第二部プルガトリオ #43

 尋常ではないほど陽気な音楽が。

 この回廊の先から聞こえてくる。

 真昼はレーグートに導かれて回廊を進んでいた。それは、まるでその回廊自体が一つの花畑であるかのように、しかもアーガミパータ中からあらゆる季節の花畑を切り抜いて、それを継ぎ接いで作られた花畑であるかのように。信じられないくらいの花々の洪水によって彩られた回廊だった。

 いかにもアーガミパータらしいサフラン色の花を中心にして。白の花、黄の花、赤の花、青の花、紫の花。緑色の蔓が、回廊の両側を外の世界と区切っている柱、その一本一本に絡み付いて。そして、そこから雪崩れ落ちるかのように、床の上にまで、大量の花、花、花が咲き乱れているのだ。

 回廊自体は……なかなか大きなものだった。アーガミパータにやってきてからこの場所に至るまでの経験の中で、真昼は、嫌というほどに巨大なものを見てきたので。そういったものと比べてしまうと、「驚くほどに」だとか「信じられないほどに」だとか、そういった形容詞をつける気にはならなかったが。それでも、一般的な回廊と比べればかなり巨大であるということは間違いない。

 幅は十二ダブルキュビトもあるだろうか。それから、高さは大体七.五ダブルキュビト。少なくとも、人を丸呑み出来るほどの巨龍が楽々とその中を通っていけるくらいの広さはある。その両側には、まるでマンティコアが口を開けているかのような彫刻がなされたアーチ構造によって支えられた、何本も何本もの柱が並んでいて。先ほども書いたように、この柱が、回廊と外の世界とを分かつ役割を果たしていた。

 アーチだけではなく、もちろん柱にも彫刻がなされている。カーラプーラの他の場所でも見られたような、あの恐ろしいほど細かいスカルプチャーによって。喜びとともに蛇に飲み込まれる人間の図像が彫り込まれていたのだ。二匹のユニコーンが支える台の上で、蛇が、くねくねと身をくねらせていて。そして、その蛇に、無数の人間が飲み込まれている。そして、その下では、何頭も何頭ものウパカチャーナラが戯れる様が彫り込まれていて……そして、その様は、柱から雪崩れている花々と相まって、まるで花畑の中で踊っているようにも見えた。

 それから、天井に刻まれた彫刻! こちらを見下ろして、今にも炎を吐き出しそうに、大きく口を開いたグラディバーンの姿。それが、柱の一本一本に対応するみたいにして彫刻されている。それだけでなく、天井の一面に刻まれているのはグリュプスの姿だ、あたかも喜びの極みにあるかのように両方の翼を大きく広げて。そして、その姿に、天井の方まで蔓を伸ばした花々が、祝福のようにして寄り添っている。

 そんな回廊で、最も注目するべきなのは……ダルマ・スタンバだろう。あたかも教会建築において身廊と側廊とを分けている列柱であるかのように、レーグートと真昼とが歩いている部分の両側に並べられている。そして、その一本一本が、あの検問所で真昼が見た物よりも、絢爛であり壮麗であったのだ。

 レーグートでさえ見上げなければならないほどの高さの柱。柱頭部分の黒い蛇、四本の首を持つ蛇の姿は、真昼が見たこともないような、禍々しいほどに黒く歪んだ石材によって掘り出されていて。着色するまでもなく、永遠の漆黒であった。そして、その下の胴体の部分は。比喩的な表現でもなんでもなく、ジャーンバヴァ語によって彫り込まれた文字の一つ一つが光り輝いていた。恐らくは、セミフォルテアに近しいような光だろう。

 それから、どうも、一つ一つのダルマ・スタンバに書かれているのはそれぞれが別の条文であるようだった。つまり、他のところでは全てが一本の柱に書かれているダルマが。それぞれの内容ごとに分けて書かれているらしいのだ。もちろん、真昼には、ジャーンバヴァ語が理解出来るわけではなかったので、正確に何が書かれているのかということは理解出来なかったのだが。ただ、なんとなく……そこに書かれていることが分かった。

