第二部プルガトリオ #51

 全ての穢れたものが洗い流された清々しい朝。

 清浄な破滅。

 清澄な破裂。

 清潔な破砕。

 清冽な破局。

 カリ・ユガの帰還から一夜明けた今の時間は、もう少しで午前九時になるというところ。天頂に向かって昇り始めたばかりの太陽、光り輝く胎児を内側に宿した神卵は、未だに地平線の近くでゆらゆらと揺れている。とはいえ、何もかもを覆い隠す夜の闇は過ぎ去って。朝の光は、既に世界中を明らかにしている。もちろん、この都市……カーラプーラのことも。

 ああ、そう、太陽が見えている。空の様子は夜の間とは全く違っていた、嵐は、もう、とうに終わってしまっていて。雲一つない快晴は、まさに無原罪の青。そして、その空の下にあるカーラプーラは、崩壊していた。

 信じられない、まるで信じられない。あのカーラプーラが……こんな風になってしまうなんて。それは昨日までの繁栄極まるところを知らない大都市ではなかった。それは、ぼんやりと空を見上げている半壊した建物と、泥水の中に沈んでいる瓦礫の山が、どこまでもどこまでも続いていくだけの眺望。シティスケープというよりもランドスケープ。

 五十階を超える超高層ビルディング。そのある物は、三十階くらいのところから真っ二つに折れていて、折れた部分が隣の建物に突っ込んでしまっていた。また、別のある物は、左側のほとんどが砕け散っていた。それらの破片は根元の辺りに山を作っていて、近くにある何もかも埋まってしまっている。溶けたようにどろどろになっている物、押し潰されて粉々になっている物、それに、捻じ曲がってひしゃげている物。その形態は様々であるが、それらの全てがめちゃくちゃになっていた。どれ一つとして無事な物はない。

 それから、視線を下に移していくと……ビルディングとビルディングとの間、アレイにレーンにストリートにアヴェニューに。その大部分が、水に浸かってしまっていた。まあ、あれだけの豪雨だったのだから仕方がないといえば仕方がないことだろう。それに、それだけではなく、カーラプーラは沙漠地帯に作られた都市なのである。そうでなくても荒野の土壌は水を吸収しにくいのに、そこまで排水について重要視していない都市計画が加わって、大変大変水はけが悪い状態にあるということだ。

 瓦礫の山が、小さな島みたいに見える。泥土だの土埃だのと混じり合って茶色に濁った水がそこら中に満ちている。その一部はさしたる深さもないようであるが、とはいえ大部分は。人間の腰の辺りまでの水深、人間の首の辺りまでの水深、あるいは人間の足もつかないほどの水深になってしまっているようだった。そういったところでは、水の上にボートが浮かんでいて、人間はそれに乗って移動している。まあ、泳いでいるやつもいないわけではないのだが……けれども、大抵の場合はボートを使っている。

 そういった数人乗りのボートは、あまり見たことがないタイプのものだった。真昼のイメージ的には、というか、真昼の偏見的には。こういうところのボートは、木製の素材で出来たカノワ、いわゆる丸木舟であるように思われたのだが。確かにカノワといえばカノワっぽいのだが、それは何かの動物の皮を張り合わせて出来た物だった。

 右のところだとか、左のところだとか部分部分がふっくらとしていて、動物の皮の中に空気が入っているらしい。そのせいで、なんとなくゴムボートにも似ているようにも見えるのであったが、とはいえそれほど膨らんでいるわけでもない。やせ細ったゴムボート、あるいは、補助的に幾つかの風船を取り付けたカノワとでもいうべき物だろうか。

 ここが沙漠であるために木材だとか樹皮だとかは貴重なのだろう。だから、より手に入りやすい動物性の素材を使っているに違いない。とにかく、そのようなボートを使って人々は移動していた。大部分は、エンジンも何も付いていない、非常にシンプルなボートだ。そういった物を、例えば、人間の足がつく程度の水深であれば、数人の屈強な男達がそれを引っ張ったり押したりして移動している。例えば、人間の足がつかない程度の水深であれば、船首と船尾とに一人ずつの人間が立っていて、それらの人間がパドルを漕いで移動している。

 ただ、その一部のボートにはエンジンが付いているらしかった。いや、エンジンというか……恐らくは、もう少し原始的なもの。どういうことかといえば、船の両側と後部と、水に浸かっている部分に、赤イヴェール合金で出来た鰭のような物が付いていて。ボートに乗っている者の魔力によって、その鰭が自動的に動くということだ。いいかえれば、科学的なエンジンではなく、魔学的なエコー・システムだということだ。

 エコー・システム付きのボートに乗っているのは、どうも普通の人間ではなくカリ・ユガ軍に所属している人間らしかった。皆が皆、例の、ヌリトヤ砂漠専用と思しき戦闘服を着ていて、ヘルメットをかぶっていて。けれども、その上に着ているのは、スケールアーマーではなく黄色っぽい色をした救命胴衣だった。

 救出作業というか復旧作業というか、そういった作業を行っているようだ。よくよく見てみれば、ボートの上だけではなく、そこら中にそういった兵士達がいて。ボートに乗っている兵士達は、瓦礫の上で何をどうしていいのかも分からず呆然としている人々を回収していたり。あるいは、ボートに乗っていない兵士達は、瓦礫を壊したりどかしたりしている。

 本当に、ちょうどいいタイミングだったといえるだろう。平和的回廊地帯のほとんどの地域で暫定政府軍との戦闘が終わって、まさに昨日という日に凱旋パレードが行われたこのタイミングは。まあ、ようやく家に帰ることが出来たはずの兵士達にとってはいい迷惑といえないこともないのだろうが。とはいえ、災害の後に必要な人的資材はこれ以上ないくらいに揃っていた。

 人的資材は……それに、人以外の生き物も。例えば、あちらこちらで跳ね回っている金色の毛玉みたいなものは、間違いなくウパチャカーナラだった。崩れかけたビルディングに器用によじ登って、その中に閉じ込められた人々の救出活動を行ったり。人間よりもよっぽど力強い両腕で、そこら中にある瓦礫を一気に掘り返したりしている。

