第二部プルガトリオ #48

「あれー、真昼ちゃん?」

 憎悪と嫌悪とに満たされた一つの宝石のように響いた真昼の言葉に、デニーは振り返った。いつもの通り、真昼の気持ちなど、気にも留めないどころか知りもしないといった感じ。甘えるように可愛らしく、くるりんと振り返った。

 それから、きゅーんという感じ、胸が締め付けられそうなほど愛らしい仕草で上半身を腰の辺りから傾ける。両方の手は、人差し指を、ぴんとまっすぐに立てていて。そして、右の人差し指を右のこめかみに、左の人差し指を左のこめかみに当てている。いわゆる「なんだろーなー?」のポーズである。

 本当に。

 一挙手が。

 一投足が。

 癇に障る。

「お目々が覚めちゃったのかな?」

 もちろん、その質問に対して真昼が回答するはずがなかった。いかなる回答であっても、これほどムカつく問い掛けに対して、真昼がそれを口にするはずがない。ということで、真昼は、断固かつ堅固に口を閉ざしたままで。また、歩くことを始めた。

 とはいえ、その歩みの方向は、今までとは違った方向であった。ベッドを中心とした回転運動ではなく……まるで、惑星であったところのベッドが、その引力を失ってしまったかのように。真昼という衛星は、天空の方向へと、宇宙の方向へと、虚無の方向へと、墜落していく。

 要するに、何がいいたいのかといえば、デニーの方向に向かって歩き始めたということだ。真昼という肉体の喪失によっても、平和と安心とのうちに眠り続けているマラーに背を向けて。静かに、静かに、デニーへと引き寄せられていく。

 九つの段(まあ、正確にいえば真昼が上がることになるのは八段なのだが)(ほら、真昼のいるところも数えて九段ってことだから)、恐らく真昼のような人間に合わせて作られたと思しき九つの段。それを、静かに、静かに、上がっていく。

 階段と呼ぶには一つ一つの踏み板があまりにも広過ぎる気がする。大体、一ダブルキュビト程度はあるだろう。そのせいで、真昼は、一つの段を上がった後に、踏み板の上を一歩歩いて、それから次の段に取り掛からなければいけないような感じだ。だからどうしたといわれると困ってしまうのだが、今の真昼は一歩進むごとに約一秒をかけている。そうなると、一番下の段から一番上の段までは約十五秒かかるということになる。そして、一番上の段、つまりデニーがいる段に関しては他の段と違ってその幅が二ダブルキュビト程度あった。ということで、デニーがいる場所に辿り着くまでに、真昼は十七秒をかけたということだ。完全猟犬数。「こちら側」と「あちら側」とが曖昧になる数。これは、もちろん単なる偶然ではあるが……とはいえ、この世界に、果たして偶然なるものが存在しうるのだろうか?

 大罪を通じて。

 猟犬へと至る。

 さて、このようにしてデニーがいる場所まで歩いてきた。デニーのすぐ隣、その右側に立つ。デニーは、そんな真昼の態度に……珍しく何も言わなかった。一言も喋ることなく、真昼が自分の右隣に来るにつれて、また、その体を窓の方へと向ける。

 まるで夜が震えているような、くすくすという音が聞こえてきた。デニーが笑っている音だ。声を殺したままで、何か意味ありげに笑っている。これは、間違いなく、デニーが笑っている音だ。何か意味ありげに笑っている、意味ありげに愛くるしく笑っている。デニーの顔は、フードの奥に隠されたその顔は、この夜の時間においては、あまりにも暗く閉ざされていて。真昼のような下等知的生命体には、そこから象徴的意味を読み取ることが出来ない。ただ……そこに、捕食者の息遣いを感じることしか出来ない。

 デニーが。

 ようやく。

 口を開く。

「どーしたの、真昼ちゃん。」

 いかにも。

 笑いを。

 こらえられないと。

 いうかの、ように。

「お体が、全部、げーってなっちゃってるよ。」

 これは「全身ゲロまみれですがどうされたんですか」をデニーちゃん的に言い換えたものであるが。それはそれとして、真昼には答えようがなかった。自分がなぜ嘔吐したのか、自分がなぜ吐瀉物の上で足掻き喘がなければいけなかったのか。真昼は分かっていたのだが、真昼は分かっていなかった。それを……それを理解するには、真昼の思考はあまりにも稚拙だったのだ。真昼の脊髄は、あるいは真昼の神経系は。それを、待機という形で、完全に理解してはいたのだが。とはいえ、何もかも、まだ始まっていない。ということで、真昼はこう答えるしかなかった。

「別に、好きでこうなったわけじゃない。」

 確かにその通りだ。

 別に、ゲロまみれになりたくて。

 ゲロまみれになったのではない。

「はわわー、そーなの?」

 何が「はわわー」だよ、一言一言が神経を逆撫でするやつだな、と思ってしまった真昼であったが。それでも、デニーの方には、視線を向けることさえしなかった。そういえば……真昼は、一番下の段に足を掛けてから、デニーの隣に来るまで、ずっとデニーから目を逸らしていた。ずっと窓の外に視線を向けていたのだ。まるで、あんたなんて全く興味がないとでもいうみたいに。まあ、いうまでもなく、真昼が見ていたのは、ずっとずっとデニーではあったのだが。このアーガミパータに来て、初めて出会った時から、ずっとずっと、デニーだけを見ていた。デニー以外のものは目に入っていなかった。真昼自身が、どう思っていたとしても。

 デニーが。

 言葉を。

 続ける。

「それなら、きれいきれいってしましょーね!」

 そう言うと、デニーは急に口元を寄せてきた。真昼の肩の辺り、少しだけ俯くようにして、そのすぐそばに口元を差し出す。真昼はこいつ何すんだよと思って、ちょっとびっくりとしてしまった。そして、デニーの隣に来てから、初めてまともにデニーの方を見たのだが。デニーが何をしたのかというと、その肩の辺りに、ふっと息を吹きかけたのだった。

 その瞬間に、何かが燃え上がった。それは炎ではなかったのだが、人間の認識では炎としかいいようがないものだった。唾液で出来たゼリーのように透明で、したしたと滴るような光が、べっとりと纏わりつくように燃える。真昼はまたもや驚いて「あんた、何を……」と言いかけてしまったが。その次の瞬間に気が付いた。これ、全然熱くない。それどころか、なんの感覚も感じない。

 ゆらゆらと、水面に映し出される幻想のように、炎は燃えていく。真昼の表面のそこここに燃え移っていって……そして、それは真昼自身を燃やしているわけではなかった。真昼の皮膚の上、そこら中にまみれている反吐を燃やしているのだ。

 ぽっぽっと火が付くと、反吐は、反吐は、反吐は、まるで嘘のように燃え尽きてしまう。不快な煙もなく、もちろん匂いもなく。ただただ、理科の実験でアルコール・ランプに火をつけたみたいに。ほとんど思い出のように蒸発していく。

 真昼の全身が、遠い世界で光を放つ一つの星のようにして燃え上がった後で。真昼の全てを覆っていた反吐が、焼き尽くしの炎によって焼き尽くされた後で。その炎は、文字通り、真昼の表面から滴り落ち始めた。ずるり、やわり、ぺしゃり、ほつり。やはり、何かしらの体液であったかのように真昼の足元に滑り落ちていって……そして、そこで消えてしまった。

 こうして。

 反吐も。

 燃焼も。

 すっかりと。

 洗い流されて。

 あとは。

 素裸の。

 真昼の。

 肉体だけが。

 取り残される。

「これで、すっかりもとどーり!」

 デニーは、そう言って、あのにぱーっとした笑顔で笑ったのだった。ところで、一方の、笑いかけられた真昼は。暫くの間、自分の体の全体を確認していた。

 まずは両方の手のひらに目を向けて、その後で、その手のひらによって頬に触れてみる。頬から頭の方へと指先を滑らせていって、今度は髪の毛にそれを突っ込む。くしゃくしゃと髪の毛を掻き回しながら、その視線、胸と腹と足とに落としていく。次に、髪の毛に突っ込んでいた手のひらを、真っ直ぐ前に差し出して。一の腕から二の腕にかけてをざっと改めてみる。そして、最後に、背後の方に首を曲げてみる。背中から腰にかけて、手のひらで触れてみる。どこを……どこをどう見ても、どこをどう触っても、反吐は残っていなかった。全身が、完全に清め尽くされていた。

 この現象に対して何かを言おうとしたのだけれど。何をどう言えばいいのか、全く思い付かなかった。だから、真昼は、暫くの間、口を開いたままでいて。それから、その口を閉じた。何も言わないまま、デニーに視線を向けて。その後で、その視線を、窓の外に広がっている光景に移した。

