を知ったところで一体大衆に何が出来るというのだろうか。そもそも、そのように情報開示を請求する大衆は、自分達の独力でそのような情報を入手出来ないほどに無力なのである。それほど無力な何者かが、その情報を使ってなんの意味がある? なんの役に立てる? 知るということに意味はない。そのようにして知ったことに、なんらかの形で変更を加えられるだけの力を持っている時のみ、情報は力になる。

 また、それだけではない。仮に、ただ、情報を確認することによる安心感を満たしたいというどうでもいい理由で大衆が情報を欲しているとしよう。そこで、権力者から開示される情報が真実であるとどう判断できる? 情報に、いかにも客観的なデータが付されているとしよう。そのデータさえも、それが真実のデータであるかどうかということは大衆には判断出来ないのだ。つまり、大衆は……というか、真昼は。その戦争についての情報を役立てることも出来なければ、そもそもそれが真実かどうかの判断さえ出来ないのである。

 どうすればアザーズに勝てるのか。神々が考えても結論が出ない問題を、真昼が解決出来るわけがない。人間が解くことの出来ないヴァゼルタ=ロロカリオン変換理論を、蟻だの蜂だのが解けないのと同じことだ。それに、デニーがこの宇宙戦争についての虚偽の情報を口にしたとして、真昼にどうやってそれが嘘か本当かということが判別出来る? そもそもデニーのような生き物が話すことを信じるということがお笑い種なのである。そうであるならばデニーから何を聞いたところで意味はない。それは単なる世間話と異ならない。

 と。

 そんな。

 感じだ。

 ただ、そういった表面的な理由だけではなく。真昼は、もっともっと深いところで、その話をどうでもいいと思っていたのかもしれない。役に立つだとか役に立たないだとか、それ以前の問題として……世界が滅びるということ、それそのものが、今の真昼にとってどうでもいいことだった。

 真昼は、完全に理解していたのだ。本当は、世界が滅びようが滅びまいが、真昼という一人の人間、今まさにここにいる真昼にとっては何の関係もないということを。真昼という一人の人間の死が世界に影響を及ぼさないように、世界が滅びるということは真昼という一人の人間に影響を及ぼさない。

 だって、ねえ、そうでしょう? 一年後、この世界が滅ぶとして。真昼になんの関係がある? 関係があるように思えるとすれば、それは完全な錯覚だ。人間に特有の破綻した時間感覚。時間を表象する感覚を持たない人間が、空間の表象を時間に対して無理やり当て嵌めてしまったことによって発生したところの、無残な幻想なのである。

 真昼にとって重要なことは、今、まさに、この時、現在という時間の真昼が救われていなければいけないということ。その現在進行形の事実だけである。未来の真昼が救われるだろうという未来形の事実や、過去の真昼が救われたかもしれないという過去形の事実は、それが絶対的に確定したものであっても、やはり真昼「ではない」。真昼「ではない」のだ。

 時間というものが精巧に構築された割れやすいガラス細工のような空虚であるということを、人間は知らなければいけない。天体の運動はくるくる回転する子供達のダンス。過去も、未来も、無意味な虚偽だ。他愛もない世間話なのである。

 現実から、時間を引き剥がし。

 それが無垢な閃光に戻った時。

 初めて。

 告知は。

 露呈する。

 そのようなわけで、真昼にとっては、世界の破滅を予言するデニーの言葉よりも。自分の思考の内部で咆哮しているquasi chaosの方が、遥かに重要なことだった。自分は、今、何を考えているのか? 自分の精神は何を孕んでいるのか、自分の精神は何を出産しようとしているのか。

 真昼は、デニーの話を聞き流しながら。真昼は、まるで阿呆のように口をぽかんと開けたままで。ただただ空を眺めていた。雲一つない空、アーガミパータの空、神の卵が世界を焼き尽くそうとしている空。青い、青い、ねえ、助けて、空が青い。助けて、助けて、空が、青い。真昼は……ふらり、ふらり、さっきまで真昼の目線の方向にいたテーワルルングが、ゆっくりゆっくりと下降していくのを、見るとも見ないともなく。

 口を。

 開く。

「ねえ、デナム・フーツ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あたし、たぶん、自分が死なないって思ってたんだと思う。」

 真昼は目を閉じる。

 太陽の光。

 白く。

 白く。

 瞼の裏の。

 目を。

 焼く。

「あたし、自分が、絶対に死なないって思ってたんだと思う。」

 真昼のその言葉に、デニーは「あははっ!」と笑った。特に何かのコメントを加えることもなく、かといって無視することもしないで。その笑い声を聞いた真昼、肉体に、精神というよりも肉体に、麻酔のような安堵が充満する。

 この世界の全部全部が。

 こんな風、だったら。

 どんなにいいだろう。

 この世界に、苦痛がなければ。

 あたし、幸せになれたのかな。

「ねえ、デナム・フーツ……あたしね、世界って、ハッピーエンドで終わると思ってた。この世界の、全部全部が、ハッピーエンドで終わると思ってた。そう信じてたんだ。

「世界には意味があると思ってた。世界には、あたし達の全部全部が幸せになるっていう意味があると思ってた。世界は……動いていくものだと思ってた。あたしがいた場所から、あたしが行く場所に向かって。変化するもの、変形するもの、だと思ってた。

