第三部パラダイス #8

「ハイハイ、オ待タセシマシタネ。」

 二ダブルキュビトほどの背の高さ、無駄に優雅な舞踏のような足取りでやってきたアミーンは、そう言いながらテーブルの横に立った。ホモ・マギクスにすれば平均的な身長に過ぎないだろうが……真昼からすると、こうして見下ろされた時、少しばかり威圧感さえ感じるくらいだ。

 ただ、真昼は、ホモ・マギクスについてはまあまあ知っていたので、特に気後れしたりなんだりすることはなかった。月光国のように、未だに神々に支配されている集団。マホウ界との繋がりが残っているような集団ではホモ・マギクスのような人間を見ないというわけではないのだ。それどころか、仕事の都合でナシマホウ界に移住してきたホモ・マギクスや、そういったホモ・マギクスとホモ・サピエンスとが混血している家族もいるくらいである。というか、むしろ……それ以前の話として、今まで何度か話に出てきた真昼の家庭教師もホモ・マギクスだったのだ。

 ところ、で。

 アミーンは。

 砂漠の近くに住んでいるホモ・マギクスらしく、荒野のような色をした肌。そんな二本の腕で大きな鍋のような物を持ってきた。高さが三十ハーフディギト程度。口縁の直径は八十ハーフディギト程度あるが、その胴から腰にかけての部分、底に行くほど曲面を描いて細くなっており、一番下では六十ハーフディギト程度になっている。また、恐らくは三つの月と星々とを抽象化したものと思われる複雑な図形が描かれていて、右と左とに一つずつ取っ手が付いている。

 そんな鍋。

 二人が座っているテーブルまで持ってくると。

 それを、どんと、威勢よく、机の上に置いた。

「コレ使ウトイイヨー。」

「え? 使う?」

「ソウソウ、使ウ!」

「何に……ですか……?」

「ハッハッハ、サナガラサーン!」

 さも面白い冗談を聞いたとでもいうように大笑いすると、真昼の質問はガン無視して建物の方に戻っていってしまった。いやいやいや! だから、これ何に使うんだよ! 真昼はそのように突っ込みたかったらしいが、またもやそのチャンスを逸してしまったようだ。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら、アミーンの後ろ姿を見ていることしか出来なかった。

「それはね。」

 そんな。

真昼に。

 デニーが。

 アドバイスをする。

「おててを洗うお水だよ。」

「手を?」

「そーそー。」

 テーブルに肘をついて、その先にある手のひらの上、両方の手のひらの上に、可愛らしく顎を置いて。そう言ったデニーの言葉……真昼は、椅子から立ち上がって鍋の中を覗き込んだ。

 確かに、その中には、なみなみと水が満たされていた。しかもただの水ではない。恐らくはパヴァマーナ・ナンディから汲み取ってきたのだろう、魔学的エネルギーを含んだ水である。

 見た限りでは汚れていたりなんだりはしていないようだ。透明な、綺麗な水である。真昼は「ふーん」と言いながら、両手を水の中に入れてみる。「アイレム教徒の子達はね、お食事の前には必ずおててを洗うんだよ。んー、別にアル・アジフにそーしなさいって書いてるわけじゃないから、絶対絶対にしなきゃダメーってわけじゃないんだけどね。それでも、まあ、手を洗わないで何かを食べるってことはほとんどないかなー。アルハザードの言行録でね、ハディースって呼ばれてるご本があるんだけど。そこに、アルハザードはお食事をする前に手を洗いましたよーって書いてあるの。だから、やっぱり、みんな手を洗ってから食べた方がいいよねーってことになってるんだよね。そ、れ、で! ここの街では、食べ物を出す前に、こーやっておててを洗うお水を出してくれるんだね」。

 なんてことをデニーが言っているうちに、真昼は手を洗い終えた。水から手を引き抜くと、鍋の上で三度ほど手を振って水を払う。洗い心地は……ソーマが持つ浄化の力、石鹸で洗うよりも綺麗になったみたいな気がする。

 さて。

 その洗い終わったタイミング。

 見計らうようにして。

 またアミーンが来た。

「マズハさらだトすーぷヨー。」

 今度は……器用に六つの皿を持っていた。その全てが金属製の皿で、𨪷に何かを混ぜて錆びにくくした合金で出来ているのだろうと思われた。一つがサラダを入れた大皿、一つがスープを入れたボウル、二つの皿がサラダの取り皿、二つの皿がスープの取り皿だ。どう持っているのかといえば、まずはサラダを入れた大皿を右手で持っている。その伸ばした右腕に、スープの取り皿を二つ置いていて。二つのサラダの取り皿は左手で持っている。最後に、スープのボウルはというと、頭の上に乗せていた。よくもまあこれだけめちゃくちゃな持ち方が出来るものだと思った真昼であったが、向こう側は結構慣れているらしく、全然平気そうだった。

 それから、アミーンは……「チョットチョット! ソレ、ドカシテ!」と言いながら、目でちらちらとテーブルの上を指し示した。どうも、この鍋をどかして欲しいらしい。え? でも、どかすってどこに? 真昼はそう思ってしまったのだが、とはいえ、これをどかさなければテーブルの上に何も置けないというのはその通りである。

 仕方なく真昼は、とにもかくにも鍋を持ち上げた。両方の手で両方の取っ手を持って、それから自分の方に引き寄せる。これで、取り敢えずはテーブルの上は空いたわけだ。

 アミーンは、その空いた空間に手品みたいな手つきで皿を並べていく。やがて、全ての皿を並べ終わると「フー、アリガトアリガトー」と言って。どうしていいのかも分からずに鍋を持ったままでいた真昼から奪い取るようにしてその鍋を受け取った。そして、その鍋を持ったままで。「サラダハヨク混ゼテ食ベテネー」とかなんとか言いながら、また店の方に戻っていった。

 こうして。

 ようやく。

 食事が。

 来たわけだ。

 サラダとスープとが、テーブルクロスさえ敷かれていない剥き出しのテーブルの上にでんと置かれていて。デニーと真昼との目の前にそれぞれの取り皿が置かれていて。さて、それから……真昼は困ってしまった。

 カトラリーがないのだ。スープには取り分け用のでけぇおたまみたいなやつが突っ込んであるし、サラダはサラダで、なんかトングっぽいやつが突っ込んである。ただ、真昼がそれを食べるためのアイテムがない。

 さすがの真昼ちゃんも、これには困ってしまったのだが。ただ、ちょっと思い当たることというか、おいおいもしかして……という感じ、なんとなく嫌な予感があった。だから、アミーンを呼んで、諸々のカトラリーを頼む前に、デニーに問い掛ける。

「もしかしてさ。」

「んー?」

「これ、手掴みで食べるの?」

「あー、んー、そーだね。」

 デニーは、デニーの小さな体には大き過ぎる椅子の座板に両方の手のひらをついて。ぐいーっと背凭れに寄り掛かって、なんとなくのやりどころもなく両脚をゆらゆらとさせながらそう答えた。真昼の問い掛けにも興味がなければ、自分の答えにも興味がないといった感じの、やけにあっさりとした答え方だ。

 ただ、そう答えられた方の真昼としては、そんな簡単に流さないで欲しいものだった。いや、だって、手掴みって……そりゃ、確かに手は洗ったけどさ……うん、まあ、綺麗になったとは思うよ……でも、手掴みって……サラダは辛うじて理解出来るよ……固形物だし……でもスープも手掴みで食べるの……?

 と、デニーが、はっと何かを思い出した表情をした。おお、なんだなんだ、やっぱり何かあったのか、と思った真昼に。デニーは、そういえばそうだったという感じで言う。「あ、真昼ちゃん! 左手は使っちゃだめだからね! アイレム教ではね、左手はダメな方の手なの。だから、食べ物に直接触っちゃいけませーん!」。それから、満足そうににぱっと笑った。

 いやー、そういうことじゃねーんだよな、そういうことじゃねーんだよ、と思った真昼であったが。ただ、なんというか、なんかどうでもよくなってしまった。そもそも、真昼は、ここに来る前に生の蟹を食べているのだ。川から出てきたばかりの蟹を、素手で捕まえて食べているのである。今更、食べ方だのなんだのを気にするようなあれではない。なので、もう、全部全部のことを気にしないことにした。

 ちなみに……アミーン・マタームの名誉のためにいっておくが。ちゃんと頼めばスプーンでもフォークでも持ってきて貰うことが出来た。確かに、ここら辺に住んでいる人達は、カトラリーを使わずに手掴みで食べるという習慣があるが。アミーン・マタームは、あちらこちらを旅している旅商人も受け入れているので、一通りの用意はしてあるのだ。そもそも、ここはフラナガンのお気に入りの店なのであって……フラナガンが何かを手掴みで食べるようなことはない。フラナガンは自分の肌を他人に見られるということを極端に嫌っているために、常に手袋をしているからだ。

