第二部プルガトリオ #52

 まあ、確かに、驚異的であった。アーガミパータに来てから、それはそれは色々なものを見てきた真昼であったが。それでも、この光景には、それなりの驚きというか、ちょっと異様なくらいの違和感を感じたくらいだ。

 下から見た時に推測した通り、その山頂は、とんでもない広さがあった。とんでもない広さがある、洪石の岩で出来た平地だ。ただし、その大半の部分が穴であった。

 まるでどこかの山の火口みたいだった。中心部分から縁のぎりぎりのところまでが穴になっていて、穴ではない部分、つまり、山頂に来た誰かしらが歩いたりなんだり出来るような部分はほとんど存在していなかった。ドーナツ状になっているその部分……縁から穴までの距離にして、数十ダブルキュビトほどしかないくらいだった。

 そして、その穴が、金属製の扉で蓋がれていたのだ。なんだか自分で書いていて馬鹿みたいだが、それが本当のことなので仕方がない。その穴は塞がれていた。金属で出来た蓋によって、どんな隙間もないほどに、完全に塞がれていた。

 穴の周囲は、どんな方法を使ったのか知らないが、その蓋がすっぽりと嵌まるように削られていた。なめらかな曲線になるように研磨されていたということだ。そして、その蓋が嵌め込まれていて。その上で、金具によって留められていた。

 金具といっても馬鹿でかい金具である。しかも一つではない。幾つも幾つも……人間が作った物だとは思ないような、小さい倉庫ほどの大きさがある金具。とはいっても、最低の大きさの物でもそのくらいの大きさがあるというだけで、サイズにせよシェイプにせよ実に様々な種類があったが。とにもかくにも、そんな金具によって、その蓋は、岩山に、しっかりと締結されていた。金具の片方は岩山に突き刺さっていて、もう片方は蓋に突き刺さっているという感じだ。

 どうも赤イヴェール合金で作られているようなのだが、かなり純度の高い物を使っているらしかった。これほどの物は、ナシマホウ界どころかマホウ界でもなかなかお目にかかれないだろう。実体化した悪夢そのもののような赤色が、腐敗した世界の内臓のようにして煌めく。そして、そんな赤イヴェール合金の一面に、びっしりと、完全に気が狂った偏執狂が刻んだかのようにして、魔学式が刻まれていた。恐らくは、その封印を可能な限り強く固い封印とするために。

 それから蓋自体であるが、どうもバルザイウムで出来ているようだ。月の光を水底に沈めた湖面のような、あの青銅の色である。バルザイウムは、ここまでの物語でも何度か出てきたのであったが……人間にとっての既知の金属の中では最も魔学的な耐性が強い物質である。その金属はセミフォルテアさえ遮るほどの強さがあるのだ。例えば対神兵器を構成する部品であるとか、例えば神学的法則を法適用する際の祭具であるとか、そういった用途にしか使われない。

 そんなものを、これだけの量、使ってしまうなんて。とても正気とは思えない。というか、この光景の全体が……一種の底知れぬ不気味さのようなものを孕んでいた。その蓋は、その金具は、中にいる者を守るために作られた物ではない。そうではなく、明らかに、中にいる者が外に出てこないように作られた物だ。

 蓋の形は整っていない。手に入れられるだけのバルザイウムを全て使ったのだろう、ところどころがコーヒーに入れ過ぎたクリームのように盛り上がっている。それに、金具も、あまりにも乱雑に叩きつけられていた。なりふり構うことなく、完全に冷静さを欠いたやり方で、そこら中を留めまくったという感じだ。

 これを作った誰かの精神の乱れ、ぐちゃぐちゃとした思考の追い詰められた感覚が、こちら側に伝わってくるみたいだった。一言でいうならば、それは恐怖だった。しかも、並大抵ではない恐怖、尋常ではない恐怖。絶叫だった、喉が破れるほどの絶叫だった。この中にいる何かはあまりにも危険であるという絶叫。

 とはいえ、それは、所詮は無意味な絶叫であったが。この中にいる者は、この程度の扉で閉ざすことが出来る者ではないのである。もちろん、この扉は、カリ・ユガのために作られた物だ。いくらカリ・ユガが、このカリ・ユガ龍王領の支配者であったとしても。その生き物は人間などが知りうる可能性さえない思考の持ち主なのだ。一体、いつ、何をするか分かったものではないのである。それゆえに、カリ・ユガという、人間にとって致命的な危険性を。少しでも危険ではなくそうとする無駄な努力の一環として、このような扉が作られたのだろう。

 しかしながら、昨日の夜に、真昼が見た通り……この程度の扉、カリ・ユガにとってはなんでもないのである。このような物でカリ・ユガを閉ざすことなど出来ない。カリ・ユガは、望む時に外に出ることが出来るし、望む時に中に入ることが出来る。障害物にさえならない。

 まあ、ただ。

 とは、いえ。

 なんの意味もない絶叫であったとしても。

 叫べば、少し楽になることもあるだろう。

 と、山頂はそのような光景であったのだが。一つ困ったことがあった。このような蓋、カリ・ユガにとっては障子に貼られた新聞紙ほどの役にも立たないとしても。人間にとっては抜群の効果を発揮するということである。

 鼠一匹どころか蟻一匹どころか、マイクロバースの子猫ちゃんが通ることが出来るような隙間さえないのではないかと感じさせるほどの、完全なディフェンス。どう見ても、この穴が、デニーの言っていたところのカリ・ユガがいる場所へと続いている穴なのだけれども。このままでは中に入ることなんて不可能だ。

 正確にいえば、強くて賢いデニーちゃんにとっても、やはりこの程度の防壁は防壁と呼ぶに値しない程度の物に過ぎないのであったが。そうはいっても、他人の家のドアをいきなり蹴破って入るわけにはいかない。相手はカリ・ユガなのである。ナシマホウ界においてデニーに匹敵する強さを有している数少ない生き物。以前も書いたことであるが、下手に礼儀を欠いた行動をとってしまえば、コーシャー・カフェとカリ・ユガ龍王領との間に全面戦争を起こしてしまいかねないのだ。そして、更に、そんなことが起これば、第三次神人間大戦のきっかけにもなりかねないだろう。まあ、これを壊したくらいで激怒するところのカリ・ユガではないが――これは人間達が勝手に作った物だ――とはいえ、念には念を入れておいた方がいい。

 それでは、一体、いかにしてこの蓋を開ければいいというのか? 簡単なことである、そう、そのためにこそマハーミクシャは連れてこられたのだ。真昼が、呆然とした表情でその蓋を眺めていると。先を進んでいたレーグート達のそれぞれが、ふっと姿を消した。その鎖の先のマハーミクシャ達も。

 そして、次の瞬間には。四人のレーグート達と、その精神によって係留された四匹のマハーミクシャ達は。それぞれがそこにいるべき場所にいた。大穴としか呼べない穴の四方。真昼がいる場所を一つの頂点としてこの穴の周囲に五芒星を描いた場合、真昼の頂点以外の頂点に立っていたのである。

