第三部パラダイス #5

 それからどれくらいの時間が経ったのだろうか、と書くほどの時間は経っていない。せいぜいが数十秒か、それか数分だろう。絶対に十分は経っていないと断言出来る。ただ、とはいえ、その範囲でどの程度の時間が経過したのかとなると……真昼にはちょっと覚束ないところがあった。

 記憶が飛んでしまっているのである。その間、意識がなかったというわけではないだろうが。全神経を紙袋の中に入っている物に集中してしまっていたため、物事を記憶する機能が働いていなかったようなのだ。

 前を歩いていくデニーの、その後についていきながら。紙袋に手を突っ込んでは、掴めるだけ掴めた物を口の奥に突っ込むという作業を続けていた。そう、それはほとんど作業だった。咀嚼・嚥下という作業だ。

 夢中になって、ナッツとデーツと、食べに食べに食べまくって。紙袋の半分ほども食べ終わったところで、ようやっと落ち着いてきたという感じである。毎回毎回、口がまともに閉じられないほどの量を押し込んでいたので。なんとかしてそれをもぐもぐしようとするたびに、ナッツの破片がそこら中に飛び散った。それだけでなく、手についたナッツの粉みたいなものがパラパラと落ちていたし、デーツの皮はデーツの皮で口の端から落ちていくし。まさに食い散らかすという言葉がぴったりな食べ方であった。

 たぶん気のせいだろうけれど、心なしか全身に血液が巡り始めたような気がしてくる。それに、それだけでなく、首の辺りがしっくりしてきたような気もする。さっきまでは、なんだかすかすかしていた骨が、しっかりとした骨量になってきたような気がするのだ。発狂しそうなほどの空腹感が和らいできて、満足とはいわないまでも……少なくとも、理性は働くようになってきた。

 すると。

 真昼は。

 あることに。

 気が付いた。

 目の前、一ダブルキュビトか二ダブルキュビトか、その程度の距離のところをデニーが歩いていたのだが。そのデニーの足元に、何か纏わりつくように揺らめいているものがあったのだ。それは、細長い蛇のような形をしていた。けれども、前脚と後ろ脚と、それにぴんと立った二つの耳がついていた。せいぜいが三十ハーフディギトくらいの長さしかない。そんな、何かの……生き物が、二匹。デニーの足に、全身をすりつけていたのである。

 真っ白だった。白百合よりも白薔薇よりも、誰にも踏みしだかれていない新雪よりも純白であった。それなのに、まるで影のように目立たないのだ。あたかも、そこにそれがあるということが当たり前過ぎて気が付かないかのように。観念的な死角になっているかのように、それを意識するのは難しい。

 体つきはイタチ科みたいに見えるのだが、どちらかといえばイヌ科の生き物であるようだ。小さな狐、しなやかな狗、細長い狸。そのように見える動物の一種。狐、狗、狸……要するに、それは孤狗狸であった。

 メルフィスやダガッゼやと同じ中等知的生命体だ。ただし、四足歩行であるため高度な把持性を有しているわけではない。こう見えてもゼティウス形而上体の一種であり、とはいっても獣的ゼティウス形而上体なのだが、なんにせよ形而下で進化した哺乳類とは全く異なる性質を有している。

 ほとんど純粋な魔学的エネルギーに近い存在であり、そのおかげで全身の具体性が一定ではない。物質によって遮られることはほとんどなく、物理法則も曖昧にしか働かない。とはいえ数パーセントの不純物が混じっているため、科学的な論理を完全に無視出来るというわけではないのだが。

 そんな。

 孤狗狸。

 の。

 うちの。

 一匹。

 真昼の見ている目の前で、デニーの足元から、するするとその体を登っていった。とはいっても、デニーの服に爪を引っ掛けて登ったとかそういう感じではなく、ほとんど浮かび上がるような感じだった。デニーの足に巻き付いた後で、そこから腰へ、腹へ、胸へ、上がっていって。最後には、肩の上にまでやってきた。右肩に前足を乗せている。デニーの耳元に――とはいってもデニーがかぶっているフード越しにということだが――口を寄せるようにして。

 無論、それに。

 気が付いていないデニーではなかった。

 ふっと、孤狗狸の方に顔を向けて。

 くすくすと笑いながら、こう言う。

「待ってたよーお。」

 共通語だった。孤狗狸はゼティウス形而上体なので、観念的な要素を含んでいる象徴的行為、言語についてはかなりの理解力がある。というか、言語に含まれているところの観念をそのまま読み取ることが出来るのである。だから、わざわざビラーティ語を使う必要はない。

 それはそれとして、デニーが口にしたその言葉は一体どういう意味なのか。待っていたということは、この孤狗狸が世界樹について知っているという情報屋なのだろうか? いや、それは少し違うらしい。

 孤狗狸が、デニーに何かを囁く。孤狗狸の声は非常に特徴的だ。きゃらきゃらという感じ、夜空の星屑を砂時計の中に入れて、少しずつ少しずつ上の膨らみから下の膨らみへと落としていくような。その声を聴いていると、耳の中に溶けた夢の残響を流し込まれているような気がしてくる。

 それに対してデニーは「あははっ、そうそう、ちょーっとね」と答えた。孤狗狸が、更に何かを囁いて。それから、デニーが「んーとお、デニーちゃんの後ろに、雌のさぴえんすがいるでしょ? 死んじゃってる子。魂がなくなっちゃってる子。デニーちゃんはあ、その子のことを生き返らせないといけないんだよね。それでーえ、ここから一番近い世界樹がどこにあるのかーってことを、知ってそーな子の居場所を教えて欲しいんだよね」。

 孤狗狸は噂好きで有名な種族である。ここでいう噂好きとは、人間的な意味で好奇心旺盛であるというよりも、そもそものゼティウス形而上体の特質として世界の情報に対する蒐集癖があるといった方がいい。そうして集めた情報が孤狗狸自身を方向付けているところの観念を強化するのである。

 そのため、その土地のことをあまりよく知らない時には、まずはそこに住んでいる孤狗狸を探すと良いといわれている。孤狗狸は、その土地のことを非常によく知っているし。他の土地の情報と引き換えに、そのような情報を惜しみなく提供してくれるからだ。デニーはそのセオリーに従ったのだ。

 孤狗狸はゼティウス形而上体であるため非常に些細な魔学的エネルギーの変質を読み取ることが出来る。デニーは、この街に着いてから今の今まで、あたかもフェロモンを撒き散らすかのようにして、自分の周囲に魔力的なフィールドを発生させていた。結界というほどしっかりとしたフィールドではない。どちらかといえば、どこまでもどこまでも広がっていく霧のようなもの。そして、その霧を感じ取った孤狗狸が、生物としてあまりにも異質な魔力を嗅ぎつけたために、なんらかの情報を得ようとしてデニーと接触を図ったということだ。

 さて、デニーが発した言葉に。肩に乗っていた狐狗狸は、少し考えるような素振りをして見せた。それから、肩には乗らないでデニーの足元に纏わりつくようにして地面を進んでいた狐狗狸に向かって、何事かを問い掛けた。足元の狐狗狸は肩上の狐狗狸に対して何かしらを答えると、それに一言二言付け加えた。

 「あー、なるほどねー」。そのきゃらきゃらを聞いたデニーが、いかにも納得したようにうんうんと頷いた。その拍子に肩が揺れて、乗っていた孤狗狸が落っこちそうになる。デニーは、こう続ける「キャラヴァン・サライかー」。

 どうやら情報屋はキャラヴァン・サライという場所にいるようだ。「分かった、ありがとっ!」肩の上の孤狗狸にちらと視線を向けてから、デニーはそう言った。それから「それで、何か欲しい情報はある?」。

 肩の上の孤狗狸は、またもや足元の孤狗狸に何かを問い掛けた。足元の孤狗狸は、それに対して即座に答える。デニーは、今度は足元の孤狗狸に視線を向けてからこう言う「え? セレファイスについて?」。