 そういったこと、を。

 知らない真昼ちゃん。

 早々に全てを諦めてしまって。

 まずは、サラダに手を伸ばす。

 そういや、なんか食べる前に混ぜろみたいなこと言ってたよな。などと思いながら、真昼はトングみたいなやつ(以下トング)に手を伸ばした。皿に近付くと、柑橘系の爽やかな匂いが、鼻の奥をすぱーっと駆け抜ける。

 生野菜を中心として構成され、そこに油分と酸味とを加えた物をサラダというのならば、これは確かにサラダなのだが。ただ、真昼の知っているサラダとは異なる点もないではなかった。真昼が今まで食べたことがあるサラダは、一つ一つが野菜としての形状を保っていた。ある程度は食べやすいようにカッティングされていたが、とはいえ、トマトならトマトと、キャベツならキャベツと、分かる程度の大きさ、一口サイズだった。

 一方で、このサラダはほとんど全ての食材が粉々になるまで刻まれていた。みじん切りというまではいかないが、一つ一つの欠片、鼠の一食分ほどの大きさの細かいブロックになっていたのだ。例外はスナック菓子ほどまで硬く揚げられたパンだけだ。アミーンの言った通り、これならばよく混ぜたほうがいいだろう。混ぜれば混ぜるほどに、サラダの上にかけられたドレッシングが細かい断片に絡んでおいしくなっていくのだから。

 一通り混ぜると、真昼は、トングで一掴み分を自分の取り皿に取り分けた。それから、少し考えてもう一掴み、もう一掴み、自分の取り皿に移す。少し考えたというのは、これを手掴みで食べた後は手が油でべたべたになるから、もうトングを持ちたくないと思うだろうな。それなら、最初から多めに取っておいた方がいいかな。そういうことを考えていたのだ。

 それから。

 真昼はデニーの方に。

 トングを、差し出す。

「はい。」

「ほえ?」

「これ。」

「これって……どーゆーこと?」

「だから、トング。」

「そうだね、トングだね。」

「そうだね、じゃなくて。早く取ってよ、このトング。あんたも食べるでしょ、サラダ。サラダを食べるんなら、取り分けるのにトングが必要でしょ。だから、あたしは、あんたにトングを渡そうとしてんの。」

 こんな単純なことを、なぜこんなに懇切丁寧に説明しなければいけないのかと思ってしまった真昼であったが。そんな真昼に対して、デニーはけらけらと笑いながら言う。「あー、そーゆーことね」「そういうことだよ」「いーよいーよ、デニーちゃんはいらないよ」「は?」「真昼ちゃん、お腹すいてるんでしょお? 全部食べちゃっていいよお」。

 真昼は、そのデニーの言葉に、ふーんと思った。それから、やっぱりねと思った。デニーの前に取り皿があったから、まあ、食べるかなと思って一応トングを差し出してはみたのだが。ただ、デニーがこういった人間の食べる物を食べるというのは、なんとなく違和感があることだった。

 デニーは……例えば、あの国内避難民キャンプ、あの教会の中で、サテライトによってぐちゃぐちゃのばらばらに引きちぎられた人間の断片。それを、一口、摘まみ食いという感じで咀嚼し嚥下していたが。真昼には、デニーが食べる物は、そういった物の方が、相応しいように感じた。

 この生き物は。

 陽気なおっさんがやってるレストランで。

 サラダを食べるような、生き物ではない。

 だから真昼は、それ以上は何も言わずに「そう」とだけ答えた。トングを置いて、自分の取り皿の上に取り分けられたものに集中することにする。

 あー、あー、手で食べるのか。いや、手で食べること自体は別にいい。真昼だって、コンビニエンスストアで買ってきた弁当に箸が付いていなかった時に、その時に住む場所を提供して貰っていた男にいちいち箸がある場所を聞くのが面倒で手で食べたことくらいはある。それに男を探すために参加した飲み会で箸を落としてしまった時、いちいち店員を呼んで箸を持ってきて貰うのが面倒で手で食べたこともある。問題なのは、こういうレストランで、酒も飲んでいないのに手掴みで食べるということなのだ。TPOの問題なのである。

 また、それだけでなく……デニーの前でそれをするということにも抵抗感のようなものがないわけではなかった。手で物を食べるというのは、はしたないというか、いやらしいというか、なんとはなしに性的な放埓のようなものを感じさせる行為だ。デニーを相手に、明け渡すようなやり方ではないだろうか。何を明け渡すのかは分からないが、見せてはいけない隙を見せる行為であるような気がする。

 この男に。

 そんなこと。

 そんな真似。

 したくない。

 ただ、それでも、デニーならいいかと思う真昼もいた。この男なら別に構わないだろう。だって、この男は、あたしが明け渡す前にあたしの全てを手に入れているのだから。今更、あたしが何をしようとも別に変わらない。この男なら、この男であるならば、あたしが手掴みで物を食べる様を見せてもいい。だから、真昼は、軽く肩を竦めて。誰に向けて肩を竦めたのか? 自分に向けて肩を竦めたのだ。それから、サラダを手で食べ始めた。

 デニーに言われた通り、左手は使わなかった。食べてる間、この使わない手をどうしようと一瞬考えてしまったが。テーブルの上に置いておくことにした。右の手のひらを、軽く開いた形にして。特に躊躇うこともなくサラダの中に突っ込んだ。

 ああ、なんか、これ、冷たい。それに、埋めた指先がぬるぬると滑る。一つ一つの野菜の断片が真昼の手をじゃらじゃらと汚しているみたいだった。指の腹を触る、手のひらを触る。爪と肉との間に入ってきて、そこを冷たい油で濡らしている。

 実際に手を入れてみると、こんな呆気ないものなのかと思った。汚れてしまえばなんのこともない、大したことではない。それがもたらす影響は、所詮は真昼の内側ではなく、肌一枚隔てたその先でのことだ。別に背徳感も罪悪感もない。

 広げていた手のひらを、ぐっと掬い取るスプーンの形にして。皿の上から持ち上げる。思いのほか、手のひらでもしっかりと掬うことが出来るものだ。小指の端から少しこぼれたりもしたが、気にせずにそのまま口へと持っていく。自然自然と前屈みになっていた。テーブルの方、こぼさないようにして身を乗り出して……それから、手のひらの上のサラダ、一気に口に押し込む。

 口に入れた瞬間に、瑞々しいほど新鮮な柑橘類の味が爆発した。レモンに似ているが、少し違う。レモンよりも酸味が強いのだが、その中に甘みが一滴隠し味のように付け加えられているため、強過ぎる刺激が舌の感覚を殺さないで済んでいる。さっと爆発して、さっと消えていく。ずるずると後味が残ることのない、爽やかな味わいだ。ちなみに、これはラティフォラというマホウ界にしかない果物の果汁であった。また、この油の味は……なんとも形容がしがたかった。この青臭さはオリーブオイルに似ているともいえるのだが、オリーブオイルよりもずっとずっと荒々しいのだ。まるで生きたままの植物がそのままオイルになっているかのように、口の中で暴れ回る。こういうのが駄目な人間であれば、一口含んだだけで吐き出してしまうだろうと思ってしまうほどだ。これもまたマホウ界にしかないサンバーニーという植物の実のオイルである。

 それから、しゃく、しゃく、と、そのサラダに歯を立てると。味わいは一気に変わってしまって、今度は葱の味が勢いよく広がっていく。玉葱? 長葱? そのどちらでもない。これはヤドリネギと呼ばれる特殊な葱で、マホウ界でもナシマホウ界でも、ほんの一部地域でしかとることが出来ない野生の葱だ。他の植物に寄生するという非常に特殊な葱で、大木の内側、樹皮の裏側に生えるという性質を持つ。これは外側から見ただけでは樹皮の盛り上がりにしか見えないため、この葱の突き抜けるような匂いを記憶させたライカーンにその在り処を探させて採集する。

 それから、味のアクセントとして幾つかの甘みを感じた。まずはキャベツみたいなシャキシャキとした甘みであるが、それは普通にキャベツだった。更に、このトマトのようなとろとろとした甘み。これもまた普通にトマトだった。

 そして最後に、ほんのりとした苦みと、ざっくりと切りつける刺激。なんらかのハーブのように思われた。それはカセルと呼ばれるハーブで、特殊な魔力を秘めた鉱石の近くにしか生えないといわれている非常に珍しいものだった。

 さすがフラナガンが認めるだけのことはある。全ての材料が一級品だ。もしも良いレストランと悪いレストランを簡単に見分けたいというのならば、ただサラダだけを頼めばいい。他の料理はいくらでも誤魔化しがきく、もともとの食材にいくらでも味を付け足せる。ただ、サラダだけは誤魔化しがきかないのだ。どれだけいい食材を使っているか、それがそのまま出てしまうから。

