第二部プルガトリオ #44

 え、ユニコーン? それは……端的にいって、信じられない光景だった。普通であったら、その光景を信じるよりも自分の目を疑ってしまうだろう。ただ単に馬の丸焼きと見間違えただけだとか、そんな感じだ。けれども、それは、どれほど疑わしかろうとも、本当にユニコーンの丸焼きであった。

 皮を剥がれて、内臓を抜かれて、塩を振られて、香辛料と果実とを混ぜたソースに漬け込まれて。そして、セミフォルテアの炎によってじっくりと焼き尽くされたところのユニコーン。それが、色艶やかに・色麗しく、熱帯の花々によって彩られたところの皿の上で、レスト・イン・ピースしていたのだ。前脚と後脚とを折り曲げて、ぺったりと下にくっつくように首を伸ばして。いかにも、ちょっと寛いでいるところですといわんばかりの姿勢。

 口にはマンゴーを咥えさせられている。大抵の動物は、丸焼きにされる時に、表情が捻じ曲がらないようにということで、口に梨轡を嵌められたまま、口を開きっ放しにされたままで焼かれるのであるが。その口が不自然に見えないように、果物を咥えさせられるのである。全身が食欲をそそる飴色に輝いていて、けれども、眼球だけは黒々と焼け焦げていて。その角は……深い深い深海のような黒色のままで……一輪の蓮の花が飾られている。

 ここまで何度か触れてきたことであるが、ユニコーンは高等知的生命体なのである。自然というヒエラルキーの中で人間よりも遥かに高い地位にある生き物であるということだ。その強力さはヴェケボサンと同等であり、時には神々を倒すほどの個体さえいる。そんな生き物が、いかにもおいしそうに調理された上で、食卓の上に並んでいるのである。この衝撃は……まだ、人間の丸焼きが用意されていた方が驚かなかっただろう。要するに、これは、ナシマホウ界に住んでいる人間にも分かるようにいうのであれば。今にも天に向かって飛び立とうとしているかのごとき姿勢、羽を広げたまま盛り付けられたノスフェラトゥの丸焼きが、食卓に並べられていたとでもいうような衝撃なのだ。

 これは、もちろん、普通だったら振る舞われるはずのない代物である。例えば、EUで最も高い地位にある人間だったとしても、ヴァンス・マテリアルやサリー・トマトやといった企業のCEOだったとしても、これほどの料理が提供されることはない。ナシマホウ界の住人であれば……パンピュリア共和国のフォウンダーだとか、バビロン・エクスプレスのアーチチェンバレンだとか、そのレベルになってようやく提供されるかどうかというレベルの料理であって……しかも、それは一皿だけではなかった。テーブルの上、規則正しく、十皿が用意されていたのだ。

 そして、もちろん、これはデニーがそうであるように望んだから食卓の上に並べられているのである。誤解のないようにいっておくが、デニーは、この料理に対してなんの興味もない。そもそもデニーは食欲だとか味覚だとか、そういった感覚についてさしたる執着がないのだ。デニーがカリ・ユガ龍王領にこれらを用意させたのは……純粋かつ完全に、真昼のためである。

 デニーは、とーっても気が利くデニーちゃん!なのであって。当然のことながら気が付いていた。サフェド湖で目覚めてから……というよりも、デニーがパンダーラのことを殺してから。真昼が、なんだかずっと元気がないということに。最初は、デニーちゃんがパンダーラちゃんのことを殺しちゃったから怒ってるのかなー?と思っていたのだけれど……真昼ちゃんの態度を見ていると、どうもそうではないらしい。真昼自身も、なぜ自分がこのような精神状態にあるのかよく理解出来ていないという感じ。要するにホモ・サピエンスによくありがちな生理的不機嫌であるようなのだ。ちなみに生理的不機嫌とは、内分泌腺から分泌される化学物質のバランスが崩れてしまい、中枢神経系が不必要な刺激を受けることによって引き起こされる、特に理由のないアンハッピーの総称であって。自分の肉体さえも上手く統御することが出来ない下等生物には比較的よく起こりがちな現象である。

 そして、この生理的不機嫌を治すには、おいしーものをいっぱい食べて、ふっかふかのベッドでぐーっすりすりーぷ!するのが一番なのである。いや、まあ、好みによっては硬めのベッドの方がいいという人もいるかもしれないが、なんにせよ第一段階が美食の愉悦であるということには変わりがない。

 そういうわけでありまして、デニーは、真昼ちゃんに元気になって貰おうと思ってカリ・ユガ龍王領で食べることが出来る最高の晩餐を用意したということだ。ちなみに、いうまでもなく、用意させようと思えば人間の丸焼きも用意させることは出来たわけなのだが……強くて賢いデニーちゃんは、その賢さゆえに、真昼があんまり人間とか食べたくないタイプの人間なんじゃないかという、恐ろしいほどに鋭明な洞察に辿り着いていたのだった。

 そんなこんな。

 ユニコーンが。

 食卓に。

 並んでいたわけなのだが。

 と、いうことで。バンケット・ホールはもう不滅の楽園サンダルキアもびっくりの有様であったわけなのだが。とはいえ、そういった全ての退廃・全ての享楽は、この空間に足を踏み入れた瞬間の真昼、その視界に入っていたわけではなかった。いや、正確にいえば、もちろん視界には入っていたのだが。何もかもが、何もかもが、真昼の注意を引かなかったということだ。真昼にとって、そんなものはどうでも良かった。あらゆるどうでも良いものはどうでも良かった。真昼が見ていたのはたった一つの姿だけ。そして、その一つの姿とは、最初に書いた通りデニーの姿であった。

 さて、それではデニーはどこにいたのか? ただ、そのことについて話す前に、このバンケット・ホールの一番奥がどうなっているのかということについて話しておくべきだろう。それは、まさに、高御座とでもいうべき場所であった。そう、それは高きところにある座であって……そして、既に椅子というのを遥かに超えて、一つの場所とでもいうべきものになっていた。

 まず、着座部分よりも十ダブルキュビトくらい手前の辺り。そこから、全部で十七段ある、巨大な階段が始まっていた。バンケット・ホール自体の形状に合わせるみたいにして、上に行くにつれて幅が狭まっていくのであるが、一つ一つの段が一ダブルキュビトほどもあるために、明らかに人間が上り下りするためのものではないように見える。それでは一体何者が上り下りするのかといえば、それは階段の一段下を見れば分かることだ。そこには、まるで従者が侍るようにして右に一匹・左に一匹のガジャラチャが蹲っていて……要するに、それらのガジャラチャが、着座部分まで賓客を運ぶシステムであるということだ。ちなみに、現時点でのガジャラチャは、階段の下の方の段にかぶせるみたいにして上半身を登らせていて。そして、時折、その高御座に座しているところの賓客を讃嘆するかのようにして、大きく大きく鼻を掲げるポーズをとっていた。

 さて、その階段の上の方の段に視線を向けると……唐突に、何かの植物が姿を現す。階段に纏わりつくようにして始まった、幾つもの触手を束ね合ったようなその植物は、十七段の階段の頂点で、大樹の姿となって、ホールの上方に向かってその全体を伸ばしている。その幹のところどころから、毒々しいとまでいえそうな、異様なまでに鮮やかな色をした花が生えていて。そして、それらの花々は、一つの触手の集合体から生えているにも拘わらず、様々な種類のものが混ざり合っていた。あるものは薔薇であり、あるものは百合であり、ゲンダ、チャンパ、ハイビスカス、ジャスミン、ラジャニガンダ、更には向日葵まで咲いている。

 そういった花々の中でも最も目を引くのが、その大樹の一番上、あたかも人体における頭部のようにして咲き乱れている、数え切れないほどの蓮の花だ。それらの蓮の花は、ユニコーンの角に飾られている色とりどりの蓮の花とは違っていて。まるでその全体で一つの光であるかのように、アーガミパータでは珍しいほどの完全な白であった。そして、それらの花々は一つところに密集しているのであるが……その中に、まるで埋め込まれるようにして玉座が据えられていた。

