第二部プルガトリオ #56

 アトゥ・パラヴァーイレイ。

 アトゥ・パラヴァーイレイ。

 真昼の口は。

 声を出さず。

 ただ、動いている。

「そういうこと! だからね、ちょーっとだけ時間がかかりそうなの! だってさーあ、このままだとさーあ、いつ、ばばーんって襲われちゃうか分かんないじゃないですか! それなら、デニーちゃんが都合がいいなーって思うところにおいでおいでして、そこでみーんな殺しちゃった方がいいよね。

「うんうん、そうだね! 今のところは「あれ」は使わないってこと! 「あれ」を使っちゃったら、すぐに着いちゃうからね。取り敢えずはねーえ、アーガミパータ霊道を、ちょーっとだけ使わせて貰って、それで移動しようと思ってるの。そうすれば、どこからでも見つけられるし、どこからでも襲い掛かれるでしょ? だから、きっと、REV.Mの子達も来てくれるんじゃないかなあ。それで、REV.Mの子達が来てくれたら、その子達を殺しちゃって。それから行こうかなって思ってるの。

「と、いうことで! プリアーポスちゃんには、マートリカームラのブラインド・スポットに来る準備をしておいて欲しいってこと! そうそう、カサミラで領土紛争が起こった時に対神兵器を密輸してたとこ! アーガミパータの担当がデニーちゃんからフランちゃんに移った時、こういうこともあるんじゃないかなーって思って、あそこのことは黙っておいたの。だから、フランちゃんは、あそこのことをぜーんぜん知らないの……っていうか、少なくともぜーんぜん知らないっていうことに「なってる」の。それなら、へんてこりんな感じで手を出してくることは出来ないよね。

「ぜんぶぜーんぶが終わったら、またお電話するからね。そしたらすぐにこっちに来られるように準備しておいて。人間を一人、生きたまま輸送出来るように準備しておいて。……え? あはは! そうそう、そういうこと! 死んじゃってもいいんなら、デニーちゃん一人でも運べちゃうんだけどね。でも、生きて運ばなきゃいけないーってなると、やっぱりちょっとだけ難しいよね。うん、うん、じゃー、そーいうことだから! ボンバーデラックスくれぐれも、フランちゃんにだけは見つからないようにね! はい、はーい、じゃねー。ぴろりろりーん。」

 そこまでを話し終えると、デニーは。

 スマートバニーの画面をタップして。

 その通話を切った。

 いつ見ても「そんなデッコデコにデコレートする必要ある?」と思ってしまうデニーのスマートバニー、アーガミパータの太陽の下で見ると、その反射するキラキラは見る者の視神経をぐさぐさ突き刺してくる凶器でさえあるが。とにもかくにも、デニーは、通話を終えたそのスマートバニーをぽんっと放り投げた。無造作に投げ捨てられたスマートバニーは、くるくると弧を描きながらデニーの背後に向かって飛んでいって。その先に開かれていたデニーのオルタナティブ・ファクトの中に、呪いそのもののようにさえ見える穴の中に、すぽーんとシュートしたのだった。

 それからデニーは、スマートバニーを把持していた右手、また自殺行為号(仮)のハンドルに戻して。後部座席で死んだように横たわっている真昼に向かって、振り返ることもなくこう話し掛ける。「と、ゆーわけで! 今は、アーガミパータ霊道に向かってるところでーす!」。

 その口調は……いかにもデニーらしい口調だった。つまり、底知れぬハッピーと名状しがたい可愛らしさ、その二つで膨れ上がって爆発しそうな声。どこまでも陽気で、どこまでも元気で。例えば、パンダーラを殺してしまった時に、ダコイティを滅ぼしてしまった時に、見せたようなあの態度、負い目の表現というか罪悪感の表現というか、実際には兎の耳の先ほど感じていないとしても、いかにもそれを感じていますといったような殊勝な態度、そういったものを感じさせる何かは一切なかった。

 一方で、そのようにして声を掛けられた真昼は、指先一つ、瞳孔一つ、動かすようなことはなかった。真昼は、先ほども書いたように後部座席に横たわっていた。いや、横たわっていたというよりも丸まっていたという方が正しいかもしれない。真昼は、自分の膝を抱えて。まるで胎児のように、しかも生まれることを拒否している胎児のように、そこに転がっていたからである。右を下にした体、重力に従って柔らかく曲がった首。

 真昼は……本当に、生きているようには見えなかった。もう死んでしまった人間の肉体、腐敗が始まって弛緩した人間の肉体、その肉体の、頭蓋骨の中に、ある一定のプログラムを組んだプログラマブル・ロジック・コントローラーを詰め込んだ何かのように見える。それでは、その一定のプログラムとは何か? それは、その口を、「ア」「トゥ」「パ」「ラ」「ヴァ」「ー」「イ」「レ」「イ」の順番で動かすということである。真昼がしていることは、呼吸と鼓動とを他にすれば、それだけだった。ただ、安物のガラス玉みたいに透き通った眼をして。声を出さずに、その言葉を繰り返すことだけをしていた。

 さて、ところで。

 ここは、どこか。

 デニーと真昼の二人は。

 一体何をしているのか。

 最初に結論だけを書いておくと、ここはヌリトヤ沙漠とメール山脈との間にあるプラーヤスキッタ高原であり、二人は自殺行為号(仮)に乗ってその高原の真ん真ん中を驀進している。とはいえ、それだけを書いてもいまいちぴんとこないと思うのでもう少し説明を加えますね。

 ちょっと前に触れたことだが、デニーは自殺行為号(仮)の運転席に座っている。ハンドルを握って、当たり前のことながら一応書いておくと、運転している。まさにドライブを楽しんでいるという感じだ。ぐぺーっと全身で背凭れに寄り掛かって、リズミカルに体を動かしながら、ダンシングラビット・ウィズ・シークレットフィッシャーズのご機嫌なナンバー"Prove Them Wrong"を口ずさんでいる。

 そして、真昼は後部座席にいる。普通であれば三人ほどが座れるはずのシートの中央付近に、たった一人で転がっている。もう、真昼と一緒にそこに座ってくれる誰かは、どこにもいないからだ。そう、誰もいない。ここには誰もいない。だだっ広い高原、こちら側の岩山からあちら側の岩山までただひたすらの高原が広がっていて。見渡せる限りの世界に存在している知的生命体は、ただただ真昼と……それに、デニーだけだった。

 だって。

 マラーは。

 マラーは。

 機械仕掛けの神様に。

 食べられてしまった。

 から。

 そう、マラーは食べられてしまった。真昼のためのアポ・メカネス・セオスに、カリ・ユガに。レーグートによって形作られたホスチアの皿、その皿ごと、カリ・ユガはマラーのことを噛み砕いたのだ。赤い色のワンピース、赤い色の血液。カリ・ユガの口から、マラーの血液が、まるできらきらとさんざめく世界の欠片のようにして降り注ぐ。粉々に握り潰された世界。ちょっとした冗談みたいにして、他愛もない戯れみたいにして、破壊された世界。真昼は真昼自身を変えてしまいたいわけではなかった。むしろ変えられるものなら、真昼を取り巻く世界の方を変えたかった。最後の審判、真昼以外の全てが裁かれる日。そして、真昼の目の前から真昼の世界は消え去って、アーガミパータという名前のこの地獄には真昼だけが取り残された。

