第二部プルガトリオ #49

 さて、真昼ちゃんがちんたらちんたら氷を食べているうちに。窓の外の光景は、更にとんでもないことになっていた。雷の間隔は、既に十数秒に一回といった感じになっていて。それだけでなく暴風まで吹き始めていた。ごうごうどころか、ずごーぶーずごーぶーみたいな音がしている。しかも、そのずごーぶーずごーぶーが雷の音にも負けないほどの大音声なのだ。

 と、真昼は、事ここに至ってようやく気が付いたのだが。どうも、この窓は、何で出来ているのかはよく分からないにせよ、よほどの防音性能を有しているらしい。これほど近くで、それこそ見下ろした先の湖で、すちゃらかぼんちき大嘗祭もかくやといわんばかりに雷鳴が鳴り響いているというのに。真昼が立っている場所ではさしてうるさいとは感じないのである。

 また、暴風の音も、めちゃくちゃサバスであるということは理解出来るのだが。それでも、つんざきイヤーが大事件というほどではない。なんというか、抑え目というか……いや、ちょっと違うな。どう表現すればいいんだろう。例えば、ビデオによって録画された太陽でも見ている感じなのだ。

 太陽は、確かに、直接見れば目が超くらくらっちになってしまうほど眩しくはあるのだが。テレビの画面を通して見れば、それほど眩しいという感じはない。なぜなら、テレビに映し出されるものは、テレビにとって可能な限りの光度しか有することが出来ないからだ。この光景も、そんな感じ。

 とはいえ、これが録画されたものであるというわけではないだろう。デニーが、何かを見たり、何かを聞いたり、そういったことを望んでいるとして。決して録画などで満足するはずがないからだ。ということは、恐らく、この窓には制限魔法がかかっているのだろう。窓の外側から窓の内側へともたらされる情報について、一定以上の大きさのもの(この空間にいる何者かに害を及ぼしかねないほどの大きさのもの)が通過しようとした場合、それを遮断してしまうたぐいの魔法だ。そのおかげで、雷の音も風の音も、それほどまでにコンテンポラリーヤバヤバというわけではないのだろう。

 ずっと。

 ずっと。

 待っている。

 今まで、生きてきて、真昼は、ずっと、待って、いる。

 何かが起こるのを、でも何が起こるのかが分からない。

 それはきっと稲妻のようなものだ。

 それはきっと霹靂のようなものだ。

 しかも、こんな去勢されたような雷電ではなく。

 もっと、ずっと、凄まじいもの、打ち砕くもの。

 遠い。

 遠い。

 星から。

 それは。

 やってくるのだ。

 世界の音。

 世界の声。

 真昼は。

 真昼は知っている。

 何もかもが間違っているのだと。

 その間違いを打ち砕いてくれる。

 何かを待っている。

「ねえ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あんた、なんで生きてんの。」

「ほえ? なんでってどーいうこと?」

「理由……生きてる理由。」

「えー、生きてる理由?」

 デニーは、演技とかそういうことではなく、本当に困っているようだった。真昼の質問の意味が全然理解出来ないらしい。例えば、それは、二足す二は魚であるということを証明せよといわれたかのように。論理的に、完全に破綻した問いを投げ掛けられたかのようだ。いとけなく首を傾げて、何かしらを考えていたのだけれど。やがて、言う。

「真昼ちゃんは、なんだか難しいこと考えてるんだね! デニーちゃん、よく分かんないや。だってさー、デニーちゃんはー、生まれてこよって思って生まれてきたわけじゃないしー。いつの間にか生まれてたんだもん。それで生きてるだけで、別に理由なんてないよお。」

 デニーちゃんは。

 困っていても。

 キュートだね。

 それはそれとして、デニーが言うことも最もな話であった。確かに、ニルグランタの形而上学において、物事は究極的に三つのカテゴリーに分類されている。始原体と継続体と終局体とである。ちなみに、この三つのカテゴリー分類はニルグランタの形而上学をリュケイオン的に解釈した場合の用語であって(ニルグランタでは基本的に記号的思考は最小限に抑えている)、本当はもう少し微妙な概念なのであるが……とにもかくにも、物事は、始まり、続き、終わる、そういったものであると理解されている。

 その場合に、もちろん、始まる理由があり続く理由があり終わる理由があるということになるが(この理由のことをニルグランタではカルマンと呼んでいる)。とはいえ、続く理由に関しては慣性的な何かによって説明されるのが普通である。これは、ニルグランタにおいては、愚かであることだとか閉ざされていると知らないということだとか、そのような意味を持つ概念なのであるが。とにかく、物事が続くという時に、そこには、一部の例外を除いて、積極的な理由が見いだされることはない。

 つまり、物事が続いていくことには、真昼が求めているような理由は必要がないはずなのだ。こういったことは、リュケイオンにおける形而上学をみていくと、より一層理解を深めることが出来る。リュケイオンにおいては物事は四つのカテゴリーに分類される。形相因・質量因・始動因・目的因だ。ニルグランタの用語を使えば、このうちの始動因が始原体・目的因が終局体ということになるだろう。本当は全然違うのであるが、まあ、今いわんとしていることについていえば、この違いはあんまり関係ないので無視します。そして、そうなると、形相因と質量因とが、物事が続いていく場合のカテゴリーであるということになる。

 そして、ここには真昼が考えているような理由は一切関係してこないのである。簡単にいえば……形相因とは、それがなんでそうなっているのかという本質的な原理を指す。そして、質量因とは、それが何から出来ているのかという基本的な構成体を指す。つまり、リュケイオンの形而上学においては、物事な即物的に理解されているのである。物事とは、設計図があって、材料があって、このような原因によって作られて、このような原因によって壊れる。そのようなものなのだ。

 もちろん、ここには目的因という概念がある。とはいえ、これは、真昼がいっているような理由とは全く異なった概念なのだ。勘違いしてはいけない。ここでいうところの目的とは、「生きる理由」などというぼんやりとしたものではない。もっと絶対的な何か、それが、どのようにして、世界によって消費・消耗されるのかということ。それが目的因である。簡単に、氷を例にして話そう。真昼がいうところの「生きる理由」とは、「氷を使って二日酔いを治そうとすること」に該当する。一方で、氷の目的因とは「この世界の秩序において氷というものがどのような役割を果たしているのか」ということである。それは全く異なった概念……要するに、必然についての概念である。

 多くの人々がこのことを勘違いしているが、人間時代以前、必然の対義語は偶然ではなかった。「必然的にある」ということの対義語は「必然的にない」であって、偶然というのは、その間のどこかの状態であるということを指す概念に過ぎなかった。そして、それは、決して、高等知的生命体が使用する概念ではなかったのである。偶然という概念は、あまりにも愚かであるがゆえになぜそうなるのかが理解出来ないところの人間(及びその他の中等・下等知的生命体)が利用する概念でしかなかった。

 それが、人間時代以降、これほどまでに重要な地位を占めるに至ったのは。必然に比するほどにまで至ったのは、つまり、人間が神々と対等の生命体であると主張しようとする試みの中で生まれたまやかしに過ぎない。もっといえば、偶然というものは、自由意志を象徴する概念なのである。高等知的生命体のいう必然から逃れて、自分自身のことを自分自身で決定しようとする。そんなこと出来るわけないじゃーんとしかいいようがない無駄な努力の一環として、偶然はここまで引き上げられた。

 つまり、偶然とは自由意志ということなのだ。そして、自由意志ということは不完全ということである。そうであるならば、完全な秩序の中には、偶然のための座はあり得ない。それを、人間時代以前に生きている生き物、その誰もが知っていた。

 真昼が。

 真昼が。

 生きる理由を。

 求めてるのは。

「真昼ちゃんは、なんかあるの? 生きる理由。」

 大して興味もなさそうに。

 軽く首を傾げたデニーに。

 真昼は。

 答える。

 まるで、自分の心臓の、音を。

 止めてしまうかのような声で。

「分かんない。」

 真昼は、とうに分かっていた。生きていくのに理由なんていらないことなんて。それでも、そういったものを求めてしまうのは……一体なぜなんだろう。真昼自身にも、それは、理解出来ない衝動であった。それは、なんというか……恐怖みたいなものに似ていた。決して恐怖ではないのだけれど、すごくよく似ているもの。真昼は、ヤモリとイモリとが全く別の生き物だと知って、大変驚いたものだったが(同じ生き物が水中にいる時にヤモリと呼ばれ陸上にいる時にイモリと呼ばれていると思っていたのだ)。恐怖がヤモリだとすれば、この衝動はイモリのようなものだった。水底深く、息を潜め、真昼のことを見ているもの。睨んでいるわけではない、狙っているわけでもない、ただただ見ている。