 玉座は……念のためにいっておくが、外の世界から持ち込まれるまでアーガミパータには椅子というシステムは存在していなかった。地面の上にそのまま座るか、敷物を敷いて座るか。あるいはダコイティの森でのパンダーラがそうであったように、突き出た木の根やちょうどいい大きさの岩や、そういったものの上に座るか。基本的にはそういった感じだ。位の高い生き物は、その上に座れるほど巨大な大きさの花の上に座ったり、従順に躾けた獣を背凭れとして使ったりもしていたのだが、ただ、それが椅子というものの発明に繋がることはなかったのだ。そんなわけで、この玉座は、いうまでもなく外の世界から来た賓客のためにわざわざ作られたものであったのだが……とはいえ、それは、ちょっと珍しいタイプの玉座であった。

 まず、普通の椅子よりも随分と座面が広かった。普通の人間が普通に座ったら確実に背凭れに寄り掛かることが出来ないくらいの奥行きがあり、横幅も、たった一人が座るにはあまりにも長過ぎる。どちらかといえば、それは、寝椅子といった方がいい物なのかもしれないが……とはいえ、寝椅子でもない。普通、寝椅子といえば、その上に肘を置いて寛げるように、背凭れを低く設計するが。その玉座の背凭れは、なんというか……既に背凭れと呼べるような物ではなかった。

 そもそもの話として、最初にいったように、玉座の置かれている場所はバンケット・ホールの一番奥の奥であったのだが。その背後、壁の一面には、玉座の台座となっているところの植物が這い回っていた。びっしりと、緑色の触手がのたうっていて。そして、あたかも、その触手の後ろ側にある空間から、その触手を突き破って姿を現わしているかのように。凄まじく大きな鳥の骸骨が飾られていたのだ。

 その鳥は……いや、それは本当に鳥なのだろうか? 少なくとも、真昼が知っているところの鳥ではなかった。それはなぜかというに、その生き物には、嘴がある頭部・長い頸椎・二枚の羽の他に……黒鱗石で作った刃物のように鋭利な鉤爪が生えた、二本の腕を持っていたからだ。鳥と人間との合いの子のような姿、高度な把持性を有する動物。恐らく、真昼の知らないアーガミパータ固有の生き物なのだと思われた。

 とにかく、その生き物は……本当に巨大であって……血も肉も内臓も失った空虚な亡骸であるにも拘わらず、それでもこの空間の全体を睥睨しているかのようであった。触手のタペストリーから突き出ているのはその上半身だけだったが。その肩から、一本の気高い剣のように流れ出ている翼の骨。そこにあったはずの羽根は既に失われてしまっていたが、それでも空間全体を包み込むようにして大きく大きく広げられた二本の骨は、右側の端から左側の端まで二十ダブルキュビト以上の長さがあった。

 また、二本の腕は、翼の下で、まるで目の前にいる何者かに襲い掛かろうとしているかのように鉤爪を突き出している。その手のひらだけで小さな子供ぐらいの大きさがあり、腕自体の長さは三ダブルキュビトから四ダブルキュビトはあるだろう。そして、その顔……人間程度の生き物ならば引きちぎって飲み込んでしまいそうな、残酷かつ冷酷かつ過酷なる嘴を持つ顔! その惨たらしい頭骨だけで、真昼の肉体とまではいわなくても、マラーの肉体の全部と同じくらいの大きさがあるほどだった。

 そして。

 その生き物。

 胸の、辺り。

 胸骨を引き抜かれた後で。

 無理やり開かれた肋骨と。

 その背後の胸椎と。

 それが。

 玉座の背凭れを。

 作り出していたのだ。

 もちろん、その生き物の骨が背凭れの全部であったというわけではない。まず、玉座の基本的な部分は赤イヴェール合金で出来ていたのだが。その座面から、あたかも傷口から滴り落ちる血液、悪夢に感染して腐敗した血液が広がっていくかのようにして、一つの流出が、玉座の背部から流れ出していて。そして、この赤イヴェール合金の流出が、あの生き物の骨と混ざり合って……例えるならば、図像として描かれた一匹の悪魔、災い、災い、災いの獣の、闇によって形作られた光背であるかのような背凭れを構成していたということだ。

 さて、ところで。今の真昼は、あらゆる感覚を、あらゆる感情を、デニーによって支配されているといってもいい状況であったので、そのことに気が付かなかったのだが。あとになって、ラゼノ=コペアによって酩酊した思考の中で考えてみると……この生き物、鳥に似た何か、これをどこかで見たことがあるような気がしてきた。そして、それからすぐに気が付いて、また、そのまま忘れてしまったのだが。それは、このエーカパーダ宮殿の外装に彫刻されていた、あの鳥達の姿に似ていたのだ。蛇の群れと相対していたところの鳥の群れ。よくよく思い出してみれば、あの鳥達にも、二本の腕が生えていたのだった。

 また、もう一つ気が付いたこと……というか、真昼が、未来において気が付くであろうことがあって。それは、この生き物が、これほどの巨躯・長躯であるにも拘わらず、どうも成体ではなく、成長し切っていない幼体であるように思われたことだ。

 まあそれは。

 ともかくと。

 して。

 もちろん玉座の周囲にも様々な要素が集帯していた。例えば、壁面に蔓延っている触手は、あちらこちらで、その場所から伸びていって……そして、まるで生き物の骨格を壁の内側に引き摺り戻そうとしているかのように巻き付いていた。その巻き付いた触手には、人間などには抱え切れないだろう量の花々が咲き乱れていて。聖なる光によって漂白されたかのようなカンディダスに、騒々しいほどの色彩を与えていた。

 そんな生き物の骨、翼の骨には、右のそれにも左のそれにも数匹のグラディバーンが止まっていた。これは考えてみれば当然のことであって、いくら形相子操作を施されたグラディバーンとはいえ永遠に飛び続けることは出来ないのである。時々は止まり木代わりにこの骨に止まって羽を休めているということだろう。

 それから、玉座の両脇、右側に四人、左側に四人。蓮の花で出来た台座の上に侍っていたのはレーグートであった。真銀で出来ていると思しき美しい盆の上に、何かが入ったグラスを載せて。ウパチャカーナラとは違い、本当の意味での給仕として、玉座に座っている者に対して飲み物のserviceを行っているらしい。

 そして、そういった要素よりも更に目を引くのが……その高御座の近く、あちこちにいる舞龍の姿だ。そう、そこには舞龍がいた。しかも一匹ではなく十数匹もの舞龍が。ある舞龍は束ねられた植物が作り出す幹に纏わりついて、ある舞龍はあの生き物の骨格に纏わりついて。それから……玉座の周囲には、そういった舞龍が絡み付くための棒が浮かんでいた。アヒムカーを吹いているカーラナンピア達がその上に立っているところの、あの赤い円盤。恐らくはそれと同じ材質で出来ているのであろう、数ダブルキュビト程度の長さの赤い棒。それらの全てが同じ全長で、それらの全てが同じ形状で、ほとんど無機質なまでに完全な円筒形が、細長く引き伸ばされた感じだ。それらの棒は、玉座から放射状に並べられていて。そして、それらの棒の幾つかに跨るみたいにして、何匹かの舞龍が絡み付いていたということだ。

 それらの舞龍は、どうも、シャーカラヴァッシャよりも若い舞龍のようで。その長さは数ダブルキュビト程度しかなかった。とはいえ、普通の人間の二倍以上の大きさがあるということには間違いなく、十分に舞龍としての脅威を備えていた。それに、脅威だけではなく、その羽根も……そこにいる舞龍は、どの個体も全身の羽根を広げていた。威嚇的な意味ではなく、それはまるで、この饗宴の舞台装置の一部であるかのごとく。というか、まさに、この饗宴における一種の芸術として、羽根を躍らせていたのだ。

 さて、それではそんな舞龍のうちの一匹に目を向けてみよう。その舞龍は、他の舞龍よりも一回り二回りほど大きい、比較的強力であると思われる個体だった。束ねられた植物に纏わりついていたわけでも、あの生き物の骨格に纏わりついていたわけでもなかった。それに宙に浮かんでいる赤い棒に絡み付いていたわけでもない。その舞龍は玉座にいた。

 といっても、その舞龍が玉座の主であったというわけではない。そうではなく、その舞龍は、玉座の座面、長椅子のように広々としたその座面に、ぐるりと囲うようにして横たわって。玉座に座っているその頂点捕食者……このバンケット・ホールというオイコノミアにおいて、まさに頂点にいるところの捕食者が、快適に過ごせるようにしているのだ。

 要するに、一般的な椅子における背凭れだとか肘掛けだとか、そういったものの役割を果たしていたのだ。頂点捕食者は、玉座の大きさに対してあまりにも幼い姿形をしていたので。普通に座っただけでは寄り掛かることも肘を置くことも出来ない。だから、その舞龍が、玉座と頂点捕食者の肉体との隙間を埋める役割を担っていたということである。

 そして、その頂点捕食者は……笑っていた。あまりにも純粋な笑顔で、あまりにも無垢な笑顔で。それは、真昼の顔に浮かんでいる絶望的な無表情に対する完全な対称形としての屈託のなさであって。透き通った水晶で出来た鈴が、銀の風によって柔らかく愛撫されて鳴らす音のように、きらきらと輝いている笑い声。

 右手には、レーグートの盆の上に乗せられている物と同じグラスを持っていて。それから、左側の腕を、ひどく寛いだ姿勢で、背中のところで蹲っている舞龍の体の上に預けて。玉座の下に投げ出しているかのような両足を、お行儀悪く、とはいえ可愛らしく、ぱたぱたと動かしている。その頂点捕食者は……この世界と、この世界が差し出すあらゆる愛と、完全に和解していた。その頂点捕食者にとって、絶望に満ちた世界というのは、目のない生き物にとっての色鮮やかな世界のようなものに過ぎない。絶対的な強さと絶対的な賢さと、それを有する者が、どうして自分自身に対して罪を犯すことがあろうか?