 例えば、先ほどは、「普通の」と書いたが。このキャベツとこのトマトと。まるで夢を食べる玉虫のように美しい緑色をしたキャベツ……まるで処女の生き血を宝石にしたかのような赤色をしたトマト……どちらにしてもこの世で最も洗練された野菜だ。アーガミパータ中の、いや、世界中の物品が集まるティールタ・カシュラムだからこそ手に入れることが出来る食材だろう。

 真昼は、野菜の良し悪しなんて分からなかったが。それでも、これが、とても美味しいサラダであるということは理解出来た。野菜そのままの味が既に美味しいのだが、それらのバランスが、指先で弾いただけで壊れてしまいそうな繊細さで決定されている。あの適当なおっさんが作ったなんて信じられないほどだ。これは……静一郎に連れ回されて食べた、月光国の超一流のレストランで食べたサラダと全く変わらない美味しさである。

 ざりざりと、奥の歯で、チップスのようにかりかりのパンを噛み砕きながら。真昼は、もう一掬い、手のひらでサラダを掬った。サラダのドレッシング、酸味と油分とがじっとりと自分の手のひらに滲んでいく気がする。口の中のサラダを飲み込むと、また手のひらのサラダを口の中に入れる。もう一掬い、もう一掬い、もう一掬い、と次々にサラダを口に運んでいく。やがては、取り皿の上が空っぽになってしまった。

 べっとりとドレッシングまみれになった手……べろりと、舌を出して舐めた。舌にくっついた野菜の欠片が逆に手のひらについてしまったりもしたが。そういうことは気にも掛けないで、えろ、えろ、えろ、と手のひらを舐めていく。手のひらの側、親指の付け根から人差指まですーっと舐めていき、今度は手の甲に円を描くように舐め取る。手の甲、人差指を根元から先端まで舐めた後、中指に移る。根元を何度か舐めた後、指の全体を口の中に含み、ぐちゅぐちゅとしゃぶっていく。薬指、小指、同じようにしゃぶっていく。また手のひらに舌を移して、今度は全体的に舐める。手首から指の方に向かって真っ直ぐに舐めていく。つうっと、手首の方に、真昼の唾液とドレッシングとが混ざった液体が流れていき……舌先で、るるうーっとそれを舐め上げる。そして、最後に、親指についているドレッシングを舌の全体で舐め取って。これでお終いだ。

 トングを取って、残っているサラダをまた取り皿の上に取り分けようとしたのだが。ふと思い直してトングを置いた。それから、自分の前から取り皿を押しのけて、サラダの乗っている大皿そのものを引き寄せた。どうせデニーは食べないのだから、じかにいってしまっても構わないだろう。

 左手は大皿の横に置いて、右手をサラダの中に突っ込む。皿の底まで指先を入れると、皿の底にドレッシング溜まりが出来てしまっていることに気が付いた。すると、真昼は……躊躇いもせずに、右手でサラダを掻き混ぜ始める。どうせ手はべちょべちょに汚れてしまっているのだ。これ以上、どんなにサラダをいじくり回そうと問題あるまい。

 よくよく混ざったところで、一掴み、さっきよりも大量に手のひらの中に包み込んだ。それから、それを握り締めるようにして口の奥へ奥へと突っ込む。大雑把な扱い、荒々しい食べ方。そんなことをしては、割れやすい氷のように繊細な味が台無しになるのではないか? だが、台無しになったものには台無しになったものとしての意義があるのだろう。

 それに、そう、このサラダは、もともとこのように食べられることを想定されていた物なのだ。だって、これは、手掴みで食べるための料理でしょう? この繊細さは、破壊されるためのものだ。そして、重要なのは、その後に何が残されるかという話だ。あるいは、そもそも、重要なことなんて何一つないのか。ぐちゃぐちゃにひねり潰されたトマトの欠片を、無造作によじり曲げられたキャベツの欠片を、喉の奥に詰め込んでいく。真昼は、無心に、消化器官の底の底に落としていく。

 死なない。

 人間。

 なんて。

 いない。

 それに。

 それから。

 少なくとも、あたしの、死には。

 なんの意味もなかった気がする。

 サラダを食べ終わった。右手をねぶりながら、左手でサラダの大皿を押しやる。ああ、左手使っちゃった。まあ、食べ物には触れてないけど、食事中に左手を使ってしまったことには変わりない。うっかりしてた。いいのかな、いいや。どうせ、あたし、観光客だし。これくらいのことなら許してくれるでしょ。許す? 誰が? 誰を? 罪、救済。はっ! 馬鹿みたい、この程度のことで。あたしは観光客。生きている世界と死んでいる世界。

 左手でスープの大皿を引き寄せる。あわあわと、あわやかに漂ってくるスープの温度。その温度の匂いは、たぶん豆類のスープなのだろうと思わせるような匂いだった。

 さて、ところで……真昼は、このスープも手で食べないといけないのだが。一つ、ちょっとしたプロブレムがある。スープというものは大抵の場合、めちゃめちゃ熱いということだ。冷製スープとかだとそうでもないが、そりゃ冷製なんだから当然だ、とはいえこのスープは冷製ではない。

 ちょっと時間を置けば冷めるかなと思って、サラダの方を先に食べたのだけれど。これは、ちゃんと冷めてるのかな? 普通なら、スプーンに掬って、ふーふー冷ましながら食べればいいが。今の真昼は、スプーンではなく手のひらを使わなければいけないという状況にある。ボウルに注がれた状態でふーふーしても全然意味があるとは思えないし……どうしたものか。

 まあ、まあ、大丈夫か。スープ食うくらいでそんないつまで悩んでても仕方ないしね。ということで、真昼はスープに右手を突っ込んだ。

 思ったより、熱くない。

 ちょうどいいくらいの温度だ。

 きっと、最初から、そんなに熱くなかったのだろう。

 手で食べる用に、冷ましてから出していたのだろう。

 そうしないと。

 食べられないからね。

 突っ込んでから、あ、しまった、と思う。これじゃ、さっき食べたサラダの味が混ざっちゃうじゃん。そりゃ、べろべろと舐め取りはしたが。それでも少しは味が残っているだろう。あのおっさんに頼んで手洗い用の鍋をもう一回持ってきて貰えば良かったかな? うーん、でも面倒だしな。いいか、ちょっとくらい味が混ざっても。

 そんなことを考えながら、犬猫のたぐいみたいにしてスープの大皿の上に屈み込んだ。スープは液体なので、指と指との間から簡単に滴り落ちていってしまう。なので、サラダの時よりも、もっと近いところまで顔を持ってこなければいけないのだ。ほとんど数ハーフディギトの距離まで口を近付けて、それから、手のひらでスープを掬い取る。

 ああ。

 こぼれる。

 こぼれる。

 あたしの。

 命、みたいに。

 はっ! くだらない冗談。なんにせよ真昼は、慌ててスープを口元まで運ぶ。指先と掌底と、口の開いたところではなく、頬に当たってしまった手の部分。そこについていたスープが口の周りの全体を汚した。

 スープの感覚。まず味よりも舌触りが先にくる。カボチャだのアマイモだの、そういった物を荒濾ししたみたいなざらざらとした舌触りだ。破粉質が多量に含まれている食材に特有の、あの重く沈み込むような食感。きっと、その食感を生かすために、わざと粗雑な濾し方をしているに違いない。

 ただ甘みはほとんどない。ほんのりと甘いといった程度で、飲み込んだ後も僅かに舌の上に消え残る。その代わりに、豆に独特のあの味がどろどろと口の全体を犯すみたいだ。ある意味では乳製品にも似ている、あの味。何か、葉と葉とで紡がれた動物の体液のような味。強い印象。

 これはラカラカ豆という豆を使ったスープだ。ラカラカ豆とは、神話時代にヴェケボサンが栽培を始めたといわれている豆で、いわゆる古代豆と呼ばれている一群の豆類のうちの一種類だ。古代豆に特有の不自然に大量に含まれた栄養素のおかげで、一種異様なほど濃厚な味わいのスープを作ることが出来る。

 その他の材料としては、サンバーニー・オイルとヤドリネギと、とろみをつけるための小麦粉、ちょっと味を調えるための塩、それくらいしか使っていない。なので、この味はほとんどラカラカ豆そのものの味なのだが。よほどいいラカラカ豆を使っているのだろう、それだけで十分に破格の奥行き深さだった。

 手で掬っては飲み込み、飲み込んでは手で掬う。そのうちに、ほとんど皿から直接口をつけて飲んでいるような有様になる。スープのぎりぎりまで口を近付けて、ただし、そのまま口をつけてしまうと顔を沈めなければいけなくなるので。手のひらでしゃぱしゃぱと、掬うというよりも跳ね上げているだけみたいな感じだ。髪の毛がスープに沈んでしまわないように左手で掻き上げているという行動だけが、辛うじて知的生物としてのラインを守っている。