 カリ・ユガが咀嚼する音が聞こえた。それから、何かが砕ける音がした。それは、間違いなく、ひどく華奢なマラーの骨が噛み砕かれる音だった。カリ・ユガの顎が動くたびに、ぐちゃぐちゃと内臓が潰れている。ぽたぽたという音、血液が滴っている音。時折、見える。カリ・ユガの口の中が。そして、そこからは、原罪の赤がのぞいている。

 マラーは、カリ・ユガの口の中で、まるで踊っているみたいだった。真昼が知りもしないステップで、くるくると回転して。そのたびに、その肉体には欠損が増えていく。手が引き裂かれ、足が捥ぎ取られ、胸の上に大きな穴が開いて、全身がぐにゃりと歪んで。それでもマラーは……微笑み続けていた。その顔が噛み砕かれるまで、あの笑顔で。

 ありがとう、まひる。

 そう言った時に浮かべていた。

 あの笑顔で微笑み続けていた。

 真昼は、その様を見ていた。一瞬たりとも目を逸らすことなく、というか目を逸らすことが出来ないままで。それを見ているしかなかった。真昼は、そして、見ているだけだった。喚いたりはしなかった、泣いたりはしなかった。もう涙を流すことはなく、流した涙は既に乾いていた。真昼は、気を失うことさえもなかった。ただ、そこに、じっと蹲ったままで。マラーが死んでいくのを、涙の介在なく見上げていた。

 つまり、マラーは……対価として支払われたということだった。デニーが言うところの「あれ」を手に入れるために、その代わりのものとしてカリ・ユガに支払われたということだ。正確にいえば、マラーというよりも、マラーの中に注ぎ込まれた真昼の奇跡が支払われたということであったが。つまるところ、マラー自身には、生を受けた時から死のその瞬間まで、なんの価値もなかったのだから。その生命は、真昼の身代わりとして犠牲に捧げられること、それだけの生命だった。

 それでは、その「あれ」とはなんなのか? マラーの生命を、真昼の奇跡を、引き渡してでも。それでもデニーが手に入れたかった「あれ」とはなんだったのか? それは、実は、今となっても真昼は知らないことであった。なぜなら、それがなんなのかという疑問さえも、今の真昼の頭蓋骨の中には浮かばないことだったからだ。今の真昼は、全てのピースをなくしてしまったパズルのようなものだった。要するに、そこには何もない。

 カリ・ユガの口の中で、マラーが噛み砕かれるごとに、真昼からは何かが失われていった。洪龍の牙、虚偽牙。全部全部が、嘘。それは、別に大切なものというわけではなかった。真昼の中にあったはずのもの、その時に失われたものは。でも、大切って何? 大切とか重要とか、そういう感覚は、実はさして重要なものではない。なぜならそれは直線的な感覚に過ぎないからだ。原因があって結果がある。そういう仮定の中でしか機能しない恣意的な方程式に過ぎない。問題なのは……問題なのは、実際にそこにあるのか、それともないのかということだけだ。それだけが人間性というものを超えたところにある全てだ。

 真昼が失っていったものはそれだった。真昼の中から失われていったものは、真昼の中に実際にあったものだった。マラーの肉体が欠損していく、その一瞬一瞬に。真昼の中から、少しずつ、少しずつ、失われていくもの。まるで、頭蓋骨が開かれて、その中にあるものが切断されていくみたいだった。それが失われていくのとともに、思考能力もまたなくなっていく。がり、がり、がり、がり、冷たい銀色をしたスカルペルで、脳髄が切り取られていく。真昼は、何も考えられなくなっていく。

 そして、最後に残ったものは――馬鹿みたいに陳腐ないい方になってしまうが――抜け殻だった。ぽかんと口を開けたままで。まるで焦点の合っていない目で。ただ、そこにへたり込んでいる抜け殻だった。真昼は、もう、何も考えていなかった。ただ心臓と肺臓とだけが動いている何か、肉体可動性信仰の定義においてのみ生きているということが出来る何か。その目は何も見ておらず、その耳は何も聞いておらず、その脊髄は何も考えていない。

 だから、真昼は、何がなんなのかということが全然分からなかったのだ。気が付いたらどこかに横たわっていた……いや、どこかに横たわっていたということさえ気が付かなかった。デニーとカリ・ユガとの間の取引、悪魔と龍王との間の取引が終わってから。要するに、マラーの肉体が完全に咀嚼されて、完全に嚥下されてから。真昼は、いつの間にか、どこかにいた。あの会見が行われたあの穴から出て、どこか別の場所にいた。

 紫……紫色をしている。それから、停滞しているかのように静かで。恐らくはエーカパーダ宮殿なのだろうが、ただ、はっきりとそう断言するには、ひどく難しい部分があった。なぜなら、真昼は、何かの中にいたからだ。それは液体のようだったが、かといって水ではなかった。どちらかといえばそれは金属であったろう、すなわち、液体金属だ。遠い遠い銀河系のような色、紫色の液体金属。なんだかひんやりとして気持ちが良かった、それに、ふわふわとして内側に入ってくるみたいだ。実際には、その内側に入ってくるような感覚は、いわゆるセミハの感覚であって。つまり、その液体金属はセミハの力を帯びていた。

 ちなみに、これは人間至上主義諸国ではプラスカトーン35と呼ばれている合金だった、赤イヴェール合金をベースにして作られた不安性緩慢結合金属の一種だ。プラスカトーン35という名前はいうまでもなくヴァンス・マテリアルの商標であるが、アーガミパータにおいてはピガータラカ(「溶けた星」という意味)という名前で呼ばれている。不安性緩慢結合金属の中では導魔性が非常に強く、その割には比較的簡単な配合で作ることが出来るので、神話時代から世界各地で作られていたものだ。だが、例の休戦協定によって、人間至上主義諸国では配合のレシピが失われてしまっていた。

 その後、まあ色々あって人間至上主義諸国でもまた作られるようになりはしたが、その「色々あって」の際にヴァンス・マテリアルが特許を取ってしまったので、人間至上主義諸国においては非常に高価な金属となってしまっている。そのため、こちら側では――アーガミパータではということだが――このピガータラカを使ったもてなしが人間至上主義諸国からの賓客に大人気となっているのだ。そして、その時の真昼が入っていた液体金属も、そのうちの一つだったということである。

