第二部プルガトリオ #69

「ねえ。」

「なーに?」

「もしかして……あたしをリビングデッドにした?」

「んーん、してないよ。」

「え?」

 意外な答えだった。拍子抜けしたといってもいいかもしれない。てっきりこいつが何かしたんだと思ったのに。いや……ちょっと待って。あたしが今聞いたのは、こいつがあたしのことをリビングデッドにしたのかということだ。そのことについては、こいつは否定した。けれども、あたしに、その他の何かをしたのかどうかということについては何も答えていない。

「デナム・フーツ。」

「はーい、デニーちゃんでーす。」

「あたしに、何かした?」

「何かって?」

「あたし、死んでるんだよね。」

「いっえーす。」

「でも、こうやって動いてる。」

「その通りだよ、真昼ちゃん!」

「これは、あんたが何かしたの?」

「ああ、そーゆーこと?」

 うんうんとしきりに頷きながら、デニーは「したした、したよ」と答える。やっぱりか、やっぱりこいつがなんかしやがったのか。何をされたにせよ、とりあえずは、いつものお決まりのパターンであったことにほっとする真昼。それから、いかにも忌々しげに、ちっと舌打ちをして。「それで」「ほえほえ?」「あんたは、あたしに、何をしたわけ」。

 その問い掛けに対して、デニーは。右の手と左の手と、自分の顔のすぐ横のところに差し上げて。親指と人差指とが直角になるようにして、それぞれをぴんと伸ばした。人差指で、上の方を指差して。親指で、自分の顔とは反対の方を指差して。そのままで、自分の上半身の全体を、腰の辺りからゆらゆらと揺らし始めた。右に傾けて、左に傾けて、ふみんふみんという感じ。モダムルーリスみたいにふらふらとさせている。

 とても可愛いですね。とはいえ、何か意味がある動作ではない。なんとなく、どーしよーかなーどーしよーかなーと思っているうちに、自然と体がそう動いてしまっただけである。「んーとねーえ」「えっとねーえ」「んあー、どう説明すればいいのかなあ」。下等知的生命体であり、しかも、その中でも特に聡明であるというわけではない真昼に対して、これをどう説明すればいいか。暫く考えていたのだけれど……やがて、ひたりっと、体を動かすのをやめた。両手の人差指で。びびっと真昼のことを指差して。くるくると二度ほど目を回して。それから、口を開く。

「真昼ちゃんさーあ。」

「なに。」

「魂魄って知ってる?」

「そんなの……あたし達の中にある生命のことでしょ。」

「じゃあ、魂と魄との違いは分かる?」

「え?」

 魂魄って、それで一つの何かを表す言葉じゃないの? 真昼は……例によって例のごとく、家庭教師から、生命についてある程度のことは聞いていたのだけれど。本当に最低限のことしか教わってはいなかった。魂魄というものがあって、それが、生き物にとって、生きているということの根源的な部分であるということ。それくらいしか教えられていなかった。

 それもまあ当然のことで、魂と魄との違いというのは、基本的には大学レベルの知識なのである。まだ高校生でしかない真昼、しかも、ちょいちょい授業をすっぽかしたりするために教育が遅れに遅れている真昼のような人間には、過分に過ぎる知識(強調を表す重文)なのだ。

 デニーは。

 ばちこーんと。

 殺したくなるほど。

 とーっても可愛い。

 ウインクして。

 こう。

 続ける。

「あのね、魂魄っていうのは、魂魄っていう一つの何かがあるわけじゃなくて、魂と魄とっていう二つのものをぎゅぎゅーっと合わせちゃった呼び方なの。魂と魄と、これは易の言葉だったものをそのまま共通語で使ってる言葉なんだけど。例えば、ヴェケボサンの言葉だとウルワンとフラワシとって呼ばれてるみたいだし、それに、ずっとずーっと昔のケメト・タアウィではバーとカーとって呼ばれてたみたいだね。

「で、で、で! その魂と魄との違いなんだけど。まず魂の方が、ばらばらーってなったジュノスの断片なの。うーん、ほんとーはジュノスって存在でも概念でもないから、全体とか断片とかっていう区別はなくて、どっちかっていうと「回帰的完全性の自己完結」が不完全に包含されてる隔絶状態っていった方が正しいんだけど。そんなこと言われても分かんないよね?

「あ、っていうか、真昼ちゃん、もしかしてジュノスのことも知らないかな? あーっと、ジュノスっていうのは、「生命の門」のことだよ。門っていっても、さぴえんすの子達が普通に考える感じの、あーいう門とはぜーんぜん違ってて。そこから世界に関する前提条件が導き出されるところの絶対的原理のことね。この世界には四つの門があって、「存在の門」がフェト・アザレマカシア、「概念の門」がベルカレンレイン、それとあと前世界原理があって、最後の一つがジュノスってことだね。

「よーするに! 魂っていうのは、真昼ちゃんにとっての生命の原理なの。生命として生命を生命にしている何か。それがあるから真昼ちゃんは「生きる」ことが出来て、それがなければ真昼ちゃんは「生きる」ことが出来ないってこと。

「ここまでは簡単だよね。さてさて、もーいっぽーの魄ですが! これが、ちょっと難しーんだよねー。もちろん、デニーちゃんにとって難しいってわけじゃないよ、さぴえんすの子達には難しいってこと! デニーちゃんはとーっても賢いから、難しいことなんてなーんにもありませーん!

「それで、えーっと……んあー、真昼ちゃん、そもそも「生きる」っていうことがどういうことなのかっていうことは分かるかなあ? 「生きる」っていうのは、基本的には対世界独立性と物語化と、この二つの比率的関係性についてのお話なんだけど。この比率はある程度の自由度があるっていっても、やっぱり一定の比率の範囲内に収めておかなきゃいけないんだよね。魂が魂としてそこにあったとしても、その魂が魂である範囲が無限大・永遠長だと、やっぱりそれは生命じゃないっていうこと! あ、もちろんこれは安定性生命体の場合のお話なんだけどね。不安定性生命体は、また、ちょーっと違ってきちゃうんだよねー。まあ、でも、それは今のお話には関係ないから。

「とにかく、だよ! そうやって、魂をある一定の範囲に固定しておく何かが必要になってくるの。それで、その何かが魄ってわけ。魄っていうのは、簡単にいうと、ケーヴァリン・タブレットを生命体の内側にえーいって押さえ付けておくジュノスの影みたいなものだね。あーっと、こういう言い方すると、ちょーっとへんてこりんな例え話になっちゃうね。んーとねーえ、簡単に言うと、その魄が、その生命体に関してケーヴァリン・タブレットに書かれてる全ての情報を、その生命体の内側に現勢力として創造してるって感じかな。