 推測するに、その条文として刻み込まれているところの真聖な光が、真昼の思考にその輪郭を伝導していたのだろう。その内容は、主に五つの部分に分かれているようだった。つまり「カリ・ユガ龍王領の歴史」「愛欲について」「実利について」「性愛について」「いかにして生命体はカリ・ユガに全てを捧げることが出来るか」、この五つである。一つの部分ごとに四本のダルマ・スタンバが割かれていたので、合計して二十本のダルマ・スタンバが建てられていたということだ。

 と。

 このような回廊を。

 真昼は歩いていた。

 わけですが。

 ここがどこなのかというと、まあそんなこというまでもないだろうが、エーカパーダ宮殿だ。もう少し正確にいえば、あの橋を渡って、門の姿をしたあの形の、ぽっかりとした開口部に入った、そのすぐ先であった。

 外側から見た時には、周囲の夜よりも一層粘ついた闇によって閉ざされていて、内側を一切窺うことが出来なかったその空間は。中に入ってみると……外側から見た時よりも遥かに遥かに広大であった。それは単なる印象というわけではなく、実際に、これほど広い空間は、明らかにあの建築物に内包出来るわけがないというような空間だった。

 どうも、何かしらの神学的なアーキテクチュアによって、空間そのものが捻じ曲げられているらしい。無理やりに押し広げて、いくつかの空間を繋げて。それから、そうして出来上がった空間の全体を、選ばれた者だけが入れるように封印している。そういうことであるようだ。闇によって塞がれているように見えたのは、きっとそのせいだろう。

 空間自体が外のそれとは異質なのだ。だから、人間がそれを見ようとする意思でさえも、その空間を支配する何者かの許しがなければそこに入ることが出来ず……他方で、その内側にいる者は、外にある全てのものを見ることが出来る。

 ということで、真昼は、外の世界を見ることが出来た。自分が入ってきた開口部から、あるいは、壁の代わりにその空間を支えているペリスターシスの、柱と柱との間から。湖は、相変わらず、ちょっと不自然なくらいに凪いでいて。時折、些喚く、さざ波が、エーカパーダ宮殿が放っている白い光を反映している。そして、その向こう側にあるカーラプーラの街並みは……永遠に続く饗宴、真昼のために開かれた饗宴であるかのように、原色の鮮やかな色彩で燃え上がっている。

 饗宴。

 饗宴。

 そういえば。

 この回廊の一番奥の奥、つまり真昼とレーグートとが向かっている場所には一つの扉があった。それは、本当に、信じられないくらいに巨大な扉で。どう考えても人間のために作られたとは思えないほどであった。先ほど書いたように、この回廊は幅が約十二ダブルキュビト、高さが約七.五ダブルキュビトであったのだが。その切断面の全体に広がるような扉である。もちろん、壁の全体が扉であったら、そんな扉は開きにくいことこの上ないのであって、実際は一回りか二回りか小さいのではあったが。それにしても人間にとっては大き過ぎるということに変わりはない。

 こういうところに取り付けられている、こういう種類の扉にいかにもありがちな、両開きのダブルドアであって。ここまでカーラプーラで見てきたあらゆる建築物と同じように、全面的な彫刻によって覆われていた。

 まず、一番特徴的なのは、扉の左右に建てられた彫刻であろう。それは、右に四匹、左に四匹、合わせて八匹のウパチャカーナラであって。右のそれも左のそれも完全に同じ物、完全な対称性によって構造化されていた。四匹のウパチャカーナラは、一匹目の上に二匹目が、二匹目の上に三匹目が、三匹目の上に四匹目が乗ることによって成り立つ柱のような状態になっている。そして、一番下のウパチャカーナラが耳を塞いでいて、二番目のウパチャカーナラが目を塞いでいて、三番目のウパチャカーナラが口を塞いでいて、そして、一番上のウパチャカーナラは、どうも性器を押さえているようだった。