 これはピガータラカを使った一種の風呂であり、ただし、普通の風呂とは異なって頭のてっぺんから爪先までの全身を浸水させるタイプの物である。まあこれは水ではなく合金なので浸水というよりも侵金といった方がいいかもしれないが……とにもかくにも、そういった種類の物である。人体に悪影響を及ぼさない程度にセミハの力を流したピガータラカの中に入ることによって、その中にいる生き物の生命力そのものを回復することが出来るという代物だ。ちなみに、この風呂に入っている間に人間の体が使用するエネルギーは、全てセミハによって補うことが出来るため、呼吸をする必要はない。

 静かに揺蕩う窒息の液体の中で……どろどろと真昼のことを包み込んでいる金属的な冷酷の中で……柔らかく、その中に浮かんでいた。ゆらゆらと揺らめいて、誰か他の人が見ている夢のように揺らめいて。そして、とくん、とくん、と、いう、自分の鼓動の音だけがそこにあった。時折……何かに触れることがあった。それは、このピガータラカの中、そこら中に張り巡らされているレーグートの体であった。このレーグートの体を通じてセミハを導魔しているわけだ。網目のように、蜘蛛の巣のように、張り巡らされたレーグートの体。真昼は、その中を、泳ぐともなく沈んでいく。

 いつの間にここにいたのだろう。真昼にとっては、それはどうでもいいことだった。マラーが、カリ・ユガの口の中で、ぐちゃぐちゃの肉塊になってから。真昼の記憶は、記憶として頭蓋骨の中に定着しない状態だった。一瞬一瞬がただ過ぎていくだけだ。だから、真昼の意識の中では……カリ・ユガが、マラーのことを、食ってしまってから。その先の記憶は、何もなかった。ただ、そこにいるだけだった。

 いつまでも、いつまでも、そこに漂っていたような気がしたけれど。やがて、何かが変化した。れいれいと浮遊していた真昼の肉体が、ある一定の方向へと引き寄せられていくような感覚。さはりさはりと液体金属が些喚いて……真昼の体は、次第に、次第に、大気の中へと露出していった。

 そもそもその空間はかなり広かった。縦に五十ダブルキュビト程度、横に五十ダブルキュビト程度の空間だ。その中心に、というのは本当の中心ということで、上下左右関係なく浮遊していたということだが。直径にして約二十ダブルキュビトの球体として、ピガータラカが浮かんでいたということだ。そして、空間のそこら中には、天井にも床にも壁にも、レーグートが這い回っていた。このレーグートというのは、もちろん高度な把持性を持つあの姿をしたレーグートではなく、本来の姿をしたレーグート、つまり蔦だとか苔だとかそんな感じの形になったレーグートで。そのレーグートが、するすると伸びて行って、球体になった液体金属の中に触手を突っ込んでいるという感じ。

 そして、レーグートのそこここではある種の疫病による瘢痕か何かのようにして花が咲いていた。一つの花群れにつき、大体一ダブルキュビトくらいの直径の楕円形で。それが部屋の全体に斑いでいるということだ。これはレーグート自体の花というわけではなく(そもそもレーグートは植物ではなく菌類だ)、レーグートの菌糸にいわば強制的に接ぎ木されたものである。この空間は、ピガータラカの紫とレーグートの赤と、それだけの色合いだったので、それ以外の色彩を取り入れるために用意されたのだ。どちらかといえば黄色に近い橙色の花々は、どこか禍々しさを感じさせるほどの色鮮やかさで咲き乱れ、吹きこぼれている。

 そのような空間で……液体金属の球体、その最下部から、ずるりという感じで、真昼の姿が吐き出されたのた。まずは真昼の頭部が現れる。紫の色に濡れた真昼の髪、振り乱された髪に覆われた真昼の頭部。そして、その頭部に、あたかも優しく抱き締めるなめらかな腕のようにして、レーグートが巻き付く。一本、二本、三本、複数の触手が、少しずつ吐き出されていく真昼の肉体、床面に落下してしまわないように結び付いていく。

 紫色をした真球の表面が静かに静かにさざ波立つ。真昼の体が外部へとejectされていく過程、その一瞬一瞬に。真球は、白夜の孤独に耐えられなくなった恒星のように震える。ちなみに、真昼は裸ではなかった。すっかりお馴染みになってしまったあの服装、白い丁字シャツとダメージジーンズと、それに安っぽいスニーカーという服装。その姿のままで、ピガータラカに入っていたということらしい。ピガータラカに入る時には普通は服を脱いで入るものだが……とにかく、真昼は服を着ていた。

 てろり、てろり、と。その服装に、ピガータラカが纏わりついていた。ただ、そのようにして、真昼の髪や真昼の服やをべっとりと濡らしていたピガータラカは、やがてそこから離れていった。ピガータラカの球体、は、なんらかの引力によって引き付けられてそのような形になっているということなのだろう。そして、その引力に引き寄せられて。まるで上に向かって落ちていくみたいにして、真昼の体に纏わりついていたピガータラカのしずくは、球体の方向へと戻っていく。

 レーグートに抱かれた真昼は、そのまま、ゆっくりゆっくりと下降していく。先ほど提示された情報から計算して導き出すことが出来ると思うのだが、念のために書いておくと、球体から床までの距離は括弧五十引く二十括弧閉じ割る二ということで十五ダブルキュビト程度だ。その距離を、泥濘の中に沈んでいくかのような速度によって、真昼は降ろされていく。

 なんだか……眩しかった。眩しいような気がした。それは、まあ、今までいたのは金属の球体の中だったし、その金属がセミハの力を帯びていたのだといっても、その力によって金属から放たれるはずであるところの光は、このピガータラカ風呂(?)に入浴する賓客の方々が出来る限りリラックス出来るようにと、極力抑え気味にされているのであって。そこから外の世界に吐き出されたのだから、多少の眩しさは感じて当然だろう。

 部屋の、天井と、壁と、床と、そこら中が、人間の可視領域に対して不快感を与えない程度の淡い光を放っていて。それは大体において早朝の光度、日の出の直後くらいの光度だった。そのような透明な光の中で……真昼は、眠りと目覚めとのあわいのような感覚の中で、瞼を震わせるようにして目を開いた。

 ここはどこだろうという疑問さえ、今の真昼には浮かぶことはなかった。目を開いたのもちょっとした脊髄の反射のようなものだった。暗い場所から明るい場所に出た時に朝顔の花が花弁を開くようなもの。あるいは、もっと単純に、今まで液体の中にいたために開けなかった目、大気に触れたことによって開くことが出来るようになったというだけのことかもしれない。

 ということで、真昼の目は何も映し出すことはなかった。ここで真昼の目が何かを映し出してくれるのであれば、この空間について真昼の目を通した形で書き記すことも出来たのだが。どうでもいいけど「書き記す」ってなんかおかしくない? 「書く」も「記す」も大抵同じ意味だろ。いや、まあ、それはいいんですけど。とにもかくにも、真昼はなーんも感じないっす状態であって、真昼の目を通してこの空間について描写することは不可能であったのだ。そんなわけで……本来は、登場人物の感覚を通した方が臨場感が出て良いので、大概はそのような手法をとるのだが。今回については、真昼が目を開く前に、この空間の描写をぱっぱと終わらせてしまったというわけなのだ。

