第二部プルガトリオ #68

 さて、その瞬間の真昼であるが。端的にいって、何もなかった。真昼であるところのものは何もなくなり、完全な虚無となっていた。そこにはあるという現象はなく、ないという現象もなかった。実在的・実存的な、真実の虚無だけがあった。真昼は……ただ、真昼が、自分なんてものはないと思っているというだけではなく。現実として虚無になっていたのだ。

 要するに、完全に死んでいた。完全に死ぬってなんかおかしいですね、とはいえそれは本当のことだ。真昼は生命を手放していたのだ。真昼の魂は、少しの残存物もなく、ジュノスに還ってしまっていて。後には、今まさに崩壊の過程へと進もうとしている魄があるだけであった。真昼は、生命体であることをやめて、真昼という情報になってしまったのだ。

 だから、本来であれば、何も感じないはずであった。死んでいるんだから感じられるはずがない。まあ、魄が崩壊していくにつれて、情報のstreamが霊体となって。いわゆる死者の霊として、ゲトマリア深層に転生することもないわけではない。そうすれば何かを感じることもあるだろうが、今の真昼はそのような状態にあるわけではない。

 何もない真昼が何かを感じるわけがないのだ。でも、だけども、けれども。真昼は、その瞬間に何かを感じた。それは……ああ……そう……邪悪さだった。しかも、単なる邪悪さではない。無限の悪、永遠の悪。真昼などは思いを巡らせることが出来ないほど穢れなき悪。

 そんな邪悪が、流れ込んでくる。何かが、そんな邪悪を、真昼の内側に流し込んできているのだ。邪悪は、まるで、数え切れないほどたくさんの小さな小さな生き物のように。いや、これは……もっと……蛆虫。死体を食い破り、その内側に這い回る蛆虫のようにして。

 真昼は、自分を感じる前に、まずその蛆虫を感じた。その蛆虫が、その邪悪が、真昼の最初の……真昼の最初の……だが、それをなんと呼べばいいのだろう? 真昼自身? 違う。真昼の世界? 違う。感覚でも、統覚でも、欲動でも、意識でもない。本能的な衝動でも、理性的な認識でもない。真昼にとっての、最初の……そう、必然であった。

 必然が、真昼の中に浸透していく。いや、蛆虫がそこに集まって真昼になっていくといった方が正しいかもしれない。そこに何もない形をしている真昼の中で、真昼のふりをしている蛆虫なのだ。だから、この蛆虫が真昼なのだ。今は、もう。今は、まだ。真昼であったものに沿って、蛆虫が、新しく、真昼のことを作り上げていっている。

 甘い。

 甘い。

 くらくらするほど。

 甘い。

 ああ、耐えられない。耐えられないほどの甘さが神経系の全てを震わせている。体中を、恍惚の舌で舐められているようだ。全身に陶酔感が満ちてきて、吐き気がするほどの多幸感が脳髄の全部を腐敗させていくみたいだ。やめて、やめて、これ以上、あたしを幸せにしないで。でも、もっとして。

 蘇る。

 蘇る。

 蘇る?

 どうやら……何かが壊れていたらしい。というか、これはなんだろう。動いているような感じ。ある状態から別の状態になるという過程。それが、そのまま、一つ一つ、そこにある。その全ての過程が完全な形として構成されている。これは……そう、あたしだ。これはあたしだ。真昼は、そこで、初めて気が付く。世界というものを感じている自分の身体のことを。そして、壊れていたのは、その身体だったのだ。

 壊れていた、どうしようもないほどに。二度と治せないほどに壊れてしまって、ああ、それがなくなるということは、あんなにも怖いことだったはずなのに。でも、今では、そのことを思い出せない。これが蘇るということなのだろう。そう、真昼は死んでいたのだ。そして、今、蘇っている。からからと、音を立てて、回転して。パズルボックスが組み立てられていくかのように、真昼は、真昼を、取り戻していく。

 これは手だ。

 これは足だ。

 これは腹。

 これは胸。

 これは心臓。

 心臓が、動いている。

 とくん、とくん、と。

 動いている。

 それに。

 これは。

 顔だ。

 これは耳。

 これは鼻。

 これは目。

 それから。

 これは。

 これは。

 口。

 口? でも、これは、なんだか……ちょっと変な気がする。口の感覚ってこんな感じだったっけ? なんというか、うまく動かない。何かに邪魔されているような、何かに塞がれているような。そう、真昼の口に、何かが触れていた。そして、その何かのせいで、なんだか息苦しいのだ。

 なんだろう。

 なんだろう。

 何かが。

 あたしという。

 現象から。

 はら。

 はら。

 と。

 剥がれて。

 いく。

 みたい。

 に。

 それを。

 感覚。

 する。

 それは冷たかった。とてもとても冷たかった。けれども、それは、どちらかといえば、何かを拒否・否定するところの冷たさではないようだった。閉ざすのではない、それどころか、包み込むのだ。生き物を飲み込む氷河のようなもの。真昼の全身を、少しずつ少しずつ侵食していって。やがては、その中に……綺麗な、綺麗な、緑色の結晶体の中に閉じ込めてしまう。

 押し当てられているというわけではない。真昼の唇を、柔らかい羽根の感触がなぞるように。真昼の唇を、ふわふわとした雲の感触が撫でるように。それは、とても優しく、真昼の唇に口づけを落としていた。口づけ……口づけ? そう、間違いない。これはkissだ。

 真昼は、つまり、現在進行形でkissingされているのである。しかもそれだけではない。その薄く開いた唇の上に、この冷たい口を重ねて……真昼の口腔には、あたかも無理やり犯されるかのようにして何かが注がれていた。口移しで、何かを、飲み込ませられている。

 真昼は、それを受け入れないということが出来なかった。その何かを、全身が、勝手に受け入れてしまうのである。真昼の意思とは全く別の何かによって操作されている口が、喉が、食道が、胃の腑が。肉体だけではなく、恐らくは真昼という情報の根底から、その何かを受け入れてしまっている。

 それは、例えば唾液のようなものではない。あるいは、他のいかなる生物的な体液でもない。というか、これは、違う、そうじゃない。違うんだ、違うんだ、全然違う。そうではなくて……これは、外側から内側に入り込んでいるわけではない。ああ、そうだ、これは、あたしという誰かを作り上げている。

 それが流し込まれてきた、真昼のその場所から。真昼という真昼が構成されていく。それが流し込まれたところから真昼は真昼になっていく。だから、それは外側ではない。なぜって、それがなければ真昼ではないのだから。けれども内側でもない。それはそもそも真昼であるというわけではないのだから。

 ああ。

 これは。

 すごく。

 すごく。

 甘い。

 どうしようもない呪いが。

 解けていくみたいに。

 ねえ。

 これは。

 甘過ぎるよ。

 真昼の肉体の全てが舌になって、舌と舌とを絡め合わせているみたいだった。猛毒で出来たお菓子。パンナコッタ、セミフレッド、ティラミス、ドルチェ。アフォガート、アフォガート、痺れるように甘いコーヒー・リキュールの中で溺れている、ピスタチオのジェラート。真昼の肉体であるところの細胞の一つ一つに、その口が、口づけを落としているみたいだ。

 そうして、そのようにして……真昼が、いや、真昼の世界が。真昼の内側に再構成されていく。真昼を真昼としてこの世界に繋ぎ止めていた結索が、その口づけによって再構成されていくことによって。結局は、そこにそれがある限りそれはそれとしてあり続けるのだ。そうだとするならば、真昼にそれを否定することは出来ない。それは、真だ。

 意味が。

 意味が。

 意味がない。

 だから。

 どうした?

