第三部パラダイス #2

 そういえば、真昼は空腹であるだけでなく。

 喉の渇きも覚えていた、しかも、強く強く。

 川の水を口に含んでみる。

 うっすらと、ほんの少し。

 ソーマの、あの味がする。

 真聖な炎のような味。

 真昼は。

 そのまま。

 川に口をつけて。

 喉の渇きを潤す。

「ねえ、ここ、どこ?」

「ティールタ・カシュラムだよ。」

「そうじゃなくて。」

「ほえ?」

「どの階層。」

「あー、そーゆーことかー。」

「見た限りだと、幻想界っぽいけど。」

「そー、そー、幻想界だよ。」

「上部? それとも下部?」

「んー、真ん中くらいかなー。」

「そう、分かった。」

 そんなことを喋りながらデニーと真昼とは川岸に向かって泳いでいた。真昼は、水の中でバタ足のように足を動かしていて。両手で水を掻いて泳いでいる。一方のデニーは、本当に、こいつどうやって泳いでるんだろう。さして体を泳がせているようには見えないのに、いともやすやすと水の中を進んでいく。時折、仰向けみたいになって真昼の方を振り返って。真昼の周囲をくるくると回るようにして泳いでみせたりもする。

 さて、それはそれとして。ようやっとのこと、真昼には、周囲の状況を見回すだけの余裕が出てきていた。さっきまでは、加速度に潰されそうになったりクソ高いところからぶん投げられたり、あるいは怒鳴り散らしたりするので忙しかったのだが。今は、泳ぎながらではあるが、自分の周りにあるものに視線を向けることが出来ていた。

 さて、それでは、その「周りにあるもの」とはなんであろうか。いや、なんであろうかも何もパヴァマーナ・ナンディなんだけどさ。そういうことじゃなくってですね……まずは、この場所について真昼が抱いたところの全体的な印象から考えていってみよう。

 ここは、マホウ界だ。ということは、読者の皆さんはこう思われるかもしれない。マホウ界という世界は、ナシマホウ界とは異なった概念平面上にあるはずの世界である。そうであるならば、世界の構造が、その根本部分から異なったものであるはずなのだ。

 しかしながら、真昼の目には、それほど違ったものには見えなかった。ナシマホウ界も、この場所も。青い空があって川が流れていて、そして、これについてはもう少し後で詳しい説明を加えることになるだろうが、一つの街がある。

 そういった、あらゆるものが物質によって構成されていた。例えば非物質的なもの、怪しい光だとか揺らめく影だとか、そういった魔法のような何かではなく。ごくごく普通の物質、質量のある現実的な存在によって構成されていた。

 実をいうと、マホウ界の全てが神々しい世界であるところの神々の世界であるという考えは、現代的な人間至上主義社会に生きる人間達に特有の誤謬である。実際には、そのようにして物質的な構成要素に関するprejudiceが目に見えて通用しなくなってくるのは、鬼魔界・精霊界以降の階層においてのことである。

 幻想界の構造は、ナシマホウ界とあまり変わるところがない。もちろん、全然違うところもある。例えば世界を構成しているエネルギーの割合についてだ。ナシマホウ界では、科学的エネルギーと魔学的エネルギーとの割合はほとんど均衡状態にある。一方で、幻想界においては明らかに魔学的エネルギーが過剰だ。

 あるいは、純粋な観念が存在化した世界占有体、いわゆるファンタスマが非例外的に現われ始めるのも幻想界以降の階層においてである。それは、ナシマホウ界にもファンタスマが現れることはある。そうでなければ観念重力の肥大化もあり得ず、そもそもリリヒアント階層自体が作られ得なかっただろう。とはいえ、ナシマホウ界におけるそれはあくまでも例外的な事象に過ぎないのだ。デウス・デミウルゴスやデウス・ダイモニカスのようなファンタスマがごくごく普通の種として立ち現れてくるのはマホウ界においてなのである。

 ちなみに、共通語における幻想界という言葉は汎用トラヴィール語におけるfantasy worldを訳したものだが、そのfantasyの語源はホビット語におけるphantasmaからきている。これは「見えるようになった観念」という意味の単語であり、いうまでもなくファンタスマそのものを指すために作られたものだ。つまり、幻想界という言葉は、直接的にはファンタスマの世界という意味を表わしている。

 ちょっと話が逸れてしまったが、何がいいたいのかといえば。幻想界は、少なくとも見た目の上では、ナシマホウ界とほとんど変わるところがない。なので、ここがこのような光景であるということは、極めて通常なことなのである。

 さて、ここまでが全体の話だ。それでは、個々の部分についてはどうだろうか。それは、ちょっとばかり……weirdではないわけではないといえないことはなかった。

 まずは太陽であるが、これは別にいいだろう。アーガミパータの他の場所から見た太陽と全く同じ、つまりヒラニヤ・アンダの姿をしている。休戦協定が発効しているところの人間至上主義諸国(及びその他の「人間陣営」)から見た場合の、ただの恒星とはかけ離れた姿をしてはいるが、真昼にとっては見慣れたものだ。

 雲一つない。

 真っ青な空。

 その下。

 光景は。

 パヴァマーナ・ナンディが流れている。どこまでもどこまでも、浪々として、澪々として、江河が流れている。それは、確かに雄大ではあったが……とはいえ、スカーヴァティー山脈を流れていた時のような非現実的な異形というわけではなかった。

 パヴァマーナ・ナンディは、スカーヴァティー山脈からアビラティ諸島まで、アーガミパータの全ての時空間を貫いて流れている。スカーヴァティー山脈が源頭、アビラティ諸島が河口。何がいいたいのかといえば、デニーと真昼とが突っ込んだあのパヴァマーナ・ナンディは、この江河の流れ初め、いわば源流であったということだ。

 まあ、本当の本当であるところの源頭は極楽浄土にあるのであって、あの場所からはまたもや概念平面を異にしたところにあるのだが。そうはいっても世界の断絶面としての本質が非常に純粋な状態で保たれているということには変わりない。

 一方で、この場所は、その江河の真ん中、少し上流寄りの地点にある。色々な不純物、パヴァマーナ・ナンディに合流してくる通常の川から流れ込んでくる水が大部分であるが、そういったものが、だいぶん多量に混ざり込んでしまっている。

 だからして本来の性質が弱まってしまっているのだ。流れゆくソーマは、セミフォルテアを液化したものというよりも、ダイコイティの森で真昼が飲んだような、ああいう種類の液体になっている。人間のような下等生物が触れたとしても、それどころかこの川の中を泳いだとしても、さしたる害はないだろう。

 そんな感じなので、大きいことは大きいのではあるが、現実離れしたものではなかった。夢が呼吸しているかのようにゆっくりゆっくりと流れていく、ありきたりな川である。まあ、淡い光を放っているところは変わっているかもしれないが。ただ、普通の川と違っているところはそれぐらいだ。

 いうまでもなく、川の始点と終点とが見えるわけではない。長さだけみれば、ほぼ無限に続いているように見える。だが、川幅は、せいぜいが四百ダブルキュビトといったところだろう。デニーと真昼とは、右岸からも左岸からも大体等距離に落下していたため、泳ぐ距離としては二百ダブルキュビトくらいだろうか。

 その間、真昼は……川と、その周囲の街とを眺めていた。そう、川の周囲には街が築かれていた。そして、この街こそがweirdなものであった。まさに幻想界にあるに相応しい街だ。

 基本的に、ナシマホウ界における都市というものは平面を起点として設計されている。高層ビルディングのような物もないわけではないが、それとて大地に基礎を置くということを大前提としている以上、やはり平面的な建造物でしかない。

 このような限界には色々な理由がある。例えば人間という種が地上棲であるということ。例えばナシマホウ界には恒常的に利用し続けられるレベルでは魔学的エネルギーが満ちていないということ。そういった理由のせいで、本来は立体的に設計出来るはずの都市を平面的に設計するしかなくなっているのだ。

 と、すれば。そのような限界がないマホウ界においては。その都市に生きるものが地上棲の生き物だけではなく、周囲には魔学的なエネルギーが満ちているマホウ界においては、都市の設計は当然立体的になる。

