第三部パラダイス #4

 えーっと、なんの話してたんだっけ? 嘘、嘘、覚えてるよ。ティールタ・カシュラムの通りをどんな生き物が行き来してるかっていうことを話してたんだよね。

 メルフィスとダガッゼと、この二種類の生き物が結構な割合を占めていた。合計して人通りの三十パーセントくらいではないだろうか。また、もちろんグリュプスも多かった。グリュプスについてはカリ・ユガ龍王領にいたグリュプスと変わらない種族であるようなので解説を繰り返すようなことはしないが。これは人通り(?)の十パーセントくらいだろう。また、人間は二十パーセントくらい。ライカーンは、狼化していない状態だと人間と見分けがつきにくいが、これは十パーセントくらいではないだろうか。

 そういえばライカーンについて。ナシマホウ界にも普通に生息しているし、人間至上主義諸国の中には人間と同じように国籍を与えるところもあるので、多分知らない方はいらっしゃらないと思いますが……要するに狼人間のことである。ナシマホウ界にいるライカーンは、そのほとんどが「月変わり」するタイプ、月の影響を受けると狼化するタイプのライカーンであるが。マホウ界には、人間状態と狼状態とを行き来することのない、「月変わり」しないタイプのライカーンもいる。そして、このタンガリ・バーザールにおいては、その二種類のタイプが混在しているようだった。

 さて……知的生命体の残りの三十パーセント程度は、本当に、種々雑多な生き物の集積といった感じだ。例えば、パヴァマーナ・ナンディの川岸にもいたテーワルルングだ。これは腹足類から進化した知的生命体であるが、要するに羽が生えた、真っ赤な蛞蝓である。蛞蝓を横にして、その左右に、一本ずつ、透明な膜で出来た羽を生やす。そして、その頭部には、これもやはり透明な触手を十数本生やす。これで、テーワルルングの出来上がりである。

 全身が赤い色水みたいに透き通っているが、その中に、まるで油の上に浮かぶ虹色のようにゆらゆらと色を変える模様が揺蕩っている。この模様が色々と形を変えることで様々な記号を描くことが出来るのだ。

 羽は長くなく、せいぜいが身長の半分程度である。ただし、その羽は魔学的エネルギーを宿すことが出来る。テーワルルングは、その魔学的エネルギーによって水中にいるかのように空中を泳ぐことが出来る。

 テーワルルングについては……実は、ほとんど何も分かっていない。知的生命体であることは分かってるのだが、それがどのような知性であるかということさえ謎に包まれている。どうも、舞龍と同じような単独知性の持ち主であるようなのだが。それにしては、他の知的生命体と、あまりにも容易に関係性を築き過ぎる。テーワルルングは、実際にそのような思考を持ち、そのような意味合いで使っているのかどうかは別として、他の知的生命体の言語さえ使ってみせるのだ。

 また、下等から高等までのどの知的生命体に属しているのかもよく分かっていない。明らかに下等としかいいようのないテーワルルングもいれば高等知的生命体と同等に渡り合うテーワルルングもいる。便宜上、高等なテーワルルングを上位種、中等なテーワルルングを中位種、下等なテーワルルングを下位種と呼んでいるのだが。こういった違いがどのようにして成り立っているかも不明だ。通説によれば、長く生きれば長くい生きるほどに、上位種へと近付いていくということになっているが。とはいえ、テーワルルングが生まれてから死ぬまでの成長過程がどのようなものかということがそもそも分からないので、これは完全にあてずっぽうである。

 分かっているのは、アルケリンガ大陸で発生した種族であるということ。(少なくとも他の知的生命体の前に姿を現わすテーワルルングについては)身長が一ダブルキュビト程度であるということ。触手があることはあるが、高度な把持性を有しているわけではなく、外界に影響を及ぼす際には魔力を使うこと。それに、物を売り買いするだけのコミュニケーション能力があるということ。それくらいである。

 テーワルルングのコミュニケーションについて、面白いのはその方法である。先ほど、透明な体の中を模様が泳いでいると書いたが。その模様で、コミュニケーション対象の言語を作り出して会話するのである。ちなみに、視覚がそれほど優れていない種族・そもそも記号を持たない種族、に対しては。それらの種族の思考に合わせて、そのまま思考を重ねることでコミュニケーションをとる。

 さて……テーワルルングは二羽飛行なので、道を歩いているわけではなく、真昼の頭上をふわふわと飛んでいるのだが。そもそも、この市場自体が上下左右のどこにでもあるので、テーワルルングのように重力に縛られることなくどこにでもいける方が便利といえば便利だろう。

 他にも、ヴェケボサンはもちろんとして、孤狗狸だの河童だの、鵺までいる。鵺というのは月光国の固有種の知的生命体だが、ゆらゆらと揺れ動く真っ暗な雲の中に隠れて正体を現わさない知的生命体で、テーワルルングよりも全然全くなんにも分かっていない。ただ、まあ、哺乳類か鳥類か、それ系の生き物であるらしいということはたぶんそうなんじゃないかなので、恐らくは関係知性の持ち主だろう。それから、通説によれば中等知的生命体ということになっている。噂によると、バジリスクなどと同じように、生命に直接作用することで相手を生きても死んでもいない状態に閉じ込めてしまうことが出来るらしいのだが、日常生活においてそんなことをしなければいけない場面などほとんどないので、それが本当なのかどうなのかということは分からない。また、真っ暗な雲自体が本体であって、その中に見え隠れする四本足に羽の生えた猫のような生き物は幻想だという話さえある。

 なぜ鵺がこんなところにいるのかは分からない。それに、そもそも鵺は夜行性なので、こんな昼日中に見るということはほとんどあり得ないことだ。それでも、確かに、真昼の視線の先、狭くて暗くて人通りもほとんどない路地の先、あのもやもやと見極めがたい暗黒の雲は鵺のものだった。一匹だけしかいなかったが、それでも月光国以外で鵺を見るというのは非常に珍しいことである。アガミパータくんだりにやってこなければならない、何かのっぴきならない事情でもあったのだろう。

 ちなみに。

 真昼が歩いているこの通りは。

 そういった路地の。

 ほとんどが繋がっている。

 中心となる大きな通りだ。

 大通りというほどでもないが、それでもタンガリ・バーザールにおける幹線道路といってもいい通りだ。そして、重要なのは、その「大きな通り」という場合の大きさというものが人間基準ではないということである。この街に住む様々な生き物の、どんな生き物にとっても広々としている。少なくとも窮屈ではないという意味なのだ。

