第二部プルガトリオ #53
いや、「どう?」ではないんですよね。確かにこのことについて質問したのは真昼なのだが、それにしてももう少し言葉を選ぶとかなんとかしろよという話である。ここまであけすけに、真昼が取引の材料に過ぎないということを言ってしまうのは。ちょっと、なんというか、あまりにも真昼が可哀そうに過ぎやしないだろうか。こう……人情の機微というか……ザ・サブトルティーズ・オブ・ヒューマン・エモーションというか……ま、仕方ないか。デニーちゃんだしね。可愛いから全部許しちゃう!
と、そんなことを考えてしまうくらいに無神経かつ無感情かつ無慈悲なデニーの回答であったのだが。意外なことに、真昼は特に傷付いたりなんだりはしていないようだった。平気のぴんすかである。ASKで、ミセス・フィストに紹介された時に。デニーに「砂流原静一郎氏のご令嬢」と言われただけで、あれだけショックを受けていたところの真昼ちゃんであるのにも拘わらず。デニーからそういう扱いを受けても、何も感じていない。むしろ、それが当然だと思っているような感じさえあるほどだ。
何かの変化があったのだろうか? 真昼という……人間の、全体の、その基底部分に。もちろんそれはあったのだ。誰であろうとも、最後の審判を受ける前には、その全身を清めるものである。真昼は、もちろん……もちろん、もちろんだ……そのことに気が付いていなかったが。それでも、それは事実である。真昼は、完全に受け入れていた。自分が道具であるということを。ある一つの目的を達するため以外には、なんの役にも立たない、どのような形でも必要とされていない道具でしかないということを。とはいえ、問題なのは、それがどのようにして「宣告」されるかだ。審判とはそういうものである。既にそうであるべきものを、一つの理解可能性、統一的な全体として「宣告」するということ。
とにかく。
真昼、は。
こう返す。
「そう、つまり……あんたが必要なのは、バーゼルハイム・シリーズについての情報ってわけ?」
「そーそー、そーいうことだよ!」
それから。
少し。
考え。
巡らせる。
いうまでもなく真昼は知っていた。バーゼルハイム・シリーズについて、それが何かということについて。静一郎は、自社製品について、家庭教師を通じて真昼に叩き込んでいたからだ。とはいえ……真昼が知っているのは、それほど重要なことではない。一般的に知られている情報、製品のスペックと、それに基本的な工程。どれほどのコストとデリバリーとで材料を仕入れて、どのような作業の結果として製品が作られるのかということ。あとは……いうまでもなく、価格。そのくらいである。どれもこれもデニーが必要としている情報ではない。
ただ、一つだけ、何か……ひっかかるものがあった。記憶、といえないほど曖昧な記憶。ほとんど夢で見た光景のようなもの。それは、岸母邦の砂流原邸に住んでいた頃のことである。以前にも書いたように、あの家には廊下という物が存在していなかった。ある部屋からある部屋に移動しようとする時には、その部屋同士が内側で繋がっていない限り、外側のベランダを通じて行き来しなければいけなかったのである。
その記憶の中で、真昼はトイレに行こうとしていたはずだ。夜、夜だった。全く月のない夜。空に、ナリメシアもアノヒュプスも見えない夜。曇っていたのか、それとも……その夜は、もしかして、特別な夜だったのかもしれない。とにかく、そんな夜に、真昼は目が覚めてしまって。そして、自分の部屋からトイレまで、ベランダを歩いて行こうとしていた。
自分の部屋を出て、部屋の中に虫が入ってしまうのが嫌だから、その扉を閉じる。月のない夜だから、そのせいで……自分の部屋のすぐ横にある、ベランダのライトをつけるためのスイッチを、手探りでオンにしようとする。
その時だった。それに気が付いたのは。庭に、何かの光がある。月のない夜なのに、星もない夜なのに。庭に生えている一本の木。その上の、鬱蒼と葉が茂っている部分。葉と葉との隙間から、ちらちらと、光が見えている。
しかも、その光の数は一つではなかった。二つの光だ。その瞬間に、真昼は動けなくなった。真昼を構成している全ての筋肉が、心臓のそれを含めて麻痺してしまったみたいだった。実際には、必要最低限の筋肉は動いていたのだが……ただ、心臓のある場所、胸の右側に、ぎりっと軋んだような、そんな痛みが走ったというのは本当だった。なぜなら動物的本能によって悟っていたからだ。これほどの闇の中、月も星も見えない夜の中で。このようにして光り輝く二つの光が持つ意味など、それは一つしかないのだということを。眼球だ。二つの眼球。あの光は、肉食動物の持つ、二つの眼球の光なのである。
次第に、次第に、真昼の目が闇の色に慣れてくる。塗り込めて閉ざしたような黒が、霧が薄れるみたいにして薄れてきて。そして、その眼球の持ち主の姿が見えてくる。
とはいえ……その持ち主の描写をする場合、まずは目について触れなければいけないだろう。それは、間違いなく、炎であった。しかも、ただの炎であるというわけではない。最も原初的な意味合いでの炎、人間が人間であったよりも以前に、その炎が持っていた意味合いとしての炎。つまり、生あるものを焼き尽くす、一つの「滅び」としての炎ということである。黄色く、黄色く、どこまでも黄色く、まるで存在そのもののように純粋な黄色。
そして、その服装であるが……まずは羽織っている物について書いていくべきだろう。それは真っ白いコートのような服であった。というか、ちょっと特殊な形をした白衣というか。基本的には普通の白衣、長袖の白衣なのだが。その肩のところに長い長い布が引っ掛かっている。それは、右腕と左腕との方向に流れ落ちていって。要するに、領巾と呼ばれるたぐいの横長の布であるということだ。ただ、それが白衣であったとして……あまり実用的であるとはいえなかった。
なぜなら、その白衣のそこら中に、きらきらと光る不思議な物が纏わりついていたからだ。それがなんなのかということはよく分からないのだが。鏡のような玉のような、そんな物。そして、そんな物が、まるで蔓草のような一本の繊維によって、白衣のそこら中にくっつけられていたのだ。また、その裾の辺りも少し奇妙な感じだった。特に何らかの仕掛けがしてあるように見えないのにも拘わらず、あたかもパニエでも入れてあるみたいに、ふんわりと花開いていたのだ。
それから、その内側に着ている服であったが。明らかに、外側に着ている物とは性質が違う物だった。まるで月光国の中学校・高校、体育の授業で着せられるような。いわゆるジャージのような服であったのだ。こんな時間に・こんな場所で見るよりも、昼日中の運動場のような、素晴らしく健康な時空間で見た方が、よっぽど納得出来るものだ。非常に動きやすく、体にしっかりと馴染んでいるジャージ。それに、足にぴったり合ったスニーカー。