 どのように移動したのかということは分からない。恐らくは魔学的な短距離テレポートを使ったのだろう。とにかく、それらの生き物は、その場所に移動していた。そして、真昼は……それを見て、何かが始まる気がした。何か、重要な、出来事が。とはいえ、デニーはさして面白くもなさそうな顔、退屈そうとさえいえそうな顔をしてそれを見ていたが。真昼にとって非日常のことであっても、デニーにとってはちょっとした日常に過ぎない。

 何が起こるのか、何が起こったのか? まずは……レーグートが、唐突に崩れ始めた。もしもこれが人間の体であったならば、内側に巣喰っていた病巣、肉さえも骨さえも蝕んでいく腐敗の結果として、どろどろと溶け始めたかとでも思ってしまうような有様であった。顔が、腕が、胴体が、そうであったはずの固形を失って。赤い流動体のようなものになってしまったのだ。

 とはいえ、それは流動体ではない。レーグートがそもそもそうであった形に戻っただけである。レーグートは……以前にも説明した通り、地衣類から進化した生命体なのであって。確固とした肉体を一続きの中枢神経系で統御している存在だというわけではない。無数の菌糸が、互いに織り成しあって、そういう存在であるという風に見せているだけの話なのだ。

 なぜそのような姿をとっているのかといえば、そちらの方が生存に適していたからである。地衣類そのものの姿では、まあ、なんというか、苔というか苔というか、要するに苔なのであって。レーグートのパトロンとなるべき生き物連中からすればとても共感出来る何かしらではない。特に理由なく駆除しても全く問題ないものとして扱われかねないのである。

 ちなみにレーグートが初めてそのパトロンとしたのはヴェケボサンであって、それゆえに、レーグートは、現在のような基本形になった。ヴェケボサンと同じような、人間から見れば大き過ぎる肉体。それに、高度な把持性を持つ手。それはともかくとして、そのようにパトロンとなったヴェケボサンからより共感を得やすい形態、もっとはっきりといってしまえば動物として同類であると勘違いされやすい形態として、そのような姿になったのだというわけである。

 そんなわけで、これこそレーグートの形であると真昼が思っているところの形は、レーグートにとっては仮初のものに過ぎない。いつでもそれを解除して、今のような形、解きほぐされた菌糸の集合体に戻ることが出来るのだ。

 と、そのようになって……ぐじゃぐじゃの赤い塊となって、パーソナル・トランスポーターから滑り落ちたレーグートは。そのまま、マハーミクシャに向かってずるすると這っていく。よく見ると、その赤い塊は朧げな光を放っていて、体内に蓄積しておいた魔学的エネルギーを使って移動しているのだということが分かる。

 四人のレーグート達は(だがそれは既に人と呼べるような形ではなくなってしまったのではあるまいか)、やがて、四匹のマハーミクシャ達の足元にまで辿り着いて。そして、その蜘蛛の脚に絡み付いた。ぐうぐうと泡立つみたいにして、赤い塊はそれを登っていく。蜘蛛の脚、馬の胴、蜂の腹、蛇の胸。それから、猫の腕、鬼の羽、蛙の首、それに蛞蝓の尾までを犯していく。

 マハーミクシャの全身が、レーグートによって浸食されていっているのだ。赤い苔は、マハーミクシャの肉体のそこら中に、まるで疫病の爪痕のようにして広がっていって。そこここに根を張り、赤い斑紋を描き出していく。

 つまり、マハーミクシャに寄生しているのだ。その神経系、中枢を持たない神経系まで浸透していって。それを完全に支配下に置く。今までは、ただ岩山を登らせていくだけだった。それくらいならこれほどまでに完全な結合は必要ない。けれども、今からなすべきことは……そんなに容易いことではない。

 最後に、レーグートが、デウス・ダイモニカスの角まで到達する。角の一本一本に巻き付いて……そして、四本あるそれらの角の先端に向かって何かが浮遊してくる。それはレーグートの顔に嵌め込まれていたもの、あの眼球だ。無論、これは人間的な意味における眼球などではないのだが。とにかく、その球体が、四本の角が指し示している先、数ハーフディギト先のところに、一つの焦点みたいにして浮かび上がったということである。

 これで。

 完成だ。

 不治の病に襲われたみたいに、全身を赤いあばたによって覆われて。ちなみに、あばたというのは「瘡蓋」を意味するバーンジャヴァ語であるアルブタに由来するそうだ、そのような姿になったマハーミクシャは……空に向かって四本の腕を掲げて、天を仰いで。そして、まるで大地を引き裂こうとしているかのような、凄まじい咆哮を上げ始めた。

 両生類の皮膚によって包み込まれた口が、ぐわあっと、限界まで開いて。その奥底から、真昼が今まで聞いたことのない生き物の絶叫が吐き出される。それは、マハーミクシャを構成しているどの生き物の鳴き声とも異なっていた。それは、敢えて例えるなら……法螺貝の音だ。法螺貝によって作られた金管楽器を、象か何かのように巨大な生き物が吹いた時に出る音。その音を、獅子の残酷さによって歪めたような音である。

 ただ、それほど獣じみた音でありながら……その音には何か一定の規則性があるようだった。もちろん、その規則についてはっきりと理解出来るところの真昼ではなかったのだが。それでも、その規則というものが、何かしらの魔学的な規則であるということくらいは分かった。つまり、この咆哮はただの咆哮ではなく、ある種の呪文であるということだ。もちろん、人間的な文脈における呪文とは性質が違うものであったが。

 人間が使う呪文とは、要するに観念を結晶させるための記号のことである。一方で、この咆哮は、どちらかといえば観念を増幅させるという効果を持つものであった。人間だって、別にはしゃいでいない時にはしゃいだふりをすると、なんだかはしゃいできてしまう時がありますよね。あの感じに近い。とはいえ……それを、かなり精密に行っているのではあるが。咆哮がある一定の規則によって律せられているのは、観念の形状に決して瑕疵が混じらないようにするためである。完全な情報による完全な律法。

 記号として結晶化されざる観念が、根源情報式と混ざり合った溶液のままで、一つの領域として展開し始める。これは……レーグートが他の生命体に寄生した際にしか使われることがない、非常に特異な法理論であって。一般的には「二元論的な法適用」と呼ばれているものだ。

 普通の魔法は、一つの魂魄によって存在に結合されたところの概念、ニルグランタにおいてニッケーヴァと呼ばれている「個別化された真理」によって構成される。人間にも分かりやすい比喩的な表現を使うならば、個人的な意識によって形成された観念を基体として発動するということだ。これはもちろん比喩的な表現に過ぎないのであって、実際はもう少し広い意味での露呈が行われるのだが……この物語は別に魔学の専門書ではないので、この程度の例えで十分だろう。

 その一方で「二元論的な法適用」はニッケーヴァだけを使用するわけではない。ニッケーヴァという視点を仮定的な条件のもとで根源情報式の一項として埋め込んでしまうのである。なぜこのようなことをするのかといえば、そもそもレーグートにはニッケーヴァが存在しないからだ。

