第三部パラダイス #1

 楽園とは何か?

 このことは意外にもあまり知られていないことで、信徒さえもはっきりと意識して区別している者は少ないくらいだが、トラヴィール教会の教義において天国と楽園とは異なった概念である。例えば義人は、裁きの場において常に正しくある者は、天国に行くことは出来ても楽園の構成要素となることは許されない。一方で、まだ汚れていない怪獣は、まさに楽園に生息するべき生き物であっても天国の門をくぐることは決してない。

 天国とは「かくあるべきものがかくあるべくかくある王国」のことである。それは完全なる静止状態にある、一個の絶対零度の宝石にも例えることが出来るだろう。この世界であるところの何もかもは、一つの摂理から始まり展開した。そして、この世界が終わった後、なにもかもは一つの摂理へと収束していくだろう。この摂理が天国である。全ての混沌が絶対的な秩序のもとに統一され、あらゆるものが善良になる。この絶対的な秩序が天国である。それは、要するに理性の別名のことだ。ああ、天国の栄光よ! 主の定めごとに従うこと、禍悪と瀆信とを注意深く退けるということ。自分であるところの全てを懸けてでも、正義の者であり真実の者であるということ。これが天国へと至る条件である。

 一方で、楽園とは何か? それは要するに幸福の別名である。ホスチア、なぜ我々は燔祭を捧げなければいけないのか? 楽園とは愛ではない、楽園とは信仰ではない。楽園とは必然だ。そっと目をつむり、暗く広い海に身を任せるということだ。原罪は、いうまでもなく、楽園において犯された。原罪の赤、無原罪の青。これは一つの背理であるが、楽園に入ることが出来ない者はいない。誰であっても……無論、あの赤い龍、バシトルーであっても楽園で歌うことが出来る。これは一つの背理だ、さりとて、楽園に従うべき理があるとでもいうのだろうか。賢しらを捨てよ、楽園とはそれ自体である。そこには問いはない、そこには答えはない。そこにあるものは、誰もが幸福であるという恩寵だけだ。


 Parodos。

 母なるこの星の。

 内臓に入り込む。

 どうっというか、ごうっというか、その二つの音を合わせた上で更に何千倍にもしたような音が響いた。鼓膜どころか魂さえも震わせるような音……もちろん真昼には魂がないので、それがあったはずの空っぽの場所を震わせるような音と表現した方が正しいのだが。

 それから、ざっぱーんという音が続く。これは、いうまでもなく、パヴァマーナ・マンディに流れていたところのソーマが噴き上げられた音だ。天高く、あの青空へと向かって、きらきらとした光の冠が――ウォーター・クラウン、ミルク・クラウン――跳ね上げられる。

 そう、今まさにアビサル・ガルーダがパヴァマーナ・ナンディに突入したのだ。その衝撃によって、アビサル・ガルーダが突入した地点を中心にして、一つの巨大な爆弾が爆発したかのように、液体が粉々に砕けていく。ほとんど鏡面のように静寂していた江河の川面には、巨大な(とはいえ江河の全体からすれば小さな小さな)穴隙が開く。それは、数字的な感覚では捉えられないような距離と奥行きとを有している穴隙ではあったが……まあ、視覚的に捉えられる限りでは、直径にして数エレフキュビトもの大きさがある円形であった。

 ほんの。

 一瞬の。

 空白。

 アビサル・ガルーダは。

 それを。

 侵犯する。

 真昼は、まるで機関銃によって発射された無数の銃弾のようにして全身へと降り注いでくる水滴を感じていた。いや、まあ、もちろん真昼は機関銃で撃たれたことなどないのだが。それでも、その水滴が激突したところから、まるでその皮膚を滅ぼそうとするような焼灼の激痛を感じてはいたのだ。

 ソーマの水滴。この世界で最も純粋なソーマの水滴。それは小指の先よりも更に少ない量で人間を焼き尽くすことが出来るような凶器。そんな水滴が、真昼の真正面から、まるで七月雨のようにして、それは豪雨である。重力とは逆らって下から上へと降り注ぐ豪雨だ。

 アビサル・ガルーダは、デニーと真昼とを乗せた手のひらを、今では胸の辺りへと持ってきていた。掌底の辺り、胸に軽く押し当てるようにして。第二趾から第四趾までの指先を、前方に向かって真っ直ぐに伸ばして。そのような第四趾の根元の辺りに真昼は蹲っていた。

 振り落とされることがないように、両方の手で、しっかりと、手のひらの鱗に掴まっている。全身をべったりと這わせている。そのおかげで、手のひらの上からぶっ飛ばされてしまうというようなことはなかったのだが。それでも、その身体は、普通の人間の身体であれば耐えられないような、外部世界からのあらゆる影響力を感じていた。

 今まで乗ったことがあるどんなローラーコースターよりも凄まじい加速度。このように既に死んでいる肉でなければ、多少は乱雑に扱っても構わない肉でなければ。鱗に捕まっていた真昼の腕はとうにちぎれてしまっていただろう。

 それだけではない。アビサル・ガルーダの有する観念重力と、パヴァマーナ・ナンディが有する神力とが激突した時の衝撃。対神兵器の衝撃とも思えるような衝撃が、真昼を構成している魄の全体を虚無によって定義しようとする。虚無が虚無として定義されえない真昼のこの状態でなければ、真昼は真昼という一つの実体を保つことも出来なかったはずだ。

 そして。

 もちろん。

 アビサル・ガルーダが噴き上げた。

 大量の水滴が、真昼のことを襲う。

 しかしながら、そういった全ての破壊的な影響力は、まだまだ序の序・緒の緒に過ぎなかった。その後で、一体何が起こったのか? パヴァマーナ・ナンディの表面に、ほんの咄嗟の間だけ出現した空白。その内側へと入り込んだアビサル・ガルーダ。そして、その次の瞬間に、その空白に向かって……怒涛の勢いでソーマが流れ込んできたのだ。

 当たり前といえば当たり前のことであって。叩きつけられた閃裂なエネルギーによって掻き分けられていたはずの大量の液体が、そのエネルギーの消失とともに、もとの場所に戻り始めたというだけの話である。

 もちろん、それは、論理的な必然ではあるのだが。ただ、だからといって災害でないわけではない。特にその現象が起こっている中心部分にいる……まさに、流れ込むソーマが向かう先にいる、真昼にとっては。

 とぷん、と穿孔された川の内側に、突し、撃し、寄生虫のようにして潜り込んだアビサル・ガルーダ。そのアビサル・ガルーダが穿ち抜いた穴に、躊躇の気配も逡巡の気配もなく、ソーマの洪水が叩きつけられる。クラウンを形作っていた噴水が、観念重力に引き摺り込まれるようにして、その穴を塞ごうとする。

 無論。

 それを妨げる者など。

 いるはずもないのだ。

 真昼にとって、それがdisaster以外の何ものであっただろうか? aster、astro、ああ、それは、この星により引き起こされたところの破滅! 人間という下等な生物は、一般的に、ほんの僅かの環境の変化でさえも致命的になりうる。例えば大気中から水中へとその環境が変化しただけのことで、それだけのことでその生命は破綻しうるのだ。

 そうだとすれば……その全身が、セミフォルテアによって包み込まれてしまえば? セミフォルテアが液体と化したところのソーマが、大気の代わりに人間の身体を覆い尽くしたら? 無論、ごくごく普通の人間がそんな環境に耐えられるわけがない。普通であれば、その身体の全ては、概念的な基礎部分から焼き尽くされてしまうだろう。

 ただ。

 幸いなことに。

 真昼は、既に人間ではない。

 少なくとも普通の人間では。

 ずだっばーんっ! なんだか思わず笑ってしまいそうなほど阿呆らしいオノマトペではあるが、敢えて言語化すればこのような音だろうか。例えばパンピュリア共和国、あのアップルのドームをスプーンとしたところで掬い切れないであろう量のソーマの噴水が、アビサル・ガルーダの作り出した空白の内側に叩きつけられた音である。