そんな、異様な格好をした……少女であった。そう、「それ」は少女であった。少なくとも、その外側は少女であった。とはいえ、その中身までが少女であるとは限らない。なぜなら、その少女は、まるで……いや、肉食の獣、そのままの態度で。その木の上に蹲っていたからだ。
髪の毛は乱雑に切られていた、美容院など一度も行ったことがないみたいだ。よく見れば、その全身は、あたかもネコ科の生き物のように優美な筋肉によって覆われている。それなりに太い枝の上に、両方の足を乗せて。背を緩く丸めて、長い腕を垂らして。そして……笑っていた。切り開かれた傷口のような口の中に、ぎざぎざと尖った歯が浮かび上がっている。雑食の動物ではあり得ない歯、他の生き物を殺すことだけに特化した歯。
そして。
その生き物が。
真昼のことを。
見ている。
真昼は、その瞬間まで。人生において死というものを感じたことがなかった。ということは、恐らく、この記憶は正子が自殺未遂を起こす前のことということになるが。それはそれとして……もちろん、テレビの中では、真昼の目の前でたくさんの人が死んでいった。それに、砂流原という一族に所属している関係上、その年齢で既にたくさんの葬式に出席していた。よく知りもしない人間の死体を、それなりの数見てきた。
とはいえ、そういった諸々は、所詮は他人事に過ぎないのだ。作り物のお話を読んでいるようなもの。どこまでもフィクショナルなものに過ぎない。死というものの本物の概念をそこから引き出そうとしても無駄なことである。なぜなら、そういった諸々は自分には関わりのないことだから。自分の死と他人の死とは全く異なったものだ。そして、人間は、自分の死によってしか、自分が死ぬということを、理解出来ない。
獣の感情だ。それは、一般的にいわれるところの恐怖とも違う。真昼という動物の、そのものに賭けられているところの賭け金。死ぬということ……そこには一切の偶然を介在させることが出来ないところの絶対的な帰結、が感情化したもの。その瞬間に真昼が感じたものはそれであった。真昼が、自分という生き物が死ぬべき生き物であるということを知った瞬間に。
それまでの真昼は、自分が死ぬなんていうことを思っていなかった。真昼は、自分は永遠に生き続けるものだと思っていた。これはしっかりとした知識・考察としてそう思っていたわけではない。あらゆる人間がそうであるように、なんとなく、ぼんやりと、自分が死ぬわけがないと思っていたのである。ある種の全能感とでもいうべきか、世界の中心が自分であるのにも拘わらず、自分が死ぬわけがないという感覚。
しかし……夜の中に隠れていたのに肉食の獣に見つかってしまった、哀れな哀れな鼠みたいなものだ。どんな生き物であっても、全ての神経に、末梢神経に至るまでの一本一本の神経に。死という感覚が刻まれている。そして、鼠は、普段は感じることもない、その死という感覚を……思い出すのだ。猫に見つかった時に。特に、その瞳に炎を宿した猫に見つかった時に。
猫。
猫。
猫がいる。
そして。
あたしは。
鼠。
真昼は……口を開けたまま、全く息が出来なかった。どんなに息をしようとしても肉体の方がそれを拒否しているのである。真昼よりも、真昼の肉体の方が、そのことをよくよく知っているのだ。音を立ててはいけないということ、少しでも音を立てたら見つかってしまうということ。
見つかってしまう? ははは、馬鹿らしい。真昼は既に見つかっている。その何者かは、真昼の、ように、無様で、愚昧な、飼育された、生き物とは、全く、違う。優美さと狡猾さとを兼ね備えた野獣。しなやかに歪んだ野生の猫。
その証拠に、ほら、ご覧。その二つの目がどこを見ているのかということを。真昼のことを見ている。まさに、真昼のことを見ている。とはいえ、炎の中に敵意のようなものはない。どちらかといえば……見くだしたような嘲笑だ。
その猫は、自分の唇に、すっと、自分の人差指を当てた。月光人ならば誰でも分かる、ビー・クワイエットのジェスチュアだ。静かに、声を出すな。真昼はその通りにする。というか、既に、その通りにしている。それから、その猫は、揶揄うような表情のままで……引き裂くように、自分の口を開く。「静かにしろよ、お嬢ちゃん」「ロクショウお嬢様が、お前の親父と仕事の話をしてるんだ」「邪魔をするんじゃねぇよ」。
ああ。
それを、その声を。
真昼は知っている。
人間のように聞こえるが、決して人間ではない声。
少女のように見えるが、決して少女ではない生物。
それは。
もちろん。
「魔法少女。」
「え?」
真昼が、現実から遊離してしまったかのようにして記憶に取り憑かれている間。デニーは、「でも、まあ、真昼ちゃんのおとーさんがどこまで知ってるのかってことは分かんないんだけどね」「だから、どっちかっていうとね……真昼ちゃんのおとーさん本人から何か聞こーってしてる感じじゃなくて、ディープネットのどこかから情報を持ってきて貰おーってしてる感じかな」等々と、いつものように自分勝手に喋くり倒していたのだが。真昼が、完全な無意識のうちに、ふっと滑り落してしまった言葉に……反応した。
その反応は、今までデニーが示したことのない反応だった。真昼に対して示して見せた全ての反応と異なっていた。どこか巫山戯けたような、軽々しい、道化じみたものではなく。それは、まるで……その一点で、絶対零度の氷が結晶化したような声であった。あるいは星が焼き尽くされる時の温度のような声。水銀と硫黄と、兎の頭蓋骨に注いで。真昼は、その声によって、一瞬で現実に引き戻されてしまう。
デニーの方に、視線を向ける。
デニーは、こちらを見ている。
ああ……真昼は気が付く。
今。
初めて。
デニーが。
本当に。
本当に。
あたしのことを。
見てくれた。
「真昼ちゃん、今、なんて言ったの?」
そう、本当に、初めて。デニーは、真昼という生き物に対して、ちょっとした興味だとか・なんとなくの好奇心だとか、そういった視線以上の視線を向けていた。それは、真昼が奇瑞としての奇跡を証明してみせた時の視線さえも子供騙しに思えてしまうような。真実の意味において真昼のことを把握しようとしている視線であった。
そんな視線によって、覗き込まれていた。それは、ただ単に目と目とが合っているというだけのことではなかった。真昼が真昼であるところの全て、真昼の本質のようなもの。そういったことの全てを、ひどく精密で・ひどく繊細なセンサーによって測定されているという感じ。真昼は、デニーによって、心の底から素裸にされている。
そんなことをされているにも拘わらず、真昼は視線を外すことが出来なかった。それは、なんというか……恐怖と恍惚とが入り混じった感覚であった。まるで、甘い甘い唾液を滴らせるmonstrumによって心臓を食い尽くされようとしているみたいな。鸞翠によって彫刻された二つの目を持つ怪物。どこまでもどこまでも、緑色の目。
