第二部プルガトリオ #58

 エレファントは、デニーのその言葉に答えるかのようにして、ガントレットに包み込まれた左腕を動かした。ざらり、という金属と金属とがすれる音がして、ガントレットは、エレファントの体の横の辺りまで持ち上げられて。それから、エレファントは、全身を一つの巨大な発条にしようとでもしているみたいにして……深く深く腰を落としながらガントレットを振りかぶった。

 何かが……何かが、そのガントレットに纏わりついているようだった。それは、はっきりと目に見えるわけではない。物質そのものというのではなく、エネルギーそのものというわけでもなく。むしろ、そういった具体的な現象が持っているところの傾向性のようなものだ。それ自体が暴れ狂うような熱量を放っているアウラ。そのアウラが、ガントレットの周囲に存在している魔学的エネルギーを、ガントレットに向かって集中させている。どうやらそういうことらしい。そして、そのために、エレファントのガントレットには……ほとんどセミフォルテアにも匹敵するであろう、強力な魔力が込められているのだ。

 骸車は。デニーと真昼とをその上に乗せたまま、猛然たる勢いで、線路の真ん中に立っているエレファントに向かって突撃していく。大量の空気が切り裂かれて、押しのけられて、ごうごうという音を立てている。骸車を形作っている一つ一つの死体の口が開き始め、デニーのローファーに踏みつけられている死体の口も開き始め。やがて、それらの口が、また一つの音を叫び始める。警笛としての絶叫、警笛としての咆哮。

 そういった、普通の人間であったら間違いなく怖気付いてしまうような状況にも、エレファントは全く感情を動かされた様子はなかった。ただただ、淡々と。ある種の凍り付いた諦念さえ感じさせる態度で待ち受けているだけで。骸車とエレファントと、それらの二つの物体の距離は、見る見るうちに近付いていく。具体的には時速千エレフキュビトの速度で近付いていく。ああ、もう少し、もう少しで、その瞬間が来る。

 二点間の距離。

 三ダブルキュビト。

 二ダブルキュビト。

 一ダブルキュビト。

 デニーは笑う。

 デニーは笑う。

 そして、デニーは。

 その様を見ている。

 エレファントが。

 振りかぶっていた。

 ガントレット。

 全力で。

 骸車に。

 叩きつける。

 様を。

 決定的な瞬間というものは往々にしてスローモーションに感じられるというが、どうやらそれは事実であったらしい。まずは、世界の全体を支えている軸がずれてしまったかのような、「どっ……」という物凄い音がして。その後で、暫くしてから、宇宙そのものを洗い流す洪水にも似た「……かーん!」という音がした。いうまでもなく、これは二つ合わせて「どっかーん!」という音だったのであって。そして、その音は、エレファントのガントレットが骸車を打ち砕いた音だった。

 あれほどの重さの物体が、というのは人間の死体を固めて作った五ダブルキュビトかける五ダブルキュビトかける二十ダブルキュビトの箱を二エレフキュビトの長さにわたって繋げた物体という意味であるが、それほどの重量を持った物体が、あんな速度で激突したにも拘わらず。エレファントは体幹さえ揺らぐことがなかった。いともやすやすと、その衝撃を受け止めて。そして、反対に、その衝撃によって骸車を攻撃したのだ。

 ガントレットが纏っていた魔学的エネルギーも相まって。そんな攻撃をされた方の骸車はたまったものではなかった。以前にも書いたことであるが、そもそも、アーガミパータ霊道というシステムにおいてこの骸車はさほど重要な構成要素ではない。霊道に描かれた魔学式によって、辛うじてその形状にまとめ上げられている程度の物なのである。ということで、これほどの衝撃を受け止めるだけの耐久力なんてあるはずがなかった。

 ガントレットに激突した、まさにその部分から。骸車の車体は、歪み、捻じれ、ひしゃげていった。あまりにも強過ぎる力、それを別方向に逃がすことさえ出来ないで。結果的に、車体の中でも最も弱い部分に対して徹底的なダメージを与えることになる。要するに、死体と死体との接合部分に。

 ぎんっという感じの、あたかも金属基本子と金属基本子との間に剪断が走るような音を立てて、死体と死体との間に破綻が走り始める。車体の先端から始まって、その破綻は、見る見るうちに車体の全体を覆い尽くして。そして、一瞬の躊躇いの後に、骸車は完全に崩壊した。ばらばらになった、死体、死体、死体。大量の死体で出来た集合体のようなものになって、勢いよく上空に飛び散っていったのだ。

 恐らくは……物理的なダメージだけでこうなったわけではないだろう。エレファントのガントレットは、打撃の瞬間に、内部に満ちていた魔学的エネルギーの大部分を骸車に向かって一気に解き放ったに違いない。その奔流が、骸車の全体に勢いよく流れ込んで。その負荷のゆえに、形状維持のために使われていた魔法が吹き飛んでしまったという理由もあるのだと思われた。

 まあ、そういった細かいことはどうでもいいんですよ。問題なのは、骸車が弾け飛んでしまったということ。そして、その骸車の上にはデニーと真昼とが乗っていたということである。幸いなことに……二人は、先頭の車両に乗っていたわけではなかった。しかしながら、あまり幸いではないことに、二人が乗っていたのは二番目の車両であった。

 エレファントのガントレットを作用点として、随分と気前よく跳ね飛ばされていく一両目。これで勢いが弱まってくれて、慣性もいい感じに減耗していき、骸車の全体がゆるゆると止まってくれればよかったのだが。残念なことに、そんなに都合よく物事が進むはずもなかった。時速千エレフキュビトの速度で走っている物体がそう簡単に静止状態へと移行するわけがないのである。

 ということで、一両目は順調に個々の死体へと分解されていって。とうとう二両目が崩壊作用点にまで到達した。崩壊作用点ってなんかかっこよくない? それはそれとして、二両目は……一両目と全く同じように、ガントレットが与える物理的及び妖理的なパワーによって、ばらばらの死体に破綻した。

 死体は、まるで春先の嵐によって巻き上げられた桜の花びらのようにして、次々に舞い上がっていく。顔が潰れた女の死体、両足が欠損した男の死体、乾き切った子供の死体、腐りかけた老人の死体。非常に多様性に溢れた死体が、乱れ踊るようにして青空へと吹っ飛んでいく。そして、そんな中で……デニーと真昼とは、一体どうしていたのか?

 もーっちろん! 強くて賢いデニーちゃんが、ただただぼんやりと、されるがまんまであったわけがないのであります! ガントレットが二両目の鼻先に触れた、まさにその瞬間に。デニーは、このような状況において、考えられる限り最も効果的な対応をした。つまり、降車したのだ。

 ダメージを受けているのは車両なのであって、車両から離れてしまえば、その影響を受けることはない。当たり前のことですね。まあ、ただ、二つほど問題がないわけではなかった。一つ目は、二人が乗っていたのが車両の上、屋根の上だったということ。二つ目は、今、この瞬間にも、その車両がめちゃくちゃに分解し始めているということ。

 というわけで、ごくごく普通に車両乗降口から駅のホームへと降りていくわけにはいかなかった。それではどうしたのかといえば、デニーは、まるで死んだ生き物の生命を死神が攫っていくかのようなやり方で、これほどの状況下でも薄ぼんやりぽけらぽんと座り込んでいた真昼のことを引っ掴むと。そのまま骸車の天井を蹴り飛ばして、鮮やかな飛翔、上空に向かってスーパービッグなスーパージャンプをしたのだった。

 うーん、とってもスーパーですね。ちなみにsuperという言葉はホビット・ヴェケボサン祖語であるところのeks-uperを語源としており、このeks-uperは「外的な超越者」を意味する言葉だ。ということでまさしくデニーちゃんにぴーったりな言葉なのである! それはともかくとして、デニーが飛び跳ねるとともに、デニーの周囲には大量の死体が飛散する。