 もしも、真昼が生きていることに何の意味もないのだとすれば。真昼という形は、どうなってしまうのだろうか。真昼よりも、遥かに遥かに大きな何かが、ただただ真昼のことを見つめている。その、水の、中に、落ちていく。どこまでもどこまでも沈んでいく真昼の肉体は、イモリのそれとは違って、水の中で呼吸することが出来ない。肉体の、あの部分が、この部分が、その部分が。少しずつ水の中へと溶けていく。なぜ、あたしは足を動かすんだろう。なぜ、あたしは手を動かすんだろう。なぜ、あたしは、指先を、首を、瞼を、口を、肺を、肉を、骨を、それに、心臓を、動かすんだろう。真昼の中で、真昼の一部分一部分が、意味を失っていく。そして、最後には、真昼の全てが無意味になる。

 真昼は、とても、怖い。

 その、巨大な、何かが。

 世界の全てに満ちている。

 必然という名の構造物が。

「あのさ。」

「なあに。」

「あたし、母親が自殺したんだよね。」

「へー、そうなんだ。」

「あんた、もう、知ってるかもしれないけど。」

「ううん、知らなかったよ。」

「あたしの母親、正子っていう名前なんだけどね。正しいっていう字に子供の子で正子。まあ、そんなことどうでもいいか。精神病院でさ、手首切って自殺したの。あたし、あの人が死ぬまで、ずっとずっと怖かったんだ。母親が死ぬっていうことが。なんだか、ほら、母親ってさ、子供にとっては、こう、ずっと死なない生き物って感じがするじゃん……いや、あんたには分かんないか。とにかく、ずっとずっと怖かった、あの人が本当の本当に自殺してしまうっていうことが。

「もともとね、なんで精神病院に閉じ込められてたのかっていうと。あの人、一回自殺未遂してんの。あたしが昔住んでた家、その家っていうのが岸母邦にある家でさ。その家で、首を掻っ切って、死のうとしたっていうこと。ここ、この辺りを、包丁で一気に突き刺して。あの人の手術を担当した医者が、死ななかったのが奇跡だっていったくらいの傷だったんだけど。それでも死ななかった、その時は。

「でも、死んじゃった。あたしが小学生だった時。ちょうど中学受験の勉強をしてる時だったから、たぶん五年生の時か、それか六年生の時だったと思う。まだ覚えてる。あたしがね、お風呂から上がったら、電話がかかってきたの。お手伝いさんが電話に出て、あたしは……別に気にしてなかった。うちに電話がかかってくることなんていつものことだったし、大抵はどうでもいい電話、あたしには関係のない電話だったから。でも、その電話は、なんだかおかしかった。いつもならすぐ切るはずなのに、お手伝いさんが、いつまでもいつまでも話してて。それで、ようやく切ったと思ったら、あたしの方に近付いてきたの。なんだか変な顔をして。どういう顔をしていいのか分からないみたいな顔をして。

「精神病院の人達だって、馬鹿じゃないから、分かってたんだよ。あの人が自殺するかもしれないっていうこと。っていうかね、精神病院の人達の仕事は、あの人が自殺しないようにあらゆる手を尽くすことだった。あそこは結局病院じゃなかったんだ。あそこは、あの人を閉じ込めておくための牢獄だった。あの人を生きるということに閉じ込めておくための牢獄だった。

「あの人は、砂流原の人間だったから。自殺するなんてこと許されなかった。だって、自殺なんてしたら砂流原の名誉に関わるから。あの人は、所詮は嫁に来ただけの人間だったけど、それでも、それだからこそ、自殺なんて許されなかった。あたしには……あたしには、それ、その感じ、本当はよく分かんないんだけど。なんでなんだろうね。きっと、あんたもよく分かんないでしょ。たぶん、嫁に来た人間が自殺してしまうような家だって、そういう風に思われたら嫌だからじゃない? そういうことなんだと思う。あたしにはよく分かんないけど。

「とにかく、精神病院の人達は、砂流原の家から大金を払われて、あの人のことを絶対に死なないように監視していた。どこに頭をぶつけても傷付かないように、そこら中にクッションを敷き詰められた部屋に閉じ込めて監視していた。人間の肉体を傷付けることが出来る物は、その部屋の中には、一つも、一つも、持ち込んじゃ駄目ってことになっていた。例えばね、スプーンもフォークも駄目。ナイフなんて絶対駄目。よくさ、映画とかであるじゃん、精神病院のスプーンとかフォークとかがプラスチックになってるやつ。患者が自分のことを傷付けないようにって。あんなの嘘だよ。本当はね、ああいうのも使わせないの。

「手掴みで食べさせてた。紙のお皿に乗せた、なんだかどろどろとした物を、手掴みで食べさせてたの。確かにそうだよね、その方が絶対安全だよ。プラスチックのスプーンだって、目を抉り出すことは出来るし。それに、フォークなら、頸動脈を突き破ることだって出来るかもしれない。

「っていうかさ、あの人、ほとんど何も食べなかったんだ。そりゃそうだよね、自殺しようとしてるんだから。なんにも食べなけりゃ死ねるもんね。だから、無理やり食べさせなきゃいけなかった。看護師の人達がね、二人掛かりであの人のことを押さえ付けて。それで、三人目が、喉の奥に流し込んだの。なんだか、こんな感じ、こんな感じのホースみたいな物を喉の奥に突っ込んでね。喉に詰まらせないように、っていうか吐き出さないように、どろどろした物を流し込んだの。のたうち回ってた。あの人は。手だとか足だとか、ばたばたさせて。地面に落ちて死にかけた蝉みたいにのたうち回ってた。

「そんな感じだったから、あの人、すごい痩せちゃってね。もうげっそりって感じ。あたしがさ、こうやって、親指と中指とで輪っかを作るじゃない。その輪っかの中に、手首も足首も全部収まっちゃいそうなくらいだった。顔も、なんだか人間じゃないみたいに見えてね。頬がこけるっていうか、なんだか蟷螂みたいだった。蟷螂の顔みたいだった。頬も、顎も、ほとんどなくて。ただぐにゃぐにゃした眼だけが、どこも見てないのにそこにあるって感じ。骨と皮しかなかった。骨の上に皮を乗せて、安っぽい糊で貼り付けただけの体だった。

「それでね、聞いて。もっともっと、あたしが嫌だったのは。あの人の髪の毛が、全部、全部、切られてたってこと。っていうかね、あれは切られてたんじゃないと思う。何かの薬で完全に脱毛してた。もう二度と髪の毛が生えてこないようにしてた。なんでかっていうとね、ほら、こう、髪の毛が伸びるでしょ。そうすると、それを束ねてロープみたいに出来るじゃない。それを使って首を吊ってしまわないように。

「なんか……なんかすごい馬鹿みたいな理由じゃない? だって、例え髪の毛が伸びたとして、それで首を吊れるくらいのロープを作るには、まずはそれを抜かなきゃいけないでしょ? 一本一本の髪の毛を抜いて、それを束ねて、それをロープにする。そんなこと、すると思う? あんなに弱り切った人間が、あんなにやせ細った人間が、そんなことをしようなんて思いつくと思う? それ以前の話としてだよ、あの人の部屋って、三十二時間監視されてたんだよ。もし万が一、ロープが出来たとして。例えば、こう、こんな感じでさ、首を吊ったとするじゃない。ドアノブかなんかにロープを掛けてね。それでもさ、すぐに駆け付ければ助かるじゃない。そんな……髪の毛を全部なくしちゃうほどのことじゃないよ、絶対、絶対に、そんなことしなくても良かった。

「痩せ細って、髪の毛もなくて。たくさんたくさん飲まされた、色んな色んな薬のせいで、いつもぽかんと口を開いてた。口の端、この辺りからね、つーって感じで涎が垂れてて。それから、頭が重くて支えられなかったのかな、こう、こんな感じ、いつもゆらゆら揺れてた。あたし……あたし、あれが、あの人だなんて、思えなかった。っていうか、人間だとも思えなかった。あの病室で飼われてる、薄気味の悪い生き物、気持ちが悪い生き物。別の世界から来た宇宙人だとか、古いお墓から蘇ったムーミヤーだとか、そういった生き物。そんな風に見えた。