 獣のdignitas、あるいは地獄におけるrango。勘違いしてはいけない。この世界において序列という感覚を持つことのない生き物は、ただ人間だけなのである。人間だけが序列という概念を理解することが出来ない。獅子が兎を食い、蛇が鼠を食い、龍が鷲を食う。より強き者がより弱き者を捕食する、より愚かな者がより賢い者に跪く。それこそが、人間も含めたあらゆる生き物がその中で生きていくほかないところのdiginitasなのだ。人間は……人間以外にはなれない。神聖な生き物になることは出来ないし、獣になることさえ出来ない。人間程度の下等な生き物が、何をどう望もうとも、そこに座を占めているところのrangoから抜け出ることは出来ない。

 そう、つまり、その座は、その玉座は。

 人間のための座ではないということだ。

 それでは。

 一体。

 何者のための玉座であるか?

 決まっている。

 地獄において。

 最も力ある者。

 それは。

 悪魔。

 そして、それから……もちろん、真昼はその悪魔の名前を知っていた。というか、この瞬間において、真昼の頭蓋骨の中には、その悪魔の名前だけが鳴り響いていた。バンケット・ホールの中に入った真昼が、それだけを見ていたもの。それこそがその悪魔であって。真昼の全ての感覚は、あたかも貪るようにしてその悪魔を感覚していた。呼吸さえも、いつの間にか停止していて。心臓の鼓動は、何か虚ろな残響のようなものに過ぎなくなる。真昼は、真昼は……その悪魔の名前を知っていた。

 その。

 悪魔の。

 名前は。

 ああ。

 そう。

 血反吐を吐くみたいな。

 憎悪の些喚きによって。

 真昼は。

 その名を。

 口にする。

「デナム・フーツ。」

 真昼は、ちょっと驚いていた。何に驚いていたのかといえば、自分自身に驚いていた。今までの真昼は、完全な虚無であった。その肉体は機械人形よりも何も感じることがなく、その思考は冬の夜に見上げる星々のように静止していた。何もかもが空っぽになってしまっていて、ただただ重力と慣性とによってこの世界に繋ぎ止められているだけであって。真昼の世界は、完全に、夜の暗黒によって塗り潰されていた。

 それにも拘わらず、この空間に足を踏み入れて、そして、あの玉座に座っているデニーの姿を見た瞬間に。真昼の世界は……あらゆる色彩を取り戻したかのようだった。真昼の目の前に、全てが戻ってきた。赤が、青が、黄が、緑が。そして、何よりも、白い光が戻ってきた。真昼は、肉を削がれ・血を抜かれ・内臓を抉り出された剥製のようなものから……生きた人間に戻ったような気さえしたのだ。

 デニーと相対したその時に、真昼は人間であることを取り戻した。デニーが、その視界に入ってきた瞬間に。真昼は、感情を取り戻したのだ。そう、憎悪という感情を。皮膚の内側を焼き尽くしてしまいそうな瞋恚と、相手の心臓を食い尽くしてしまいたいという嫌悪と。真昼は、そして、自分が生きていると感じた。

 その憎悪には、はっきりとした理由があるわけではない。久しぶりに――といってもデニーと別れてから半日も経っていないのだが――デニーの姿を感覚した瞬間に。ほとんど脊髄の反射みたいにして、その憎悪を感じたのだ。それは本能といってもいいようなものであって。あたかも幼子が、その保護者に対して愛という感情を覚えるかのような現象だったのだ。

 真昼の頭蓋骨の中で、理性などというものを超越した憎悪が、夜を照らす太陽のように爆発した。そして、その後で……真昼は、その憎悪について、人間にとっては無限に近いような思考を巡らせた。例えば、こんな感じだ。この男が、この男が、私から全てを奪った。私から正義を奪っただけではなく、私から信念を奪っただけではなく、私から、私が私であるということさえも奪った。この男は、何もかも知っていたのだ。そうすればどうなるのかということについて、あらゆることを知悉していて。それにも拘わらず、マコトに私を預けたのだ。マコトが、私を私でなくしてしまうということ。この世界に対するあらゆる信頼を失わせて、人間であるということさえ曖昧になるくらいの、そんな悪意を、私の脊髄に注ぎ込むであろうということ。それを知っていながら、私のことを、あの女の手に渡したのだ。それは……一つの策略であったに違いない。私のことを、より深き絶望に突き落とすための策略。私を粉々に砕いてしまうための悪魔の策略。この男は、この男は……どれほど憎んでも憎み足りないほどに、悪魔なのだ。

 とはいえ、そんなことを考えながらも。真昼は、心の奥底では理解していた。デニーは、別に、そんな策略を巡らせたわけではないということを。真昼のことを絶望させて、デニーになんの得があるというのか? 真昼が粉々になってしまったとしても、それはデニーにとってなんの意味もない。デニーは、真昼から真昼であるということを奪っていないのだ。そんなことをする理由がないのだから、そんなことをするはずがないのだ。デニーは……たぶん、本当に、純粋に、真昼のためを思って、真昼のことをマコトに預けたのだろう。マコトならばカリ・ユガ龍王領のことを色々と知っているし、どこかいい感じの観光地に連れて行って、真昼のことを楽しませてくれるだろう。それに、自分が行くところは……カリ・ユガ龍王領の外側であって、何が起こるか分からない場所だ。そんなところに連れていくよりは、マコトに預けておいた方が安全だろう。その程度の感覚で預けたというだけの話なのだ。

 また……真昼が気が付いていたのはそれだけではなかった。真昼は、もっともっと根源的なことにも気が付いていた。それは、自分の中で黎明の音楽のように煮え滾っているこの感情。デニーの姿を見た瞬間に真昼の中で燃え上がった、デニーのことを殺したいという感情。けらけらと笑っているあの顎を引き裂いて、きらきらと輝いているあの両眼を抉り出して、鼻を削ぎ、耳を削ぎ、骨を砕き肉を剥がし内臓を焼き尽くし血液を飲み干し脳髄を食い尽くし、そうして、その心臓を、その心臓を……この感情が、もしかして、ただの憎悪ではないのかもしれないということを。

 いうまでもなくそれは憎悪だ。しかしながら、単なる憎悪というわけではないのではないだろうか? これは、もっと……複雑な魂魄の反応であるように思えた。何かが、何かを、求めているという感覚。渇望、この世界の底が抜けたワルツ。もちろん、それは愛ではない。絶対に、愛などという感情ではない。それは分かっている。真昼は愛という感情を知らないが、とはいえ、これが愛ではないということくらいは理解出来る。それにこれは、信仰の感覚とも違っているのだ。そんなプラスの感情ではない。あの男が……あの男の全てが、いちいち真昼の激しい憎悪を招く。

 何かが。

 何かが。

 何かが。

 ああ。

 苛つく。

 どうしても。

 あの男を。

 許せない。

 そんな真昼の感情……自分でもどうにも出来ない、持て余してしまうほどの、激しいgravityのような感情。それとともに吐き出された、真昼が、デニーの、名前を、言葉した、声。

 その声がそっと吐き出されるまでは、デニーは真昼がこのホールに入ってきたことさえ気が付いていないようだった。グラスを片手に持ったままで、何が楽しいのか、けらけらと笑っていた。眼下で繰り広げられている饗宴を見下ろしたままで、近侍しているレーグート達と何かを話していた。