 これはデニーにとっては大変好都合なことであった。それには二つの理由があり、まず一つ目は骸車から降車するデニーと真昼との姿、この死体の大群が覆い隠してくれるからである。まあ、強くて賢いデニーちゃんには隙というものがないので、このタイミングで攻撃されても問題ないといえば問題ないのだが。とはいえ、REV.Mがどのようなスペキエースを連れてきているのか分からない状況では、なるべくであれば万全な状態で迎え撃つようにしたいというのも事実である。

 それから二つ目の理由であるが、これは至極単純な理由で、これらの死体がデニーの足場になるからである。デニーは……引っ掴んだ真昼のことを、きゅっと抱き締めるみたいにしてお姫様抱っこすると。それから、一番近くにあった死体、とんっと右足で踏んだ。それを軽く蹴って、次の死体、次の死体、次の死体。次々に死体を足場にして、蹴り飛ばして、アーガミパータ霊道から離れた場所へと向かって移動していく。

 なるべく広い場所に、なるべく開けた場所に。襲いくる何者かが一体どのような能力を持ったスペキエースであるのかということ、可能な限りの感覚によって確認出来る場所に。そうして……デニーは、アーガミパータ霊道があった場所から、数十ダブルキュビトほどの距離の場所まで来ると。そこで、可愛らしくもくるんと一回転してから地上に着地した。スーツの裾が、いかにも優雅かつ瀟洒なひらめきかたで揺らめいて。デニーは、にぱっとした笑顔を浮かべて、アーガミパータ霊道の方向に振り返る。

 そんなデニーの周囲に、次々と死体が降り注いでいくる。デニーは吹き飛ばされた死体が到達しうる最大限の距離まで移動したというわけではなかった。むしろ、その距離の中ほどまでしか移動しなかった。死体は崩壊作用点から直径にして五十ダブルキュビト程度の距離の円を描くようにして飛散したのであって。デニーは……その円の中に立っていた。

 ぐちゃり、べちゃり、ばきん、ぼきん。生理的に不快感を催させる音を立てながら、腐り切った肉と乾き切った骨とが地上を彩っていく。だが、そんな死体の雨霰もいつまでもいつまでも終わらないというわけではない。ちょうど、デニーが着地したくらいのタイミングで。向こうの方、エレファントのガントレットに向かって突撃し続けていた骸車の勢いが弱まってきていた。

 というか、もうほとんど停止しかけていたというか。ということで、骸車は、八両目までがばらばらに砕けて吹っ飛んだ後。九両目の中ほど辺りで、ようやく完全に停止したのだった。残りの車両は、やはり慣性のエネルギーを逃がし切ることが出来ず。車両と車両との間の連結部分でぐにゃりとへし曲がってしまい、一部分は線路から外れて、上空から見るとちょうどのたうち回っている蚯蚓のような有様になってしまったのだった。

 さて。

 ところで。

 その場所。

 は。

 ついさっきデニーが言っていた通り、周囲のほとんどが岩山であるところの、比較的平らな土地であった。全体的に乾いた下草に覆われていて、緑と黄との中間くらいの色合いの土地。ところどころに灌木が生えていたり。あるいは、枯れて倒れて、白く乾いた骨のようになった喬木が転がっていたり。そのような平野部分の向こう側に、剥き出しになった灰色の岩壁が聳え立っている。そんな場所であった。

 そして、死体の乱舞・落下が終わると。後は降り続く雨となる。雨というのは、例のvanity fireを消し去った雨のことであって。ということで、この場所を覆っている天蓋は、見渡す限り雲のない青空のままであった。太陽を遮るものは何一つ存在せず……いや、ちょっと待って。何か、何かがあそこに見える。

「おいおい。」

 何か。

 とても醜くて。

 とても愚かな。

 生き物。

「無様じゃねぇか、クイッドクイッド。」

 その生き物は、喉に詰まっていた膿を吐き出すかのような、至極忌々しげな口調でそう言った。もちろん、その言葉が向けられた先はデニーと真昼とであったのだが、そうなるとクイッドクイッドという言葉の意味が気になるかもしれない。これはホビット語の単語で、汎用トラヴィール語でいうところのwhateverにあたる。「それが何であれ何かしら」だとか「それが誰であれ誰かしら」だとかいう意味を含んでいて、転じて「ごく普通の」「ありふれた」という意味が生まれた。そのため、スペキエースが、なんの能力持たない「ごく普通の」「ありふれた」人間のことを侮蔑的な意味を交えて呼ぶ時にこの単語が使用されるようになった。

 ということで、このクイッドクイッドは間違いなくデニーと真昼とに向けられた言葉であった。呼びかけられたのならば答えなければいけないだろう。デニーは、その言葉を発した生き物の方を見上げて――ちなみに、その生き物は、ちょうどエレファントがいる辺り、つまりアーガミパータ霊道の真上、上空十五ダブルキュビトくらいのところにふわふわと浮かんでいたのだが――ぱーっと光り輝くような明るい口調で、こう言う。

「あっ、サテちゃん!」

「サテちゃんって呼ぶんじゃねぇっつってんだろ、クソ野郎!」

「元気してた?」

「はんっ! てめぇの質問に答える義理はねぇな。」

「わー、サテちゃん、義理なんて難しー言葉を知ってるんだね。」

「は?? こいつ……馬鹿にしてんのか!?」

 その生き物は……つまり、サテライトは。まあ、登場した時点では、余裕ありげに振る舞おうというか、不気味な落ち着きを見せることで相手にプレッシャーを与えようというか、そういう態度をとっていたのだが。ただ、デニーと二言三言交わしただけで、すぐにサテライトらしいサテライトに戻ってしまった。つまり、ぷんすこぴーという感じのサテライトだ。

 っていうかさ、そもそもの話として、そんな高い位置に浮かんでる必要ある? まあ、エレファントが攻撃を仕掛ける前だったら、デニー達に見つからないように高い場所で待機しているのも分かりますけどね。今となっては、見つかっちゃってるんだから、もう少し会話がしやすい距離にまで下りてきてもいいのではないだろうか。馬鹿と煙は高いところが好きというが、馬鹿というのはつまりサテライトのことであって、要するにサテライトは高いところが好きなのである。

 ところで、サテライトは。暫くの間、空中で地団駄を踏むという大変器用な真似をした後で、歯を噛み潰してしまうんじゃないかと心配になるくらいぎりぎりと歯軋りをして。それから、デニーと真昼とがいる辺りをずびしっと指差して、何かを叫ぼうと口を開けた……だが、その声が喉をぶっちぎって出てくる前に、エレファントが動いていた。

 というか、エレファントは随分と前から動いていたのだ。具体的には、骸車が完全に停止した直後。ガントレットの打撃によって、その勢いを完全に削ぎ落としてしまった後で。エレファントは、すぐさま、デニーの姿がある方向に目を向けていた。

 ぎっと奥の歯を噛んで、全身に力を入れて。すっかり骸車にめり込んでしまっていたガントレットを引き抜くと。今度は、それとは反対の腕、つまり右腕を自分自身の目の前に向かって持ち上げた。暫くの間、調子を確かめるみたいにして、ぐっぱーぐっぱーという感じ、開いたり閉じたりしていたのだが。やがて、その右腕の表面が……さらさらと、まるで早朝の海がさざめくみたいにして揺れ動き始めた。

 徐々に徐々に、風船に向かって息が吹き込まれていくかのように。その右腕は膨れ上がっていって……最終的には、左腕と同じような巨大なガントレットにまで成長した。

 それから、間髪を入れることなくエレファントは駆け出していた。全体が金属で出来た巨大なガントレット、しかもそれが二つ。どれほどの重さであるか想像もつかないほどであったが、それでも、エレファントは、そんな重さを感じさせないほどの速度で走っていた。ガントレットを引き摺りながら、デニーに向かって突進していく。そして、大体五ダブルキュビト程度の距離にまで来た時に……不意に、飛んだ。

