第二部プルガトリオ #50

 ああ、その瞬間に。

 何もかもが消えた。

 信性。

 信性。

 信性。

 信性。

 愛廉。

 愛廉。

 愛廉。

 愛廉。

 冠華の律令。

 罪庭の律令。

 蛙贄。

 蛙戯。

 空はれいかせて。

 時はなるざみて。

 救いが、徹裸の救いが。

 裁きが、徹裸の裁きが。

 賭尋のゆえに。

 他藍のゆえに。

 睨名のゆえに。

 あらゆる、全て、を。

 虚偽の無債に平斃し。

 それは。

 確かに。

 救いのない。

 憎悪だったのだ。

 それは。

 確かに。

 裁きのない。

 欲望だったのだ。

 そして、ああ、逆説。

 そして、ああ、逆接。

 龍王が。

 龍王が。

 何もかも破する龍王の光が。

 何もかも壊する龍王の鳴が。

 崩々の。

 原理を。

 証明する。

 と、まあ、久しぶりにポエマーをぶっかましてしまったわけですが。いや、さすがに「崩々の原理を証明する」はだせぇわ。言語センスの欠片も感じられません。どこがださいのかといえば、まず「崩々」という単語にひねりがなすぎるというところ。何も思い付かなくて取り敢えず同じ字を二つ重ねてみましたというヤケクソな感じがまるで拭えていない。しかもその字が「崩」というところがまた駄目。全然なってない。文字そのものが持つ力に頼り切りであるという怠慢さが目に見えている。それから、「原理を証明する」ね。この比喩表現、ここで使うのが最初ならまだしも、似たような表現を何回も何回も使ってるからさ。こう、新鮮味がないんだよね。それと意味がダイレクトに出過ぎてる。比喩がもたらす遊離感のようなもの、理解からの距離が十分ではない。ここは現実離れした現象を表現しようとしているシーンなんだから、もう少し意外性のある比喩を使って欲しい。もちろん、いうまでなく、この「崩々の原理を証明する」以外の部分もなってないんですけどね。とにかく、全体としてみてここは全然駄目です。「これ以外の表現を思い付かなかったんだよー」みたいなことを言い訳するかもしれないですが、それならこういう表現方法を使わなければいいだけの話ですよね。ちゃんとした情景描写、こんなにポエマーな表現ではなくリアリストな表現、それで何がいけないんですか? 実に嘆息、要するにですね、あなたの才能のなさを新奇な奇妙さで補おうとしてまるで失敗しているだけです。とてもではないですが合格点をあげることは出来ませんね。次はもう少し頑張りましょう。

 そ、そこまでいわなくても……と思ってしまわなくもないが。とにもかくにも兎の雪隠、このポエポエなポエマーで何がいいたかったのかといえば。このタイミングで何が起こったのかといえば、デニーちゃんが言った通り、カリ・ユガが帰ってきたということだ。いや、まあ、あまりにも凄まじい凄まじさが凄まじかったので、実際にカリ・ユガが帰ってきたのかどうかということはよく分からないのだが。それほどまでに凄まじい何かを引き起こすことが出来るのは龍王くらいのものであるということ、それに、強くて賢いデニーちゃんが間違ったことを言うはずがないということ。その二つを考え合わせると、恐らく、それが起こったのだろう。

 端的にいえば、それは一つの落雷であった。そう、落雷であった。今まで外の光景に広がっていたもの、空に向かって放たれる雷。そういうものではなく、天から地に向かって落ちてくる雷であった。ただ、その雷を雷として認識することは、人間の感覚には完全に不可能なことであった。何せデニーの魔学式によって強化されているはずの真昼の感覚でさえそれを雷として感じ取ることは不可能であったのだから。それは光であったのだが、光という言葉で定義されうる範囲を超えていた。それは音であったのだが、音という言葉で定義されうる範囲を超えていた。それは、ただ単に、この世界にある全てのものを消し去るエネルギーの暴走だった。

 もちろん、ここでいう消し去るというのは比喩表現である。つまり何がいいたいのかといえば、そのエネルギーが発する情報量があまりにも多過ぎて、それ以外の全ての情報が、観察者の神経系から吹っ飛ばされてしまったということである。真昼の思考から、その光と、その音と、あるいはそれに関するなんらかの感覚、そういったもの以外の何もかもは失われて。真昼は、その一瞬だけ、それであった。真昼は、真昼の思考は、まさにそのエネルギーと同化したのだ。思考の中にそれ以外のものがないというのならば、真昼はそれであるしかない。それほどまでに、人間という卑小な生命体にとって、その落雷は偉大なる現象であったということだ。

 ということで、それが起こった時の真昼の状態は「何が起こったのか分からなかった」というレベルではなかった。その瞬間、真昼は、確かに自分ではなくなっていたのだ。自分ではないのだから、そもそも稲妻を見ることも霹靂を聞くことも出来ない。その瞬間だけ、真昼という生き物は完全に失われていて。そして、次に気が付いた時には、真昼は仰向けに横たわっていた。

 あれ? 何だっけ? 真昼はそう思った。それから、一気に記憶が戻ってくる。ああ、そうだ、自分は……自分は、デニーに馬乗りになっていたんだった。でも、それなら、今の自分はどうして天井を見ているのだろう。

 どうも、自分の記憶の中の一部分がパーフェクトに吹っ飛んでしまっているようだ。人間という生き物の不完全な記憶など、ちょっとしたことでなくなってしまってもなんの不思議もないけれど。一体何があったのかな。

 なんだかふわふわとしていて、考え方をまとめることが出来ない。なんとなく幸せな気分なのだ、それでいい気がする、別に考える必要なんてない気がする。このまま幸せでいることの何がいけないのだろう。何もかも忘れてしまって、自分自身であるという、何よりも無意味な拷問さえも忘れてしまって。拷問には、あはは、馬鹿みたい、人間は、拷問には何かの意味があると思いたがる。自分はこれほど痛みを覚えているのだから、何かそれに値する崇高さがあるのだと。そんなわけないよ、バーカ。馬鹿は死ぬまで無意味に苦しんでろ。あたしは、あたしは、ずっと寝てるから。学校なんて行かないで、ずっと寝てるから。

 そんな風に。

 ぼんやりと考えている真昼の顔。

 デニーが、ひょんっと覗き込む。

「わあ! 真昼ちゃん、大丈夫?」

 いうまでもないことであるが、本気で心配している様子なんて欠片もなかった。両方の手のひらを、ほわんと合わせて。それを自分の唇にちょっとだけ触れさせて、それから、ぱかーっとお口を開いている。いかにもわざとらしい、「驚いています」のジェスチュアだ。真昼は、そんなデニーのことを見ていると、心底から怒りが沸き上がってきたのだが、同時に自分がとんでもない阿呆であるかのようにも感じられた。何がどう阿呆なのかは分からないのだが、ここには深刻に捉えるべきものなど何もない。なぜならデニーがいるからだ。

 さて、それはそれとして。なんにせよ起き上がらなくてはいけないだろう。このままずっと寝転がっているというのも、やっぱり阿呆みたいなことだからだ。とはいえ、真昼は……どうも腰が抜けてしまっているらしい。いや、腰どころか体の節々が抜けてしまっているようだ。ということで、立つこともままならないどころか上半身を起こすことさえままならない状態だった。