 けれども……この饗宴の騒音の中では聞こえるはずもないほどの、吐息のようなその声が発せられた瞬間に。デニーは、はっとした。遠い遠いところ、このホールの入り口に立っていた真昼でさえも分かるくらいの反応として、ぱっと表情を変えて。そして、その声がした方向に顔を向けた。

 それは、真昼がこれまで見たことのないような顔だった。真昼が今まで……これほどの、これほどの、ハッピー、クラッピー、クルクルハレルッピーの感情を。生き物が、表情というコミュニケーション・ツールによって表せるなんて信じられない。その顔が表している「うれしーい!」という思いをもしも言葉にするとすれば、真昼のこの夜の、全ての暗黒を、黒いインクに変えても足りることがないに違いない。それは、間違いなくお日様だった。ただし、一つの惑星だけを照らすのではなく、暗く孤独な宇宙の全てを照らし出すお日様。あたかも……失くしてしまったはずのお気に入りのおもちゃを、また見つけた子供みたいな。

 デニーの、そんな顔。

 小さい。

 小さい。

 可愛らしい。

 お口が。

 開いて。

「ま、ま、ま……」

 暫くの間は、喜びのあまり、感極まって。

 まともに動かせないとでもいうみたいに。

 その口、はわはわとしていたのだが。

 やがて。

 ようやく。

 それが。

 本当に。

 言葉したかった。

 名前を、叫ぶ。

「真昼ちゃーーーーーーーーーーーーん!!」

 持っていたグラスをすっぴろぽーんっと放り投げた。いや、放り投げたというよりも、あんまり嬉しくてグラスのことなど忘れてしまい、結果として手からすっぽ抜けてしまったといった方が正しいかもしれない。とにかく、デニーが持っていたそのグラスはデニーの右手から離れて。優雅であり感傷的であり、少しばかりのアンニュイさえ感じるような円弧を描きながら吹っ飛んでいって……そして、近くにいたレーグートの頭にクリティカル・ヒットした。当然ながら、別に、デニーはわざとやったわけではない。とはいえ、そのグラスはレーグートの顔に当たって粉々に砕けて。その結果としてレーグートの顔は、グラスの中に入っていた液体でびっしょびしょになってしまった。

 もちろんデニーはそのような些細な出来事を気にしたりはしなかった。グラスがすっぽ抜けた手と、それにもう片方の手、しぱーんっとでもいう感じで大きく大きく広げて。万歳のポーズを……いや、それどころか億歳とか兆歳とか、そのレベルのポーズをしてみせた。もちろん、そのポーズは、びっくり箱から飛び出してきたお人形さんみたいなやり方で、ぴこーんっと立ち上がることと同時並行して行われたのであって。簡単にいうと、デニーは両手を上げながら立ち上がったということになる。

 それから、そのまま、ぴょぴょこりーんとでもいわんばかりの有様によって玉座から飛び上がった。これは文字通りの意味で飛び上がったのであって、とってもキュートなその肉体は、放り投げられた子猫みたいにして玉座から跳ねると。白い蓮の花によって形作られた台座の上から、眼下に広がっている饗宴に向かって、いとも軽やかに投身したのだ。

 さて、デニーが飛び降りた先に視線を移してみよう。少し前に書いた通り、そこには二匹のガジャラチャがいた。台座へと至る階段を代わりに昇降することによって、賓客が玉座へと上がったり、あるいは玉座から降りたりすることを助けるガジャラチャ達だ。それらのガジャラチャ達は、デニーのことを褒め称えるかのようにして、大きく大きく鼻を伸ばして。ホール中に満ちている音楽に合わせて、その鼻をゆらゆらと揺らめかせていたのだが……デニーが、その台座からぴょーんと身を躍らせた瞬間に、あたかもそれがなんらかの合図であったかのようにして立ち上がった。

 そして、ガジャラチャ達はずしんずしんと歩いて。台座から真っすぐ進んだ目の前、階段を下りたすぐ先で、ぴったりと寄り添いあうようにして二つの体をぴったりと合わせた。それから、まるで、一つの滑り台であるかのようにして鼻と鼻とをしっかりとくっつけると……それを、台座から真っ直ぐ進んだその先、このホールの入り口、つまり真昼がいる方に向かって伸ばした。

 いうまでもなく、それは本当に滑り台だった。しかもデニーのための滑り台だったのだ。飛び降りたところのデニーの肉体は、重力に従うことによって墜落していって。それから、階段の先、ガジャラチャの体とガジャラチャの体とが合わさった大きな塊の頭のところに落っこちた。そして、その落っこちたタイミングで、あまりにも可愛らしくくるりんと体を丸めたデニーは。小さな小さなガラス玉が転がっていくみたいにして鼻梁を転がり落ちていって。二本の鼻で出来た滑り台、その間の溝になっているところに差し掛かって……そのまま、びばすーんっという感じで、またもや宙に向かって投げ出された。

 二頭のガジャラチャは、滑り台、その鼻先を、斜め上に向かうようにして少しだけ持ち上げていたのだ。そのせいでデニーの肉体は、そのまま下に転がり落ちてしまうのではなく、遠く遠くの方に向かって投げ出されて……くるくる、くるくると、デニーの肉体は、非常にプリティな態度で回転しながら放物線を描いていって。そして、十ダブルキュビトかそこらの距離を移動してから、その場所に無事に着地した。

 無事に? そう、それはすたりっという感じ。それほど高い場所からそれほど長い距離を飛んできたとは思えないほどに軽やかな着地であって……確かに、デニーは無事であった。ただし、デニーが着地した先にあったものは無事とはいい難い状態であった。何がいいたいのかといえば、デニーが着地した先は、床の上ではなく、そこに料理が並べられていた、まさにそのテーブルの上であったということだ。

 そこに並んでいた料理は野菜料理であって、具体的にいうとアスパラガスのチップを浮かべたアスパラガス風味のクリーム・スープだったのだが。もう、これは、なんというか……素晴らしいくらいな豪快さによって、ずばーん、ばりーん、びしゃーん、という感じ。ちなみにずばーんというのがデニーが着地した時の音で、ばりーんというのがデニーのローファーがスープの皿を粉々に砕いた時の音で、そして、びしゃーんというのが、書くまでもないことであるが、皿の中のスープが撒き散らされた時の音だったのだが。そういった細かいことはともかくとして、最高級のアスパラガスを使ったスープはそこら中に飛び散ったのであった。

 当然ながら、そのスープの被害はデニーが身に着けているものにも及んでいて。ローファーは全体的にべっちゃべちゃだったし、スーツの裾だって、なんか緑っぽい色の泥んこを跳ね散らかして泥んこ遊びをした後みたいになってしまっていたのだが……読者の皆さんも、デニーがそんなことを気にするわけがないということはお分かりですよね。ということで、デニーは、自分の足がめっちゃアスパラガスって感じであることに気が付きもしないで。着地した直後に、テーブルの上、駆け出したのだった。

 先ほどの描写では触れていなかったことであるが、そのテーブルはクソ長かった。あーっと、クソ長いってあんまり上品じゃないですね。ゴッド・ダムン・シット・ファック長かったの方がいいかな? いや、同じか。とにかく、その長さは二百ダブルキュビト近くあって……要するに、一番奥にある玉座のところから真昼が立っている入口の辺りまで、ホールの真ん真ん中、真っ二つに切断するみたいにして延々と続いていたということだ。アーガミパータの外側に住んでいる人間達が、特に人間至上主義者達がよくお好みの、真っ白なテーブルクロスを敷かれたテーブルは、つまり、デニーがいる場所から真昼がいる場所まで、真っ直ぐに伸びていたということであって。

 それから。

 デニーは。

 その上を。

 駆ける!

 駆ける!

 いや……跳ぶ!

