第二部プルガトリオ #55

 デニーが。

 きゃるーんと。

 真昼の。

 両眼を。

 見つめて。

「お話をまとめてきました!」

 終わりなきpalingenesisから解放されなければいけない。それ以外にapokatastasisはあり得ない。裁きの場、終わりなき完全性から身を投げて、その全体を一つの宣告として受け入れなければいけないということだ。今の真昼は……選ばれた真昼だ。それは、最善の選択肢ではない。全ての真昼が、可能性として完全に消えた時。その時にのみ、真昼は救われる。全ての可能性が一つの裁きとなった時にのみ、真昼は許される。そして、デニーは、そのことを知っている。

 だから、デニーは、そのあざとらしい指先で真昼の手の甲にそっと触れた。右の手の甲だ。まずは中指で、それから人差指が触れる。真昼の一番奥深いところ、動物的快感の中枢を愛撫するかのような手つきで、そっとそれを撫で上げる。

 「真昼ちゃんはあ」手の甲から、その指先は、次第に、次第に、上の方へと進んでいく。「卵はお好き?」手首を通って、前腕を経て、肘から二の腕へ、そして右の肩にまで到達する。「ううん、そういう卵じゃなくって」指先が真昼の首に触れた、真昼は声を漏らしてしまう。「もう少しで孵る卵」ああ、という、官能の陶酔に溺れるような声だ。「もう少しで、雛鳥が孵化する卵」デニーは、真昼の声を特に気にすることなく、指先を首筋に進めていく。「その卵を口に含んでね」喉を舐める指先、喉頭軟骨を甘く撫でて。「舌の先で、ぱりんと殻を割るの」それから、今度は、上へと向かって上がっていく。「中から、とろとろに溶けかけてるみたいに柔らかい雛鳥が、震えるみたいに出てくる」その指先は、そっと、頬に触れて。「それを噛み潰す」そして、その頬を伝っていた涙に触れる。「がりがりって、噛み潰す」右の頬を流れ落ちていた涙、左の頬を流れ落ちていた涙、デニーの指先は、その両方を掬い取って。「皮膚が破れて、中に入っていたものが出てくる」静かに、静かに、体の反対側へと向かっていく。「出来かけてた筋肉が、出来かけてた内臓が、出来かけてた血液がこぼれだす」デニーの指先は、右の肩に達する。「その一つ一つ、全部が、生まれるはずだった生き物の味がする」右の半身で辿っていったルートを、左側では反転させる。「ねえ、真昼ちゃん」つまり、その指先は、肩から手へと進んでいく。「卵はお好き?」二の腕から肘へ、前腕を経て、手首を通って、そして、左の手の甲にまで到達する。

 デニーの顔は……気が付くと真昼のすぐ近くにあった。荒くなった真昼の呼吸が、デニーの顔に直接かかってしまうのではないかと思うくらいの近さだ。あの笑顔で、可愛らしく無邪気な笑顔で。真昼の鼻先を啄もうとしている小さな小さな小鳥のように、デニーは真昼の顔を上目遣いで見上げている。真昼の声。「雛鳥は嫌い」「なんで?」「骨が……」「えー?」「骨が多いから」。デニーは、真昼の耳元に口を寄せる。その口が、くすぐるように囁く「やっぱり、真昼ちゃん、なーんにも分かってないね」。

 ところで、真昼は手を繋いでいる。左手だ。自分の左手で、マラーの右手を、優しく握り締めている。赤い絨毯の上にマラーのことを下ろしてから、今、この時に至るまで。ずっとずっと、手を繋いでいる。

 そして、今のデニーが触れているのは、まさにその左手であった。左手の甲に触れている。デニーは、一体、なぜそんなことをしているのか? というか、なぜ、その中指とその人差指とは、真昼の右手から左手までを伝っていったのか?

 それを理解するためには、デニーの指先を見ることが必要になってくるだろう。デニーの指先は……光を放っていた。うっすらと淡く、それでいて、闇の中に沈み込んでいく、くらくらと眩暈がするような光。要するに、デニーの指先に纏わりついていたその光は、真昼のものであるところの奇跡の光だった。デニーが真昼の涙を指先で掬い取った時に。それはデニーの指先に纏わりついた。そして、デニーの目的は、これであったのだ。

 デニーが、右手の甲に触れた時に。真昼の内側に湧き上がってきていた、荒霊が発するところのエネルギーは、デニーが触れた一点に集まり始めた。デニーが真昼の体をなぞっていくごとに。そのエネルギーは、まるで綿菓子のようにしてデニーの指先に纏わりついていって。指先が、譲渡の象徴として二つの涙を掬う……そして、真昼の全身にいき渡っていたはずの奇跡は……今となっては、その全てが左手に集まってしまっていた。

 譲渡。そう、それは譲渡であった。今となっては、真昼の奇跡は、完全にデニーの支配下にあった。いうまでもないことだが、真昼の荒霊自体を譲渡することは出来ない。それが誰に属するかを決めることが出来るのは、神々さえも支配するところの「理則」だけである。アーガミパータでは「リタ」と呼ばれ、月光国では「うけひ」と呼ばれるそれは、例えデニーであっても逆らうことは出来ない、この世界における絶対的な法である。デニーが譲り受けたのは、その荒霊が発したエネルギーだけだ、要するに、真昼が起こした奇跡そのものを譲り受けたのである。

 デニーが指し示す通りに動く奇跡。さて、それでは、デニーはそれを使って何をしようとしているのか? いや、そう問い掛けるよりも、むしろこう問い掛けるべきだろう……デニーは、一体、それを何に使おうとしているのか?

