第三部パラダイス #7

 真昼に向かってメルティ・シュガーのように甘やかに言葉したデニーは。その後で、また、くるっと反転した。真昼の方を向いていた体を、進行方向に戻したということだ。それから、とんっとんっとんっと、心躍るスプリングみたいにして跳ねる足先で歩いていく……ただし、その足は、もう、重力に囚われておらず、大地に縛られてもいなかった。

 まるで、そこに、階段でもあるかのようだった、目に見えない階段がデニーの進行方向に存在しているかのようだった。デニーの足は、道の表面から離れて、虚空を踏んでいたのだ。一段一段、確固とした踏み板を踏んでいくように。デニーの足は、何もない空間をのぼっていく。

 五段ほど。

 のぼり終えた時。

 デニーは。

 首だけで。

 振り返り。

「なーにやってるの、真昼ちゃん!」

 少し下にいる真昼のこと。

 見下ろして、こう、言う。

「早くおいでよう。」

 や、や、おいでっつったって。これ、どうするの? どうすればいいの? と、一瞬思ってしまった真昼であったが。その次の瞬間には、デニーが今までしてきたことを思い出していた。例えば、アヴィアダヴ・コンダでしたこと。ダコイティの結界を自分に都合よく捻じ曲げて、目には見えない椅子を作り出したこと。タンディー・チャッタンの上空に作り出した円盤。あるいは、あの饗宴の時に魔学的エネルギーによって作り出したところの、玉座へと向かう階段。

 なるほど、あのたぐいか、と思った真昼の目。すぐにそれを見ることが出来た。デニーの足元、階段の形。世界の内側に溶けていた何かが淡く淡く滲み出してきたような、本当ならば人間の目には見えないはずの何かを。

 感覚することが出来るならば逡巡する必要はない、普通の階段と同じなのだから。真昼はまるで躊躇うことなどなく階段に足を掛ける。当然のごとく、階段は真昼の体重の全部を支えて。いとも従順にその役割を果たす。

 デニーは、そんな真昼の様子を見ると、にぱーっと満足そうな笑顔を浮かべた。お気に入りのおもちゃを高いところから放り投げて、地面に叩きつけられて粉々になったそれを見て楽しそうに笑っている子供のような笑顔だ。それから、また、視線を進行方向に戻して。てっとったっとっという感じで階段を上がり始めた。

 真昼は、そんなデニーについていく。「ねえ」「なあに、真昼ちゃん」「どこまで上がっていくの、そのアミーン・マタームっていう店はどのくらいの高さのところにあるの」「えー? んーとね、カ・マスジドのちょっと下くらいのところにあるからあ……四百ダブルキュビトくらいのところかなあ。そこまで上がってく感じだね!」デニーは、人差指を顎のところにつけて。真昼の方に振り返ることはしないままで答えた。

 ちなみに四百ダブルキュビトがどれくらいの高さかいまいちイメージがつきにくい方もいらっしゃるかもしれないが。大体、人間の建築物でいうと百階建てのビルディングくらいの高さだ。いやいやいや、ちょっと待ってよ! そこまで階段でのぼっていかなきゃいけないわけ? それ、完全に死ぬやつだから。まあ、あたしはもう死んでんだけど、とはいえもう一回死んじまうやつだから。と思ってしまった真昼であったが。

 その次の瞬間に。

 ふっと。

 自分が。

 どこにいるか。

 分からなくなる。

 え? ちょっと待って。ここ……どこ? さっきまで、真昼の周囲はあれだけごちゃごちゃとしていたのに。右にも左にも上にも下にも、目に痛いほどきんきらきんに光る貴金属・宝石のたぐい。毒々しいほどの原色をこれでもかというほど取り入れた装飾品の数々が並べられた店舗、店舗、店舗の数々といった感じだったのに。たった今、真昼の視界に入ってきているのは、もう少しすっきりとした光景だった。

 まず建造物の数が激減していた。しかも、ただ数が減っていたというだけではない。一つ一つの建物が、美的で、精巧で、大きさも遥かに大きくなっていた。建物全体が美しいアラゼスクに覆われている。あたかも、人間など解くことも出来ないような数式をコンピューターに入力し、その結果として出力されてきた複雑な模様のように。一点を中心として無限に膨張していく幾何学的な乱舞だ。色とりどりの玉石を嵌め込んで描き出された図形、ステンドグラスで描き出された図形。そして、そのような図形を纏っている建造物自体が特別であった。

 今まで真昼が見てきた建造物とは、建築の精神が根底から異なっていた。つまり、重力によって縛り付けられ、大地によって固定された建造物とは全く違う物だったということだ。空中に浮かんでいるそれらの建物は……土台というものを気にしない構造をしていたのだ。

 それぞの建物が、一つ一つの建物が、まるで空に輝く星々のような形をしていた。例えば、真昼の右手、下の方に見えているあの構造物は、六芒星を回転体にしたような形をしていた。上の方に角が一つ出ていて、下の方にも角が一つ出ている。そして、その二つの角の間に、平行な円形が二つ並んでいるのだ。それらの円形は、それぞれが、中央部に向かうにつれて、星の中心へと傾斜していく。あるいは、あちらにある建造物は、幾つも幾つも球体が集まっていて、その一つ一つの球体が回廊らしき物で結び付けられている。球体は、その全体が美しいステンドグラスであって……その内部を覗き込むことが出来た。そのため、それぞれの球体にはそれぞれの役割があるらしいということが分かるのだが、真昼にはその役割というのがさっぱり分からなかった。

 それから、最も目立っているのは。あたかもこの街全体の上、冠しているかのように浮かんでいる円形の建造物だった。一本の曲線、城壁のようにさえ見える頑丈な造りのラインが、東から南へ、南から西へ、西から北へ、そしてまた東に戻って、一つの円になっているということだ。また、そのラインは、ただただ真っ直ぐに伸びているというわけではなかった。ところどころで捻じれて、ひねられて。元々上の面だったはずの面が、下の面になったり右の面になったり左の面になったりしているのだ。

 どうも他の建造物とは全く違う役割を果たしているらしい。なぜそう分かるのかといえば、そのラインの上、何人も何人も、ヴェケボサンの衛兵が歩いているのが見えるからだ。あちらに視線を走らせこちらに視線を走らせ……要するに、見張りをしているのだ。この建造物は、恐らく、衛兵が、文字通り街の全体、上も下も右も左も監視するための見張り台みたいな物なのだろう。また、そのラインのところどころには多角形の星みたいな建造物が接続されていて。もしかして、そういった建造物は、衛兵の拠点的な役割を果たしているのかもしれなかった。

