第二部プルガトリオ #45

 真昼は……もちろん気に入らなかった。気に入るはずがない、何せ真昼はデニーの全てが気に食わないのだから。デニーにまつわる全て、デニーがしたこと全て、デニーに関係する全て。何もかも、憎悪と嫌悪との対象なのだ。真昼は、デニーのことを、今にも殴り殺しそうな・蹴り殺しそうな視線で見据えると。非常に素直に、こう答える。

「こんなもの、吐き気がする。」

「あははーっ、ひっどーい!」

 何がおかしいのかけらけらと笑いながら、デニーはすっかり・さっぱり・てっきり・こっきり気にしていない様子でそう言った。ちなみに、念のために付言しておくと。テーブルの上の料理を用意したのは確かにカリ・ユガ龍王領侍従庁エーカパーダ宮殿付き侍従部の皆さんであったが、その料理をダンシング・レザレクション・アニマルズ・ウィズ・ベリー・ベリー・デリシャス・スメルにしたのは他ならぬデニーちゃんである。

 テーブルの上に敷かれたテーブルクロスをよく見てみて頂きたい。先ほどまで……というのはデニーが舌を弾いて音を鳴らすまでということだが、それまではなんの模様も色彩も描かれていない真っ白なテーブルクロスであったはずのそれに。今では、その全面に、めちゃくちゃな・でたらめな悪戯書きみたいにして一つの巨大な図形が描き出されている。

 あたかも錆びた光のような色で光る、真っ直ぐな線、曲がった線、それに円だの多角形だの、そういった要素によって構成されている図形であって。要するに、真昼の肉体に描かれたものと同じもの、魔学式であった。とはいっても真昼に描かれたものは身体強化の魔学式であり、テーブルクロスに描かれたものは執魄の魔学式であるという違いはあったが。

 執魄については……もう少し後、真昼ちゃん・イズ・デッドのシーンで詳しく説明することになると思うので、ここではそこまで踏み込んだ説明はしないでおくが。簡単にいうと、死霊学系の魔法の一種であって、大きく分けて二系統あるところの死んだ生き物を蘇らせる魔法のうちの一系統である。要するに、この魔学式によってテーブルの上の料理は生き返ったわけで……いうまでもなく、テーブルクロスの上にこの式を展開したのはデニーだった。

 ちなみに両側の壁にテレポートのポータルを開いたのもデニーだ。ただし、一つ注意しておかなければいけないのは、こちらは魔法によって開いているわけではないということだ。科学的な法則に基づいて作り出されたテレポート装置によって開いている。このことは……さりとて、デニーがアーガミパータにテレポート装置を持ち込んだということを意味するわけではない。

 そうではなく、デニーは、このテレポート装置を、ここで、カリ・ユガ龍王領で、作ったのだ。これまでも何度か触れてきたことであるが、本来であればコーシャー・カフェにおいてデニーはワトンゴラを担当している。となれば、もちろん、ギルマン・ハウスとも非常に有効的な関係を築いているのであって。そこで研究されている短距離テレポートの技術、テレポーター系スペキエースに対して行われた人体実験をベースとして生み出された技術について色々なことを知っているのだ。色々なことをというか、そのほとんど全てを知っていて。必要な材料さえ揃えることが出来れば、ちょっとした短距離テレポートの装置を作ることなど兎を踊らせるよりも簡単に出来ちゃうぞ!なのだ。

 全く……デニーちゃんってば、本当になんでもできちゃうね! それはそれとして、この面白おかしいダンス・マカーブルはデニーによって演出されたものであって。そして、いうまでもなく、それは真昼のためだけに演じられているのだ。パーティーというのは、賑やかであれば賑やかであるほど、それに参加する何者かを元気付けるものであって。そうであるのだとすれば、食べる側だけでなく食べられる側も浮かれ踊っていた方が、より一層、底抜けしっちゃかめっちゃかであることは間違いないのだ。と、いうことで、真昼ちゃんがとーっても元気になるように!という願いを込めて……デニーちゃんは、その通りに、陽気なパーティー・ボーイだということである。

 さて。

 そのような。

 わけでして。

「ふあー、いっけなーい!」

 いかにもわざとらしく。

 ぱみーっと開いた両方の手のひら。

 重ねるみたいにして。

 口を隠すようにして。

「いつまでも立ちっぱなしじゃー、真昼ちゃんも疲れちゃうよねー。」

 そう言ったデニーは、今度は、その腕を掴むのでもなくその肩に腕を回すのでもなく、真昼の手を取った。手を取ったといっても、それは、その言葉を聞いて思い描く行為よりももう少しだけ可愛らしいやり方をしたのであって。つまり、自分の指と真昼の指とを絡めるみたいにして、きゅっと指先に触れたという感じ。

 真昼は、その行為に対して鳥肌が立つような生理的嫌悪感を覚えたのだが。ただ、その手を振り払うようなことはしなかった。それから、デニーは、そのまま真昼の手を引いて……空中に向かって歩き始めた。これもまたやはり比喩でもなんでもなく、語の意味そのものの意味、何もない空間に歩き出したということだ。

 魔学的な力によって、視覚という感覚ではほとんど捉えられないところの構造物を作り出したのだろう。恐らくは、薨々虹蜺を見物するためにタンディー・チャッタンの上空に作り出した物と同じ物。そう思って、デニーの魔学式によって強化された視力によってちょっとばかり集中して見てみると。デニーの足元に、白昼に溶かしだされた夢の欠片みたいな、淡く痺れるような、あの晴れやかな歪みが見えた。

 歪みはデニーの足元から始まっていて、上へ上へと続いていく階段であった。その一段一段は、真昼にとって最適な高さに調整されていて。どこまでのぼっていくのかといえば……ホールの全体に広がっている饗宴を、ちょうど乗り越えていけるだけの高さ。その上を飛んでいるグラディバーン達の華々しい旋回よりも、少しだけ下の辺り。そうして、階段を、上がった、そこから先は……同じ歪みによって形成された、長い長い、真っ直ぐな道が続いている。

 屠殺されるべき羊のように、とはいってもこの羊はあの羊飼いのことを憎んでいるのだが、そんな風に、従順とさえいえるような態度で、その手を引いていくところのデニーの手に従って。真昼が、その架け橋の一段目に、どす黒く濁った血液と乾き切った砂塵とによって、随分と薄汚れてしまったスニーカーを乗せてみると。なんだか、そのスニーカーの底に……夢であったものと夢ではなかったものとの境界線さえ曖昧になってしまいそうな、そんな感触があった。この感触は、もちろん、薨々虹蜺の慈悲深い残酷さを見下ろしていた時にも感じていたはずの感触であったのだが。あの時は、めちゃくちゃ高いところにいることに驚いたり、めちゃくちゃ人が死にまくることに驚いたり、色々な驚きのせいで気が付かなかったのだろう。

 デニーは。

 デニーは。

 動物達が奏でる音楽に合わせた。

 軽やかなステップのようにして。

 その階段を。

 空色の花束みたいに。

 素敵に、笑いながら。

 駆け上がっていく。

「真昼ちゃんは、真昼ちゃんは、一体何がお好きなの? 目の前で死んでいく生き物。魂と魄とが引き剥がされる時の、まるで絶叫の悲鳴みたいに鳴り響く音。切り裂かれた血管からは、ぱーっと鮮血が弾けて。焼かれた肉体からは、ざらざらって感じの焦げた匂いがし始める。全部が、全部が、まるでデニーちゃんのことを……デニーちゃんの強さを、デニーちゃんの賢さを、だーいすきっていってくれてるみたいで。デニーちゃんを讃えるどんなお歌よりも、デニーちゃんを愛するどんな口づけよりも、死んでいく生き物達の、全部全部が絶望になっちゃった視線の方が、ずっとずっと素敵な贈り物だって分かる。それから、デニーちゃんは……あははっ! デニーちゃんに殺されるっていうことが、その生き物にとって、とってもとっても幸せなことだって気が付く。