 考えられないほど軽やかな跳躍だった。あれほどの重量を負荷としていながら、たかが人間が、これほどやすやすと飛び上がることが出来るとは。エレファントは、軽々と、数ダブルキュビトの高さまで飛び上がって。放物線の頂点まで来たところで、両の手を合わせてしっかりと握り合わせた。二つの手のひらだったものを一つの拳にしたのだ。

 しかも、それだけではなかった。それが一つとなった瞬間に、表面に罅でも入っていくようにして、その拳の全体に何かの模様が現れ始めた。それは……そう、間違いない。魔法円だった。さして複雑な魔法円ではない。デニーがミセス・フィストとの戦いで使ったような高度な魔法円とは比べるべくもない。ゲリラ兵だとか傭兵だとかがよく使うようなコーモスと呼ばれるタイプ、原始的な詩行に過ぎない。

 とはいえ、それは間違いなく魔法円なのであって。しかも、それが描かれた拳は、ゼティウス形而上体にも届きそうなほどの魔学的エネルギーで満たされた赤イヴェール合金によって形作られているのである。コーモスは……構造が原始的であるがゆえに、かえって、それに費やされる魔学的エネルギーの多寡に影響されやすい。つまり、これほどのエネルギーを、一気にこの魔法円に込めて発動させれば。

 ガントレットが纏っていた光。

 描かれた魔法円へと。

 収束、して、いって。

 拳の上に。

 描かれた。

 卑賎で。

 粗野な。

 詩行は。

 夢さえも切り裂けそうな。

 悍ましい光を放ち始める。

 エレファント。

 は。

 自動打抜機のような。

 非情なまでの正確さ。

 に。

 よって。

 その拳の照準を。

 デニーの頭上に。

 合わせて。

 そうして。

 その後で。

 たった一言だけ。

 口ずさむように。

 こう言う。

「treme。」

 さて、それでは、今まさに攻撃を受けんとしている方のデニーは、それに対してどう反応したのかといえば。「んもー、エレちゃんってば!」「まだご挨拶の途中ですよ!」とかなんとか言ってから。それから――これはかなり難しいことだと思うのだが――真昼のことをお姫様抱っこしていた両手、そのうちの右手をぱっと離して。左手と右腕とだけで真昼の体を支える状態になった。

 そして、そのようにして空いた右手は。小指と薬指と中指とを軽く曲げて、親指をぐっと立てて。それから、ぴんと伸ばした人差指、この時にも振り下ろされ続けているエレファントの拳に向けた。それは、例えばその手の中に拳銃を握っているかのような形であって……例えば? いや、違う。それは比喩ではない。

 デニーの右手、その周囲にぱっと灰が飛び散った。死に絶えた世界から降り注ぐ灰、デニーのオルタナティヴ・ファクトを特徴付けているあの灰だ。そして、次の瞬間には……デニーの右手には、デニーちゃんカスタマイズのHOL-100が握られていた。きっと、人間程度の感覚では捉えられないほどの速度でオルタナティヴ・ファクトを展開して、そこから拳銃を取り出したのだろう。

 無論、それはただなんとなく取り出されたのではない。拳銃としての役割を果たすために取り出されたのであって、そして拳銃の拳銃たるべき役割とはぶっ放されることである。そのようなわけでありまして、デニーは、その拳銃が現れた次の瞬間には引き金を引いていた。

 装填されていた弾丸は詩弾、しかも「罪食い」の詩弾だった。皆さん、ちゃんと覚えていますか? 「罪食い」の魔法円が持つ効果を。それは、その魔法円の中に、他のあらゆる「力」を飲み込むという能力。詩弾は、エレファントの拳に着弾すると。すぐさま、その周囲に魔法円を展開させる。なめらかな曲線は円として一つの境界線を完結させ、その内部には、九角形と九芒星とが描かれて。そうして、その魔法円の析出者の名前が刻まれる……「磁器で出来た白い蛆虫」。

 それは、デニーと真昼とを守る一枚の壁となる。その壁によって、エレファントの拳は受け止められて……とはいえ、このことはいくら強調しても強調し過ぎることはないと思うのだが、エレファントはサテライトではない。かなり前にも一度書いた通り、エレファントとサテライトとのコンビにおいて、エレファントの役割は「馬鹿ではない」ということだ。そう、エレファントは、サテライトとは違い、決して馬鹿ではない。

 エレファントが口ずさんだ言葉、treme。それはホビット語である。つまりは、書かれた文字におけるリンガ・ゲバル・ホビッティカと同じように、それ自体がある種の法則を有している言葉なのである。それは、無意味に発された言葉ではない。拳に描かれたコーモスを補完するための言葉、ある一定の方向に集中させるための言葉だったのだ。

 それでは、その方向とは何か? tremeはtremoという単語の命令形であり、tremoは「震える」という意味の動詞である。要するに、tremeは「震えろ」という命令なのだ。ちなみに、拳に書かれたコーモスは、元素術におけるエーテル操作のコーモスであって。この二つを合わせると、結果的に光震という特殊な魔法を発動することが出来る。

 これは、簡単な比喩を使えば、対象となる魔学的構造物に対して地震のような効果を与えるものだ。攻撃者が持つ震度と、防御者が持つ耐震性。その二つを比較して、もしも攻撃者が持つ震度が勝っていたのならば、その防御者を破壊することが出来る。ちなみに、この光震は、対魔学的構造物に特化しているため、例えば、デニーが作り出したような魔法円による障壁に対しては、相性的にいって非常に有利な条件にあるのだが……とはいえ、そういったことを説明すると複雑になってくるので置いておこう。

 つまるところ、ここでいいたいことは。エレファントの攻撃はそもそもデニーを狙ったものではなかったということだ。デニーが障壁を作り出すなんてことは分かり切ったことであったのであり、それを破壊するためのものだったのである。

 これが、もしも、普通の攻撃であったのならば。いくら強力な魔法であったとしても「罪食い」を破壊することは不可能だったろう。それは魔学的エネルギーを注ぐために作られた器のようなものであって、全てはその内側に収められてしまうからだ。だが、光震は……そういった器そのものに対する攻撃だ。

 打撃が魔法円に与えた衝撃。それが、非常に微細な振動となって、魔法円の全体に浸透していく。波動は……その内側で反射して。幾つも幾つもの独立性を有する波動が、重ね合わせの原理によって増幅された合成波、その魔法円を内側から攻撃していく。それは、あたかも、地震が、強固な建造物を倒壊させようとしているかのように。

 やがて、その振動は「合唱共振点」に到達する。これは、つまり、魔法円が持つ固有周期と光震の振動周期とが完全に一致したということである。光震の効果は最大となり、そして、魔法円は、とうとう……ぱきん、という呆気ない音を立てて割れてしまう。魔法円の全体に入った罅、そこから粉々に砕けて。その障壁は打ち破られてしまう。

 それに対して。

 デニーは。

 あたかも全てが。

 他人事であるかのような。

 そのような態度によって。

 こう呟く。

「わーお。」

 とはいえ、むざむざとその拳の餌食になったというわけではない。エレファントがサテライトではないように、デニーもやはりサテライトではないのだ。この世界でサテライトほどにサテライトなのはサテライトだけなのであって、その意味でサテライトはオンリーワンといえるだろうが、馬鹿のオンリーワンであるくらいならメニーアザーズの方がマシだと思っている人々はこの世において決して少数派ではないだろう。

 デニーも、別に、この魔法円でエレファントの拳を防ぐことが出来るとは思っていなかった。あくまでも一時的に止めることが出来ればよかったのだ。その間に、というのは魔法円がエレファントの拳を止めている間にということだが、デニーは、このような状況下で最も賢明な行動をとった。つまり、その場から一躍、後ろに退いたのだ。