 やがて、スープのほとんどを飲み終わった。残っているのは、ボウルの底に少しだけ残っている部分と、それに、ボウルのそこここを濡らしている部分だけである。真昼は、そういった、ほんの僅かなスープも残さないようにして、手のひらで掻き集めては手のひらを舐めていたのだが。このやり方だと効率が悪いということに気が付いた。

 もうスープがほとんど残っていないのだから、直接的にボウルを舐めても顔が濡れることはないだろう……だから真昼は、ベーっと舌を出して、満遍なくボウルを舐めていくことにした。

 まずはボウルの半分のところまで、端から、一本一本線を引いていくように、隙間なく舐めていく。半分まで舐め終わったら、ボウルを四分の一ほど回転させて、残っている半円の部分を、また同じように端から舐めていく。最後には、ボウルの上、真昼の唾液しか残っていないような状態になった。

 これで。

 サラダと。

 スープと。

 食べ終わったわけだ。

 まるで毛繕いをする猫が前足を舐めるかのように、自分の右手を舐めている真昼。この時点で、既に、かなりの量を食べている。本来は二人前なのだから当然の話だ。とはいえ、真昼が満足していたかといえば、はっきりいって全然満足していなかった。

 だって、今まで食べてきたのは全部植物じゃん。草と種と、それに実だ。そんな物じゃ、この枯渇を潤すことは出来ないのである。既に真昼の飢餓は空腹なのか満腹なのかという話ではなくなっていた。肉、肉、とにかく肉。真昼は肉が食べたかった。

 真昼に必要なのは、他の生き物の生命を無意味に浪費するあの感覚だった。生きているということを食らう、殺したという事実を摂取する。他の生命を破壊して、他の生命を蹂躙して、他の生命を搾取する。それこそ、生命が生命である方法なのである。

 確かに真昼は死んでいる。今の真昼は完全ではない、不具の生命だ。だが、だからこそ、真昼には必要だった。生命そのものを食っているという実感が。植物も、まあ、生きてるっちゃ生きてるけど。それを殺したところで、あまりにも、何かを奪ったという感覚が薄理なのだ。足りない、足りない、全然足りない。今の真昼を癒すことが出来るのは、動物、しかも、中枢神経の制御によって、死んでいく自分を感覚出来る動物の死だけだった。

 さあ。

 それでは。

 次は。

 なんの料理が。

 運ばれてくる。

 ふと、何かが動く気配がしたので。真昼は、建物の方に視線を向けた。というか、その建物の前のシャワルマ焼き焼きゾーン(仮)に。片手に皿を持ったアミーンが立っていて、一つ一つのシャワルマの焼き加減を吟味していた。

 あのおっさんにしては、かなり真剣な目で焼き加減を見ていたのだが。暫くして決定したらしい。一つのシャワルマを選び取ると、その根元の軸を握って、ぐいっと持ち上げた。

 あれだけしっかりとシャワルマが焼けている以上は、間違いなく、そのシャワルマを貫いている金属棒も灼熱していると思うのだが。全然熱を感じていないかのように平気だ。よくよく見てみると、軸を持っている手のひらにグローブのような物をつけている。たぶん熱を遮断する魔法をかけているグローブなのだろう。

 小さな子供ほどの大きさがあるシャワルマを、いかにも軽々と持って、店の中へと戻っていった。真昼の目は何度も何度も書いているように強化されているので薄暗い店の中も見通すことが出来たのだが……アミーンは、店の、キッチンらしきところまで行くと。シャワルマを持っている方とは反対の手、巨大な鉈のように野蛮な包丁を取り上げた。

 そして、シャワルマを。

 皿の上に、持ってきて。

 肉の塊。

 包丁で。

 残酷に。

 刻んでいく。

 ああ、それは。

 まるで、生きている獣が。

 その肉を削ぎ落とされる。

 光景の、ように。

 ざく。

 ざく。

 ざく。

 ざく。

 ざく。

 ざく。

 生きていたはずの。

 肉体の残骸が。

 皿の上に。

 嘔吐のように。

 降り注ぐ。

 嘔吐? その時に真昼が思い出していたのは、昨日の夜、あるいは今朝の太陽が昇る前のこと。マラーが眠るベッドのすぐ横で、自らが吐き出した吐瀉物についての記憶であった。

 真昼の胃袋の中で、肉と骨とを溶かす酸に焼かれながら。あれ? 胃酸って骨を溶かすんだっけ? まあいいや、とにかく、どろどろと酸によって溶かされながら、それでも陽気なダンスを続けていた肉塊。生きているわけでもなく、かといって動かなくなってしまったわけでもない。デニーの魔法によって辛うじてこの世界に繋がれたまま、奴隷のように踊り続けていた生き物の残骸。

 ああ、残骸。

 あたしの口の中で。

 あたしの腹の中で。

 パノプティコン、それからパルチザンの理論。今のあたしは、あの蛙の足と何が違うのだろうか。まあ、少なくとも、蛙の足はこんなことは考えないだろうが。とはいえ、それが大した違いであるとも思えない。生きている、死んでいる、死んでいる、生きている。もしも、あたしが、あの蛙の足と何も違わない何かならば。あたしは、今、一体誰の腹の中で踊っているの? あたしは、今、誰の胃袋の中で、何を溶かされているの?

 そんなことを、真昼がぼんやりと考えているうちに。シャワルマ等々の調理が終わったらしく、アミーンがまたもや料理を持ってきた。今度は、大皿が一枚と取り皿が二つ、それにアミーンの顔ほどの大きさもあるナンが大量に乗ったバスケットを持ってきていた。そして、そのバスケットも確かに大きいのだが……大皿の方は、そのバスケットを超えるほどの大きさであった。

 普通の大皿三枚分くらいはあるだろう、直径にすれば一ダブルキュビトくらいあるのではないかという大きさだ。まあ、それはさすがにいい過ぎであり、恐らくは九十ハーフディギトをちょっと超えるくらいだが。大して変わらないか、とにかくそれは巨大な皿であった。ちなみに、大皿にだけ「枚」という数詞を使っているのは、今までの皿はボウル状というかなんというか、立体的なところがあったが。この大皿については、ほとんど真っ直ぐ、ほぼ真っ平らな皿だったからである。

 今度もやはり「ソレ、ソレ、ドカシテドカシテ!」と言ってテーブルの上にある物をデニーと真昼とにどかさせようとするアミーン。こういう時に率先して動くわけがないデニーちゃんであるので、仕方がなく真昼がどかす。

 取り皿は、まあ、置いといていいとして、サラダが入っていた皿とスープが入っていた皿とを重ねて取り上げると、さっとテーブルからどかしてスペースを作る。アミーンはそこに、どかーんとでもいう感じで大皿を置いた。

「あみーんすぺしゃるダヨー。」

「アミーンスペシャル?」

「ソウソウ、あみーんすぺしゃる。」

 その横に、ぼすとんという感じでバスケットを置いてから。アミーンは、その視線、テーブルにおけるデニーの目の前の部分に向ける。「ナニヨナニヨー、ふーつサン、小サイオ皿全然使ッテナイジャナイノー」「あー、今日はねー、真昼ちゃんがすっごくすっごくすーっごくお腹すいてるみたいだから! デニーちゃんは、食べないでいいかなーって。真昼ちゃんが全部食べちゃう感じだね」「ソーナノー? ジャア、ふーつサン、小サイオ皿イラナイネー」。アミーンは、そう言うと、デニーの取り皿をひょいっと取り上げてしまう。

 それから真昼の方を向いて「サナガラサンハ?」と問い掛ける。真昼は、虚を衝かれた形になって「え? えっと……」と、暫く自分が何を問われているのかが分からなかったのだが、やがて、そのことに思い至り「ああ、私も結構です」と答えた。「ケッコウ?」「あの、大丈夫です、いらないです、小さいお皿」「ハイハイ、ワカタヨワカタヨー」。

 アミーンは、真昼の前にあった取り皿も取り上げてしまうと。サラダの皿とスープの皿と、その二つの皿、またもやひったくるように真昼から受けとって。そして、建物の方にすたこらさっさと戻っていってしまった。

 さて、アミーンスペシャルとは何かといえば。要するにミックス・グリルのことだった。大皿に、様々な料理が乗っているのだ……真昼が、焦がれて焦がれて、飢えて渇して欲して、今にも狂いそうになっていたところの肉料理が。

 主に五つの料理、五つの部分に乗せられていた。主に、と書いたのは、肉料理と肉料理との間、ところどころに、六つ切りほどにしたトマトだの、種を抜いたサンバーニーだの、生のままそのままのシシエキガラシだの、そういった野菜がアクセントのように置かれていたからだ。

 真ん中に一つの料理があって、それを中心にして四方に一種類ずつ料理が配置されている。まず、真ん中に置かれているのが、先ほど肉塊から削り取られていたシャワルマだ。ただし、シャワルマだけがそこにあるというわけではない。その下、なんだかべとっとしたペースト状のものが敷き詰められていた。

