第二部プルガトリオ #67

 血溜まりの中に伏している真昼のことを。

 呆然とした表情で見ていたプレッシャー。

 振り返り。

 カレントに。

 問い掛ける。

「それ、どういうことだ?」

 枯葉の上に火花が落ちて、勢いよく燃え広がっていくような。そんな目をして、プレッシャーは、カレントに向かって歩いていく。その歩調は、まるで、一歩一歩を歩いていくごとに、足元にいる悪しき何かを踏み潰しているみたいだ。

 「今言ったこと、一体どういうことだよ」「まさか、お前、最初から分かってたのか」「最初から、あの女がこうなるって分かっててこんなことしたのか?」。一言一言を口にするごとに、カレントを問い詰める語勢は強くなっていく。

 カレントは、それに対して何も答えない。モニター画面をプレッシャーの方に向けて、奇妙なほどの静寂を保っているだけだ。「お前、何か言えよ」「違うんなら違うって言えよ」「なんだよ」「なんなんだよ」「お前……どうしてだよ」。

 二人の距離はさして離れていたわけではなかった。だから、すぐに、プレッシャーはカレントが立っている場所まで辿り着く。それから、プレッシャーは、カレントの着ている戦闘服、その襟首を両手で掴んで。ぐいっと、威嚇するかのように引き上げる。「どうしてなんだよ!」、何も映し出していない、深淵のようなモニター画面に向かって叫ぶ。

 「あの女が……砂流原真昼が何をしたっつーんだよ? 砂流原真昼が、俺達に、一体何をした? なんもしてねーだろ? 確かにあいつは砂流原静一郎の娘だ。でもそれだけだ、そして、それはあいつの罪じゃねーんだよ。あいつが望んで砂流原として生まれてきたわけでもなければ、砂流原っつー名前に罪があるわけでもねー。だって、そうだろ? 違うか? 俺達が砂流原静一郎を憎んでいるのは、砂流原静一郎が、俺達をこんな風にしやがったディープネットの幹部だからだ。それ以上でも以下でもねー。それなら、俺達があの女を憎む理由なんてねーだろ? ディープネットとなんの関係もないあの女を、俺達が殺さなきゃいけねー理由なんてねーだろ! 違うのかよ! なんで……なんで、お前、そんなことしたんだよ。なんであの女を殺したんだ? なあ、教えてくれよ……俺達は……なあ、俺達は、こんなこと、しちゃいけないはずだろ。こんなことしたら、同じじゃねーかよ……あいつらと、同じじゃねーかよ!」、プレッシャーは、そこまで言うと、言葉を止めた。

 喉の奥の方で、燃え盛る言葉がつっかえてしまって。そのまま声を焼き尽くしてしまったみたいだった。暫くの間、何も言えないままで、荒い呼吸だけをしながら、モニター画面を睨み付けていたのだけれど。やがて、プレッシャーは……右の目からたった一筋だけ涙を流した。そして、こう続ける。「それに、あの女だって俺達と似たようなもんじゃねーか」。

 カレントは、ずっとずっと、プレッシャーのするがまま、言うがままにされていたのだけれど。プレッシャーがそこまで話し終えると、不意に自分の両方の腕を上げた。具体的には、自分の首元まで持ってきて。そして、右の手のひらでプレッシャーの左手首に、左の手のひらでプレッシャーの右手首に触れる。本当に、そっと、壊れ物を緩衝材で包み込むような態度で。

 「んだよ……」、思わずそう言うプレッシャー。だが、カレントは、それに言葉で答えることはなく。その代わりに、ぱっとモニター画面が光った。そこに何かが映し出される。

 一個の砂時計だった。当然のことであるが、その中には砂が入っている。ただ、それは砂というよりも、何か光の欠片のようなものだった。流れては消えていく星々を砕いたかのように、きらきらと綺麗な、光の粒子。虹色に輝いている、粒子の一個一個が虹色なのだ。紫色から赤色へと転変し、それと同時に、その間の全ての色でもある。

 砂時計は、最初から逆さまになっていて。上から下へと砂が落ちていっている。ゆっくりゆっくり落ちていく砂は、ほとんど無限ともいえそうなくらいの色を揺らいでいて。その揺らぎは、あたかも、直接、プレッシャーの世界を揺らがせているようだった。上から下へ、上から下へ。その偏差は、柔らかく、とはいえ有無をいわせずに沈む。

 プレッシャーは、モニター画面を向かい合っていたので。その映像を覗き込む形になっている。そして、それを見ていると、なんだか不思議な気持ちになってきた。何がどうとは言えないのだが……脳髄の後ろのところから、少しずつ少しずつ、まともな思考能力が流れ出していっているような感じ。虹色に輝く光の粒子になって、どこかに落ちていってしまっているような感じ。

 「な……お前、何を……?」、何か言おうとしてはみたが、言葉も上手く出てこない。一つ一つの文字が散乱して、しかもぼやけているのだ。そんなプレッシャーに対して、カレントが、ようやく口を開く。「いいんですよ、プレッシャー」「いいんです」「全部、私に任せて」「あなたは悪くない」「あなたは、何も悪くない」。不気味なほどに、優しく、優しく。

 その言葉に、プレッシャーは何かを反論しようとした。反論? でも、なぜ? とにかく、また、何かを言おうとしたのだが。今度は何も言えなかった。呂律さえも回らずに、それは言葉ではなく、曖昧な寝言のように意味のない音の羅列になる。

 それだけではない。全身に力が入らなくなってきているのだ。ふらふらとふらついて倒れそうになってしまう。もちろんカレントの襟首を掴んでいた両手はそんなことをしている場合ではなくなって。ふるふると痺れているみたいに震えている。

 遂に襟首を離してしまって……けれども、その瞬間に、カレントの手のひらが滑る。プレッシャーの手首から、その手のひらの方へと、するりと滑って。それから、どこまでも柔らかく、手のひらで手のひらを握り締める。

 プレッシャーがまた口を開く。けれども、カレントはそれを遮るようにこう言う。「大丈夫です」「大丈夫です」「落ち着いて」「何も怖くありませんよ」。そう、何も怖くなかった。何を怖がる必要がある? ここにはレジスタンスもカレントもいる。三人がいれば、兄弟が全員揃っていれば、恐れることは何もない。

 遂に立っていられなくなってしまって、その場にしゃがみ込む。カレントも一緒にしゃがみ込んでくれる。手と手とを握り合わせたままで、向かい合ったままで。なんだか眠い、とても眠い。ずっとずっと緊張していて……それが解けてしまって。そのせいで反動がきたのだろう。なんだか安心してしまって、ほっとして、だから眠くなってしまったのだ。

 いつの間にか、プレッシャーは、カレントの腕に抱かれていた。カレントの胸の中に背中を任せてうとうととしている。カレントは地面の上に座り込んでいて、プレッシャーはそれに寄り掛かっているのだ。耳元に囁いてくるカレントの声は、まるで甘い麻酔のようにして、プレッシャーの中に流れ込んでくる。「私の心臓の音が聞こえますか」「あなたの心臓と、全く同じ音を立てて」「一つ一つ鼓動を刻んでいる心臓の音が聞こえますか」「そう、私とあなたとは別の人間ではない」「私達は、三人とも、同じ人間なんです」「だから、何も恐れる必要はありません」「全部、全部、私に任せて下さい」「あなたの全てを」「さあ」「手放して」。

 プレッシャーは。

 その言葉の通り。

 自分の。

 全てを。

 手放す。

「終わったか。」

「ええ、まあ。」

 エレファントの問い掛けに、カレントはそう答えた。その両腕で抱いているプレッシャーは身動き一つしなかった。死んでしまったかと思うほどに静かであったが……耳を澄ませてみると、安らかな寝息が聞こえてくる。どうやら眠っているだけのようだ。

 カレントは、ふーっと溜め息をつく。カレントが溜め息をつくと、なんだかひどく滑稽な感じがする。なんとなく似合っていないのだ、誰も通らない夜の道にたった一台だけ立っている自動販売機が溜め息をついているかのように、あまりにも違和感がある。