 デニーの指先が、ペティ・カティ・テティ、ゆっくりと、ゆっくりと、真昼の指先に滴っていく。真昼の指先、つまり、マラーの手を、優しく優しく包み込んでいる指先。真昼とマラーとは、普通に手を繋いでいたわけではない。いわゆる貝殻繋ぎをしていたということだ。二枚貝が殻を閉じているかのようにしっかりと結び付く繋ぎ方。ということは、真昼の指先は、マラーの手の甲に至る指先であるということで。デニーの指先は、その中でも、マラーの手の甲の、一番中心に近い部分に達する指先……つまり、中指に向かって進んでいる。仮定、過ぎ越し、二方向性。ペティ・ハティ・ラティ。中指の第二関節を過ぎて、中指の第一関節を過ぎて、デニーの指先は、真昼の中指の先、形の整った爪の上に触れて。

 そうして。

 その後で。

 デニーの指先は。

 真昼の肉体を離れて。

 マラーの肉体の上に。

 とんっと。

 落下。

 する。

 その瞬間に、真昼は……急速に、自分という生き物の内部から、あらゆる「力」の現勢力が失われていくのを感じた。energy、energeia。切開した傷口から血液が流れ出していってしまったかのように、目の前がゆらゆらと揺らいでくる。いくら呼吸をしても、全身の細胞が、まるで底のない杯みたいにして体の中に受け入れたものを貪ってしまう。

 真昼は、もう立っていられなくなってしまった。真昼の骨を、真昼の肉を、真昼の内臓を、支えていたはずの関節は。もしも真昼が人形であったならば、内側で張り詰めていた糸が伸び切ってしまったとでもいう感じ。神経が、神経が、神経が抜けて。すとんと落ちる膝、くらんと傾く腰。

 その場でへたり込んでしまったということだ。とはいえ完全にすっ転んでしまったというわけではない。右足は体の右側に、左足は体の左側に。脹脛と太腿と、その内側がぺたんと地面について。いわゆるぺたん座りの状態になる。

 何が起こったのか?

 真昼の中に満ちていた「力」。

 つまり。

 奇跡が。

 失われたということ。

 デニーの指先が。

 真昼の内側から。

 全ての奇跡を。

 取り上げてしまったということ。

 右手で、なんとかして体を支えていて。上半身は、まるで前方に倒れ込みそうな様子だった。それでも真昼は、その場に横たわってしまうということはなく……それはなぜかといえば……左手のせいだ。その左手を離さないために。

 マラーと繋がっている、今となっては、唯一の接点。それを離さないために、真昼は、真昼の中に残っている全ての力を使っていたのだ。なんでそんなことをしていたのか? なんで、真昼は、そんなことをしなければいけなかったのか? 真昼には分かっていたからだ。真昼は、完全に、理解していたからだ。もしも、この手を放してしまったら、取り返しのつかないことになってしまうということを。

 悪魔……悪魔、悪魔! あいつは、悪魔だ。あたしから、全てを奪い取っていこうとする。これは正当な契約だとのたまって、これは公平な交換だとのたまって。笑うな、悪魔! あたしは、騙されない……あたしは、騙されたくない……けれども、悪魔は、誰のことであっても騙すことはない。世界の見方が違うだけだ、オルタナティブ・ファクト。あたしが、悪魔の世界に囚われてしまう。あいつが持っていたあいつのもののように、赤い色をした二挺の拳銃のように、この世界があの世界に交換されてしまう契約。

 そんなんじゃなくて、違う。あたしは……この子を見捨ててはいけないという、ただそれだけのこと。ただそれだけのことのはずなのに、なんでこんなに難しいんだろう。あたしは救って欲しかった。だから、悪魔はあたしを救いに来た。この子のことを、悪魔はあたしに与えたのだ。今、悪魔は、あたしから、この子を奪い去っていこうとする。契約と交換と。ねえ、それならさ。あたしはこの子の代わりに何を手に入れるというの。

 海に沈み込んでいってしまいたかった。陳腐な願いだけど。海に溶けてしまって、海と同じものになってしまいたかった。けれども、悪魔はあたしの耳に囁いた。実は、それが、あたしの本当の願いじゃないって。そもそも、あたしはここにいるの? あたしという生き物は、願いというものを持てるほどに、幸いで穢された生き物なの? この子だけは……あたしは……見捨ててはいけない。なぜなら、この子はあたし自身だからだ。

 あたしがあたしであったところの全て。今までのあたし。そして、悪魔が求めているのは、まさにそれだった。助けて、助けて、あたしの耳元で声がする。ベイビー、ベイビー、ベイビー……あたしの耳元で、誰かが歌っている。あたしは見たい、それを見たい。あいつが笑っているところを。あいつが、あたしのことを見て、なんでもないって顔をして笑っているところを。

 そう、真昼は……分かっていた。完全に理解していた。もう、取り返しがつかないということを。なぜなら、真昼は、既にマラーを手放してしまっていたからだ。昨日の夜、饗宴が行われていたあの場所に入る前に。真昼は、マラーを、見捨ててしまっていた。真昼は選んでいたのだ、マラーではなくデニーを、今までの自分ではなく新しい自分を。

 救えない、助けられない。どうしようもないのだ、真昼は、とっくの昔に身を投げてしまっていたのだから。後は地面に激突して盛大に死ぬだけ。それは、幸いなことに、思うほどに悲しいことではないだろう。なぜなら、その瞬間に、ようやく、真昼は、自分がどこにいるかということを知ることが出来るからだ。

 真昼は、涙を流していた。その涙の一滴一滴が、光り輝く言葉によって、真昼にこう告げていた。お前のその手を放せ、なぜなら、お前はそれを望んでいるのだから。そう、真昼はそれを望んでいる。悪魔は……悪魔は、誰のことも騙すことはない。ただ、その誰かが望んでいることをするだけだ。

 ごめん。

 ごめん。

 ごめんなさい、マラー。

 真昼は。

 その手を。

 離した。

 少しだけ骨のような形をしている幼い子供の手のひらが、するするとほどけるみたいな態度によって、真昼の肉体から離れていく。喉の奥の方に何かが刺さっているみたいだ、痛い、痛い、呼吸がしにくい。骨が……骨が刺さっているのかもしれない。結局のところ生まれることがなかった雛鳥の骨。それか、もしくは、何も刺さってないのか。

 ちかちかと真昼の目の前で瞬いている、流れ星みたいな奇跡の光。きらきら、きれいで、うるさくて……でも、それは、実は奇跡の光ではなかった。だって、もう、真昼の内側には奇跡の残滓さえも残っていなかったから。真昼のものではなくなってしまった奇跡を反射して、涙が、ただ、光っているだけだった。