 それから、扉自体に刻まれていたのは。あの、四本の首を持つ蛇の姿だった。その蛇は、あまりにも巨大なその扉よりも、更に巨大な姿として描かれていたために、カンバスの中にその全体が収まってはいなかったのだが。真昼から見て左側の戸板に二本の首が、右側の戸板に二本の首が、それぞれ描かれていた。そして、どうやら、その二本の首と二本の首とは、明確に異なったものとして描かれているようであって。真昼が見た限りだと、左側のそれが暴虐としての姿を、右側のそれが慈悲としての姿を、それぞれ表しているようだった。

 それ以外にも様々な彫刻がなされていたのだが……まあ、それについては置いておこう。それはあまりにも複雑に刻み込まれていたがために、そのいちいちをわざわざ書いていたら紙幅がいくらあっても足りない。しかも、その彫刻は、ここではさして重要な事柄ではないのだ。ここで触れておきたかったのは、つまり、あの音楽が。いかにもパーティめいた、饗宴の音楽が、その扉の向こう側から聞こえていたということだ。

 それは、非常に複雑な拍子を持つ音楽だった。ベースとなる拍子が変化に富んだものであるというだけではなく、様々な装飾音によって彩られているために、解きほぐすことの出来ないタペストリーのような印象を与えるということだ。また、そのテンポもかなり速いものであるため、聞いている者は、そのあまりの騒がしさ・忙しなさのために、目が回るような感覚を、というか、耳が回るような感覚を受けるほどだった。

 一方で、旋律は、それほど複雑というわけではなかった。真昼もよく知っている基本的な七音階によって構成されているようだ。ただ、その七つの音階は、奇妙な法則によって拘束されているような感じだったが。確かに即興で奏でられている音楽であるのだが、その一方で、一つの定められた形式に沿っているようなイメージなのだ。つまり、それは、淀みなく流れる川の流れに似ている。あるいは喜びに満ちた笑い声に。

 さて、最後に和声であるが……その音楽には和声というものが存在していないようだった。音楽を構成している全ての要素が一つの音程によって維持されているということだ。これは、説明を聞いただけだとちょっと単調に思えるかもしれないが。先ほど書いたように、そもそも拍子があまりにも複雑なのだ。これに和声まで加えてしまえば、きっと、ごちゃごちゃし過ぎて聞くに堪えないものになってしまっていただろう。

 さて、そのような種類の音楽が、打楽器・弦楽器・管楽器によって演奏されていた。まず打楽器であるが、アーガミパータにおいて真昼がこれまで何度も何度も聞いてきた打楽器と同じような物だった。まあ、真昼にとってはどんな打楽器も似たような物であるが……要するに、木をくりぬいたベースに、鞣した動物の皮を張ったような、そういうたぐいの打楽器だということだ。また、弦楽器について。真昼が覚えている限りでは、アーガミパータで弦楽器の音楽を聞くのは初めてであったが(実際はカリ・ユガ軍の凱旋パレードで一度聞いている)……どうもその音色は、真昼の知っている弦楽器とは違っているようだった。西洋的なノスフェローティではなく、月光国の細蟹とも違う。一つ一つの音が、長く長く、震えるようにして尾を引くのだ。びよよよよーんというかぐわわわわーんというか、文字にするとなんか馬鹿みたいだが、とにかくそんな感じである。それから、管楽器。いわゆる木管楽器と呼ばれる種類のものだけであった。金管楽器のような音は聞こえてこない。それは、どこか獣の鳴き声じみたところ、歓喜の叫び声じみたところはあったが。とはいえ、大体において、真昼が知っている木管楽器の音であった。