 起き上がらなければいけないとすれば、誰かの手を借りなければいけないということだ。だから、真昼は、辛うじて動かすことの出来る右手を軽く差し上げる。それから、相変わらずムカつく顔をしてこちらを見下ろしているデニーに向かってこう言う。「早く」「ほえ?」「起こしてよ」。それに対してデニーは、「はーい」と元気よく返事をしてから真昼の手をきゅっと握った。

 こんなことが……こんなことが、前にもあったような気がする。なんらかの理由で地面にぶっ倒れて、起き上がれなくて、デニーに起こして貰ったことが。けれども、真昼は、それを無理に思い出すようなことはしなかった。遠い遠い記憶だ、それは、今、この時に、必要なものではない。

 デニーがぐいーっと引っ張る。

 真昼は、それで、起き上がる。

 不思議なことに、ちゃんと立てた。驚くほど普通に、膝ががくがくしたりすることなく、体の芯がふらっとすることなく。デニーが何かしたのかもしれないが、何かをしたとして真昼には関係のないことだ。自分の体のことだからといって自分が責任を持たなければいけないというわけではない。それよりも、今、重要なのは、ついさっき何が起こったのかということだ。だから、すぐ横のところに立っていて。両手を背中の後ろでぽみんと組み合わせて、いかにも可愛らしく、くらんくらんと、モダムルーリスか何かのように体を左右に動かしているデニーに向かって。真昼は、こう問い掛ける「ねえ、何があったの」。それから、少し考え直してこう問い直す。「あたし、なんでここに倒れてたの」。

 「えー! 真昼ちゃん、デニーちゃんのお話聞いてなかったの?」「あんたの話なんて、聞く価値もない」「あはは、真昼ちゃん、ひどーい!」「いいから、早く教えてよ」「だ、か、らー! カリ・ユガが帰って来たんだってば」「え?」「カリ・ユガが帰って来たの」。なんだか、確かに……何もかもが消えてしまう一瞬の、そのほんの少し前に、デニーが言っていた気がする。そんなことを。けれども、それだけでは分からない。その情報だけでは、何が起こったのかということは正確には分からない。

 どうも……真昼が理解していないらしいということは、それなりの如実さだったらしく。デニーも、自分の説明が良くなかったということに気が付いたようだ。「うーんと、えーと」とかなんとか言いながら、暫くの間、両腕をばーっと上げて、腰の辺りから体を傾げて、何かを考えていたようだったけど。やがて、その両腕をばしーんと下ろしてから(なんで上げてたの?)、こう言う「分かった、じゃあ見せてあげる」。

 真昼は、もちろん「は?」と答えた。いや、答えたっていうか「は?」は「は?」であって答えではないのだが、とにかく、あんたが何を言っているのかあたしはさっぱり理解出来ていません、という意味合いの意思表示をしたということだ。けれども、デニーはその「は?」に対しては特に反応を示すことなく。真昼が何もかも分かっていないなんていつものことだ、だからデニーは「ちょーっと、お顔に触るね」とだけ言った。

 当然のことであるが、こんなことを言われれば、真昼は拒否するだろう。デニー、デニー! デニーになんて、触られるのも嫌なのだから。なんでそんなことされなきゃいけないんだよ、とかなんとか言いながら、めちゃめちゃ抵抗したに違いない。とはいえ、デニーが本気を出せば、その動きは人間のような下等生物に認識出来るようなものではないのだ。いや、まあ、このタイミングで本気を出すことはしなかったし、そもそも今のデニーは本気を出せないように力を封じられている状態なのだ。とはいえ、それで十分だった。自分の動きを、真昼に気が付かせないのには。

 ということで真昼にはあーだこーだいうだけの時間さえ与えられなかった。デニーがその言葉を発して、その次の瞬間には、デニーの指先が触れていたのだ。前頭部、ちょうどおでこの真ん中のあたり。

 何かのしるしをつけようとでもしてるように、中指の先で、ちょんっと触れただけだった。真昼は、ようやくそれに気が付いて。「な……」と声を上げようとしたのだが……その前に、それが始まっていた。

 歪む。何もかもが歪む。視覚で捉えられるものも、聴覚で捉えられるものも、他のあらゆる感覚で捉えられるものも。ちょうど……プラスチックの板に描いた絵、そのプラスチックの板をオーブンで温めたせいで、くにゃくにゃと、中心に向かって捻じれていくように。そして、それが歪んでいくとともに、真昼が感覚で捉えている世界は、全く別のものに変化していく。

 いや、全くというほど違うものではないかもしれない。それは、要するに……ここから見下ろすことの出来る窓の外の光景だった。しかも、たった今の光景ではなく数分前の光景。要するに、真昼が見ているものは、あれが起こる直前の光景であった。

 あと、それから、感じているものだけではなく、真昼の感覚そのものも変わっているようだった。なんだか分からないのだが、それは言語で表すことが出来ないからである。それは人間の感覚ではないため、人間の言語が有する語彙では表現出来ない。

 自分の中にそれを指し示すところの観念がないので、意識として経験することが出来ないのである。だから、真昼は、そのまま受け入れるしかなかった。よく分からないのだがとにかくそこに存在していることを否定出来ない何かしらとして処理する。

 要するに。

 それは。

 デニーの。

 感覚の。

 一部で。

 あったのだが。

 あくまでも一部に過ぎない。デニーが感じているものの全てをある人間が感じたら、恐らくその人間は死ぬだろう。他愛もなく死んでしまう。とにかく、真昼は、そのようなデニーの感覚によって過去の世界を感じている……いや、感じようとしている。真昼が、その感覚によって、感じさせようとされているのは。今のこの光景ではない、もう少し後の光景、つまりは、カリ・ユガの帰還の光景なのだ。

 まだその時ではない。とはいえ、その時がこの上なく近付いているということは理解出来る。なぜなら、雷が、雷が、雷が、空に向かって駆け上がっていく絢爛たるエネルギーの暴虐が。既に、数秒に一回という頻度で発生するようになっていたからだ。それは、既に、一つの舞踏であった。夜の闇の中に……燦然と枝分かれし、玲瓏と張り巡らされる、栄えと滅びとの舞踏。あたかも運命の蜘蛛の巣のようにして、光は、華やかに麗らかに、真昼の眼前でのたうち回る。それは、舞踏。神々にも匹敵する力を持つもの、龍王を迎えるための舞踏。

 先ほどの真昼が、窓の外で起こっていたはずのこれほどの事態に気が付いていなかったということは驚くべきことだ。まあ、それだけいっぱいいっぱいになっていたということだろう。何にいっぱいいっぱいになってたのかは知らないが、それはともかくとして、そんな大騒ぎ、アーガミパータに相応しい乱痴気騒ぎが……ある瞬間、不意に停止した。これは、ちょっと、実際にそれを見ていないと分からないかもしれないが。そこで暴れ狂っていたはずのあらゆる現象が、夜を引き裂いていた光と音と、唐突に、何もかも消えてなくなったのだ。

 今までの全部が。

 誰も騙されない。

 下らない嘘だったとでも。

 いっているみたいにして。

 豪雨も、暴風も、消えた。

 稲妻も、霹靂も、消えた。

 それは。

 例えば。

 死の瞬間。

 真昼は死を知らないが、確かにそうであるように思えたのだ。それまで目の前にあった光、あらゆるものを打ち砕く光が消滅して。その後、完全の静寂と絶対の虚無とによって構成された、黒く純粋な真空だけが残される。真空、まばたきをしたら世界が消えていたような、そんな真空。