 それでは奇跡は誰のものになってしまったのか? 真昼の奇跡を管理しているのは、デニーだ。ということは、真昼の奇跡は、デニーの指定した誰かのものになったということで。そして、デニーの指先、中指と人差指とが指し示したのは……真昼ではない真昼。たった今、真昼から切断されたところの真昼。

 つまり。

 それは。

 マラー。

 滑り落ちた左手が、地べたの上に落ちる。結果として、真昼は、右手と左手とを地べたの上について自分の体を支えることになる。まるで自分がしたことの重さに耐え切れないとでもいうように俯いた体は……それでも、それを感じていた。

 うつくしい、ひかり。真昼は、ぼんやりとした頭の中で呟いた。美しいという現象は常に他人事である。それは少なくとも絶叫ではあり得ない、それは主観的な深刻性というものを一切含んでいない。重要ではないもの、無意味でさえないもの。

 美しいと感じる時、人間は、世界の本質から最もかけ離れた場所にいる。それは、所詮は客観的な欺瞞に過ぎないからだ。そう、既に、その光は、真昼の光ではなかった。光り輝いているのは真昼ではない、真昼の隣に立っている、真昼が切断し放棄したところの肉体。まるで、冷血動物であるところの真昼が、いとも容易く切り捨てた尻尾のような肉体。

 真昼は、暫くの間、見上げることも出来なかった。けれども、やがて……冷たい水に顔を沈めていて……長い間、息が出来なかったせいで……とうとう耐えられなくなったとでもいうみたいにして。喘ぎながら息継ぎをするように、そちらに顔を向けた。

 もちろん。

 そこには。

 真昼の左隣には。

 マラーが、いた。

 マラーは、まるで奇跡みたいに美しかった。まるでというか、まあ、実際に奇跡なのだが。とにかく……この世界で最も深い夜に沈んでいく、凍り付いた月の光を、飲み込んでしまったのだろうか? どこか、とても、とても、遠いところから響いてきた残響のようにして光り輝いていたということである。

 一匹の蝉が、月の夜に、脱皮していく有様。

 それが、始まったのは。

 デニーの指先が触れた。

 瞬間であった。

 真昼の中指から、マラーの手の甲に、指先が落ちた瞬間。その指先に纏わりついていた真昼の涙が、月の色をした光が、マラーに感染したということだ。奇跡は、あたかも、死体の中に潜り込んでいく蛆虫のような態度でマラーの手の甲に潜り込んで。そして、そこから全身に瀰漫した。

 とはいえ、奇跡は、ただただ氾濫したというわけではなかった。そもそもの話として、奇瑞が発生させるところの荒霊の力は、当該奇瑞以外の生き物が受け止めることが出来るほど生易しいものではないのである。それは神に匹敵する力であって、場合によっては神さえも超えうる力である。奇瑞は、ただ許されているからそれを扱えるだけの話なのだ。許されていない、ただの人間が、脆弱な人間が、それを飲み干して無事でいられるわけがない。

 強化されていなければいけない。依り代となれる、適切な材質で作られた人間でなければいけない。もし、もともとの肉体を形作っていたものが、そうでないのならば……その肉体を作り替えなければいけない。いうまでもなく、デニーはそのことを知っていた。そして、予め、そうしていた。料理には下拵えが必要だ、特に、美食家に満足して貰うための手の込んだ料理であるならば。デニーは、マラーの肉体を作り替えていたということだ。奇跡を容れるための容器として。

 その下拵えはどのようになされていたのか? 問い掛けるまでもない。真昼は見ていた、ずっとずっと見ていた。マラーの肉体が、少しずつ少しずつ作り替えられていく、じっくりとした弱火で煮込まれていく、その様を。ああ、そう、真昼は知っている、マラーの肉体があの時に変わり始めたということを。「サフェド湖の製塩所」と呼ばれたあの場所で……真昼が全く知らないうちに……デニーが、マラーの全身に、魔学式を描いた時に。

 なんとなく真昼の魔学式とは異なっているように見えた、その直感は間違ったものではなかった。マラーの魔学式は真昼の魔学式とは違った目的で描かれたものだったのだ。そんなことは、よく考えてみれば当たり前のことだったのだ。デニーにとっては、マラーなんて、いくらでも取り換えが聞く安物の(というかタダで手に入れた)奴隷でしかない。真昼のように、大事に、大事に、壊れないように、そのための魔学式を描く必要はない。

 確かに、一部は、真昼のそれと同じだった。例えば、一応は身体強化の要素もあったし、それに、保護するという意味合いの部分もないわけではなかった。とはいえ、それが担わされていたところの真実の目的は、マラーの肉体を、荒霊の力を受け入れても壊れないような――少なくともその役目を果たすまでは壊れないような――何かしらに変えてしまうということであったのだ。

 だから。

 真昼という容れ物から。

 マラーという容れ物に。

 注ぎ移された奇跡は。

 すうっと……マラーの、魔学式に、浸透していった。ほとんど目に見えないほどの、鈍い光によって刻まれていた魔学式。それがなんらかの水路であって、そして、奇跡は底を流れる水流であるかのように。鈍い色の光の上を、奇跡の色をした光が塗り潰していったということだ。

 こくん、こくん、と、喉を鳴らして奇跡を飲み込んでいっているみたいだ。右の手、手の甲、デニーが真昼の涙をなすりつけたところから。マラーの全身に、もう一度、新しく、魔学式が描かれていく。指先、爪先、頬に瞼に。それから、腹と、胸と、背中と……それは赤いワンピースを内側から照らし出す光だった。まるで、あたかも、検卵の道具によって浮かび上がっている卵の中身のように。卵殻の先端を切断されて、その中身が見えるようになった卵の中で、それでもまだ生きている、生まれる前の生き物のように。マラーの細胞の、一つ一つが光り輝いている。

 赤、赤、赤い光だった。子を宿すための内臓で光っている光。真昼の肉体に宿されていた時とは違った色の光、当たり前だ、真昼は赤い服を着ていたわけではないのだから。ワンピース、「初めからその形をしていた」ワンピース。もちろん、強調の意味合いで当て嵌められたこの鍵括弧には意味がある。子宮の中で胎児が蠢いている。雛鳥、骨、骨、デニーの舌の上で噛み潰されて、生まれる前に死んでいく雛鳥。「初めからその形をしていた」、とはいえそのことに気が付いていたかどうかは別だ。堕胎のための薬、原罪、バシトルー。サンダルキア、罪深き無原罪。