 その街は……デニーの呼び方に従えばティールタ・カシュラムは。一言で表現するならば、三次元的に繁茂する偉大なるアラゼスクといったところだろうか。アラゼスクという単語は、アイレム教が異端派として追放された後のナシマホウ界に住む人々にとってはあまり聞き覚えのない単語かもしれないが。簡単にいえば、宗教的なまでの偏執的感覚によって複雑化されたところの幾何学模様のことである。それは主に三種類のパターンから成り立っていて、数学的な幾何学模様と詩学的な言語学模様と、それに植物を理想化した象徴主義。

 そのようにして描かれたアラゼスクを、そのまま立体化したような街であった。そして、何よりも……アーガミパータ的であった。この上なく、これ以上ないというほどに、アーガミパータ的であった。

 真昼は、カーラプーラを見た時も、これ以上にアーガミパータ的な都市はないだろうと考えたものだった。ごちゃごちゃとした原色。子供が遊びで並べてみたとしか思えない有様で建てられたビルディング。そのそれぞれのビルディングが、協同調和などという生易しい思いはまるでないままに、ごてごてと飾り付けられている。個性ではない。個々の感覚を信じるなんてご丁寧なものではない。それは都市全体という規模での大爆発だ。ただ、そんなカーラプーラでさえも。ティールタ・カシュラムのアーガミパータらしさに比べれば、まだまだ人間だった。人間のために作られたところの人間の都市でしかなかった。

 ここには、そもそも基本的な秩序がなかった。つまり上下左右がないのだ。街を限定している要素は、本当に、ごくごく僅かしかない。つまり、大地が大地であること、空が空であること。それから、これが一番重要なことなのであるが、パヴァマーナ・ナンディ付近にはいかなる建造物も存在してはいけないということ。これだけだ。後は、大体が自由。

 まあ、そうはいっても、やはり大地の方が建造物が多く、空に近付くにつれて少なくなっていってはいるが。なんにしても、あまりにも自由過ぎて、何からどうやって描写していけばいいのか全然分からない。とにかく街の高さから提示していってみよう。「街の高さ」という表現もなんか変な感じがするが、そうとしか書きようがない。高所にある建物は大部分が空中に浮かんでいるので、建物の高さという表現が使えないのだ。

 真昼が、ふと、上の方を見上げると……地上から一エレフキュビトほどの高さに、まるで天上から落下する水滴のような形、頂点だけが尖った半球みたいな形のドームを円蓋としている建造物が見えた。周囲にある他の建造物よりもかなり巨大で、その複雑な構造については本筋から逸れてしまうため省略せざるを得ないが、とにかく、この街の中でも最も重要な建物のうちの一つであることは間違いないはずだ。

 そして、その建造物が真昼が見る限りでは一番高いところに浮かんでいる。ということは、この街は少なくとも一エレフキュビトの高さがあるということである。

 広さに関してはよく分からない。ごちゃごちゃとした建物が密集していて、ここからでは街の奥の方までは全然見通せないからだ。ただ、広いことは確かだろう。

 街の詳しい構造については。

 その中に入ってから。

 描写するとしまして。

 川の、右岸と左岸とは護岸されていた。恐らくは、砂漠の砂を長い時間をかけて焼成した煉瓦。その上に水硬性石灰か何かでコーティングして、耐水性を高めているのだろうと思われた。地面そのもののように素朴な平面が、川岸とほとんど変わらないくらいの高さで、川に沿って真っ直ぐ真っ直ぐに続いている。

 そこから数ダブルキュビトほど街の方に進んで行くと、その平面と同じように、川に沿って真っ直ぐ真っ直ぐに続いている階段が上がっている。一段一段が、通常の大きさのホモ・サピエンスが快適に上がることができる高さよりもかなり高い。二ダブルキュビトから三ダブルキュビトの体高がある生き物に合わせた高さだ。そんな段差が七段ほど刻まれている。そこから更に数ダブルキュビトほどの平面が続いて、また階段が、今度は三段の段差で上がっている。そして、また平面が続いていて、街へと至っている。

 当然ながら、川岸のそこここには、このような平面・段差というシステムによって成り立っていない部分もある。例えば、顕著なのが船着き場だ。川を渡るための、さほど大きくはない船が幾つも幾つも並んでいる。その場所に関しては、船に乗る時に不便がないように、それなりの高さになった桟橋、支柱によって支えられているのではなく全体が煉瓦で固められているところの桟橋が、まるである種の堤防のように突き出している。

 あるいは、あそこに見えているあの施設……けれども、あの施設は一体なんなんだろうか。一目見ただけでは、なんとも判断がつきにくいものだった。敢えて似ている物を挙げるとするならば、なんらかの祭壇とでもいうべき物だろうか?

 川岸の、その部分だけが、奇妙なほど剥き出しのままであった。ほとんど砂浜のような状態で残されていたということだ。そして、その砂浜のところどころに、不可思議な金属で輝く台のような物が据え付けられている。砂浜全体の広さが、川の流れと平行に数百ダブルキュビト、街に向かっての奥行きが数十ダブルキュビト、それくらい。

 一つ一つの台の大きさは、そのそれぞれによって異なっているが。大体、一辺が三ダブルキュビトから四ダブルキュビトの大きさの長方形が、粗雑な柱の脚によって支えられているという感じだ。高さはそれほど高いわけではなく、せいぜいが一ダブルキュビト程度である。

 ぎっしりと置かれているわけではなく、離れ離れにぽつぽつと置かれているため、数としてはそれほど多いわけではない、多く見積もっても数十基といったところだろう。

 また、その台を作っている金属であるが……まさか、あれはディヴァイナイズド・シルヴァーか? いや、間違いない。あれは、ディヴァイナイズド・シルヴァーだ。特殊な方法で真聖化することによって、真銀と同じか、それ以上の耐魔性を手に入れた金属。武器屋の娘である真昼でさえも、静一郎に連れていかれた工場見学の際に、二度か三度か、その程度しか見たことがない物質。

 どうしてそのような材質で作らなければいけなかったのか? それは、台の上に乗せられているものを見れば分かる。乗せられているというか、そこで燃えているもの。これまた目を疑ってしまうような事実であるが、それはセミフォルテアだった。

 聖なる聖なる炎。真昼が、それを祭壇だと思った理由もお分かり頂けるだろう。真昼のようにナシマホウ界から来た人間であれば、こんなものを燃やしている場所、それはなんらかの儀式に使用されている場所だとしか思えないのだ。

 しかしながら、それは祭壇ではなかった。それに、そこで行われていることも、厳密な意味では儀式ではなかった。そのことは、真昼にも、だんだんと理解出来てきた。

 目を凝らして見ると、その祭壇の上で燃やされているのは、様々な種類の生き物の死骸であったのだ。その大抵が、真昼の知る限りでは、知的生命体の死骸であって。要するに、そこは火葬場だったのだ。

 いや、火葬というのは少し違うかもしれない。この言葉にはなんとはなしの宗教性のようなものが含まれてしまっている。そこで行われている行為は、もっともっと事務的な行為だ。邪魔なものを燃やしているだけという感じ。火葬というよりも処理に近いだろう。他の廃棄物と異なる場所で処理しているのは、単に燃えるごみと燃えないゴミとを分けて処理するのと同じような理由に過ぎないはずだ。知的生命体の死骸は、死後も、長い間、魄が残り続けるために、適切な処理をしないと後々厄介なことになる。魔学的エネルギーに満ちているマホウ界では、特に。

 焼き終わった生き物の灰、あるいは、ダガッゼであればどろどろに溶けた金属の塊であるが。そういったものは、恐らくはそういう仕事を専門にしているジャーティの生き物達が、いかにも粗雑なつくりの壺に入れる。穂先がない箒のようなもので、台の上に残ったものを、さっさっと掃き清めるのだ。それから、その壺を川まで運んでいき、どばーっと一気に捨ててしまうのである。