 ほんの少し、デニーは躊躇しているような素振りを見せた。困ったなー困ったなーみたいな様子で、ぴんと立てた人差指を顎のところにくっつけて。それから「んあー、セレファイスのことかー」と言う。「そこら辺のことはねーえ、ちょーっとだけ、秘密の秘密って感じなんだよねー。もう、セラエノ会議の議題にまでなっちゃってるから、デニーちゃんが勝手にお話しして良いことじゃないんだよねー」。

 そんなこんなのことを言いながら、色々と悩んでいるようだったのだけれど。やがて「ま、いっか」と軽々しく結論付けた。その後で「じゃあ、教えてあげるから」と言うと。肩に乗っていた孤狗狸が、するするとデニーの体を降りて、また足元のところにまで戻っていった。

 それまでデニーは立ち止まらずに歩き続けていたのだけれど。ふと、いきなり立ち止まった。そんなデニーの目の前に、足元に纏わりついていた二匹の孤狗狸が進み出る。デニーから数十ハーフフィンガーのところ、後ろ脚をちょこんと折って、座っているような姿勢をとる。

 デニーは二匹の孤狗狸のすぐ先のところにしゃがみ込んだ。右の手のひら、人差指と中指と、真っ直ぐに伸ばして。親指と薬指と小指とは、軽く折り曲げて。そうした指先を、座っている孤狗狸に向かって突き出す。

 まずは、右側の孤狗狸に……その中指が触れた。中指、知識の指。説明責任を果たすための指先。とうっと触れたその瞬間に、孤狗狸に向かってデニーの知識が流れ込んでいく。無論、全てではない。開示出来る限りの情報でしかないが、孤狗狸にとってはそれで充分であるようだ。

 満足げに、一声、鳴き声を上げた。それからデニーは、左側の孤狗狸にも同じだけの情報を流し込む。こちらの孤狗狸も右側の孤狗狸と同じような鳴き声を上げて。

 そして。

 ぱっと。

 空気の中に溶け込むように。

 二匹の孤狗狸は姿を消した。

 そういう一部始終を、真昼は見ていた。意地汚く、がりがりと、ナッツとデーツとを胃袋に突っ込みながら。特に思い出すとも思い出さないともなく……なぜかは分からないのだが、ぼんやりとテレビで見ていた知識が蘇ってきていた。人間のような生き物の味覚にとって、重要な要素は三つである。一つ目が糖分、二つ目が脂質、そして最後の一つが塩分だ。それぞれに美味であると感じるための適切な配分は決まっている。その中でも脂質だけはどれほど多くても問題なく、むしろ多ければ多いほどいい。それだけでなく、脂質が多く含まれていると、その分だけ糖分と塩分とを感じる感覚が鈍くなり、結果として糖分と塩分とを多く摂取することが出来るようになる。ところで、今食べている物は、その三つの要素の中では少し塩分が足りないな……とかなんとか思いながら……指についたナッツの破片を舌の先で舐め取って。

 デニーに。

 こう言う。

「分かったの、情報屋の居場所。」

「んー、まあね!」

 デニーは。

 そう言いながら。

 立ち上がると。

 にぱーっと笑いながら。

 真昼の方を振り返った。


 その建物はタンガリ・バーザールの一番奥にあった。幹線道路の奥の奥、あたかも城壁のように立ち塞がる壁。それが、左右に百ダブルキュビト以上の長さで伸びている。高さとしては大体十ダブルキュビト程度であろうか。

 幹線道路が続いているのは、その城塞に埋め込まれた門の部分だった。門は、いかにもアイレム教建築らしい尖塔アーチの門であって。城壁からこちら側に向かって突き出すように据え付けられた二つのミナレットに挟まれるような形で開いている。

 ミナレットは細長いというよりもどっしりとした感じだ。高さが十五ダブルキュビトくらい、直径が十ダブルキュビトくらいの六角柱をしている。六角柱に直径というのはおかしいが、いいたいことはなんとなく分かって貰えると思う。材質は城壁を形作っているものと同じで、それは煉瓦だった。ただ、普通の煉瓦よりもなんとなく赤茶けたところがある。

 また、ミナレットは、門のところにだけにあるというわけではなかった。城壁は、一辺が百ダブルキュビトの正四角形に作られていたのだが。その一つ一つの頂点にミナレットが建てられていたのだ。ただ、それらのミナレットは門のミナレットよりも高く、二十ダブルキュビトくらいの高さがあったのだが。

 ミナレットの上には、小さなドーム状の屋根が付いていて。その下にヴェケボサンが立っていた。一つのミナレットに一人ずつだ。街中にいたヴェケボサンとは違い飛び道具を、人間などは持つことさえ難しいだろう巨大な弓を持っている。

 一方で、門の方は。高さは城壁と全く同じであり、幅もそれと同じくらい。真昼がよく知らない、真っ白な色の石材で出来ていた。なんとなく陶器のようなつやがある。しかも、これだけの大きさの門であるにも拘わらず、小さく切った石材を重ねたのではなく、一枚板を彫り抜いて作られた門であった。

 門は全体が真っ白というわけではなかった。美しい、青い色をした石材が象嵌されていて。それが複雑な模様を描いている。恐らくは、これは意匠化された魔学式の一種だ。門に門扉が取り付けられていないことから考えると、何かあった時にはこの魔学式によって門の外側と内側とを遮断するのだろう。

 ただ……どんなに城壁が高くても、どんなに門が高くても、ここには飛行することが出来る生き物がいるのだから意味がないだろうと思われる方もいらっしゃるだろう。それが不思議なことに、門を通らずその内側に入ろうとする生き物は一匹もいなかったのだ。とはいっても、この建物が結界に覆われていて上を通り抜けられないというわけではないらしい。

 それでは、なぜ城壁を飛び越えていく生き物がいないのかといえば……それは、どうもヴェケボサンがいるからであるようだった。ミナレットから見張っているヴェケボサンからすれば、城壁を飛び越えようとする生き物など狙い撃ちしてくれといっているようなものである。なので、飛行能力がある生き物であっても、あの門を通るしかないのだ。

 さて。

 要するに。

 ここ、が。

 キャラヴァン・サライだ。

 わざわざ説明する必要はないと思うが、キャラヴァンは隊商、サライは宿、つまり共通語に訳すと隊商宿ということになる。その名の通り、このティールタ・カシュラムへとやってきた旅の商人が荷解きするための場所である。

 そもそもティールタ・カシュラムには二種類の商人がいる。まずは、定住するとまではいわないにせよ、この街に長くとどまって商売を行う商人達。これはバーザールの中に店舗を持ち、卸売りと小売りとを中心に商いをしている。もちろん、自分達で、この街の外側に商品を仕入れに行きもするが。大体は、旅の商人から商品を仕入れるか、あるいはそういった商品を加工して販売する職人兼商人である。そして、もう一種類が旅の商人だ。これは街から街へと放浪する商人達であって、この街に店舗を持つわけではない。そういう商人達は、このキャラヴァン・サライに宿泊し、このキャラヴァン・サライの施設を使って商いを行うのだ。

 一辺が数十ダブルキュビト、大きな正方形の中庭を囲んだ建物である。そう、城壁のように見えたこの構造物そのものがキャラヴァン・サライの建物なのだ。十ダブルキュビトの高さが、階段状の二階建てに分けられている。一階部分の屋根の上に、二階部分の施設と回廊とが乗っかっている形ということだ。二階部分が宿泊施設、一階部分がその他諸々の商業施設になっている。例えば、商品の展示場、取引所、事務所、倉庫。それに商人の乗用動物のための厩舎など。また、そのようにしっかりと用途が決まっていないこまごまとした小部屋も用意されている。

 中庭の四隅には幾何学的といってもいいほど均等な間隔で木々が植えられている。真昼は植物の種類には詳しくないのでよく分からなかったが、砂漠地帯に生えていたような灌木・低木のたぐいではないようだ。乾き切った感じはなく、むしろ瑞々しい常緑樹といった感じ。大きさも、ヴェケボサンくらいの大きさの生き物であれば木陰で憩うことが出来るくらいはある。