 とはいえ……本当に、全く、全然、何も映し出していなかったというわけではなかった。実のところ、たった一つだけ、その目が、映し出していたものがあった。それは、まるで人間のような姿をした何かだった。胴体があって、そこからは一つの頭、二本の腕と二本の脚とが形を成している。もちろん、人間の中にも腕が一本しかない方もいらっしゃいますし、頭が三つ四つある方もいらっしゃいますので、この姿だけが人間の姿だと断言してしまうと非常に差別的な言説になってしまいますであろうが……とはいえ、「全くの個人的な意見としてこのような姿が人間という生き物の平均的な姿だという意見を表明したいのであります」くらいのことはいっても「人間に関するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に抵触することもあるまい。

 成人というには幼過ぎるような気がする、実際の物理的な形態も、あるいは挙措・挙動から受け取る印象としても。どちらかといえば、中学生か高校生か、そのくらい。恐らくは、真昼と同じくらいの年齢。少年だった、少なくとも、その姿だけは少年だった。トラヴィール教会が運営する寄宿学校か何かの制服のように見えるスーツを着ていて。足にはローファーを履いている、頭にはフードをかぶっている。

 軽やかに真聖、賛美みたいに陽気。あたかもフェストゥス・イーヴス、フェスティヴァルにも似た足取りで。その少年は、この空間の出入り口からこの空間の中心へと、あちらからこちらへと歩いてくる。ステップ、ステップ、ステップ。ラゾハッティに対するケラ・ピルを歌うかのようにスーツの裾をひらめかせて。その少年は、真昼がいる方に向かって歩いてくる。

 一方の真昼は……ぐったりと、レーグートに身を任せたままで。一筋の筋肉さえ動かすことなく、地上へと向かって運搬されていく。まさに運搬だった、肉と骨とが詰まった袋を、ある一点から別の一点へと運搬していく、ただそれだけのことのように見える光景だった。そして、その印象はある意味では完全に正しいことだった。真昼は……ただ、その目が、少年を見ている。その意味でのみ、それがそれであるというだけの話だったのだから。真昼が、未だに真昼としての形を保っているということさえ、なんだか非合理な錯覚であるという風に思ってしまいそうなくらいで。

 やがて、そのような真昼の形が。するりと地上に横たえられる瞬間がやってきた。無関心な蓋然性であるかのように、真昼の形は、金属の球体の真下に降ろされて、それから、巻き付き絡み付いていたレーグートの触手がするすると退いていく。真昼は……右を下にした横向きで、だらりと足を延ばした姿勢。右の腕は、少しだけ曲げて顔の前の床で手を広げていて。左の腕は、腹の上にかぶせるみたいにして垂らして。下拵えされた豚肉の塊みたいにして、そこに放置されたというわけだ。そして、その肉塊の中で……両方の眼球だけが、中に精液を浮かべたガラス玉のように、虚ろな視線で見上げていた。何を? 少年を。

 少年は、既に、そこに立っていた。真昼が見上げた先。そこに辿り着いていたということだ。真昼が横たえられたのは、その少年の足元で。ぺかぺかに磨かれたローファーに、口づけでも出来そうな距離のところ。真昼は、首を擡げることさえもしないで、ただ眼球だけを動かして少年のことを見上げた。フードに隠された、甘やかな闇の中で、少年は真昼のことを見下ろしていた。いつものように、真銀の鈴の音、くすくすと笑いながら。

 ぽたり、ぽたりと。

 真昼の肉体から、上の方向に向かって落ちていく。

 腐りかけた眠りのような紫色をした金属のしずく。

 その音だけが、遠のいていって。

 デニー。

 デニー。

 デニー。

 は。

 それから。

 こう言う。

「お待たせ、真昼ちゃん。」

 純粋無垢に。

 可愛らしく。

「じゃ、行こっか。」

 要するに、何がいいたいのかといえば。真昼がピガータラカ風呂(?)に入っている間に、デニーは「あの場所」に「あれ」を取りに行っていたということだ。これまでも何度か書いてきたことであるが、「あれ」がある「あの場所」は、カリ・ユガ龍王領の外側、南西に向かって遥か彼方にある。そこに辿り着くまでの道程、当然ながら守るものなど何もない、だだっ広い荒野を無防備なままで通っていかなければいけないのであって。

 また、それだけでなく、「あの場所」そのものが人間のような脆弱な生き物にとっては極めて有害なのだ。マハーカーラとスパルナとが、壮絶な殺し合い、互いに互いを殲滅しようとして争いあった場所。そのような場所に、禍々しい残響のようなものが残っていないわけがなく。そういった残響は、人間という概念を汚染してしまうのに十分なほどに強力なオレンダなのである。

 だから、デニーちゃんとしては、真昼という脆弱で不完全な個体、なるべく連れていきたくなかった。別に、ヌリトヤ沙漠で出会う程度の危険、ノスフェラトゥやヒクイジシやその程度であれば、いかようにもあしらうことは出来たのであるし。それに「あの場所」に充満しているオレンダだって、真昼の生命をある程度強化してしまえばなんとかならないわけではないのだが。どんな想定外のことが起こらないとも限らないですしね。ということで、真昼をここにおいて自分だけで行ってきたということなのだ。

 ここならば……ここは、まあ大方の予想通りエーカパーダ宮殿の内部であったのだが。ここならばよほどのことがない限り安全だ。カリ・ユガだって、デニーにとって真昼がどれほど重要な存在であるかということは重々理解しているだろうし。その真昼に何かの危害が及べば、デニーが一体どのような反応をするのかということもよくよく分かっているだろう。

 まあ、なんにせよ、デニーが「あれ」を取りに行っていた間、真昼は生きるとも死ぬともない感覚のうちに、液体金属の中でゆらゆらと揺らめいていたのであって。そのせいで、実際に「あれ」を目にすることはなかった。ちなみに、ピガータラカ風呂(?)まで真昼を迎えに来た時に、デニーは、いつも通り、手に何も持っていない状態だったので。恐らく「あれ」はオルタナティブ・ファクトの中にでもしまわれているのだと思われた。

 とにもかくにも、そのようにして迎えに来たデニーに連れられて……それから……それから、真昼は……その後のこと、ここまでのことと同じように、真昼の記憶はかなり曖昧だった。そもそもまともな思考能力が残っていなかったのだし、それに脊髄から伸びている神経によってその瞬間瞬間に把握した感覚の断片とて、頭蓋骨の中に定着しないうちに、冬の星空に紛れる紫煙のように消えていったということだ。

 残っているのは、例えば……エーカパーダ宮殿に初めて来た時に、そこを通って饗宴へと向かった回廊。花束のように花々が咲き乱れ、晴れやかな色彩の中で彫刻は踊り狂う。人間という卑小な生き物にとって、少し大き過ぎるとさえ思えるような回廊。そこを、デニーに導かれて通っていく記憶。回廊の右側と左側とにはそれぞれ数え切れないほどのカーラナンピアが立っていて、何かきらきらと輝く物を撒き散らしていた。粉々に砕かれた宝石の欠片のような物、自ら光を放つ宝石の欠片。そして、その欠片は、カーラナンピアによってシャワーみたいにして回廊に降り注がれると。きらきらとした光を放ちながら……空中で、氷が解けていくかのような態度で消えていくのだ。

