第三部パラダイス #10

 そう言いながら真昼が指差したのは自分の頭だった。口から離した右の人差指、頭頂部よりも少し右寄りの部分を、とんとんと軽く叩いて指し示す。デニーは、真昼のその言葉に対して、なんとはなしの間を置いてから「ああー! うんうん、そーだねー!」と答える。

 分かんない人はいないと思うが、念のために書いておくと。真昼が提案したのは、自分の脳味噌を料理に使えないかということだ。以前、デニーが話していたところによれば……今の真昼は、肉体的にどのようなダメージを負ったとしても問題ないということだった。そのダメージが、世界の中で、真昼のダメージではないものとして処理されるのである。そのことは、パヴァマーナ・ナンディの水によって顔の下半分を覆われた時、それでも全然なんともなかった時に証明済みである。そして、これもデニーの話すところによれば、真昼は、脳味噌を何者かに食い尽くされても全然大丈夫だということだ。脳味噌がなくなっても、それによって起こるはずの不具合は真昼には起こらないらしい。そうであるならば、この脳味噌を自分で食ったとしてもなんらの問題もないはずである。

 「そーだよね、真昼ちゃんののーみそがあったよ!」とかなんとか、ぱちぱちと可愛らしくお手々を叩きながら、いかにも楽しそうにけらけらと笑っているデニー。「真昼ちゃんののーみそなら、ぜーったいおいしーよー!」と続ける。それから、くりんっという感じ、テーブル横に突っ立って待機していたアミーンの方を見上げた。「ねーえ、アミーンちゃん」。フードの奥で首を傾げながら言う、「真昼ちゃんののーみそで、お料理作れる?」。

 「イケルイケル、全然イケチャウヨー」、お手上げでもするみたいに軽く両手を上げて、そこから少しだけ肩を竦めたみたいなポーズ。そのポーズから、右手を上に動かす動作と左手を下に動かす動作と、その両方を同時に行って。その後で、今度はそれと反対の動作、右手を下に左手を上に動かす動作を行う。それを、非常に素早く、交互に繰り返しながら。更にそのテンポに合わせて、リズミカルに腰を動かすという、このタイミングでどうしてそんな陽気なダンスを踊ったのかよく分からないちょっとしたダンスを踊りながらアミーンはそう答えた。

 それから、はたと、何かに思い当たったかのようにダンスを止める。「デモ、サナガラサンノノーミソデてーじゃさ・まさら作ったら、サナガラサン死ンジャウヨー? サナガラサン、てーじゃさ・まさら食ベラレナクナッチャウヨー!」「ああー、うんうん、だいじょーぶだいじょーぶ! それはね、心配しなくてもだいじょーぶだよ。真昼ちゃんは、のーみそがなくなったくらいじゃあ、食べ物を食べらんなくなっちゃったりはしないからね!」「エエー? ソウナノ?」「そうだよー! デニーちゃんがあ、素敵な魔法をかけちゃったんだもん! デニーちゃんの魔法はあ、すっごくすっごくすっごーいから! ちょっとやそっとのことじゃあ、真昼ちゃんは考えられなくなったり動けなくなったりしませーん」。

 デニーのその言葉に、アミーンはまだ納得し切れていないようだった。なんだか間抜けに見えるほど真面目な顔をして、両方の眉毛をくいっくいっと上げたり下げたりしながら。デニーに、こう言う「ンンー、デモ、ワタシ、はらーるデはらーるナ殺シ方シタ人間ジャナイト料理出来ナイヨ? ざばはデザクーット殺スカ、なはるデグサーット殺スカ、ドッチニシテモ、サナガラサンの体ノ中カラ血ヲ抜カナイト料理出来ナイヨ? ソレデモ大丈夫ナノヨ?」。それに対して、デニーは。目の前にある心配事をぱっぱっと払ってしまうかのように、手のひらで目の前の空間を払いながら答える「ぜーんぜんだいじょーぶだよー! のーみそがなくなろーが、けつえきがなくなろーが、真昼ちゃんにとってはどーってことありませーん」。アミーンは、その言葉でようやく納得したらしく。首を左右に小刻みに揺らすあのジェスチュアをしながら「ハイハイ、ソレナラ大丈夫」と言った。

 これで、店側との話は。

 まとまったようである。

 真昼の脳を使って料理を作ることが決定したということだ。「ソレジャ、モウ殺シチャッテイイ?」「どーお、真昼ちゃん? のーみそ、取られる準備は出来た?」。正確にいえば、真昼はもう死んでいるので、殺すという表現を使うのは間違っているが。まあ、ニュアンスは伝わるし、細かいことはいいだろう。真昼は、デニーに向かって、首を左側に軽く傾けながら、うんうんと何度か頷いた。いうまでもないが、どうでもいいからさっさとしてという意味合いのジェスチュアである。

 「準備出来たってー」と答えたデニー。それに対してアミーンは首を左右に小刻みに傾けると「ハイハイ、ワカッタワカッタ」と言った。それから、「コッチダヨー」と言いながら建物がある方向に向かって歩き出した。

 デニーと真昼とは、ほとんど同時に椅子から立ち上がって。先導しているらしいアミーンについていく。アミーンは、建物の方に歩いて行ってはいるのだが……ただ、建物の中に入るわけではないようだ。そうではなく、建物の裏手、客席がある場所とは反対にある場所に行こうとしているらしい。

 歩いているうちに。

 真昼は、ふと気になってきた。

 別に不安というほどではない。

 デニーが大丈夫と言っていたのだから。

 恐らくは、大丈夫なのだろう。

 ただ。

 一応は、念のため。

 こう、問い掛ける。

「ねえ、あのさ。」

「ほえほえ?」

「あんた、脳味噌がなくなっても大丈夫だって言ってたけど、それってどのレベルで大丈夫なの? つまり、なんていえばいいのかな、脳味噌がなくなった後、あたし、どうなるの? 何も変わらないで、今のままでいられるの? それとも、こう、植物状態っていうか、呼吸してます心臓も動いてます、でも、それだけです、みたいな感じになるわけ?」

「あははっ! 心配しなくてもだいじょーぶだよ。今の真昼ちゃんにはね、どーんなに肉体の欠損が起こっても、なーんの影響もないから。心臓がなくなっても、肺臓がなくなっても、肝臓がなくなっても、腎臓がなくなっても、脾臓がなくなっても。もーっちろん、のーみそがなくなっても、真昼ちゃんは今の真昼ちゃんのまんまだよ。」

「それって、今と同じように、物事を考えたり、色々と動いたり、そういうことが出来るってこと?」

「そうそう、そーゆーこと。そもそも、今の真昼ちゃんはね、肉体で動作してるわけでもなければ脳髄で思考してるわけでもないの。んー、なんていえばいいのかな、内的法則が現実世界に適用されてる、その適用状態が真昼ちゃんなんだよね。内的法則の具体的な規定として脳髄の存在とか血液の存在とかが定められてるから、無くなっても再生されるんだけど。でも、実際は、あってもなくてもぜーんぜん関係ないの。だからね、真昼ちゃん、心配する必要なんかないよー。」

 そう言いながら。

 デニーは。

 真昼の顔を覗き込むように。

 ににーっと、子猫のように。

 笑った。

 一方の真昼は、そんなデニーから、ふいっと顔を逸らすと。「あんたに心配ないって言われても、全然信用出来ないけどね」と呟いた。「ふふふっ! 真昼ちゃんってば!」とかなんとか言いながら、デニーは視線を進行方向に戻す。