 もちろん、その空白にいたアビサル・ガルーダは。というか、もっといってしまえば、その手のひらにしがみ付いているところの真昼は。全身をソーマに包まれることになった。セミフォルテア、神々の力。人間など、それを見るだけで焼かれてしまうほどの力。そんな力に飲み込まれる。

 細胞の一つ一つまでが、天空の冷度によって凍り付いていた真昼の物理的な側面は。一瞬にして燃え上がる。一つ一つの細胞が、今度は燃え上がるエネルギーの爆発に変化したのだ。真昼は、自分が、まるで一つの銀河にでもなってしまったような感覚を感じた。今、この瞬間にも、まさに死にかけている銀河。そこここで不定子星が爆発し、ブランク・ヴァインが荒れ狂っている。

 ああ、ソーマが、あたしを、あたしを、あたしの全身を、滅ぼそうとしている。皮膚から入り込んで、肉を、骨を、内臓を焼き尽くそうとしている。

 真昼は……思わず笑ってしまった。なんて、なんて無駄なことをしているんだろう! あたしが焼き尽くされるはずがない。なぜなら、あたしの隣にはデナム・フーツがいるからだ。災害? これが災害だとでもいうの? はっ! なんて馬鹿げた冗談だろう。こんなもの、災害でもなんでもない。災害とは、つまり、デナム・フーツだ。完全な邪悪、完全な破滅。それと比べれば……セミフォルテに全身を焼かれる? こんな感覚、苦痛でさえない。

 あたしは、デナム・フーツに、守られている。絶対的な災厄によって、あらゆる災厄から守られている。そうであるとするならば、こんなもの、こんな炎、ちょっとした気怠いエクスタシーみたいなものだ。真昼は……あまりにも下らない現実というものに、思わず笑いが込み上げてくる。冷笑! 嘲笑! 大きな口を開けて、真昼は笑い始める。

 すると、その口の内側に、どろどろとしたゼリーのような質量を持ったセミフォルテア入り込んでくる。がぼがぼと音を立てながら、セミフォルテアは、喉の奥、胃に、肺に、流れ込んでくる。体を内側から焼かれながら、真昼は、笑う、笑う、更に笑う。

 快感!

 なんという快感!

 滅びない!

 滅びない!

 あたしは!

 絶対に!

 滅びない!

 テンション高いね真昼ちゃん。それはそれとして、真昼は、目を見開いていた。角膜が焼かれ、瞳孔が焼かれ、水晶体が焼かれ。二つの眼窩の内側には、二つの焔が踊っていて。それでも眼球を瞼で覆うことはしていなかった。そもそもの話として、瞼自体が燃えているのだ。目を閉じることになんの意味がある?

 真っ直ぐ前を見ていた。アビサル・ガルーダが向かう先、パヴァマーナ・ナンディの深奥。下へ下へ、更に下へと向かうその先を凝視していた。光だ! 光だ! そこには光があった。そして、その光の中に棲む生き物達の姿があった。

 いうまでもなく、そこに生態系の空隙がある限り、なんらかの生き物が収まるものだ。適材適所、ということで、パヴァマーナ・ナンディにも生態系が築かれていた。

 しかし、とはいえ、これらの生き物に対して……果たして、人間的な文脈において使用される生き物という単語を使用してもいいのだろうか? パラレルな生命体。

 そもそも、それらの生命体は、具体的な身体というものを有していないようだった。まあ、それも分からない話ではない。もしも、そういった現象に依存しなければ生き延びられないとすれば、そのような現象は、これほど巨大なエネルギーの中では一瞬で滅びてしまうだろうからだ。

 ということで、具体性のないものを具体的に記述するというのは不可能であるが。それでも、真昼が見たものを、真昼が見た通りに表現するとするならば……それは、非原理的な環境に対する原理の幻影であった。いや、そんなこといわれても分かんないすよね。えーと、こう、なんか、夢の欠片みたいなものです。

 目が覚める前に、頭蓋骨の中からさらさらと流れ落ちていく、今まで見ていた夢の世界の断片的な崩壊過程。それが生命的な仮象を獲得したとすれば、このような姿になるだろう。それらの一つ一つをイメージするならば、見たこともないほど色鮮やかに光り輝く暗黒である。そして、その一つ一つの暗黒が、全体としての脳髄の、神経細胞のように結び付き合っている。

 どうもこの生態系においては捕食と被食との関係というものが現実的な生態系とは異なっているらしい。もともとの根底からして、そこにあるのは、ひどく内臓的でひどく利己的で、例えようもなく残酷な協力関係なのである。きらきらと輝く宝石の、その輝きのように冷たいニューロン。そこここに触手を伸ばすニューロンは、何者かを食らう必要などない。なぜならエネルギーはあらゆるところにあるからである。そもそもの話として、この環境自体がセミフォルテアのエネルギーなのだ。

 とはいえ、その生命体が生命体である限りはなんらかのシステムが働いているはずである。しかも、それは、内部性と外部性とに関するシステムであるはずだ。どのようなシステムなのかということは、真昼にはなかなか理解しにくいものであったが……どうやら、それは、純粋な記号性によって支持されているところの文法構造に近いものらしい。

 簡単にいえば、それらのニューロンの一つ一つが文字なのである。「あ」だとか「い」だとか、そういうことだ。もちろん、「あ」が「あ」だけではなんの意味も持たないように、「い」が「い」だけではなんの意味も持たないように、それらのニューロンの一つ一つだけでは生命体としての論理を貫徹させることを出来ていない。それらは、正確にいえば生命体ではなく、生命体の構造の一部分でありうるところの貫徹されないパサージュなのだ。

 そういったパサージュが集まって、束ねられて織り成されてブールヴァールとなって。あたかも儀礼であるかのように、あたかも遊戯であるかのように、一種の代謝的な生命体の様相を呈するのである。それは……無限に広がりゆく種子植物の生殖器官の、零落したインフレーションでありうるし。あるいは散華のデフレーション、あらゆる果実をつけることなく過程であるというだけのオルガノンであるという可能性もあるのだろう。

 なんにせよ、それらの生命体は……真昼の周囲において、数え切れないほどのブールヴァールであった。人間としての底が抜けたような声で笑う真昼の周囲で、無限の夢が、永遠の夢が、踊る、踊る、踊る。凍り付いたままで咲き誇る満開の桜の花園のように。この世界の歪んだ側面を映し出す無数の虹の螺旋のように。あるいは、あらゆる公理が通用しない幾何学によってカッティングされた宝石の中に、生きたまま閉じ込められた恒星の光が踊るように。ニューロンとニューロンとは、それぞれが個体であったことさえ忘れさせるシナプスによって、目的のない過程として連続する。

 光だ!

 光だ!

 光だ!

 生命体が織りなす!

 錯乱する光のgradatio!