 読者の皆さんは、デニーがいかに速く走ることが出来るかということを覚えているだろうか? アヴィアダヴ・コンダのASK支社、パンダーラとともにティンガー・ルームへと至る空洞を走っていた時に。デニーは、千ダブルキュビトをたった十秒で駆け抜けたのだ。しかも、その速度は決してデニーの本気ではなかった。真昼を小脇に抱えながら、ノリ・メ・タンゲレの攻撃を回避しながら、その速度を出すことが出来たのだ。

 そのことを考え合わせて頂ければ、「デニーの肉体は真昼が突っ立っているところまでまばたきをするよりも早く辿り着いた」と書いたとしても、それがぜーんぜん大袈裟なんかじゃないということに同意頂けると思う。デニーは、野菜料理を蹴散らして、果物料理を蹴散らして、肉料理を蹴散らして、デザートを蹴散らして。そして、十皿ほど用意されていたユニコーンの丸焼き、その全てを飛び越えて……本当に、一瞬で。

 まるで。

 それは。

 真昼の願いを叶えるためだけに。

 生まれてきた。

 流れ星の子供。

 その煌めきみたいにして。

 デニーは。

 テーブルから。

 しぱーんっと。

 ジャンプして。

 そして。

 その先にいた。

 真昼の、胸に。

 飛び込んだ。

 なんかデニーちゃんが再登場してから明白に擬音語が多くなってない? まあ、デニーちゃんは、ずがーん、どかーん、ばきゅーん、という感じに可愛いのであるからして、仕方がないといえば仕方がないことなのだが。ただ、とはいえ、文章の偏差値がここだけ明確にどすーんである。ここからはちょっと注意した方がいいかもしれないな、なんて思う今日この頃であって……いや、そういう雑感はどうでもいいんだよな。今は、真昼の話。

 真昼は……何が起こったのか分からなかった。マジで、真実、本当に、really、何が起こったのか理解出来なかった。先ほども書いたように、比喩でもなんでもなく。デニーがテーブルの上に飛び降りた後に、ぱちりとまばたきをしたその一瞬で、目の前にデニーの肉体があって。その肉体が、飼い主の姿を見つけた元気で可愛い子犬みたいにして、真昼の腕の中に突っ込んできたからだ。

 腕の中に? そう、真昼も修羅場慣れしてきたのかなんなのか、ほとんど反射的かつ本能的な行動として。デニーが目の前にいるということを意識の上で理解する前に、その全神経は、デニーのサプライジングかつアストニッシングかつアメージングなタックルを受け入れる準備を整えていたのだ。両腕を伸ばして、両足を踏み落として。その攻撃に対する備えをしていたということだ。

 とはいえ、もちろん意識の上ではなんの準備もしていなかったのであって。その攻撃に対して、真昼であるところの真昼が意識的に行うことが出来た行動といえば、「は?」という声を漏らすことだけだった。更に、大変大変残念なことに、デニーのサプライ(略)タックルは、生身の人間でしかない真昼には、あまりにも強力過ぎたのであって。いかにデニーちゃんのとってもすっごーい魔学式で強化されていたところで、耐え切れるものではなかった。つまり、何が言いたいのかといえば、真昼は、思いっ切り、吹っ飛ばされたということだ。

 真昼の意識が時間を感じる速度、それが、急速にスローダウンしていく。そのせいで、真昼は、自分の体が徐々に徐々に宙に浮かび始めているということに気が付くことが出来た。思わず、その口から吐き出されかけた「な……!?」という驚愕の声。けれども、その途中で、真昼は、下の歯と上の歯とを噛み合わせて食いしばった。自然と、その声は噛み殺されることになって……それが非常に賢明な判断であったということに、読者の皆さんも同意して頂けるはずだ。なぜなら、そのままその声を続けていたら。真昼は、確実に、舌を噛んでいただろうから。

 獣のダンスみたいにして絡まり合いながら。どちらも肉を食う獣であるところの獣のダンスみたいにして絡まり合いながら。デニーの肉体と真昼の肉体とは、襲い掛かってきた慣性の力、砲弾みたいに突っ込んできたデニーがもたらしたその力のせいで、ばっぽーんっという感じで重力からかけ離れて。そして、二人だけの世界に投げ出されるかのようにして、勢いよく跳ね飛んだ。

 人間は、よく……自由という言葉を使う。けれども、それが本当になんであるのかということを、その真実を考えることは決してしない。人間が使う自由という言葉は、いつだって自由という一つの現象を指しているのではなく。自分がそうしたいと思っているということを、関係知性によって思わされているところの、幾何学的に決定された強制についてのことをいっているに過ぎないのだ。それは、ちょうど……重力に従って落下していくようなものである。動物ではなく人間であろうとすること、それは、端的にいえば「昼間の重力」なのだ。世界の底に、逃れることの出来ないこの世界の底に、焼き尽くされるべき犠牲を縛り付けておくための制度。その制度に対して隷属しようとしているだけ。

 愛が……愛が、いかに誤解されてきたか? 愛は、いつでも終わりだと思われてきた。人間における人間を終わらせる、関係知性による支配を終わらせる、ただ一つの方法だと思われてきた。どれほど多くの人間が、最後の審判の後にただ一つ残るものを愛だと断言してきただろうか? そして、ある人間とある人間と、その二人の間に愛が生まれたその時に。誰かから与えられる救いではなく……ただ単なる解放、全てがタブラ・ラサに戻るその瞬間が訪れると、そう信じ込んできただろうか?

 ああ、馬鹿、低能、そして、どうしようもないほどに愚か。愛は終わりではない、愛は始まりなのだ。それは白痴ではなく、いわんや幸福であるはずもない。それは、「昼間の重力」が始まるところの、暁の明星なのである。生命、生命、生命! 愛がもたらす最高の歓喜の中で、全ての生命が、完全に充足した時に。人間は、重力から解き放たれることが出来るか? いや、出来ない。それどころか重力はその瞬間に生まれる。いい換えれば、まさにその瞬間に、人間から至高が失われるのだ。

 悪魔にはなぜ羽が生えているのか?

 それは、重力から。

 逃れるためである。

 人間が、愛を信仰するのは。それが人間にとって都合がいいものだからだ。それは快楽であり悦楽であり、単純に心地よいものだ。だが、ここではっきりといっておくが、一人ではないという安心感からは何者も生まれない、少なくとも新しい何者かはそこから生まれ得ない。そこから生まれるのは、ただの関係性、いつも通りの世界に過ぎないのだ。いい換えれば、愛でさえ愛ではないということ。愛でさえ絶対の愛ではないということ。そうであるならば、otiumを生みだすのは……自由を生みだすのは。ただ、この世界には愛するに足るものなど一つもないという、完全な孤独の感覚だけなのではあるまいか?

 とある研究室に、一つの箱がある。あちこちが埃にまみれた倉庫の中、一番奥の棚。ずっとずっと昔、誰も覚えていないほど昔からそこに置かれている。どんな研究者からも忘れられた箱だ。そして、その箱の中に……たった一匹、ダニが飼われている。もちろん、ここで飼われているというのは、ただ便宜的な意味でそう書いただけの話であって。そのダニは、普通考えられているようないかなる意味でも飼育されているわけではない。餌を与えられることはないし、それ以外の一切の世話をされていない。何しろ、そのダニについて覚えている者など一人もいないのだから。そのダニは、この世界の、あらゆる他のものから隔絶されていて。何かを摂取することもなく、何かを排泄することもなく、ただ生き続けている……「待機」している。その「待機」は、つまり、愛という感覚が欠如した愛であり、憎しみという感覚が欠如した憎しみであり、信仰という感覚が欠如した信仰であり。もっと適切な言葉を使うとすれば、「絶対的な必然性」である。そして、その「絶対的な必然性」こそが……私達が自由と呼ぶべきものなのだろう。

 関係知性において。

 関係が失われたら。

 あるいは、その肉体を縛っていた重力が。

 細胞の一つ一つに至るまで、失われたら。

 果たして、人間という、生き物は。

 いかなる何者かになるのだろうか。

 それは。

 きっと。

 タブラ・ラサでさえなく。

 例えば。

 その表面の蝋膜を。

 全て洗い流されて。

 ただ単に。

 誰にも。

 届かなかった。

 手紙のような。

 グランマテイオン。

 と、まあ、そういったスッポコポエティックな表現は置いておいてですね。とにもかくにも、デニーによってまさしく体当たりされた真昼は。そのまま後ろに向かって勢いよく吹っ飛ばされて、重力なんかお構いなしといった感じで、暫くフワリティを味わった後で――距離にすると二ダブルキュビトから三ダブルキュビトくらいですかね――いかにも惨めな感じ、受け身を取る余裕さえなく、背中から地面に叩きつけられたのであった。