 ちなみに、その建物の上を歩いているヴェケボサンについてであるが。明らかに、通常の重力の支配下にはいないようだった。ヴェケボサンは、上も下も右も左もなくぐねぐねと捻じ曲がっているラインの上を歩いていたのだが。頭が真下を向いていて、足は真上を向いているといった姿勢で平然としているヴェケボサンがいれば。真横を向いたまま真っ直ぐに歩いていくヴェケボサンもいたからだ。どうも、その建物においては……その建物の床がある方向こそが下であるらしい。大地がどの方向にあろうと、建物の方向に重力が働くようになっているのだ。

 とにもかくにも。

 真昼の周囲は。

 そういった、今までとは全然異なった。

 建物ばかりに、なっていたのであって。

 暫くの間、何が起こったのか分からずに呆然としてしまっていたのだが。やがて、はっと気が付いた。もしかして、もしかして……そう思いながら、自分の足元、というよりも、その足元よりも下に広がっている光景に目をやると。

 まるで。

 おもちゃ箱の中を。

 上から覗き込んで。

 いるかの、ように。

 大地は。

 遥か。

 遥か。

 彼方。

 真昼は「は?」と口ずさんだ。それから、少し意識が遠のいた。人間の肉体には、それがどういう状況であろうが、絶対に恐怖を覚えるというものがある。どれほど経験を積んだ人間であろうと、どれほど研鑽を重ねた人間であろうと、その恐怖を恐怖しないということは出来ない。もちろん、幾分か、それに順応するということは出来ないわけではないが……それでも、その恐怖を、完全に消し去るということは出来ない。なぜなら、その恐怖は、まさに本能だからだ。例えば炎、例えば先端、例えば暗所、例えば閉所、例えば開所、それに、もちろん、高所。

 真昼はすぐさま視線を戻した。階段の上の方に、デニーの背中の方に。高いところ、高いところ……もちろん、真昼は高いところが駄目というわけではない。例えばアビサル・ガルーダに乗せられてスカハティ山脈の上空を飛行していた時は、恐怖感なんて全然なかった。単に高いところにいるというだけなら問題ないのだ。ただ、まるで予想していなかったタイミングで、急に超高層に放り出されてしまうと。認識が論理的に冷静さを構築する前に、本能が恐怖で殴りつけてくるのである。

 全身の血液が一瞬にして凍り付いたような、ぞうっと総毛立つ感覚。それをなんとか押さえ付ける。大丈夫、大丈夫、あたしはもう死んでるんだから。

 ぱっと見ただけだったけれど、たぶん、数十階建ての建物から見下ろしたくらいの高さはあった。や、や、もしかして百階くらいの高さはあったかも。

 ということは、ここは、もう下の階層ではなく上の階層だということだ。そんな、馬鹿な! あり得ない、だって、あたし、せいぜい十段かそこらしか階段をのぼっていないのに! 一体どうやってここに? いや、そんなことは……問い掛けるまでもないことだった。

 階段を上がり続けるデニー。その背中に向かって、同じように階段を上がりながら言う。「ちょっと」「なんですかー」「あんたがやったの」「んあー、何をですかー?」「これ、これだよ。さっきまで、ずっとずっと下の方にいたはずなのに……」そこまで言ってから、真昼はまた足元に視線を向けてみた。先ほどよりも随分と用心深く、薄目でちらっと見るくらいだったが。それでも、やっぱり、ひええええええええっとなってしまった。くらりと一瞬だけ眩暈がして、慌てて視線を戻す。

 「え? デニーちゃんがしたってどーゆーこと?」「だーかーらー、あんたが何か魔法を使って、瞬間移動か何かしたのかって聞いてんの」「あーあー、そーゆーことね!」。両方の脚、階段をのぼり続けながら。デニーは、腰から上だけ、真昼の方を振り返った。それから、両手で口を覆うようにして、くすくすと声を立てて笑う。「違うよっ」「は?」「デニーちゃんはあ、なーんにもやってませーんっ」。

 「じゃあ、なんでこんなところに……」そこまで真昼が言うと。その言葉を遮るみたいにして、デニーがぴんと人差指を立てた。その人差指を上に向けて、ちっちっちっと振りながら言う「断層を通ってきたの」「断層?」「空間と空間と、ざくーって切れちゃってるところだよ。あっちにある空間と、こっちにある空間と、本当は繋がってるはずだったんだけど、ばばーんって感じですっごいすっごい力がかかっちゃって、ばらばらになっちゃったってことだね。今は、あっちとこっちとに分かれちゃってるんだけどお。ほんとーは一つの空間だったから、移動可能な通路として結び付けられてるんだよお。だから、あっちの端を通り過ぎると、こっちの端に辿り着くってゆーわけ!」。

 なるほど、つまり……下の階層から上の階層へと繋がっているルートのうちの一本を、デニーは知っていて。そこを通ってきたということだろう。真昼はそう思った。「ティールタ・カシュラムにはそーゆー通路がいっぱいいっぱいあるからね。それを使えば、あーっという間に移動出来ちゃうってわけ!」。そう言ってから、デニーは、ほんの少しだけ首を傾げて「んー、まー、ちょーっとだけいじくったりはしたんだけどね」と付け加えた。

 実は……そのデニーの言葉から分かるように、真昼の推測は半分しか当たっていなかった。下から上へと向かうルートは、先ほど真昼がなんとなくそうなんじゃないかと考えた通り、かなり限られた本数しか存在していない。そして、そのうちの一本がこんなバーザールのど真ん中にあるわけがないのである。

 ただし、とはいえ。ティールタ・カシュラムではそれぞれの断層と断層とがある程度は結び付いているのである。これは、何か固いものに圧力をかけて実際に罅割れを作ってみれば分かると思うのだが。大体の罅割れは、一本の巨大な罅割れから枝分かれする細かい罅割れなのだ。ということは、その巨大な罅割れから枝分かれした罅割れに移動することが出来ないというわけではない。

 巨大な罅割れは、巨大な罅割れというだけあって、ティールタ・カシュラムの中心部を貫くように伸びている。無論、バーザールの上空にも存在している。デニーは、要するに、その巨大な罅割れから、上の階層へと向かう罅割れに抜けたのだ。

 ただ……これは簡単に出来ることではない。なぜというに、そういう枝分かれした罅割れの大部分は非常に細かいものだからだ。中にはルートとしてきちんと通れる程度に開き切っているものもあるが、デニーが通った罅割れはそうではなかった。