 さて、そんなほほえましいことをしているうちに……三人は、目的の場所まで辿り着いたようだ。それは、建物の真裏に設えられた空間だった。

 そこは草原だった。草原といっても、とてもかなり小さい草原であって。一辺が五ダブルキュビト程度、箱庭としての草原といった感じである。

 その部分だけ、石畳を敷いていない。剥き出しの土に、いい感じの雑草を敷き詰めたのだろう。芝生と呼べればいいのだが、芝生と呼べるほどにしっかりと手入れがされているわけではない。ただ、とはいえ、伸びっぱなしの茫々漠々という感じでもない。なんというか、様々な雑草で織り成された自然の絨毯という感じだ。そのような草原が、建物の裏の壁、その壁のすぐ下から始まっている。草原が壁に接続している。

 そして、その壁からは……一本の棒が突き出ていた。一ダブルキュビト程度の長さの棒が真横に向かって伸びている。その棒は、地上からは大体三ダブルキュビト強のところに固定されていて。その棒の先端は二股に分かれていた。

 二股の両方からは、それぞれ、だらんとロープが垂れていて。それらの二本のロープは、先端のところがくるっと輪っかの形になっている。これは……どう見ても……あれだ。ほらほら、食肉処理場とかによくあるやつ。家畜を吊るしておくための、あのハンガーだ。ただ、そうだとすると不思議な点が一点だけある。普通、そういうハンガーの先端は、足の肉に引っかけるための鉤になっているものだが。このハンガーの場合はそうではないということだ。まあ、些細な違いではあるが。

 なるほどなるほど、あたしはあそこに吊るされることになるわけか。そう思うと、真昼は、なんだか、自分がとてつもなく間抜けな生き物になってしまったような気がしてきてしまった。この瞬間まで、あまり自覚的に考えてはいなかったのだが……つまり、あたしは、阿呆みたいに自分で屠畜小屋に向かう家畜であるというわけだ。なんのために? 自分の脳味噌を食うために。自分の脳味噌を、このレストランで一番人気の料理にして食うために。しかも、これが傑作なことなのだが、なんとあたしは殺されるまでもなくもう死んでいるのだ。

 なんとまあ。

 救いようの、ない。

 馬鹿であることか。

 なんだかすっかり脱力してしまった真昼であったが、それはそれとしてアミーンは屠畜の準備に掛かっていた。まず、壁に開いていた裏口から建物の中に入ると、何かひらひらとした布のような物を持って出てきた。布のような物というか、まあ実際に布なのだが。真昼のところまでやってくると、その布を真昼に手渡す。

 「コレデ、見エナイ見エナイシテネー」と言いながら、自分の目を手のひらで覆って見せる。どうやら、この布は目隠しらしい。これは……今目を隠していいのか、それとももう少し経ってからにすべきなのか。そんなことを考えている真昼をよそに、アミーンは、草原の方に向かって歩いていく。草原の真ん中辺りに立って、「サナガラサーン、コッチヨー」と言う。

 真昼は……なんとなくデニーに視線を向けてしまった。別に、不安だとか、恐怖だとか、そういうわけではないのだが、ただなんとなくだ。デニーは、そんな真昼に対して、いつもと同じ、普段と全く変わらない、あのにぱーっとした笑い方で笑いかけて。きゅっと真昼の手を握った。

 恍惚と吐き気と。痺れるように冷酷な、甘い甘い蛆虫のような指先が真昼の手のひらに触れて。「ほらほら、真昼ちゃん! アミーンちゃんが呼んでるよ!」という声が聞こえて。それから真昼は、ぐいぐいと手を引っ張るデニーの、その引っ張られるままに、草原の方に歩いていく。

 柔らかい契約のように手と手とを結んだままで、真昼は、アミーンが招いていたその場所までやってきた。「ココニ、コウ、左側ヲ下ニシテ、ゴロントシテ欲シインダヨネー」とアミーンに言われるままに、左を下にして横になる。ちなみに、これは宗教的にそのように定められているとかそういうことでは全然なく、ただ単に右利きの人間が家畜の喉を掻っ切る時に左を下にして寝ていてくれた方がやりやすいというだけである。

 「真昼ちゃん真昼ちゃん」「なんだよ」「お目々、お目々隠さないと」。なるほど、このタイミングで目を隠すわけか。言われた通りに真昼は目を隠す。ちなみに、なぜこんなことをしなければいけないかというと、こちらはきちんとした宗教上の決まり事で、屠畜の対象に喉を掻っ切るための刃物を見られてはいけないというやつがあるからだ。

 さて、感覚の一つが封じられると、その分だけ他の感覚が鋭敏になった気がするものである。真昼の場合、目隠しによって視覚が使えなくなって。その分、触覚が強く強く意識され始めてきた。皮膚の下、這い巡らされた神経系が、生のままで剥き出しになっているかのようだ。

 そんな感覚のままで、横たわった下側、草原を感じる。これは……ああ、気分がいい。アーガミパータの熱量で火照った頬に触れるのは、維管束を流れる導管液によって程よく冷やされた緑色の閃光。薄く薄く研ぎ澄まされた刃物のような広線形の葉、が、皮膚の一枚外側で危うく真昼の肉を撫でている。そして、その草原の一枚下に隠されている土壌は、アーガミパータのものとは思えないくらい優しく優しく湿度を保っている。恐らくは、そこに生えている雑草が土壌に染み込んだ水分を保全しているのだろう。

 それだけではない。嗅覚だ、訴えかけてくる、草の香り、土の香り。鼻先をくすぐる草は、あたかも清涼なる若い果物、まだ甘くなる前の果物のような香りがするものだ。それに、土は。濡れた土は、胸の中に閉じ込められた水晶のように冷たく香る。その二つの香りが混ざって……ふと、風が吹く。さら、さら、さら、さら、と、音がする。草原の草が、まるで誰にも明かされることのない白昼夢の秘密を囁いているかのように。

 これは確かに、家畜を殺す場所としては相応しいのかもしれない。まあ、家畜の側からすればどこでだって殺されるのは嫌だろうが。ただ、殺す側からしてみれば、どこか狭っ苦しい屋内で殺すよりも、こういう場所で殺す方が罪悪感が少なくて済むだろう。ちなみに、アイレム教では、家畜を殺す時になるべくストレスがかからない方法で殺すようにと決められている。ああ、それと、殺される家畜の頭の向きが、聖なる都市アイレムの方向を向いてた方がいいんじゃない?みたいなことも言われている。

「サナガラサン、サナガラサーン!」

「え? はい、なんですか?」

「頭ノ向キガ違ウヨー!」

「は? 頭の向き?」

「ソコニ、ホラ、みふらーぶガアルデショ!」

「ミフラーブ?」

「ソウソウ、ソッチソッチ、ソッチニ向ケテヨー!」

 まず第一に、真昼はミフラーブなるものが何かということを知らないし。更に、今の真昼はこの鉢巻みたいなやつで目を隠しているので、草原に何か埋め込んであっても全く分からない。はー? こいつ、殺される家畜の都合も考えろよー? と思ってしまった真昼であったが。そこに、デニーがいい感じのライフボートを差し向ける。

 「真昼ちゃん、こっちこっち」といいながら、手を握っている方の手とは反対の手で真昼の頭に触れる。ちなみに、今の位置関係的には、まず真昼が左を下にして横たわっていて、その体が向いている方に、真昼の手を握っているデニーがちょこんとしゃがみ込んでいる。そして真昼の背中の方にアミーンがいるという感じだ。まあ、それはそれとして、真昼は、デニーの手が導く方向に頭を動かしていく。