「それとも、それとも、こういうのがお好きなのかな? 完璧な鏡を粉々に砕くみたいに、砂時計を逆様にするみたいに。死んでいた生き物を生き返らせる。生き返らされた生き物が、生き返らされた瞬間に、その顔の上に浮かべる表情。数えることも出来ないくらいたくさんの永遠の、そのぜーんぶが裏切られて。無限に広がっていく夜空に向かって墜落していく被造物が、その涙のために涙を流す誰かさんもいないみたいな、すっごくすっごく透明な涙を流す。それでね、デニーちゃんは……デニーちゃんは、その夜空に、たった一つだけ輝いている星座なの! きらきらって光ってる、星と星と星とを繋げて。一つ一つの星は、捧げられた犠牲を焼き尽くす焼き尽くしの炎。だから、その生き物は、何もかもを諦めてデニーちゃんのことを受け入れるしかなくなる。

「さようなら!

「さようなら!

「愛していた人!

「さようなら!

「さようなら!

「贖われなかった罪!

「それから。

「それから。

「その生き物は。

「デニーちゃんに。

「救われるのです。」

 そんなことを。

 可愛らしい歌声で。

 歌いながら。

 デニーは。

 真昼のことを導いて。

 階段を上がり終えて。

 饗宴の上の空間を、素っ頓狂な踊りを踊る兎みたいなステップで進んでいく。時折、真昼の方を振り返って。春の蒲公英みたいな、夏の向日葵みたいな、秋の絶望みたいな、冬の信仰みたいな、そんな表情で笑う。笑う、笑う、笑う。

 真昼の左の手を取って、真昼の右の手を取って、くるっと二人の位置を変えて。それから、今度は反対側に回って、元の位置に戻る。けらけらと笑いながら、真昼の肉体を放り投げるみたいに持ち上げて。また、すとんと、下に下ろす。

 気まぐれに、ぎゅーっと真昼の肉体を抱き締めて。その後で、突き放すみたいにバックステップを踏む。片方の手、絡めていた指先を、きゅーんと持ち上げて。真昼の肉体を、その手の先を使って、楽し気に、楽し気に、回転させる。

 まるで祝福みたいにして花びらが降り注ぐ中で、グラディバーンの内臓から吐き出された花びらが降り注ぐ中で。デニーと真昼とは、端的にいえばワルツを踊っていたのだ。マコトであれば、ワルツの語源についてこう表現していたかもしれない。それはグータガルド語で「回転する」という意味を表わすワルツァンからきている言葉。グータガルド、ポンティフェックス・ユニットという戦場を作り出した国、神々を殺す神々の国。そうであるのだとすれば……あらゆる死が、神々の死さえも含めて、その踊りを踊ることになるのではないだろうか? 自分の中の、最も大切だったもの。最も美しかったはずのものが死んでしまった時に。その誰かは、まるで一つ一つの記憶を失っていく、長い長い忘却の過程であるかのように、くるくると回転することを始めるのではないか?

 とにもかくにも、デニーと真昼とは、そのようにして踊りながら、真っ直ぐに続いている淡い淡い夢のような道を進んでいく。そういえば、真昼は……デニーのされるがままだった。それどころか、積極的にとはいわないまでも、デニーのダンスに合わせるみたいにして自分の肉体を動かしているようにさえ見えた。もちろんこの事実は、真昼がデニーと和解したということを示しているわけではない。ただ、それでも。客観的に見ればその光景は、真昼がデニーに踊らされているというよりも、真昼とデニーとが踊っているかのように見えるものであった。

 一体何があったのか? 真昼は、もちろん、空よりも深く・星よりも激しい瞋恚によってデニーのことを憎んでいたのだが。とはいえ、その憎しみ以外の全ての事柄が……なんだかどうでもよくなってきてしまっていた。これは、善と悪との境界が曖昧になるとか思考の重力を喪失するとか、そういうことではない。それよりも、もっと、なんというか……投げやりな気持ち。今まで苦悩してきた全てが、心痛してきた全てが、大したことではないような気がしてきたのだ。何にせよ、真昼は生きている。それにデニーも生きている。それで、もう、いいじゃないか。

 それ以上の何を望むというのか? いうまでもなく、望むべきことはいくらでもある。何もかも奪われてしまったままで生きていてなんの意味があるというのか。空っぽになってしまった自分の中に失ってしまった何かを取り戻したい。何か重要だったもの……間違いなく愛していたもの。それによって、再び満たされたい。あるいはこういってもいいかもしれない。この、深い深い虚無。その中においては死ぬことすら失われている虚無の中から抜け出して、また、光の中を歩きたい。本来であれば、真昼はそういったことを望んでいなければいけないはずなのだ。

 とはいえ、それでも……時には、底のない深淵の中に落ちていく方が楽な場合もある。まばゆい光に焼かれるよりも、心地よい闇の中で沈んでいたい。足掻き藻掻きながら飛翔するよりも、冷たい冷たい墜落を続けていたい。そう思うことの何がいけないというのか? 人間は、人間は、死ぬのだ。あらゆるジョークにいつかは落ちがつく。終幕に相応しい瞬間が来る。そうだとすれば、今、この瞬間に、何もかも投げ出してしまって何が悪い?

 今の真昼は。

 今の真昼は。

 全ての思考が偶然になってしまったみたいな。

 とろとろと曖昧に溶けていく、頭蓋骨の中で。

 そんなことを、考えてしまっている。

 なぜ真昼は、そんな状態になってしまったのか? つまり、あらゆる必然性を手放して、踊る、踊る、ダンスに身を任せる。自分が無意味であると考えることさえも無意味だと考えるような、そんな考えに陥ってしまったのか? 先ほどまでの真昼は……クソの役にも立たないような抽象的思考を弄び、前向きさの欠片もないネガティブ・シンキングの中で、何一つ前進することなく、人間的に成長することなく、ただただ自分自身を責め続けて。「はい、虚無になりました」だの「はい、残されたものは何もありません」だのと御大層なことをのたまっていた真昼ちゃんは、一体どこに行ってしまったのか。

 これは誰かに聞いたことがある話。もしかしたら、家に泊めてもらうことと引き換えに体を許した男の一人が、枕に乗せた頭で話していたことだったのかもしれないし。それか、ぼーっと眺めていたテレビ、教養番組で、大学の教授かなんかが話していた話かもしれない。とにかく、人間の脳には痛みを感じる神経というものが存在していないそうだ。記憶が曖昧で、それがなんでかということまでは覚えていないのだけれど。まあ、よく考えてみれば分からなくもない話であって、脳にダメージを受けるということは、要するに頭蓋骨を割られているような状況だ。そんな状況で痛みを感じたところで、もうどうしようもないだろう。そうであるならば、無意味な機能を付ける必要もないということで。

 今の真昼は……脳髄の一部分を、非常に繊細な手つきで切除されたみたいな感じだった。冷たい、冷たい、外科用のスカルペルのようなもの。この世界が始まる前に全てを満たしていた無限の絶対零度、その氷の塊から作り出した一つのナイフ。そんな何かによって、灰白質を一掴みだけ……透き通っていく鏡の表面みたいに、切り取られた感じ。