 雨は、さっきよりも少しだけ強さを増しているようだった。さーさーからざーざーくらいにはなっている。というか……この感覚は……その雨音の中には、なんとはなしの、不安の胎動のようなものがゆすらぎ始めていた。どう表現すればいいのか、具体的なところを把握出来ないのだが。どうもこれから嵐が来るらしい。しかも、今までの真昼が想像したことがないような、吠え猛り荒れ狂うような嵐が。現在の状態は、せいぜいが激しい雨といったところなのだが、それでも真昼には理解出来た。目の前に広がっているこの光景が、絶対的な崩壊の危険性を孕んでいるということを。

 折しも、先ほどまでは一度も見えなかった閃光が真昼の目前で閃き、先ほどまでは一度も聞こえなかった轟音が真昼の耳元で轟くようになっていた。つまり、そこまで頻繁にということではないが、数分に一回程度の割合で雷が発生するようになっていたのだ。光景の中、あちらこちらで……ただし、たった今気が付いたのだが。その雷は地上に落ちているのではなかった。信じられないことであるが、それは、天上に向かって落ちていたのだ。墜落ではなく昇天、真昼の目の前に広がっている、その都市の光景の、あらゆる地点から、上空に向かって放たれているところの雷であった。

 雷電が迸るのはほんの一瞬のことなので、真昼のように強化された視覚を有していなければきっと見逃してしまっていただろう。けれども、これほどまでにまばゆい光を直接視認しても網膜を焼かれることがない真昼は、その一瞬を見ることが出来たのだ。間違いなく、その落雷は、大地から雷雲へと向かって貫いている。まるで、それは……何かを、迎えようとしているかのように。天上さえも突き抜けた先、無限に広がる宇宙から現れようとしている、何者かを迎えようとしているかのように。

 蛇。

 蛇。

 禍々しい力に満ちた。

 光り輝く蛇の群れが。

 何かを。

 迎えに。

 空を駆けていく。

 そういえば、そんな空の下に位置している場所について。先ほど、都市という表現を使ったのだが……けれども、そんな抽象的な単語を使う必要はなかっただろう、その都市の名前、固有名詞を、真昼は知っていたからだ。もちもちのろんですが、読者の皆さんもご存じですよ! つまるところ、窓の外に広がっているのは、なんとなくそうなんじゃないかなと真昼が思っていた通り、カーラプーラだったのだ。

 それを見たのはたったの二回、しかも一回は昼の光景であったので、夜の光景を見たのは一回だけであったが。それでも、鮮明に記憶に残っている光景。あたかも、真昼の物ではなかったところの、一個の金の冠のような光景は……間違いなくカーラプーラのそれであった。その光景については、既に詳述してあるので再びそれをここに書き記すということはしないでおこうと思うが。とはいえ、真昼が記憶しているところの光景とは少しばかり異なった部分もあった。

 それは光についてだ。マコトのフライスから見下ろした時に、あるいはマイトリー・サラスの湖畔を歩いていた時に、都市の全体を覆っていた光。まるで悪性腫瘍化した悪い冗談みたいに、そこら中で暴走していたところの、頭が痛くなりそうなくらい色鮮やかで、目が弾けてしまいそうなくらい光輝いていた、あの光が。今となっては、完全に消えてしまっていた。

 確かに、それはなんらかの必要性があって煌めいていたところの光ではなかった。なんの意味もなく、ただ面白いから、ただ奇麗だから、光っていただけの光だ。とはいえ、なんの理由もなく、これほど急に消え去ってしまうわけがない。確かに、今は、遅い時間なのだろう。真昼がどの程度眠っていたのかということは分からないが、深い夜をとうに過ぎてしまった時間に違いない。だが、あの光は、遅い時間だからといって消えるものではないはずだ。夜である限り、瞬き、踊り、闇を愚弄し続ける光のはずだ。

 それでは、なぜ? なぜ光は消されてしまったのか? それは……残されている光の、怯えたような弱々しさから理解することが出来るだろう。そう、確かに、その都市においてほとんどの光は消えてしまっていたが。とはいえ、たった一つの光さえも残されていないというわけではなかった。そこここに、群れからはぐれた孤独な雛鳥のように、光が、光が、光が、瞬いていた。

 しかし、それらの光は、真昼の知っているところのカーラプーラの光ではなかった。つまり、過剰なまでの装飾としての光ではなく、生活の光だったのだ。ビルディングのところどころに、地上のところどころに、消えかけた蝋燭の炎のように震えている光。それらは、そこに人々が住んでいるからこそ灯されているたぐいの、必要最低限の光でしかなかった。

 そして、それらの光は息をひそめていた。それらの光が、なるべく外に漏れ出ないようにして、なんらかの障害物によって蓋がれた光。板でも打ち付けているのか、それとも魔学的な障壁を作り出しているのか。とにかく、明らかに、何者かに見つかってしまうことを恐れているとしか思えない有様であった。というか……それどころか。そういった防御、人間によるあまりにも脆弱な防御さえも、無意味であると。それらの光は知っているようだった。そんなことをしてもどうしようもないと知っていながら。それでも恐ろしい怪物が来るのを見ないように、目をつぶっている子供達。

 何者かが。

 何者かが。

 ここへとやってくる。

 災害にも似た力を。

 無情に振り下ろす。

 何者かが。

 ところで雷は都市から放たれているというわけではなかった。真昼の見ている光景の中で、その手前にあたるところから放たれていたのだ。カーラ、カーラ、カーラ。それは、呼吸さえも飲み込んでしまいそうなほどの黒。何もかもを内側に閉じ込めてしまいそうなほどの黒。というか、はっきりといってしまえば……形而上学的な意味での黒。慈悲、慈悲の心臓。

 つまり、真昼が立っている場所とカーラプーラという場所との間には、マイトリー・サラスが横たわっていたということだ。しかも、マイトリー・サラスだけではなく……その中心にある岩山。あたかも、それは、人間には理解出来ない境界、善でも悪でもない無関心によって裁きを下すところの裁判所のように、ただただそこに存在する岩山も、そこに蹲っていた。

 蹲る? 蹲るというのは正しくないかもしれない。その岩山は、そんな表現で把握出来るような、ありきたりな有り方で「有る」というわけではなかった。それは超越していた。真昼が信じているところの世界の有り方とは、全く異なった次元に向かって、ただただ黒く沈み込んでいくところの「有る」だ。

 そして、夜さえも歪めてしまいそうなその岩山の周辺。マイトリー・サラスの水面のあちこちから、雷電が放たれていたのだ。それは、ある意味では……奇跡に近い何かであったのかもしれない。つまり、何かしらの因果関係を破棄したところで発生する、予定することも予知することも完全に不可能であるところの、一つの不可能性。誰もそれを決定していないが、それでもそこにもたらされたもの。そのようにして、雷電は空に落ちていく。

 奇跡。

 真昼が知悉しているもの。

 真昼の、内側と、外側と。

 その両方に。

 満たされているもの。

 と、まあ、窓の外は斯くのごとしであった。そんなわけで、真昼は、少なくともここがカーラプーラのどこかであるということは知ることが出来たのだが。とはいえ、その具体的な場所まではよく分からなかった。位置的に考えれば、ここがエーカパーダ宮殿であるということは十分にあり得ることであったが。とはいえ、その建築物の外観を、マイトリー・サラスの湖畔から確認した時に……真昼は、自分が今いる場所のような構造物を見た覚えはなかった。つまり、この場所のように、建築物の他のどの部分にも遮られることなく全ての方向を見渡せるという部屋は、外から見た限りではなかったはずなのだ。

「ここ。」

 真昼の口元が。

 緩く、些喚く。

「どこ。」

 別に、それが気になって聞いたというわけではない。それに、この男との会話の接ぎ穂を探して問い掛けたというわけでもない。その行動には、全く、なんの、理由もなかった。真昼にとって、意識よりも以前にある一つの必然性だ。そう、動物が何かしらの理由によって行動しているとでも? 美しさや、かくあるべき原理、あるいは空腹であるとか性欲であるとか、そのようなもののために行動しているとでも? そう考えている人間がいるとすれば、その人間はどこまでも愚かな人間至上主義者だ。

 動物は、なんらかの理由・なんらかの価値・なんらかの欲望によって行動しているわけではない。自然という巨大な方程式によって内包されているところの、冷たい定数項でさえない。動物は、ただ……snobbismによって行動している。動物にとって、全ての行動は「既に選択されたもの」なのだ。そこには自由意志のようなものは存在していない。欲望さえもが自由意志であるのだから、もちろん欲望も存在していない。ただただ完全に形式化されているところの無償の作用だけがそこに働いているのだ。

 とはいえ……真昼は、まだ言語によってそれをしている。言語によってtheriomorfを獲得しようとしている。その方向性は、欲望ではないとはいえ積極的な運動ではあるのだ。ということは、真昼は、未だ完全ではない。当たり前のことだ、今日は、あくまでも、最後の審判の前日なのだから。