 アラリリハ! 主よ、主よ、あらゆるものの上に幸いを。意味があるものにも、意味がないものにも。ああ、それは、なぜなら、祝福だからだ。必然的な祝福だからである。まるで……あたかも……糸玉が転がっていって、その糸が、徐々に、徐々に、ほどけていくかのように。どうしようもない呪いが解けていく。

 世界が、そう、世界が。真昼の中にある。これ以上ないというほど明確に。自分自身などというものよりも、ずっとずっと明確に。人間は人間の力によって人間を助けることは出来ない! それは真理だ! だとするならば、自分自身を自分自身の力で助けることが出来るはずがない。自らは灯明にならない。自らは孤島ではない。ああ、真昼! お前は必然を否定出来ない! お前は、お前が助かるという必然を否定出来ない!

 さあ!

 真昼!

 目覚めろ!

 お前は!

 確かに!

 ここに!

 いる!

 とろとろとした、溶けた砂糖のように甘ったるい目覚めの感覚。真昼ではなかったところの真昼のことを食い尽くして、その代わりに、真昼の肉体を構成している粒子として、本当の真昼を真昼の内側に紡ぎあげていく寄生虫が……震える、みたいな、口づけに、よって、流し込まれていく。そんな感覚が、次第次第に途切れていく。壊れていた真昼が……一つの出来損ないの人形であるかのようにして、また、元通り、生きているという感覚に必要な何もかもを取り戻していって。

 そうして。

 それで。

 真昼は。

 その。

 目を。

 開く。

 そうして開いた目の先に、本当にすぐ先、一ハーフディギトも離れていないところに、何かがあった。ああ、これは、たぶん、あたしに口づけをしている誰かの顔だろう。とてもとても、甘い口づけ。あたしでなければいけないあたしのことをあたしの中に流し込んでくれた口づけ。

 それは……可愛らしい少年の顔だった。少なくとも、そう見える顔だった。まだあどけない造作をしていて、恐らくは高校生くらい、真昼と同じ年齢くらいに見える。誰もいない早朝の教会のように清純で、生まれてから一度も罪を犯したことがない被造物であるかのように無邪気で。

 でも、その顔を、はっきりと見ることは出来なかった。なんだか薄暗いような気がするのだ。そのうちに、真昼は、気が付いた。その顔が、その少年が、フードをかぶっているということに。もう終わってしまった讃美歌の残響みたいにして、ゆらゆらと揺れている、緑色のフード。

 ああ、このフードのせいで暗がりになってしまっているんだ。真昼は、上の方を向いていて。その顔は下の方を向いている。フードは、二人に覆いかぶさるような影を作っているのだ。

 真昼が、ぼんやりと、そんなことを考えているうちに。いつの間にか、口づけによって何かを流し込まれていているという感覚が終わった。あの、甘い、甘い、蛆虫のような何か。もう真昼の中に注ぎ終えたらしい。そして、真昼も、その最後の一滴まで飲み込み終えて。

 その瞬間に。

 目の前の顔。

 ぱっと。

 両目を。

 開けた。

 ああ、これは、一体。なんてぴかぴかしているんだろう。まるでその中に一つの世界があるみたいだ。その世界には、憎悪も嫌悪もない。苦痛もなければ絶望もない。そこにあるのは、ただただ幸福であるという喜びだけ……そう、この眼球の中にある世界は、楽園と呼ばれているのだ。楽園、楽園、緑色の楽園。冷たい緑色をしていて、どこまでもどこまでも安らぎに満ちた楽園。

 緑の目。

 緑の目。

 二つの目が。

 真昼のことを。

 見つめていて。

 でも、ちょっと、なんだか……真昼は、それを見たことがあるような気がした。その楽園を。というか、その目を。二つの目は、真昼にとって、ひどく馴染み深いものであるような気がした。まるで子供部屋においてあったベッドみたいに、まるで一番大好きだったぬいぐるみみたいに。それを見ていると、なんだか安心する。しかも、心の底から。

 なんだっけ。これは何だっけ。いや、違う。この目を持っている誰かって、誰だっけ。真昼がよく知っている誰かであるような気がする。まるで自分のことのように。真昼にとって、その誰かは、真昼自身よりも真昼であるみたいな誰かで。

 と。

 その瞬間に。

 ようやく真昼は思い出す。

 ああ、これは、この男は。

 デナム・フーツ。

 と、いきなり、現実が完全にクリアになった。脳味噌の中に埋め込まれていた時限爆弾が突然爆発したかのように、全ての物事がはっきりとした。今、自分が、どのような状況に置かれているのか。つまり、あたしは、デナム・フーツにキスされてる。

 は? いや、なんで? いや、いや、マジで意味分かんないんだけど。ちょっと、待って待って、いったん全部ストップして。なんもかんもがぶっ飛んでしまった頭の中で、そんなことを考える真昼。しかし残念! 現実はそう簡単には止まらないのだ。

 真昼の、うっすらと開いた唇。そこに口づけをしているデニーの姿は、ぱっと消えてしまったりはしない。相変わらず、真昼は、デニーに口づけをされ続けている。

 な……こいつ……やめろ、やめろよ! やめろって! 真昼はじたばたと暴れ始める。けれども、なんだか知らないのだが、全身に上手く力が入らない。なんというか、頭で考えていることと体の動きとが上手く接続し切れていないような感じだ。

 動くことは動くのだが、全力を出せるというわけではない。なので、上から覆いかぶさるみたいにして抱き締めているデニーのことを押しやるだけの力を出せないのだ。とはいえ、体を動かせば動かすほどに接続が上手くいってきた感じはあった。なんとなく、しっかりと、体が動かせるようになってきている。

 しかしながら、真昼が、デニーのことを押しやることが出来るだけの力を取り戻す前に。その前にデニーが行動を起こした。デニーの胸の辺りを両手でどんどんと叩いている真昼。塞がれた口でんむーんむーと唸っている真昼。そんな真昼のことを見て、デニーの目が、きゅぴーんと輝いたのだ。

 それから、覆いかぶさっていた上半身を俄かに起こす。口を塞いでいたデニーも、口を塞がれていた真昼も。よーやっとのこと口で息が出来るようになって、ほとんど同時に、ぷはっという音を立てる。その音がまたなんだか恥ずかしくて恥ずかしくて、真昼は恥ずかしくなってしまう。

 とはいえデニーは真昼のそんな羞恥など知ったこっちゃないのであって。とーってもすっごーい喜びに、きらきらと目を輝かせたままで、真昼に向かって声を掛ける「わあ、真昼ちゃん!」「良かった!」「目が覚めたんだね!」。

 「取り敢えず、復魂執魄のうちの執魄の方は成功したみたいだねっ!」「あ、と、は、復魂の方だけどお……まあ、いいや! そっちは後で考えよーっと」「とにかく、良かった良かった! 本当に良かったよー、真昼ちゃん!」「んもー、デニーちゃんてば、すっごくすっごく心配したんだよっ!」「真昼ちゃんてば、かーってに死んじゃうから」。

 そんなことをぴーちくぱーちく喋くり倒しているデニーであったが……それらの言葉は、真昼の耳には一切合切入っていなかった。それどころの真昼ちゃんではなかったのだ。その顔は、見る見るうちに真っ赤になっていく。片側の頸動脈が切断されている上に体内のほとんどの血液を失っているというこんな状況で。よくもまあこれほどかっか出来るものだと感心してしまうくらいに、耳の先っぽまで赤く染まる。

 真昼の口が。

 ふるふると。

 震えながら、開く。

「ば、ば……」

「ば?」

「ばかやろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉっ!」

 見事に決まった!