 グリュプスであれば高さ二ダブルキュビトかける長さ四ダブルキュビトほどの大きさがある。それを基準にした広い通りとは、つまり、その幅でいうと十五ダブルキュビトから二十ダブルキュビトはあるということなのだ。

 その幹線道路から上下左右に枝道が伸びている。通過道路に路地に、それから袋小路。あるいは、見た限りではとても道が通じているようには思えない場所に浮かび上がって、そしてその場に静止している店、店、店の数々。

 この街の人間は……もちろん、アイレム教徒が一番多いのだろうが。ただ、お昼のお祈りタイムの現在においては、他の種類の人間達の姿が目立つ。例えば無教徒である。

 人間至上主義諸国に住んでいる人々にとっては、無教徒イコールテロリストみたいな物騒なイメージが付き纏ってしまうのだが。実際の無教徒は必ずしもクソやべー犯罪者ばかりだというわけではない。そもそも無教とは幸福になるための宗教である。無教徒のテロリストは、テロをすることが楽しいからテロをしているだけの話なのであって、別に無教徒だからといって絶対にテロをしなければいけないのではないのだ。

 特にこういうところにいる無教徒は、全ての欲望を捨て去って精神的な静寂の中に安楽を見出したといったようなタイプが多い。いわゆる托鉢僧だ。定住することさえも欲望をとどめるアンカーになってしまうとして、乞食用の鉢以外の全てのものを捨ててそこら辺をふらふらしているのである。寝たいところで寝っ転がって、糞尿をしたいところでする。なんとも気楽なものだが、その気楽さが幸福に繋がるというわけだ。

 鉢も持たない者もいる。服さえも身に着けず、素っ裸で生きているのだ。施しを受ける時には両手を合わせて鉢の代わりとする。そんな無教徒がそこら辺をうろうろしている。また、アイレム教徒でも無教徒でもなく、アーガミパータを支配しているそれぞれの神々に帰依しているような人々もいる。そういった人々は、それぞれの信じている神々がそれを身に着けるように指定している物を身に着けている場合を除けば、ごくごく普通の服装をしている。つまり、カリ・ユガ龍王領で見たような服装。男ならカーディ、女ならサーティ。

 メルフィスは、あるいは空を飛び、あるいは道を歩いている。メルフィスは、常に、なんらかの意味を持つフェロモンを纏っているので。それぞれのメルフィスのフェロモンとフェロモンとが混ざり合って、奇妙に頭が痺れるような匂いがする。

 ところどころの模様がざりざりと摩耗しているダガッゼ。どずんどずんと道を踏み固めるようにして歩いている、他人にぶつかることなど全然気にせず突き進むので、真昼も何度かぶつかられそうになったくらいである。だが、そのたびに、そういうダガッゼは、すっと真昼のことだけを避けていく。これもやはり、デニーが何かをしているのだろう。ダガッゼが避けていくように魔法を使っているのか。それとも、ある意味では威嚇をしているかのように、真昼の周囲に触れてはいけないような、ぶつかったら恐ろしいことが起こりそうな、そんな雰囲気を纏わせているか。

 ヴェケボサンは、大体は衛兵であったが。どうもそうではないヴェケボサンもいるみたいだ。そういったヴェケボサンは、ヒクイジシには乗っておらず、道の真ん中を堂々と歩いている。一応は武器を持っているようだが、さほど大きい物ではなく、ちょっとした棍棒みたいな物を背中に背負っているくらいだ。それか、手にガントレットを嵌めているだけという場合もある。

 ちなみに、そういったヴェケボサンは、肩でもぶつかられたら怒り狂ってぶつかった相手を殺してしまいそうに見えるが。ダガッゼにぶつかられても気にする様子は全然なかった。ダガッゼといえばぶつかってくる、ぶつかってくるといえばダガッゼなのであるからして、いちいち怒る気もないのだろう。

 また、奴隷を連れているヴェケボサンもいた。奴隷市の方に売りに行くのだろうが、奴隷の大部分は人間かライカーンであった。手を鎖で繋がれて、陰々鬱々かつ気息奄々と歩いている。あー、奴隷じゃなくて食用かな? どっちか分かんねぇや。まあ、どちらにせよ売り飛ばされるに違いはないのだが。

 そういった人々が、知的生命体が行き交う中で……もちろん、知的ではない生命体もいた。代表的な生き物は、そこら辺をぶんぶんと飛んでいる蠅だろう。なんか、真昼が知っている蠅よりも二倍か三倍くらい丸々と太って、元気一杯という蠅がわんさかいる。まあ、食料関係の市場なので仕方がないといえば仕方がないのだが。それでも、店先に置かれた商品にわんさかとたかっているところを見ると、この街の連中には衛生観念というものがないのだろうかと訝しく思えてくる。

 その他には、人間が引いている駱駝。野良猫のような生き物に野良犬のような生き物。野良ダニもいた。ダニといっても普通のダニではなくサバクダニのことである。サバクダニとは、一匹一匹が小型の猿ほどの大きさもある、全く可愛げのない壁蝨であって。とはいっても普通のダニにも可愛げなどないのだが、とにかく食えるものはなんでも食う沙漠の掃除屋とでもいえる生き物だ。まあ、沙漠は、掃除なんてしなくても、暫く放っておけばなんでも朽ち果てて砂になっていくものであるが、二つ名というのは気分が重要なのである。

 サバクダニの特徴は、そうやって食った物を全て肉体の内部に貯めておくことが出来るということである。正確には、食べた物をどろどろに溶かした液体なのであるが。とにかく、満腹になったサバクダニは、その液体でぱんぱんに膨れ上がって、お饅頭みたいな形になる。

 サバクダニが更に更に肥大化して、馬だとか牛だとか、それくらいの大きさになったダイオウサバクダニという生き物もいるのだが。こちらもサバクダニと同じように体内に栄養を貯めるという特質がある。そのため、ヴェケボサンなどは、ダイオウサバクダニに大量の餌をやって膨らませたものを旅の非常食として連れて歩くこともあるくらいだ。

 街にいる。

 生き物達は。

 そんな感じ。

 ごふごふと、煮え立つように。

 活気に満ち溢れて生きている。

 アイレム教の祈りが基底音となって……ダガッゼの声が調子の狂った打楽器のように鳴り響く。張り詰めた糸を弓で舐めるようなメルフィスの音声言語。いやに芝居がかった言葉遣いで話しているヴェケボサンの会話は、野生のけだものが歌うオペラを聞いているようだ。どこかでライカーンとライカーンとがぎゃんぎゃんと叫び合っている。しつこく値切り散らかす客に向かってグリュプスが咆哮する。