 いや、正確にいえば、レーグートも三体結合型の生命体である以上、ニッケーヴァを有しているのではあるが……以前にも触れたことだが、レーグートの全ての行動は、関係可能な世界に対する反射に過ぎない。そのため、その内部では、ある意味では概念の衡平が行われているのだ。

 そのため、レーグートのニッケーヴァはシャータを作り得ない。シャータというのはニルグランタで使われている用語であって、限定詞とかそんな感じの意味であるが。とにかく、観念を限定された結晶にすることが出来ないのだ。それは根源情報式から情報を引き出すための導管のような役割しか果たさない。そのようなわけで、レーグートが魔法を使う時には、その観念をそのまま根源情報式から引き出してくる。

 一方で、レーグートが他の生命体に寄生する時には。同時に、その被寄生者のニッケーヴァと融合することとなる。そのため、そのニッケーヴァによってシャータを作ることが可能になるのである。ただし……シャータを作るということは、同時に、そこで使われる「力」を限定してしまうということにも繋がる。それは確かに確固としたものになりうるのであるが、代償として一定の慣習法に拘束されることになる。

 その二つを止揚する方法が、この「二元論的な法適用」なのだ。つまり、被寄生者のニッケーヴァを使用することによって、魔法それ自体には確固とした領域を定義するが。その一方、「力」については、限定されない観念の流出として不文化・変数化するのである。こうすることによって、被寄生者が持つ魔力によって引き出しうる限りの情報を、流動的な観念として魔法化することが可能になるのだ。

 ただし、今回の魔法は、その「二元論的な法適用」を、更に応用的に解釈したものである。なぜなら、マハーミクシャには中枢神経がなく……そのニッケーヴァも、やはり、非常に反射的なものに過ぎないからである。今回の魔法は、レーグートが導管であり、マハーミクシャが魔力であり、ニッケーヴァは……また、誰か別の者である必要があるということだ。

 一つと。

 一つと。

 一つと。

 一つと。

 四つある、頂点。

 しかしながら。

 これは五芒星。

 頂点は、五つあるはずである。

 そして、その五つ目の頂点に。

 立っているのは。

 つまり。

 それは。

 真昼。

 そのようにして、魔法が構成された。一つの光源から発せられた光が、四つの明るい鏡に反射して。それらの四つの光が、一点に集中するようにして。それでは、光が集中する一点とは果たしてどこであろうか? もちろん、この蓋である。

 ここで問題が一つある。真昼は、この蓋が開くということを望んでいるのかということだ。だが、それは些細な問題に過ぎないだろう。真昼がそれを望むということが必然であるならば、真昼がそれを望もうと望まないと同じことだからだ。

 激流と怒涛とを織り成して一つの経緯を表わしていくかのように。奔放に舞踏する無定形の観念が、一つの効果を発揮するための律法として焦点する。一点に……蓋に……扉に……それを閉ざしている物に。

 錆びついて朽ちかけていながらも、なおその形を保ったままで、絶対的な拒否の感覚によって蓋を繋ぎ留め続けている、赤イヴェール合金の金具、金具、金具。まずはそれらの金具が外され始めた。あたかも……神々の遊びもの、人間の知性では決して解くことの適わないパズルを解いているかのように。非常に複雑なその締結が、一つ一つ外されていく。封印の魔法が、徐々に徐々にその力を失っていって。そして、やがて、それらの金具はふわりと宙に浮かんだ。頑ななまでに押し拉いでいた蓋からそっと離れて……あたかも、花の蜜を吸い終えた蝶々が舞い上がるかのようにして。

 これで扉を締結していたものは失われた。後は、それを開くだけである。とはいえ……この扉自体にも、やはり鍵がかけられているのだ。金具を形作っていた赤イヴェール合金と同じように、そのバルザイウムも錆びついたような状態によって覆われている。バルザイウムさえも劣化させてしまうような、人間の理解を超えるような魔力の持ち主。龍王。その龍王を封印するための扉を作ったのにも拘わらず、それに鍵をかけないというような愚かな真似をするわけがあるまい? いくら、人間という生き物が、信じられないほど下等な生き物であるとしても。

 つまり、この扉は、ただ穴の上に置かれているだけだというわけではないのである。それだけのことであれば、そこそこ物理的な力がある者であれば誰でも扉を開くことが出来てしまうだろう。そうではなく、この扉は……ある種の障壁を形成するためのジェネレーターのような役割を果たしている。

 実は、この巨大なバルザイウムの塊には無数の魔石が埋め込まれていて。それらの魔石が星座のように意味を持つことで、途方もないレベルの観念領域を発生させることが出来るのだ。そして、その観念領域を妖理学的な境界性として振動させることにより、一つの限定として利用しているのである。

 そういうわけで、この扉を開くためには障壁をどうにかしなければいけない。では、どうすればいいのか? 簡単なことだ。錠を開くにあたっては、その錠に見合った鍵を差し込めばいい。つまり、その障壁が有する周波数を打ち消すような周波数によって、観念領域を発生させればいいということ。

 今、四体のマハーミクシャ達が発生させたそれぞれの観念領域が、完全な調和のもとに一つとなった。そのようなカルテット、あるいは四つの口によって行われる独唱は、まさに高等知的生命体の精密さによって、バルザイウムから発生している障壁の周波数の対称形を表すように調整されて……一つの鍵……一つの鍵を削り出す過程……そして、その鍵は、鍵穴に差し込まれる。

 どこか遠いところで。

 鐘が鳴るような音だ。

 ひどく重く。

 ひどく低く。

 一つの。

 滅びた。

 星のような。

 質量を持つ。

 震える金属の音が。

 ここに、響き渡る。

 ごおーんという感じの音だった。擬音語にしてしまうとなんだか間が抜けているが、とはいえ確かにそんな感じだった。ただ、それは、人間に対して、鼓膜というよりも頭蓋骨そのものを震わせるような音であって。ヴァーティゴ、ヴァーティゴ。真昼は、まるで神経系の全てが眩暈を起こしているような、脳髄の根底が痙攣しているような、そんな感覚を味わったのだった。

 そして、そのような音とともに……蓋が、浮かび上がった。まるで騙し絵を見ているみたいに、まるで事も無いかのように。その蓋は、いとも軽々しく浮かび上がった。いや、軽々しくというよりも……そう、蓋自体はそこにとどまってはいるが、周囲の空間が沈んでいっているとでもいった感じ。あまりにも自然であるために、停止しているのではないかと思ってしまうくらいの感じによって浮かび上がったのだ。

 続いている、法螺貝の音は続いている。深海で腐敗していく巨大な怪物の死体みたいな、その音は。大災害の翌日の、どこまでもどこまでも輝かしい、残酷で冷酷な青空に向かって響き渡っている。そうして、その後で、真昼を震わせている名状しがたいヴァーティゴと融解しながら混ざり合う。

 全く異質な生命体が作り出した、全く異質な音を出す金管楽器。全く異質な生命体が作り出した、全く異質な音を出す打楽器。それらの全てが流行り病に似た態度で共和して、禍々しい……呼吸が出来なくなるほど禍々しい音楽を作り出している。その音楽の中で、蓋は、どんどんと開いていく。