 喪失の痛みは感じなかった、もちろんだ。脳には、特に真昼の脳には、痛みを感じる神経というものが存在していないのだから。ただただ、その部分が失われたという漠然とした安堵の感覚があるだけ。その部分は、きっと腐りかけていたのだろう。あるいは、その部分だけが腐りかけていなかったのか。どちらでもいい、どちらでも同じこと。

 とにかく、真昼は……真昼に……真昼を……真昼が……真昼の手が、デニーの手と、触れ合った時に。真昼自身の上と下とが、くるりと回転したような気がしたのだ。夜空は真昼の足元にあり、そして、何もかもが天に落ちていく重力。真昼は、デニーに手を引かれて、星から星へとステップを踏んでいく。黒い鏡の上で……まるで、一歩一歩を踏みしめるごとに、真昼の足が鏡の破片を踏み砕いていくみたいだった。もちろん、これらの全ては比喩的な表現であるのだが。とはいえ、真昼は、デニーに触れられたその場所から、肉体のその場所から。あたかも自分で自分を慰めた後の、気怠い性の倦怠のように、なんらかのミステリウムが引き剥がされていくのを感じたのだ。

 肉体の。

 皮膚が。

 引き剥がされて。

 一体。

 その下からは。

 何が露出する。

 さて、ところで。デニーと真昼とは、いつの間にやら天上の道を歩き終えていた。まあ、ここは屋内なので天上の道という表現は少しおかしいのだが……そこは芸術に対する寛容の心でもって許して頂きたいものですね。とにもかくにも、デニーと真昼とは、デニーが作り出した架け橋を渡って。そして、その架け橋が目的地としている場所に、つまり、玉座に辿り着いていた。

 そう、その道は、要するに。高御座の一番上で咲き乱れている蓮の花、蓮の花、蓮の花の台座に繋がっていたということだ。デニーちゃんは、愛くるしいうさぎさんみたいにして、ぴょすとんっという感じ、架け橋の終端からジャンプすると。花々の柔らかさでふかふかとしている台座の上にそのまま着地した。それから、振り返って、また、真昼の方に手を伸ばす。今度は、その手を無理やり引っ張るわけではなくて……真昼が架け橋の上から降りるのを、きちんとエスコートしようとしているかのように。

 いうまでもなく、そんな手助けを必要としているところの真昼ではなかった。架け橋は、蓮の花の台座、その端にかぶさるように届いていたのだし。それにその高さだって、せいぜい三十ハーフディギトくらい。夜刀浦の駅とかによくあるちょっと高めの段差くらいの高さしかなかったからだ。けれども、真昼は、デニーのことを拒否しなかった。ごくごく自然な態度で、去勢された雌猫の優美さによってデニーの手を取ると。その手に導かれるみたいにして……屠殺場に……蓮の花の台座に右足を降ろした。

「ほら、ほら!」

 デニーは。

 後ろ向きに。

 ぴょこんぴょこんと。

 跳ねるみたいにして。

 子供らしい慇懃さによって。

 真昼のこと。

 連れていく。

「ここ、ここに座って!」

 そう言いながら指差した玉座には……未だに、舞龍が横たわっていた。シャーカラヴァッシャよりは年若いが、とはいえ、人間を一人飲み込むには十分な大きさに育っている舞龍。デニーが背凭れ・肘掛けとして使っていたあの舞龍だ。

 どうも詳しいことは分からないのだが人間には爬虫類を恐怖する本能が備わっているらしい。それは、きっと、人間が人間という種になる前の話。ホモ・サピエンスとホモ・マギクスと、その二種類のホモ属さえも生まれる前の話。歴史よりも伝説よりも神話よりも古い種族、「裏切り者のケレイズィ」に由来する感覚なのだと思われる。とはいえ、その爬虫類の先行種族は、主の怒りに触れたために、現在においては実在さえも不確かであるされてしまった生き物なのであって――そのような生き物が生きていたという確たる証拠はサンダルキア・レピュトス記の中にしか残されていないのだ――とにかく、人間という生き物には、爬虫類を生理的に嫌悪する傾向がある。

 こう、小指くらいの大きさの蛇だって、なんとなく「うわっ……」ってなるのに。真昼の目の前にいる蛇は、小指換算で一体何万本になるのだろうか? そりゃあ蛇がお好きな人はお好きでしょうし、そういう方々のことを否定するわけではありませんがね。一般的な感覚からすればですよ、こんなめちゃくちゃな大きさの蛇がすぐ目の前にいるという状況下では、恐怖とか嫌悪とかを通り越して命の危険さえ感じてしまうものなのだ。そして、真昼は――少なくとも自らがそうであると考えているところによれば――エクストリームリー一般的な感覚の持ち主なのである。

 けれども真昼は、その蛇に対してなんの感情も湧いてこなかった。嫌悪も恐怖も、当然ながら危機感も感じなかった。あたかもそれがそうであることが当たり前であるかのように。今から自分が座ろうとしている場所に、自分を飲み込むことが出来るほどの大きさの蛇がいるということが当たり前であるかのように。とてもとてもオーディナリー、その光景を見ていた。というか、その蛇は……背凭れであり肘掛けであるのだ。この世界のどこに、背凭れだの肘掛だのを見て命の危険を感じるやつがいるのか。

 つまり。

 真昼の二つの眼球。

 まるでデニーと同じように。

 その光景を、見ていたのだ。

 真昼は、玉座に座る。ゆったりとした座面の、広々とした座面の、右側。左側には、他の誰かが座ることが出来るだけの空間を残して。他の誰かというのは、もちろんデニーのことであって。アーガミパータでは、左という方向は不浄の感覚・邪悪の意味を表わす方向だ。デニーが座るのであれば、真昼の右側よりも、真昼の左側の方が適切であろう。

 あたかも、生きていたはずの生き物、死んだ生き物が、次第次第に全身の力を失って。ただの肉の袋になっていくみたいな態度で、真昼はその玉座に体を預けた。いや、より正確にいえば、氷が解けて液体になるようにして真昼がしなだれ掛かったのは……舞龍だ、背凭れの代わりの・肘掛けの代わりの、舞龍の体。羽根に覆われた長い長い胴体に、まずは右側に傾いた形で上半身を預けて。そして寛いだ姿勢になるように右腕を置く。玉座に座る者を白い光輝によって讃嘆する蓮の花に向かって、ゆったりと両脚を延ばして。その右脚を、左脚の上に重ねる。

 舞龍の体は、思ったよりも冷たかった。羽根によって覆われた体は、例えば鳥のもののように暖かいのかと思いもしたが、どうやらそういうことではないらしい。まあ、よく考えればそれも当たり前のことで、鳥類が温血動物であるのに対して、舞龍はあらゆる意味で冷血の動物なのだ。温かいわけがない。

 それに、それだけではなく、舞龍の羽根は羽毛というよりも羽鱗と呼んだ方がいいようなものだ。羽根と羽根との間に空気を溜めて保温するためのものではなく、いわんや飛行に使うためのものでもない。ふわふわとした手触りをしているのではなく、例えるならば……冷酷な針葉樹林のような姿。一枚一枚の羽根が、引き裂かれた鱗のような性質を持っていて。そして、その全てが重なり合って、致死的なほどに艶美・典麗な鎧を形成している。