 何もなかった、そこには、何もなかった。もちろんだ、何かがあってはいけない。なぜならそこに迎えるからだ。塵芥は吹き飛ばされなければいけない、虫けらは掃き清められなければいけない、そうして、清められた真空でなければいけない。なぜなら、そこに、龍王を迎えるからだ。

 真昼に、感覚があった。それは決して人間の感覚ではなかったのであるが。それでも、無理やり、人間的な言語によって表現するとするのならば……それは、本を読んでいる時のそれに近いだろう。一つ一つの外的な概念を摂取するたびに、理解という領域の内部で観念の形象が結晶していく。今の真昼が感じているそれは、そういった本を読んでいる時の感覚を、文字のような記号に頼ることなく、そのままの心的現象として確認しているような感じだ。要するに、真昼は――あるいはデニーは――それが起こることを預言していたのだ。

 そして。

 もちろん。

 それが。

 起こる。

 全体が――このような神聖な一瞬を表現するのに、これは冒涜的なほど陳腐な表現であるが――全体がスローモーションで再生されているように、そんな風に真昼には思えた。実際に起こったそれは、あまりにも速やかに開始し、あまりにも速やかに終了したために、真昼程度の一般的な人間には触れることさえも適わないレベルの出来事だったのであって。真昼がその時に何が起こったのかを理解するためには、その速度を、これほどまでにスローなものにしなければいけなかったのだ。

 何が起こったのか? これについては改めてお断りしておかなければいけないのだが……起こった全ての出来事は、人間には理解不能の出来事だった。であるからして、これからそれを描写する表現は、その全てが比喩でしかないということを知っておいて欲しい。それは、人間では感覚出来ないことを、人間的な記号にまで貶めたものに過ぎない。

 まずは、空が裂けた。カーラプーラという都市の真上に広がっている広大な空が、空と呼ばれている一つの領域が、酸鼻を極めるような惨たらしさによってばらばらに引き裂かれた。それは、要するにこの世界であるところのこの次元が、もっと上位のaspectからの衝撃によって、突き破られたということである。

 それは、穴であったということだ。空に開いた穴、というよりも、この次元に開かれた穴。そして、いうまでもなく、この穴の向こう側には別の次元が定義付けられている。その次元は、ある場所からある場所まで、セラエノからカーラプーラまで移動する際の最短の距離であるとして、絶対的な理解力によって強制的に演繹されたところの、仮構された命題だ。

 つまり、カリ・ユガが御神渡りをすることによって、無理やり引き裂かれた次元なのである。アーガミパータの次元というのは、これは以前にも触れたことであるが、ひどく折り重なった多層になっている。ということで、このような引き裂き方をするためには、よほどの破滅的な力が必要となってくるが……それを、カリ・ユガは、いとも軽々とやってのけた。

 あれ、ちょっと待って。アーガミパータの次元についてのことって書いたことありましたっけ? 時空間のことについては説明した記憶があるんだけど、もしかしたら次元のことについては何も説明してなかったかもしれない。まあいいや、以前に触れたことがなかったらごめんなさいね。とにかく多層になってるんです。色々とあって。

 それでですね……しかも、これは重要なことなのだが、次元を引き裂くというのは御神渡りの本質的な部分ではないのである。御神渡りとはあくまでも移動の方法であって、移動するルートを作る方法ではない。このように次元が引き裂かれたのは、あくまでも、カリ・ユガの持つ観念的な力があまりにも強過ぎるせいで、次元という観念がそれに耐え切れず、自然に裂けてしまったというだけの話なのだ。付随的な現象に過ぎないのである。

 さて。

 そのようにして。

 開かれた、穴が。

 黒い。

 黒い。

 閃光を。

 放ち始める。

 そう、それは閃光であったはずだ。とはいえ、今、真昼が見ているものは、真昼が感覚出来る程度の速度まで落とされたものであったが。黒い色をして……無限の墜落のように、永遠の沈黙のように、黒い色をして。それは、光り輝いているように見えた。

 しかしながら、それが光であることはあり得るだろうか。それは光であるよりはむしろ暴力といった方がいいようなものだ。殲滅・殺戮・崩壊・破砕。そういった、抵抗することさえ不可能な、あらゆる完全な暴力が、その黒い何かの中に充満している。

 満ちている、満ちている。世界の存在における一つの頂点として、世界の概念における一つの頂点として、満ちている。そう、それは……まさに黒い龍雷であった。その内側に、普通ではあり得ないほどの破壊の力を包含してしまったがゆえに。白ではなく、むしろ黒によって輝くこととなった龍雷が、今にも天から地へと向かって落雷せんとしている瞬間なのだ。

 それから。

 いうまでもなく。

 その瞬間の後には。

 起こらなければ。

 いけないことが。

 起きる。

 熟し過ぎた運命が弾けるようにして、それが弾けた。光が、光が、さんざめく光が、紫よりも遥かに高いところを超えて、赤よりも遥かに低いところに沈んで、そこら中にばら撒かれる。誰かとっても素敵な子供のおもちゃ箱が破裂して、その中に隠してあった災害が撒き散らされたみたいだった。もちろん、それは光ではなかった、それは魔法だ、魔学的な論理によって、世界の上に書き散らされた、人間には知る由もない法律の数々。それをびりびりに破いて紙吹雪にして、ぱあっと、降りしきる、意味をなさない観念。

 そして、そのようにしてあらゆる観念を無効なものとしながら。一つの、必然が、落ちてくる。人間は……それを……見上げているしかない。何も出来ないのだ、ただただ涙を流しながら草を食む羊、羊、羊の群れ。それを畏れよ、それを讃えよ、それを崇めよ、それを拝せよ。どこに逃げても無駄だし、声の限りに叫んでも無駄だ。羊はラム・チョップになるしかないし、豚はポーク・リブになるしかないし、牛はビーフ・ステーキになるしかないし、鶏はチキン・ナゲットになるしかない。そして、人間は、人間は……フーリッシュ・ヒューマン・アイボール・キャンディーズ。ああ、見上げている。あたしの目、二つの目は見上げている。そして、それは、落ちてくる。

 立ち竦む。

 あたしは立ち竦む。

 それが奇跡だからだ。

 怖いわけではない、暗くはないから。

 だけど、あたしは、震えている。

 性の絶頂に対する期待にも似た。

 本当の救いへの、期待のせいで。

 震えながらそれを見上げている。

 あたしの。

 罪の。

 全てを。

 焼き尽くす。

 それが。

 この星に。

 落ちて。

 くるのを。

 ああ……そして……何もかもあたしのために言葉された預言通り……ブランキー、ガランキー、ダランキー、バランキー。ノマ・ゼア・ヤトゥ・キティオ・サカッセ。あたしが身に着けている蒼白の仮面を叩き壊すかのように、それが落ちてくる。

 一枚一枚が揺蕩いながら溶けていく天使の羽のように、恍惚として辺りに満ちている、光で出来た紙吹雪の真ん中。あるいは、次元を引き裂いた力の、その中心部分。ついさっき爆発したところの、膨れ上がった真黒のエネルギーから、それが落ちてくる。それは確かに一つの落雷と表現するべきものであったのだが……とはいえ、それは、今まで空に向かって放たれていた雷とは、全く性質の異なったものであった。

 まず、ここまでで何度か触れてきたことであるが、それは一般的な雷のように白い光によって出来ているわけではなかった。それは黒い色をしていて、しかも、その黒い色によって光でもあったのだ。もしも、全ての者が眠りについた後の夜を、銀のナイフですうっと切り裂いて。その薄皮から迸る血液というものがあったら、恐らくこのような色をしているだろう。それほどまでに、それは、終わりの感覚に酷似した黒だ。