 そう。

 だから。

 だって。

 今日は。

 最後の審判の日。

 裁きへと。

 救いへと。

 至る。

 勝利の扉が。

 開かれ、る。

 その蓋が、山頂から十ダブルキュビトほども持ち上がった頃であろうか。冷ややかに寄せては冷ややかに引いていく波のような静寂とともに行われていた上昇の過程が、その瞬間に、完全に停止した。巨大な金属の塊が、無限に広がっている青い座標軸の中で、それがそれであるべき一点の値を定めたかのようにして。

 太陽は地平線のすぐ上のところに懸かっているので、その蓋によって隠されてしまったというわけではないのだが。それでも、空に浮かんでいる巨大な金属の塊、十数ダブルキュビトの厚さがある真円の円盤は、圧倒的な重度と潰爛とによって真昼のことを強迫しているかのようであった。苦い味の影、苦い味の光。

 これは悪か? いや、違う。これは闇か? いや、そうではない。この場所はこれほどまでに明るいのだから。早朝の明るさ、澄み渡って透き通った早朝の明るさだ。とはいえ、早朝に行われる残酷もある。早朝に行われる悲劇もある。晴れ渡った空のもとで、昨日の洪水で流された人々の死体が、カーラプーラのあちこちで腐っていく現在という時間のように。それでは、これは、要するに、なんなのか? 真昼の目の前に浮かび上がったこれは。これは、扉以外の何物でもない。真昼の前に開かれた扉、真昼がここを通って……裁きの場へと至るべき扉。何万人もの死体と同じほどの重さがあるであろう、大きな、大きな、扉。

 それは。

 まるで。

 月を喰う。

 精霊のような。

 色をしている。

 気が付くと、扉の開閉に伴う全ての音楽が消えていた。その扉が開いてしまったからだろう、もう、それに際して流れるべき音楽は必要ない。そういえば……真昼は、なんとなく思い出していた。小学校の時のことを、小学校低学年の時のことを。まだ、正子があれほどおかしくなってしまう前。まだ、真昼が、子供であることを許されていた子供だった頃。

 真昼が通っていた小学校は、佐藤大学付属棒踏小学校といって、岸母邦のあちこちにある佐藤大学の付属校のうちの一つであった。砂流原のお嬢様が通うのに相応しい、由緒正しいエリート校であって。いうまでもないことだが私立の学校である。それゆえに、お金も有り余るほどあったらしく……なんと、プールの天井が自動で開閉するようになっていた。

 聞いた話では卒業生の一人が寄付したのだそうだが、えーと……必要ある? それ? 小学校のプールの天井を自動で開閉することにどのようなメリットがあるのか全く分からない。そりゃあ、子供達は大喜びするかもしれないが……それ以外にも金の使いどころは色々あるだろうと思ってしまう。

 というか、天井が開いたり閉じたりする割には、そのプールは温水プールではなかったのだ。そのため、気温が低い日はプールの授業をすることが出来なかったし。朝は気温が高くてプールの授業をすることにしたのだが、そのうちに気温が下がってきてしまい、プールの授業の時には水がめちゃめちゃ冷えていたということもあったくらいだった。まずはそこからだろそこから!と思ってしまわないこともないのだが……岸母邦は、そもそも月光国の最南端にある邦であって、夏の間は大体クソ暑い日が続くものであったため、そこまで重要なファシリティではないと判断されたのだろう。

 とにかく、そのプールには、電気仕掛けで開いたり閉じたりする可動式の天井が設置されていたのであって。その開閉時には、それと知らせる音楽が流れていた。元々は屋内プールであったはずのプール、ぴろりーぴろりーぴろりろりーという感じのひどく間の抜けた音楽とともにその天井が開いて。晴れた日には、それほど寒くない日には、屋外プールになるのだ。

 その日は……晴れた日だった。それほど寒くない日だった、真昼は、ぷかぷかと、プールの水面に浮かんでいた。どのような状況であったのかということはほとんど覚えていない。たぶんだけど、プールの授業の、自由時間か何かだったのだろう。

 周囲には、子供達のはしゃぐ声が聞こえている。ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら、そこら中で遊んでいる。けれども、真昼だけは、ただぷかぷかと浮かんでいた。何か楽しいことをするでもなく、まるで眠っているかのように、呼吸をしている。

 静かだった。夏の日、驟雨のように降り注ぐ蝉の声の中で静寂を感じるかのようにして。真昼は、騒ぎ遊ぶ子供達の群れの中で静寂を感じていた。いや、お前も子供だけどな。とにかく、真昼には……まるで、別の世界のことのように他人事であった。喜びも苦しみも、その時の真昼には、全く関係のないことであった。

 世界の完全性であったのだ。まるで自分が世界であり、世界が自分であるように感じていた。まだ関係知性が十分に発達していない子供に特有の、内的原理と外的原理との境界の喪失を感じていたということだ。よくあることで、さして珍しいことでもないのだが……ただ、それを感じている真昼にとっては、それはそんな単純なことではなかった。それは、つまり、真昼が完全であるということであった。そのことについての静かな静かな認識であった。

 自分自身が、プールの中に溶け出していっているようだった、そして、プールが、自分自身の中に流れ込んでいるようだった。それは、真昼の幼い言葉で言語化出来るものではなかったが。ただ、言語化してしまえば陳腐なものになっていただろう。唐突に襲われた脳髄の不具合のようなものであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもなかったからだ。何の前触れもなく――プールの自由時間という完全な日常の中で――真昼は、宗教的ともいえる恍惚を感覚していた。

 と、その時のことである。そんな真昼の耳に、あの間の抜けた音楽が聞こえてきたのだ。ぴろりーぴろりーぴろりろりーという音、どこか罅割れたような感じがする、電気信号を組み合わせたみたいな音。そして、その音とともに……真昼の視線の先で、空が二つに割れ始めたのだ。正確にいえば、ガラスで出来た天井、空の紛い物が二つに割れて。その向こう側から、本物の空が現われ始めたということだ。汚れたガラスを通して見るわけではない、そのままの太陽、そのままの青空。

 神様が呼吸したような、透明な風が吹き込んできた。まるで羊水のように柔らかい水が、全身を包み込んでいた。目の前には太陽がある。ちょうど中天に昇った太陽が。青い空には雲一つなく、心臓を押し潰してしまいそうに青かった。そして……真昼は……それであった。それが真昼であり、真昼はそれであった。ああ、だから……だから……生きているのだ、と真昼は思った。これが生きているということなのだと、真昼はそう思った。

 今。

 なぜか。

 その時のことを。

 思い出したのだ。

 けれども、それは、今の真昼にとっては関係のないことだった。あの時の真昼と今の真昼とは全く違う人間だ。牧場にいる時の羊と屠殺場にいる時の羊とが全く違う羊であるのと同じことである。真昼は、目をつぶった。思い出の重さに耐えかねたとでもいうように。けれども、また、その目を開く。思い出が所詮は思い出でしかないということに気が付いたとでもいうように。