 また、例えば。薄汚れた泥水の上を、その泥水に汚されることなき優雅さによって歩いているのはユニコーンだ。ユニコーンほどの魔力の持ち主であれば、液体の上を歩くなど造作もないことである。ユニコーンは、大量のウパチャカーナラの指揮を執っているらしかった。ウパチャカーナラを操作する水晶にそのまま指示を送って、自由自在に動かしているということだ。あるいは、よほどの緊急事態であれば、ユニコーン自身が手を下している場合もあった。今にも落下してきそうな、超高層ビルディングの三十階から上の部分。そのような、あまりにも危険な瓦礫を、魔力によって粉々に粉砕して無害にする。そういった作業である。

 というか、そもそも、それなりに成熟したユニコーンが一匹いれば。この程度の災害、後処理なんて簡単に終えることが出来るはずだが。これも、やはり……マコトの言葉を使うのであれば、人間に英雄的な瞬間を与えるための一環なのだろうか? 確かに、災害に伴う救出作業というのは、インスタントに英雄になることが出来るまたとない機会である。それがそうなのか、あるいは何か別の理由があるのか。真昼にはよく分からなかったが、とにかく、ユニコーンは最低限の働きしかしていないようだった。

 それから、他にも大活躍している生き物がいた。その筆頭はグリュプスである。グリュプスは、カーラプーラという巨大な死骸にたかる小さな小さな烏の群れであるかのごとく。もうそこら中に飛び交っていた。あちらではビルディングに取り残された人々を救出したり、こちらでは空腹な人々に救援物資の袋を届けていたり。目まぐるしいほどの大活躍である。空を飛ぶことが出来る生き物はこういった時に便利だ……便利に使われる方はたまったものではないだろうが。

 大きめの瓦礫を噛み砕いて処理しているマンティコアだとか、火を吐いて廃棄物を燃やしているグラディバーンだとか、人の足がつかないほどの水深を構いもしないで突き進んでいくガジャラチャだとか。様々な生き物が災害の後処理に拘わっていたのだが……それをいちいち書いていくと、紙幅がいくらあっても足りないので、ここら辺で終わらせておくことにしよう。

 とにもかくにも。

 カーラプーラは。

 そのような状態であって。

 真昼は、その光景を……高いところから見下ろしていた。とても、とても、高いところから。この高いというのは、物理的な高度というよりも、どちらかといえば象徴的な比喩表現、地位が高等であるということを指し示すのであって。真昼が、具体的に、どこにいるのかといえば……マイトリー・サラスの中心にある、あの岩山。その中央に近いところ・その頂上に近いところであった。

 昨日の夜に、あのまま眠ってしまってから。今日の朝、午前八時ぴったりに真昼は目覚めた。まあ、真昼自身は時計を持っていなかったので、それが何時なのかという実際のところは知らなかったのだが。確かに八時ちょうどに目が覚めたのだ。

 本当に、自然に、目が覚めた。少なくとも真昼自身は自然に目が覚めたという風に思えるような目覚め方で目が覚めた。丸一日眠っていた後で目が覚めたかのように、後に引き摺るところなど何もなかった。

 いうまでもなく昨日の饗宴の残響のようなものも全く残っていない。三体再結合不全起因性現実遊離症候群は、名残さえも残っておらず。もしかして、昨日の夜に食べたデニーの氷のおかげかもしれない。

 ついこの瞬間まで眠っていたことさえ疑わしくなる、それどころか、自分という生き物がたった今始まったのかと思ってしまいそうな、爽やかな目覚め。それは苛立たしいほどだった。そして、アーガミパータに来てからの真昼の苛立ちの全てはデニーに起因している。ということは……この目覚めにも、デニーが関与しているのだろう。

 恐らくは、というかほぼ百パーセント、デニーが目覚めの魔法を使ったに違いない。カリ・ユガが降臨する時に真昼が目覚めたその目覚めの時と同じだ。被術者に対してどこまでも自然でどこまでも快適な目覚めを与えるところの、中枢神経に影響する魔法である。アヴマンダラ製錬所でそうしたようにベッドに飛び込んできて起こしても良かったのに、それをしなかった、真昼に気を使ったのか、気を使ったと思わせようとしたのか、それとも何か全く別の理由があるのか。

 なんにせよムカつく。なんとなく余裕を見せつけられたようで、なんとなくすかしている感じがして。なんでそんな気持ちになるのか真昼自身にもさっぱり分からなかったが、どうもこうもなく、デニーの対応にそんな感覚を抱いたのだ。内臓の奥で恍惚が煌めいているような爽やかな目覚めでありながら、真昼はぎりぎりと歯ぎしりをしていた。

 デニーの思い通りになるのが嫌だった、とにかく嫌だった。思い通りになるというのは、具体的にいえば、清々しい幸福な気持ちとともにベッドから起き出すということである。死んでもそんなことはするもんかという気持ちが、胸の奥で燃え盛っている。だから、真昼は……目が覚めてからも、暫くの間は、ベッドから出ていかなかった。

 開いたばかりの目、きらきらとした輝きがこぼれ落ちてしまいそうなくらいにアウェイキングな目を、無理やりに、また閉じる。誰かに飼われている去勢された猫のように、ぐーっと、甘やかな伸びをして。それから、朝になっても未だにしがみ付いてきているマラーの体、柔らかく包み込むように抱き締めた。ちょうど抱き枕にするみたいにして、ぎゅっと抱き締める。

 マラーは……真昼とは違って、目が覚めてはいないようだった。それに、真昼に抱き締められても目覚めることはなかった。なんだか、んー、とか、あー、とか、そんな寝惚けたような声を出して。それから、真昼のことを抱き締め返しただけであった。

 そうやって、真昼は、二度寝をしようという決死の努力を開始した。二度寝というのはそもそもそのような果敢さによって行うものではないのではないかと思わなくもないが、真昼はそうした。力いっぱい瞼を閉じて、出来る限り何も考えないようにして。それから、自分の呼吸に合わせて数を数え始めた。夜、眠れない時に真昼がよくしていることなのだが。出来る限り規則正しく呼吸をして、それに応じた数を数える。息を吸う時に、一、二、三。息を吐く時に、一、二、三。それぞれ三回のカウントを行うので、一度の呼吸で六回のカウントを行うことになる。

 確か、これは男ではなく女に教わったことだったと思う。男の数と女の数とを同数にして行われる食事会、いわゆる合同カンパニーというやつで、隣の席に座っていた女だ。どうも真昼が非常に若いらしい(当時十四歳)ということに気が付いた女は、その食事会の間中、なにかれとなく世話を焼いてくれて。そのついでに、この方法を教えてくれたのだ。食事会の後、真昼はある男の家に、その女は別の男の家に、それぞれ連れて帰られて。その後は、二度と会うこともなかったのだが。この方法だけは覚えていて、眠れない時は、ずっとずっとそうしているのだ。