 うつくしい、ひかり。

 うつくしい、ひかり。

 真昼が。

 見上げた先。

 あったもの。

 その顔は奇跡のように美しかった。ははは、思わず笑ってしまうような陳腐な表現だ。とはいえ、残念なことに、それは真実であった。マラーの顔に刻まれた、一つ一つの直線に、一つ一つの曲線に、一つ一つの角に、一つ一つの円に、奇跡が満たされていた。マラーの魔学式、鼻の頭にも耳たぶにも蔓延っている魔学式は……まるで、罅割れのようにさえ見えた。あまりにも強い力に耐え切れず、壊れかけている人間の肉体。そして、その全てが、真昼にはただただ美しいものであった。真昼からは完全に切り離されたところの、どうでもいい他人事だった。

 真昼が見上げた先、そこにあった顔はマラーのものだった。もちろんだ、とはいえ、そのマラーは、真昼が知っているマラーとは別人のように見えた。

 真昼が知っているマラーは、哀れで、惨めで、薄汚く、見捨てられた子供だ。いつも、腐りかけた血液で汚れた服を着ている。その血液は、もう、自分のものであるか他人のものであるかさえ分からなくなってしまっている。自分を傷付けようとしている誰かを恐れて、この世界の恐ろしいもの全てを恐れて、震えながら隠れている。トラヴィール教会の椅子の下、怯えて、怯えて、泣いている。げっそりと痩せ細った顔で、ただ、ぼんやりと煌めいている二つの眼球は……誰かに救って欲しいと訴えかけている。それが、真昼の知っているマラーだ。

 そのマラーは全く違っていた。それは、既に、聖なる生き物になってしまったのだ。光り輝く生き物、燔祭の焼き尽くしの炎の中で燃え盛る生き物。その生き物は世界から異物のようにして浮かび上がる最も原初的な赤を身に纏っていた。それは何ものをも恐れることがない、それは二度と震えることがない。なぜなら、自分が誰であるのかということを完全に理解しているからだ。どうして怯える必要があろうか? 逃れられない運命を逃れられないものとして受け入れた生き物が? 隠れる必要などない、どこに隠れても探し出されるならば。

 僅かに揺らぐこともなく立っていた。一つの迷いさえなく立っていた。赤い絨毯の上で、それは……本当ならば死ななければいけなかった少女の似姿として彫刻された、蝋作りの像のように見えた。あまりにも、あまりにも、確かなのだ。これが、血と肉とで出来た不完全な物質であることがあり得るだろうか? その生き物は、そのように立っていて。そうして、その顔は、喝采であった。声など必要ない、その表情が、その顔の造作の一つ一つが、統治する者に対する無条件の讃歌であったのだ。ただそれだけを見つめる目、言葉を捨て去った口。確信に満ちていて、至福以外のあらゆる感情を忘れたような顔。

 マラー。

 マラー。

 しかし。

 それでも。

 それは。

 確かに。

 マラーだった。

 真昼が見上げている先で、マラーの手の甲に触れていたデニーの手がまたもや動き出した。触れていた部分から、指先を離して。その後で、その手先は、緩やかに回転した。元々は、手の裏面を見せていた手、今度は表面を見せることになる。つまり、手のひらを上にしたということだ。

 指の一本一本が、腐肉を舐める生き物みたいに動いている。些喚いた、人差指が、中指が、薬指が、小指が、甘やかに誘惑するかのように踊って……それから、また、マラーに触れた。ただし、今度はその手の甲に触れたわけではなかった。デニーの左手、その指先は、マラーの右手、その指先に触れたのだ。

 あたかも口づけをした後に舌先を絡ませるみたいにして、デニーの指の一本一本は、マラーの指の一本一本に絡み付いて。そうして、デニーは……結局のところ、手を取ったということだ。これから、マラーのこと、赤い絨毯の上をエスコートしていくために。デニーは馬鹿みたいに恭しくマラーの手を取った。

 デニーは。

 カリ・ユガと、の。

 話をまとめてきた。

 真昼のために。

 その交渉を。

 その取引を。

 まとめてきたのだ。

 もちろん、それは取引だった。確かに、何かを手に入れるためにはそれ相応の対価が必要だというのは馬鹿げた考えである。そもそも価値というものは、それが人間的な価値であろうと非人間的な価値であろうと、恣意的な法則によって決定されるのであり……具体的な例を挙げれば、このカリ・ユガ龍王領において、領民にはあらゆる種類の所有権が認められていない。全てのものはカリ・ユガのものであって、その処分方法はカリ・ユガだけが決められる。あるものが、Aという人間からBというグリュプスへと受け渡される。そして、別のものが、BというグリュプスからAという人間へと受け渡される。これは交換ではない、一つ一つの受け渡しは、そのそれぞれが、カリ・ユガの導きによって起こったこと、起こるべくして起こったことであるというそれだけのことだ。

 とはいえ、一般的には、あらゆる現象がそのようにして起こっているにせよ。一部には例外というものがある。例えば、今回のケースにおいては、カリ・ユガとデニーとはほとんど対等な力を持った生き物なのだ。このような場合、片方がもう片方から一方的に奪い取るということは出来ない。片方が、もう片方から手に入れようとするのならば、もう片方のことを納得させなければいけないのだ。この場合においては、無論、欲するものを手に入れるために、同じだけの価値があるものを与える必要が出てくる。平等とは同じだけの力を持つ者の間にしか発生しない錯覚なのだ。

 今、デニーは求めている。カリ・ユガが持つ、兵器を。それは、レベル6のスペキエースさえ破壊しうる力を持つ何かだ。そんなものを……ただただ貸すというわけにはいかないだろう。それは、レーグートを百人だとか、舞龍を百匹だとか。あるいは人間だとかであれば、なんの対価もなく与えてしまっても問題ない。ただ、あれは、あの兵器は、さすがに重要度が高過ぎるのだ。それが譲渡ではなく貸借であっても、何か引き換えになるものがいる。

