第三部パラダイス #6

 それは。

 あたかも。

 この近くにコンビニがあるかを。

 問い掛けるような、呆気なさで。

 ちらと、またヤクトゥーブの方に体の向きを戻した。それから、むにーっとした笑顔。こてんとでもいう感じ、可愛く可愛く小首を傾げて見せる。ヤクトゥーブは、そんなデニーに対して「はっはっは、なるほどなるほど」と言った。それから「世界樹ですか、ふむ、世界樹」と続ける。

 デニーは、とてっとてっと前に向かって歩き始めた。ヤクトゥーブは、カウンターのすぐ前のところ、真昼から見て左側。奴隷の台帳だかなんだかを手にしたままで立っていたのだが。デニーは、その、すぐ右側のところまでやってくる。とんっという感じ、羽のある幼虫のように軽やかに床を蹴ると。そのまま、すとりっとカウンターの上に飛び乗った。

 カウンターの高さとデニーの高さと、二つの高さを合わせてもヤクトゥーブの身長には届かない。だから、デニーは、軽く爪先立つようにして。ヤクトゥーブの肩の辺り、きゅーっと両手を掛けて……そして、そっと唇をつけるように。何か、誰にも聞かれちゃいけない内緒話でもするように、ヤクトゥーブの剥き出しの鼓膜に囁き掛ける。

 「デニーちゃんさーあ、今ね、お仕事中なんだけどお。そのお仕事ってゆーのが、真昼ちゃんのことをアーガミパータから脱出させてあげることなのね。それで、デニーちゃん頑張ってたんだけど……んー、ヤクトゥーブちゃんも、見れば分かると思うんだけどね。ちょーっと色々あって、真昼ちゃん死んじゃったんだよね。今のところはねーえ、真昼ちゃんのこと、ディープネットとの取引に使おうと思ってるからあ。真昼ちゃんが死んだまんまだと、やっぱり困っちゃうんだよねー。死んだまんまでも、まあ、使えないことはないと思うんだけど。生きてた方が、もっともっと良い感じじゃないですか! と、ゆーことで。デニーちゃんは、真昼ちゃんのことを生き返らせなきゃいけないんだよねー」。それから、くすくすと、あの笑い方で笑った。

 一方で、そのように言葉を流し込まれたヤクトゥーブは。ほんの少しだけ体を傾けた。デニーに向かって、斜めに沈み込むように。あるいは、デニーの身長に合わせて目線を調整するかのように。そのおかげで、デニーはわざわざ爪先立ちをしなくても済むようになる。デニーとヤクトゥーブとは顔と顔とで向かい合う形になる。なんだか二人でこっそりと悪いことを相談しているみたいだ。ヤクトゥーブは、くうっと、独特な形で口を開く。表情が豊かな種族に対して偽龍が見せる、笑顔と同じ意味がある口の形である。それから、こう言葉を返す「フーツ様ほどの方です、当たりはついていらっしゃるのでしょう?」。

 てんっと、右の足。後ろ側に向かって爪先を落とす。両手のひらで口元を覆う。両方の肘は、真横の方に向かってぴーっと伸ばす。そして、デニーは「あははっ」と笑う。

 「そんなことはないよー」「またまた、ご謙遜をなさる」「ほんとーだって! やっぱりねーえ、ミヒルル・メルフィスの結界は、デニーちゃんでもどーにもなんないよ」。

 ヤクトゥーブは、手に持っていた台帳をカウンターの上に置いた。ちなみに、この台帳というのは、水晶のように透明な物質で出来た石板だった。その石板の中に何かどろどろとした液体が閉じ込められているのだ。この液体が、ヤクトゥーブの指示に従って、様々なものを映し出すようになっているらしい。

 それから、ヤクトゥーブは……地図が貼ってある壁の方に向かって歩き出した。さっきまでデニーが見ていたのと同じ、この街の周辺を描いた一連の地図だ。「どーお、ヤクトゥーブちゃん」デニーが、その後ろ姿に向かって言葉を続ける「何か、知ってることはある?」。

 ヤクトゥーブは。

 地図の前に立って。

 物思わし気に。

 後ろ手を組む。

「この町は隊商がよく集まる街でしてね。」

「うんうん!」

「あちらこちらから、それはもうたくさんの生き物がこの街を目指してやってきます。クータロートラから、スカンバ・プラデーシュから、ナラカ・プラデーシュから、それに、もちろんアーディスターンから……そういった隊商が通るルートというものは、ある程度決定されているんですね。支配者がいる領域に関しては、隊商のための交通網が整備されていますから。ほら、例えば……地図でいうと、このルート、このルート、このルートなどが安全なルートとされているわけです。だから、隊商は、こういったルートを通ってくる。」

「なるほどねー!」

「ただ、どうしても、こういった交通網が及んでいないところもあるわけですよ。何者の支配も及んでいないところといいますかね、そのせいで誰も交通網を整備しようとしない地域のことです。特に、この街の周辺は……まあ、フーツ様もご存じの通り、色々とある場所ですのでね。大体ですね……そう……ここから、ここまで、この範囲にわたって、ほとんど空白のような地帯となっているわけです。ここに関してはですね、道もなければ村もない、ちょっとしたオアシスからちょっとしたオアシスへと渡るようにしながら進んでいくしかないということですね。」

「それでそれで?」

「まあ、とはいってもですね、ここまでは道が通っているわけですから。後はここからここまで、ツバサラクダであれば一週間もあれば辿り着くことが出来るような距離ではないでしょうか。方位魔石を使うのでもいいですし、それか星を見て向かう先を決めてもいいですが、どちらにせよ、真っ直ぐに進んでいけば、大した問題は起こらない道筋であるわけですね。ただ、とはいっても……危険がないわけではありませんね。例えばはぐれのヴェケボサンがいないわけではないですし、それに、ここ、この辺りであれば砂塵嵐が起こることもある。そういったものに遭ってしまった隊商が、普通であれば足を踏み入れないような場所に足を踏み入れてしまうことも、ないわけではないということですな。」

「それからそれから?」

「となると、ですよ。これはまあ、当然ながら、そういうところで「何か」を目にする場合もあるというわけですよ、フーツ様。普通であれば誰も見つけられないような「何か」をね。この周辺は……ただでさえ、見渡す限りの荒野です。とてもじゃあないが、求めているものを探そうとして求めているものを探し出せるような場所じゃありません。その上にですよ、この街だけではなく、この街を囲む全体、ここからここまでの全ての場所がカシュラムだときている。どれほど力がある者であっても、下手に手を出すことが出来ないわけですね。と、なれば。ここからここまでの大部分、通常であれば隊商が通る道筋以外の大部分は、未踏の地といっても決して過言ではない状況であるわけだ。そこに足を踏み入れれば……もちろん、何もないこともありますがね。でも、「何か」があることもある。」

「へーっ!」

「そのようにして「何か」を見た連中は、一体どうするか? まずは、その「何か」を自分自身で利用することを考えましょうな。例えばそれが断崖に剥き出しになっている宝石の鉱脈であるならば、その宝石を掘り出そうとするでしょう。あるいは神話時代に放棄された神殿であるならば、迷うことなく盗掘をするでしょう。ただ、それが……自分では、とてもではないが手に負えないものだったら? それに手を出せば、かえって被害が及んできかねないものだったら? その場合、連中はどうするか。いうまでもないことですな、情報を売るんです。その「何か」に関する情報を売る。その「何か」に手を出すことが出来るような、そんな買い手に情報を売るわけです。」