「あ、そうそう、ケーヴァリン・タブレットっていうのはね、この世界に関するあらゆる情報が予め記録されてる潜勢力としての運命のことだよ。「予め」っていっても、時間もそこに記録されてる情報のうちの一つだから、もーっちろん、時間以前の「予め」なんだけどね。んー、そのことについてお話しするとややこしくなっちゃうから、ばばーって省略しちゃいまーす。

「ほら、根源情報式とかあるでしょー? あれはね、基本的には、ケーヴァリン・タブレットから導出されたところの情報の断片のことで、理解可能なレベルまでコード化したもののことをそう呼んでるの。あ! 勘違いしちゃだめだよ。ケーヴァリン・タブレットは偶然とかじゃないからね。それがそうであるということが決定されていながら、未だそれがそうであるということが使者によって告知されていない状態。その静寂のこと。

「それで、そういう潜勢力を現勢力にするには、とーぜん情報を具体的に摂理化する必要があるんだけど。その摂理化にあたってジュノスの影が非連理契機的な告知を行うの。ここでいうジュノスの影っていうのは、えーと、比喩的な表現でしかなくって……んあー、なんていえばいいのかな。こうやってぱっと手を開いて、地面と平行に差し出してみるよね。そうすると、ほら、太陽が遮られて地面に影が出来るでしょ? こんな感じ。ジュノスがね、ある種の影響力みたいにして永遠と無限とを多面鏡反射的に細胞化することによって、ムンドゥス・ファブロスス現象を起こすわけ。

「つまりねーえ、みんなが生命って呼んでるもののうち、魂の方はその原理的な部分で、魄の方はその原理を適用した場合に導き出される具体的な解っていうこと! ここまでは、真昼ちゃんも分かってくれたかな? 分かってくれたみたいだね!

「じゃあ。

「先に。

「進み。

「まーす。

「ねえねえ、真昼ちゃん。生き物が死ぬってゆーのは、一体どーいうことだと思う? 誰かさんが生きてるものから死んでるものになる時にー、その誰かさんには何が起こってるんだと思う? もーっちろん、その誰かさんは生命を失っちゃったってことなんだけど。そうやって生命を失うっていうのは、実は二段階に分かれて起こる現象なの。

「まず、第一段階。何かしらの原因で、個体限定範囲から魂が失われちゃうっていうこと。例えば、さっきの真昼ちゃんみたいに、魔学的エネルギーがずばばーってなった刃物で、じゃきじゃきーんってされちゃった場合だね。この場合、肉体だけじゃなくて霊体もダメージを受けちゃうでしょ? これはね、いってみれば、理程式の中に重大な瑕疵が紛れ込んじゃうみたいなものなの。その瑕疵の部分から摂理が漏れ出しちゃうみたいにして、生命の原理としての魂が個体限定範囲から漏れ出しちゃうんだね。それで、それで、最後には……今の真昼ちゃんみたいに、魂が完全に欠如した状態になっちゃうってこと。

「それから、第二段階が起こるの。んーんーんー……実はね、第一段階の時点で、もう、あらゆる生命体としての兆候は消えちゃってるんだよね。さぴえんすがよく使ってる例でいうと、瞳孔の反射もしないし、心臓も止まってるし、呼吸も止まってるし、脳波もありませーんってことだね。それでも、この第二段階が起こる前は、死霊学の方法でらいずあーっぷさせることが出来るの。なぜかーっていうと、まだ魄が残ってるから。

「いーっちばん基本的なリビングデッドのつっくりっかたー! それはね、まだ魄が残ってる死体を見つけてきて、その死体の中にどばばーって魔力を注ぎ込むってゆー方法。そうすると、その死体の中に残ってる魄が……えーっと、真昼ちゃん、プカプカトン錯乱状態って言っても分かんないよね。なんていえばいーのかなー、魄がその魔力を原理として誤解することで、うきゃわわーってなっちゃうっていうことだね。

「とにかくですねーえ、何が言いたいのかーっていうと、第二段階が起こる前には、個体限界範囲の内側に魄がまだとどまってるーってことなんですねーえ。さっきもちょーっとだけ言ったことだけど、魄って、生命としての具体的な形象だから、それだけでも残ってれば、いかにも生きてるみたいに見せかけることが出来るってわけなの!

「でもでも、魄も、やっぱりいつまでも残存してられるわけじゃないんだよね。その原理であるところの魂がなくなった直後から、少しずつ少しずつ崩壊していくの。それで、いつかは完全に消えてなくなっちゃう。正確にはなくなっちゃうんじゃなくてまた潜勢力に戻るだけなんだけど。なんにせよ個体限定範囲からは消えちゃうわけ。

「これで、その誰かさんは完全に生命を失っちゃいましたーってなるの。こうなると、もう死霊学の方法でもどうしようもないんだよね。んー、まあ、デニーちゃんくらいとーっても賢くなると、魄の再構成も出来ちゃうんだけど……でも、そーなると、もうコピートって呼んだ方がいいよねー。

「そ。

「れ。

「で。

「今の真昼ちゃんがどーゆー状態なのかっていうと、第一段階はもー終わっちゃってて、これから第二段階が始まるかもーってところなの! そう、もう真昼ちゃんの中には魂は残ってないんだねー。ざーんねんでしたー。

「ふつーだったら、これから魄がばらばらーってなっちゃって。そーゆーのに合わせて肉体が腐敗してったり霊体が散乱してったりするんだけど……ふっふっふっ、ここで! デニーちゃんが何かしたわけなんですね。

「デニーちゃんが何をしたのかってゆーとねーえ、真昼ちゃんの個体限定範囲内にある世界をマネリエス・フォーミングしたの。んー、真昼ちゃんにも分かるように言うとすると……真昼ちゃんの内側にある、真昼ちゃんが真昼ちゃんであるってゆー法則を、しぱぱーって変えちゃったの。デニーちゃんが「そうあれー!」って思った通りにね。

「真昼ちゃんが真昼ちゃんである限り、真昼ちゃんが死んだら真昼ちゃんは死んじゃうでしょ? だから、デニーちゃんは、真昼ちゃんが死んでも真昼ちゃんが死なないようにしたの。ああーっと、ちゃんというとね、真昼ちゃんの中には、魂が失われたら魄が崩壊しちゃうっていう法則があったの。でも、デニーちゃんはそれを書き換えて、魂が失われても魄が崩壊しないようにしたの。あははっ、簡単簡単! これっくらーい、簡単なことだよー!