 葉の感じからいうとヤシ目ヤシ科の植物だろうと思った真昼の予想は当たっていた。それは南アーガミパータを中心として分布してるアゴンヤシと呼ばれる種類のヤシだった。アイレム教の建築においては、中庭は楽園を表す象徴的部分であり、そこに植える植物は実を着けるものが好まれる。ここに植えられたアゴンヤシも、その葉の下にたわわに果実を実らせていた。

 また、中央にはそこそこ大きめの水盤が設置されていた。縦に五ダブルキュビト・横に五ダブルキュビトほどの大きさで、非常に精密に計測された七芒星の形をしている。七芒星の真ん中に、一つの大きな噴水があって、数ダブルキュビトの高さまで至る水を噴き上げている。また、一つ一つの角の部分には、それよりも小さい噴水が取り付けられていて、一ダブルキュビト程度の高さまで水を吐き出していた。

 その水盤の近くでは……というか、その水盤の中では、河童が寛いでいた。どうやら、わざわざ海果地域からはるばる行商に来た河童らしい。河童については読者の皆さんもご存じですよね? マホウ族の中では最もポピュラーといってもいい種類の下等知的生命体であり、主に海果地域に生息している。

 両生類ではあるが、身体構造・精神構造ともに非常に人間に似ている。身長も体重も人間と大体同じくらい。ただし、指の数は四本であり、指股から指先まで水かきがついている。顔の造作も人間に近いが、多少は異なった部分もある。二つの目は全体的に黄色っぽく、瞳の色は美しく輝く黄金のようだ。顔の両側に耳がついているが、人間のように突き出した部分はなく、鼓膜が剥き出しになっている。一方で、目の下の辺りから口にかけての部分が少しばかり前方に突き出しており、その中途に鼻の穴が二つ上向きに開いている。口に生えている歯は、その全てが鑢で研ぎ澄ましたかのようにぎざぎざと尖っている。

 河童の頭頂部には皿があって中の水が乾くと死んでしまうなどという俗説があるが、それは嘘である。ただし、完全な嘘とはいい切れない。河童は、両生類にしては珍しく鰓呼吸から肺呼吸へという変態をするわけではない。一生にわたって鰓呼吸と肺呼吸との両方を行うことが出来るのだ。ただし、どちらかといえば鰓呼吸の比率が高く、鰓呼吸をしなくても死にはしないのだが、なんとなく息苦しいような気持になってくる。そのため、河童の頭部から頸部まで、つまり鰓がある首の部分まで、人間でいう髪の毛のような体毛が生えてるのだ。この体毛に水分を貯めておき、常に鰓呼吸が出来るようにしているのである。

 また、皮膚呼吸もしているので常に全身が濡れている必要がある。呼吸するために皮膚が角化細胞で覆われておらず、生細胞が剥き出しになっているからだ。生細胞だけでは水分の蒸発を遮ることが出来ず皮膚の全体がすぐに死滅してしまう。それを防ぐために湿潤な粘膜で保護しているのだ。ちなみに、その粘膜には対世界独立性の高い物質が混ざっているらしく、全体的に青っぽい光沢がある。そのため河童の肌は、青黒いというか、どす緑の色をしていて、常にてらてらと光っている。

 下等知的生命体の中では最も知性が発達しているといわれる種だ。そのため、謎野研究所の研究員の大部分は人間ではなく河童であるくらいだ。ただ、とはいえ、人間と同じように関係知性の持ち主であり、感情だの意識の、そういった精神的な不完全性から逃れられているわけではないのだが。

 そのような河童が水盤の中にいた。街中でも何人かの河童を見たが、ここは川沿いの街であるため、河童からしても比較的過ごしやすいのだろう。ちなみに、河童は、ただ単に寛いでいるというわけではなかった。水盤の近くに商品のサンプルを広げて商売をしていたのだ。

 河童だけではなかった。例えば、あそこには小さめの天幕が張られていて、その中で人間が商売を行っている。あるいは、あっちのアゴンヤシの木陰。寝そべったグリュプスがいて、やはり商品のサンプルを広げていた。旅の商人達がこの中庭でも商売をしているのである。

 そう、このキャラバン・サライは第二のバーザールとでもいうべき場所なのだ。商品展示場や、あるいは中庭に、商品のサンプルを並べておいて。購入が決定したら、倉庫の中にある商品を引き渡すのである。もちろん、引き渡しの前には商品の改めはするのだが……とにかく、そういった売買を行う生き物達で、このキャラバン・サライは大賑わいしていた。

 混然一体。

 人込みで溢れ返った門。

 デニーと真昼とは。

 そこに入っていく。

 真昼は、ちょうどその時に紙袋の中の物を食べ終わった。んがーっと大きく口を開けて、その上で紙袋をひっくり返して。残っていた欠片をざざーっと注ぎ込む。空になった紙袋はもう必要ない。真昼は、それを手の中でぐしゃっとして。ぐるぐるとひねり潰した上で、ぎゅっと一つ結び目を作って。そうして放りやすくしてから、そこら辺に、ぽんっと投げ捨てた。

 満腹では全然ないのだが、それでもある程度の「食べた食べた」感はあった。先ほどまで空っぽだった肉体の中に、じゃらじゃらと温度のある液体が流れている気がするあの感じである。きっと、早くも血液が作られ始めているのだろう。普通だったらこんなに早く出来るわけがないのだが、今の真昼はデニーの魔学式に強化されている状態なのだ。造血幹細胞も頑張ってくれているに違いない。

 真昼は。

 なんとなく。

 サテライトに切断された首筋。

 首輪のように残っている傷跡。

 軽く引っ掻きながら。

 デニーに。

 こう問い掛ける。

「ここに、その情報屋がいるってわけ?」

「うん、そーだよー。」

 確かに、これほど賑わっている場所であるならば。外の世界からやってきた様々な商人が集まっているこの場所であるならば。世界樹の情報を商っているという誰かもいるかもしれない。

 デニーは、このキャラヴァン・サライのどこに目的の生き物がいるのかということを理解しているらしい。あちらへこちらへと優柔不断に惑うことなく、真っ直ぐ真っ直ぐに進んでいく。

 生命の多様性に満ち溢れた中庭を突っ切っていく。売り手と買い手との、まるで戦争のような価格交渉の声を聞き流しながら、噴水の横を通る。どうやら中庭には用がないみたいだ。そのまま奥の方に進んでいって……そして、キャラヴァン・サライの一階のところまで辿り着く。

 デニーの目当て、は。

 小部屋のうちの一つ。

 一つ一つの小部屋が区切られて城壁のようなその建物に均等に並んでいた。外側から見た時、それぞれの小部屋はそれほど大きくないように見える。その幅はせいぜいが四ダブルキュビトくらいしかないからだ。ただし、奥行きは相当あるらしい。真昼が今見ているこの小部屋は、どうやら倉庫に使われている物らしく、詰め込まれている商品のせいでここからは見通せないが。それでも建物の深く深くまで続いているということは分かる。

 小部屋の入り口は、キャラヴァン・サライ自体の入り口と同じような尖塔アーチだったが。ただ、あちらが割合に装飾的なオジーアーチである一方で、こちらは単純な構造のドロップアーチだった。また、こっちにも門扉のような物は付いていなかった。というか、そもそもマホウ界の大抵の建物には扉のような物は付いていないのである。扉というのは建物の内部の何かを守るために付けられる物だが、マホウ界に生息する生き物は、そういった扉に守られなければいけないほど脆弱ではないのだ。それに、マホウ界の全ての知的生命体が高度な把持性を有しているというわけではい。そのため、わざわざ手を使って開け閉めする扉があると邪魔で邪魔で仕方がない。扉が付いた建物を作るのは、高度な把持性を有する生き物しか使わないと予め分かっている場合だけだ。

 先ほども書いたように、小部屋は、様々な用途で使われている。それに、その並びにも規則性があるわけではないので、どれがどのように使われているのかということは覗いてみないと分からないはずだ。それでも、デニーは、どの小部屋に情報屋がいるのかということが分かっているようだった。