 しかしながら、そうであるにも拘わらず、死に絶えた奈落であるにも拘わらず、それは災害でもあった。例えば……ああ、サンダルキア。静まり返った川面の上に浮かんでいる蛍の群れを食べようとして、蠢き合い犇めき合いながらこちらへと向かってくる、何千もの、何万もの、何億もの、烏の群れ。そのように災害でもあった。要するに、黒々と塗り潰されるほどに強大なエネルギーが、その雷の中に満たされていた。

 どうでもいいけどさっきから「ああ」「ああ」うるせぇな。お喋りが下手な政治家の所信表明演説かよ。いや、これはお喋りが下手な政治家の所信表明演説ではないのだが、それはとにかくとして、真昼の目の前で、落雷が、落ちてきているのだった。そりゃあ落雷が落ちるのは当然だろ、落雷なんだから、と思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど。ここでいいたいのはそういうことではなく、落雷の、一瞬一瞬を、その感覚によってはっきりと感じ取ることが出来たということだ。

 普通だったら、雷なんていうものは「ぱっ」として「どーん」だ。それが天から地へと落ちてくるものであるということなんて認識する暇さえなく、すぐに終わってしまう。けれども、今の……というか、まあ、これは今起こっている出来事ではないのだが。とにかく、今、真昼が見ているそれは。ほら、教育番組とかでよくあるじゃん、ハイスピードカメラで撮影したものを低速で再生しているかのように、恐ろしいほどの鮮明さによってそれが経過する瞬間を把握することが出来たのだ。

 真昼が現実だと考えていた世界に、確かに現実であったはずの世界に、黒い罅割れが入って。その罅割れが少しずつ少しずつ大きくなっていっているみたいだった。それは、その罅割れは、いわゆる現実とは異なったものだ。現実と呼ばれているものは、あれほどまでに力強くない。現実は……幾つかの言葉によって、簡単にひっくり返されてしまう。艶めかしいネイル・ポリッシュ、透明な手袋、隠された指先、そのようなものに触れられれば、火を通し過ぎた人間の骨のように、呆気なく粉々に砕けてしまう。現実は、すぐに、すぐに、真昼を裏切る。

 けれども、あの黒い罅割れは……いわゆる現実とは全く異なったものだ。認識と認識との間、壊れた夢の中で、くらくらと浮かんでいるミスター・クロッカーの爆弾。もしも、あれが爆発すれば。チェロキー・ホテルは吹っ飛んでしまうだろう。そう、チェロキー・ホテルは吹っ飛んでしまう。そして真昼もどこかに吹っ飛んでいってしまう。救われようのないものを救ってくれと、そう懇願している声。まばたきをする。真夜中にだけ歌い始める星が、数え切れないほどの星々が、地上に向かって流れ落ちてくる夜。それは決して真昼を裏切らない何か。

 真昼が。

 主体的に。

 実存的に。

 望んでいるものでは。

 ないにしても。

 真昼が呼吸するごとに、その罅割れは大きくなる。というか、その落雷が、人間からすれば信じられないくらい遠くの場所から、真昼がいるこの場所へと、落ちてこようとしているということだ。この場所、つまりカーラプーラ。それでは、カーラプーラの一体どこに落ちてこようとしているのか。

 当たり前であって、当然の話であるが……それは慈悲に向かって落ちてこようとしている。カーラプーラ、マイトリー・サラス、その中心部分にある慈悲の心臓。人間にとっては死の感覚と同じように暗い、この夜の中で。そのような自らの根源的喪失よりも、なお暗く見えていたところの岩山に。

 落ちてくる。

 落ちてくる。

 龍の雷。

 龍の雷。

 龍雷がつきぬく。

 龍の雷。

 龍の雷。

 龍雷がひらめく。

 その瞬間に、雷は、真昼が信じていたはずの命題を切り裂いて。その瞬間に、雷は、生きているということと死ぬということとの間にある境界線を引きちぎって。天に穿たれた穴から、湖に浮かんでいる岩山へと、その瞬間ごとに、近付いて、近付いて、近付いて。そして、遂に、それは、慈悲の心臓へと達する。

 あまり雷というものをスローモーションで見る機会がないと、このことを知らないかもしれないが。実は、落雷する時に、その凄まじいエネルギーの衝撃は二回爆発するものだ。まず一回目は、雷雲からそれが放たれたタイミングで。そして、二回目は、その雷がまさに地面に到達した瞬間だ。これがどういう原理でそうなっているのかといえば……すみません、全然興味がないんで分かんないです。気になった読者の皆さんはアフォーゴモンとかで調べてみてね。とにかく、雷というものは、地面に落ちた瞬間にもやはり爆発を起こす。まるで、天から地へと向かう道筋が繋がった一瞬に、何かが、恐ろしく真聖な何者かが、そこを通って降臨するかのようにして。落雷の二度目の爆発は、常に、一度目の爆発よりも強力なものだ。

 そして、今。

 今ではない今。

 真昼の目の前で落下した落雷も。

 やはり、二度目の爆発を起こす。

 それは……それは、例えデニーの感覚で感じたとしても。

 人間であるところの真昼には、全く耐えられないほどの。

 原理さえも打ち砕いてしまう。

 信仰、以前の、絶対的な振動。

 何者かが。

 何者かが。

 セミフォルテアの雷電、地上にかけられた梯子を伝って。

 この場所へと降りてくる、真昼の目の前へと降りてくる。

 いうまでもないことだが、龍の雷、龍雷という名前は。

 その雷を伝って龍が降りてくることから名付けられた。

 そうであるならば、その何者かは。

 もちろん、龍で、あるはずなのだ。

 龍。

 龍。

 龍。

 高等知的生命体、ゼティウス形而上体。

 人間などとは比べ物にならない生き物。

 そう……真昼は……

 それを……見る……

 人間という思考能力では、網膜に映し出されたそれを。

 力を放っている龍の姿を、思考することなど出来ない。

 そのはずなのに、真昼は、確かに見たのだ。

 デニーの目を通じて、その龍の姿を、見た。

 本当に。

 ほんの。

 一瞬。

 だけ。

 雷の中を。

 天空から。

 岩山へと。

 降臨する。

 四本の首を持つ。

 暗黒の色をした。

 一柱の龍王。

 つまり。

 カリ・ユガの。

 姿を。

 しかしながら、それが何かを理解する前に、真昼の脳髄は弾け飛んだ。いや、まあ、第三部まである物語の第二部で主人公が死ぬはずもないのであって(知らない方もいらっしゃるかもしれませんが人間は脳髄が弾け飛んだら死にます)、これはもちろん比喩表現でしかないのだが。見せられていたもの、龍王の降臨という光景に、とうとう耐えられなくなった真昼の精神が。それが感じられる限界までの光と、それが感じられる限界までの音。岩山に、まさに龍王が降り立ったという現象が発したところのエネルギーを感じた後で、完全にオーバーヒートしてしまったということだ。結局、その瞬間に、真昼の精神はシャットダウンしてしまって。そして、その次に真昼が気が付いた時には、目の前の光景は、また元通りに戻っていた。つまり、真昼の感覚によって真昼が感じているところの現在の光景に戻っていたということだ。