「あたし、見たくなかった。あんなもの見たくなかった。それでも無理やり見せられた。精神病院に連れていかれて、無理やり見せられた。なんでだか分かる? あたしが、なんで、あの人の、あんな姿を見せられたか分かる? 分かんないでしょ。あんたってそういうやつだもんね。正解は、あたしが砂流原の娘だから。砂流原の人間でありながら砂流原に逆らった人間がどうなるのかっていうことを見せつけられたの。絶対に、砂流原に逆らわないように。子供の頃から、砂流原の娘であるっていうことを、心臓に焼き付けておくために。

「だからね、あたしが、あの人が死んだって聞いた時に。まず最初に感じたのは、ほっとしたっていう気持ちだった。ずっとずっと捨てたかったもの、胸の辺りをじりじりと焼いている、なんだか重たいもの、それをようやく捨てられたっていう感じ。もちろん、喪失感みたいなものもあったけど……なんだかよく分からないけど、とっても大切なものが永遠になくなってしまったらしいっていう喪失感もあったんだけど。それでも、一番大きかったのは、安心感だった。もう二度とあれを見なくていい、あの生き物を見なくていい。わけの分からない、ぽっかりした安心感。

「まあ、そんなことはどうでもいい話なんだけどね。あんたにとってはどうでもいい話でしょ? あたしが何をどう思うかなんて、あんたにとってはどうでもいいことなんだよ。あんた、そういうやつだもんね。でも、別にそれでいいよ。あたし、知ってるもん。あんたがそういうやつだってこと。ああ、そういえばさ。あんた、分かる? あの人がどうやって自殺したのかっていうこと。ナイフどころか髪の毛も持ち込めない……髪の毛は持ち込むってわけじゃないか。とにかく、そんな状況で、どうやって自分で自分を殺すことが出来たのかっていうこと。

「言ったよね。あの人が手首を掻っ切ったって。でも、それって実は正確な言い方じゃなかったの。本当は、あの人は、手首を噛みちぎった。こうやって、こういう風に。右の手首と左の手首と、両方を噛みちぎった。それでも……それだけだったら、たぶん死んでなかったと思う。だって、さっきも言ったけど、あの人の部屋は監視されてたから。朝も夜も、監視カメラが映し出していた。あの人の部屋の中を。そう、夜も監視してた。部屋の電気をつけっぱなしにして、明るくして、あの人が変なことをしないように監視してた。それでもね、精神病院の人達も、さすがにベッドの中までは監視してなかった。

「あの人の部屋の中にね、唯一あったものがベッドだったの。そうそう、このことはまだ言ってなかったよね。あの人の部屋の中には、トイレもなかったんだ。じゃあ、排泄物はどうしてたのかっていうと、おむつをつけさせられてたの。それで、垂れ流し。だから、あの人の部屋に入ると……いつも、匂いがした。おむつのなかの排泄物の匂い、拭い切れない糞尿の匂い。それが、頭がぼんやりとしそうなほどひどい消毒薬の匂いのなかに、ほんの少しだけ漂ってたの。たぶん、部屋の全体は、いつもいつも、清潔に保たれていたんだと思うんだけど。それでも、あの人自体に、あの人本人に、あの人そものに、そういう匂いがこびりついてた。

「なんの話してたんだっけ。そうそう、ベッドの話だよね。あれは、でも……ベッドって呼んでいいのかな。あんたはどう思う? 少なくとも精神病院の人達はそう呼んでたから、あたしもそう呼んでるんだけど。でも、あれは、ベッドって感じじゃなかった。ただのマットレスだった。

「さっきから何回か、部屋の中に危険な物を持ち込んじゃいけなかったって話をしてるよね。それで、ベッドも、やっぱり、危険な物に分類されてたの。大きくて硬くて重い物だから。映画とかだとさ、部屋の床に固定して動かないようにした、みたいなベッドが出てくるじゃん。でも、あの人の部屋は、床もクッションで覆われてたから、ベッドの脚を溶接するわけにはいかなかった。それに、それだけじゃなくてさ。例え動かさなくても、ベッド自体に頭をぶつけることは出来るわけでしょ? そういった色々なことを考えると、普通のベッドは置けなかったんだと思う。

「それで、ベッドのマットレスだけ、柔らかくて、頭をぶつけても死ぬことがない、ベッドのマットレスだけが置かれてた。それから、もちろん、体の上にかけて寝るためのタオルみたいな物もね。タオルみたいな物っていうのは、タオルみたいな物で、もしかして本当にただのタオルだったのかもしれない。ほら、ちゃんとした毛布とか布団とかだと、汚れた時に洗うのが面倒じゃない。あの人は、ああいう感じだったから、色々なところをよく汚してたし。それで、洗いやすいように、タオルだったんだと思う。

「あのね、あの人は……あの人は、あたしが行った時に、いつもいつも、マットレスの上に座ってたの。こうやって、膝を抱えて。体育座りみたいな座り方で。こんな風に、ゆらゆら揺れてた。前に、後ろに、ゆらゆら揺れてた。何度も、何度も、何度も、何度も、奇妙な時計みたいに揺れてたの。だから、あたし、それで……ああ……ごめん、この話はさっきもしたよね。それで、とにかく、あたしが言いたかったことは、あの人の部屋にはマットレスとタオルとがあったっていうこと。

「あの日、あの人は、ベッドの中にいた。マットレスの上に横たわって、自分の体の上にタオルをかけてた。あの人は、もともと小柄な人だったんだけど、精神病院にいる間にもっともっと小さくなって。たぶん今のあたしよりも小さいくらいだったと思う。だから、それほど大きくないマットレスとタオルと、その中にすっぽり収まってしまうくらいだった。

「こうやって、体を丸めて。生まれる前の胎児みたいな姿勢になって。だから、タオルの中の様子は、監視カメラでも全然見ることが出来なかった。なんだか様子がおかしいなっていうことに精神病院の人たちが気が付いたのは、深夜の十六時六十分のことだった。深夜の、十六時、六十分のことだった。それまでは、真っ白な部屋の中だった。マットレスも真っ白だったし、タオルも真っ白だったし、部屋に敷き詰められたクッションも真っ白だったから。でも、その時に、深夜の十六時六十分に。その真っ白な中に、ほんの一点だけ、赤い色があった。

「それを見た時にね、それを見せられた時にね、あたし、最初は、カメラが壊れたのかなって思った。あんたさ、スマートデヴァイスを壊したことがある? あるでしょ。あんた、何個も何個も壊してそうだもん。新しいの買ってその日のうちに壊したことありますよって顔してる。スマートデヴァイスってさ、落とした時に、打ち所が悪いと、画面の中の方が割れることがあるじゃん。あたし、スマートデヴァイスがどういう構造になってるのかは知らないんだけどね。ほら、画面の表面を覆ってるところじゃなくて、その内側で、液晶っていうのかな、たぶん色のついた液体みたいなものだと思うんだけど、そういうのを覆ってるところ。

「それで、それが割れると、中の色のついた液体が染み出してきて、そこの部分だけ変な色になっちゃうわけ。なんだか、色のノイズっていうか。赤だったり、青だったり、緑だったり、黄色だったり、それはその時によって違ってくるんだけど。その部分だけ、明らかに、映し出されてる映像とは違う色になっちゃう。あたしが見た、その映像も、そういう感じだった。

「赤い色、最初はぽつんとした色だったんだけど。それからじわじわと広がっていって、急にタオルの全体に広がったの。こう、こんな感じ。ばーって感じ。コップの中に溜まってた水が、コップが割れたせいで、そこら中に流れ出した感じ。本当に、なんていうか、全然現実っぽく見えなくて。カメラが壊れたんだとしか思えなかった。カメラが壊れたせいで、中に閉じ込められていた変なものが流れ出してしまったようにしか見えなかった。

「精神病院の人達は、その時点で何かがおかしいってことに気が付いた。看護師の人達がすぐに駆け付けて、ドアを開ける。マットレスに駆け寄って、タオルを剥ぎ取る。赤い塊。べっとりと濡れていて、少し黒く滲んでいる、赤い塊。看護師の人達が、一瞬だけうろたえるんだけど、それでもすぐに立ち直る。一人が医者に知らせるために部屋から走って出て行って、部屋に残った一人が救命処置をする。あたしにはよく分からない、複雑な救命処置をする。赤い塊はぐったりとしてて動かない。なんだか、ぐにゃぐにゃとしてる。それに、だらだらとしてて、ぶらぶらとしてる。失敗作みたい。なんの失敗作なのかは分からないんだけど、とにかく失敗作みたい。たくさんの救命措置をする。色々な救命措置をする。

「そんなことをしているうちに、医者に知らせに行っていた看護師が帰ってきた。その上に赤い塊を乗せるためのストレッチャーを押してきた。もちろん、医者は緊急手術室みたいなところで待ってるから、もちろん、赤い塊をそこに連れて行かなきゃいけないから。看護師は、ストレッチャーをそのまま部屋の中に突っ込ませるんだけど、床がクッションだからなんだか動かしにくそうで。ふわんふわんって感じ。こんな風に、ふわんふわんって感じ。