デニーが、デニーが……デニーならば、真昼の全てを知ることなんて簡単に出来てしまうだろう。人間という単純な生き物を把握することなんて、あくびをする兎のように簡単なことだろう。今まで、それを、しなかったのは。ただ単に、面倒だったというだけのことだ。
真昼の中に。
そっと。
蛆虫が。
滑り込んでくる。
真昼の。
全てを。
全てを。
理解する。
蛆虫に……脳髄を喰い尽くされた真昼は。
ただ、震えるような感覚に、身を任せて。
そして。
やがて。
デニーは。
言う。
「へーえ、そうなんだあ。」
ふいっと、デニーが目を逸らした。その瞬間に、真昼は、そういったことの全てから解放された。全身を襲っていた、骨の髄まで愛撫されているような感覚。肉体の隅々までを・精神の隅々までを、何一つ残すところなく精査されているような感覚。
まるで、自分の家の中にづかづかと上がり込まれたみたいな感じだった。そして、その上がり込んできた何者かは、透き通った氷で出来ているのだ。その氷が呼吸するたびに……家の中にある全てのものが、一欠片の灰も残さないままに焼き尽くされていく。
とにもかくにも、その感覚は終わったのだ。痺れるような甘さ、呼吸をすることも忘れてしまうような緊張感は、ようやっとのこと真昼の内側から出て行って。はっと、真昼は息を飲み込んだ。喉の奥で、掠れた風が通っていく音がする。そのまま、はっはっと、全力疾走でもしたみたいに、荒い息を追い立てて。それから、デニーに対して、こう質問する。
「あんた、今……何かした?」
「ううん、なんでもないよ。」
しかしながら、デニーは、なんとなく上の空な感じでそう答えただけだった。何か複雑な考えに捉われているみたいにして……それを、色々と、組み合わせたり組み替えたりして。これから先に、自分が取るべき行動を、色々と考え直しているみたいだ。ふわふわとした独り言が聞こえる。
「そっかあ」「真昼ちゃんのおとーさんも」「知ってるんだあ」「色々なこと、知ってるんだあ」「へーえ」「なるほどねーえ」くすくすと笑う「ふふふっ!」「そんなこと」「考え付かなかったよ」「まさか」「まさか」「魔法少女を使ってたなんてね」「でも」「それなら」「全部」「説明がつくよね」。
真昼は、自分が何か取り返しがつかないことをしてしまったということに気が付いていた。先ほど、つい滑らせた言葉は。その言葉を発したところの真昼にとっては、なんでそんなことを言ったのかということが全然理解出来ない言葉であった。そもそもバーゼルハイム・シリーズについてのことを考えた時に、なぜあの記憶が呼び覚まされたのかということさえ分からないのだ。あの記憶……本当のことなのか、それとも夢で見たことなのか。それさえもはっきりとしていない記憶。
しかしデニーにとってはそういうことではないようだった。それは今後のデニーの行動さえ変化させかねない重要な情報であって。とはいっても、その行動というのは、真昼に対する行動というよりも、静一郎との交渉に関することであるようなのだが――真昼の救出という今回の作戦にはほとんど関係してこないことだ――それにしても、あの言葉に、一体どれほどの意味があったというのだろうか。あるいは、真昼の記憶に、どれほどの価値があったというのだろうか。
デニーは、なおも独り言を続けている。「うんうん」「分かる分かる」「そーだよね」「基本的には、魔法少女とスペキエースとの神学的構造はおんなじだもんね」「それだけじゃなくて、魔法少女を試験体にすれば、もっともっときれーで、もっともっとおーきな、ベルカレンレインの反応を観察出来る」「もっともっと素敵な概念を摂理化することが出来る」「あははっ」「なるほどねー」「デニーちゃん」「分かっちゃった」。
デニーは。
あたかも。
幼子が。
美味しい。
美味しい。
お菓子を。
与えられた。
そのような。
顔を、して。
「後は、それが……」
欲望そのもののように。
とても可愛らしく笑う。
「どこにあるか。」
それっきり、デニーは何も言わなくなってしまった。とはいえ、そのことについて何かを考えたり思ったりすることをやめてしまったというわけではない。そうではなく、ただ自分の思考の中だけでパターンを構築し直しているということのようだ。行動のパターンと情報のパターンと、自分がどうすれば何が起こるのかということに関することの全て。
デニーは黙ったままで、下に、下に、どこまでも下に下降していく。晴れやかに華麗な赤い絨毯の上を、地の底に向かって歩いていく。一方で、真昼は……でも、やはり、口を開くことは出来なかった。それがなぜなのかということは分からない。本当なら、本来なら、デニーに対して色々と問いたださなければいけないはずなのに。それなのに、真昼は、何一つ問い掛けを口にすることなく、ただ、デニーについていくことしか出来なかった。
質問してはいけないような気がしたのだ。なぜかは分からない。ただ……実は、全然分からないわけではない。真昼は、ほとんど本能的に悟っていたのだ。今の、デニーの、思考は。決して自分にとって不利に働くことではないということを。それどころか、間違いなく、この思考の中で。真昼という生き物の重要性は上がっているはずなのだ。デニーにとって、真昼が、とてもとても重要なものになっている。それは、とても、いいことだ。
それに、もう一つ。大きな理由がある。この思考の中で、デニーが何をパターン化しようとも。これから起こることには、全く関係してこないという確信があるということである。これから起こることは、最後の審判なのであって。そして、その審理は既に終わっているのだ。あらゆることは、完全な運命として決定されている。あとは、それが真昼の上に振り下ろされるだけなのだ。それは変わらない。それが起こることは変えることが出来ない。絶対的な必然性として……真昼は……真昼は……けれども、果たして、真昼は一体どうなってしまうのか?
さて。
さて。
左様なことは。
すぐに分かりましょうぞ。
なぜならば。
「あっ!」
人差し指をぴんと立てて、親指をぐっと伸ばして。右の手も左の手もそうして。そういう風にした四つの指先を、人差し指と親指とが菱形を作るようにして、人差し指は人差し指と、親指は親指と、合わせて。そうやって出来た手の形を、口のところを覆うみたいな形で、顔にぴったりとくっつけて。そのようにして、何かを考え込んでいたデニー。一言も話すことなく、ただただ歩いていたデニーが。深く深く沈んでいた瞑想の状態から、不意に浮かび上がってきた。小さく声を漏らしてから……右の手を伸ばして、真昼に向かって、それを指差す。
それから。
こう言う。
「着いたよーっ!」
あれ?