 そして、その網膜を、その神経系を、アビサル・ガルーダは遠慮呵責の欠片もなしに突っ切っていく。確かに、セミフォルテアの内側を生息場所として選択している以上は、これらのわけ分からん生命体も、それなりに高等な生命体なのだろう。知的生命体なのかどうかは別としても、例えば人間ごときが通用するような相手ではない。

 しかしながら、アビサル・ガルーダは鵬なのである。神々にも匹敵する力を有する、最低でも公レベルの力を持つ、この星で最強の種のうちの一種。この程度の生命体を……というか、生態系を切り刻むのは容易なことなのである。

 アビサル・ガルーダの羽、ニューロンとニューロンとを切断して、きらきらと煌びやかな暗黒の内側を、その色彩を乱雑に搔き乱しながら驀進していく。そして、デニーと真昼とは、この傷口の、ずっとずっと内側へと運ばれていく。

 と。

 その奥の。

 その奥の。

 それよりも。

 更に最低に。

 何かが。

 見えた。

 あれはなんだ? あれは……あの、動いているものは。なめらかに滑りゆく影のようなものは。無数の影が、たった一つの巨大な影像となって、それは見る見るうちに近付いてくる。真昼に向かって……いや、というかむしろ、それに向かって真昼が近付いていっているのだ。アビサル・ガルーダは、どうやら、その影像に向かってひたすらに飛翔する。

 また、それだけではなく。それが見えてきたというだけではなく、真昼を取り巻いている周囲の環境も、少しずつ少しずつ変わってきていた。

 夢の欠片にも似た生命体が、眠りが覚めていくかのような態度によって消えていってしまう。永遠に続く爆発のような明るさも薄れていく。

 そして、何よりも大きな変化はソーマに起こっていた。あたかも、犠牲として捧げられた真昼を焼き尽くそうとしている、祭壇の炎のような有様をしていたソーマ。セミフォルテアのエネルギーがそのまま液化したところの、力ある液体であるソーマ。その力が……明らかに、弱まっていたのである。

 強酸に蒸留水を注いで、徐々に徐々に無害化していくかのように。真昼という構造を定義付けている根源情報式さえも溶かしてしまいそうであった、あの力が。薄れて、薄れて、薄れていく。

 燃え盛る細胞の一つ一つが、緩やかに鎮静化していって。焔の塊と化していた真昼は、だんだんと通常の状態へと戻っていく。開きっぱなしの口の中を満たしていた液体も、激痛と辛苦との味わいが消えていって。そして、それは、普通のソーマの味になる。以前、真昼が口にしたことがある、薄められたソーマの味だ。

 まあ、確かに、未だ人間の飲用に適した濃度であるとはいいがたい部分があるが。それでも、触れただけで死に至るような危険性があるというわけでもない。恐らくは、この程度の濃度であれば。この中を人間が泳いだとしても、さしたる害はあるまい。

 これは。

 果たして。

 如何様を。

 呈するか?

 真昼は、笑うのをやめた。そして、馬鹿みたいに開きっぱなしにしていた口を閉じた。器用なことにも液体の中で舌打ちをする。なんだよ、これ。せっかく人が気持ちよく笑ってる時に。退屈なんだよ、すぐに跪く奴隷なんて。この世界は、あたしを、あたしを、焼き尽くすことさえ出来ないのか? はっ! 興覚め。それから、真昼は、ちらりと視線を向ける。どこに? そんなこというまでもない。全知全能の力を持つ者、何もかもを知っていて、何もかもを答えてくれる者。つまり、デニーの方に。

 ねえ。

 これ。

 一体。

 どうしたの。

 さて、そのデニーはというと……そもそも、デニーは、どうしていたのか? アビサル・ガルーダがパヴァマーナ・ナンディに突っ込んで。そして、神々の光に満ち満ちた時空間を奥へ奥へと突き進んでいた時に。デニーは……別に、何もしていなかった。全く変わったことはしていなかった。

 真昼のように、アビサル・ガルーダの手のひらにしがみ付くことさえしていなかった。引力も、方向性も、加速度も、進行方向からごうごうと洪しきたるソーマの質量も。自分にはなんの関係もないことだとでもいうようにして、ただただ真昼の隣に立っていただけだった。

 本当に、それは、物理学の常識からいっても、妖理学の常識からいっても、ちょっと信じがたいことであった。これだけの力の暴走に襲われていながら! というか、それ以前の問題として、現在のデニーは、上下左右さえもおかしかった。デニーが立っているアビサル・ガルーダの手のひらは、そもそも真横にされているのだ。下は下ではなく、上は上ではない。下も上も横なのである。これでどうして立っていられるのか?

 デニーは。

 頭にかぶっている。

 フードさえも。

 ちらとも。

 揺れては。

 いなかったのだ。

 まあ、とはいえ……この程度のこと、デニーにとってはなんでもないことなのだろう。そもそも、今、デニーは、一つの生命体の生死さえも逆転させてしまおうとしているのである。そのような強く賢い生き物には常識など無意味なのだ。

 なんにせよ、デニーは、真昼の横に立っていたのだけれど。もの問いたげに向けられた真昼の視線に、どうやら気が付いたようだ。ぱっと顔を向けてから、にこーっと笑う。それから、這いつくばっている真昼の方に屈み込んで。真昼の耳元に口を寄せる。ソーマという液体の中にいるにも拘わらず……あたかも大気中にいるかのように。

 なんていうことなく。

 その口は。

 普通の。

 言葉で。

 告げる。

「そろそろ、あっち側に、着くよ。」

 つまるところ、アビサル・ガルーダは、いつの間にか目的地のすぐ近くまでやってきていたということだった。これほどまでに純粋なセミフォルテアの力の中では、距離だとか時間だとか、そういった観念はほとんど無効化されているので。どれほど遠いところまでやってきていたかということは真昼には全然分からなかったのだが、マホウ界のすぐ近くまで来ているらしい。

 となると、もしかしてあの影像がそうなのだろうか。あの影像こそがデニーと真昼とが向かっている目的地なのだろうか。確かにそれは、近付けば近付くほど、水の内側から見た水面に似ているように見えてきた。例えばプールの底から見上げているような光景……ただ、少し奇妙なところもあった。

 普通であれば水面の外側に光があるが、今見ている光景の中では、水面の外にあるのは、さっきから書いているように影なのだ。まあ、それもよくよく考えれば当たり前のことであって。パヴァマーナ・ナンディはソーマで出来た川なのであって、外界よりも川そのものの方が明るく輝いているのである。

 さて。

 それから。

 それから。

 揺れることなく。

 震えることなく。

 ただ。

 外の世界を表わし続ける。

 粉々に砕かれた。

 鏡にも似ている。

 その光景は。

 真昼の前に開かれた。

 次の世界へと向かう。

 あられもない。

 扉のように。

 鮮烈な速度で。

 近付いてきて。

 そして。

 アビサル・ガルーダは。

 その。

 扉を。

 いとも。

 軽やかに。

 突き破る。


 ざざっぱーんっ!

 ずざー。

 ずざー。

 しゃららら。

 しゃら。

 しゃら。

 きら。

 きら。

 きら。

 世界が音を立てている音が、まるで真昼の耳を引き裂いてしまおうとしているかのようにうるさかった。うるさい、うるさい、それに煌めいている。全ての音が、間違って割ってしまった偽物の宝石のように、悪戯っぽく煌めいている。

 当たり前のことだが、その音とは、アビサル・ガルーダがパヴァマーナ・ナンディから勢いよく飛び出した時の音であった。ソーマの水面を掻っ捌いて、川の内側と川の外側との境界を突っ切ったアビサル・ガルーダは。全身を濡らしていたソーマをそこら中に散乱させつつ、上へと、上へと、駆け上がっていく。

 燃えながら降り注ぐ瑪瑙の驟雨が……そのような姿に似た、ソーマの散乱が。辺りに振り撒かれる。そのせいで、一時的に空間に満たされていた観念が歪んでしまったのだろう。まるでアビサル・ガルーダが虹の衣を纏っているかのように、虹、虹、虹、が、うっすらと踊っている。

 ああ、とても……綺麗だ。子供の落書きのように意味もなく綺麗だった。それに、それだけではなかった。真昼が呼吸すると、霧状になったソーマを含んだ、淡い光を放つ大気が肺を満たして。その清々しい香りはあたかも黎明のようだった。生命がさざめき始めた、その黎明の香り。

 天空に。

 向かって。

 凄まじい勢いで。

 突っ切っていく。

 アビサル・ガルーダ。

 その手のひらの上で、真昼の身体は感じていたのだ。光を、音を、香りを。感覚の全ての内側で暴れ狂っている神々の栄光の感覚を感じていたのだ。それは、あまりにも甘美な輝きを放つ、早朝の星々にも似た晴れやかさだった。真昼の肉体は、つまり、人間としての生の躍動に溢れていたのだ。

 一方で、その身体の内側に閉じ込められている真昼は……そのような快感に対して、うんざりしたような気怠さを感じていた。別に退屈というわけではないが、とはいえ、それは、所詮は人間のレベルでの快感でしかない。

 例えば、パヴァマーナ・ナンディを通り抜けている最中に感じたもの。神々の栄光なるものを無理やり屈服させるような、あの感覚に比べてしまえば。この程度の肉体の充足では、ああ、嘆息、あまりにも物足りないのだ。

 人間のレベル。

 え?