 饗宴。

 饗宴。

 それは、真昼のための饗宴。

 あるいは。

 人間にとっての。

 覆い隠された「開かれ」。

 ここではっきりといっておくが、それは人間的に規定されたところのあらゆる欲望を満たすための饗宴ではないのだ。例えばそれは、招かれた者であり招かれていない者であるところの真昼の、食欲を満たすための饗宴ではない。原初の時間に存在していた何者かが、この空間に向かって一つの救済としての形で流産したところの胎児を、自分の無為を満たすというその目的のゆえにただただ取り込むという、その過程は。この饗宴にとってなんの関係もないことだ。フラミンゴの羽を喉の奥に突っ込んでしまえばその全てを吐き出してしまうような食欲。それは、身に纏っていた衣服を剥ぎ取られた上で、この世界のどこでもない場所に置き去りにされたところの、生まれたことさえもない至福者とは、本来的に関係のないものである。

 また、更に。それは、招かれた者であり招かれていない者であるところの真昼の、性欲を満たすための饗宴でもない。それどころか性欲の充足という神秘さえもこの饗宴とは全く無関係なものなのだ。なぜならそういった諸々は、閉ざされた人間として始まり閉ざされた人間として終わる行為の典型的なものだからである。結局のところ、人間は、性欲に関するなんらかのvirtusによって、この世界を愛さなければいけないという無限の現実性から解放されるわけではない。なぜならvirtusとはvirtualに過ぎないものであって、所詮は絶望とのなんの関係性もないからである。人間が性的な関係性によって得ることが出来るものは、自らの義務を失うことでも、他人の義務を受け取ることでもない。人間的かつ個人的な達成だ。

 つまるところ、要するに……この饗宴の定義は以下のようなものだ、「恍惚の中で貪る」ということ。それは一般的に渇望と呼ばれるのかもしれないが、ただ、とはいえ、正確を期していうのであれば、それは「渇き」ではあるが「望み」ではない。なぜなら、その饗宴に列席している者は、それを望みうるほどにそれについて知っているわけではないからである。それどころか、その者は、それについて何一つ知っているというわけではない。知るということさえ出来ないのだ、なぜなら、その者はどうすれば知るということが出来るのかを完全に忘却してしまっているからである。

 もちろん、そういった生き物がこの世界で生きていくことは困難だ。というかそもそも不可能である。そういうわけで、普通であれば、そういう生き物は「生きる」ということを剥奪された状態で生きている。それは時間もなく空間もなく、世界すら存在しないという状態の中で待機しているということであり。そういう生き物を救うことが出来るのは、一般的には奇跡と呼ばれている偶然だけだ。偶然、そう、ダニエルに降り注いだ雨のような偶然だけが、犯したことのない罪を贖うことが出来る。

 昏睡の中で震撼するということ。

 切除された脳で歌うということ。

 あるいは。

 ただ単純に。

 選ばれるということ。

 それが。

 この饗宴の。

 本質である。

 とはいえ、ここで重要な事実に思い当たる。この饗宴は……間違いなく、本当に間違いなく、真昼のためのそれであるというのに。それにも拘わらず、この扉が閉ざされているということだ。二枚の戸板、慈悲と暴虐とのそれは、文字通りの意味でのエネルゲイアとして閉ざされていて。一つの爆発、形象と色彩との圧倒的なフィロティラニーアは、真昼にとっての一時的な切断、チェズーラであるかのようにそこに立ち塞がっている。

 そう……それは、もちろん覆い隠されている。というか、閉ざされていなければいけないのだ。なぜなら、真昼は、未だに人間であるからだ。確かに、その饗宴は、人間に対して開かれている。人間は、その饗宴の中に(あるいはその饗宴の一部であるところの漏れ聞こえてくる音楽の中に)いることが出来る。けれども、一方で、その饗宴は人間から決定的に隠蔽されている。人間は、開かれているはずのそれに近付くことが出来ない。

 真昼が、人間であることによってそれに「参与」することが出来ないというのならば。それに「参与」するためには一体どうすればいいのか? 簡単なことだ。ただ単に、人間であることを放棄すればいいだけである。真昼は、世界の底へと沈んでいったサンダルキアのように、人間から墜落しなければいけない。いうまでもなく、それは……真昼が、自分の意志によって、自分の意志などが存在しないということを認めるということだ。

 それでは……それでは。

 真昼は、今。

 いかにして人間であり続けているのか?