「真昼ちゃん真昼ちゃん真昼ちゃん真昼ちゃん!」

「な、あんた……ちょっと!」

 地面に激突した衝撃が、肋骨を通じて二つの肺にダイレクトに伝わってきたようであった。ざらざらとした痛みを感じるみたいな、喉の奥から吐き出すみたいな咳をしながら、真昼はデニーに対してなんとか抗議の意思を示そうとする。

 しかしながら、いうまでもなく、真昼の意思などデニーには関係のない話なのであって。真昼の咳も真昼の声もすっかり無視したままで、デニーはその行為を続ける。ちなみにその行為とは、真昼の腰の辺りをぎゅまーっと抱き締めたままで、真昼のお腹の辺りにぐりゃぐりゃと顔を押し付けるという行為であったのだが。それはそれとして、真昼は、次第に次第に、自分がどうなったのかということ、自分がデニーに何をされたのか、何をされているのかということを理解し始めていた。

 まあ、それは別に「理解し始めていた」なんて表現を使うほど大層なものではなく、ただ単に、デニーが飛び掛かってきたせいで押し倒されてしまったというだけの話なのだが。とはいえ、全ての出来事があまりに急に起こってしまったのであったし、それに、いっちゃ悪いが真昼の方もぼーっとしていたので、状況把握に時間がかかったということである。

 一方で、デニーは。さんざんっぱら真昼のお腹に顔をすりすりしたことでようやくのこと満足したのか、ぱふっという感じでその顔を上げた。別にわざわざ書く必要もないと思うが、念のために、二人の位置関係を説明しておくと。真昼は、仰向けの姿勢で地面に横たわってデニーの下敷きになっている。デニーは、真昼に覆いかぶさるみたいにしてその上に乗っかっている。そして、デニーの顔は真昼のお腹の辺りに位置していて、真昼は、そんなデニーのことを睨み付けるために少しばかり頭を上げていて……そんなわけで、デニーが顔を上げると、その視線はちょうど真昼の視線と搗ち合うことになったのだった。

「真昼ちゃーん! 大丈夫? 生きてる? 死んでない?」

「そんなの見れば分かるだろ!」

 と、叫びつつも。真昼は、ぎゅまぎゅまとしがみ付いてくるデニーのことを引き剥がそうとして、両方の手で掴むようにして、その顔を強く強く押しやる。デニーちゃんの可愛らしいほっぺたが、真昼のそのような野蛮な行為によって、むにむにと愛くるしく歪んでしまうが。デニーは、そのような暴力にも屈することなく、真昼から離れようとさえしなかった。ちなみに、こんな状態になってもデニーがかぶっているフードは取れることなく。相変わらず、デニーの顔はその中に包み込まれていた。

 さて、デニーは……真昼の言葉に対して、きょんっという感じの顔をすると。また真昼のお腹に顔を押し当てた。真昼は「このっ……」といいながら、デニーのことをぶん殴りかけるが。ただ、今度のこれは先ほどのそれとはちょっと違っているみたいだった。デニーはぐりゃぐりゃをしたいわけではなく……真昼の肉体に鼻先をくっつけて、その匂いを嗅いでいるらしかった。いや、それは本当に嗅覚による感覚なのだろうか? とにかくデニーは何かを感じ取ったらしく。顔を上げて、言う。

「良かったー、ちゃんと生きてるみたいだね!」

 どうやら真昼の魂魄を。

 確かめていた、らしい。

 デニーは死霊学者であるので、生と死との境界に対して普通よりも神経質になっているのだろう。何せ、死んでいるにも拘わらず生きているような顔をして動き回っている、そんなものばかりを飯の種としてきたのであるから。まあ、真昼ちゃんが生きていようが死んでいようがデニーちゃん的にはそう大した違いはないのであるが……とはいえ、真昼ちゃんの親御さんからすれば、娘が死体であるかそうでないかというのは大きな違いになってくるはずだ。そして、真昼ちゃんは、その親御さんとの取引に使うための道具なのである。

 まあ、それはいいとして。

 とにかく、真昼が生きていることにほっとしたのか。

 デニーは、きゃんきゃんと可愛らしく、喚き続ける。

「んあー、真昼ちゃんってば! こーんなに嬉しそうな顔しちゃって! デニーちゃんと離れ離れーってなっちゃったのがそーんなに寂しかったんだね! もーっ、もーっ、ほんっとーにごめんねーっ! でもね、デニーちゃんは真昼ちゃんのことを思ってマコトちゃんに預けたんだよ? だって、なーんにも準備しないでカリ・ユガのおうちからおそとに出るのは危険だし……それに、マコトちゃんなら真昼ちゃんがおもしろーいって思うようなこと、いーっぱい知ってるからね!

「あっ、そうそう、お電話でも聞いたけどさーあ、マコトちゃんは優しくしてくれた? あははっ! もーっちろん、優しくしてくれたよね! なーんてったって、このデニーちゃんがじっきじきにお願いしたんだから! それに、なんか、マコトちゃんも……なーんとなく、真昼ちゃんのこと、お気に入り!って感じだったしね! マコトちゃんがあんな顔して他の生き物のこと見るの、デニーちゃん、初めて見たよ!

「真昼ちゃん! 真昼ちゃん! いい子にしてた? えんえんしないで、おりこうさんでいられた? デニーちゃんがいないからって、何かいけないことしたりしなかった? そんなことしてないよね、真昼ちゃんはとーってもいい子だし……ああ、真昼ちゃん、そんな顔しないで! 真昼ちゃんがいい子じゃなくても、デニーちゃんは、ちゃーんと助けてあげるからね! 真昼ちゃんのことを苦しめるもの全部から、真昼ちゃんのことを痛くするもの全部から、ちゃーんと助けてあげる! 大丈夫、大丈夫だよ、真昼ちゃん! デニーちゃんは……ああ、真昼ちゃん、勘違いしないで! 真昼ちゃんのことをマコトちゃんに預けたのは、それが真昼ちゃんにとって一番いいことだからなんだよ! ねえ、真昼ちゃん、そんな顔しないで、安心して、デニーちゃんは、真昼ちゃんのこと、嫌いーってなっちゃったわけじゃないよ。」

 いうまでもなく。

 幸福は。

 真昼の、善良さの、報酬として。

 与えられるというわけではない。

 それに。

 また。

 来たるべき最後の審判も。

 真昼の犯してきた罪とは。

 完全に。

 無関係に。

 真昼の全てを。

 真昼の全てを。

 Apokatastasis pantonとして。

 救済。

 する。

 真昼は……ぎりっと、奥の歯を噛んだ。強く強く奥の歯を噛み締めた。自分の体から相手の体を引き剥がそうとして、デニーのことを何度も何度も押しやっている手のひら。その指先から骨髄まで、あたかも恍惚によって痙攣でもしているような、惨たらしいほどの生理的嫌悪感を感じている。まるで何か、とてもとても気持ち悪いものの中に手を突っ込んでいるみたいだ……ああ、そう、蛆虫で満たされた棺桶の中にでも手を突っ込んでいるみたいな気分。

 デニーの頬は。

 ひどく冷たい。

 心などないかのように。

 真昼がどんなに押しても掴んでも、あるいは、固く握り締めた拳を、その顔に向かって全力で叩き込もうとも。上にのしかかっている体を跳ね上げようとして、その小さな小さなデニーちゃんの体を蹴り飛ばそうとも。デニーは、まるで気にすることなく、真昼に抱きついたままでいたのだけれど。真昼の罵詈雑言の、「やめ、この……クソ馬鹿、どけっつってんだろ! やめろ、喚くな、騒ぐな、耳元で叫ぶんじゃねぇよ! がああああっ! 黙れ、黙れって、うるせーんだよ! 指……指を舐めるな! 指を舐めるな! 腹も舐めるな! ちげぇよ、そうじゃなくって……ぐっ……歯ぁ立てんな! 何もするな! 手を、手を放せ! だか……だから、離れろ、離れろ、離れろ!」くらいのところで、ようやくのこと真昼ちゃんぎゅまぎゅまタイムに満足したらしい。ふにーっみたいな顔をして、最後にもう一度だけ真昼に向かって笑いかけると。そのまま、ぱっと真昼の体を解放した。

「あーっ、そうそう!」

 デニーの。

 いかにも。

 呑気な声。

 聞こえる。

 まさに「蹂躙」「凌辱」という言葉でしかいい表わせないような仕打ちを、しかもなんの前触れもなく行為されたところの真昼は。ぜはーっぜはーっ、みたいな、人間らしさの欠片もない荒い息を、ぽっかりと開いたままの口から吐き出しながら。暫くの間、呆然としたように、その場に横たわったままでいたのだが。やがて、息が整い始めるとともに、ようやっと冷静になってきたのだろう。右の腕と左の腕とをどうにかこうにか支えにして、ゆっくりと上半身を起こす。