 遠のいていく雷鳴のように冷たい。あるいは、何も映し出さない鏡のように。ちなみに、その冷たさは、ただ舞龍の冷血によってのみ成り立っているものではない。そもそも冷血動物とは周囲の環境によって体温を変える動物のことをいうのであって、実際に血液が冷たいというわけではないのだ。人間の温度は常に一定に保たれていて、それが周囲の環境よりも少しばかり高い温度であるために、冷血動物を冷たく感じるだけの話。場合によっては――例えば強力な魔法を使うために大量の魔学的エネルギーを身に纏っている時など――舞龍の方が高温の体温である時もある。

 この舞龍の冷たさは、その冷血というよりも、むしろその皮膚からその羽根へと滲出している脂膏のせいであるといった方がいいものだ。舞龍は、対世界独立性を高めるために、ある意味では青イヴェール合金の性質と酷似した物質を分泌している。それが羽根に纏わりつくことによって、舞龍の羽根は、一定程度の妖力を弾いたり呪力が付着することを防いだりしているのだが……それは当然、その他のあらゆる存在・概念を否定することになる。そのため、その羽根に触れたものは、科学的な意味での冷たさというよりも観念的な意味での冷たさを感じることになるわけだ。

 まあ、それはそれとして。今の真昼にとっては、その他人事のような冷たさが非常に心地いいものであった。右の手のひらで、すべすべとした舞龍の表面を撫でてみる。驚くほどに鋭い羽根のedgeによって、指先の皮膚が裂けて、真昼の血液が……温血が、冷血動物の上に滴る。

 それで気が付いたのだが、そういえばこのホールには冷房のような物がつけられているわけではないようだ。確かに、真っ昼間のヌリトヤ砂漠みたいな気の狂った暑さがあるというわけではないが。それでも、真昼ちゃんが夏の季節によくしているように、冷房をがんがんにつけた密室と比べれば、ずっとずっと暑い。

 恐らくは、この建物が湖の上にあるという理由から少しばかり涼しくなっているのだろう。それに、見た限りは密室で、外の世界に向かって開いているようには見えないのに。どこからか風が吹き込んでいるような感じがある。きっと何かしらの魔法が使われているのだろうが、そのおかげでちょっとは暑さが紛れている。

 その程度だ。我慢出来ないほどというわけではないが、いわゆる「夏の暑さ」とでもいうものは消え残っているという感じ。これは、真昼には奇妙なことであるように感じられた。ここは、龍王領にとっての賓客をもてなすバンケット・ホールなのであって。もっともっと涼しくして、過ごしやすくするのではないかと思ったのだ。とはいえ、それはアーガミパータの外側の世界における感覚なのである。アーガミパータにおいては、その外側の世界よりも、人間の理解が遥かに遥かに進んでいるのであって。人間にとっての一番の快感が、快感そのものにあるのではなく、むしろ苦痛からの解放であるということを知っているのだ。冷房の効いた部屋で冷たい飲み物を飲んでもありがたみもクソもないのであって。この程度の温度であった方が、様々な耽美・悦楽を一層強く感じることが出来るということである。

 実際に、この暑さのおかげで、真昼は、舞龍の冷たさを快いものと感じたのだ。真昼は、更に、深く深く体を預けて。自分の頬を、舞龍の羽根にすりつけてみる。するすると……冷たい鱗が、真昼の肌の下に沈み込んでいって。指先だけではなく、真昼の頬にも、すうっと長い一本の切り傷が付く。

 さて。

 まあ、それはそれと。

 いたしましてですね。

 そんな真昼ちゃんに対して、デニーちゃんはいかがいたしましたのかというと。玉座に座った真昼が、右側に偏って肉体を預けたせいで、左側にぽっかりと空いた部分。その空席を見て、にぱーっという感じ、いかにも嬉しそうに顔を綻ばせた。そう、今となっては世界の正しさは空白となってしまっているのであって――人間の精神は空白となってしまっているのであって――神がいなくなった玉座に座るのは、ただ、ただ、地獄の獣と終ることのない喜びと、その二つだけである。

 デニーのために残されていた空席に、デニーは座る。玉座に向き合っていた体、くるりんと半分だけ回転させて。それから、すとしーんっという感じ、ちょっとだけ跳び上がってからそのまま倒れ込むみたいにして。とてもとてもあどけないやり方で、空虚に向かって体を投げ出したということだ。その肉体は、結果として、真昼の肉体の隣に、ちょこんと収まることになったわけで。それからデニーは、ふしだらとさえ思えるような態度によって背中を舞龍に預けて……真昼に、寄り掛かった。

 ぐでーっと、全身を、真昼の右半身にくっつけて。甘えるようにして、こすこすとこすりつける。一方の真昼は、舞龍の羽根に顔を触れさせるほどに、自分の上半身を右側に傾けていたのだし。それに、両方の目をつぶって、静かに静かに冷血と孤独との冷たさを感じていたのであって。そんなデニーの行動に対して、なんだかうざったいとか、今すぐやめてほしいとか、そういった程度の感覚しか抱いていなかった。

 暫くの間。

 二人は。

 そのように。

 していたが。

 やがて。

 デニー。

 口を開く。

「真昼ちゃあん。」

 甘い。

 甘い。

 音を。

 させて。

「お飲み物は、どうですか?」

 悪くない提案だ、そうは思わないか? ここまでの物語の中で真昼が最後に飲み物を口にしたのは、ラクトスヴァプン・カーンにあったあの更衣室でのことだ。マコトから貰ったヨーガスを一瓶飲んだだけで、そこから先は飲み物どころか水分を含んだ物さえ口にしていない。口に入れた物といえば、フライスに乗っていた時に、風に紛れて勝手に口の中に入ってきた、砂、砂、砂、それくらいである。

 確かに、ラクトスヴァプン・カーンの帰り道は比較的涼しい夕方であったが。それでも、それは、真夏のアーガミパータにおける「比較的涼しい夕方」であるに過ぎない。真昼の体はずっとずっと汗をかき通しであったのであって……じっとりかつべっとりと、重く湿った丁字シャツがそのことを示している。

 例の魔学式のおかげで、喉がからからだというほどではなかったが。とはいえ例の魔学式だって全能であるわけではない。無から水分を作り出すことが出来るわけではなく、体に入れた水分の利用を最適化するだけだ。従って、何がいいたいのかといえば、要するに、少しばかり喉が渇いていたということだ。

 真昼は。

 つぶっていた眼を開いて。

 ちらりとデニーに向ける。

 もーっちろん!