 すると、平べったい石が枕のように置かれている場所に辿り着いた。なるほど、これがミラフーブってやつか、と思う真昼。ちなみに、ミラフーブというのは具体的な物体を指し示す単語ではない。「アイレムがある方向を指し示す何か」は、それが何であってもミラフーブと呼ばれる。例えば、アイレム教徒は、礼拝の時には必ずアイレムがある方を向かって行わなければいけないのだが。マスジドには、礼拝の時にどっちに向かって礼拝すればいいのかがすぐに分かるように、アイレムがある方向の壁にちょっとした窪みのようなものを作っている。そして、これもまたミラフーブと呼ばれているのだ。

 まあ、そういうディグレッションなトーキングは置いておくとして。真昼は、その石に頭を置いた。普通、石の上に頭を置くと、めちゃめちゃ固いな……みたいな気持ちになるものだが。この石は、なんか違った。その上に頭を乗せると、なんとなく頭がぼんやりとしてきて、ふうっと気持ちが良くなるのだ。

 アイレム教の屠畜に使われる特殊な魔学式が、この石の表面に彫刻されているからだ。その魔学式は、要するに家畜の精神状態を安定させ、全身に麻酔のような恍惚感を与える効果がある。例の、家畜にストレスをかけないように云々官々を守るために作り出された魔学式だ。非常に単純で、魔力も精神力もほとんど必要がないため、アイレム教徒であれば誰でも使用出来る。ただ、そういう使いやすさを優先したために、さほど強力な効果があるというわけではない。

 真昼に害を及ぼすような魔法は、デニーちゃんが真昼ちゃんの内的法則にかけた魔法によって無効化されるようになっているのだが。この魔法については、さほど害があるわけではないということ……それに、せっかくだから真昼ちゃんにも色々な経験させてあげた方がいいよねというデニーちゃんの粋な計らいによって有効になっている。

 これで真昼の方の準備は整ったわけだ。アミーンは……いつの間にか、その手にナイフを持っていた。屠畜に最適のナースティカ・ナイフだ。たぶん、目隠しを取りに行った時に一緒に取ってきたのだろう。そして、今までは服の下に隠していたに違いない。アイレム教においては、基本的には、屠畜の直前にナイフを研ぐことが望ましいとされているが。ただ、人間を殺す場合だけは、そういった研磨の際に聞こえる音、あるいは研磨にかかる時間が屠畜行為を予測させて、一層のストレスを感じさせるということで。予め研いでおくようにとかなんとか指示されている。そのため、そのナースティカ・ナイフも予め研ぎ澄まされていた。

 アイレム教において許されている動物……まあ、人間でいいか。人間の処理方法は、大きく分けて三つだ。まずはアクル、これは屠畜というよりも、戦闘で死んだ戦闘員の死体を指す。味方でも敵方でも構わない。ただし、許されているのは戦闘員、つまり兵士だけである。戦闘に巻き込まれて死んだ一般人の肉を食べることは許されていない。この決まりは、アクルと偽って一般人を殺し、その肉を食べることを防ぐために定められたものだ。また、その日に行われた戦闘で死んだ人間の肉だけが食べることを許される。こちらの決まりは、一日置いて腐ってしまった肉を食べないようにという配慮である。

 そして、他の二つが屠畜の際の処理方法だ。その一つ目がナハル。喉を正面から突き刺して、胸元まで一気に引き裂くという方法。これは、横に倒して殺そうとすると抵抗するため、殺すのに時間がかかってしまい、かえって屠畜の対象にストレスをかけてしまうような場合に使用される。もう一つの方法がザバハ、喉元を真横に一文字、一気に掻っ切るやり方だ。これが一番一般的な方法であり、今回の真昼の場合も、この方法で屠畜される。

 さて、真昼の指の一本一本が……デニーの指先と絡む。恋人同士が手を繋ぎ合うように、指と指とが織り成して重なり合う。真昼の、鋭敏になった皮膚が、デニーの嘲笑うように優しい握力を感じている。

 アミーンが、真昼の髪を掴む。プラーヤスキッタ高原の砂塵に汚れ、スカーヴァティー山脈の冷気に凍り、そして、パヴァマーナ・ナンディでびしょ濡れになった髪を。ぐいっと引っ張ると喉元が露わになる。その首筋にあられもなく晒し出されたのは、あの傷口だ。サテライトによって切り裂かれた傷口。まるで首輪のようにして塞がれていた傷口。

 その傷口に、アミーンがナースティカ・ナイフを触れさせた。アイレム教では、このように定められている。屠畜の際は、頸動脈と頸静脈と、気管、食道、その四本の器官を一時に切断しなければいけないと。また、決して脊髄は傷付けてはいけない、決して頭を落としてはいけないと。それゆえに、アミーンはその通りに事を成した。

 真昼の耳元に、アミーンが叫ぶ声が聞こえる。「ビスミッラーヒル・ラハマーニル・ラヒーム!」、これは、アイレム教徒が屠畜の際に唱えなければいけない言葉であり、意味としては、慈悲遍く慈悲深いアッラーの御名においてとかそんな感じだ。

 ああ、あたし、なんだかありがたいお言葉とともに殺されたんだ。何言ってんのか、意味は全然分かんないけど。ははは、嬉しくって涙が出る。そんなことを考えながら、真昼は……まるで、勢いよく包丁で肉を切ったような感覚を喉元に感じていた。

 麻酔が効いている時に皮膚を切られたような。確かに何かされたということは分かるのだが、どこか他人事であるところのあの感じだ。喉のところが、なんだかじゃらじゃらとしている。喉元から何かが噴き出しているのだが、水が流れている水道に触っているだけとでもいうように不明瞭だ。それから、すーすーする。そこだけが何かを剥ぎ取られたみたいに、すーすーしていて気になる。

 真昼が喉をざっくりイかれちまうのは、これで二度目であるが。ただ一度目よりも随分と余裕があった。なんだ、痛みも苦しみも感じないと喉を切られるなんてこの程度のことなのか。この程度の感覚であれば、まだ、触れ合っている手と手と、絡み合っている指と指と、デニーと繋がっている感覚の方がよほど現実味があった。口を開いて呼吸をしようとする。ごぼごぼと、喉の奥で血液が泡立つ。そんなもんだ。

 ところで、無事に喉を掻っ捌き終わったアミーンの方であるが、即座に次の作業に取り掛かっていた。持っていたナースティカ・ナイフを草原の上に置くと、真昼に向かって屈み込むような形であった姿勢から立ち上がって、建物の上に取り付けられている棒の方を見上げる。その先にぶら下がっていた二つの輪っか、右手と左手と、一つの手のひらで一つずつ掴む。それから真昼の方に向かってぐいっと引っ張る。

 すると……二本のロープ、恐らくどこかの滑車に結び付けられているのだろう。からからと音を立てて、棒の方向からロープが引き出されて。それに伴って、二つの輪っかも、アミーンが導く方向へと引っ張られていく。

 アミーンは、真昼の足元のところまで輪っかを引っ張ってくると。「スコシ、ゴメンネー」とかなんとか言いながら、真昼の右足と左足と、それぞれの足首のところに輪っかを引っ掛ける。それから、きゅきゅっと手早く輪っかを締め付ける。

 その後で、それぞれのロープからぱっと手を離すと……どういうシステムになっているのかはよく分からないのだが、滑車が自動的に逆回転し始めたようだ。二本のロープが引き戻されるのと同時に、真昼の肉体も引っ張られていってしまう。からから、からから、気の抜けた音が鳴る。