 正確にいうと、巨大な罅割れから上へ向かう罅割れまでに抜けるためのルートが、極端に狭くなっていた。巨大な罅割れに入ることも出来るし、上へ向かう罅割れから出ることも出来るのだが、その間を通っていくことはほぼほぼ不可能だったのだ。

 そこで、デニーは、少しばかり力を使った。具体的に何をしたかといえば、罅割れに、軽く、魔学的エネルギーの洪水を流し込んで。それによって、一時的にルートを広げたのだ。

 そうして。

 デニーと真昼とは。

 この高み、まで。

 やってこられた。

 と、いうことだ。

 まあ、こういった詳細について真昼は分からなかったし、それに分かる必要もなかったのだが。なんにしても、いつの間にか上の階層にいたのだということには間違いないようだった。

 と、いうことは。アミーン・マタームとかなんとかいう店はすぐ近くにあるということだ。一体どれがその店なのだろう。真昼はあちらこちらをきょろきょろと見回してみる。向こうにある、あちらこちらが奇妙に欠けたような形をしている七面体の建物だろうか。あるいは、向こうにある、青イヴェール合金で出来た巨人の飴玉みたいな建物だろうか。

 いや、違うらしい。どれもこれもデニーは通り過ぎていく。きっと……その店は、他の建物よりもずっとずっと目立つ姿をしているに違いない。だって、その店は、フラナガンのおすすめの店らしいのだから。

 真昼は、その男のこと、デニーから聞いた範囲でしか知らなかったが。それでもコーシャー・カフェというギャング、その幹部の一人だということくらいは知っている。そして、そのコーシャー・カフェは、デニーという化け物が幹部をしている組織なのだ。それは、デニーは序列三位であり、フラナガンは序列七位であるらしいが。とはいえ、そのくらいの違いはさして変わることではないはずだ。きっと、そのフラナガンという男も、デニーと変わることのない化け物であるに違いない。

 そんな化け物のおすすめの店が。

 普通の店であるはずがないのだ。

 そのようなことを考えながら、蝶々のように落ち着かなく視線を彷徨わせていた真昼は。ふと、とある構造体に目を留めた。それは、なんというか……明らかに普通の構造体ではなかった。

 いや、違う違う。そういう意味じゃなくてね。確かにここら辺にある構造体はどれもこれも普通の構造体ではない。上も下もないような不可思議な構造体ばかりである。ただ、この階層においては、その普通ではない構造体の方がむしろ普通なのだ。むしろ……地上でよく見るような、一般的な箱型の建物の方が、そういった構造体の姿を全然見ないという意味で普通ではないのだ。

 そう、つまり、その構造体は。

 ごく普通の構造体だったのだ。

 もし、地上に。

 あったならば。

 本当に、なんというか……なんの変哲もないとはこういうことかという感じの構造体であった。いや、まあ、空中に浮いてるんだから変哲はあるのだが。それ以外の部分がということだ。

 ちなみに、その構造体のうち、建物の部分は、ちょっとした地面の上に建てられているのだが。その地面というのは、いかにも大地から引き剥がしたという感じ、ぼこりとした土の塊であった。建物が乗っている面は平面で、きちんと整地されているのだが、そこから下を向いている部分は、完全に抉り取ったばかりという感じだった。その地面の大きさが、大体、直径にして三十ダブルキュビトの円形。いや、ちゃんとした円形ではなく、そこここが凸凹とした、子供が書き殴ったような円形なのだが。

 そして、その真ん中辺りに建物が建っている。建物が建っているって重言になるのかな? まあいいや、とにかく、その建物というのが、ごくごく普通の一階建ての建物だった。四ダブルキュビトよりも若干低いくらいの高さ、十ダブルキュビトよりも若干短いくらいの長さ。そして、正面の幅は六ダブルキュビトくらい。面白味も何もない横長の直方体である。

 見た限りでは、煉瓦を漆喰で固めたアーガミパータではそこそこベーシックな建物のようだ。正面に大きく出入口が開いていて、右側と左側とに、それぞれ窓が幾つか開いている。それなりに大きい窓で、風通しはかなり良さそうだ。

 アーガミパータの建物には珍しく、出入口と窓とにはそれを塞ぐ物が付いていた。上から下ろして使うタイプのシャッターだ。ところどころが錆びついた剥き出しの𨪷で出来ている。

 そして、最も目立つ箇所は……そのシャッターの上に取り付けられた、でかでかとした看板である。建物の正面いっぱいに、どばーんどでーんという感じ、晴れやかに堂々と取り付けられている。三ダブルキュビトよりもちょっと上のところに取り付けられているのだが、その幅は建物の幅と全く同じ、その高さは二ダブルキュビトもあるんじゃないだろうか。当然ながら、上に突き出してしまっている。

 と、まあ、建物はこういう感じなのだが。

 実は、建物以外の部分にも。

 見るべきところが、あった。

 というか。

 構造体のうち。

 最も、真昼の目を。

 引き付けたものは。

 実は。

 建物では。

 なかった。

 建物の前。石畳で舗装された地面の上に、幾つかのテーブルが置かれていた。どっしりとした金属製のテーブルの周りには、骨を削りだした物で作られているらしい椅子が並んでいる。また、そういうテーブル席だけではなく、敷物だけが敷かれている席もある。高級そうな敷物で、複雑なアラゼスクが描かれている物。これは……どう見ても……そう、これはテラス席だ。テラス席の語源はホビット語のterraであり、terraは大地を意味する単語なので、正確には、大地から離れたこの場所をテラス席といっていいのか疑問だが。とはいえ、最近では屋上テラスなどというのもあるらしいので、そこまで細かく気にする必要もないだろう。

 要するに何がいいたいのかといえば、そこには屋外スペースが広がっていたということだ。しかも、恐らくは喫茶店だの居酒屋だの、そういった飲食系のお店によくあるタイプのやつだ。

 そして……もちろん、こういった設備も、空中に静止している土の塊の上にある場合には、かなり奇天烈な印象を受けるものだが。真昼の目を引いたのはこれでもなかった。

 それでは。

 一体。

 何が。

 真昼の目を引いたのか?