「あたしは、世界の中にいるんだって思ってた。頭蓋骨みたいな、無機質で、味気ない、骨の塊みたいなものに遮断されたこの脳味噌は、あたしじゃない何かだと思っていた。こんなものがあたしなんだって、そんなこと、絶対絶対に信じなかった。

「そうじゃなくて、あたしのあたしは、世界の中に優しく優しく抱き留められていると思ってた。生命は連鎖していると思っていた。命と命と、繋がっている、その中にある命が本当にあたしだと思ってた。あたしの全て、全てのあたしは、世界の全体だし、基本子の一つ一つだと思ってた。

「あたしが、世界には意味がないと言う時も。あたしは、やっぱり世界には意味があると思っていた。ううん、ちょっと違うかも。あたしは、こう思っていた。世界には、世界としての意味はない。でも、あたしにとっての世界には意味がある。デナム・フーツ、あたしね、そう思ってたの。

「あたしの肉体が、あたしだけのものだと思っていた。それで、それから、あたしの肉体で行為すること、そのことだけが本当のことだと思っていた。あたしの肉体、あたしの行為。あたしね、つまり、世界には意味がないって言う時、あたしの意味はあたしだけのものだって言っていただけだった。

「あたしは……本当に本当のこと、本当の無意味なんていうことを、欠片も考えていなかったんだと思う。あたしが否定したかったのは、あたしが否定出来ていたのは、あたしという肉体が行為する時の、その行為の意味じゃなかった。その行為に対して、あたし以外の誰かが決めようとする意味のことだった。

「あたしが無意味だという時、要するに、あたし以外の全てが無意味だって言っていただけだった。あたしが、この世界は……全ての概念が嘘で、全ての思考が偽物で……この世界は、この世界があるっていう、存在としての存在しかないって言う時に。それでも、それでも、あたし自身は空っぽじゃなかった。それどころか、あたしという肉体の中に、この世界そのものが満ち溢れていた。

「この世界の……ねえ、デナム・フーツ。あたしね、この世界のありのままを受け止めようとしていたんだと思う。今まで、あたし以外の、色々な知的生命体が、世界はこういう場所だっていっていた、その世界の姿を、みんなみんな捨ててしまって。その後に残ったありのままの世界を抱き締めようとしていたんだと思う。それで……その世界はハッピーエンドで終わるって信じてた。

「あたし。

「あたし。

「だから。

「この世界が。

「許せなかった。

「だって、この世界のありのままの姿は、ハッピーエンドじゃなかったから。ううん、違う、違うの。今のこの世界が幸せな世界ではないっていうこと、あたしにとっては、そんなことはどうでもよかった。この世界がこの世界として、こういう形をしているのは、絶対じゃないって思ってたから。こういう形、この世界の今の形を決定したのはあたしではない誰かで。あたしはそれには従わなくていい。あたしは、この世界を、もっともっと良いものにできる。そう思っていたから。

「結局、ハッピーエンドに出来ると思ってた。今がどんな形をしていても、あたしが、あたし達が、何かをすることで。今の世界、この世界が不幸なのは、世界とは違うところ、ありのままの世界とは全然違うところにその原因があって。それをなんとかすれば、この世界をハッピーエンドで終わらせることが出来るって、あたし、ずっとずっと、そう思ってた。

「なんか、馬鹿みたいだよね。ねえ、デナム・フーツ、あたしのこと、馬鹿みたいって言ってよ。ねえ、デナム・フーツ、お前には何も出来ないって、あたしに向かって大声で叫んでよ。あたしね、ようやく分かったんだ……死んでみて、ようやく分かった。あたしが今まで現実だと思ってきたものって、何もかも、本当は、現実じゃなかったって。あたしにはどうしようもないこと、あたしがあたしの力でどうやっても変えられないこと。それだけが、現実なんだって。

「デナム・フーツ。

「デナム・フーツ。

「あたしね。

「本当に。

「死にたくなかったんだよ。

「あの人が死んでから、あたしの母親だったあの人が死んでから。ううん、違う、もっともっと昔。あの人があたしの目の前で自殺未遂をした時から。あたし、本当に、死ぬのが怖かった。死ぬのが怖くて怖くて仕方がなかった。

「あたしの……あたしの力では、どうしようもなかったから。あたしが何をしても、あたしの肉体がどんな行為をしても、あの人は、どんどんどんどんおかしくなっていった。あの人は変になっていった、あの人は壊れていった。

「あたしにとってね、死ぬっていうことは、あり得ちゃいけないことだったんだよ。だって、だって、この世界がハッピーエンドで終わる世界なら。あの人は、あんな死に方しちゃいけなかったんだ。頭がおかしくなって、やせ細って。全身が腐って、全身が汚物に埋もれて。そのまま、自分の手首を噛み切って死ぬなんて。あたし、あたし……ねえ、デナム・フーツ。そんなの、絶対にハッピーエンドじゃない。

「それなのに、あの人は、そうやって死んでいった。だからね、あたしね、どうすればいいのか分からなくなっちゃったんだよ。どう生きていけばいいのか、どう生きていけば、この世界が、ハッピーエンドになるのか。