 本当にこれが役に立つのかどうかということは分からない。とはいえ、これをすると、なんとなく精神的に落ち着いてくるというのは事実だった。そして、真昼が眠れない時というのは、なんとなく不安で心臓がどきどきとうるさい時が多いので、これをすると眠れるという時もなくはなかった。

 しかしながら、とはいえ。今はそういう時ではない。満ち溢れる幸福で心臓がふわふわと浮かび上がってしまいそうな、そんな気持ちなのである。ということで、いくら精神的に落ち着いたところで無意味だった、それどころか、ぼらぼらと煮え立つような苛立ちが消え始めて。かえって、自分が馬鹿みたいなことをしていることに気が付き始めることになってしまった。

 あたしは何をしているんだろう。目が覚めたのなら起きればいいじゃないか。しかも、その上、いつまで経ってもデニーが起こしに来る気配はなかった。まるで、真昼がしていること、何もかも分かっているとでもいうみたいに。いや、「みたいに」ではないだろう。あの男は分かっている。真昼程度の下等生物の考えていることなど、最初の最初から、お見通しなのである。

 一、二、三。四、五、六。七、八、九。十、十一、十二。数を数えるたびに、どんどん空しくなる。二百一を数えた辺りでとうとう耐えられなくなってしまった。そもそも、息を吸うごとに三つの数を数えるというシステムは、三桁を数えるということについてかなり無理があるのだ。やってみて貰えば分かるのだが、百十二、百十三、百十四辺りで結構苦しくなる。

 マラーを胸に掻き抱いたままで、真昼は、また眼を開いた。青イヴェール合金を織り込んだカーテンが、すました顔をしてゆらゆらと揺れている。その向こう側に光が見えていた。今日という日の光、朝という知らせを携えてやってきた光が。

 真昼は、ベッドの上に起き上がった。マラーのことを離して上半身だけを起こす。右の手を頭の中に突っ込んで、がりがりと掻き回す。少し、というのも憚られるくらい寝癖がついていた。どうしてそうなるのかは全然分からないのだが、ひどく酔って、酔い潰れて、それから倒れ込むようにして眠った次の朝。真昼の髪には、なぜか必ずひどい寝癖がつく。これは理屈で考えればちょっとおかしいような気がすることで、寝癖の原因は髪に水分が含まれたまま眠ってしまうということだから、特に、風呂にも入らずに寝た今回のケースなどは、どう考えても寝癖などつかないような気がするのだが。実際は、御覧の通りの有様である。

 まあ、真昼が疑問に思ったことをちゃんと調べない浅はかな人間だからそう思うだけであって、これにはきちんとした理由があるのではあったが。簡単なことで、要するに寝汗をかいていたというだけのことである。ひどく浮かれ騒いだ夜、たくさんの物を食べたくさんの物を飲んだ日の夜というのは、大抵は、全身の水分が不足しているものなので。どうしても、べたべたした蒸発しにくい寝汗をかいてしまうのだ。そんな寝汗が、一晩中、真昼の髪に纏わりついて(長く伸ばした髪ではなく乱雑に切りっぱなした短髪なのでなおさら纏わりつきやすい)、結果としてそうなっているだけのことである。特に今回のケースなどは、真昼はマラーのことを抱き締めて眠っていたのであって。自然と体温も上がり、寝汗をかきやすかった。ただそれだけのことである。

 寝癖だらけの髪を、ひとしきり掻き乱した後で。真昼は、抱き着いていたマラーの腕を、自分の体からそっと離した。マラーが目を覚まさないように、柔らかくその腕に触れて。崩れやすい古書に積もった埃を払うように、静かに静かにどかす。それほど慎重にならなくても、ちょっとくらい乱暴にしたところでそう簡単には目覚めないということは、昨日の経験から分かっていたことではあったが。とはいえ、念には念を入れてだ。

 それから、ぐっと前の方に乗り出すみたいにして、ベッドの上に両方の膝をつく。膝立ちになるという感じではなく、両膝をついて、両手をついて、そんな姿勢だ。そこから真っ直ぐに這っていって、ベッドに寝転がった時に足元となる方向へ這い進んでいく。シーツの上、水面のように滑らかなシーツの上。

 ベッドの縁に着く。

 そこまで来てから。

 ようやく膝立ちになる。

 それから。

 さっと。

 カーテンを開ける。

「おはよう、真昼ちゃん。」

「おはよう、デナム・フーツ。」

 こうして、二人は朝の挨拶を済ませたのだった。それからも、まあ、「マイトリー・サラスの中央にある岩山からカーラプーラを見下ろしている真昼」という現在の状況までには色々なことがありはしたのだが。別に大して重要なことが起こったというわけでもないので、何があったのかということをささっと書いてしまって終わりにしても構わないだろう。

 相変わらず素っ裸だった真昼が、レーグートの持ってきた服を着た。昨日まで着ていた物と大体同じような一式、丁字シャツとジーンズとスニーカーとだったが、またもや真新しいものになっていた。とはいえ、ASKの時とは違って、全く同じ物というわけではなく、メーカーが少し違っていたりしたのだが。このカリ・ユガ龍王領という場所で、大急ぎで手に入るものを揃えたのだろう。ただ、大した違いではなかった。

 マラーのことを起こした。起こしたのは真昼だ。それから、これもまたレーグートが持ってきた水だのなんだのを使って、真昼とマラーとは身繕いを済ませた。ここには洗面台も何もないので、レーグートが持ってきた物を使わなければそういったことは出来ないのである。ちなみに、マラーは、真昼と出会うまでは朝の身繕いなんてしたこともなかったが。なんとなく真昼の真似をして、同じことをするようになったのだ。

 真昼とデニーとがちょっとしたことでひとしきり言い争いをした後で(マジでちょっとしたことなのでこの言い争いについては完全に割愛します)(言い争いというよりも真昼ちゃんが一方的に怒鳴り散らしているだけという感じでした)(デニーちゃんはけらけら笑いながらごめんごめんと謝ってただけです)この部屋から出ていくことになった。何か魔学的な原理で動いているらしい短距離テレポートによって、デニーと真昼とマラーとは、いつの間にか部屋の外側にいて。それから、階段を下りて、食堂へと向かうことになった。