 耐え切れないほどの騒音。耐え切れないほどの悪臭。それに、あまりにも込み合っているため、まるで蒸し風呂のようにむかむかとするこの温度・湿度。アーガミパータの乾燥地帯であれば普通は乾燥しているはずの空気が、川の近くにあるために湿り気を帯びていて。そこに汗腺を持つ様々な動物の汗が加わって、不快指数は限界点を突破しているような状態なのだ。

 真昼もさぞかし不快感を感じているだろうと思いきや。実際のところ、真昼はそういった環境についてはほとんど何も感じていなかった。ちょっと前にも書いたことだが真昼は汗をかいていない。つまり肉体のレベルで暑さ寒さというものに鈍感になっているのだ。また、音だの匂いだの、そういったものにも大して関心がない。とはいえご機嫌な気持ちからは程遠い。

 真昼が。

 生理的な我慢出来なさ。

 殺気にも似た不愉快を。

 感じているのは。

 ただ。

 一点。

 空腹。

 飢餓。

 それだけである。

 それは、既に暴力的な苦痛にまで高まっていた。今の真昼はガラスのカードで組み立てたタワーのようなものになっていた。ほら、カードとカードとを互いに寄り掛からせ合って作った三角形をどこまでもどこまでも重ねていくあれである。一枚でもカードを引き抜いたら。それどころか、ちょっとした風が吹いて、カードのバランスが僅かでも揺らいでしまったら。あっという間に全てのカードがばらばらと倒れてしまい、タワーの全体が崩れてしまうだろう。それどころかカードの一枚一枚が粉々に砕けてしまう。

 要するに、真昼は、今、少しでも精神的なバランスが揺らいでしまったら。間違いなく、気が狂ったように暴れ狂ってしまうだろう。近くにいるやつを片っ端から、殴り飛ばし、蹴り飛ばし。重藤の弓によって、そこら中に矢をばらまき散らす。テーワルルングの尻尾をひっ掴み、その胴体でヴェケボサンをぶん殴って。メルフィスの羽を引っこ抜き、ダガッゼの関節を引っこ抜き、グリュプスに体当たりを食らわせる。それから、それから、店先にある机という机、袋という袋をひっくり返して。そこにある食べ物を片っ端から口の中に放り込み、飲み下し、胃袋の中に収めて……

「どーしたの、真昼ちゃん。」

 はっと気が付くと。

 目の前に。

 デニーの。

 顔。

 それこそ息がかかってしまいそうな距離、真昼の拳換算で一つか二つ分くらいしか離れていないところ。怪訝そうに首を傾げたデニーの顔があった。ゆらゆらとしているフードの奥、きゅるんと可愛らしい表情。真昼は、いつの間にか視界に入っている物事さえも意識出来なくなってしまうほどにフングラガズーな状態になってしまっていたらしい。フングラガズーというのはたった今適当に作った言葉で、めちゃめちゃお腹がすいてるとかそういう意味だが、それはどうでもいいとして、気が付いたらいきなり目の前にデニーの顔があったところの驚きのせいで真昼は「なっ!」と声を漏らしてしまった。

 真昼の目の前を歩いていたはずのデニーは、通りの中央で立ち止まった上で、全身をくるりと回転させて真昼の方に振り返っていたのだ。阿呆みたいに大混雑しているこの道の真ん真ん中で、よくもまあそんなことをしようとする気になったなというか、人様の迷惑とか考えないのかなとか、そういうことを思ってしまうが。とはいえ、デニーのような絶対的強者が、他人からどう思われるのかなどという些細なことに気を払うわけがないのである。

 それに、その他人の方も。デニーがそこに立ち止まったことに対して何かしらの文句を付けようという気はどうやらないようだった。まるで巨大な川の流れが一つの孤島によって引き裂かれているかのように。あちら側から来る人の流れもこちら側から来る人の流れもデニーと真昼とが立っている場所を避けていく。やはり、人込み除けの結界が張ってあるか、もっと単純な話として、誰も彼もがデニーに逆らうということを恐れているのだろう。

 それはそれとして。

 面食らったみたいに。

 真昼は、こう答える。

「何でもねぇよ。」

 それから、「っつーか立ち止まんなよ、こんなところで」と付け加える。まあ、確かに正論といえば正論ではあるのだが、とはいえ真昼の本当の気持ちはそんなところにはないわけだ。今の真昼、その欲望は、ふとしたことで精神のバランスを崩してしまいそうなほどのフングラガズーである。そして、いうまでもなく、デニーはそれを知っている。だから、真昼のその言葉にも拘わらず、そこから歩き出そうとはしないで。更に、「えー? でも、なんか顔色悪いよー?」と言った。

 読者の皆さんは、こんな風にあーだこーだ言ってないで、さっさとなんか食べるもんを用意してあげればいいんじゃないかと思われるかもしれないが。ことはそう単純な話ではない。

 ここまでに色々と書かれてきた真昼の性格を考慮に入れて頂きたい。いくらお腹がすいているといっても、ここでデニーが食べ物を用意したとして、それを受け取る真昼であろうか。

 これはもちろん反語的表現であって、それを受け取る真昼ではないのだ。真昼はとにかくデニーが嫌いなのであり、この世界のどんな事象よりも優先してデニーが嫌いなのである。ということは、そんなデニーが真昼に断りもなく用意した物を、はいありがとうございますと食べるはずがない。そんなわけで、真昼に何かを食べさせようとするのならば。まずは、真昼から、デニーに、何か食べたいという要望を伝えさせないといけないのだ。

 うわー。

 面倒だ。

「だから、なんでもないって!」

「えー? ほんとー?」

「本当だよ!」

「あー、さては!」

「は? なんだよ。」

「首のところ、ほつれてきちゃったんでしょ!」

 思わず、「は?」と、何がなんだか分からない声を漏らしてしまった真昼。え……何? 首がほつれるって何? そんなパードンミーな真昼のことなどお構いなしに。デニーは「んもー、真昼ちゃんてば! そりゃー、デニーちゃん、そんなに簡単に落ちたりしないって言ったけどさーあ。あくまでも応急処置なんだから! あーんまりらんぼーに使ったらダメだよーお」とかなんとか言いながら、真昼の頭、自分の方に向かってぐいっと引き寄せた。

 「な……お前、何すんだよ!」「じーっとしてて、今、もう一回くっつけてあげるから」。ここに至って真昼はようやく気が付いた。デニーは勘違いしているのだ。真昼がイライラしている理由を。一回取れて、またくっつけた首。それが取れかけているせいでイライラしていると考えているのだ。