 ちなみに、ある程度は焼け残ってしまう時もあるらしく。その焼け残りである死骸の部分が砂浜のあちらこちらに散乱している。その焼け残りを狙って、明らかに野良犬と分かる犬や、それに、野良犬ほどの大きさもある甲虫のような生き物が群がっていたりもしている。

 そういった光景を見ても、今の真昼は「ふーん」くらいの感想しか抱かなかった。少し前の真昼であれば少なからずショックを受けていただろう。台の上のものを壺にまとめて川に捨てるというところなんて、特にだ。仮にも、今、自分が泳いでいる……それどころか、さっきなんて、がぶがぶとその水をがぶ飲みしていた川に向かって大量の遺灰(遺溶)が投棄されているわけである。これはなんというか、ちょっと気分がよろしくない。

 ただ、環境的な問題はそれほど大きくはないようだ。なんといってもこの川に流れているのはソーマなのである。確かにそれほど純度が高いわけではないが、それでも、それは聖なる力だ。一定程度の浄化の力は有している。

 というか……よくよく周囲を見回してみれば。川のあちらだとかこちらだとか、なんの処理も施していない死体、そのままの死骸が流れていた。ソーマの力のおかげなのか、大して腐っていない死骸。まあ、それほど数が多いというわけではない。真昼が見回せる範囲に数体だ。そうはいっても、死骸が丸ごと流れているというのは事実である。

 まともな扱いを受けることができないフエラ・カスタに所属していたのか、あるいは死体の扱い方に無頓着な種類の知的生命体であったか。確かに、この川の一番深い部分は時空間と時空間との亀裂に繋がっているわけなのだ。そこまで沈んでいけば、純粋なソーマによって死骸に「適切な処理」が施されるだろう。

 そして、川の中にいるのは。

 死んでいる生き物だけでは。

 なかった。

 例えば、今、真昼から少し離れたところを泳いでいったのは、爬虫類の鱗を持った生き物だ。というか、背中の部分しか見えていないのではっきりとしたことはいえないのだが、恐らくは泳龍だろう。様々な種類の飛龍がいるのと同じように、様々な種類の泳龍がいる。なので、その種類までは特定出来ないが、それでも普通の鰐にしては大き過ぎるのだ。水の中にある肉体は、十ダブルキュビトを軽く超えている。

 他にも、物質で出来た魚のたぐいや観念で出来た魚のたぐいや。あるいは、珍しいものでは、巨大な蚯蚓のような生き物がのたくっている姿も見える。いや、蚯蚓というか、実際はなんなのかよく分からない生き物なのだが、とにかく環形動物に似た生き物だ。その長さは三ダブルキュビトちょっと。太さは子供がようやく抱えられるほどもあり、体の先端部分、顔らしき部分に、上に一本、下に一本、まるで角のような牙が突き出ている。ちなみに、この生き物は夜行性であって、夜になると川岸の近くで待ち受けて、近付いた獲物を川の中に引き摺り込んで捕食する。

 また、知的生命体も、そこにいた。最も、知的生命体の方は、川を生息地としているというわけではないようだったが。例えば、例の小舟に乗って行ったり来たりしていたり。例えば、デニーと真昼と、二人と同じように泳いでいたり。川岸近くでは、何か儀式ばった感じで色々なことをしながら頭まで浸かっている生き物達もいた。印形を結んだり呪文を唱えたりしながら、幾つも幾つもの身体が群れになって洗礼のようなことをしている。そういった生き物は、大部分が人間であったが、人間以外の生き物もいないわけではなかった。そういう生き物は、なんらかの方法で川の力の一部分を自分のものにしようとしているのだろう。魔法によって魔学的エネルギーを引き出して、自分の中に満たそうとしているのである。

 さてさて。

 パヴァマーナ・ナンディ、は。

 そのような場所だったのだが。

 そんな風に、辺りの状況を見回しているうちに。いつの間にか真昼は川岸まで辿り着いていた。デニーはというと、真昼よりも一歩早く、というか一泳ぎ早く、岸に上がってしまっていて。そこから真昼のことを見下ろして「はい、真昼ちゃん!」「掴まって!」と声を掛けていた。その右手は真昼に向かって差し出されている。岸に上がるために掴まってもいいよということらしい。

 いうまでもなく、真昼にとって、そんな手助けは余計なお世話であった。煉瓦を塗り込めた平面は、かなり川面に近いところにある。せいぜいが数十ハーフディギトという高さだ。これくらいなら問題なく自分で上がることが出来る。

 ということで、真昼は、デニーから差し出された右手を完全に無視して。自分の手を、がっと、その平面に掛けた。一気に自分の体を引き上げる。地上に上がると、液体中にいた時にはあった浮力が失われて、自分の体が少しだけ重く感じるが。それでも、それは今の真昼にとって負担となるほどではない。なので、そのまま、しっかりと平面の上に立つ。

 もう一度、周囲を見回してみる。ソーマから上がって、川岸に立ってからそうしてみると、やはりまた気が付くことがある。例えば、思ったよりも多くの生き物がそこにいるということだ。たくさんの知的生命体がいて、それぞれの生活を営んでいる。例えば、川岸で洗濯をしている人間達。上から下に向かって勢いよく布を振り下ろして、平面に叩きつけている人々。金属桶の中にソーマを溜めて、石鹸もつけないで布をこすり合わせている人々。

 あるいは、川面に浮かんでいる船には漁りをしているらしい人々もいる。釣竿を使って釣るのではなく、大きな網を川面に投げてから、それを船の上に引き上げるという方法だ。船には、ナシマホウ界であれば化け物みたいに大きいとでも表現されそうな大きさの魚、とはいってもたかだか一ダブルキュビト程度の大きさの魚が山と積まれている。ソーマは、そこに住む魚の生命力をも育んでいるのだろう。

 例に挙げたのは人間ばかりであるが、他の知的生命体もいる。ティールタ・カシュラムにどのような生命体がいるのかということは、これもやはり街に入ってから描写しようと考えているが。なんにせよ、そういった知的生命体の、かなりの部分が……デニーと真昼とに顔を向けていた。ある者は恐怖の表情で、ある者は好奇の表情で。あるいは、真昼が知らない生き物であれば、真昼には全く理解出来ないような感情を、その表情に浮かべながら。

 なぜ。

 二人は。

 そのように。

 感覚器官を。

 向けられているのか?

 問い掛けるまでもない、当たり前だ。アビサル・ガルーダ、このような生き物は幻想界においても稀な生き物である。神々にも等しい生き物を自由自在に操り、あまつさえ乗り物として利用していたのだ。注目を集めないわけがない。

 例えばの話であるが、コンビニエンスストアにいきなり戦車が乗り付けてきたら誰だって驚くだろう。そして、その戦車から誰かが出てきて。コンビニエンスストアの中に入ってきて、雑誌を立ち読みし始めたら? 二人に感覚器官を向けてきた生き物達が感じていたのは、要するにそのような気持ちであった。

 もちろん、人間的な意味での「気持ち」というものがない知的生命体もそこにはいた。例えば中位種のテーワルルングなどが典型的な例であるが、ただ、そういう生き物に関しても二人に感覚器官を向けていた。というか、そういう生き物が感覚器官を向けていたのは、むしろデニー単独であったといった方がいいかもしれない。そういう生き物は、他の生き物よりも観念に対するアプローチが遥かに直接的であるため、デニーが有している並々ならぬ魔力・精神力に、虫が炎に引き付けられるようにして引き付けられていたのだ。

 なんにしても、二人、は。

 注目を集めていたのだが。

 デニーは、そのことを全く気にしていないようだった。いつものことだったからだ。ナシマホウ界とは違って、マホウ界では、自分がどれほど禍々しい生き物であるかということを隠しておくことが出来ない。いや、まあ、隠しておこうと思えば全然出来るのだが。自然体でいるだけでは、どれだけ強くて賢い生き物であるかということがばれてしまうのである。マホウ界にいるのは、人間のようなまともに魔学的エネルギーを感じられない下等知的生命体ばかりではない。