 勝利、勝利、勝利。偉大なる勝利。マハーヴィジャヤ。今の真昼に必要なのはそれである。だが、それは誰に対しての勝利なのか? あるいは、なんのための勝利なのか? 高らかに吹き鳴らされる金管楽器の音は、もう聞こえない。凱旋の伴奏である打楽器の音さえ消えてしまった。凱旋? そう、凱旋。比喩的な表現だが、これほど正しい比喩もあるまい。真昼は帰ってきたのだ、心理的な構造の中の、最も閉ざされた場所に。そこがそこであるべき場所に。決して取り返しがつかない場所に。

 五芒星のそれぞれの位置で、レーグートに感染したマハーミクシャが傅いている。その生き物に可能な限りの、いかにも恭しい有様で、いかにも慇懃な態度によって。四本ある腕を胸の前で複雑に交差させている、空間の欠損のように暗い色をした羽を完全に広げている。ぱっくりと開いた口は下に向けていて、そこからは涎が滴っている。そして、膝を折って、そこに跪いている。蜘蛛の脚の膝はどこにあるのか? 四体のマハーミクシャは……待っている。国賓が会見の間に入っていくのを。

 ああ。

 全てが。

 整った。

 鍵は外された。

 扉は開かれた。

 後は。

 龍の、口の、中に。

 落ちていくだけだ。

「さ、真昼ちゃん。」

 デニーが、真昼を振り返って。

 可愛らしく、にぱっと笑って。

「行こっか。」


 赤い。

 赤い。

 絨毯の上を。

 歩いている。

 まるでどこかの王様の、とてもとても素敵なお城の。その床に敷き詰められている絨毯みたいだ。豪華で、瀟洒で、気品に溢れていて。天使の血液で作った綿菓子の上を歩いているみたいに、ふわんふわんという踏み心地。この絨毯の上では、もしかして重力が遮断されているのかもしれない。それか、一歩歩くそのたびに、足に恍惚の魔法をかけられているとか。そんな風に思ってしまうくらいの最高の絨毯。

 幅としては五ダブルキュビトくらいだろうか。人間の感覚からすると不必要なのではないかと思ってしまうほどの広さだ。そんな絨毯が、どこまでもどこまでも続いている。真昼の進む先にも、その背後にも。

 ここは……あの岩山の内部だ。あの岩山の頂上に開いていた穴に入って、ずっとずっと下りてきた、その先である。まあ、「その先」といったところで、まだ、どこかに辿り着いたというわけではないのだが。とにかく、穴の向こう側である。

 信じられないくらい巨大な生き物が、身をくねらせながら穿ち貫いていった跡であるかのように。信じられないくらい巨大な洞窟だった。断面の直径にして少なくとも百ダブルキュビトはあるので、なんだか洞窟と呼ぶのも変な感じがする。

 穴に入ってすぐの頃は、出入り口のところから太陽の光が差し込んでいて、それなりの明るさがあったものであったが。今となっては、もう、出入り口なんてどこにも見えない。遠く遠く上方に消え去ってしまった。とはいえ……ここに全く光がないというわけではない。足元に敷かれている、この絨毯が光っているのだ。恐らく魔学的なエネルギーによって光っていると思われる、ゆらゆらと揺蕩いながら眠る夢のような光。赤い赤いその光によって、この洞窟、どこへと進めばいいのかということを示している。

 それほど明るいわけではないが、デニーの魔学式によって強化された真昼の視覚には充分な明るさだった。向かうべき方向だけでなく、この洞窟のある程度の範囲を見渡すことが出来た。けれども、だからといって、ここに見るべきものがあるというわけではなかったのだが。

 この洞窟には何もなかった。アーガミパータの洞窟であり、しかも、龍王がいる場所に続く洞窟であるのだから、それはそれは凄まじい、気が狂ったような装飾がなされているのではないかと。真昼はそんなことを考えていたのだが……どうも、そういうことではないようだ。

 まあ、よく考えれば、アーガミパータの装飾のほとんどは人間のためのものであって。龍王としては、装飾があってもなくても、どうでもいいのだろう。それに、もしも装飾した方が龍王が喜ぶとしても。絵画師や彫刻師やといった人間達が、こんな場所に来るとは思えない。

 それほどまでに、ここは「力」に満ちた場所だった。真昼は感じていた、本能的な畏怖を。なんだか呼吸がしにくくて、心臓が変な動き方をしていて。それに、皮膚の全体が、常に針で刺されているみたいに痛い。感情的な畏怖というよりも肉体的な畏怖、もっといってしまえば生命による畏怖であった。真昼の中の生命の全部が、ここに満ちている「力」を恐れているのだ。この感覚は、穴に入ったその時から感じていて。その時でさえ禍々しいまでの恐れであった。まだ、少しも、龍王に近付いてさえいなかったのに。

 いや、なんの話をしていたのか……とにかく、ここには何もなかったということだ、この洞窟を形作っている、絶対的な黒、洪石と。真昼が進むべき方向に、真昼が進まなくてはいけない方向に、その方向を標しているかのようにして続いている絨毯と。その二つのもの以外には。

 その絨毯について。これは大変ありがたいものであった。洞窟の下面、相も変わらずごつごつとして歩きにくい洪石の上に柔らかい褥みたいにしてかぶされていて。その上は、少しも歩きにくくなかった。先ほども書いたように、ミキサーで引き潰されたひよこでも敷き詰められているみたいに歩きやすい。だから、真昼は、もう、マラーのことを抱いてはいなかった。優しく抱いていた腕の中から降ろしていた。

 さて、この絨毯は一体なんなのだろうか? 先ほども書いたように、ここは人間などがやってくる場所ではない。それなのに、よく手入れされた絨毯が敷かれているなんて。なんだか奇妙である、というか、不気味だ。それに……よくよく見てみれば、これはただの絨毯というわけではないらしい。普通の絨毯は一枚の布であるが。この絨毯らしきものは……その敷き詰められている岩に、べったりと絡み付いているのだ。まるで、洪石の上に、大量の苔でも生えているみたいに。

 苔、そう、苔。実際のところ、これは苔であった。というか苔の中でも最も特殊な苔……要するに、レーグートであった。真昼が歩いてきた道のりの全てに、そして、歩いていくはずの道のり全てに。敷き詰められているこの絨毯は、レーグートなのだ。

 これこそがレーグートの最も原初的な姿である。つまり、龍王や獣王や、あるいは神々が棲む場所。とても強力な魔力を持つ生き物が棲む洞窟のような場所に。そのような生き物が発する魔学的エネルギーを目的として、いつの間にか繁茂している苔という姿が。まあ、正確にいえば……レーグートは、そういった生き物の棲み処に打ち捨てられた死体に群がっていたのだが。そういった生き物は非常に強力であるがゆえに、そのそばには、常に、大量の死体が転がっている。それらの死体の栄養と魔学的エネルギーと、双方を摂取出来る形に進化したのがレーグートだということだ。