 アッパーカット!

 しかも、それはただの下顎部下方突撃ではなかった。なんと左腕によって放たれたものだったのだ。読者の皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。真昼の左腕が、一体なんであるのかということを。漆の什器、烏の尾羽、そのような暗黒によって塗り潰された藤の入れ墨。そう、重藤の弓だ。それを更にパンダーラが強化したもの。その記号の力によって、真昼の左腕はセミフォルテアさえも纏わりつかせることが出来るようになっている。

 もちろん、本来は、それは矢を放つための弓として使用されるべきものなのであって。通常の打撃に役に立つものではないはずなのだが。とはいえ、アウトレイジ真昼ちゃんの烈火のごとく怒っていますパワーにとってそんなことは関係皆無であることだった。その怒りは記号が定義している本来の意味を捻じ曲げて。耐えることが出来る限りの魔学的エネルギーを、その左手に、あたかもパンチンググローブのように纏わりつかせたのだ。

 これはほとんど、というか、完全に神力体術の方法である。第一次神人間大戦時にノスフェラトゥが完成させたといわれる近接格闘術。それは、デウス種の生命体との戦闘さえも考慮に入れたものであって。まあ、簡単にいえばセミフォルテアを肉体に纏わせて戦うということなのだが……とにかく、それほど強力な一撃であったということである。

 さしものデニーちゃんであっても、こんな力でぶん殴られてしまっては、その上、クリティカルヒットな直撃であったとしてみれば、それはもうオーライ・オーライ・モーマンタイとはいいがたいのである。それどころか「わきゃうっ!」という信じられないほど可愛い悲鳴を上げながら吹っ飛ばされて。高く、高く、具体的な数字を挙げれば五ダブルキュビトくらいの高さまで、上空に向かって舞い上がったのであった。

 まさか。

 まさか。

 あの「民のいない王」が。

 たかが人間に。

 ぶん殴られて。

 宙を舞うことになるとは!

 一方の真昼ちゃんであるが。デニーのことを(文字通り)殴り飛ばした時の勢いもそのままに、既に、自らの二本の足によってしっかりと大地の上に立ち上がっていた。まあ、そもそもデニーの腕の中に抱かれていたのだから、デニーがああなってしまった以上は自分で立つしかないのだが。

 なんにしても、どん引きするほどに血まみれの丁字シャツとどん引きするほどに血まみれのジーンズとに包み込まれた肉体。ぜはー、ぜはー、と怒りのあまり荒くなってしまった呼吸(気管が真っ二つなのにどうやって呼吸してるの??)、肩を上げ下げして息をしながら。ひゅるるるるーっという感じの、なんだか滑稽な風切音を立てて落下してくるデニーのことを見上げている。

 ずどべしゃーっ! 豪快な激突音とともに岩肌にぶち当たったデニーであったが。人間ならば致命傷であったとしても、このくらいのことでダメージを負うデニーちゃんではないのである。それどころか、その直後に、むくりしぱっと顔を上げて。真昼に向かって「あっ、真昼ちゃん!」と叫ぶ。

 「駄目だよ! まだ立っちゃ危ないよ!」。デニーの忠告は誠に当を得たものであって、真昼は是非聞き入れるべきであったが。残念なことに今の真昼にはそれほどの素直さはなかった。デニーの言葉、「っるせー!」の一言でぶった切ると。右手の人差し指で、ずびしっとデニーのことを指差す。

「お前な、お前なーっ!!」

「ほえほえ?」

「な、な、な、なんでこんなことしたんだよ!!」

「こんなことって、真昼ちゃんにちゅってしたこと?」

「はっきり言うんじゃねーよ、馬鹿!!」

「だって、そうするしかなかったんだよお。」

「お、お、お前! していいことと悪いことがあるんだよ!!」

 まあ、今までデニーがしてきたことに比べれば、キスの一つや二つくらい全然してもいいことだと思うが。とはいえ、真昼の主観からすると、そうもいい切れない部分もあるのである。それはどういうことかというと……いや、これ、いって良いことなのか悪いことなのか……プライバシーの問題もあるし……それに乙女のプライドとかも関係してくるので……えーっとですね、どういうことかというと、要するに、これが真昼のファースト・キスだったということである。

 いやいやいや、そんなわけがない。真昼は、自身の性的な身体と引き換えに、男性に住む場所を提供して貰っていたというのだから。何度も何度も性行為をしてきたわけであって、それならばキスの一つや二つしていなければおかしいはずだ。そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。

 そういう方にはですね、よくよくこの物語の全体を読み直して頂きたいのですけれど。真昼がそういった男達と接吻しなすったとは一言たりとも書いていないのである。そう、キスなどしなくとも性行為は出来るのである。真昼はそういった男達に対して体は許しても唇は許さなかったのだ。

 ええー、そんなことあるのかよ! あるんですねこれが。いや、真昼とて、何かしらのはっきりした意図があってそのような真似をしてきたというわけではない。なんというか、本当になんとなく。なんとなくの上になんとなくを重ねて、更にその上になんとなくを振りかけたようななんとなくさで、ファースト・キスだけはとっておいたのだ。

 いずれ、いつか、いつの日か。その日が来るということを、夢を見るように夢見ていた。真昼の前に運命の人が現れて。(任意のロマンチックな単語を入力して下さい)の(任意のロマンチックな単語を入力して下さい)を(任意のロマンチックな単語を入力して下さい)しながら、初めての口づけを交わすのだ。

 砂流原真昼がそんなことを考えてたの? あの砂流原真昼が? うるせーよ! 誰が何考えてたっていいだろ! 真昼が、こう、こんな性格だからって、ロマンチックなこと考えてちゃいけないのかよ! お前のファミニズム的理想を真昼の個人的な欲望に対して強制するな! と、そんなわけでして。真昼は、ファースト・キスを、大事に大事にとっておいたのである。

 それなのに。

 それなのに。

 ああ、それなのに。

 思わず詠嘆してしまったが、そうしたくなる気持ちもお分かり頂けると思います。まさか、ここまで大切にしてきたファースト・キスが、これほどアレな感じになってしまうなんて。場所はこの世の地獄ともいわれるアーガミパータ。首は中ほどまでざっくりとイっちまっていて、全身血まみれ泥まみれ。しかもなんだかよく分からんうちに、知らんうちに奪われていた唇なのである。これではロマンチックの欠片もない。そして、最低の最低に最悪なのは、その相手がデナム・フーツだったことである!

