第二部プルガトリオ #54

 カリ・ユガが、遂に、湖の中から自らを現わす過程を終わらせた。その運動は停止して、とはいえ、全身が現われていたというわけではなかった。四本の首だけが湖から出ている形だ。確かに、会見をするだけならば、全身をそこから出す必要性はない。というか、そもそも、この湖岸では小さ過ぎて、(現時点の)カリ・ユガのような巨大な生き物がその身を横たえるだけの余裕などなかっただろうが。

 真昼は、その姿を見ていて……涙を流していた。恐怖ではない、感動でもない。そうではなく、自分の中の何かが壊れてしまったからだ。確かにあったはずのものが、完全に打ち砕かれたという感覚。それゆえに涙を流していた。カリ・ユガは、偉大であった。カリ・ユガは、崇高であった。カリ・ユガは、絶対であった。無限と一とを比べるのは、一とゼロとを比べるほどに無意味なことだ。そして、そうであるならば、真昼はゼロであった。真昼は、自分自身が、完全に打ち砕かれるのを感じていた。今まであったはずのものは、もうない。その欠片さえも残っていない。ただ、そこに跪きたかった……跪いて、祈りを捧げたかった。けれども、そうすることは出来なかった。

 なぜなら。

 そこには。

 デニーが。

 いたからだ。

 真昼は、確かにゼロだ。なんの意味もない。だが、それでも、真昼はこの世界に締結されていた。それは……デニーという存在のゆえに。カリ・ユガの前にいるデニーは、確かに小さかった。あまりにも、あまりにも、小さかった。とはいえ、無限と無限とを比べる際に、その大小に何か意味があるだろうか? カリ・ユガが無限であるならば、デニーもやはり無限であった。二ダブルキュビト以下の無限。

 デニーは、カリ・ユガの姿を見て、真昼のような無様を晒していなかった。いうまでもなく涙を流していたわけではなかったし、それにカリ・ユガのことを絶対な存在であると思っているわけでもないようだった。それはそうだ、強力な存在から見れば同じように強力な存在はただの同類に過ぎない。それが絶対ではないことを知っているのだ。その気になれば、それと殺し合うことが出来るということを。

 真昼は、真昼は……自分自身が消え去った自分の中に、ものすごい勢いでデニーが流れ込んでくるのを感じていた。反吐を催すような不快感だったが、とはいえ、体の中にあるものは昨日の夜に嘔吐し切っていた。ただ、ただ、甘ったるい痺れが、全身の神経を伝っていく嫌悪。デニー、デニー、デニー、殺したいほど憎いあんた。真昼は、自分の存在が、ただただ一点に収束していくのを、なすすべもなく感じていることしか出来ない。そして……それを、死に物狂いで否定しようとすることしか出来ない。デナム・フーツを拒否しようとすること、それだけが、今の真昼だった。

 強い。

 強い。

 強い子だ。

 真昼。

 ここまで来ても。

 まだ。

 受け入れようと。

 しない、なんて。

 強さという事実は、生存にとって、必ずしも有利を意味するわけではない。ただ、デニーにとっては、真昼がそれを受け入れようと受け入れなかろうとどうでもいいことだった。今、本当に、重要なのは、カリ・ユガとの会見である。

 デニーは……神にも等しい力を持つ者の目の前で、震えもせずに立っていた。まあ、目の前といっても、本当に真ん前というわけではなかったが。カリ・ユガが姿を現わしている場所は、湖岸から十ダブルキュビト程度は離れている。とはいえ、それがすぐそばにいるということは確かだ。カリ・ユガは、その気になれば、次の刹那にもデニーのことを捕食しようとすることも出来るだろう。実際に捕食出来るかどうかは別として。

 本当に、いつもと、全く同じような感じ。腰の辺りから、少しだけ上半身を傾けて。両方の手を背中の後ろで組んで、それから、右足の爪先を、左足の後ろに、とんっとつけた姿。そうして、デニーは……くすくすと笑っていた。何がおかしいのか、何もおかしくなくて笑っているのか、それさえも分からないような笑い方。子供が笑うような可愛らしい、無意味な笑い方。それから、その口は、あられもなく開く。

「久しぶりだね、カリ・ユガ!」

 それから。

 ちょっとだけ上を向いて。

 つんと尖らせた唇の先に。

 右手の、人差指をくっつける。

「えーと、うーんと……中央ヴェケボサニアへのルートを確保するためにスカハティ山脈とばちばちどっかーんした時から、ずっと会ってなかったっけ?」

 デニーのその質問に対して、カリ・ユガがなんと回答したのか。そのように問うよりも以前に、まずは、こう問うべきだろう。カリ・ユガは質問に対して、どのように回答するのか?

 デニーが言葉を終えて、カリ・ユガの答えを待っていますといわんばかりに、きょんっという顔をして、カリ・ユガの四つの顔を見上げると。暫くして、十分な間をおいて……唐突に、一つの爆発がこの空間を襲った。

 デニーの言葉ではないが、まさに「ばちばちどっかーん」という感じだった。凄まじいエネルギーが解き放たれて、そのせいで、そこにあったはずの空気でさえ弾き飛ばされたような。目覚ましい光、耳を破るような音。

 この密閉された空間に、雷電が発生したのだ。とはいえ、それは雷雲から地上へと落下するタイプの雷電ではなかった。カリ・ユガの首の、少しだけ上のところ。十数ダブルキュビトくらい上のところに、ただただ、一つの範囲に閉じ込められたような電撃が弾けたのだ。それは、あまりにも不自然な雷電であって……何かの意味を持っているかのように……そう、それは、確かに意味を持っていた。それも、完全に明確な意味を。

 稲妻と霹靂と、それが洪龍の言葉である。もう少し正確ないい方をすれば、洪龍は口によって話すのではなく神力によって話すということだ。神力によって周囲に存在している魔学的エネルギーを変質させることによって話す。

 それは、基本的には舞龍が行なっているところのコミュニケーション(というか個体断絶的情報入出力)と似たものであるが。とはいえ、異なっているところもある。舞龍の場合は、縄張りという範囲に付随する情報を環境的に影響させることによって完結する、当然性に基づいた一つの世界的な行動であるが。洪龍のそれは、もっと「会話」に近いものだ。というか、「説得」……相互的に行なわれる洗脳的暴力というべきか。

 洪龍のような絶対的な存在にとって、人間的な会話にはほとんど意味がない。洪龍はそれだけの「力」を持っているからだ。あらゆるものがひれ伏すように強制させるだけの「力」を。そういうわけで、人間のように、互いが互いの有している情報を開示し、その二つの情報の間で妥協可能性を探っていくというような方法をとる必要がない。いきなりそうあるべきであるという状態を相手に叩きつければいいだけの話なのだ。

 だから、洪龍の場合、象徴的・記号的行動と直接的行動とが、必ずしも完全に分類しているというわけではない。簡単にいえば、洪龍にとって、邪魔な相手に「どいて下さい」と言ってどいて貰うよりも、そいつのことをこの世界から消し去ってしまう方が簡単なのである。そして、洪龍にとっての「会話」とは、この場合において、邪魔なやつを消し去るということを指すのだ。