「とにかく、そうやって、ストレッチャーをマットレスの横に横付けして。それで、看護師は、二人掛かりで赤い塊をストレッチャーの上に乗せた。ストレッチャーを押して部屋から走り出ていく。ふわんふわんって走り出ていく。それで……部屋の中には幾つかの赤い染みだけが残される。マットレスに広がった赤い染み、タオルに広がった赤い染み。それに、ストレッチャーの上に乗せられた赤い塊から、床に敷き詰められたクッションの上に滴って落ちた、ぽつんぽつんっていう感じの染み。

「そういったところが、監視カメラの映像に全部映されてた。それでね、あたしは、そういったところを全部見たの。全部見た、全部見せられた、あの人が死んだその日に。あの日、あの電話がかかってきて、あたしはすぐに精神病院に連れていかれた。せっかくお風呂に入ったのに、外に出たくないなって思ったのを覚えてるよ。帰ってからもう一回お風呂に入らなきゃいけない、明日じゃ駄目なのかなって。あたし、そう思ったの。言葉に出しては言わなかったけど。

「芥川が、あたしのことを車に乗せたの。あたしのことを精神病院に連れていくために。車に乗ったのは、あたしと芥川と二人だけだった。なんだろう、なんていえばいいんだろう。あのね、いつも、いつもそうだったんだよ。あたしと、芥川と、二人だけだった。あの人が精神病院に入ってから、ずっとずっと。世界っていう、とんでもない広い檻の中に、たった二人だけで閉じ込められているみたいに。それで、もちろん、芥川は、あたしと違って囚人じゃなくて、看守なんだけど。ああ、ごめんね、ちょっと関係ない話したかもしれない。とにかく、そんな風にして、その日もやっぱり、あたしと芥川と、その二人だけだった。

「車の中で、芥川は何も話さなかった。あたしも何も話さなかった。芥川は、たぶん、あたしに気を使ってたんだと思う。それか何をどう話していいのか分からなかったか。あたしは、あたしが、なんで話さなかったのかっていうとね。なんだか……なんにも話すことがなかったの。話したくなかったとか、話すべきじゃなかったとか、そういうことじゃなくて。本当に、全然、話すための言葉が見当たらなかったの。なんだかね、あたしの中、ざざーって波が来て、ざざーって波が引いて行って。それで、あたしの中、何が残っているのかなって覗いてみたら、何も残ってなかった感じ。

「何もなかった。なーんにもなかった。悲しいっていう気持ちも、嬉しいっていう気持ちも。そこにあったはずのものもなくなってた。その時にはね、もう罪悪感もなくなってたし、もう安心感もなくなってたの。ただ、あたしの中に、肉だけがあった。肉があって、それが骨の周りについていて。血液が、どくんどくんって回ってる。でも、そこには言葉みたいなものが見当たらなくて。あたしは……あたしの内側に、何も見つけることが出来なかった。

「その代わりにね、あたしの外側の世界が嫌にきらきらと光ってたの。あれは何だったんだろうね。あたしは、車のドアの、こういう風になってるここの辺りに肘をついて。それで、手のひらの上に顎を乗せて。ただ外の景色を眺めていた。きらきらと、輝いていた。例えばね……いつもいつも、薄汚れたガラス窓を通して見ていた景色。別に気にも留めたことのなかった景色。それなのに、ある日、特別な理由もなく、その窓を開いてみたら。その景色が、とんでもなく鮮やかな色をして目に飛び込んできたみたいだった。

「黄色が綺麗で、赤色が綺麗で、緑色が綺麗で。でも、一番綺麗なのは青だった。青い空のとんでもなく深いところで呼吸しているみたいに、意味のないことを大きな声で叫んでるみたいに、綺麗だった。外側の世界、あたしの前から、あたしの後ろに、あたしのことを無視したままで流れていく夜の景色。あたしはそこにはいなかった、でも、世界は、いつもより鮮やかにそこにあった。あれは、一体、なんだったんだろうね? あたしには分かんないや。あんたには分かる? あんたに聞いても無駄か。あんたには、あんたなんかには、あの感じ、絶対に分からないよ。

「白い部屋に医者がいたの。あの人の担当医だった。これくらいの大きさのテーブルがあって、これくらいの大きさのモニターがその上に乗せられていて。それで、その両側に椅子が二つずつ置かれてた。片側の椅子の、あたしから見て左側に医者が座ってて。その反対側に、あたしと芥川とが座った。あたしは右側に座らされて、芥川が左側に座った。それでね、それからね、モニターに、あの人が死ぬところが映し出された。

「医者が言っていたことによれば、あの人は、自分の手首を噛みちぎって死んだんだって。あの時のあたしは、まだ小学生だったし、それに、なんだかふわふわとしていて、しっかりと物事を考えられる状態でもなかったから。どんなことを言われたのかっていうこと、詳しいことまでは覚えてないんだけど。手首の血管を切って死ぬ人って、大体、橈骨動脈っていうのか尺骨動脈っていうのか、そのどっちかを切って死ぬらしいの。だから、あの人もそのどっちかを噛みちぎったんだと思う。それかその両方か。

「タオルにくるまって、体をまるめて。それで、手首を噛みちぎった。左の手首を噛みちぎって、右の手首を噛みちぎって、その後すぐに両方の腕を服の中に突っ込んだの。そうすれば、暫くの間は服が血を吸うから、監視カメラで見てる人達に気が付かれないでしょう? そうやって、服の中に血液をためて。それだけじゃなくて、自分の体を丸めた内側に両腕を隠すようにしていたから、そうやって流れていった血液は、マットレスには染み込んでも、タオルの方には漏れ出さないようになっていた。

「ずっとずっとそうやって、自分が死のうとしていることを隠してたんだけど。それでも、やがては限界が来た。ぎゅっと、丸くなっていた体。だんだんと、だんだんと、力が抜けていく。血液が流れていくのと一緒に、体中の力が入らなくなっていって、意識もふわふわと消えていく。それで、とうとう、血の流れを抑えておけなくなった。そうやって一気に流れ出たから、あんな風な感じで、赤い色がタオルに広がったんだって。

「看護師の人達が病室に駆け込んだ時にはもうとっくに手遅れだったんだって。呼吸なんてしてなかったし、心臓もほとんど動いてなかった。切れかけた糸で、この世界と、辛うじて繋がってただけ……ううん、それどころか、糸なんて切れてしまってて、とっくに落下している最中だった。あたしの知らないどこかに向かって、とっくに落ちていってるところだった。

「ねえ、あたしね、あの人の死体を見せられたの。死んでた。当たり前だけど。あのね、生きてる時よりはましだったよ。ましな見た目だったし、ましな匂いだった。見せられる前は……すごく怖かった。どんなものを見せられるんだろうって。今まで見たこともないような、醜い生き物の死体を見せられるんじゃないかって。だから、本当にそれを見せられた時に、なんだか拍子抜けしちゃった。なんだ、ただの人間じゃないかって。

「たぶん、もう精神病院の人達が綺麗にした後だったんだろうね。全身を洗って、ちょっとしたお化粧をして。だから、思いのほかひどくなかったんだろうね。それに、体のところは隠されてて、見えたのは顔だけだったし。それでも……それでもね、やっぱり、なんだか、違う生き物みたいだった。何と違うのかっていうことは、具体的には言えないんだけど。でも、違う生き物みたいだった。あたしは、それを、本当に一瞬だけ、ちらっとだけ見て。後はずっと、それが乗せられてる金属色の台を見ていた。」

 真昼は。

 そこまでを話し終えると。

 不意にその口を閉ざした。

 なんだか……特別な日に、特別な人と、イルミネーションを見ているみたいだった。カトゥルン・イヴだとか、そういう日に、月光国の各地にあるデートスポットでちかちかと瞬いているイルミネーション。目の前の窓、その向こう側の光景が、まるでそのようなものであるかのように見えたから。

 それは見かけ上そう見えているに過ぎない。けれども、確かに、そう見えるものだった。きっと、この窓にかけられている魔法のせいで、窓の外の暴風豪雨が、大したものに見えないということも原因しているのだろう。

 凄まじい雨のせいでほとんど視界が閉ざされた夜。その中でついたり消えたりしている光、光、光。そういった光の点滅は、窓から見える光景の、ほとんど全体にまで広がっていて。なんの意味もなく美しく見えている。