 つまり……

 それは……

「あのさ。」

「え? なに、真昼ちゃん。」

「あれって、もしかして。」

 真昼はそこで言葉を止める。

 それから、また、口を開く。

「シャワルマ?」

 そう、シャワルマだった。しかも、ただシャワルマがそこにあるというだけではなかった。そりゃあもうすげーでかいシャワルマが、これでもかというほど幾つも幾つも並べられて、そのシャワルマ(複数)の串(複数)が地面を滅多刺しにしているのである。こういう場合に滅多刺しって使っていいのかな? まあ、そこら辺は後で考えるとして。それは一種異様ともいっていい光景だった。

 大きさでいうと幼稚園に通っている子供くらいはあるだろう。そのような肉塊が、炭と見紛うくらいに真っ黒な串に貫かれて。そして、その串が地面に突き刺さっている。シャワルマは円形に配置されていて、中央部分では火が燃えているのだが。その火というのが、これまたキャンプファイヤーのように豪快な有様であった。真ん中に、仔馬くらいの大きさがあるんじゃないだろうかというほどの大きさの炭(切り出した木をそのまま炭にしたのだろうか)がでんと居座っていて、その周囲に細かい炭が山盛りに盛られているのである。炭は、まるで、地獄の炎みたいに赤くなっていて、見ているこちらの方にまで熱が伝わってきそうなほどだ。

 さて。

 さて。

 そのシャワルマ(複数)のそばには、もちろん、いうまでもなく、シャワルマの焼き加減を管理しているおっさんがいた。人間のおっさんであり、いかにもアイレム教徒らしい姿をしていた。

 シャルワールと呼ばれるゆったりとしたズボンを履いている。全体的にだぶだぶとしていて、全然体の線が出ないタイプの物であり、通気性が非常にいい。股下もかなり余裕をとっているので窮屈な感じがしない。また、その上に着ているのはカミーズである。これはチュニックほどの丈があるシャツのことで、首のところから胸のところまでをボタンで留めるようになっている。襟はぴんと立っていて、首の周り、一周をぐるっと包み込むような感じだ。両方とも無地、あっさりとしたベージュ色によって染められている。

 頭にはトピと呼ばれる帽子をかぶっている。これは頭をすっぽりと覆うタイプの円筒形の帽子であり、かぶった時に円筒形の頂面の部分が着用者の頭の形に合わせてぼこっと盛り上がるようになっている。一般的に、シャルワールとカミーズとが模様のないシンプルな物である一方で。このトピというのは装飾的な要素が強い物になっている。様々な色で染められていたり、優雅で瀟洒なアラゼスクが全体に描かれていたり。そのおっさんがかぶっているトピも、真っ黒な色に染め抜かれた上に真っ白な色でアラゼスクが描かれていた。

 そして、その帽子の下の顔であるが……頬から顎にかけて、全体が髭で包み込まれていた。もっさりもさもさといった感じの髭。ただ、とはいえ、全然手入れがされていないというわけではなかった。それどころか、かなりの洒落者といった感じ。これだけ大量に生えているにも関わらず、すっきりとシャープな印象にまとまっている。

 目の色は黒。

 髪の色も黒。

 髭の色も黒。

 肌は、よく日に焼けた茶色。

 そんなおっさんが、めちゃめちゃ長い柄がついた鉤(一ダブルキュビト近くあるんじゃないだろうか)で、かちんかちんとリズミカルに石畳を打ち付けながらシャワルマの管理をしていた。

 先ほどの描写からもお分かり頂けると思うのだが、このまま何もしないでいるとシャワルマは片方の面しか焼けない。炭火焼ファイヤーが照らし出しているのが片側だけだからだ。なので、シャワルマを回転させてやる必要がある。

 おっさんは、ちょうどいいタイミングを見計らってシャワルマに鉤を引っ掛けると。勢いよくぶん回して、ぐるんと半回転させるのだ。その熟練の手つき体つきは、あたかも華麗なダンスのようで……よくよく見てみると、シャワルマの串が突き刺さっている辺り、その辺りだけは石畳が引っぺがされていて。それから、等間隔に、金属製の缶のような物が埋められている。その缶に串を刺しているのだ。だからこれほど簡単にシャワルマを回転させることが出来るということらしい。

 構造体の中で。

 真昼が釘付けに、なったのは。

 つまり、そのおっさんだった。

 何? 何? 一体、これは何? 真昼は、少しばかり混乱してしまっていた。自分の見ている光景が馬鹿馬鹿しいほどに普通過ぎるからだ。そのシャワルマを焼いている陽気そうなおっさんは、どう見てもシャワルマを焼いている陽気そうなおっさんなのである。明らかに、地上数百ダブルキュビトの地点にあるべきものではない。あちらこちらにテーワルルングがひらひらと舞い踊り、時折グリュプスだのメルフィスだのが近くを飛んでいくような場所にあるべきものではない。

 ただ……そんな真昼の混乱をよそに。デニーが虚空に作り出した階段は、その構造体に向かって伸びているようだった。「うんうん、シャワルマだよね」と真昼の問い掛けに答えたデニーも、そのシャワルマの香ばしい匂いがきたる方向へとのぼっていく。

 匂い、匂い、匂い。そういえば、この匂いだ。真昼は、デニーの諸々によって強化された嗅覚によって、その匂いをもろに食らってしまっていた。ああ、これは、なんて食欲をそそる匂いなのだろう! 確かに、真昼は、いくらか食べ物を食べはした。ただ、それらの食べ物は、全て植物由来のものだった。

 人間という生き物は、本来的には肉食の生き物なのである。雑食などと誤魔化しをする時もあるだろうが、それは植物も食べることが出来る肉食というだけの話だ。もともとは植物食の生き物だったといい張るやつもいるかもしれないが、現在の人間という生き物は肉食だ。そもそもこれだけ大きな脳髄を有しているにも拘わらず植物だけでその脳髄を駆動させるエネルギーを獲得しようとするのは馬鹿が馬鹿なことをしようとしているとしかいいようがない所業なのだ。植物食だけで生きていれば、極端に寿命が短くなってしまうか、あるいは栄養失調の状態でどうにかこうにか生き延び続けるしかない。

 まあ、確かに、めちゃくちゃな自然コストを消費して必要な栄養を摂取出来る植物を作り出し、その植物をさらにめちゃくちゃな自然コストを消費して大量生産すれば、植物食だけでいけないことはないが。そういうことは、世界全体を、その植物の製造に適した環境に改造しない限り出来ることではない。馬鹿な金持ちが馬鹿なことを考えて、自分の都合のいいように自然を捻じ曲げることで初めて可能になることなのだ。それは倫理的に間違っている。自然の道理に反している。分かったか、バーカ! バーカ、バーカ! ハッピー・サテライト! 人間は肉を食わなきゃやっていけるわけがないのである。