「そうなんだー!」

「しかしながら……はっはっは、そのように強くて賢くいらっしゃる方というのは滅多にお目にかかれるものではありません。どれほど素晴らしい情報であっても、いや、それが素晴らしい情報であればあるほど、その情報に相応しい買い手というものは見つけるのが難しくなるものだ。見つからなかったら? 誰も、相応しい相手が見つからなかったら? 連中は一体どうするのか。もちろん、その相応しい買い手を見つけることが出来る誰かに情報を託すことになる。つまり、私に、ということです。」

 そこまで口にすると。

 ヤクトゥーブは。

 ふと地図から。

 目を逸らして。

 カウンターに、つまりデニーがいる方に視線を向けた。体の向きは地図の方に向けたままで、首だけを動かして。偽龍の首は思いのほか長い。それに、甲羅の組み合わせ方も非常に特徴的で、重ね重ねの鱗状になっているために、比較的動作に自由が利くのだ。

 その視線の先にいるデニーは。いつの間にかカウンターに腰掛けてしまっていた。すとんと座り込んで、両方の手のひらを天板の上に置いて。両脚、ぶらぶらと揺らしながら、踵でとんとんとカウンターの腹を蹴っている。にーっと、いつものように、笑って。

「そ、れ、で。」

 まるで。

 甘えるかのように。

 こう、問い掛ける。

「ヤクトゥーブちゃんは、世界樹がどこにあるか、知ってる?」

「ええ、もちろんその情報はございます。」

 ヤクトゥーブは。

 そう言ってから。

 ぐるっと、体の向きをカウンターの方向に戻した。ずしり、ずしり、といかにも重々しい足音を立てながら、カウンターの裏側に戻って行って。それから、そこに屈み込んだ。暫くの間、ごそごそと、そこら辺を探っていたようだったが。やがて一枚の紙切れを取り出した。

 その紙切れの中央には、巨大な川が一本流れているところが書かれていて。その川の真ん中辺り、小さな小さな街が広がっている。そして、その街の外側はお決まりの荒野だ。いうまでもなく、この街と、この街の周辺を描いた地図である。

 壁面に貼られているような物と比べると随分と真新しいように見えた。それに、地図に描かれている図形もかなり詳細なところまで描かれている。

 ヤクトゥーブは立ち上がる。その地図を、羽を落とすみたいにそっとカウンターの上に置く。それからデニーに向かってそれを広げて……口を開く。

「さてさてフーツ様。」

 カウンターに座った、デニーを。

 ちょうど、見下ろすような形で。

「こちらを、おいくらでお買い求め頂けますかな?」

 その質問に対してデニーはすぐに答えることはしなかった。暫くの間、偽龍なりの笑顔で笑っているヤクトゥーブの顔、あの笑顔のままで見上げていたのだけれど。やがて、ふいっと別の方を向いてしまった。それから、ぴょこん、かつ、すとん、という感じ。飛び上がるみたいにしてカウンターから飛び降りた。

 両方のローファーで石畳の上に着地すると。そこから、一歩一歩、まるでぜんまい仕掛けの人形であるかのように歩いていく。どこへ? どこへともなく。特に向かう先を決めることなく。

 店の中、あちらこちらに視線を向けながらうろうろしている。鉱物を詰め込んだ麻袋に、色々な種類の布巻きに、あるいは薬物が詰め込まれた木箱の山に。そうしながら……まるで独り言でも話そうとしているかのように口を開く。

「デニーちゃんねーえ。」

「はいはい。」

「お金、持ってないんだあ。」

「ほう、左様でございますか。」

 それまでカウンターに背を向けていたデニーが。そのタイミングで、くるりんと振り返った。左足を軸にして、右足で床を蹴って。体の全体を躍らせるように、だ。スーツの裾が柔らかく花開くみたいに揺らめいて。それからデニーは軽やかに一歩を踏み出して見せる。

 「だからね、お金でお買い物をすることが出来ないの」。先ほどまでとは違って、明確に目標が定まっている歩き方だ。それは、無論、ヤクトゥーブがいる方に向かっているのであって。飛び跳ねるように歩いていく足取りは、足元の石畳を一つ一つ数えているようで。

 すぐに。

 そこに。

 辿り着く。

 デニーとヤクトゥーブとはカウンター越しに向かい合っている。見上げるデニーと見下ろすヤクトゥーブ。二人とも、いかにも親しげな笑みを浮かべたままで……そのままで、ある一点からある一点までの距離を測っているみたいで。

 と。

 デニーが。

 すっと。

 手先を。

 伸ばす。

 手の甲を上に、手のひらを下に向けた形だ。親指から中指まで軽く伸ばして。それから小指も伸ばしている。中指だけを、ほんの少し、下に向かって折り曲げていて。そのまま、空間を滑らせるようにして手を差し出す。その手、カウンターの上、ゆっくりゆっくりと、ひらりひらめかせて。それから……あてらく、あややかに、いとも造作なく、薬指がカウンターの天板を叩いた。

 ああ、その薬指の先。くあん、というあの開き方でデニーのオルタナティブ・ファクトが開いた。その内側では虚無さえも腐敗するような暗黒の穴。さらさらと、朽ち果てたような灰を吐き出して。その大きさは、直径にして三十ハーフディギトから四十ハーフディギト程度だろう。それほど大きいものではない。

 デニーは、開いたオルタナティヴ・ファクトから指先を離して。そのまま、そっと、手を上げる。これは右の手だったのだが、自分の顔の右横、数ハーフディギト先のところまで持ってきて。人差し指と中指と。上の方を指差すみたいにして、軽く揺らめかせて見せる。

 その動きに。

 合わせ、て。

 オルタナティヴ・ファクトの中から。

 二つの物体が、吐き出される。

 吐き出したすぐ後に、オルタナティヴ・ファクトは閉じてしまった。結果として、その二つの物体はカウンターの上に取り残されることになる。それらは、ごつごつとした金属の塊。その内側に死にゆく生き物の悪夢を閉じ込めたように、泥濘に沈み込むように穢らわしい赤い色をした金属の塊。あたかも手のひらの中に収まる無反動砲のような形をした二挺の拳銃であって……要するに、デニーのために特別な改造を施されたHOL-100であった。

 デニーは無造作にそれを取り上げた。左の手で一挺、右の手で一挺。まずはグリップを掴んで、銃口を上向きに構えるようにして持った後で。ぱっと指先で弄ぶ。人差指をトリガー・ガードに突っ込んだまま、その人差し指を軸にしてくるくると回転させて。ぽんっと放り投げてから、また手のひらの中に収める。右の手の親指が、右の拳銃の撃鉄を。左の手の親指が、左の拳銃の撃鉄を。それぞれ、かちんと起こして。

 その後で。

 二挺の拳銃。

 ヤクトゥーブ、に。

 その銃口を向けて。

 ちょっとした。

 冗談みたいに。

 引き金を引く。

「ばーん。」

 銃弾は発射されなかった。そもそも弾倉に込められていなかったのだから、当然といえば当然の話だ。くすくすと、喉の奥で歌うようにして笑うデニー。拳銃をカウンターの上に置いた。

 一方のヤクトゥーブは。あれほどあっさりと引き金を引かれたというのに、そのことについては全然気にしていないようだった。カウンターの上に置かれた拳銃に視線を落として、言う。

「おお! これは……拝見しても?」

「どーぞ!」

 ヤクトゥーブは。

 一挺目、を。

 手にとって。

 その拳銃は、小さな小さなデニーちゃんのお手々に合わせて作られた物だったので。例えばグリップは小さ過ぎるし、トリガー・ガードに指を突っ込むことも出来なかったが。それでも、その大きな大きな金属の塊は、ヤクトゥーブの手の大きさにちょうどいいように見えるくらいだった。