 プレッシャーのことを包み込むみたいにして抱き締めたままで、顔さえもプレッシャーに向けたままで。カレントは、エレファントに向かって、口を開く。

「二つほど。」

 溜め息の。

 延長のように。

 なんだか。

 奇妙な。

 口調で。

「言い訳をさせて頂きたいんですが。」

「なんだ。」

「まず一つ目は、これは私がそうしようと思ってそうしたことではないということです。あなたもご存じだと思いますが……私は、基本的にはあなたと同じ種類の人間です。まあ、あなたほど血も涙もないというわけではありませんがね。とはいえ、あなたと同じように、私にも私の希望というものはありません。私が何かをしようと思って、私がしたいこと、そういった何かをすることはありません。私がすることは、全て、私の兄弟の希望です。」

 そこまで話すと。

 カレントは。

 モニター画面を。

 エレファントに。

 向ける。

 そこには何かが映し出されていた。一瞬、何も映し出されていないように見えたのだが、それは、そこに映し出されているものが周囲のそれとほとんど変わらないからだ。要するに、そこに映し出されているものの大部分が岩肌だったのだ。

 この戦場を映し出しているらしく……先ほどほとんどといった通り、岩肌ではないものも映し出していた。それは三匹の生き物だった。まず一匹目は、死にかけている真昼。もう一匹は、それを抱き締めて、必死で揺さぶっているデニー。

 ここまではいい、ここまでは現実の光景と同じだ。だが、そこにはもう一匹の生き物が映し出されていた。デニーと真昼とのすぐ横に立っている。一ダブルキュビトも離れていないところに立って、二匹の姿を見下ろしている。

 現実の光景の中には、そんな生き物の姿はなかった。影も形も見当たらない。見当たらないどころか、あらゆる感覚でそれを捉えることが出来ない。デニーでさえも(いくら注意のほとんどを真昼に向けているとしても)その姿に気が付いていないくらいだった。けれども、実は……実際に、その生き物は、そこにいた、そこに立って二匹のことを見下ろしていた。

 それは。

 つまり。

 抵抗力を纏った。

 レジスタンス。

 ちなみに、念のために書いておくが、レジスタンスがその場所に降り立ったのはデニーによる衛星の殲滅が終わってからだった。デニーの注意が完全に真昼だけに向かってからだということだ。まあ、それはそれとして……カレントは、三兄弟を結び付けるリンクのおかげでその存在を感じ取ることが出来ていたのだ。そして、そのようにして感じ取っていたレジスタンスのことを映像として映し出していたのだ。けれども、なぜ? なぜそんなことをしているのか?

 その理由は、レジスタンスの顔を見れば分かる。死にかけた真昼のことを、あるいは、めちゃめちゃにわたわたしているデニーのことを、何をするでもなく、じっと見下ろしているレジスタンスの顔は、笑っていた。

 そのような笑顔を人間がすることが出来るとは。それは端的にいって蠱惑であった。例えば肉食の獣が、狙っていた獲物を間違いなく仕留め終えて、思う存分肉を味わっている時に。きっとこんな顔をするであろう。

 別に、歪んでいるわけではない。あるいは、歯を晒し出しているわけでもない。目がぎらぎらと光っているわけでも、襲い掛かろうとしているわけでもない。ただただ静謐の中で凄惨なのだ。レジスタンスは、その笑顔で……喜んでいる。祝祭のように祝っている。真昼が、今、死にかけていることを。

 要するに。

 この全ては。

 レジスタンスが。

 望んでいたこと。

 もちろん、真昼を殺せとカレントに命令したわけではない。それでもカレントにはそれが分かった。レジスタンスが、純粋なまでの冷酷さによって真昼の死を望んでいるということが。だからカレントはそれをしたのだ。そして……レジスタンスも……自分がそれを望んでいる限り……カレントがそれをするということを理解していた。

 純粋な。

 純粋な。

 悪意。

 今のレジスタンスは人間ではない。少なくとも普通の人間ではない。普通の人間には慈悲の心というものがある。自分も相手も同じ生き物であり、同じように苦しみだとか痛みだとかを感じるという理解。それゆえに、自分の苦痛と照らし合わせて、他人の苦痛を思いやるという精神的な働き。

 今のレジスタンスからは、そのような働きは失われていた。そんなものは、戦闘においては障害でしかないからだ。以前も書いたことであるが、今のレジスタンスからは、恐怖心とともに、そういった全ての人間は失われている。

 そして、その結果として……レジスタンスに残っているのは、剥き出しの悪意だけだった。それを押しとどめる善意が一滴も残っていないところの、悪意そのものである。レジスタンスにとって、真昼はもはや人格を持った一人の人間ではなかった。都合よくそこにあった復讐の道具に過ぎない。真昼が、ブリッツクリーク三兄弟に対して何もしていない? だからどうしたという話だ。真昼には罪がない? そんなことは分かっている。今のレジスタンスにとっては、真昼がなんであるかなどどうでもいいことだ。

 今のレジスタンスにとって重要なのは以下のことだけである。もしも、真昼が死ねば。その父親である砂流原静一郎が悲しむであろうということ。ディープネット幹部の一人である砂流原静一郎が。そして、それだけではない。その護衛をしていたところのデナム・フーツの面目も丸潰れになるはずだ。パロットシングのことを、あれほど無残なやり方で殺したデナム・フーツ。

 そうであるならば、どうして真昼を生かしておく必要がある? 確かに、それほどの打撃にはならないかもしれない……ディープネットを潰すことが出来るわけでもなければ、デナム・フーツを殺すことが出来るわけでもない。それでも、ほんの僅かでも傷を負わせることが出来るならば。それを他人の命で贖うことが出来るなら、今のレジスタンスには、躊躇う理由などない。

 そう。

 今の。

 レジスタンス。

 今のレジスタンスは、普段のレジスタンスとは完全な別人だ。普段のレジスタンスであれば、こんなこと、絶対に望まなかっただろう。抵抗力による迷彩を脱ぎ捨てて、レジスタンスが、この戦場に初めて姿を現した時のことを覚えているだろうか。その時のレジスタンスは真昼のことを同情心を込めた目で見ていた。真昼のこと、玉座に力なく寄り掛かっていた真昼のこと。もしかして、この少女も、自分と同じような人間なのではないか。人間なんて関係ない顔をして回転している大きな力に巻き込まれてしまっただけの犠牲者なのではないか。そう思っていたからだ。

 だから、もしも、抵抗力が切れてしまって。普段のレジスタンスに戻った時には……きっと、レジスタンスは、心に深い傷を負うだろう。自らの善良さという刃によって凌遅され、そのお優しい人間性とやらはずたずたに刻まれることになるだろう。まあ、そんな痛みなどは、実際に刻まれた真昼の肉体の痛みに比べればなんのあれかしでもありゃしないのだが。それが、ある種の絶望的な苦悶であるということは間違いがない。

 とはいえ、そんなことは後からどうとでも出来ることだ。プレッシャーに対してそうしたように。カレントは、自分の兄弟の精神を、いくらでもいじくることが出来る。兄弟の絆、精神と精神とを繋いでいるリンク。それは、そもそも、ディープネットの研究所から逃げ出した時のトラウマを治療するために築かれたものであるが……その分だけ、深く、深く、三人は繋がっている。より正確にいえば、レジスタンスとプレッシャーとは、カレントに対して自らを明け渡してしまっている。

 全てが終わった後で、全てを忘れてしまえばいい。カレントが、全てを忘れさせてしまえばいい。そうすれば、二人の心には傷跡しか残らない。治ることはないが、それでも痛むことのない、傷跡だけが。

 そうであるならば。

 たった一瞬の幸福であっても。

 たった一瞬の満足であっても。

 どうしてそれを。

 与えない、理由がある?