でも。
こんなもの。
一瞬前には。
確かに。
存在して。
いなかった。
はずなのに。
真昼は……その時、別に、ぼんやりとしていたわけではない。まあ、確かに、少しくらいは意識が散乱していたところはあるかもしれないが。けれども、ちょっとよく考えて欲しいのだが、ここは龍王の巣なのである。人間という下等生物にとっては捕食者ともいえるような存在。真昼がここを歩いているというのは、基本的には、ねずみさんがねこちゃんのおうちの中を歩いているというのと同じことであって。ちなみに、ここでわざわざ「基本的に」と断ったのは、鼠にとっての猫よりも人間にとっての龍王の方が遥かに危険極まる存在であるということに対しての留保であって……とにかく、猫の匂いによって鼠が常に緊張し続けるように。龍王の発するセミフォルテアによって、真昼は常にストレス状態に置かれ続けているということである。
それにも拘わらず。
真昼は、「それ」について。
目の前に現れるまでは。
全く、気が付かなかった。
全く、気が付けなかった。
まるで、いつの間にか境界を越えてしまっていたかのようだった。こちら側の岸とあちら側の岸と、その間には、一枚のヴェールのようなものがかかっていて。そのヴェールをめくると、その先には全く違った世界が広がっている。要するに、そんな感じだ。
とはいえ……この場所が、今まで真昼が歩いてきた洞窟と完全に異なった場所であるというわけではなかった。それどころか、大体のところは同じといっていいだろう。真昼の上と、真昼の下と、その両方が、真っ黒な岩石によって形作られていて。それに、敷き延ばされた赤い絨毯は……少なくとも、真昼が立っているところの少し先までは続いている。
では、一体何が真昼を困惑させたというのか? もちろん、「それ」である。「それ」は、今まで、その欠片たりとも真昼の視界に把握されてはいなかった。それにも拘わらず、デニーが、その場所に到着したということを真昼に告げた、その次の瞬間に。真昼の視界の大半は、それによって支配されていた。
支配、domination。まさしく「それ」に相応しい表現ではないか? とはいえ、少し分かりにくい表現であるかもしれない。もうちょっとばかり分かりやすくいえば、真昼の視界の下半分が「それ」を映し出していたということだ。上半分には、洪石で出来た、黒々とした闇が蹲っていたが。下半分には……御稜威の光によって満たされた、れいれいと、らうらうと、光り輝く、湖が映し出されていた。
いや、それは湖と呼んでもいい物なのだろうか? 確かに、論理的には地底湖と呼ぶべき物であろうが。とはいえ、真昼が知っているあらゆる湖には……果てというものがあった。湖とは、ある一定の範囲を陸地によって区切られたところの大きな水溜まりのことを意味する言葉であって。けれども、この湖には……明らかに果てがなかった。少なくとも真昼が見渡せる限り、果ては存在しなかった。
説明を急ぎ過ぎたかもしれない。最初から話していこう。まず、真昼が今まで歩いてきた洞窟も、相当に広い物であったが。その洞窟が、更に広大な空間に接続していた。どれくらい広く大きいのかといえば、今までの洞窟が、ちょっとしたもぐら穴に思えてしまうくらいである。
高さは……その天井は、果たしてどこまで遠いのだろうか。見上げれば、辛うじて、洪石で出来ているということは分かるのだが。とはいえ、それは、湖が放っている真聖なる光によって照らされているからであって。遠く、遠く、その天井は、まるで夜空のように遠くにあった。
そして、高さ以外の距離について。前方に、右方に、左方に、その空間がどこまで広がっているのかということだが。これは、文字通り分からなかった。例えるならば、海辺に立っているようなものだ。どこまでもどこまでも遮ることのない海、その砂浜に立っているような感じ。
真昼が立っているのは、洞窟から出て……まあ、よくよく考えたら、この空間も地下空間である以上、洞窟といえば洞窟なのだが……とにかく、今まで歩いてきた隧道から出て、すぐのところ。この湖にとっての湖岸と呼べる場所なのであるが。その湖岸が、あたかも水平線のようにして、右にも、左にも、無限に続いているのだ。いや、それが実際の永遠なのかということは分からないのだが。それでも、真昼には、その湖岸が終わるところが見えなかった。
ただ、一つ言えるのは。それがどこまで続いていようとも、真昼が通ってきたような隧道はここにしか存在していないように見えるということだ。隧道と、それに、そこから吐き出されているレーグートの集合体。岩壁が湖と接しているところ、そのすぐ近く……一ダブルキュビトほどの近さまで続いている、赤い絨毯。それは、真昼が立っている場所にしかないようだ。
そして。
その。
湖に。
ついて。
とにかく、ここまで「それ」と表現してきたのはその湖のことであった。そして、その湖は、真昼にとっては、あらゆる意味で湖に見えない物であった。もちろん、その理由の一つは、先ほども書いたように、その湖には果てが見えないということであったが。実は、もう一つ理由があった。
先ほども書いた定義によれば、湖とは水溜まりのことであるが。その湖が湛えているのは……真昼には、水であるようには見えなかった。それは、つまり、光だった。
真聖と偽穢と。
恍惚と恐怖と。
それらの感覚に違いというものはあるのだろうか? 大した違いはない、なぜなら、それらの全ては、あまりにも強大な「力」に触れた時に脊髄が感じるところの戦慄に過ぎないからだ。全てが、全てが、「震える」という根源的な感覚であって。その光に対して真昼が感じたのは、そういった戦慄であった。
神。神を感じたのだった。正確には、それは神ではなく龍であったのだが。とはいえ、真昼が感じたのは間違いなく神であった。哀れにも雷に打たれた羊が、自分の肉体の全てが焼け焦げて死んでしまう前に感じるであろう感覚。人間が、未だに、言語化出来ていないところの……肉体そのものが感じる、絶対。
さらさらと。
たらたらと。
その湖に。
満たされている。
光。