 まずは第三の目、頭頂眼によってじっくり調べ終わった後。そっと鼻を近付ける、これはあまり知られていないことだが、偽龍は非常に嗅覚に優れた種族だ。大抵の物質について、例えばその宝石が本物なのか偽物なのかということ、そういうことを嗅覚によって判断出来るくらいである。

 「これが、かの有名なHOL-100LDFというわけですな」「いっえーす!」。亀の顔なので実際のところはどうなのか分からないが、ひどく真剣な表情らしい表情をして二挺の拳銃を見ているヤクトゥーブ。それに対してデニーは、カウンターに寄り掛かるような格好をしていた。両肘をカウンターの上に乗せて。両手のひらの上に、自分の顎を、包み込むみたいにして乗せて。

 楽しげに。

 口ずさむ。

「金属部分はね、ほとんどぜーんぶ赤イヴェール合金なの! バレルの中のところだけは、デニーちゃんが作る弾丸に耐えられるようにバルザイウムを使ってるんだけどね。あ! それからね、それからね、そのバルザイウムには、デニーちゃんのとーっくべつな魔学式が刻んであるの。その魔学式のおかげで、もう、ほーんとにぜんだんめいちゅーって感じ! ねえ、どおどお? すーっごいでしょー!」

 その言葉に「素晴らしい、確かにこれは素晴らしい物です」と返しながら、ヤクトゥーブは一挺目の拳銃を置いた。そのまま二挺目の拳銃を手に取って、同じように一つ一つの要素を鑑定していく。偽龍は、基本的に自分が感覚によって確認出来たこと以外は信用しない。人間のように「共同体の中ではこのようなことになっているからこれはこうなのだ」という思考は絶対にしないということだ。友達だからノーチェックだとか、この人は信頼出来るから大丈夫だとか、そういうことは一切ない。

 また、その反対に、自分の経験を絶対的な真実と同一視してしまうような錯誤を起こすこともないが(自分の感覚は超越論的主体から導き出される真実とは全く関係がないのである)、それはともかくとして、ヤクトゥーブは二挺目も鑑定し終えたようだ。満足そうに溜め息をつきながら「いや、これは……間違いありませんな、文句の付けようがありません。これは、本当に素晴らしい物です」と言う。

 ちなみに、偽龍の肋骨は甲冑のように全身を覆う甲羅の支持のために固定されているので、これは腹式呼吸による溜め息ではない。そもそもの話として、人間のように活発に呼吸を行っているわけでもなく、一分に一回程度の呼吸しかしないのだ。偽龍の溜め息とは、この長い長い呼吸のうち、吐き出す時の息を音を立ててしているというだけの話である。

 つまり、偽龍の溜め息とは、生理的な必要性から自然に行われているものではない。そうではなく、人間だのヴェケボサンだの、そういう溜め息をつくタイプの生き物とコミュニケーションをする際に、コミュニケーションがスムーズにいくよう真似しているということだ。

 また、この際だからついでに書いておくが、このヤクトゥーブの持って回った話し方、わざとらしいくらい商人らしい話し方も別に偽龍に特有の話し方であるというわけではない。というか話し方以前の問題として、偽龍には固定的な話し方というものはなく、固定的な人格というものもない。偽龍の精神構造というのはダガッゼのそれとよく似ている。つまり、一つの輪郭によって固定されているわけではなく、曖昧に流動する幾つもの人格の連続体だということだ。

 ただ偽龍の場合は、その連続体に、俗にチューニングと呼ばれている特有のシステムを働かせることが出来る。これは偽龍が商業行為を行うにあたって必須のシステムなのであるが、要するに、当該偽龍が商売を行うことになった共同体に合わせて、人格の連続体の中から適切なレンジを切り取って、あたかもその共同体を構成している主要な生命体と同じような精神構造を有しているかのように見せかけることが出来るということだ。

 いや、これは「見せかける」というのとは違うかもしれない。もしもレーグートのように、自分の人格ではない人格を演じているのならそう表現してもいいだろうが……偽龍がその人格として振る舞っている場合、偽龍は確かにその人格なのだ。ただし、それは海面の上に姿を見せている氷山の一角に過ぎないのであって、海面の下にはそれとは全く異なった人格が連続的に秘密されているわけだが。

 まあ、なんにせよ、今のヤクトゥーブの話し方は、ティールタ・カシュラムのそれに合わせたものだということだ。そんな話し方をするヤクトゥーブに向かって、デニーは、ぐーっと身を乗り出した。ぴんと爪先立って、カウンターの向こう側にいるヤクトゥーブの方に、甘やかに、甘やかに、前のめりになる。

 そして。

 その唇は。

 こう囁く。

「これを担保にしてね、その情報を買いたいんだあ。」

 ぱっと身を引いた。爪先立っていた踵を落として、カウンターに寄り掛かっていた両の手のひらを引いて。カウンターの向こう側に立ったままで、可愛らしく首を傾げる。「ねえ、買えるかな?」「もちろん、もちろんです、これだけの物をお預け頂けるなら、十分にお買い求め頂けますよ」。

 「世界樹についての情報をお渡ししても、まだまだ他にも色々な商品をおまけとしてお付け出来るくらいです」「あははっ、そんなにさーびすしてくれるの? デニーちゃん、とーっても嬉しい! んー、でも、まあ、今のところはいいかなあ。あんまり荷物を増やしちゃいたくないしね」。

 それからヤクトゥーブは手に持っていた二挺目の拳銃を置いた。「こちらは、担保としてお預かりするというお話でよろしかったでしょうか」「うん、うん、今言ったとーりだよ」「ふむ、ということは、お引き取りは別の商武からの方がよろしいということですかな」「そーそー、そーゆーこと!」「どちらの商武にお送りさせて頂けば?」「んんー、じゃあねえ、リュケイオンで財務コンサルタントしてる子に送って貰おうかなあ。あの子、確か、食堂とか売店とかもやってたよね? あそこなら取りに行きやすいし、うん、けってーい!」「はいはい、承りました……ああ、ちなみに、ご存じだとは思いますが担保の輸送の際には別途輸送料がかかります。よろしいですね」「いいよー、だいじょーぶ!」。

 そこまでの。

 会話、を。

 終えると。

 ヤクトゥーブは小さく「ふむ」と呟いた。今まで開いていた口、つまり笑わせていた口を閉じて。どすっという感じで両方の手のひらをカウンターの上につく。身を乗り出すというほどではないが、それでも、デニーに向かって、前方に体を傾けて。それから、こう言う。

「では。」

「はーい。」

「これで、交渉は成立ということで……よろしいですな?」

「うん!」

「かしこまりました。」

 ヤクトゥーブはカウンターの上に置かれていた地図を取り上げた。カウンターの裏側から取り出した例の地図だ。そういえば、その地図について……真昼は、ちょっとおかしいなと思っていた。いや、別に、地図そのものがおかしいというわけではない。きちんと正確に描かれているように見える。おかしいのは、その地図が、ただの地図でしかないということだ。

 だって、それは、世界樹の場所についての情報じゃないの? それなら、どこに世界樹があるのかということを書いてなければおかしいはずだ。けれども、真昼が見た限りでは、そういった情報は一切書かれていなかった。

 確かに薄っ暗い部屋の中だ。それに真昼は二ダブルキュビトほど離れたところに立っている。それでも、カウンターの上は紫色の光に照らし出されているのであって……何が描かれているのかということくらいは見える。