 それは、もちろん、重力に、よって。

 その腕に抱いた人間の残余によって。

〈砂流原様?〉

 不意に! あと少しで、この空間の一番奥、あの扉に到達するというところで。レーグートが、体の全体でくるりと振り返って、真昼に向かって声を掛けてきた。レーグートが振り返る時に、その足の代わりごとをしている例の多脚のパーソナル・トランスポンダーが。まるで柔らかい風によって引き起こされたさざ波のように、レーグートの体が右側に回転する動作を一斉に指示したので……真昼は、その出来事に対して、一種の約束のようなものを感じた。約束されたこと、約束されていて、果たされたこと。

「なんですか。」

〈マラー様は……〉

 そう言いかけながらレーグートは、四本ある腕のうちの右上の腕を体の前に上げた。そして、三本の指のうちの左側の指、自分の体の側の指によって、マラーのことを指し示す。

〈お休みされているようですね。〉

「はい。」

 それから、レーグートは、いかにも気遣わしげな感じ、マラーのためを思っているようなやり方で首を傾げると。指差していた指を、あるいは右上の腕を下ろして、こう続ける。

〈この扉の向こう側で、ミスター・フーツが砂流原様のことをお待ちしていらっしゃるのですが。なんと申し上げればよろしいのか、ミスター・フーツはただお待ちしていらっしゃるわけではなく、ミス・砂流原のご夕食とご一緒にお待ちしていらっしゃいます。そして、そのご夕食が……少々、絢爛豪華なものでございまして。ここからでもお聞きになることが出来るとは思いますが、この扉の向こう側は、ここから聞こえる絢爛豪華さよりもずっとずっと絢爛豪華な場所となっているわけでございます。

〈ですから、マラー様を向こう側にお連れになるのは、少々、ほんの少々、よろしくないことかと存じます。マラー様は、わたくしが拝見いたしましたところでは、随分と安らかにお休みのようですし。このままお休みになっていた方が、マラー様のためにはよろしいでしょう。けれども、この扉の向こう側にお連れしてしまっては、あまりの華々しさ・あまりの賑々しさに、お目覚めになってしまうこともあり得るでしょう。

〈そのようなわけでして……ここで、わたくしからご提案がございます。マラー様のことを、わたくしがお預かりするというのはいかがでございましょうか? ミスター・フーツと砂流原様と、そしてもちろんマラー様とに、本日お泊り頂きますお部屋は、既にご用意させて頂いております。わたくしがマラー様のことをお預かりして、そちらのお部屋までお運びさせて頂くことも出来るということですが……いかがでしょうか?〉

 ここで、注意しなければいけないことが一つある。

 レーグートの行動は。

 レーグートが感知することが出来る全ての生命体の。

 精神状態の総和によって成り立っているということ。

 つまり、レーグートが口にするあらゆる質問は、予め答えが決まっているということだ。それは質問によって答えを導き出すたぐいの何かではなく、答えによって質問を決定するたぐいの何か。だから、レーグートの問い掛けはいつも白々しく聞こえる。

 無論、今回のこの質問も、その答えを口にすることを望む者のために差し出されたところの一つの黒鉄の短剣に過ぎない。鉄は、黄金でも白銀でもなく、また赤と青とそのどちらの銅でもない。それは、端的に「全ての終わり」を指し示す物質である。もちろん、この短剣の比喩はただの比喩に過ぎないのであって。実際は、レーグートは短剣など持ってはいなかったのであるが。それでも、その言葉が、真昼にとっての一つの終わりを意味する言葉であることは間違いがない。

 なぜなら、真昼は……レーグートのその問い掛けを聞いて。ふっと、目覚まし時計が鳴ったような、巨大な手みたいなものに掴まれて夢から引き摺り出されたような、そんな感覚を覚えたからである。そして、それと同時に、ようやくのこと気が付いた。まだ、真昼の中でそれが死んでいないということに。真昼という人間の、まさに人間性とも呼べるべきものが、未だに、真昼のあらゆる行為の中で賭されているということに。そう、真昼は死んでいない。少なくとも完全には。