 デニーが、笑いながらそこに立っていた。真昼の目の前に、少しだけ爪先立ちをして、胸の前、開いた右の手のひらと開いた左の手のひらと、ちょんっという感じで合わせて。「どーお?」それから、べとべとと唾液で濡れた角砂糖のような声で、真昼に問い掛ける「分かった?」。

 どうやら……真昼は、今、ようやく気が付いたのだが。今まで感じていた感覚は、デニーによって感じさせられたところのデニーの記憶であったらしい。もちろん、下等で愚劣な真昼ちゃん用に幾分かカスタマイズされてはいたが。デニーが感じたところのカリ・ユガ降臨の光景。

 そう、あれはカリ・ユガだったのだ。真昼が、デニーの記憶の中で、最後に見たもの。見たと思ったもの。多層に重なり合った次元を貫いてカーラプーラの地に落雷したところの稜威霊、その内側を、無限にして永遠の力によって、るうるうと泳ぎ渡ってきた……何か。うしはき何か、いつしき何か、むすひの力を持つ何か。

 直線の雷、なほきかみなり。それは禍事ではない、穢れてはいないのだ。確かに、真昼が見たあの雷は、天から地へと真っ直ぐに落ちてくる、完全な直線としての雷であった。今まで見たこともないようなもの、雷というものは、普通は、幾筋にも幾筋にも枝分かれしながら落ちてくるものであるが。あの雷は、そうではなかった。そして、それこそが証明であった。

 龍雷であるところの証明。洪龍が引き起こしたところの雷であるという証明。ちょっと前にも書いたことであるが、龍雷とは、その中を龍が通って移動するところの雷を指す言葉だ。というか、正確にいえば、龍が移動する際に、その移動のために放たれる凄まじいエネルギーが、人間にとっては雷に見えるために付けられた言葉。だから、それは、正確にいえば雷ではない。なんというか、世界を引き裂いていく神力の痕跡のようなものだ。そして、普通の雷から龍雷を見分けるための特徴は二つある。

 まず一つ目が、普通の雷と異なって黒い雷であるということ。それは確かに光ではあるのだが、白い光ではなく黒い光なのだ。そして、もう一つが、その雷は直線であるということ。くねくねと捻じ曲がっていたり、がりがりと折れ曲がっていたり、あるいは枝分かれしたりはしていない。これは……例えば、地の上を這い回る蛇のうち、ある種の巨大な蛇が、他の蛇のように蛇行するのではなく、真っ直ぐに突っ切っていく運動を見れば分かりやすいだろう。洪龍も、時空間を移動する時には蛇行したりはしないのだ。力強き者がそうする通りに、この地点からあの地点までの最短距離を進んでいくのである。

 とにかく、つまり、何がいいたいのかといえば。以上の証拠からして、あの雷を作り出したのは、明らかにカリ・ユガであるということである。真昼も、龍雷については知っていた。こういう知識は初等教育の段階の神道で習うことであるため、さすがの真昼も覚えていたのだ。

 となれば……あの、黒い姿は、四つの首を持つ姿は、カリ・ユガ以外ではありえない。あれを感じた直後は、あまりにもあまりに過ぎたので、何一つ理解することが出来なかったのであるが。このように冷静な状態になって思い出してみると、それは、確かにカリ・ユガだった。

 そういえば、あのシルエット、どこかで見たことがあるように思えるものであったが。このカリ・ユガ龍王領で何度も何度も見てきたあれ、つまり、領旗に描かれていた四本の首を持つ蛇のシルエットであった。今更ながら気が付かされたことであるが、あれは、蛇ではなく洪龍であったのだ。何かの象徴的意味を持つ図形ではなく、まんまカリ・ユガの姿をデフォルメしたやつだったということであろう。

 カリ・ユガ、龍王。王レベルの力を持つ龍。真昼は、その姿をほんの一瞬しか見なかった。一瞬という表現さえも長く感じるほどの、本当の刹那だ。しかも、その距離は……ここからあそこ、この部屋からあの岩山までの距離だ。もしもそれを見たところの対象が、犬だとか猫だとか人間だとかであれば、ほとんど見分けのつかない点としか見えないほどの距離。

 それでも。それほど僅かの時間と、それほど僅かの空間と、それによって感覚したとしても。それは紛れもなくdoomであった。doomという単語は、今でこそ「破滅」という意味合いで使われているが。その語源はdohmosであり、それが意味するのは「それがそうであるようにそのことを定めるもの」という意味だ。もっと端的にいえば、裁きを下す者。

 反省? 悲しみ? 恐怖? 畏れを抱いているわけではない。真昼の中の最悪の感情はそれに対して畏れを抱いているわけではないのだ。真昼は、決して、壊れてしまった何かを直そうとしているわけではなかった。欠けてしまった何かの、その欠けてしまった部分を探していたわけではなかった。そうだったら、どんなに良かっただろう。そうだったら、真昼は、きっと、自分自身の欠落した箇所に、正しい何かを補うことが出来たはずだ。けれども、そうではなかった。真昼は悩んだり傷付いたりしていたわけではない。真昼は叫んでいたわけではない。ただ……ただ、立ち竦んで待っていた。サンダルキア、アレクの山。どうしようもない信仰の中で、どうしようもない愛の中で、溺れるように。

 そうして。

 それは、やってきた。

 破滅、裁きを下す者。

 暗く広い海。

 溺れているあたし。

 ああ。

 そう。

 真昼は知っている。

 その降臨の瞬間に。

 カリ・ユガ。

 真昼のものではない最後の審判で。

 その裁きを下すはずの、龍の王が。

 ほんの。

 一瞬だけ。

 こちらを。

 見たと。

 いうことを。

 いうまでもなく、真昼を見たわけではない。真昼はそれを知っている。先ほどまで見ていたものは、デニーの記憶であったのだから。ということは、カリ・ユガがその時に目を向けたものは、デニーであったということだ。それでも、真昼は。その感覚を知ってしまった。必然の感覚、運命によって視認されるという感覚。楽園を、楽園を、満たしている、暗く広い海から……一体、お姫様のことを、誰が救ってくれるというのか?

 まあ、そういったことはいずれ分かるだろう。いずれ、明日、分かることだ。真昼が望もうと、あるいは望まなくとも。TNKK――このTNKKというのは「とにかく」という単語の頭文字である――今のこのタイミングで大事大事しなければいけないのは、次のような事実である。真昼が見ていた光景は、デニーの記憶の中の光景だったということ。その記憶は、デニーによって見せられたものであるということ。恐らくは、真昼の額に触れた時に、その記憶を強制的に植え付けて。そして、それを再生したのだろう。

 つまるところ、この全ての過程は真昼の問い掛けに対する非常にスマートな回答だったということだ。いくら言葉で説明しても分からなかったから、それを見せたということ。確かに、真昼は理解した。この上もなく理解した。真昼が意識を失った時に、一体何が起こったのかということを。

 なんて、馬鹿な、真昼。生き物が意識を失うということは、それが意識するべきものではないからそうなるのである。真昼は、自分が意識を失った時に、カリ・ユガが降臨したということを知った。その衝撃で自分が吹き飛ばされたのだということを知った。そして、それ以上のことも知った。

 知りたく、も。

 なかったこと。

 きょとんとした顔をしているデニーに向かって、忌々し気に舌打ちをする。それ以外にするべきことが思い付かない時に、舌打ちとはなんと便利なことか。そんな真昼に対して、デニーは、きゅっと上げていた踵を、とんっと下ろして。「良かったあ、分かったみたいだねっ!」と嬉しそうに言った。