「あたしは分からなかった、世界は良いものであるはずなのに。あたしは、世界を良いものに出来るはずなのに。それなのに、あたしは、何も出来ない。あたしは、あたしがそうであるべき人間じゃなかった。あたしがあたしであるべき人間じゃない。ありのままの人間じゃない。じゃあ、誰のせいであたしはあたしになれないの? 誰のせいで、この世界は、ハッピーエンドじゃなくなってしまったの? あたし、分かんなかった。なんにも、なあんにも分かんなかった。あたし、なんで……なんで生きてるのか分からなくなった。あたしがするべきことが出来ないあたしが、なんで生きているの? 誰も、誰も、教えてくれなかった。

「今ならね、今なら分かるんだよ。あたし、この世界をハッピーエンドにしたかったんじゃなかったって。自分がハッピーエンドになりたかった、自分だけがハッピーエンドになれれば良かったんだって。でも、その頃のあたしにとって……あたしがハッピーエンドになるっていうことは、世界がハッピーエンドになるっていうことだった。だって、あたしの肉体の行為は、世界だったから。あたしの肉体の行為は、世界を良くするはずだったから。もしも世界がよくならないなら、あたしの肉体の行為は存在しないことになる。あたしの肉体の行為が存在しないなら、あたし自身が存在しないことになる。そして、あたしのハッピーエンドが存在しないことになる。あたしさ、あたし、本当に馬鹿だったんだね。

「あたし、死んじゃいけなかった。

「でも、今、あたしは、死んでる。

「死んでる、死んでる……でも、死んでるって何? 死んでるって、どういうこと? だって、あたし、生きてた時となんにも変わらない。生きてた時と同じように動いているし、生きてた時と同じように考えてる。生きてた時と同じようにお腹がすくし、生きてた時と同じようにあんたのことが嫌い。あたしは、生きてるっていう状態から、死んでるって状態に変わったはずなのに。それなのに、なーんにも変わってない。

「死ぬって何? どういうことなの? もしも、あたしが、あたしのままで、あたしならば。あたしの意識を持ったままで、あたしとして行動出来るならば。死ぬって、一体どういうことなの? あんたはさ、あんたは言ったよね、あたしが死んでるって。じゃあ、今のあたしは、偽物のあたしなの? 今あたしがあたしだって考えてるこのあたしは、あたしじゃない、なんか別のものなの? そうだとすれば……あたしがあたしだっていう意味はどこにあるの? 死ぬということの意味はどこにあるの?

「あたしだったあたしが壊れてしまって、あたしではないはずのあたしがあたしのふりをしてあたしはあたしだって考えてる。ねえ、それならさ、あたしが本当のあたしだっていうこと、死ぬっていうこと、本当の本当のことの全て。きっと、なんの意味もないことなんだよね。

「でも……それでも。あたしが感じるあたしの痛みは嘘じゃない。あたしが感じるあたしの苦しみは嘘じゃない。だって、それを嘘だって否定して、一体なんの意味があるの? あたしが嘘だって言えば……あたしが死んだ時に感じたあの痛み、脊髄が切り裂かれた時のあの痛みは消えたの? あたしが嘘だって言えば、あたしの空腹の苦しみは、あたしの飢餓の苦しみはなくなるの? そんなわけない、絶対に、そんなわけがない。

「あたしが何をしたって、あたしの痛みは消せない。あたしが何をしたって、あたしの苦しみは消せない。なぜなら、それは、あたしではないから。あたしの肉体がそれをするところの行為じゃないから。痛みも苦しみも、あたしではない、あたしに所属しているわけではない。あたしではない何か。それは、つまり、世界なんだ。世界で、現実で……そして、あたしではないもの。

「あたし。

「ようやく。

「分かった。

「選択は物質じゃない。主観は重力じゃない。それから、行為は方程式じゃない。どれもこれも、あたしがあたしではなくなってしまうほど粉々になった時に、あたしのことを虚無の中に繋ぎ留めてくれるほど絶対的な絶対じゃない。

「あたしはあたしじゃない。今のあたしがあたしじゃないっていうだけじゃなくて、生きてた時のあたしも、やっぱりあたしじゃなかった。だって、この世界はハッピーエンドじゃなかったから。だって、あたしは素敵で不思議な奇跡の力で、世界の全てを幸せに出来るお姫様じゃなかったから。だって、だって……あの人は、不幸なままで死んでしまったから。

「あたしが生きるっていうことは、あたしにとっての絶対じゃなかった。だって、あたしが死んでも、あたしにとっての世界は変わらなかったから。あたしが耐え切れない痛みの中で、信じられないくらいの苦しみの中で、死んでいっても。あたしは、結局あたしのままだったから。死ぬっていうことも、生きるっていうことも、自由っていうことも、あたしがあたしであろうとする意志も。どれもこれもあたしにとって本当に必要なものじゃなかった。

「あたしは、世界じゃない。世界は、あたしじゃない。あたしという存在の全重量は、あたしが世界から切り離されているっていうそのことだけで構成されているんだ。あたしがここにいようがいるまいが、世界はそこにある。あたしが、世界が存在すると考えようが世界が存在しないと考えようが、世界はここにある。世界、あたしの外部の世界としての苦痛は、実在し、存在し続ける。あたしは、あたしは……完全な真空だ。