「重要なのはねーえ、魂が完全に失われたけれども、それでも魄は崩壊し始めてさえいない、その一瞬にマネリエス・フォーミングをするってゆーこと。そうしないと……魂があるうちにマネリエス・フォーミングしちゃうと、魂まで一緒に変化させちゃうことになっちゃうし。それに、魄が少しでも崩壊しちゃったら、それを直すっていうのはとーっても面倒なことになっちゃうからね。

「んーん、違うよ。これはリビングデッドの魔学的法則とはぜーんぜん違うものなの。さっきも言ったけどね、リビングデッドってゆーのは、その魔学的法則を使ってる誰かさんが、その魔学的法則を使われてる誰かさんの死体のことを、魔力で操作してるってゆー形になってるの。でも、執魄の場合は……デニーちゃんが真昼ちゃんに使った魔学的法則のことだよ、この場合は、真昼ちゃんは誰にも動かされないままに動いてるの。だーれも、だーれも、真昼ちゃんのことを動かしてない。真昼ちゃんでさえ真昼ちゃんのことを動かしてない。真昼ちゃんは、空っぽのまま、動いてる。

「今の真昼ちゃんにとって、デニーちゃんは、あくまでも「それが誰であれ構わない支配者」ーってことに過ぎないから。真昼ちゃんの中にある世界が、支配者が支配者として支配者である限りにおいてそうであるように、デニーちゃんがデニーちゃんとしてデニーちゃんである限りにおいてそうであるように、そのままの姿でそうあるってゆーだけの話なの。だから、それはリビングデッドじゃなくて……ティックーンって言った方がいいかな。

「あははっ。

「修復された世界。

「修理された世界。

「修正された世界。

「ティックーン。

「そう、空っぽなの。だから真昼ちゃんは生きてるわけじゃないんだよねー。んー、んー、そこら辺の、えーっと、定義?っていうのかな。そーゆーの、デニーちゃん、あんまりどーなんだろーなーどーなんだろーなーって考えたりしないんだけど。たぶん、さぴえんすの定義でゆーと、真昼ちゃんはやっぱり死んじゃってるんだよね。だから、デニーちゃんがしたこと、「これ以上は死なないようにした」ってゆー方が正しいかも。

「死霊学者のみんなにとってはね、第二段階経過後が完全に死んじゃったってゆーことなんだけど……ほらほら、第一段階経過後なら、まだ魄が残ってるから、使い道はいくらでもあるわけじゃないですかー。でもでも、死霊学者じゃないみんなにとっては、第一段階を経過したら、もう死んじゃったってゆーことなんだよね。もう魂はないわけだし、その誰かさんが誰かさんとして生きてるっていう原理は消えちゃったわけだから。

「と、ゆーわけで! 全部まとめるとこーゆーことになりまーす。まず、真昼ちゃんは死んじゃってるの。でも、完全に死んじゃってるってわけじゃない。魂はないけど魄はあるってゆーじょーたい。それで、デニーちゃんがしたことってゆーのは、真昼ちゃんの中にある世界について、そこで働いてる法則を変えたってゆーこと。魂がなくっても、真昼ちゃんの魄がばらばらになっちゃわないようにね。どーお? これで分かった、真昼ちゃん?」

 これは、本当に。

 信じられないことであるが。

 真昼は。

 デニーの説明で。

 理解すべきこと。

 ほとんど。

 理解。

 した。

 いやー、マジでびっくりっすね。まさかまさかデニーの説明がここまで分かりやすいものになるなんて。真昼と出会った頃にしていた説明の感じと比べると、これはもう雲泥月鼈の違いがある。デニーが、このように、真昼にも理解出来るような説明をするに至ったことについては、これはもう様々な理由がある。

 一番大きな理由としては、デニーの中で真昼に関する相対的な利用価値が上がったということが挙げられるだろう。最初は、ただ単なる取引材料に過ぎなかったが。今の真昼は、セミフォルテアの矢を放てるほどの攻撃力を持ち、バーゼルハイム・シリーズの謎を解くための鍵を持ち、更にその上、奇瑞でもあるのだ。取引材料以外にも、色々と使い道がある。また、それだけではなく、真昼自身の功績もあるだろう。真昼が、デニーに対して、何かを質問したり説明したりする時に。最初の頃はそうでもなかったが、最近は、随分と噛み砕いた話し方をするようになった。そのことによって、デニーは、真昼に対して説明する時にはこのように説明すればいいということを把握したのだ。

 また、デニーの説明も分かりやすかったが、真昼の理解力もだいぶんと向上していた。最初の頃は、分からない単語は分からないまま流れ過ぎていく、春のせせらぎに流れ去る笹船のようなものに過ぎなかったのだが。今となっては、その笹船をきちんと拾い上げて、それを分解することで、それが笹で作られた船であるということを理解出来るようになっていた。は? いや、例え話下手過ぎでは? えーっと、何がいいたいのかといいますと、デニーの話を理解出来るほどの知性を身に着けたということである。それが理解出来ない単語であっても、その単語の構成要素と、それにその単語が出てくる文脈によって、ある程度は推測可能になったということだ。賢くなったね、真昼ちゃん。

 斯うと。

 真昼は。

 全部とまではいわなくても。

 重要なことは、理解出来た。

 それから、真昼は。きゅるんという感じで可愛らしく首を傾げたデニーの、その問い掛けには何も答えないで。まるで、何か奇々怪々なものを見ているかのようにして、デニーのことを見つめていた。ひどくクソ真面目な顔をして、じーっと見つめていたのだけれど。やがて、ふいっと視線を逸らした。

 逸らした視線、どうしたのかというと。ひどく何気ない感じで、自分の体を見下ろしてみた。まず、右の手のひらを胸の辺りまで差し上げて。するすると視線をなぞらせるみたいにして色々な角度から見る。開いた手の甲を見て、手のひらを見て。小指から一本ずつ内側に折り畳んで、それを、拳にしてみる。

 今度は左の手を同じようにしてみて、その後で、右手と左手と両方を眺める。手のひらの位置はそのままに、視線をだんだんと移動させていく。腕、肩、胸、腹、腰、脚。一通り見終わってから、今度は首筋に指先を走らせる。右手で首の右側を、左手で首の左側を。薬指と中指と人差指とでゆっくりとなぞる。

 これが。

 死んで。

 いる?