 「サナガラサン、ドンドンイクヨー」「危ナイカラ、頭ブツケナイヨウニ気ヲ付ケタ方ガイイネー」という、なんとも呑気なアミーンの声が聞こえる。この状態でどうすれば頭をぶつけないように気を付けられるのかは不明であるが。とにかく、真昼の肉体は、ずるり、という音を立てて草原の上を引き摺られて……それから、そのまま、ぶわわっという感じで引き上げられる。

 それほど勢いが良かったわけではなかった。首を切られた家畜、あまり勢いが良すぎると脊髄が折れてしまうからだろう。アイレム教においては家畜の喉を切った後でも完全に放血が終わるまでは解体処理を始めてはいけないことになっている。もちろん、それまでは、脊髄を傷付けることも禁止されているのだ。

 それだけではない。動物が死んだと確認出来るか、あるいは通常であれば意識を失っているはずの時間(人間であれば最低三十秒)が経過するまでは定められた器官以外の肉体のあらゆる部分を傷付けることが禁止されている。だからこのように、真昼を吊り上げたハンガーも鉤ではなく輪っかになっていたのだ。

 それはそれとして、吊り上げられた真昼は……あ、しまった、と思った。真昼の首からは、まあ、想定出来うる限りの物凄い勢いで血液が噴き出しまくっていたのだが。そういえば、真昼は、服を着たままだったのである。普通、食肉用の人間を殺す時は、もちろん服を脱がせてから屠畜するのであるが。真昼の場合は、一応は、食肉用の人間ではなくお客様なので。アミーンも気を使って服を脱がさないままで殺したのだ。

 もう、びっしゃびしゃであった。上に着ていたところの、白かったはずの丁字シャツは。鮮血をびっしゃびしゃに浴びたせいで、胸から上が、もともと赤い色の丁字シャツだったっけ?と思ってしまうほど真っ赤に染まっていた。下のジーンズと、それにスニーカーについてはまだマシな状態であるが。それにしても、脱いでから屠畜されれば良かったと今更ながら後悔する。

 真昼の肉体は。

 完全に、芝生を離れて。

 例の棒の先端から。

 ぶらん、と。

 吊り下がる。

 どばどばと、さすがに切断直後よりは弱まってきているが未だに結構な勢いで流れ出してきている血液が、まともに真昼の顔にかかる。首筋から顔面に向かって、顔を洗ってんのかよと思うくらい大量に流れ落ちてくるのだが。一番ムカつくのは、そういう血液がめちゃめちゃ鼻の中に入ってくることである。気管を切断されている以上、もう呼吸はしていないので、鼻が詰まってもさして問題はないのだが。とはいえ……この間抜けさ……なんだか、世界を支配している大いなる力によって、馬鹿にされているような理不尽な扱いを受けているような、そんな気がしてしまうのだ。

 真昼の右の眼球。真昼の左の眼球。だらだらと、赤い色が、世界の全体を濡らしていく。ふと、その向こう側にデニーの姿が見えた。真昼の手のひらを、まだ握ったままで。にこにこと可愛らしい笑顔で笑っている。

 その口が、軽く動いた。何かを言葉しているようなのだが、真昼の耳は役に立たない。きーんという耳鳴りのせいで何も聞こえなくなっているのだ。

 そのことを、デニーに伝えようとする。あんたが何を言っていても、あたしは何も聞こえないと、そう伝えようとする。けれども、真昼が喋ろうとすると……途端に、喉から溢れ出ている血液が、鼻と口と、そちらの方向に逆流し始めた。げろげろと、どろどろと、顔中から血液が迸って。そのせいで、真昼はひどくむせて咳き込んでしまう。

 それを見てデニーが笑う。

 屈託なく、デニーが笑う。

 そもそも。

 デニーは。

 自分の声が、真昼に届こうと。

 あるいは、全然、届くまいと。

 まるで気にしない。

 斯うと、一方のアミーンであるが。淑女に似合わぬ大股開き、ぶらんぶらんと逆さ吊りにぶら下がっている真昼の頭の下に、大きな大きな金属製の盥を置いた。この盥は、裏口を入ってすぐのところ、壁の陰になっているところに置いてあった物だが。要するに、放血時に血液を受けるための物である。

 その後で、ぶつぶつとアラジフ語らしき言葉で何かを呟きながら、真昼の全身を撫でさすり始めた。これは、何かの呪文、いや、聖句だ。その聖句が世界の中で象徴的観念を完成して、律法が律法として施行されるとともに。その肉体に触れているアミーンの手のひらを通じて、すぐさま、真昼に対する法適用が起こる。

 ぞおっと……真昼は、冷気のようなものを感じた。アミーンが触れたところから、段々と、真冬の真夜中、屋外に突っ立っているような、そんな寒い寒いを感じたのである。また、それだけではない。それとともに……全身の血管が、奇妙に収縮して。まるで蠕動運動でも起こしているかのように、先へ先へと血液を送り出しているような感覚。どこへ? もちろん、出口へ。喉にぱっくりと開いた傷口へ。

 これは、一体何なのか? ちなみに、先ほどのデニーのお口ぱくぱくは、このことを説明しようとしてのお口ぱくぱくだったのだが。アミーンが、真昼の全身に対して、二つの魔法を使ったということである。

 まず一つ目が冷却の魔法だ。まあ、狩猟とかしたことがある方ならばよくお分かりになるだろうが、一度殺した生き物を、そのままそこら辺に放っておくと、すぐに腐って味が悪くなってしまう。雑菌が増殖して腐敗してしまうのだ。それを防ぐためには、殺した直後、未だに免疫機能が働いているうちに、死肉の温度を雑菌が活動しにくい温度まで引き下げる必要があるのである。

 もう一つが血抜きの魔法で、全身の血液を即刻かつ完全に死肉から排出するためのものだ。まあ、このような魔法を使わなくてもこうやってぶら下げておけば血液なんてすぐに抜ける。当該人間の体格にもよるが、五分から十分もあれば大体の血液は抜けてしまうだろう。

 ただ……とはいえ、少しは残ってしまう。特に、このやり方だと、首より下の位置にある脳髄の部分には血液が溜まってしまう可能性がある。アイレム教においては血液は不浄の物として食べることを禁じられているため、そのような残存血液があることは望ましくない。

 そのため、念には念を入れてこのような魔法を使うのだ。ちなみに、一つ目の魔法も二つ目の魔法も、ミラフーブにかけられていた魔法と同じようにアイレム教徒なら誰でも使うことが出来る魔法だ。血抜きの魔法は、家畜を屠る時だけでなく、野生の生き物を殺して食べる時にも便利だし。それに、冷却の魔法は、年がら年中クソ暑いアーガミパータでは必需の魔法である。なので、アイレム教の家庭では、親から子へと代々教えられているのだ。

 爪先から頭のてっぺんまで、とはいっても現状において真昼の頭は天の方ではなく地の方を向いているのだが、とにかく、アミーンは、真昼の全身を撫でさすり終わった。

 そして、真昼の全身は……足の先、脹脛、太腿、腰、腹、胸、肩、次第に次第に血の気が引いていく。文字通り、体内の血液が、強制的に排泄されてしまって。まるでちょっと高価な豆腐みたいな色になっていく。いや、これは冗談でもなんでもない。血液を失った人間の死体というのは、本当に、いい大豆を使って作った出来立ての豆腐のような色になるのだ。ほんの少し黄色く濁ったような、美しい白濁の色。

 もちろん、顔からも血の気が引いていって。真昼ちゃんのほっぺたも、すっかり厳選大豆のまんまる豆腐みたいになってしまった。脳髄に溜まっていたはずの血液は、全部全部、喉のところから吐き出されてしまって。真昼は……とはいえ……貧血で頭がくらくらするとか、そういうことはなかった。