 食堂といっても、昨日の夜に饗宴があったのと同じホールであった。ただし、食事の形式は、昨日の夜とは少し違っていて。踊っている者も歌っている者もいない、非常に物静かな形式であったが。長い長いホールの両側には、ずらりとカーラ・ナンピアが並んでいて。その一人一人が給仕であるらしかった。テーブルの上には、これは昨日の夜と同じように、デニー・真昼・マラーの三人だけでは食べ切れないほどの量の食事が並んでいて。一つの料理に少し手を付けるだけで、給仕が、それを皿ごと取り換える。そのたびに山と盛られた料理が運ばれてくるのである。

 食事の内容は、朝食に相応しい、比較的軽めのもので。饗宴に出てきたようなヘビーな感じではなかったし、何より、ソーマの噴水は撤去されていた。アーガミパータでは、あれを朝から飲む者も少なくないのであるが。外の世界では、朝からああいう物を飲む者はあまりいないということへの配慮であったのだろう。

 朝食をとりながら、真昼は説明を受けることになった。デニーから、今日の会合について。朝食をとってから、少し食事休憩を挟んで、九時頃には出発するらしい。このエーカパーダ宮殿を、入ってきた方向とは反対の方向から出ていく。橋を渡って、あの岩山へと向かう。ちなみに、あの岩山には具体的な名称は付けられていないということだった。あの岩山はあまりにも真聖なものであって、カリ・ユガ龍王領に生きる者にとっては、あの岩山以外に岩山はないという、唯一の岩山であるからだ。ただ「岩山」というだけで事足りる。

 岩山に着いたら、頂上へと登っていく。そこに、カリ・ユガがいる場所へと続く穴が開いている。その穴から中へと入って、地下に向かって、下りて、下りて、下りていき。そして、カリ・ユガとの謁見を許される。真昼的には、あまりカリ・ユガと会うということについて気が進まなかった。なんとなく、本当になんとなく、嫌な予感がしたのだ。何かが起こりそうな気がする、自分自身という観念にとって、とてもとても良くない何かが。真昼は、マラーと一緒に、ここに残っていたかった。

 けれども、どうやら、デニーの話によれば、真昼もついて行かなければいけないらしい。それに、なぜかマラーも。カリ・ユガとの謁見に立ち会うのが当然だという口振りだった。真昼は、一瞬だけ、そんなことはしたくないと言おうとしたのだが。こう、怖がっている、恐れている、そんな風に思われるような気がして口に出すことが出来なかった。デニーに馬鹿にされるなんていうことは、死んでもごめんだったからだ。

 カリ・ユガと何を話すのか、念のため、もう一度だけ聞いておいた。不安だったからだ。何が具体的に不安なのかということは分からなかったが。話は、昨日聞いた話と何も変わるところはなかった。REV.Mとの戦闘に備えて兵器を一つ借りるということだ。その兵器は凄まじい破壊力を持つ物であって、それがこのカリ・ユガ龍王領に現存しているということは確かな事実である。昨日、デニーが、実際にそれを見てきた。

 おかしいところは何もない、嘘はついていないだろう。けれども、何か、とても重要なことを話していないような気がした。もう少し正確にいえば、デニーにとっては些細であるが真昼にとっては重要なこと。ただ、それについてどう問い詰めればいいのか分からない。だってデニーは些細なことだと思っているのだから。それを話さなければいけないなんて夢に思っていないに違いない。

 なんとなくもやもやとした気持ちを抱えたままで、その話を終わるしかなかった。それから、朝食自体も。マラーは、こんなに豪華な食事を見るのは初めてだったのだろう。ほとんど手を付けなかった真昼とは違って、食べられるだけ食べているといった感じだった。とてもとてもお腹が一杯という感じ、幸せそうに食事を終えた。ただし、手を付けた後にどこかへと運ばれていく料理について、少しもったいなさそうな顔をして見ていたのだが。

 休憩の時間には、ヨーガズを飲みながらの休憩となった。なんとなく不穏な感じの沈黙が流れて、真昼はそれに耐えることが出来ず、早めに切り上げることにした。そういえば、デニーは、朝食にもヨーガズにも手を付けていなかったような気がする。気のせいかもしれないが、そんな気がする。

 食堂を出て岩山へと向かうことになった。ここに辿り着いた時に通ったのとは反対側にある回廊を通って、宮殿の裏側へと歩いていく。あるいは、門の入口のある側から出口のある側へと歩いていく。歩いている時に、ほんの少しだけ奇妙な感覚があった。真昼のように感覚を強化されていなかったら気が付いてもいなかったであろうくらいの、それどころか、気が付いていたとしても錯覚なのではないかと思ってしまう程度の。非常に抽象的な、歪んでいるような感じ。恐らく、これが、承認されている者しかこの門を通すことがないという、神学的な力なのだろう。

 宮殿の外に出ると青い空の下であった。ちょっと不気味なほどの快晴だった。春先に、黒い色の揚羽蝶が飛んでいるところを見たことがあるだろうか? ひらひらと羽をはためかせて、どこに行くともしれずにゆらゆらと揺らめいていく黒い影のようなもの。正常な世界に開いた異形の穴のように見えるもの。ああいうものを見る時に感じる不吉の感覚と、この青い空を見る時に感じる不吉の感覚は、恐らく同種のものだ。美しい自然というものが、実は人間に対して友好的ではない、それどころか人間には全く無関心であると知った時の、底知れぬ怯えのようなものだ。

 橋を通って岩山へと渡る。橋はよかった、少し広過ぎるような嫌いはあったが、とはいえ普通の橋だったからだ。反対側に渡されていたのと同じ、きちんと舗装された人工物だということ。けれども、岩山は違った。

 岩山だった。マジで、ただの、岩山だった。普通はさ、ほら、あると思うじゃん。上まで登っていくためのルートみたいな何かが。いや、そりゃケーブルカーみたいな物を期待していたわけじゃないよ? でもさ、ここって、一応は聖地みたいなアレってわけだよね? じゃあ階段みたいな物くらいは作られててもいいでしょ。月光国の聖地だって、そりゃあお世辞にも人間にとって移動しやすいものではあるとはいえないが、そこそこ舗装された道くらいは作られているものだ。神社に向かうための石段とか獣道とか、それくらいは作られている。