 とはいえ、こういった通常の方法が通用しない場合もある。例えばデニーのように、その個体自身も危険であるし、その個体の背後に控えている組織も危険であるという場合だ。この場合には、そう簡単に、会話の相手方を消し去ることは出来ないのであって……もう少し違った形の「会話」をする必要が出てくる。

 ただし、その場合の「会話」も、人間的な会話ではない。そもそも、洪龍には、コミュニケーションという感覚が存在していないからだ。洪龍という生き物は、個別知性的な知性の持ち主であって(とはいっても舞龍ほどに純粋な個別知性というわけではない)(その進化の過程で神々との闘争に巻き込まれたため絶対的強者としての認識を確立し切れなかったのだ)。それゆえに、その個体においては、最初から他者というものが想定されていない。

 その「会話」は、他者との間で行われる情報の交換ではない。そうではなく、自己内在的環境を当然性のもとに最適化するという行動だ。そう、それは、既に直接的行動なのである。えーと、ごめんなさい、分かりにくいですかね? もう少し分かりやすくいうならば……洪龍の「声」とは、このようなものだという意味だ。自分が当然として情報処理しているところの現実を、実際の現実に対して攻撃的に強制するということ。そのために、絶対的な強力さによって、「会話」の相手に対してこちら側の観念を叩きつけるということ。まるで、こちら側の観念を鋳型にして、相手の観念を矯正しようとしているかのようなやり方で。これが……先ほど使った洗脳という言葉の意味である。

 こういったことを、真昼は、一応は知っていた。例によって例のごとく静一郎から受けた教育によって知ったのだ。ただ、とはいえ、それはあくまでも知識として知っていただけの話だった。実際に、洪龍が話しているところを見たのは……その「声」を感じたのは、これが初めてのことであって。

 すとん、と。

 何かが。

 落ちた。

 感じ。

 が。

 した。

 真昼は……その雷電が放たれたその瞬間に。ぱあっと、全てが光り輝いて。そうして、その後で、何もかも、落ちてしまったような気がした。何がどう落ちたのかは分からないが、とにかく、そのような気がしたのだ。全てがあるべき場所に納まった感覚、ようやくパズルを解けたような感覚。とはいえ、そのパズルに、なんの絵が描かれているのかということは理解出来ないことだ……なぜなら、洪龍が「会話」に使うような情報は、人間のレベルでは、完全に解読不可能なものだからだ。

 それでも、その情報の内容は、真昼にとって当然であるように思えるものだった。というか、そう思うように、カリ・ユガが矯正したということである……しかも、その矯正は、真昼に対して行われたというものでさえなかった。それは、デニーに対して行われたのである。当たり前のことだ、カリ・ユガの会見相手はデニーなのだから。とはいえ、それは、あまりにも強力な矯正だったので。その、些細な、些細な、本当に些細な余波が。真昼の観念を根本的に変質させてしまったのである。

 ちなみに、真昼は、ただそう感じただけであって。少ししたら、なんとなくその感じも薄れてきた。真昼がinfluenceされた程度がこの程度で済んだというのは、デニーのおかげであった。カリ・ユガのすぐ前に立っているデニーが、カリ・ユガの放ったアウトサイド・インフルエンサーを、ほとんど喰い尽くしてしまったのである。そのおかげで、真昼とマラーとが立っているところまで届いたinfluencerはごくごく僅かな量で済んだのだ。もしも、人間が、洪龍の「声」をまともに聞いてしまったならば。生きるだとか死ぬだとか以前の問題として、概念的に崩壊してしまうだろう。後に残るのは、ばらばらにされた断片的な観念だけである。

 斯うと。

 かくのごとくして。

 それは、カリ・ユガの。

 「声」だったわけだが。

 それでは。

 デニーは。

 その声を聴いて。

 如何?

 カリ・ユガが発した「声」。その神力のせいで、空間は爆発し、時間は破裂したのであったが。そのようにして生み出された雷電を、デニーは、あどけない表情で眺めていた。それから、全身を貫いた感覚。無理やりにでも観念を捻じ曲げようとする凄まじい「力」が暴れ狂う奔流となって自分の中に流れ込んでくるのを理解して……そして、デニーは、笑った。けらけらと笑った。それから、たった今起こったこと、なんでもなかったかのような顔をして。全く影響を受けていないような顔をして。

「あははっ、そうだったね!」

 こう。

 言う。

「なつかしー!」

 要するに、それは……ただの世間話だったということだ。カリ・ユガが何を言ったのかということは、ちょっと言語化しにくいことなのであるが。簡単にまとめるとすればそれは次のようになる。デニーと最後に出会った時の記憶、というか過去的な情報を、非常に正確な全体性をもってデニーに提示したということ。それだけのことなのである。

 洪龍が世間話をするというのは俄かに信じられないことかもしれないが。とはいえ、事実は事実だ。ほら、よく思い出して下さいよ。デニー達がASKから離れる直前、「サフェド湖の製塩所」で起こったことを。なんと、あのミセス・フィストが。ASKが作った最高傑作のうちの一つ、超越的な知性を持つ情報処理機構が、世間話をしていた。

 どんな高等な、知性であっても。

 世間話くらいはするものなのだ。

 もしも。

 「会話」の相手が。

 それを望むならば。

 真昼と、それに、似たような状態になっているマラーと。とはいえ、マラーには、真昼にとってのデニーのように、自分にとっての絶対的な何者かがいたというわけではなかったのだが……とにかく、そんな二人のことなんて、真ん丸全く気にしないで。デニーとカリ・ユガとは世間話を続ける。

「あー、そうそう! そーいえばさ、カリ・ユガ、セラエノに行ってたんだって? 霊族のみーんなで、「七つ星の図書館」にお呼ばれして。あははっ! そうなんだよね、デニーちゃんも、レノアと一緒にお呼ばれしてたんだけど。でも、なんだかとーっても面倒そうだから行くのやめちゃった。デニーちゃんはデニーちゃんでやらなきゃいけないこといっぱいあるし……それに、会議でどんなことをお話ししたのかっていうことは、会議が終わった後で誰かに聞けば分かるしねー。

「そ、れ、でー……どうだったの? 会議は。うんうん、まだ終わってないんだよね。それで、デニーちゃんのために帰ってきてくれたんだよね。えへへ、ありがとー! デニーちゃん、すーっごく嬉しいよっ! え? ああ……そう、へーえ。そうなんだあ。それって、イス・ディヴァイダーズは……ふーん、やっぱりねー。じゃあ、基本的にはどうしようもないっていうことなの?