 血液が失われた後も、血液が失われる前と同じくらい鮮明な意識がある。まだ、なんか、げほっげほっと咳込みながら。真昼は、我が事でありながらもなんだか感心してしまった。喉を切られても、血を抜かれても、こうまで影響がないとは。確かに、デニーが言った通り、今の真昼にとっては肉体的な損傷など取るに足らない些事らしい。

 それに、真昼の肉体を低温に保っておくための魔法についても……アーガミパータの夏、オーディナリーとは思えないほどの凄まじさでぎらぎらと世界を照らし出している神卵の温度、触れるもの全てを腐敗させるのではないかと思ってしまうようなどろどろとした大気。そういったものの全てにうんっっっっっっっっっっっっざりしていた真昼にとっては、程よく涼しい快適な心地といった感じであった。今まで我慢して我慢してサウナに入っていた後で、だっぱーんと水風呂に飛び込んだみたいな爽快さ。

 アミーンは……喉元の傷口から、血液が排出され切ったことを確認すると。「ビスミッラー!」と大声で言いながら、真昼の頭の下にあった盥を持ち上げた。これは別に聖なる言葉とかそういうことでもなんでもなく、共通語でいうところの「どっこいしょ」くらいのテンションである。

 それから、この構造体の端っこ、抉り取られたような石畳の切断面のところまでやってくると。盥の中にあった真昼の血液を、下の世界に向かって勢い良くぶちまけた。

 急いで断っておくが、読者の皆さんはこんなことはしちゃ駄目ですよ。こんなことは絶対しちゃ駄目なんです。確かに、アイレム教では、血抜きした後の血液について、その処理方法は特に決められていない。せいぜいが水源を汚さぬよう処理することとかその程度のことである。だからといって、アミーンがしたみたいに、適当にぶちまけるなんて言語道断である。

 ただ、まあ、こういう物の処理は面倒といえば面倒だ。そもそもティールタ・カシュラムにはこういう物の適切な処理場というのがない。なので、町の外まで出ていって、だだっぴろい荒野のどこかに捨てくるしかないのだが、いちいちそんなことをするのは非常にかったるい。それにそこら辺に置いておいたら置いておいたで間違いなくぐっちゃぐちゃに腐る。

 だから、まあ、アミーンがそういうことをする気持ちも分からないわけではない。特に、この構造体は地上からかなり高い位置にある。この距離からであれば、真昼の血液の量、たかだか十ログかそこら、ばっしゃーんとしてしまっても地上にいる生き物はそこまで気にしないんじゃない? いや、分かんないけどさ。

 少なくともアミーンは、今まで苦情を受けたことはなかった。まあ、それは、アミーンのぶちまけた血液が、下の階層に辿り着く前に、その大部分が他の空中に浮かんでいる構造物の上に引っ掛かってしまうからだが……なんにしても、アミーンは、そのように真昼の血液を処理した。

 ぶらーんと弛緩した肉体、ハンガーからぶら下がっていた真昼は。それを見て、おいおい、人様の大切な血液なんだからもっと丁寧に扱ってくれよ、と思ってしまったが。それはそれとして、アミーンは、その盥を持ったままでこちら側に戻ってくると、そのまま、また裏口の中へと戻っていってしまった。

 暫くすると、今度は金属製の甕を抱えて現われた。大きさは牧場で使う運搬用のミルク缶くらい、中に三十ログくらいは入りそうだ。ちなみに取っ手のような物は付いていない。アーガミパータでは、ある程度の大きさ・重さを超えたものは頭に乗せて運ぶため、手で持つための部分は必要ないのだ。

 真昼の、すぐそばまで。

 その甕を持ってくると。

 草原の上にどすーんと置いた。

 ところで、その甕からは柄杓らしき物の柄が突き出ていたのだが、アミーンは、その柄を掴むと、甕の中から取り上げた。それは……間違いなく、柄杓であった。ただし、合の部分がかなり大きい柄杓であったが。柄杓の掬うところって合っていうんだね、今初めて知りました。恐らくは大きめのどんぶりくらいの大きさがあるだろうその合には、なみなみと水が湛えられていた。

 アミーンは「チョーット、モウシワケアリマセンネー」とだけ言うと。その後は完全な問答無用で、真昼に向かって、柄杓で掬った水を勢いよくぶっかけた。真昼は、は??と思ってしまったが。ただ、その思いを口にすることは出来なかった。なぜなら、アミーンは、まさに真昼の顔面にそれをぶっかけたからだ。

 いや、正確にいうと……首から先の部分、喉元からこぼれ落ちた血液が汚している部分。要するに、アミーンは、べっとべとのどっろどろに真昼の顔面を濡らしている血液を洗っているということだった。

 まあ、確かに、洗って頂けるのはありがたいことですがね。ただ、ちょっと雑過ぎやしませんか? 真昼にぶっかけられた水は……それで終わりではなかった。次から次へと、どんぶり勘定の水が、真昼に向かってばしゃんばしゃんとぶつかってくる。もしも真昼が息をする必要があったならばとっくに溺れてしまっていただろうと思ってしまうくらいだ。

 後半は、真昼の首から下……というか、現在は首から上になっているのだが、とにかく胴体の血液がかかった部分にも容赦なく水をぶっかけて。真昼がすっかりとびしょ濡れ兎になったところでその洗浄は終了したらしい。

 「ハイハイ、大丈夫大丈夫、コレデオシマイネー」とかなんとか言いながら。何が大丈夫なのかよく分からないが、アミーンが、ハンガーに引っ掛かっていた真昼の足、輪っかから外していく。真昼は……現時点で、もちろん、支えるものなど何もないため。足が輪っかから外れてしまったら、そのまま落下するしかない。

 「わっ!」と思わず声を漏らしてしまう。喉が切り裂かれているので、なんとなくざらざらと掠れた音だ。まるで自分の声ではないみたいな声、どこかの墓場ですっかりと朽ちてしまった死体みたいな声。

 と、真昼は……落下しなかった。一体なぜか? 実は、真昼には、受け止めてくれる誰かがいたからである。その誰かとは、書くまでもないことだが、デニーだ。

 今までずっと真昼の手を握っていたデニーが、その手を支点にして、いかにも軽々と、真昼の肉体、くるりと回転させて。そのまま自分の腕の中に抱き留める。

 「なーいすきゃっち!」と言いながら、屈託なく笑うデニーの顔、まともに覗き込むことになった真昼。その顔は……真昼の血で汚れていた。今となっては、ちゃんと洗って貰った真昼よりも、デニーの方が、ずっとずっと、真昼の血で汚れているくらいだ。

 当然といえば当然のことで。真昼が文字通りcut throatされた時、デニーはその真正面にいたのである。返り血というか、まあ、デニーがcut throatしたわけではないので返り血ではないが、そのたぐいの血液は、もろにデニーにかかることになったわけだ。

 デニーは。

 真昼の顔。

 にこにこと。

 見下ろしたまま。

 アミーンに問う。

「それで、アミーンちゃん。」

「ハイハイ、ナンデスカー。」

「真昼ちゃんの頭蓋骨は、どこで開けるの?」

「ソウネー、ソウネー、ドウシヨウカネー。」

 アミーンはちょっと悩んでいるようだった「イツモハネ、ソコトカソコトカ、バラバニシテカラヤルンダヨ。頭トカ、チャントバラバラニシテカラヤルノ。ソウシナイト、頭蓋骨ッテ硬イカラネー。デモ、サナガラサンハネー、ドウシヨウカネー」。

 真面目な顔をして、くいっくいっと眉毛を動かし続けていたのだが。やがて、どうするのかということを決定したらしい。首を小刻みに左右に動かす例のジェスチュアをしながら、「ジャア、コッチ来テヨ!」と言った。