 は?

 いや。

 ちょっと。

 待ってよ。

 あたし。

 まだ。

 人間だ。

 なんだか奇妙に捻じれてしまったような思考の中で、真昼は自分で自分に突っ込みを入れる。いやいや、人間だからね? 確かに、ちょっと死んでたりするし、ちょっと奇跡を起こせたりするし。純然たる人間であるかといわれれば微妙な部分もあるが、それでも、一応は人間の範疇に入る何者かであるはずだ。

 そうであるならば、この快感も普通に快感であると感じているべきなのではないか? それなのに、なぜこんなにも不十分であるように感じるのであろうか。これは、これは、要するに……美、でしかないからだ。真昼が感じているこの感覚は、美しさというものに対する快感でしかない。だから、低俗なのだ。

 しかし。

 それは。

 一体。

 どういうことなのか。

 何かが決定的に変わってしまった「この真昼」について、今の真昼は、どうやら理解し切れていないらしい。真昼の中で、真昼でさえ理解出来ない真昼の断片が、パズルとして組み立てられるのを待っているみたいだ。真昼が、真昼で、あるためには。「この真昼」を理解しなければいけない。とはいえ、それは、今やるべきことではないだろう。今やるべきことは……自分自身を理解することではなく……自分が置かれた状況を理解することだ。

 自分自身に対する理解は、常に、世界の理解の最終段階でしかないのである。というか、余分なおまけみたいなものでしかない。自分が自分である必要などない、そんなことは、してもしなくてもいいことであって。生存。生き延びるということ。いつでも、それだけが真実である。そして、そのためには、条件と環境との比率を計測することだけが必要なことなのだ。

 だから。

 真昼は。

 その、状況を。

 確認しようと。

 したのだが。

 しかしながら、それは、少し難しいようだった。真昼の置かれている状況自体が、その状況を確認することを阻むような状況であったのである。どういうことかといえば……先ほども書いた通り、真昼は、急激な上昇の過程にいたということだ。

 確かに、さっきまでよりは随分とましな状況であるといえないことはなかった。さっきまでは、えーと、どんな感じだったんだっけ? ああ、そうそう、ソーマで出来た川、下の方へ下の方へと、突っ込んでたんだった。

 っていうかさ、いつ上が上になったわけ? いや、つーか、下だった方向が上になったわけ? アビサル・ガルーダは下に向かって飛んでいたはずなのに、いつの間にか上に向かって飛んでいる。わけが分からない。

 たぶん、川面から飛び出たその瞬間に上下が反対になってしまったのだろう。あるいは、川の中にいた時に既にこうなっていたのだが、そのことに全然気が付かなかったのか。とにかく、つまり、どういうことかといえば。月光国から地下へ地下へと進んでいった結果として南イタクァ大陸まで突き抜けてしまったみたいな現象なのだろう。地球の反対側に出たせいで重力が逆転したかのように、「あっち側」に出てしまったせいで重力が逆転したのだ。

 NST(なんにしたところでの省略形)、さっきまではかなりやばかったわけですよ。やべーセミフォルテアがやべー勢いでやべー突っ込んでくる超やべー絶体絶命の状況の中で、どっかに吹っ飛ばされて落っこっちまわないように、アビサル・ガルーダの手のひらにしがみ付いてるしかなかったわけです。

 それにくらべりゃ、今はHEAVENよ。取り敢えず、真昼を包み込んでいるのは、ごくごく普通の大気であるようだ。ナシマホウ界において人間が生活している大部分の場所と変わらないところの、人間が呼吸しても特に害がない気体である。

 それに決死の思いで手のひらに縋りついている必要があるわけでもなかった。アビサル・ガルーダの両手は、未だに、その胸の位置にあったのだが。とはいえ、今の状態では、真昼はきちんと手のひらの上に乗っかっていられる。真昼から見て手のひらがある方が下になっていたし、それに、加速度がかかってくる方向も、やはり手のひらの方に向かっているのであって。そのままでいれば、まず落ちることはない。

 なので、まあ、楽といえば楽であることに間違いはないのだが。とはいえ、この状態で周囲を見回すということはなかなか難しい。今の真昼は、真上からぶっこんでくる加速度のせいで、起き上がることさえままならないのであって。手のひらの上で、潰れた芋虫みたいに転がっているしかないのである。

 それでも真昼は、なんとか状況を把握しようとして。そもそもここはどこなのか、マホウ界であることは間違いないだろうが、どの階層にいるのか。周囲の環境は本当に真昼に好意的なものであるのかどうか。そういうことを確認しようとして。まさに這う這うの体によって手のひらの上をにじっていく。

 にじって。

 にじって。

 ようやく手のひらの端、指と指との間から。

 下を見下ろせる場所に辿り着いた、瞬間に。

 全身にかかっていた加速度。

 急に、消えて、なくなった。

 へにょん、とでもいう感じ。真昼を押さえ付けていた力が、全然なくなってしまったのだ。それどころか、ほんの一瞬、真昼は、手のひらから浮かび上がりさえした。

 真昼は、マジで何が起こったのか分からずに「え?」と呟いてしまった。状況の変化のせいで、認識の構造がすかんと抜けてしまったような頭を全力で回転させて、どうしてしまったのかを考える。けれども、その考えがまとまる前に、またもや、別のことが起こってしまう。

 浮かび上がった真昼の全身に、今度は、勢いよく手のひらが叩きつけられたのである。思わず「ぐげっ!」という音、ぶん殴られた蛙のような音を漏らしてしまう真昼。それから、真昼は、そのまま……リフトか何かによって運ばれるかのように、上へ上へと押し上げられる。

 何?

 何?

 何が起こってるの?

 あたかも打ち上げられる人工衛星のごとく、一気に突き上げられた挙句の果てに。いつの間にか、自分が宙に浮かんでいるということに気が付いた。「え……は?」と、声を上げてしまう真昼。そう、自分は空を飛んでいるのだ。アビサル・ガルーダの手のひらから吹っ飛ばされて、なんの支えもなしに空を飛んでいる。

 つまるところ、アビサル・ガルーダは、真昼のことを放り投げたということらしかった。加速度が消えたのは、真昼を放り投げる勢いをつけるために手のひらを下ろしたということであって。それから、手のひらを押し上げて、上に向かって思いっ切りぶん投げたのである。

 いやいや。

 ねえ、ちょっと待ってよ。

 どうして、そんなことを。

 それは全くもっともな疑問ではあったが。そのことについて腰を落ち着けて考えている暇はないようだった。そもそも腰の落ち着けようがないのである、真昼は、今、何もない空に向かって飛んで、飛んで、飛んでいて……そして、今、完全に停止した。何がいいたいのかといえば、放物運動が頂点に達したということである。

 放物運動っていう単語、真っ直ぐ上に放り投げられた時には使えないんだっけ? まあいいや、とにかく、真昼の肉体は、上昇していくためのエネルギーを全部使い切ってしまったということである。それでは、後は、どうなるか? 当たり前のことであるが、落下するのである。

 ひゅん、と全身の血管が収縮するような感覚があった。人間の根底に刻み込まれたところの恐怖、めちゃくちゃ高いところから落ちて死ぬということへの恐怖に、真昼の肉体が怯えているということの直接的証明としての感覚である。

 まあ、真昼はもう死んでるので、どかんと一発落っこって肉体がめきゃめきゃになろうともこれ以上の死にようはないわけですが……恐怖というのは、別に実際の被害によって導き出される論理的帰結ではなく原始的な反応なのだ。

 ああ、やべー、あたし、落ちる。何がなんだか分からないが、とにかく自分がめちゃくちゃ高いところから落ちているということは分かる。真昼は思わず「ぐぎゃああああああああああああああああっ!」と叫び声を上げてしまう。

 何?