 エレファントの方を向いたままで、後ろ向きに跳ぶ。とすっ、という音を立てて、ちょっと見ただけではほんのお遊びみたいなジャンプの仕方だった。僅かに後ろ向きに倒れ込むような姿勢をとってから、そのまま、片足だけでジャンプするといった感じ。ただし、その一歩、一回だけのジャンプで、デニーは五ダブルキュビト近い距離を移動してしまった。

 エレファントの拳は。

 そのまま。

 誰もいない大地の上。

 勢いよく、叩き潰す。

 ずどんっ、という。

 爆発するような音。

 インパクト。

 大地を抉り。

 しかしながら、どれほど大きなクレーターを作ろうとも、どれほど深いクレーターを穿とうとも。エレファントの攻撃は空振りであった。デニーも、真昼も、傷一つないままで。さて、これで一安心……と思った瞬間に、エレファントが、また口を開く。

「ハッピー・サテライト。」

「わーってるよ!」

 すっかり忘れてしまっていたのだが。

 上空にはサテライトが浮かんでいた。

 エレファントの合図で。

 その全身。

 不気味に。

 痙攣させる。

 それは……例えば、サテライトの神経系、さほど複雑とはいえない回路に、一時的に膨大な負荷がかかったような痙攣であった。サテライトという中枢に向かって、無数の末端が、その瞬間に、一斉に接続したかのような。

 もちろんこの比喩は比喩ではない。実際に、サテライトは接続したのだ。無数の末端に、無数の衛星に。そして、サテライトが身震いしたのと全く同じように無数の衛星も身震いする。全身に纏っていたものを払い飛ばす。

 その纏っていたものは。

 錆びついた色をした光。

 つまり。

 今、この場所に。

 降っている雨と。

 同じ。

 何か。

 この光は、物質というよりも純粋な「影響力」に近いものなのであるが……これが何かということについては、もう少し後、ブリッツ・クリーク三兄弟というクソダサい名前の三人組が現れるタイミングで説明しようと思っているので、ここでは深く踏み込まないでおこう。

 なんにせよ、ここで理解しておいて欲しいのは、この「影響力」がある任意の現象を妨害することが出来るということだ。対象となる現象はなんでもよく、例えばvanity fireが持つ無原罪の力を妨害することも出来れば、もっと単純に……感覚が対象とするあらゆる要素の流出を妨害することも出来る。

 要するに、この「影響力」を身に纏うことはある種の迷彩を身に纏うのと同じ効果があるのだ。ということで、サテライトが何をしたのかというと。身震いをさせることにより個々の衛星から「影響力」を払い飛ばして。そこにいた衛星の姿、迷彩によって覆い隠されていた衛星の姿を現わしたのである。

 それは。

 本当に。

 無数の。

 そこに何もなかったはずの空間に、まるで手品か何かのように、数え切れないほどの衛星が出現した。一つ一つの衛星は、そのグロテスクな形状から、払い落とし切れなかった「影響力」のしずくをしたしたと垂らしている。そして、その「影響力」によって濡れている部分だけが、未だに感覚によって感覚されるという現象を妨害されていて。あたかも、何も存在していない虚無のように。その向こう側さえも見えるほどに透き通っている。

 一体幾つあるのだろうか。衛星は……既にアステロイド・ベルトといった感じだった。サテライトがいる場所を中心として、半径数十ダブルキュビトの距離にわたって広がっている小惑星帯。小衛星帯? まあいいや、とにかく、なんだかちょっと馬鹿みたいにさえ見える数の衛星。

 サテライトは。

 それらの、衛星達を。

 満足そうに見渡すと。

 いかにも憎々しげに、首を傾げて。

 ぎいっと、頬から耳にかけて。

 引き裂いたような笑顔をして。

 ぎらぎらと異様に光る眼。

 こう。

 言う。

「踊れ、クソが。」

 もちろん、その瞬間に、全ての全ての衛星がデニーに向かって突撃した。「ハハハハハハハハッ!」という例の耳障りな嘲笑を絶叫しながら、体中に悪性の腫瘍みたいにして開いた口で気が狂ったように笑いながら、デニーに攻撃を仕掛けた。

 デニーは「んー!」「ダンスのお誘いは断れないよね!」みたいなこと、尋常ではないくらい呑気な口調で言うと。またもや、たんっという感じで大地を蹴って跳んだ。とはいえ、今度は後ろ向きに跳んだというわけではなく……ごく単純に、自分の真上に向かって飛んだのだったが。

 そのまま、すとりっというようにして、一番手近にいた衛星の上に飛び乗る。乗られた方の衛星は、「ハハハハッ?」という笑い声をあげながら、自分の身に何が起こったのかということがよく分からなかったようだった。身をよじって、自分の上に何が落ちてきたのか確認しようとするが。残念ながら、その行動を完遂するだけの余裕はなかった。

 周囲にいた全ての衛星達が、一斉に、その衛星の上に飛び乗ったデニーに襲い掛かったのである。そういった衛星の数は、あまりにも多過ぎて。デニー及び飛び乗られた衛星は、お団子のように群がった衛星達によってその姿さえも見えなくなった。

 いや、ちょっと待て……あれはなんだ? あれは、デニー(とその腕に抱えられた真昼)だ。先ほどまで上に乗っかっていた衛星の、少しだけ斜め上にある衛星の上に、涼しげかつ可愛らしげな顔をして立っている。衛星達がお団子を形成する直前にそこを抜け出していたらしい。

 オールド・ファッションドなコメディ、それはまさにサテライトの人生を端的にいい表わす言葉であるだろうが。いかにもありがちな喜劇みたいにして、既にそこにデニーはいないということ、衛星達は全く気が付かなかった。そのようなわけでして、自分達としてはデニーに対して攻撃をしているつもりで、そこにあるものに対して総攻撃を仕掛ける。そこにあるものは、ひとたまりもなく……引き裂かれ、食いちぎられ、叩き潰され、打ち砕かれて……ずたずたの肉片になって、地上へと落下していく。

 それは、いうまでもなく。

 お仲間の衛星で。

 あったわけだが。

 「はあっ!? てめぇら、何やってんだよ! 上だ、上だ、上だっつってんだろ!」というサテライトの声が聞こえる。ちなみに、サテライトの衛星にはよく分かっていないことが多く、それがある程度の自律性を持つものなのか、それともその全てが中枢と接続していてサテライトが無意識のうちに操作しているのかということは、当のサテライト自身にも判明ではないことだ。もしも後者だとすれば、このサテライトのセリフは壮大に阿呆な独り言であるということになるが。それはそれとして、衛星達は、ようやくのことデニーがそこにはいないということに気が付く。

 デニーは、にぱーっとした笑顔で笑いながら。HOL-100LDFを持っている方の手、衛星達に向かってひらひらと振っていた。ちなみにであるが、デニーは、真昼のこと、もうお姫様抱っこしていたわけではなかった。お姫様抱っこでは両手が塞がってしまって不便だったのだろう。真昼のこと、ASKでノリ・メ・タンゲレの襲撃に遭った時のようにして小脇に抱えていたのだ。

 小脇に抱えられた真昼の方はといえば、特に不平不満を訴えることもなく、ただただされるがままになっていた。心が死んでいると吐き気も覚えなくなるものなのだろうか? とにかく、ぽかんと口を開けた、死んだような顔をしたままで。どこを見ることもなく、単に荷物みたいにしてぶら下げられているだけだった。

 さて、ところで衛星達であるが。やはりサテライトに負けず劣らず馬鹿なものだから、デニーの姿を見つけると、あっ! あそこにいたぞ! ってなもんで、今何が起こったのかということをしっかりと反省もしないで、これ以上ないというくらいの無知無学を曝け出しながら、またもやそっちの方に突進していった。