 しかしながら、ここにはそんな物は一切なかった。本当に、自然そのもの(正確にいえばカリ・ユガが作った岩山なので自然そのものではないのだが)という感じの、岩しかない場所。階段が作られていないどころではなく、少しでも岩を削った痕跡さえも見つけることが出来ないような、原理主義的ナチュラリスト向けのトレッキング・コースであった。

 ただ、まあ、それも当然といえば当然であった。そもそもの話としてここは人間が来ることを前提としている場所ではない。人間のような下等知的生命体が来るべき場所ではないのだ。この岩山に来るのはカリ・ユガと面会するためであって、龍王と会おうとするような生き物は、普通は高等知的生命体なのである。ということは、ここに来るのは、デウス・ダイモニカスだとかミヒルル・メルフィス(祭祀階級)だとか、ヴェケボサンだとかユニコーンだとか、あるいはナシマホウ界の生物に限定するならば、パンピュリア共和国のノスフェラトゥくらいなのだ。

 そういう生き物にとっては、舗装された階段であろうが剥き出しの岩山であろうが、登りやすさ的にいってさして変わるところはない。人間のように軟弱かつ脆弱な、テーブルの上から落ちたらすぐにぐちゃぐちゃに潰れてしまうプディングみたいな肉体の持ち主ではないからだ。まあ、確かに、ミヒルル・メルフィス(祭祀階級)に限っていえば、ちょっと登りにくいと思わなくもないかもしれないが。とはいえ、あの種族は非常に強い魔力を持つ。この麓からあの山頂までの距離、その程度であれば、地上よりも少し上のところ、空気を踏んで歩いていくだろう。

 そんなわけで、舗装する必要がないのである。とはいえ、舗装する必要があったとして……この岩を砕いたり削ったりするのは、ずいぶんと難しいことであろうけれど。

 このアーガミパータに来てから、色々な「初めて見るもの」を見てきた真昼であったが。この岩石も、やはりアーガミパータに来る前は見たことがなかったものだった。それには……なんとなく、こう、金属的なところがあった。ぱっと見、表面に光沢があるように見えるのである。けれども、よくよく見てみると、それは内部から光を放っているということに気が付く。外側にある光を反射しているのではなく、その岩石の内側に、何か奇妙に光輝くエネルギーが揺らめいているのだ。それは、あたかも暗い夜の内側に閉じ込められた雷電のように見えるものだった。

 そして、更にしっかりと覗き込むと。この岩石の色についても、表面だけが黒いというわけではないということが分かる。岩石の奥の奥まで、まるで星のない夜空みたいな暗黒の集合体なのだ。この岩石を構成している基本子の一粒一粒が、何か途轍もない奇跡の振動であるかのような、そんな黒い色。これは、果たして人間的な意味における物質なのであろうか? そんな疑いを抱いてしまいそうな底知れなさ。

 その岩石に指を触れてみる。確かに物質だ。指に伝わってくるのは、ひどく硬く・ひどく重く、それでいてなめらかな感触。巨人の骨に触れたかのような確かさである。ただ、その感触にも……やはり不可思議なところがあった。触れた瞬間には気が付かないのだが、徐々に徐々に触れている指先が麻痺してくるのだ。まるで、神経が焼き尽くされていくかのように。まるで、肉と骨とが恐怖に震えているかのように。

 その感覚は、岩石からすぐに手を放せば、やがては消えてなくなるものであったが。とはいえ、ずっとずっとこれに手を触れていればどうなるか分からない。なぜなら……なぜそのような感覚を感じるのかといえば、この岩石が持つエネルギーによって、触れている者の魂魄が焼かれているからである。少しくらいのダメージであれば回復することが出来るが、治癒力を超えるダメージを受けてしまえば、指先が死んでしまうこともあるだろう。

 と、この岩石は、そのような性質を持つ物質であったが。性「質」と物「質」で「質」が重なるのなんか気に食わないな。まあいいか、とにかく、この岩石は、正式名称では洪石と呼ばれているものである。武器屋の娘であって、白イヴェール合金だの赤イヴェール合金だの武器になりそうな大抵の物質は見たことがある真昼が、この物質は見たことがないというのも、それは仕方のないことであって。この物質を生成することが出来るのは洪龍だけなのだ。現在のナシマホウ界ではほとんど見ることが出来ない。恐らく、まとまった形で洪石を見ることが出来るのはナシマホウ界ではこの場所だけだろう。まあ、この場所をナシマホウ界と定義付けていいのかというのは微妙なところであるが……ちなみに、洪石の色というのは黒に限ったものではなく、その洪石を作り出した洪龍によって変わってくる。

 と、岩山についての説明はこのくらいにしておいて。そのような岩山を、真昼は登っていかなければいけないわけなのだ。真昼はというか、真昼も、そして、マラーも。今となっては海千山千ここから帰れま千となってしまった真昼にとっては、この程度の岩山を登ることくらい、クソ面倒ではあるにせよ大したことではない。とはいえ……マラーにとってはどうだろうか?

 ちなみに、蛇と洪龍とは種類が全く異なる生き物なので、蛇が海に千年・山に千年いようと洪龍になることはありません。それはそれてとして、マラーは、いくらデニーちゃん謹製身体強化の魔学式によって強化されているとしても限度というものがあるのである。もともとが、あれほど矮小な肢体・あれほど脆弱な肉体であるのであって、決して山歩きに適しているとはいえないのだ。ということで、真昼は、マラーをお姫様抱っこして運んでいくことにした。ひょいっと持ち上げた時に、マラーがなんだか慌てたような顔をして。それから申し訳なさそうに、ダクシナ語で何かを言ったのだが。真昼は「いいんだよ」「気にしないで」みたいなことを言って、にっこりと笑ったのであった。

 さて、そのようにして。

 三人は、岩山を登って。

 今、山頂の間近に。

 いるということだ。

 いやー、なんだかんだいって割と長くなっちゃいましたね、ここまでの経緯。もうちょっとぱぱっと終わらせるつもりだったんだけどな……まあ、過ぎたことをいつまでもぐだぐだといっていても仕方がない。とにもかくにも、そんなことがありまして。今の真昼は、マラーをお姫様抱っこしたまま、あの岩山の上に立って、カーラプーラを見下ろしているというわけだった。

 真昼は、眼下に広がっている災害の痕跡を見渡しながら……自分が、なんだか、とても客観的な気持ちでいるということを感じていた。しかもそれは、昨日までの、薄ぼんやりと麻痺しているかのような、心のどこかが痺れてしまっているような、そんな客観性ではなかった。もっともっと冷静な感じ。思考が隅々まで澄み渡っていて、今まで見えていなかった色々なものが見えている。そんな感じだった。