 「さて」、真昼が口を開いた。周囲に散乱させていた視線を真っ直ぐデニーに向け変えて、こう続ける「これでマホウ界に着いたわけだけど」「そーだねー」「あんたは、マホウ界で、何をしようとしてるわけ?」。

 デニーが、それに答えようとして口を開きかけるが。どうやら真昼の質問はそこで終わっていたわけではなかったらしい。そのデニーのことを遮って、こう続ける。「「真昼ちゃんを生き返らせるんだよー」って答えはやめてね。んなこたぁ、分かってんだよ。それから、世界樹に行って云々官々って答えを繰り返すのも勘弁して。あたしが聞いてんのはね、具体的にどうするのかってこと。具体的に、どう世界樹まで行くわけ? あんた、世界樹がどこにあんのか知ってんの?」。

 真昼に遮られて開きっぱなしだった口がそのまま動き出して、その問い掛けに答える。「んーとね、世界樹がどこにあるかってことまではデニーちゃんも知らないよ。世界樹って、だーいたい、すっごくすっごく分かりにくいところにあるし。そうでない世界樹は、とーっくに、誰かさんに使われちゃってるからね」「じゃあ、どうすんの」「知ってる人に聞くんだよー」。デニーはそう答えてから軽く首を傾げた。自分の答えがちょっと間違っているなと思ったらしく、こう言い直す。「ってゆーかね、どこにあるのかっていう情報を買うって言ったほうが正しいかなー」「買う?」「そーそー、買うの」。

 「買うって……そんな、簡単に買えるもんなの?」。真昼はそう言ってから、こう付け加える「つまり、あんたも知らないような情報を買える場所なんてあんの?」。デニーは、そんな真昼の問い掛けに対してけらけらと笑いながら答える「あははっ! 真昼ちゃん、変なこと聞くんだね! 買えるに決まってるじゃーん! だって、ここ、ティールタ・カシュラムだよ? ここで買えないものなんてなーんにもないよ!」。デニーは、それから少し考え直したようだ。白紙に近いテストの回答にも似て、この世界のことをなーんにも知らない真昼が。ティールタ・カシュラムのことを知っているはずがない。

 「ティールタ・カシュラムにはね、なんでも売ってるんだよ」「なんでも?」「そ、なんでも。んー、まー、でも、魂とかは売ってないけどね。でも、お金と引き換えにして買えるものならなんでも売ってるよ」「ここ、一体、どういう場所なの」。

 二人は、さっきっからずっと立ちっぱなしだったのだけれど。そこまで話した時に、デニーが、急に歩き始めた。川岸の、平面の上を歩いていって。その一番奥にあった階段のところにちょこんと座ってしまう。たぶん、なんとなく話が長くなりそうだと思ったのだろう。

 先ほども書いたように、段差は、かなり高めに作られていたので。デニーちゃんのように可愛らしい子供が座ると、少しばかり脚の長さに余ってしまう。だからローファーを履いた足、ぶらぶらとさせながら。デニーは、まだ突っ立っている真昼に向かってこう言う「真昼ちゃんも、こっちおいでよ」。

 真昼は、明確に嫌そうな顔をしながらも。それでもデニーに言われた通りにそっちに行く。それからデニーが座っているところのすぐ隣に座る。「それで、もう一回聞くけど」デニーとは目を合わせることなく、目の前を流れている川を眺めながら問い掛ける。「ここ、一体、どういう場所なの」。

 ちなみに……デニーがここに座ったこと、真昼にも座るよう誘いかけたことには、少しばかり複雑な理由がある。まず大前提としてであるが、デニーは立っていようが座っていようが疲れるということはない。また、真昼もやはり疲れることはない。真昼の肉体は、既に疲労というものを超えた構造をしている。

 なので、別に立ったままでいても肉体的にはなんの問題もないのだが。ただ、立ったままでいるとどうしても目立ってしまう。先ほど注目を集めた二人は、未だに周囲の生き物達から警戒されている状態なのであって。デニーちゃんとしては、そーゆーのはいつものことなので、別に構わないのだが。ただ、真昼的には、なんとなく居心地が悪いような、そんな気がしないでもなかった。

 まあ、慣れてないからね。そういうわけでデニーは、二人で一緒に座ることにしたのだ。これはなんとなく分かって貰えると思うのだが、立ったまま話してる二人よりも、座ったまま話してる二人の方が、見ている側の緊張感がなんとなく和らぐような感じがするものだ。たぶん、座っている生き物はリラックス状態にあるように見えるので、見ている側も敵意を感じなくなるのだろう。

 実際に、二人が座ったまま話し始めてから。それとなく、周囲の生き物達も、安堵というか安心というか、そこまでいかなくても、少なくとも危険ではなさそうだという空気感になり始めた。もちろん、中位種のテーワルルングのような生き物は、そのような曖昧至極な感覚ではなく、実際に自分が感じている魔学的エネルギーを判断の基準としているので、全然緊張が解かれていなかったが。とはいえ、周囲の刺々しさみたいなものは真昼も気にならないくらいに和らいでいた。

 それは。

 それと。

 しまして。

 真昼の質問。

 デニーは。

 んーと首を傾げて。

 それから、答える。

「真昼ちゃんさーあ、誰がアーガミパータを支配してるか知ってる?」

「支配? アーガミパータを?」

「うん。」

「そんなやつ、いないでしょ。だってアーガミパータだよ。波乱、動乱、禍乱、騒乱、なんて言葉を使ってもいいけど……戦争と混乱と、それしかない土地。もしも誰かがここを支配してるんなら、もう少し秩序があってもいいでしょ? でも、ここには秩序なんて何にもない。だから、支配してるやつなんているわけない。」

「ううん、いるんだよ。それに、真昼ちゃんには分からないだけで秩序もあるんだよ。」

「秩序? そんなもん、どこにあるんだよ。っていうか、どんな秩序だよ。」

「秩序がないってゆー秩序。」

「は?」

「アーガミパータにはね、秩序を作り出してはいけないっていう秩序があるの。もしも、誰かが秩序を作り出したとしても。その秩序は、他の誰かに壊されなきゃいけない。誰かがどこかを支配しても、そのどこかを安定させちゃダメっていう秩序。その安定が続くことは絶対に許されないっていう秩序。」

「そんな秩序……」

「カ。」

「は?」

「カ、謎の神。それがアーガミパータを支配してる神の名前だよ。」

 そこまで話が進むと。

 ようやく、真昼、は。

 デニーに視線を向けた。

「そんな名前、聞いたこともない。」

「そりゃーそーだよ。知ってるのは「カのゲーム」に参加したことがある誰かさんだけだから。」

「「カのゲーム」? あんた、それに参加したことあるの?」

「んー、まあね。とにかくアーガミパータにはカっていう神がいるの。それでね、その神はね、この星でいーっちばん力ある神なの。アルディアイオスも、玄牝も、カには勝てなかったんだよ。それに、今生きてる中では一番強いよーって言われてるのはヤー・ブル・オンだけど、ヤー・ブル・オンだって、やっぱりカには勝てなかったの。それに、神だけじゃない。テングリ・カガンも、アナンタも、ビリビリベンベンも、ヤラベアムも、カには勝てなかった。カに勝てないで、「カのゲーム」に参加するしかなかった。アーガミパータは、それくらい力ある神に支配されてるんだよ。

「それで、その神が、ルールを決めたの。アーガミパータにはどーんな秩序もあっちゃダメだって、ただ混沌だけがそこにあるんじゃなきゃいけないって。だから、アーガミパータは、どーんな強い誰かさんでも、どーんな賢い誰かさんでも、一欠片の土地だって平和に出来ないようになってるんだよ。

「た、だ、し。カシュラムだけは別なの。カシュラムって呼ばれてるところだけは、まあ、比較的だけど、他のところよりも安定していて、秩序がある場所になってるの。それはなぜかっていうと……カシュラムってゆーのはね、バーンジャヴァ語の「カ」と「アシュラム」とが合わさった単語なんだけど。「カ」はもちろんカのことで、「アシュラム」は避難場所のことを指すの。つまり、カシュラムっていうのは「カの定めたルールから避難出来る場所」っていう意味なんだよね。