「そして、それから。

「ねえ、デナム・フーツ。

「だからこそ。

「あたしは。

「この世界の。

「中心なんだ。

「だって、そうでしょう? ねえ、デナム・フーツ。言って、言ってよ、そうだって言って。あたしに……あたしにとって、なんの関係もないものが、なぜこの世界に存在する必要があるの? あたしになんの影響も及ぼさない行為は、どうしてそれがなされるべきだっていうことが出来るの? あたしに必要もないものは、あたしを動かすことのない力は、この世界には必要ない。誰が何をいっても、あたしのこの考えを変えることは出来ない。

「あんたもそう思うでしょう? デナム・フーツ、この世界には、この世界の中心にいるあたしを、この空虚な真空を満たさないものなんて、何一ついらない。そう思うでしょう? あたしね、分かってる。あんたがそう思ってるってこと。あんたが、心の底からそう思ってるっていうこと。

「もしかして……どこかの馬鹿が、こういう風に反論するかもしれない。お前は、お前自身がお前であるかお前でないのかも分からないのに、どうしてお前が世界の中心だと言い切れるのか。お前がお前でないかもしれないのならば、お前はお前ではないお前をどうして世界の中心に置くことが出来るのか。

「馬鹿、本当に、救いようのない馬鹿。どうして……どうして、あたしがあたしでなければいけないの? あたしにとって、あたしがあたしであるかあたしではないかということは、なんの関係もないことだ。なぜなら、あたしはあたしであるというだけで既にあたしだからだ。あたしではないあたしがあたしなら、あたしであるところのあたしはあたしではない。あたしにとって本当に関係があるあたしは、今、まさに、あたしとしてあたしであるところのあたしでしかない。

「それから……こういうことをいう馬鹿もいるかもしれない。お前がお前だと思っているそのお前という感覚は、実体として実在している現実性ではない。お前という感覚は、ただ単なる部分の集合体でしかない。お前などというものは、そもそも、存在していないのだ。ああ、馬鹿馬鹿しい。そんな戯れ言が、あたしの現実性に何かの影響を及ぼすとでも思っているのだろうか。そのような戯れ言は、例えそれがその通りにそうであったとしても、全然真実ではない。あたしがあたしであるという真実を揺るがすことは出来ない。あたしは、確かに、ここにいる。ここにいると思っているそのあたしが、確かにここにいる。その真実を変えることは出来ない。その戯れ言が、あたしにとっての現実性、あたしが生きているこの世界を変えないというのならば、それは結局のところただの嘘だ。

「このあたしではないもの。

「この世界を変えないもの。

「全て。

「全て。

「他人事なんだ。

「あたしではない誰かのことなんて、あたしには関係ない。あたしの知らないところで、あたしが知らないままに、どこかで不幸に死んでいく誰かのことなんて、あたしは興味がない。あるいは、あたしがあたしの幸せのためだけに殺すはずの誰かだって、あたしには全然関係がないことだ。その誰かが無残に悲惨に死んでいったとしても、あたしが幸せになれるなら、そのことに何が問題あるっていうの? この世界の現実性に、他者の介在は必要ない。あたしがあたしであるということ、このことだけが現実性として絶対に絶対の真実だ。

「だから、つまり、あたしが言いたいのは……デナム・フーツ、あたしが言いたいことは、こういうことなんだよ。問題なのは、あたしの現実だ。あたしの選択でも他者の現実でもない。あたし、の、現実、なんだ。

「あたしの痛み、あたしの苦しみ。それだけが本当に本当のこと、この世界の中心なんだ。あたしの選択、あたしが何をしたところであたしの苦痛は消せない。あたしの痛みも、あたしの苦しみも、あたしにはどうしようもないことだ。それは世界の全部で、あたしは完全な真空なんだから。他者の現実、あたしじゃない誰かが苦痛を感じたところで、あたしにはなんの関係もない。だって、それはこの世界には存在していないんだから。それは、ただの、どうでもいい嘘に過ぎないんだから。

「デナム・フーツ。

「あたしね。

「死にたくなかった。

「死にたくなかった。

「本当に。

「ねえ、デナム・フーツ、あたし……死にたくない、死にたくないよ。助けて、デナム・フーツ。お願い、そばにいて。あたしの手を握って、笑いながら大丈夫だよって囁いて。怖い、怖い、どうしようもなく怖い。あたしは、あたしは……あたしが怖いと思うものが怖い。あたしは、あたしがそうなって欲しくないことにそうなって欲しくない。

「でも、あたし、あたしが何を怖がっているのか分からない。あたしは、何がどうなって欲しくないんだろう。それも全然分からない。昔は……ここに、アーガミパータに来る前は、全部分かってた、全部分かってるつもりだった。あたしは、悪い人になるのが怖いんだと思ってた。この世界が悪いところになるのが怖いんだと思ってた。でも、今は……そうじゃないって分かってる。あたし、そんなことを怖がってるわけじゃない。じゃあ、あたし、一体何を怖がってるの?