 とにもかくにも、ここはエーカパーダ宮殿であるはずなのに、真昼が知っている限りでは、エーカパーダ宮殿にはこのような場所はない。そんなわけで、真昼は、特に何も考えないまんまで、この場所がどこかということを質問したのだ。

 デニーは。

 その。

 質問に。

 答える。

「え? どこって、エーカパーダ宮殿だよ。」

 そんなの決まってるじゃーんといわんばかりの言い方だ。真昼は、そんなデニーの態度にまたもやイラっとさせられたのだが。とはいえ、その苛立ちをなんらかの行動に移すことはしなかった。今のは……まあ、自分が悪かった。デニーに対して何かの質問をする時には、もっと内容を明確にして、教えて欲しいこと、その全体を、はっきりと口にしなければいけない。この数日で、散々学んだことじゃないか。真昼は、それから、デニーの存在を完全に無視しているかのように、窓の方に視線を向けたままで、質問を続ける。

「あのさ。」

「なあに。」

「あたしが外から見た時には……っていうのは、この湖の向こう側を歩いていた時だとか、橋の上を歩いていた時だとか、そういう時の話だけど、あたしが見ていた時には、あんた達がエーカパーダ宮殿って呼んでる建物に、こんな場所は見当たらなかったと思うんだけど。つまり、こんな風に、全部の方向を見渡せるような場所。こんな広々としている、展望台みたいな場所はなかったはずだけど。どこか、また、変なところってこと? 変なところっていうか、空間だとか時間だとかが歪んでる場所ってこと?」

「んあー、まあ、そんな感じかな? えーっとねーえ、真昼ちゃん、カラサムって知ってる? ここのさ、いーっちばん上に載ってたやつ。ほらほら、お花の蕾みたいな形してて。このくらい、このくらいの大きさの、お飾りのことだよ。この場所はね、そのカラサムの中なの。カラサム自体はこのくらいの大きさなんだけど、その中の空間がちょーっとだけ定常系のヴィオ・ペデ・センスから外れててね。そのせいで、その中にいると、とーっても広く感じるの! んー……確かに、さぴえんすの感覚だとちょっと分かりにくいかもしれないね。」

 ヴィオ・ペデ・センスというのがなんなのかということは、真昼にはさっぱり分からなかったが。とはいえ、デニーが言っていることの要旨は把握出来た。つまり、この場所は、エーカパーダ宮殿の一番上に乗っかっていた、あの頂華の中だということだ。ちなみに、ヴィオ・ペデ・センスというのは神学用語の一つであり、概念が存在を把握する際の形式を指し示す。

 ただ、デニーの言っていることは(大部分)理解出来たのだが。とはいえ、それでも納得がいかないことがある。真昼の記憶では、頂華は九つあったはずだ。えー! そんなことよく覚えてるね真昼ちゃん! とにかく、その九つの頂華は横並びに並んでいたのであって、そうであるならば、一番右端の物や一番左端の物であったとしても、四方向に開けている視界のうち、少なくとも一つの方向は、隣の頂華によって塞がれているはずだ。それは一体どういうことなのだろうか?

 真昼が問い掛ける前に。

 デニーは。

 なんとなく気が付いたのだろう。

 真昼の、疑問に、続けて答える。

「カラサムはね、一つの宮殿に九つあって、その宮殿がふたーっつあるから、全部でじゅーはっこっ!あるんだけど。その全部の空間が一つの空間に収束してるの。それで、その空間の中にいる感覚者は、じゅーはっこっ!のカラサムから見られる光景の中から、感覚者にとって、いーっちばんぐっどな方向性に調整された、理解不可能性の不整合継接感覚を感覚することになるの。よーするに、今だと、真昼ちゃんの感覚に合わせて調整してるわけだけど……と、ゆーわけで! 真昼ちゃんが見てるみたいな感じになるってわけです!」

 言葉の並びからぼんやりと推測することしか出来ない単語が幾つかあったけれど、それでも大雑把なところは分かったと思う。つまり、カラサムの全部の空間が繋がっていて。それらのカラサムから見渡すことが出来る光景のうち、真昼の感覚にとって最も都合がいいものだけが選び出され、ここに提示されているというわけだ。そして、その継ぎ接ぎの光景は、継ぎ接ぎであると真昼が理解出来ないように、ある程度調整されているらしい。

 はっきりいって、なんでこんな大掛かりな仕掛けをしたのかということは、真昼には全く理解出来なかったのだが……とはいえ、なんらかの理由があるのだろう。あるいは、なんの理由もないのかもしれないが。とにかく、ここは、間違いなくエーカパーダ宮殿であるようだ。

 ということは……昨日の饗宴、思い出したくもない饗宴が終わった後で。真昼は、ここまで運ばれてきたのだろう。ちなみに、思い出したくないも何も、ラゼノ・カクテルを飲んでからの記憶がほとんど残っていないのではあったが。とにかく、饗宴のどこかの段階で意識を失った真昼のことを、誰かが、恐らくはデニーが、ここまで運んできたということだろう。なぜ素裸なのかはよく分からない……もしかして、自分で脱いでしまったのかもしれないが。ちょっと、まあ、そうは考えたくなかったので、デニーが勝手に脱がしたのだと思うことにした。いや、それもムカつくといえばムカつくのだが。なぁーに人の服勝手に脱がしてんだよ。

 一方のマラーは、真昼からレーグートに対して預けられた後で。すぐにここまで運ばれてきたに違いない。そして、服は、恐らくレーグートによって着替えさせられたのだろう。血と埃とで随分と汚れてしまっていたし、そのままベッドに寝かせてしまってはベッドが汚れてしまうから。そう考えると、もしかしたら、なんらかの魔学的方法でマラーの全身を清めているかもしれない。薄暗い中で見ただけだけれど、マラーの皮膚は、洗い流されたみたいに綺麗になっているように見えたから。そうして、二人がベッドの上に横たえられて。暫く時間が経った後で……真昼だけが目覚めたということだ。ただ真昼だけが、この時間に、目覚めた。

 そして。

 真昼は。

 デニーと一緒に。

 金の。

 金の。

 冠を。

 見下ろしている。

 その金の冠は、ここからどんなに手を伸ばしたとしても……真昼には手の届かないところにある。王子様、王子様は一体どこに行ってしまったのだろう。真昼をここから、どこであるかも分からないここから、救い出してくれるはずの王子様は。もしかして、そんな人は最初からいなかったのかな? それか、本当の本当に王子様はいるのだけれど。ただ、真昼のことなんて、全然知らないというだけなのか。とにかく、王子様は、真昼のことを助けてくれなくて。その代わりに、真昼の隣には、この悪魔がいる。この悪魔だけが、真昼の隣で、楽しそうに、くすくすと笑っている。

 ああ。

 悪魔は。

 真昼の。

 隣で。

「あんた。」

「はーい。」

「何してるの。」

「窓の外を見てるんだよー。」

「そういうことじゃなくて。」

 イラつく、イラつく、イラつく。既にぐちゃぐちゃに乱れている髪の中に、右手の五指を突っ込んで、もっともっとぐちゃぐちゃになるように掻き混ぜる。自分の話を理解してくれないデニーに苛立っているのか、それとも自分自身の愚かさに苛立っているのか。とにかく、やり場のない怒りの感情、まるで当て付けのようにして、はーっとわざとらしい溜め息をついて。それから、真昼は、さっきまでよりも少し大きな声で続ける。

「こんな時間に、なんで窓の外を見てるわけ? こんな時間っていうのは、こんな遅い時間っていう意味で……あたしはさっき起きたばっかりで、時計みたいなものはどこにも見当たらないから、今が何時なのかっていうのは全然分かんないんだけど。それでも、外、見た限りでは真っ暗だし。たぶん真夜中か、真夜中をちょっと過ぎたくらいの時間でしょう? なんで、こんな時間に、窓の外を見てるわけ?