「つまりね、アーガミパータにいくつかある、カシュラムっていう名前が付いてる場所だけは、混沌から逃げることが出来るってゆーこと。そこにだけは、ある一定の秩序がある。

「カシュラムはね、んー、こーゆー言い方が正しいのか分かんないけど、カが直接支配してる場所なの。他のとこはさ、ほら、色々な生き物が支配しよーってしてるわけじゃない。だから、そのせいで、いっつもどんぱちぱっぱってしてるわけなんだけど。カシュラムは、カの力によって統治されてるの。ていっても、ほんとーに、こーゆーところにカがいるってわけじゃなくって。カが決めた律法が力になってこの場所に満たされてるってゆーことだよ。それで、そういう律法に逆らうよーなことをすると。ずばばしーん! お仕置きされちゃうってわけ。

「で、その律法、っていうか秩序の内容なんだけど。とーっても複雑で、真昼ちゃんみたいな下等生物にはちょっとだけ分かりにくいかな。んーとね、そーゆー複雑なところをぜーんぶなくしちゃって、分かりやすく言うとするとねーえ……「この場所には誰も手を出してはいけない」って感じかな。この場所を支配しようって思っちゃいけないってゆーこと。

「誰もここを支配しよーってすることは出来ないの。そーゆーことだから、どんぱちぱっぱも自然と起こらなくなっちゃうんだね。だって、支配出来ないんならどんぱちぱっぱってしてもなーんにも意味がないでしょ? ってゆーか、それ以前に、どんぱちぱっぱってしよーとしただけで消されちゃうんだけどね。どっちにしても、ここでは、そーゆーことは起こらない。だからとーっても安全ってゆーわけ。

「そーんなわけだから、アーガミパータのいっろーんなところから、いっろーんな生き物が集まってくるんだよね。どんぱちぱっぱから逃げて来た生き物は、みんなみんなここにくるの。それで、ここで、あっちこっちから持ってきたものを売ったり買ったりするお仕事を始めるわけ。

「なんでそうなるのかっていうのは、あんまりよく分かってないんだけど。とにかくカシュラムに来た生き物はだーいたいそーゆーお仕事を始めるんだよね……んー、これはね、あくまでもそーじゃないかなーっていう、噂のお話なんだけど。エコン族の神々がカと取引して、「カのゲーム」に参加しなくてもいいってゆーことと引き換えに、カシュラムの全体にコロナを張り巡らせてるんじゃないかって。真昼ちゃん、コロナって知ってる? 交換を成立させるために必要な象徴に対する、基本的な共同幻想のことなんだけど……まー、まー、とにかく、カシュラムではすっごくすっごく活発に交換が行われてるってことだね。

「カはね、そーゆーことをさせるためにカシュラムを作ったんじゃないかなーって、デニーちゃんは思ってるんだよね。物と物とを交換させる場所を作るためにカシュラムを作ったって。だって、ほら、そーゆーふーに色々なものが手に入らないと、全体的な混沌がさーあ、やっぱり平準になっちゃうじゃないですかー。ここは、混沌が混沌として均質化してしまわないための発熱地点なんだろーね。えーと、もー少しだけ簡単にいうと、すっごいすっごい兵器が当たり前に手に入らないよーだと、どんぱちぱっぱがつまんなくなっちゃうってゆーこと。

「まあ、なーにしても! カシュラムはそーゆー場所なんだよ、真昼ちゃん。街の全体が、おっきなおっきな市場なの。アーガミパータの全部全部のところから、なーんでも集まってくる市場。アーガミパータにあるものなら、なーんでも手に入れられちゃう市場。だからね、世界樹がどこにあるのかってゆー情報も、その情報を誰から買えるのかっていうことさえ知ってれば、かーんたんに手に入っちゃうわけ!」

 デニー、は。

 そう言うと。

 「分かった?」とでもいうみたいに。

 真昼に向かって、首を傾げてみせた。

 折しも、真昼の爪先の数ハーフディギト先を一匹の蟹が通り過ぎたところだった。水場の近くに住んだことがない方々には分かりにくいかもしれないが、このような場所にはとても蟹が多い。都会でいうところのゴキブリくらいそこら中をかさかさとうろつき回っているものだ。

 真昼は、その蟹を指先で摘まみ上げた。二ハーフディギトから三ハーフディギトくらい、沢蟹くらいの大きさだ。ただし甲羅はひどく透き通っている。ガラスというか水晶、しかも原石の水晶みたいだ。いかにも鉱石の結晶体のような形をしていて、内側では淡い光が漂っている。

 真昼に摘まみ上げられた蟹は、もぞもぞと動いている。鋏を振り上げて、いかにも鈍重にゆらゆらと動かしているが。残念なことに真昼の指先にそれが届く気配はない。

 ところで……少し前にも書いたことだが、真昼はお腹が空いていた。いや、それはそんな上品な感覚ではなかった。もっと純粋で、もっと野蛮な、「飢え」そのものの感覚が内臓の内側で暴れ回っているような感じ。なんでもいい、手当たり次第のものを口の中に入れて、噛み砕き、飲み下し、肉体の内側に取り込みたいという渇望。肉体の中に重力を持つ穴が出来てしまっている。そこを塞がないと、自分の内側に落ちて行ってしまう。

 蟹って、確か、生で食べちゃいけないんじゃなかったっけ。寄生虫か何かがいるんだよね。えーっと、確か、海の蟹は生で食べても大丈夫なんだけど、川の蟹は危ないんだよね。じゃあ、この蟹は、川の蟹だから食べちゃ駄目なのかな。でも、川っていっても、あれ、ソーマの川だよね。ソーマの川にも寄生虫っているの? 蟹がいるんなら蟹の寄生虫もいるのかな。まあ、なんにせよ……あたしのこの体は、普通の人間の体じゃないし。寄生虫くらいなら大丈夫でしょ。デニーの魔法よりも強い寄生虫なんて、この世界にいるわけがないんだから。

 ほとんど、無意識のうちに。

 真昼の思考は、そのような。

 一連の過程を処理していて。

 そして。

 そこから導き出された結論に。

 肉体は、自然と、従っていた。

 つまり。

 真昼の指先は。

 限りなくすべらかに。

 その蟹を。

 真昼の口に。

 運んでいた。

 がりん、と骨に響くような音がした。がりん、がりん、がりん、三度目で、完全に蟹の甲羅を噛み砕いてしまうまで、真昼は自分が何をしているのかよく分からなかった。カニに特有のあの味、ほんの少しだけ苦くほんの少しだけ甘く、後の大部分は舌の上に痺れとして消え残る、中腸線の味。それが舌の上にだらりと広がって、初めて事態に気が付いた。

 あれ? あたし、あの蟹を食べてる? そう、真昼はあの蟹を食べていた。しかも、それを食べると決めて食べていたのだ。とはいえ、その決定は真昼の理性によって律された思考によってなされた決定ではなく、真昼の飢餓によって導かれた思考によってなされたものだったのだ。そのため、理性レベルでの真昼は、その決定に気が付きもしておらず。たった今、事態が起こって、ようやくそのことに気が付いたのだ。

 いやいや、ちょっと待ってよ。あたし、そこら辺をうぞうぞしてた蟹食べてんの? いくら腹減ってたからってそれはないでしょ。ちょっとこれは引くわ、お前、本当に文明人かよ。とはいえ、真昼はそれを吐き出すようなことはしなかった。

 もう食っちまったもんは仕方ない。今更吐き出したって何変わるわけじゃなし、もったいないから飲み込んじまおう。がりがりと咀嚼して、ぐちゃぐちゃの死骸になった蟹を、そのまま嚥下する。さして腹の足しになるものではなかったが、少なくとも何か食うことは出来たわけだ。

 例えソーマの流れであっても、川の蟹には寄生虫がいます。そういった寄生虫の幼虫は消化器官を食い破って様々な内臓に寄生して、取り返しのつかないような重篤な症状を引き起こすことがあります。真昼のしたことは非常に危険な行為なので、読者の皆さんは真似しないでね。