 何?

 何が起こってんの?

 何も分からない真昼であったが……まあ、とはいえ、アーガミパータに来てから今のこの瞬間まで、真昼が何かを理解していたということは一度たりとてなかった。真昼はいつも、何も知らないか全てを勘違いしているか、そのどちらかだったのであって。それでも今まで生きてこられたのは、何もかも理解している誰か、要するにデニーによって守られていたからである。

 何が起こっているかということ、真昼自身が理解している必要など一片たりとも存在しないのだ。デニーが理解していればそれで事足りる。世界は間違いなく上手く回転する。と、いうことで……真昼は、取り敢えず、デニーがどうしているのかということを確認することにした。デニーが驚いていないのならば、今起こっていることは、何もかもデニーによってセッティングお膳されたことに違いないのであって。それならば恐れることも怯えることもない。

 さて。

 それでは。

 デニーに。

 視線を。

 向けてみよう。

 デニーは一体どうしているのかといえば、実際のところ、真昼と大体同じであった。つまり、アビサル・ガルーダにぶん投げられて吹っ飛んでいるということだ。ただ、一点だけ明確な違いがあって、それはデニーが全く驚いていないということだ。

 当然のことだ、二人のことをアビサル・ガルーダに放らせたのはデニー自身だったのだから。現在のアビサル・ガルーダは、完全にデニーのおもちゃなのであって、デニーがそうするように望んだことしかしないのである。

 デニーは、愚鈍なる真昼には到底達しえないような軽やかさによって、ふわりと世界の真ん中に浮かんでいて。世界の真ん中? もちろん、真昼にとってのそれはデニーがいる場所のことである。それから、ふと、真昼の視線に気が付いたようだ。

 見つめている真昼に向かって、ぱっと輝いた彗星のような顔をして笑いかけると。右の手を軽く上げて、ひらひらと揺らし動かして見せた。よくもまあいけしゃあしゃあと。それに、随分とご余裕のございますようで。

 そうしてから、デニーは……くるり、と身を翻した。その上にしっかりと立つことさえ出来ない場所で、体の発条だけを使って。真上に向かって仰向けていた姿勢を真下に向かって俯せたということである。

 そして、そのままの姿勢で落っこっていく。先ほども書いたことであるが、デニーは真昼と同じような状態にあったのであって。要するに墜落の過程にあったということだ。落ちて、落ちて、落ちていくデニー……と、その過程において。なぜか、デニーは、右の腕を真っ直ぐに伸ばした。

 やはりぴんと伸ばされた人差し指。これは、何かを指差しているように見えるボディ・ランゲージだ。一体何を? 真昼は、つられるようにして、その先にあるものに目を向けてみる。すると、その視界に入ってきたのは、アビサル・ガルーダだった。

 これは、考えてみれば理の当然であって。アビサル・ガルーダは、デニーと真昼とのことを自分の真上に向かって放り投げたのである。と、すれば、そのままの進行方向で上空に翔け上がってきているアビサル・ガルーダとは、いつしか巡り合う運命にあるということだ。

 いや、そりゃあそうなんだけどさ。真昼にとって、当然だとか運命だとかいう言葉では全然納得出来ないような事実が一つあって、このままでは、デニーも真昼も、砲弾のごとき勢いでこちらに向かってくるアビサル・ガルーダに激突してしまうということである。アビサル・ガルーダは、以前も少し触れた通り、二枚の羽に纏わりつかせた魔学的エネルギーによって飛んでいる。その神烈極まりない力は、飛態であるところのアビサル・ガルーダの全身を包み込んでいる。包み込んでいるというか充満しているというか、とにかく、今のアビサル・ガルーダは「力」の塊なのである。

 となれば、そんなものが激突してしまえば。デニーは全然大丈夫だろうが、真昼なんかはひとたまりもないだろう。いや、分からん、デニーによって施されたマネリエス・フォーミングによってどうにかなるかもしれないが。なんにしても相手は神々と同等の生き物なのだ。少なくとも無事では済まないだろう。

 いやいやいや、お前!! 指差してる場合じゃないだろ!! このままだとあたし粉々になっちまうから!! 人間の脆弱さ忘れちまったのか!? みたいなことを叫びかけた真昼であったが。言葉が舌の付け根の辺りまで出かかったそのタイミングで、ふと、気が付いた。デニーは指差したわけではない。

 なぜそういえるのかといえば、デニーの指先、その人差し指の先に何かが見えたからだ。何か……黒いもの。いや、黒いというよりも、限りなく邪悪なもの。それは……真昼がそれに気が付いた時には、ほんの点のようなものに過ぎなかった。

 しかし、その次の瞬間に。まるで、くあんとでも音を立てるかのようにして一気に広がった。それは数百ダブルキュビトの直径を持つ円盤に、というか、穴になった。デニーが指差している方向に開いた巨大な穴だ。

 そして、それとともに、その穴からはさらさらとした灰が降り注ぎ始めた。その灰はいうまでもなくあの灰だった。まるで生命体の骨を焼き尽くした後に、その後に残った骨を粉々に砕いたような灰で。つまり、この穴は、デニーのオルタナティヴ・ファクトへの入り口だったということだ。

 その入り口は、デニーの指先に……いい換えれば、まさにアビサル・ガルーダの向かっている方向に開いたのであって。ここから導き出される必然の結果として、アビサル・ガルーダはそこに突っ込んでいくことになる。

 にーっと。

 子猫のような顔をして。

 笑って、いる、デニー。

 その指先で。

 アビサル・ガルーダは。

 オルタナティヴ・ファクトに。

 一気に飲み込まれてしまって。

 そして、アビサル・ガルーダが、その尾羽の先端まで、「この現実」の世界から消え去った時に。穴は、入り口は、るんっという音でも立てるかのようにして、一気に収束した。またもや指先の一点になって、それから、跡形もなく消え去った。

 なんのことはない、ただおもちゃをおもちゃ箱の中にしまったというだけの話である。明らかに、こんなクソ長ったらしくだらだらと、微に入り細を穿って描写するほどのシーンではなかった。まあ、なんにせよ、アビサル・ガルーダは、デニーのオルタナティヴ・ファクトの中に閉じ込められたということであって。

 これで、全ての問題が解決……してない! 全然してない! デニーも真昼も相変わらず落ち続けているという現実には全く変わりがないのである。しかも、今となっては、空を飛ぶ乗り物たるアビサル・ガルーダも「この現実」から消えてしまったのであって。これはもう、どうしようもない。

 しかしながら、デニーは。これまで真昼が陥ってきた、幾つも幾つものどうしようもない問題を解決してきたのである。そういった数々の難問に比べれば、今回の問題などどうってことないだろう。この程度の問題、デニーであれば兎を踊らせるよりも簡単にどうにかしてしまえることに違いない。

 さあ、デニーはどうするか? 対象に働く重力を消し去ってしまう魔法を使うか? 大気そのものをクッションにする魔法を使うか? それとも、アビサル・ガルーダが使ったその方法と同じように、全身を魔学的エネルギーで包み込んで飛行することを可能にするつもりなのか?