 そりゃあね、さっきまでの真昼は、なんとなくデニーのことを受け入れているような感じになってましたよ。デニーに対してプラスの感情を持っているような感じになってました。でもね、それは、死にかけていたからです。

 血が回らなくなった、窒息しかけた、死にかけて朦朧とした脳味噌であるところの真昼だったからです。そんな状態ではね、まともに物事を考えられないのであって。とち狂ったことの一つや二つは考えるでしょ、そりゃあ。

 今のように冷静かつ平然の思考を取り戻した真昼にとって、デニーはやっぱりデニーだ。サテライトの言葉を借りるならば「クソ野郎」なのである。特にこれといった理由があるわけではないが、とはいえ気に食わない。精神が、肉体が、真昼の全部が、不定子の一つ一つに至るまでデニーのことを毛嫌いしている。嫌いなものは嫌いなのであり、もう、なんというか、何がなんでも嫌いなのだ。もしも、真昼が……この世界で絶対にキスしたくない人間をたった一人選ぶのだとすれば。間違いなくデニーを選ぶだろう。

 真昼は。

 そんな相手と。

 初めての、キスを。

 してしまったのだ。

 真昼がいかに憤懣やるかたナッシングであるかということがお分かり頂けただろうか。ファースト・キスの味だぁ? 蛆虫の味だよ、クソ野郎! これではもう救いも何もありませんね。ということで、一発ぶん殴ったくらいで怒りが収まるわけもなく。右足でばしばしと地団駄を踏みながら、「大体なーっ! お前なーっ!」と、更に何かを怒鳴り散らそうとした真昼であったのであるが。そこで……ちょっとした事件が起こった。

 真昼の耳の内側で。

 ごぎんっ!

 と。

 いう。

 音が。

 聞こえる。

 その音について……真昼は、なんか変だなと思った。何が変なのかというと、普通の音であれば、耳の外側から聞こえてくるものだ。体内とは別の場所、外界から耳孔へと入り込んでくるはずのものである。それなのに、その音は、文字通り「耳の内側」で聞こえたものだった。というか、なんといえばいいのか……そう、骨伝導だ。頭蓋骨そのものが振動して、その響きが聴神経に直接伝えたかのように聞こえたのだ。

 いや、というか、まさにその通りだ。この音は、骨の音だ。しかも、頭蓋骨にかなり近い位置の骨が出した音である。ただ、そうであるとすれば。ちょっと、なんか、不吉な予感がする。だって、骨がこのような音を鳴らすのは大体……骨が折れてしまったような場合だけだからである。

 でも、真昼は、何か特別なことをしたというわけではないではないか。骨が折れるようなことをしたわけではない、ただ地団駄を踏んだだけである。その程度で骨が折れることなんてあり得る? ないない、普通ならあり得ない。とはいえ、念のため確認しておいた方がいいかもしれない。

 音の感じから考えて脚の骨は関係なさそうだが、とはいえ、真昼が衝撃を加えたのはその部位だ。ということで、真昼は、まずはその部位の具合から見ていくことにした。恐る恐る視線を下ろしていき、自分の脚がどうなっているか見ようとする。

 と。

 突如。

 突然。

 世界の全部が。

 ぐるりと。

 回転する。

 思わず「はっ!?」という頭の悪い声を漏らしてしまう真昼。何が起こったのか分からないのだが、とにかく天空と大地とがその位置を逆転したのだ。上が下になり、下が上になる。「わ、わ、わ、落ちる!」と、なんだかわけの分からない言葉を口走るが、事態はそれで終わらなかった。揺れる、揺れる、逆さまになった世界の全体がシェイカーの中にぶっ込まれたかのように揺れている。どどっと、何もかもが右側にすっ飛んで行って。その後で、今度は左の方にすっ飛んでいく。

 「何、何、何なの!?」と叫び声を上げる口の中で、舌を噛みそうになる。そんな中で、デニーの声が聞こえた。「わあ、真昼ちゃん!」「ダメ、ダメ、そんなにわーわーしちゃダメだよ!」「頭が取れちゃう!」。こいつ、何言ってんだ? 意味分かんねーこと言ってないでなんとかしろよ、っていうか何が起こってんだよ!

 そんなことを考えながら、真昼はじたばたと藻掻く。どう考えても藻掻いてどうにかなる状況ではないが、とはいえ、真っ直ぐに立っていられないのだ。こう世界がゆらんゆらんとしてしまっては、まるで足元がごろごろと転がっているみたいである。

 右によろけて、左によろけて。ただし、真昼の視点から見た世界では、自分がどのようによろけているかということすら分からない。手をわちゃわちゃと動かして、どこかに掴まろうとする。掴まれるものなど何もないが。ぐらぐらと全身の軸が揺れる。

 と、そうこうしているうちに、また何か音がした。今度の音は、さっきとは全く違う音。ぶづんっ!という感じの、何かがちぎれる音だった。そして、その音がするとともに……真昼に向かって大地が墜落してきた。「な、な、だああああっ!」「潰れる!」と、思わず馬鹿みたいなことを叫んでしまう真昼。大地が! 大地が! 真昼めがけて凄まじいスピードで接近してきて!

 それから。

 ぐごんっと。

 音を立てて。

 真昼の頭は。

 岩肌にぶつかる。

 「てっ! てっ! てっ!」と言いながら岩肌の上を転がっていく真昼の視界。この「てっ!」というのはいうまでもなく「痛てぇっ!」という意味の言葉がまともに出てこなかったやつであるが。そうやって、暫く転がってから……やがて、ころんという感じで、その視界の回転も止まる。

 世界がどうなってしまったのか、自分がどうなってしまったのか、そのどちらも分からないままに、真昼はぽかーんと口を開けたままで目の前を見ているのだが。その光景が意味するところがどうもよく分からない。

 真昼は、どうも岩肌の上に横たわっているらしいのだが。感覚がやけにちぐはぐとしている。頭部に関しては問題ない、岩肌の感触を感じているのは左頬だから。見えているものからすれば、真昼は左を下にして横たわっているはずなので、間違ったところはどこにもない。問題なのは胴体部分である。なぜか知らないのだが、胴体の感覚、つまり触覚は、仰向けになっているという情報を伝えてくるのだ。岩肌のごつごつとした感じ、ちょっとした痛みのようなものは、どう考えても背中に接している。そんなの、ただ首を左側に曲げているだけだろうと思うかもしれないが。明らかにそれはあり得ない、なぜなら、そのように首が曲がっているという感覚がないのだ。

 とにかく、先ほどまでとは違って、大地は大地の方向に落ち着いていて天空は天空の方向に落ち着いている、らしい。世界は元通りになっているようだ。それならば、地面の上に立ち上がることも出来るはずだ。

 立ち上がって様子を確かめようとする真昼……だが、その時に、もっともっと奇妙なことが起こった。真昼は、取り敢えず岩肌の上に手をついて上半身を起こそうとしたのだが。視界が全然変わらないのである。

 そんなの、ただ起き上がるのに失敗しただけだろうと思われるかもしれないが。真昼の胴体の感覚からすれば、完全に、絶対に、上半身を起こせているはずなのだ。肩から腰にかけて、直立しているはずなのだ。