 それでは、何を対価とするべきか。なんであれば、あの兵器と釣り合うだろうか。人間? 論外だ、カリ・ユガにとって人間などなんの価値もない。例えこの星の上にいる全ての人間と引き換えであっても――いや、まあ、謎野眠子だとかシャーロット・レーニャだとか特殊な例外は除いてであるが――カリ・ユガが、あの兵器を引き換えにしようと思うはずがない。

 ということで、本来であればマラーはその対価となり得ない。マラーは人間であって、しかも、なんらの特殊な付加価値も持たないところの、ただの奴隷的人間に過ぎないのだから。まともな教育を受けているわけでもない、肉体的に優秀であるというわけでもない。例えテンプルフィールズの奴隷市場で売ったとしても兎の餌代にもならないだろう。人間にさえ必要とされないような人間がカリ・ユガにとってなんの価値を持つだろうか? けれども、とはいうものの――マラー自身になんの価値がないとしても――それは、容れ物になりうる。その内側に、カリ・ユガが欲するだけの価値を満たすことは出来る。

 奇瑞、「くしのしるし」と呼ばれる生き物について。とても勘違いされやすいことであるが、それは、正確には、神々が持つような力を神々から与えられた生き物ではない。そうではなく、神々の祝福によって奇跡の力を使えるようになった生き物である。その身に満たされているのは、いわゆるセミフォルテアのような力ではなく。何か別の力、理解不能の力なのだ。それゆえに、その力は、「くしのしるし」以外の生き物が持つことはない。

 しかも、それだけでなく、ここまでも何度か触れてきたことであるが、「くしのしるし」は月光国でしか生まれ得ない生き物なのだ。なぜそうであるのかということは、未だによく分かっていないことなのだが……どうも、このような力が生まれることになった原因には、カヅラギノヒトコトヌシの弟であるユキヲノムウマが関係しているらしい。そして、そのことが、「くしのしるし」の特殊性に影響しているらしい。まあ、そういったことはさておくとして、とにもかくにも、その発露は非常に珍しい現象なのだ。

 「くしのしるし」が希少というだけではなく、その力もごくごく稀なものなのである。特に、月光国以外でその力を見ることはほとんどない。「くしのしるし」であるということが確認されたら、その生き物は、すぐに紫内庁のエージェントによってスカウトされ、紫内庁職員として囲い込まれる。そこから先は、月光政府の所有物として生きていくことになり、ほとんど外の世界に出ることがないからだ。真昼のような例は(この年齢になるまで気が付かれることなく、月光政府に所有されていない例は)ほとんどあり得ないことなのだ。

 非常に。

 貴重な。

 ものだ。

 そう、カリ・ユガにとってさえも。

 それは、交換価値を持ちうるもの。

 とはいえ、真昼をそのまま交換材料として使うわけにはいかなかった。そんなことをしたら本末スッコロリンだ、だから、別の容れ物を用意する必要があった。

 「くしのしるし」の持つ力は……そう簡単に、別の容れ物に入れ替えることは出来ない。それは、そもそも、その者だけに与えられた力なのであって。魔学者がよく使う言葉を使うならば「受選者ロックがかかっている」のである。基本的には、それを使用することが出来るのも、それを身に宿すことが出来るのも、その力によって選ばれた誰かしらだけなのだ。

 その力を他の誰かに移そうとすれば、方法は一つしかない。当該受選者が真実の意思によってそうであるようにと希望することである。この場合、力尽くでそう希望させるだとか、洗脳によってそう希望させるだとか、そういったことをしても完全に無意味だ。そう希望するということが必然である状況でそう希望して、初めて力を移転することが可能になる。

 幸いなことに――これは果たして誰にとって幸いなことなのだろうか――その条件についてはクリアしていた。デニーちゃんが何をするでもなしに、既に、真昼の心的現象は、デニーちゃんにとってこれ以上ないというくらい都合の良いものになっていた。問題なのはそこから先である。真昼が、その力を移そうと考えるであろう誰かしらは、非常に脆弱な肉体の持ち主だったのだ。

 このことは少し前にも書いたことだが、奇跡の力というものは、人間ごときがその身に宿せるものではない。この「人間ごときが何々ではない」論法は、なんというか、ここまででもかなりの回数使ってきているような気がするが。それも、まあ、仕方のないことであって、それほど人間が下等な生き物であるということだ。とにもかくにも、「くしのしるし」であるところの人間が、そういった力をその身に宿すことが出来ているのは、ひとえに、その人間が「くしのしるし」だからなのである。

 そうではない人間にその力を移転させるのは不可能だ。これは「ほとんど不可能」とか「基本的に不可能」とかではなく、純粋な不可能さによって不可能なのである。世の中には「無理なものは無理」であることは多々あって、これもやはりそのうちの一つだ。いや、正確にいうと、非常に特殊な方法を使えば不可能なわけではないのだが……その方法を使うだけのコストがあれば、そもそも、別の奇跡を起こすことが出来てしまう。

 もしも、他の人間にその力を注ぎ込めば。その人間は完全に崩壊する。これは避けられないことだ。ただ、そうはいっても、それをいくらか遅らせることは出来る。例えば真昼がいるこの場所から、カリ・ユガがいるあの場所まで遅らせることくらいは。治癒学の魔学式を応用して、その力によってダメージを受ける部分を常に治癒し続けるような状態にすればいいのだ。それくらいのことであれば……今のデニーちゃんでも、十分可能な芸当である。

 ということで。

 真昼は。

 間違っていなかったのだ。

 マラーは、罅割れていた。

 今、この瞬間にも。

 砕け散ってしまいそうなほど。

 壊れ、かけた、少女であった。

 だけどね……安心して、真昼ちゃん! 取引が終わるまでは、ぜーったいに壊れないから! なんてったってデニーちゃんの魔学式だもん! すっごくすっごく、すっごーい魔学式! えへへ、それくらいの間、奇跡を容れ物の中に閉じ込めておくことなんて、かんたんかんたーんって感じ!