「この街にやってきてから、この店に来るまでに、たくさんの、たくさんの、祈りの欠片を見てきた。例えば、道端で売っている神々の絵。このくらい、ポストカードくらいの大きさで、たぶん家の中の見えやすいところに貼るんだと思う。それに、このくらいの大きさの神々の人形。安っぽい、原色が塗ってあって、すぐに壊れてしまいそうなもの。これも、そんなに大きくない店、店先のテーブルの上に整然と並べて置かれていた。

「それから、祠みたいなもの。何なのかよく分からないんだけど、祠みたいな形をした建物。人一人が入るのがやっとっていう感じの大きさの建物が、真っ白に塗られてて、まるでそこここに蔦が這っているみたいな模様が描かれていた。あれがなんのためにあるのか、よく分からなかったんだけど……中から、あの、祈りの声、アイレム教の歌声みたいな祈りの声が聞こえてきてた。

「そういうもの、祈りの欠片。それが、あたしには、たまらなく羨ましく見えた。あたし、まるで、子供がお菓子をねだるみたいにしてそれが欲しかった。天国への入り口が。楽園への入り口が、何も考えないまま、ただただ縋りつくことの出来る、大きな大きな……大木みたいなもの。

「デナム・フーツ、あたし、落ちてく。どこかに落ちてく。昔は、落ちてくのが怖かった。今は、落ちてくことは怖くない。落ちていきながら、あたし、叫んでる。ああ、嬉しい! 嬉しい! もう怖がる必要がないから! そうやって叫んでる。でも、本当は、まだ、あたし、怖がってる。何かを怖がってる。あたしが……本当は落ちていないんじゃないかということを、怖がってる。あたしは、あたしの肉体に、重力が働かなくなることを恐れている。

「デナム・フーツ。

「デナム・フーツ。

「あたし、分かった。

「あたしは救われなければいけない。

「デナム・フーツ。

「デナム・フーツ。

「だから、教えて。

「どうすればあたしが救われるのか。」

 真昼は……うっとりと、まるで夢を見る乙女のような表情でそう言い終わった。甘い甘い夢だ、お菓子のお城、砂糖水の海。赤い、赤い、ストロベリー・ジャムのバシトルー。真昼はお姫様だ。眠っている、眠っている、暗く広い海の真ん中で。王子様が助けに来てくれるのを待っている。

 もちろん、現実の真昼はアミーン・マタームのテラス席にいる。そこここの塗料が剥がれて、その部分がぎしぎしと錆びついている金属製の椅子に座っている。

 目の前にいるのは、デニーだ。世界的なギャングの幹部。血も涙もない殺人鬼。そして、真昼は、自分の脳味噌が美味しく美味しく料理されるのを待っている。

 それでも、真昼は、シュガーハイのように恍惚とした、快楽の感覚に包み込まれていた。だって、あたしは、今……きっと、答えを得られるのだから。あたしは問い掛けた、デニーに対して。そして、デニーはなんでも知っている。真昼が、知らないどころか、想像さえ出来ないような真実を知っている。それならば、真昼の質問、たかだかホモ・サピエンスの問い掛けに対して、答えを答えられないわけがない。真昼がデニーに問い掛けたことは、つまりはこういうことだ。真昼は、一体、どうすれば救われるのか? この程度の質問、デニーが答えられないわけがない。

 ああ、どうして、あたし、最初から聞かなかったんだろう。もう、生まれた時に聞いておけばよかった。生まれたその瞬間に、あたし、この男に教えて貰っておけばよかった。あたしが、どうすれば救われるのかということ。そうすれば、こんな回り道をしないでもよかったのに。

 さて、ところで、問い掛けられたデニーであるが……真昼がその言葉を終えて。暫くして、「ふふふっ」と笑った。それから、にーっという、子猫が笑っているような顔、あの顔をして。それから、自分の顔の前で、右の手のひらと左の手のひらとを、軽く合わせた。二本の人差し指が触れ合っている、その側面の部分を唇にくっつけて。それから、二本の親指が触れ合っている先端を顎のところにくっつける。

 それから、また「ふふふっ」と笑った。今度は、さっきよりも少しだけ大きな声で。くうっと顎を上げて、顔を上げて、すると、さっきまで顔にくっつけていた手のひらが、顔から少しだけ離れる。そのまま、デニーは、ぐーっと背凭れに寄り掛かって。その後で……拍手をし始めた。右の手のひらと左の手のひらとを、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、と打ち鳴らして拍手をし始めた。

 最初は、それほど大きな拍手ではなかった。それが、だんだんと、だんだんと、大きくなってくる。右の手のひらと左の手のひらと、打ち合わせるまでの距離はどんどん長くなっていって。やがて、おもちゃのミリアムがタンバリンを打ち鳴らしているかのように。ひどく大袈裟なやり方で、両手を打ち合わせるようになった。

 「あはっ!」「あははっ!」「あははははははははははははっ!」、まるで屈託なく笑い声を上げるデニー。体を前後に揺らしながら、さも愉快げに、さも満足げに、大きな声を上げて笑う。

 そのようにしてずっとずっと笑っていた。青い空を、アーガミパータのこの空を、透き通りながら真っ直ぐに貫いていくような笑い声で。無垢で、純粋で、怪物のように残酷な笑い声で。