 これはハモスと呼ばれている、アイレム教徒の中では一番ポピュラーといっても過言ではない料理である。基本的には、茹でたひよこ豆に、とろとろになるまで磨り潰した胡麻、柑橘系の果物の果汁、それにニンニクを加えたものをペースト状にする。そこにサンバーニー・オイルをたっぷりとかけたという料理なのだが。単純な料理のように思えてかなり奥深く、アイレム教徒の家庭には、それぞれの家庭の味のハモスがあるくらいである。もちろん、このアミーン・マタームにも門外不出のレシピがあり、特に重要なポイントは、胡麻はパヴァマーナ・ナンディの河岸に生えている野生の赤胡麻だけを使うこと、それに、隠し味として、麹で発酵させたラカラカ豆のソースを少しだけ混ぜること、この二点だ。

 とにかく、そのようなハモスの上にシャワルマが置かれている。このハモスはシャワルマと合うように少しだけ味を濃くして作られているもので、ペーストをたっぷりと肉と混ぜ合わせて、それをナンに挟んで食べるという、単純でありながら贅沢な料理なのである。

 さて、その他の料理も見ていこう。まずは、アミーン・マタームが特別に配合したマサラをベースにした調味液にしっかりと漬け込んだ肉を、大胆にざく切りした物、それを串に刺して焼いたシークケバブ。次に、アーガミパータ風ハンバーグともいわれるチャプリケバブ、これはマサラを混ぜたひき肉を平べったいパテにしてラティフォラの果汁で香り付けした物だ。それからカフテ、微塵切りにしたヤドリネギとひき肉とを混ぜた物をミートボール状にして真ん中に卵を入れる、これを調味液でじっくりと煮込んだ物である。最後の一品がジャナ・ティッカで、これはマサラを混ぜたヨーグルトでマリネした柔らかい肉を、様々なハーブで香り付けし、弱火で時間をかけてローストした料理だ。

 皿に盛るときの都合上、シークケバブは串から抜かれて、ごろごろとした立方体の肉の状態で置かれていたが。とにかく、こういった、アミーン・マタームのほとんどの肉料理を味わうことが出来る特別なケバブ・セットだったのである。

 もちろん。

 こんな贅沢な一皿。

 我慢が出来る。

 真昼ではなく。

 もう、この料理がなんなのかということを聞く余裕さえなかった。なんという名前の料理で、どのような調理方法で。そもそもこの肉はなんの肉なのか、そんなことさえ気にならないような有様だった。とにかく、真昼は、一匹の哀れな草食獣に襲い掛かる肉食獣のごとく、猛然と皿の上の料理に取り掛かった。

 まず、一番手近にあったジャナ・ティッカに取り掛かった。手のひらで掴めるだけ掴んで、口の中に放り込む。獣の匂い、獣の味、ざりざりと舌の上を鑢で削るような、そんな荒々しい動物の味が広がった。マリネされた肉は柔らかく、二度、三度、奥の歯で噛み潰しただけで飲み込むことが出来た。その次に手を付けたのはカフテ、卵を中心に仕込んだカフテは、一個だけでも口が一杯になってしまう。その一杯になった口を、無理矢理に閉めて、がじゅりがじゅりとカフテを咀嚼する。中に入っていた卵が肉の味と混ざり合って、顔中が熱くなるほどの生命を感じる。かなり大きいサイズのチャパリケバブを右手で掴んで、端からがじがじと噛み取っていく。ふうっと鼻先で匂うラティフォラの香りは、あたかも死に絶えた動物のための葬送の香料のように香り高い。四番目に手を伸ばしたのはシークケバブ。一気に五個の断片を口の中に入れると、ろくに噛むこともなく、ほとんど原形のままで飲みくだす。ああ、喉の奥に死骸が転げ落ちていく快感。胃の中に、死んだ動物の残骸が墜落していく快感。

 ここまで食べて……真昼はようやく余裕が出てきた。売り物の女と初めて過ごす夜に、一度射精した童貞の少年ほどの落ち着きが出てきた。そして、自分が食い殺さんばかりに体を傾けていた大皿の横、置かれていたナンのバスケットに気が付いた。

 ああ、そういえば、ナンだよナン。この皿に乗っている物はナンに乗せて食べる物なんだよ。いや、まあ、正確にいえば、このナンはお好みでといった感じで、使いたければ使えばいいという感じだったのだが。とにかく真昼はナンに手を伸ばした。

 最後に残っていたのは、例のシャワルマ・ハモスで。確かに、これは、ナンに乗っけて食べた方が美味しい物であるように思えた。だから、真昼は、ナンにそれを乗っけて食べようとしたのだが……その前の段階、むやみやたらとでかいナンを割いて食べやすい大きさにしようとした段階で、はっと気が付いた。

 えーと、これ、どうすればいいの? 確か左手は使っちゃいけないんだよね。右手だけでちぎって食えってこと? え? え? どうやって? それに、仮に、ちょうどいい大きさにちぎれたとして。今度はそのナンの上にどうやって料理を乗せればいいわけ? いや、分かんない分かんない、全然分かんない。

 ちなみに正解の食べ方であるが。ちぎり方としては二通り、小指・薬指・中指でテーブルの上にナンを固定して、人差指・親指でナンをちぎるという方法。あるいは、小指・薬指でテーブルの上にナンを固定して、中指・人差指・親指でナンをちぎるという方法。このどちらかである。また、ナンの上に料理を乗せる方法だが、そもそもナンという物は、上に料理を乗せるための物ではない。料理を挟み込む物なのだ。

 ただ、このような食べ方に真昼は思い至らなかった。なんだかんだいっても非常に育ちが良い真昼には、テーブルにナンを押し付けるなどという発想はなかったのである。もしも取り皿があれば、その取り皿に押し付ければよかったのであるが(というか普通はそうやって食べる)……その取り皿は、既に片付けられていた。

 暫く。

 ナンを右手で持ったまま。

 思案曲耳していたのだが。

 やがて。

 とうとう全部のことを諦めて。

 デニー、に、こう問い掛ける。

「これ、どう食べればいいの?」

「どうって? もぐもぐって、ふつーに食べればいいんだよ。」

「あのね、あたしは、これを、ちょうどいい大きさにちぎって食べたいの。ちょうどいい大きさにちぎって、これをその上に乗せて、そうやって食べたいの。でも、右手しか使っちゃいけないんだろ? お前、言ってたじゃねえかよ。アイレム教だかなんだか知らないけど、ここら辺の宗教でそう決まってるって。あたしがお前に聞いてんのは、普通に食えばいいだとかなんだとか、そんなクソどうでもいいことじゃなくて、どうすれば右手だけでこのナンをちぎれるのかってことだよ。どうすりゃ、そうしてちぎったナンの上にこれを乗せられるのかってことなんだよ。」

 若干、かなり。

 イラつきながら。

 真昼はデニーに。

 そう言った。

 もちろんデニーはそんな真昼のイラつきなんか全然お構いなしだった。というか、そもそも興味がないというか。とにかく、ご機嫌そうにけらけらと笑いながら「あははっ、そーゆーことだね!」と言う。それから、んー、という感じ。可愛らしく首を傾げて、ちょっとばかり何かを考えていたようだけれど。やがて、何かを考え付いた……というよりも、考えることが面倒になったとでもいうようにして。真昼に向かって言う「あ、じゃーあー」「なんだよ」「デニーちゃんがちぎってあげるよ」「は?」「それから、そこのお料理を乗せて、真昼ちゃんに食べさせてあげる!」。

 真昼は、デニーが何を言ってるのか理解出来なかった。いや、意味内容は理解出来たのだが、なぜそんな意味不明な提案をしたのかということ、それが全く分からなかったのだ。あんたが、あたしに、食べさせる? いやいやいや、あんたさ、その提案、あたしがナイスナイスすると思ったの?