 さて。

 さて。

 ところで。

 なんとなく、全てが、真昼の中で興醒めてしまった感じだった。めちゃめちゃ無粋な鋏によって、張り詰めていた全ての糸が、じょっきんじょっきん切りまくられてしまった感じ。その糸は、例えるならば……何かしら、真昼にとって、とても重要な旋律を奏でていたはずのノスフェローティの弦だったのだ。今となっては、そのノスフェローティが何を歌っていたのかということさえ思い出せない。

 今更やり直す気にもなれない。本当に今更だ、また、デニーに襲い掛かって。その体を床に押し倒して、顔を殴ったり首を絞めたりすることをやり直せと? そんなことをしてもなんの意味もないだろう、なんだか途轍もない馬鹿になってしまったような気持ちになるだけだ。もちろん、真昼は途轍もない馬鹿なのだが。その馬鹿を超える、超越的な馬鹿になってしまったような気持ちになるだけだ。

 サテライティッシュ、フーリッシュ。先ほどまで、デニーに対して死に物狂いで叫び喚いていた気持ち。「黙れ」という、「死ね」という、気持ち。そういった気持ちも、あっさりと散乱してしまって。後に残っているのは、くすんだ朝靄のようにぼんやりとした嫌悪感だけである。

 まあ、もちろん、今の真昼ちゃんはザ・情緒不安定といった感じなので(あらゆる情緒不安定は思想的なものではなく生理的なものである)もう少し時間が経てばそれも変わってくるのかもしれないが。とはいえ、とにかく、現時点では真昼の心の中では何も燃えていなかった。

「明日は。」

「ほえ?」

「何時に起きるの。」

「んーとねーえ、八時くらいかなあ。」

「そう。随分と早いんだ。」

「真昼ちゃんがもっともっと寝てたいーっていうならー、もうちょーっと遅くてもいいよー。」

「いや、いい。」

 とはいっても、現状真昼は時計を持っていない。今が何時なのかも分からないし、いつが八時なのかも分からない。今という時間は、たぶん、今日が昨日になるくらいの時間であろうとは思うが……なんにせよ、何時に起きるのかということを聞いても、あまり役には立たない。

 どうせ、明日も、デニーに起こして貰うのだろう。少なくとも、目覚めた時に、すぐそばにデニーがいるはずだ。アーガミパータに来てから今まで、ずっとそうだったように。それは、笑ってしまうほどにイライラすることだし、吐き気がするほど安心感を覚えさせることだ。

 ふと、窓の外を見てみた。特に意味があったわけではないが、なんとなく気になったのだ。音が、音がしたから。また、雨が降り始める音がしたから。

 さっきも少し書いたのだが、少し前のカーラプーラの光景、生けとし生けるものが死んだ夜のようだった。雷も鳴らず、雨も降らず、ただただ無音の暗黒だけがそれであったのだ。なぜなら、ここへと至ろうとしているカリ・ユガの圧倒的な力が、そこにあったものの全てを祓い清めてしまっていたから。

 けれども、そういった力の全部が行使されてしまった後の今となっては。もう、そこにあろうとするものを消し去る何かはないのだ。ということで、巨獣の足跡に群がる虫けらのごとく……今、また、そこに。カリ・ユガの痕跡としての真聖なる力が満ち満ちているカーラプーラの上空に、雨雲・雷雲が集まり始めていた。

 最初はひどくおずおずとした感じ。親が眠った後にこっそりと起き出した子供が、親を起こさないようにしているみたいに。そのようにしてカリ・ユガを目覚めさないようにしているみたいに。ぽつりぽつりと雨が降り出した。その雨は、少しずつ少しずつ大胆になっていって。ざらりざらざらと打ち付けるような、沛然とした雨になっていく。

 それとともに、子供達がちょっと騒ぎ出した感じ。だんだんと楽しくなってきたせいで、「きゃあ」とか「わあ」とか、そんな声をうっかり出してしまったとでもいうみたいに。いきなり、はっと、遠雷が走り始める。本当に、遠く、遠く、カーラプーラの端の方。恐れているかのように、雷さえも、カリ・ユガのことを恐れているかのように。

 ただ、そういった慎み深さはすぐに消えてしまう。知ってしまったのだ、カリ・ユガが目覚めないということを。この程度の雨、この程度の雷、カリ・ユガにとってはなんでもない。星々を渡り、次元を歪め、その気になれば一つの銀河を丸ごと滅ぼすことが出来るような生き物に、この程度の音と光とが何事であろうか? これはもちろん反語としての疑問形であって、つまるところ何事でもないのだ。

 雨も、雷も、それに風も。どんどんと激しくなっていって。暫く後には、カリ・ユガが降臨する前、一番ひどかった状態のパーフェクト・ストーム、あれとほとんど同じ状態になってしまう。雨粒と雨粒との境も分からないくらいの雨、きらりきらきら燦然と輝く雷、それから、お前の脆弱なプライドなど簡単にへし折ってしまうような風。ここでいう「お前」というのは特に具体的な誰かではなく任意の第三者を指すのであるが、何はともあれそんな感じだ。アーガミパータでしか見ることが出来ないような、いかにもアーガミパータらしい嵐。

 一つだけ、カリ・ユガが降臨する前とは異なっている点があって。それは、雷が、普通の雷であるということだ。上から下へと落ちるところの、湖からではなく雲から放たれるところの、ごくごくオーソドックスな雷。これは、ちょっと考えてみれば分かることであって、既にカリ・ユガは降臨した後なのだ。そうであれば、雷達は、もう何かを迎えようという態度を示す必要はない。カーラプーラのそこら中で、マイトリー・サラスだけではなくそこら中で、好き勝手に暴れまくっても問題はないわけである。

 この嵐は、たぶん、明日の朝までは続かないだろう。あまりにも激し過ぎる、自らの肉体を削り取るかのような激しさであるからだ。まあ、ここが、もしも、南アーガミパータならば。雨季の南アーガミパータならば、こういったモンがスーンする可能性もあるが。とはいえ、読者の皆さんお忘れかもしれないですけれども、ここは沙漠なのだ。北アーガミパータの超スーパー乾燥地帯なのである。またもや「超」と「スーパー」とで強調語が被ってしまったが、つまりそれくらいからっからのからだということだ。これほどの嵐が、そういった場所で、そんなに長生きするわけがない。

 ただ、それでも、それまでには。たぶん、この嵐は、カーラプーラに対して壊滅的なダメージを与えるだろう。今は夜だったし、明かりはほとんど消えてしまっている。それに、雨が、見ているもののほとんどを覆い隠してしまっている。そのせいで、真昼には、カーラプーラがどうなっているのかということは、全然見ることが出来なかったのだけれど。そうはいっても、こんな嵐に襲われた都市がどうなるのかということくらいは想像出来た。

 テレビで見たことがある気象災害の映像。大雨害、風害、雷害。それに、洪水害も加わるだろう。きっと、たくさんの建物が倒壊する、たくさんの人々が怪我をする。もしかしたら、死ぬ人だって出るかもしれない。この嵐が原因で、そういったことが起こるかもしれない。

 ただ、それがどうしたというのだろうか。それは確かに悲しいことだし、あってはならないことだ。それでも、それを、どうにか出来るところの真昼ではない。真昼は何も変えられない。なぜなら、それはあまりにも強力で強大だから。真昼は、それを、どうにもできない。