んー、まー、そんな勿体振った書き方をする必要なんてなかったんですけどね。そこに満たされている物については、たった一言でいい表すことが出来る。「ソーマ」、要するに、それは「ソーマ」だった。ただし……今まで真昼が見てきた二種類のソーマ、そのどちらとも異なった物だったが。
というか、真昼が知っているのは広義の「ソーマ」であっても狭義の「ソーマ」ではない。「ソーマ」と呼ばれる物には、実は二種類あるのだ。液体の中に魔学的エネルギーを込めた物と、魔学的エネルギー自体が液体化した物。そのどちらもアーガミパータでは「ソーマ」と呼ばれている。
「ソーマ」という単語は、イージー・パンピュリアン・ゲバルではsaumaと書くのであるが。このうちのsauという部分が「押す」という意味を持っている。これが「抽出」というような意味合いになって、魔学的エネルギーを液体として「抽出」した物を「ソーマ」と呼ぶようになったわけだ。
ということで、真昼が今まで見てきたソーマは語の意味においてのソーマであるというわけではない。あ、なんかちょっと馬鹿らしくなってきたので強調の鉤括弧外しますね。とにかく、ただの液体に魔学的エネルギーを注入しただけの物を、なぜソーマと呼んでいるのかといえば。それはアーガミパータという土地がかなり適当な土地であるからだ。両方とも「魔学的」な「液体」だから同じようにソーマと呼んでも問題ないだろうというわけである。言語というものは……かようなまでに恣意的なものであって。そして、人間の思考は、そのほとんどの部分を言語によって構成されている。人間が下等知的生命体に過ぎないというのは必然である。
斯うと。
そのようなわけで。
ありましてですね。
その湖岸に、さぱりさぱりと、静かに打ち寄せてくる光の波。真昼は、ソーマで満たされた湖に向かって立っていたというわけだ。さて……それでは、一体ここはどこなのか? ああ、申し訳ありません。問い掛けるまでもありませんでしたね。そんなことは分かり切ったことです。だって、デニーは、真昼に対してこう言ったのだから、着いたよ、と。いや、実際はもっと元気よく言ったのだが、とにもかくにも、デニーがそのような意味の言葉を発したということは、この場所がどこであるかという問い掛けの回答など一つしかあり得ない。
つまり。
こここそが。
カリ・ユガ。
が。
いるところ。
本来的な話をすれば……一度話したように……洪龍には、家・巣という概念がない。というか、そもそもの話として、この世界のどこかしらに自分が定住するための場所を定める必要があるという感覚は下等生物に特有のものなのである。
家・巣というものは、なぜ必要になってくるのか? それは、その肉体では自然に耐えることが出来ないからである。雨が降れば自分自身が濡れてしまう、それによって凍えないように屋根を必要とする。風が吹けば必要なものが吹っ飛んでしまう、それを防ぐために壁を築くのだ。
つまり、家・巣というものは、あまりにも脆弱であるがゆえにあっという間に破壊されてしまうところの肉体というものを保護するために作る、外側の殻なのである。ということは、高等生物には、そんなものは必要ない。高等生物の肉体は、自然程度の影響力によって破壊されるほど弱々しくはないのだ。正確にいえば、高等知的生命体の中でも、ミヒルル・メルフィスだけは家のようなものを作るのであるが……それは特殊な例外である。それに、ミヒルル・メルフィスは、「自分の肉体」を「自然」から守るためにそれを作るわけではない。もっと別の目的がある。
と、いうことで、洪龍も家・巣を作ることはない。ただ、無論、縄張り意識のようなものはある。洪龍にとっては、この星の自然どころか宇宙空間でさえ脅威とはなり得ないのであるが。とはいえ、洪龍と同じくらい強力な生き物や、あるいはそれ以上の力を持つ生き物や、この星にはいくらでもいるから。そういった生き物達とうまく距離を取って生きていくためには、大体の縄張りのようなものを決めておいて、お互いに侵犯しないようにするのが一番いいのである。デニーが「カリ・ユガのおうち」という言葉を使う時に指示しているのは、要するにこの縄張りのことだ。
それでは、この空間は一体なんなのか? カリ・ユガとの会見が行われる場所であるというのは、いうまでもないことだが。それでは、カリ・ユガにとってはどのような意味を持つ場所なのか? 洪龍の精神構造は人間の精神構造とはそこそこ異なっているため(舞龍の精神構造がもっと強力に進化した感じ)、人間的な表現でそれを示すのは不可能なことなのだが……ただ、それを承知で、かなり捻じ曲げた比喩を使うとすれば。
めちゃくちゃ部屋が散らかってるとしますよね。で、下手にそこら辺を歩いたりすると、なんかすごい尖りまくった物を踏んで足に刺さったり、踏んだら絶対壊れる物を踏んで壊してしまったりする。なので、部屋の中で、自然と歩ける場所が決まってきて。普段は、ベッドの上とか、そういうところに寝っ転がっているしかなくなる。そういう感じです。いや、実際は全然違うのだが、人間的に例えるならばそうなる。
ここは、カリ・ユガに、とって。
ベッドの上のような場所なのだ。
それで。
だから。
この湖の中に。
カリ・ユガがいる。
それくらいのことは、というのはカリ・ユガがいるということだが、さすがの真昼だって何も言われなくても分かった。それに、どうやら……マラーも分かったらしい。この湖の中に、何か、とても「力」ある生き物がいるということが。聖なる、聖なる、神にも等しいほどに聖なる生き物がいるということが。とはいっても、マラーは、その理解によって、緊張したり恐怖したりしているわけではなかった。それどころか、その反対に。なんだか夢見心地な、ぼんやりとした、多幸感に襲われているようだった。ふわふわとした表情で、目の前にある湖を眺めていて。その眼には、曖昧な信仰の萌芽のようなものが、未完成の星座のように煌めいている。マラーも、いかに幼いとはいえ、アーガミパータの生き物なのであって。崇高な何かに謁することが出来る幸福というものを、その脊髄に刻み込まれているのだろう。