 たぶん、魔力をなんらかの形で固形化した物なのだろう。それを、デニーと真昼と、二人への別れの挨拶として美しい光景にしていたということ。そして、その光景の中で……踊る、踊る、踊る。デニーは踊る。なすがまま、されるがままの真昼の肉体と共に。デニーは死体と踊っているかのように踊る。

 エーカパーダ宮殿の外に出ると。いつの間にかタンディー・チャッタンから運ばれていたらしい自殺行為号(仮)が、蛇の骨のような形をしたあの橋の上に置かれていた。デニーと真昼とはそれに乗って、デニーのデアリング&アグレッシヴな運転によってアヴェニューを突っ切って。カーラプーラを後にして、カリ・ユガ龍王領を後にして、広大かつ荒涼なヌリトヤ沙漠へと戻って。

 さて。

 そうして。

 現在のこの状況に。

 至るというわけだ。

 カリ・ユガ龍王領を出てから、もうかれこれ三時間近く走っている。この間の自殺行為号(仮)は、大体において時速二百エレフキュビト程度で走っているようなので、つまり六百エレフキュビト前後の距離を走破してしまったということだ。そして、どうやらデニーには明確な目的地があるようで、その進行方向は、常に――一体どんな障害物が進路を塞ごうとも――南に南に、ひたすら南に保たれていた。

 今、「一体どんな障害物が」と。いかにも意味ありげな表現を――二倍ダッシュで囲んでまで――したのだが。どうしてそんな風に書いたのかというと、それは、ここが既にヌリトヤ沙漠ではなくプラーヤスキッタ高原であるということに関係している。ヌリトヤ沙漠は沙漠であって砂漠であり、以前にも書いたことであるが、そこには砂・砂・砂しかない。たまーに、まれーに、ひどく拗けた灌木が点々と並んでいる地帯もないわけではないが。ただ、その程度だ。自殺行為号(仮)のようなビークルを走らせるにあたってなんの障害にもならない。

 しかしながら、プラーヤスキッタ高原は高原なのである。高原とは、「原」とは名乗っておきながら、実は山地を指す言葉であって。山地の中でも比較的平坦である場所、山地の中にある台状の平原、そういった土地を意味している。つまり、自殺行為号(仮)は、山地を走っているということだ。

 まるでざらざらと波打つ海面、あるいはかなり適当に敷かれたせいでそこら中がぐちゃぐちゃな絨毯のような地形。あちらこちらに黄色く乾いた大地が露出していて、その間に点々と木々が群生している。それらの木々は、ひどく乾き切っているこの土地のせいか、あるいは単純に砂埃に汚れているのか、枯渇した印象を与える黄色っぽい色をしていて。まるで骨のように、枝だけになってしまっているものも数多い。まるでダンスフロアのような、舞台じみた岩山。段々になって斜面を形作っている灰色の岩壁。そういったものが、この土地を通る者の行く手を阻んでいる。

 それはまあ、一般的に思い浮かべる山地と比べてしまえばぜーんぜんって感じであることは事実だが。とはいえ、いわゆる「車両」が通行するのは非常に難しそうな場所である。というか、人間が作るような車輪式の「車両」であれば、こんな場所を通るのは不可能であろう。人間はよく「全地形対応車」だとかなんだとぬかしはするが、あれが意味しているのは「ちょっとでこぼこした道なら通れますよ」ということであり、このような高原を通ることは保証の対象外なのである。

 と、そんな道で……というか道ではない場所で、デニーちゃんは自殺行為号(仮)を突っ走らせているというわけだ。しかも、普通であれば、こういった土地を通る場合、岩山だとか岩壁だとかそういった物を避けて、なるべく平地っぽいところを通っていくものであるが。デニーちゃんは、決してそんなまどろっこしいことはしないで、岩山だろうが岩壁だろうが、まるで気に留めることなくそのまま突っ走ってしまっているのである。

 これは、自殺行為号(仮)が、車輪のような原始的な推進機構ではなく、フロート・タイプの推進機構を使っているということによって可能になっていることであるというのは確かなのだが。それにしても、デニーちゃんのめちゃめちゃな走行テクニックもそこに大きく関係しているに違いなかった。何しろ、ほとんど垂直といってもいいような岩壁であっても、なーんにも構わず突っ込んでいってしまうのである。普通の運転であれば間違いなくそのまま激突しまうだろう。

 他方で……そんなめちゃくちゃな運転、であるにも拘わらず。真昼はまるで反応を示していなかった。先を阻む邪魔な岩石にデニーが勢い良く突っ込んで、それを粉々に粉砕してから進んでいこうとも。十数ダブルキュビトの高さはありそうな岩山のてっぺんからそのまますっ飛んで、ふわりと重力から自由になった一瞬、そのままどしーんと墜落しようとも。真昼は、胎児のように丸くなったままであった。

 それは、まあ、この自殺行為号(仮)全体にデニーちゃんがなんらかの種類の搭乗者保護魔法をかけているらしく。タンディー・チャッタンの戦場でそうであったように、車体が傾ぐたびに真昼の体があっちこっちに叩きつけられるというようなことはなかったのではあるが……それどころか、例えその車体がくるりと反転しようとも、真昼がそこからおっぽり出されることはなく、静止している車体の上であるかのように平静を保つことが出来はするようなのだが。そんな便利な魔法があるならなんでタンディー・チャッタンで使わなかったの? まあそれはそれとして、とにかく、とはいえ、もしも今の真昼に一片でも人間性が残っていたのであれば、デニーに向かって「あんた、もっとマシな運転出来ないの!」くらいのことは怒鳴りつけていただろう。

 しかし、真昼の口はそのような叫びを上げることはなかった。このイシューの冒頭で書いたように、その口は、アトゥ・パラヴァーイレイという声のない動きを動いていただけだった。真昼の精神は……消えてしまっていた。マラーが食い殺されたあの瞬間に、ふっと吹き消された蝋燭の炎のように消えてしまってたのだ。真昼は、真昼は、ある意味では安らかであった。例えば、後悔。例えば、罪悪感。例えば、生きていることに対する苦悩。そういったものさえも、真昼の脳裏には、ちらとも浮かぶことはなかったからだ。真昼は、ただ、そこにあるだけだった。

 マラーが……マラーが、死んでしまった。そして、真昼には分からなかった。マラーが死んだということにどのような意味があるのか、あるいは、マラーが死んだことに対して、真昼は一体どうすればいいのか。そういったことが、何も分からなかった。それでも、はっきりと、一つだけ、いえることがある。マラーは死ななければいけなかった。しかも、あの場所で、あの瞬間に、あのような形で死ななければいけなかったのだ。なぜなら、それは既に起こってしまったことであるから。それは、そうあるべくしてそうなったのだ。そうなるしかない方法によって、そうなったのである。それは……「善」だとか、「悪」だとか、そういった尺度によって測れることではなかった。というか、それはなんらかの尺度によって測るべきことではない。それは、ただの、事実。