 ある意味では、どきどきしながら待ち受ける真昼。さあ、さあ、さあ、どうやってあたしを救うつもりなんだよ、デナム・フーツ! それでも、デニーはなかなか動こうとしない。なんとなく子供じみたくすくすという笑い声を立てながら、自分の肉体をくるくるとひらめかせて。ただただ落下していくその速度を楽しんでいるようにしか見えない。

 ふーん、焦らすじゃないか。まあ、いい。結局のことなんとかなるのだから。最後の最後にはデニーはどうにかしてしまうのだから。これは、信じているだとか信じていないだとか、そのような低レベルの話をしているのではない。ただ単に、真実なのである。あたしは、デニーに、救われる。

 そんな風に、余裕綽々で落ちていっているところの真昼であったが。どうも奇妙なことがあった。デニーが、本当に、何もしないのである。指を弾こうともしないし、舌を鳴らそうともしない。ただただ重力に身を任せているだけだ。

 なるほど、なるほど、そういうことね。まだまだ何かをする時間じゃないと。確かに、落下という現象には、その過程には害はないわけだ。いうまでもなく、落下が真昼に対して害を及ぼすのはただ一つの時点だけである。つまり激突のその瞬間だけ。そうであるならば、デニーが何かをするべき時はその瞬間だけということになる。はっ、退屈なほど理に適った考え方。

 そして……デニーは、真昼は、落ちていく。落ちていって、落ちていって……そして、とうとう、その瞬間が訪れる。真昼が激突するはずの平面は、まさに今、真昼の肉体からたった数ハーフディギトのところにまで迫ってきていて。デナム・フーツ! 今だ! この瞬間だ! あたしのことを救うなら、この瞬間しかない! どうする、どうする、デナム・フーツ!

 しかしながら。

 そんな真昼の期待をよそに。

 指一本。

 舌一枚。

 動かそうとしないデニー。

 は?

 え?

 ちょっと待って。

 何、どうしたの。

 早くしてよ。

 このままだと、あたし……

 どざっぱーんっ!

 真昼が、このままでは自分がどうなるのかということを考え終わる前に。まさにそれが起こってしまった。要するに、特に何かしらの救いのようなものもなく平面に激突したということだ。

 ちなみに、真昼が落ちたのは大地の上ではなかった。今というこの瞬間の真昼には、なんらかの液体の中に落ちたようだということしか分からなかったが。その液体とはパヴァマーナ・ナンディに流れているソーマだった。つまるところ、真昼は水面に激突したわけだ。確かに、これは、アスファルトだとかコンクリートだとかに激突するよりはマシなように思えるかもしれない。だが、そのような考えは間違いである。

 前提として、真昼はかなり高いところから落ちたのだ。二エレフキュビトから三エレフキュビトくらいの距離。そして、ソーマは、基本的には水と変わらない物理的性質を備えている。何がいいたいのかというと、ソーマは非圧縮性を有している。

 ということは、水面に落ちるのだとしても。その勢いがある一定程度よりも強い場合、激突する対象は形状が変わらない物質になってしまうということである。水は、アスファルトだとかコンクリートだとかとそれほど変わらない物質になるのだ。

 人間が水面に落下する場合、その高さが七十ダブルキュビトから八十ダブルキュビトだと、致死率は九十五パーセントになるという。ちなみに大地の上に落下する場合は五十ダブルキュビト程度で致死率が九十五パーセントになるらしい。ということは、二エレフキュビトから三エレフキュビトの高さから落ちると、大地の上でも水の上でもさして致死率は変わらないということである。

 普通だったら死ぬ、というか、肉も骨もぶっ壊れてぐちゃぐちゃになる。ただ、何度も何度も書いているように、真昼は普通ではなく……その激突によって壊れるようなことはなかった。

 それはもう、全身にとんでもない衝撃を感じはしたが。それでも、その衝撃に対して真昼が感じたのは、痛みというよりも驚きであった。簡単にいえば、すげーびっくりしたという感じだ。

 そして、そのままがぼがぼである。このがぼがぼという表現は真昼がソーマの中で溺れかけているということを表現する擬音語だ。いや、まあ、そんなこといわれんでも分かるか。真昼は、口を開けたり閉めたりしながらがぼがぼと喘いでいる、両腕と両脚とをじたばたさせて藻掻きまくっている。

 ところで、ここで一つ重要なことを指摘しておくべきかもしれない。それは、真昼は別に呼吸なんてしなくても全然メイワンチーであるということである。「であるということである」ってなんかしつこくない?

 というか、それ以前に、真昼の肺はとっくにいかれてしまっている。パヴァマーナ・ナンディの中でも最もソーマの濃度が高い場所を通過した時、そのソーマは、大口を開いて馬鹿みたいに笑っていた真昼の、喉の奥へと入り込んでいた。笑っている以上、その喉は食道ではなく気管に繋がっていたのであって。必然的に、ソーマがどどっと流れ込んだのは肺であった。ソーマのセミフォルテアは、真昼の肺を焼け爛れさせてすっかりと使い物にならなくさせていたのだ。

 そういうわけで、今の真昼は呼吸など出来ない状態にある。それでも別に大丈夫なのだ。これは生物学の基本中の基本の話になってしまうが、呼吸とは生命活動を維持するためのエネルギーを作り出すために行われるものである。一方で、今の真昼は、基本的には外部環境から直接的に魔学的エネルギーを取り出せるような構造になっているのだ。この仕組みについて説明すると色々と面倒なので省略するが、デニーが、マリエネス・フォーミングした際に、ついでに真昼の構造を作り変えておいたのだ。ほら、だって、こうしといた方が壊れにくいですからね。とにかく、そうである以上、呼吸によってエネルギーを作り出す必要はない。

 そのことについて、真昼も本能的には理解していた。だって、理解していなかったら、パヴァマーナ・ナンディに突っ込んだ時に、既にがぼがぼしてなければおかしかったわけですからね。そうしていなかったということは、無意識のレベルでは、自分の構造の変化に気が付いていたということだ。

 ただ、まあ、とはいえ。今は、気が付いたことを忘れ去っていた。本能からも無意識からも、表層的な部分にそういった情報が上がってくることがなかった。真昼は完全に恐慌をきたしていたからだ。水面にぶっ叩きつけられた時の衝撃が大き過ぎてわけ分かんなくなってしまっていたのである。頭蓋骨から冷静さというものがすぽーんとすっ飛んでしまって……自分がどこにいるのか、自分を包み込んでいるこの液体がなんなのかということさえ分からなかったくらいだ。

 それでも時間が経つにつれて思考能力が戻ってきた。溺れ苦しみながらも、自分がどこにいるのかということへの理解が立ち現われてくる。ここは、パヴァマーナ・ナンディだ。あたしはパヴァマーナ・ナンディに落っこちたんだ。

 未だに自分が呼吸しなくてもいいのだということには気が付いていなかったが、それでも、ある程度の状況が分かれば対策の立てようがある。川の中にいるのだとすれば川の面を目指せばいい。そうすれば、ここから脱出出来る。

 ソーマの中ではどこもかしこも明るいので上下の判断がつきにくいのだが、それでも、目を開いてあちこちに視線を向けてみると、ゆらゆらと揺れている水面を見定めることが出来た。後はその方向に一直線だ。

 ソーマを掻き分け掻き分け。

 水面に向かってまっしぐら。

 狂奔する真昼。

 相当深くまで沈み込んでいたらしく。

 なかなか、そこまで、辿り着かない。

 だが、とうとう、指先が。

 柔らかい天鵞絨のような。

 水面に触れて。

 そして。

 真昼は。

 一気に。

 顔を。

 突き出す。

 「がっ……ばっはぁっ!」みたいな声を上げながら、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。ああ、空気ってなんて美味しいんだろうみたいなこと、いかにも陳腐なことを考えた真昼であったが。それは完全に勘違いであって、吸い込んだ空気は機能停止した肺を通過した後でそのまま吐き出されただけである。「はっ、はっ、はっ……はーっ!」という感じ、なんの意味もなく呼吸を繰り返して。そうしてようやく落ち着きを取り戻した真昼であった。