 ちなみに、読者の皆さんもご存じの通り、もちろんそうではない。デニーは真昼のイライラの理由を正確に把握している。ただ、正攻法で「真昼ちゃん。もしかしてお腹すいてるんじゃなあい?」と問い掛けても素直にそうですと答える真昼ではないということも知っている。

 そもそもの話として、デニーが一度くっつけた首が取れてしまうことなどあり得ないのだ。それは既に細胞レベルで固定されている。また取れることがあるとすれば、それは、また切断された時だけである。

 ただし、もしも、デニーがそのように勘違いしているということになれば。真昼の欲望を正確に把握していないということになれば。そこに、僅かながら真昼の優位が生まれることになる。真昼は、デニーに欲望を読み取られていないという優越感を感じることが出来る。また、それだけではなく、デニーの間違いを訂正するという形で、ごくごく自然に自分の欲望を曝け出すことが出来るようになる。

 つまり。

 デニーの狙いは。

 それで、あった。

「ちが……ちげぇよ!」

「ほらほらー、暴れないで!」

「ちげぇっつってだろ!」

 そう叫んだ真昼は、デニーの腰の辺りをごわしと掴んで、そのまま、ずっでーんとデニーの全身をひっくり返した。まさかまさか、あの「民のいない王」がたかが人間にぶん投げられてすっ転ぶことになるとは! 遠慮呵責も容赦もなしに引っ張り寄せてくるデニーのことを、それによってようやく引っぺがした真昼。そもそも酸素を必要としていないのだからそんなことする必要はないのに、ぜーぜーはーはーと肩で息をしながら。ずびしっと、人差指で、地面の上にばたんきゅーしてるデニーの方を指差して、大声でこう告げる。

「腹減ってんだよ!」

「ほえ?」

「腹減ってんの!」

 なんか全体的に馬鹿みたいな瞬間だが、そんなことを気にしている余裕は真昼にはなかった。「空腹なの! 飢餓なの! ハングリーなの! 今すぐなんか食べねぇと暴れちまいそうなほど、めちゃめちゃにお腹がすいてるんだよ!」と喚き散らす。そんな真昼に対して、デニーは……地面の上、上半身だけを起こした状態のままでけらけらと笑った。

 「あははっ、なーんだ!」と言いながら、その場に立ち上がる。スーツの裾、ぱんぱんと土だの埃だのを払いながら「んもー、早く言ってよー!」と続ける。

 一方の真昼としては、コップの中の水が溢れてしまったどころか、既にコップ自体がひっくり返ってしまったような有様であった。怒りの気持ちが導き出す衝動もそのままに、デニーに向かってぎゃーぎゃーと喚き続ける。「っつーかよ! なんで、あたし、こんな腹減ってんだよ! お前、さっき言ってたじゃねーか! あたしの体には科学のエネルギーは必要ねーって! 魔法のエネルギーがあるからそういうエネルギーがなくても大丈夫だって! それなら、何も食わなくても問題ねーはずだろ! 腹が減るなんてことが起こるわけねーはずだろ! 一体どういうことだよ! 説明しやがれ、このクソ野郎!」。

 口調がサテライト並みに最悪になってきている真昼であったが、そんな真昼の様子とは対照的に、デニーは全くもって冷静な状態であった。「あははっ! まあまあ、落ち着いてよ!」とかなんとか言いながら、はいはい落ち着いて落ち着いてという感じ、自分の右手で真昼の左肩をぽすぽすと叩いた。「確かに、デニーちゃんのかーんぺきな魔法のおかげで、真昼ちゃんは科学的エネルギーがなくてもだいじょーぶなお体になってるよ。でもね、それでも、物質は必要なの。だって真昼ちゃんのお体を作ってるのは物質でしょ? 真昼ちゃんのお体は、物質の肉と物質の骨と、それに物質の血液で出来てるんだから。そーゆー物質の何かを作るためには、やっぱり物質の何かを食べる必要があるんだよ」。

 当たり前のように、ぱしーんとひっぱたかれて肩から振り払われた右の手のひら、真昼に向かって指先をひらひらと動かして見せながら続ける。「真昼ちゃんは、ちょーっと前まで首と胴体とがすぱーんと真っ二つって感じだったじゃないですかー。もーっちろん、そこからほとんどの血液がさよーならしちゃってるわけだよね。今の真昼ちゃんのお体はね、その血液を作り直してるところなんだよ。そーすると、物質の血液の材料になる物質の何かが必要になってくるでしょー? だからお腹がすいちゃってるんだよ」。それから、ちょっと小首を傾げて続ける。「んー、まあ、ほんとーは食べなくてもいいんだけどね。魔学的エネルギーも、すっごくすっごくすーっごくたくさん集めれば魔学的な物質に変換出来なくもないし。それ以前にー、前にも言ったけどー、真昼ちゃんの魄は真昼ちゃんの魄が壊れない限りは壊れないようになってるからね。真昼ちゃんのお体が完全になくなっちゃっても、やっぱり真昼ちゃんは真昼ちゃんとして真昼ちゃんし続けることは出来るの。でもでも、そーゆーふーにお腹がすいちゃうのは、まあ、やっぱり、お腹がすいちゃうよね」。

 なるほど、確かに理に適っている。人間に必要な栄養素というのは、その働きによって三種類に分けられる。それは「エネルギー」「身体構成要素」「調整役」の三種類であって、積極的に摂取する必要がないとデニーが言っていたのは、そのうちのエネルギーについてだけだ。

 今の真昼は、まあ調子もクソもない状態であったし。それにデニーの魔学式のおかげで新陳代謝についてはある程度の操作が可能だったので、最後の一つについてはさほど重要ではなかったが。ただ「身体構成要素」については何か食べない限りは如何ともしがたいのである。

 非常に分かりやすい話だ。

 ただし、理屈を納得出来たとして。

 それでペコが消えるわけではない。

 どうも真昼は、デニーのことを怒鳴りつけたおかげでほんの少し落ち着いたらしい。ちょっとすっきりしたのだろう。目の前で、いかにも他人事といった感じでへらへらと笑っているデニーのこと。非人間的なほど無慈悲な目で眺める……それから。

「それで。」

 真夏のかき氷よりも冷酷に。

 真昼の声が、そう、言った。

「それでって?」

「どうすればいいの、この飢えをどうにかするには。」

「んー、まー、なんか食べるしかないよねー。」

 と、当然自失~! 当たり前過ぎる話だ。ペコったらなんか食うしかないのである。「じゃあ、どうにかしてよ」「どうにかって?」「何か食べ物を用意してよ」「えー? なんか食べないと駄目?」「あんたがそう言ったんじゃない」「それは真昼ちゃんがお腹がすいてるのをどうにかするにはって話でしょお? さっきも言ったことだけど、今の真昼ちゃんは、食べなくても壊れちゃったり滅びちゃったりはしないんだよ。だから、真昼ちゃんが我慢すれば、何も食べなくてもだいじょーぶなの!」。