「あーんまり、良くないねー。それで、例の種族をおぺれーてぃんぐ!してるのは、セレファイスで確定かな? あー、あー、そーなんだ。たぶん……うん、そーだね。目的としてはそんな感じなんだろーね。でも、目的が分かったとしても、例の種族を滅ぼす方法が分かんないとどうしようもないしねー。取り合えずセレファイスの方に戦争を仕掛けるしか方法がないって感じかあ。

「連合軍に参加するのはどこになりそうなの? っていうか、借星の参加は決まったの? ああ、まだ決まってないんだ。あっ、当ててあげる。謎野研究所でしょ! あははっ、だよねー。眠子が、そんなに簡単に色々なことするわけないもんね。ハイパーボリアとも、あーんまり仲良しさんじゃないし。

「それでさーあ、マコトちゃんに聞いたんだけど……んーん、さぴえんすの子。デニーちゃんのお友達なの。そうそう、新聞記者の。それで、マコトちゃんに聞いたんだけどね。なんか、例の種族って、マントファスマと関係があるっぽいんだよね。あ、カリ・ユガ知ってる? マントファスマって。あ、知ってるんだ。アーガミパータにも……来たことあるの? へー、そうなんだー。まっ、それはいいんだけどね。それで、そうなってくると、例の種族にはセミハ系の力が聞かないっていうあの噂がほんとーのことだってなっちゃうでしょ? そうなるとさ、ちょーっと困ったことになるよね。うん、まあ、セミハ=オルハ変換機を使えばどうにかなるかもしれないけどさ。でも、変換機だって、そんなにたーっくさんの力を変換出来るわけじゃないじゃないですかー。デニーちゃんとかカリ・ユガとかが本気を出したら、ぱーんって壊れちゃうよ。

「うーん、通称機関にも、けっこー前から研究して貰ってるんだけどねー。でも、ほら、ミミトがいなくなちゃってから……そー、そー、そーなんだよねー。そもそもさー、あれってさー、兎戮の民に対応するための道具じゃないですかー。第二次神人間大戦の時に、ほとんどの兎戮の民って殺されちゃったでしょ? それで、研究する意味もあんまりないっていうことで……んー、間に合うかなー? カリ・ユガのところでは、なんかやってるの? あ、そーなんだ。ま、そーだよねー。」

 等。

 等。

 と。

 えーと、こう、なんといいますか……なんだか拍子抜けしてしまうような光景ですよね。あれだけ散々っぱら盛り上げておいて。カリ・ユガについて、絶対的な独裁者、神にも等しい力を持つ生き物として描き出してきておいて。いざ、その本柱が現れた時に、さてまず最初に何をしているのかといえば、あろうことか当たり障りのない世間話なのだ。しかも、もう少し迫力と威厳とをもって世間話をしてくれればまだ格好がつくのであるが。どうも、そういう感じでもない。

 デニーは、ついさっきまで、赤い絨毯の終端のところに立っていたのであるが。今となっては湖岸に腰を下ろしてしまっていた。赤い絨毯から真っ直ぐに行ったところ、岸辺、洪石の岩壁となっているところに腰掛けて。両方の手のひらを、腰掛けている場所の横側にぺたーんとついて。両方の脚をゆらんゆらんと揺らしている。湖岸は、光を満たした湖面のさほど上に位置しているというわけではなく。結果的に、デニーが脚を揺らすたびに、その爪先が、さぱりさぱりと音を立てて光を蹴飛ばすことになる。

 そのようにして生まれた波紋が、湖面の上をするすると這っていって、カリ・ユガの首があるところまで震えていく。そのカリ・ユガは……確かに、遥かな高みからデニーを見下ろしている巨大な龍であるという意味では、それなりの重圧感がないわけではないのだが。ただし、デニーの言葉に対する反応という面から考えてみると、どうも恐怖感というものに欠けるところがある。

 カリ・ユガが、デニーに、どう反応しているのかといえば。その一言一言に、いちいち、律義に、答えているのだ。まあ、世間話のマナーからいえば完璧な対応ではあるのだが、とはいえ、これは……デニーが何かを言うたびに、本当に丁寧に答えている。きちんと論理的な明快さをもって、とはいえ簡潔に。もちろん、洪龍の言葉は雷鳴なのであって、デニーが何かを言うごとに、その答えとしてばりばりどっかーんではあるが。とはいえ、その内実は世間話なのである。こう、龍王の会見シーンに必要な重厚さというものが足りていない気がする。どうも締まらない。

 ただ。

 真昼は。

 そう考えては。

 いないようで。

 あったが。

 真昼は……見ていた……デニーとカリ・ユガとの会見を見ていた。けれども、その会話の内容が頭に入っていたというわけではない。そもそも、カリ・ユガが何を言っているのかということは、真昼程度の脳の造りでは理解出来るはずもないのだ。

 ただ、見ていただけだ。デニーのことを。カリ・ユガのことを。というか、最後の、審判の、そのものを。あなたは……思うだろうか? あるいは、思ったことがあるだろうか? この世界のことを、間違っていると。そう思うあなたという生命は間違っていないが、なぜあなたという生命が間違っていないのかといえば、それは、世界の全てが間違っていないからである。つまり、この世界は間違っていない。この世界は完全な世界なのである。この世界は、絶対に、間違いを、犯さない。

 一つの機械を思い描いて欲しい。摂理という原理によって構成された機械を。それが支配である。それは間違えることがない。あらゆるものに対する完璧な配置、あらゆるものに対する完璧な秩序。いかにして被造物は可能であるか? あるいは……いかにして、統治者以外の何かが必要になるのか? これほど強大な力を持つ者達には他者というものが必要でないのにも拘わらず。

 いや、はっきりとさせてしまおう。つまり、この世界にあなたは必要ないのだ。これは本来的なことである。現実ではないにせよ。そう、このような者達にはあなたという存在は必要ではない。あなたがそれを賛美しようとしまいと、それはそれとして存在し続けるのであって。あなたの賛美は、このような者達には、決して届くことはないだろう。だが、世界は間違っていないのだ。

 ああ……そう……必要ない。

 真昼は必要ない。

 しかし、真昼は。

 この世界に生きている。

 これは。

 一体。

 何故なのだろうか?

 真昼の目の前には、一人の悪魔と、一柱の洪龍とがいる。どちらにせよ人間などという存在を超越した存在だ。真昼などは、その爪先にさえ口づけすることを許されないような生き物。まあ、カリ・ユガには爪先がないのではあるが……とにかく、そうであるにも拘わらず。その二つの高等な生命が、一体何について話しているのか? 真昼について話しているのである。真昼という生き物を、生きて、このアーガミパータから救い出すということ。そのことのために話しているのである。

 裁きとは何か? 必然の代理者だ。結局のところ、権力には実体などない。あらゆるものは、つまり、この世界に「ある」あらゆるものは。摂理によって配置される無意味でしかない。その玉座は常に空虚である。裁きとは何か? アラリリハ、主の栄光である。それは地上における栄光とは全く異なったものだ、それは、ある意味ではdoomであり、ある意味ではgraceである。grace、gratia、gratus。あらゆる無意味なものの口から発せられる賛美。

 それから。

 今までの世間話とは。

 まるで。

 違った。

 種類の。

 一つの閃光が、真昼の眼前で。

 一つの轟音が、真昼の耳元で。

 弾ける。

 それは、真昼を裁く者の声であり。

 そして。

 もちろん。

 真昼は。

 その声が。

 なんと言ったのかを。

 知っている。

 どこが今までとは違うのかといえば……それはカリ・ユガが、カリ・ユガから積極的にデニーに言葉した言葉であるようだった。つまり、デニーが何かを話しかけて、それに対する回答ではなく。カリ・ユガによって話題が提起されたということだ。それは、この会話が始まってから初めてのことであって。それを敢えて人間的な表現にするならば……それで、ご用件はなんですか?