ただ、真昼は、そういったマラーの変化に気が付くことは出来なかったが。繋いでいた手、握っていた手のひら。マラーの指先から、なんとなく力が抜けて、ふわりとした花びらが腐っていくように……それでも、真昼は、気が付くことが出来なかった。なぜなら、完全に圧倒されていたからだ。いや、その感覚は圧倒という言葉では表現し切れない。それは服従であった。跪き、首を垂れ、ただただ許しを請う。そのような感覚だ。なんの許しを請うというのか? なんでもいい、許されるなら。それほどの、絶対的な服従の感覚が、まるで無数の矢で貫かれるかのようにして、真昼を襲ったのだ。真昼は動けなかった。真昼は、肉体も精神も動かすことが出来なかった。そこにあるのはただの空白だった。まだ……まだ、カリ・ユガは、姿を見せてさえいないというのに。
ああ。
真昼は。
知っている。
この感覚を。
それは。
昨日の夜に。
ほんの。
ほんの。
一瞬だけ。
目を合わせた。
あの瞬間に。
感じた。
ことの。
全て。
沈黙が……そこにはあった。それは静寂ではない、沈黙だった。そこにあるものは、あらゆるものが息を殺しているのだ。真昼とマラーとはもちろんであるが、岩壁さえも空気さえも、音を立てるということを恐怖しているかのようだ。世界は、ただただ、虚無であるということを望んでいる。
繰り返すが、それは静寂ではないのだ。静寂を求めるならば墓場にでも行けばいい。静寂とは、死に絶えた、音のない空間のことだ。一方で、この空間においては……恐らく死者さえも怯えるだろう。それから、自らの心臓が、再び鼓動を打ち始めないように。それだけを願うことになるだろう。
ただ、それほどまでに侵されざるべき「いと高きところ」であったとしても。その場所の支配者と同じほど力強い生き物にとってはどうなのか? 当然のことであるが、別にどうってことはない。知り合いの家に遊びに来たというのと同じ程度の感慨しか抱かないだろう。まあ、さほど親しくない知り合いではあるかもしれないが……下等生物のように遠慮する必要はないのだ。
そう。
デニーは。
遠慮する。
必要などない。
真昼は、死んだふりをしているかのように動けなくなってしまって。マラーは、じわじわと存在を溶かす酸の海を揺蕩っているかのようにうっとりとしてしまって。二人とも、その場に立ち止まってしまった。けれども、デニーは、二人と同じように立ち止まったりはしなかった。
隧道の出口から、羽搏くことを覚えたばかりの可愛らしい蝶々の赤ん坊みたいに。ひらりひらりとひらめく足取り、浮かれた感じの軽やかなスキップで、レーグートで出来た赤い絨毯を踏んでいく。少しだけ右側に向かってよろめいたふりをしたり。少しだけ左側に向かってよろけたふりをしたり。そんな風にして巫山戯た歩き方は、まるで舞台の上で踊る童形の道化。
その地点から、あの地点まで。つまり、湖のほとりまでは、さしたる空間があるわけではない。せいぜいが十ダブルキュビトくらいの長さだ。その空間を、いかにも厄介な子供の足取りで、いかにも悪戯っぽい足取りで、咀嚼し終わると。デニーは、絨毯が途切れる少し手前のところに立っていた。湖の淵から一ダブルキュビトと少しといった程度の距離ということ。
ああ。
そんなところに。
立っていたら。
あんたが、龍に。
食われてしまう。
しかし、デニーは、そんなことを、気にしない。あまりにも強力な「力」を持つ者には、もしかして生存本能というものが欠けているのだろうか? ありうる話だ、だって、デニーは、きっと、そんなものがなくても生きていける。
デニーは笑っていた。全く能天気に、くすくすと笑っていた。なんで、あいつは、笑っているのだろうか。まるでおなかをくすぐられた子猫のように笑っているデニー。美しい鈴を鳴らしているように、細い喉の奥がこすれている。
久しぶりに「お友達」に会うのだ。それは楽しい気持ちにもなるだろう。まあ、向こうがデニーのことをそう思っているかどうかは別の話であるが。洪龍には友達などという観念はないだろうし、それに、それ以前の問題として……この世界に、デニーのことを友達だと思っている生き物が、果たして一匹でもいるのかどうか。それでも、少なくとも、デニーは「お友達」だと思っているし。それに、向こうもこちらのことを「お友達」だと思っていると思っている。フレンドリー・アンド・ピースフル、この世界に必要なものはそれだけだ。
ところで、それでは。その「お友達」はどこにいるのだろうか? 見渡した限りでは、この空間のどこにも見当たらない。とはいえ、この空間にいるのは確かだ。要するに、「お友達」は、この湖の中にいるということ。この湖の奥底に――この湖に底などというものがあればの話だが――深く、深く、沈んでいるということ。せっかくデニーちゃんが来たっていうのに、なんで、湖の中から姿を現さないんだろう? ああ、そうだ! きっとデニーちゃんが来たっていうこと、気が付いてないんだね!
じゃあ。
教えてあげなきゃ。
強くて賢いデニーちゃんが。
ここにいるっていうことを。
デニーは、その場に、とんっとトウを立てた。ローファーに包み込まれた右足の、可愛らしい爪先だけを絨毯につけて。それから、左足で蹴って、しゅぱーっと回転した。左足は、蹴り終わった後で、なんだか滑稽なくらいにぴんと伸ばして。スーツの上着、あえやかなほどに、裾がぱあっと花開いて。そうして、一度、自分の体をピルエットさせたということだ。
デニーは、その回転が終わった直後に、両方の足を地面につけた直後に、ぱんぱかぱーんという感じで両腕を広げた。湖の方に、元気よく両手を差し出して。その後で、すうーっと息を吸い込んだ。デニーも呼吸なんてするんだ、なんていうこと。こんな時だけど、真昼は思ってしまう。それから、デニーは、しばばばーんっという感じ。とーっても大きな声で。
「カリ・ユガーっ!」
湖の方に。
向かって。
こう、叫ぶ。
「デニーちゃんが来たよーっ!」
主の栄光アラリリハ。
主の導管カトゥルン。
主の王国フェト・アザレマカシア。
さて。
支配の中心には何があるか?