 やがて、デニーは……ようやく笑い終わる。まだ、熾火のようにくすくすとした笑いだけが尾を引いてはいるが。それでも、先ほどまでのように、この世界の音の全てが笑い声になってしまったかのような笑い方はしていなかった。拍手もやめていて、右手の親指から小指までと、左手の親指から小指までと、織り成すように組み合わせて、胸の前できゅっと握り締めている。

 祈るようだ、と真昼は思った。

 この男は、祈るように、笑う。

 もし、この男が祈っているのだとして。一体、それは誰のための祈りなのだろう。決まっている、そんなこと。あたしのための祈りだ。この男が自分のために祈るわけがない。だって、この男は、全てを手に入れているから。この男が求めるものは、全てこの男のものになるから。それならば、その祈りは、自分ではない何者かのための祈りだろう。それならば、その祈りは、あたしのための祈りでなければならない。

 それから、デニーは……ゆっくりと、握り合っていた両手を離していった。花弁が淡く溶けていくかのように、静かに静かに開いていって。ぱっと開いた形にして、真昼の方に手のひらを向ける。くすくすという笑い声を残響のように引き摺りながら、真っ直ぐに、射るように、真昼を見る。

 にーっという笑顔。

 少しだけ首を傾げて。

 それから、こう言う。

「おりょーりが出来たみたいだよ、真昼ちゃん。」

 ふっと、気が付いた。真昼が気が付くと、いつの間にかアミーンがそこにいた。テーブルのすぐ近くまでやってきていて、そこそこの大きさの鍋のような物を両手で持っている。直径にして五十ハーフディギトかそこら。平底で、円形で、丸みを帯びた底面。分厚い金属で出来ていて、右側と、左側と、それぞれにシンプルな取っ手が取り付けられている。

 それが鍋であると断言出来ないのは、なんというか、その金属には、非常に精密な、芸術的とさえいえるような模様が刻まれていたからだ。恐らくなんらかの魔学的な記号なのだろうが、真昼が今まで見たことがないタイプのものだ。魔学式に似ていなくもないが、もう少し、こう、なんというか、装飾性が高い。はっきりいうとアラゼスクみたいなのだ。

 とにかく、手には鍋的なものを持っていて。それから、頭の上に、山ほどナンが入ったバスケットを乗っけていた。そんなアミーンが、あのがさつで無遠慮な歩き方。「フーツサーン、サナガラサーン、オ待タセイタシマシター」とかなんとか言いながらテーブルの横のところまで歩いてきた。

 テーブルの上、カブサ・ジャナが乗せられていた大皿は既に片付けられていて。ヨーガズを入れるためのコップと、それに例の調味料が入った小皿が二つ、チャツネの小皿とライタの小皿とが残っているだけだった。だから、今回は、アミーンが持ってきた料理を置くためのスペースを作るために、わざわざ何かをどかす必要はなかった。

 アミーンは、「コレガてーじゃさ・まさらダヨー」とかなんとか言いながら、その鍋的な物を置いた。雑な置き方、鍋的な物の金属とテーブルの金属とがぶつかり合って、がいーんという間の抜けた音がする。

 その後で、鍋的な物の近く、テーブルの真昼側にナンが入ったバスケットを置いた。「ウチノ店ノ一番人気ノ料理ネー」。例の肯定的な意味を表わす仕草、首を左右に小刻みに揺らすやつをやりながら、アミーンはそう付け加えた。そうか、そうか、なるほど。人間の脳味噌を抉り出して、このように料理した物が一番人気の料理なのか。真昼は、宣告されたその事実に対して、ただただ事実として感心してしまう。

 さて、ところで、その料理であるが……真昼は、テーブルの上に乗り出すようにして鍋の中を覗き込む。それは、つまり、端的にいってドライパカティだった。まーたパカティかよと思われるかもしれないが、さっきのはパカティ・ピラフだったし、今回のこれはドライパカティなので、料理としてはちょっと違いますね。それに、以前にも触れたことであるが、アーガミパータにおいて食べられている料理のほとんどがいわゆるパカティであるために、一度の食事で何種類ものパカティが出されるというのはごくごく一般的なことなのである。

 そこまで完全にドライというわけではないが、液状というよりも固体化するまで煮込んだ物、食材の根本的な味覚を凝縮した泥土という感じ。どろどろとかべっとりとかそういう感じではなく、敢えて擬音語で表現するならばぎっしりという感じだ。

 パカティの中には、恐らく最低限の物しか入っていない。この店の独自の配合で作られたマサラ。ほとんど形が見えなくなるまで溶けたヤドリネギ。目に楽しい緑の彩りを加えるために、パカティの上に散らされた新鮮なハーブ。それから、もちろん……真昼の脳髄だ。

 真昼の脳髄は、見るも無残に美味しく調理されてしまっていた。酷薄なまでに食べやすい大きさに切り刻まれ、残酷なまでにじっくりと味を染み込ませられていた。一つ一つの脳髄の欠片の大きさは、大体において小指の先くらい。いや、小指の先の半分くらいかもしれない。かなり小さくて、それがパカティのそこら中にごろごろとしている。具がごろごろしているパカティはそれだけでなんだか嬉しくなってしまうものだが、その具が自分の脳味噌である場合、その嬉しさは非常に複雑なものとなる。