「あー、ごめんごめん! カリ・ユガとお話しするのがとーってもいっと・はず・びーん・あ・ほわいるだったから、デニーちゃん嬉しくなっちゃって!」

 デニーは。

 そう言って。

 心臓が、きゅーっとしそうな。

 そんな、可愛い笑顔で笑った。

 心臓が……まるで、狂ってしまったようだ。真昼の胸の中で、暴れて、暴れて、暴れて。それが、とすん、とすん、と音を立てて鼓動するたびに。真昼の全身に、麻酔と覚醒剤とをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような、そんな液体を撒き散らす。口の端が上がってくる。馬鹿みたいに笑ってしまいたい。ああ、この恍惚! ただただ、肉体を弄ぶ化学的反応によってのみ引き起こされた恍惚。もちろん、真昼の心臓は、デニーちゃんが可愛いからおかしくなってしまったわけではない。そうではなく……それが近付いているから。既に真昼の目の前にあるから。裁きが、遂に、やってきたということを知っているから。だから、真昼は、「期待」しているのだ。

 アラリリハ。

 アラリリハ。

 耳元で響く。

 讃美が響く。

 全て、意味なき者よ。

 これまで真昼であった全ての者よ。

 世界が逆転する。

 獣が義人と共に食卓に着く。

 そして新しい何かが始まる。

 ただ、その瞬間を。

 期待し、待機せよ。

「あのね、デニーちゃん、お願いがあってきたの。あ、そうそう、その前にご紹介しないとね! ぺーい、あてんしょん! あい、いんとろでゅーす……砂流原真昼! あそこに立ってる子だよ、あの子が真昼ちゃん! カリ・ユガも、たぶん砂流原家は知ってるよね? そうそう、オキシュリマルの検校をやってる一族だね。あそこのね、ご令嬢なの!」

 オキシュリマル? 真昼は聞いたことがなかった。その神の名を聞いたことがなかった。そう、それは神の名だ。深く、深く、とても深いところに隠された名前。深きところに憎しみの網をかける漁師……ディープネット……だが、真昼が何を知っているというのか? 真昼は、その神について、たった今知ったことしか知らなかった。カリ・ユガの声から、断片的に降り積もる、しんしんとした雪のような情報しか知らなかった。

 当然だ、それは隠されているのだから。砂流原の一族でさえも、その神について知る者は少ないだろう。家長と、それに、その座の周りに座ることを許された僅かな者。静一郎は、一族において有力な分家を形成しているが、とはいえ家長というわけではない。だから、デニーは疑っていたわけだ。そのことを知っているのかと。神によって作られた企業、差別の神、憎悪の神。戦争の半ばに生まれた、あまりにも静かな、神の真秘。

 ああ。

 真昼は。

 知らない。

 あたしは何も知らない。

 あたしは何も知らない。

 今、すぐに、そう叫びたい。

 罪状の否認。

 憎しみは、あたしの罪ではない。

 しかし……真昼は……一切の罪を犯しておらず。

 そのことを、ここにいる誰もが知っているのだ。

 まあ、とはいえ、それは重要ではない。差し当たり、この神についての話は重要ではない。今、重要なのは。法廷において真昼の名前が露呈されたということである。それは、果たして、被告人としてか、原告人としてか? 発酵した夜が、一滴ずつ、一滴ずつ、滴らせている液体のように、真昼を酔わせている何かがある。胸を切り開いて、その中に入っている、腐り果てた肉の塊を。一つずつ、一つずつ、取り出していくイメージ。あたしは……違う、あたしは、違う。あたしは被告人でも原告人でもない。けれども、裁きの天秤の上に乗せられている。

 天秤が傾く。

 しかしながら。

 それは。

 真昼の重量によって傾くのでも。

 真昼の責任によって傾くのでも。

 ない。

「それでね、それでね、色々とあって、デニーちゃんは真昼ちゃんの護衛をしているの。そうそう、それ! その件で。まーったく、なんでデニーちゃんがこんなことしなきゃいけないのかーって話だよね。んー、まー、それはそれでいいんだけどさ。そういうわけでね、デニーちゃんは、真昼ちゃんのことを救ってあげないといけないの。んふふー……そう、ぜんぶぜーんぶの意味で、ね。」

 ちらりと。

 デニーの視線が。

 こちらを、見る。

 まるで何もかも自分に任せておけばいいというような眼をして。その眼は、あの時の眼と全く同じであった。真昼に対して自分のことが好きかと問い掛けた時の眼。確信に満ちた……いや、そうではない。信じているだとか愛しているだとか、そういった次元の話ではない。デニーは知っていた、知悉し切っていたのだ。真昼を、救う、その方法について。

 無意味な者が裁かれることはあるのか? 無罪の者が裁かれることはあるのか? この問い掛けは、このようにいい換えることが出来るだろう。主の栄光が、美しさでありうるか? もちろん、主の栄光は美しさではない。とはいえ、人間はそれを美しさとしか表現することが出来ないのだ。それと同じように……裁きは人間の理解を超えたものである。

 真秘。

 真秘。

 真実の秘跡。

 まるで。

 夜眠っている間。

 ずっと、ずっと。

 手を握ってくれているみたいに。

「でもね、ちょーっとだけ問題があるの。ほら、カリ・ユガも知ってる通り、今のデニーちゃんってこんな感じでしょ? 「いいよ」って言って貰わないと、全部全部の力を使うことが出来ないっていうか。だから、色々と、たーいへんってなっちゃってるの。その中でも、一番たーいへんってなっちゃってるのが、REV.Mの子達のことなんだけどね。」

 ホモ・サケル。

 聖なるあたし。

 ああ。

 なぜ。

 あたしは。

 今。

 この言葉を。

 思い出したのか?