 真昼に向かって、右手の人差指をちっちっちっと小刻みに振りながらそう言った。んもー、真昼ちゃんてば、聞いてなかったの?とかなんとかそういう感じだ。そのような極めてムカつく態度に対して、言われた真昼は、当然のことながら極めてムカついたのであって。それでもなんとか暴力的なコミュニケーションへと移行しないように自制しながら、こう言う「我慢出来ないから頼んでるんでしょう」。体の横にだらんと垂らした両腕の先、両方の手のひらを、ぐーぱーぐーぱーと、いかにも不穏なやり方で握ったり開いたりしながら続ける「我慢出来るんなら、あんたに何か頼むなんて、そんな屈辱的なことはしないんだよ」。

 デニーは、「んー」と言いながら、人差指の先を唇にちゅっとくっつけた。それから、腰の辺りから、上半身を軽く左側に傾ける。「ここからちょーっと行ったところに、いい感じのごはん屋さんがないわけじゃないんだけどね。フランちゃんのおすすめのお店だから、真昼ちゃんもきっと好き好きってなると思うよ。でもねーえ、ここからごはん屋さんに行って、これとこれとこれを下さいなーってして、ごはんを作って貰って、ごはんを食べて、ごちそうさまーってすると、けっこー時間がかかっちゃうよね」。傾けていた体を戻して、両手のひらを、音を立てることなく胸の前で合わせる。真昼に向けていた視線を、少しだけ上目遣いにする「それでねー? デニーちゃんが、世界樹のお話を聞こうと思ってる情報屋さんなんだけど。いつまでもいつまでもティールタ・カシュラムにいるのかーっていうと、ちょーっと危ないところがあるんだよね。ほら、あっちこっち色んなところを旅しながら商人をしてるから。だから、なるべく早めに見つけて、なるべく早めにお話を聞いちゃいたいんだよね」。両腕を体の後ろに回して、左手の指と右手の指とを組み合わせて。きょんっという感じで真昼の方に前のめりになってから、にっこりと笑う「そーゆーわけで、真昼ちゃん! ご用事が終わるまで我慢出来ないかなー? ご用事が終わったら、ごはん屋さんに行ってごはん食べよ!」。

 まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるようなデニーの言い方であった。普通だったらこの口調にまずイラっと来ているはずの真昼であったが、とはいえ、今は、そういった苛立ちに割くだけの精神的余裕などなかった。とにかく何かを食べたい。何かを食べなければ何もかもがどうにもならない。

 「あのさ」「なあに?」「ここ、食べ物、売ってるじゃん」「んんー……そうだね」「なんか、買ってよ。なんでもいいから。そんな、別に、高級レストランに行きたいとか言ってるわけじゃないんだよ。なんでもいいから、なんか食べるもんを食べたいわけ」「ここで、買うの?」「そう」「食べる物を?」「そうだよ」「それは、ちょーっと難しいかなあ」「何が」「ほえ?」「何が難しいんだよ」「今、デニーちゃん、お金持ってないんだよねー」「は?」「お金を、持って、ないんですねー。パンピュリア共和国からアーガミパータに来る時にね、デニーちゃんね、HOL-100と、それからスマートデヴァイス以外の物は、なーんにも持ってこなかったんだよねー。ほら、色々持って来ると、あっち側とこっち側との境界を越えにくくなっちゃうでしょ? だから、お荷物はさいてーげんにしたんだよね。そーゆーわけで! ここで使えるお金を持ってないの。物々交換でもなんとかなるかもしれないけど、交換出来る物もほとんど持ってないんだよね。んー、アヴィアダヴ・コンダで作ったおもちゃはほとんど使っちゃったし、カリ・ユガのお家でもらってきたナイフもエレちゃんにとられちゃったし。それに、ミセス・フィストから貰ったビークルは、こんなところじゃ売れないでしょー? と、なると! 今のデニーちゃんの持ち物の中でまともに交換出来るものって、HOL-100くらいしかないと思うんだけど。世界樹がどこにあるかーっていう情報に、どれくらいコストがかかっちゃうか分かんないから、あーんまり、ここでHOL-100を使っちゃいたくないんだよねー」

 「そんなの、奪えばいいじゃん」「ほえ? 奪うって?」「そこの店でもそこの店でもいいからさ、奪えばいいでしょ、食べ物を。別に、そんな、わざわざ売ったり買ったりしなくても、あんたならなんでも奪えるでしょ? 店主をぶっ飛ばして、そこにある物を手に入れるだけなんだから、簡単でしょ?」「ま、真昼ちゃん……なんて乱暴なことを言うの……?」「は?」「そんなこと出来ないよ! あのね、真昼ちゃん、いいですか? 強盗は犯罪なんですよ! んー、んー、例えばね、デニーちゃんがあそこの人を殺してあそこの人が売ってる物をよこせーってしたとするでしょ? そうなると、さっきのパーリーダールの子達が来て、デニーちゃんのことを逮捕しようとするわけ。この街の秩序を守るためにね。そうなると、デニーちゃん的には、逮捕されるわけにはいかないからその子達のことを殺さなきゃいけなくなるよね。そーするとデニーちゃんは、この街のみんなみんなを敵に回すことになっちゃうよね。だって、この街の秩序を守ってる子達を殺したわけだから。そーなると、この街のみんなみんながデニーちゃんのことを倒そうとするわけじゃないですかー。デニーちゃんとこの街のみんなみんなとの全面戦争になっちゃうでしょ? それで、もしもデニーちゃんが負けたとすると、デニーちゃんは負けちゃうわけだし。デニーちゃんが勝ったとしても、デニーちゃんがこの街を支配することになっちゃうから、今度はカが出てくるでしょ? デニーちゃんはカに勝てるわけないから、やっぱりデニーちゃんは負けちゃうわけなんだよ。だから、この街では、デニーちゃんは、強盗なんて出来ないの! 分かった?」。

 ばちこーんとウインクをしたデニー。そのデニーの言ったことは……もう、完全に、その通りですねとしかいいようのないことであった。常識的に考えて泥棒はいけないことだ。いや、まあ、デニーの言葉のニュアンスは少しばかり常識とずれている部分があるのだが、とはいえ泥棒を勧めている真昼とそれを拒否しているデニーという構図があるということには変わりがない。