 いわば、真昼は、決して朝の来ない夜の中で、あらゆる感覚を完全に切除された上で、ただ待機しているのである。その時が来るのを、その時が来るということも、その時がなんであるのかも、知らないままで。待っているという感覚さえなく待機しているのである。それでは真昼は何を待っているのか? 真昼が、あたかも人間であるままで救われようとして、かえって非人間的になってしまっているその行為の中で、本質的に待ち焦がれているものはなんなのか? そんなこと、決まっているではないか。あらゆる人間が死の間際に求めるもの。それは救世主の音楽である。

 繰り返すがそれは性行為の神秘ではない。素裸になって性を交し合ったところで、人間には結局のところ皮膚があるのだから。性行為は神秘と意味とを喪失した光の下の世界ではない。それは静物画として描かれることもない。例え象徴としても、それは、ただの関係性でしかないのだ。関係性とは余剰でしかなく、余剰とは絶対からかけ離れた概念である。唯一この世界において可能な、絶対的な関係性とは。まさに、今、真昼の目の前において閉ざされているところの「開かれ」であって……それは、ただ一人で世界の中に立ち、そして皮膚を脱ぎ捨てることで成立する。

 皮膚を剥がれ。

 剥製になった。

 一人の人間。

 真昼、は。

 こう言う。

「マラーを?」

〈ええ、ええ。〉

「預ける?」

〈その通りでございます、その通りでございます。〉

 真昼は……というか、真昼の中の人間の部分は、その提案に対してどのように答えればいいのか分からなかった。マラーと出会ってから、今この時まで。マラーがASKによって囚われの身になっていた期間を除き、真昼は、ずっとずっとマラーと一緒にいた。それは、あたかも、真昼の肉体とマラーの肉体とが接合してしまったかのように。

 それどころか、マラーが、真昼にとっての二つ目の心臓であるかのように。マラーのことを抱き締めていないということ……自らの肌がマラーの肌と触れ合っていないということそれ自体に不安を抱くほどになっていたのだ。

 そんなマラーを、誰か他の人間に預ける? いや、まあ、正確にいえば人間ではなくレーグートなのだが、それはここでは重要な違いではない。一体、一体、この世界のどこに、自分の心臓を他人に預ける者がいるというのか。

 いや、それ以前の話として。

 今の真昼にとってのマラー。

 どのような。

 意味を。

 持つのか?

 それは、真昼には……全く分からないことであった。マラーは、未だに、真昼にとっての愛の象徴であった。マラーは、未だに、真昼にとっての罪の象徴であった。そこまではいい、そこまでは真昼も知っている。問題なのは、愛とは何か・罪とは何か、それが真昼には分からないということだ。真昼にとって、マラーは、既に執着の対象でも嫌悪の対象でもなくなっていた。ただただ暖かく・柔らかく・重みのある、一つの物体であった。

 そして……ほとんど義務的といってもいいようなセンシュアリティーとメランコリーと、ただそれだけが真昼に残されているのだった。その中で、真昼の人間性は、確かに生き残されているのであるが。それは結局のところ、不治の病によって侵された人間性であるというに過ぎない。人間を人間であるように維持する機械によって維持されている人間性。アモルフへと溶解していくアモーレ。とはいえ、やはり、性行為にも似たその怠惰は、より優れた者に与えられるところの栄光の一形式に過ぎないのであって。より凡庸な者を・より孤独な者を・より無意味な者を、あるいは、もっとはっきりといってしまえば、人間性そのものを人間性そのものとして、救える可能性を完全に欠如している。

 そのような、少なくとも「自分の力によってその罪を犯す」「自分の力によってそれを愛する」という傲慢を手放してはいるのであるが、それでも「自分は人間である」という概念それ自体を手放すことは出来ていないような状況下で。真昼は……いかにして、自分の心臓と向き合うべきであるか?