 真昼ではないものが壊れ。

 真昼ではないものが死ぬ。

 そして、それは、変えられない。

 それが全てだ。

 だから。

 真昼には。

 今やることは。

 もう何もない。

 それでは……斯うと、どうするか。曖昧に震える脳髄で、そんなことを考えていると。不意に、真昼の耳に、声が聞こえた。しかも、その声は、真昼のものでもデニーのものでもなかった。真昼は、はっとして驚いてしまう。この部屋の中に誰かがいる。真昼でもデニーでもない誰かが。

 声がした方向を振り返った。振り返ったという表現を使ったのでいうまでもないことなのだが、それは、真昼の背後から聞こえた。窓を向いている真昼の背後、ということは、この部屋の中心部分から聞こえてきたということだ。それも、九つの段の下。ちょうど、ベッドがある辺り。

 そう。

 まさに、そのベッド。

 カーテンを少しだけめくり。

 マラーが、顔を出していた。

 ああ……なんだ、マラーか。真昼は、すとんと気が抜けてしまう。そういえば、色々とあってすっかり忘れていたのだが、この部屋にはマラーもいたのだ。

 しがみ付いていた腕を真昼に振り払われ、耳元で真昼に大声を出され、それでも目覚めなかったマラーが目を覚ましていた。カーテンをめくっている手とは反対の手で、しきりと目をこすりながら。なんとなく不安そうに何かを呟いている。呟いているというか、誰かを呼んでいるみたいだ。しかも、その誰かとは別の誰か、恐ろしい何者かに見つからないように、こっそりと。

 あれほどの……それをなんと呼べばいいのだろうか……衝撃。光でも音でもなく、ただ単なる暴れ狂う力に晒されたという感じ。要するに、カリ・ユガが降臨した時の、あの猛烈・激烈・強烈・痛烈・鮮烈・熾烈・苛烈・峻烈・壮烈・威烈・熱烈・酷烈・惨烈、そして、いうまでもなく、偉烈。易字辞典で「烈」の字を引いて目に入った二字熟語を片っ端から羅列していったために、後半はちょっと関係ない単語も含まれてしまったが(偉烈というのは偉大な業績とか偉大な功績とかそんな意味の単語です)、とにかく、そのようななんとか烈としかいいようがない感覚のせいで、さすがのマラーも目覚めたのだろう。

 あれは神のそれに比するほどの力だったのだから。マラーが住んでいたところ、それがどこなのかは分からないが、恐らくはダクシナ語圏のクソほどプリミティブ・エリアだろう。森の中に点在している人口にして百人未満の小さな小さな村。確かにここはアーガミパータなので、そういった村でも日常的に戦闘が行われているだろうが。とはいえその規模はたかが知れたものだ。畑を焼かれるとか家を焼かれるだとか、一家全員皆殺しにされるだとか、その程度のものである。所詮は人間的な文脈における戦闘に過ぎない。神のような力を持つ何かがその戦闘に介入することなんて、ほとんどあり得ないはずだ。

 ということで、そういった力が引き起こす衝撃に慣れているわけがなく。経験したことのない感覚、超鈍感なマラーの肉体もびっくりして目が覚めてしまった。そんなところだろう。もちろん、そういった未経験の、しかも偉烈としかいいようのない力(だから偉烈はそういう意味じゃないんだって)に晒された時、人間という種類の生き物は恐れを抱くものだ。それがなんだか分からないが、あまりにもgreatなもの。その種のものは人間を怖がらせる。主に、捕食されることへの恐怖として。カーテンの向こう側から、恐る恐るこちらを覗いているマラーは……だから、あれほどまでに、怯えているのだろう。

 怯えている、そして、呼んでいる。自分を守ってくれる誰かを、自分の保護者を。マラーが呟いている言葉はダクシナ語であったため、真昼にその意味が分かるものではなかったが。でも、状況と言葉の調子とからなんとなく理解出来る。あれは、自分を守ってくれる誰かを呼び求めているのだ。保護者を指す抽象名詞。それが誰であれ構わないが、自分を守ってくれる誰か。そういったものを呼んでいる声。

 理解が出来ないほど強大な力。自分自身を掴み、ばらばらに打ち砕いてしまう力。神の……龍の……いや、違う……それは、必然の力。誰でもいい、誰か、あたしを守って。必然的に起こる世界の破滅からあたしを守って。

 そう、真昼には、よく理解出来た。

 マラーが言いたいこと。

 マラーが望んでること。

 こいつなんでも自分の苦悩に結び付けて考えるな、もっと世界に向かって開かれたオープン・マインドを持てよ、と思ってしまわなくもないが。なんか閉所恐怖症的な感覚を覚えてしまうんですよね、何事についてもこういう風にしか考えられないやつ見ると……いつもいつも同じとこ行ったり来たりしてるっていうか、回し車回してるハムスターっていうか。たまには夜空とか見上げてみれば? 広いよ、夜空?

 それはそれとして、そのようなことを真昼が考えているうちに。寝惚けまなこのマラーにも、ここの部屋の全体の様子が掴めてきたらしい。そして、その部屋の中にどのような生き物がいるのかということも見えてきたようだ。

 マラーの視線が一点に定まる。当然ながら、その一点とは、九つの段を上った先にいる真昼の姿だ。どんがらどーんと雷が落ちて、その光が真昼の姿を照らし出す。それはシルエットでしかないが、それでもマラーには分かる。

 ぽーっとした顔、まだ夢を見ているみたいな顔をして、マラーはまた何かを呟いた。先ほどと同じような言葉だ、全く同じ言葉かもしれない。それから、今度は、大きく大きくカーテンを開く。自分の体を隠してくれるそれを振り払うように、そして、真昼に全身を見せる。

 ベッドから身を乗り出して片方の足を下ろした。それから、もう片方の足も。真昼なんかよりもよっぽどしっかりした足取りだ、というか、真昼は、こんなにちゃんとベッドを降りたわけではなかったが。真昼は一歩一歩足を下ろしたのではない。惨めに転がり落ちたのだ。

 ベッドの外に立って、真昼を見上げているマラー。それを見下ろしている真昼。改めて、少しは冷静な状態で、見下ろしてみると。それは蛇の巣のように見えた。それというのはマラーのことではなくこの部屋の全体のことだ。

 真昼は蛇の巣を見たことがある。岸母邦の砂流原邸は、まあまあそこそこ辺鄙なところにあって。といっても、都市の間近の、海に面した小高い丘の上であったのだが。金持ちというのは「都市の間近の、海に面した小高い丘の上」にとかく不動産を持ちたがるものだ、それはそれとして、砂流原邸の周りは、あまり手が付けられていない自然が多く残っていて。その自然の片隅で、真昼は蛇の巣を見たことがある。

 ちょうどこんな感じだった。こんな風に、少し窪んだところにあって。こんな風に、真ん中に巣が作られていた。たくさんの木の枝を集めて、たくさんの葉っぱを集めて、それは鳥の巣みたいだったけれど。その中に蹲っているのは蛇だった。感情のない目で、じっと真昼のことを見ていた。まるで、仲間を見るような目で、真昼のことを見つめていた。

 マラーは蛇ではない。そうであるならば蛇の餌だろうか。皮を剥がれた鼠、腹を裂かれた蛙。そのたぐいの何か。人間は蛇の餌だ、そして真昼は蛇である。真昼の全てはそれを認めるところで終わり、真昼の全てはそれを認めるところから始まる。今日は、まだ……裁きの日の前の日だ……だから、今日はまだ、真昼はそれを認めていないのだ。けれども、明日、真昼は、認めなければいけないことになるだろう。