 真昼が力なく蹲っている横で。立つことも出来ないどころか、そちらの方に視線を向け続けることさえままならないような、そんな真昼の横で。少年の肢体をした悪魔は少女の形象に閉じ込められた奇跡の手を取って……そして、歩き始めた。いうまでもなく、破滅の運命へと向かって。

 一歩、一歩、その足が進んでいく。そういえば、ここに至って、初めて真昼の視点はマラーの足元の高さで固定されることになったのだが。そのおかげで、今まで、たったの一度も触れてこなかったことについて書くことが出来る。一歩、一歩、赤い絨毯の上を滑っていくマラーの足は裸足であった。

 この瞬間だけマラーが裸足であるというわけではない。真昼に出会ったその時から、ずっと、ずっと、マラーは裸足であった。そのことについて……真昼だって、たった今気が付いたというわけではない。出会ったその時から気が付いていた。けれども、それをどうしようもなかったというだけの話だ。

 最初に出会った時は、そのことについてどーしたこーしたするだけの余裕もなかった、サテライトとエレファントとに追われていて、そんなことにまで気を回している時間があれば、一刻も早く逃げる必要があったのだ。それから、アヴマンダラ製錬所に着いたわけだが、そこは特に靴が必要な場所ではなかった。足に触れる全ての部分が、裸足でも害がないように出来ていて。真昼も、そのことについては、ここから出る時に考えればいいと思っていた。といっても出来ることはそんなにあるわけではない、真昼は靴を持っていないのだし、とてもではないが靴屋さんが近くにあるような状況でもなかったのだし。足にハンカチを巻いてあげるだとか、あるいはデニーに頼んでどうにかして貰うだとか、それくらいしか方法はないだろう。そんな風に考えていた。

 それが、結局は、あんなことになって。真昼は「サフェド湖の製塩所」と呼ばれていたあの場所で目覚めることになる。目覚めてから、暫くの間は、あまりマラーのことについては考えないようにしていた。そのせいで、マラーが靴を履いていないということについても、あまり深くは考えることが出来なかった。もしも、マラーが靴を必要としているのならば。きっと、ASKが用意していたはずだ。ASKはそういう連中なのであって、真昼よりも遥かに気が利くのであって。それなのに、この段階に至っても靴を履いていないということは……要するに、マラーが靴を必要としていないということなのだろう。恐らく、そもそもの話として、マラーが住んでいたような地域には、靴を履くという習慣が根付いていなかったのだろう。そのように言い訳をしていたのだ。

 いくらそういった習慣がなくても、タンディー・チャッタンのような沙漠の町においては、靴があった方がいいに決まっているのだが。とはいえ、あの時の真昼は、マラーについて考えてしまったらどうにかなってしまいそうだったのであって。そんなこんなしているうちに、あれよあれよという間にカーラプーラに着いていた。そして、カーラプーラからウーパリーパタラに至るまで(正確にいえばヤジ(略)ーダ城塞からだが)、ようやく、真昼は、死者でも兵士でもテロリストでもない、紛争によって追い詰められてもいない、アーガミパータの一般市民と出会うことが出来たわけなのだが。実際のところ、そういった人々は、ほとんど靴を履いていなかった。全く履いている人間がいないというわけではなかったが、圧倒的な少数派だった。カーラプーラの、身なりのいい人々や、デモ隊の中にいた若者達。そういった比較的裕福な人々だけだった。ウーパリーパタラでは靴を履いている誰かに出会った記憶もない。

 真昼が、心の中で言い訳をしていた以上に。アーガミパータでは、後進地域だけではなく先進地域でも、一部の例外を除いて靴を履くという習慣がないのだ。真昼も嫌というほど思い知ったことだが、アーガミパータの大部分は気が狂うほどの高温だ。それゆえに、衣服(靴を衣服と呼んでいいのかどうかは微妙だが)が覆っている部分は極限まで少ない方がいいのである。

 靴には、地面に落ちているものから足の裏を守るという役割もないわけではないが。アーガミパータでは、生まれた時から靴なしで過ごすので、足の裏は随分と固くなっている。そのため、地面が耐え切れないほど熱くなる沙漠の一部以外では、ほとんど靴というものが使われていない(カリ・ユガ龍王領の場合はカリ・ユガが発生させている水が大気に影響しているせいでそれなりに快適な気象状況になっている)。沙漠地帯のような地帯以外で靴を履くのは、兵士だとかテロリストだとか、そういった、足の裏だけではなく肉体のあらゆる部分を守る必要がある連中くらいだろう。

 要するにそういうことだった。まあ、それだけではなく……例えば、マラーが住んでいたようなところでは、そもそも靴などという物を作るだけの資源的余裕もなかったわけなのだが。

 そして、この瞬間に至るというわけだ。結局、マラーは、生まれてから今までの時間、一度も靴を履くことがなかったに違いない。靴を履いたことのない少女、傷だらけの足で生きてきた少女。それは、確かにどうでもいいことなのかもしれないが。ただ、それでも、真昼にとっては、マラーという肉体がこの世界にあったということの一つの刻印であったのだ。

 マラーの、その素足が、一歩、一歩、赤い絨毯の上に下ろされるたびに。真昼の中に、マラーと過ごした四日間の記憶が、まるで夜空に一つ一つの星が並んでいくようにして浮かび上がってくる。あるいは真昼が見たこともない怪物が水底深くに潜んでいる湖、その水面に一つ一つ浮かび上がってくる呪われた水泡のようにして。それらの水泡は、いつか、きっと、誰にも解読出来ない図形を描くことになるのだろう。

 四日、たった四日前だった。マラーと出会ったのは。そして、マラーは、真昼の内側に消えることのない星座を描いた。真昼の中には、今、三つの星座がある。孔雀の羽、頬の傷、そして傷だらけの足。この三つの星座が、真昼の全てを変えてしまったのだ。そして、この三つの星座は……いずれ一つの星座になるだろう。怪物が吐き出した水泡、無限の、永遠の、闇の中に浮かび上がる光の屑。消すことは、出来ない。