 そして、この洞窟、龍王の洞窟にも。あまりにも膨大な・甚大な魔学的エネルギーが満ちているがゆえに。自然と、レーグートが蔓延ることとなったのだ。ただ、レーグートが生え始めたのは自然であっても、もちろんこのように、整然とした一枚の絨毯としての形になったのは自然ではなかったが。

 ところで、真昼は、かなり早い段階で理解していた。これがレーグートであるということを。なぜなら、この絨毯のところどころに小さな球体が埋め込まれているということに気が付いたからだ。大きさとしては、真昼の親指の先くらい。絨毯の他の部分よりも濃い赤色。ほとんど死にかけた黄昏の、緩やかな断末魔みたいな色をした球体が。

 そういった球体は、要するに。大きさこそ全然違っていたのだが、人間に似た姿になったレーグートの顔面に埋め込まれている、あの眼球のような球体と同じものであった。ただ、実際のところ、この種の球体はカンパヌス共感組織と呼ばれているものであって、眼球とは全く異なった働きをするのであったが。

 さて。

 そのような場所を歩いていた。

 デニーと、真昼と、マラーと。

 その三人が、その三人だけが。

 他には、何者も、道連れにすることなく。

 四人のレーグート達も、四体のマハーミクシャ達も、この洞窟の中までは入ってこなかった。ここはカリ・ユガ龍王領に所属している生き物にとっては底知れぬほどに真聖な場所である。なんといってもカリ・ユガが実際に住んでいる場所ですからね。それゆえに、例え国賓の随行としてでも軽々しく入っていくわけにはいかないのだ。ということで、四人とも・四体とも、岩山のあの場所、三人が帰ってくるまで待機している。ちなみに……それなら、洞窟の中で絨毯みたいに敷き詰められてるレーグートはどうなんだよと思われるかもしれないが。それはそういうものだからいいのだ。強力な魔力を持つ生き物の洞窟には、多少なりともレーグートが生えているものなのである。

 さあ、情景描写についてはこれくらいでいいだろう。それでは、それ以外の、真闇について。先ほども少し触れたことであるが……レーグートが放つ秘めやかな光以外には、この場所を証明しているものはなかった。他のものは、まるで、今まで世界の中に築いてきた真昼の虚偽が、全て、がらがらと、崩れていってしまった後なのだとでもいうかのように。ただただ、何もないという意味での万物の死が続いている。

 まるで……真昼が昔持っていた、聖書の表紙の手触りのようだった。その聖書は、カトゥルン聖書とトラヴィール聖書とを合わせて一冊の本にした物で、分厚い文庫本と同じくらいの大きさの物で。けれども、ソフトカバーではなくまるで皮のような手触りの表紙が付いたハードカバーであった。その表紙はとてもとても真っ黒な色をしていて、光に照らしてみるときらきらと光を放った。安らかな黒、安らかな黒、呼吸することさえ忘れてしまいそうなほどに。確か、月光国正教会が出版していた、月光国正教会にとっての一番正式な聖書であって……あれは、どこに無くしてしまったのだろう。ずっとずっと大切に持っていたはずだったのに、いつの間にかどこかに行ってしまっていた、真昼のことを見捨てて。いつの間にか失っていたものは、真昼には幾つあるのだろう。数えてみたことがないから、真昼にはよく分からなかった。

 これも先ほど書いたことであるが、最初の頃は、少しは光が差し込んでいた。けれども、下に、下に、歩いていくほどに暗くなっていって……そういえば、周囲を明るくしていた太陽の光が、ほとんど消えかけた早朝の霧のようになってしまった頃に。頭上、随分と上の方で。真昼の過去の、全てが、全てが、投身自殺した時の、その墜落時の音みたいにして、信じられないほど大きなずしーんという音がしたような気がする。もしかして、あれは、あの穴の蓋を閉めた時の音だったのかもしれない。そのせいで、この洞窟には完全に光が差さなくなって……誰かと誰かとが秘密の会見をする時には、その会見の部屋の扉は閉めておくものである。

 まあ、そういったことはさておくとして。とにもかくにも、真昼が、ずっとずっとこの傾斜を歩いてきたということは確かなことである。ホールケーキを八つに切り分けて、その一つの先端が形作る角度と同じくらいの角度の傾斜。別に歩きやすいわけではないのだが、とはいえ歩けないというほどでもない傾斜。ずっとずっと……というのは、一体どれくらいの時間だったのだろうか。長いような気もするし、短いような気もする。ひどく曖昧で、ぼんやりとして、よく分からない。時計を見ればすぐに分かるのだろうけれど、今の真昼は時計を持っていないのだ。

 時計、時計、それはもしかして、真昼が真昼であったことの、最も重要な一部分を構成していたはずのものなのかもしれない。時間という感覚は、時間が流れているという感覚は……真昼にとっては、例えば次のようなものであった。腐敗した神経系、麻酔をかけられたように何も感じない肉の塊を。少しずつ少しずつ鑢で削られていくような感覚。

 真昼は、よく、こういうことをしていた。真夜中、目が覚めた時に。さっきまで肌を合わせていた男は既に眠ってしまっていて、自分だけが目覚めている時に。枕元に置いておいたスマートバニーに手を伸ばして、それを、そっと引き寄せる。ホームボタンを押すと光を放つ画面、少しだけ瞳孔が開く時のきゅうっとする痛み。それから……映し出されるデジタル式の時計。

 普通、スマートバニーの時計というのは時と分としか分からないものであるが。真昼のスマートバニーは秒まで表示されるようになっていた。わざわざそれ専用のアプリを入れて、そのように表示されるようにしていたのだ。真昼の目の前で、決して止まることなく、一秒ずつ数えられていく時間。いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち。それを、ただじっと見ている。

 その時だけ、真昼は……この世界が現実であって、自分が生きている、自分が取り返しのつかないことをしていると感じることが出来た。普段は絶対感じない感覚、本当の本当に、これがこれであるという感覚。一秒、一秒、この時計が時間を数えていくたびに。あたしはあたしの一秒を失っている。別に、それが惜しいというわけではない。けれども……それは、どこまでも確かな喪失感であり、逃れようのない焦燥感であった。ああ、世界が終わっていく。砂時計の砂が落ちていくように、世界の一部が消えてなくなっていく。けれども、あたしには、それをどうすることも出来ない。真昼にとって、時計とはそれを感じるための道具だった。

 しかしながら、今の、真昼に、とっては。時計などという物は必要なかった。クソの役にも立たないどうでもいい物だ。なぜそうなのか、真昼には分からない。きっと色々と理由があるのだろう。けれども、その中でも一番重要な理由は……たぶん……アーガミパータに来てからの真昼が、常に死にかけているということだろう。これはもちろん比喩的な表現であって、真昼は、今の今まで一瞬たりとも死にかけてはいない。そんなの当たり前のことだ、デニーによって守られている命が失われることなどありうるだろうか? いや、ありうるし、実際の話として、この後、暫くして真昼ちゃんは死んでしまうのだけれど。とはいえ、この時点までの真昼が死の危険に晒されたことはない。あくまでも真昼の主観として、「これは死ぬだろ」と感じ続けているだけということである。

 そのような、息がかかりそうな距離まで近付いた死の感覚によって。真昼は、時間などという概念が比較的どうでもいいことであるということに気が付いたのだ。もしも、真昼が、完全に安全なところにいて。たぶん老衰で死ぬのだろうという場合には一秒というものは大切だろう。だが、次の瞬間に死ぬかもしれないという時は? デジタル時計が刻む一秒一秒などというものに、なんの意味があるというのか?