 一体どういうことなのか。ただ、真昼は、二人のやり取りに何か口を挟むようなことをしなかった。こういう時に、というのは全ての物事が流れるように進行している時ということだが、そういう時に自分が何をしても馬鹿を晒すことになるだけだということはとっくのトークンピーナッツに理解していたのである。

 何もかも。

 デニーに。

 任せておけばいい。

 さて、ところで。ヤクトゥーブは、左手で地図を持ち、右の手をその地図の上に持ってきた。くっと、指先を握り締めて。人差指だけが柔らかく伸ばされている。その人差指が……今、地図上の一点を指差した。

 地図の右寄りの部分。荒野の真ん中、小さな小さなオアシスからさほど離れていない場所。「今から……そう、八年ほど前のことでしたかね。アーディスターンからやってきたグリュプスの隊商が、この辺りではぐれヴェケボサンの一団に襲われました。この一団は、この荒野を縄張りとしている盗賊で、オアシスの近くで待ち伏せをして隊商に急襲を仕掛けていたのです。もちろん、グリュプスは空に逃げましたよ。しかしながら、不運なことに、その一団はグラディバーンを飼い慣らしていた。つまり、空に逃げても無意味だったということです」。

 そこから、ヤクトゥーブは指を動かしていく。「こうなってしまったら、もう逃れる方法は一つしかありません。一刻も早く砂塵嵐を見つけて、そこに飛び込むという方法です。グラディバーンだって砂塵嵐でどうにかなってしまうような生き物ではありませんが、とはいえ、少なくとも、砂塵嵐の中にいる間はヴェケボサンの感覚を閉ざしてしまうことが出来る。その隙に、まあまあ、手の届かないところまで逃げてしまおうということですね。ここからここまでなんとか逃げて、追われているうちに囮としてそこここに捨てていった荷物、半分ほどの荷物を失ってしまいましたが、どうにかこうにか、この地点で砂塵嵐に遭遇することが出来ました」。

 とんっと、また、一点を指し示す。「隊商は身を寄せ合って、一群になって砂塵嵐の中に突っ込みました。さすがのグリュプスといえども、ヌリトヤ沙漠の砂塵嵐に飲み込まれてしまっては、それはもう一匹でどうこう出来るものではありませんからな。砂塵嵐の中、数匹のグラディバーンに追われつつ、あちらへこちらへと逃げ回り……と、その時に、その出来事が起こった」。

 ヤクトゥーブは、地図の上に置いていた指を離した。それから、その指を真っ直ぐ上に立てて見せる。「その隊商には、今回が初めての旅商いであったところの若いグリュプスがいたんですな。まだ羽が生え揃ったばかりの若造です。もちろん、はぐれヴェケボサンについては何度も何度も聞かされていましたし、砂嵐を飛ぶための訓練も受けてはいました。ただ、まあ、なにぶん……本番というのは訓練とは全然違うものです」。

 ヤクトゥーブは、そう言うと。真っ直ぐ指を立てていた右手をぱと開いて、ひらひらと揺らした。「あちらへこちらへと飛んでいるうちに、そのグリュプスはすっかり疲れてきてしまった。もともと初めての旅商いということで興奮してしまって、ろくに眠れていなかったというのもあったのでしょうな。なんとかかんとかして一群についていってはいたのですが……とうとう、ついていけなくなってしまった」。

 そういえば、今まで全く触れていなかったのだが、カウンターの上には一揃いの筆記用具が置いてあった。人間の手ではなく偽龍の手に合わせたサイズ。万年筆らしいペンとインク壺である。万年筆の方は全体的に赤イヴェール合金で出来ているらしい高価そうな物だ。インク壺は不歌石を削り出して亀のような形にしたものだ。亀の甲羅の部分が開くようになっていて、その中にインクを入れておくようになっている。

 「あっという間でした。まるで満腹したダニが獣の肌から剥がれ落ちるかのように。そのグリュプスは、暴風によって一群から引き剥がされて、砂塵嵐の奥深くまで飲み込まれてしまった。そして、それからどうなったのかということは……そのグリュプスは、よく覚えていないとのことです。意識を失っていたのか。それとも必死の思いで砂塵嵐に抗って飛んでいたせいで、記憶を残しておくだけの余裕がなかったのか。どちらにせよ、いつのまにか砂塵嵐の外側にいた自分に気が付くまでの記憶は全く残っていないとのことですよ」。

 「そのグリュプスはいつの間にか沙漠の真ん中に倒れていた。いや、いや、なんと言いますか……倒れていたというよりも、半分以上砂の中に埋まってしまっていたと言った方が正しいような有様だったとのことですが。まあ、砂塵嵐に捕まったというのに全身が砂の中で溺れてしまわなかったというだけで、そのグリュプスは幸運だったということが出来るでしょうがね」。

 「隊商からはぐれて、たった一人。ほとんどの荷物は捨ててしまい、残されているのは全身に纏わりつかせていたアカデだけという状態でした。フーツ様も、まあご存じでしょうがね。アカデは食料にもなりますし、多少であれば水分もとることが出来ます。ということで、少しずつアカデを食いちぎり食いちぎりながら、そのグリュプスは沙漠を進み始めたということです」。

 そこで言葉を切ると、ヤクトゥーブはまた、右手の人差指を伸ばした。その伸ばした指先で、地図のうちの一部分にぐるぐると円を描いて見せる。「はてさて、砂塵嵐に巻き込まれてどこまで飛ばされたのか。当日の気象条件や、砂塵嵐が発生してから消滅するまでの一般的な時間などから考えると……まあ、恐らくは、この範囲内のどこかということにでもなりますかね。なんにせよ、そのグリュプスは、この範囲のどこかで気が付いた。そして、とにかくパヴァマーナ・ナンディの岸辺に辿り着くために、東に向かって飛び始めた。このようなことは、わざわざ言わなくても、フーツ様であれば先刻ご承知のことでしょうが……グリュプスは、この星全体の魔学的エネルギーの流れを「見る」ことによって方角を理解することが出来ますからね。方位魔石がなくても、東がどちらの方向かということくらいは分かっているわけです」。

 それからヤクトゥーブは、その指先を東に向かって少しずつ少しずつ動かし始めた。「半日ほど、そうやって飛んだところでしょうか。時折、蠍や蛇や、目に入ったものはなんでも食べながら、ひたすら東へ東へ進んでいくと……やがて、夜になりました。灼熱の太陽が隠れた後、砂漠の全体が氷点下の夜の帳に覆われた。グリュプスは眠りながらも飛び続けることが出来ますから、夜になってから、脳の動作をそのように切り替えて、なおも飛び続けました。先へ、先へ、眠ったままで飛んでいく……と、そのグリュプスは、何かを感じてはっと目覚めました」。

 指を止めて、またその周辺でぐるぐると円を描く。大体この辺りだということを示したいのだろう。「最初は、自分がなぜ目覚めたのかということが分かりませんでした。しかしながら、すぐにそれに気が付きました。それは……あたかも生命そのものであるかのような光。グリュプスの目が感じ取ることが出来るあらゆる光の波長によって光り輝き、それでいて、光ではない光。光などというものよりも、もっともっと根源的な、エネルギーそのものとしての光。そのような光が、まるで天上から大地まで一直線に貫くかのようにしてそこにあったのですよ、フーツ様。そのグリュプスはね、その光のせいで目が覚めたんです。その光が放つエネルギーによって叩き起こされた。その巨大な光の柱、いや、その巨大な光の樹……そう、つまり、それは世界樹だった」。