 マラーは、笑っていた。今まで真昼が見たことがある全ての笑顔、そのどれよりも美しい笑顔によって笑っていた。マラーは、マラーは、間違いなくその死に対して恐怖を抱いていなかった。まさに死んでいくその時に、それどころかその死の瞬間でさえも。マラーは、恍惚の絶頂の中で死んでいったのだ。それは、もちろん、デニーの仕業であろう。デニーが、マラーの単純な思考を操作して、その死に対して最高の幸福を覚えるようにしていたのだろう。

 マラーの死が苦痛と絶望とに満たされたものであれば、真昼はその死に対して非常な罪悪感を抱いてしまうだろうから。だから、マラーが望んで死を迎えるように、そのフィナーレにちょっとした演出を加えたというわけだ。何よりも崇拝するもの、何よりも畏敬するもの。何よりも信愛するものによって死を迎える。これほどの幸福があろうか? マラーはその幸福の中で死んでいった。真昼は、どうしてその死を否定することが出来るだろうか。真昼は、どうしてその死を拒否することが出来るだろうか。

 そう、その死は完全であった。その死はその死であるべきだったのだ。しかも、その必要性は、どうやら……真昼が認識出来る表面を遥かに超えた、ずっとずっと深い部分に根底を有している。真昼や、マラーや、あるいはこの世界そのものさえも。その根底を織り成している要素の一つ一つに過ぎないのである。

 「あれ」が必要だった。デニーと真昼とが、REV.Mによって危害を加えられることなく、安全にアーガミパータから出ていくためには、どうしても「あれ」が必要だった。そして、「あれ」を手に入れるためにはマラーが必要だった。確かに、それはその通りだ。だが、それは、この一連の出来事の中では大して重要な部分ではない。そういうことではないのだ、もっと原初的な必要性からマラーは喪失されなければいけなかった。

 ただ、そうであっても……真昼は……いや、真昼の中の「人間性」は。マラーに死んで欲しくなかった、真昼の中に残っていた、人間として生きてきた真昼の残滓は。マラーに死んで欲しくなかったのだ。「人間性」は、マラーに、生きていて欲しかった。生きたままで幸せになって欲しかった。この地獄のようなアーガミパータから抜け出して、幸せな教育を受け、幸せな仕事に就いて。幸せな恋をして幸せな結婚をして幸せに子供を産んで。そして、ありふれていながらも誰もがそうありたいと望む人生を歩み、たくさんの子孫に囲まれたままで、幸せな一生を終えて欲しかったのだ。

 それが辺獄としての生であるというのならは、それでも良かったのだ。それが、この世界で最も重要なものに対する永遠の忘却であるとするならば、それでも良かったのである。忘却してしまったということさえも忘れて、マラーは、きっと、何一つ苦痛のない自然な喜びの中で生きることが出来たはずなのだから。

 しかしながら、ここは辺獄ではない。ここは「真となるであろう、さもなければ真とならないであろう」の世界なのである。真昼の「人間性」なるものが、いくらそうでなければいいのにと望んだとしても、それが「真」である限りは「真」であり、「真」でない限りは「真」ではないのだ。

 マラーの死、それは絶対性なのだ。もしも、マラーが死ななかったならば? きっと、真昼の「人間性」でさえもそれを受け入れることが出来なかったに違いない。なぜなら……なぜなら、それはあり得てはけないことだからである。それは、間違いなく裏切りだ。そう、裏切りなのだ。だからこそ真昼の「人間性」はそれを受け入れられないはずなのである。真昼の「人間性」は、真昼のそれ以外の部分と同じように、何よりも裏切りを恐れるのだから。

 それでも、真昼は。

 それでも、真昼は。

 もう、そこにはいなかった。真昼の中に、真昼であった何者かは、もういなかった。真昼であった何者かの、その残骸さえ真昼の中には残っていなかった。これが、単純な、絶望のような感情であれば。これほどまでの結果を招くことはなかっただろう。絶望などというものは、所詮は主観的な問題に過ぎないからである。だが、これはもっと広範囲にわたる問題なのだ。これは世界についての問題なのである。

 弁護人による、真昼の罪に対する弁護。それに反論することが出来ないほど絶対的な論理。一つ一つの個別の論旨が明確であり、それでいて一つの生起物のように完成された全体。そうであるのならば……それが到来することは仕方のないことではないか? つまり、救世主が到来することは。

 現実化した全ての形象はやがて虚偽であることが判明する。あらゆる概念が指示するものは苦痛であり、あらゆる存在が帰結するものは苦痛である。それがこの法廷における法律である。そうであるのならば……この法廷の、どこに「生命」の意味があるというのか? いや、むしろこういった方がいいかもしれない。この世界の、どこに「無」ではないことの意味があるのか?

 真昼には生きる意味がないということは、真昼にとって、もうどうでもいいことだった。パンダーラが死んだ瞬間から、それは自明の理だったからだ。けれども、この世界には……この世界には、まだ、何かの意味があると思っていた。真昼以外の森羅、真昼以外の万象、それらのものには、それがそれであるところの、何かしらの需要な理由があると思っていたのだ。そうであるならば、真昼は、この世界に生きている意味があった。この世界に結索されている意味があったのだ。

 しかし、索具は壊れてしまった、というか、世界そのものが壊れてしまった。マラーは、真昼にとって、この世界が存在していることの意味だったのだ。それなのに、それは失われてしまった、いとも簡単に、機械仕掛けの神様に食い殺されて。

 そうであるならば、真昼には、ここにいる意味がないのだ。この世界にいる意味がないのである。それは、このアーガミパータに来る前に真昼が抱いてきた観念、「私は生きていてはいけない人間だ」というような生易しい観念とは全然違ったものだ。それは、そもそも観念ではない。観念の欠如だ。真昼という生き物には理由がないし、真昼が生きているこの世界にも理由がない。あらゆる因果が失われて、そこにはただ一つの命題だけがある。「真となるであろう、さもなければ真とならないだろう」という命題だけが。

 だから、真昼は、ここに、いない。

 ここではない別の場所にもいない。

 ただ。

 その心臓が動いているだけ。

 その肺臓が動いているだけ。

 簡単にいえば、真昼の精神は物質化してしまったということだ。今まで、人間の肉体の中にある一つの海のように、全身の隅々にまでいきわたって。それは、やでらかに、あわやかに、震えときめいていた。弦楽器の弦が弾かれるように、真昼の指先における末梢神経が弾かれると。真昼の中の海は、静かに些喚いて、一つの過程を描き出したものだった。