 迷いなく。

 ずんずん進む。

 キャラヴァン・サライ。

 入口がある建物とは。

 反対側にある建物の。

 一階、左端の小部屋。

 一番目立たないところにある。

 その、小部屋。

 その小部屋は……他の小部屋とは、なんとなく違っているように見える小部屋だった。どこがどう違うのかということを具体的にいうことは出来ないのだが、どことなく停滞しているような気がするのだ。気配のようなものが重く沈んでいる。真っ昼間の明るい太陽に照らされているにも関わらず、視界が晦冥に覆われているような気がする。まるで、ここを見つけるべき何者か以外はここを見つけることが出来ないようにしているかのように。

 そのせいで、他の賑わいをよそに、ここは静まり返っていた。まるで誰も死んだことがない世界の誰も埋葬されていない墓場みたいだ。

 普通だったら、ちょっとばかり、足を向けることを躊躇してしまうが。デニーはそんなことをお構いするようなタイプの生き物ではない。

 ててん、ててん、という感じ。スキップしているのかと思えるくらいに軽やかな足取りで、その小部屋の前までやってきたデニーは。ぴょこん、と中を覗き込んだ。

 つられて真昼も覗き込む。中は……液体になった闇で満たされているかのように薄暗かった。ところどころに、魔学的エネルギーを球体にしたものらしき明かりが浮かんではいるのだが。それらの明かりは仄明るい紫色をしていて、小部屋の全体をはっきりと照らし出すには至っていなかった。

 とはいえ、見えるところは見える。その範囲で、そこにあるものは……恐ろしく雑多雑多としていた。人間が想像しうる限りのあらゆるもの、あるいは想像し得ないものさえもそこに突っ込まれてるかのようだ。

 一番最初に目に入ってくるのは地図である。小部屋の壁一面には、ほとんど余白部分なしに地図が貼り付けられていた。薄汚く変色している物から、比較的真新しい物まで。その大部分が、どうやらアーガミパータのものらしいと分かるのだが。中には何が何やら分からない地図もある。どういうことかというと、刻一刻と描かれている図形が変わっていくのである。鬼魔界だの精霊界だのの変化しやすい場所か、それかドリームランドの地図だろうか。また、真昼にもよくよく馴染みがある地図があった。つまり、月光国の地図だ。え? なんでこんなところに月光国の地図があるの?

 また、それ以外にも小部屋の中にはあらゆる物が散らかし放題に散らかされていた。例えば小部屋の片隅に山と積まれている麻袋。これはどうやら様々な貴石を入れているらしかった。雑に扱われたのか、麻袋のそこここが破れていて。中に入っている色とりどりの破片がこぼれ落ちていることからそれが分かる。

 それぞれの麻袋には、それぞれ違う貴石がいっぱいに詰め込まれていて……ただし、そうはいっても、加工が終わっていない原石らしかった。宝石になった状態で見ても宝石と色ガラスの区別がつかないような真昼である。原石を見ても、どれがなんという名前の貴石なのかということは皆目見当もつかなかった。

 それから、あちら側のテーブルの上に積み重ねられているのは生地を巻物にしたものだろう。一番多いのは恐ろしく繊細に紡がれた絹で出来た布だ。それだけでなく、レンの蜘蛛が吐き出した糸を織り成した布、繊維状にしたフーバイトを織り成した布、れいれいと赤い色をした悪夢を切り出して作り出した一枚布まであった。また、マホウ界にしか存在しない生き物から剥ぎ取った毛皮や、そういった皮を鞣して作ったらしい皮革もあった。そういった、全ての布製品はうっすらと見えるドーム状の結界によって覆われている……さほど強い魔力は感じないので、恐らくは布を食われないように虫除けの結界を張っているのだろう。

 真昼が。

 その小部屋を。

 覗き込んだ時。

 どろどろと。

 こちら側に。

 流れ出してくるような。

 匂い、を感じたのだが。

 それはスパイスの匂いだった。この小部屋の真ん中に山と積み重ねられた木箱。そのそれぞれに大量に詰められたスパイスの匂いに、小部屋の中の埃っぽい匂いが混ざったものであった。

 いや、これは、スパイスというよりも……ほとんど薬品のたぐいといってもいいような物だった。ごくごく普通のスパイスなどは一種類も置かれておらず、そもそも植物性の物だけというわけでもなかった。特殊な魔法に使われる珍奇な香料、飲むだけで尋常ではない効果がある仙薬。ほとんどが真昼の知らない物質だったが、中には真昼が知っている物もあった。ラゼノクラゲである。ラゼノクラゲを乾燥させてスパイス状にした物だ。以前も書いた通り、このように加工されたラゼノ・クラゲは存在中枢刺激系の薬物として取引される。というか、これをシガーにしたものが、あのラゼノ・シガーなのだ。

 と、まあ。

 小部屋の中。

 このように。

 今まで真昼が見てきた市場。タンガリ・バーザールにせよ、キャラヴァン・サライの中庭にせよ。その中にあるどの店でも見られないような、非常に高価な品物ばかりが並べられていた。まあ、並べられていたというよりも、無造作に置かれていたといった方が良さそうだが。

 いずれにしても、この店は……そう、ここは店だった。そして、この店は、他の店とはどこか異質なところがあった。誰でも彼でも受け入れるわけではなく、ここで取り扱われている商品の価値が分かる者だけを顧客として受け入れる。特別なカスタマーのための特別な店だ。

 そして。

 もちろん。

 デニーは特別なカスタマーだ。

 誰よりも。

 誰よりも。

 特別なカスタマー。

「す、まーんがらむ!」

 と、元気よくご挨拶をしながら。デニーはその店の中に足を踏み入れた。その瞬間に、店の中で停滞していたネガティブなエネルギーのようなものが、デニーのポジティブなエネルギーによって一気に吹き払われた……ような感覚を、真昼は感じた。別に、薄っ暗く埃っぽい、いかにも一見さんお断りといった感じのままであったが。それでも、ヴェールのようなものが一枚取り払われた感じがしたのである。

 づかづかと店の奥に突き進んでいくデニーについて、真昼も店の中に入っていく。五ダブルキュビトほどの高さがある天井、かなりすり減った石畳が敷かれた床。商品と商品と商品とが無秩序に配置された店内は、奥の方へと歩いていくためのルートを見つけることさえ難しい始末であった。

 ただ、十ダブルキュビトほど進んでいくと……多少は開けたところがあった。まあ、開けたといっても二ダブルキュビトか三ダブルキュビトの範囲に商品が置かれていないというだけの話であるが。そして、そこが、この店の一番奥のところ、突き当りのところらしかった。

 城壁を作っている煉瓦と同じ煉瓦が積み重ねられた壁。その少しだけ手前のところに、どっしりとしたカウンターが置かれている。高さは一ダブルキュビト半くらい。まるで神木か何かの破片を磨き抜いて作られたかのような、信じられないほど重厚な雰囲気を醸し出している木製のカウンターだ。

 そして、その奥に。

 その生き物がいた。

「いらっしゃいませ、フーツ様。」

 その生き物は、完全な共通語でそう言った。完全というのは語のそのままの意味であり、意味内容だけではなく、ストレス・アクセントからピッチ・アクセントから一点の歪みも一点の濁りもない、機械的に合成された言葉とも思ってしまいそうなほどの精巧な音声であったということだ。

 デニーは。

 背中の方に腕を回して。

 すーっと右足を前に伸ばして。

 爪先だけで、弧を描くように。

 体を傾げさせながら。

 にーっとした笑顔。

 その生き物に、こう答える。

「いらっしゃいましたっ!」

「大変、大変、ご無沙汰しております。最近では、フーツ様よりもフラナガン様の方がよくご利用になるようになられて。はっはっは、フラナガン様にもご贔屓にして頂いておりますが、やはりフーツ様のお顔を見ないのは寂しいものです。ああ、そういえば……今もまだデナム・フーツというお名前を名乗っていらっしゃいますか?」