 それなのに、視界は変わらない。というか、頭が動いたという感覚が全くない。一体、これは、何が起こっているのか? あまりにも訳が分からないことが起こっているせいで、真昼が軽く恐慌をきたしかけていると……その時、デニーの声がする。

 「はわわ、真昼ちゃん!」「大丈夫!?」。上の方から聞こえてくるその声に耳を傾けていると急に頭部を掴まれた。何に? 誰に? いや、恐らくデニーなのだろうが、今の真昼にそのようなまともな考えが浮かんでくるはずもなかった。とにかく何も分からない、全ての思考は疑問形になってしまう。

 そのような、いっぱいいっぱいの状態であるのに。更に更におかしなことが続く。なんと、真昼の頭部は、ひょいんっという感じで持ち上げられてしまったのである。しかも、胴体部分は一緒ではない。頭部だけが持ち上げられたのだ。「何、何、何なの!?」、あまりの出来事に絶叫してしまう真昼。

 頭部がリフト・アップしていき、ある程度の高さまで上がると、今度は、両方の手のひらの中でくるんと回転させられた。それまでは左を下にした状態だったのだが、まともな姿勢に戻されたのだ。つまり、上を上に、下を下に、そういう状態。ようやく真昼の視界の中で世界がありうべき方向性を取り戻して……そして、そこには、デニーの顔があった。

 デニーにしては珍しいことなのだが、大分慌てているらしいということが分かる。口が開きっぱなしになっていて、はわはわとしているからだ。まあ、それはそれでいいのだが、問題なのは、今の真昼がデニーの目を直接覗き込む形になっているということだ。ということは、真昼の目も、やはり、デニーによって覗き込まれているということであって。

 普段の二人の関係性のままであっても不愉快マックススタンピード状況であるが、タイミングもタイミングだ。つい先ほど……あーっと……ほら……あれですよ……キッスをぶちかました直後なのである。こんな距離で見つめ合うというのは、ちょっとしたちょっとするちょっとのことである。ぷしゅーっとでも湯気を出しそうに顔が熱くなってしまう真昼(だからどうやって!?)。近い、近い、顔が近い!

 「お前、離せ、離せよ!」と叫びながら、デニーの体を押しやろうとするのだが。奇妙なことに、何をどうしても、手のひらに何も触れてこないのだ。確かに、デニーは目の前に立っているはずなのに。確かに、真昼はぐいぐいと腕を押し出しているはずなのに。まるで何もない空間を押しているみたいだ。

 と、真昼、は。

 それに気付く。

 デニーの背後、ちょっと離れたところで何かが動いている。その何かについて、さっきまで全然気が付かなかった。そこにあることはあったのだが、さして目を引かなかったのだ。なぜというに、それはアーガミパータでは当たり前のようにそこら辺に落ちているものであって、要するに死体であったのだ。全身が血にまみれていて頭がない。首は、いかにも惨たらしいやり方で切断されていて。一目で生きていないだろうと分かる。

 ただ、奇妙なところはあった。なぜか知らないけど上半身が起き上がっていたのだ。岩肌の上に座り込んだ形だったのである。とはいえ、まあ、そこまで変というわけではない。座ったまま頭を切り飛ばされたか何かしたのだろう。

 無意識のうちにそう思っていたらしく、真昼は、その死体のこと、そこら辺の石ころだとかなんだとかのように無視していたのだが……今、それが、急に動き出したのだ。両腕を前方に突き出して何かを向こうに押しやろうとしているらしい。ぐいぐいと、けれどもその死体の前には何もないので、なんだか滑稽で無様だ。

 いや、それだけなら、真昼もさして気にしない。死体が動くなんてアーガミパータではよくあることだし、何よりかにより、ここにはデニーがいるのである。デニーは死霊学者であり、またなんかよく分かんないけど暇潰しに生き返らせたか何かしたのだろう。その程度である。

 問題なのは、その動きに、ぞっとするような既視感があったということだ。それがなんなのか最初は分からなかった。だが、やがて分かってくる。薄気味の悪い白い霧が晴れていくかのように判明になってくる。そんな……いや、でも……間違いない。あれは、あたしの動きだ。

 真昼がデニーのことを押しやろうとする、まさにその動きだったのである。真昼は「え?」と言う。その拍子に腕の動きも止めてしまったのだが、すると、あの死体が腕を動かすその動きも止まる。ああ、しかも、しかも! 一目見ただけでは血まみれ過ぎて判別出来なかったのだけど。その死体が着ている服装は……丁字シャツにジーンズに……真昼の服装そのものだったのだ。

 「何、あれ?」と、ぽつり呟いてしまった真昼の声。それに反応して、真昼の視線の方向、「ほえ?」と言いながらデニーが振り返った。「何って、真昼ちゃんのお体だよ」「あた、あた、あたしの?」「うん、そーだよ」。また真昼の方を、というか真昼の頭部の方を向いて、可愛らしい笑顔でにぱっとするデニー。「あんた、何言ってんの」「あたしの体は、ちゃんとここに……」。

 「ないよー」と言いながら、デニーは、真昼の頭部、またくるんと回転させた。それによって真昼は、首から下を、つまり胴体がなければいけないはずの空間を見ることになったのだが。そこには何もなかった、ただただ空っぽの空間があるだけだった。

 「は……はあっ!?」、クソ間抜けな声を上げて叫んでしまう真昼。「何、何、何なの!? 一体あたしどうしちゃったの!?」「見た通りだよ、頭が取れちゃったの!」。まあ、それはその通りなんですが、もうちょっと言い方なかったのかね。

 ちなみに。

 読者の皆さんの。

 ご想像の、通り。

 先ほどの「ごぎんっ!」という音は、要するに真昼の背骨が完全に折れてしまった音であって。「ぶづんっ!」というのは、辛うじて真昼の頭部を胴体部分と結び付けていた筋肉だとか皮膚だとかが、まとめてちぎれてしまった音であった。ただでさえ、あんな感じの有様であったのに。あんな風にじたばたと暴れ回ってしまっては、こうならないわけがないのである。

 斯うと。

 そういうことが。

 分からない真昼。

 明らかに。

 取り乱していて。

 「取れ、取れ、取れたって!」「んもー、だから言ったでしょー! あんまりわーわーすると、頭が取れちゃいますよーって」。そう言いながら、デニーは真昼の頭部を、またくるっと回転させた。今度はデニーが向いている方向と同じ方向、つまりデニーから見て前方を向かせる。

 それから、デニーは歩き始めた。真昼の胴体がある方に向かって。「でも、でも、だったらなんで……」「ほえ?」「だったらなんで、あたしは生きてるんだよ」「生きてないよ」「は?」「真昼ちゃん、もう死んじゃったよ」。

 あまりにも現実味がなかった。アーガミパータに来てからの丸三日間、その一秒一秒ごとに現実味がなかったが。これはそれに輪をかけて現実味がない。というか、今までの現実味のなさは、真昼の外側で起こっていたことであった。真昼が、いわば他人事として見ている世界の現実味がなかったのだ。けれども、今回のこれは、真昼がその当事者として現実味がなかった。まさに、真昼の身体性について現実味がないのだ。

 「それ、どういうこと?」、あまりにもあまりのことが起こりすぎて逆に冷静になってしまった真昼が問い掛ける。それに対して、デニーは「んー、そのことは後で説明するね!」と答える。