 ヤクトゥーブは、地図の上から指先を放す。そして、カウンターの上に、その右の手のひらをつく。「距離がありました。そのグリュプスから世界樹がある場所までは。恐らくは、数エレフキュビトは離れていたはずです。辛うじて結界の内側ではあるが、とはいえ「向こう」からは見えない程度に離れているという距離。それに夜であったということも幸いしていたでしょう。何にせよ、そのグリュプスは「向こう」に気が付かれなかった」。

 地図から左の手を離す。それから、左の手のひらもカウンターの上に置く。「それに、そのグリュプスも、決して「向こう」に近付こうとはしなかった。隊商から隊商へと言い伝えられている話、ヌリトヤ砂漠で隊商を組む者であれば誰でも知っているあの話を、そのグリュプスも知っていたからです。つまり、世界樹とミヒルル・メルフィスについての伝説です。世界樹に近付く者は、誰であれミヒルル・メルフィスによって殺される。八つ裂きにされて、火炙りにされて、骨の欠片も残さず食い尽くされる」。

 そう言ってから、ヤクトゥーブは少し言葉を止めた。くっくっくっと、いかにも人間のような笑い声を上げてから続きを話し始める。「まあ、殺されることは事実ですがね。それにしても、八つ裂きにされるだとか火炙りにされるだとか……よくもまあ、こんな無稽なお話を思い付くものだ。そうは思いませんか、フーツ様。全く、商人という種類の生き物はとかく迷信深いものですからね。もちろん、そのグリュプスもそのお話を信じていた。そして、その場から、死に物狂いの速度で逃げ出したということです」。

 そこまで話し終えると、ヤクトゥーブは。

 ふーっと、あの溜め息に似た音を出した。

 それから、すっと右手を伸ばしてカウンターの上に置かれていた万年筆を取った。万年筆の尻尾の側でこんっと叩いて亀の背中、インク壺の蓋を開きながら話を続ける。「さて、ここまでが私の聴いた話です。そのグリュプスからね。そのグリュプスは、命辛々といった感じでパヴァマーナ・ナンディまで辿り着きました。そして、その川をくだってくだって、なんとかこの街までやってきました。幸いなことに、はぐれたはずのグリュプスの隊商とも出会うことが出来た。そして、その隊商のリーダー格であったグリュプスに、自分が遭遇した恐ろしい世界樹の話をしたんですね。すると、そのリーダー格のグリュプスは、その情報を商品として誰かに売り付けるということを思いついた。はっはっは、そのリーダー格のグリュプスというのがね、私の知り合いなんですが、これはもう商人の鑑のようなグリュプスでしてね。売れそうなものは片っ端から売り尽くすというあのタイプですよ。そして、もちろん……その情報を購入したのが私だということですな」。

 そう言いながら、万年筆のペン先をインクに浸けた。この万年筆はただの万年筆ではなかった。先ほども書いたように赤イヴェール合金で出来ていたのだが、胴軸の全面に魔法円が刻まれているのだ。ひどく単純な魔法円であるが、なんにせよ、ヤクトゥーブがペン先をインクにつけた瞬間にその魔法円が光り輝いた。

 と、くるくると尻軸の辺りが回転し始めた。これは、どうも……万年筆の中に、この尻軸と繋がっているピストンが入っているらしかった。尻軸が回転すると同時に内部の螺旋も回転し、ピストンが上下するのである。そしてペン先から万年筆の中にインクを吸い上げるのだ。つまり吸入式の万年筆だということだ。

 一度。

 二度。

 三度。

 壺の縁で。

 余ったインクを。

 拭い取りながら。

 ヤクトゥーブは。

 続ける。

「私は、その情報を購入すると、すぐに正確な場所の特定に掛かりました。先ほどの話でも言いましたがね、そのグリュプスというのは、世界樹を見てからというもの、ほとんど半狂乱になって飛び続けてきたということで。大体この辺りということは分かっても、ただ一点、ピンポイントで場所を指し示すということは出来なかったんです。とはいえ、だいぶん絞り込まれてはいましたからね。まあまあ、後は、塗り潰すようにしてひたすらに探し続ければいいというだけの話ですよ。

「この件ばっかりは大人数でやっつけるというわけにはいきませんからね。「向こう側」に見つかってしまえば間違いなく皆殺しにされてしまいますからなあ。仕方なく、私一人でやるしかありませんでした。一週間……いや、六日かな。あちらからこちらまで、この羽で飛び回りましてね。もうもう、これは甲羅蒸しになってしまうかと思いましたよ。はっはっは、とはいえ、それを見つけました。それはそこにあった。」

 ヤクトゥーブは。

 そう言うと。

 右手に持っていた。

 インクを満たした。

 万年筆を。

 そっと、インクを。

 こぼさないように。

 地図の上にまで。

 運んでくる。

 確か、に。

 その一点。

 ヤクトゥーブは。

 その一点の上に。

 万年筆を。

 差し向けると。

「世界樹についての情報。」

 静かに。

 静かに。

 そこに。

 その一点に。

 印を。

 描く。

「確かに、お引渡ししました。」

 なるほどねー、書いてなかったのかー。そりゃあ、世界樹がどこにあるのかっていうことを書いてある地図をあんなに無防備に見せるわけないですよね。だって、どこにあるのかってことさえ分かれば、別にわざわざお金出す必要はないんだから。それにもしも予め地図に書いておいてその地図を盗まれたらお終いだし。よくよく考えりゃあ当たり前のことだわ。

 たぶん、カウンターの下にはあの地図と同じような地図が何枚も何枚も用意されているに違いない。この周辺の地図のうち、一番正確に描かれた地図をなんらかの方法でコピーして。そして、今回のように、何がどこにあるかということを地図上に指し示すために使っているということである。

 あと、まあ、別に書く必要はないと思うが。読者の皆さんの中にはもしかして引っ掛かってしまった方もいらっしゃるかもしれないので、念のために書いておくと、ヤクトゥーブの言った一週間というのはナシマホウ界で使われている一週間と一緒である。悟、旅、戯、帰、本、火、聖無知の七日間だということだ。

 この一週間は元々はトラヴィール教会が設定したものであるが、ヤクトゥーブが使っている一週間は、そのトラヴィール教会の異端であるアイレム教の一週間なのだ。まあ、正確にいうと、最後の一日が「聖無知」ではなくただの「無知」だとか、そういった細かい違いはあるのだが……ほとんど同じといっていい。

 なんにせよヤクトゥーブは万年筆を置くと。地図の向きをくるりと変えて、デニーの方に向けてから、それをカウンターの上に滑らせた。二挺の拳銃が置かれている、そのすぐ横にである。向かい合う二人、デニーとヤクトゥーブとの間には、それぞれに対して引き渡されたところのそれぞれの商品が置かれていて。

 デニーは。

 自らに。

 引き渡された。

 その商品へと。

 小鳥が、餌を、啄むように。

 可愛らしく、手を伸ばして。

「ありがとー。」

 指先で。

 地図を。

 受け。

 取る。

「た、し、か、に、引き渡されましたー!」

 こうして金銭消費貸借契約及び売買契約は成立したわけである。ところで、ヤクトゥーブは……カウンターの上に自分の両手を差し出した。手の甲を上にして。親指と、それから他の指とを広げて。右の手と左の手とで直径三十ダブルキュビトほどの円を作るような形にする。

 それから軽く目をつぶる。すると、手の甲の甲羅が光を放ち始めた。微睡の中で見る途切れ途切れの夢にも似た光、魔学的エネルギーの光だ。羽について書いた時にも少し触れたが、偽龍は、このように自らの甲羅に魔学的エネルギーを蓄積することによって魔法を使うのだ。