 「ナイスナイスする」というのは「ある物事に対して積極的に肯定の意を示すこと」という意味であるが、それはまあいいとして。そんな風に嫌悪寄りの困惑を感じているところの真昼に、デニーは、すいっと右手を差し出した。「ほらほらー、デニーちゃんが全部やってあげるよー」と言いながら、その右の手のひらをぐっぱっぐっぱっとする。

 真昼は、一瞬、思いっ切りテーブルをひっくり返してやろうかとも考えたが。すぐに考え直して、はーっと深く深く溜め息をついた。テーブルをひっくり返しても、こいつは痛くも痒くもないだろう。一方で、あたしは、テーブルの上にある料理が食べられなくなる。となれば損をするのは自分だけだ。

 いかにも嫌そうに、ちっと舌打ちをする。その後、「お前さ……」と言いかけて口を閉じる。こんなやつに自分の食べる物を触らせるのは、肝臓の中に直接嫌悪感を注ぎ込まれているんじゃないかと思うくらいに嫌悪感を抱かせる考えであるが。ただ、いつまでもいつまでもこのままでいても埒が明かない。いい加減に料理が冷めてしまうし、焼いた肉は暖かいうちが一番美味しい。

 他には。

 方法がない。

 だから。

 真昼は。

 仕方なく。

 差し出された右手。

 ナンを、手渡した。

 無言のままで、いかにも不快感を露わにしながら。一方のデニーはるんるんるーんっという感じで、そのナン、右手で受け取ると。「ちょーっと待っててねー」とかなんとか言いながら、いきなり、左手で、それをぶちーっとちぎった。思わず、また「は?」と声を漏らしてしまう真昼。それから、「いや」「お前」「ちょっと」「は?」「なに」「お前」「それ」「お前」「左手」と、一つ一つの単語が繋がらないままで言葉を続ける。

 「ほえほえ? どーしたの、真昼ちゃん」「どーしたのじゃねーよ!」、ようやく落ち着きを取り戻した真昼。なんの躊躇もなくナンを引っ捕まえているデニーの左の手のひらを指差しながら続ける「お前、左手、使ってんじゃねーか」「ええー? ああ、そーだね」「そーだねじゃねーよ! 左手、使っちゃいけないんじゃなかったのかよ!」「うんうん、そーだよ」「いや、いや、だから、今、お前、左手!」「んー、使ってるね」「どういうことだよ!」「どういうことって?」「使っちゃいけない左手を、なんでお前が使ってるのかってことだよ!」。

「あははっ! 真昼ちゃんてば、何言ってんのー?」

 既に、椅子から半分立ち上がって。

 わわーっという感じでデニーの方に身を乗り出しながら。

 ぎゃぎゃーと喚き散らす真昼に、デニーは、こう答える。

「だって、デニーちゃんそーゆーの気にしないし。」

 いや、気にしないって……こういうのって、お前が気にする気にしないじゃなくて、周囲が気にするかしないかだろ……と、思ってしまった真昼であったが。そもそも、そうやって周囲の顔色を窺わなければいけないというのは、周囲の協力がなければいけない弱者の話なのだ。デニーのような絶対的強者には、そのような卑屈で諂偽な阿世の所業は必要ない。

 それでも、真昼は、気が収まらなかった。いかにも不服そうな顔をしたままで、半分立っていた体を座らせると。「お前が気にしなくても、あのおっさん……アミーンさんが気にするだろ」「ふふふーっ! 気にしないよーっ! だって、ここ、アーガミパータの外から来たお客さんもたーっくさん来るお店だもん。アイレム教徒のこと、あんまり詳しくないお客さんだって全然来るし。左手使ったくらいじゃあ、アミーンちゃんだって怒らないよ!」。

 デニーの言葉に、真昼は、ぎーっと歯を剥き出しにして。めちゃくちゃ納得がいっていない時に人間がする例の表情になる。「じゃあ、なんで、あたしに、左手は使うなっつったんだよ」「だって、真昼ちゃん、そーゆーの気にするじゃーん」。

 そういいながら、デニーは。真昼の一口にちょうどいい大きさにちぎったナンを左手に持って。右の手で、その上に、シャワルマ・ハモスを乗せていく。これもまた、こぼれ落ちるわけではないがボリュームはたっぷりというぎりぎりのラインまで乗せて。それから、そうやって出来た物を、真昼に差し出してきた。

 「はい、出来たよ真昼ちゃん」と言う。その後で、小悪魔じみた可愛さによって、可愛い子ぶってでもいるかのように小首を傾げて。にぱーっと笑いながら「あーんして」と言う。

 今までのやり取り、何もかもが憤懣やるかたない真昼であったが。ただ、これ以上は何を言っても無駄だということは分かっていた。結局は、何もかも、デニーの言う通りなのだ。

 だから。

 真昼は。

 デニーが、そう命令するままに。

 デニーに向かって。

 その口を、開ける。

 デニーの手が届くように、限界までテーブルに身を乗り出して。それから口を開く、開いた口の大きさは、あまり大き過ぎるほどではないが中に物を入れるためには小さ過ぎない程度。目は開いたままだった。せめてもの抵抗というか、不快感の表明というか。睨み付けるような目つきの悪さで、デニーから目を逸らさない、じっと見つめ続ける。完全な悪意とともに。

 一方のデニーは、「えっへっへー」とかなんとか言いながら。何が楽しいのか分からないが楽しそうに、何が嬉しいのか分からないが嬉しそうに、真昼に向かって左手を近付けてくる。不浄の左手、汚穢の左手。悪魔の、左手。シャワルマ・ハモスを乗せたナンを持っている指先が、次第次第に、距離を、接近させてきて。蛆虫のような小指、薬指、中指、人差指、親指。そして、とうとう、真昼の舌先にまで辿り着いた。

 デニーの。

 デニーの。

 指先は。

 すごく。

 すごく。

 濁っていて。

 透明で。

 ああ。

 それに。

 まるで。

 氷みたいに。

 邪悪。

 真昼は、そっと口を閉じた。まるで、罠にかかった悪魔を、月の光で出来た檻の中に閉じ込めるかのように。唇と唇とで、デニーの指先を挟み込んで。柔らかく、そっと、傷付けないように、歯の先で噛む。舌先がどろどろと溶けかけた蛞蝓みたいにしてデニーの指先を這い回っている。

 ああ、これが、この男の味。はははっ、なんだか笑ってしまいたくなるくらい予想通りの味だった。それは死の味だ。腐敗の味、枯渇の味、真昼のインファンティアに対して砂糖か何かのように甘ったるく甘えてくる破滅。純粋な、純粋な、悪そのもの……まるで崩壊する世界のように。

 氷。

 氷。

 窓の外。

 気まぐれにカーラプーラを破壊している。

 カリ・ユガの災害を眺めていた、あの時。

 二日酔いの、真昼に。

 デニーが差し出した。

 美しい氷。

 それと。

 同じように。

 この男の指。

 は。

 冷酷。

 真昼の口の中で、デニーの指先は、その指に捕まえていた物を離した。それを置き去りにしたままで、デニーの指先は、静かに静かに退いていく。真昼の舌先と愛撫を交わし合いながら、指の腹で唇に触れて……するりと悪魔は、閉じ込められたその檻から逃げ出した。閉じ込められていたわけではない。他愛もない遊戯、ただ、ただ、戯れていただけ。

 口の中に残されたのは、シャワルマ・ハモスを乗せたナンだけだった……いや、だけだっつーか、そもそもこれを真昼ちゃんに食べさせるためになんやかんやしてたわけなんだけどね。

 真昼は、フードの奥、緑色をしたデニーの目から目を逸らすことなく。凝視するみたいに見つめ合ったままで、ナンを咀嚼し始めた。まずいえることは……めちゃめちゃ油だということだ。まず、シャワルマ自体が動物性油脂の塊のようなものだ。シャワルマというのは、調味液に漬け込んだ肉を薄くスライスした物、それを重ねて重ねて一個の塊にして、焼く。こうして出来た焼き肉を、今度は細かく刻んだ料理であるが。アミーン・マタームでは、特に油々した、脂肪たっぷりの部分を選んでいるようだ。そして、それに、べったりたっぷりとハモスが覆いかぶさっているわけだが。そのハモスがまた、植物性油脂の塊のような物である。ハモスには、これでもかというほどサンバーニー・オイルが使われているのだ。

 そういった油が、天下無双の尋常じゃなさでナンに染み込んで。奥の歯で噛み締めると、柔らかく焼き上げられた小麦粉の生地がじわりと溶ける。そう、ナンだ、このナンなのだ! これは、読者の皆さんもご経験があると思うのだが、焼き立てのパンと時間を置いたパンとでは、その味が全然違う。焼き立てのパンは、口に含んだ時、豊饒な穀物の味、太陽そのものが香ばしく焼き上げられたかのような甘い味が広がる。口の全体に、打ち鳴らされた鐘の響きのように広がっていくのである。時間を置いたパンは、オーブンか何かで温め直したとしてもそのような味はしない。時間を置いたせいで、そういった香りが、完全に消えてしまっているのだ。そして、今、真昼の口の中にあるこのナンは……まさに焼き立てのパンと同じような味がした。

 かりかりと歯の先で破ける外側の部分は焼き菓子のように甘く、それでいて、僅かに焦げたような味、舌の上で踊る炎のような楽しい苦みがある。一方で、内側の部分。最上級の絹布でさえ敵わないかのような繊細な柔らかさ。噛むまでもなく舌先でほどけていく繊維、その一本一本が……あたかも、夕日を散乱させて、誘うような金色に輝く小麦畑の光景であるかのようだった。その小麦畑の光景が、そのまま、繊維の中に閉じ込められているかのようにかぐわしい。それから、恐らくはヨーグルトのような物を入れているのだろう、どこか、洪水のように濃厚な、舌の表面をくすぐるような、そんな乳製品の味がした。