 あの真昼が……まさかデニーに強盗を勧めるとは。もちろん真昼は店主を殺してまで奪えと言っているわけではなかった。そこら辺の店を守っているのは、見たところ人間だのグリュプスだの下等知的生命体ばかりだ。この程度の生き物、デニーほどの強さと賢さとを有していれば、傷付けることなく無力化することくらい造作もないに違いない。そういう考えがあったのである。

 とはいえ、真昼が犯罪を提案したということには違いがない。あんなに頭が固く、潔癖症じみたところがあった真昼が、どうしてここまで変わってしまったのだろうか。

 ただ、今はそんなことを考えている場合ではない。真昼のペコは限界に近付いていた。とてもではないが情報屋云々官々が終わるまで我慢しているだけの余裕などない。

 「もう、我慢出来ないんだよ」ほとんど脅迫しているような口調で、真昼はそう言った。肉食の獣の唸り声みたいだ。それから、同じ口調で続ける「なんでもいいから、何か食べるものが欲しい」「えー? なんでもいいの?」「なんでもいい」「ほんとに?」「本当に」「我慢出来ないの?」「我慢出来ない」「全然?」「全然」「んー、分かった」。

 拍子抜けするほどあっさりとデニーはそう言った。それから、くるっと回転して真昼に背を向ける。「じゃー、ちょっと待ってて」と言いながら、デニーは歩き始めた。

 真昼はどうすればいいのか分からなかったが、取り敢えずは言われた通りにすることにした。その場で待つことにしたということだ。その場というのは道の真ん中ということであり、道の真ん中でたった一人で突っ立ってるのはなんだか間抜け極まりない気持ちになることであったが。とはいえ、あと一歩でも歩いたらお腹のすき過ぎで倒れてしまいそうだというのも事実であった。

 デニーは……特に目的もなさそうに、ふらふらとそこら辺を歩いていた。あっちの店に並んでいる物を見たり、こっちの店に並んでいる物を見たり。

 そうして、暫くの間、特に行動を起こさなかったのだけれど。やがて、それが起こった。それは……デニーの魔学式によって強化された真昼の視力。しかも、デニーが何かするだろうなと思ってじっと見つめていた真昼の視力。それでようやく見ることが出来たくらいの、本当に瞬時の出来事だった。

 ふらふらと、ある店からある店へと移動しようとしていたデニー。そのデニーの近くを花売りが通った。色とりどりの花を大量に突っ込んだ籠。恐らく直径にして数十ダブルキュビトはありそうな円筒形の籠を、右の手のひらの上に乗せて。頭の上に軽々と掲げるみたいにして運んでいる花売りである。人間の花売りだ。赤、青、黄、光の散乱のように揺れている花々……そんな花売りが、デニーのすぐ横を通っていく。

 その瞬間に、デニーが。その花売りに向かって、いかにも自然な様子、ふらーっと一歩を踏み出した。本当に、たまたま、そっちの方に足が向いてしまっただけという感じ。ただ、その進行方向が、偶然に花売りのそれと一致してしまっただけという感じ。結果的に、デニーの体と花売りの体とは軽く接触してしまった。

 ぶつかったというほどではない。デニーの腕と花売りの背中と、軽くこすったという程度だ。花売りも、それに対して何かアクションを起こすことはなかった。このような人込みではこんなことは当たり前に起こることであるはずだからだ……ただし、真昼には分かった。これが当たり前のことではないということが。

 今まで、デニーにも真昼にも誰一人としてぶつかってくることはなかったのだ。それが、デニーが何かをし始めてから急にこんなことが起こるなんて。絶対に何かがある。そして、真昼は……確かに見た。花売りにぶつかった瞬間に、デニーの手が、指先が、目に見えるか見えないかというほどの僅かさで動いたのを。

 何も。

 気付かないまま。

 花売りは。

 歩き去って。

 しまったが。

 デニーは、ふと、デニーのことをじっと見つめ続けていた真昼に視線を向けた。それから、にーっと笑って真昼に向かって手を振ってきた。それは花売りにぶつかった方の手であって。ぱっと開かれて、ゆらゆらと揺らされている手のひら。よく見ると……その手のひら、中指のところに何かがぶら下がっていた。

 それは巾着袋をもっともっと雑な作りにしたような代物だった。袋状になった布、上のところを紐で結ぶことが出来るようになっているやつ。その紐を中指に引っ掛けているのだ。

 あれは一体なんなんだろうと思いながら見ている真昼の視線の先で、デニーは、それを、軽く揺らして見せる。すると、ここからでも聞こえてきた……しゃらしゃらという音が。

 袋の中に入っているものが立てている音だ。金属と金属とがぶつかり合う音、それから、何かの宝石が響いているような澄んだ音が少しだけ混ざっている。この音は、どうも真昼にもよく聞き覚えがある音であって。そう、間違いない、これは小銭入れを揺らした時に聞こえる音だ。

 要するに、それは花売りが持っていた小銭入れだったのだ。そして、デニーは、それを掏り取ったのである。実際の話として、デニーは、強盗がいけないことだとは言ったが掏摸がいけないことだとは言っていない。というか、強盗がなぜいけないのかといえば、それがあまりに強引なやり方であるために速攻でバレてしまうからなのである。バレてしまえば向こう側から攻撃を仕掛けられるし、向こう側から攻撃を仕掛けられれば皆殺しにせざるを得ない。一方で、掏摸であれば、非常に洗練されたやり方で、相手にも気が付かれないままにお財布を拝借することが出来る。誰からも咎められることがなければ誰も殺さずに済むのだ。こうしてティールタ・カシュラムの平和は保たれるのである。

 というか……真昼は、なんとなく感心してしまった。デニーはこんなことも出来たのか。今まで、惨たらしい拷問だとか大規模な破壊だとか、そういった大雑把な乱行暴挙をしてきたところしか見ていなかったので。掏摸のような繊細な犯罪をしているところを見るのは、なんだか新鮮な気持ちだった。絶対的強者、この世の悪の中でも最も悪質な生き物が、掏摸を嗜んでいたなんて。

 兎に角。

 魚に毛。

 これで、金は手に入った。

 わけでありましてですね。

 ぱっと、その小銭入れを右手の中に掴むと。それから、デニーは、またもや乱雑に行列している店舗の方に足を向けた。先ほどとは異なって、今度は明確に目当ての物が決まっている足取りだった。迷わずに向かった先は、ナッツ類を量り売りしている店ばかりが集まっている区画だ。

 種々多様なナッツが並んでいる店。そういった店が、幾つも幾つも並んでいる。こう同じ店ばかり並んでいてよくもまあ潰し合いにならないものだなと思うが、とにかく、その店々の近くに、ちょっとした休憩スペースのようなものがあった。