 なんとなく場違いだった。というか、間が抜けているように見えた。今日は特別な日ではないし、それに、この男は特別な人ではない。しかも、はっきりといってしまえば、これはイルミネーションではないのだ。真昼が見ているのは災害なのだ。けれども、そうはいっても、美しい災害ではあるが。

 ああ。

 そう。

 世界が。

 真昼の。

 目の前で。

 壊れてく。

 そんな。

 災害が。

 ただ。

 綺麗。

 いうまでもなく、正子の死について誰かに話すのはこれが初めてだった。それどころか真昼は、今まで、正子の死について、まともに考えることさえしなかった。そのことを意図的に考えないようにしていたというわけではない。そうではなく……そのことについて何かを考えるということが出来なかったのだ。

 正子はどのように自殺したのか。正子はなぜ自殺したのか。そういったことについて、何かを考えようとする、そういった衝動さえも起こらなかった。あの日の記憶、あの時の記憶。正子という人間に関する記憶の全てが、なんだかぼんやりとしていて曖昧で。そこに触れようとすると、真昼の精神の、一番奥の奥のところが、ふうっと眠ってしまう。まるで脳髄の大事な部分を切除されたみたいに、思考が痺れて使い物にならなくなってしまう。

 正子について、まともに考えようと思ったのは。正子の死について、自分なりの考えをまとめようと思ったのは。たぶん初めてのことだと思う。正子が死んでから、いや、それどころか、あのことが起こってから。正子の声が真昼の耳に「お父さんは、人殺しなの」という言葉を流し込んでから、初めてのことだと思う。あの日に……真昼は真昼になった。なんとなく生きている子供という生き物であることをやめて真昼という生き物になった。

 なんで、そのことについて考えようと思ったんだろう。真昼にはよく分からなかった。真昼には、全てのことが、なんにも分からなかった。それでも、なんとはなしの、予感のようなものはある。世界が、世界が壊れていくという予感。真昼の目の前で、真昼の世界が。あたしは……あたしの世界を両手で粉々にすり潰して、それから微笑むあんたが見たい。ベイビー、ベイビー、ベイビー。

 誤魔化してはならない。あたしは知っている。今日の世界は、あたしの最後の世界だ。あたしというあたしにとっての最後の世界。今日以後、あたしは、あたしとしてなすべきことを知らない。あらゆる意味で今日が最後の世界だ。明日は裁きの日だ。明日は、あたしの、最後の審判だ。

 洪水が……洪水が、地の表にあるもの全てを滅ぼしていく。ケレイズィ、ケレイズィ、冷酷なる傲慢。裏切り者の冷血動物。サンダルキア、楽園。暗く広い海に沈んだ楽園。アレクの山で、無原罪は、静かに静かに目を覚ます。

 真昼の目の前で、洪水が、世界を洗い流していく。当然のことだ。それに至るためには、全てが洗い流されなければいけないのだから。無原罪の青。主に出会ったのならば主を殺す。自分自身に出会ったのならば自分自身を殺す。

「デナム・フーツ。」

「なあに、真昼ちゃん。」

「あたし、死にたくない。」

 ねえ。

 だけどさ。

 それって。

 何?

「でも、なんで生きてるか分からない。」

 さて、ちょっとここで冷静になって考えてみよう。真昼が置かれている状況と、その状況下で真昼がとっている行動についてだ。まず最も重要なのは、真昼が一糸さえ身に纏っていないということである。クソ長ったらしい上にすっぽこポエティックな真昼のモノローグのせいで、若干意識の外に保留されてしまいかけていた事実ではあるが。とはいえ、よくよく考えると、よくよく考えなくても、真昼ちゃんは素っ裸なのだ。

 そして、隣にいる男は、人間の命をミミズの鼻糞とも思っていないようなやつなのだ。ミミズに鼻があるのかどうなのかということは知らないが(別に興味もない)、これは取るに足らないもの・価値のないものと思っているという例えであって、とにかくここでいいたいことは、デニーがマジでヤバい殺人鬼だということだ。しかも、マジでヤバい殺人鬼というだけではなく、マジでヤバいギャングの幹部でもあるのである。

 そして、例えデニーがマジでヤバい殺人鬼かつマジでヤバいギャングの幹部でなかったとしても。デニーと真昼とが出会ったのは僅か三日前なのだ。いや、まあ、今が零時を回っている時間かどうかで三日前であるか四日前であるかということは変わってくるのだが。それは、クソほど全くどうでもいいことである。そんな些細な違いは百パーセント完全に重要ではない。とにかく、ここで重要なのは、デニーと真昼とが、ほとんど初対面に近いということだ。そりゃあ、二人が出会ってから色々なことがあったといえば色々なことがあったが。とはいえ、二人の関係性を定義するのに最も適切な言葉が、相変わらず「赤の他人」であるということには変わりないだろう。

 と、以上が客観的な事実関係であるが……そのような観点から、真昼の行動を考えてみると……これは、なんというか、どう考えても異常な行動であるということが理解出来るだろう。あのさ、普通、そんな重い話する? 会って三日しか経ってないやつに。母親が自殺した話ってさ、お前、ずっと仲が良かった幼馴染とかに打ち明けられても反応に困るぜ? 普通、もうちょっと、なんていうか……TPOってもんがあるだろTPOってもんが。っていうかさ、それ以前の問題としてだよ、人間の命をミミズの鼻糞とも思ってないやつに人間の命についての話をするなよ。どう考えてもまともなレスポンスは帰ってこないだろ。

 いや、まあ、百兆歩譲ってだよ。そういうやつに対してそういう話をするとしよう。服を着ろよ、せめて。な? 真面目な話してるんだからさ。そういう話を話して、そういう話を聞いて貰って。そういう真面目なことをしようっていう時にはさ、それ相応の、相手に対する礼儀ってもんがあるだろ。そういうことを考えるんだよ、普通は! あのサテライトだって普段は服を着てますよ。それを考えれば、真昼がどれほどおかしいことをしているのかということが分かる。

 さて、ところで。

 そのようなおかしいことを。

 された方のデニーであるが。

 デニーにしては珍しいことに……何も言葉を発しなかった。少なくとも、暫くの間は。先程のセリフの、最後の言葉を発した真昼のこと。とてもとても真ん丸なお目々で、しっと見つめる。なんとなく、不思議そうな顔をしていた。真昼という下等生物の生態について、何かしらの意味合いで、興味深い行動を見つけたといった感じ。何も言わないままで、ほんの少しだけ首を傾げて。そして、感情の欠片さえも感じられない冷静さでもって、真昼のことを観察している。

 そうして、その後で、暫くして……くすくすと笑いだした。いつもと同じ、全く同じ、真銀で出来た鈴の音色をくすぐるみたいな声をして。両方の手、手のひらを広げて、可愛らしいお口を隠して。真昼のことを、まるで甘えるような視線で見上げながら、デニーはくすくすと笑う。純粋であることは、ただそれだけでは善ではない。かといって、また、悪というわけでもない。例えばそれは、ひどく透明な氷が善でも悪でもないのと同じことである。とはいえ、絶対的な冷たさによって凍り付いた氷は、やはり人間にとって危険な何かだ。

 デニーは、デナム・フーツという生き物は。鱗を持つ生き物ではない。爬虫類ではないのだ。爬虫類であれば、まだ分かり合うことが出来るだろう。爬虫類には脊椎があり、人間にも脊椎がある。その点で共通の構造を持つ生き物であるからだ。だが、デニーは……デニーは違う。人間は、デニーと分かり合うことが出来ない。構造が完全に異なっているからだ。それは、例えば、節足動物のような生き物なのである。脊椎の代わりに外骨格を持ち、その全ての構造は、環節によって必然的に秩序化されている。完全に左右対称の生き物。

 デニーは、冷血動物ではない。

 その体を流れているのは、血液ではないからだ。

 その液体は、死に絶えた生き物のように冷たく。

 綺麗な、綺麗な、

 緑色をした。

 何かだ。

「真昼ちゃんは。」

 デニーが、ふと口を開く。

 甘い甘い声をして。

 真昼に問い掛ける。

「デニーちゃんのこと、好き?」

 それを聞いた瞬間の真昼の感情について、何かしら意味のある言葉によって表現するのは非常に難しいことだ。真昼自身でさえも、その感情をなんらかの意味のある象徴として形成したわけではない。それは、決して普遍的な感情ではなかった、中枢神経系によって幻想的に生み出されたところの共通の観念を前提としているものではなかったのだ。その感情の瞬間に、真昼の中には真昼はいなかった。確かに、その瞬間だけは、真昼という統一された自我は完全に破綻してしまっていたのだ。そして、その感情は、真昼の全身において、ある種の肉体的な爆発として発露した。