 何が起こったのかということは、何もいわなくても、読者の皆さんはお分かりですよね? 同じことの繰り返しだ、衛星達が群がった時にはデニーはそこにおらず、衛星のうちの一つだけがそこに残されていて。そして、その衛星は、仲間の衛星達に、蛸のカルパッチョを下拵えするようにして叩きのめされたのだった。

 「てめぇら! 馬鹿か!」とサテライトは激昂したように叫んでいるのだが、ここでいう「てめぇら」というのは自分の分身のことであって、要するに自分自身に向かって「馬鹿か!」と叫んでいるのである。うーん、これは確かに馬鹿がやることですね。おっしゃる通り! あなたは馬鹿です。

 それはそれとして、デニーは、ひらりひらりというように。非常に身軽なやり方で、衛星から衛星へと渡り継いでいって。衛星達は、すっかりそれに翻弄されてしまっていた。このままの状態であれば、いつまでもいつまでも、デニーのリード・アンド・フォローによってダンスは続いていくように思われたのだが……とはいえ、物事はそう簡単にゴーイングするものではないのだ。

 ずぐんっ、ずぐんっ、という重々しい音を立てて何かが近付いてくる。これは衛星を踏みつける音だ。衛星から衛星を乗り継いで、不吉なまでに赤く、危険なほどに巨大なものが……つまり、エレファントが。デニーがいる場所の、その高さまでライズアップしてきた。

 その時には、既にガントレットは振り上げられていた。左腕のガントレットには、先ほどと同じコーモスが描かれていて、そのガントレットが、強く強く握り締められていて。そして、次の瞬間には、デニーに向かって叩きつけられていた。

 「treme」という、あくまでも冷静な声。それに対してデニーは……まるで、足を滑らせたかのようにして、衛星から一歩踏み外した。そのまま、後ろ向きに、下へ下へと落ちていって。もちろん、本当に足を踏み外したわけではない。エレファントの間合いからの脱出を図っただけである。

 それから、落下しながら。やはり、先ほどと同じように、HOL-100LDFの引き金を引いた。だが、今度は一度だけ引いたというわけではなかった。何度も何度も引き金を引いて、そして、そのたびに、銃口からは「罪喰い」の詩弾が撃ち出される。

 エレファントは、それに対して。デニーを追跡するために、逡巡の素振りさえ見せずに自分自身を衛星から墜落させながら。振り上げていた左手のガントレットで最初の魔法円を叩き割った。そうして、その後で、一瞬の間を置くことさえなく右腕のガントレットを振り上げる。立ちはだかった二番目の魔法円にそれを叩きつけると、もちろん二番目の魔法円も粉々に砕ける。左腕、右腕、左腕、右腕。ガントレットは、まばたきするほどの隙を与えることもなく、デニーが形成した障壁を次々に破壊していく。

 そのようにして、形成と破壊とを繰り返しながら。二人(プラス真昼ちゃん)は落下していって……そして、当たり前のことであるが、デニーの肉体が先に地上へと到達する。デニーは、その一瞬前までは、エレファントの追撃に対応するためだろう、大地に背中を向けていたのだが。地上に到達した瞬間に、くるりと身を翻して、大地と垂直な、真っ直ぐな姿勢に戻って。たんっという音、両足によって着地した。

 それから、心臓が一度鼓動する暇もないくらいの素早さによって、またもやその場から飛びのいた。いつまでもいつまでもそこに立っていればエレファントのガントレットによって叩き潰されてしまうに決まっているからだ。案の定……デニーがそこを退いた直後には、エレファントがガントレットを振り下ろしていた。

 しかしながら、そのビート・ダウンが起こる前に。エレファントのガントレットに描かれたコーモスは先ほどまでのそれとは別のものに変わっていた。それは相変わらず元素術の魔法円であったが、今度の図形が意味するものは「土」。そして、エレファントが口ずさんだホビット語は……「explode」。

 二つの結合が。

 意味するのは。

 「大地による罵倒」。

 ガントレットが地上に接触するとともに、草原の下、岩盤が、凄まじい勢いで爆発した。一気に注ぎ込まれたエネルギーに耐え切れなくなったとでもいうように、あるいは、もっと単純に、水を注がれ過ぎた水風船が炸裂するように。そして、大小様々に砕かれた岩石が、炸裂した散弾となってあらゆるものに襲い掛かる。これこそが、その魔法の効果だった。あたかもネイル・ボムが金属の断片を撒き散らすみたいにして周囲に岩石を撒き散らすために、大地そのものを爆発させるということが。

 岩石は、当然であるが、デニー(&真昼)にも襲い掛かった。十数個の、いや、それどころか数十個の岩石。デニーは……無論、やろうと思えば出来ただろう。これらの岩石の全てをHOL-100LDFによって撃ち落とすこと。弾込めの時間を入れたとしても、まだまだぜーんぜん余裕余裕!という感じ。真昼ちゃんとちょっとしたジルバを踊る暇さえあっただろう、真昼ちゃんにジルバを踊る気があればの話だが。

 ただ、とはいっても。数十の岩石を撃ち落とすためには、それなりの弾が必要になってくるのであって。軌道を計算して、一つの弾丸で幾つかの岩石を破壊するのだとしても。それでも十発かそこらの弾を消費してしまうことになる。それは、まあ、少しばかり弾の無駄遣いであろう。

 だから、デニーは、別の方法をとることにした。HOL-100LDFを握っていた右手、またもや、死に絶えた灰のようなものが弾けて。そして、その手には……いつの間にか、HOL-100LDFとは別の物が握られていた。オルタナティヴ・ファクト、HOL-100LDFをしまってそれを取り出したのだろう。そして、それは、ナースティカ・ナイフであった。

 しかもただのナースティカ・ナイフではない。昨日の夜に、あの饗宴の場で。真昼のために舞龍の首を切り落とした、あのナースティカ・ナイフだったのだ。どうも饗宴の後でちょっとばかり拝借してきたようだ。ちゃんとカリ・ユガに断ったのか断ってないのか……まあ、それは些細なことだ。なんにせよ、デニーちゃんは、とってもとっても賢いので。現在のような状況に対しての備えを欠かすことはなかったということである。

 以前にも触れたことであるが、ナースティカ・ナイフには魔学的な耐性を飛躍的に高めるための魔学式が刻まれていて。デニーは、そこに、更に魔力を注ぎ込んでいく。デニーの魔力のために、魔学式が、内側に太陽でも飲み込んでしまったかのようにして光り輝き始めて。そしてデニーは、そんなナイフによって自分の目の前の空間を薙いだ。

 先ほどは書き忘れてしまったのだが、「大地による罵倒」によって撒き散らされた岩石には、その一つ一つに魔力が籠もっていた。そんなわけで、単なる物理的攻撃によっては叩き落とすことは難しかったのだが。デニーが放った魔力による一閃は、これ以上ないというくらいの効果を上げた。

 デニーがしたことを簡単にいえば、デニーの魔法円に対してエレファントがしたことを逆手に取ったのだ。つまり「合唱共振点」を利用したのである。デニーが、そのナイフを振り抜くと同時に放射した魔力は。驚くほどの正確さで、こちらに向かって飛来してくる岩石に込められた魔学的エネルギーの周波数と同程度の周波数に調整されていた。そして、結果として、その放射を受けた無数の岩石は。あたかも声楽家が歌う「惑星リチアの聖職者」に耐えることが出来なかったワイン・グラスのようにして、次々に弾け飛んでいくことになったのだ。

 これで、エレファントの攻撃については、なんとか防ぎ切ることが出来たわけなのだが。覚えておかなければいけないことが一つあって、それは、現時点でデニーのことを攻撃しているスペキエースは、エレファントの他にもう一人いるということだ。いうまでもなくサテライトのことである。