 と、ヤクトゥーブの手と手との間に、ぽっかりと穴が開いた。これは、真昼もよくよく知っている種類の穴であって……つまり、オルタナティヴ・ファクトの穴だった。ただし、デニーのそれではなくヤクトゥーブのそれであったが。

 デニーのものよりも遥かに感じがよかった。デニーのそれは、腐敗と枯渇と、死の感覚に満ち満ちた邪悪そのものであったが。ヤクトゥーブのそれは……なんとなく、キラキラしていた。というか、ギラギラしていた。正義の光によって輝いているのではない。そうではなく、剥き出しの欲望が、貴金属や宝石や、そういった対象物に反射して、氾濫乱舞しているといった感じ。ここからはよく見えないが、それでも、その中には、いかにも価値がありそうな何かが詰め込まれているというのが分かった。

 そして、ヤクトゥーブは。

 二挺の拳銃を、一挺ずつ取り上げると。

 その穴の中に、慎重な手つきでしまう。

 偽龍はオルタナティヴ・ファクトを金庫のように使う。普通の金庫も、まあ、使わないことはないのだが。どれほど頑丈な金庫でも金庫ごと盗まれてしまえば終わりである。壁に埋め込んでしまえば盗まれる確率は減るかもしれないが、偽龍のように年がら年中移動している種族にとっては一か所に固定されている金庫など不便極まりない。

 その点、オルタナティヴ・ファクトであれば。無理やりに内的世界をこじ開けられない限りは中のものを盗み出すことが出来ない。それに、自分の内的世界というものは、当たり前だが常に自分と一緒にある。ということで、貴重品をしまっておくのには大変便利なのだ。

 ただ、所詮は偽龍であって、中等知的生命体に過ぎないのであって。そのオルタナティヴ・ファクトはさほど大きな容量があるというわけではない。なので、そこに入れるものは、本当の本当に貴重なものであると当該偽龍が判断したものだけだ。そして、いうまでもなく、デナム・フーツの所有物であるところの拳銃は、本当の本当に貴重なものなのだ。

 ヤクトゥーブは、二挺とも拳銃を入れ終わると。右の手と左の手とを、静かに静かに近付けていった。それに合わせて、その二つの手に挟まれたオルタナティヴ・ファクトは小さくなっていって。最後の最後、ヤクトゥーブが、ぐうっと両手のひらを握り締めるようにするとともに、その穴は消えてしまった。

 こうして。

 貴重な品は。

 しまわれた。

 ので、あって。

「さて……」

 手と手と、ぱっと離すと。

 その手のひらを。

 デニーに向かって。

 広げて見せてから。

 ヤクトゥーブは、こう言う。

「他に、何かご用件はありますかな?」

 その問い掛けに、デニーは、右手の人差し指を軽く伸ばして右のこめかみに当てて。左手の人差し指を軽く伸ばして左のこめかみに当てて。大袈裟なくらい首を傾げながら「んーとねーえ……」と言った。その後で、傾げていた首を元の位置に戻した。両手の先、伸ばした人差し指で天井の方を指差しながら「特に、ありませーん!」と答える。

 「左様ですか。それでは……」「あっ、ちょっと待って!」「おや、何かございますか?」「あのね、あのね、デニーちゃんが貸してもらったお金のことなんだけど。この地図のお値段と、デニーちゃんが預けたやつをリュケイオンまで運んで貰うお値段と、その二つを引いても、まだ使えるお金は残ってるかなあ?」「ええ、もちろんですとも」「んんー、それじゃあねーえ」。

 そう言うと、デニーは。一度取り上げた地図を、またカウンターの上に置いた。それから手のひらでびびーっとして、真っ直ぐに広げる。「ちょっと聞きたいことがあるんだけどお」「はいはい、なんなりと」「この近くにある、ちょーどいい感じの、はぐれヴェケボサンがいるところを教えて欲しいんだけど。秘密基地!って感じのところ」。

 「ちょうどいい感じというのは……つまり、テングリ・カガンとは全く関係がなく、かつ、そこそこの規模がある盗賊団ということですな」「そーそー、そーゆーこと!」「それでしたら」そう言いながら、ヤクトゥーブは、また万年筆を取り上げた。全く迷うことなく、ティールタ・カシュラムから少し離れたところにある渓谷に印を付ける。

 「こちらがよろしいかと」近くにある渓谷の中では一番大きな物だ。オアシスとオアシスとを繋いだライン、恐らく隊商ルートとなるであろうラインからは、離れ過ぎというわけでもなく近過ぎというわけでもないところにある。

 「どのくらいのおーきさなのかなあ」「そうですね……全体で百数十人といったところでしょうか。そのうちの一割から二割が非戦闘員ですので、戦闘になった場合に相手にしなければいけないのは百人前後といったところです」。

 あの子猫のような笑い方で、にーっと笑うと。デニーは「べりー、ぐーっど!」と言った。それから「あっ、王レベルとか公レベルとか、そういうヴェケボサンはいる?」「はっはっは、ご安心下さい。そんなヴェケボサンは一人もいませんよ。大抵の盗賊団と同じ、追放された若いヴェケボサンの集まりに過ぎません。フーツ様からすれば、耳のない兎の群れ・鰭のない魚の群れです」「あははっ、良かったー」。

 デニーはまた地図を取り上げた。手元で弄ぶみたいにして、くるくるっと巻くと。そのようにして筒状にした地図を持ったままで、きゅきゅっと振り返った。全身で回れ右をして、真昼の方を向いたということだ。一歩、二歩、スキップするみたいにして真昼のところまでやってくると。「じゃー、これ! 真昼ちゃん持ってて!」と言いながら、それを真昼に手渡した。「あんたが持っててよ」「んもー、真昼ちゃんてばっ! これくらい持っててよー!」等々と、さして実があるわけでもない会話をする。

 その後で。

 デニーは。

 腰から上だけ。

 カウンターに。

 振り返って。

「じゃー、デニーちゃん、そろそろ行くねっ!」

「もうお買い忘れのものはございませんか。」

「うんっ! ないないっ!」

「かしこまりました。本日は、色々とお忙しい中、わざわざお越し頂きまして……暫くぶりにフーツ様のお顔を拝見出来て、大変大変嬉しゅうございましたよ。担当地区がお替りとのことで、なかなかこちらの方まで足を延ばすこともなくなってしまったとは思いますが、近くをお通りの際は是非ともお寄り下さいね。フーツ様にご満足頂けるよう、最高の商品を取り揃えてお待ち致しております。」

「もーっちろんだよー!」

「お預かりしたものは間違いなくリュケイオンのイスコマスまでお届けいたしますのでご安心下さい。」

「よろしくねー!」

「ああ、そうそう。フラナガン様によろしくお伝え下さいね。」

「はいはーい!」

「それではフーツ様、それに砂流原様……」

 ヤクトゥーブは。

 笑顔の形に。

 口を開いて。

「本日は、お買い上げ誠にありがとうございました。」


「ねえ。」

「んー、なあに?」

「良かったの。」

「良かったのって、何があ?」

「売っちゃって良かったの、あの拳銃。良いの、あれ、なんか大切な物だったんじゃないの。言ってたじゃない、あれって、あんたがこっち側まで持ってきたたった二つの物のうちの一つだったって。それに、その……パンピュリア共和国の国営企業っていうと、ハウス・オブ・ラヴ?分かんないけど、そこら辺の連中に、特別に作らせたやつなんでしょう。それなら、やっぱり大切な物だったんじゃないの。それなのに、あんなに簡単に手放しちゃって……」