 見た目、灰色がかった白っぽい塊で、賽の目に切った豆腐みたいだ。それが脳髄だということがなぜ分かるのかといえば、そのくらいの大きさに小さく切られていても、そこここに、まだ、大脳皮質に特有のあのしわが残っているからである。

 鍋的なものを覗き込んでいる真昼の肩を、遠慮呵責の欠片もないやり方でばしばしと叩きながら。アミーンは言う、「サナガラサンノノーミソノオカゲ様デ、スゴク良イ感ジニ出来タヨ! 今マデ作ッタ中デモ、三番目クライニ良イ感ジダヨ!」。おいおい、三番目ってお前。あたしは脳味噌を提供した本人なんだから、そんな相手に向かって、お世辞でもいいから一番って言えよ。なんていうことを思ってしまった真昼だったが。まあ、まあ、口に出すのも大人げないと思ったので黙っていた。

 アミーンは、ひとしきり真昼の肩を叩くと、満足したのかなんなのか建物の方に戻っていってしまった。ちなみに、アイレム教の文化圏に関する旅行のガイドブックとかには、アイレム教においては男女の接触が厳格に規制されているため異性に接触する際には注意しましょうとかなんとか書いてあるものだが。普通の人々、一般ピープルの間では、そういった規制がそれほど厳しいというわけではない。アイレム教徒というのは何につけても適当であり、何をしても「慈悲深いアッラーは我らをお許し下さる」の一言で許されると思っているため、全てのことがとかくゆるゆるなのだ。ということで、アミーンのような行動も日常的に見られる。

 さて。

 とにかく。

 料理、は。

 供された。

 後は。

 単純な。

 欲望が。

 貪るだけ。

 もちろん、欲望は生命にとって本質的なものではないが。とはいえ、真昼は手を伸ばした。どちらの手を? もちろん、右手を。そして、左手を。

 両手で、ナンが入ったバスケットを手に取ると。右手でナンを取り出した。とても一口では食べられないし、そのまま鍋に突っ込むわけにもいかない大きさのナンを、真昼は……右手で押さえたまま、左手でちぎり取った。

「あー! 真昼ちゃん、いけないんだー!」

「何がいけないんだよ。」

「ご飯食べる時にはあ、左手、使っちゃいけないんだよ!」

 真昼は。

 少し考えて。

 こう答える。

「これは、あたしの脳味噌だ。」

 ちぎったナン。

 食べやすい大きさの方を手元に残して。

 残りの部分をバスケットの中に戻して。

「自分の脳味噌を食う時くらい好きに食わせて貰う。」

 そう言い終わると、左手に持っていたナンを右手に持ち直した。これはただ単に利き手で持った方が色々とやりやすいからだ。それから、左手で、鍋的な物を、自分の方に引き寄せながら。デニーの方を見もせずに続ける、「何か問題あるか?」。

 デニーは、何が嬉しいのか知らないが嬉しそうにくすくすと笑っていた。右手を真昼の方に突き出しながら、指差すみたいにして人差指を真っ直ぐ伸ばして「ううん、問題なんてないよ」と答える。「なんにも、なーんにも、問題なんてないよ」。

 真昼は、ちぎり取ったナンで鍋的な物の中にあるテージャサ・マサラを掬い取ろうとした。けれども、テージャサ・マサラはそれなりに固まっているため、ナンのように分厚いシート状のものでは掬い取りにくい。端のところに引っ掛かってぽろぽろと崩れてしまうのだ。

 だから、真昼は、左手を鍋的な物の中に突っ込んだ。というか、テージャサ・マサラの中に突っ込んで、それで、指先で、一塊、掴み取る。そのまま、その塊をナンの上に乗せる。

 ナンをくるんと巻いて、その塊を包み込む。これで落ちることはない。それから……真昼は、左手を鍋的な物の中に入れたままで、右手に持っていたナンを口の方へと運んでくる。

 舌先が。

 それを。

 えろりと舐めて。

 そのまま。真昼の脳髄は。

 真昼の口の中に滑り込む。

 まず最初の感想として、カブサ・ジャナのマサラとは全然違う味だった。中心となるスパイスの種類から、味の深度、それに口の中に残る味わいの残響まで全く違うのだ。簡単に、一言でいい表すならば……カブサ・ジャナの方は、そもそも、上に乗っかっている肉の塊、煮込んだ肉の旨味を前提としたマサラであった。つまり、マサラの方は肉の味を引き立たせるために、淡く淡くほどけて、それでいて清々しく消えていく幻影のような感覚だったということだ。一方で、このマサラは。まさにパカティという衝撃だった。ぎらぎらと照らし出すスポットライト、部隊の真ん中にいる主役。神殿の中心に置かれている偶像。