 そのまま裏口に入っていくアミーン。「あたし、自分で立てるから」「あ、そーお?」というやり取りの後で、デニーの腕に抱えられている状態から、すとんっという感じで下ろして貰った真昼は、その後をついていく。

 裏口から入ったところは……一言でいうと、肉屋だった。肉屋ではないのだが、まさにその言葉が意味するところの空間だったということだ。

 こちらの棚に、あちらのテーブルに、所狭しと肉が並んでいる。あの棚に並べられているのはすっかりと羽根を捥がれた鶏肉。あの棚に並べられてるのは羊の脚。そこのハンガーに一列に並んで吊るされているのは豚の頭で、あそこにぶら下がっているのは牛の内臓だ。それから、あそこのテーブルの上には、丸々一匹のライカーンが、皮を剥がれて内臓を抜かれて、肉の塊になった状態で寝っ転がっている。

 血抜きをした後の肉であるはずなのだが、それでも消え残っている強烈な血液の匂い。それに、内臓から漂ってくる腐りかけたような苦い匂いが混じり合った、それを吸い込む者に本能的な嫌悪感を覚えさせるような大気が空間に充満していた。そこここに蠅が飛んでいて、その蠅の羽音が、そんな大気を震わせている。

 それから、そういった感覚以外に、この空間に入った瞬間に感じるのは……全身を包み込むような冷度である。外の世界、あれほどの暑さが嘘であったかのように、この中は涼しかった。涼しいというか寒いくらいであって、まるで冷蔵庫の中にいるみたいだ。これは、ここに詰め込まれた肉を保存するために、部屋の全体にかけられている魔法のせいである。壁の中に、幾つかの魔石が埋め込まれていて。それらの魔石が影響し合うことで、ほとんど恒久的に部屋の中を冷やすような効果を及ぼすのだ。

 全体的には煉瓦造りの壁を漆喰で塗り潰した壁で覆われている。棚は、テーブルは、木製の物で、じっとりとした動物の体液、溶けた脂肪のような物が染み込んでいる。さほど広いというわけではない、横幅は五ダブルキュビトちょっとで、縦の長さは三ダブルキュビトかそこらだ。

 そのような空間に。

 真昼は、足を。

 踏み、入れて。

 最初は、アミーンが見当たらなかったが。すぐに隣の部屋から戻ってきた。両手で、ひどく粗末ではあるがひどく頑丈そうな木製の椅子を持っている。大きさとしては、ホモ・マギクスが座るのにちょうどよさそうなくらい。しっかりとした肘掛けと、直線的で凭れ心地が悪そうな背凭れが取り付けられている。

 部屋の片側には、恐らく動物の解体を行う際に使われるのだろう金属製の台が置かれていた。その台の近くには、小さな小さな木製のテーブルが置かれていて、そのテーブルの上には、解体の際に使うのであろう様々な器具が置かれている。大抵が、何かを切り裂くものか、何かを突き刺すものだ。

 アミーンは、金属製の台の近くに椅子を持っていくと、がこんっという音を立てて置いた。それから、真昼がいる方に視線を向けると「サナガラサーン」と呼びかけた。「なんですか」「コノ椅子ニ座ルトイイヨー」、真昼は、黙々としてその椅子まで歩いていくと、言われた通りにすとんと座った。

 デニーも、とてとてと歩いて、部屋の真ん中辺りまでやってくると。ライカーンの死体が乗せられているテーブルの、端っこのところにちょこんと座った。真昼が座っている椅子からは少し離れている、真昼から見て左斜め前方にデニーの姿が見える形だ。にぱーっと笑ったままで、デニーは、真昼に向かって、右の手をひらひらとひらめかせて見せる。真昼は、そんなデニーの方に、ちらと目を向けると。すぐに、ふいっと視線を逸らしてしまった。

 アミーンは、鼻歌というか、結構な声量で陽気な歌を口ずさみながら、木製のテーブルの上、色々な器具をがちゃがちゃと漁っていたが、やがて一つの器具を取り上げた。それは、手頃な感じののこぎりだ。大きさとしては、手持ちの鉈くらいで。先端に向かって窄んでいく細長い三角形の形をしていた。一番長い辺がぎざぎざの歯になっていて、二番目に長い辺がその上にきている。そして、一番短い辺に持ち手が取り付けられている。

 「ソレデハ、イイ感ジデ頭蓋骨ヲ開イテイクヨ」と言いながら、真昼の背後に回ると。「チョット、髪ノ毛、申シ訳アリマセンネー」と言いながら、真昼のざんばらの髪をさっさっと手で撫で付け始めた。そして、ある程度まとまった感じになると、そのまとまった分を左の手でぐいっと引き上げた。

 いやはや、随分と乱暴な手つきじゃありませんかね、と思った真昼であったが。とはいえ、これから真昼の頭蓋骨に加えられるであろう行為に比べれば、身体的なダメージは皆無といってもいいくらいだったので、敢えて注意するようなことはしなかった。一方のアミーンは、髪の毛が引き上げられている側頭部、随分と慎重な目つきで睨み付けていたのだが。やがて、耳の先端よりも少しだけ上のところにのこぎりを当てた。

 その途端……ががががっ! ががががっ! と、真昼の耳に凄まじい音が響いてきた。いや、これは、なんというか……そう、真昼の頭蓋骨を、のこぎりが削り取っている音である。

 まあ、正確にいうと、まずはのこぎりによって髪の毛が切断されて、その奥に隠されていた頭皮が切断されて、それからそのような音がしたわけだったのだが。髪の毛だの頭皮だのが切断された感覚というのはあまり感じられなかった。とにかく、骨の削れる音が、あまりにも凄まじかった。

 視界が小刻みに揺れる、デニーの姿が視界の中でめちゃくちゃにダンスする。ひどく酔ってしまいそうだ、実際には、今の真昼はこのくらいのことで酔ってしまうほど弱くはなかったが。

 それから、耳に届いてくるこの音楽は……もちろんアミーンの歌声だ。アミーンは、さっき器具を漁っていた時の陽気な歌の続きを歌っているのだ。人様の頭蓋骨をのこぎりで削り取りながら。そのクラニオトミーのビーツ・パー・ミニットに合わせて。

 切断された髪の毛。

 ひらりひらひらと。

 真昼の腕。

 撫でて、落ちていく。

 うーん、これは……なんか髪を切って貰っているみたいな感じだった。真昼は、基本的に、自分の髪の毛は自分で切ってしまうタイプの人間だったが(だからこそ真昼の髪型はこれだけ粗雑なベリーショートなのである)。とはいえ美容院に行って切って貰ったことがないというわけではない。自分の意志で行ったというわけではなく、行かされたといった方が正しいだろうが。

 例えば、高校に入学する時に。砂流原の人間がそんな髪型ではみっともないということで、芥川によって強制的に美容院に連れていかれたことがある。あるいは、真昼がまだ本当に幼かった頃には、芥川に髪を切って貰ったこともある。そういう時の感覚を未だに覚えていて、今のこれはそれに似ているということだ。ただ実際は頭蓋骨をのこぎりでがりがりやられているだけなのだが。

 何が似ているのだろうか。色々と考えてみるに、それは、今の真昼も、あるいは髪を切って貰っている時の真昼も、完全な被害者であるという点で似通っているのだろう。どちらの場合であっても、真昼は、加害行為を受け入れるというそれだけの役回りなのである。真昼から何かをしなければいけないということはない、まあ、それは、少し髪を切りやすい角度に首を動かすとか、少し頭蓋骨を削りやすい位置に頭を動かすとか、それくらいはするのだが。それ以外は、真昼は、ただただ暴力を加えられるだけの人形のようなものなのだ。