「あははっ! 真昼ちゃん、心配してくれてるの?」

「うるさい。」

「だいじょーぶだいじょーぶ。売っちゃったわけじゃなくて、お金借りる時の担保にしただけだからね。お金を返せば、また、ちゃーんと返して貰えるよ。」

「それにしても……世界樹の情報に、それから、他にもなんかの情報を買ってたよね。よく分かんないけど、結構お金かかったんじゃない?」

「いいのいいの! 今回使った全部全部のお金は、どーせけーひで落としちゃうからね! デニーちゃんが払うわけじゃないから……んー、まあ、あんまり使い過ぎると怒られちゃうけどね。でも、これくらいだったらひつよーけーひの範囲内だよ。」

 なんて。

 いうことを。

 話しながら。

 それにしても、デニーが経費とかなんとか言うとちぐはぐな感じが半端じゃないな。これほど強く賢い生き物でも経費の使い過ぎとか気にするのか。まあ、ギャングとはいえ組織の一種ではあるし、組織である以上はそういう諸々を気にしなければいけないのはもちろんなのだが。とはいえ、なんか違うんじゃねぇかなぁという気持ちは拭い切れるものではない。

 なんにせよ、そんなことを話している二人が歩いているのはキャラヴァン・サライから出て少し歩いたところである。タンガリ・バーザールの幹線道路のうち、一番高価な商品を売る店が集まっている辺り。貴金属だの宝石だの、そういった細工物を売っている辺りだ……とはいっても、ここでいう細工物は、ナシマホウ界に住んでいる人間が想像するところの細工物というのとはちょっとばかり異なったニュアンスを含んでるのだが。

 ナシマホウ界における細工物とは、ただ単に豪華だったり華麗だったりする装飾品のことであるが。マホウ界における細工物とはもっともっと原初的な意味を持つ物だ。つまりマジック・アイテムのことなのだ。そもそも、ナシマホウ界において、なぜあれほどまでに装飾品が珍重されるのかといえば。それは、そういった物が本来的には魔学的な意味を持つ物だからである。無意識のうちにそのような象徴性を読み取っているのである。

 耐魔性が高い物質に魔石を幾つか埋め込んで、魔石と魔石との間を観念伝導率が高い貴金属で結び付けていく。そのようにして出来た図形は、ある意味では装飾的でさえある。なぜなら、生命体が何を装い何を飾り立てるのかといえば、それは間違いなく、目に見えない形の力、呪力・妖力、あるいは……威力だからだ。ネックレス、ブレスレット、リング。accessory、access。もともとの意味は、威力にアクセスするための道具なのだ。

 そんな装飾品が。

 そこら中を。

 きらきらと。

 輝かせている。

 グロリア、グロリア! あたかも、真昼の全てを祝福しているかのように。あたかも死せる真昼の葬送を祝う喝采であるかのように。安っぽいきらきら、栄光の雨が降り注いでいた。

 店先に吊るされた真銀鍍金の鎖が風に揺れてしゃらしゃらと音を立てる。年老いたグリュプスが、自分の羽に売り物の宝石を載せて闊歩する――それらの宝石は、どれも屑石ではあるのだが――ふわふわとした羽毛の中に、鱗息魚石の、無花果石の、蜘蛛水晶の、海底水晶の、霊癌の、空囀の、まるで本物の虹の欠片みたいにして輝いている。

 今、真昼の横を一人の少年が通っていく……その少年は、一本の竿を手に持っている。その竿の先は幾つも幾つもに分かれていて、そこに様々な安ピカ物のアクセサリーが引っ掛けられているのだ。もちろん、そこにあるのは人間が装うためのアクセサリーばかりではない。メルフィスの触覚に嵌めるための角輪、ヴェケボサンの牙に嵌めるための牙輪。それに、グリュプスの羽に引っ掛けて飾り付ける羽飾り。

 ああ、ほら、そこで横たわっているグリュプスを見て! 麻で編んだ茣蓙を敷いて、その上に横たわっているグリュプスを! 体の半分が、金属を編んで作った首掛けのようなもので埋まっているほどではないか! それに、あそこの店先に置かれているテーブルはどうだ! 色とりどりの鉱石を繋ぎ合わせて作ったおもちゃみたいな数珠が山と積まれている!

 見とれる暇もないほど。

 真昼の、目の前で。

 さんざめいている。

 アクセサリーの数々。

 しかし。

 真昼の。

 関心は。

 そこには、なかった。

 焦燥感、のようなものが真昼のことを襲い始めていた。それは数え切れぬほど足を持つ長虫。ムカデ、ヤスデ、そのような不快な害虫のような姿をして、真昼の皮膚と肉との間を這い回っているようだった。思えらくは、あと一枚……頭蓋骨を穿ち、その内側に入ってくれば。また、あの苦痛が真昼を襲うだろう。それは、つまり、飢餓の苦痛だ。

 要するに真昼は、またもや空腹になりかけていたのだ。さきほど食べた程度の量では、真昼の肉体を再生させるためには、まだまだ全然足りないのだろう。

 先ほど、というのはヤクトゥーブの店に行く前ということだが、その時にデニーと話した内容によれは、ヤクトゥーブとの取引が終わるまで待てとのことだった。それが終われば、おすすめのレストランだかなんだかに連れて行くと。

 あれ、デニーのおすすめじゃなかったっけ? いや、それはどうでもいいことだ。誰のおすすめだろうが、誰もおすすめしてなかろうが、とにかく、今の真昼は、気が狂いそうな渇望がまたもややってくる前に、何かを食べなければいけないという切羽詰まった危機感に襲われていた。

 それなのに、デニーは、一向にその話に持っていこうとはしない。忘れてしまっているのか? あり得ない話ではない、と真昼は思った。こいつにとって、あたしが飢えようがどうしようが知ったこっちゃないことだ。こいつは、ただ、あたしが完全な状態で「生存」していればそれで構わない。取引の材料として使えればそれで満足なのだ。そうであれば、あたしの完全性に何ら関与しない飢餓なんていうものは、ただただ放っておいて構わないことで。

 クソ、クソ、クソ、クソ野郎! なんてやつだ、こいつはあたしをなんだと思ってる? もちろん、こいつはあたしを道具だと思っている。クソ野郎! あたしだって生きてんだ……いや、生きちゃいないか。死んでるんだったな。とはいえ、ほぼ生きてるようなものなんだ。それなのにこいつは一人の人間としてどころか一匹の動物としてさえ扱おうとしない。役に立つか役に立たないか、それだけの道具として扱う。それならばいくら待ったって無駄だ、いくら待ったって、こいつがあたしの胃袋を気遣うわけがない。

 だから。

 本当は、デニーから話を切り出させたかったのだが。

 仕方なく、真昼は、自分からその件について触れる。

「ねえ。」

「はーい。」

「あのさ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あんたが言ってたレストラン。」

「レストラン?」

「あんたが言ってた……ごはん屋さん。」

「あー、うんうん!」

「どこにあんの。」

「ほえほえ?」

「だから、そのごはん屋さんってのは、どこにあんの。あんた、さっき、ここからちょっと行ったところだとかなんだとか、そう言ってたでしょ。ここからは、どのくらい離れているの。かなり近くにあるの、それとも、ここからすぐのところにあるの。」

 デニーは、そう言った真昼の言葉に、暫く何かを考えているようだった。わざとらしく、左手を顎のところに添えて。腰の辺りから体を傾げて見せて。

 それから、何か、はっと気が付いたような顔をすると。また体を真っ直ぐに戻して、「あーっ!」と言いながら、自分の胸の前で両手のひらをぱーんと打ち合わせた。「真昼ちゃん、またお腹すいたんでしょー!」。