ダニエル雨天洗礼派によれば、主の王国であるフェト・アザレマカシアが意味しているのは次のようなことだ。すなわち、主による支配のもとでは被支配者によるいかなる抵抗もなされることはない。とはいえ、それは絶対的な至福のもとに、あらゆる強制の介在なくして行われる。被支配者は、あらゆる行動を主の意志に従ってなしていながらも、それでいて自分自身の意思によってそれを行っていると考えるのだ。
人間のような下等知的生命体によってなされるのではない支配。高等知的生命体によってなされる支配は、必ず、その中心に、完全な真空が存在している。そこには何もない、ただ無為だけがある。あまりにもまばゆく光り輝くがゆえに、被支配者の誰一人としてそれに目を向けることが出来ない無為だけが。
それは目的ではない。それは正義ではない。それは、実のところ愛でも信仰でもない。そのようなものは、この世界の全てを支配するところの原理には全然相応しくないのだ。それは決定されているが不可知である。それはあらゆる正しさを否定する。それは涙に似ている。それは、呼吸よりも涙に似ている。それは君臨する、地獄を作ったのもそれであれば天堂を作ったのもそれである。天使達はこぞって叫ぶだろう、それの栄光を、主の栄光アラリリハを。そう、それは光だ。ただし、あまりにも強いがゆえに何者にも見ることの適わぬ光。果たして、それは光であるのだろうか? それが光であるということを、誰も知らないというのに。
アラリリハ。
アラリリハ。
誰も叫ばぬ喝采と。
誰も歌わぬ讃歌と。
完全な沈黙の中で行われた選択。
あらゆる可能な選択肢の中から。
選ばれたところの至聖の選択肢。
つまり。
それが。
支配の中心にあるもの。
デニーが叫んだ後に……ほんの一瞬だけ、完全な虚無が訪れた。それは、もちろん静寂ではなかった。かといって、その一瞬は沈黙でさえなかった。なぜなら沈黙は既に破られてしまっていたからだ。デニーによって、あらゆる恐怖は実現してしまっていた。つまり、それは、起こるということだ。けれども、そこには、あらゆる意味での無音があって……それが起こることは確定しているが、それが起こる前の瞬間。つまり、虚無であった。そして、その瞬間の虚無が、まるで虚無であったかのようにして、現れた刹那に消えていくと。一体何が起こるのか? 当然、それが起こる。
したり、と。光が盪揺した。したり、したり、と。光が盪揺した。湖面が、ほんの僅かに、無秩序な波を起こして。それは、湖の外側から受けた影響によって揺らめいたというわけではなかった。そうではなく、湖の内側にいる何かが蠢いたということ。
何事もそうであるように、最初は、本当に小さな動きに過ぎなかった。一筋の波が、たわやかく揺れて、湖岸に到達する。デニーの足元に到達する。かどけく、かどけく、ただし……一つの巨大な災害のheraldであるかのようにominousであったが。
まるで、淡い淡い初恋のように些細なものでしかなかった波が。けれども、やがて、大きな大きなうねりへと変わっていく。最初は、だんだんとした変化に過ぎなかったけれど。それが、加速度的な膨張になっていって。幾つも幾つも生まれたさざ波が、互いに互いのことを喰らい合って。それは竜波になる。
があらがあらと混ぜ合わせるみたいに、その湖、デニーが立っている場所の近く。凄まじい勢いで渦を巻いていく。それは、まるで……そう、例えば水族館のイルカショーのように、とんでもない波が、湖岸に立っているデニーを襲うのだ。ただデニーは全然気にしていなかった。というか、その波はデニーのことを襲いはしたのだが。デニーのことを、少しも濡らすことも、あるいは光によって燃やすことも出来なかった。どうやらデニーの周りには目には見えない障壁が張り巡らされているらしい。小さな球体に囲まれているがごとく、デニーの周りのその部分だけが波によって侵害出来ないようになっているからだ。
そのうち、湖面に刻まれたぐちゃぐちゃな乱雑さでしかなかった波紋が、ある一定の規則性を導き出し始める。湖岸を薙ぎ払うように、どうどうと、ごうごうと、暴れ狂っていた竜波が。幾つかの中心を秩序の起点として、なんらかの論理的整合性を生み出し始めたということ。
幾つかの……それらを数えてみよう。一つ、二つ、三つ、四つ。数えるまでもないことであったが、その数は四であった。四、という数字。カリ・ユガ龍王領において、真昼の目の前に何度も何度も立ち現われてきた数字。カリ・ユガ龍王領において、最も崇敬されている数字。
数は記号であり、記号は象徴だ。あらゆる象徴はそれ自体が意味を持つわけではない。厳密にいえば、そのような場合もないわけではないが、とはいえ、そうなった瞬間に、その象徴は象徴であることをやめてしまっている。四、それは象徴だ。四つあるということ、それ自体が力を持っているというわけではなく……その象徴が、象徴しているところの意味が力を持っている。
そして、今、この時に。デニーの爪先から少し先のところ、湖岸のすぐ近くの湖面に、四という数字が表れている。四つの波紋、四つの中心点。これらが、これらこそが……意味である。カリ・ユガ龍王領における、全ての四が象徴しているところの意味。「力」を持つ数字の、その「力」の究極のorigin。
そこら中に光を撒き散らしていた波浪の暴走は、既に、御者に慣らされた従順な賢馬のようになっていた。四つの中心点に対して媚態を示しているかのように、ぐるぐると、ぐるぐると、その近くを回転し続けている。人を飲み込んでしまいそうなほどの巨大な波が、畏れ、怯え、傅いているのだ。その四という数字に。四つの渦……人間どころか、マハーミクシャさえも光の中に引き摺り込んで、粉々に砕いてしまえそうな渦巻き。その渦巻きが……あるタイミングで……不意に、消えた。湖面は、一つのさざ波さえも見当たらない完全な凪の状態となって。
テスタポラ。
ジャランヴァ。
ジャランヴァ。
ナハーンダ。
シュタキリヤ。
ああ。
歓喜せよ。
その栄光は。
この世界が始まる前からあり。
この世界が終わった後にある。
至高のvainglory。
つまり。
その刹那に。
カリ・ユガが。
姿を。
現す。
意外なことに、その現象は、ひどく冷静であった。例えば、凄まじい水音を立てながら、そこら中に光を散乱させながら、姿を現しただとか。そういったことではなかった。そういうことをしなければいけないのは、あまりにも弱過ぎるがゆえに、自らの力強さを、その者が有している以上に誇示して見せなければいけない場合に行われることであって。カリ・ユガにはそのようなことをする必要はないのだ。なぜなら、カリ・ユガは、デニーと同じ絶対的強者……「王」だからである。
静かに、静かに、光で出来た湖に、暗黒の炎が浮かび上がってきた。まるで砂時計の砂、銀を砕いて作った砂が、上のガラスから下のガラスへと流れ落ちていく時の音。そんな、どこまでも酷薄で、どこまでも残酷な、さらさらという音が聞こえている。
四つある渦の、一つ一つ。その中心点から現れたものだった。それらの炎は、燃えていて、燃え盛っていて。あまりにも純粋な「力」の顕現であるがゆえに……それらの炎に触れた光さえも蒸発してしまうくらいだった。音も立てずに、一瞬で消える光。