 そう。

 真昼は。

 肉を食わなきゃ。

 やっていけない。

 まあ、まあ、個人的な意見としましては、植物食だった人間が肉食になったように肉食の人間が植物食になることも出来るとは思いますけどね。世界中の大都市に一つ二つ対神兵器を落として人間の数を大幅に減らすとか、そういうことすればいけるんじゃないですか? そうなれば、食用の植物を栽培している地域だけを人間の生息地域とすることも出来ますし。ただ、今は、そういう話をしているのではなく……ごうごうと燃え盛る真昼ちゃんの肉を食べたい欲の話をしているのである。

 要するに、真昼は、木の実しか食べていないのである。自らの、この肉体を再生させるために。それでは、必要としてる栄養が、全然足りない。全然足りていないのだ。真昼は欲している、もっともっと、自分の肉体を構成しているものに近い何かを。肉を、肉を、動物の肉を。

 そんなわけで、真昼は……そのおっさんに多大なる違和感を感じていながらも、それでも、そのシャワルマに魅了されているような状態だった。こんなところにあんなおっさんがいるのはおかしい、でも、あのシャワルマめっちゃ美味そう。まるで真昼の心は二つに引き裂かれているかのようだった。こんなくだらないことで、こんなどうでもよく引き裂かれるのは、真昼としても不本意ではあったが。とはいえそれが事実なのだから仕方がない。

 その。

 真昼の心を。

 引き裂いている。

 構造体の方向に。

 今。

 二人は。

 向かってる。

 ようだった。

 もしかして、もしかして……ここがアミーン・マタームなのか? いやいや、そんな阿呆な。真昼は、頭に浮かびかけた考えを急いで追いやってしまう。目の前にあるそれは、確かに飲食店らしき何物かではあったが。そのアミーン・マタームという店は、ギャングの幹部、紛れもない怪物がおすすめしている店なのだ。しかも、このティールタ・カシュラムという異様な混沌の中でのお勧めだ。尋常の飲食店であるわけがない。また、仮に、仮にではあるが、普通の店だとしても。こんな……良くいえば庶民的な店、悪くいえば安っぽい店であるはずがない。貧乏人には手が出せないような高級レストランに決まっている。

 ただ、真昼のそんな予想など知ったこっちゃないとでもいうように。どんどんと進んでいくデニー。とうとう、その構造体、地面となっている平面と同じ高さまでやってきてしまった。そこから、真っ直ぐに、店であるところの建物に進んでいく。

 と、構造体まで数ダブルキュビトくらいのところまで来た時に。シャワルマを焼いているおっさんが、近付いてくるデニーの姿に気が付いたようだ。手に持っている鉤で、今までよりも強く、石畳をがんがんと打ち鳴らしながら。満面の営業スマイルでこう呼びかけてくる。

「フーツサン、イラッシャーイ! 久シブリネー!」

「アミーンちゃーん、元気してたー?」

「元気元気、デカイ元気ヨー!」

 片言だったし、色々と間違っていたが、それでも共通語だった。なので、そのおっさんがなんと言っているか真昼でも理解出来たのだが……ここで重要なのは、その話ではない。そうではなく、デニーがそのおっさんに向かって呼びかけた「アミーンちゃーん」という名前の方である。いや……ちょっと……っていうことは、つまり……?

「ねえ、デナム・フーツ。」

「ほえほえ?」

「もしかして、あれが……」

「あれが?」

「あれが、アミーン・マタームっていう店?」

「え? そーだよ。」

 それから「あははっ、看板にそう書いてあるじゃーん」と付け加えた。確かに看板には何かが、たぶん店名だと思われる言葉が書かれていたのだが。それはアラジフ文字だったので、真昼には読めなかったのである。

 「あたし、あの文字読めないし」「あっ、そっかー、ごめんごめん」免じて欲しいとは欠片も思っていなさそうな口調でそう言うデニー。自分の頭の後ろのところ、ぽふっとフード越しに叩いてからけらけらと笑う。

 まあ、そういったあれこれはどうでもいいのである。いや、デニーの態度がムカつきはするけれど、それはいつものことだからね。それよりも、目下、真昼にとっての奇妙奇天烈不可思議頓痴気であるところの事態は。あのシャワルマのおっさん……アミーンと呼ばれたおっさんに関連する諸々の事態の方なのだ。

 真昼は。

 たたっと、目には見えない通路を走って。

 デニーのすぐ横のところまでやってくる。

 それから。

 アミーンに聞こえないように。

 少しだけ、声を潜めて。

 デニーの耳元に、囁く。

「本当に、あの店がそうなの?」

「そうだよー。」

「本当の本当に?」

「そうだよー。」

「あの店が?」

「うんうん、あの店がアミーン・マタームですよ。間違いなくアミーン・マタームです。っていうかさーあ……あははっ! どーしたの、真昼ちゃん? そんなに疑っちゃって!」

「だって……その店って、フランちゃんってやつのおすすめの店なんでしょ? あんたと同じ組織に所属してて、あんたと同じように幹部やってるっていう。」

「同じよーにじゃないよ! フランちゃんは七番目に偉い子なんだけど、デニーちゃんが三番目に偉いんだから! デニーちゃんの方が全然偉いんですーっ!」

「いや、そこら辺はどうでもいいんだけどさ。」

「どーでもよくありませーんっ!」

「そんなさ、あんたが所属してるような組織……アーガミパータだのワトンゴラだのに大量破壊兵器を売り捌いてるような組織の幹部が、こんな貧乏ったらしい店を気に入ったりする?」

「貧乏ったらしいって! 真昼ちゃん、しつれーい!」

 だーかーらー、失礼なこと話してるって自覚があるから小声で話してたんだろ! それをでけー声で叫ぶんじゃねーよ! と、全身全霊の右ストレートをぶっかましてやりたいところだったが。なんとかそれを抑えて「馬鹿! お前、声がでけーんだよ!」とこそこそ声で言うにとどめておく。アミーンがいる方に、ちらっと目を向けてみるが。聞こえなかったのか、意味が分からなかったのか、それか、全然気にしてないかのどれかだろう。相変わらず、なんとなく間の抜けた営業スマイルでえへらえへらと笑っている。

 さて、そんなこんなしているうちに、いつの間にかデニーと真昼とは構造体までやってきていた。すとんっという感じで、両脚、透明な通路から地面の上に飛び降りるデニー。それに続いて真昼も、その石畳の上、片足ずつ足を落としていく。

 この近さで見てみると、構造体は……本当に、抉り取られたままでこの高さまで運ばれてきたという感じだ。縁は、ところどころの石畳がへし折られていて。あるいは欠け落ちて、あるいは剥げ落ちて、ひどくずたずたになってしまっている。