 一言でいえば、それは解き放たれた獣だ。真昼が今まで生きてきた十六年の間、真昼の精神の奥の奥、最も奥深くに閉じ込められていた獣。それが、その瞬間に、真昼の全身を支配したのだ。なんという爆発的な恍惚か! なんという衝撃的な衝動か! とはいえ、それは幸福であるわけではなかった.肯定感でもなかったし、満足感でもなかったし、いわんや愛であるわけでもなかった。それは絶対的な憎悪であった。

 人間という生き物が、これほどの憎しみを、これほどの怒りを、感情として身体の内側に満たすことが出来るとは。真昼は夢に見たことさえなかった。いや、ある意味ではこれは人間の感情ではなかった。動物の感情だ、記号による思考能力を持つことのない動物の感情。それには何かしらの意味があるわけではなかったし、理由などというものがあるわけでもなかった。この感情にはそんな不純なものは必要なかった。

 真昼は。

 ただ。

 純粋に。

 目の前にいる、この男を。

 殺したいと思っただけだ。

 人間的な服装を身に纏っていない肉体は、まるで野生の肉食動物のようにしなやかに筋肉と骨格とを動かした。獰猛な憎悪、狂暴な殺意。真昼の皮膚の上に刻印されたデニーの魔学式が、薄暗い空間の中で淡やかに光を放ってる。まるで秘密のうちに口づけを落とされた恋人の、あられもない痣のように。人間でありながら人間よりも優れたものとされた真昼の、腕は、脚は、全身は、荒々しく動いて。すぐ隣にいたデニーのことを、その場に押し倒した。

 常に緊張して引き攣っている少年のような、デニーの体。真昼と同じくらい、真昼よりも少し小さいくらいのその体。驚いたことに、少しの抵抗を示すことなく、それどころか、まるで真昼のことを誘っているかのようにあっさりと倒れた。そこに、仰向けに倒れているデニー。その上に、覆いかぶさるようにしてのしかかっている真昼。デニーの顔は真昼のことを見上げていて、真昼の顔はデニーの顔を見下ろしている。首筋に噛みつくことが出来る距離。

 真昼は、デニーのことしか見ていなかった。デニーのことしか考えていなかった。憎しみと怒りとのうちに、世界からはデニー以外の全てが消え去っていた。そして、そのデニーは。目の前にあるデニーの顔は。笑っていた。いつものように、くすくすと。まるで、あたかも……二匹の獣が、戯れているだけとでもいっているようだ。子供の獣、まだ、狩りの仕方も分かっていない子供の獣。甘く噛み付かれてくすぐったがっているかのように。

 これ以上強い憎悪はないだろうと思っていた憎悪が、更に強くなる。強く、強く、強く、まるで太陽に向かって舞い上がっていくかのように。真昼は、奥の歯を噛み締める。ぎりぎりと強く噛み締める。あまりに強く噛み締め過ぎて、骨が軋む音さえ聞こえてきそうなほどに。

 それから、真昼は、憎悪のままに、欲望のままに、その腕を振り上げた。ここでいう「その腕」とは左腕のことで、要するに、黒い色をした藤の刺青が絡みついている方、重藤の弓が描かれている方の腕だということだ。真昼が拳を握り締める。その瞬間に……刺青が光を放つ。神の力を示す光、セミフォルテアの光によって。その光は、真昼の左腕の、その全体に広がって。そして、それは一つの神槌のような姿になる。

 絶対に、デニーが、逃れることが出来ないように。真昼は、右手で、デニーの顔を押さえ付ける。可愛らしく笑っている、その可愛らしい口元に、親指を突っ込んで。そして、その他の四本の指で耳を掴む。そうやって固定してから、そのデニーの顔に全身の体重をかけて、押さえ付ける。

 そして、そして、真昼は、振り上げていた拳を叩きつけた。デニーの顔、デニーの頭に。セミフォルテアによって包み込まれた拳を、何度も、何度も、何度も、何度も、叩きつけた。そんなことをすれば、普通であれば死んでしまうだろう。よほどの力を持つ生き物でなければ確実に死ぬ。そう、真昼は殺そうとしている。デニーのことを、確実に殺そうとしている。

 けれども、デニーは……死ななかった。それどころか、真昼が、どんなに力を込めて殴りつけても。その顔には、その頭には、傷一つ付かなかった。笑っている。その笑い方は、もう、くすくすという笑い方ではなかった。面白くて面白くて仕方がないといった感じ、楽しくて楽しくて仕方がないといった感じ。デニーの口から、幸福そのものといった笑い声が聞こえてくる。「あはは……あははははははははっ!」、真昼が、どんなに、それを、その笑い声を、叩き潰そうとしても。

 獣。

 獣。

 獣。

 服を着ていない。

 飼い慣らされていない。

 真昼の中の。

 獣。

「黙れっ!」

 真昼は叫んだ。だが、それは「黙れ」という意味を持った言葉ではなかった。猫がにゃーにゃーと鳴くように、犬がわんわんと鳴くように、兎がぴょんぴょんと鳴くように。いや、ごめん、兎はぴょんぴょんとは鳴かないわ。とにかく、動物が、そのような音を出して欲望を表現するように。真昼は、そのようにして暴れ狂う欲望を叫んだだけだ。

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

「黙れっ!」

 もちろんデニーは黙らない。というか、そもそもデニーは言葉を発しているわけではない。笑っているだけだ。笑うという行為に対して黙れという命令は適切であるのか? そもそも、笑うという行為はなんらかの命令によって止めることが出来るようなことなのか? とはいえ、今の真昼はそのようなことを考えられるような状態ではない。

 真昼は、とうとう……「黙れええええええええええええっ!」と絶叫しながら耳を塞いでしまった。デニーを殴っていた左手を、デニーを押さえていた右手を、自分の両耳に押し当てて。それから、頭がおかしくなってしまったかのようにかぶりを振る。まるで聞き分けのない子供みたいだ、お菓子を買って貰えなくて駄々をこねている子供。

 けれども、それでも、デニーの笑い声は止めることが出来ない。いくら耳を塞いでも、その耳にその声は聞こえている。真昼は、デニーを威嚇するかのように歯を剥き出しにして。そして、デニーの、まさに両目を睨み付ける。視線によって、デニーの眼球を抉り出そうとしているかのように睨み付ける。

 ああ。

 今、初めて。

 気が付いた。

 デニーの目は。

 緑色をしてる。

 この声を、この声を、止めなくてはいけない。私のことを笑っているこの声を止めなくてはいけない。何をしてもどうしても止まらないこの声を止めるには、一体どうすればいいのか? もちろん、その声が出てきている、元の部分を閉ざせばいい。誰かの声を力尽くで止めたいというのならば、その喉を締め付ければいい。

 真昼は、デニーの喉に手を掛けた。今度は両方の手で、ひどく華奢なデニーの喉に触れる。人差指と中指と薬指と小指と、片側に触れて。親指を反対の側に触れて。そして、握り潰すかのように力を入れる。それだけではなく、上からも押さえ付ける。喉元を潰そうとしているかのように、全部の体重をかけて押さえ付ける。

 叫ぶ。

「死ねっ!」

「死ねっ!」

「死ねっ!」

「死ねっ!」

 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。動物の咆哮として、凄まじい力によって内側から爆発する衝動の連鎖として。真昼は、何度も何度も同じ音を絶叫し続ける。もともとは涙になるはずだった真昼の血液の、その全てが。沸騰して、蒸発して、そのまま、真昼の理性を弾け飛ばせているみたいだ。「あんたが!」「あんたが!」「どうして!」「こんなことになったんだよ!」「全然分かんない!」「どうして!」「どうして!」「こんな!」「こんな!」「あんたが!」「あんたさえ!」「あんたさえいなければ!」「あんたさえ死ねば!」。憎悪と欲望とによって打ち砕かれて、もう原形さえ残っていない言語の断片を、デニーに向かって投げつける。まるで、どうして自分が泣いているのかさえ分からずに泣き喚きながら、愛する親に向かって手当たり次第に玩具を投げつけている子供のように。真昼の中に残っている、ほんの僅かな概念。「あんたが」という憎悪と、それに、「死ね」という欲望。今の真昼が真昼であることの全て。