 人間が、なぜ聖化されうるか。ここで一つ断っておかなければいけないが、当然、人間は、聖化されうる。なぜなら主に不可能はないからである。とはいえ、人間が人間のままで聖化されるということはあり得ない。なぜなら、(これもまた当然のことであるが)人間は聖化され得ないものだからである。

 コンセクラティオ。つまり、それが「既にそれではない」という状態にあって初めて聖化は可能になる。その者は捧げられていなければいけない、とはいえ、生き延びていなければいけない。そう、重要な点はここだ、生きているということ。だが、所有権はその者のもとにないということ。透明な形象。

 絶対的で。

 無条件に。

 あたしが、あたしのものでは。

 なくなってしまうということ。

 ただ、あたしはあたしのものであるままで。

「REV.Mの子達が、まだ、真昼ちゃんのことを狙ってるの。うーん、とってもしつこい! しつこい子は嫌われちゃうぞ、それでねーえ、四日前に襲われた時は、レベル5の子が二人だったんだけど。でも、それで失敗したんだから、今度はもーっと大規模な襲撃を仕掛けてくるに決まってるよね。どれくらいのレベルの子が、どれくらいの人数、襲ってくるのか。ぜーんぜん分からないっていうことです!」

 何もかも、あらゆる拘束から解き放たれた剥き出しの生。それだけが、聖化された人間となりうる。何かに還元することが絶対的に不可能な、それでいて露呈しているもの。裁きの場において読み上げられた名前のような生存の方法。

 真昼の中の真昼は、もう殺されてしまった。それはパンダーラとマコトとによって瀕死にされて、真昼自身によってとどめを刺された。自分自身を殺すのはいつだって自分自身だ、とはいえ自分自身とは何者であるか? それは淡い風によってさえ吹き消されてしまう、冷たい冷たい月の影のようなものだ。自分自身などというものは、そもそも存在しない。粉々になった世界を組み合わせたひどく歪んだパズルがそこにある全てだ。

 真昼は……思っていた。自分自身だけは自分のことを裏切らないと。けれども、一番、真昼が、救いと助けとを求めていた時に。それは、いとも容易く真昼のことを裏切った。崖から落ちそうになっている真昼に手を差し伸べようとすることさえせずに、自分自身はあっさりと消えてしまった。後に残されたのは……しかし、後に残されたものとは何なのだろう。救いを求めているこれは、助けを求めているこれは、一体なんなのだろう。ただただ、崖から落ちてしまいそうだという現実だけが残っている。

 生きるに値したかった。生きるに値すると誰かにいって欲しかった。けれども、生きるに値しない生とはなんなんだろう。生きるに値したいと願うことは、生きるに値しない生を前提とすることだ。生きるに値しない生とは一種の形容矛盾である。なぜなら生とは現実における一つの現象であって、かくあるべきという理想ではないからだ。さて、それならば……生に、愛は必要ないということになる。信仰もまた必要ない。そういったものは、所詮は理想でしかないという理由で。何か、生とは別のもの。

 愛するということにせよ。

 憎しむということにせよ。

 信仰にせよ、恐怖にせよ。

 それらは。

 決して。

 裁きではない。

 今。

 真昼の目の前にいる。

 この黒い龍ではない。

「これからね、カリ・ユガのおうちを出てから、デニーちゃんと真昼ちゃんとはスカハティ山脈の方に行く予定なの。ほら、ここからちょーっと行くとアーガミパータ霊道が走ってるでしょ? 南から北に向かって走ってる骸車に、ぴょーんって乗せて貰って。そこからずーっとずーっと行くと、アーガミパータに幾つかあるブラインド・スポットの一つがあるから、そこに迎えの子を送って貰うつもりだっていうこと!」

 黒い。

 龍の。

 姿を。

 真昼は見ていた。

 完全性だった。美しいという意味で美しいわけではなく、力強いという意味で力強いというわけではない。それを見た時に人間が感じるのは、奴隷が主人に対して感じるのと同じ感情である。しかも、ただの主人ではない。奴隷に対する、絶対的な裁きの権利を所有している主人。

 デニーのことを見下ろしている四つの首。それらは全く同じ形をしていた。優雅な曲線を描いて俯いている、頸椎から頭骨に至る過程。絶望的なまでの破壊不可能性を感じさせながら、それでいてしなやかな姿。平然で、なめらかで、一つの恒星を剪断して作り上げた宝石のように……その頭は世々限りない苦痛であった。あるいは、遍く広がりゆく生と死との監獄。

 ディエス・イレの図像のように燃え盛る鱗に覆われた口先、はらく、はらく、前方に突き出していて。あるいは、腹を裂き、内臓を抉り出すために研ぎ澄まされた刃物みたいに研ぎ澄まされている。それは禍々しい爬虫類の形状。その口先は、天球における七つの星が奏でる調和の音楽にも似た態度によって……あまりにもあららかに、淡く淡く、開かれている。

 その口から覗いているものは、破滅そのものだ。つまり、あらゆる生き物のうちで洪龍のみが持つとされている虚偽牙である。上顎の先端の方、右側に一本、左側に一本、計二本の牙。これらは、これらの牙によって噛みつかれたものの肉体、あるいは霊体に虚偽を流し込むための牙である。この牙の全体は、真実ではなく虚偽によって形作られていて。そして、この牙が挿入された現実に対して、その真実性を破壊する虚偽を解き放つのだ。結果として、そのようにして虚偽とされたものは、洪龍が概念としてそうあるべきだとした通りの何かに変化してしまうということだ。これらの牙によって噛みつかれた生き物は、例え神でさえも、概念のレベルで破滅してしまう恐れがあるほどである。

 それらの牙よりも少し離れたところ、より一層首に近いところで、二つの球形の世界が誕生している。つまり、二つの眼窩に眼球が嵌まっているということだ。四本の首のそれぞれに二つの眼球があって、結果としては、計八個、原初の爆発が球体の中に閉じ込められている。それらの全てが、今、デニーのことを見下ろしているが。もしも、このような「力」の爆発に見下ろされたとしたら。真昼は、底のない恍惚に落ちていくうちに、世界の終わりを迎えることだろう。

 そして、更に、更に、熾餐の鱗を辿っていくと。やがて、真昼の視線はフードのところまでやってくる。一般的なコルブラ・エラピデアとは異なって、あるいは、舞龍の羽姿とは異なって。カリ・ユガのフードには、なんの模様もなかった。そんなものは、カリ・ユガには必要がないのだ。コルブラ・エラピデアの場合、その模様は敵を威嚇するためにある。舞龍の場合、それはアウトサイド・インフルエンサーを発生させるためにある。洪龍であるところのカリ・ユガは……威嚇しなければならないほど弱くないし、アウトサイド・インフルエンサーの「発生」が必要なほど観念的に化外であるというわけでもない。

 ただ、ただ、黒。措定された不定子の法則のように、聖別された夢を見る虚無の空洞のように。そのフードは広がっている。真昼を包み込むのだ……真昼という、無意味を包み込む。それは全体的な無意味である、あらゆる被造物は主の前において無の無に過ぎない。主にとって、ただ意味があるのは、主の栄光だけである。主、ご自身が叫ばれるところの讃美……まるで、そのようにして、カリ・ユガのフードは広がっていた。完全な無意味である世界全体を、虚構の響きとともに包み込んでしまいそうなほどに、暴露されざる「至聖」であるところの、無限にして永遠の輝き。あるいは栄光としての真闇。そう、つまり、そのフードは、カリ・ユガにとっての光背なのだ。自讃のためのニンブス。マイエスタス・ドミニ……カリ・ユガが支配するところの、一つの世界の象徴。

 ああ。

 そして。

 そのようなカリ・ユガの形象は。

 真昼のことを、見ていないのだ。

「でねー、問題なのはー……その間のどこかで、ぜったいぜったいぜーったい、REV.Mの子達が襲ってくるっていうこと! ばばーん、どかーん、ばしばしででーん、だよ! どがががーん、ぱぴこん、ぷぺこん、ずっがーん、って感じ! もっちろーん、デニーちゃんは強くて賢いから、デニーちゃんだけでなんとか出来ないわけじゃないとは思うけどさーあ、でも、もしかしてーってこともあるじゃないですかー。それに、ほら、もしもREV.Mの子達をしっしって追い払っちゃうとして。んもー、あっとーてきな力でみんなみんな死んじゃえーってした方が、全然良いと思うんだよね。」