 しかしながら、その海は、もう凍り付いてしまったのだ。不可侵の、透き通って冷静な、球体になってしまった。それは絶対的に結晶した固体であって外部の影響を受けるものではない。どのような外部的な刺激を受けても、真昼の精神は、なんの感動も覚えなくなってしまったということだ。だから、真昼は、何が起こっても、何も感じなかった。ただ、あの言葉を繰り返すだけだ。大丈夫だよ、大丈夫だよ。だが、その言葉にも、既になんの意味もない。

 と。

 そんな。

 真昼で。

 あったが。

 そんな真昼に対して、デニーは、一切の配慮を見せていなかった。このイシューの最初の方でも書いたことであるが、まるでいつものデニーであったということだ。真昼の感情について慎重になっているようなおずおずとしたところは一切なかった。

 これは一体どういうことなのか……と、問うまでもないだろう。分かり切ったことなのだから。つまり、今の真昼は、分かっているのである。完全に理解しているのだ、マラーが死ななければいけなかったということを。それに対して、真昼は一切反論する気はなかった。そのことに対して、既になされたことに対して、それが「悪」であるという告発をするつもりなど、真昼にはもうなかったのだ。なぜなら、真昼は認めるしかなかったから。それが「必要」であったということを。真昼は怒っているわけではない。

 そこに怒りという感情がないのならばどうして謝罪をする必要がある? というか、そもそも、デニーからすれば。真昼が生きていさえすればいいのである。真昼が自殺、あるいはそれに準ずるような無謀な行為をしようとしなければそれでいいのだ。それか、奇瑞の力を使ってデニーのもとから逃走を図るとか……とにかく、どちらにしても、今の真昼にはそんなことをする気配はない。生きたまま死んでいるようなものなのだから。デニーからすれば、これほど好都合な真昼ちゃんコンディションはないのであって。それを変えようとする必要は、真昼ちゃんのご機嫌伺いをする必要は、どこにもないのである。

 そんなわけで。

 デニーは。

 真昼のことなんて、欠片も気にすることなく。

 自殺行為号(仮)をラッシュアップしていた。

 ある場所に向かって。

 それでは、そのある場所とはどこなのだろうか。いつもであれば、ここら辺で、デニーちゃんに向かって真昼ちゃんが馬鹿丸出しの質問を居丈高に問い掛けて。そのおかげで、これから何が起こるのかということが分かるというものなのだが。だが、今の真昼ちゃんの状況はあんな感じのご愁傷様なのであって、そういった展開を期待することは出来ない。ということは……先ほどの電話の内容と、それに、その後でデニーが真昼に対して発した言葉から推測するしかあるまい。先ほどの電話とは、要するにデニーからプリアーポスという何者かに対してかけられたらしいあの電話である。

 それによれば、これからデニー&真昼は……マートリカームラのブラインド・スポットというところに行くらしい。そして、そこに辿り着く前に、まずアーガミパータ霊道というところに行く必要があるのだそうだ。

 えーと……いやー、駄目ですね。全然分かりません。恐らく、ブラインド・スポットというのは、アーガミパータの各々の土地を支配している無数の集団の、どの集団によっても支配・監視されていない場所のことを指しているのだと思われる。そして、マートリカームラのブラインド・スポットとは、そういったいわゆる盲点の中でもコーシャー・カフェが以前に武器の密輸に使っていたため、アーガミパータ外とアーガミパータ内との間で何かしらの交通が可能となっているところなのだろう。

 そこまでは分かる。けれども、それ以上のことは一切分からない。例えばマートリカームラという地名、それがどこにあるのかが分からないし。それに、アーガミパータ霊道というのも分からない。「道」というくらいなのだからなんらかの道なのだろうが、「霊」が付くのはどういうことなのだろうか。霊体でしか通れない道なのだろうか、それとも他に意味があるのだろうか。

 なんにせよ物語に。

 何かしらの進展がない限りは。

 はっきりしたことは。

 何もいえないですね。

 まあ、あれだ。カリ・ユガ龍王領から出てもう三時間も経過しているのである。さすがに、もーおそろそろ、なーんか起こってもいいんじゃない?ってなってくる頃合いである。

 先ほどまで、ちょっとした草原のようなところでもそもそと無心に草を食んでいた動物。なんとなく赤みがかった角、無数に枝分かれした角を持つ、鹿のような生き物が、自殺行為号(仮)に蹴散らされて慌てて逃げていく。岩山の上では、全身に描かれた斑紋が、まるでゆらゆらと揺れ動く波間のようにして蠢いている、そんな動物が。恐らくネコ科だと思われる動物が、一体何事が起こったのかと自殺行為号(仮)を見下ろしている。そういった動物達の困惑など一切気に留めることなく、デニーは、ひたすら南へ南へとビークルを疾走させていく。

 ふわり、と浮かび上がった車体は、つい先ほどまで目の前を塞いでいた、スーパー・スティーピーな断崖を駆け上がり始めて。なんだかひどく濃い色をした、黒っぽくさえ見える葉をつけた木々を蹴散らし蹴散らしそこを登っていく。すっ飛んでいくような速度で、瞬く間にその断崖を登り終わって、そして、その向こう側の光景が見えてくると……デニーは、後部座席に向かって、こう叫んだ。

「ほら、真昼ちゃん!」

 しゃらんと、真銀の鎖が揺れる音のような。

 そんな、きらきらとした、太陽の光の先に。

「見て!」

 確かに。

 それが。

 見えた。

「あれがアーガミパータ霊道だよ!」

 ね、何かしらの進展がありましたでしょう? さてさて、それは……真昼が今まで見たことがないような物だった。というか、もしも真昼がそれを見て、それについての感想を持ったとしたら、今まで見たことがないような物だと思っただろう。つまりですね、ご愁傷様状態にある真昼はそれを見ようとして体を起こしたりしなかったし。それに、もしもそれを見たとしても、その光景に対するなんらかの反映が思考能力に現われるということもなかったのであって。こう表現するしかないのである。

 とにかく、それは、自殺行為号(仮)が駆け上がった断崖から三十ダブルキュビトから四十ダブルキュビト先のところ。断崖から見下ろすことが出来る、平野のように開けた場所に敷設されていた。敷設と書いた通り、それは大地の上に続いていて……いや、敷設と呼んでいいのだろうか。よく分からない。それについて、何をどう表現していいのかが分からない。

 とはいえ、それが、説明するのが難しいほど複雑な機構であったというわけではない。それ自体は、ごくごく単純な構造をしていて。構造と呼ぶのもちょっとおかしいかもしれないと思うくらいだった。要するにそれは、どこまでもどこまでも続いていく、二本の炎の筋だったのだ。二本の炎の筋が平行に並んでいるだけ。

 炎? 炎というか、少なくとも炎のように見える何か。それが炎であると断言出来ないのは、というかむしろ科学的な意味合いでの炎ではないように思えるのは。それの帯びている色彩のせいだった。無原罪の処女が、薄く、薄く、酷薄に微笑んでいるかのような青。それは、どうも、青イヴェール合金と関係しているか、それか、その物質と同じくらいの対世界独立性を有するところの何からしかったのだ。