 これは一体何があったのかと。

 真昼が、その縁のところ。

 ぼんやりと眺めていると。

 デニー、が。

 聞かれてもいないのに。

 答えを提示してくれる。

「このお店はねーえ、もともとは、下の方にあったの。下の下のいーっちばん下、地面のとこにあったんだよ。でも、フランちゃんが、このお店をとおーっても気に入っちゃってね。地面から無理やり剥ぎ取って、ここまで持ってきちゃったんだ。ほら、お店が下の方にあるとさーあ、誰でも入れちゃうじゃないですかー。奴隷とか、不可触民とか、スペキエースとか、そういう子達と一緒にご飯食べなきゃいけないことになるでしょ? んー、まー、別に、デニーちゃんはそーゆーの気にならないんだけどね。でも、フランちゃんってそーゆーのすっごくすっごく気にする子なんだよね。だから、上の方に持ってきて、ここまで来られる子しか入れないようにしちゃったの。ここまで来られる子なら、ほら、フエラ・カスタもそれなりにいー感じの子達だからさ。それなら、フランちゃんもあーんしんってわけ!」

 正確にいうと、下の階層にある店でも「ダリットお断り」をきっちりと店の方針にしているところもあるのだが。そういう賎民隔離方針をとっているのは、大体が、アーガミパータの神々を信仰している生き物の店である。

 一方で、アイレム教は、その教義において差別を禁じている。というかアイレム教徒か否かという差別以外の差別を禁じているといった方が正しいのだが、どちらにせよ、ダリットかダリットでないかということで差別することは厳に戒められている。

 驚くべきことに……アイレム教徒はスペキエースでさえ差別しないのである。トラヴィール教の各宗派の中でスペキエース差別を行わないのは、アイレム教と、それにシュブ=ニグラス派のごくごく一部だけである。

 まあ、とはいっても、スペキエースの取り扱いに関してアイレム教に後ろ暗いところがないというわけではないのだが、そのことについては置いておこう。とにかく、アイレム教徒は差別を禁止されているために、アイレム教徒の店は、誰であれウェルカムな感じの店がほとんどなのだ。

 と。

 まあ。

 そんな。

 わけで。

 ちょうど、デニーのその説明が終わるくらいのタイミングで、デニーと真昼とはシャワルマ焼き焼きゾーン(仮)のすぐ目の前のところまで辿り着いた。アミーンは、手に持っていた鉤、ざすっという音を立てて地面が剥き出しになっているところに突き刺すと。満面を笑顔笑顔にしてこちらに近付いてきた。

「あっさらーむ・あらいくむ! アミーンちゃん!」

「ワ・アライクム・アッサラーム! フーツサン!」

 二人はひときわ大きな声でそのように挨拶を交わすと、わっはっはっという感じで笑いながら、互いに互いの全身をハグした。ばんばんと、いかにも大袈裟に背中を叩き合うと、あっさりと離れて、またもや向かい合う。

「フーツサーン、ワタシ、寂シカタヨー。フーツサンテバ、フラナガンサンノオ仕事ノナンダカンダ終ワッチャッテカラ、ゼーンゼン来テクレナカタカラネ!」

「あははっ! デニーちゃんねーえ、最近、色々忙しかったから!」

 なんて。

 意味が、ない。

 会話を交わす。

 二人のことを見ていた真昼だったが。アミーンの笑顔が、なんかこう、気に食わなかった。いや、別に大した理由があるというわけではないのだが、なんとなく、気に障る方向で爽やかなのだ。きらりと白い歯を剥き出しにした映画スターのような笑顔。それを常にキープし続けている。だからどうしたといわれるとどうもしないのだが、とにかく、そのわざとらしさが鼻につくのである。

 なので、自然と、自分では意識することなく、アミーンの笑顔に不快そうな視線を向けてしまっていたのだが。そんな真昼に、ぱぱっとアミーンが顔を向けてきた。いきなり顔を向けられた真昼は、ちょっと気不味くなって顔を逸らしてしまった。だが、そんなこと気にせずに、アミーンは笑顔のままでこう言う。

「ソレデ、フーツサン、コチラノ美人サンハ誰ネー。」

「あ、そうそう、この子はね、真昼ちゃんだよ。」

「マヒルチャンサン?」

「いっえーす、真昼ちゃん。」

 いやいや「いっえーす」じゃねーだろ。このままじゃ「真昼ちゃんさん」とかいう、わけ分かんねー上に馴れ馴れしい呼び方が定着しかねない。それだけはなんとしても避けたかったので、真昼は、その会話に口を挟んだ。

「砂流原です。」

「何テ?」

「あたしの名前、砂流原真昼です。」

「サナガラ、マヒル?」

「砂流原でいいですから。」

「ワカタヨワカタヨー、サナガラサンネ! ワタシ、今覚エタ!」

 これで自己紹介は。

 終わった、わけだ。

 アミーンは、片方の手をデニーの肩に置いて。それから、もう片方の手を真昼の肩に置いて、二人のことをテラス席の方に連れていく。「フーツサン、イツモノ席ガイイネ、イツモノ席ガイイヨ!」「そーだねー! じゃー、いつもの席でっ!」。

 そのいつもの席というのは、テラス席の中でも最も縁に近いところにセッティングされた席らしかった。そこからの眺めは例えようがないほど素晴らしいものではあったのだが……ただ、とはいえ、ちょっと近過ぎなのではと思わないこともない。

 なんと縁から一ダブルキュビトも離れていないのである。しかも、柵のようなものは一切立てられていないので、ちょっと足を踏み外してしまったら即終了という感じなのだ。まあ、こんなところから落ちてどうこうしてしまうようなデニーではなかったし。それに、真昼は真昼でもう死んでいるから、問題ないといえば問題ないのだが。とはいえ、真昼的には、もう少し真ん中の方の席が良いような気がしないでもなかった。

 ただ、そういう主張をする前に、アミーンがぐいぐい押してくる。瞬く間にそこまで連れてこられて、「ホラ、サナガラサンモ座ッテ座ッテ!」とかなんとか言われながら強制的に席の中に押し込まれてしまった。

 テーブルが一つに、椅子が二つ。それぞれの椅子は縁と平行になるように置かれていた。ちらと横に目を向ければ、眼下には絶景、ティールタ・カシュラムのこちら側半分が見下ろせるようになっているということだ。

 また、全体的に大造りであるような気がした。テーブルも椅子も、真昼よりも一回りも二回りも大きい。これはきっと、人間だけでなくヴェケボサンなどの大きな生き物も座れるように作られているということだろう。