 ところで、もちろん、真昼はナンだけを食べたわけではない。ナンの上に乗せられていた、というか、真昼の口の中に入った時にはナンに包み込まれるようにして……シャワルマ・ハモスだ。シャワルマの周りをコーティングするかのようにくるんでいるのがハモスで、これは、なんというか、油たっぷりのピーナッツバターみたいな感じだった。もちろんその味は菓子のようなスウィーティではなく感傷的なほどのソルティではあったのだが。サンバーニー・オイルの青々とした油。豆をそのまま砕いたみたいな、ある意味では生々しいほどの豆の味がするペーストと混ざり合っている。舌の表にはざらざらとした感触、荒く挽いた豆がわざとそのまま残っているような触感だ。

 そして、その奥に……シャワルマの味! 肉の繊維と肉の繊維と、それを歯で噛んだ時にあふあふと溢れ出る旨味よ! 肉の旨味というのは植物の旨味とは全然違っている。化学的な物質という意味では同じものかもしれないが、とはいえ、舌の上で歌うその歌は、全然、全く、違っているのだ。野菜の旨味は軽やかな口笛にも似たメゾソプラノだが、一方で、肉の旨味は雷鳴のようなバリトンである。肉の旨味には、料理を、重力によって、この世界の上に釘付けにする魔力がある。

 それだけではない。肉料理の満足感を左右する絶対的なヴァニティ・ポイントといっても過言ではないもの。肉を噛み締めた時に、ずるりずるずると溢れ出る脂肪だ。シャワルマは、この脂肪を最大限味わわせるために、肉と肉とを重ねる際、その合間に脂身を挟んでいくのだが。そもそも脂肪たっぷりの部分の肉を使っているので、より一層、脂肪の感じが際立っているのだ。長時間火に炙られて、とろりとろとろじっとりと溶け出した脂肪。それが、真昼の舌の上、溶けた飴細工のように濡らしていく。甘い……糖分の甘さではない。脂質の、抱きついてきて、全身くすぐってくるような、鈍く全体を塗り潰す甘さ。

 この、三つの。

 味が混ざって。

 真昼の口の中で。

 どろどろになるまで。

 咀嚼される。

 ああ、これは。舌の上、右側と左側とが痙攣する。きりきりと針で突き刺されているかのように痺れる。あまりにも美味しい物を食べた時に、そのおいしさに耐えられなくなったのようにして舌が痛むあの感覚だ。脳髄が恍惚と痺れる、肉体が、物質として、科学的に、これを食べることを望んでいたのだ。肉、肉、肉の油脂。それこそが、真昼の欲望していた物だったのだ。

 良い、良い、とても良い。この感覚は、ただただ美味しいというのを超えていた。舌の上の感覚、味覚としての美味しさというよりも、脳髄そのものが快感を感じているといった方が正しいかもしれない。

 でも……足りない。まだ、まだ、全然足りない。だって、たった一口食べただけだから。だから、真昼は、ごくりと喉の奥の音を鳴らしてそのどろどろとした塊を嚥下すると。デニーの右目、デニーの左目、嫌悪の表情で見つめたままで。あー、と、まるで、間抜けのように、また、その、口を、開いた。「あははっ!」「真昼ちゃんてば!」「くいしんぼーさんなんだから!」と言いながら、デニーは、左手でナンを引きちぎって。その上にシャワルマ・ハモスを乗せてから、それを、真昼の口に運んでいくのだった。

 個人的には、別に左手を使っても問題ないと分かったのだし、普通に自分で食べればよくない?と思わなくもないが。まあ、そこら辺は真昼自身が決定すべきことなので口出しはしないでおこう。さてさて、もう二口、三口、食べてから。真昼が、口を開けて、次の一口が口の中に運ばれているのを待っている時に。二人が座っている席に、またもやアミーンが近付いてきた。

 なんだなんだ、もう次の料理を運んできたのか? さっき運んできてから一分も経ってないぜ? と、思ってしまった真昼であったが。次の一口をデニーに食べさせて貰ってから、ふいっとアミーンの方を見ると。どうも、さっきまでとは様子が違った。さっきまでは、スープにせよサラダにせよ肉料理にせよ、とにかくでかい皿を持ってきていたのだけれど。今度のアミーンは、なんだか小さい皿、皿というよりも小鉢みたいだ。

 テーブルのすぐ横のところまで来たアミーンは、もむもむと食べている真昼のことを見ると「アーッ!」と、ちょっとびっくりしてしまうような大声を上げた。驚いた真昼が何も言えないままで、目をぱちりと見開いていると。「サナガラサーン、モウ食ベテルー!」と、また大きな声で叫ぶ。

 真昼としては、テーブルの上に並べられた料理、特に食べてはいけないともいわれていないのだから、そんな感じで非難される筋合いはないだろうという気持ちだったが。なにぶん、口の中に物が入っていたもので、その気持ちを言葉にすることは出来なかった。

 「サナガラサーン、本当ニ意地汚イネー」とかなんとか言いながら、アミーンはテーブルの上に二つの小鉢を置く。ええー? 意地汚いとまで言われることか? 真昼は、なんとなく釈然としない気持ちになってしまったが。それでも、口の中の物をもむもむと咀嚼し続けながら、小鉢の中に入っている物を覗き込んだ。

 左側の小鉢には、緑の液体が入っていた。どことなくべっとりとしていて、野菜をそのままミキサーにかけた物という感じだ。右側の小鉢には白い液体が入っていて、こちらはさらさらとしている。ただ、色とりどりの野菜の微塵切りが浮かんでいる。アミーンは、左側の小鉢を指差して「コッチガ辛イノ」、右側の小鉢を指差して「コッチガ辛クナイノ」と言うと、真昼がなんらかの反応を示す前にさっさといってしまった。

 口の中の物、ごくん、ようやく飲み込むことが出来た。うーん、基本スタンスが「雑」だな、と思ってしまった真昼であったが。結局、これはなんなのだろうか。このまま食べるやつか? いや、この大きさだと調味料的な物と考えた方がよさそうだが、そうだとすれば何に使えばいいんだ?

 まあ、こういうのは考えてどうにかなるものではないだろう。料理の食べ方というのは、知らなければどうしようもないのだ。なのでデニーに聞くことにする。真昼は、小鉢から、ちらと目を上げると。端的に「これ、なに」と聞く。

 「えーとねーえ、そっちの緑のがチャツネで、白いのがライタだね」「チャツネって、あの、蟻とか潰したやつのこと」「うんうん、そーだよ。まー、それには蟻は入ってないけどね。青易辛子のチャツネだね! さぴえんすにはねーえ、とおーっても辛いと思うよお」「で、こっちのは」「ライタってゆーのは、ヨーグルトに色々なお野菜をざくざくしたやつをいれたやつだね。本当はサラダなんだけど、ほら、ヨーグルトって、辛い物と一緒に食べると辛くなくなるってゆーじゃないですかー。だから、辛い物にちょーっと入れる調味料的な感じで使われることもあるんだよねー」。

 ほんとこいつなんでも知ってるな、と思ってしまった真昼であったが。口には出さないで「ふーん」と答えた。それから「これ、何に使うの」と続けて質問する。「なーんにでも使うよお」「何にでも?」「そーそー、なーんにでも。このお皿の上に乗っかってるやつに使ってもいーし、それに、これから出てくるお料理に使ってもいーの。んーとねーえ、頼めばおかわりもくれるから、真昼ちゃんの好きに使えばいいよー」。

 「へえ、そう」と答える。この肉料理は……これだけで完璧なバランスだ。それに、正直な話、真昼は、レストランで客の好みに合わせて味を変えるというのがあまり好きではない。油の量を選べるラーメン屋とか、辛さの度合いを選べるカレー屋とか。あるいは、「こちらのトリュフをお好きなだけおかけ下さい」とかも駄目なのだが、そういうの全部そっちで決めて欲しいと思ってしまうのである。そちらが考える完璧を食べにきたのだから、その完璧な状態で出して欲しい。こちらの希望でぶれを出さないで欲しい。というか金を払ってまで色々と悩みたくないのだ。

 ただ、とはいえ、せっかく出された物なのだから食べないというのももったいないっすよね。ということで、真昼は、ちょっとだけ食べてみることにした。何かにつけて食べる物ということで、どれにつけて食べようかと考えてみたのだが、物体として一番しっかりとしている、固形物感が強い、それにシンプルな味付けをしているシークケバブにつけることにした。

 シークケバブを一つ取って、まずはチャツネの方につけてみる。べっとりとしていてちぷちぷとディップさせただけでも十分な感じだったが、せっかくなのでシークケバブの上に人差指の先でちょいちょいと乗っけてみる。

 こぼさないように急いで口に放り込んだ。瞬間、「ぐ、ぐがっ……」と喉の奥から呻くような声を上げてしまった。ぐ、ぐわー! 辛い辛い辛い! とにかく辛い! いや、っつーかこれいてーわ! 舌の上が痛い、皮膚がじりじりと焼け焦げる酸性の毒を塗られたように痛い。まさかここまで辛いとは思わなかった。

 ぬあー! 吐き出したい! でも、育ちが良過ぎてそういう下品なことが出来ない! せめてここがレストランじゃなかったらそうしてたかもしれないけど、仮にも飲食店でそういうことをするのは真昼に染み付いた上流階級の礼節が許さない!