 八つの眼球は。

 全て。

 全て。

 デニーだけを見ている。

 ここにはデニー以外の何者もいないかのように、デニーだけを見ている。確かに、カリ・ユガにとって、デニー以外の存在は注意を払うに値しないだろう。真昼にマラーに、それにもちろんレーグートも。

 デニーに向けられている、そのカリ・ユガの視線、というか雰囲気のようなものは……真昼が知っているものに似ていた。それをよく知っているというわけではない、一度しか見たことのないもの。しかも、ごくごく最近、ASKの支店で見た……そう、ミセス・フィストが纏っていた雰囲気と似ているのだ。絶対的な強者が纏うところの、どこまでもニュートラルな、ただただ「力」であるところの雰囲気。

 ただ、完全に同じというわけではなかったが。これは、誰もが勘違いしてしまうことなのだが。「それ」がそうであるべき姿、最初から完全に決定されているところの「それ」の絶対的な運命とは、実は一つしかないというわけではない。いや、それは確かに決定されているト・ヘンではあるのだが……とはいえ、それは、それほど単純なものではない。

 人間的な文脈における運命なるものは単純に過ぎる。本当の運命は、あらゆる局面によってその色彩を変化させる。赤という色であるはずのものが、闇の世界では黒でありうるように、光の世界では白でありうるように。詩人には詩人の運命があり、弁論家には弁論家の運命がある。運命は、一万エレフキュビトの大きさがある生物のようなものなのだ。

 カリ・ユガの冷然は……ミセス・フィストのそれとは異なっていた。ミセス・フィストはいわば分析であった。一つの世界を解体し、その構造を情報として理解するということ。もちろん、それになんの意味があるのかということは二次的な問題である。分析自体がミセス・フィストであり、ミセス・フィストとは情報の処理機構なのだ。それ以外のことは全てが二次的なことである。一方で、カリ・ユガは。もう少し死に近かった。死というか、お終い。ある状態が、カリ・ユガのうちに終わるということ。とはいえ、それは始原ではない。何かが始まるために、何かが終わるというわけではない。何かが終わった後に何かが始まったとしても、それはカリ・ユガには関係のないことだ。カリ・ユガは……ただ、全てを滅ぼすだけである。あらゆるものを破壊し、殺し尽くして。捕食者、世界を喰う者。それが、カリ・ユガの纏っている雰囲気だった。

 デニーと。

 会見、を。

 している。

 カリ・ユガの状態は、完全な静謐であった。デニーとは対照的だ、全身からぴかぴかと弾け出している類稀なちょこまかさによって、座っているにも拘わらず、右に左にぴょこぴょこ揺れ動いている、そんなデニーの様子とは大違いだ。カリ・ユガは身動き一つしない。欠点が一つもないままに構築された、統御の論理であるみたいにして。

 表情がないとかそういうレベルの話ではない。いや、まあ、そもそもカリ・ユガの顔は蛇の顔なので表情という概念がないが。例えば舞龍であれば、時折、舌先にある魔力を感じるための器官を露出させたりもするが。カリ・ユガの場合はそういうこともしなかった。カリ・ユガの周囲では、時間すら死んでしまうとでもいうかのように。

 デニーが動き回っても視線を動かすことさえしない。カリ・ユガの現在の姿は巨大であるし、それに首の数も四本あるため、わざわざ視線を動かさずともデニーちゃんの小さな肉体は常に視界に収まっているのだろう。それに、下等な生物である人間とは違って、視覚などという感覚はカリユガにとっては重要ではないのだ。

 ただ、雷電だけが「声」であった。いや……雷電と呼ぶのはおかしいかもしれない。それは、電気などという枝葉の現象ではないのだから。根源的な、神雷とでも呼ぶべきものだろう。「雷」という易字には、既に「神」が意味しているのと同じような真聖が含まれてはいるが。この神雷の真聖は、いくら強調しても強調し過ぎるということはない。

 最初の「声」においては、カリ・ユガの頭上にだけ発生していた神雷。カリ・ユガの言葉の長さによって、そこから徐々に広がっていく。カリ・ユガの四つの首、特に頭部付近の空間に、まるでカトゥルンの日の飾り物、光を編み込んで作られたリースのように、美しく闇を引き裂いていく。

 そして。

 そんな、カリ・ユガに。

 デニーは話をしている。

「そ、こ、で! デニーちゃんからカリ・ユガにお願いがありまーすっていうことになるの! んまー、このお願いについては、デニーちゃんがなーんにも言わなくても、もうぜーんぶ分かっちゃってると思うけどね。カリ・ユガってば、デニーちゃんとおんなじくらい賢いもんね! でも、念のために、一応、いっておくとーお……つまり、デニーちゃんは、真昼ちゃんを攫っちゃえって思ってるREV.Mの子達を、みんなみんな殺しちゃえるくらいつっよーい、兵器が欲しいの。」

 それではデニーは何を話しているのか。

 デニーは、何をしようとしているのか。

 無論、その問い掛けに対して、真昼は明確な回答を有している。真昼は、デニーがしようとしていることを、完全に理解している。あたかもデニーと真昼とが一人の人間であるみたいにして、というか、真昼がデニーに従属する一つの器官であるみたいにして。要するに、デニーは真昼がして欲しいと思っていることをしているのだ。もっと的確な表現を使えば、デニーは、真昼のことを救おうとしている。

 デニーが口にしている言葉は全て見せかけのものに過ぎない。えーっと、聞かせかけっていった方がいいのかな? 分かんないや、とにかく「REV.Mからの刺客に対処するためにカリ・ユガから兵器を借りる」というのは本当の目的ではない。それは言い訳である。これから起こること、真昼のために、デニーがこれからしようとしていること。それを真昼の中で正当化させるための理由に過ぎないのだ。

 じゃあ。

 あたし。

 が。

 して欲しいことって。

 何?