 もちろん……もちろん、マラーは眠っている。これ以上ないというくらいの安寧の中で、疑うことのない夢を見ている。その眠りを覚まし、その夢を壊してしまうことは、マラーの望むことか? 絶対に違う、そんなわけがない。マラーは、眠っていたいはずだ。これまでに出会った、全ての残酷。これまでに出会った、全ての苦痛。それらから逃れてただただ眠っていられるということ、それ以上に幸福なことはないからだ。

 それならば、全てはレーグートの言う通りではないだろうか。ここから先に連れていくことは、マラーのためにはならないのではないだろうか。理由、理由、ここには理由がある。ここには、一つの腐敗した傷口としての理由がある。それならば、それに逆らう理由がどこにある? 自分の心臓をその傷口から取り出してはいけないという理由がどこにある?

 特に。

 真昼が、人間性の死を。

 望んでいるの、ならば。

「ええ、そうですね。」

 真昼は、自分の口から出てきた声に驚いた。

 その声が、あまりにも乾き切っていたから。

 沙漠の真ん中に落ちている。

 頭蓋骨のような声で。

 真昼は、こう続ける。

「それじゃあ、マラーを……部屋まで連れて行ってあげて下さい。」

〈かしこまりました、かしこまりました。〉

 膿が滴る傷口に手を突っ込んだ時の、その痛みに耐えるかのように。ほんの一瞬だけ、その言葉を言葉することに躊躇ってから。真昼はあっさりとそう言った。そして、それに答えたレーグートは……右の腕、二本とも挙げて、何かの合図をした。

 もちろんレーグートとレーグートとのコミュニケーションには合図など必要ないので、恐らくは、それがいきなり起こることによって真昼が驚いてしまわないようにしただけだろう。それとは、つまり、真昼とレーグートとが立ち止まっている場所に一番近いダルマ・スタンバ、その陰から、もう一人のレーグートが現れたということだ。

 そのレーグートは、かたかたかたかたと、多脚による規則正しい音を立てながら。真昼のすぐ隣にまで近付いてきて、〈それではマラー様のことをお預かりいたします〉と言うと……真昼に向かって、ぐうっと屈み込んできた。それから、四本の腕を、横並びにして差し出す。それは奇妙に切断された一つのベッドのような形にして差し出されたのであって、どうやらその上にマラーを乗せろということらしかった。

 真昼は……差し出された鉄のナイフによって動脈と静脈とを切断するかのように。ふっと、マラーのことを見下ろした。自分の腕の中で眠っているマラーは……今、改めてそれを感じたのであったが、信じられないくらい軽かった。こんなに頼りない生き物を、手放してしまってもいいのか? ああ、それでも、マラーは。結局のところ、真昼の心臓ではないのだ。マラーはマラーであって、要するに何がいいたいのかといえば、真昼とマラーとは皮膚によって隔てられている。

 真昼は。

 あたかも。

 何かを。

 捧げるかのように。

 レーグートの腕の上。

 マラーの華奢な体を。

 そっと、横たえた。

 真昼によって手放されたマラーは、ほんの少しだけ手足を動かして、子猫が喉を鳴らすような声を上げたのだけれど、それきり、また、静かに眠ることを続け始めた、一方で、預けられた方のレーグートは……とてもとても繊細な手つき、まるで何かの寄生生物が臓器に纏わりつく時のような繊細さによって、マラーの体、その腕で包み込んだ。それから、たった一言〈確かにお預かりしました〉とだけ告げると。いともあっさりと真昼に背を向けて、その陰からその姿を現したところのあのダルマ・スタンバの陰へと戻っていって。そして、まるで何もかもが真昼の気のせいだったとでもいうようにして、するりと消えてしまった。