 そんなこんなしているうちに、二人は真昼の胴体があるところまでやって来ていた。真昼の胴体は、でろーんと脚を延ばして、ぺたっと座り込んで。なんだか呆然としているみたいに見えた。

 「真昼ちゃん」「なに」「横になって」「横になるって……どうやって?」「えー? どうやってって、こんな感じだよ」。そう言いながら、デニーは、その場に仰向けに横たわった。真昼の頭を抱えながらだったので、真昼は、ちょうど真上にある空を向く形になって。どこまでもどこまでも青く光り輝いている空、透き通ってこちらを馬鹿にしているような青空を見ているうちに、なんだか全てがどうでもよくなってきてしまった。

 真昼が聞きたかったのはそういうことではなく、頭と胴体とが離れた状態で一体どうすれば胴体を動かせるのかということだったが。あーだこーだ言ってないでやってみることにした。慎重に慎重に、上半身を倒していく。「そー、そー、そーいう感じだよ!」と言いながら、デニーが起き上がった。すると、ちゃんと仰向けになった自分の胴体が目に入った。一体どういうシステムなのか気になったが、考えないことにする。

 デニーは、真昼の頭部を持ったままで立ち上がると、そうして横になった胴体部分、その枕元ともいえる位置に立った。当然ながらここには枕などなく、そもそも枕に乗せる頭さえその胴体にはついていなかったのだが。とにかく、デニーは、そこに立つと、ぴょこんという感じでしゃがみ込んだ。

 持っていた真昼の頭。

 ふわりとそこに置く。

 そこというのはその頭があるべき場所ということで、それは胴体から先のところ、首から先のところだ。仰向けになるように、表情を上になるようにして置く。真昼自身は、置かれる時に、また世界がふらりふらふらひゅーすとんとなったので。なんとなく目の前がくるくるとしてしまう。

 それから、デニーの左手が真昼の左頬に触れて、デニーの右手が真昼の右頬に触れて。とてもとても繊細な手つきで、あのデニーがこんなに微妙・緻密なことが出来るのかと思ってしまうような優しい優しいこまやかさによって、その頭の位置を調整し始めた。頭の側の切断面と胴体の側の切断面と、そっと合わせている。血管は同じ血管に、筋肉は同じ筋肉に、神経は同じ神経に。それに、もちろん、脊髄は脊髄に当たるように。

 ちゃんと、間違いなくぴったりとすると。デニーは満足そうに「べりー、ぐーっど!」と独り言を言った。「あんた、何してんの?」「じーっとしててね、真昼ちゃん」。何も答えになってないが言いたいことはなんとなく伝わってきた。真昼の表情を、枕元から、ぐーっと覗き込んでくる。にへーっと笑ってから「動くとへんなふーになっちゃうからね」と付け加える。そして、デニーは……真昼の方に向かって手を伸ばしてくる。

 右手だ。手のひらは開いていた。真っ直ぐに伸ばされた指。人差指と中指と薬指と小指。それが真昼の首元に触れる。文字通りに血も涙もない昆虫の指先のような冷たさに、ちょっとびっくりして「あっ」と言ってしまう真昼。けれども、デニーに言われた通り、動かないように気を付けている。

 「治れ治れ、すっごく良くなれー」と、人を馬鹿にしているのかと思ってしまいそうになることを言いながら。デニーの指先は、ざっくりと開いている傷口、しゅびしゅびーっという感じでなぞっていく。すると……なんとデニーが触れたところから見る見るうちに傷口が塞がっていくではないか!

 首の右側から。

 首の左側へと。

 なんとなく、くすぐったい。

 なんとなく、痺れるような。

 性的な。

 愛撫にも。

 似ている。

 指先。

 それが、真昼の首をなぞり終わると。あれほどじくじくと、あれほどぎざぎざと、ずばりざっくり切り開かれていたはずの傷口。皮膚は捻じれて筋肉は爛れて、砕けた骨の欠片が突き刺さって。まともにこの傷口を塞ぐのは、どんな医者だって不可能だろうと思ってしまったような傷口。ほぼ跡形もなく消えてしまっていた。もちろん、その傷口の内側も完全に治癒していて。

 残っていたのは……そう、ちょっとした筋のようなものだけだった。何か、赤くて、赤くて、赤い傷跡。真昼が今まで見てきた全部全部の悪夢が、たらたらと染み出してきたかのような、そんな赤色をした傷口。それが、真昼の首の周囲をぐるっと一周していて。なんとはなしに首輪か何かのように見えないこともない。甘く、甘く、致死量の毒に沈んでいくような隷属の象徴。

 ほら、ね? いったでしょう? 物理的な傷はどうとでも出来るんですよ。デニーちゃんはとーっても賢いから。ちなみに、これは治癒学というよりも、死霊学のエンバーミングの魔法であったが。それはそれとして、少なくとも肉体の面では真昼は元通りになったというわけだ。

 真昼は人間なので。

 自分の首筋を見ることは出来ないが。

 とはいえ、その肉体の感覚が。

 何が起こったのかということ。

 伝えてくる。

「もう、動いてもいい?」

「うん、だいじょーぶだよ。」

 岩肌の上に両手をついて、恐る恐る、もう一度、上半身を起こしてみる。今度は……その動きとともにちゃんと視界も変わっていった。腰の角度と比例して、真昼の見ている光景も青空の下へ下へと移り変わっていって。最終的に地平線を遮るみたいにして横たわっている岩山が見えてくる。つまり、なんの問題もなく上半身を起こし終えたということだ。

 右の手を、そっと首筋のところまで持ってくる。小指と薬指とを曲げて、中指と人差指とを伸ばして、親指を少しだけ撓めたような手つき、その中指で傷口があったはずの場所に触れてみる。大体、右の頸動脈がある辺りだ。

 真昼の中指が、あの首輪に触れる。皮膚がほんの少しだけ盛り上がっている気がする、蜘蛛の糸と茨の針とで縫い合わせたみたいだ。その盛り上がりを、一度、二度、三度、指の腹でこすってから。それから、左の頸動脈に向かって、その指の腹を進めていく。首は……繋がっているようだ。少なくとも、少し触ったからといって頭が落ちてしまうことはない。

 そんな風にして、いかにもおっかなびっくりという感じで自分の首のことを確かめている真昼を見ていて。デニーは、なんとなくうずうずとしているようだった。子猫が、目の前でいったりきたりしている鼠のおもちゃを見ているみたいな表情をして。暫くの間は我慢していたようだったのだが……やがて、とうとう耐えられなくなったらしい。

 なんの前触れもなく、出し抜けに、大きな声で「わっ!」と言った。両方の腕、ぱぱーんという感じで広げて。真昼に向かって、可愛らしい小動物が威嚇するようにして叫んだのだ。

 これはもうね、真昼ちゃん驚愕ですよ。何が起こったのか分からず。同じように「わっ!」と叫んでしまいながら。慌てて、両方の手のひらで、首が落ちてしまわないように支える。