 ちなみに、このようなレストラン、調理された物を出す店にやってくるのは、大抵が高度な把持性を有する生き物である。高度な把持性を持たない生き物は、まずこういう場所には来ない。味覚の構造が根底から異なっているからだ。高(略)有する生き物は、味覚の複雑性を好むが。一方で、高(略)持たない生き物は、限りなくシンプルな物を好む。つまり、素材そのままの味を好むということだ。高(略)持たない生き物は、素材を後天的に加工する料理という方法をとるよりも、むしろその素材そのものを先天的に変化させる改造という方法をとる。そのようにして、栄養を摂取しやすかったり、味覚を喜ばせたり、そういう物を作るのだ。この方法に特に熟達しているのがフォレスト・ユニコーンであるが、フォレスト・ユニコーンが作り出した果物など、料理をしてしまうとかえってその味の完全性を損なってしまうほどだ。

 席に座ったデニー。

 きゅーっと。

 背凭れ、に。

 寄り掛かりながら。

 アミーンに言う。

「今日は、お客さん全然いないねー。」

「ソリャソウヨー、昼飯食ベルノオ時間モ終ワッタシ、食後ノさらーとノオ時間モ終ワッタシ、コレカラミンナミンナ仕事ノオ時間ダネー。バリバリヨ、モウバリバリ! コレカラ夜飯ノオ時間マデ、ワタシ、トッテモ暇ナオ時間ヨ!」

「あっ、そうなんだー。」

「ソウヨソウヨ! ダカラ、ワタシ、夜飯用ノしゃわるまノ仕込ミシテタネー。」

「あははっ、じゃあ、デニーちゃん、ちょーラッキーだったんだね。」

「ソウヨソウヨ! ソレデ、フーツサン、今日ハドンナ感ジニスルンダヨ?」

 デニーは。

 にっこり。

 笑って。

 答える。

「今日はねーえ、真昼ちゃんのためにここに来たんだよー。真昼ちゃんが、お腹がすいてお腹がすいて大変だよーって言うから。ここなら、ヴェケボサンでもお腹がいっぱいになるくらい食べられるしー、それに、ここのお料理はとーってもおいしいってフランちゃんが言ってたからね! デニーちゃんはよく分かんないんだけど、きっとさぴえんすが好きな感じのお料理が出るってことなんでしょ? だ、か、ら……おいしーもの、たくさんたくさんたーっくさん、真昼ちゃんに食べさせてあげて! よろしくね!」

 アミーンは、そんなデニーの言葉に「ワカタヨワカタヨー、ワタシニ任セトクネー」とかなんとか言ってから。真昼の方に視線を向けて、「ソレデ、サナガラサン!」と元気よく声を掛けた。「は、はい?」と、つい疑問形で答えてしまう真昼。「サナガラサンハ、辛イノト辛クナイノ、ドッチガイイ?」「え? じゃあ、えーと……辛くない方で……」「エー? 辛クナイノナンテナイヨー!」。アミーンは一方的にそう言い切ると、そのままテラス席を後にして店の方に戻っていってしまった。

 は? いや……辛くないのないのかよ! じゃあなんで聞いたんだよ! 大声で突っ込みを入れたいところの真昼であったが。残念なことに、あまりにも理不尽なそのやり取りに一瞬の虚を衝かれてしまい、既にそのタイミングを失ってしまっていた。

 もやもやとする、釈然としない気持ちのままでデニーにこう言う。「あのさぁ」「んあー?」「あの人、行っちゃったけど」「そーだねー」「そーだねーって、お前……あたし、まだ、何も注文してないんだけど」「あー、だいじょーぶだいじょーぶ、てきとーに持ってきてくれるからかね」「え?」「てきとーにおいしそーなもの作って持ってきてくれるんだよー」「それって……メニューとかはないわけ? 普通は、メニューで選んで注文するとかじゃないの?」「あははっ、真昼ちゃん! アーガミパータにはねー、そーゆーやり方で注文するお店はほとんどないよー。アーガミーパータでは、こんな感じのものを作ってって頼んでね。それで作ってきて貰ったものを食べるーっていうやり方が普通なの」。

 いや、っていうか、その「こんな感じのもの」というリクエストさえ通りそうにないのですが……だって、辛くないのないんでしょ……?と思った真昼であったが。そんなことをデニーに言ってもマジで無意味なので、黙っていることにした。

 ふはーっと深く深く溜め息をつきながら、目の前の席に座っているデニーから視線を逸らして。それから、向かって左側に広がっている景色に視線を移す。

 この店から上の空間には、ほとんどなんの建造物も存在していない。カ・マスジドと、その周囲の信仰の領域があるだけである。そのため眺望は非常に良かった。(真昼から見て)左側の部分だけではあったが、ティールタ・カシュラムの隅々まで見渡すことが出来たし。それだけでなく、その先の先、この街の外側に広がっている荒野でさえ見通すことが出来た。

 もう。

 遠い。

 遠い。

 ところ。

 微かに見下ろす。

 下の階層。

 そういえば、さっきまでは下の方を見下ろしただけで目くるめくハラハラ感を感じたものだったが。今となっては、さしたる恐怖感もなかった。ようやく慣れてきたのだろう、というか、さっきのあれが突然過ぎたのだ。何にせよ、さっきはまともに見られなかった光景を、ようやく視界に入れられるようになる。

 下の階層は……まさに混雑の真っ盛りという感じだった。もちろん、この高さから見ると、ほとんど蚤だの虱だののたぐいのようにしか見えなかったが。その蚤だの虱だのが集合体恐怖症にでもなりそうなくらいの勢いで群れたかっているのである。

 地を歩く生き物も空を飛ぶ生き物も、空間をぎっしりみっしりと満たしていて。あちらこちらでざわざわとした騒ぎが起こっている。その騒ぎは、もちろん、商人と顧客とが売買契約を結ぼうとする、その交渉の過程である場合が大半だったが。ただ、このような殺人的・殺その他の生き物的なうようよわさわさにつきものの、血の気が多いごたごたである場合もないわけではなかった。

 どうして、これほどまでに混み合っているのだろうか? 先ほどまでとは何が違うのだろうか? それは、人間の数が違うのである。先ほどまでは礼拝の時間、あるいはその礼拝の後のちょっとゆっくりしようかな時間であったのだが。今は、それが終わって、本格的な活動の時間になっていたのだ。要するに、さっきアミーンが言っていた通りだということである。