「あんたは……美しい夜景を見て感傷的な気持ちになるなんてがらじゃないでしょう? っていうかさ、あんたにとって、こんなものは、馬鹿みたいな子供が鼻を垂らしながら積み木で作った、出来損ないのお城みたいなものなんじゃないの? あんたにとって、この光景は、なんの意味もない。あんたは、こんなものを見るために窓の外を見てるわけじゃない。じゃあ、あんたは、なんで窓の外を見ているの?」

 真昼ちゃんのとーっても丁寧なご質問に、デニーちゃんもようやく意図を読み取ることが出来たらしい。「んあー、そーゆーことだねー」と、いかにもふわふわした感じの相槌を打ちながら、きゅっと首を傾げてみせた。右手の人差し指を、右のほっぺたに、ちょんっという感じで当てていて。そのせいで、首を傾げた時に、ぷにっという感じでその指がその頬をつっつく形になる。うわー、この可愛さは既に伝説――レジェンド――ですね。それはそれとして、デニーは……そのような可愛過ぎるジェスチュアの後で、また首を真っ直ぐに戻した。そして、両方の手のひらを開いて、ぱーっという感じ、目の前に向かって真っ直ぐに伸ばす。それは、まるで、真昼に対して何かを指し示そうとしているかのようだった。窓の外、夜の中、そこにある何かを。

 それからデニーは。

 真昼の問い掛けに。

 くすくすと笑いながら。

 こう答える。

「カリ・ユガがね、帰ってくるの。」

「え?」

「ふふふっ! もーそろそろで、カリ・ユガがセラエノから帰ってくるんだよ。デニーちゃんのために、わざわざ時間をとってくれたの! あと五分くらいかな。真昼ちゃんは……見たことがある? 洪龍が星と星との間を渡ってくるところ! とーっても綺麗で、とーっても素敵なんだよ。きらきらした光が降ってくるの、まるで、数え切れないくらいの白い薔薇の花束みたいに。それで、デニーちゃんは……その薔薇の花びらを、一枚一枚剥がして……真昼ちゃんのお口の中に入れてあげる。」

 稲妻が。

 霹靂が。

 少しずつ。

 少しずつ。

 その頻度を。

 増している。

「デニーちゃんはね、それを待ってるの。」

 洪水の、薔薇の、中に、住む、生き物よ。一枚、一枚、の、燦爛、していく、花びらを、貪る、災いの、災いの、預言者よ。真昼は、その瞬間に、真昼の理解が真昼の理解としてそこにあった。それは分かったとか知ったとかではない。与えられた預言のようにしてその理解は与えられた。真昼は理解した。自分が、目が覚めたのではなく目覚めさせられたのだということを。目の前にいるこの男によって目覚めさせられたのだということを。要するに……真昼は、何もなく、自然に目覚めたわけではない。ねえ、ねえ、真昼ちゃん、起きて起きて! とーっても素敵なことが始まるよ! そのように、起こされたのだ。カリ・ユガがこの星に帰ってくる、その素晴らしい瞬間を見せるために。

 無論、真昼が目覚めた瞬間、そのようなことは一切起こっていない。ASKのアヴマンダラ製錬所でそうされたように叩き起こされたのでもなければ、あるいは、優しく優しく耳元で囁かれて起こされたわけでもない。真昼はただ単に目覚めた。だが、それでも真昼には確信があった。何か不思議な魔法を使ったのだろう。真昼が、無理やり、外在的な力によって目覚めさせられたという不快感を覚えないように。だから、気が付かなかっただけで。真昼は、親切に、起こされた。

 真昼にとって。

 目覚めさえ自分のものではないのだ。

 与えられる、薔薇の花束に過ぎない。

 まあ。

 それは。

 それと。

 して。

 デニーの、その答えを聞いた真昼は。あたかも唇の先にデニーの指先が触れたかのような感触を覚えた。それはいうまでもなく錯覚に過ぎなかったのだが……それでも、それがあまりにも現実であるかのような生理的嫌悪感だったので。真昼は、反射的に、前腕で口元を拭ってしまったくらいだった。

 一方のデニーは、「あははっ! どーしたの、真昼ちゃん!」と言いながら、おかしそうに笑っていた。開いた両方の手のひらを、重ねるみたいにして口の先に持ってきていて。いかにも面白くて仕方がないといった感じだ。真昼は、ぎりっと奥の歯を噛み締めながら、そんなデニーのことを睨み付ける。

 憎悪。

 憎悪。

 真昼は。

 今。

 それによって。

 生きていると。

 感じている。

 ところで、デニーの話していたことであるが。もうそろそろ、真昼の目の前に広がっているこの光景の中に、龍王が降臨するらしい。それは、まさに語の意味そのものにおける降臨だ。何せ宇宙から降ってくるというのだから。

 デニーは、「星と星との間を渡ってくる」と言っていた。ということは、恐らく、セラエノというのはどこか別の星の名前なのだろう。そして、カリ・ユガは、その星からこの星へと宇宙を通って帰ってくるのだろう。

 人間は、未だに、ごくごく一部の例外を除けば宇宙を旅行することは出来ない。科学的な技術においても、魔学的な技術においても、せいぜいが月の世界に行くので精一杯なのである。しかしながら、人間以外の高等生物の中には、いとも簡単に星々の世界を行き来することが出来る者もいるのだ。

 特に神的ゼティウス形而上体は、その身体が物質的な拘束を否認することが出来るために、土くれによって形作られているところの生き物からすれば信じられないほど容易く宇宙に適応することが出来るのだ。真昼は、神々が住まう月光国の人間であるため、そういったことをよく知っていた。

 洪龍という生き物は未だに謎の多い生き物であって、それを神的ゼティウス形而上体に含めるのか、それとも龍的ゼティウス形而上体という別のカテゴリーに分けるのか、学者達は二つの学説に分かれて激しい論争を繰り広げているが。学者というのはどうでもいいことについて口汚く罵り合うことによって金を稼ぐという仕事なのである。とにかく、どちらにせよ、ほとんど神々と同等の力を持つ生き物であるということは間違いがない。そのため、神々のように宇宙に適応することが出来る。ちなみに、神々や、洪龍や、そういった生き物がどのようにして宇宙を旅行するのかといえば……一般的には、御神渡りを使うといわれている。これほど力強い生き物になると、御神渡りで渡ることが出来る距離も、星系単位だとか銀河単位だとかのレベルになるというわけだ。

 そんな風にして。

 カリ・ユガは。

 ここに。

 帰って。

 くる。

 暫く前からなんとなく引っ掛かっていたことが、ようやく腑に落ちた気がした。雨、この雨が降っているということについてだ。そもそもの話として、ここは、普通ならば雨が降るような場所ではない。目の前に湖が広がっているため、ついつい忘れてしまいそうになるのだが、カリ・ユガ龍王領はヌリトヤ沙漠に位置しているのであって。そして、ヌリトヤ沙漠の年間降水量は一ハーフディギト以下なのだ。

 もちろん真昼はヌリトヤ沙漠の年間降水量なんて知る由もなかったが。とはいえ、沙漠にはほとんど雨が降らないということくらいは知っている。真昼はサテライトではないのだ! ちなみにサテライトは、本当に「沙漠には雨が降らない」レベルの常識も知らない。しかもそういった常識を学ぼうという気もない。そのため沙漠にいても「なんか知らねぇけど雨が降んねぇな」くらいの認識しか持たない。

 いや、まあ、サテライトの話はどうでもいいんだよ。今は、この雨の話をしているのだ。この雨は……どう考えてもおかしかった。砂漠の真ん中で、こんな豪雨が降るわけがない。ああ、そういえば、雨は豪雨と呼んでいいくらいの有様になっていた。ざーざーだった音は、今となっては、どざーぐわわわわーといった感じになっていて。なんだかちょっと間抜けで、笑えてきてしまうほどだ。そこここで震えている生活の光は、あまりにも強く降る雨の奥で滲んでしまっていて、もうよく見えない。ざらざらとしたノイズのような光景の中で、数十秒に一回くらい、凄まじい雷が宇宙に向かって放たれる。

 そう、つまり、この全てがカリ・ユガによって引き起こされているのだということだ。しかもカリ・ユガは、別にこれを引き起こそうとして引き起こしているというわけではない。例えば人間が歩いている時に、その左右にささやかな風の流れが出来るようなものだ。カリ・ユガが御神渡りをする時に使う「力」があまりにも強過ぎるせいで、その波紋が、これほどの影響を及ぼしてしまっているということなのだ。沙漠に豪雨を降らせるほどの「力」。人間が自然であると思い込んでいるもの、自然とは人間にとって都合のいい形で常にそうあり続けるものであるという愚かな愚かな傲慢さ。そういったものを、戯れに捻じ曲げて、叩き潰してしまうところの、真実の自然。それが洪龍の「力」なのだ。

 さあ。

 帰ってくる。

 帰ってくる。

 洪龍が。

 己の巣へと。

 一体……なんのために?