「あなたと同じように、私にも復讐という感情はありません。というか、復讐という行為を論理的に理解出来ないんですよね。それは現実における状況を分析的に判断した帰結ではなく、どちらかといえば、抑えきれない種々の衝動が混ざり合った混沌に無理やり復讐という名前を付けて正当化を図っているものに過ぎませんから。例えば、仮にディープネットという企業を潰すことが出来たとして。私達になんのメリットがありますか? レジスタンスの過去は帰ってこないし、プレッシャーの過去も帰ってこない。二人は、相変わらず、この苦痛の中で生き続けるしかない。そもそも……ディープネットを潰すことなんて出来るはずがないんですよ、私達のように、あまりにも無力な生き物にはね。そうだとするならば、全てを捨ててどこかに逃げた方がいい。どこか、どこでもいいですけれど、ディープネットの手が届かないところに逃げて、そこでひっそりと生きていく方がいい。

「しかしながら、私とは違って、この二人にはそのような不合理な感情がある。精神の奥底で、復讐への欲望という悪意を飼育している。そう、この二人は。もちろん……もちろん、今回の、この結末は、レジスタンスだけが望んだことではありませんでした。言葉の上ではなんと言っていたとしても、プレッシャーも、やはりそれを望んでいたのです。

「私にはそれが見えていました。教育や環境や、あるいは社会的な制約。そういったものがプレッシャーの中に植え付けた常識を剥ぎ取って。プレッシャーが、一人の人間として、こうなって欲しいと本当に望んでいる光景が見えていました。

「プレッシャーは確かに望んでいた。砂流原真昼の死を。当たり前です、それは当たり前のことです。レジスタンスの、プレッシャーの、それに、私の。犠牲のもとに鋳造された銀のスプーンを口に咥えて生まれてきた少女。ディープネット幹部の令嬢、そんな生き物のことを、どうしてプレッシャーが許せますか? 砂流原真昼が個人的にどんな苦悩を背負っていたとしても、それはプレッシャーには全く関係がないことです。プレッシャーにとって関係あることは、たった一つだけ。それは、あの生き物が、のうのうと生きているということ。

「それに、それだけではない。それよりも深い深い泥濘として……プレッシャーは、デナム・フーツを憎悪していた。パロットシングには、私達は、随分とお世話になりましたからね。同じディープネットからの脱走者として色々なことを教わってきました。私には、復讐と同じように恩義という感情もありませんが。とはいえプレッシャーがそのような感情を抱くということを理解出来ないわけではない。

「そして、このことも理解していた。私達では、デナム・フーツに対して、傷一つ与えることが出来ないということ。それでもどうにかしてその復讐を果たそうとするならば、もちろんデナム・フーツから何かを奪うという方法しかありません。デナム・フーツを傷付けることが出来ないのならば、その持ち物を傷付けることしか出来ない。それもデナム・フーツが大切にしていれば大切にしているほどいい。

「ということで、レジスタンスもそれが起こることを望んでいた、プレッシャーもそれが起こることを望んでいた。兄弟が、二人とも、それを望んでいた。そうだとするのならば、私がそれを起こさないということが許されますか? 許されるわけがありません。なぜなら、私は二人であり、二人は私だからです。私は……この二人の、付属する一つの器官に過ぎません。私はこの二人の内臓なのです。手であり、足であり、心臓でも肺腑でもある。そして、一方で、この二人もやはり私の器官なのです。この二人は私の動機そのものであり、私が失った感情の代わりのものなのです。

「ああ、でも、エレファント、勘違いしないで下さいね。この二人は、別に邪悪な人間というわけではありません。ねえ、エレファント。私はね、ずっとずっと、こう思っているんですよ。人間によって、私の頭蓋骨を、このような冷たい金属の塊にされてから。ずっとずっと、こう思っているんです。人間という生き物は、心の底から善なる生き物だって。私には、これほどに善良な生き物は思い付かない。ねえ、エレファント。もしも、それが邪悪に見えるならば……それは、本当は、人間が邪悪だというわけではない。ただ少し間違えてしまっただけなんです。」

 そう言い終わると。

 カレントは。

 そっと。

 音もなく。

 モニター画面。

 映像を消した。

 エレファントは、カレントの弁明、一言も口を挟むことなく聞いていた。ちなみに、ここでカレントが「言い訳」したのは、その行為をしたことそれ自体についてではなかった。そのことについては、カレントは別に言い訳の必要があるとは思っていなかった……少なくともエレファントに対しては。

 問題なのは、自分が、二人の兄弟の意に反することをしたと思われてしまうこと、それどころかプレッシャーのことを傷付けるようなことをしたと思われてしまうことだ。いや、まあ、実際に傷付けていることは傷付けているのであるが、カレントにとってそれは些細なことだ。

 カレントにとって、そのようなことを思われるというのは絶対にあり得てはいけないことだった。そのように思われることはカレントにとって屈辱であり、そういった誤解はなんとしても解かれなければいけなかったのである。だから、これほど長々と言い訳したということだ。

 一方で、エレファントは。カレントが話し終えてからも、暫く何も言わないままでいたが、どうやらカレントの言い訳が終わったらしいということを確認すると、また口を開く。

「それで。」

「はい。」

「二つ目の言い訳は、何に対する言い訳だ。」

「ああ、サテライトのことですよ。」

 カレントは。

 ちらと、その方向、に。

 モニター画面を向けて。

「私は、あの人の精神には一切触れていません。何一つ操作していません。ただ、砂流原真昼がどこにいるかということを教えただけだ。後のことは全部あの人自身がやったことですよ。まあ、そうなることは分かっていましたけどね。」

 また。

 エレファントに。

 モニター画面を。

 戻すと。

 軽く。

 肩を。

 竦める。

 エレファントは「だろうな」と答えた。それから、素っ気なく「分かっている」と付け加えた。付き合いの長いエレファントにとって、サテライトがそういうやつだということくらいは先刻ご承知の助なのである。

 「言い訳は終わりか」「そうですね、終わりです」。また二人の間にちょっとした沈黙が流れる。けれども、それは長く続くことはなく、カレントが口を開いてこう言った「それで、これからどうするんですか?」。

「砂流原真昼は死ぬか。」

「ええ、死にますね。」

「それは確実か。」

「ええ、確実です。」

「それならば、拠点に帰還する。」

「帰還?」

「砂流原真昼の死が確実である以上、私達がこの作戦を成功させる可能性は皆無だ。ということは、私達がこれ以上ここにいても意味はない。それどころかREVISION.MILLENNIUMに人的損害を与える可能性さえある。

「現在のデナム・フーツはあまりにも危険だ。先ほどまでのデナム・フーツは、まだ私達のことを侮っていた。侮っていたからこそそれに付け入る隙があった。だが、今のデナム・フーツにはそのような隙は残っていない。お前も見ただろう。デナム・フーツが、なんらの記号的補助も使用することなくハッピー・サテライトのアヴァターを消滅させたところを。

「今は、まだ、砂流原真昼に全ての注意を向けているが。あの注意が私達に向いたら、私達は、確実に全滅する。だから、そのようなことが起こらないうちにこの場を離れる。」

 確かに論理的な決定だ。

 カレントも異存はない。

 ただし。

 一つ問題がある。

「しかし、サテライトはどうするんですか。」

 どうするもなにも……どうするんだろうね。サテライトはどうなっているのかというと、端的にいえば手が付けられない状態になっている。先ほども書いたことであるが、現在のアビサル・ガルーダは、デナム・フーツに支配されていない。無論、これほど危険なものにまともな自己コントロール能力が残されているはずもなく、ほとんど本能的な抵抗として、サテライトの攻撃に抗っているだけという感じになっている。つまり、相手を押しのけようとしたり、あるいは傷口から触手を引き抜いたり、そういったことしかしていないということだ。

 そうであることをいいことに、めちゃくちゃに調子に乗ったサテライトは、めちゃくちゃに攻撃しまくっていた。そのめちゃくちゃさは筆舌その他あらゆる表現方法に尽くしがたいほどにめちゃくちゃであり、なんというか、もう、ほとんど、アビサル・ガルーダに寄生する巨大な寄生虫のような有様だった。ぞっとするほど醜悪な腫瘍。ちなみに真昼に対しての指向性であるが、それは既になくなってしまっていた、ほぼ確実に仕留めたということで、獲物に対する興味を失ったのだ。