 まあ、とはいえ、真昼にはなんの危険性もなかったが。真昼の欲望がそのように正当化したように、デニーに強化された真昼の消化器官は、寄生虫の幼虫ごときに食い破られるほどやわなものではなかったのである。

 なんにせよ。

 蟹を食った。

 真昼ちゃん。

 一匹食ったなら二匹食っても三匹食っても同じである。ということで、もう一匹、近くを通った蟹を拾い上げて。それを自分の口の中に放り込みながら、デニーに言う。

「その、情報を売ってるってやつ。」

「ほえほえ?」

「あんた、心当たりあんの。」

「まあねー。」

 デニーは、そう答えると。

 くるりんと。

 可愛らしく。

 目を回してみせた。


 アッラーは偉大なお方です。

 私はアッラーこそが唯一の善であると証言します。

 私はアルハザードこそが最後の使徒であると証言します。

 さあ、祈りを捧げなさい。

 勝利のために捧げなさい。

 あなたが祈りを捧げうるのならば。

 祈りは無知の幸いに勝ります。

 アッラーは偉大なお方です。

 アッラーの他に善なるお方はいらっしゃません。

「なに、このうるさい音。」

「アザーンだよ、真昼ちゃん。」

 先ほどから、この街の全体に響き渡るような音が、まるで破ろうとしているかのように真昼の鼓膜を震わせていた。その音は、ある種の宝石の純粋な原石が振動している時の、その音のようにひどく透明であって。それでいて……それは、確かに声であった。言葉の姿を形成しているなめらかですべらかな歌声であった。

 その歌は、真昼が聞いたことがないたぐいの歌であった。恐らく「アッラー」といっているのであろうその声の、「ラー」のところがどこまでもどこまでも伸びる。まるで金属を鞣した帯のように、舌の上に冷たい味がする声。そして、その帯が切れると、また次の歌が始まるのだ。共通語でいうところのら・り・る・れ・ろの音を中心としている、水銀の海のような歌。波がひどく強い、時化の海みたいな歌。

 その歌は、いわゆるアラジフ語と呼ばれる言語で紡がれていた。アラジフ語は、ナシマホウ界では、もうほとんど使われていない言葉だ。アイレム教が異端として認定され、その信徒の大部分がマホウ界へと移住して。残された信徒も地下に潜り、自らの信じるところの宗教を明かさなくなってから。ナシマホウ界では、少なくとも日常の場においては滅びてしまった言葉。真昼はデニーに問い掛ける。

「アザーン?」

「アイレム教の、お祈りの時間を教える歌だよ。お祈りをするのは今だよーって歌ってるの。」

「アイレム教?」

「そうそう。」

「なに、それ。宗教?」

「うん、トラヴィール教の異端二派のうちの一つ。」

「異端……ってことは、シュブ=ニグラス派と同じようなやつっていうわけ。」

「うんうん、そーゆーこと。」

「聞いたことないけど。」

「ほとんどの子がナシマホウ界からは追放されちゃったからねー、ヴェケボサンの大移動の時に。残ってた子達も、第十七回のベルヴィル公会議の後でみんなみんな殺されちゃったし。いーまー、ナシマホウ界で残ってるところはーあ、中央ヴェケボサニアのカザニスタンくらいかなーあ。」

 デニーは、そう答えると。

 ぴんと立てた人差し指を。

 ふりふりと振ってみせた。

 その歌は、どうやら例の建造物から聞こえてきているようだった。この街で最も高いところにある。水滴のような形をした水晶を天蓋にした、あの建造物だ。

 ここからでは、他の建物に隠れてしまってよく見えないのだが。どうも、その天蓋の部分が、建物自体から浮かび上がっているようだった。水晶は天に向かって引き寄せられていて……そして、その水滴の形は、花のように開いていた。

 一輪の花は開き、その中にいた奇妙な怪物が吐き出されていた。それは人間に似ているとも似ていないともいえない怪物で、たくさんの羽が生えている。煙を一筋も出すことがない揺らめく炎のようなもので出来ていて、天を仰ぐようにして空に向かって腕を伸ばしているのだが、その身体は水晶で出来た花に繋ぎ止められている。なぜかというと、花の中心には一本の柱があるのだが、怪物の下半身はその柱の中に閉じ込められているのだ。

 そして、その怪物が。

 あの歌を歌っていた。

「ってことは、アイレム教ってのはヴェケボサンの信仰なの?」

「ううん、違うよ。アイレム教は人間の信仰でーす。中等知的生命体とか下等知的生命体とか、そういう子達の中には信じてる子もいるみたいだけどね。でも、基本的には人間のための信仰だよ。ヴェケボサンの大移動の時に追放されたのは、ヴェケボサンがアイレム教を兵器として使ってたからだね。

「アイレム教も、もちろん、アイレム教の子達だけが分かるトラヴィール神学を体系化してたんだけど。それはね、とってもとってもとーっても力を持つ神学的法則を定義することが出来る神学だったの。ヴェケボサンは、そーゆー神学を利用してこの世界でいーっちばん強くなろーってしてたわけ。

「だから、別に信仰として信じてたわけじゃなかったんだけど……んー、世界を説明するための説明方式って感じかな。そんな感じで、兵器の開発に取り入れてたの。そのせいで、ヴェケボサンの支配地域ではアイレム教がすっごくすっごくおっきなぶーむになったんだけど。でも、結局は、ヴェケボサンと一緒にマホウ界に追放されちゃったんだね。

「そもそもヴェケボサンは自種族内崇拝だから。自種族内の祖先とか、自種族内の英雄とか、今でいうとテングリ・カガンだね。そういう自分達の種族の中の誰かさんしか崇拝しないよ。

「でもねー、んー、宗教かどうかっていわれたら、宗教ではあるかなー。そもそも、さぴえんすがいう宗教っていうの、デニーちゃんいまいち意味が分かんないんだけど。あれって基本的に行動シークエンスの後天的論理化だよね? どーしてこれをするのかーとか、どーしてこれをしたのかーとか、そーゆーやつ。それが、世界がどうなってるかーっていうことと、共同体内の力の焦点がどこにあるかーっていうことと、最終的には、この二つに分かれちゃって。それをはっきりさせよーっていう理論になったなんやかんやのことなんだろーなーってデニーちゃんは思ってるんだけど。だから、さぴえんすにとって科学が宗教だっていうのと同じ意味で、ヴェケボサンにとってアイレム教は宗教だね。力の焦点っていうわけじゃないけど、世界の説明方式にはなってるから。」

 そう言うと。

 デニー、は。

 肩を竦める。

 いつの間にか、あの歌声は止まっていた。水晶で出来た花は徐々に徐々に花弁を閉じていって。あの怪物は、また円蓋の中に閉じ込められていた。恐らく、例の建物の中では礼拝が始まっているのだろう。一日三回の礼拝のうち、二回目の礼拝。神の卵が中天に上がった時に行われる礼拝だ。

 ただ、とはいえ……この街にいる全てのアイレム教徒が例の建物に集まっているというわけではない。例の建物の固有名詞は「カ・マスジド」であるが、これはマスジド・アルキタブと呼ばれる種類の宗教施設として建てられたものだ。マスジド・アルキタブ、共通語に直せば「本曜日の礼拝施設」。つまり、アイレム教において義務として定められているところの、本曜日の昼に行われるマスジドでの集団礼拝を行う場所という意味である。

 別に普段の礼拝をここで行っても構わないが、というか、こういった場所で礼拝した方が功徳があるとはいわれているのだが、それでも、普通の人々は、こういった場所で行われる集団礼拝に行くのは本曜日の昼なのである。

 オンドリ派においての聖なる日が火曜日であるように、フクロウ派においての聖なる日が聖無知曜日であるように、アイレム教においての聖なる日は本曜日だ。アイレム教は、トラヴィール教の正統五派・異端二派、合わせて七派、その中で唯一「無知の幸い」を重視しない宗派である。