 もちろん。

 一匹の。

 悪魔の。

 ために。

 基本的に、洪龍ほどの生き物になると、巣という感覚を概念として有しているわけではないのだが。巣を必要とするのは周囲の環境に適合し切れない不完全な下等生物だけなのである、環境に適合出来ないがゆえに、仕方なく自分にとって適合可能な環境へとadaptormingせざるを得ないというわけだ。一般的にはこれを適応というが、これは適合とは完全に異なった反応なのだ。生物学において、適合とは、環境に対して妥協する必要がないほどの絶対的な「力」のみを指す。そして、洪龍だの神々だののような完全適合生命体は、どんな場所でも生き残ることが出来るがゆえに、環境的な理由で巣を必要とすることはない。

 とはいえこれは環境という条件だけを見た場合の話である。洪龍にせよ神々にせよ、別の完全適合生命体との争いによって、自己の繁栄する領域を限定されることがあるのだ。これは一般的な意味での「縄張り」の概念とは全く異なったものである。なぜなら、そこには環境という条件は関与しておらず、また、正確にいえば世界の多重性を利用することによって対立的な関係がない状態へと移行することも出来ないわけではないからだ。まあ、そうはいっても……人間から見れば、そのような限定的な時空間は、自分達にとっての巣の概念に近いもののように思われるのであって。そんなわけで巣という単語を使わせて頂きました。

 それはそれとして、その光景を見るためにデニーはここに立っているというわけだ。今は、ただ待っているだけ。目の前のこれを見ているわけではない。これは……ただの人間からすれば、スーパースペクタクル超大作に見えないこともないだろう。「スーパー」と「超」とで意味がかぶってしまったが、なんにせよ、砂漠の真ん中に築かれた見渡す限りの大都市に。指先も見えないほどの凄まじい雨の中で、天に向かって落ちていく雷電。

 全ては前触れに過ぎない。

 これから。

 起こるはずの。

 出来事と。

 比べてみれば。

「あ、真昼ちゃん。」

 デニーが、ちらとこっちを見て。

 馴れ馴れしく、話し掛けてきた。

 真昼は口を開くことなく。

 ただ、視線だけを向ける。

「氷食べる?」

 一瞬、デニーが何を言っているのか分からなかった。けれども、ついと差し出されたデニーの指先、右手の親指と人差指と中指とが触れている物を見て、ようやく理解出来た。その指先が持っている物は、なんの比喩的な意味でもなく文字通りの氷だったのだ。大きさとしては大きな飴玉くらい。真昼が見た限りでは完全な真球状の、特に明確な理由もなく流された涙のように透明な氷。

 いやいやいや、なんでこのタイミングで氷なの? マジでこいつの思考過程よく分かんねぇな、的なことを考えてしまった真昼であったが。とはいえ、その提案が、今の真昼にとって魅力的であるということも事実であった。先ほども書いたことであるが、今の真昼は、二日酔いの状態なのだ。まあ、二日酔いというか二日酔いに似たものというか。例えば、別に酒を飲んでいたわけではないので、アルコールの分解に伴う脱水症状のようなものはないのだが。ひどい吐き気、ひどい頭痛、それになんとなくぼんやりとしてしまってあらゆるものの焦点が結ばれないという感覚はある。そのため、氷を口に入れた時の爽快感は、確かに真昼が求めていないものではないということもないわけではないのだ(四重否定)。

 葛藤のようなものがあった。そして、その葛藤のようなものを、馬鹿みたいだと思いながら見ている傍観者の視点もあった。何を迷っているのだろう、さっさとそれを受け取ればいいのに。断ってどうなる? もしもあたしがそれを断ったとすれば、それはデニーがあたしにそれを断らせようとしていたということだ。そして、もしもあたしがそれを受け取ったのだとすれば、やはりそれも結果としてはデニーの思い通りになったということである。人生なんてそんなものだ、さして真剣に考える必要はない。何か間違ったとして……それが何だっていうの? どうせ、楽園なんて作れない。どうせ、天国なんて行けない。そして、煉獄はいつか終わる。

 真昼が、左の手のひらを投げ出すと。デニーの方には顔を向けずに、ただ二つの瞳孔だけを睨み付けるようにして揺らめかせた後で、その手のひらを投げ出すと。デニーちゃんは、とーっても嬉しそうに、氷に触れている指先を、その手のひらの上に差し向ける。真昼の肌の上を、そっと撫でるように冷気が伝う。

 そういえば、今気が付いたのだが。デニーの指先で、その氷は少しも溶けていなかった。普通は、こんな風に氷を持っていれば、指先の温度が氷に伝うことで氷が温まってしまうものだ。結果として、氷は溶けてしまって……例えば、その指先から、真昼の手のひらにしたしたと水滴が滴っていてもおかしくない。

 まるで、ガラス玉みたいに。子供がおもちゃにして遊ぶガラス玉みたいに。ただただ透明で、ただただ綺麗だった。そして、それは、至極適切であるように真昼には思われたのだった。

 なぜなら、デニーは死人のように冷たいからだ。いや、デニーと比べれば死人の方がまだ温かみがある。この数日で、真昼は理解していた。デニーという生き物は、頭蓋骨の中に水銀を流し込まれるみたいに感じるほど冷酷で、心臓を硫黄によって焼き尽くされるみたいに感じるほど焦熱なのだ。基本的に、デニーは、子供じみた地獄のような生き物なのである。その指先には、人間らしい感情の象徴としての血液など通っているわけもなく……その代わりに、何か別のものが流れている。

 例えるならば、つまり。デニーの指は、肉の代わりに砂糖菓子で満たされていて、そして、そこには凍り付いた蜂蜜が流れている。甘ったるいほどの無慈悲。絶対的な冷度によって凍り付いた、絶望のハニー・ハニー・キャンディー。そんなデニーの指が……氷を溶かすわけがあるだろうか? そんなこと、あり得ない。二つの温度を測ってみよう、デニーの指先と、それに氷と。そして、計測された温度を比較してみるがいい。もちろん、いうまでもなく、デニーの指先は氷よりも冷たい。

 そして。

 その指先が、その氷を。

 静かに静かに、放した。

 氷は。

 人間には理解の及ばない法則であるかのように。

 そのまま、上から下へと垂直に移動していって。

 それから。

 真昼の手のひらに。

 落下する。

 真昼の手のひらに触れると全てのものが駄目になってしまう。生きているものは死んでしまう、生起物は腐っていく、何もかもが壊れてしまい、どうしようもなく崩れていく。完全だったはずのもの、何よりも透明で、何よりも真球で、とてもとても完全だったはずの、その氷は。真昼の手のひらに触れた途端に、どろりと溶けて醜く歪んだ。

 まあ、当たりといえば当たり前の話だ。普通の人間には体温というものがあるのだし、その体温というものは氷が溶けだす温度よりも遥かに高い。ということで、普通の人間が、手のひらの上に氷を乗せれば、その氷が溶けないわけがないのだ。そして、真昼は普通の人間なのである。

 とはいえ……完全だったはずの何かが取り返しがつかないくらい台無しになってしまったというのも事実である。氷は、その下半分から溶け始めて。真球だった形は、なんとはなしにぐにゃりと潰れる。手のひらの上には水が溜まり、その中で、氷は、惨めに藻掻いているみたいだ。

 真昼は、左手の手のひらを、自分の顔の方へと近付けて。手のひらの上で溶けていく氷のことを見下ろした。たら、たら、たら、たら。悲鳴さえも上げることが出来ないままで、何か、今までの自分とは全く別のものに変わっていく様子。それから、左手のすぐ下の辺りに、今度は右手を持ってきて。広げた手のひら、左手の手のひらの上から右手の手のひらの上へと、氷を滑り落とす。

 音もなく。

 戯言のように。

 その感覚は。

 うらかりて。

 溶けたばかりの歪んだ氷は。

 手のひらの上の。

 冷血と、混じり。

 赤く。

 滲む。

 なぜなら、真昼の右手、その手のひらは……血液で汚れていたから。ついさっき真昼が、饗宴の残響を、ぶちまけられた反吐を、殴りつけていた時に。その拳の中で、真昼の爪は真昼の手のひらを傷付けていた。皮膚を、抉るように破って。その時に流れ出した血液で汚れていたということだ。

 少しだけ固まりかけて黒く濁った血液が、惨たらしく笑っているかのように透明を犯していく。汚れる、汚れる、真昼の触れたもの。何もかも血で染まる。これは一つの象徴。左の手首を、つーっと伝っていく、血液交じりの冷たい液体。やがて、ぽたりとしずくが滴って、真昼の足元に落ちる。

 傷口は既に塞がっている。デニーの魔学式によって強化された回復能力は、あの程度の傷であれば、早送りのようにして治してしまうのだ。ただし、とはいえ、その傷跡だけは残っていて。その傷跡に、錆びたような色をした血が溜まっていて。そして、その血が、溶けた氷に溶け出したのだ。

 ああ、そういえば……今気が付いたのだけれど……感覚が……ある。それは、まあ、当たり前のことだが。手のひらの上に、その氷の冷度の感覚がある。思っていたほど冷たいというわけではなかった、これまでに味わったほどがないほどの絶対零度というわけではないし、それに、例えば、凍傷になってしまいそうなほどの冷たさというわけでもない。