 とにもかくにも、今のサテライトは、いわばしっちゃかめっちゃかなのであって。しかも、かなり膨大かつかなり強力なしっちゃかめっちゃかなのである。このインターギャラクティック大混乱、もちろん、カレントがなんとか出来るような領域を超えてしまっている。先ほどの、真昼に対する攻撃への誘導は。本人も言っていたように、もともとサテライトの中にあった衝動を利用したに過ぎない。今のサテライトの中に「帰還」の二文字があるわけなく、そうである以上、サテライトを帰還させるためには、その精神の流れを、無理やりそちら側に捻じ曲げなければいけないということになるが。んなこたぁ出来るわけがないのである。

 それでは、どうするか。

 エレファントには。

 何か策があるのか。

 エレファントは、カレントの質問には答えなかった。言葉で答える必要がないからだ。今から、実際に、それをして見せる。それでは、口を開く代わりにエレファントが何をしたのかといえば……どうっと、地を蹴った。

 プレッシャーは昏睡状態にあるので、既に魔学的エネルギーの流れを注ぎ込む者はいない。とはいえ、エレファントの中にはまだ十分な量の魔学的エネルギーが残存している。ということで、そのうちの一部を使ってエレファントはこう呪文する。「sali」、これは飛び跳ねるという意味の自動詞であるsalioの命令形であり、つまり跳躍の呪文だ。

 しかも、それだけではなかった。以前にも書いた通り、エレファントの脚部も、腕部と同じように特殊な生起金属によって形作られたものであって、ある程度は形状を操作することが可能なのであるが。それは、今、あたかも発条のようにぐるぐると螺旋を巻いた形状をしていた。

 その発条のような形状と、跳躍の呪文とが合わさって。エレファントの一歩一歩は、とんでもねぇ世界記録を出しちまった走り幅跳びみたいになっていた。たった一歩で百ダブルキュビトを超える距離を跳んでいる。

 アビサル・ガルーダの羽搏きによって地表を剥ぎ取られた大地の上、更に小規模なクレーターを穿ちながら。数エレフキュビトもの距離を、たった十数歩で移動し終わる。そして、エレファントは、そこに辿り着く。

 つまり。

 アビサル・ガルーダとサテライトと。

 死闘を繰り広げている、その場所に。

 死闘というかサテライトが一方的に絡んでいるだけなのだが。ほんとこいつ治安悪い性格してんな、それはそれとして、そこに辿り着くと……エレファントは、その二匹の化け物の姿を見上げた。距離的には、まだ、十数ダブルキュビト離れてはいたのだが。それでも、暴れ狂う二つの巨体、ともすれば巻き込まれてしまうほどの近さに感じられる。

 なんとかサテライトのことを引き剥がそうとするアビサル・ガルーダが、よろめいて、地震にも似た振動を大地の上に起こす。それに対して、サテライトが、産み落とした無数の衛星達、一斉に降り注がせる。

 もちろん、プレッシャーは意識不明の状態にあるので、新しく分裂した衛星達には魔学的エネルギーが注ぎ込まれることはないが。その代わり、そういった衛星達には、幾つも幾つもの口が開いていた。しかも、それらはただの口ではない。その内側に、びっしりと吸痕牙が生えているところの口だ。

 そして、衛星達は、一斉に、傷口に群がって。その中に潜り込んでいく。それから、内側から、アビサル・ガルーダのスナイシャクを食い尽くそうとする。そのせいで、アビサル・ガルーダの全身、全ての傷口は、まるで瘡蓋のようになって蠢く衛星達によって覆われていた。

 そういった傷口に、アビサル・ガルーダは自らの手を突っ込んで。瘡蓋を剥がすみたいな態度で衛星達を抉り出す。手のひらの中で握り潰して、魔力によって灰になるまで焼灼して。もう二度と再生出来ないようにしてからそこら辺に撒き散らかす。そういった灰が降り注いで……その光景を見上げているエレファントの体を汚している。

 このような、人間という生き物を超えた領域における戦闘に対しては。エレファントのように超人的な能力を持つ者であっても、その介入は極限まで慎重なものでなくてはならない。だから、エレファントは、その時を見極めようとしていたのである。つまりは、介入に最適なタイミングを。

 エレファントは。

 ぎりぎりと。

 二本の脚、二本の発条。

 限界まで。

 圧縮して。

 そして、その時が来た。ずどうっという、ほとんど爆発と聞き紛うほどの衝撃とともにエレファントは跳んだ。いや、それはもう「跳んだ」というよりも「飛んだ」といった方が正しいだろう。エレファントの肉体、生起金属の塊は、生物学的な制御機構によってコントロールされているミサイルのような正確さで弾道を描いて。それから、目的の地点に到達する。

 それは、銀河の中心のほど近くであった。いや、えーっと、本当の銀河ってわけじゃありませんよ。いわなくても分かると思いますけどね、悍ましい奇形の肉塊で出来た星々、その銀河、つまりサテライトが作り出した銀河っていうことです。

 その中心部、つまりサテライトの頭部があるところということだ。以前も書いたことであるが、その頭部は、衛星達に対して共振的な命令を発するために。銀河の外側に向かって、ぼっこりと吐き出されているところの肉芽腫みたいになっていたのだが。それと向かい合う地点にやってきたということだ。

 サテライトにはエレファントの姿が見えていないようだった。視界には入っているようなのだが、それをエレファントだということが分からないのだ。それどころか、何か動くものという程度の認識しかないらしい。エレファントは、そんなサテライトに向かって、極めて冷静な声によって呼びかける。

「サテライト。」

 たった。

 一つの。

 眼球が。

 動物的衝動の特異点が。

 エレファントのことを。

 見つける。

 とはいえ、それでも、エレファントがエレファントであるということは分からないらしかった。なんとなく、そこに、ある。衝動が象徴的に系統立てられて、なんらかの感情的な構造物となるための、一つの種子のようなものが。そこまでは感覚によって感覚しうるのだが、それ以上がはっきりとしないのだ。無限定的な運動が、剥き出しの行為であることをやめようとしない。少女が、一人、混沌の中で溺れている。

 エレファントは……そういったことを、全部、理解していた。全ては想定通りである。このような状態になったサテライトが自分のことを認識出来ないなんてことは朝になれば太陽が昇るということよりも分かり切ったことであって。わざわざ驚いたりなんだりするほどのことではない。ちなみに、この例えにおいて重要なのは、実際は「朝になれば太陽が昇る」のではなく「太陽が昇れば朝になる」というところである。

 なんにせよ、エレファントはこういうことも理解していた。このまま何度も何度もサテライトに呼びかけて、あるいはなんらかの身体的な接触によって直接的に肉体に刺激を与えて。丹念に、丹念に、忍耐強く説得を続ければ。サテライトは、いつかは、きっと、人間性を取り戻すであろうということを。もともとはエレファントが死んだと勘違いしたことでこうなったのだから、その誤解を解いてやれさえすれば、元に戻る。

 ただ、これは本当に残念なことであると、誰しもが同意してくれることだと思うのだが……そんなことをしている暇はない。今にも、デニーが、こちら側を向いて。五人のテロリストのことを、この世界から跡形もなく消してしまわないとも限らない状況下では。ちんたらちんたらサテライトのことを甘やかしている時間などないのだ。

 ということで。

 エレファントは。

 もっと、手っ取り早い。

 方法を使うことにする。

「作戦は失敗した。」

 そう言いながら、エレファントは左手を拳にして振りかぶった。いつの間にか、その拳は、例のガントレットに変形していて。その大きさは直径にして約一ダブルキュビト、つまり、サテライトの頭部の大きさと全く同じだった。

 それと同時に、そのガントレットには、エレファントの全身に現時点でも残存している魔学的エネルギーの一切が集中し始める。赤イヴェール合金が放つ光は見る見るうちに二度と覚めることのない悪夢のように沈んでいって。

 そして。

 エレファント。

 口を、開いて。

「これから帰還する。」

 そう言うと。

 その拳。

 サテライトの頭部に。

 全力で、叩きつける。

 それは……マジで全力だった。本当に、欠片の容赦さえしていなかった。普通の人間であれば、このように見知った人間、ほとんど相棒といえるような関係性にある人間をぶん殴ろうとした時に。ちょっとは情というものを感じて、無意識のうちに手加減するものであるが。エレファントの情は徹底的な抑圧のもとにあるのであって、従って、そのような手加減さえもなかった。