 デニーが退いた先には、待ち受けるかのようにして、というか実際に待ち受けていたのだが、大量の衛星達が配置されていた。それらの衛星達が、デニーに向かって一斉に襲い掛かる。今度は、仲間の衛星をうっかり食い殺してしまうことはない。なぜなら、そこにはデニーしかいないからだ。

 まさにデニーちゃん絶体絶命であるかのように思われたが。そのような状況にあっても、デニーはあくまでも冷静であった。冷静といっても、エレファントのように冷酷ささえ感じさせる冷静さではなく、とーってもキュートなプリティさを失わない冷静さであったが。なんにせよ、デニーは、自分の体が退く時のテンポに合わせて、まるでステップを踏むかのような態度によって、衛星達がいる方向に振り返った。

 たん、たん、たん、くるん。それから、振り向き様に、近くにいた衛星を幾つか持っていたナイフで切り裂いた。注目すべきことは……そうやってナイフを躍らせた時に、デニーの口が、軽く動いていたということだ。その際に口ずさんだ言葉は「corrumpe」。これは、いうまでもなく、魔法の効果に関するホビット語の言葉であった。

 サテライトの衛星達は、当然のことであるが、なんらの魔学的エネルギーも纏ってはいない。なのでこの魔法は先ほどとは異なり「合唱共振点」を狙ったものではないはずである。「corrumpe」というのは「corrumpo」という動詞の命令形であるが、元々の動詞が意味していたのは「腐敗する」である。つまり、デニーが口にした言葉は「死して後に腐り果てよ、その肉体は甦るな」という命令なのである。

 主に攻撃魔法などに使われる、死霊学者にとっては非常にポピュラーな言葉で、何しろ死霊学者になって最初に習うホビット語がこれであるくらいだ。この言葉は、特に再生能力を有する対象に大きな効果があるために――この言葉によってそういった能力を無効化することが出来るからだ――誤って手に負えないリビングデッドを作り出してしまった時に、こういった系統の攻撃魔法で処分するのである。

 さて、デニーがなぜこの言葉を口にしたのかはもうお分かりですね? サテライトの衛星は、非常に強力なヒーリング・ファクターを有している。普通に切断したくらいでは即座に再生してしまうし、なんなら、二つに切り裂いたところから二匹の衛星に分裂しかねないくらいだ。ということで、衛星達を始末したければ、まずは再生能力を奪わなくてはいけないのである。

 衛星は、すぱーんと一刀、馬鹿に特有の景気良さで真っ二つになって。それから即座に自分の肉体を再生しようと身をよじったのだが……それに対して切断面はなんの反応も示さなかった。ぼこぼことあぶく立つこともなかったし、醜悪な腫瘍が盛り上がることもなかった。それどころか、次第に次第に壊死していく。

 惨たらしいほどどす黒い変色は、惨たらしくも、その傷口から広がっていって。とうとう衛星の肉体は溶け出し始めた。異様な悪臭を放つどろどろとした液体になって、大地の上に滴り落ちる。大地は、その液体によって取り返しがつかないくらい汚染されていく……草は枯れ果て、土は濁っていく。

 一匹、二匹、三匹。一度の閃きによって三匹の衛星達が腐り落ちて溶解した。あまり……効率がいいやり方とはいえないだろう。少なくとも、魔学的エネルギーによって満たされた岩石のように、一度に全てを砕いてしまうというわけにはいかないようだ。ということで、デニーは、軽やかなステップを踏み続けながら、そのナイフを柔らかく泳がせる。

 るんっ!という、魔力が空間を切る時の奇妙な音を立てながら。ナイフは、ナイフは、ナイフは、間断なくサテライトの分身達を刻み続ける。ナイフが届く範囲、その間合いに入ったものから。肉塊が、肉塊が、肉塊が、残酷な糜爛に食い尽くされて死んでいく。順調だ、非常に順調だ。ただ、残念なことに……殺しても殺しても、衛星の数が減っていくことはなかった。

 なぜなら、殺しても殺しても、そのように殺した数と同じ数だけの新しい衛星が生み出されているからだ。上空では、「ぎ、ぎ、ぎ、ぐぅ……がぁああああああああっ!」というサテライトの絶叫が聞こえ続けていて。ぐつぐつと泡立つその体からは、ぼこり、ぼこり、といった具合に衛星が排泄され続けている。しかもそれだけではない。そのようにして生み出された衛星自体が、それぞれ独自に分裂しているのだ。これでは、いつまで経ってもその数が減少するわけがない。

 しかも、一層の問題は……デニーにとって、このいつ終わるとも知れないダンスの相手が、サテライトだけではないということだ。ある程度、襲い掛かってくる肉体を排除し終わって。ようやく一息つけそうになると、今度は、赤く巨大な金属塊が突進してくる。エレファント、振りかぶったガントレット。何も韻を踏むことはないのだが、これがもう凄まじい勢いで振り下ろされる。

 その瞬間に、デニーの右手、ぱんっと灰を撒き散らして。その手の中にはナースティカ・ナイフの代わりにHOL-100LDFが握られている。そして、三発ほどの詩弾をぶっ放した後で、またもやその手のひらが握っている得物はナースティカ・ナイフに変化する。

 とんっとんっとんっと、三歩ほど後ろ向きに跳んで、エレファントと距離を取った後で。その先で待ち受けていた衛星達をナイフによって切り刻む。一方のエレファントは、三枚の障壁を、いとも容易く叩き壊して……いつまでもいつまでもこの繰り返しである。せめてデニーが真昼ちゃんのことを引っ抱えておらず、両手ともに自由な状態だったらまた違った状況になったのだろうが。今の状態は、なかなかハンディキャップが大き過ぎるのだろうか?

 とにもかくにも、そのような状態が暫く続いた後で。ある決定的な出来事が起こった。といっても、それは決して意外性のある出来事であったわけではなく、むしろ当然な、それが起こることは予測されていてしかるべきことであった。つまり……デニーがその引き金を引いた時に。かちんという虚しい音だけが響き渡って、弾丸が発射されなかったのだ。

 デニーの口から「ゴー・フィッシュ」という声が漏れる。その口調には、別に驚天動地だとか絶体絶命だとかそのような響きは全くなく。どちらかといえば現在の状況を面白いものと感じているような嫌いさえあったのだが。なんにせよ、何が起こったのかといえば、拳銃が弾切れを起こしただけの話である。

 以前も書いたが、デニー用に改造されたHOL-100に装弾出来るのは九発だ。それが二挺なので、新たに弾を込めなければ合計して十八発しか発射することが出来ない。最初の、右のガントレットと左のガントレットとを合わせた拳を防ぐのに一発。サテライトの衛星から落下しながら五発を使い、その後は、エレファントを足止めするのに三発ずつ消費していた。ということは、論理的に考えれば、エレファントを四度足止めすればそれでthe endなのだ。そして現実も、その論理的思考通りに物事が進んだのである。

 いうまでもなくデニーは即座にそのような状況に対処しようとする。HOL-100を持っていた右手、おもちゃの兵隊が発砲したかのような感じ、ぽんっとオルタナティブ・ファクトが弾けて。既に、その手のひらは、ナースティカ・ナイフを持っている。ただ、それでも、どうやら、その対処はほんの一瞬だけ間に合わなかったようだ。

 僅かの僅かのそのまた僅か、ただそれだけの隙を見せたデニーに。刹那よりも精密な分解能を有するエレファントの攻撃が速やかに襲い掛かる。エレファントは……なんの障壁によっても守られていないデニーの体を、そして、そのデニーの小脇に抱えられている真昼の体を。諸共に大地の上に叩きつけた。左手、ガントレットは、いつの間にか握り締められた拳の形ではなく、大きく開かれた手のひらになっていて。その手のひらで、二人のこと、あくまでも押し潰さないような強さで、それでいてそこから逃れることが出来ないように、草原の上に押し倒したということだ。