「呼んでるよー。」

「分かってる。」

「ほんとに?」

「本当に。」

 ぴぴーんと腕を伸ばして、無造作にマラーのことを指差して。あけすけなやり方でそう言ったデニーに対して、真昼はそう答えた。それから、その場を後にして歩き始める。いうまでもなく、マラーがいる方に向かって。九つの段を下りていく、上がる時に十七秒かかった段差を、また十七秒かけて下りていく。

 階段を下りていく自分の体が軽やかに跳ねるのを、ずっとずっと天使みたいだと思っていた。踵のある天使。硬い地面と重い肉体とさえなければ、真昼はきっと天使だったのだろう。天使の羽根、羽根は鱗、鱗は蛇。

 真昼は段差を降り終わる。それで、マラーが立っている場所まで歩いていく。ベッドから少しも離れていない場所でマラーは立って待っていた。皮を剥がれた鼠も、腹を裂かれた蛙も、そんなに遠くまで逃げることは出来ないものだ。

 真昼が近付いてくると、マラーは泣きそうになる。真昼が目の前に来ると、マラーは泣き出す。真昼とは違って、マラーは泣くことが出来るから。涙を流しながら、ぐじぐじと目の辺りを拭って、真昼に対してしきりと何かを訴えかける。怖かったのだろう、なんだかよく分からない何かが。けれども、もう安心だ。真昼がそこにいるのだから。

 マラーはぐっと腕を伸ばして、真昼の腰の辺りに抱き着いた。それほど勢いよくというよりも、時間をかけて、慎重に。真昼がまたいなくなってしまうことを恐れてでもいるかのように。真昼はその体を抱き締め返す。躊躇もなく、嫌悪もなく、純粋な気持ちで抱き締め返す。

 真昼には、もう、マラーに対する捻じ曲がった感情はなかった。罪悪感のようなものは完全に消え去ってしまっていた。残っているのは、ただただ、真っ直ぐな感情だけだ。それがどんなものであるにせよ、既に決定された感情。無論、そういった全てのことに、真昼自身は全く気が付いていなかったのだが――今はまだその時ではないのだ――それでも、真昼は、マラーを、優しく優しく抱き締めることが出来た。

 真昼は、なんだか、嬉しかった。なんだかよく分からないけれど、また、マラーのことを愛せるようになったからだ。以前と同じように、マラーの保護者としての自分に戻れたような気がしたからだ。難民の子供を救う、誠実さに満ちたvolunteer、voluntarius。ただし、それは大きな間違いであって、救いようのない欺瞞である。今の真昼は、以前の真昼とは全く異なってしまっている。

 その愛は。

 自発的なものではなく。

 限りなく消極的なもの。

 その愛は。

 以前のものとは。

 全く違ったもの。

 蛇が獲物を愛するような。

 とてもとても自然なもの。

 そして。

 その違いは。

 きっと。

 裁きの場で。

 重要な役割を果たすだろう。

 とはいえ、今の真昼はそういったことに気が付かないのだが。自分の中の醜い感情、腐り切った感覚。何も悪くない何も悪いことはしていないマラーのことを、逆恨みのようにして憎しみに満ちた目で見る、あの精神状態が消えたことを、素直に喜んでいるだけだ。その喜びを噛み締めるかのようにして、暫くの間、ひっくひっくとしゃくりあげるマラーの温かさを味わっていたが。冷たい冷たい真昼の体と、温血動物のマラーの体。やがて、ひょいっという風に、そのマラーの体を持ち上げた。

 蛇が、獲物を、飲み込む時に、その体を、持ち上げるみたいに。マラーのことを傷付けることがないよう、万が一にも痛みを感じないよう、そっと持ち上げた。マラーは……そんな真昼の手つきに、随分と安心したのだろう。自分のことを傷付ける者はもう誰もいない、真昼が、この蛇のように強い人が、助けてくれるからだ。そんな風に思ったのだろう。相変わらずひっくひっくとはしていたけれど、なんとなく、その両目、焦点が曖昧にぼやけ始める。

 うとうととし始め、こくりこくりとし始める。まだ寝足りないのだろう、時間も時間だ。真昼が、マラーのことを持ち上げたのは。当然、そんなマラーのことをベッドに運ぶためだ。安心させて、寝かしつけるため。少なくともこの夜のうちは、この夜のうちだけは、幸福の中で眠らせてあげるため。そんなわけで、真昼は、カーテンの内側に潜り込む。

 カーテンは、マラーが開いていたので、もう開ける必要がなかった。それは幸いなことだった、真昼の両腕はマラーを抱っこするために塞がっていたから。真昼は、そのまま、軽々とベッドの上がって。広い広いベッドの上、ゆっくりと歩いて、一番奥のところまでやってくる。

 膝を折ってその場に跪き、マラーの体を静かに横たえた。マラーは、既にすやすやと眠ってしまっていた。真昼のことをよほど信頼しているのだろう、マラーのことを救ってくれた人、マラーのことを何度も何度も救ってくれた人。マラーのことを、REV.MからもASKからも救ってくれた人。そんな人を、なぜ信頼しないことがあるだろうか?

 真昼は、そんなマラーの顔を見下ろす。なんだか満ち足りた思いになる。全てが正しい場所に収まっている気がした。それから、それは、確かに正しいことであるような気がした。真昼は安心していた、全てのことが定まっている、全てのことがそうであるべきようにそうである。そして、真昼は、何もする必要がない。マラーの頬に、そっと手を添える。一度、滑らせるようにして撫でてから、その手を離す。

 ねえ、マラー。

 もう、何も心配する必要はないよ。

 だって、龍王があそこにいるから。

 無論、真昼はそう考えたわけではない。真昼にとって、龍王とは、根源的な畏怖を呼び覚ます理解不能の存在であるだけでなく、デニーと同類の存在でさえある。そんな生き物に対して、どうすれば安心の感覚を抱くことが出来るだろうか? 恐怖と嫌悪と、そういった感覚こそ相応しいものだ。そして、実際に、真昼は。カリ・ユガという存在に対して、自分がそのような感覚を抱いていると信じ込んでいた。

 ただ、とはいえ、真昼は確かにそう考えたのだ。自分自身の意識などという当てにならないものの外側で、確かに、全てを委ね切っていた。それが絶対的な死であろうと、完全に決定されていて変えることが出来ない運命であれば、人間は安心して受け入れることが出来るものだ。真昼は、そのようにして、現在というこの時の心の平安を、カリ・ユガに対して依存していた……百パーセントの無意識として。

 まあいいだろう。

 別に、構わない。

 少なくとも、今日は。

 この夜のうちだけは。

 真昼にも。

 幸福に眠る。

 権利がある。

 ということで、真昼ももう眠ることにした。いつまでも起きていても仕方がない。それに、さっきデニーに聞いたところによれば、明日は早く起きる必要がある。だから早く寝て明日に備えなければいけないだろう。

 ベッドの上、シーツを膝でこするようにして、膝立ちで移動して。カーテンを閉めるためにベッドの縁に向かう。すぐにそこまで辿り着いて、カーテンに手を掛けた時に……ふと、目に入ってきた。この部屋の中の景色が、真昼の巣の外側の景色が。

 真昼の内側のように空っぽな部屋で。

 ただ一人、デニーだけが立っていた。

 九つの段の上で。

 いつものように。

 くすくすと笑いながら。

 真昼に向かって。

 こう言う。

「お休み、真昼ちゃん。」

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