「なんか、自分が死んでるって感じがないんだけど。」

「そりゃそうだよ、真昼ちゃん、下等生物だもん。」

 そういうこと本人に直接言う? 「さぴえんすの感覚って、すっごくすっごく出来損ないだし、それに、そもそも、真昼ちゃんが真昼ちゃんだってゆー情報、存在的だったり概念的だったりする情報はぜーんぶ揃ってるんだから。魂がないってゆー空っぽな感覚を感覚出来れば、自分が死んでるって分かるけど。さぴえんすには無理だよー、無理無理!」。

 デニーのそのような言葉に対して。真昼は、両方の目をつぶった。それから、心の底から、まあそうだろうな、と思う。アーガミパータで過ごした三日間で、人間という生き物がどれだけ下等なのかということはよくよく理解していた。ここでいう下等は、不完全とか未完成とかそういったレベルを遥かに超えたものだ。そもそも理想的な生命体になりようがない。根本的に出来損ないであるため、その内側には真だとか善だとか美だとか愛だとか、その他のあらゆる良きものの可能性さえ含まれていないのである。

 そして。

 なんにせよ、と思いながら。

 閉じた、二つの目を、開く。

 あたしは。

 死んでしまった。

 わけだ。

 ほんの一欠片の実感さえなかったが、それでも、デニーがこう言っている以上は、あたしが死んだということに間違いはないだろう。それで、それで……それで? 真昼は……一体、何をどうすればいいのだろう。

 自分が死んだのだから、まあ、何かをしなければいけないだろうが。けれども、何をどうすればいいのか全く思い付かない。あまりにも突然のことだ、心の準備さえしていなかったのである。

 というか、死んだってどういうことだろう。死んだというくらいなのだから生きていないのだろうが、ここまで生きている時と何も変わらないと、死んだということの特別性を何も感じない。

 今まで、様々な死と関わってきた。小説、漫画、ドラマ、映画、そういったものにおけるフィクションの死だけではない。それに、新聞やテレビや、そういった遠い世界における死だけでもない。ASKとの戦いで死んでいったダコイティ達。パンダーラにマラーに、それにもちろん自分の母親。そういったたくさんの死に触れて、真昼は……自分が、限りなく死に近いところで生きていると思っていた。死についてよく知っていると、死のことをよく理解していると思っていた。

 けれども、全然違った。実際に自分が死ぬということは、他のあらゆる死、自分の身体の外的な部分で起こる死とは、なんの関係性もないものだといってもいいくらいだった。死というものの……不可思議なまでの捉えどころのなさ。死は、苦しみでも痛みでもない。ただただ無意味だ。虚無的なまでに無意味だ。そこには無意味という意味さえない。

 もうどうしようもない。

 これで、全部、お終い。

 真昼の思いを一言で表わすならば「なーんも分かんねーや」に尽きるだろう。そう、何も分からなかった。自分が死んでいるという事実にどう向き合えばいいのか。そして、これはより重要なことなのだが、それで全然構わないのである。はっきりいって、真昼は、死について真面目に考えても真面目に考えなくても、どっちでも構わないのだ。

 なぜなら、それは既に起こってしまったことであって、今から何を考えてもクソの役にも立たないからだ。確かに、自分が死んだということに対して何かの総括をすることで、なんらかの良い影響があるかもしれない。とはいえ、それが必然であるならばそれはそうなるだろうし、それが必然でないならばそれはそうならないだろう。どちらにせよ真昼にはどうしようもない。何もかも、既に起こったことだ。世界は始まった瞬間に終わってしまったのだ。

 何もかも。

 真昼が。

 考える。

 ことでは。

 ない。

 とはいえ、何もしないでいるわけにもいかないのである。まあ、なんもしなくていいんなら極力なんもしないでいたいということは事実であるが、とはいえ、こんななんもないところでなんもしないでいたら、たぶん死ぬ。いや、えーと真昼はもう死んでんだったっけ? なんかよく分かんなくなってきちゃったな。とにかくですね、何かしらの行動は起こさなくてはいけないのである。さて、それでは何をすればいいのか。

 真昼は。

 また。

 ちらりと。

 デニーに。

 視線を向ける。

「それで。」

「はーい。」

「これから、どうすんの。」

「んー、それが問題なんだよねー。」

 思っていたものとは違う反応が返ってきた。デニーのことだから、どうせ何もかも決定済みだと思っていたのだが。ただ、そういえば、こいつと出会ってからかなり最初の頃。国内避難民キャンプが脱出ルートとして使えないということが分かった時にも、こんな感じの、どうすればいいか迷っていますというような反応が返ってきたのだった。デニーであっても、想定外の事態には、それなりに判断が遅れるということもあるのだろう。

「問題って、何が問題なの。」

「えー、全部問題じゃーん。」

「あたしには、問題なんてないように思えるけど。後は、あたしのことを静一郎に届ければいいだけでしょ? それか、あんた達の「取引」とやらが終わるまでは、あんた達の悪の秘密基地かなんかに閉じ込めておくか。どっちにしたって、ここ、この場所、アーガミパータから脱出して。それでお終いじゃない。それとも、その脱出方法について何か問題でもあるの?」

「違うよお。」

 デニーは、軽く薬指を伸ばした。他の指は、小指も中指も人差指も、もちろん親指も、そっと斜め下を向いていて。そのせいで、薬指に傅いているように見える。それから、その薬指を、随分とまあぬけぬけとしたやり方で真昼に近付けてくる。薬指は……そのまま……真昼の首筋に向かって近付いてきて……それから、とんっと、ちょうど喉頭隆起がある辺りをつっついた。

 冷ややかな目で。

 そんなデニーの行動。

 見つめている、真昼。

 に、向かって。

「だって。」

 デニーは。

 こう。

 言う。

「真昼ちゃん、死んじゃってるもん。」

「それがどうしたの。」

「どうしたのって! 大、大、大問題だよ! だって、真昼ちゃんは、真昼ちゃんのおとーさんと取引するための取引材料なんだよ? 大切な大切な交換条件なの! それなのに、そんな真昼ちゃんが死んじゃってたら、ちゃんとした取引出来ないじゃないですか! そりゃあ、デニーちゃんは、まあ、真昼ちゃんが生きてても死んでてもそんなに気にならないけど。でも、やっぱり、真昼ちゃんのおとーさんはそーゆーこと気にするよ。さぴえんすってそーゆー生き物だもん。

「もしかしたら、死んでる真昼ちゃんでもいいよーってことになるかもしれないけど。でもでも、やっぱり死んでる真昼ちゃんよりも生きてる真昼ちゃんの方が良いに決まってるよ! と、いうことは! このまま、死んだままの真昼ちゃんを連れて帰ったら! デニーちゃんは、デニーちゃんのお仕事をちゃんと出来なかったーってことになっちゃうの。

「そんなことになったら、デニーちゃん、怒られちゃう! コーシャーカフェで一番偉い人に、もう、ぽんぽみぴろぴろずんがらどっしゃーんってくらい怒られちゃう! デニーちゃんとしては、やっぱりそういうことになるのは、いやいやーって感じなんだよね。だから、死んでる真昼ちゃんのことを生きてる真昼ちゃんにしなきゃいけないってゆーわけ。

「そーゆーわけで! アーガミパータを脱出しちゃう前に、なんとかして真昼ちゃんのことを生き返らせなきゃいけないの。真昼ちゃんのことを、第一段階が起こる前、魂も魄もりょーほーとも揃ってる状態にしてから、コーシャー・カフェで一番偉い人に届けなきゃいけないーってわけ。」

 デニーは、そう言って。

 やれやれみたいな感じ。

 手のひら、指先をひらひらとさせながら。

 両腕を、上に向かって軽く広げて見せた。

 真昼は、そんなデニーの態度にめちゃくちゃイラっときたが、もう一度ぶん殴るのは控えておいた。これくらいでぶん殴っていては会話がまともに進まない。それよりも、デニーの言葉。それに、いまいち納得出来なかった。言っていることは分かる、脱出する前にやることがあるということだ。だが……これが、問題というほどの問題か?