 さすがに、今までアビサル・ガルーダに対して叩きつけていたセミフォルテア爆弾ほどの威力はなかったが。ただ、それとは別の魔法が、その一撃には込められていた。よくよくエレファントのガントレットを見てみて欲しい、そこには一つの魔法円が刻まれていて……それは、なんと、大罪の詩行であった。もちろん、デニーが使ったそれよりも、ずっとずっと稚拙なものであって。それに、基本的なエニアトロメスと、その大罪を示す記号、それ以外は何も描かれていなかったが。それでも大罪の詩行だ。そして、その意味するところの大罪は「罪食い」であった。

 なぜ、エレファントはこの魔法を使うことが出来るのか? そして、この魔法を使うことで、この一撃にどのような効果が加わるのか? それを考える前に、一つの重要な事実を指摘しておくべきだろう……実は、この「罪食い」は、ある特定の分野で非常によく使われるものなのだ。そして、その特定の分野とは対スペキエース戦なのである。

 そもそも大罪の詩行というものは、普通の魔法円とはかなり性質を異にするものだ。これは、基本的には契約学をベースにしているのだが。その契約学によって、何者の能力を、債権として法的拘束力の下に置くのかといえば。それはトラヴィール教会における九人の大罪者の力なのである。例えば、真昼がASKの拘束を解くために使ったのは「賢しらなる者」であったが。それは、真昼がその能力を使う時に叫んだように、ニコライ・サフチェンコの力を債権化したものだ。あるいは「奇跡盗人」であれば、アシュペナズの能力をそうしたものだ。

 それでは、「罪食い」は誰の能力を債権化したものかといえば。かの有名なメアリー・ウィルソン、別名「切り裂きメアリー」の力である。この恐ろしいシリアル・キラーの名前は、世界中に知れ渡っていて。様々なノンフィクションも書かれたくらいなので、恐らく知らない者はいないと思うが。念のため書いておくとすると、クールバース朝のパンピュリア共和国においてスペキエースだけを狙った連続殺人事件を起こした犯罪者である。

 「切り裂きメアリー」の能力は、通常の世界的原理から外れたあらゆる力を吸収するということである。それを吸収して、純粋化したものを、自らのエネルギー源として取り込むか、水晶のような形で物質化することが出来るのだ。

 そして、そのように吸収出来る力の中には、当然ながらスペキエースの力も含まれていて。それゆえに「切り裂きメアリー」は、力を飲み干した時に感じることが出来る快感を求めてスペキエースを殺し続けていたということだ。

 このように、この詩行は、もともとの力の持ち主からしてスペキエースに対する悪意のようなものを持っていたのであって。それだけではない。その効果も、対スペキエース戦に最適なのである。効果というのは、「切り裂きメアリー」の持つ能力のことであり、要するに相手の持つ力を吸収し、封印するというものだ。

 ということで、対スペキエース戦に特化した魔学者は、スペキエースの力を封印するために「罪食い」を使うのだ。そりゃあ、学部生だとかなんだとか低レベルの魔学者ではこのような高度な魔法を使うことは出来ないが。博士研究員レベルともなればこれくらいは当たり前に使ってくる。

 そして、エレファントとサテライトと、この二人のような歴戦のテロリストともなれば、博士研究員レベルの魔学者と相対するような経験を積むこともあるのである。そういった経験から……いうまでもなく、サテライトは何も学ばないが。他方で、エレファントは様々なことを学ぶ。

 その様々なことのうちに。

 この詩行も。

 含まれていたと。

 いうことである。

 さて、先ほど書いたように、「罪食い」はスペキエースの力を封印することが出来る。ということは、この魔法円が描かれたガントレットによってぶん殴られたサテライトは、その力を封印された状態でその打撃を受け止めなければいけなくなる。

 もちろん、この程度の稚拙な魔法円では、今のサテライトのようなはちゃめちゃなパワーを完全に無効化してしまうことまでは出来ないが。再生も変形も、かなりの程度まで抑えることが出来る。人間的な人間に限りなく近付けることが出来る。

 つまり、エレファントの打撃は二段階から成り立っていたということだ。まずは「罪食い」によってサテライトの力の一部分を封印する。そうして、ただの人間といわないまでも、普段のサテライトと同程度まで弱体化したところに。残されていた魔学的エネルギーの全てを叩き込むのである。

 魔学的エネルギーは、一つの革命のように、一つの飢饉のように。遠慮仮借なく惑星を押し流す恒星のフレアのように。サテライトの頭部を、まるまるに飲み込んでしまう。その竜波は、サテライトの頭部をそのようなものとして現実化していたところの観念的な流動を一思いに崩壊させてしまって。基底的な構造を喪失したサテライトの頭部は……ガントレットが叩きつけられたところから、爆発的に粉砕される。

 皮膚が焼き尽くされ、頭蓋骨が弾け飛んで、あまりにも醜く捻じ曲げられていた脳味噌は、飛沫となって勢いよく飛散した。サテライトの頭部は、たった一つの器官を残して、ほとんど完全に破壊されたのだ。

 結果として。

 どうなった。

 のか?

 基本的に、現在のサテライト、無限さえ飲み干そうとする混沌のような肉体的形状は、サテライト自身の衝動によって導かれたところの形状である。まあ、これはあくまでも「基本的に」ということであって。実際のところは、ベルカレンレインを原理的に解体した上で、それを定式化した構造に対して根源的な世界の情報性を連立させたところの、一つの理程式こそが動因である。そのような衝動は、いかに主要なものとはいえ、その理程式の変数項の一つでしかないのだが……こういったことは神学の領域になるので、説明するのはやめておこう。

 ラビットホーン・フィッシュファー、ここでいいたいのは、この銀河を銀河として保ち続けているところの原因は、サテライトの頭蓋骨の中にこそあったということだ。サテライトが、どこまでもどこまでも膨張していく絶対的強者を衝動していたから、このような化け物が生まれたのである。

 ということは。パイ投げのパイみたいにしてサテライトの脳味噌がそこら中に撒き散らされた以上、そのような衝動の主体となる器官はサテライトの内部には一つも存在していないのであって。そうである以上、サテライトは、自分自身が一つの銀河であることを衝動し続けることは出来ない。

 星屑のように。

 頭蓋骨の欠片。

 きゃらきゃらと。

 落下していく。

 そのあららかな散乱とともに……ハッピー・ギャラクシーは、奇妙に揺らいだ。それは、例えば、物凄く強く頭を殴られた時に、一瞬だけ視界ががくんとなるみたいな、そんな揺らぎ方だった。それから、暫くの間は、何も起こらなかったのだが。唐突に、それが、始まった。

 ずろずろと渦を巻き、あるいはごぐごぐと泡立って。それぞれが個体でありながら、それぞれの個体を食い合って。永遠の闘争の中に一つの仮象的な構造を作り出しているところの、悍ましくも惨たらしい銀河。それが、凄まじい勢いで収束し始めたのだ。

 それが内蔵であるならば一体どんな働きをするのか分からないような内臓、星々のように空間の中を揺蕩っていた内臓が、銀河の中心に向かって吸い込まれていく。多関節の骨は、そういった間接の一つ一つが、がぐんがぐんと食い尽くされていって。無数の目が、無数の口が、無数の手が、それに、アビサル・ガルーダを攻撃していた無数の触手さえも、一つのところに収斂していく。醜悪な人体の戯画は、なすすべもなく、それが一つの熱に浮かされた悪夢であって、その悪夢を見ている誰かは今しも目覚めようとしているかのように。何もかも、何もかも、一点に集まっていく。

 もともと頭部があったところ、銀河の中心地点には、それらの悪罵・喧騒・調律されざる地獄の音楽が、信じられないほどのスピードで集まってきて。そして、あたかも奏天使による讃美……positive organによる調和の音楽のようにして。一つの身体の中に飲み込まれていく。

 それは。

 もちろん。

 サテライトの身体。

 華奢で。

 貧弱な。

 少女の姿であるところの。

 普段のサテライトの身体。

 とはいえ、その身体には……当然ながら、頭部が欠けていたのだが。再生能力の大部分を封印された上で叩き潰された頭部は、当分は元通りになることはないだろう。エレファントがその封印を解けば、たぶん、ぱぱっと治ってしまうと思うが。そうでもない限り再生まで数日はかかってしまうに違いない。