 つまり、今の真昼にとって、時間というものは、非常に肉体的なものなのだ。数字によって切り取られるものではなく、実際に流れている具体的な存在というわけでもない。時間という統一された意識があるわけではなく、もっとごちゃごちゃとした肉体の感触の集合体。それを仮に時間と呼んでいるだけである。それは、そもそも、それ自体として独立して感覚されうるものではない。総体的な無意味なのだ。

 だから、正確にいえば、今の真昼が思っているのは「どれくらい時間が経ったのだろう」ということではない。もっと端的に「退屈だ」である。「カリ・ユガはどこにいるのか」である。そこにあるのは、時間というよりも、持て余した自分の感覚に対する嫌悪感と。あとは、自分の破滅が近付いているにも拘わらず、それが未だに現れないという苛立ちだ。何秒であろうと何分であろうと何時間であろうと関係ない。計測可能な人間的恣意ではなく、あくまでも感触の中に姿を現すもので。

 それは。

 例えば。

 呼吸している。

 海のようなもので。

「ねえ。」

 だから、真昼は。

 こう、口を開く。

「あとどれくらいで着くの。」

 無論、これはデニーに対する問い掛けであった。自分の左側を歩いているデニーに対する。ちなみに、デニーは真昼のすぐ横を歩いているというわけではなかった。まず真昼がいて、その右にマラーがいて。そして、デニーは、その更に右にいる。デニーと真昼とがマラーを挟んで歩いている感じだ。

 そういえば、あたしは、いつも、いつも、こればかりをデニーに聞いている気がする。もちろん、聞き方は色々なのではあるが。それが起こるのはいつであるのかということ、あたしが感じている痛み・苦しみはあとどのくらいで終わるのかということ。まるで、あたしの……あたしの運命を決める何者かが、デニーという生き物の姿をとって現れたのだということを、あたし自身が知っているかのように。そして、あたしの問い掛けがいつも同じであるように。デニーの答えもいつも同じだ。

「あと、ちょーっとだよっ!」

「あのさ、いつも言ってることだけど。」

「ほえ?」

「もっと……具体的に言えよ。」

 デニーは。

 あたしの言葉に。

 ただ。

 けらけらと。

 笑うだけだ。

 真昼は、はーっと溜め息をついて。右の手を髪の毛の中に突っ込んだ。そのままぐちゃぐちゃと掻き回して、けれども、別にデニーの言葉にイライラしているというわけではなかった。どちらかといえば……それは枕詞のようなものだった。「くらぎぬの」に「蜘蛛」がかかるように、「あかうたう」に「咎」がかかるように、デニーのこのような態度には、真昼は溜め息によって応じるべきであるということ。だから、そうしただけだ。

 まあ、なんにせよ、まだその場所には着かないらしい。本当にあとちょっとで着くかもしれないが、そういった可能性はかなり低いだろう。なぜといって、真昼が進む先には、その視界が続く限り、ただただ闇が広がっているだけだからだ。真昼達が、今、お目通り叶おうとしているのは。仮にも龍王である、それならば、もしも龍王に近付いているというのならば。もう少し何かが見えてきてもおかしくない。何かの、エネルギーが。

 退屈を。

 退屈を。

 食い殺さなければいけない。

 そいつに食われちまう前に。

「あのさ。」

「はーい。」

「ずっと、あんたに聞きたかったことがあるんだけど。」

「なあに、いいよ、なーんでも聞いてよ!」

「あんたは……っていうか、あんたが所属している組織は、あたしを静一郎に渡して、それと引き換えに何かを受け取ろうしてるんだよね。そのために、あたしを、生きて、アーガミパータから奪い取ろうとしてるんだよね。」

「うん、そーだよ! 今のところはそういう予定です!」

「何を手に入れようとしてるの? つまり、あたしを対価にして、何を静一郎から得ようとしているの? あんたの組織について……あたし、聞いてた。あんたが、ミセス・フィストってやつと交渉していた時に、あんたの組織が、一体どういう状況にあるのかっていうこと。

「あんたの組織は、ディープネットの兵器をワトンゴラに売り飛ばしてるんだよね? 政府軍にも反乱軍にも平等に売り飛ばしている。それで利益を稼いでいるわけなんだけど、そういう販売の全部を管理してるのがあんたってこと。だから、だから……あんたは、あたしを「救い」に来たんでしょう? あたしは、別に、あんたに救って貰ってるなんて思ってないけど。あんたがディープネットとの交渉を管理してるから、だから、本来はあんたの担当じゃないアーガミパータまで来た。ディープネットとの交渉材料になる、あたしのことを奪い取るためにここに来た。

「ごめん、違う、話が逸れた。あたしが聞きたいのはそういうことじゃなくて……つまり、つまり……あたし、聞いてた。あんたとミセス・フィストとの話を。その話だと、ワトンゴラでの内戦ってそろそろ終わるんだよね? 百パーセントじゃないにせよ、確か九十七パーセント? だっけ? くらいの確率で終わる。それで、もしそうなったらディープネットの兵器はほとんど売れなくなる。少なくともワトンゴラでは。

「もちろん他の場所では売れるかもしれないけど。でも、今までワトンゴラで売れてたほど売れる場所なんてどこにもないんじゃない? だって、あそこくらいスペキエースを殺す必要がある場所なんてないでしょ? あんたと初めて会った時に聞いた話。アーガミパータにもスペキエースのテロリストが潜伏してるっていう話。でも、そういったテロリストの掃討作戦に使うとしても、やっぱりワトンゴラほどじゃない。

「じゃあ、あたしを「救う」必要なんてないんじゃない? 少なくとも、ここまでして「救う」必要があるとは思えない。もしも、兵器の売買に関するディープネットとの取引で利益を得ようとするために、あたしを使おうとしているのならば。あんたの組織と、ディープネットと、あと少ししたら、取引がなくなってしまうんだから。そりゃあ、ゼロになるってことはないとは思うけど、でも、限りなくゼロに近くなる。

「あたしを……あたしを、兵器の売買に関することに使おうとしているわけじゃないっていうことでしょ? あたしの目的は、そんなことじゃない。あんたの組織は、あたしを、そんなことに使おうとしているわけじゃない。もっと別のことをしようとしてる。それで、あたし、思い出したんだけど……あんたとミセス・フィストとが話してた時に、何かの情報の話をしてたよね? ミセス・フィストはその情報を手に入れたいって言っていた。その情報の、完全なものを手に入れたいって言ってた。あの時はそんなに気にしてなかった。ASKは情報に関する会社だし、ASKが情報を欲しがるのは当然だろうなって思ってた。でも、よくよく考えてみれば、ASKが欲しがるほどの情報なら他の連中が欲しがっても当然だよね? 例えば、あんたの組織とか。要するに、あたしが言いたいのは……あんたの組織が、あたしと引き換えに手に入れようとしてるのって。その情報なんじゃないの?」