 それから、まともに物事を考えられるようになった真昼は。その視線で蠅ぐらいならkill出来るんじゃないかと思ってしまうほどに凶悪な目つきを周囲に走らせる。

 何を。

 誰を。

 探しているのか。

 真昼がこれほどの感情を向ける相手。

 もちろん。

 デニーだ。

「あ、真昼ちゃーん!」

 探すまでもなくデニーはそこにいた。真昼から、大体五ダブルキュビトの距離。呑気の上に呑気を重ねてそこに呑気を振りかけたような呑気さで川面にぷかぷかと浮かんでいた。真昼に向かってぱやぱやとした笑顔を向けて、ぶんぶんと手を振っている。

 「あんまり長い間浮かんでこなかったから、デニーちゃん心配しちゃったよー」とかなんとかいいながら、こっちに泳いできた。さはさはと、なんだか知らないが随分となめらかな泳ぎ方で、真昼のすぐそばまでやってくる。そして、いかにも気の抜けた口調で問い掛ける。

「あははー、だいじょーぶ?」

「大丈夫じゃねーよ!」

 なーにが「あははー」だ、ぶっ殺されてーのかこのクソ野郎。真昼としてはデニーのことをぶん殴りたい気持ちでいっぱいであったが、残念なことにここは水上であって、打撃に腰が入らない。なので、自分の握り拳さえ握り潰してしまいそうな強さによって拳骨を固めたままでぎゃーぎゃーわーわーと喚き立てる。

「てめぇ、なーに呑気に呑気してやがんだよ!」

「えっ、呑気に呑気するってどーゆーこと?」

「あたしはなー! 死ぬところだったんだぞっ!」

 その罵倒に対して、デニーは「あははっ! 真昼ちゃんはもう死んでるんだから、それ以上は死なないよー」ともっともな返答をする。「そういう意味じゃねーよ、馬鹿!」と怒鳴り返した真昼だが、なにがどうそういう意味ではないのかということはいまいち自分でも分かっていなかった。

「お前、お前……あたしをもっと大切に扱えよ!」

 思いもよらない言葉が飛び出てしまった。

 これでは、まるで。

 彼氏に対して不満がある。

 彼女みたいじゃあないか。

 違う違う、そうじゃなくて。

 真昼が言いたかったことは。

「あたしが傷付いて困るのはあたしじゃなくてお前だろ! 取引材料としてのあたしが、これ以上壊れたらどーするつもりなんだよ! お前、全身複雑骨折した状態であたしのことを静一郎に引き渡すつもりなのかよ! 内臓全部がぶっ潰れた状態であたしのことを引き渡すつもりなのか! 言っとくがな、そんなゴミみてーなあたしじゃーな、一星の価値もねーんだよ!」

 真昼ちゃん、めちゃくちゃなこと言い始めたね。ただ、とはいえ真理ではある。今の真昼が生きている、というか動いているところの価値は、たった一つしかない。それは、コーシャー・カフェと砂流原静一郎との取引材料としての価値である。それ以外の価値は一切存在していない。

 真昼自身さえも、真昼に特段の価値を見いだしているわけではない。それは、破壊に伴う苦痛については色々と問題があるわけだが、とはいえ、真昼が五体満足で動いているということに必要性を感じてはいないのだ。そうであれば、真昼が傷付いて困るのは真昼ではなくデニーなのだ。

 で、それならば真昼はなんでここまでマジ切れしているのかという話になってくるが。いや、まあ、でも、それも当然といえば当然の話である。だってさ、ここまで雑に扱われて怒るなっていう方が理不尽じゃない? デニーに対する根本的な気に食わなさを除いて考えたとしても、真昼の瞋恚は実際正当なものである。

 極論をいえば、今の真昼は真昼のものではない。デニーのものなのだ。真昼を必要としているのは真昼ではなくデニーであるし、真昼の行動を管理しているのは真昼ではなくデニーである。それならば、真昼がこうむるあらゆる被害は、デニーがなんとかするべき性質のものなのだ。

 勘違いして欲しくないのだが、これは責任だの義務だのという話ではない。それは社会的な構造により決定される恣意的な物語に過ぎない。責任などというものは実在しているわけではないし、義務というものは自然に導き出される必然ではない。真昼がデニーに対して主張しているのは……もっと、簡単なことである。公的領域に属することではなく私的領域に属することだ。

 社会構造に関わることではなく、概念的な身体構造に関することなのである。要するに、今の真昼はデニーの一部分なのだ。親密性、familiar。そうであるならば、もうちょっとまともに扱ってしかるべきであろう。もちろん、真昼は、デニーが真昼を丁寧に扱わなければ「いけない」と言っているわけではない。そんなことは一言も言っていない。そうではなく、もしも丁寧に扱わないとすればこちらとしてもぶち切れるぞと言っているだけの話だ。そして、それは、確かに正当なことだ。

 もちろん、そういった論理的過程を。

 全て理解出来ているわけではないが。

 それはそれとして。

 怒り狂った真昼に対して、デニーは。

 神経を逆撫でするほど、のほほんと。

 こう言う。

「んもー! 真昼ちゃんてば、大袈裟なんだから! このくらいじゃ、真昼ちゃんは壊れたりしないよ!」

「はーあぁぁぁぁっ!? てめぇ、何言ってやがんだよ! あたしはな、あそこから落っこってきたんだぞ!? あそこだよあそこ、あの高さからだ! ひゅー、どかーん! 分かるか? 分かるかよ! あんな高さから落っこって来たらな、普通はぐっちゃんぐっちゃんのべっちゃんべっちゃんになっちまうんだよ!」

「でも、真昼ちゃん、ぐっちゃんぐっちゃんのべっちゃんべっちゃんにはなってないでしょ?」

「え? ま、まあ……そりゃそうだけど……」

「ほら、ね? 今の真昼ちゃんの内的法則はねー、デニーちゃんが作った、さいっこーにさいこーの内的法則なんだから。それくらいじゃ、ぜんっぜん壊れたりしませーん。」

 真昼ちゃんがお怒りであるのも全くもって肯んぜざるを得ないことであったが、一方でデニーの言っていることもこれまたその通り極まりないことであった。

 そもそもの話として、デニーが、真昼が傷付くようなことをするはずがない。真昼という存在の重要性は、デニーの方が、真昼自身よりも遥かに知悉しているところである。

 ということは、デニーが、もしも、真昼を高いところから落下させるとすれば。あるいは流れゆくソーマの流れの中に突っ込ませたとしたら。それはその程度のことでは真昼が傷付かないという確信があってしていることなのだ。

 危険な状況に陥ってから、いちいち救出するよりも。それよりも、真昼の身体そのものを頑丈にしてしまう方がずっとずっと安全だ。救出は間に合わないこともあるだろうが、予め頑丈にしておけば安全性は保たれ続けるのだから。

 なので、正確にいえば、真昼は救われなかったというわけではない。そうではなく、ただ単に、予め救われていただけだ。もっと突っ込んだいい方をすることが許されるならば、真昼の構造自体が救いになっていると表現するべきかもしれない。そして、真昼がその救いに(少なくとも意識のレベルでは)気が付くことが出来なかった。それだけの話だ。

 そして、真昼は、ようやくそのことを認識した。自分の身体の全てが、肉体も精神もひっくるめて、人間を超越した何かになってしまっているということを。そりゃあ、まあ、デニーほどではないにせよ、中等生物、いや、下手をすればちょっとした高等生物と同等の能力を有しているということを。

 なるほど……なるほど。まあ、理解は出来た。とはいえ納得出来るかどうかというのは別の話である。真昼にとって、デニーのやることなすこと、そのオールシング・エブリシングがムカつくのであって。特に、今のように粗雑に扱われるのが一番気に食わない。そして、気に食わないものは気に食わないのだ。燃え上がった胃の腑は理性では消化出来ない。