 っつーかよー! これ、もう、味覚というよりも脅威だろ! あたしは辛さを楽しんでんじゃねえ、痛みにのたうち回ってんだよ! それなら、デナム・フーツのなんたらかんたらがどーしたこーしたしてそういう痛みを抑えるべきじゃねーのかよ!

 なんてことを考えながら、真昼はテーブルの上に慌てて視線を走らせる。じたばたとそこら中に手を伸ばして探す。水を、飲む物を、口の中のシークケバブを飲みくだすための物を。だが、このような状況になって、今、ようやく気が付いたのだが。そういえばテーブルの上には飲み物が乗っていなかった。

 真昼は、月光国という、綺麗な水がそこら中に溢れている国に生まれたので。レストラン等々でタダの水がすぐに出てくるような状況に慣れ切ってしまっていたのだが。ここはアーガミパータ、しかも西アーガミパータの乾燥地帯なのである。水はそのような扱いを受けていない。紛うことなき貴重品だ。

 こういう乾燥地帯には水売りという職業もあるくらいだ。綺麗な水を冷やして、蜂蜜や砂糖などを混ぜて甘くして。その中に柑橘系の果物の輪切りを入れて、コップ一杯いくらいくらで売るという仕事である。それにもちろん、飲食店でも、サービスで水が出るということはない。さほど高いわけではないが、別注文で頼まなければいけない物なのだ。

 まあ、ここは、パヴァマーナ・ナンディの河畔の街であるし。キャラヴァン・サライに噴水があったことからも分かるように、上下水道も整備されている。そこここに公共の水飲み場も設置されていて……とはいえ、西アーガミパータにおける習慣というものがあるのだ。習慣として、アミーン・マタームでも、飲み物を無料で出すということはない。

 デニーも真昼も。

 水を頼んでない。

 だからテーブルの上には。

 水が置かれていないのだ。

 真昼は、あまりの激痛に両手で口元を押さえながら。兎の尻尾を引っ掴むような気持で、テーブルの上のあちこちを探っていた視線をデニーに向けた。一直線の視線、射貫くような視線、真摯に何かを訴えかける視線。「真昼ちゃん、どーしたの?」「んんー! むむー! ぐぐー!」「あははっ! それじゃー分かんないよー!」。駄目だ、全然伝わんねえ。

 仕方なく、真昼は、とにかく口の中の物を飲み込むことにした。ここに至って、真昼は、チャツネをつける料理をシークケバブにしたことを後悔していた。シークケバブは、いかにも肉という歯応えを楽しむ料理なので、脂肪分が極力少ない赤身の肉を使っている。自然と、他の料理よりも飲み込みにくくなっている。

 くわーっ! 噛んでも噛んでも飲み込めねえっ! もちろん筋張っていて硬いというわけではない。歯当たりが心地よい噛み応えだ。それに、噛むごとに旨味を含んだ肉汁がたっぷりと出てくる。だが、今はそれどころではないのだ。とにかく、この、辛いやつを、なんとかしたい。

 くはっくはっみたいな感じになりながらも、真昼は、噛んで噛んで噛んで、やっとのことで飲み込むことが出来た。ただ、それでも口の中の痛みは治まらない。舌の上に、頬の肉に、上顎の裏側に、咽頭の入り口に。辛味の成分がこびりついてしまっているのである。なんとかして、これを洗い流さなくては。

 だから。

 真昼は。

 辛くなってしまっている口。

 はひはひとしながら。

 デニーに、こう言う。

「からっ、からっ……」

「ほえ?」

「これ、辛い……水、水……」

「あー、お飲み物だね!」

 デニーは、はいはいなるほどねー、みたいな感じ。自分の顔の前で、いかにも適当に右の手のひらと左の手のひらとをぱんっと打ち合わせた。それから「ちょーっと待っててね」と真昼に向かって言うと。建物がある方に向かって、そこそこ大きめの声で「アミーンちゃーん!」と呼びかけを行った。それに対して「ハイハーイ、今行クヨー」と、これまた適当な声が返ってきて。そして、建物の内側からひょっこりとアミーンが姿を現わした。

 ただ、こっちに来る気配はなかった。その場で「フーツサン、ナンカ用カ!」と問い掛けてくる。何か注文するんだろうなということが薄々分かっているのだろう。注文を聞くだけならばわざわざテーブルまで行く必要はない。そんなアミーンに、デニーは。口の横に開いた右手を当てて、声の方向性を定めるみたいなポーズをとってから「ヨーガズちょーだーい」と注文する。アミーンは「ワカタヨワカタヨー、スグ持ッテクヨー」と答える。

 店の奥に引っ込んでから、一分も経たないうちに、すぐにまた姿を現わしたアミーン。皿と同じ金属で出来たコップを一つ、珍しくお盆の上に乗っけて。繊細さの欠片もなくどすどすとこっちに歩いてくる。

 いや、お盆あるならなんで使わないんだよ! あんな阿呆みたいな持ち方しないでお盆に乗っけてくればいいだろ! と思ってしまった真昼であったが。突っ込もうにも、今の真昼はそれどころではない。激痛・イン・ザ・マウス、燃え盛るタングーの状態なのだ。なので、口を抑えたまま、アミーンが来るのを今か今かと待ち受けることしか出来なかった。

 机のすぐ横のところまでやってきたアミーンは、もっと丁寧に置けないのかよと思ってしまうような置き方で、どんっとコップを置いた。ただ、不思議なことに、コップのぎりぎりまでなみなみと注がれている内側の液体は、それほど乱暴に扱われても一滴たりともこぼれなかった。さすが匠の技というかなんというか、そういう技を磨くよりも繊細さを身に着けるほうが先では?

 つーか、この距離で見るとコップめちゃめちゃでかくない? なんかちょっとしたピッチャーくらいある。まあ、ぎりぎり片手で持てなくもないが……四人くらいでハイポール(知らん人はいないと思うけど一応書いておくとヴロキーのソーダ割りのことです)を頼んだ時に出てくる、やけに氷がたくさん入ってるピッチャーくらいの大きさがある。

 「ゴユックリスルトイインジャナイノー」とかなんとか言い残してアミーンは立ち去った。敬語ってそんな複雑な間違え方する? それはそれとして、真昼は、テーブルの上にコップが置かれるが早いが、それをひったくるみたいにして、両手で掴んでいた。がーっと口を開けて、その上で、ほとんどコップをひっくり返さんばかりの勢い。中の液体を注ぎ込んでいく。

 口の中に入ってきたのは……清涼といってもいいような、さわやかで冷たい牛乳の味わいだった。ヨーガズ、そう、ASKのアヴマンダラ製錬所、ミセス・フィストとの最初の会議の時に出されたあのドリンクである。牛乳にマサラを入れたというだけのシンプルな飲み物であるが、それでも、このヨーガズは、あの時に飲んだ物とは全く違う味わいだった。

 あの時に飲んだものは、確かにおいしかったはおいしかったのだが……なんとなく非人間的な味がした。要するに、あまりにも完璧過ぎたのだ。牛乳一滴・スパイス一粒さえ間違いなく配合された飲み物。一方で、今飲んでいるこのヨーガズは、かなり荒っぽいというかなんというか、ずがーっ、どばーっ、という擬音語でしか表現出来ないような大胆さがあった。

 どっちがいいとかそういうわけではないのだが、同じ飲み物でもこれほどに違いが出るとは。ヨーガズは、スパイスの配合によってそれぞれの家庭の味があるので、往々にしてこういう出来事が起こるのである。ちなみに、アミーン・マタームのヨーガズは、ガッヤナーナという特殊なスパイスをベースとして使っている。これは非常に高価なスパイスであり、舌の上で情熱的なフラメンコを踊るような不可思議な甘さを提供してくれる。

 と、まあ、そういうことはどうでもいいのだが。口いっぱいにヨーガズを含んだ真昼は、ぐわちゅぐわちゅと、勢いよく口の中を洗った。がうーがうー、少しでも口の中の辛さをとるためである。それから、ヨーガズを一つの塊にするようにして、喉の全体を洗い流すみたいに飲み込んだ。

 ああ。

 はわ。

 ほう。

 ふへ。

 これは、良い。

 ううう、良い。

 ようやく。

 真昼、は。

 落ち着く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る