 そんな真昼を見て、デニーはいかにも面白そうにけらけらと笑った。両方の手、ぱひぱひと間の抜けた音を立てて打ち合わせながら。「あははははっ! 真昼ちゃん、真昼ちゃん、だいじょーぶだよー!」と言う。「そーんなに心配しなくったって、だいじょーぶ! こーんなに賢いデニーちゃんがくっつけたんだから、そんなに簡単に落ちたりしないよー!」。

 そのまま、しゃがんでいた姿勢から、後ろ向きにこてんと転がってしまった。ぎゅっと自分の体を抱き締めるようにお腹を抱えながら、爽やかで軽やかで、吹き抜ける春のそよ風みたいな笑い方で笑い続ける。

 いうまでもなく真昼は気を悪くしたが、というよりもこいつぶっ殺してぇなと思ったが。とはいえ、デニーの言っていることももっともな話だった。今まで一度も首を真っ二つに切断されたことがなかったからといって、ちょっと神経質になり過ぎたかもしれない。デニーが大丈夫だと言っている以上、大丈夫ではないわけがなく。こんな風に、臆病を曝け出して、首が繋がってるかどうかを確認するというのは。ケアフリーというのを通り越してスチューピッドリーだ。

 なんとなく恥ずかしい気持ちになって、独り言のように「死ね」と呟いてしまう。それからその場に座り直す。まっすぐに伸ばしていた両脚を、粗暴なやり方で折り曲げて組み合わせて。胡坐をかいたということだ。

 いつまでも。

 いつまでも。

 笑っている。

 デニーに。

 ちょっと。

 イライラした口調で。

 こう、言葉する。

「ねえ。」

「ふあ?」

 デニーは、気の抜けた声を上げて、ようやく笑うのをやめた。ちょっと涙が出てしまっている目(デニーは基本的に血も涙もないがこういう時は涙が出るのだ)、手の甲でぐしぐしとこすりながら。ひょこん、と起き上がる。真昼のすぐ横に、俗にいう女の子座りで座る形になる。

「なあに、真昼ちゃん。」

「あんた、あたしが死んだって言ったよね。」

「うん、そーだね。」

「首がくっついたってことは、あたし、生き返ったの。」

「んーん、まだ死んでるよ。」

 人様の生き死にについて随分とまあさらりと言ってくれるもんだね。とはいえ、真昼の質問もなんだか頭が悪い感じがする質問であった。首が繋がっているかどうかで生きるか死ぬかが決まるわけもあるまい、世の摂理とはお前の頭ほど単純ではないのである。

「あたし……なんで死んだの。」

「ええー!? 真昼ちゃん、覚えてないの!?」

「覚えてないから聞いてるんだけど。」

「サテちゃんに殺されたんだよ!」

 両腕をなんだかじたばたとさせながら、デニーはそう答えた。大きくぐるぐると動かした腕で、二つの円を描いた後で。手のひらで、自分の首筋をぽひぽひと叩きながら「こう、こんな感じ!」「ずぱーって、首を切られちゃって!」と言っている。

 どうやらあたしはサテライトに殺されたようだ、ただ、そのことについてのはっきりした記憶がない。なんだか、薄いミルク色の泥土の中に沈んだアルバムをめくっているみたいな感じだ。まあ、とはいえ……デニーにこれ以上聞いても、たぶんわけ分かんない答えしか返ってこないと思うし、そうやって聞き出した答えと答えとを結び付けて真実に辿り着くには大分と時間がかかるはずなので、仕方なく自分で思い出すことにする。

 今までの。

 全ての記憶。

 なんとなく。

 曖昧で。

 たぶん、死んだ時に、一回全部がリセットされてしまったのだろう。それでも、ミルク色の泥土を掻き混ぜて、掻き混ぜて、そうして浮かび上がってくるものもある。

 まず、基本的な情報であるが、あたしは砂流原真昼だ。おいおいそこからかよと思うかもしれないが、それは死んだことがない人間の思うことである。死んでしまうと、本当に、何もかもが、ぱっと消えてしまうので。それを取り戻すには、一つ一つやっていくしかないのだ。

 砂流原真昼として生まれた。父は砂流原静一郎、いわゆる死の商人だ。母は砂流原正子で精神病院で自殺した。いやいや……ちょっと待って? あたし、こんなテンプレート的な人生送ってたっけ? こんな家族構成、なんか出来が悪い小説みたいだ。死んでしまう前は、こういう人生について、何か色々と悩んでたみたいだけど。一度死んで、それから客観的に見てみると、悩むとかなんだとかよりもまず馬鹿馬鹿しさが込み上げてくる。

 それで、えーと、父親がしている仕事、これはディープネットというSKILL兵器専門の軍需企業での仕事だが。そのディープネットに恨みを持つスペキエース・テロリストに誘拐されてアーガミパータにやってきた。アーガミパータというのはいわゆる紛争地帯で、テロリストはそこに潜伏しているのだ。まあ、そうだろうね。テロリストは紛争地帯に身を隠すものです。

 何か、あたしには分からない取引に利用するために誘拐されたらしいのだが。そんなあたしのことを助けに来たやつがいた。それが、今、目の前にいるこいつ。デナム・フーツだ。こいつは国際的なギャングの幹部の一人で、やはり静一郎との取引のためにあたしのことを救出したらしい。

 えー? この記憶、本当のものなの? こんな安っぽいパルプ・フィクションみたいなのが? あたしの人生だったってわけ? 勘弁してよ、そりゃあ、これを自分のものとして生きてた時は、結構深刻な気持ちにもなったみたいだけど。こうやって、まるで他人のものみたいにして見てみると、よくもまあ真面目な顔をして生きていられたものだと思う。こんな人生生きてたら、あたしだったら笑っちゃうね。あんまりにありきたりで、あんまりに月並みで、冷めきったスープみたいにドラマティックだ。くっだらない。いや、あたしの人生なんだけどさ。

 それで、あたしは。

 どうして死んだんだっけ。

 アーガミパータに、来てから。

 今まで起こったことについて。

 集中して思い出してみる。

 確か……あたし、とんでもないことしちゃったんだ。取り返しがつかないくらいとんでもないこと。でも、なんだっけ。ああ、そう。そうだ。あたし、一つの国を滅ぼしちゃったんだ。正確にいえば国だったもの。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの人達、シータ・ゴーヴィンデーサと呼ばれていた魔王国の末裔だった人達。あたしがわがままをいったせいで、その人達は、ASKによって滅ぼされてしまって。

 ああ、それから、パンダーラ、パンダーラさん。あの人も死んでしまった。もちろん、あたしのせいで。殺したのはあたしじゃないけれど、あたしが殺したようなものだ。あの人は良い人だった。すごくすごく良い人だった。死ぬべき人じゃなかった。でも、死んでしまった。

 その記憶は、あたしにとって、忌まわしいものだった、はずだった。思い出したくもないこと、思い出すたびに心臓がぎりぎりと握り潰されてしまいそうになること。でも、今となっては……この記憶さえもなんだか軽々しい他人事だった。

 そんな風に考えてはいけないということは分かってる。でも、どんなに真剣に考えようとしても。するすると手のひらの中から逃げていってしまうのだ。自分のこと、自分に起こったこととして考えられない。そういう客観的な事実の一つ。