 賢い、デニーちゃんは。

 それで全てを理解する。

「真昼ちゃんに、お飲み物をぷりーずっ!」

 デニーのその言葉に対する完全な隷属として、玉座の右側に侍っていたレーグートの一人が真昼の目の前にやってきた。レーグートの体は――二ダブルキュビト以上あるその体は――人間とは全く違ったものであって、膝折るための膝もなければ腰折るための腰もない。とはいっても、堅苦しくて融通の利かない脊椎のようなものもやはり有していないのであって。

 ということで、レーグートは、人間ならあり得ないような奇妙な角度、多脚のパーソナル・トランスポーターのすぐ上の辺りから体を折り曲げて、その視線が真昼の視線よりも下に来るように調整した。まあ、そもそもレーグートが立っている場所、蓮の花の台座は、玉座よりも一段低い位置にあったのだが……そして、レーグートは、持っていた真銀の盆を差し出した。

 その盆に細工されていた形象は、今までアーガミパータで見てきたあらゆる彫刻とは、少しばかり系統が違うもののように見えた。なんというか、細部の図像も全体の構造も、何もかもが抽象的なのだ。今までの、いわゆるアーガミパータ的な彫刻は。少なくとも真昼が見てきた限りでは、全部が全部、非常に具体的だった。舞龍であれユニコーンであれ、ウパチャカーナラであれガジャラチャであれ、グラディバーンであれマンティコアであれ、あるいはあの四本の首を持つ蛇であれ。一目見た瞬間に、それが何であるということを具体的に理解することが出来た。だが、この盆に刻まれているものは……真昼には、それが何であるということが全く分からなかった。

 とはいえ、それは幾何学的な模様というのとも違っているのだ。幾何学的模様には少なくとも意味がある。その模様が形成されるにあたって従っていたところの規則というものが存在している。けれども、この形象にはそんなものは感じられなかった。むしろ、そういった意味の完全な欠如こそがこの形象であった。それが有している意味は無意味だけであり、それが有している現実は非現実だけなのである。それは、あたかも、この世界における深海のような場所で、肉体と精神とを繋ぎ止める術さえも持つことなく、ただただ溶けて溶けて溶けて――混ざり合うことも出来ないほどに溶けて――他者との関係性を呼吸するための魂魄さえも失ってしまった、一匹の哀れな生命体のようであった。

 そして。

 その盆の上には。

 一つの。

 グラスが。

 乗っている。

 グラスの中の液体に関しては……それについては、特に問題はなかった。真昼もよく知っている液体だったからだ。ひどく激しい・ひどく烈しい、生命力の爆発のような感覚さえ覚える光を放っている。セミフォルテア、真聖さそのもののような色をした液体。つまりソーマだ。まあ、以前も少し触れた通り、アヴィアダヴ・コンダで真昼が飲んだ物よりも、随分と透き通った感じがする純粋さであったが。それは大した違いではない、とにかく、非常に強力な魔力、神力を注ぎこまれたところの液体なのだということは理解出来るのであるから。

 問題なのは、そのソーマに浮かんでいる何かだった。それは、例えば、名前を持たない幸福な被造物であるかのように揺蕩っている。大人になることを想像出来ない子供のように、淡く、淡く、浮かび上がっていって。裁かれるべき罪を犯さなかった被告人のように、深く、深く、沈んでいく。暗く広い海、その真ん中で、恐ろしい怪物達に囲まれて。ただただ孤独なままで、声なき歌を歌っているサンダルキア。そのサンダルキアを、合わせ鏡に映して、幾つも幾つも、数え切れないほどの無限の虚像を発生させて……その一つ一つを、グラスの中に落としていったみたいに。

 本当に美しい緑色をしていた。美しいという言葉さえも無意味であるかのような緑色をしていた。灰色がかっていて、自らが自らの唇の上に落とす口づけのように甘い。その緑色を見ていると……真昼は、なんだか、頭蓋骨の中が透き通っていくような気がした。脳髄を形作っているシナプスの、その一本一本がほどけていって。そして、それは全く別のものになってしまう。例えば、悪夢の中で落ちていく、底、底、底が見えない深淵のようなものに。結局のところ、真昼が感覚している全ては幻想なのだ。そして、もちろん、真昼自身という感覚さえも恣意的なものに過ぎない。

 そのグラスの中に浮かんでいる、たくさんの、たくさんの、何か。それらの全ては間違いなく生命体であって……そして、それがなんであるのかということを、真昼は実は知っていた。真昼はそれを見たことがあった。しかも、ごくごく最近。具体的にいえばこのアーガミパータにやってきた初めての日に。真昼は、国内避難民のためのキャンプ、そこにあった教会の中でそれを見て……それがなんであるのかということを、デニーに対して問い掛けた。それでは、その問い掛けに、デニーはなんと答えたのか? それは、クラゲ。クラゲだ。

 そこに。

 グラスに。

 浮かんで、いたのは。

 ラゼノクラゲだった。

 とはいえ、教会の中に寄生虫のようにして巣食っていたファクトリーにおいて飼育されていたラゼノクラゲよりも、随分と随分と小さなものだった。プラヌラ、ポリプ、ストロビラ、エフィラ、その後に、ようやくクラゲになったばかりのクラゲ。既に幼生ではないのだが成体と呼ぶには幼過ぎるように感じる。その大きさは、指輪の台座に置かれた割れやすい砂糖菓子よりも小さいのであって。具体的には、一ハーフフィンガーを更にハーフにしたよりも小さいように見えた。

 とても、とても、聖なる液体の中で。

 小さな、小さな、子供のクラゲが。

 何匹も、何十匹も。

 浮かんでるグラス。

「これ。」

 真昼は、それを指差して。

 デニーに向かい。

 気怠げな口調で。

 こう問い掛ける。

「何。」

「誰のものでもない祈り。」

「は?」

「ラゼノ・カクテルだよ、真昼ちゃん。」

「ラゼノ・カクテル?」

 ラゼノクラゲからラゼノ=コペアを精製する方法が奇跡者ダニエルによって確立される以前にも、世界中の人間達によって、それどころか世界中の様々な種類の生き物によって、ラゼノクラゲの摂取は行われていた。その方法は多岐に渡っていて、乾燥させたラゼノクラゲを粉末にして吸引する方法や、ラゼノクラゲを絞った液体を注射する方法や、大量のラゼノクラゲを飼育しているプールの中に浮かんで、その影響力を経皮摂取する方法さえあったのだが。そのうちの一つが、このラゼノ・カクテルだ。

 こう、なんというか、見て頂いた通りなのでいちいち説明する必要はないと思うが。神力を満たしたドリンクの中に、さほど大きくなっていないラゼノクラゲを浮かべて、それをそのまま飲み干すという方法である。ちなみに、なぜ神力を満たさなければいけないのかというと……ラゼノクラゲは淡水でも海水でもその他のあらゆる液体の中でも生きていくことが出来るのだが、とはいえ、その液体がなんらかの魔学的なエネルギーに満たされていなければいけないという条件付きでのことだからである。

 これは非常に分かりやすいやり方であるため、様々な地域・様々な時代において見られるのでありまして。もちろん、現代におけるラゼノクラゲの代表的な生産地であるアーガミパータにおいても見られる。以前も書いたことであるが、ラゼノ=コペア並びにラゼノクラゲから作り出されるあらゆる存在中枢刺激系の薬物は、それらを禁止している集団も多いのであるからして……ということで、それを禁止していないカリ・ユガ龍王領においては、そういった珍しい薬物を摂取したいと希望する賓客をもてなすためにラゼノ・カクテルを提供する場合もあるということだ。

 さて。

 さて。

 真昼は。

 デニーの、その答えに。

 特に何かの反応。

 示すこともなく。

 舞龍の胴体に投げ出していた上半身を、軽く起こした。だらりと伸ばしていた両脚をこちら側に引き寄せて、膝のところで軽く折り曲げると、蓮の花の中に突っ込むようにして玉座の真下に向ける。それから、レーグートがご献上申し上げていたグラスの方に、乗り出すみたいにして肉体の方向を差し出して……「これ、飲めるの?」「もーっちろんだよー!」「あんたが飲めるかどうかじゃなくて、あたしが飲めるかどうかを聞いてるんだけど」「んもー! 真昼ちゃんってば、疑いたがり屋さんなんだから!」。念のために書いておくが、「疑いたがり屋さん」とは疑り深いこと・猜疑心が強いことを意味する表現である。