 セミフォルテアの光が、どんどんと、どんどんと、強くなる。虚無の中に開いた、底なしの重力の穴のようだ。じゅうじゅうと、肉の焼け焦げる匂いがする。デニーの喉が燃えているわけではない、真昼の腕が燃えているのだ。つまり、真昼は、あまりの瞋恚によって自らの肉体さえも熾しているのだ。もちろん、そのようにして強められた腕力・膂力は、恐らくは神骸石さえも片手で砕いてしまうほどのものであろうが。それでも、デニーは、ただただじゃれ合っているだけだとでもいうように、痛みも苦しみも感じていないようだった。締め付けられているその喉からは、相も変わらず、けらけらという無邪気な笑い声が聞こえている。

 どうすれば、どうすればいいの? どうすればあんたは死んでくれるの? いや、そもそも自分は……この男が死ぬことを望んでいるのだろうか。自分の中に、歪み、狂い、悶え、藻掻き、足掻き、軋み、暴れ、弾ける、惨たらしいほどの衝動があるということは感じる。それが、この男に関する衝動であるということも感じる。けれども、それが具体的にどういう衝動なのかということは全く理解出来ないのだ。とにかく、目の前にいる、この男を……傷付けたい、めちゃくちゃに傷付けてやりたい。元の姿も分からなくなるくらい、ばらばらに引き裂いてしまいたい。ただ、もしも、この男が死んでしまったら……自分は一体どうなるのか。

 いや、真昼はそんな心配をする必要さえないのだ。なぜなら、真昼に、デニーは、殺せないから。今、まさに今、この時に。真昼はデニーのことを本気で殺そうとしている。真昼は、自分の持つ全ての力を使って、デニーのことを殺そうとしている。それにも拘わらず、デニーが死ぬような気配はない。それどころか、真昼は、デニーの笑い声を止めることさえ出来ていないのだ。

 真昼は。

 真昼は。

 弱くて愚かだ。

 どうしようもない事実、変えることの出来ない事実。真昼は、弱くて、愚かだ。人間という生き物は、どうも勘違いしがちなのだが。世界にはどうしようもない事実というものがある。ヒーローはいつも勝つというわけではないし、理想はいつも正しいというわけではないし、人間が普遍的な真実に辿り着ける可能性はない。そして、真昼は、デニーを殺せない。これは絶対的な事実であって、絶対的に変えることが出来ない。

 真昼は、だんだんと……何がどうなっているのかということが分からなくなってきた。なんでこの男は死なないんだろう、なんでこの男を殺せないんだろう。次第に、次第に、真昼の内側で煮え滾っていた暴れ狂う力のようなものが、頽れて、拉がれて、いくのを感じる。何かの冷たい薬を注射されたかのように、そのせいで神経系が麻痺していくかのように。力が、力が、抜けていく。

 真昼の左手を熾していたセミフォルテアの光が、死んでいく蛍光灯のように弱まっていく。霞がかかっていく光、朧になっていく光。そして、それと一緒に、真昼の指先からも力が抜けていく。ふるふると、真昼の手のひらは小刻みに震えていて。まるで怯えているみたいだ。それから、とうとう、真昼の手のひらは。右のそれも左のそれも、両方ともデニーの喉から滑り落ちてしまった。

 ぺたん、ぺたん。力弱く、真昼の手のひらは、この部屋の床の上に落ちていく。そのせいで、真昼の顔はデニーの顔の真上にくることになる。真昼の息が、真昼の肉体から吐き出された息が、デニーの顔にかかってしまいそうな距離。真昼は、デニーの顔をまともに覗き込むことになる。デニーの顔、笑っている顔。

 デニーは、そんな真昼に対して、特に何も言わなかった。本当に、ただ、笑っているだけだった。ただ、さっきまでのようなけらけらという笑い声は収まっていて。くすくすという、些喚くような笑い声に戻っていたが。あと、それと……かぶっているフードが、少しだけ乱れている。

 鳴き声を上げるためにほどいていた歯と歯と、もう一度、噛み締める。けれども、今度はそれほど強く噛み締められなかった。弱々しく、強がっているかのように。どちらかというと、ぎゅっと口を閉じただけのような感じだった。

 二つの体が一つになってしまいそうな距離。

 それほど近いところで、悪魔が笑っている。

 真昼が……真昼が覗き込んでいるのではない。

 悪魔が覗き込んでいるのだ。

 真昼の内側、奥の奥。

 真昼さえも知らないところ。

 悪魔は。

 そんなところを。

 まるで。

 ちょっとした。

 戯れのように。

 覗き込んでいる。

 なんだか、ほんの少し……呼吸がしにくくなってきたような気がする。息が、上手く、吸い込めない。息が、上手く、吐き出せない。これは、言うまでもないことであるが、デニーが何かをしたわけではなかった。当たり前だ、そんなことをしてデニーになんのメリットがある? これは、純粋に、真昼の側の問題、真昼の心の問題であった。

 息が出来ないような気がする。だから息が出来ない。それはまるで何かの発作みたいにして急激に進行する心因性の不具合だ。どんどんと、どんどんと、肺の動きが悪くなっていって。とうとう、真昼の呼吸は、かふっかふっというような、掠れた喉の音のようなものになってしまう。

 苦しい。

 苦しい。

 息の仕方が。

 よく思い出せない。

 真昼は、ぐうっと、上半身を起こした。その結果として、デニーの腰の辺りに座り込み、床の上にへたりと足を下ろして、ちょうど跨がっているような姿勢になる。そうしてから、自由になった両方の手、今度はデニーの首ではなく自分の首を掴む。

 いや、掴むというか……掻き毟る。上手くいかない呼吸、苦し紛れに自分の喉をなんとかしようとしているのだ。とはいえ、いくら引っ掻いたところでどうにもならない、これは肉体が原因の症状ではないのだから。ただ悪戯に皮膚が剥がれるだけ。

 げえお、げえお、という感じ。奇妙な音を立てて、真昼の喉が震える。なんとか息をしようとして、喉の内側にある筋肉を締め付けているのだ。その後で、真昼は、凄まじい勢いで咳込み始めた。けほけほなんて生易しいものではない、がはっがはっという血反吐を吐き散らすような咳。吐き散らすような? いや、違う。真昼の口からは、本当に、血液の飛沫が飛び散る。あまりにひどい咳き込み方をして、喉の奥が少しばかり破れてしまったらしい。

 なんで、なんで、あたしはこんなに苦しいの? なんで、なんで、あたしは息が出来ないの? 誰に問い掛ければいいのかも分からない、そういった問いの答えについて、真昼はとうに理解していた。ただ、そうして理解していることを、全然理解出来ないだけだ。喉を掻き毟っていた手が、ゆっくりとその動きを止めて、上の方へ上の方へと滑っていく。両方の手のひら、自分自身の血液によって濡れた手のひらが、真昼の顔の全部を覆う。

 それから、力なく崩れ落ちていく。一度起き上がった真昼の上半身は、また、デニーに覆いかぶさるようにして前に向かって倒れていく。いや、今度は……覆い被さる「ように」ではなかった。実際に真昼の肉体はデニーの肉体に覆いかぶさったのだ。二つの肉体が重なり合う。真昼の裸の体重は、他に支えるものなど何もないままに、仰向けに横たわるデニーの上に乗せられる。

 真昼には、もう、自分自身を支えるだけの力さえ残っていなかった。先ほど床の上について、真昼の上半身が完全に崩れないように防いでいた両手は。今は、真昼の顔を隠しているだけで、それだけで精いっぱいだったのだ。ただ、そうでなくても……その両手は、真昼のことを支えられなかっただろう。これは肉の袋、これは血の袋。これは、この手には、あまりにも重過ぎる。

 いつもいつもそうだった、肉体というものは、常に、真昼にとって重過ぎる何かだった。これさえなければ、どんなにか楽に生きることが出来ただろう……あるいは、どんなにか楽に死ぬことが出来ただろう。どうすれば観念によって肉体を支えられるのか、真昼はそればかり考えてきた。もしかして、本人はそうは思っていなかったかもしれないが。さりとて、真昼が考えてきたことというのは、結局はそれだけなのだ。

 この肉体を支えるためには、呼吸をしなければいけない。生きている限り、ずっと、ずっと、呼吸をしていなければいけない。起きているだけでなく、寝ている時でさえも、息を吸い、息を吐き、それを繰り返し続けなければいけないのだ。それなのに、今、この時……真昼は、その呼吸が上手く出来なかった。胸が動かない、体の内側に潜む意地汚い怪物のような肋骨が、動いてくれない。理由は分かっている、理由は分かっているのだ。でも、その理由には、理由なんて必要ない。

 真昼は、今……全身で、デニーのことを感じていた。デニーにのしかかっている真昼という生き物、デニーと触れ合っている生き物。素裸であるところの真昼の、体の表側の面。肩から腰にかけて、それから太腿に、二の腕。その全てがデニーに触れていた。皮膚が、皮膚が、その皮膚が。ほとんど隙間なく、まるで貪るようにしてデニーに密着していたのだ。