 それは、どちらかといえばくすぐったいような感覚だ。肌の表面で何かの虫が蠢いているような感じ。小さな小さな幼虫が、腹脚で、甘えるように這い回っている。冷たいって、こういう感覚だったっけ? なんだか……真昼は、冷たさそのもののような感覚を感じなかった。そういえば、それ以前の問題として、真昼は、今まで、冷たさという感覚を感じたことがあっただろうか。

 冷たいと思ったことはある、ただ、それは、本当に冷たいと感じたというよりも、冷たいはずのものに触れた時に、肌の上に、何かしらの痛みのような感覚を感じたからそう思っただけの話だ。ああ、そうだ……真昼は、今までの人生で、冷たいという感覚を、本当の本当に感じたことはなかった。そして、今、冷たいはずのものに触れていて、その感覚に向かって、深く深く沈み込んでいこうとしているこの時でさえも。真昼は、冷たいという感覚を感じてないような気がするのだ。

 それは、あくまでも、なんとはなしの痛みのような感覚。ぼんやりとした痛覚に過ぎないような気がするのだ。冷たい……冷たいってなんだっけ? 真昼は、もちろん顔には出さなかったのだけれど……心の奥底では、愕然としていた。人間は下等な生き物だとは思っていたけれど、ここまで低いところにいる生き物だったなんて。思考の制御もまともに出来ない、なんていう次元の話ではないのだ。人間は、感覚さえも、非常に原始的なそれしか備えていない。冷たさや温かさや、魂魄を律法する観念、光の波長、基本子の一つ一つ、それに時の流れ。そういった全てを、人間は、曖昧な全体性としてしか把握することが出来ない。出来損ない、出来損ない。もう、生物としては、笑ってしまうほどに絶望的だ。

 手のひらの上に乗せているうちに、その、人間がいうところの「冷たい」という感覚は。やがて、くすぐったいという感じから、痛みのようなものへと変わっていく。例えるならば、手のひらの上でくすくすと笑いながら転がっていた幼虫達が、まるで……口づけをするみたいにして、真昼の肉体の中に潜り込んできた感じだ。戯れに皮膚を引き裂いて、軽やかに肉を食いちぎる。ざらざらと侵食する痛みの感覚は、真昼の内側、奥へ奥へと進んでいく。表皮を貫いて、真皮を貫いて。皮下組織を突き刺して、やがては、真昼の骨の髄へと到達するのだろう。

 真昼は、その痛みについて非常に他人事のように感じていた。なんとなくずれている、あたしの主観的な感覚ではないような気がする。というか、その感覚が、別個の物体として手のひらの上に乗っているみたいなのだ。観察者からの影響を与えることなく、純粋なまでに客観的な情報を得られるところの、一つの現象。真昼は、そのような現象としての痛みを観察した結果として……なんだか拍子抜けしてしまう。これが痛みか。これが、人間が、なんとしても(時には命さえ投げ打って)避けようとする感覚か。さして特別な感覚ではない、ただそこにある現実であるという意味では、ありきたりな分類に収まる程度の有限に過ぎない。それならば、つまり、痛み自体は問題ではないということなのだろう。問題なのはもっと別のこと。この有限を、人間であることへと接続する、根源的なシステム。

 ただ、まあ、それはそれとして。別に、何かを観察するために氷を手のひらの上に乗せているわけではない。真昼は、その対象がなんであったとしても、観察という行為に対する興味を失ってしまっていた。大して重要ではない、観察することは。とはいえ、その対象となる何かを、実際に行為するということも。やはり、それをするべきであると断言出来るほどの意味があるわけではないのだが。とにもかくにも、その氷は食べるためにある。

 だから、真昼は。

 右の手を、そっと、上に、差し上げて。

 ぽかんと、阿呆のように、口を開いて。

 軽く。

 上を。

 向いた。

 顔の。

 先。

 手のひらの真ん中から、手首の方向へと。

 たらりたらたら、滑らせるみたいにして。

 その氷を、自分の口の中へと、放り込む。

 生理の時に、経血を排泄して。静かに、静かに、トイレの中に流していく。もともとは生命になるはずだった何かが、不要なものとして下水道へと廃棄されていく。そんな味がした気がした。アーガミパータに来る前の真昼にとって、血液を見る機会なんて、生理の時くらいしかなかったからだ。白い陶器の中で、真昼の血液が水と混じる。今の真昼が、口の中で感じている、この血液の味は、水に溶けていく錆のような味は、その時の匂いと同じ味だったということだ。

 その後で、氷を感じる。溶けかけた氷のなめらかな表面を感じる。普通に冷凍庫とかで作った氷は、その中に気泡が入ってしまっているから、溶けかけた状態では、なんだか舌先でざらざらとするものだが。この氷にはそういった粗雑さはなかった。舌先でどこを触れても、まるで完全に凪いだ海の上を撫でているかのようになめらかだ。それは、明らかに固体の感覚ではなかった。もっともっと掴みどころがなくて、触れたと思ったら消えてしまいそうな何か。透明な影みたいなもの、それは、きっと、真昼の舌先が触れた途端に、その触れた部分が、真昼の熱のせいで溶けてしまうからだろう。だから、原理的にいえば、真昼は氷に触れているわけではないのだ。真昼は、氷が溶けた水にしか触れることが出来ない。

 そっと口を閉じる。

 そして。

 その中に閉じ込めた氷を。

 口腔の全体で触れてみる。

 シュガー、ミリアム・シュガー。口の中で、唾液と混ざり合いながら、少しずつ少しずつ溶けていく氷。真昼の舌先と戯れて、それから、真昼の皮膚の中に、恍惚と痺れるような冷度を伝えてくる。口の中の氷、冷たさを感じようとして。真昼が感じたのは……それは、呪いのような冷たさではなかった。

 そうではなく、かえって、真昼は、ふしだらなほどの温度を感じた。火照ったみたいな熱量、ぐにゃぐにゃと包み込み、蛞蝓に飲み込まれたかのように生暖かい感触。それは、つまるところ、氷ではなく……真昼の口の中の感触であった。

 氷の冷たさのせいで、普段は全く意識することのない自分の体温を意識させられることになったらしい。氷という、真昼の肉体とは全く性質の異なった物質と比較することで、その直接的な意味合いが分かりやすく提示されたということ。

 氷を、舌先で弄ぶたびに。真昼は、自分の肉体がどのようなものなのかということを知る。自分の肉体がどのように不快であって、どのように嫌らしいものであるのかということを知る。

 特に、舌と名付けられた器官だ。これは一体なんなのだろうか? 生命体にとっての欲情という運動、食欲にせよ性欲にせよ、それを計量する単位が温度であると仮定するならば。これほどまでに貪欲である肉体の断片が他にあるのだろうか。もしも、自分の舌を……指の先で摘まんで、口の中から引き出してみるといい。ぬるぬるとしていて柔らかく、少し摘まみにくいので、人差指の第二関節と親指の爪とを使う必要があるだろうが。とにかく、それを引き出してみれば、それがどれほどまでに淫らであるかということが分かるだろう。生暖かく、柔らかい感触を伝えてくるのにも拘わらず、それはどれほど強く力を入れようとも、朽ちた骨の欠片のように崩れてしまうことはない。己の形状に拘泥する惨めさ、未練たらしさは、不快というのを通り越して単純な拒否の感覚を覚えるほどだ。そして、もっと耐えられないのは、もちろんその温度である。べっとりとしたぬるまったさ、腐敗したような熱を帯びた温度。指先に、ずるずるとしがみ付くような熱ささえ感じさせる。口の中に隠れて、その温度を、吝嗇的なまでにうちに閉じ込めた舌よ、舌よ、舌よ。その裏側はねばねばとした震えるようななめらかさがある……そして、その表側には、ざらざらとした、肉の毛が生えている。この肉の毛の一本一本が、ある物質の極子構造に接触することによって、その物質の科学的特徴を、信じられないほどの曖昧さで、極限まで貶められた模糊によって、情報化する。気持ち悪い、どうしてここまで……下等であることが出来る? うねうねと蠢き、何かを求めているのだが、決してそれが与えられない何者かであるかのように冀う。真昼は、人間という生き物を象徴する器官を一つ選べといわれたら、間違いなく舌と名付けられた器官を選ぶであろう。

 真昼の口の中に、侵入者みたいにして滑り込んできた氷は。たらたらと純粋に透明な液体を垂らしながら真昼の舌と戯れる。ねっとりと粘ついていて、ある種の極子構造を分解する性質を帯びた唾液が。その氷が垂らす液体と混じり合う。ごつごつと不完全で、骨の上に肉の皮を被せた、その空間にとっての天蓋……口蓋が、その一つ一つの皴と瘤とで氷を愛撫する。そのたびに、でろでろと、真昼の体温が纏わりつく。美しくない態度、美しくない状態。