 それに、もう一つ、そのように考えてはいけないはずなのに、そのように考えてしまうことがあった。それは、マラー、マラー、ああ、マラー。もう一人のあたし、あたしをホモ・サケルにしたフヌス・イマギナリウム。あたしは……全てを懸けて、あの少女のことを守ろうとした。そして、それと同じ少女のことを、あんなにあっさりと捨てた。それは罪ではなく、どちらかといえば法律の外側にある行為だった。というか、例外だ。主権によって例外化された行為。もちろんだ、あたしはその瞬間に間違いなくホモ・サケルだったのだから。

 あたしのための似像。あたしのための葬儀。真昼の等身像がアポ・メカネス・セオスに捧げられることによって……初めて真昼は「殺害可能」になったのだ。真昼は聖なる生き物であった、捧げられた生き物であった。だが、そのようにして奉献された生を。マラーが、その肉体によって死ぬことによって。真昼は、何ものでもない剥き出しの生き物となったのだ。意味の外側に締め出された生命体。それは、ただただ、純粋に、生きるに値しない生命体ということだ。

 そう、マラーは、真昼のために死んだ。それか、真昼によって見捨てられることによって死んだと表現しても構わない。どちらの表現であれ意味するところは変わらない、一番裏切ってはいけないものを真昼は裏切ったのだということだ。自分自身を。ずっとずっと助けたかった自分自身を。

 その自分自身が助けを求めているかということは関係がない。問題なのは助けなかったということ、それ自体なのだ。しかも、それが、選択の余地がない必然性であったということ。真昼が真昼である限り、助けることが出来なかった……自分自身を、マラーを。透明な箱に閉じ込められて。

 それは、真昼にとって、一つの破滅であるはずだった。マラーを殺したということ、許されてはいけないこと。許す許さない以前の問題として、それは絶対的な予定説のようなものだった。創造された瞬間から地獄へ行くということが決まっている被造物。そのなしうる全てのことは予め予定されている。悲劇も、惨劇も、その者が起こす全ての出来事は予め予定されているのだ。だから、許されることはあり得ない。破滅、悪、創造の瞬間からそう決められているのだから。

 真昼は。

 真昼は。

 マラーを殺した。

 予定された破滅。

 真昼を粉々に砕いて。

 しかしながら……それさえも今の真昼にとっては他人事だった。いや、もっと悪いかもしれない。なぜなら真昼は、自分の中に、客観的な視点から開き直るという精神的な傾向を感じたからだ。どういうことかといえば、自分のそのような破滅について「なにこいつこんなうだうだしてやがんだ?」と思ってしまったのだ。

 それ以外に方法がなかったんならもう仕方がないだろ、諦めて受け入れろよ。いつまでもいつまでもぐずぐずと、そんなクソの役にも立たないことを考えてないで。それに、マラーだって、苦痛だとか絶望だとか、そういうの感じないで死んでったんだろ? じゃあ別にいいじゃねぇか。そんなことを考えてしまっている。

 こっちとしては、その意見にだいだいだーいさんせーであるのだが。ただ、真昼としてはそう単純な話ではない。なぜ、なぜ、なぜ? あたしは何でこんなことを考えてしまってるの? そうして、必死になって死ぬ前に抱いていた破滅を思い出そうとするのだが。全然思い出せない、その感覚を思い出せない。目の見えない人にとって色が分からないように、耳の聞こえない人にとって音が分からないように、今の真昼には、その感覚が……罪の感覚が分からない。

 どうしたんだろう。

 どうしたんだろう。

 一体、あたし、どうしちゃったんだろう。

 許しの秘跡。

和解の秘跡。

 ああ、無知の幸い。

 人間の思考は。

 論理ではない。

 生理的に。

 決定する。

 真昼は……真昼は……だが、そのことについて今は考えないことにした。考えても考えても埒が明かないし、それに、現時点においてこれはさして重要な問題というわけではない。また後で、時間がある時にでも考えればいいことだ。それよりも、今、喫緊で考えなければいけないことは。自分が死んでいるとはどういうことかということだ。

 さて、まさにマラーの死によって。真昼は純粋な物質になった。あらゆる政治的価値を、あらゆる経済的価値を、あらゆる文化的価値を、あらゆる社会的価値を。あるいは、あらゆる超越的信仰の、あらゆる人間的身体の、価値を失ったのだ。残余は「生きている」という現象の完全な自動韻律だけであった。

 それから、それから、真昼は……デニーに促されるままに動いていた。というか、引き摺られるままに引き摺られていった。カリ・ユガ龍王領を出て、アーガミパータ霊道を突っ走る骸車に乗せられて。そして、そこで、REV.Mに襲われた。

 その時の真昼の眼球を、さらさらと滑り落ちるようにして過ぎ去っていった光景を。今の真昼が思い出している。真昼は玉座の上に座っている。地上から十ダブルキュビトの位置にある、嬰児殺しの椅子。エレファント、サテライト、レジスタンス、プレッシャー。それに……カレント。

 カレントという名前の男のことをじっと見ていた。なんとなく、なんとなく、目が引き付けられたのだ。もちろん、その時の真昼には思考能力も認識能力も、意識さえなかったので。ひどくぼーっとした頭で、空間の一点を見つめているというだけのことだったが。そのうちに、色々なことが起こった。

 この色々なことについてはもう書いたので省略しますね。読者の皆さんもご存じの通り、真昼はまんまとおびき出されて。そして、真昼は……マラーの目の前に、というか、カレントの目の前に、跪いた。目をつむって、じっと金の冠の戴冠の時を持っていて。それが起こったのは……まさにその時だ。

 ああ。

 そう。

 その時だ。

 真昼は思い出した、全て、全て、思い出した。それに、それだけではない。完全ではない記憶を推理によって補完して、自分が死んだ時の光景、その全体を把握した。あの時の真昼は目をつぶっていたから、実際にどのようなことが起こったのかということは分からなかったのだけれど。それでも、その結果から。それに、デニーが先ほど言った「サテちゃんに殺されたんだよ!」という言葉から。大体のことが推測出来たということだ。

 つまり、サテライトの衛星のうちの一つが真昼の喉を掻っ捌いたということである。あの激痛・苦悶は、今となっては夢から覚めた後の夢のように、ばらばらに砕けた、どろどろに溶けた、印象の集合体になってしまっているが。とはいえ、記憶している限りでは、大体、首の半分くらいまでがめちゃくちゃに痛かった気がする。その後、首は繋がっていたし、転がり落ちるようなこともなかったので、頸椎もまあまあ残っていたのだろう。全部残っていたというわけではないにせよ。

 それで。

 それで。

 体の中から血液が流れ出していって……それだけではなかった。それとともに、何か、もっともっと大切なものが流れ出ていってしまった気がする。ああ、たぶん、あれが「生きている」ということだったのだろう。あるいは、あれが「生命」だったのだろう。あたしの体の中から、そういった大切なものが、取返しのつかないくらい流れ出していって。

 だから、あたしは。

 死んで、しまった。

 うんうん、ここまではいい。論理的かつ整合性のある時系列を描き出せた気がする。とはいえ、問題はここからである。もしも、あたしが、死んでしまったとするのならば。今ここにいるあたしは何者なのかということだ。

 あたしは死んでしまったはずだ。

 一方で、あたしは、動いている。

 デッド、アンド、リビング。

 リビングデッド。

 ああ。

 もしかして。

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