ゆっくりと、ゆっくりと。それらの四つの炎は湖の中から姿を現わしてくる。すると、やがて……炎ではないということが分かってくる。それは炎と呼べるようなものではない。炎などというものは、所詮は熱力学において発熱と呼ばれている過程で生ずる、物質の急激な酸化現象に過ぎない。それは確かにエネルギーを発生させるが、とはいえ、あくまでも人間という下等生物にとって危険なレベルでのエネルギーに過ぎない。
それらの……それらは……何と呼ぶべきものか? 一番近い表現を使うならば、歪みであろう。しかも、空間だの時間だの、そんな単純なものの歪みではない。何か、もっと根源的な。ああ、そう、概念が歪んでいるのだ。信じられないほどに、取り返しがつかないほどに、引き裂かれて捻じ曲げられている概念。ほとんど絶叫に近い悲鳴として歪んでいる。それらの歪みの根源となる何かが発している、あまりにも無限であり、あまりにも永遠である、「力」によって。魔力、いや、神の力である神力によって。
それでは、根源とはなんであるか? 何が、概念を、まるで焼き尽くしの炎のように歪ませているのか? それは、つまるところ……鱗であった。それが纏っている一枚一枚の鱗が、概念を歪ませているのだ。一枚一枚の鱗が、炎であった。炎のような「力」、炎などとは比べ物にならないほど強力な、神の力で出来ているのであった。
しかし、それは、今まで見てきたセミフォルテアとは少し異なっているようだった。今までのセミフォルテアは、確かに強力ではあったが……それでも、それは、光であった。あるいは光に似ているものであった。他方で、これらのセミフォルテアは、光ではなかった。光さえ焼き尽くす暗黒。どこまでもどこまでも墜落していく虚無。
黒。
黒。
偉大なる黒。
あるいは。
バーンジャヴァ語でいうならば。
マハーカーラ。
それこそが、龍王の、龍王の首であった。湖から現れたもの、概念さえも歪ませる「力」を鱗として纏ったもの。ただそれが存在しているというだけで、光さえも蒸発させてしまうもの。カリ・ユガ、このカリ・ユガ龍王領を支配する者の、四つの首。
さはり、さはり、音にもならない音として、世界を振動させながら。カリ・ユガの四つの首が擡げられていく。それは……基本的には、このカリ・ユガ龍王領のあらゆる場所で見られた偶像のような姿をしていた。領旗やダルマ・スタンバ、あるいは、この岩山の周囲に設置された四つの彫像のような物。
つまり、コルブラ・エラピデアと呼ばれる種類の蛇によく似た姿だということだ。頭部のすぐ下の部分に、肋骨と皮膚とで出来ているところのフード、まるで一対の悪夢にも似たフードが形成されている。それ以外は、普通の種類の蛇とさして変わることのない、そんな蛇の姿。
西洋で龍と呼ばれる時の翼を持つ怪物の姿ではなかった。あるいは、東洋で龍と呼ばれる時の角の生えた怪物の姿でもなかった。これがアーガミパータにおける龍の姿なのだ。全身は湖の中に隠れていて、首から上しか見えていないが。全身が見えていたとしても、そこには前脚も後脚もない。ただ、とはいえ……蛇とは異なったところもある。
まず、ここまで何度も何度も書いてきたことであるが、カリ・ユガは四本の首を持っているということだ。アーガミパータにおける龍は、それぞれの龍ごとに首の数が異なっている。例えば、カリ・ユガはアナンタという龍が生み出した四柱の龍のうちの一柱なのであるが。その霊族においては、カリ・ユガの首の数が四本、ドゥヴァーパラ・ユガの首の数が八本、トレータ・ユガの首の数が十二本、クリタ・ユガの首の数が十六本となっている。こういう首の数については、その龍の強力さに比例しているという説もないわけではないのだが、実際どのような理由で増えたり減ったりするのかということは、未だによく分かっていない。人間には計り知れないなんらかの理由があるのか、それかもしくはなんの理由もなかったりするのだろう。
更に、もう一つ……というか、それ以外にも幾らでも違いを挙げることが出来るだろう。例えば大きさだ、蛇の大きさは、舞龍のような最大級の蛇であっても、せいぜいが人間の数倍程度であるが。マハーカーラの大きさはそもそも一定のものではない。ここら辺は神々と同じなのであるが、その時その時によって、最適の大きさになるようになっているのだ。例えば、今のカリ・ユガを見てみよう。首から上しか出ていないので、全体的な大きさは分からないが。少なくとも、湖面に出ている部分だけで……いや、それでも五十ダブルキュビトはあるな。これ、本当に最適なサイズなの? 明らかに大き過ぎない? デニーちゃんの大きさが二ダブルキュビトに全然届かないくらいなのに、これほど大きい必要があるのだろうか? ちなみに、その中で、頭部の大きさは十ダブルキュビト程度であり、フードの長さが二十ダブルキュビトから三十ダブルキュビト程度である。
色は、その全体が完全な黒であった。あの、概念さえ歪める黒だ。他の色は、一色も混じっておらず……いや、違う。ただ二つの箇所だけが、その黒であることから免れていた。それは、無論、その二つの眼球だ。カリ・ユガの眼球は、それら自体がそれぞれ一つの世界の創生であるようだった。球体の内部で、今、まさに、世界が生まれようとしているかのごとき色をしているのだ。いや、それは色と呼ぶことは出来ない。光でもないし闇でもない。そのように分類される前の、「力」の、最も原初的な姿。あたかも、それは……そう、目覚め。カリ・ユガは、この世界の目覚めの瞬間を切り取ったかのごとき、そんな目をしていた。
それから、それから……しかし、カリ・ユガのことを見ていると。なんだか、ひどくぼんやりとした気持ちになってくる。どう表現すればいいのか、例えば単細胞生物が死ぬ瞬間を見たことがあるだろうか? 細胞膜が破裂して、中に包み込まれていたどろどろとした組織が漏出する。つまるところ、その感覚は、あれに似ていた。自分の輪郭が壊れていくような、そうして、自分にとって大切な何かが少しずつ少しずつ漏れていってしまうような。そのせいで、カリ・ユガがどういう生き物なのかということが、よく分からなくなってしまうのだ。先ほど書いてきたカリ・ユガについての説明さえ、それで正しいのか分からなくなる。
あまりにも激しい「力」が放出されているために、見ることさえも有害であるらしい。放射能が目に見えないレベルで細胞を破壊するように、カリ・ユガが発するそれは、脆弱な観念に悪影響を及ぼすのだ。そのため、カリ・ユガについて、正確な描写をすることは出来ない。ただ、燃え盛る暗黒の中で、二つの世界が生まれている。そうであるような姿が、一つ、二つ、三つ、四つ、その数だけ、いと高く聳え立っている。それを、ぼんやりと、感覚の全てに焼き印されるだけだ。
あるいは。
それは。
絶対の。
「力」。
何者にもよらずそこにあり。
何者もそれを侵すことが出来ず。
何者もそれを壊すことが出来ず。
ただ。
その者がその者であるという理由で。
その者として、そこにある。
そう。
つまり。
それは。
必然。
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