 アイレム教においては、基本的には、「探求」こそが最も重視される。それはアイレム教において最後の定命全知者とされているアヴドゥル・アルハザード(実際は違います)が、知識の「探求」の果てに真実の無知を手に入れたという伝説に由来している。つまり、「無知の幸い」ではない真実の無知に到達するためには、アッラーによって与えられるところの善、その善に対する正しい知識こそが重要であると考えるのである。そのため、そういった知識を象徴するところの本曜日が聖なる日とされるのだ。

 そして、その本曜日の昼に行われる礼拝は特に重要なものとされる。ジュマの礼拝、「もろびとこぞりて」の礼拝と呼ばれるこの礼拝は、その名の通りアイレム教徒の全体がマスジドに集まってなされるべきものとされているのだ。そのためこの礼拝に限っては街中のアイレム教徒がカ・マスジドに集まって礼拝を行う。

 ただ、普段の礼拝はカ・マスジドに集まって行う必要はない。先ほども触れた通り、伝承の中には、マスジドで行う礼拝にはマスジド以外の場所で行う礼拝の七十七倍の功徳があるというようなものもあるが。アイレム教徒はあんまりそういうのを気にしない。とにかく、出来るところですればいいという考えなのだ。

 アイレム教徒にとってはアブドゥル・アルハザードが書いたアル・アジフと呼ばれる書物だけが絶対的な権威を持つ書物であり、そこに書かれていること以外のなんやかやには案外にルーズだ。ちなみに、このアル・アジフがパンピュリア語訳されたものが、かの有名なネクロノミコンである。そして、このネクロノミコンをエドマンド・カーター的な解釈によって読み直すことで作り出された神学的法則こそ、ハテグ=クラ全階層法則会議において「各集団における全体的管理を要する法則」として定められたネクロノミカンシーなのだ。この事実だけで、アイレム教という宗教が、どれほど強力な兵器を作り出しうるかということがご理解頂けるだろう。

 えーと、ちょっと話が逸れちゃいましたね。何がいいたいのかといえば、確かにマスジドで礼拝しているような生き物達もいないわけではないが、大半の生き物達は、自宅だの店舗だの、そういう場所で礼拝をしているということである。

 そもそも、この街にいる生き物は、大抵が商業に従事しているのであって。商売している最中に、呑気にマスジドになんて行っている暇などないのだ。

 いや、まあ、実際には……ここら辺の話をすると少し長くなってしまうのだが、アイレム教の文化圏においては、真っ昼間に働くということはあんまりない。誰でも知っている通り、アイレム教が始まったのはアラジフ半島であるが、アラジフ半島はアーガミパータに負けずとも劣らないほどクソ暑い場所として有名である。こんな場所で真っ昼間に働いていられるわけがない、そんなことをしていたら熱中症だのなんだので死んでしまう。

 とはいえ奴隷とかは無理やり働かされていたわけだ。そういうの良くないよねっていうことで、昼にもそういう奴隷を休ませることが出来ないかと考えた末に、このような昼の礼拝が作られた。そもそもアイレム教の礼拝は朝と夜と、この二つだけであった。その後に、真っ昼間に働かなくてもいいように、昼の礼拝が作られたということである。

 まあ、礼拝の時間はせいぜいが十分かそこらだが。その前に、体を清めたりだとかなんだとかで時間がかかる。最低でも三十分はかかるだろう。そうすれば、その時間は、それなりに休める。しかも、文化圏の全体が礼拝するのだから、経済活動がストップするのだ。それならば、自然と、文化圏の全体が昼休みという制度を受け入れるようになる。

 当時は「お昼ご飯」なんていう優雅な制度がしっかりと定まっていたわけではなかったので、この決定のインパクトは重大であった。そんなわけで、アイレム教の文化圏においては、昼の前後、一時間から二時間ほどは経済活動が停止するようになったのだ。

 なので、本来は、昼に働くということはないはずだが。この街においてはそんなことをいってられない。なぜなら、この街の全体がアイレム教の文化圏というわけではないからだ。異教徒もいるし、宗教的感覚自体を持たない種族だっていないわけじゃない。となれば、いつまでもぐずぐずと店を閉めているわけにはいかない。それに、そもそも、卸売店・小売店のような店は、いつも店を開けておくに越したことはないのである。というわけで、この街では、自分の店舗でさっさと礼拝を済ませて、また商売に戻るというような生き物が多い(特にグリュプスはヴェケボサンの権力機構に食い込むためだけにアイレム教を受け入れたという側面が強いのでその傾向がかなり大きい)。

 そんな。

 わけで。

 ありまして。

 デニーと真昼とが歩いているその通りの左右から、それぞれの店舗の主人だとか雇用人だとかが礼拝をしているのだろう、その声が聞こえてきていた。「アッラー、アクバール」、アッラーは偉大なお方ですという意味のその言葉を中心とした祈祷文である。真昼はアラジフ語は皆目理解出来なかったので、それがどのような意味なのかということはよく分からなかったが。それでも、アイレム教の礼拝というのは嫌に芝居がかった、奇妙なほど大袈裟なものなんだなと思った。

 さて。

 とこ。

 ろで。

 今までの描写から。

 お分かり頂けます。

 通り。

 デニーと真昼と、は。

 街の中を歩いていた。

 がやがやと。

 真昼が知っている生き物に。

 真昼が知りもしない生き物に。

 あらゆる種類の生き物が。

 行き交う通り。

 そう、川岸から離れて街の奥へ奥へと向かって進んでいるところだった。先ほど、二人並んで階段に座っていた時からは少しばかり時間が経っていて。ティールタ・カシュラムの、一番奥とは言わないまでも、皮膚と筋肉とを越えてかなり内臓に近い部分まで入り込んでいた。

 ちなみに、この地区はタンガリ・バーザールと呼ばれる地区である。アイレム教徒の人間が中心となって、様々な種族・様々な宗教の生き物が入り混じって商業を営んでいる地区だ。基本的に、アーガミパータのこちら側(マホウ界側)においては、アイレム教徒だとか無教徒だとか、それにそれぞれの神々を信じる信徒たちだとか、そういった宗教ごとにバーザールの地区は分けられている場合が多い。ただ、このタンガリ・バーザールでは……というか、ほとんどのカシュラムでは、そういう風に地区を分けない。

 そうではなく、ごくごく普通に売っているもので分けられている。まあ、宗教ごとに地区分けしている場合でも、それぞれの宗教ごとに取り扱いが得意な商品が変わってくるので、そういう分け方になるのだが。とにかく、タンガリ・バーザールでは、そのような分け方がされている。

 ちなみに、この辺りは食料を販売する店が多く集まっている場所のようだ。二人が歩いている通りは、その中でも、特に乾物類を扱う店が多い通りである。

 一番多いのはナッツ類を売る店で、真昼がよく知ってるナッツ類から、真昼が見たこともないような金属に似た光沢を放つ種まで、どんなナッツでも揃っているようだった。あるいはドライフルーツはもっと色とりどりで、マンゴーの黄色、アプリコットのオレンジ、バナナの白にリンゴの赤。葡萄に柘榴に桃に梨に苺に、メロンまでがドライフルーツになって売っていた。

 そういった乾物が、所狭しと並べられている。ほとんどの物は、たぶん麻で作ったのだろう頑丈そうな袋に入れられている。ゴミ袋ほども大きい、子供の背丈ぐらいある袋の中に、はち切れんばかりに入れられて。その中から、金属のボウルを使って中の乾物を取り出すのである。そういった袋は地べたの上にどっかりと置かれていて、店の軒先なんか関係なしに、空間の全体を塞がんばかりの勢いでそこら中に置かれているのだ。そして、そういった袋と袋との合間には巨大な金属の秤が置かれていて、その秤で乾物を量り売りしているらしい。

 あるいは、テーブルの上に置かれている乾物もある。そういった乾物は、籠に乗せられている物もあるし、金属の鍋のような物に入れられている物もある。このような物は、店の奥まったところに置かれているのだが、さほど量が取れない貴重品なのだろう。大きめの葉っぱのようなものに乗せられている物もある。こういった物は予め重さが量られていて、客が頼めば、そのまま葉っぱでくるんで渡されるというわけだ。