 確かに、デニーそのものに触れていたわけではない。なぜならデニーは服を着ていたからだ。子供っぽいスーツに子供っぽいシャツ。それから、それだけが場違いに、ひどく厳格な感じがする、真っ黒な色のネクタイ。どこかの宗教学校の生徒みたいな服装。真昼の素肌は、デニーの素肌に、触れていたというわけではない。けれども、それでも……感じていた。

 例えば、真昼の肌は、デニーの温度を感じていた。これまでも何度か触れてきたことであるが、生きている人間の温かさなどまるで感じさせない温度。肉体を循環し人間に対して感情というものの発するエネルギーを隅々まで行き渡らせるところの血液、その血液の存在を、一滴たりとて感じさせない温度。冷血動物でさえも恐れを抱いてしまいそうな、冷酷でさえ凍り付いてしまいそうな、奇妙であるほどの冷たさ。

 ああ、そう、そういえば……血液といえば……心臓の音。真昼は、自分自身の心臓の音を聞いていた。蓋がれた肢体の内側で、とくんとくんと何かを穿つ心臓の音。でも、真昼には、デニーの心臓の音は聞こえていなかった。これほど近くにあるのに。この体は、これほど近くにあるというのに。それでも、その胸は静かだった。まるで生きているものがいない世界の夜のようにして。

 そのことに対して、つまり、デニーの胸には心臓の音が聞こえないということに対して。真昼は、意外性だとか驚きだとか、そういったものを感じなかった。それどころか何も思わなかった、それは、あまりに当たり前過ぎて、例えば「空気がある」といったような現象だったのだ。「空気がある」ということには誰も驚かない、デニーに心臓がないということも、やはり誰も驚かない。

 むしろ。

 心臓の音がした方が。

 驚いて、いただろう。

 それは。

 つまり。

 デニーが。

 まるで。

 人間みたいだと。

 いうことだから。

 そうやって、真昼は、デニーの上にいた。ちなみに、両手で覆い隠している顔はどうしているのかといえば。天井の方を見ている、上を向いているデニーの顔のすぐ横のところ。右側の、肩の辺りに、すっぽりと埋めるような形であった。

 ひぐっひぐっという音を立てながら。しゃっくりをするようにして下手な呼吸をしながら。真昼は、ただ、全身をデニーに預けていた。デニーは、そんな真昼に何かを言うことなく。やはり、可愛らしく、くすくすと笑っていただけだ。

 デニーが、上に乗っている真昼の体の、その背中に腕を回す。ぎゅっと抱き締めようとしているかのように、両方の腕で、優しく優しく真昼を囲う。それから……右の手のひらで、真昼の背中を叩いた。ぽんぽんと、二回。その後で、その右の手のひらは、ゆっくりゆっくりと真昼の背中を撫で始める。「よーしよーし、真昼ちゃん」「真昼ちゃんはいい子だねー」「なんにも、なんにも、怖いことはないよー」。そんなことを、真昼に言い聞かせながら。デニーちゃんは、小さなおててで、真昼のことを撫でてあげる。

 デニーの手。真昼の背骨がある辺りに触れる、デニーの手。凍えるように冷たくて、その中にある髄液が、取り返しがつかないくらいに凍ってしまいそうだ。ぞっとする、脊髄が、その悪寒をそのまま全身に伝えてくる。嫌悪感だけが込み上げてくる、この男に対して、人間でないのにも拘わらず、まるで人間のようなふりをしているこの男に対して。真昼のために、人間のふりをしている、悪魔に対して。

 呼吸が……呼吸が出来るようになってくる。なぜかは知らない、考えたくもない。でも、デニーに撫でられているうちに。何度も何度も、その透明な残酷さが、真昼という人間のtestamentを犯しているうちに。真昼は、自然に呼吸が出来るようになってくる。息を吸う、息を吐く、この世界に、あまりにも当たり前に満ちている、空気を呼吸する。そして、デニーの胸からは、やっぱり心臓の音が聞こえない。

 分かってる。

 分かってる。

 本当は、分かってる。

 なぜ呼吸が出来なかったのかということも。

 なぜ、それが、出来るようになったのかも。

 肉体の重さ。この世界の現実というものの重さ。あたしが生きているという事実の重さ。あたしという肉体の痛み、あたしという肉体の苦しみ。肉体の重さ、誰が死のうとどうでもいい、それはあたしが経験することではないからだ。死にたくない。あたしが死にたくない。それなのに、生きているということが、泣いてしまいそうなほどに不安なんだ。助けて欲しい、助けて欲しい、誰でもいいから助けて欲しい。でも、あたしは誰かを助けなくてもいい。あたしだけが助かりたいんだ、あたしだけが、ただ、あたしだけが助かりたい。あんた達がみんな死んで、綺麗になった世界で。ただ、あたしだけが生きている。あたしだけが生きていて、あたしだけが笑っている。すごく、すごく、幸せになりたい。それなのに、誰も幸せにしてくれない。何かが間違っている、全部が間違っている。あたしの世界、あたしの肉体。あたしの肉体の、重さ。間違っている、ということの、重さ。

 「あたしの」真昼の口から言葉が滴る「あたしの中から出ていって」顔を覆い隠したままでそのくぐもった声は苦し紛れに吐き出される「あたしの中にあんたがいるの」それは声帯から出ている声ではなく心臓から出ている声だ「あたしの中があんたで満ちてる」ついさっき喉の奥から吐き出した血液が指の間から落ちていく「ねえ」このままでは何か悪いことが起こる「どうにかして」このままでは何か取り返しのつかないことが起こる「どうにかして」真昼の世界は粉々に砕けてしまい「どうにかして」二度と同じ形には戻らないだろう「どうにかして」真昼はそれを「ねえ」子供のように「お願い」恐れている「あたしの中のあんたを殺して」。

 Other voices。

 Other rooms。

 自分のものではない他の誰かの声。

 この場所ではないどこか別の部屋。

 助けて欲しいと叫んでる。

 助けて欲しいと叫んでる。

 でも。

 ねえ。

 教えて。

 もしも、あの誰かが。

 助かってしまったら。

 あたしは。

 一体。

 どうなって。

 しまうの?

 デニーは……デニーは。真昼が辛うじて言葉を吐き出している間中、その背中を撫でてあげていた。まあ、撫でてあげていたとはいっても、真昼は別に撫でてくれと頼んでいたわけでもないし、撫でて欲しいと思っていたわけでもないが。とにかく、ある子猫が他の子猫を毛繕いしてあげる時の、その他愛もない舌先みたいな手つきによってそうしていたということだ。

 それから。真昼の声が意味のある言葉であることを止めて、ただただ羅列される嗚咽になってしまってから。デニーは、ふと、その右手を止めた。それは一つの予兆として止められたのであった。なんの予兆か? もちろん災害の予兆である。真昼が何をしようとも、真昼が何を言おうとも。その災害が起きることを止めることは出来ない。なぜなら真昼は無力だからだ。

 世界は必然で満ちている。世界とは、必然によって織り成された秩序だ。人間は、自分よりも遥かに高いところにある全ての物事を恐れ、偶然という戯言を作り上げた。災害を……災害を、人間は止めることが出来ない。いつもそれを予感しながら、それが来た時には、ただただ打ち砕かれることしか出来ない。人間には絶対に変えられないことがある、人間には絶対にどうしようもないことがある。それがそうであることには、自分自身などというものは、自由意志などというものは、全く関係ないのだ。だから、真昼は、それを受け入れるしかない。

 災害が来る。災害が来る。真昼は子供のように泣いている。涙を流さないままに、意味のない恐怖で震えている。とてもとても滑稽なことだ。だから、デニーは、そんな真昼のことをくすくすと笑うのだろう。なんにも心配いらないよ、真昼ちゃん。ただ、起こらなきゃいけないことが起こるだけだから。デニーは、真上を向いていた顔を、ほんの少しだけ横に向けた。最初は窓の外に向かって。その後で、真昼に向かって。真昼は、デニーの右側に顔を埋めたつもりであったのだけれど。デニーの顔の向きは、真昼とは反対を向いている。そのために、デニーから見ると、真昼の顔はデニーの顔の左側にある。だから、デニーは、左側を向いて。

 その口はまるで。

 運命、みたいな。

 囁き声によって。

「ほら、見て。」

 真昼の。

 耳元に。

 それを。

 告げる。

「カリ・ユガが帰って来たよ。」

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