 一方のデニーは、真昼を手放した時点で既に立ち上がってしまっていた。そして、今は、真昼から少しだけ離れたところ、五十ハーフディギトくらい離れたところに、背中のところで手を組み合わせたポーズで立っている。少しだけ左の方に体を傾けて。左の足を、踵だけ地面につけて、斜め上に向かって爪先をぴんと立てた立ち方。これほど可愛らしいものがこの世界に存在しているのかと思ってしまうくらいにプリティな笑顔を浮かべて、真昼のことを見下ろしている。

 「ぜはーっぜはーっ」も「せはーせはー」くらいになって、とはいえそれでも口を開けっ放しにして呼吸をしている真昼は。その瞳の奥で、堕胎された羊の子供のように、どこまでもどこまでも黒い色をした炎を燃やしながら、デニーのことを睨み付ける。もしも視線がなんらかの凶器であるのならば、デニーは、その凶器によってとっくに刺し貫かれていただろう。さはさりながら、幸いなことに視線とは凶器に分類される何かではなく……デニーは、真昼がどんなに睨み付けようとも、全く平気のピースフルなのである。

 デニーは。

 真昼のこと。

 可愛らしく。

 見つめながら。

 口を開く。

「ねえ、どう? これ!」

 そう言いながらデニーはポーズを変えた。傾けていた体を真っ直ぐに戻して、ぴーんと爪先立ちになって。ぱんぱかぱーんみたいな感じ、両方の手を大きく大きく広げたままで、上の方に向かって掲げてみせる。

 そして、ててーんっという感じで右の足を少しだけ上げた。床の上から二十ハーフディギトくらいだろう。それから、そうして上げた時の勢いを使って、爪先立ちの左足を軸とすることで、くるんと一回転する。

「ぜーんぶ、ここの子達が用意してくれたんだよーっ!」

 つまるところ、デニーが「どう?」と問い掛けたところの「これ」とは、バンケット・ホールの全体に広がっている饗宴の光景であったらしい。「ねー、すごいでしょー! 真昼ちゃんに喜んで貰おーと思ってね、デニーちゃんがね、色々と頼んだの! 美味しいでりかしー、楽しいみゅーじっく、素敵な素敵なぱーてぃー! それでね、それでね、一番すごいのがね……えへへ……ユニコーンの丸焼きに舞龍のお刺身に、無理を言って用意して貰ったの! こんなの、滅多に食べられないんだよーっ! 人間至上主義国じゃ、絶対に食べられないねっ! ナシマホウ界で食べられるところっていったら、アーガミパータと……それに月光国くらいじゃないかな? んー、水鬼角でも食べられるかもしれないけどね。とにかくっ! 真昼ちゃんにびっくりして貰おうって思って、いーっちばんごーかなぱーてぃにして貰ったんだーっ!」。

 そう言いながらデニーは、きゅきゅっという感じで真昼の方に身を屈めて。それから、ひょいっという感じ、上半身だけを起こしていた真昼の腕を捕まえた。自分の右手を伸ばして、真昼の左腕を掴む形だ。両方の腕で体を支えていた真昼は、そんなことをされて、当然ながらバランスを崩しかけて。「何を……!」と言いかけたのだけれど、デニーはお構いなしであった。

 ふわり、と風が吹いたみたいだった……いや、実際に吹いたのかもしれない。デニーは、これまでも、言葉一つ発することなく・図形一つ描くことなく、なんの準備動作もなしに魔法を発動させたことがあった。ということは、そんな素振りを一切見せることなく風の魔法を使うことだって出来ないはずがないわけであって。とにもかくにも、真昼の腕を、デニーが、くくっと引っ張ると。それを手助けするみたいにして、柔らかい風が真昼のことを包み込んだのだ。そして、その風と、それにデニーが引っ張る力と。二つに支えられて、真昼は、とてもとても簡単に立ち上がることが出来たということだ。

 立ち上がった真昼の腕、デニーは、そのまま、ぐいぐいと引っ張っていって。目の前にあった例のテーブル、たった二人っきりでこんな量は食い切れないだろと真昼が思ってしまったほどの料理が並べられているテーブルのところまで連れてくる。ちなみに、先ほどデニーが踏み散らかした料理は……既に新しい物と取り換えられていた。しかも、それだけでなく、どんな魔法を使ったのか知らないが(恐らくテーブルクロスに汚れが付きにくくなる魔法がかけられているのだろう)、テーブルクロスも元通り真っ白になっていた。そして、それらの全てを行ったのは給仕代わりのレーグートである。

 テーブルの前までやってくると。

 デニーは、ぱっと真昼の腕を離して。

 それから、真昼の、肩に。

 馴れ馴れしく腕を回して。

 まるで。

 腐敗した。

 甘い液体。

 耳の中に滴らせるように。

 透き通って。

 可愛らしく。

 こう。

 囁く。

「ほら……見て、真昼ちゃん。」

 コッという音がした。真昼は、その音をどこかで聞いたことがあった気がしたけれど……すぐに、どこで聞いたのかということを思い出した。アヴィアダヴ・コンダにあったASKの支店、あのだだっ広くて真っ白な会議室で。five daughtersと戦闘を繰り広げていたデニーが、魔法を発動させる時に鳴らした音、舌先で弾いて鳴らした音だ。そして、その音がするのと同時に、真昼の目の前で信じられないことが起こった。

 いや、まあ、別に……真昼にとっては、信じられないというほどでもないかもしれない。真昼は、アーガミパータで目覚めてから今の今まで、散々っぱら「信じられない」ことに出会ってきたのであって。ちょっとやそっとのことでは驚かなくなった、目の前で起こっている出来事を、ありのままに信じることが出来るようになっていたのだから。とはいえそれは、普通の人間にとっては、十分に信じられないことであった。

 とにかく。

 奢侈と享楽と放蕩と。

 贅を尽くしたそのテーブルの上で。

 一体、何が起こったのかといえば。

 つまるところ、ありきたりな奇跡だ。真昼と出会ってからのデニーが、何度も何度も起こしているたぐいの、ちょっとした悪戯みたいなもの。そう、奇跡というのは身振りのようなものだ。言葉を教えられることのなかった子供が、誰かと誰かと、何かと何かと、そういった関係性を結ぶ代わりに、肉体と精神とを一つの世界として、その世界の中に、何一つ残ることなく溶け込んでいくという身振り。奇跡は善ではなく、もちろん悪だというわけでもない。それは一つの空虚であって、そして、その空虚の中には、あらゆる意味を喪失したところの世界が、決して贖われることのない罪、つまり「無罪」のゆえに裁かれ続けている。もちろん、それは幸福なことだ、意味を喪失した世界は――誰からも救われることがないという救いは――要するに、生きることも死ぬこともない動物なのだから。

 生きることも死ぬこともない動物。

 つまり。

 それが。

 真昼にとっての。

 三つの奇跡。

 その。

 始まりの。

 一つ目だ。

 デニーが舌を鳴らした音は、とてもとても腐り深く聞こえた。それは目に見えているこの次元で響いているというよりも、もっと、どこか、沈んだところ。黎明の方程式における非常に基底的な部分。定理、あるいは懶惰に汚濁した羊水を、感情というものが存在していないという意味で、これ以上なく冷酷に振盪している。そんな風に聞こえたのだ。

 そして、その音が世界のことを震わせた瞬間に……動き始めた。何が? 何もかもが。テーブルの上で死んでいた動物達。その何もかもが、再び動き出したのだ。丸焼きにされて、未だに生きていた頃の形状を保っているものはもちろんのこと。既にその原型さえも失った、ただの肉片でさえ、そもそもそういう種類の生き物であったとでもいうかのように、何もかもお構いなしにその行動を再開したのだ。

 あたかも、あたかも、このホールに満ち満ちている陽気な音楽につられてしまい、自分が死んでいるということなど忘れてしまったかのように。それぞれの調理された肉体に残存している器官だけしか使うことが出来ないという条件はあるにせよ……思い思いの楽し気なダンスを踊る、踊る、踊る。そのダンスは、カーラナンピアのダンス、全てが形相子として予定されているところの、計画の実現としてのダンスとは異なっていたが。それでも――いや、それだからこそ――この饗宴に相応しい、めちゃくちゃ狂乱大騒ぎといった感じの有様であった。