 真昼は、時折、氷を頬の方へと向けてみる。純粋な肉の塊は、口蓋のような硬さを持つことなく、まるでプラスチックで形作られた液晶構造のように柔らかい。ふわふわとして、それに触れるとゆっくりと沈み込んでいく。だが、この肉の塊は、決してその内側に何かが侵食することを許さない。それは一般的に口腔粘膜と呼ばれている器官であるが、その内側には大量の血管が這い回っていて、その一本一本が恥じらいもなく血液を流している。

 それから。

 口の中には。

 歯が、ある。

 元々は……鱗であったそうだ。詳しいことはよく覚えていないのだけれど、確か、そんなことをテレビで言っていた気がする。誰だったか、顔も朧げでしかない男と性行為をしていた時に。その男の背後で流れていたテレビが教育番組を映していた。三択のクイズ、それは骨から出来たのか、それは皮膚から出来たのか、それは鱗から出来たのか。正解が発表された時に、いかにも子供向けのキャラクターが、わざとらしく驚きの声を上げて。そして、その瞬間に、男は真昼の首筋に歯を立てた。

 enamel、on melt、溶けていく。鱗と同一の構造物が、真昼の上の顎の骨と下の顎の骨とに付着して、そのまま歯というそれになった。顎の骨とは、正確にいえば上顎骨と前顎骨とであるが。それはともかくとして……もしも、本当に、そうであるのならば。これほど真昼に相応しいものもないのではないか? 人間という温血動物が、冷血動物であった頃の名残。真昼には鱗が生えている、何枚万枚もの鱗が生えている。それはそうだ、当たり前の話。なぜなら、真昼は、冷血動物なのだから。

 そして。

 真昼は。

 自らが冷血動物であるということ。

 そのことを、確認するかのように。

 氷に歯を立てて。

 それを噛み砕く。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 がり。

 この氷は、噛んだ時の感触が普通の氷とは全く違っていた。普通の氷は、先ほども書いたように、内部に気泡を含んでいる。そのせいで、歯を立てた時に、その気泡の配置に従って砕けていく。最初から内側に罅が入っていて、その罅の通りに砕けるということだ。だが、一方で、この氷は、完全な氷であって。罅という不完全性を有しているわけではない。

 崩壊というよりも爆発といった方がいいかもしれない。真昼が歯を立てて、力を入れると。その力が一定の数値に達した瞬間に、ぱんと弾ける。それは極めて自然で、それは極めて必然で。そこにはなんらかの瑕疵のようなものは一切感じられない。粉々に砕けた破片は、きっと、あらゆる恣意的な記号を使用していない数式のように冷静であるに違いない。

 まずは、一番奥の歯で噛む。大臼歯と呼ばれている歯だ。真昼には、親知らずが生えていないので(正確にいうと左側の親知らずが少しだけ露出しているのだが)、第一大臼歯と第二大臼歯とだけを使うことになる。最初は一つであった氷の塊を、右側の大臼歯で二つに砕く。そうして二つになった断片のうち、一つだけ、舌で包み込むようにして左側へと持ってくる。両側の大臼歯で、二度、三度、その断片を更に粉々に噛み砕いた後で。今度は、全ての欠片を、小臼歯の位置まで移動させる。第一小臼歯と第二小臼歯と。噛むべき物があまりにも口の奥にありすぎると、顎の動きが限定されてしまうため、少し手前に持ってきたのだ。欠片は、口の右側と左側とに、大体均等に分けられているが……とはいえ、両方の欠片を同時に噛み砕くということはしない。まずは右側を数回噛んで、次に左側を数回噛んで。これを、何度も何度も繰り返すのだ。どうしてそうなるのかは、真昼にはよく分からなかったが。たぶん、噛む側を片方だけにすることで、顎の力がかかる場所を一点に限定しようとしているのだろう。そちらの方が、氷のように固いものを噛む時には噛みやすいから。そして、氷の欠片が、どんどんと、どんどんと、噛み潰されていって。さして力をかける必要もなくなると、両方の側を同時に噛むようになる。

 存在しているはずの全てのもの……実在。氷を何度も何度も噛んでいるうちに。そうやって氷を噛んでいる自分のことを客観的に観察しているうちに。真昼には、その実在と呼ばれている何かが、「ある」のか「ない」のかということが分からなくなってきてしまった。いや、たぶんそれは「ある」のだろう。そして、その「ある」ところの実在は、何かしらの外的な影響によって変わってしまうものではないのだろう。

 例えば、真球だったはずの氷は噛み砕かれて多角形の破片となって。そして、やがては溶けて水になる。真昼の唾液と混ざり合って粘性を獲得するし、それが位置している場所も、手のひらの上から口腔内へと移動している。とはいえ、その本質は、恐らく変わってはない。真昼が、どんなにそれを噛み砕こうとも。水という性質、どのくらいの温度で氷から水になるのかということや、あるいは基本子をどのように組み立てれば水という極子になるのかということや、そういったことは変わることはないはずだ。

 しかしながら、それがどうしたというのだ? そのような実在などというものが「ある」のだとして、真昼に何の関係がある? 確かに、実在は、絶対的なものであるかもしれない。あらゆる法則が変わってしまったとしても、あるいは全ての法則が息絶えてしまったとしても、それでも、実在が実在であるというその根源的な理は変わらないのかもしれない。だが、そうであろうがなかろうが。どちらにしたって、人間という下等生物にとっては、全く同じことなのだ。

 つまるところ、人間は、絶対に真理には到達出来ないということだ。というか、そもそもの話として、人間の感覚は実在を実在として把握する用途で備わっているものではない。これは、この肉体は、真理を追究するためにあるものではないのだ。そうではなく、ただ単純に、生きるということを続けるためだけにあるものであるに過ぎない。

 いくら経験を重ねようと、それは、神々や洪龍の高みに達することはない。確かに、自らが抱いたdoubtをごちゃごちゃと色々なことを考えることによってある一つのbeliefに導くことは出来るかもしれない。とはいえ、beliefとは、真理へと続く方向性ではないのだ。少なくとも人間のbeliefはそうではない。それは、人間が人間である限り、いついかなる時であっても、個人としてのtenacityであるか、集団としてのauthorityであるか、そのどちらかに過ぎないのだ。それは、決して、真理への道筋ではない。

 何が、何が科学だ。馬鹿らしい、低能じみた、まさに下等知的生命体らしい傲慢。人間が科学などと呼んでいるものは、「人間の感覚」によって感覚されたものを「人間の思考」によって思考するという方法に過ぎない。経験と観察と。それが科学であるというのならば、あらゆるtasteが科学であるということが出来るだろう。なぜなら人間という生き物のtasteは経験と観察とによって成り立っているからだ。要するに、馬鹿が他の馬鹿のいっていることを真理だと保証したところでなんの意味もないということ。

 誰かがいっていた、人間は間違うこともあると。可謬性を持つ生き物であると。よくもまあ、これほど思い上がったことをしたり顔でのたまえるものだ。人間が、間違っているということもあるのではない。その「間違っている」「間違っていない」という判断そのものが余計なものなのである。

 これこれこういう内容で推論を行った結果、このような結論が出た。この場合、間違っているのは結論ではない。結論自体は正しい、それに、推論の方法ももちろん正しい。そのようにして作り出された体系の中では、全てがそうあるべくそうあるのだから。そもそもの間違いは、体系の内部にあるわけではない。体系そのものが間違っているのだ。正しさというものを求めて、推論を行うこと自体が間違っているのである。

 だって、そうでしょう? 真昼は……真昼は、氷の冷たささえも把握することが出来ないのだから。氷が冷たいということが、真昼にはどういうことなのか分からない。それは、とても、とても、大切であることのはずなのに。それは、他の痛みの感覚とさして変わるとも思えないぎざぎざとした浸食が、響いて、響いて、響いて。なんだかひどく高い声で叫んでいるかのような、そんな感覚でしかないのだ。これと、他の感覚とどうやって区別すればいい? とても眩しいものを直接見た時の痛みや、あるいは鼓膜が破れそうなほどの大きな音。ひどく熱いものに触れた時の痛みと、どうやって区別すればいいのだろうか? 確かに、さして、それが強くない時には区別がつくかもしれない。けれども、けれども……その痛みが死に達するような痛みである時に、果たして真昼は、そういったものを区別することが出来るのだろうか。

 人間が推論の基礎とすることが出来るのは、感覚したものだけである。そうだとすれば、これほど曖昧なものを、どうして信じることが出来るだろうか。どうして、この上に築かれたところの科学と呼ばれるtasteを信用することが出来るだろうか。人間は……色々な機械を使って、その感覚を確からしいものに虚飾することは出来る。けれども、何をどう取り繕おうが、それは人間の感覚の延長に過ぎないのだ。紫外線や赤外線を感覚出来たとして、それが何になる? 神力を知ることが出来たとして、それはさして意味のあることか? 人間の感覚も、光を理解することが出来るし、魔力を感じ取ることが出来るじゃないか。つまるところ、機械は、人間が感覚出来ないところの感覚(それは例えば祈りを感覚するための感覚)を、感覚するための感覚を模倣することは出来ないのである。それは人間の紛い物に過ぎない。