「それの、どこが問題なの。」

 真昼は。

 凍て付くような態度。

 軽く、首を、傾ける。

「あんた、死霊学者なんでしょ。生き返らせる必要があるなら、さっさと生き返らせればいいじゃない……あたしのこと。」

 他人事みたいに。

 無関心に言った。

 そう、真昼は知らないのだ。一度死んでしまった生命体を完全に生き返らせることがどれほど難しいことなのかということを。読者の皆さんはご存じですよね、アビサル・ガルーダのくだりで説明しましたから。とはいえ、真昼は、地の文を読めるタイプのキャラクターではなく。しかも、復魂執魄というのは死霊学者の中でも本当に限られた一部しか知ることが出来ないエゾテリスム中のエゾテリスムであるからして、家庭教育レベルの教育で教えられるわけがないのだ。

 そんなわけで、真昼は。そのくらいのことは、デニーが本気になれば、兎を踊らせるよりも簡単に出来ることだと思っているのだ。というか、もしも、それがどれほど難しいことなのかということ、その本当のところを知っていたとしても。真昼にとっては、デニーには不可能などないのだった。真昼は……確信しているのだ。それがどんなことであっても、デニーが本気になれば出来ないことなどないと。だから、デニーがこのように悩んでいる意味が分からないのである。

 デニーは。

 ふるふるるとかぶりを振って。

 それから、真昼に、こう言う。

「そんな簡単に出来ないよー!」

「なんで。」

「なんでって……あのね、真昼ちゃん! 自分が死んじゃったっていうことをもっともっと深刻に考えて! んもー、死んじゃった生き物を生き返らせるってゆーのは、すっごくすっごく難しいことなんだよ。そーゆーことをするためには、復魂執魄っていう方法を使わなきゃいけないんだけどね。この方法は、復魂と執魄と、二つの部分に分かれてるの。

「まずは執魄の方だけど、こっちはそれほど難しくないの。死んじゃった生き物に、しっかりと魄を固定しておくっていうだけのことだから。まあ、ある程度、魄がばらばらになっちゃってから執魄するってなると、とってもとっても面倒なことになるんだけど……真昼ちゃんの場合は、死んじゃったすぐ後に執魄したからね。とにかく、こっちは大丈夫。

「問題なのは復魂の方! これはね、んもー、んもー、すっごーく大変なの! こっちは、よーするに、死んじゃった生き物の魂を取り戻すっていうことなんだけど……真昼ちゃんの魂は、もうジュノスに還っちゃってるの。ということは、復魂するためには、その魂をジュノスの門のこっち側にぐぐいーって引っ張ってこなきゃいけないってゆーことなの。そのためには二つの方法があって、一つはヘルム・バーズと契約することなんだけど、そっちは無理なんだよね。もうデニーちゃんは一回契約しちゃってるから。別にもう一回出来ないわけじゃないんだけど……そうすると、ちょーっと代償が大きくなり過ぎちゃうからね。ということは、真昼ちゃんのことを生き返らせるためには、もう一つの方法を使うしかないってゆーわけ。その方法ってゆーのは、生命の樹を使う方法。」

「生命の樹?」

「そうそう。真昼ちゃん、カーマデーヌのこと覚えてる? アヴマンダラ製錬所で見た、あの大きな大きな牛さんみたいな形をしたもの。あれはね、実は、スナイシャク特異点っていう、ジュノスの門の向こう側とジュノスの門のこっち側との接触点なの。ああいう接触点を使って、ジュノスからこっちの世界に色々なものを引っ張り出してくることが出来るんだけど。でもでも、カーマデーヌみたいにとーっても小さなスナイシャク特異点だと、生命体の魂みたいなものをこっち側に引っ張ってくることは出来ないの。だから、もっともっとおーっきなスナイシャク特異点が必要になってくるんだね。それが真性特異点って呼ばれてるタイプのもので、別名を生命の樹ってゆーの。と、ゆーことで! 真昼ちゃんを生き返らせるには、まずは生命の樹を探さなきゃいけないんだけど……んー、そんなに簡単に見つけられるものじゃないんだよね。」

 デニーは。

 そう言うと。

 きゅっと、可愛く腕を組んで。

 ぱみっと、可愛く目を閉じて。

 むむーっと考え込んでしまった。

 なるほど、なんか知らんけど色々あるのね、と思った真昼だったが。それ以上の何か、例えばデニーが軽々しくカーマデーヌの名前を口にしたことについてだとか、例えば生命の樹を探した後で一体どうやって魂を取り戻すのかということだとか、そういったことについては、特に思考を進めていくことはなかった。

 思考するということは……既に、真昼にとっては、真昼がするべきことではなかった。真昼が何か思考しても無意味である。何一つその通りになりはしないのだから。そうであるならば、もう、この際、そういったことの一切をデニーに任せた方がいい。どうせ世界は、デニーが考えたようにしか動かないのだから。

 ということで、真昼は、デニーが何かしらの結論を出すまで何もすることがなくなってしまった。いかにも手持無沙汰そうに、ぽえーっと、ぼわーっと、いう感じの顔をして、そこに突っ立っていたのだが。なんかこうしているのは馬鹿みたいだなと、ふとそんな考えが頭をよぎる。

 そういえば……生き返ってから、周囲の状況について、なーんにも確認していなかった。自分に起こった出来事があんまりにあんまり過ぎて、自分以外のことについて考えている余裕がなかったのだ。ということで、いい機会、自分以外のことについても注意を払ってみることにする。

 すると、すぐに気が付いたことがあった。足元が揺れている。すしん、すしん、という感じで、地面が震えているのである。なんで今まで気が付かなかったの? 振動自体がそれほど大きなものではなかったし、それに、今までの真昼は、暴れまくるか、会話に注意を取られているか、どちらかだったので。なんか揺れてるなと無意識の部分で思っても、その思いが意識にまでのぼってこなかったのだろう。

 これは、なんだ? いや、地震ではない。地震というのはもう少し規則的な周期で起こるはずだ。これは……何か、とても、とても、大きな生き物が。すぐ近くでのたうち回っているかのような不規則な地響きであった。

 のたうち回っている? でも、何が? そういえば、ここで起こっている異様なことは、この振動だけではなかった。聞こえていたのだ……やはり、何か、とても、とても、大きな生き物の……凄絶な咆哮みたいな音。

 いや、マジでなんで今まで気が付かなかったの? 気が付いてはいた、けれども、風か何かだと思っていたのだ。かなりでけぇ風の音。風が、険しい山脈の鋭利な峰々に切り裂かれて上げる悲鳴のようなもの。けれども……これは確かに悲鳴ではあるだろうが、非情のものの悲鳴ではないようだった。間違いなく、有情のものの悲鳴。しかも……例えるなら……巨大な、鳥の、絶叫?