 しかし、けれども……マラー自身は。そのような追憶とはまるで無縁であるようだった。まるで、一歩、一歩、その足を踏み締めるごとに、そういった記憶を軽やかに踏み躙っているかのごとく。マラーの中で、消えないはずの水泡は、一つ一つ音を立てて弾けては消えていく。当然のことだ、それは、あまりにも当然のことだ。なぜなら、真昼とは違い……マラーは、完全に理解していたからだ。いや、理解などという人間的現象を超えたところで、それがそうであることを受け入れていたのだ。マラーは……そう、マラーは受け入れていた。自分が、まさに、この瞬間のために生きてきたということを。マラーが生きてきた全ては、ただこの瞬間のためだけにあったのだということを。

 マラーの足、赤い絨毯に触れるたびに、そのあまりにも透徹した足取りにレーグートが些喚く。まるで、マラーに向かって群がっているかのように。マラーが、何か聖なるものの象徴で、それに触れることであらゆることが許されるヌミノーゼであるかのように。赤い絨毯から、レーグートの断片が、マラーのことを、拝跪する。腸壁の絨毛が食物に触れようとするかのように、発生した無数の触手が、マラーの足首の辺りまで、さわさわと些喚く。

 確信に満ちた足取りで歩いていく。確信? いや、少し違う。マラーは信じているわけではないのだから。信じるという行為は、どこまでも隔絶した悲劇である。phallus、phallusに悲劇は似合わない。phallusに似合うのはfarceだ。神と神とが演じる真聖な舞台の合間に演じられる喜劇。信じるという行為は悲劇でしかない、喜劇とは、実現した現象のことである。

 マラーは――引き起こされた確実性によって満たされたマラーは――もう、視線をあちらこちらに動かすことさえしていなかった。どうだろう、あのおどおどしていたマラーと、このマラーとは比較可能な存在であろうか? マラーは、もう、俯くことはなかった。左右を見回すことも、不安げに見上げることもなかった。ただただ、前だけを見ていた。前に待ち受けているもの、マラーの人生の全てであるところのもの。phallus、farce。そう、マラーの人生は喜劇であったのだ! どれほどの苦痛と悲惨とに満ちたものであったとしても、最後にはハッピーエンドで終わるもの。それは幕間に過ぎないとしても、喜劇であったのだ。

 アラリリハ。

 アラリリハ。

 それは、あたかも聖燐式において。

 祈りの歌とともに。

 焼き尽くしの祭壇へと向かう。

 聖職者のような足取りで。

 デニーは、そんなマラーのことを導いていく。四本のファルス、四本のリンガに向かって。無論、マラーには導き手が必要であった。マラーに満ちている確実性とは、つまりは崖から身を投げた後の運命のような確実性なのだから。それは投棄である、自分自身という概念に関わるあらゆるものを投げ捨てて、それゆえに、人間が持たざるを得ない生命の不完全性がもたらすところの、惨憺たる矛盾から逃れることが可能になるという行為。人間は誰かに導かれることによって初めて辿り着くことが出来る。自らの望む全てのものを手に入れて、それでいて欺瞞に晒されることのない世界に。

 真っ直ぐに、真っ直ぐに、進んでいく。そして、その先で、カリ・ユガが待っている。そうだ、これは取引だ。罪が贖われるために犠牲を捧げなければいけない。穢れが清められるためには焼き尽くされなければいけない。ただ、一つ、この取引には問題点があった。それは真昼の罪ではなく……そして、真昼は、犠牲とすることが不可能であるという点である。

 死ぬべきであるにも拘わらず生き延びてしまったデウォトゥス。死が存在しないという破綻。世界に起きた歪み・捻じれ。秩序は元通りに配置されなければいけない。そうであるならば、何か、別のものが身代わりとならなければいけない。真昼の似姿、もともとは真昼であったはずの何か。

 最後の審判が、その時がとうとうやってきたのだ。ただ真昼だけが裁かれることがない裁きの時がやってきた。真昼の目の前で……真昼の代わりのものが進んでいく。喝采と讃歌と、主の栄光に満ちた歩き方をして。生贄の祭壇へと進んでいく。真昼は、それを、見ていることしか出来ない。

 待って、やめて。

 デナム・フーツ。

 お願い。

 止まって。

 あたしを。

 あたしを。

 あたしだったはずのものを。

 連れて、いかないで。

 真昼は……しかし、分かっていた。自分が、そんなことを、どんなに望もうとも。デニーは立ち止まらないということを。なぜなら、どれほどまでに強く強くそれを願ったのだとしても。それは、真昼の本当の願いではないからだ。真昼の本当の願いは……ただ一つだけ。そして、それは、もう提示されてしまった。昨日の夜、マラーを手放した、あの時に。

 デニーは、笑っていた。いつものように、ちょっとだけ悪戯っぽい笑い方をして。ああ、この感情は……この感情はなんだろう。愛じゃない、決して愛ではない。真昼は、何があっても、あんな悪魔を愛することなどない。真昼のために、何もかも、まるで魚の骨でも捨てるみたいにして犠牲にする。真昼のことを救うためならば、どれほど残酷なことでも、どれほど残忍なことでも、首を傾げるような簡単さによってやってのける。そんな生き物を、どうして真昼は愛することが出来るだろうか? 憎悪という言葉では表わし切れないほどの憎悪。

 そんな真昼の憎悪に、気が付きもしないようにして。

 デニーは、マラーのことを、ただただ導いていって。

 そうして。

 生贄は。

 祭壇に。

 辿り着く。

 約十ダブルキュビトの距離、その空間を移動し終わって。デニーにエスコートされたマラーは湖の淵に立っていた。赤い絨毯が敷かれているぎりぎりのところまで歩いて、そこで立ち止まったということである。

 カリ・ユガが、マラーのことを見下ろしてた。存在の破滅そのもののような、四つの頭が。概念の誕生そのものであるかのような、八つの目が。あの兵器の対価として引き渡されるべきものを、見下ろしている。

 必然が、犠牲を。

 見下ろしている。

 一方で、マラーは……しかし、マラーのその表情をどう描写すればいいのだろうか。それは人間の表情ではなかった、もっと、もっと、arkheに等しい何か。arkhe、物事の初めにあるもの、支配的栄光点。賛美、恍惚、単細胞生物が破裂して、内側にあったものを外側へと吐き出す。その瞬間によく似ているイントラ・フェステム。修復されたdecidere、癲癇の発作としてのharmony、「そのようなことは決して起こらない」という安心感。要するに、それは、archaic smile。完全な完全性としての表情。