 例えば、真昼にはこういうものが見えた。あちらこちらに欠けて落ちているビルディングの残骸、その中には、元は外壁を飾っていた彫刻が落下してきた物もある。そして、更に、その中には。未だにかなりの芸術性を残している物があった。彫刻が丸ごと外壁から剥がれて、そのまま落下してきて。水の中に落ちたせいで、ほとんど傷もなくぷかぷかと浮かんでいるような物だ。そういった物は、そのまま石像として飾っても全然違和感がない物もある。そして、人々は――被災者達は――そういった彫刻の残骸を品定めしては、良さそうな物をひょいと拾って持っていってしまうのだ。後で売るのか、それとも家に飾るのか、どちらなのかは分からないが。なんにせよ実利的な生き方をしているなと、真昼は感心してしまったものだった。

 また、こういったものも見えた。先ほども少し触れた通り、上の方では、グリュプス達が各種の救援活動を行っているのだが。そのうちの一匹が、とある建物の瓦礫の上に降り立った。その瓦礫の中からは人間のものらしき手が一本突き出ていて、それは既に動いていないのだが、念のために生きているか死んでいるかを確認しに来たのだろう。と、そのグリュプスが瓦礫の上に立った瞬間に、ぐらっと体が大きく傾いだ。どうも瓦礫が脆くなっていたようで、グリュプスの体重に耐え切れず、そのままがらがらと崩れてしまったのだ。グリュプスは崩落に巻き込まれて……すてーんと勢いよく転んでしまった。そこから落下したり、大きな怪我をしたり、そういったことはなかったのだが。その様がなんだか間抜けで真昼は笑ってしまった。

 色とりどりの瓦礫が。

 そこら中に散らばっていて。

 まるで何か、真昼には理解出来ない。

 アロニク画を、描いているみたいだ。

 全ての出来事を、恐ろしくはっきりと把握することが出来た。ずっとずっと汚れたままだった眼鏡をようやく洗った後みたいに、世界の全体が透明に見えた。溶けた青い金属が、きらきらと混ざり合って、真昼の視界を輝かせている。そんな感じだ。

 要するに、それは感情についての話だった。今まで感情で見ていた世界を、今の真昼は、それではない別のもので見ているのだった。それが何なのかということは、それはちょっとよく分からないのだけれど。それでも感情ではないことは確かだった。

 そう、今の真昼の感情は、まるで他人のものであるかのようだった。スクリーンを一枚隔てた向こう側の世界の登場人物がそういった感情を感じているような、そういった気分なのだ。例えば……そもそもの大前提として、この災害はなぜ起こったのか? 見渡す限りの悲劇の理由はなんなのか? 建物は崩落し、人々は死傷し、重傷を負った人々が死にかけた野良犬のようにふらふらと行き惑っている。これらの全ての原因は、つまるところ、龍王という権力者の勝手なのだ。

 龍王が、人々に対して、なんの予防策も講じることなく帰ってきたから。龍王だって知っているはずだ。自分がどれほど偉大な存在であるかということ。「移動」というただそれだけのことで一つの都市を丸ごと荒廃させるだけの力の持ち主であるということ。それにも拘わらず、龍王は、ただただ帰ってきただけだった。

 何か、何かは出来たはずだった。だって、ほら、見て。エーカパーダ宮殿は少しも壊れていない。デニーと真昼とがいたあの宮殿には、傷一つ付いていない。町のどこにある建物よりも龍王の降臨に近い場所にあったにも拘わらず。それは、きっとなんらかの防御シールドが張られていたからだ。ということは、そのシールドによって都市の全体を覆っておくことも出来たはずだ。しかしながら、龍王領政府はそれをしなかった。

 あるいは、少なくとも、人々を避難させておくことは出来たはずだ。まあ、そういった準備の時間はほとんどなかっただろうけれど。それでも、ここは、基本的には民主主義国家ではなく完全な独裁国家なのである。政府の号令が一つあれば、都市の住民を全員避難させることなど容易いことであったはずだ。それでも、それをしなかった。

 いや、この表現は……少し違うだろう。真昼は、理解していた。もう子供ではないのだ、それくらいは分かる。このカーラプーラにいた重要人物は、避難させられていただろうということを。重要人物というのは外の世界からやってきた人々のことであり、海外政府の政治家とか大企業の重役とか教会の高位聖職者とか、あるいはBeezeutの関係者とか。そういった人々のことである。そういった人々は、テレポート装置を使って、龍王領の他の場所に移動させられていたことだろう。けれども、一般庶民にはそういうことは行われなかった。

 確かに、ここにいた大部分の一般庶民は、移動しろといわれても移動しなかったに違いない。なぜなら、これは……龍王の祝福を受ける、数少ない機会だからである。それはもちろん祝福ではないのだが、一般庶民の主観的な感覚にとっては祝福であるという意味の祝福。この都市に残っていれば、龍王が降臨するところを見ることが出来る。それだけでなく、もしかしたら、その威光に打たれて死ぬことが出来るかもしれないのだ。それはまたとない幸いであろう。神のような偉大な生き物によって死を迎えることは、生きていた時の全ての罪を許され、完全な光の中でその生を終えることだからだ……少なくとも、一般庶民の感覚からすれば。

 とはいえ、それは「一般」であって。無論、「一般」には「例外」がつきものである。もしも避難出来るのならば避難したかったという人々だっていたはずなのだ。それでも、龍王領政府は避難させなかった。それどころか、龍王の降臨を知らせていたかどうかさえ怪しいものだ。あの出来事が起こる前の、カーラプーラの、あまりにも何も知らなそうな表情から考えると。

 こういったことに、今までの真昼であれば、怒りを感じてしかるべきであった。それか、せめて、諦めているべきだ。自分が無力であることについて絶望的な思いを抱いているべきだ。けれども、真昼は、そのどちらも感じなかった。

 ああ、というか、それどころか……真昼は、このようなことさえ理解していた。これは、龍王の勝手により起こったことであるが。それ以前の話として、龍王がなぜそうのような勝手な行動に出たのかといえば、それはデニーの勝手のせいなのである。デニーが、龍王領に、龍王を呼び戻したから。そして、そのようなデニーの勝手は、もちろん真昼のために行われたことだ。