 今の真昼を犠牲として捧げることは出来ない。なぜなら、穢れることなくして真昼に触れることは出来ないからだ。だが、真昼が空虚ではないというわけではない。真昼に触れようと思う者は、真昼を穢すことなくしてそれに触れることは出来ないという理由で。とはいえ、今の真昼は……未だ、ホモ・サケルというわけではない。その生は殺害可能なものではないからだ。

 何かが必要なのだ。今の真昼は、愛の欺瞞からも、信仰の欺瞞からも、追放された場所にいる。ここは羊のための場所ではない。ここには羊の栄光はない、主の栄光があるだけだ。真昼は地獄に落とされた罪人だ。そして、地獄に落とされた罪人は常に聖なる生き物である。

 こういった事実関係に問題はない。ここで、本当に問題になってくるのは……犠牲になり得ない真昼が、どのようにして裁かれうるのかということだ。権力とは何か? 死者を象った人形。tyranny、 tyrannosaurus。爬虫類の王。至上権を持つ者は、大逆罪によってしか裁かれえない、とはいえ、大逆罪とは罪ではない。なぜなら、律法の外側にあるものをどうして裁けるというのか? それは全てのものから追放されている。ただ、そこには、剥き出しの生があるだけだ。

 つまり、誰であれ、真昼を裁くことは出来ないのである。真昼は罪を犯していないからだ。いかなる意味においても真昼は罪人ではない。ただ、まあ、罪人ではあるのだが。そもそも裁くべき罪を犯していない罪人を、誰が裁くことが出来るというのか? だが、それでも……ここは裁きの場だ。真昼のための裁きの場。

 真昼は裁かれることを望んでいる。というか、裁かれなければ真昼は真昼として死ぬことが出来ないのだ。真昼の殺害可能性は、そこにおいて初めて成立する。今の真昼が今の真昼として裁かれ、その結果として完全に消滅することで、初めて真昼は真昼として――真昼ではない真昼として――そこにあることが出来る。

 ここにおいて。

 ようやく理解される。

 ここは真昼のための。

 裁きの場では、ない。

 そして。

 カリ・ユガ、龍王。

 それは全てを可能にする。

 アポ・メカネス・セオス。

「そうそう、だからあの場所に行ったの! さっすが、カリ・ユガだね! デニーちゃんが言おうとしてたこと、デニーちゃんが言う前からぜーんぶ分かっちゃってる! カリ・ユガの言う通りだよ、つまりね、デニーちゃんは、あれが欲しいの。今もあの場所に封印されてる、あれが。」

 ここで裁かれるのは真昼ではない。そうではない、真昼が裁かれるという考えは完全に間違っている。裁かれるのは、裁かれるのは、真昼以外の全てである。この最後の審判において、世界が裁かれる。真昼の外側にあるあらゆる存在が裁かれる。そして、(裁き得ない虚無であるという理由によって)ただ真昼だけが裁かれることがない。

 制御不可能な暴力だけが、正しくあり続けることが出来る。これは一つの爛熟したテーゼだ。過程的因果律の内側にあるものを摂理によって区別することは出来るだろう。そのようなものを、生きるに値するものと生きるに値しないものとに区別することは、出来ないことではない。なぜなら、それは、明らかに原因と結果との恣意的絶望であるからだ。それは希望的に判断され、そして、悪であるということを誰もが先験的に了解している。それは、ただただ解決しなければいけないという過程であるということの問題なのである。その過程が終了すれば、そういった区別は、自動的に判断の領域に棄却される。

 しかしながら……いかなる残虐性が、その外側にあるものさえもそのように区別しようというのか? あるいは、いかなる絶対的正しさがそのようなことをしようというのか? 収容所と爆弾と。誰もが収容所を指して非難する、誰もが収容所の怠惰な冷酷ばかりを見ようとする。だが、真の悪は爆弾である。制御不可能な暴力としての爆弾である。なぜなら、それは、それを行うことが正しいからだ。爆弾を落とし計測する。どんな快楽さえも温めることが出来ない、冷たい鉛の温度。そして、その鉛は、その悪が測定出来ないほど巨大であるがゆえに正しくあり続けることが出来る。dikaion to biaiotaton。

 溶けた。

 鉛の。

 冠。

 そう、爆弾こそが。

 殺害可能性なのだ。

 そして。

 今。

 真昼の。

 頭の上に。

 その爆弾。

 が。

 落ちようとしている。

 世界を破滅させる爆弾。その爆弾の内側は、アラリリハ、アラリリハ、讃美によって満たされている。それが、天上から地下に落ちて。地下のこの場所に落ちて爆発した時に……全ては、「無言のうちに涙する」という表象によって満たされるだろう。全ては、そう、真昼を除く全ては、さらさらと、さらさらと、流れ落ちる涙のように砕け散る。

 真昼は虚無、締結されている虚無。もちろん、ここで「世界」という言葉が指しているのは文字通りの意味の世界ではない。あくまでも比喩的な意味における「世界」であって、つまり、真昼の中に断片として存在している関係知性が把握しているところの世界の局面のことである。そうであるならば、いうまでもなく、爆弾も比喩であろう。

 それでは。

 爆弾とは。

 なんの。

 比喩で。

 あるか?

「えーっ、そんなわけないじゃーんっ! デニーちゃん、アーガミパータにはぜーんぜん興味ないもーんっ! でも、そうだね。あれは、確かに、とーっても危険だもんね。たぶん、それほど強くない子だったら、神的ゼティウス形而上体でも消え去れーって出来ちゃうし。んー、まあ、そんなに心配なんだったら、幾つか契約を結んであげてもいいよ。あれを使ってアナンタの霊族を攻撃するということは絶対にしませーん、とか。そんな感じの契約!」

 機械が、動いている。

 機械の音が聞こえる。

 その音は、この演劇の外側から聞こえてくる音だ。もちろんそうでなくてはならないだろう。なぜなら、古典的なパンピュリア演劇において、機械仕掛けの神を使う必要があるのならば、その装置は演劇の外側に位置していなければいけないからである。演劇の中にはいかなる不合理もあってはならない。何もかも知らないが、それでいて何もかも知っているもの。そのような神だけが、機械仕掛けの神となれる。あまりにも絡まり合った糸を焼き尽くすことによって解決する舞台装置となることが出来る。

 カリ・ユガ、その意味で、この役割にあまりにも相応しいといえるだろう。カリ・ユガにとって、この全てはどうでもいいことである。真昼という生き物の全ては、カリ・ユガには関係のないことだ。ここまで書かれてきたことを見てみるがいい。カリ・ユガについて、客観的な外見描写以外の何があるというのか? カリ・ユガは、この演劇の外側にある存在なのである。そして、そうであるからこそ、終わらせることが出来る。真昼という悲劇を終わらせて……一つの、真聖な喜劇へと転換させることが出来る。

 ああ、喜劇! 爆弾とは何か? それは贖いである。真昼のためのものではない贖い。勘違いするな、この審判は、絶対なる何者かと、それに相対するところの個体との間に行われているものではない。これは天秤だ、そして、その天秤の名は支配である。皿の片側には世界の全てが載せられていて、もう片方には完全な虚無と破滅の讃美とが載せられている。真昼は、それを、見ているだけだ。そして、呼吸をしているだけである。真昼は傍聴人でしかない、しかも、傍聴を許されていない傍聴人。

 真昼は贖いを望んでいた。切実に、それを望んでいた。生きるということが罪であるのならば、それをどうにかして贖わなければいけないと思っていた。真昼にとって、生きるということは、苦痛ではない。当然ながら快楽でもあり得ないし、かといって義務であるわけでも権利であるわけでもない。真昼にとって、それは、罪なのだ。常に贖い続けなければいけないところの大罪。

 けど、でも、それでも。

 真昼はそれを贖うことが出来ない。

 それは、真昼の罪ではないからだ。

「あははっ、もーっちろん分かってるよ!」

 ねえ、じゃあ。

 一体、どうすればいいの?