 なんにせよ、銀河は、あっという間もなく消え去ってしまって。後には、ぽつんと残された、頭を失った少女の姿である。そして、その少女の姿がどこに出現したのかというと、地上から百ダブルキュビト近い上空なのであって……何がいいたいのかといえば、それが出現した瞬間からそれは墜落し始める。

 肋骨が浮き出している胸、親指と人差し指とで作ったわっかに入ってしまいそうな腕、朽ち果てた枯れ木のような脚、内臓が見えてしまいそうに膨らんだ腹。そういった肉体は、どこから出現したのか誰も知らないホスピタル・ガウン、例の薄汚れたホスピタル・ガウンに包み込まれていて。そのホスピタル・ガウンの裾をひらひらと躍らせながら、サテライトは……死んだ蠅の死骸のような態度で落ちていく。

 このまま落ちていけば大地に激突するだろう。大地は、現状、その上にかぶさっていた草原が洗い流されていて。優しさの欠片も感じられない岩石が剥き出しになっているだけだ。百ダブルキュビトという高さから、人間が、このように頑なな物の上に叩きつけられたとすれば。これはもう避けようもなくぐちゃぐちゃになる。そして重要なことであるが、今のサテライトは再生能力が使えない状態にあるのだ。

 別に死にはしないだろうが(サテライトはフィーリング・ファクターとかそういうのに関係なく生物界最強レベルのしぶとさを有している)、やっぱり内臓だのなんだのがそこら中にぶちまけられることになるだろう。そうなれば、一つ一つの器官を回収するのに、やっぱりそれなりの時間がかかってしまう。

 エレファントは、別に、サテライトのことをぶん殴りたかったからぶん殴ったわけではない。弾けた肉と砕けた骨との塊にしたかったから殴ったわけではなく、一緒に撤退するためにそうしただけだ。いわば肉体的説得だったということである。

 確かに頭蓋骨を砕いて脳味噌をぶっ飛ばしはしたが、それは、そうしなければサテライトを連れて帰れないからだ。そして、連れて帰れなければ、間違いなくデニーに殺されてしまうのである。そうなればREV.Mにとってはかなり大きな損失だ。ゴキブリ以下の知性しかないとはいえ、サテライトはやはりレベル5のスペキエースであって、貴重な戦力なのである。

 持ち運びやすい荷物にするために頭を潰したということだ。そうであるならば、やっぱり、持ち運びにくいぐちゃぐちゃになってしまうということは、エレファントにとっては不本意なことだ。ということで、落下していくサテライトの肉体……それとともに落下していくエレファントが、その手のひらで、そっと掴む。

 殴り飛ばした時とは正反対の手つきだった。乾き切った蠅の死骸を壊してしまわないように、ばらばらに崩してしまわないように。エレファントは、サテライトの首から下の部分、自分の方に引き寄せる。そして、淡く淡く、炭酸が抜け切ったソーダ水のような淡やかさで抱き締めると。重なり合った二つの肉体は、そのまま落下していく。

 そ。

 れ。

 か。

 ら。

 ……ずどずーん!

 という音を立てて、それは墜落した。もうエレファントのことを守る魔法は何もなかった。とはいえ、サテライトがしぶといのと同じように、エレファントもやはりしぶとい。

 ニルグランタにいた時代、苦行によって、人間としては完全な状態になるまで鍛え上げられた肉体。あるいは、生起金属の補助もある。発条状になった形はもちろんのこととして……脚部の生起金属は、着地の瞬間に極子構造を変質させて。落下時の衝撃を吸収したのである。

 結論をいえば、エレファントには傷一つ付かなかった。サテライトも頭がないことを除けば全然無傷である。無事に、アビサル・ガルーダの足元、そこから少し離れたところに着地したエレファントは。それから、サテライトのことを持ち変える。両腕で持っていたのを右腕だけで持つ形にして。空いた左腕は……その手のひらを広げて、そっと、上に向けた。

 何をしているのか?

 そのように。

 差し上げられた。

 左の、手のひら。

 そこに。

 すとり。

 と。

 何かが落ちた。

 それは。

 サテライトの頭部で。

 唯一無事だった器官。

 つまり。

 青く。

 青く。

 薄汚れた。

 サテライトの。

 右目。

 さて……これで、問題は解決したわけだ。無事にサテライトを回収することが出来た。いや、まあ、無事っつっていいのか分らんけど、エレファントに逆らえる状態ではないということは確かだ。後は皆で帰還するだけである。ダメージ・コントロール。最悪なのは作戦が失敗することではない。それだけならばプラス・マイナスはゼロなのだから。最悪なのは、マイナスになるということ、こちら側に損害が出るということだ。

「レジスタンス。」

 その。

 前。

 に。

「撤退だ。」

 と、エレファントが、そう口にした瞬間に。天が崩れた。比喩でもなんでもなく、光り輝く天上の世界が……いや、違う。そうだ、思い出した。これは天ではない、いわば天蓋である。この戦場にいるものが、一人も、その者を支配しているところの闘争の運命から逃れることがないように。空間自体を閉鎖しているところの天蓋なのだ。

 レジスタンスが作り出した抵抗力の防壁。遠く遠くあちら側の岩山から遠く遠くこちら側の岩山まで、囲われた平野部を、外界から切断するための境界線。それが、今、その全体、一気に崩れ始めたのである。

 天が落ちてくる、天が落ちてくる。錆びたように光り輝く豪雨となって天が落ちてくる。いや、それは既に雨と呼べるようなものではなかった。どこまでもどこまでも続いている滝といった方が正しいだろう。

 ざあざあと、ごうごうと、どうどうと。光は、あらゆるものに降り注ぐ。木々に、大地に、アビサル・ガルーダに。そして、もちろん……五人のテロリストに。

 で。

 それが。

 起こる。

 ダニエルに降り注いだ奇跡の雨のように、その洗礼の注ぎ掛けのように、降り注ぐ光。それが、肉体を洗い流していく。既に抵抗力に覆われているレジスタンスのことを除いた四人の肉体を、エレファント・サテライト・プレッシャー・カレントの四人の肉体を。そう、洗い流していくのだ。文字通り、その錆びついた光が触れたところから、肉体であったところの形象が消えていく。

 戦場を封鎖するドームであった抵抗力が、降り注ぐ過程で変質し、テロリストの姿を隠すための迷彩としての効果を持つに至ったということだ。ざらざらとした光の瀑布、見る見るうちに四人の姿を覆い隠していって。とうとう四人の姿も感覚によっては捉えられないほど完全に消え去ってしまった。

 そういうわけで、これが予め決められていた撤退方法であった。あの天蓋を形作っていた抵抗力には逃走時の迷彩という用途もあったというわけだ。これで、後は、この付近に停機してあるスカイスティック(これも抵抗力によって隠されている)を使って拠点に帰還すればいいだけというわけだ。

 次第に。

 次第に。

 役目を果たし終えた。

 錆びた光の、滴礼は。

 その勢いを。

 弱めていき。

 やがては。

 完全な。

 雨止み。

 そして。

 また。

 アーガミパータの、太陽が。

 何もかも焼き尽くすような。

 未だ生まれぬ神卵が。

 その姿を現す。

 その太陽が。

 照らし出す。

 戦場に。

 たった。

 二人。

 残された。

 それらの。

 一つ。

 一つ。

 孤独な。

 肉体を。

 ああ。

 そう。

 それが生命だ。

 生き物は。

 その目を開いた時から。

 それを閉じる瞬間まで。

 いつも。

 いつも。

 孤独。

 なんにせよ、残されていたのはデニーと真昼との二人であった。そして、その二人ともが、それぞれの理由で、この戦場から姿を消したところの五人のテロリストについて気にしている暇などなかった。真昼はもちろん死にかけるのに忙しかったからだし、デニーとしては、もちろん、そうやって死にかけている真昼のことを心配するので忙しかったからである。