「そうそう、デニーちゃんはデニーちゃんだよー。」

「それは良かった、それではフーツ様とお呼びしても問題ないようですね。」

 当然のことながら。

 その生き物は。

 人間ではない。

 端的にいって怪物だった。その口からこれほど丁寧な口調が流れ出してくるということが信じられないような怪物だった。まずは、その巨大な体躯である。ヴェケボサンさえ越してしまう身長は三ダブルキュビトに届きそうなほどであり、また、横幅も一.五ダブルキュビトはありそうだ。この狭い店の更に狭いカウンターの向こう側に、あまりにも窮屈そうに収まっている。

 その生き物を初めて見た時に抱くであろう印象は、亀である。その生き物は、全体的に亀に似ているのだ。とはいっても亀が持つ最も大きな特徴……つまり、背中に甲羅を背負っているという特徴は有していないのであるが。

 その代わりに、元々は背甲と腹甲とであったろうと思われる甲羅は、全身を覆う甲冑のような構造物に変化している。あたかもパズルのようにして甲羅が複雑に組み合わさっているのだ。背と腹とだけではなく、脚部に腕部に首筋に、それに兜のような構造になって頭部まで覆い尽くしているのである。

 また、足も甲羅に覆われている。足の指先は、一本一本がほとんど区別がつかないほど一体化してしまい、あたかも一つのハンマーであるかのようだ。そこから突き出している五本の鋭い爪がなければその数さえ分からないかもしれない。

 一方で、手はそのようなことがなかった。確かに手のひらと、それに甲の部分は甲羅に覆われているのだが。指先に関しては分厚い鱗がその代わりになっている。五本の指は比較的自由に動くらしい。高度な把持性は担保出来ているようだ。

 その生き物について、最も亀に似ているのは顔だ。口の部分が角質化した嘴になっているのだ。上顎は、鋭い鉤のように下向きに尖った嘴になっていて。下顎は、その上顎に隠れているような形。ちなみに、この口が開かれると、口腔内の全体には鋭い牙のようなものが生えている。これは、口の中だけではなく、その奥の奥、食道の方まで続いているのであるが、実は骨が変形した歯ではなく、表皮層突起と呼ばれる皮膚が変形したものである。

 その生き物の一番特徴的な部分は背中である。全身を覆っている甲羅は、もちろん背中も覆っているのだが。そうして覆っている甲羅、というか骨板同士がしっかりと癒着しあって、右側と左側と、大きな二枚の甲殻のようになってるのである。それはあたかも甲虫の上翅のような形であるが……実際に、この二枚の甲殻は、翼のように広げることが出来るのだ。もちろん、この程度の大きさの翼では、その生き物のような甚重な肉体を物理的に飛ばすことなど出来るわけがないのだが。ただ、その生き物は、この甲殻に魔学的な力を集めることによって、重力に逆らって飛行することが出来るのである。

 亀に似た、その生き物は。

 もちろん爬虫類であって。

 このように知性ある爬虫類、しかも飛行能力を持った爬虫類といえば、一般的に思い浮かべるのは洪龍である。だが、この生き物は洪龍ではない。洪龍にしては小さく、洪龍にしては弱く、しかもゼティウス形而上体でもないのだ。洪龍のようでありながら、洪龍ではない。偽物の洪龍。そう、その生き物の名は。

 真昼が。

 その名。

 呟く。

「商武?」

 あっ……えーっと……そうね、そうとも呼ばれてるね。あのー、そのー、ですね、こちら側としましては、そっちの名前じゃなくて、「偽龍」の方を呟いて頂きたかったんですが……そうして頂かないと、こう、いかにも格好つけて「偽物の洪龍」とかいっちゃったのがですね、全然意味が分からなくなっちゃうっていうか……いや、まあ、とにかくその生き物は偽龍であったわけです。

 偽龍。またの名を商武とも呼ばれる。ちなみに勘違いされやすいことであるが、偽龍の方が正式名称であり商武は別称だ。偽龍というのは、先ほど書いた通り、洪龍と同じように知性ある爬虫類ではあるが、それ以外の部分は全体的に全然違うということで、龍の上に偽という字をつけた名称だ。

 ただ、この偽というのは、偽龍の側からすれば全然偽ではないわけである。別に洪龍をパクって知性を持つ爬虫類へと進化したわけではないわけだ。偽龍にしてみれば偽龍の方が本物だ。そのため、偽龍自身は、自分達の種族のことを偽龍とは呼ばない。その代わりに別称である商武を使用する。

 そういうわけで、偽龍という名前は正式名称ではあるがあまり使わない方がいいとされている。ほとんど蔑称みたいな扱いになっているのだ。それゆえに、今、真昼ちゃんは「商武」の方を口走ったのだろう。確かに、現在の真昼ちゃんはまるでサテライトみたいに口が悪かったりもしているのだが。性根のところではお上品なお嬢様なのであって、ふっと口をついて出てしまった言葉においては、やっぱり蔑称など使わないということだ。まあ、偽龍にせよ商武にせよ、人間が勝手に付けた名前ということに変わりはないのだが。

 ちなみに、商武の。

 商という、易字は。

 その成り立ちがいまいちよく分かっていない。下の部分は口、聖なる物質を入れる箱を表わしているとされている。上の部分は辛、その聖なる物質がある場所を示す旗印のようなものとされている。この二つを合わせて、祠のような建造物を表わしているというのが通説だ。ただ、この文字自体が偽龍を表わしているという説もある。つまり、口は偽龍の甲羅の鎧部分を表わしており、辛は偽龍の甲羅の翼部分を表わしているというのだ。

 どちらにせよ、そもそもの始まりにおいては、この字は偽龍に関係する言葉にしか使われていなかった。それが次第に次第に商人という意味合いで使われるようになっていったのは、偽龍がまさに商人の種族だったからである。

 人間が、国家はいうに及ばず、まともな文明さえ築けていなかった頃から。それどころか、ヴェケボサンが未だに神々の支配下にあった頃から。偽龍は、漂泊の種族として、世界中に広大な交易ネットワークを張り巡らせていた。マホウ界からナシマホウ界までの、ほとんどあらゆる場所に現れて、集団と集団との間の物品・情報の交換を行っていたのである。

 偽龍がそのような役割を担うに至った理由はよく分かっていない。歴史どころか神話だの伝説だのがようよう始まった当時から偽龍はそのような生活を送っていたのだ。偽龍が交易を始めた時のことなど、しっかりとした文献も残っていなければ、口伝えの朧な噂話さえ伝わっていない。

 ただ、恐らくは偽龍に特有のジェインズ野の構造に関係があるのだろうと考えられている。以前も少し書いたことであるが、ジェインズ野とは、発達した脳髄を有する生命体の、その脳髄の一部分であるところの神的レセプト器官である。

 未だ世界の全体が神々によって支配されていた時代、全ての生命体は、その生命体が生息する一帯を支配する神によってポゼショナイズされていた。もちろん、一口にポゼショナイズといっても、その内容は神々によって様々であって。せいぜい反乱を起こさないように緩く思考にロックをかける場合もあれば、ほとんど自由意思のない奴隷のように厳しく思考にロックをかけていた場合もあったのだが。どの神の支配下においても、その神以外の神が支配する場所へと移動することは、外交や戦争やといった特殊なケースを除いて許されていなかった。

 例えば月光国の神々が支配する領域において生まれた生き物は月光国から外に出ることは許されなかった。国家と国家と、集団と集団と、そういった越境を行うことが出来たのは、特別に許された者か、あるいは神々のポゼショナイズから逃れて蛮族となった者かだけだったのである。

 そんな中で……偽龍は例外であった。なぜなら、偽龍のジェインズ野は神々のポゼショナイズを受け付けない構造をしていたからである。偽龍のジェインズ野は同じ偽龍からのデウスパシーのみに影響を受けるようになっている。だから、それゆえに、偽龍には集団の縛りがなかった。

 一つの集団だけにとどまることなく、この集団からあの集団へと放浪を続けることが出来た。そのような生き物は偽龍だけであった。自然と、集団と集団との間における有形無形様々な交換の役割を担うことになったのだ。