 そんな表情をしてカリ・ユガのことを見上げているマラーの手を、デニーは、そっと離した。現象は既に始まっている。archeは既にその関係性の中に完成してしまっている。要するに、これは最高の力としてのtelosなのだ。これ以上、デニーが何かをする必要があろうか? この審判におけるデニーの役割は、あくまでも……告発者でしかない。satan、diavolo。その腕の中に「過ぎ去ってしまった過去」の全てが羅列された書物を抱いて、審判において、裁かれる者の犯した全ての罪を明らかにする者。

 デニーは、マラーの手のひらから自分の手のひらを離すと、一歩、二歩、三歩、その場から離れていく。足音さえ立てることなく、背後に向かって足を滑らせるようにして。身体が示す方向を、マラーの方に向けたままで……退いていく。舞台の上から、祭壇の上から、要するに、敷き詰められたレーグートの上から。

 デニーは、赤い絨毯の上から黒い洪石の上に降りる。それから、マラーに向けていたその視線の焦点が、カリ・ユガに移される。ここに至っては……デニーは、もう何も言わなかった。言葉は必要ない。取引の内容は決定している、判決は読み上げられている。必然の結果としてその執行が起こるのを待つだけだ。

 真昼の耳には。

 ずっと。

 ずっと。

 あの笑い声が聞こえている。

 一つの呪いのようにして。

 くすくすという笑い声が。

 鉛の冠、鉛の爆弾。

 執行が。

 始まる。

 マラーの肉体が、くらりと、眩暈のように揺らいだ。何が起こったのか? 実は、マラー自身が動いたというわけではなかった。そうではなく、その肉体がよりどころとしているものが動いたのだ。その二本の足が、裸足の、傷だらけの、足が、踏み締めているところの、赤い絨毯が動いたのだ。

 絨毯を紡いでいたはずのレーグートの菌糸が、目に見えて波打ち始めた。まるで、波紋を描いている液体の表面みたいにして……ただし、そうやって発生した全ての波は、ある一点に向かって集中していく。それは、もちろん、奇跡に向かっている。触れてる、奇跡、二つの接触点。マラーに向かっている。絨毯であったはずのレーグートは、次第に、次第に、そこに集まっていって。マラーの足元に集まっていって……そして、マラーの体は、ふっと、地上から離れる。

 浮遊したわけではない。レーグートの菌糸が一つの昇降機のようにしてマラーの肉体を押し上げたのだ。マラーが足を置いている、レーグートの絨毯は。ざわざわと、盛り上がって、重なり合って。マラーの足元に、上昇していく土台を作り上げたのだ。マラーは、それに乗って、上へ上へと進んでいく。上へ上へ……カリ・ユガがいる方向へ。

 捧げられるものはその用途に適した台の上に載せられるということだ。レーグートが作り上げた台は、あたかも一本の木のようにして、一秒あたり一ダブルキュビト程度の速さで成長していって。そして、大体、三十ダブルキュビト程度のところで停止した。カリ・ユガの視線の高さまで上がる必要はないのだ、所詮は犠牲に過ぎないのだから。

 カリ・ユガ、そう、犠牲を焼き尽くす炎、奉献を受け入れる者。完全に不動の動者であったはずの、四本の首、そのうちの一本が……その時に、ふっと動いた。他の三本は停止したままで、その一本だけが、ほんの少し前に傾いで。そして、今までとは違う見下ろし方、今までよりも具体的な感覚によって見下ろし始めた。マラーのことを見定めている……それが、交渉において決定された対価と同一のものであるのかということを確認しているらしい。

 んもー、カリ・ユガってば! デニーちゃんのこと、嘘つきさんだと思ってるなー! そう、デニーは嘘つきである。デニーは、嘘か、あるいは悪意のある真実しか口にしない。悪意とは……裁きの場においては、真実を知っているということを意味する。もちろん、デニーは真実を知っている。真昼は無罪だという真実だ。そして、デニーは、裁きの場でその真実を口にした。この世界に存在している全ての罪は、真昼の罪ではない。だから、真昼は、罪を贖うことが出来ない。犠牲化不可能。

 奇跡、奇跡、奇跡。これを解決するには、結局のところ奇跡しかないのだ。一つ一つの出会いが奇跡であるのならば、別れもやはり奇跡なのだろう。マラーが、真昼に出会えたことは奇跡であった。そして、このようにして別れるということも、やはり奇跡なのである。

 マラーは、なんの栄光もなく生き、なんの栄光もなく死んでいくはずだった。だが、真昼と出会うことによって……今、マラーは、栄光に包まれている。その生命そのものがtheourgiaへと変態したのだ。theourgiaとはannadyaである。真聖な関係性そのものを構成する要素のうちの一つ。

 人間などという下等な生き物は、しかも、その中でも、マラーのように、最底辺で這いずり回るなんの価値もない屑は。本来であれば、そのような幸福に与ることなど出来るはずもなかったのだ。真昼が見つけてくれたから。真昼が、あそこから、掬い上げてくれたから。今のこの栄光がある。

 ああ。

 全部。

 全部。

 真昼のおかげで。

 だから、マラーは……ああ、この時。今、最後の瞬間に。カリ・ユガが、全ての確認を終えて。それが、マラーが、対価として受け取るに相応しい犠牲であると承認したその瞬間に。ふと、振り返った。赤色のワンピース、ひらめいた裾のところが、あたかも、今までこの世界で流された全ての血液によって濡れたバーゼルハイムの花弁であるように、一際華やかにフレアして。それから、マラーは、マラーは……真昼のことを見ていた。最高の幸福を表情にして、archaic smileを浮かべて。いと高きところから、暗闇の中で蹲る真昼のことを見下ろして。その口が、うっとりと甘く開く。

「ま、ひ、る。」

 マラーは。

 マラーは。

 初めて。

 真昼の。

 名前を。

 呼んで。

「あ、り、が、と、う。」

 美しく。

 美しく。

 微笑んで。

 そして、それから……カリ・ユガが、カリ・ユガの四つあるうちの頭の一つ、絶対的な必然であるところの、その口が。生贄を、それが乗っていた台ごと噛み砕いた。

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