 真昼は、ひどく投げやりな様子で、左側に首を傾げると。前方に傾けた上半身を支えるみたいにして、軽く開いた右の太腿と左の太腿との間に置いていた両方の手のひら。右の手のひらを、そちらに向かって差し出した。いうまでもないことであるが、そちらというのは真銀の盆の上のことであって。もっとはっきりというのであれば、例のグラスがある方ということだ。

 卵巣は、繁殖を可能にする原理を、常にそれ自体として所有している。その事実はいかなる動物にあっても事実なのであり、いうまでもなく真昼にとってもその通りに事実なのである。それでは、その繁殖の原理とは一体何か? それは残余だ。残りのもの。あらゆるものが滅び去った後に、無原罪の青によって選び出されるところの、からし種の最後の一粒。

 なんの憐れみもなく海岸線を削っていく海波のような態度で、あまりにも無造作に伸ばされた真昼の指先は。からし種を一粒ずつ一粒ずつ数えていくみたいにして、恥ずかしげもなくグラスに近付いていって……やがて、呆気なく、それに触れた。

 手のひらの全体に、甘く煮崩れていく飴玉が放射する放射線のような感覚があった。グラスを包み込んだ手のひらに、グラスを持ち上げた手のひらに。その感覚の原因は、たぶん、グラスの中のラゼノクラゲが発している緑色の光なのだろう。ラゼノ=コペアを精製していた工場を満たしていたものと同じ色をした光なのであって。あの時に、卵子を抱く卵巣のようにして真昼を抱いていた光よりは、遥かに遥かに弱いものではあったが……それは、確かに、何かが根絶やしにされるということの兆候としてのエピファニーには違いなかった。

 そして、グラスは口元まで運ばれる。痴呆症の患者のようにして、艶めかしくも虚ろに、ほんの少しだけ開かれたままになっている真昼の口元に。なんだかとてもぼんやりとしているせいで口をしっかり閉めることにまで神経が回らないのだろう。とにかく、真昼は、だらしなく開かれた唇と唇との間に、グラスの縁を柔らかく挟み込むと。それから、まるで、天を仰ぐみたいにして……グラスの中身を、一気に口腔の中に注ぎ込んだ。

 本当に、それは、馬鹿みたいに豪快なやり方だった。自暴自棄とさえ思えるほどに考えなしにされた行為だといい換えてもいい。真上に向けられた真昼の顔、逆様にされたグラス。ラゼノ・カクテルは、全くの必然として、真昼の内側に墜落していって。そういえば……真昼には、一つ、心底どうでもいい特技がある。それは、口の中にあるものを、口を閉じずに嚥下することが出来るという特技だ。一般的に、人間という生き物は、気管が開いている限り食道を開くことが出来ない。気管を開いたままで何かを飲み込もうとすれば、その飲み込もうとしたものが気管に入って大変なことになってしまうからだ。ということで、何かを嚥下しようとする場合は、まず気管を咽頭蓋で塞がなければいけないのだが。そのためには、口を閉じて、呼吸を出来なくする必要があるのだ。しかしながら真昼は、その呼吸の一時的な停止を、口を閉じるという方法ではなく舌のひらを上顎にくっつけるということで実行することが出来る。ということで口を閉じなくても何かを飲み込めるのだ。これは、大量の飲み物を一気に飲み干さなければいけない時に大変有用なのであって――なぜなら何かを飲み込もうとするたびに口を閉じる必要がないからだ――泊まる場所を提供してくれる男を探す時、酔ったふりをするために、大量のアルコールを消費するのには、特に重宝する特技であった。

 とにかく、何がいいたいのかといえば。真昼は、いちいち口を閉じたりすることなく、グラスの中の全ての液体を、喉の奥へと一気に流し込んだということだ。ということで、当然ながら、液体の中でひらひらとゆすらいでいたクラゲ、クラゲ、クラゲも、歯によって噛み潰したり引き裂いたりすることなく、自らの内臓の中へと落とし込んだのであって。生きたまま、夢を見るままに……クラゲ達は、真昼の内側に取り込まれたのだった。

 グラスを。

 真銀の。

 盆の上に。

 戻す。

 最初は……何も感じなかった。強いていえば、なんだかお腹の中で何かが動いているような気がした。ふわふわとしていて、くすくすと笑う、小さくて愚かな生き物に、内側からくすぐられているような感じ。これは、もちろん、生きたままクラゲを飲んだことに起因する感覚であったが。とはいえ実際に感じているというよりも、むしろ錯覚だといった方が正しいだろう。人間の胃袋は、胃炎だとか胃潰瘍だとかでもない限りは、ほとんど機械的刺激を感じることがないから。

 そんな愚かさ、救いようがないくらい何も知らない生き物の感覚が、真昼の肉体からとろとろと流れ出すdissolutionによって、次第に次第にsolutionへと変態していき。それは……例えば、この世界に生まれ落ちた全ての原理にとって、危機と呼んでも間違いではないほどの疾患なのかもしれない。

 すぐに。

 それが。

 始まる。

 真昼は、ふうっと、世界の全てが絶対的に幸福になっていくのを感じた。くらくらと、次第に、揺れる、揺れる、失われて、浮かび上がって、痺れて、痺れて、ゆらゆらと、遠のいて、些喚いて、あららいで、それは、まるで、誰のためにも流されることがなかった、冷たい、冷たい、涙のように。

 頭蓋骨の中で思考という思考が溶け出して、脊髄を通って滴り落ちていき、永遠として失われていく、それがいつまでも続いているような感覚。腐っていく、腐っていく、真昼が、本当の本当に大切だと思っていたもの。それでいて、子供の頃に大切にしていた玩具みたいなものに過ぎなかったもの。

 ああ……これは……しかし……真昼は、それを、言葉で……なんらかの概念によって……表わすことが出来ない。なぜなら、それは概念自体の喪失であるからだ。歪んでいた何かが真っ直ぐになる、汚染されていた何かが清くなる。概念によって間違っていた何もかもが……とても正しくなっていく。

 いや。

 今となっては。

 正しささえも。

 なくなって。

 ただ。

 何も知らない。

 救いさえも知らない。

 幸福、だけが。

 残されている。

 これが存在中枢刺激系薬物の基本的な効果である。血液の流れよりも、比べ物にならないくらい重要な流れ。真昼という存在の・真昼という概念の、根底的な原理を流れている、スナイシャクの流れ。それに乗って、ラゼノ……つまりは祈りが、真昼の全体を侵食しているのだ。結果として、あらゆる苦痛を真昼に対してもたらすところの概念が、一時的に存在への浸食を停止して。結局のところ、真昼に残されるのは、ヨグ=ソトホースによる恩寵、ただただ幸福だけを感じ続けるという至福の状態だけというわけだ。

 真昼は、自分の中にある何かがこれまでなかったほどに幸福であるような気がした。アルコールを摂取した時には感じられなかったくらいの、退廃的とさえいっていいような恍惚を感じる。ソーマが与えるところの、純粋な生命力としての素晴らしい力強さでもない。まあ、ソーマ自体も飲んではいるのだが、その感覚は、ソーマの感覚よりも……なんというか……とんでもなく馬鹿げた願い事が、全部全部本当のことになってしまった感じ。意味もなく歌って意味もなく踊って、白痴みたいに笑い散らかしたい気持ち。