 さて、そのような偽龍であるが、偽龍同士で協力して商売を行うことは滅多にない。大規模な隊商を組んだり、他者を従業員として店舗を開いたり、そういうことをしないわけではないのだが。そういう場合は必ず他種族の生き物を使うのである。しかも、偽龍が他者の支配下になるということは、神々も含めて、絶対にあり得ない。財政コンサルタントとして、公平な外交使節として、国家に雇われたりすることはあるが。そういう場合でも、あくまでも対等なビジネスパートナーとしての関係なのである。

 これは偽龍の「強欲」に起因しているといわれている。この「強欲」というのは、人間の強欲とはかなり異なった性格である。人間の場合、あれも欲しいこれも欲しいと欲する時に、その対象そのものに対する欲望というものは案外に少ないものだ。例えば「自分」の安全のためにこれを欲するだとか、例えば「自分」が他人よりも優れていることを示すためにあれを欲するだとか。人間の強欲は、対象に対する欲望というよりも自分についての欲望であるという要素が強い。

 一方の偽龍は、まさに対象そのものに対する欲求なのである。純粋なモノマニアというか天真のフェティシズムというか。それがあるということに対する強欲さだ。そこには自分と対象との関係性はなく、その代わりに、剥き出しになった対象の本質だけがある。それは、べっとりとした身体的性質というよりも、虚空に近しい象徴の総量の問題なのだ。

 なんにせよ偽龍は「強欲」であり、手に入れた対象を他者と分け合おうとすることはない。なので、対象の全体的喪失ともいえる従属などもっての他であるし、同じように「強欲」であるところの他の偽龍と組むこともあり得ないのだ。

 ただ、それでも……これは大変奇妙なことなのだが、偽龍の交易ネットワークは偽龍同士の様々なインタラクションによって成り立っている。例えば、代表的な制度でいうと武款である。

 一般的に武款という時に、その言葉が意味するものは球体である。小石ほどの大きさの、小さな小さな真球。全体的に赤い色をしていて、透き通っている。その内側にはゆらゆらと揺蕩う液体が入っていて、球体をくるくる回すと、音を立てないままに、あわやかに波立つ。この球体はマホウ界で最も信用がある貨幣だ。現在の交換レートでいえば、小さな武款一つで十ムーアくらい、大きな武款一つで百アランくらい。以前にも少し触れたが、自分達が発行した通貨以外の貨幣を排除しようとするヴェケボサンの支配領域においても武款は通用するし、マホウ界で経済活動が行われているところであれば武款が貨幣として通用しないところはないくらいだ。

 武款になぜそれほどの信用があるのかといえば。これは、いってしまえば、偽龍に対する売掛金の証明だからである。誰かがある偽龍に対して何かしらの商品を売るとする。その時に、他の商品と交換することも出来るのだが、この武款と交換することも出来る。そして、武款を持っていれば、その取引があったこと、いくらいくらの取引であったこと、それを証明することが出来るのだ。そのため、この武款があれば、買掛金を持っている偽龍にそれだけの金額の商品の要求が出来る。そして、それだけでなく……なんと、他の偽龍に対しても、同じような要求が出来るのである。

 本来は、この制度のことを武款という。つまり、誰か一人の偽龍に売掛金を持っていれば、その売掛金を他のあらゆる偽龍に対して要求出来るという制度のことだ。

 これは、偽龍の「強欲」を考えるとあり得ないことのように思える。赤の他人が背負った借金を、自分が返済するなんて。だが、実際に、ある特定の偽龍に対する売掛金は商人であるところの全ての偽龍に対して通用する。

 そして、こういった制度があるからこそ、偽龍の交易ネットワークは成り立っているのである。世界中のどこでも使えるような貨幣がない限りは、こんなものが成立するはずがないのだ。ある偽龍には通用するが他の偽龍には通用しないという貨幣があったとして、誰がそのような物を使おうとする? また、ここに二度と来ないかもしれない偽龍に対して、誰が売掛金を許そうとする? 物々交換でも交易が出来ないというわけではないが、それではかなり限定した取引しか出来ないことになるだろう。

 このように、偽龍という種族は一定の制度によって緩やかに接合している。一つの部屋の中に、ある偽龍と別の偽龍と、二匹以上の偽龍を見ることは決してないというくらいに偽龍同士は同じ場所にいることを嫌うのだが。それでも何かしらの結び付きがあるのだ。他にも、偽龍は金融をしている場合が多いのだが。ある偽龍に借りた金を別の偽龍に返すということも出来る。しかも、何かを担保として預けていた場合、予め返却先を指定しておけば、その担保を指定した偽龍から受け取ることも出来る。

 それから。

 これは。

 余談に。

 なってしまうが。

 武款として使われるこの球体であるが、その正体を知っているのは偽龍だけである。普通、マホウ界における貨幣というものは、何らかの物質にその貨幣が通用する一帯を支配している何者かの魔力を封じ込めた物が多い。カリ・ユガ龍王領のように魔力そのものを貨幣としている場合もあるが、とにかく、魔力が重要な意味を持っているのだ。なぜというに、その魔力によって、貨幣が本物であるかどうかということを見分けているからだ。

 しかし、武款は魔力とは関係がない。それでは本物かどうか分からないじゃないかと思われるかもしれないのだが、なぜだか知らないが偽龍は本物の武款と偽物の武款とを見分けることが出来る。偽龍が偽物の武款を受け取ることは、絶対にない。

 また、武款が偽造されたという例も、記録に残っている限りでは一度もない。そもそも、偽龍が武款の正体を明かさないのは、それが偽造されないようにであるといわれている。本物がなんなのかも、偽龍がどうやって本物と偽物とを見分けているのかも分からないのに、どうやって偽造することなど出来ようか。

 見た目としては、原始的な貨幣のように、貴金属だの宝石だの、もともとの価値がある何かしらであるかのように見えるが。これに似た物質が鉱物として発掘されたことはない。また、もともとある物を加工して作り出すことも出来ない。

 事程左様によく分からない物質であるが……一説によると、これは偽龍の受精卵なのだという。偽龍の生殖行動については、両性具有であるということ以外は謎に包まれているのだが。確かに、受精卵であれば偽造することは出来ないだろう。受精している以上、それは魂魄を獲得しているのであって。魂魄の一揃いを作り出す技術は未だに存在していないのだから。

 徒事は。

 扨置き。

 またもや図鑑でしか見たことのない生き物を実際に目にすることになった真昼ちゃんであったが。そうはいっても、実は、偽龍については他の生き物よりもずっとずっと広範な知識を持っていた。なぜというに、マホウ界の生き物について、最も重点的に家庭教師からの教育を受けたのがこの偽龍だったからだ。

 なにせ偽龍と商武との微妙なニュアンスの違いさえ理解しているほどなのである。これは、真昼が砂流原の一族であるということに由来している。砂流原である以上、いずれは検校としてオキシュリマルに仕えることになる……つまり、ディープネットという企業において重要な地位に就くことになる。

 そして、ディープネットは偽龍と取引があるのだ。これは、知っている者にとっては公然の秘密であるのだが。ディープネットが製造する兵器には、マホウ界にしか産出しない原材料が多々使われている。そういった原材料は、ほとんどを偽龍から入手しているのである。

 もちろん、そういった詳細まで知っているところの真昼ちゃんではない。そういうことを知るのは大人になってからでも全然遅くないからね。ただそれでも、偽龍という種族についてよく理解しておくことは無駄ではないということで、そのような教育を受けていたのだ。

 真昼は……そのようにして無理やり学ばされたことの内容から。確かに、世界樹がどこにあるのかという情報を手に入れるならば、偽龍からしかないだろうなと納得した。世界樹がどのようなものなのかということはよく分からないが。それでも、人間一人を生き返らせることが出来る代物である。そのような貴重なものの在り処を知っているとしたら、よほどの情報収集能力がある何者かだろう。そして、偽龍には、その力がある。