 あれほどの凄まじさで土砂降りであった抵抗力の雨にさえも気が付かなかったらしかった。それか、気が付いていてもそれどころではなかったか。なんにせよ、そういったあらゆる現象とは無関係な位置で行動しているところの、完全に独立した二人だけの個人的関係性だった。

 ある意味では、それは無限に甘美であるところの瞬間であるといえるかもしれない。永遠に限りなく近付いたところの漸近線。呼吸さえも、心臓の鼓動さえも、そこには入り込むことが出来ない。互いの主観、互いの客観、そういったものさえなくなった、純粋で切実な関係性だ。

 たすけて。

 たすけて。

 たすけて。

 そう、無言のままで訴えかける真昼の中には。既に、痛みも、苦しみも、無かった。これは精神的な理由というよりも、どちらかといえば、そういったなにかれを感じるための中枢神経系の部分がもう機能していないからなのであったが。

 このようにして、真昼の中からはあらゆるものが失われてしまっていた。不可逆的に、取り返しがつかない形で。真昼であったはずのあらゆるもの……真昼が手の中に握り締めていたはずのあらゆるもの。死んでしまう真昼は、もう手のひらをしっかりと握っていることさえ出来ない。その指の隙間から、まるで金の砂がこぼれ落ちていくように、何もかも手放してしまう。

 既に、真昼には、ほとんど何も残っていなかった。手のひらの中の残存物はこれだけだ、つまり、「たすけて」という言葉。いや、それは言葉でさえなかった、言葉であることをやめていた。それはもう少し虚無に近かった、正確にいえば虚無の場所だ。そこには言葉などなく、そこには主観などなく、そこには客観などない。ただただ、絶対的に無意味な何かがあるだけだ。

 それは救いに似ているかもしれない。とはいえ、人間が、救い、という時の救いとは全然違うものだ。なぜなら、人間が、救い、という時、それはまさに自分自身であるところの自分自身が救われるということを意味するからである。仮に、絶対他力による救済などと、人間がそういうとしよう。それでも、そこには、必ず自分自身という概念が混ざってきてしまう。なぜなら、そこには、救いに向かって縋りつくところの自分自身が不可欠だからだ。それがなんであれ、救いを求めていない何者かをどうして救うことなど出来るだろうか。人間にとっては絶対的他者など存在し得ない。なぜなら、それが他者と名付けられた瞬間に、必ず、自分自身との関係性の中に包摂されるからである。

 真昼の中に残されているものは、そういう意味では救いでさえなかった。それは、いうなれば、自分自身とは全く関係のない場所に、ただただ底知れない冷酷さで「ある」ものだ。全ての生けとし生けるもの、あるいは生きるということをしていない単純な物質でさえも、そのようにして「ある」もの。舞踏、歌唱、波の音、風の音。老いさらばえて何もかも忘れてしまった老人。それは……知ることが出来ず、計ることが出来ず、それどころか「自分自身を照らし出す光」でさえないもの。ただただ、世界の、原理として、「ある」、自動的な救済の絶対性だ。

 たすけて、という時、真昼は助けられることを望んでいるわけではない。そうではなく、既に、真昼は助けられているのである。その、たすけて、という言葉は。吐息のようなものだ。性の絶頂の時に、そっと漏らすところの、何一つ意味を持たない虚無の露呈なのである。そこには真昼はいない。「助けられた真昼」という場所があるだけだ。

 無意味なのである。意味がない。意味というものが必要なくなってしまった。必要さえも意味であるからには、この表現は少しおかしいかもしれないが。とにかく、真昼の、脳の、あの部位が、この部位が、その部位が、死んでいって、腐っていって。最後に残されたのは、本当に、真昼にとって、一番、一番、大切であるところのものだけだ。

 目の前に見える、この顔。

 耳元に聞こえる、この声。

 真昼の。

 体を。

 抱いている。

 この。

 腕の。

 感触。

 ああ……忘れてしまった。この男の名前を忘れてしまった。でも、そもそも、名前など必要だったのだろうか。必要ない、名前とは他者との識別のためにあるものだ。この男を、他者と区別する必要などない。なぜなら、あたしには、この男しかいないからだ。あたしには、この男のほかには、誰もいない、あたしさえもあたしにとってはどこにもいない誰かだ。あたしには、この男しかいない。あたしの中の全部はこの男で、そうならば、この男には名前はいらないはずだ。

 あたしの感覚が、この男で塗り潰されていく。それがどうしてこんなに心地いいんだろう。それがそれであるものがそれになっていく。そんな、どうしようもない安心感を感じる。ああ、あたしの中にある無駄なものが死んでいく。無駄なものだったのだ、だって、それらは、この男ではなかったのだから。いつか……恐れたこともあったかもしれない。あたしの全てがこの男になってしまうということを。なんて愚かだったんだろう。こんなに、こんなに、当たり前のことを恐れるなんて。

 ああ。

 たすけて。

 たすけて。

 その言葉を思うたびに、温かい満足感に包まれる。まるで生まれてくる前のような満足感に。だって、あたしは、もう、助けられている。確かに……確かに、この首は切断されて、ほとんどの血液が流れ出してしまっている。脳の組織の大部分が壊死してしまったせいで、意識は朦朧としている。でも、それがどうしたっていうの? ねえ、そんなことになんの意味があるの? どうでもいい、本当にどうでもいいことだ。痛みも、苦しみも、感じない。ただただ水槽の中に浸されているような些喚きがあるだけだ。

 だって。

 ねえ。

 この男は。

 絶対に。

 あたしのこと。

 助けてくれる。

 と、まあ、真昼のお気楽お花畑な脳味噌はこんなことを考えていたのだが。当の「この男」、つまりデニーは、完全にはわわわわ状態にあった。うわー、うわー、どうしよう! わー、本当にどうしよう! そんな感じである。

 基本的に、デニーでさえも、今の真昼にはなんの打つ手もない状態だった。これがもしも肉体の傷だけであったら、強くて賢いデニーちゃんのことであるからして、あっという間のちょちょいのちょい、ぱぱっとぴぴっと治してしまっただろう。首がほとんど真っ二つで、体内の三十パーセントどころか五十パーセント以上の血液が流出してしまっていて。その上、中枢神経の大部分が死滅していたとしても、デニーにとっては別にどうということはない。所詮は、単純極まりないホモ・サピエンスの肉体に過ぎないのだ。その程度の治療は、デニーにとって、二つしかピースがないパズルを解くようなものである。

 しかし、これは本当にマジで不幸なことに、真昼の首を切り裂いた衛星は、凄まじい量の魔学的エネルギーによって満たされていた。そのせいで……その刃が切断したのは、肉体的な真昼だけではなかった。霊体的な真昼も切断されていたのだ。こうなると話はぜーんぜん変わってきてしまう。霊体は、肉体とは異なり、さほど単純な原理で動いているわけではない。簡単にいえば、肉体は治せば治るのだが、霊体は治しても治らないのである。

 霊体の傷口からは生命が流れ出す。先ほども少しだけ触れたところの、魂が流れ出ていってしまうのだ。まあ、この表現は実は正しくなくて。正確には流れ出ていくのはスナイシャクであり、スナイシャクを失うことによって、魂と魄とを一体のものとして保っておくことが出来なくなるということなのだが。そういった詳細は、今はさして重要なことではない。ここで問題なのは、失ってしまった魂は取り返すことが出来ないということだ。

 そして、真昼は、既に、生命を保てなくなってしまうほどに魂を失っていたのである。確かにこれ以上のスナイシャクの流出を防ぐことは出来ないことではないが。そんなことをしても大して意味はない、今すぐ死ぬか、あるいは生きながらにして腐敗していくかのように死んでいくか、それくらいの違いしか生まれない。どちらにせよ魂魄は一体を保てなくなっているのであって、いずれは、真昼の中の全ての魂がジュノスへと還っていく。

 わーあ!

 死んじゃう!

 死んじゃう!

 真昼ちゃんが死んじゃう!

 どーしよー!