 被害者は……被害者は、安全だ。なぜなら、被害者は、被害者であるということに対する人格的な落ち度がないから。そこには責任がない。なぜなら、被害者に加えられる暴力は、被害者が行なっている暴力ではないからだ。被害者は、絶対的に、受動的である。それゆえに、それは安寧であり、それは安心なのだ。

 と。

 まあ。

 そのように。

 真昼の頭蓋骨を。

 のこぎりで。

挽いていく。

 と……ずずず、とでもいうみたいに、のこぎりで開いた傷口から透明な液体が漏出し始めるようになった。ぎざぎざの刃に纏わりつくみたいにして、とろとろとしたそれは、要するに脳脊髄液だった。つまり、鋸は、いつの間にか硬膜と蜘蛛膜とを切断して、その奥の蜘蛛膜下腔まで達していたということだ。

 それを確認すると、アミーンは……あたかも巧みなノスフェローティの弾き手が、模奏曲におけるすすり泣くようなビブラートを表現するために、ほんの僅かに弓を震わせるかのごとく。非常に芸術的な手つきで、ほんの僅かにのこぎりの角度を変えた。

 それによって、のこぎりは、それ以上、真昼の脳髄の方に進んでいくのをやめて。代わりに頭蓋骨の周回、その他の部分へと進んでいくことになった。しかもアミーンは、そのような小刻みな方向転換、次々と動かしていって。そうすることでのこぎりが決して真昼の脳髄まで到達しないままに頭蓋骨だけを切断していくのだ。

 一体今まで幾つの頭蓋骨を切り開いたのかと思ってしまいそうなほどの、一種の職人芸といっていいような巧みな手つきだ。とにかく、そのようにして、鋸は進んでいって……そして、十分もしないうちに。真昼の聴覚、骨を通じて、かきっという音が聞こえてきた。頭蓋骨が、完全に切断された音である。

 アミーンは、慎重に慎重に、左の手のひらで掴んでいる真昼の髪の毛を引き上げていく。すると、それとともに、真昼の頭蓋骨の切断された部分、ぱくっという間の抜けた音を立てて、真昼の肉体から離れた。

 とぷっという感じで、今まで蜘蛛膜下に溜まっていた脳脊髄液が溢れ出る。人間の脳室に溜まっている脳脊髄液なんて、せいぜいが半ログかそこらなので、大した量ではない。ただ、そのとろとろとした液体が真昼の額を伝っていって、それから、やがて、真昼の眼球を濡らしはしたが。

 なんにしても、これで。

 真昼の、脳髄は。

 露出したわけだ。

 「ねえ、デナム・フーツ」「なあに、真昼ちゃん」「あたし、自分では見らんないんだけどさ。今……あたしの……その、脳味噌が、こう、見えてる状態なわけ?」「うんうん、そーだよー」。それから、デニーは「あっ! 真昼ちゃん、もしかして自分で見てみたいのかなあ?」だとか「じゃあじゃあ、ちょっと待っててね」だとか、そんなことを言って。それから、すてん、とでもいう感じ、今まで座っていたテーブルから降りた。

 それから、まるでスキップでも踏んでいるような軽やかな足取りによって、真昼の目の前までやってくると。ぱっと両手を開いて見せた。右手と、左手と、大体、自分の肩の辺り。指先を上にして、ほんの僅かに親指を自分の方に向けて。指先から掌底までのラインを、少しだけ後ろ向きに傾けた形。それは、例えば、真昼に向かって何かを掲げて見せているかのようなやり方であって……と、いつの間にか、そこに鏡があった。

 デニーの手のひらの辺り、ふわふわと浮かぶようにして。魔学的エネルギーを利用して、光を反射するフィールドを作り出したところのデニーだったのである。直径五十ハーフディギトの真円で、化粧鏡くらいの大きさ。ちょうど、真昼の肩から上、その全体を映し出すことが出来るくらいの大きさ。

 そして。

 そこに映し出された。

 自分の姿を。

 真昼は見る。

 屠畜と解体と、その過程でこれまで起こった全てのことと同じように。その姿も、やはり、なんだか冗談みたいに馬鹿馬鹿しかった。勘違いして欲しくないのだが、現実味がないとかそういう意味ではない。これが現実だったとしても、それを完全に認識していたとしても、やはり馬鹿馬鹿しいのである。

 真昼の頭蓋骨は眉毛の少し上の辺りで切断されていたのだが。そこから、なんとなく灰色っぽい、ぬめぬめとした物体が姿を現わしていた。何匹も何匹も、顔のない蛞蝓が集まって。ぐじゅぐじゅと潰れながら一体化してそのまま死んでしまったような物体。もちろん、いうまでもなく、それは脳髄だ。

 真昼は、こういう時に露出した脳髄というものは赤い色をしているのではないかとなんとなく思っていたのだが。先ほどの放血の魔法によって、真昼の体には血液が残っていなかった。そのため、脳髄は、本来の脳髄の色をしていたのである。壊死した組織のような……白く濁った霧の奥深く、その内側に腐敗した夜闇を閉ざしているような。そんな灰色。

 髪の毛を剃らずに頭蓋骨を切断したせいで――もちろん、普通であれば、食用の人間を解体する時には予め皮を剥いでおくのだが――真昼の頭は、側頭部の辺りに少し、後頭部の辺りに少し、その部分にだけ髪の毛が残っている状態で。全体的な印象からいうと、なんだか落ち武者みたいに見えた。

 真昼は。

 そんな。

 ミゼラブルな。

 自分の姿を見て。

 まるで。

 他人事のように。

 鼻の先で笑った。

 「どーお、真昼ちゃん?」鏡の後ろから、ちょこんと覗き込むようにして可愛らしいデニーが顔を見せた。その顔に向かって、真昼は「なんだか間抜けに見える」と答える。その後で、少し考えて「それに、馬鹿みたい」と付け加える。どちらも偽らざる感想だ。デニーはそれに対して、特に何もコメントすることなく、くすくすと笑った。

 ところで、アミーンはというと。一旦、真昼から離れて、その背後にある金属製の台の方に体を向けた。そこに、真昼の脳脊髄液でべとべとになったのこぎりと、左手で持っていた真昼の一部分、要するに頭蓋骨の上のところを置く。

 それから例の木製のテーブルに向かう。置いてあった道具の中から選び出したのは……包丁だ。といってもただの包丁ではない。非常に頑丈そうな包丁、肉屋が使う鉈のような包丁である。最も、鉈と比べると二回りか三回りかくらい小さく、随分と小回りが利くように細身になってはいるが。

 アミーンは、それを右手に持つと、またもや真昼の方に振り返った。そして……そして……これは本当に信じられないことであって、全くデリカシーというものが感じられない行ないだと、心の底からそう思うのだが。アミーンは、「サナガラサン、サナガラサーン! ノーミソ、ザクザクシテクヨー!」と、なんだか景気良く一声掛けると。ナイフを持っていない方の手で、むんずと真昼の脳味噌を掴んだ。

 思わず「え?」と真昼の口から声が漏れてしまう。ちょっと待ってちょっと待って、そういう感じでするの? 真昼の困惑をよそに、アミーンは、「ココヲ、コウ!」「ソレカラ、ココヲ、コウ!」とかなんとか言いながら、あまりにも無慈悲な手つきで真昼の脳味噌にナイフを突っ込んでいく。それはもうがんがん突っ込んでいく。こ、こいつ……! 人の脳味噌を何だと思ってやがんだ……! と思ってしまった真昼であったが。いうまでもなく、アミーンは真昼の脳味噌を食材だと思っているのだ。