 休憩スペースといっても、店舗列から少しはみ出したところ、道を侵食するみたいにして作られたスペースであって。ごろごろと、そこら辺の壁が崩れたみたいな大きな岩が幾つか置いてあるだけのところである。壁は、上のところが、地面と水平の平面になるように削られていて。小さい岩の一つ一つが椅子になっていて、大きい岩はテーブルになっている。

 テーブルの上には、ちょっとした軽食が載せられている。明らかに商売もんの中から持ってきたと思しき乾物のたぐい。それから、お茶かなにかが入っている𨪷瓶。ちなみに𨪷瓶には、いかにも粗雑な感じ、民間呪術のたぐいだと思われる魔法円が刻んであって。たぶん、保温効果か何かを狙っているのだろうが、あんな適当な魔法円に果たしてそれほどの効果があるのだろうか。

 そのテーブルには、何人かの人間と、それに二匹か三匹かのグリュプスが集まっていた。人間は岩の椅子に座っていて、グリュプスは地面にそのまま伏せている。ちなみに、グリュプスの前には、皿にも何にも盛られていない乾物が、そのまま小さな山のように置かれていて、そこからちょいちょい食べているようだった。そして、どうやら皆で世間話をしているようだ。

 人間とグリュプスとが世間話なんて出来るのかと思われるかもしれないが、出来るんですねこれが。マコトがグリュプスと会話出来たように、普段、グリュプスと関わる機会が多い人間は、なんとなくグリュプスの言っていることが分かるようになる。もちろん、マコトのように、こちら側がグリュプスの言葉を使えるようになるくらい完璧に理解するというのは難しいが。それでも、向こうが言っていることが分かるくらいにはなるのだ。一方のグリュプスも、人間の言語程度の単純なものであれば、それを理解するのに苦労はしない。ということで、互いが互いの言葉を喋ればそこそこ意思疎通出来るくらいにはなるのだ。

 そこで寛いでいるのは、ここら辺の店の店主達だった。デニーと真昼とがなんだかんだしているうちに、お昼の礼拝タイムはいつの間にか終わっていて。その後で、暫くの間、ゆっくりしているのである。まあ、別に、仕事をしていないというわけではないのだが。客が来たら声を掛けられるだろうし、声を掛けられたら店に戻って接客すればいいだろうくらいの気持ちでいるのだ。

 そこに、デニーは近寄っていったのだ。テーブルの下に置いた水煙草を吸っている人間達。ぐだーっと地面に寝そべったままで、ゆっくりゆっくりと毛繕いをしているグリュプス達。そのすぐそばに立って、真昼には分からない言葉、ビラーティ語で一言二言声を掛けた。

 反応は即座で、しかも絶大だった。人間達はいまいちぴんときていないようだったのだが、それまでいかにもやる気がなさそうに伏せていたグリュプス達が弾かれたように四足で立ち上がって。そして、明らかに恭順の意を示すために、デニーに向かって深々とこうべを垂れたのだ。

 その様子を見ていた人間達が、慌ててグリュプスに問い掛ける。グリュプスはグリュプスの言葉でそれに返す。すると、人間達もおたおたと立ち上がり、おたおたとデニーに向かって頭を下げた。デニーは、そんな様子の皆さんに向かって、けらけらと笑いながら軽く言葉を掛ける。

 ちなみに、人間達はもちろんのこと、グリュプス達もやはりデニーのことを知っていたわけではなかった。とはいえ、少なくとも、グリュプス達は相手が持つ魔力・精神力について人間達よりも遥かに敏感であったのだ。そのため、辺りが騒ぎにならないようにとデニーが隠していた魔力・精神力について。自分に対して掛けられた「言葉」の端々から、それが異様なまでに凄まじいものであるということを読み取ることが出来たのである。

 まあ、デニーが本気で隠そうと思ったらグリュプス達でさえそういったことを感じ取ることが出来なかったであろうが。ただ、そうなると、値引き交渉の時に何かと不利になってしまう可能性があるため、まあまあこれくらいなら分かるかなくらいの程度でわざと感じ取らせたということだ。

 デニーは、店の並びを指差しながら、問い掛けるような口調で話を続ける。それに対して、店主達はすぐには答えずに何事かを相談しあっていたのだが。やがて、結論が出たらしかった。店主達の中でも一番年嵩のように見えるグリュプスが、一匹で前に進み出てきて。またもや恭しくこうべを垂れてから、そのまま、デニーのことを案内するようにして歩き始めたのだ。

 そのグリュプスと、後について歩いていったデニーとは。乾物を取り扱っている店のうちの一店舗までやってきた。主にナッツ類を扱っていて、ドライフルーツも一部置いてあるという感じの店である。グリュプスはそこの店主らしく、店の中に入っていくと、デニーに向かって、例の甘えるようなきゅるきゅるという鳴き声を上げた。恐らく最大限の礼儀を尽くした接客なのだろう。

 そうういえば、ここまで書いていなかったのだが、グリュプスはアカデを巻き付けていた。覚えていらっしゃいますかね、読者の皆さん。高度な把持性を持たない種族が使用する、手の代わりになる蔦のことである。ここは、いってしまえばヴェケボサンの領土のようなものなので、グリュプス領だのユニコーン領だのとは違ってこういうものが必要になってくる。

 デニーは、グリュプスに向かって、「えーとねーえ、あれと、それと……後は、これとこれとこれとこれ!」みたいな感じで、店先に並んでいるナッツを次々に指差していった。すると、グリュプスは、アカデを使って指定されたナッツを次々に掬い取っていく。掬い取ったナッツはというと、人間だったらちょっと抱えるように持たなきゃいけないくらいの大きさの、結構大きい紙袋に入れられていく。

 真昼は、こっちの世界にも紙袋とかあるんだなとかなんとか呑気なことを考えながら(そりゃ紙袋くらいあるでしょ)その様子を見ていたのだが。次第次第と紙袋はナッツでいっぱいになっていった。そして、ほとんど山と盛られた状態になった後。最後の最後に、何やらドライフルーツを一種類、おまけみたいにして突っ込んでから、ようやくデニーは満足したらしかった。

 もともとは他人の物だった財布を、店先のテーブルの上でひっくり返すと。中にあった硬貨を、全部そこにぶちまけた。ちなみに、その硬貨は赤イヴェール合金で出来た硬貨で、ウラーン硬貨と呼ばれる物だった。主にヴェケボサンの支配領域で使われている物で、赤イヴェール合金に、その地域を支配しているヴェケボサンの魔力を注ぎ込んだ物である。