 今のデニーは……今までのそれとは異なり焦っているふりをしているわけではなかった。大して焦ってもいないのに口先だけは焦っているようなことを言っているわけでもなかった。本当の、本当に、本気で焦っていた。

 いうまでもなく、普通の場合であれば。たかがホモ・サピエンスが一匹死んだところでデニーちゃんは痛くも痒くもない。だって、こんな下等な生き物! 人間にとっての蚤だとか虱だとか、そんな感じなのである。あまりにも卑小過ぎてどれもこれもさして変わらないみたいに見えるし、実際に同じようなものだ。死んじゃったとしても、新しいのを奴隷市場から買ってくるか、あるいは別にいなくても大勢に影響はないから放っておくか。その程度のどーでもよさなのである。

 ただし、真昼は違う。真昼だけは違う。だって、真昼を生きたまま連れて帰らなければ。傷一つなくとは言わないまでも、少なくとも取引に使えるレベルの状態で連れて帰らなければ。デニーちゃんはボーティに怒られてしまうのだ! ボーティとはコーシャー・カフェのボスであり、デニーの「契約者」でもあるところの、ターナー・ジョージ・ボートライトのことであるが。そのボーティが、今回の真昼ちゃん救出大作戦をデニーに対して命じたのだ。

 ということは、ここで真昼ちゃんが死んでしまった場合、デニーちゃんはその命令を果たせなくなってしまうことになる。そうなれば、ボーティは、もうめちゃめちゃに怒るだろう。いや、めちゃめちゃというのを通り越して、んめたゃんめたゃに怒ってしまうかもしれない。

 今回の作戦は。今までは、それが何かということさえ、ずっとずっと手掛かりがなかったところの、バーゼルハイム・シリーズについて。ようやく訪れた、なんらかの情報を掴むことが出来るチャンスなのだから。こんなチャンスはもう二度と訪れないかもしれないのである。

 そんな重要な作戦を失敗するなんて……ボーティは、キラーフルーツ・ボーティというその通り名の通り、「生まれつき心臓が冷凍食品のパッケージに包まれて生まれてきたのですか?」と問い掛けたくなるほど冷酷な人間なのであって。そんな人間がんめたゃんめたゃに怒ったら、一体どんなことをしでかすか! 想像したくもないほどロックンロールである。

 っていうかさーあ、だいたいさーあ……これ、デニーちゃん悪くなくない? さぴえんすが、こーんなに簡単に死んじゃうのが悪いんだよ! デニーちゃんは悪くない! ぜーんぜん悪くないもーん!

 なんてーことを。

 いっている。

 間にですね。

 真昼はどんどん冷たくなっていっているのだった。これは物理的な温度として冷たくなっているというだけではなく、生命のエネルギー自体が弱まっているということであって。要するに、確実に死に向かってフォーリン・ラブし続けているということである。先ほども書いたように、既に、中枢神経系のうちの苦痛を感じる部分はお先に失礼してしまっているので。今の真昼が感じているのは、少しずつ自分がなくなっていくという恍惚感だけだ。安らかな、安らかな、顔をして。ふうっと、瞳孔が開いていく……デニーのことを純水のような透明さで映し出している、その両目の焦点が合わなくなっていく。

 「はわわ、真昼ちゃん! そんな安らかな顔しないで!」。そのようなことを必死になって訴えかけながら、真昼の体をゆさゆさとしているデニー。ちなみにデニーは、真昼のこと、カトゥルンの体を抱き上げるトラヴィールのように抱き締めていた。左腕で肩を支えていて、右腕で脚を支えていて。まあ、いってしまえばお姫様抱っこのような形だったということだ。

 つまり何がいいたいのかといえば、デニーの真ん前に真昼の顔があるということであって。その顔を見ていると、真昼が死んでいっているということがよく分かるのである。血液を流し過ぎたせいで、静かな静かな新雪のように、白々しく透き通っていく肌の色。口元は、既に閉じているだけの力さえなく、ぽかんと開いたままになっている。生命が、消えていっている。

 「ふえぇ……」「どーしよ! どーしよ!」、わたわたとするデニー。と、ここで、読者の皆さまにおかれましては、一つの疑問が出てくるかもしれない。ちょっとおかしいのではないだろうか? だって、デニーのように強く賢い生き物であるのならば。無駄なことをするのは無駄だということは分かり切っているはずだ。もしも、本当に、一つたりとも打つ手がないとすれば。このように、無意味にあわあわしていないで、さっさと諦めた方がいいはずである。真昼のことなど諦めて、何か他の方法を考える。ボーティに怒られないための手段を考えて、それを実行に移した方が、全然建設的なはずである。それなのに、なぜ、デニーは、このようにあわあわしているのか。その答えは簡単であって、そう、打つ手がないわけではないのだ。

 真昼ちゃんをなんとかする方法は、ないわけではない。ただ……それは……ちょっとばかり、こう、なんというか……アレなのだ。アレがアレで、ナニがナニなのである。いや、これじゃなんも分かんないか。えーと、つまりですね、この方法を使うと……真昼ちゃんがマジ切れする可能性があるのだ。

 それはもう怒りまくるだろう。尋常じゃないくらいにぷんすこぴーして、下手すれば殴られるかもしれない。いや、下手しなくても殴られる。確実に殴られる。デニーちゃんとしてはそのような展開は極力避けたいのであって……いや、別に殴られるのが嫌ってわけじゃないんだけど、なんというか、ほら、こう、出来る限り本人の意思に背くようなことはしたくないじゃん? だから、この方法は使いたくないのだ。

 ということで、その方法を使わなければいけなくなる、そのぎりぎりの瞬間まで。デニーは待っているのである。何か、その方法を使わなくてよくなる展開が起こるのを。びっくりするような奇跡的な出来事が起こることを。デニーは、ホモ・サピエンスのような脆く儚い生き物よりも、ずっとずっと長い星霜を生きてきたのであって。奇跡というものが往々にして起こり得るものであるということを知っているのだ。これほど賢いデニーでさえも計り知れないような奇跡が。

 そう、奇跡は起こる。起こる時には。ただ、どうも今はその時ではないらしい。待っても待っても雨が降ってくるような気配はない。フェト・アザレマカシアから降り注ぐところの奇跡の雨は、ぜーんぜん降ってこない。まあ、それはそうだろう。ここはアーガミパータ、全てを焼き尽くすような太陽が降り注ぐ地獄であって。雨季でもない限り雨など望むべくもない。

 刻、刻、時が刻まれていく音が聞こえるみたいだ。デニーは正確に理解している。後、どの程度、真昼がもつのかということを。はっきりいってしまえば七秒しかもたない。いや、六秒になった。あー、五秒になった。とにかく、もう、これ以上は待っている時間がない。決断しなければいけないのだ。真昼がどれほど怒り狂おうとも……それを、するということを。

 真昼から、スナイシャクの最後の一滴が流れ出そうとしている。真昼の生命の一部であったところの魂が、全て、全て、ジュノスに還ろうとしている。真昼は、真昼の顔は、うっとりとしていて。何も見ていないはずの目で、それでもデニーのことを見ていた。ねえ、あんたは、あたしのことを救うでしょう? だって、あたしのことを救わなければ、あんたの「仕事」は台無しになってしまうから。まるで、そういっているように。

 そう、その通りだ。

 デニーは。

 真昼のことを救わなければいけない。

 自分に損害が及ぶことを防ぐために。

 ただそれだけのために。

 デニーは、わあーっという感じ、大きく口を開いて。声なき声でわあーっと言った。はわっ、はわっ、という感じで辺りを見回す。けれども、デニーと真昼とがいるその周囲には誰もいない。正確にいえばアビサル・ガルーダはいるが、今のこの状況をアビサル・ガルーダがなんとか出来るわけがない。

 これは、もう。

 どうしようもない。

 あの方法、を。

 使う以外には。

 デニーは、すひーっと息を吸った。それから、ほへーっと息を吐く。それから、軽く、天を仰ぐように顔を上げて。「んもー!」と大きな声で叫んだ。「真昼ちゃん!」「これしか方法がないの!」「だから、怒らないでね!」。真昼に向かって視線を下ろしてから、急いで、そう断る。

 そして。

 それから。

 デニーは。

 ぐっと上半身を傾けて。

 自分の顔を。

 真昼の顔に。

 近付けると。

 そのまま。

 自分の口で。

 真昼の口に。

 ちゅっと。

 キスを。

 する。

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