 たったのワンステップであるかのように。そして、その次のステップも、やはり速やかであった。エレファントは、デニーと真昼とを拘束した手のひらとは反対の手のひら、要するに右の手のひらを、あたかも旋颯のごとき態度によって動かした。デニーの右手、持っている武器、持っているナースティカ・ナイフ。春の風が華やかな花束を攫うかのようにしてそれを攫う。

 更に、奪い取ったナースティカ・ナイフ。エレファントの右のガントレットは……奇妙に波打った。とぷん、と、まるでそのような音を立てるかのようにして生起金属が揺らめくと。あたかも膠質の生命体が餌を飲み込むかのようにして、エレファントは、そのガントレットの中にナースティカ・ナイフを飲み込んだ。エレファントは、デニーの武器、ただ取り上げただけではなくそれを自らの内側に閉じ込めたということだ。こうしてデニーは――少なくとも見た目の上では――完全に無力化された。

 さて、これで。

 このオペラの。

 第一幕は。

 お終い。

 ガントレットに押さえ付けられて、首から先以外のほとんどの部分を動かすことが出来なくなったデニーは。それでも、くすくすという、あの笑い方で笑いながら。「ふあー、残念!」「負けちゃった」とかなんとか、随分とまあ呑気なことを言っている。

 こんな風な発言がサテライトの耳に入っていたのならば、まーた「てめぇ舐めてやがんのか!」だの「馬鹿にすんじゃねぇよ!」だのうるさくて大変なことになっていただろうが。幸いなことに、当のサテライトはあまりにご機嫌なあまり、デニーが何か言っているということにさえ気が付かなかったらしい。

 「ひひ……はっ……ははははははははっ!」という、いかにもコミュニケーション障害者らしい笑い声を上げながら。エレファントがデニーを押さえ付けている場所に向かって、ゆっくりゆっくりと降下してくる。それから、エレファントの背後、一ダブルキュビトほどの距離のところまでやってくると。よくもまあこれだけ明け透けに勝ち誇れるものだという口調、空前絶後に憎たらしい顔でにやにやと笑いながら、こう言う。

「いい様だなぁ、クイッドクイッド!」

 それから、また。

 ひとしきり。

 馬鹿丸出しで。

 げらげら笑う。

 あまりに笑い過ぎてちょちょぎれた涙。

 ホスピタル・ガウンの袖で拭いながら。

 こう、続ける。

「いい様だ、本当にいい様だよ! てめぇらみてぇな劣等種はな、ホモ・ミレニアミウスに、優越種の足元に跪いてんのがお似合いなんだ! 特に、あたしとエルマ……進化の絶頂にいる最適者、支配者の中の支配者の足元にな! ほら、あたしの靴を舐めろよ、惨めに、情けなく、あたしの靴を舐めろよ……まあ、靴じゃなくてスリッパだけどな! あーはっはっはっ!

「なあ、おい、顔見せてみろよ? てめぇらのクソ間抜けな、負け犬のツラを見せてみろよ? どれどれ……あーはっはっは! なんだその顔! おいおいクソガキ、なんだよその顔は! へろへろに腑抜けちまって、情けねぇ、情けねぇなぁ! クソ偉そうにきゃんきゃん吠えてた、あの時の威勢はどうしたってんだよ! まあ……それも仕方ねぇっつったら仕方ねぇことだけどな。きっと、あんまりに驚いて声が出ねぇんだろ? エルマの本当の能力に、優越種としての超最適な能力に。

「正直に答えてみろよ、な? ほら、答えてみろよ。エルマの能力が、たかだか黒イヴェール合金の操作だけだと思ってたんだろ。どうだ、どうだ……んなわけねーだろバーカ! バーカバーカ、あーっはっは! てめぇらが死ぬ前に「ハッピーサテライト、何度も言うが、私達の任務は砂流原真昼を生きたまま」っるせぇ、黙ってろエルマ! 今はあたしが喋ってんだよ! で、なんの話だっけ? ああ、そうだ。てめぇえらが死ぬ前に特別に教えてやるよ、エルマの本当の能力ってやつを。

「エルマはな、生起金属を操作出来るだけじゃねぇんだよ。生起金属の性質を自由自在に変えちまうことが出来るんだ。つまり、白イヴェール合金を青イヴェール合金にしたり、その反対に、青イヴェール合金を白イヴェール合金にしたり。それからな、黒イヴェール合金を……たった今てめぇらがその下敷きになってる赤イヴェール合金にしたりな!

「驚いたか? ああ、わざわざ答えなくてもいいぜ、てめぇらがすっ転んで地べたに這いつくばるくらい驚いてんのは見りゃ分かるからな! なんにせよ、そっちのクソ野郎……てめぇだよてめぇ、てめぇが魔学者だってことで、こっちもそれに合わせて最適化することにしたってわけだよ。つまり、エルマが対魔学者用にレッド・モードになったってわけだ。

「知ってるか? あたしとエルマが、このアーガミパータで何匹の魔学者をぶっ殺してきたか。何匹の馬を、何匹の蛇を、何匹のダイモニカスをぶっ殺してきたか。てめぇ程度の魔学者なんざな、あたしとエルマにとっちゃクソのクソなんだよ! 雑魚、雑魚、雑ぁ魚!

「とにかく、だ。クソ生意気なクソ野郎。てめぇは、もう、あたし達の俎板の上で料理されるのを待ってる、哀れな哀れなお魚さんだってわけだ。おいおい、今から楽しみで楽しみで仕方がないぜ、てめぇの目を抉り出したらなんて叫ぶのか、目を抉り出したその穴ん中にあたしの指を突っ込んだらなんて叫ぶのか。あっはっは……あーっはっはっは!」

 と。

 まあ。

 そんな。

 感じで。

 サテライトは、またもやスーダラブー丸出しで大笑いした後。なんか、たぶん、その拍子に唾液かなんかが入っちゃいけないところに入ったんじゃないですかね。げほっげほっと咳き込み始めた。その咳は次第に激しくなり、最終的にはぐぁはっぐぁはっみたいな感じになって。なんかちょっと見てられないほどミゼラブル、空中でぐるぐると回転しながら咳き込み続けていたのだが。やがて、それも、ようやく収まった。

 ところで……サテライトが言ったことをサテライトが言ったままに受け取るほど「他人を信じる心」が強い生命体なんて、この世に一体もいないだろうが。一応、念のために書いておくとすれば、サテライトが得意げにのたまったところのエレファントの能力なるものは、ちょっとした間違いを含んでいる。

 まず一つ目の間違いですけどね、国内避難民キャンプでデニー達を襲った時にエレファントが使用していたのは、黒イヴェール合金ではなくセカンダリー・ブラック・イヴェールです。ただ単に黒イヴェール合金といった時、それはプライマリー・ブラック・イヴェールを指すのであって。セカンダリーとプライマリーとでは、その硬度がまーったく変わってきてしまうので、そこら辺はちゃんと注意しておいて下さいね。

 まあ、とはいえ、それは大した間違いではない。重要な間違いはもう一つの方であって……エレファントが本来有している能力は、純粋な金属操作に過ぎないのである。つまり、エレファントは生起金属の極子構造を変換することが出来るというサテライトの主張は基本的には間違っているのだ。ただし、その骨髄に流し込まれているところの「特殊な生起金属」だけは別なのだが。

 これは非常に「特殊な生起金属」である。どういうことなのかというと、肉体を生起金属に変換出来るスペキエースに一定の加工を施して作り出した生起金属なのだ。それらのスペキエースは、エレファントと共にイヴェール再現実験の試験体であったNo.1からNo.7までの人々であったのだが。その人々は、「特殊な生起金属」に成り果ててしまう前に、エレファントと非常に親しい関係性を有していた。