 情報も、やはり偽龍の「強欲」の対象である。しかも、偽龍は、情報という貴重品を貴重なままで保持しておく方法を知っているのだ。

 情報の価値は、その情報の有用性だけで決定するわけではない。その情報を知る者の数に反比例するのだ。つまり、情報を知っている者が少なければ少ないほどに情報の価値は上がっていく。一方で、情報というものは具体的な個物ではない。いくらでもコピー可能な知識でしかないのだ。ということは、誰かがその情報を持っていて、それを売却しようとする場合、理論的には無限の売り手に対して売り渡すことも可能だということだ。

 そのようなわけで、情報の売買は一般的には非常に難しい。情報の売り手が、その情報を限られた人間にしか開示しないという信頼を得ている時にのみ、売買が成立するのである。そうでなければ、ある情報を買った後で、その情報が誰でも知っている、一人の買い手もいない情報になってしまう可能性がいつでも付き纏うことになってしまう。

 だから、例えば人間が情報屋をしようとすれば、信頼出来る情報の供給元、要するに諜報員のような何者かを常に用意しておく必要がある。これでは効率が悪過ぎるし、第一、供給元が限定されているので特定の情報しか手に入れることが出来ない。どこどこの街の事情には詳しいとか、香辛料の価格情報をよく知っているとか、そういう感じだ。

 だが、偽龍には……そのような心配はない。なぜなら、偽龍には「契約」という方法があるからである。偽龍が相手と取引をする時には、必ず「契約」を結ぶ。どれほど小さな取引であっても、例え石ころ一つ、砂粒一粒の取引であっても、「契約」をしなければ売り買いすることはない。

 そして、情報の売買をするにあたっては、よほどの事情がない限り、その情報を当該買い手である偽龍以外の何者にも売却しないことを「契約」の条件として含めておくのである。こうすれば、他の買い手に売り手が情報を売ってしまった場合、「契約」違反として処理することが出来る。

 偽龍の「契約」は……勘違いしないで欲しい。それは、例えば契約術のような魔法の力によって相手を縛るものではない。大体、魔法だのなんだのでは、そういった方法を解読し、解除出来る相手には無意味である。

 そんな回りくどいやり方ではない。もっと単純で効果的な方法だ。つまり、「契約」を破った場合、偽龍のネットワークから追放されることになるのだ。誰かが「契約」を破った瞬間に、その誰かについての情報は偽龍のネットワークの端から端までを駆け巡る。そして、その誰か及び今後その誰かと取引をする生き物は、一切の例外なしに、偽龍のネットワークに参加している全ての経済主体と取引が出来なくなる。

 これが偽龍と取引が出来なくなるだけならば、それほど問題にはならないだろう。だが、ネットワークからの追放となると……先ほども書いたことであるが、ナシマホウ界の企業であるはずのディープネットでさえ偽龍と取引があるのである。

 経済活動を行っている生き物であれば、偽龍と接点がない生き物というものは一人たりとも一匹たりとも存在しないだろう。その生き物に偽龍との取引がなくとも、幾つかの取引先を遡っていけば、必ず偽龍に辿り着くことになる。

 そうであるならば、例え末端の末端であるところの経済主体であっても。その誰かと取引をしてしまえば、そういった経済のネットワークから弾き飛ばされることになるわけだ。そうすると、その誰かは、そのような末端の末端とさえ取引を行えないことになる。分かりやすくいえば、その誰かは、パン一個さえ、水一杯さえ、買うことが出来なくなる。

 それだけではない。これもまた以前に書いたことであるが、偽龍は国家と取引がある。ヴェケボサンの国家にも、ユニコーンの国家にも。あるいは神々の国家にさえも。偽龍とビジネス・パートナーになっていない国家はないといってもいいほどだ。となれば、その誰かは国家とさえ取引が出来なくなる。国家との取引というのは、ありていにいえば、税金を払うことによって保護を受けるということだが。これが出来なくなる。要するに、あらゆる国家から叩き出されることになる。

 こうなれば盗賊団にでも入るしかなくなるが、実はそれも不可能である。盗賊団というのは盗品を売り飛ばすことによって生計を立てているのだ。そこには経済活動が絡んでくるし、そうなれば偽龍が絡んでくる。また、どこかのレジスタンスだとかゲリラだとか、そういうところにも入れない。なぜというに、レジスタンスだとかゲリラだとか、そういう集団でさえ兵器や糧食を外部から購入しなければ成り立たないからだ。いうまでもなくそのような購入には偽龍が関わっている。

 まあ、アヴィアダヴ・コンダのダコイティのように、完全に外界から切り離された集団もないわけではないが……そうなると、今度は、そもそもその集団があらゆる関係性から切り離されている以上、接触する方法がない。ということは、もう、その誰かには何も残されていない。野垂れ死ぬまでたった一人で荒野を彷徨い続けるしかない。

 その他にも、契約違反によって発生した損害の賠償もしなければいけないのだが……その話までしていると延々と終わらないので、ここでは省略されて頂きます。興味がある方は偽龍契約法についてのテキストをお読みください。お勧めは、うーん、ラビットスキン・パブリッシャーズから出版されている『偽龍契約法』全十六巻ですかね。これはリタ・スミスがレッドハウス大学法学部の卒業論文として提出したものを偽龍契約法の専門家十六人が加筆修正して出版したものであるが、偽龍契約法に関する書物の中では伝説的な名著である。

 なんにせよかんにせよ、このような理由から、ある偽龍に情報を売った者が他の売り手に同じ情報を売るということはあり得ない。もちろんタダでその情報を拡散させるということもない。そうであるならば、偽龍は、その情報の供給元が信用可能かどうかということを度外視して情報を買い漁ることが出来るのだ。誰からでも、相応の価格で情報を購入出来る。

 だから。

 偽龍のもとには。

 情報が。

 集まる。

「おや。」

 なーんてことをぼんやりと考えていた真昼に、ちらと偽龍が視線を向けた。ここまで一言も触れていなかったが、偽龍には三つの目がある。普通の両目と、それに額にある一つ。この最後の一つは頭頂眼と呼ばれているもので、舞龍のピット器官と大体同じ働きをするものだ。ただし、頭頂眼は脳内の松果体と接続しており、この眼が感じたものによっては松果体がある種のホルモンを分泌することもある。

 偽龍に特有の、表情が全く読めない目。

 それでいて。

 あらゆる文明が滅び去った後の。

 一つの、惑星のように。

 異様な迫力を持つ眼球。

 三つの目。

 真昼の姿を捉える。

「失礼ですが、フーツ様。」

「んー、なあに?」

「お連れの方は、もしかして砂流原静一郎氏のご令嬢では?」

「わー、よく分かったね! そーだよ、その通り!」

 いや、本当によく分かったな!! なんで!? と思ってしまった真昼ちゃんであったが。それでも、それ以上のことは思わなかった。自分が静一郎の娘として扱われることに対する反感は、もはや今の真昼にはなかったということだ。

 だから。

 真昼は。

 ただ。

 こう言う。

「よく分かりましたね。」

「はっはっは、私どもは、ディープネット様とは色々と取引がありますからね。お父様の資金管理は商武でも驚くほど厳しいということで有名ですよ。まあ、私自身が取引をさせて頂いたということはありませんが……お噂はかねがね、といったところですかね。」

「へえ、そうですか。」

 ちなみに、偽龍が「私ども」という言葉を使う場合、それは「偽龍のネットワーク」と同義語である。偽龍は、群れ集わない割には同族意識が強く、商売に関する様々な情報を共有しているのだ。なので、そういった共有網に静一郎の情報も乗せられているということだろう。また、静一郎だけでなく……真昼の情報も。

「真昼様、でよろしかったでしょうか。」

「別にそれでいいですよ。」

「初めまして、ヤクトゥーブ・ナースティカ・ゴーカッチャパと申します。お呼びになる際はヤクトゥーブで結構ですよ。」

「分かりました。」

「以後、ご贔屓のほどよろしくお願い致します。」

「ええ、そうですね。よろしく。」

 この長ったらしい名前は、あくまでも人間向けの名前でしかない。偽龍は、商売相手となる種族の一つ一つに対して、それぞれの種族が親しみを持ちやすいと感じる名前を持っているのだ。