 唐突に込み上げてきた。

 発作みたいな、笑い。

 真昼は。

 喉の奥で。

 なんとか。

 押し殺そうとする。

 それは、まるで、嫌いな男の手によって導かれる性の絶頂に耐えようとしているかのように。けれども、真昼という存在は抗うことが出来ないほどの浮揚感に満たされていって。ああ、なんだか、何もかもが……深い深い馬鹿馬鹿しさに包まれていく。目に見える全てが、耳に聞こえる全てが、鼻に嗅げる全てが、舌に味わえる全てが、それに、肌が感じることの出来る全てが。なんでこんなに滑稽なんだろう。この世界のあらゆる物質・現象について、少しでも真剣に考えようとすると、ちょっと笑ってしまいそうになる。ああ、こんなに阿呆みたいな! ああ、こんなに低能じみた! いわゆる現実と呼ばれているものの出来損ないのパロディのようだ。あまりにも愉快で、あまりにも滑稽だ。世界の根底に流れている音楽と、世界の根底に流れている歌詞とが、どうも噛み合っていないのではないかという感じ。ある意味では病的なほどに「だからどうした」と「そんなことはないだろ」と「はあ左様でございますか」とが満ち溢れている。真昼は、この場所では、決定的に場違いなのであって……それゆえに、決定的に解放されている。

 暫くの間、真昼はグラスを右手に持ったままで。左の手のひらを強く口に押し当てて、右足を上にして組んだ両足、その右膝に額をつけるみたいに上半身を折り曲げて。なんとか、なんとか、笑わないようにしていたのだけれど。それでも、とうとう「くっくっくっ……」という感じの笑い声が漏れてしまった。

 それに対して、デニーは。真昼が上半身を折り曲げた時から、一体真昼ちゃんはどうしたんだろうという感じ、とてもとても心配そうに背中をさすってあげていたのだけど。真昼が漏らした笑い声を、どうも苦しそうな喘ぎ声と勘違いしたらしい。まあ、いつだって性の嬌声は苦痛の歌と間違われるものであるが。

 とにもかくにも、デニーは、ほとんど太腿に隠されたみたいになっている真昼の顔をなんとか覗き込もうとするようにして。「ま、真昼ちゃん……?」と声を掛けた。「大丈夫……?」「どっか苦しかったり痛かったりする……?」「「ラゼノ・カクテル、お体に合わなかった……?」「デニーちゃんが治してあげようか……?」「それともお医者さん呼んだ方がいい……?」。その言い方が、あまりにも、あまりにも、真昼のことを気遣っているみたいで。それに、心の底から不安そうな、そんな声で。真昼は、何もかもが爆発するみたいにして、遂に限界になってしまった。

 弾けるみたいにして上半身を起こして。跳ねるみたいにして顔を上に向けて。「あーはっはっはっはっはっはっはっはっ!」と笑ってしまった。大きな大きな声で、いかにもすちゃらかぼんちきみたいに。そして、笑えば笑うほどに、そのようにして笑っている自分のことが面白くなってしまい、どんどんどんどんと笑うことを止められなくなる。両方の足を、蓮の花の上から離れてしまうくらいぴんと伸ばして。片方の手は、自分の髪を愛撫しているみたいに頭の上にのせて。もう片方の手は、グラスを持ったままでぶんぶんと振り回す。世界の底が抜けたような笑いは、命の危険さえ感じるほどになって。それから、真昼は、ころんと転げるみたいにして自分の体を左側に倒してしまう。

 自然と、真昼は、デニーに膝枕される形になって……どうでもいい、どうとでもなれ。笑い過ぎて流れてきた涙の向こう側では、デニーがほっとした顔をしている。「わあ、真昼ちゃん、とーっても幸せそうだね!」「あー、良かった!」「真昼ちゃんが駄目になっちゃったのかと思って、デニーちゃん、びっくりしちゃったよ」「でも……えへへ、真昼ちゃんが気に入ってくれたみたいで、デニーちゃんも嬉しいよ」。そりゃあよござんしたね。グラスを持っていない手、手首の甲のあたりで、両方の目を覆いながら。真昼は、そんなことを思う。

 真昼の髪を梳くみたいにして。

 デニーの、指先が。

 頭を愛撫している。

 真昼は。

 ただただ。

 笑い続ける。

 そんな瞬間が。

 一時停止のように。

 白々しくも続いた。

 その後で。

「ねえ、ねえ、真昼ちゃん!」

 熱病じみた真昼の陽気さが感染したかのごとく、うきうきとした声で。とはいっても、デニーちゃんは大抵の場合うきうきしているのだが、とっても可愛いね、それはともかくとして、デニーが真昼に声を掛けた。

 真昼は、ようようのこと、やべーくらいのげらげらが収まって。はひーはひー、と荒い息を吐き出しながら、それでも、未だに、緩んだ口元でにやにやとしていたのだが。デニーのその声に「なんだよ」と答えた。

「舞龍食べたことある?」

「舞龍?」

「そーそー!」

「んなもん、食ったことあるわけねーだろ。」

 仮にも人間を遥かに超える知性を有した高等知的生命体だ。はっきりいって、舞龍を食べたことがあるという可能性よりも、人間を食べたことがあるという可能性の方が高いだろう。そして、真昼は人間を食べたことがなく、従って舞龍を食べたことがあるわけがない。この「従って」はなんだか論理的に間違っている気がするが、まあ、そこらへんはお気になさらないで下さい。

 とにかく、真昼の答えを聞いたデニーは「えー、そうなのー?」「じゃあ食べてみなよ!」「すっごくすっごくおいしいよ!」と言った。途轍もなくナイスなアイデアを思いついてしまったとでもいいたげに、自分の両方の手、指を絡めるみたいにしてぎゅっと握り合って、左のほっぺたにふにゃんとくっつけて。

 そして、真昼が何かを応答する前に。とはいっても真昼はデニーに対して何かしらの応答をしようという気はさらさらなかったのだが、それはそれとして、デニーはナイフを持っていた。どこから取り出したのか全く分からないが、絡めていた指をほどくと、いつの間にか、右手の中にそのナイフがあったのだ。

 ああ、ナースティカ・ナイフだ、と真昼は思った。読者の皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか? 三十ハーフディギトくらいの長さで、ほとんど箔みたいな薄さのナイフ。比較的持ち手に近いところでブーメランみたいに湾曲しているナイフ。そう、ガードナイト弾による色力浸食が全体に広がった右手を切り落とす時に、デニーが使ったあのナイフだ。

 ただ、あの時のナイフとは少しばかり違うところがあった。以前のそれは装飾的な部分といえばノッチくらいであったが。こちらは、刃の全体に、なんらかの魔学式が刻まれていた。もちろん、真昼は、魔学式については詳しくなかったのだが。恐らくは、このナイフによって、形而上学的な抵抗力があるものさえも切り裂くことが出来るようにするためのものと思われた。それに、持ち手の部分も……木造りのものではなく、非常に精巧な象牙細工であるようにみえた。まあ、実際はガジャラチャの牙で出来ていたのだが、ガジャラチャも象も似たようなものなので間違ってはいないだろう。

 何はともあれどうであれ、デニーはナースティカ・ナイフを持っていて。そして、真昼ちゃんに膝枕をしたままで、真昼ちゃんの頭をなるべく動かさないようにして、くーっと後ろに向かって体を伸ばした。というか、もっと具体的にいえば、デニーの背凭れになっている舞龍に向かって体を伸ばしたということだ。それから、軽く、軽く、あくまでも何気なく、ナースティカ・ナイフを振り上げると。それを舞龍に突き刺した。