 ありていにいえば、同じケースの中に入れられたラットとラットとの間に生まれる関係性である。いや、正確にいえば、そのような関係性を結ばせるために実験者は被験者に対して仮想空間での様々なイベントを経験させたりしたのだが。そういったことは置いておいて……そして、そのような関係性が一種の精神的なリンクになっていて。その精神的なリンクを通じて、エレファントはこの「特殊な生起金属」を変質させることが出来るのだ。

 というわけで、エレファントは。自分が愛していた人々、疑似的な家族、心を許しあえる親友達、なんといってもいいが、彼ら/彼女らの成れの果てであれば自由自在に操作することが出来るのである。セカンダリー・ブラック・イヴェールであろうが、青イヴェール合金であろうが、赤イヴェール合金であろうが、好きなように変質させることが出来る。そうして、もともとの金属操作能力によって、それを武器にして攻撃することが出来る。

 これが、いわゆるイヴェール再現実験の成果物としてのエレファント・マシーンである。ちなみに、スペキエースに加工を施して作り出した「特殊な生起金属」であるが。これは、実は、完全に死んでしまっているというわけではない。それどころか、加工の結果として、永遠にその生命を襲い続けることになった、耐えがたい痛み、絶望的なほどの苦しみ、そういったものを感じることが出来る程度には意識が残されているのだ。そうしないと精神的なリンクが作用しないですからね。

 そして、そのような苦痛に対する、試験体となった人々の悲鳴・絶叫は。当の精神的なリンクを通じて、常にエレファントに向かって流れ込み続けている。それはエレファントにとって……次第に次第に、試験体の中で唯一生き残った自分自身に対する呪詛の言葉であるかのように聞こえてきて。エレファントは、生きている限り、その罪悪感を背負い続けていかなければいけなくなってしまったのである。

 いや、こんなん頭おかしくなってしまいますわ。ということでエレファントは、気が狂ってしまわないように自分の感情を抑制し続けるということを学んだのである。感情さえ動かされなければ、いくら呪いを投げつけられても耐えることが出来る。罪悪感といえども所詮は感情なのだ、何があっても冷静であり続ければ、それに押し潰されてしまうこともない。このようにして、エレファントは、サテライトとパートナーになれるほどの人徳者となったのでした。めでたしめでたし。

 何もめでたくないが、まあ、エレファントの話はどうでもいいことだ。通称機関で試験体にされた生命体の中には、こんな話はごろごろしているのであるし。しかも、エレファントは、イースター・バニーが行方不明になった後の試験体なのである。イースター・バニーがオーガナイザー・スプリームであった頃に試験体にされた生命体からすれば、この程度の「不幸」を不幸と呼ぶことは、ファミリーレストランで出てくるフランニー風スフレ・フュルスタンバーグをシェフ・フランニーが作ったスフレ・フュルスタンバーグであると主張するようなものだろう。

 とにかく、この話で。

 いいたかったことは。

 サテライトが、馬鹿なだけではなく。

 いい加減で適当なやつだということ。

 それだけである。

 ところでところでTOKOROTEN、滔々たること大河のごとく長々たること長江のごときサテライトの無駄話の間中、デニーと真昼とはどうしていたのか。いや、まあ、真昼ちゃんは相変わらずだったので置いておくとして、デニーはどうしていたのか。デニーは……あまりにもデニーらしくなく、というか、ただただ不気味に。悪戯っぽい子猫のような、にーっと笑った顔のままで、黙ってサテライトの話を聞いていた。

 これは本当におかしいことであって、なぜならデニーは、エレファントの能力について、サテライトが知っているよりも遥かに多くのことを知っていたからである。「第一部インフェルノ #5」におけるデニーとサテライトとの間の会話にも出てきたことであるが、デニーもやはり通称機関の関係者なのであって。そこで行われた実験のほとんどについて、その内容を完璧に記憶しているのである。ということで、サテライトの話は、デニーにとって、面白くもなんともないものであるはずなのだ。

 デニーは、それから……サテライトが、ひとしきりゲホり終わった後で。特に理由もなく、上下逆さまになったまま、逆立ちのような姿勢で空中に浮かんでいるサテライト。いかにも野獣そのものといった、妙に長い犬歯を剥き出しにした笑顔でにやにやと笑い続けているサテライト。そんなサテライトに向かって、あっさりと口を開く。

「嬉しそうだね、サテちゃん。」

「は?」

「サテちゃんがあーんまりに嬉しそうだから、デニーちゃんも嬉しくなってきちゃったよ。うんうん、それでこそハッピー・サテライトだね!」

「こいつ……まだそんな口を叩きやがんのか? クソ野郎! てめぇ、自分がどういう状況に置かれてんのか分かってねぇのか!」

「んー、たぶん分かってると思うけど。」

 デニーは、そう言うと。

 地面に押さえ付けられながら。

 それでも、首を傾げるという。

 大変、大変、器用なことをしてみせた。

 んもー、かんかんですよ。サテライト、かんかん。デニーの言葉を聞いたサテライトは、怒髪天を衝くというか、今は肉体の上下が逆さになっているので怒髪地を穿つとでもいった方がいいのかもしれないが。その上下を元通りにすることも忘れて、逆立ち(逆浮かび?)の状態のままで、「ぐがああああああああっ!!」みたいな、明らかに動物の咆哮となんら変わることのない叫び声を上げた。それから、その後で、ちょっとばかり人間という生き物の尊厳に関わってくるのでここに書き記すことは控えなければいけない一連の罵倒(主に人間の排泄物に関係する単語を中心としている)を大声で喚きまくった。

 その姿はぎゃんぎゃんとうるさく鳴き立てる傍迷惑な野良犬となんら変わるものではなかったが……とにかく、そんなサテライトが、二十三回目の「クソ」を叫びかけたその時に。デニーが、また口を開く。

「エレちゃんは。」

「はぁ!? クソ野郎、あたしの話を……」

「エレちゃんは、分かってる?」

「何をだ。」

「今の状況。どーいう状況なのか。」

 無論、この程度の完全スルーで怒りの剣が折れ憎しみの矢が尽き果ててしまうサテライトではない。それどころか、ますます燃え盛る瞋恚の炎、じたばたと駄々っ子のように空中で暴れまくりながら、ぎゃーすかぎゃーすかと、既に人間の言葉のていであることをやめてしまった悪罵をデニーに向かって投げつけまくるのであったが。ただし……どうも、何かしらの変化が起こったようだった。つまり、サテライトのスケルツォはこれでお終いであって。舞台の上では、全く別の音楽が流れ始めている。

 エレファントは。

 仮面の下に隠した、表情を。

 少しも変化させることなく。

 こう答える。

「ああ、分かっているつもりだ。」

「んー! じゃあ、ちょっとサテちゃんに教えてあげてよ!」

「私達は追い詰められている。」

「は? お前……今、なんつった?」

「私達は追い詰められている。」

「何言ってんだよ、頭イッちまったのか? 追い詰められてんのはあたし達じゃなくてこいつらだろーがよ! ほら、見てみろよ。なんの抵抗も出来ず、地面に叩きつけられてんだぜ? これ以上、どうやって……」

 そんなサテライトの言葉、遮るようにして。

 エレファントは、デニーに向かって、言う。

「あなたは本気を出していない。」

「んふふー、それでそれで?」

「様子を見ているだけだ。」

「エレちゃんは、どうしてそう思うのかな?」

「あなたは死霊学者だ。そして、ここには数え切れないほどの死体がある。あなたがここにある死体を全て甦らせれば、状況は一瞬で逆転する。」

 その瞬間の。

 デニーの顔。

 まるで、子猫が弄んでいた鼠。

 殺すと決めたような顔をして。

「せいかーいっ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る