 なので。

 真昼は。

 先ほどまでより。

 控えめながらも。

 なおも、デニーに食い下がる。

「だから、そういうことじゃないんだって!」

「えー? じゃあ、どーゆーこと?」

「それは……えーっと……」

 少し口籠もる真昼。

 それから、はっという感じの顔。

 何か思い出したような顔をして。

 こう続ける。

「そうだ、そうだよ、あたし溺れるところだったんだからな!」

「溺れる? 真昼ちゃんが?」

「ここに落っこってきて、ずどーんって! それで、とんでもねー深いところまで沈んじまっただろ? そのせいで、息が出来なくて、溺れるところだったんだよ! お前みたいなやつは水ん中でもどーにでもなるかもしれないがな。あたしみたいな下等な生き物は、水ん中じゃ溺れちまうんだよ!」

 遂に自分のことを下等生物とかなんとか言い始めてしまった真昼であるが、それはそれとして、その答えに対するデニーの回答は……哄笑であった。まさに圧倒的強者に相応しい笑い方、大きな口を開けてなんの屈託もなく笑い声を上げる。

 それから。

 こう言う。

「あーっはっはっはっ! 今の真昼ちゃんが溺れたりするわけないじゃーん! あのね、真昼ちゃん、今の真昼ちゃんは、そもそも呼吸してないの。今の真昼ちゃんは、科学的エネルギーじゃなくって魔学的なエネルギーで動いてるんだよ。だから、呼吸みたいな酸化還元反応はぜーんぜん必要ないってゆーわけ。ほらほら、ちょーっと息を止めてみてよ。苦しくもなんともないはずだよー。」

 そういうと、デニーは。

 軽く指を弾いてみせた。

 と、真昼が声を上げる前に、その口は塞がれた。それだけではなく、鼻も塞がれてしまった。具体的にいえば、デニーと真昼とがぷかぷかと浮かんでいるパヴァマーナ・ナンディのソーマ、その一掬い分がふわりと浮かび上がって、真昼の顔の下半分を覆ってしまったのである。

 真昼は「はぁああああああああああああ!?」と言おうとしたのだろうが。液体に覆われているせいで、その声はくぐもった音とぶくぶくとしたあぶくになって消えてしまった。それから、その液体を、なんとか口だとか鼻だとかから引っ剥がそうとするが。どんなに手で掴もうとしても液体には掴みどころなどない。

 やばい、やばい、息出来ない! これ、死ぬ、死ぬ! と、一時的ながらも錯乱しまくったところの真昼であったが。ただ、次の瞬間にはデニーが言っていたことを思い出していた。ああ、そうだ、あたし、息をしなくてもいいんだっけ。

 少し、自分のことを、落ち着かせる。こういう時に深呼吸出来ないのってかなり不便だな。首の力を抜いて、肩の力を抜いて、ただただパヴァマーナ・ナンディで立ち泳ぎをしている状態になる。そうして、暫くの間、息をしないでみる。

 あっ……これ……すごい! 全然大丈夫だ! どういう仕組みなのかは皆目分からないが、息をしていてもしていなくても、なんの変わりもない。最初のうちは、なんとなく肺が緊張しているような感覚があったことはあったが。それも、やがて、自然に弛緩させることが出来るようになる。とにかく、苦しくない。息を止めていても、あの胸の中が飢餓で狂いだすような感じもなければ、目の前がだんだんと暗くなっていく感じもない。

 「ねー、だいじょーぶでしょー?」とかなんとか言いながら。デニーが、真昼の唇に向かって指先を伸ばしてきた。右手の人差指だ。なんだなんだこいつ、人様の口の中に指を突っ込むつもりかと思ってしまった真昼であったが、そうではなく、その指先が触れたのは、真昼の顔に纏わりついていた液体の方だった。そして、デニーの指先が触れた瞬間に。ぱしゃんというあっさりとした音を立てて、その液体は真昼の顔から剥がれてしまった。

 真昼は、なんとなく気不味い気持ち。

 手のひらで、濡れた口を拭っていたのだが。

 それから、ぽつりと呟くように、言葉する。

「随分と……」

「ほえ?」

「この体、随分と丈夫なんだな。」

 それから、自分の濡れた髪に指を突っ込んで、がりがりと掻き回した。手入れをされていない髪は、濡れてしまうとやけに絡まり合ってうざったい。ところどころに結び目のようなぐちゃぐちゃができていて、そういうのが指に引っかかる。

「そりゃーそーだよー。強くて賢いデニーちゃんが、壊れないようにーって法則を書き換えたんだもん! ちょっとやそっとのことじゃ、ぜーんぜん壊れないよ!」

「その、ちょっとやそっとのことって。」

 真昼は、髪の絡まった部分を。

 引きちぎりながら問い掛ける。

「どのくらいのことなの。」

「どのくらいって?」

「つまり……今、あんだけの高さから落っこってきても大丈夫だったわけでしょ? それに、よくよく考えてみれば、あたし、首を切り落とされた状態でも生きてた、っていうか、動いてたわけじゃない。あたし、どのくらいなら傷付いても大丈夫なの? どのくらいなら壊れないの?」

 それは壊れるの定義にもよるんだろうけど、と考えながら、真昼はそこで言葉を切った。首が胴体から切断された状態は、どう考えても人間としては壊れた状態だ。とはいえ、別にその状態であっても、真昼は死んだ、というか、行動不能になったわけではなかった。どの程度までならば、この肉体の欠損は許容されうるか。どこまでいけば真昼は真昼ではなくなるのか。

「さっきもちょーっとだけ言ったことだけど、今の真昼ちゃんが真昼ちゃんなのは真昼ちゃんの魄が完全な状態で残ってるからなの。だから、魄が使い物にならなくならない限りは真昼ちゃんは真昼ちゃんだよ。」

「その、「魄が使い物にならなくなる」っていうのは、あたしがどの程度のダメージを受けた状態なの?」

「んーとねーえ。肉体だとか精神だとかがわわわーってなっちゃっても、たぶん大丈夫だと思う。真昼ちゃんの魄は内部法則のレベルで破壊不可能になってるから。そういう法則を書き換えられない限りは、何されてもだいじょーぶだよ。」

「何されてもって……」

 そこで一瞬だけ口を閉じてから。

 真昼は、その問い掛けを続ける。

「全身を切り刻まれても?」

「だいじょーぶだいじょーぶ。」

「心臓を抉り出されても?」

「ぜんぜんへーき。」

「脳味噌を食い尽くされても?」

「のーぷろぶれむ。」

 それは、なんというか……少なくともノープロブレムではないだろう。何かしらの問題がある気がする、どんな問題があるのかということは具体的にはいえないが。とはいっても、それはそれなりに安心出来る事実ではあった。

 つまり、デニーが書き換えたものを更に書き換えることが出来るような何者かでない限りは、真昼のことを傷付けることは出来ないということなのだから。そして、そんな何者かは、真昼の知る限りでは存在しない。だって……生物学、物理学。重力の法則でさえも真昼のことを傷付けることが出来ないのだ。そうだとすれば、今の真昼は、実質的に無敵だといえるだろう。

 こんなことが出来るのなら。

 初めから、そうしておいて。

 くれればよかったのに。

 まあ、アーガミパータに来たばかりの真昼がこんな不気味な魔法を使われそうになったら、全身全霊でそれを拒否していただろうけれど。そう思うと、なんだか真昼はおかしくなってきてしまった。ふんっと、鼻の先で笑って。それから、くすくすという音を立てて笑う。笑う、笑う、人間はなぜ笑うんだろう。

 それは、自分が他人を蹴落として。

 自分だけが安全な場所にいるから。

「わー、真昼ちゃん! ご機嫌だね!」

「んなわけねーだろ、バーカ。」

「えー? じゃあ、なんで笑ってるの?」

「なんでもねーよ。」

 真昼は、にーっと。

 子猫のような顔をして。

 デニーに、そう答えた。

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