 ここまでは、まあ、ナシマホウ界でもよく見掛ける光景であるが……問題はここからである。タンガリ・バーザールでは、店の列は左右に並んでいるだけではない。上下にも並んでいるのだ。どういうことかといえば、店の建物がふわふわと空中に浮かんでいるのである。それか、店の上に店、また店、また店、また店という感じで、おもちゃの積み木みたいに縦に並べられているところもある。どちらにせよ、重力などに無関心に、ほとんどでたらめな有様で広がっているバーザールなのだ。

 そういう店も、本来店であるべき場所など無視して商品が並べられているのだが。大体の場合、そういった商品は、なんだかふわふわと浮かぶ台の上に置かれている。台には魔法円が刻まれているが、それが、空間固定の魔法か、重力無視の魔法か、そういった種類の浮遊の魔法を発動させているに違いない。

 ちなみに、店自体がどのように空中に浮かんでいるのかといえば。そもそも店は浮かんでいるわけではない、切断された空間の断層の、その切断面に引っかかっているのである。

 カシュラムと呼ばれる場所では空間がめちゃくちゃになっている。それは既に歪みというものを超えてしまっている、空間がバラバラになっているのだ。そして、その断片化した空間が上空のあちこちに固定されていて、そこに店を建てているのだ。

 もちろん、そういった店に普通の方法で行くことは出来ない。どこの空間とどこの空間とが断絶しているのか、その道順を知悉しているか。あるいは、空中を移動することが出来るか。それくらいのことが出来なければ地上の道を歩くことしか出来ないだろう。いや、それどころか、最低でも魔学的エネルギーを読み取ることくらい出来なければ、空間と空間と、その断絶が作り出す迷宮に嵌り込んでしまうだろう。

 この市場はそういう場所なのだ。まあ、アーガミパータである程度の間生き残ることが出来た生き物。それだけでなく、カシュラムに辿り着くことが出来るような生き物。そんな何者かであるならば、それくらいのことが出来ないはずもないのであって。それゆえに、実質的な危険性はほとんどないのだが。

 真昼は。

 デニーに連れられて。

 そのような場所。

 歩いているのだ。

「まだ着かないの。」

 真昼は。

 指先で、軽く。

 髪を掻き分けながらそう言った。

 川を泳いだせいで、どしゃ濡れになっていた髪は。

 凄まじい晴天の日差しのせいで、乾き始めている。

 そういえば。

 こんなに暑いのに。

 この体。

 まるで、汗を、かいて、いない。

「あんたが言ってた、情報屋がいるところ。」

「んー……まだです!」

「っていうかさ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あんた、本当に知ってんの?」

「えー、なにをー?」

「その情報屋。世界樹の場所を知ってるってやつのこと。」

 そう言いながら、真昼は、なんだか自分がイライラしていることを感じていた。いやいや、真昼がイライラしているのなんていつものことだろ、と思われるかもしれないが。今のこのイライラは、そういうイライラとは質の違うイライラなのである。

 いつものイライラは、まあ書くまでもないことだが、デニーに対するイライラである。デニーがこの世にいるということに対する全般的な嫌悪感だ。このクソ野郎と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がするというあれなのだが、それに対して、今のこのイライラはもっと生理的なものである。

 生理的なものといっても別に生理ではなく(真昼の生殖器官は真昼の死とともに停止している)、要するに、お腹がペコペコのペコなのである。それはもうとんでもねぇくらいお腹が空いてしまっていて、そのせいでこの世の全てのものに対する怒りがふつふつと湧き上がってきてしまっているのだ。

 パヴァマーナ・ナンディに飛び込む前から、なんか妙に腹減ってるなと思っていた。川岸に座っていた時には、そこら辺をうろうろしている蟹を拾い上げて食べてしまうほど空腹になっていた。そして、今、その飢餓感は、あたかも一つの恒星が膨れ上がり超終星爆発を起こすかのようにして、凄まじい勢いで真昼の全身で暴れ狂っているのである。

 なんだよ、これ。意味分かんねぇ。つうかさ、さっき、こいつ、言ってなかったっけ? あたしには、もう、科学的エネルギーは必要ないって。魔学的エネルギーを直接使うことが出来るから、科学的エネルギーを作り出すための生理機能は必要ないって。じゃあ、なんでこんな腹が減るんだよ。気のせいか? こんなに飢えてんのに、この飢えの全部が気のせいだっつうのかよ。ふざけんな、んなわけねぇだろ。

 真昼のイライラは。

 そんな感じだった。

「世界樹がどこにあるのかーっていうことを知ってる生き物がここにいることは分かってるよ。でも、どこにいるのかってことは知らない。」

「は?」

「真昼ちゃんが言ってる、その、情報屋さん? この街のどこかにいるっていうのは分かってるけど、それがどこなのかは知らないの。だから、情報屋さんがどこにいるんだろうねっていうことから探さないといけないーっていうわけ。そーゆーことで! デニーちゃんはここに来たの。ここはタンガリ・バーザールっていうところなんだけど、ほらほら、色んな生き物が、たくさんたくさんたーっくさんいるでしょ? これだけたくさんの生き物がいるなら、情報屋さんがいるところを知ってる生き物もいるんじゃないかなーって。そう思って、ここに来たっていうわけだよ。」

 デニーの。

 言葉に。

 真昼は。

 「ふざけじゃねぇ」だとか「てめぇ、適当に歩いてたのかよ」だとか、そういうことを思う前に、純粋にびっくりしてしまった。だって、その、なんというか……たった一匹の生き物が、この程度の狭い街の中のどこにいるのかということを、あのデナム・フーツが分からないなんて。

 いや、真昼はティールタ・カシュラムがどの程度の広さなのかということ、その正確な範囲を知らなかったが。とはいえ、まさか星一つ分の範囲に広がっているというわけがない。そうだとすれば、デナム・フーツにとって、それは兎の鼻先ほどの広さでさえないに違いないのである。

 どんな方法を使うのかは分からないが、その生き物に特有の魔力が引き摺っているバイブレーションを追うのでも、あるいは、その生き物に特有の生理機能が出す音を聞くのでも、やり方はいくらでもあるだろう。だって、デナム・フーツなのだから。それなのに、そのデナム・フーツが、誰かに聞かなければ、目的の生き物の居場所が分からないなんて。

 真昼は。

 そういった驚きを。

 巧妙に隠しつつも。

 こう言う。

「あんた、知らないの?」

「うん。」

「どこにいるかってこと?」

「知らないよー。」

 わざとらしく溜め息をついて。

 真昼は、こう、言葉を続ける。

「あのさ。」

「んーっ! 真昼ちゃん、そんな顔しないでよーっ!」

「もっと他に……やり方、あっただろ。例えば、あの、ここに来るまで乗ってきた鳥。アビサル・ガルーダだったっけ、あれに乗って上から探すとかさ。そっちの方が効率的だったんじゃないのかよ? 確かに、あたしみたいな「弱くて愚かな」生き物なら、上から見たって分かんねぇだろうけどさ、あんたみたいに「強くて賢い」生き物なら、上から見れば、魔力だとか精神力だとか、そういうバイブレーションで分かるんじゃねえの? その情報屋がどこにいるのかってこと。」

「あははっ! 真昼ちゃん、デニーちゃんのこと「強くて賢い」って言ってくれるのー? デニーちゃん、とーっても嬉しい!」

「うるせぇな、茶化すんじゃねえよ。」

「まー、まー、そーゆーことも出来ないわけじゃないんだけどね。でも、そんなことしたら、パーリーダールのみんなに怒られちゃうよ。」

「パーリーダールって、なに。」

「えーと、共通語だと「衛兵」っていう意味だね。」

 そこまで話すと。デニーは、ふっと、後ろにある何かを背中の目で見つけたとでもいうようにして振り返った。そして、そちらの方を指差しながら「あれあれ、ああいう子達のことだよ」と言った。真昼が、そんなデニーが指差した方を振り返ると……そこには、二人のヴェケボサンがいた。

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