 ああ。

 簡単なことだ。

 他の誰か。

 真昼ではない誰かが。

 それを、贖えばいい。

「何かが欲しいならー……代償が必要だよね?」

 いつの間にか、真昼の頭蓋骨の中で制御出来ない思考がくるくると回転しているうちに。デニーとカリ・ユガとの会見は次の段階に入っていたらしい。湖岸に腰掛けていたデニーが、ぴょこんっという感じで立ち上がった。少しだけ光で濡れているローファー。深くかぶってているフードが、ゆらんと傾く。

 デニーはそのまま振り返った。体の全体で、まわれーみぎっ!するようにして。右足をちょっとだけ後ろにずらして、その踵だけで、てこんっと踵立って。くるりんっと全身を反転させたのだ。前を向いていた体、後ろを向いて。結果として、真昼とマラーとが立っているところ、その方を向かうことになる。

 それから、また、赤い絨毯を歩いてこちらに戻ってくる。スキップを踏んで、ステップを踏んで。一歩、二歩、三歩進んで、そこから、とんっと後ろに跳んで。そこで、はららっと一回転してから、今度は前方に跳躍する。まるで愛らしい子猫が、大した意味もなく戯れているみたいな歩き方で歩いている。

 せいぜいが十ダブルキュビト程度の距離だ、あの場所からこの場所までは、すぐに辿り着く。その距離が無限であればいいのに、と真昼は思った。その時間が永遠であればいいのに、と真昼は思った。そうすれば、いつまでもいつまでも、真昼は裁かれることがないからだ。

 裁かれたくないというわけではない。それどころか、真昼は、渇望していた。自分自身という存在に裁きがくだるのを。爆弾が爆発するのを。デニーが、真昼の世界を、粉々に砕いてくれるその瞬間を。とはいえ、迫りくる洪水の水音を聞いて震えない生き物がいるだろうか? 喝采を叫ぶ時に、讃歌を歌う時に、震えない生き物がいるだろうか?

 あれ?

 涙だ。

 そういえば。

 まだ真昼は。

 涙を流していた。

 気が付いたのだが……真昼は、カリ・ユガを最初に目にしたあの時から、今まで、ずっとずっと涙を流していたらしかった。それはあまりにも冷静で、それはあまりにも透徹で、それゆえに、真昼は自分自身でも気が付くことが出来なかったらしい。手の甲で拭う。もう一度手の甲で拭う。それから、丁字シャツの袖口で何度も何度も拭う。けれども、それは、止まる気配さえなかった。どうしてだろう、よく分からない。苦しいわけでもない、痛いわけでもない。自分という内的原理から何かが漏出しているわけでもない。それなのに、涙が流れている。

 そういえば……あたし、なんで泣くことが出来てるんだろう。デニーが、あたしが持っている奇跡を奪ってしまうために、あたしから全部、全部の涙を飲み干してしまったと思っていたのに。それなのに、今、あたしは泣いている。

 涙で歪んだ光景の中を、デニーが歩いてくる。上の瞼と下の瞼との間に溜まった涙は、もちろん、溢れては頬の上を伝い落ちていくのだけれど。それでも、真昼の目の前に、薄い膜のような物を作っていたということだ。

 その膜の向こう側で、デニーはあわやかに踊っていた。デニーは……アポ・メカネス・セオスを背後にして、惨たらしい悪夢のように赤く塗り潰された舞台の上で、まるでコーモスのダンスのように踊っていた。広大なヨニの中から突き出した、四本のリンガ。パリカ、パリカ、パリカの音楽に合わせてデニーは踊っているのだ。もちろん、そうだろう。悲劇は喜劇に転落しなければいけないのだから。Kathairo! 運命の機械によって、世界は光の中……全ては光によって包み込まれなければいけない。

 光? そう、今、真昼の目の前で、何もかもが光り輝き始めていた。いや、違う。確かに、真昼の目の前には光の湖があったが、この光は、その光とは、全く異なった種類の光だった。よくよく注意しなければ気が付かないほどの光、淡く、淡く……まるで夜空で溺れる月の光のように。一体何が起こったのか? この世界に何か奇妙なことが起こったのか? いや、違った。これは、別に、世界が光っているわけではない。真昼の目を覆っている膜が光っているのだ。つまり、真昼の涙が光っているのだ。

 その瞬間に。

 真昼は。

 ようやく。

 気が付く。

 ああ。

 違う。

 そうじゃない。

 あたしはあたしによって。

 泣いているわけじゃない。

 これは、許された涙だ。デニーによって許された涙なのだ。この全ては真昼の肉体によって起こったことではない。一つの破綻もなく組み立てられた建造物の中を歩いているように、これは運命によって定められているのである。そう、ここは一つの破綻もない建造物である。裁きの場であるところの建造物に破綻などあるはずがあろうか? ここにはあらゆる可能性がある、そして、その中から最善のものが選ばれる。とはいえ、それを選ぶのは真昼ではない。デニーだ。

 最善の選択肢とは、選択しないことだ。

 勘違いするな。

 それを偶然と呼んではいけない。

 それは。

 つまり。

 お前ではないものの必然。

 デニーが、笑っていた。とても、とても、ラブリーな笑顔で。とはいえ、それはloveではなかったが。デニーが誰かを愛することなんてないだろう、それに、デニーのことを誰かが愛するということもありそうのないことだ。無論……愛は……王国では……ない……王国にあり得ないものを二つ選ぶとすれば、間違いなくその一つは愛になる。だから、きっと、真昼は、デニーから離れることが出来ないのだろう。デニーが自分を愛することも、自分がデニーを愛することも、絶対にあり得ないことだから。

 デニーは、真昼に、笑いかけていた。なーんにも心配することはないよ、ぜんぶ、ぜーんぶ、デニーちゃんに任せて、そんなことをいっているような顔をして。

 もちろん、デニーとて、荒魂を操作出来るというわけではない。神の起こす奇跡だ、せいぜいが、その力に形を与えることが出来るだけ。荒魂が持つ、本質的な部分は変えることが出来ない。つまり、その奇跡に……真昼が望むこと以外のことをさせることは出来ない。

 しかし、デニーは、理解している。真昼のことを、その神経系の隅々まで理解している。真昼という生き物はデニーの舌の上で眠っているようなものだ。だから、デニーには、分かるのだ。いつそれを発動させれば、自分の思い通りの奇跡を起こせるのかということを。

 デニーが近付いてくるごとに、涙が放つ光が強くなっていく。ああ、起こってしまう。奇跡が起こってしまう。奇跡には、善と悪とを判断する能力はない。善と悪とというのは、要するに、人間にとって都合がいいかどうかだ。奇跡というものは、そういった概念を超えたところにある。要するに、それが、真昼の望むことであれば……どれほどまでに、強く強く、真昼が拒否しようとも。奇跡はそれを起こしてしまうのだ。

 あと五歩で。

 デニーが、ここに、戻ってくる。

 あと四歩で。

 三歩。

 二歩。

 一歩。

「お待たせ、真昼ちゃん。」

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