 人間、人間、人間……そういえば、ここまでなんの断りもなく人間と書いてきたのだが。デニーと真昼とがマホウ界にやってきてから出会ってきた人間、これは実は、その全てがホモ・サピエンスではない。

 そもそも、マホウ界にはホモ・サピエンスはいない。いや、特殊な例外としてちらほらいないわけではないが……そこに生息するほとんどの人間、ヒト属の生き物は、ホモ・マギクスと呼ばれる生き物だ。

 ここまで、ホモ・マギクスという単語、何度か触れてきたが。要するに、現生人類の中でナシマホウ界に適応するように進化してきた種族がホモ・サピエンスであり、マホウ界に適応するように進化してきたのがホモ・マギクスだということだ。

 ノスフェラトゥとティターンとの交配の結果、その失敗作としてヒト属が発生したということは前述したが……ケレイズィとフェト・アザレマカシアとの戦争、カトゥルン聖書においてはケレイズィ戦争と呼ばれているその戦争の際に、ケレイズィが作り出した空飛ぶ大陸レピュトスが墜落した。そして、そこにあったケレイズィの研究所の中で、交配実験の「成功作」のうち、たった一人だけが生き残った。

 その「成功作」が、生き残っていた失敗作を使い、様々な手を加えて自分に似た生き物を作り出そうとした。なぜそんなことをしたのかということはよく分かっていないのだが、恐らく自分の配偶者でも作ろうとしたのではないだろうか。とにもかくにも、そのようにして、その「成功作」は何度も何度も失敗を重ねて、ようよう自分に似ているとも似ていないともいい切れない代物を作り出した。それが、現生人類の祖先となるホモ・イデアである。

 何を考えていたにせよ、結局、「成功作」はホモ・イデアと交わることはなかった。ホモ・イデアはホモ・イデア同士で交わり合い、子孫をなして。そして、世界中に拡散していった。

 この世界中というのはマホウ界もナシマホウ界もひっくるめてということだ。当時は、リリヒアント階層の断絶はまだそれほど進んでいなかった。比較的自由に行き来出来たのだ。「行き来出来た」って字面ヤバいですね。

 それが、やがて、各階層がばらばらになると。マホウ界とナシマホウ界とで、ホモ・イデアはそれぞれ独自の進化を遂げていくことになる。ちなみに、ここでいう進化とは、生物学的な視点から見た場合、むしろ進化というよりも退化と呼んだ方がいいようなものだった。

 進化は、必ずしも前方に進むだけではない。往々にして後方に進む場合もあるのである。ホモ・イデアという入れ物は、人間のように愚かな愚かな生き物にとってはあまりにも高スペック過ぎた。人間は、その入れ物を上手く使いこなすことが出来なかった。当然といえば当然だ、なぜなら、ホモ・イデアは、自然にそのようになった生き物ではなく、無理やりそのようにさせられた生き物なのだから。いつか破綻するのは当たり前なのだ。

 ということで、ホモ・イデアは、次第に次第に退化していった。そもそもの失敗作が、「成功作」にいじくられることによってめちゃめちゃになって、それが更に退化した存在。そのような存在が、いわゆる現生人類へと繋がるのである。

 退化していくうちに、ホモ・イデアは幾つも幾つもの種類に分かれた。そのいちいちを列挙していくことは避けるが、例えばグリーン・リバー・ピープル、それにアーサー・ジャーミン・ピープルといった化石人類である。ただし、そのようにして発生した人類は、そのほとんどが滅び去って。結局のところは、ホモ・サピエンスとホモ・マギクスとしか残らなかった。

 ホモ・マギクスは、ホモ・イデアのうちのマホウ界に残った方が退化した生き物だが。その肉体及び精神には、ホモ・サピエンスからはほとんど完全に失われてしまった魔学的エネルギーに対する感応力がかなりの部分残されている。そう、つまりホモ・マギクスは魔法が使える。

 ちなみに、ホモ・サピエンスも魔法が使えるじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれないが。本来のホモ・サピエンスは、魔法が使えるほど魔学的エネルギーに対する感応力を持たない。それでも魔法が使えるのは、その一部にホモ・マギクスの血が入っているからである。

 マホウ界とナシマホウ界とは、断絶しているといっても、その断絶は完全ではない。その間には結構な割合で生き物の往来がある。そうして、ナシマホウ界に来たホモ・マギクスがホモ・サピエンスと交雑したり、あるいはその反対の出来事があったりして、ホモ・サピエンスにも幾分かホモ・マギクスの形相子が混ざった。それゆえにホモ・サピエンスもある程度は魔法が使えるのだ。ホモ・サピエンスの魔法適性は、このホモ・マギクスの血がどれほど入っているかということに大きく左右される。

 ホモ・マギクスは能力だけではなく外見もホモ・サピエンスと異なっている。大した違いというわけではないが……まず、背が高い。一回りか二回りくらいの違いがある。男性ならば二百ハーフディギトくらいの高さはざらであるし、女性でも百八十ハーフディギトくらいになる。ただその肉体はさほどごつごつとしたものにならない。筋肉のつき方はホモ・サピエンスよりも大分優美なものであり、かつ柔軟である。ホモ・サピエンスが粗削りな岩石の彫刻だとすれば、ホモ・マギクスは繊細な硝子細工だ。

 それから、これはちょっと主観的な話になってしまうのだが、ホモ・マギクスの顔は、ホモ・サピエンスから見ると、若干の獣らしさのようなものを感じるような形状になっている。これはなぜかというと、ホモ・マギクスの方がホモ・サピエンスよりも退化の度合いが少ないために、より一層ホモ・イデアの特徴が色濃く残っているからだ。ホモ・サピエンスからするとホモ・イデアは強力な生き物、危険な生き物なのであって。その感覚が、ホモ・マギクスの顔を見た時に、あたかも捕食者を見た時のような恐怖感を感じさせるということだ。

 また、ホモ・サピエンスとホモ・マギクスとの最も大きな違いであるが……それは肌の色だ。先ほどからホモ・マギクスは魔学的エネルギーに対する感応性が高いと書いているが。その結果として、ホモ・マギクスの肉体は、空間を満たしている観念に対して非常に敏感に反応するようになっている。なので、例えば森林の近くであれば、森林が表わす緑色の観念に染まりやすく。また、火山の近くであれば、火山が表わす赤色の観念に染まりやすい。なので、ホモ・マギクスの肌の色は、ホモ・サピエンスのそれよりも随分と多様性に富んでいる。

 斯う、と。

 もちろん。

 アミーンも。

 ホモ・マギクスだ。

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