 この音は、どこから聞こえてくるのか。

 真昼の背後。

 かなり近く。

 だから。

 真昼は。

 ふっと、肩越しに、振り返る。

「ねえ。」

「ほえ? なあに、真昼ちゃん。」

「あれ、何?」

「ああ、アビサル・ガルーダだよ……って、わあーっ!!」

 まあ、読者の皆さんはとっくにお気付きピープルだとは存じますが。真昼の背後にいたのはアビサル・ガルーダであった。アビサル・ガルーダが華麗に登場したあのシーン、あのタイミングにおいては、真昼ちゃんは現在進行形でとんでもねぇ虚脱状態の最中であった(Great Collapsing Mahiru Disaster、略してGCMD)のだし。それに、アビサル・ガルーダが大活躍している間も、ずっとずっとほけけーっとしていたので。結果として、真昼は、アビサル・ガルーダのこと、目には入っていたのだけれどもまるで意識していなかったのだ。ちなみに、執魄によって蘇ってからも、真昼の視界に入っていたのはほとんどデニーの姿だけであったので。実質的に、真昼は、たった今、初めてアビサル・ガルーダを見たという感じなのである。

 ということで真昼がアビサル・ガルーダについてこのような反応をしたということの説明はついたと思うが。他方で、デニーは、一体なぜこのような反応を示したのだろうか? だって、アビサル・ガルーダは当のデニーちゃんが生み出したところの怪物なのである。なんで驚く必要があるのか。

 それを知るためには、アビサル・ガルーダがどのような状態にあるのかということを見ていかなければいけないだろう。デニーと真昼とが立っている場所から、大体、数百ダブルキュビト離れた場所で。アビサル・ガルーダは……大地の上に倒れ伏して。悶え、喘ぎ、暴れ狂い、藻掻き苦しんでいた。

 岩肌の上を転げ回り、全身を掻き毟っている。体中に開いた傷口を鈎爪で引っ掻いて、そこに付着したものを剥ぎ取ろうとしている、あるいは、その内側に寄生しているものを掻き出そうとしているのだ。

 もちろん。

 それは。

 サテライトの。

 残骸、である。

 なんと、なんと、な、な、なんと! サテライト自体は撤退した(させられた)のだけれど、吸痕牙が生えた衛星だとか、あるいは傷口の中に入り込んだ手のひらだとか、そういったものは残されていたんですね。確かに、エレファントに叩き潰された直後、ギャラクシーであった全ての肉塊は少女の肉体として再構成されたのであったが。そのギャラクシーから分離したものまでは、そこに飲み込まれることはなかったのだ。

 それでですね、デニーちゃんは、真昼ちゃんに掛かりっ切りになっていて、アビサル・ガルーダのことなんて頭蓋骨の中からすぽけーんっと抜け落ちてしまっていたんです。そんなわけで、アビサル・ガルーダがこんなやべーことになってるなんて全然気が付いていなかったので。そのことに今気付いて、大層びっくりしてしまったというのが事の次第なんですねー。

 朽ち果てて倒れ伏した大樹から滴る樹液、に、群がる大量の羽虫のように見えた。傷口からでらでらと流れ落ちる反生命の原理に、あたかも奇形のコロシヤバチのごとき態度で集い集っている。しかも、ただ群がっているだけではない。今、まさに、この瞬間に、凄まじいスピードで無性生殖しているのだ。吸収したエネルギーをすぐさま増殖に利用しているのだろう。

 そのせいで、アビサル・ガルーダの肉体は……その大半の部分が、衛星によって覆われていた。大半の部分というのは五分の四程度ということで、しかも、外側からは見えないが、その肉体の内部も散々な有様だった。

 傷口に入り込んだ手のひらも、やはり同じように増殖していたのだ。ということで、傷口の内側は手のひらでいっぱいになっていて。まるで薄気味の悪いヒトデのようにして、外側に溢れ出てきているくらいだった。

 それは、まあ、アビサル・ガルーダだって多少の抵抗はしていないわけではないが。それは本当に多少であったし、いってみれば最低限でしかなかった。傷口を手で払って、中に潜り込んだものを掻き出して。あるいは、群がっている全てのものを、地面にこすりつけて掻き落とす。それくらいのことしかしていなかった。そして、そういった行為は、もちろん十分ではなかった。少しくらいは減るのだが……全体としてみれば増えていく一方だ。そもそも、衛星の一つ一つはフィーリング・ファクターを有しているのである。

 と。

 まあ。

 こんな状態であって。

 一言でいうのならば。

 「悲惨」。

 その有様を見て、デニーは、暫くぽかーんとした顔をしていたのだが。やがて、「ふあー、すっかり忘れてたよお」と呟いた。それから、ぱっという感じ、いかにも無造作に。両方の手のひらを自分の胸の辺りまで差し上げる。

 右の手、左の手、両方とも開いていた。ただ、単純に開いていたというわけではない。両手とも、小指から人差指までを真っ直ぐに伸ばして。指と指との間をぴったりとつける。

 それから、その両手を、胸の前で軽く交差させた。親指と親指とを交尾でもさせるようにして絡ませて。軽く伸ばした腕の先で……それは、まるで……親指以外の四本の指が、何か羽のある生き物の両翼であるかのような、手遊びの形であった。

 デニーは、そのような形を作ると……最初は、その両手とも、横向きに倒していた。どういうことかといえば、親指を自分の体の方に向けて、手のひらを下の方に向けて、そういう風にしていたということだ。それから、その両手を起こしていく。親指が上に向かうように、手のひらが自分の体に向かうように。

 すると! 不思議なことが起こる! あれほどじたばたとのたうち回っていたアビサル・ガルーダが、不意に、そのカオスティック無秩序な動きを停止させたのだ。カオスも無秩序も意味同じじゃない? アビサル・ガルーダの二つの眼球、今までほとんど恐慌状態といっていいような有様で見開かれていた二つの眼球が、ふっと、その色彩を変える。それは、まるで……暴風雨が方程式になったかのように。

 それから、アビサル・ガルーダは。デニーの手の動きと全く同じように、その身を起こし始めた。全くの冷静さで、意思を奪われた者の冷静さで、岩肌の上に手をついて。人間とは逆に曲がる膝を、ゆっくりゆっくりと、落ち着いた態度で伸ばしていく。

 群がるサテライトのアヴァターはそのままにして。

 アビサル・ガルーダは、木偶のように立ち上がる。

 「真昼ちゃん」「なに」「危ないから、デニーちゃんのそばにいてね」。デニーは、真昼の方を振り返って、にぱっとした笑顔を見せてからそう言うと。それから、またアビサル・ガルーダの方に視線を戻した。そうして、その後で、自分の胸の前に差し出した両手。いとも他愛なく、なんということもないようにして……ひらりと動かした。小指から人差指までの指先で作った翼を、たった一度、羽搏かせたということだ。