 そんな炎、一つ一つの大きさは、高さにして二ダブルキュビトくらい、幅にして一ダブルキュビトくらい。長さは分からない、視界が続く限り続いているからだ。真っ直ぐに、真っ直ぐに。例えばその進路を岩山が塞いでいただろうようなところでは、その岩山のうち、邪魔であったのだろう部分だけが、まるで何か巨大な力によって抉り取られたみたいにして開削されている。

 それは、明らかに自然に形作られた渓谷とは異なった形をしていた。なんといえばいいのか……どこかしら、残酷さのようなものが見て取れるのだ。無生物に対してこのような表現をするのはおかしいとは思うのだが、とはいえ、それは、ある種の惨たらしさを感じさせる切開の跡であった。「ある種の」と書いたのは、それが、一般的に「残酷さ」という表現を使った時に想定されるような、動物的な攻撃性による破壊ではなかったからだ。それは、どちらかといえば合理的な計画性に基づいた残酷さであった。どこまでも明晰で、どこまでも理性で。それゆえに、慈悲の破片さえ感じさせない都市計画。自然というものが持つ生命力のようなものを当然のように否定する、そういった開削の仕方。

 そんな風に整備された……進路に。その二本の炎は敷設されていた。敷設、そう、敷設だ。それらの炎は、敷設と呼ぶのが最も相応しいような形でそこに存在していた。なぜなら、その二本の炎が作り出す形象は、なんとはなしに線路のような物を想起させたからだ。とはいえ、それらの二本の炎が線路のように見えたというわけではない。何せ、それらの炎は二ダブルキュビトの高さがあるのだ、そんな線路見たことあります? まあ、世界は広いですから、そういう物もあるかもしれませんけどね。少なくとも、線路という物は、普通は地面の間近に設置される物だ。ということで、この光景は、普通の線路であるというわけではない。いや、それが無原罪の炎である時点で既に普通ではないのだが、なにせよかにせよ、それらの炎の上を電車が走るという物ではない。とはいえ、それらの炎の間はどうであろうか?

 右側の炎と左側の炎とによって、外部から切断された空間。ここに至るまでの信じられないほどの長さ、そして、ここから続いている信じられないほどの長さ、アーガミパータの表面に深々と開いている傷口のような空間。幅にして、大体七ダブルキュビトくらいだろうか。そこは、実は……高原のごつごつした岩肌、剥き出しの大地とは異なった状態にあった。

 先ほどは傷口と書いたが、それはあくまでも比喩的な表現であって、その空間は特に削り取られたり抉り出されたりしているわけではない。ただの真っ直ぐな平面でしかない。とはいえ、あまりにも真っ直ぐ過ぎた。何がいいたいのかといえば、その平面上は一枚の金属板であるかのごとく金属に塗り潰されていたのだ。まるで鏡面みたいに磨き抜かれ、見上げる空をそのまま映し出してしまっているほどの、赤イヴェール合金。その奥に、悪夢のように赤く染まった空を孕んでいるかのような、そんな赤イヴェール合金が敷き詰められていたのである。

 それから、その赤イヴェール合金には、なんらかの種類の魔学式が描かれていた。ある魔学式が、何度も何度も連続して、延々と続いていくこの金属板を埋め尽くしていたということだ。魔学式に詳しい者が見れば、これが、まず間違いなく死霊術の魔学式であるということが理解出来ただろう。しかも、それは、一人の魔学者によって証明されたところの魔学式ではない。数人の魔学者によって、共同して証明されたところの魔学式である。たった一人の魔学者だけでは、到底、根源情報式に対する擬制可能性をdialektikeし得ないような。

 ということは、これは、よほど複雑であり、それゆえに、よほど強力な裁治権を到来させることが出来るということである。一体何人の魔学者が、この魔学式の証明に関わったのだろうか? あるいは、どれほど強力な魔学者が、この魔学式の証明に関わったのだろうか? これほどまでに複雑な魔学式は、何か途轍もなく重要な用途にしか使われ得ない。思い付ける限りで、このような魔学式が使用されたのは……例えば、第二次神人間大戦時のこと、あの「獣の像」が作られた時。それくらいだ。

 とにもかくにも、そのようにして、炎と炎とによって隔離された空間は舗装されていて。それは、どう見ても、その上を何かが通過することが想定されているのである。何か、巨大で、細長く、定められた経路を凄まじい勢いで突っ切っていくもの。そんなわけで、その光景は線路のように見えたのだ。

 さて、これで。

 もしも真昼に、それを見るだけの。

 思考能力が残っていたら。

 見ていたであろうものを。

 描写し終えたわけなのであるが。

 ただ、今となっては……自殺行為号(仮)からの視点では、そういった光景を見ることは出来ない。なぜというに、自殺行為号(仮)は、既に断崖の半ばまで落下していたからである。

 デニーは、「あれがアーガミパータ霊道だよ!」というあのセリフの後でも、決して自殺行為号(仮)をストップすることはなかった。まあ、断崖があまりにも急峻であったため、その頂上には自殺行為号(仮)を停止させることが出来るだけの空間がなかったという理由もあるのだろうが。どちらかといえば、真昼がその光景を見られるか見られないかということなど、デニーちゃんにとってはどーでもいいことだったという理由の方が大きいだろう。

 とにかくデニーは、一瞬たりともブレーキを踏むことなく。断崖のてっぺんから、そのまま、まるでジャンプ台からすっ飛んでいくかのようにフリングショットして……現在、その墜落の過程にいるということである。

 なーんてことをいっている間にですね、自殺行為号(仮)と地上との間、残っていた半分の距離も、無事に落下し終えたようですよ。これだけの高さから落ちたというのだから、「どしーん」だの「ずしーん」だの、少しくらいの墜落音がしそうなものであるが。何度も何度もいっている通り自殺行為号(仮)はフローティング・タイプのビークルであるため、その着地は極めて優雅かつ瀟洒であった。まるでお嬢様がハンカチーフを落としただけとでもいう感じ、ふわりと柔らかい着地。

 そして、そのまま、あたかも慣性か何かが働いているかのように数ダブルキュビト先までスライディングして。そこで、いかにもききーっとでもいいそうな格好、一般的な車でいうところのドリフト・ストップのような格好で、横ざまに滑り込むようにして停車したのだった。

 もちろん、いうまでもないことであるが、デニーは別にドリフト・ストップをしたかったわけではない。ただ単に横向きに停車したかっただけである。その炎に対して車体が平行になるように停車したかっただけなのだ。そちらの方が、降りた時にすぐにその炎と向き合えるし……ということで、デニーが停車したその場所は、先ほど説明した二本の炎のうちの一本のすぐそばであった。具体的には三ダブルキュビトかそこらの距離。ただし、炎と炎との間、その内側というわけではなく、その外側であるところのごつごつした岩肌の上であったが。

 そして。

 デニー、は。

 満足そうに。

 こう言う。

「とうちゃーく!」

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