 血飛沫が迸る。デニーの手とデニーの袖と、それに真昼の顔を濡らす。それは周囲の気温よりも少しだけ冷たくて。今まで真昼が浴びてきた血液、人間も含めた他の生き物の血液とはちょっとだけ違っていて。いかにも冷血動物といった感じだったので、なんだか、真昼は、またおかしくなってきてしまった。グラスを持っていない方の手、人差指の第二関節を軽く噛んで、歯と歯との間から漏れ出すような声でくすくすと笑う。

 デニーは、ナースティカ・ナイフをするりと動かして。優美で瀟洒な手つきによって、舞龍から肉片を一切れ剥ぎ取った。左の手のひらを使って、それを、ゆっくりと取り上げると。今度は、その肉片における皮から上の部分、食べるのに邪魔な羽根だのなんだのを切り落とす。この作業によって、肉片の大きさも、食べやすいものになった。一口サイズとでもいうべきか、とにかく、真昼の口にちょうど収まるほどのサイズだ。

 斯うと、それで。デニーは、膝の上の真昼の顔を可愛らしい顔で見下ろしながら「あーんってして、真昼ちゃん、あーんって」と言う。真昼は、この角度からだとデニーのフードの奥が見えそうな気がするけれど、やっぱりその奥を見通すことは出来ないなと思いながら。特に何かしらの答えを言葉として返すことはなく、けれども、それでも、その口をあーんと開いた。

 デニーの左手が近付いてくる。血に濡れた指先には舞龍の肉片を持っている。その肉片は、まるで赤イヴェール合金のような赤色……悪夢の底にゆったりと沈んでいく時の呼吸みたいな色によって塗り潰されているせいで、一体どういうものなのかということがいまいち判断しにくいのだが。とはいえ真昼の知っている蛇の肉とはどことなく異なっているようだった。

 そう、真昼ちゃんは蛇の肉も食べたことがあるのだ。色々な男と肉体関係を結ぶと色々な経験をするものである。まあ、とはいっても、いかにもサブカルチャー的な下手物料理の店に連れていかれて、蛇だの蜘蛛だの蛙だのを食べさせられたというだけだが。その時に食べた蛇の肉は、なんとなく、こう、白身魚みたいな見た目をしていた。そして、口に含むと魚と鳥との中間みたいな食感であって。ちなみに、味はよく分からなかった。めちゃくちゃに味付けされていたので素材の味まで感じることが出来なかったのだ。

 舞龍の肉は……どちらかといえば、あれに似ていた。セミハ・フルーツ。ダコイティの森に生えていた、タマリンドのような殻に包まれた果物。その果肉の部分によく似ているような気がしたのだ。奇妙にゼリー状で、柔らかいのか固いのかがよく分からない。その内部は、ある種の液体に似たもので満ちているように見えるのだが、とはいっても、その液体は、少なくとも人間が知っているたぐいの液体ではない。もっと捉えどころがなく、触れようとすればさらさらと逃げて行ってしまうようなもの。

 真昼は。

 眠るように。

 目をつむり。

 それでも、全てが終わってしまうことはなく。

 舞龍の肉片は、次第に次第に、近付いてきて。

 そして、それは、真昼の舌の上に乗せられる。

 真昼は……それを絡めとるようにして、あわやかしく舌をくねらせた。その舌は、肉片に触れていたデニーの指先にも巻き付いて。デニーは、いかにも楽し気に「わー、くすぐったいっ」と笑った。暫くの間、真昼の舌は、その指先についた血液を舐め取るみたいにして動いていたのだけれど。やがて、デニーは、己の肉体の一部分を、真昼の口からそっと引き抜いた。

 目をつむったままで、真昼は、舞龍の肉片を噛み潰す。何度も何度も咀嚼して、歯と歯との間でその感触を確認する。それから、そうしてバラバラになった断片を、舌の全体に触れさせて。与えられる刺激を、味覚として解釈する。

 結果として、それは一体なんであったか? それは……端的にいえば、恐怖であった。真昼にとって、あまりにも馴染み深くなってしまった感覚。あたかも、子宮の中で二人に分かれてしまった、元々は一つの受精卵であった双子であるかのように。とても、とても、親しさを感じる感覚。

 恐怖という触感・恐怖という味。それは神経系によって感じられたわけではなく、もっと全体的かつ総合的な何か。真昼の根底的な部分に埋め込まれているところの、スナイシャクが保持している、記憶の振動のようなものであった。

 そもそもの話として、舞龍は人間にとっての天敵なのだ。ノスフェラトゥやヴェケボサンや、そういった生き物と同じ種類の生き物。だから、人間は、あたかも神を恐れるようにして、肉体ではなく魂魄によってそれを恐れるのである。

 死を前にして、体が動かなくなる。心臓の鼓動が早くなり、肺臓の呼吸が早くなり、全身が細かく痙攣し始める。思考は焦点を結ばなくなり、あらゆる情報が耳鳴りのようにうるさくなる。涙と唾液と……あらゆる感覚は、その恐怖の対象に釘付けにされてしまって。とはいえ、だからどうしたというのだろうか?

 真昼は、もう、そんな感覚には慣れっこになっていたのだ。確かに、今の真昼は恐怖していた。畏れていたとさえいってもいいかもしれない。だが、どんなに恐怖を感じようとも。その恐怖のことを、真昼は、既に、客観的にしか感じられなくなってしまっていた。普通の人間であれば……恐怖すれば、それによって、自分という感覚がcrisisに襲われていると感じるだろう。自分の全体が、決定的に揺らいでしまい、主観的に崩壊していくような感覚。とはいえ、今の真昼にとっては、恐怖などというものは一つの生理的な反応でしかないものだった。

 確かに、自分は恐怖している。口の中に満たされた震えるような脅威を感じている。自分の神経の全てが舞龍の肉片に固定されて、それ以外のものが、鋭敏な感覚で無意味に捉えられているところの情報の騒音になってしまっている。吐き気がする、今すぐに、これを吐き出してしまいたい。とはいえ、それだけの話だ。この味は……ひどく辛い料理や、ひどく苦い料理や、そういったものと何も変わらない。

 つまり。

 今の真昼にとっては。

 本能的な恐怖さえも。

 ただの。

 一つの。

 現象に。

 過ぎないのだ。

「どーお、真昼ちゃん。」

 デニーが。

 くすくすと笑いながら。

 真昼に問い掛けてくる。

「おいしーい?」

 真昼は、今すぐにそれを吐き出せという、絶叫にも似た魂魄の悲鳴に耳を傾けることなく。それを咀嚼し終わると、それを味わい終わると、あまりにもあっさりとそれを飲み込んだ。嚥下に際しては喉の全体に引き裂かれるような激痛が走ったのだが、ただそれについても真昼は重要視しなかった。

 腹の中に落ちていく。惨たらしいほどの冷酷さが、真昼の体の中で、真昼のことを嘲笑っているみたいだ。その感じは、いつまでもいつまでも消え残っていて。少しずつ少しずつ消化されていく畏れの対象は……きっと、血液に乗って、真昼の全身に運ばれていくだろう。そうすれば、真昼は、自分の肉体を自分の感覚として恐怖することになるのだろうか?

 どうでもいい。

 別にどうなろうと構わない。

 そんなことを。

 ぼんやりと思いながら。

 真昼はデニーに答える。

「クソ不味い。」

「あははっ、真昼ちゃーん!」

 デニーは。

 真昼の答え。

 満足そうに。

 けらけらと笑った。

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