 真昼は、真球の氷を、その完全性を保ったままで噛み砕くことが出来ない。真球の氷を、そのような一つの真球のままで、粉々に噛み砕くことが出来ない。これは非常に愚昧なことであるが、この愚昧は、人間の思考にも通底して流れている現象である。人間の思考は人間の思考以外で思考することが出来ない。例えばシャッガイの支配種であるシャンは、その者の思考以外によって思考することが出来る。だが、人間にはそれは出来ない。口の中で氷が溶けて行く。小さな多角形の断片となる。科学と呼ばれる思考の形式は、そのようにして、人間が客観性と呼ぶところの冷静と冷酷とを失う。何かを選ぶのだとすれば、それを選ぶのは人間なのだ、そして、結局のところ、人間は下等知的生命体に過ぎない。

 真理とは。

 真理とは。

 能うべき追放された裂け目とは。

 氷のようなものだ。

 ちなみに念のため書いておくが、「能うべき追放された裂け目」という言葉は、そこら辺に置いてあった本をぱらぱらとめくって見つけた、なんとなく語感がいい単語を並べただけの言葉であって、特に深い意味はない。それはそれとして、真理とは氷のようなものなのである。ここでいう真理とは、いわゆる真理、つまり人間が実在と呼んでいる何かのことであるが。それは氷のようなものであり、しかも決して溶けることのない氷である。

 そして、人間は、あまりにも小さなガラスのコップである。この小さなコップの中に、あの大きな氷を入れようとしても、全くの無意味な行為なのだ。氷はあまりにも大き過ぎるし、それに溶けることもないので、結局、人間は実在の一滴さえも獲得することが出来ない。人間は……空っぽのコップの中で、氷の冷たさを想像することしか出来ない。いうまでもなく、結局のところそれは想像に過ぎないのであって。本当の冷たさではない。

 真昼が、その冷たさを痛みとしてしか感覚出来なかったように。ガラスのコップはテーブルから落ちて粉々に砕ける。一つ一つの欠片は、やはりなんの意味もない必然性としてのpreferencesであろう。もしも、もしも……とある人間が、世界という実在を、その一部分であったとしても理解したと主張したとしよう。そして、その世界という実在に対して畏怖の感覚を抱いたと、得意げにいったとする。ああ、その人間は、滑稽にも、人間という下等生物に可能な限りの理解で、感動するには十分だと付け加えるかもしれない! その人間はそう付け加えることで、自分は謙遜しているのだと思い込んでいるのだ! とはいえ、その人間は謙遜してなどいない。限りない傲慢さの中で、溺れている、溺れている。人間が、世界という実在を、その一部分でも感覚出来ると、どうしてそう思うのか? お前の中にあるのは自分自身の残響に過ぎない、お前が実在だと思っているのはお前の腐敗した肉片に過ぎない。そして、お前が畏怖しているのは、お前自身なのだ。お前は、お前自身があまりにも頭が良いと思っていて、それに対して畏怖にも近い感情で自惚れているに過ぎない。

 科学というのは宗教だ、これは比喩的な表現でもなんでもなく、本当に宗教である。それは、要するに、自分自身を絶対化することによって世界の構造を理解しようとする宗教といえるだろう。それが……最低の宗教であるということは、ほとんど確実なことだ。なぜならその宗教は、他の宗教とは違っていて、「自分自身」と「自分自身」との間の調整能力がないからだ。他者の存在していない宗教、底知れぬほどに愚かなrelusion。それは結局のところ無限にして永遠の無秩序しか生み出すことはない。人間が……人間が、もしも、実在を理解するのに十分なほどに賢いのであれば、科学という宗教もなんらかの役に立つかもしれない。だが、それはあり得ないことだろう。真昼という人間は、氷さえもまともに食べることが出来ないのだから。

 シュガー。

 シュガー。

 ミリアム・シュガー。

 きっとこの氷の冷たさのせいで。

 はっきりと目が覚めたのだろう。

 真昼は、今。

 ようやく理解した。

 全ての真実は。

 人間にとって。

 余計なことであると。

 ただ……それでも一つだけ。

 分からないことが残ってる。

 もしも。

 もしも。

 この世界から余計なものがなくなってしまったら。

 あたしは、一体、どうやって生きていけばいいの。

 噛み砕いた氷、真実の断片が、真昼の口の中の温度によって溶けていく。これは決して溶けない氷だったはずなのに、なんでこんなにも簡単に溶けていくんだろう。っていうか、溶けていくってどういうことなの? 粉々になった、透き通っているみたいに冷たい味が、まるで最初から存在していなかったみたいに消えていく。さっきまではそこにあったはずなのに、いつの間にかなくなっているのだ。真昼は、その過程さえも知ることが出来ないままで。そして、溶けた固体は液体に変化する。

 液体の水。死んだ星屑のような多角形が、形の定まらない流動体になって。それから、その水は、真昼の唾液と混じり合う。どろどろとしていて、べっとりとしていて、ぬるまったい。真実は、その冷度を、次第次第に失っていって……そうして、最終的には、真昼の体温と同じような温度になる。当たり前のことだ、最後の最後には全ての冷度は失われる。生き物が死んだ時に、全ての温度が失われるように。時間と空間とが死に絶えた虚無の中で、真実は、少しずつ消えていく方程式になる。

 真昼は、そうして失われた全てのもの。真昼の口の中に残された、真昼の肉体から分泌された液体と大して変わることのない液体を、嚥下する。嚥下って液体に使ってもいいんだっけ? まあいいや、今となっては真実になんの意味も残っていないんだから。とにかく、真昼は、喉を動かしてそれを飲み込む。たった一度の喉頭挙上によって、口の中の液体を飲み干す。

 ああ、それでも……ほんの少しの冷度は残っていたらしい。何か冷たいものが流れていくのを感じるから。喉を通り過ぎていって、胸の辺りにそっと触れて。それから、腹の少し上のところに落ちていく。そこに感じている、冷静さを、冷酷さを。けれども、この感覚もいつかは消えてしまうのだろう。真昼の肉体をひっそりと冷やす、真昼ではないものの感覚も。

 そして。

 最後の最後には。

 真昼は、何もかも。

 分からなく、なる。

 こうして、真昼は、たった一つの氷を食べ終えた。結局のところ……よく分からなかった。今食べた氷の味がどういうものなのかということが。いつも食べていた氷、というのは、アーガミパータに来る前に食べていた氷ということであるが。それらの氷は、何かの味がした。なんだか薬っぽい味というか、いつまでもいつまでも口の中に残る苦い味がした。けれども、この氷は、まるで空気でも舐めているみたいだった。いや、違う。空気でさえ味がする。この氷は、もっと、何か……真昼は、宇宙というものに触れたことさえなかったが。とはいえ、それを舐めることが出来れば、きっとこんな味がするのだろうと思った。

 とはいえ、何の味もしなかったとしても。それでも、まあ、なんとなく、すっきりした気持ちというか、全体的に清々した感じにはなった。デニーが作った氷は、真昼が今まで渡り歩いてきた男達の家にあった冷凍庫、その中で作った氷なんかよりもずっとずっと冷たいもので。もしも真昼の体が強化されていなかったら、舌の上が凍傷になってしまっていたであろうくらいの代物だった。今の真昼ちゃんは、三体(略)症候群が少し残っているせいで、なんとなく自分の肉体に対して他人事のように感じてしまう状態ではあったが。それほどの冷たさは、やはり、そのような肉体に対しても爽快感を与えたのだということ。

 そこが本当に胃袋なのかは分からないけれど、たぶん胃袋であろうと思われる内臓の部分で。溶け損なった氷の欠片が、一つ、二つ、三つ、それから先はたくさん。ざらざらと些喚きながら揺蕩っている気がする。それは、確かに冷たさの感覚なんだけど……その底の辺りで、何かひどく熱い生き物が蠢いているようなイメージがある。その生き物は、ぐるぐると回転の図形を描きながら、真昼の胃袋の中で……待っている。何を? 分からない。けれども、それは待っている。氷の冷たさ、残酷な胃酸、馬鹿みたいに笑っている胃壁。ぐるぐる、ぐるぐる、銀河の中心みたいにして、真昼の胃袋の中で回転する生き物。

 デニーが。

 真昼に。

 あどけなく。

 問い掛ける。

「ねえねえ、おいしかった?」

「別に。」

 全然。

 おいしく。

 なかった。

 です。

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