 と。

 それと。

 同時に。

 糸を手繰られた木偶の人形が。

 その通りの行動を、行動する。

 つまり。

 アビサル・ガルーダが。

 戦慄。

 啓示。

 振盪。

 二枚の羽を。

 羽搏かせる。

 またもや……またしても……それが起こった。世界であったはずの、まさにその形而が。存在としての意味も失い、概念としての意味も失い。何ものでもない空白へと回帰していく。それは、まさに、羽根を引き剥がされた七面鳥が、七面鳥でもなんでもない何かになってしまうかのように。

 その後には、洪水がやってくる。聖なる、聖なる、洪水が。地の表の全てのローストターキーを洗い流す、無慈悲な洪水が。その洪水に飲み込まれたあらゆるものは……粉々に打ち砕かれて、ばらばらの砂のような欠片になって。押し流されていく。虚空に消え去って後には何も残らない。

 要するに、アビサル・ガルーダの羽搏きは、またもや例のアレを起こしたということだ。何を起こしたのかということはこれまでの描写を読めば全然分かっちゃうと思うのでここでは書かないが(ヒントは戦慄・啓示・振盪という三つの単語だぞ!)。なんにせよ、半径一エレフキュビトの範囲は、ほぼ完全に浄化されることになったのである。

 ただ、まあ、とはいえ。ここら辺はついさっき浄化したばっかりなので、新しく浄化するべきものなどほとんど残っていなかったが。一つ、大きなものが消えて失せたといえば……そう、あの玉座である。

 死んだり蘇ったり色々と大変だった真昼について書くのでいっぱいいっぱいになってしまって、今まで全然触れてもいなかったが。あの玉座は、ついさっきまで、元気いっぱいに存在していた。いや、玉座に元気も何もないかもしれないが。その部分部分を構成していた死体は、相変わらず、決してきたることのない救いの手を求めるかのようにして蠢いていたのだし。玉座の全体としても、欠けるところなく、そこに聳え立っていた。

 それが、今となってはどこにもなかった。跡形さえも残ることなく吹き飛ばされてしまったのである。第一回の羽搏きの時に玉座を守っていたアサイラム・フィールドは、第二回はそうしてくれなかったらしい。まあ、五人のテロリストが撤退してしまった以上は、もうこの玉座を使うこともないだろうから。ちょうどいいお掃除になったといえばそれまでなのであるが……それにしても、またあっさりとなくなってしまったものだ。

 さて、それでは、当該アサイラム・フィールドはどうなってしまったのか。当該ってこれで使い方あってる? なんか変だな、まあいいか。とにかく、読者の皆さんも(サテライトほどの阿呆でない限りは)大体の予想は付いていると思いますが、そう、その通り、デニーと真昼とを包み込んでいたのである。

 デニーを中心として半径五ダブルキュビトほどの球体が出来ていて。その球体に纏わりつくようにして、結界化したアサイラム・フィールドの泥濘が空間を穢していた。そもそも、このフィールドは玉座を守るためのものではない。玉座はあくまでもついでであって、本来の目的は、デニーを守るということなのだ。ということは、デニーが移動すれば、フィールドも移動するのが道理なのである。それに、その大きさについても……デニーと真昼とを守ることが出来るだけの大きさがあればいい。

 そんな。

 わけで。

 ここに残っているのは。

 アビサル・ガルーダと、デニーと、真昼と。

 それから、大地、天空、とても綺麗な空気。

 それだけ。

 それ以外のもの。

 全て、何もかも。

 消えてしまった。

 もちろん。

 サテライトの。

 残骸も。

 いうまでもなく……それこそが目的だったのだ。アビサル・ガルーダに纏わりついていた、衛星を、手のひらを、一掃することこそが。

 もしかしたら、それはおかしいという意見があるかもしれない。そんなことは起こりえない、なぜなら、羽搏きによって引き起こされた突風は、アビサル・ガルーダの外側に吹くものであって。アビサル・ガルーダの内側にまで影響を及ぼさないはずであるからと。だが、そういう意見を持つのは、この羽搏きの性質を理解していないからなのである。

 アビサル・ガルーダの羽搏きは、決して物理的なものではない。それは妖理的なものであって、要するに観念に関する現象なのだ。ということは、あの羽搏きは、羽搏きという観念の一つの表象方法に過ぎないのであって。そこでは原因と結果との非連続性のようなものは前提とされていないのだ。

 つまり、アビサル・ガルーダの身体は突風の原因ではないのである。また、その結果でもない。現象それ自体なのだ。それは一つの象徴の体系をなしているところの全体の一部でしかない。純粋な連関性の中で、それは影響を受ける。そもそも内側であるか外側であるかという違いがないのだから。

 そのようなわけで、突風は、アビサル・ガルーダの内側に巣食っていた異物さえも浄化していたのであって。傷口に群がっていた衛星も、傷の中に食らいついていた手のひらも、一つ残らず、それどころか肉片さえも残すことなく。買ったばかりの冷蔵庫のように綺麗さっぱりになったのであった。

 アビサル・ガルーダ。

 完全に、元通り、だ。

 最初から開いていた傷口以外は。

 その身体に。

 何一つ。

 新しい。

 損害は。

 加わって。

 いない。

 少しくらいスナイシャクが失われていなかったわけではないが、それもじきに回復するだろう。そもそもアビサル・ガルーダがあれほど追い詰められているように見えたのは、デニーがきちんと操作していなかったからなのだ。

 自動的に行われる防衛反応だけだったから、あんなことになったのだ。デニーが、あれほどきゃっきゃきゃっきゃと喜んでおらず。まともに対処にあたっていれば、少なくともサテライトは無傷ではいられなかったはずである。

 「はい、これですっきりしたね!」と言うデニー。その後で、自分の口の中、コッと舌を鳴らした。すると、今まで二人のことを守っていたアサイラム・フィールド、その結晶したもの。反転したミルクのようにどろどろとした黒いものが、外側に向かって一気に弾け飛んだ。もういらなくなったアサイラム・フィールドを解除して、周囲の見通しを良くしたのである。

 さて。

 これで。

 当面の。

 問題は。

 解決した。

 わけで。

 あるが。

「それで。」

「ほえほえ?」

「アビサル・ガルーダって何?」

 そりゃあそうだ、アビサル・ガルーダという名称だけを教えられたところで、真昼は「アビサル」という単語も「ガルーダ」という単語も知らないのである。一応、鵬という生き物について知っていることは知っているが、とはいえ、もちろん実物を見たことなどあるわけがないし、それに写真や動画などでも見たことはない。洪龍や煉虎や、あるいは鵬といった生き物は、そうやすやすと映像媒体にその姿を映し出してはくれないのである。ということで、真昼の中の鵬という概念と、目の前にあるこれとは、それほど容易く結び付くわけではない。