 罪悪感はどこにある? そういった事実に対する真昼の罪悪感はどこにあるのか? もちろん、それがないわけではなかった。けれども、それは、真昼がそれを生きている物語の中の、真昼という登場人物の感情としてしか認識されないものだった。これは少し分かりにくい感覚かもしれないが、とにかく、それは真昼にとっては主観的なものではなかった。客観的なのだ。

 真剣ではないわけではない。真昼は、それについて、真剣に罪悪感を抱いている。とはいえ、それを感じているのは真昼の中にいる別の真昼、フィクショナルな真昼なのである。演技というのは少し違っている、それは演技ではない。とはいえ、物語ではある。奇怪なほどの冷静さを真昼はしんしんと感じていた。

 何かが。

 変わって。

 しまった。

 粉々に打ち砕かれたカーラプーラは、今の真昼にとって、綺麗でさえあった。世界の上に張り巡らされた皮膚、皮膚としての都市、完膚なきまでに破壊された都市。それは、どこか清められたものであるかのように見えた。

 なぜなら、昨日までのカーラプーラに満ちていた、どこか卑猥でどこか猥雑な雰囲気。腐敗しかけた舞龍の死骸みたいにして、色鮮やかに沸き立っていた空気のような感覚が、昨日の豪雨によって洗い流されていたからだ。

 雑踏・雑搏、アーガミパータの太陽に照らし出されて、無限に増殖していく生命力のようなもの。繁茂して蔓延して、そこら中に満ち溢れている有機物。ごちゃまぜになった生き物の耐え切れないような悪臭が、そのほとんどが濯がれていて。風に乗ってここまで流れてくるのは、うっすらとした雨上がりの匂いだけだ。退廃は……汚いものは……消えたのだ。少なくとも、表面上は。人間という薄汚い生き物がもたらしたところの悪徳の痕跡は排除されて。それは悪性の腫瘍を外科的に摘出したかのような爽快感、風呂場の黒黴を根刮ぎにしたような爽快感であった。

 そんな清々しさとともに、真昼は、他人事としてその光景を眺めていた。例えば、こんなことを思っていた。そういえば、カーラプーラのビルディングには、窓というものが取り付けられていなかったけれど。今回の嵐で、その内側はどうなってしまったのだろう。荒れ狂う暴風によって大量の雨水が注ぎ込まれたことによって、びしょびしょになってしまったのではないだろうか。ただ、そうであったとしても……ここに住む人間にとっては大したことではないのだろう。だって、それはたかが雨に濡れただけのことで。そのくらいのことをいちいち気にしている、ここの外の世界の人間の方がおかしいのだから。

 真昼。

 真昼。

 は。

 別におかしくなったわけではない。

 自らが裁かれる前の人間なんて。

 案外、こんなもの、なのである。

 ふと、気が付いた。腕の中で、マラーが真昼のことを見上げている。なんだか心配そうな表情をしていて、とはいっても今日の真昼が昨日までの真昼とは変わってしまったということについて心配しているわけではない。マラーはたかが人間の子供であって、そんなことに気が付くほど聡いというわけではない。マラーが心配しているのは、真昼が、この岩山を登っている他の生き物達から遅れてしまっているということである。

 振り返ってみると、皆、随分と先に行ってしまっていた。都市の光景をぼーっと見ているうちに、いつの間にか結構な時間が経っていたらしい。真昼が振り返ったちょうどその時に、何かのシンクロニシティであるかのようにしてデニーも振り返った。真昼が近くにいないということに気が付いたのだろう。

 そして、暫くきょろきょろと辺りを見回していたのだけれど、やがて、後ろの方に突っ立っている真昼の姿を見つけたらしい。みんっという感じで爪先立ちになって、両方の手を拡声器みたいにして口の傍らに持ってきて。そして「真昼ちゃーん、早く来ないと置いてっちゃうよー!」と大きな声で言った。

 真昼としては言われなくても分かっていることで、そういったことをいちいち指摘されるのは本当に腹が立つことだ。とはいえ、正論であるか正論でないかと問われれば、それは間違いなく正論なのであって。「分かってる!」と怒鳴り返して、また岩山を登り始めるしかなかった。

 さて、真昼がそこに辿り着くまで、その場所で真昼のことを待ってくれているところの、他の生き物達の一隊であるが。それはなんというか……奇妙な一隊であった。いや、一隊自体が奇妙というよりも、その一隊に含まれていたところの生き物が奇妙であったというべきかもしれない。全ての生き物を合計すると九つの肉体があったのだが、そのうちの四つの肉体が、とてもとても不可思議な姿をしていたのだ。

 まずは、もちろんデニーがいる。そして、そのデニーのことを導いているのは四人のレーグートだ。ここまではいい、ここまでは理解出来る。四人のレーグートについて、そのパーソナル・トランスポーターが岩山仕様のものに変わっていて。取り付けられている多脚が、非常に頑丈な、そこまで長い必要があるかと思ってしまうほど長いものになっていたが。なんだか直翅目の後脚みたいだ、とはいえそれは些細な違いである。

 問題なのは、それらのレーグート達が連れている生き物である。レーグートの手には、まるで錆び付いたようにみえる赤イヴェール合金で出来た、長い長い鎖が握られていた。赤イヴェール合金は……錆び付くなんていうことはあり得ない。それは普通の金属とは全く異なった構造の物質なのだから。ただ、とはいえ、それが錆び付いたように劣化して、変色するということはあり得る。あまりにも凄まじい魔学的なエネルギーに、あまりにも長期間にわたって晒され続けると。赤イヴェール合金の極子構造が破綻して、物質として変質してしまうのである。

 ということは、それらの鎖の先に繋がれた生き物は――そう、それらの鎖にこそそれらの生き物が繋がれていたのだが――よほど強い魔力の持ち主であるということだ。そして、それらの生き物は、なんといえばいいのだろうか、真昼が見たことのない生き物であったというのはいうまでもないことなのであるが、こう、ちょっと、反射的に生理的な嫌悪感を抱いてしまいそうな姿をしていた。あまりにも異様なのだ。