 真昼は、そう言い終わると。

 ちらと、デニーの顔を見た。

 その表情を窺おうとしたのだ。もちろん、デニーのような生き物が、自分の精神状態を隠そうとしたのならば。真昼ごときが覗き見ることが出来るわけがないのであったが。それでも、人間としての習癖として、そうしてしまったのだ。

 しかし……意外なことに、デニーの顔には表情が浮かんでいた。しかも真昼のヒントになりそうな表情が。それがどんな表情かといえば、驚きの表情だ。どちらかといえば感心の表情といった方が良いかもしれない。真昼に対する感心。

「へー。」

 くるくるとした目。

 なんだか楽しそうに。

 デニーは、こう言う。

「よく分かったね、真昼ちゃん。」

 それから、右手の人差指をぴんと伸ばして。その第一関節の辺りを唇に押し当てた。デニーが何かを考え込む時のあの表情だ。きっと、これは……どこまで真昼に話していいのか、それを考えているに違いない。あるいは、そう考えていると真昼に思わせようとしているのか。こうやって出し惜しみしてから与えられたものであればなんであれ喜ぶものだ、人間という生き物は。

 それから。

 暫くして。

 また、口を開く。

「真昼ちゃん。」

「なに。」

「覚えてる?」

「何を。」

「ミセス・フィストが、デニーちゃんに、これが欲しいよーって言った情報。それが、何についての情報なのかーってこと。」

 真昼、は、少し。

 思い出してみる。

 ぼんやりとしたことは思い出せるのだが……けれども、はっきりとしたことは思い出せない。あの時は、随分と気が張っていたし。それに、その後で起こったことが色々とあり過ぎて、流れ去ってしまったのだ。先ほどデニーに話しただけのことを覚えていただけでも、真昼としてはかなり上出来な方だ。

「覚えてない。」

「だよねー。」

 真昼は、イラっと、する。

 分かってんなら聞くなよ。

「あのね、バーゼルハイムって知ってる? えーっと、ごくごくって飲む飲み物のことじゃなくって、バーゼルハイム・シリーズ。ディープネットが作ってる兵器のシリーズのこと。知ってる? さーっすがだね! 砂流原のお嬢様! それでね、そのバーゼルハイム・シリーズっていうのは要するにSKILL兵器のことなんだけどね。その兵器に使われてる技術は、ディープネットじゃない、国家だとか企業だとか宗教組織とか、そういった集団が所有してる研究所の、どこも理解出来ないような、すっごーい技術なの。

「例えば、一番分かりやすいのはイエローリズムかな? ほら、バーゼルハイム・シリーズのプラスチック爆弾のことだよ。あれってさーあ、色々な効果があるよね。白イヴェール生起金属をとってもとっても壊しちゃう、すっばらしーい破壊性能だとか。爆発した後にぽわぽわってなる黄色い煙を吸い込むと、スペキエースが能力を使えなくなっちゃったりすることがあるだとか。こういった効果がある爆弾ってさ、他の研究所はどーっこも作れてないでしょ? それはね、この爆弾に使われてる技術が、だーれも理解出来ないものだからなの。ディープネットの研究所の中枢にいる子達を除いて、だーれも。

「どういう仕組みでそうなるのかっていうことは、なんとなーく分かってるんだけどね。イエローリズムに入ってるなんだか特別なものが、偶有子だとか偶有子変成粒子だとかそういったものを直接的に破壊しちゃうの。それでもね、その「特別なもの」がなんなのかっていうことは全然分かんないし、それにその「特別なもの」がどうやって働くのかっていうことも分かんない。だから、それを作ることも出来なければ、それに似たものを作ることも出来ないってゆーこと。んー、まあ……眠子は色々と知ってるみたいだけどね。でも、眠子はなーんでも知ってるから。とにかく、そんな感じで、バーゼルハイム・シリーズについては、ディープネット以外の集団はなーんにも分かってないわけ。

「でねー、んーとー、それがさーあ、別にどうでもいい情報だったら、それはそれでいいの。ディープネットだけがそれを知ってても、みんなみんな、特に不満みたいなものはないよ。でもね、それって、どうやら神学的な技術みたいなんだよね。フェト・アザレマカシアじゃなくってベルカレンレインの方。ベルカレンレインに関係してるみたいなの。そうなってくるとさ、やっぱり違っちゃうよね。みんなだって、やっぱり、わわわーってなっちゃうよ。

「今のところはさ、ディープネットって、世界中からスペキエースを殲滅することだけを目的としてるわけだけど。それもいつ変わっちゃうか分かんないじゃない。スペキエースだけを殺してる分には無害だけど、もしも、その対象が、別の生き物に変わっちゃったら? 例えば、その目的が、ゼティウス形而上体の殲滅とかに変わっちゃったら? とってもとってもとーっても大変なことになるよね。やっぱり、その前に、色々なことを知っておかないと。

「ASKとかはそういうの関係なくって、純粋に情報が欲しいよーってことだと思うんだけど。とにかく、そんなわけで、どこの集団も欲しがってるっていうこと! バーゼルハイム・シリーズの情報を! でもさーあ、バーゼルハイム・シリーズについては、みんな、ほんとにほんとになーんにも知らないでしょ? バーゼルハイム・シリーズの共通点さえ分かってないじゃないですか! イエローリズムとBRR223とはどっちもバーゼルハイム・シリーズだけど、その二つにどういう関係があるのかっていうことも分からない。そもそもなんでバーゼルハイムっていう名前が付いてるのか。バーゼルハイムっていうのはどういう意味がある言葉なのか。それも分かってない。

「そういう時ってスパイの子達に頑張って貰うのが一番簡単なやり方だよね。だから、コーシャー・カフェも、ディープネットの研究所にスパイの子達を送り込んでみたんだけど……公表されてる全部の研究所にね。でも、どうやら、どの研究所も違うみたいなの。えーと、違うっていうのは、そういう研究所ではバーゼルハイム・シリーズの根本原理は研究されてないってこと。どこかに公表されてない研究所、ディープネットにとっていーっちばん重要な研究所があって。そこで、いわゆる「バーゼルハイム」って呼ばれているものを研究してて。その結果として発見された色んな色んな枝葉末節の原理が、それぞれの研究所に、かなーり不完全な形で配布されてる。根本原理はね、そういう研究所にとってはティンガー・ルームだっていうこと。

「と、いうことで! コーシャー・カフェとしてはその研究所がどこにあるのかっていうことを知りたいんだよね。もっといっちゃえば、「バーゼルハイム」っていうのが一体何かを知りたいってわけ。そー、こー、でー……真昼ちゃんの出番なんです! つまりね、コーシャー・カフェは、真昼ちゃんと引き換えにそういった情報を手に入れようとしてるの。」

 デニーは。

 そこまで話すと。

 その口を閉じて。

 「どう?」という感じ。

 可愛らしく首を傾げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る