 デニーは、人差指を真っ直ぐに立てて。

 親指を、それとは九十度になるように。

 両手を、いつもの、あのピストルの形にして見せると。

 その二つのピストルで、アビサル・ガルーダを示して。

 そして。

 小さく首を傾げながら言う。

「カリ・ユガから貰ってきた兵器だよー。」

「ああ、そう。」

 それから。

 デニーは。

 踊るように。

 ぱっと。

 両手を広げて。

 話を、続ける。

「そうそう、そーゆーこと。真昼ちゃん、鵬って知ってる? こっちではスパルナって呼んでる生き物なんだけど……そうそう、おっきなおっきなおーっきな鳥のことね! それでね、洪龍と鵬とって、どこでもかしこでも仲が悪いの。もー、ばっちばちーって感じ。どこでもかしこでも殺し合ってるーってゆー感じ。

「もちろん、アーガミパータでも仲が悪くって。てゆーかさ、アーガミパータはアーガミパータでしょ? だから、そういうばっちばちーも、もっともっとすごくなっちゃってるの。お互いにお互いのことを、もー殲滅しちゃうぞって感じになってて。その中でも、アナンタの一族とガルーダの一族とは、相性さいあくーって感じなのだ!

「で、第二次神人間大戦の時にね、それはもうすっごーいめちゃめちゃどっかーんっていう戦争があったの。アナンタの一族とガルーダの一族との間でね。それが起こったのが、今のカリ・ユガ龍王領のすぐ近く。アーガミパータ亜大陸と中央ヴェケボサニアとを繋いでる唯一のルート。つまり、スカーヴァティー山脈の切れ目のところだったわけ。

「第二次神人間大戦の時にはね、ガルーダ側は人間側の陣営についてたの。それから、アナンタ側はとーぜん神々の陣営についてたの。それでね、それでね、あの切れ目のところは、ずっとずっと前からアナンタの一族の領域だったんだけど。あそこの切れ目さえ押さえておけば、人間側の陣営は、すっごくすっごく簡単にアーガミパータへの補給ルートを作っちゃうことが出来るわけじゃないですかー。だからね、人間側の陣営が、あそこを確保するために、ガルーダに対してアナンタの一族の領域の攻略を頼んだってわけ。

「まあ、結果としては痛み分けってところかな? ガルーダの一族はほとんど全滅しちゃったんだけど、それでも、あそこの切れ目の一部分はアナンタの影響力を排除することが出来たんだよね。それが、今、アーガミパータ霊道が通ってる辺りだね。まあ、あそこもあそこでちょーっと難しいところがあって、カリ・ユガ龍王領がある限りは、アナンタの一族からの攻撃がいつあるかも分からないから、結局は、アナンタの一族との交渉次第で使えるか使えないか決まっちゃうんだけど……んー、まー、細かいことはいっか。

「とにかく! その戦場には、死んじゃった鵬がいっぱいいっぱいいーっぱい落ちてるってわけ! それで、鵬って、ゼティウス形而上体の中でも、かーなーりー、つっよーい生き物なわけじゃないですか。最低でも公レベルでしょ? デニーちゃんが貰ってきたこの子は王レベルなんだけど。そーゆー強い生き物を、生き返らせて、こんな感じで、たららーん! 兵器として使えれば、すっごくすっごく便利ってわけ。だから、わざわざあそこまでして貰ってきたんだよ。そう、わざわざ、このデニーちゃんが頭を下げてまでしてね!」

 デニーは。

 そう言うと。

 えっへんという感じで。

 可愛らしく胸を張った。

 いや、まあ、確かにデニーが頭を下げるっていうのは珍しいことなのかもしれないけどさ。それにしたって、真昼が犠牲として差し出さなきゃいけなかったものに比べればそうでもないんじゃない? いや、真昼の立場からすればって話だけどね。だから、真昼に向かってそういう言い方すると、また真昼ちゃんがぶち切れて……ない! っていうか全然怒ってない!

 真昼は、そういったことについて、欠片たりとも興味がなさそうだった。いかにも投げやりに「ふうん」と答えただけだったということだ。真昼がアビサル・ガルーダについて聞いたのは。強そうだし危なそうだし、だいいちでかいし。なんか、デニーと真昼とのことを害する可能性があるものだったらやだなと、その程度の思いから聞いただけだった。なので、別にこちら側に害がないものだと分かれば、それで良かったのである。今の説明の中にはアビサル・ガルーダのアビサルの部分についての説明がほとんどなかったが、それも別に気にならなかったのだ。

「真昼ちゃん、分かってくれた?」

「分かった。」

「わー、良かった!」

「で。」

「で?」

「これからどうすんの。」

 大して関心もなさそうに言い放つ真昼の言葉。お前に直接関係してくることなんだからもっと真剣になれよと思わないことはないが、まあ、真昼が真剣になろうがなるまいが、さほどに物事の展開が変わるわけではないというのも事実だ。

 それに、仮に、真剣になった真昼のシンキングが現実に影響を及ぼすとして。そういった影響は、恐らく、というか間違いなく、現実を悪い方向に進めてしまうだろう。デニーは……デニーは……完璧なのだ。デニーの知性は、本当に、傷一つない薔薇の花の氷細工のようなものなのである。

 真昼が、真昼なんかが、それに口づけを落としたら。甘く甘く溶けた薔薇の蜜が真昼の唇を濡らしてしまうだろう。そして真昼はその毒の中に溺れていくのだ。要するに、真昼は何も考える必要がないということだ。自分がどうなるかについて、自分で考えなくてもいい、考えない方がいい。

 世界で一番頭が良い。

 悪魔みたいなクソ野郎が。

 あたしがどうすればいいのか。

 全部、全部教えてくれるんだ。

 あたしは。

 もう。

 何も。

 何も。

 考えない。

 一方で、問い掛けられたデニーの方はというと。下唇に人差指の先を当てて「んんー」と呟いた。右足、軽く持ち上げてから、爪先をとんと地面に落として。左側に可愛らしく小首を傾げて。暫くそうして考えていたのだが、やがて考えがまとまったらしい。

 なんの意味もなく、その場で一度、くるっと回転する。爪先立った右足を支点にして、左側に向かって。そして、口を開く。「まっ、いつまでも考えてても仕方ないよね! あのね、生命の樹ってゆーのは、こっち側にはないの。ナシマホウ界にはなくって、マホウ界にしかないの。だから、とにかくマホウ界に行ってみよーよ。そこから先のことは、あっち側に行ってから考えよ!」。

 デニーは。

 そう言うと。

 両方の手のひら。真昼に向かってぱっと開いて。

 それから、にぱーっとした笑顔で笑ってみせた。

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