 そうだよ、その通りだよ、腹ぁ減ってきたんだよ。分かってんなら、そんなクソみてぇなリアクションしてねぇで、さっさと店ぇ連れてけよ!と、叫びたかった真昼であったが。どうにかこうにか喉の奥で噛み殺す。

 一方で、デニーは、無言のままの真昼のことなど気にすることなくけらけらと笑っていた。「真昼ちゃんってば、ほんとーにくいしんぼーさんなんだから!」とかなんとかムカつくことをぬかしながら、真昼の方をくるっと振り返る。背中のところで手を組んだままで、とんっとんっと後ろ向きに跳ねるみたいに歩いている。

 ににーっとした笑みを見せながら上半身を少しだけ傾けて。真昼の顔を斜め下から覗き込むようにしながら「真昼ちゃん、ごはん屋さん行きたいの?」と言う。その後で、すぐに、真昼が何か返事をする前に「ああー、だいじょーぶだいじょーぶ、答えなくっても大丈夫だよ! デニーちゃん、ちゃーんと分かってるから!」。

 こ、こいつ……ぶっ殺されてぇのか……?と思ってしまった真昼だったが。辛うじて、右の拳に全身全霊を込めて相手を貫く必殺技、セミフォルテア・パンチを繰り出そうとする自分を押さえ付けることが出来た。

 そんな真昼に対して。

 デニーは。

 ふと、その場で。

 立ち、止まった。

 ぴんと人差指を伸ばして。それから、その指先で上の方を指差しながら言う「アミーン・マタームはあそこだよ」「は?」「アミーン・マターム、フランちゃんのおすすめのお店はあそこにあるよ」。その言葉を聞いて。あそこって、あんたが指差してんのは空の方向だけど……と、思ってしまった真昼であったが。そこで、はっと気が付く。そうだ、この街は二次元方向だけではない、三次元方向にも広がっている。

 デニーが指差した方向に視線を向けてみる。空中に静止している建造物、ごちゃごちゃと、作りかけのパズルのように入り組んでいて。建物と建物との隙間から差し込んでくるほとんど木漏れ日のような太陽の光……真昼は、まるでおもちゃ箱の底から空を見上げているような錯覚を覚えてしまう。

 それでも、その方向を、ただひたすらに見つめていると。やがてある事に気が付いた。煌びやかに燦然と、太陽が照らし出す光をがりがりと咀嚼して嘔吐しているかのように。粉々に砕かれた光の驟雨のように、絢爛と、爛漫と、空間を占拠している店舗。装飾品を売る店舗、店舗、店舗の数々。つまり、装飾品街とでも呼ばれるべきバーザールの一区画は、地上から百ダブルキュビト程度の地点で途切れてしまっていた。その上にあるのは、なんというか、もう少し特別な空間らしいのだ。

 そう、よくよく考えてみれば。二次元方向に街が区分されているのならば、三次元方向にもやはりそのような分断がなければおかしいのである。ちなみに……真昼は、一目見ただけではなんとなくしか分からなかったのだけれど。このティールタ・カシュラムは、平面方向と垂直方向と、合計して四つの領域に分かれていた。

まずは階層の一番下、現時点でデニーと真昼とがいる場所。ここは一般大衆のための場所である。さして高価ではない、庶民でも手が届くような物を売っている場所。まあ、この装飾品街にある物は多少高価な物が多いのだが……それでも庶民でも買えないわけではない。

 しかしながら、二層目には、そういった商品は売られていなかった。そこで売られている物は、まさに上流階級の商品である。貴族のような、将軍のような、あるいは高等知的生命体。そういった種類の生き物のためにある場所。例えば、下の階層では絶対に売られていないような、高度な技術を使ったマジック・アイテム。あるいは、アーガミパータ各地から取り寄せた最高級の食材を利用したレストラン。それに「特別な能力を持つ」奴隷。

 どうも。

 デニーが。

 指差して、いるのは。

 その階層らしかった。

 ちなみに、残りの二つの領域だが、一つ目の領域が先ほどのキャラヴァン・サライだ。ここは基本的にはティールタ・カシュラムにとって異人であるような生き物のための領域である。既に少し触れたことだが……普通、この街で商売をしている商人というのは、この街を拠点として様々な場所に足を延ばす半定住型の商人である。けれども、キャラヴァン・サライに受け入れられる商人というのは、あちらこちらへと放浪して、決して定住することがない旅商人なのだ。そして、もう一つの領域が、最上階。水晶の天蓋を頂いたあの建物、カ・マスジドを中心とした領域である。ここはアイレム教徒のための場所であり、アイレム教徒であれば誰でも足を踏み入れることが出来るようになっている。

 なんにせよ、そのアミーン・マタームという店はこの街の二層目にあるらしい。具体的には地上から百ダブルキュビト以上の位置にある空間ということだ。アーガミパータで使われる文字に精通していない真昼は、出ている看板の文字を読むことが出来なかったし。そもそも看板など出していない店が多いので、どの店がアミーン・マタームなのかということは分からなかったが……どの店にせよ、遥かな高みにあるということに違いはない。

 デニーの口調・態度からすると、さほど遠くにあるというわけではないはずだ。恐らくは、今、真昼が見ている辺り。あの辺りにある建造物のどれかがそうなのだろう。ただ、この際、近いとか遠いとかは問題ではない。問題なのは、その店に辿り着くためには上に行かなければいけないということである。

 人間は、普通は飛べない。そして真昼は人間だ。いや、まあ、今の真昼はちょっと人間離れしてしまっているところも多々ないわけではないのだが、ベースとなる部分は人間である。ということで、あそこまで飛んでいくことは出来ない。

 また、それだけでなく……この街についての説明をした時に、この街に敷設されている道は、二次元方向だけではなく三次元方向にも延びているということ。それどころか、空間がばらばらに切断されているために、一見しただけでは道が繋がっているようには見えないところ、空間的にはなんの接点もないように見えるところにさえ道が繋がっているということ。そういうことを書いたのだが。そういう方法を使っても、下の階層から上の階層、どうやって行けばいいのかよく分からなかった。

 まず下から上に向かって延びている道だが、どうも見たところ上の階層まで延びている道はないようだった。下の階層の一番上まで、つまり地上から百ダブルキュビト程度のところまでは、色々な路地が入り組んで結び付いて網目のように張り巡らされているのだが。そこから先は、ふっと途切れてしまっているのだ。

 また、いわゆるポーティック・フォルトのような道。こちらの一点からあちらの一点、全く隣接していない二つの領域が繋がっている断層のような道であるが。これについては、真昼は、そもそもどこがどう繋がっているのか分からなかった。人間の感覚で解知出来るようなものではない。長い間この街に住んでいればどこがどこに繋がっているのかということが経験によって分かるだろうが、そういうわけでもない。だからお手上げなのだ。

 とはいっても……根本的な問題として、その見えない道によって下の階層と上の階層とが実際に繋がっているのかということもはっきりとは言えないのだったが。真昼が見た限りでは、下の階層の範囲内であれば、こちらの道からあちらの道へ、瞬間的に移動する生き物の姿を見ることも出来たのだが。ただ、下の階層から上の階層に、あるいはその反対に、そのような移動方法で移動した生き物の姿を見たことがなかった。

 上の階層に行くことが出来る道がないのか、あるいは、よほど限られたルートでしか上の階層にはいけないのか。どちらにしても、真昼が辿り着けるとは思えない。

 それでは。

 どうする。

 どうやって。

 その店まで。

 行け、ば。

 いいのか。

「じゃーあ、街のお外に行く前に。」

 そんなのは。

 決まってる。

「ごはん食べてこっか。」

 デニーに。

 全部。

 任せれば。

 いい。

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