 作業は、あっという間に終わった。真昼は脳味噌のこととか全然知らない感じの人だったので、どこにどうナイフを入れられたのかはよく分からなかったが。恐らくは、人間の脳味噌の中でも最もテイスティな部分を切り取ったのだろう。アミーンは、左手で、そのぐちょちょっとした物体を掴んだままで。右手の包丁を金属の台の上に置きながら、真昼に「オオー! コレハ良イノーミソダヨ! 新鮮ナ良イノーミソダヨ!」とかなんとか言う。なんか褒められても全然嬉しくねぇな。

 それから。

 アミーン。

 は。

 「ジャア、ワタシ、コレカラ、サナガラサンノノーミソデ美味シイ美味シイてーじゃさ・まさらヲ作ッテ来ルネ。ふーつサントサナガラサント、席デ待ッテルトイインジャナイノー?」と言いながら、この部屋から出ていってしまった。裏口から出ていったのではなく、真昼が座っているこの椅子を持ってきた方からだ。たぶん、隣の部屋がキッチンなのだろう。

 真昼は、なんだか、すとんと拍子抜けした感じだった。え? これでお終い? えーと、なんというか……もうちょっとこう……具体的にいえないのだが、ちょっと出来損ないな気分だった。勢い込んで大掃除を始めたが、面倒になって途中で投げ出してしまったみたいな、そんな気分になってしまった。まあ、確かに、脳味噌を必要なだけ手に入れたんだから、それで終わりだろうが……全体的に釈然としない。

 まあ。

 でも。

 なんだかんだ考えてても仕方がない。

 要するに、これが、現実なのだから。

「あたしさ。」

「なあに?」

「脳味噌、全部取ってくんだと思ってた。」

「全部?」

「ほら、こう、頭蓋骨の中からさ、すぽって、脳味噌の全体を取ってくんだと思ってた。こんな感じなんだね。なんていうか、中途半端っていうか。半分くらい? まだ残ってんじゃん。皿の上に食べ残しが乗ってるみたい。」

「あははっ! そんなことはしないよお。だって、食べるの、真昼ちゃん一人だもん。そんなにたくさん取っても使わないじゃーん。それに、さぴえんすののーみそって、他の神経系と直接繋がってるでしょお? ほら、おめめとかも、こう、こんな感じで、こことこことが繋がってるから。のーみそをね、下手に全部取り出しちゃうと、おめめの方の固定が外れてぽてんぽてんってしちゃうかもしれないんだよね。だから、必要な分だけざくざくってして、それでじゅーぶんなの!」

 そんな感じのこと。

 を、言い、ながら。

 デニーは、真昼の横をてってこてってこと歩いていって、その背後にある金属製の台の方に向かっていった。それから、すぐ近くまで辿り着くと、台の上に乗っていた真昼の頭蓋骨の上の部分、ひょいっと取り上げる。

 左の手のひらで頭頂部を包み込むような持ち方だ。そうした後で、くるっと真昼の方を振り返って。真昼の剥き出しの脳髄、その上のところに、すぽりっとかぶせた。要するにもとあった場所に戻したということである。

 「それで、そのテージャサ・マサラっていうのは、どれくらいの時間で出来んの」「えー? 分かんない。十分くらいじゃないかなあ? ほら、煮込んだりする時間とかもあると思うから、そんなにぱぱっとは出来ないよ」「煮込み料理なの?」「うん、そーだよ」「煮込み料理って、十分かそこらで出来るもんなの?」「出来る出来る!  のーみそ以外のなんだかんだのは終わってて、あとはのーみそをあーだこーだするだけだもん! それに、あんまりながーく煮込んじゃうと、のーみそが固くなっちゃったり崩れちゃったりしちゃうからね」「ああ、そうか」。

 そんな他愛もない会話をしながら、デニーは、まるで。小さな子供が親にして貰ったことの真似をして、誰か知らない人の頭を撫でているような手つき。きゃらきゃらと真昼の髪の毛を弄ぶような手つき。両方の手のひら、真昼の頭部に這わせた。

 右の手のひら、左の手のひら、すーっすーっと撫でていく。すると……真昼の髪の毛を汚していた、しつこくこびりついていた血の塊が、嘘のように消えていく。しゅうっという音を立てて、目に見えないほど細かい灰の断片になって消えていく。

 また、もちろんそれだけではなかった。というか、それはあくまでもおまけの効果だ。デニーがそれをしていることの目的とは、つまり、真昼の頭蓋骨の再生である。

 外側からだと髪の毛がかぶさっているためによく見えないのだが。その内側では、切り取られた頭蓋骨の切断面と、残りの頭蓋骨の切断面とが、見る見るうちに(だから見えねぇっつってだろ)くっついていた。のこぎりに挽かれて捻じれたようになってしまっていた皮膚も。ざりざりとした切断面の骨膜も、ばりばりに砕けてしまった頭蓋骨も。それに、無残に破れてしまっていた硬膜も蜘蛛膜も。美しい早朝の太陽が朝露を消し去っていくがごとく、デニーの手のひらが、その傷口を、跡形もなく消し去っていく。

 そうして、その傷口がすっかり癒合してしまうと。デニーは、両手のひら、まるで真昼の頭部を両側からそっと包み込むような手つきで触れた。その後で、真昼の頭頂の辺り、ほんの少しだけ後頭よりの部分に、ちゅっと軽い口づけを落とす。

 これは、大変大変陳腐な比喩表現になってしまうが……デニーは、まるで小さな小さな小鳥が、戯れに真昼の髪の毛を啄んでいるかのように。とてもとても可愛らしいやり方で、真昼の頭、ちゅっちゅっと口づけていく。すると、その口づけがまるで何かの奇跡であったとでもいうみたいにして。のこぎりで切り落とされたせいでめちゃめちゃなことになっていた真昼の髪型が、このことが起こる前のような髪型、ざんばらなベリーショートへと戻っていく。

 ただ。

 デニーは。

 そうして。

 その口づけ、を。

 終えたわけでは。

 なかった。

 ちゅっちゅっと、次第次第に口づけをする箇所を下ろしていく。頭頂から側頭へ、側頭からこめかみへ。それから、耳。それから、うなじ。そして、その口づけは……とうとう右側の首筋にまで下りてきた。真昼は、右目を閉じて、右の奥歯でぎりっと歯軋りをする。そんな真昼の顎、そっと愛撫するみたいにして、デニーの指先が逸らして。そして、真昼の喉元、その傷口が露わになる。デニーは、その傷口の右端、そっと口づけた。

 それから、あーっと口を開いて。傷口の上と下と、その部分に、柔らかく柔らかく歯を立てた。きいっと、一度、噛む。位置を左にずらして、もう一度。位置を左にずらして、もう一度。合計して三度噛んでから、満足げな表情をして顔を上げた、それから、今度は真昼の首筋の右側に顔を接近させて。そのまま左側でしたことと全く同じことを繰り返していく。いうまでもなく、真昼は、左目をつぶり左の奥歯で歯軋りをしている。

 その行為。

 全てが。

 終わる。

 首筋の傷口は、すっかりと塞がってしまって。

 あの、首輪みたいな傷跡だけが残されている。

 真昼は、デニーのこと。

 忌々しげに睨み付けて。

 忌々しげに舌打ちする。

 そんな真昼に向かって、デニーは。

 真昼の顔を、覗き込むようにして。

 いつもの、通り。

 にぱっと笑って。

「じゃあ、お席に戻ろっか。」

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