 カブサ・ジャナのそれとは異なり、そこには複雑さはなかった。もちろん、数種類のスパイスを完全に適切な方法で混ぜているので、本来は複雑性を有しているはずだったが。このマサラは単純明快だった。味だけではなく、これはあらゆる感覚にいえることなのだが、あまり複雑過ぎるとかえって全体的な印象が薄れてしまうことになる。全体がばらばらに崩壊してしまうために、まとまりに欠け、結果的に曖昧になってしまうのだ。カブサ・ジャナの場合、そのような曖昧さが、肉の味を引き立たせる要因になっていたわけだが……このマサラには、そういった優柔不断は一切なかった。たった一つの方向。つまりは、タタンギーリとワゴーバ・ペッパーとを全体のベースとして、ゴンゴン・シードとデンデン・シードを香り付けに加え、着色用のアピトカをどばっと加えたオーソドックスなガラムマサラだということだ。ただし、そこに、更に数種類のスパイスを追加して。最後に味の深みを加える「何か」をほんの少し投入していたのだが……ここら辺に関しては、アミーン・マタームの秘密の隠し味なのでここでは書けませんね。

 とにかく、この料理において最も重要なのは、余計な物が全く入っていないということだ。たった一つの主題だけが繰り返し繰り返し演奏される。あるいは、完全なる無伴奏。それでいて、決してその基底的な音楽に飽きてしまうということがない。凄まじいまでの個性を持ったスタンダップ・コメディアンが、その勢いだけで演じ続ける舞台のように……そして、その唯一の個性とは、つまるところ、マサラで味付けされた真昼の脳髄である。

 真昼が、口の内部から鼻の向こう側まで爆発するように広がったパカティの衝撃の後で。さて、ようやくそれを咀嚼した。小麦の味がふっくらとした歯応えとなって焼き上げられたナンの食感の後……真昼は……ついに、自分の脳髄をbiteした。

 まず、驚いたのは、思ったよりも固いということだ。真昼は、なんとはなしに脳髄というのは柔らかいものだと思っていた。ぷるぷるとしたゼリー状のもので、歯を立てただけでするりと潰れてしまうものだと思っていた。だが、実際の脳髄は、その見た目のように、硬めに仕上げた豆腐のように硬かった。

 もしかして煮込んだことで硬くなったのかな、とも思ったのだが。とにかく、それはちょうどいいくらいの歯応えになっていた。舌の上で溶ける、というようなことは一切ない。まるでセミハードのチーズみたいに、くにゃりと歯に纏わりつく硬さだ。

 それから、味の方だが……なんというか、意外にも強く強く脂肪の感覚を感じさせるものだった。といっても、脂身のような脂っぽさではない。どちらかといえば、バターだとかクリームだとか、そういった乳製品をぎゅーっと絞って、残った脂肪の部分を固めたというような。蛋白質と脂肪とが最適の割合で混ざり合っている時に感じる、あの感覚である。

 その脂肪が、ちょうどよくパカティの辛味と混ざり合っている。そもそも脂肪と辛味とは非常に相性がいい二つの味わいである。脂肪には、あらゆる味覚をなめらかに柔らかく調整する機能があるが。その機能のおかげで、辛味の鋭さ、ともすればあまりにも強過ぎるせいで料理の全体を台無しにしてしまいかねない鋭さを、本質を損なわないままに包み込む。

 ガラムマサラの辛さ、脳髄の脂質。つまるところ、この二つが完全な形で融合してこそのパカティなのである。この二つのどちらが欠けてもパカティとはならない。そして、この世界には、その完全な調和以外のものが何もない。それがテージャサ・マサラという料理であった。

 それは。

 一言でいい表わすならば。

 単純でありながら。

 絶対的な、支配だ。

 真昼の脳髄が支配されているのか、真昼の脳髄が支配しているのか。どちらにせよ、真昼はそれを咀嚼し終わった。自分の唾液と混ざり合った自分の脳髄を、舌の上で転がして。それを十二分に味わってから胃袋の方に飲みくだす。

 あられもない喉越し。口の中には獣の死骸のような後味が残る。とはいっても、それは腐敗ではない。腐っているわけではない、ただ単純に死んでいるだけの獣。これから、真昼の脳髄は、真昼の胃酸によって溶かされるのだろう。

 それは……透明だった。拒否の感覚ではない。まるで知らない人、完全な他人が、自分の横を通り過ぎていくような透明だ。少し吐き気がする。繰り返すが拒否感ではない。心地よい、全く自然な生理的反応として。一枚の写真のようにありきたりな驚きとして。すぐにその吐き気は治まる。

 自分の脳髄が、自分の胃袋の底に落ちていく。無限の親密と、永遠の容認と。安心感があった。これでいいのだという、こうあるべきなのだという、他愛もない安寧。なるほど、なるほど、こういうことか。こういうことなのか。だが、真昼は一体何を理解したというのか? 何を教えられたというのか?

 真昼の目の前の席。

 可愛らしく。

 可愛らしく。

 笑っていたデニーが。

 一つの苦痛のように。

 こう、問い掛ける。

「どーお、真昼ちゃん。」

「どうって、何がだよ。」

「それ、おいしい?」

「おいしいかって?」

「うん。」

「おいしいかって、お前、そう聞いたのか?」

「そうそう、そう聞いたの。」

 真昼は、デニーに対する。

 嫌悪を、剥き出しにして。

「よく考えろよ。あたしはな、今、自分の脳味噌を食ってんだぜ。」

 こ、う。

 答える。

「美味いに決まってんだろ。」

 まあ確かに自分の脳味噌を不味いとは言いにくいですよね。

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