 全ての羽根を引き抜かれた鳥達は、ひどく縮こまった手羽によって危なっかしくバランスを取りながら、腿より先を切り取られた脚でよたよたとしている。ちなみに、その体から切り取られたところの足指は、別の料理として、皿の中で、音楽に合わせるみたいにして指先を動かしている。あそこで……一列に並んでラインダンスをしている小さい鳥は鶉だろうか。ひどく長い首、くるくると回転しながらテーブルの上から落ちたのは孔雀に違いない。

 首を切り落とされた状態で丸々煮込まれていた亀、ひっくり返って甲羅の部分が下になっていたのだが、それぞれの皿の中でブレイクダンスを踊っている。肉体のゼラチンが全体的に柔らかくなって、回転するたびにふるふると砕けてしまいそうだ。口から尻にかけて串に刺し貫かれて、一つの串につき四匹の蛙。奇妙な一体感を保ちながら前後右左にジャンプしている。それに魚……魚達。まさに陸揚げされた魚として、リズミカルに飛び跳ねている。

 もちろん、一番派手なのは哺乳類だ。その大部分が丸焼きにされて、その姿のままでテーブルの上に乗せられていたのだが。テーブルの上で、あるいはその下で、舞踏なんだか乱闘なんだか分からない状況を呈していた。豚はテーブルの下で転げ回り、腹の中に詰め込まれた様々な焼き野菜を散らかしている。牛と羊と犀と鹿と山羊と、角を残されたままで焼かれた動物達は、その角をぶつけ合って煌びやかな音を鳴らしている。熊と熊とは立ち上がって、二匹が一組になって社交ダンスを踊っている。獅子は、天井を仰ぐようにして大きく大きく吠え声を上げようとして……その喉から大量の香草を吐き出している。

 また。

 いうまでも、なく。

 その皿の上で。

 ユニコーンが。

 立ち上がる。

 しっかりとソースで味付けされた蹄が、ゆっくりゆっくりと、飾り付けられた花々を踏み躙る。今目覚めたばかりだとでもいうようにして(ある意味ではまさに今目覚めたばかりなのだが)、焼け焦げた眼球で辺りを睥睨すると……そのまま、両方の前脚を高く高く掲げて、後脚だけで立ち上がり……あたかも天に向かって嘶いているかのごときポーズをとった。まあ、とはいえ、その口にはマンゴーが詰め込まれていたのだし。それに、そもそも声帯は下拵えされてしまっていたので、何かしらの音が出るということはなかったのだが。

 ぱりん、と皿が割れる音がする。いくら臓物を抜かれているとはいえ、ユニコーンの全体の体重が二つの蹄にだけかけられたのだ。それは当然、皿の一枚や二枚や、割れもするだろう。それから、前脚が振り下ろされた時に。叩きつけるような、その強い強い衝撃に耐えられなかったのか、更に、粉々に砕かれるようなぐじゃりーんという音がする。

 ユニコーンの角、どこまでもどこまでも墜落していくような暗黒の角が、それほどの暗黒であり続けながらも光を放ち始める。その光はひどく鋭利な黒い光だ。まるで聖書の表紙みたいに、聖なる聖なる光が……だんだんと強くなってくる。そこに秘められたセミフォルテアの力が、あたかも一つの夜明けであるかのように、覚醒し始めているのだ。

 そして、その真聖なる光に耐え切れず、そこに飾られた蓮の花が炎を上げ始める。生命そのものが滅び去る時に上げる、引き裂かれた絶叫のような炎。だが、それにも拘わらず、蓮の花は一切傷付いていない。その細胞の一つ一つまで焼き付く様子はなく……恐らく、これこそがユニコーンの角が持つ、生命の力、再生の力なのだろう。

 そうして。

 ユニコーンは。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 片方の前脚で。

 砕け散った皿を。

 引っ掻くように。

 軽く、蹴ると。

 炎に包まれながらも。

 死ぬことのない花を。

 一つの角飾りとして。

 勢いよく。

 駆け出した。

 とはいえ、もちろんデニーちゃんアンド真昼ちゃんの方に向かってランナウトしたわけではない。それに、玉座の方に向かってランナウトしたわけでもない。そういった、楕円における主軸の方向ではなく……短軸の方向。つまり、横に向かってランナウトしたのだ。勢いよく地を蹴って、というか皿を蹴って。この皿もまあここまで執拗な虐待を受けて気の毒なことだが、それはそれとして、ユニコーンは、一っ跳びでテーブルの上から跳び下りた。それから、そのまま、このホールの壁に向かって、真っ直ぐにギャロップする。えーと、上に誰も乗ってなくてもギャロップって呼んでいいのかな? まあいいか。

 そう、つまりそういうことだったのだ。ちょっと前に触れた、楽人達のセクションと楽人達のセクションとの間に開かれた隙間。何かが通っていくための通り道のような隙間は、まさにこのためのものだったのだ。ユニコーンは、その隙間を駆け抜けて。そして、このホールの壁に向かって勢いよく突っ込んでいく。

 ああ、間違いなく激突する! と、思ったその瞬間。けれども、ユニコーンはどこにもぶつかることはなかった。それに、壁も誰からもぶつかられることはなかった。一体何が起こったのか? ユニコーンが突っ込んだのは、壁ではなく……その前に開いていた穴だった。

 穴。壁に開いている穴ではない、時空間そのものに開いているような穴。ひどく薄っぺらい印象を受ける青い光を放っている……ミセス・フィストが短距離テレポートの時に使っていたのと同じ光を放っている。要するに、その穴は、短距離テレポートのポータルだった。

 それでは、そのポータルは果たしてどこに続いているのか? もちろん、この饗宴の外の世界であるはずがない。この饗宴は、先ほども書いたように、研究所の中の忘れ去られた箱。Namelessのままに閉ざされた一つの世界なのだから。それに、それ以前の問題として、ディナーのメインディッシュがバンケット・ホールから逃げ出すなんて話があるわけがないじゃないか! ということで、その出口は、案外近いところにあるに違いない。

 視線を反対側の壁に移してみよう。こちら側の壁に対するあちら側の壁。こちら側の壁には、ユニコーンの丸焼きの数と同じ十ほどのポータルが開いていたのだが。反対側の壁にも、やはり十ほどのポータルが開いていた。そして、こちら側の壁のポータルにユニコーンが飛び込んだその瞬間に……あちら側の壁のポータルから全く同じ姿をしたユニコーンが飛び出してきたのだ。そう、これが短距離テレポートの向かい先だったのである。

 そして、飛び出してきたユニコーンは、よく焼けた・香ばしい・美味しそうな匂い――スパイシー・アンド・ジューシー――を疾風のごとく身に纏いつつ。更に、更に、人間の動体視力などでは追いつくことが出来ないほどの劇的な速度で走り続けて。そして、再び……こちら側の壁のポータルに突っ込んでいく。

 こちら側の壁のポータルに入って。

 あちら側の壁のポータルから出て。

 真昼の目の前を。

 エキサイティングに突っ切っていき。

 そしてまた、こちら側の壁の。

 ポータルに、駆け込んでいく。

 丸焼かれたユニコーン達は、あたかもそういった形式のダンスであるとでもいうかのようにして、その一連のシークエンスを続けている。いや……それはまさにダンスであったのだ。ユニコーン、その生物の最も美しい有様とは一体なんであるか? それは、当然ながら、疾駆する有様だ。そうであるならば、最高の賓客をもてなすための最高の舞踏には、疾駆こそが最適なのではあるまいか? 十馬のユニコーンは、一馬目が右に向かって、二馬目が左に向かって、三馬目が右に向かって……というようにして。互い違いになって、その優美で華麗なダンスを続けている。

 ああ。

 まさに。

 これこそ。

 最後の審判の前日に。

 相応しい光景だろう。

 あらゆる死者が。

 あらゆる死者が。

 あまりに無意味な恍惚の中で蘇って。

 そして、至福のもとに賛美している。

 何を?

 裁く者と裁かれる者が一つになり。

 もはや贖いさえも失われるという。

 来たるべき。

 救済の。

 瞬間を。

「どーお、真昼ちゃん。」

 Potentia disordinata。

 あられもない媚態、を。

 その些喚きに含ませて。

 デニーは。

 こう言う。

「気に入った?」

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