 アイレム教においては偶像崇拝が禁止されているので、硬貨には肖像のようなものは刻まれていない。その代わり、「この貨幣は世界を遍く照らし出すテングリ・カガンの栄光によって打ち作られた」という言葉が表面に、それから裏面にはその地域を支配しているヴェケボサンの名前とそのヴェケボサンを称える詩が刻まれている。ちなみに、ヴェケボサンの支配領域では、この硬貨か武款以外の貨幣を使用すると反逆罪としてかなり厳重に処罰されることになる。エコン族の神々がするりと忍び込んでこないようにするための対策だろう(とはいっても貨幣を使い出した時点でエコン族の神々の影響は避けられないのだが)。

 デニーとしては、そこに散らばった硬貨の全部を支払いに充当するつもりらしいのだが。グリュプスは、どうも、そんなに多額のお支払いをして頂かなくても結構ですというスタンスらしい。商人をやっているグリュプスにしては強欲を制御する能力に長けているのか、あるいは、どんなに固辞したところでデニーが全額支払うということを予想した上での行動なのか。どっちにしても、結局のところは、グリュプスがその全額を受け取るということで話がついたようだ。

 左手で紙袋を抱えて。右の手をぶんぶんと大きく振ることでばいばいの意を表わすデニー。一方のグリュプスはというと、わざわざ店の外まで出てきて、またこうべを垂れてデニーのことを見送っていた。また、そのグリュプスがもともといた休憩スペース、その他の商人達も、最敬礼といった感じでデニーに敬意を表わす。それに対してデニーは、やはり袋を持っていない方の手、ちゅっちゅっと投げキッスをすることで返礼していた。

 そのようなやけに騒がしいお買い物を終えると。デニーは、いかにもご機嫌な様子で、軽くスキップでもするかのように軽やかな足取り、真昼が突っ立っているところまで帰ってきた。今の今まで、真昼はこの人込みの真ん真ん中にいたわけなのだが。他人がぶつかってくることはなかったにせよ……正直な話、傍目から見ると、なんだか馬鹿みたいに見えた。

 帰ってきたデニーは「はい、これ!」と言いながら、真昼に紙袋を手渡した。真昼は、両手で素直に受け取ると。透徹した視線によって中に入っている物を見下ろす。確かに耐えられないほど空腹ではあったが、中に何が入っているのかということは気になったのだ。その様子を見たデニーが、真昼と一緒にその紙袋の中を覗き込んで。そして、あれ、これ、それ、という感じで、一つ一つ指差しながら説明する。

 「取り敢えず、蛋白質と鉱物質と、それだけあればいいから、そんな感じで選んできたよ。本当は、形而下の生き物のお肉があれば良かったんだけどねー。お肉屋さんが集まってるところは、こことはちょーっとだけ離れたところにあるから。今のところはこーゆーので我慢してね。えーっとねーえ、これがアーモンド、これがカシュー、これがピスタチオでこれがヘーゼルだね。あ、これはピーナッツだよ。ピーナッツは真昼ちゃんも知ってるよね。それから、これはとーっても珍しいナッツで、ネケルティ・ナッツってゆーの。これはねーえ、マホウ界でしか採れないやつで、魔学的エネルギーの吸収効率を上げるんだよ。あ、あとこれはデーツのドライフルーツだね。ナッツだけだと、どーしても飽きてきちゃうから。デーツはねーえ、ナッツほどじゃないんだけどお、鉄分がとーってもたくさんなの! だから、今の真昼ちゃんみたいに血液が欲しいよーって子にはぴったりだね! あ! もちろん、ナッツの方がもっともっとたーっくさん入ってるけどね! んー、取り敢えずはこんな感じかな」。

 そんなデニーの話を聞きながら……真昼は、またもや奇妙なおかしさのような感情に囚われてしまった。デニーが、あのデニーが! こんなダイエット・トレーナーみたいなことを言うなんて! そりゃあ、デニーほどお利口さんな生き物ならば、鉄分が特に多い食べ物の一つや二つや知っててもおかしくはないのだが。それでも、なんだか世界の全体から馬鹿にされているような気がした。

 それはそれとして、真昼が見たことがあると思ったナッツはどうやらその通りのナッツであったようだ。また、デーツという果物はよく知らなかったのだが、見た目的には特に害がありそうには見えない。

 いい方は悪くなってしまうが、ぱっと見ただけだとなんだか乾燥させたゴキブリみたいな感じだ。いや、いい意味でね。果物というよりも溶かした黒糖でコーティングした楕円体のように見える。もちろん、いかにもドライフルーツらしくそこら中に皴が刻まれた楕円体であるが。

 まずは、そのデーツから手に取ってみた。触り心地はなんだか固い。ドライフルーツにしても、だ。表面はプラスチックのようにすべすべしている。歯の先で、ほんの僅かに齧り取ってみる。外側の皮がかりんと割れて、中に入っている実の部分がねっとりと固く歯に纏わりつく。

 これは、食べたことがある……この感じ……羊羹だ! そう、それは間違いなく羊羹だった。しかも黒糖で作られた高級な羊羹という感じ。実の部分、その歯応えも、その味わいも、間違いなく羊羹のそれであった。

 えー、待って待って、これ、全然果物の味じゃない! 羊羹だよ羊羹! 真昼は、こんなくだらないことでなんだか感動してしまった。下手をすれば、アヴマンダラ精錬所だのマイトリー・サラスだの、そういった壮大な物を初めて見た時よりも強い感情を抱いたかもしれない。味覚というのは、原初の感覚が直接的に神経を刺激するものなので、それだけ現実感が強いのである。

 ドライ・レーズン十個分くらいの大きさしかないので、すぐに食べ終わってしまった。マジで、ぱりぱりとした黒糖の皮で包んだ羊羹だとしか思えないような味だった。「美味しい、真昼ちゃん?」「あんたが買ってきたものが美味いわけないだろ」「あははー、良かった!」。

 それから真昼は、紙袋の中のものを一掴み掴んで、あのナッツもこのナッツも、それにデーツもまぜこぜにして口の中に突っ込んだ。がりんがりんと口いっぱいに頬張ったそれを噛み砕く。ナッツ類は、塩がかけられたりなんだり、そういうことは一切してなかった。素材そのものの味だったが、とはいえデーツの甘みがいいアクセントなっていた。確かに、ナッツ類だけだったら、いくら空腹だといってもそこそこつらいものがあったかもしれない。

 口の中に放り込んで。

 噛み砕いて。

 飲み込んで。

 口の中に放り込んで。

 噛み砕いて。

 飲み込んで。

「それじゃー、行きますよー。」

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