 一つ一つ描写していこう。一番後ろの部分であるが、蛞蝓のような形をしていた。ぬめぬめとしてべとべととしている、かなり太く長い一本の尾が垂れ下がっていたということだ。ずるずると引き摺っている尾、色は赤で、内側には、何かゆらゆらと揺れ動く模様のようなものが見える。そして、その先、尾部を除いた下半身であるが、馬のようであった。内側に引き締まった筋肉が詰まっているのが見えるようにがっしりとした形、透き通るように白い色をした毛が生えている。ただ、その足は、明らかに馬のものではなかった。蜘蛛のものだ。八本ある多関節の先には、獲物を突き刺すための鋭い棘がついている。ここまでが下半身である。次に上半身について書いていきたいのだが、その前に下半身と上半身とを繋いでいる部分について触れておくべきであろう。要するに腹部のことである。その部分は……昆虫のそれであった。鎧のような甲殻に覆われ、幾つかの腹節に分かれたものだったということだ。

 さて、ということで上半身だ。胴体であるが、これは蛇のようであった。細く長く前方に伸びていて。ただ、腹側は鱗で覆われているのだが、背側は羽根で覆われていた。羽毛と呼ぶよりも羽鱗と呼んだ方が相応しいであろう、魔力によってうっすらと輝いていて、その体が動くごとに様々な模様を見せる、色とりどりの羽根。それから腕であるが、四本ついている腕は、それらの全てが獣のものであった。しかも猫科の獣である。高度な把持性を持つそれらの指先には、あらゆるものを引き裂いてしまいそうな鉤爪がついているらしいのだが、普段は指先の内側に隠れていて見えない。上半身の中で最も見るべきものは……背についている巨大な二枚の翼であろう。普段は胴体に巻き付けられていて、邪魔にならないようになっているが。蝙蝠のものによく似ている皮膜で出来た翼であった。また、その翼と翼との間、背中の真ん中には、どう考えても陸上では必要ないように思える一枚の背鰭が生えていた。

 最後に頭部である。頭部に至るまで、すなわち首についてであるが、すらりと長いその首は両生類のものであった。粘膜に覆われた薄い角質層には鱗のようなものは見えない。そして、首筋には、裂けたような形をした幾つかの穴が開いていて。それらはどう見ても鰓であった。そして、そんな首が、かなり長く続いていて。その先には……実は、何もなかった。頭部らしきものが存在していないのだ。その代わりに、その首の先端に、直接口が開いていた。首の切断面の全体が口になったような巨大な口であり、内側には、まるでのこぎりか何かのようにぎざぎざとした歯が、幾重にもなって生えている。その口が、パクパクと開いたり閉じたりしているのである。最後に一点だけ、触れておかなければいけないことがあるのだが。その口の周囲についてだ。その口の周囲には、首筋から口の向こう側に向かって伸びている四本の角が生えていて。それらの魔力を帯びた角は、デウス・ダイモニカスのそれだった。

 それでは、それらの生き物はデウス・ダイモニカスなのか? いや、違う。デウス・ダイモニカスは、これほどまでに奇妙な肉体を持つ生き物ではない。それどころか……よく見れば、その翼はノスフェラトゥの翼であった。腕はヴェケボサンのそれだし、胴体はユニコーンのそれだし。その他の部分も、それぞれが様々な生き物を想起させるものであって。つまり、それは、合成生物なのだ。しかも、多種多様な高等知的生命体だけを繋ぎ合わせた合成生物。そういった生物から頭部を奪い取って、訳の分からない形をした口を取り付けたもの。

 全体的な大きさとしては、象一.五頭分くらいの高さに象一.五頭分くらいの長さがあるだろうか。人間など遥かに超えてガジャラチャに匹敵する大きさだ。悍ましいほどの異形であり、それでいて、悍ましいほどの魔力を持つ。これも、カーラプーラの卓越した混合法則学によって作られた一種のカーラナンピアだった。ただし、人間のような脆弱な生き物は一切含まれていないが。一般的なカーラナンピアと区別するために、この生き物はマハーミクシャと呼ばれている。

 恐らくは、舞龍よりも強力な魔力を持っているだろう。それどころか、その魔力は、フォー・ホーンドのデウス・ダイモニカスを超えるほどであった。ただ、とはいえ……あらゆる意味での知性を有しているわけではない。その肉体には、自分で自分を動かすことの出来る中枢神経のようなものは存在しておらず。あらゆる動作を外部からの入力に頼っている。そして、その入力については、たぶん、鎖を持っているレーグートが行っているのだと思われた。どのような方法で行っているのかは真昼には分からなかったが。

 とにかく、そのような生き物が。

 一隊に同行していたのであって。

 マラーなどは、間違いなく怪物と呼んでいいその姿を見て、最初はひどくおびえていたものだったが。今となってはすっかり慣れてしまったようだ。別に危害を与えてくるわけでもないし、それに、これほどそばに真昼がいるというのに何を恐れることがあろうか? 何があっても、真昼なら守ってくれるに違いなのだ。

 それはそれとして、なぜこのような生き物が同行しているのかということ、真昼にはさっぱり分からなかった。何か理由があるのだろうが(まさかただ散歩させているだけというわけではあるまい)、この生き物について、デニーは、朝食の時には一言も触れていなかったので。その役割がなんなのかということ、それどころか、この生き物がマハーミクシャと呼ばれる合成生物であるということについても、真昼は全然知らなかったのだ。

 ただ、とはいえ、この生き物についてデニーに質問するというのもなんだか腹立たしかった。デニーから積極的に説明してくれる分には構わないのだが、知識の施し物を恵んで頂くためにデニーに対して積極的に働きかけなければいけないということが許せないのである。それに、別に質問しなくても、そのうち全てが明らかになることだろう。そんなわけで、真昼は、そのなんだかよく分からない生き物については、なんだかよく分からないままにしておくことにしたのだった。

 さて。

 そんなこんな。

 一隊について説明しているうちに。

 真昼も、一隊に追いついたようだ。

 再び、一緒になって岩山を登り始める。山頂は間近であった、すぐそこだ、ほら、黒い岩壁が途切れて空が見える。あそこが山頂である。どうも……かなり広い場所になっているようだ。その気になれば巨大な城を一つ立ててもまだ土地が余りそうなくらいの広さがある。直径にして一エレフキュビトくらいか。

 があおがあおと、一つの都市を、それどころか一つの領土の全体を潤せるような量の水が流れ落ちていく音。そんな音が、少し遠くの方で聞こえている。例の巨大な蛇の彫刻から、壮大にして雄大な態度で流れ落ちていく水の音である。それを聞くともなく聞きながら、ごつごつとした岩の最後の一歩を超えると。

 その先に。

 その場所、が。

 広がっていた。

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