 ちなみに、この名前の意味であるが、まずゴーカッチャパというのがフエラ・カスタ名だ。「ゴー」が牛を、「カッチャパ」が亀を表している。古代のアーガミパータでは牛が貨幣として扱われていたため、たくさんの牛を持つ亀という意味で「ゴーカッチャパ」。これが偽龍カスタに所属しているということを示している。次にナースティカであるが、これは宗教名だ。つまり、どの宗教に所属しているかを表す。ナースティカは無教徒もしくは無信論者を意味する名前だが、偽龍の場合は後者である。最後が個人名だ。これはアイレム教圏で最も一般的な名前の一つである。アイレム教圏では、アル・アジフに表れる重要な人物の名前にあやかって名前を付ける場合がほとんどだ。そういった名前は自然と限られてくる。最も人気があるのはアルハザードの名前であったアブドゥルだが、アルハザードの師匠であったヤクトゥーブ、アルハザードの教友であったガゾウルなどの名前が二番目に人気である。

 ヤクトゥーブは。

 随分と芝居がかった身のこなしで。

 カウンターの向こう側から。

 こちら側へと出てきながら。

 真昼に、こう言う。

「私が聞いた噂によれば……真昼様は、スペキエース・テロリストに誘拐されたとのことですが。それが、フーツ様のような方に連れられて私などの店にいらっしゃるとは、はっはっは、またこれは、なんとも奇妙な話ですな。ああ、いえいえ、もちろん詮索などする気はありませんよ。真昼様には真昼様のご事情があるでしょうからね。私としましては、お客様に気持ちよくお買い物をして頂くことだけが望むところです。」

 それから、ヤクトゥーブはデニーに視線を戻した。

 カウンターの近くにある商品。

 一つ一つ手に取って。

 二人に向かって見せるように。

 ゆっくりと、差し出しながら。

 言葉を続ける。

「さて、ところで……フーツ様のように非常にお忙しい方が、このような僻地の、しかも、さして品揃えがいいというわけでもない私の店に、一体どのような商品をお求めにいらっしゃったのでしょうか? はてさて、対神兵器量産のためのバルザイウムの買い付けでしょうか。私の店であれば、ほら、このような高品質のバルザイウムを大量にお売りすることが出来ます。いやいや、それとも世にも珍しい装飾品をお求めで? ヴェケボサンの毛皮に舞龍の鱗皮に、純種のノスフェラトゥの羽を鞣した物までなんでも取り揃えておりますよ。ああ、そうそう、もちろん忘れてはいけないのは奴隷ですね。こちらの店舗には現品をご用意していませんが、こちらに取り扱い奴隷の目録があります。フーツ様に相応しい奴隷といいますと……滅多に手に入れることが出来ない怪獣ザラーファの奴隷などはいかがでしょうか。この怪獣はアーガミパータのとある島でしか捕獲出来ない大変貴重な生き物ですが、たまたま一匹だけ仕入れることが出来たという掘り出し物ですよ。おや、おやおや。どうも、どの商品もフーツ様のお望みのものとは違いますようで。それでは、ひょっとして、お望みのものは、お連れの真昼様に関係していらっしゃるものでしょうか? 拝見致しましたところ、真昼様は、どうも……このような言い方をしてもいいのかどうか……どうも、どこか足りないところがおありになるようで。」

 紫色の。

 ぼんやりとした光の中に。

 ヤクトゥーブの全身が。

 ぼうっと浮かび上がる。

 すると、甲羅の全体に模様が表れているというのが分かった。全体的に、どっしりと沈み込むような青黒い色をしているのであるが。その上に、まるで激しく燃え上がる炎が舞踏に暴れ狂っているかのようなデザインが描かれているのだ。

 これは、アーガミパータに生息する偽龍に特有の模様である。偽龍の甲羅の模様というのは、その偽龍が属している人種によって変わってくるのだが。アーガミパータの偽龍は、大部分が炎文種と呼ばれる種族であり、その名の通りに、ヤクトゥーブの体に表われているような炎状の文様になっている。

 また、このような模様はそれぞれの個体によっても変わってくるため、よく個体識別に利用されている。ヤクトゥーブが典型的な例なのだが、偽龍は、人間向けの名前を付ける時に、かなりありふれた名前を付ける傾向がある。それは商売上の親しみやすさを演出するためであるが、その結果として、どの偽龍も似たような名前になってしまうのだ。

 名前だけでは誰が誰やら全然分からない。一方で、それぞれの模様の違いというのは非常に個性的だ。例えば、ヤクトゥーブは全体的に左右対称で、それぞれの外炎の部分が波打つように螺旋を描いているが。このような模様は他の偽龍には全然見られないものである。ちょうど人間にとってそれぞれの人間の顔が全然違って見えるのと同じような具合なのだ。

 このように見分けがつきやすいため、偽龍は、契約書にサインをする際に、自分の名前を書くのではなく自分の甲羅の模様を図案化したものを使用する。そもそも偽龍は顧客となるそれぞれの種族によって名前を使い分けている。偽龍にとって名前というのはアイデンティティの同一性を示さない。その図案こそが、それぞれの偽龍を象徴する記号なのである。

 ああ、そうそう、そういえば、偽龍に対して「人種」という言葉を使ったことに違和感を覚えた方もいらっしゃるかもしれませんね。偽龍は人ではなく亀なのだから「亀種」とかの方がいいじゃないかとか、そんなことをお考えになったかもしれません。ただ、それはナシマホウ界に住む人々に典型的な勘違いである。マホウ界においては、「人」という表現は高度な把持性を有する生き物全般に使用される。だから、偽龍に「人種」という言葉を使っても間違いではないし。それに、ここまで、デウス・ダイモニカスだのヴェケボサンだのそういった生き物にも「人」を使ってきたのである。

 斯うと。

 さても。

 さても。

 嫌に持って回った言い方で言葉したヤクトゥーブだったが。どうも、デニーがどうしてここに来たのか、何を買いに来たのかということを、薄々察しているようなところがあった。それもまあ、当たり前といえば当たり前の話で、偽龍というのは商売人の種族なのである。顧客が何を求めているのかということくらい一目で分からなければ、一人前の偽龍とはいえない。

 ただ、それでも、はっきりとは言わない。顧客から要求があるまでは、その求めているものについての話を切り出すことはしない。なぜというに……そんなことをしてしまえば、他の商品を勧める時間が無くなってしまうからだ。

 顧客が欲しいものは顧客が欲しいものなのであって、別にこちらからいわなくても向こうは買ってくれるに決まっているのである。そうであるならば、その話をしても売り上げには全然繋がらない。色々な商品を勧める方がいい。

 ヤクトゥーブの。

 言葉に。

 デニー。

 は。

「んー、まあねー。」

 と、なんだか上の空な感じで答えた。デニーは、実は、ヤクトゥーブの方を見てさえいなかった。壁の方を向いて、そこら中に貼りまくられている地図の一つ一つ、ゆっくりゆっくり視線を這わせている。

 デニーが見ている辺りに貼られているそれぞれの地図は、どうやらこの街の近くを描いたものらしかった。あの地図もこの地図もその真ん中を巨大な川が貫通していることから、真昼にもそれが分かった。

 あれはパヴァマーナ・ナンディなのだ。そして、その周囲をどこまでもどこまでも続く荒野が描かれている。ところどころに、切り立った丘陵のような物や、深く刻まれた渓谷のような物が描かれている。それに、ほとんど染みのように小さなオアシスも描かれてはいるが……後は、街らしい街もなければ生き物が生活している痕跡のようなものも見当たらない。

「そちらの地図に興味がおありですかな?」

「んーっ! っていうかね、こーゆー地図に書いてないことに興味があるって言ったほーがいいかなあ。」

「ほう、それは……」

「この街の近くにさーあ、世界樹ってある?」

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