〈さて、それでは。〉

 その声に。

 真昼は。

 一瞬、だけ。

 眩暈がする。

 その声を発したのは、真昼のことを導いていたレーグートだったのだけれど。このレーグートの声はあのレーグートの声と全く同じものであって。そして、更にそれだけではなく、このレーグートはあのレーグートと同じ内面を持つレーグートなのだ。ただ、外面的に異なっているだけで、全てのレーグートはネットワークを共有しているのであって。だから、真昼は、マラーを連れていってしまったところのレーグートが、またもや、唐突に、目の前に姿を現したかのように思えたのであって。それなのに、それなのに、その腕の中にはマラーがいない。

〈バンケットホールにご案内いたします。〉

 また。

 体の向きを。

 進行方向に。

 戻して。

 そちらへと。

 進み始める。

 体が……軽かった。なんだか、とても、とても、体が軽いような気がした。かなり長い間、マラーの体をお姫様抱っこしていたことは。思ったよりも真昼の体に負担をかけていたらしい。それもそうだろう。例の魔学式によって体を強化されていなかったら、いくら栄養失調気味であるところの幼子であっても、たかが女子高校生でしかない、しかも肉体を鍛えたことなど一度もない真昼がお姫様抱っこなど出来るわけがないのだ。

 ただ、この軽やかさ、空っぽなまでの軽やかさは、そういったフィジカルな感覚だけが原因であるわけではないようだ。むしろ、それは原因のほんの一部に過ぎない、もっと根源的でもっと根本的な理由は……もちろん、重力についてだ。厳密にいえば、今の真昼は、マラーを手放したわけではない。重力を手放したのだ。真昼は、赤い悪夢によって濡れた隷遇の徒に対して、自らの重力を明け渡した。そして、別のものを手に入れた。

 別のものとは何か? はっきりと、具体的にいえるようなものではない。それは比喩的な表現でしか定義出来ない。それは、例えば飢餓に似ているもの。それは、例えば疫病に似ているもの。それは、明晰さの欠如・意志の欠如・努力の欠如に限りなく似ているもの。人間によって、「悪」として定義付けられるものに、限りなく似ているもの……けれども、驚くべきことに、それは罪ではない。なぜなら真昼の責任ではないからだ。

 真空の準備段階としての悪徳。

 あるいは饗宴に参与する権利。

 それが。

 真昼の。

 手に入れたもの。

 「開かれ」、確かに開かれている。あの扉には鍵がかけられていない。人間はその全てを感覚し、しかも、その上で、その全ての中で生きている。人間にとって、それは、まさに目の前にあるのだ。だが、一方で、それは人間に対して露顕していない。鍵のかけられていない扉によって阻まれているようなものだ。あるいは……目がないから見ることが出来ず、耳がないから聞くことが出来ないようなもの。

 つまり、人間性は魅了されてしまっている。captivate……いや、enchantされているのだ。それゆえに人間は、その全生命を懸けて、自分自身の内側に向かって墜落していくほかない。重力にその身を任せて、永遠の上昇を続けるしかない。なぜそんなことをするというのか? 上には何もないのに。人間の肉体はこの世界の全存在ではなく、人間の思考はこの世界の全概念ではない。従って、栄光の天体に向かって墜落していくということは、重力による単純な物理法則に過ぎないのだ。

 だからこそ……饗宴の席は、人間ではないものにしか割り当てられていない。フォークも、ナイフも、それどころか高度な把持性さえ使うことがなく。ただただ貪るように、テーブルの上にあるものを享受する者にしか招待状は与えられない。ああ、そう、真昼は軽さを感じている……皮膚を脱ぎ捨てたという、取り返しのつかない事実を感じている……あるいは、自分の目の前で、その扉が開くのを見ている。

 そう。

 その扉が。

 開くのを。

 レーグートと真昼とは、その扉の前に立っていた。レーグートが、奇妙なまでにわざとらしい、いかにもレーグートらしいあの態度によって、四本ある腕の全てを、上に向かって掲げるみたいにして大きく開いて。そして、レーグートもこんな大きな声を出すことが出来るのかと驚いてしまうようなアナウンスメントによって〈砂流原真昼様のご到着でございます!〉と告げた。

 すると、その扉が。普通の人間にはとても開けないだろうと思わせるほど巨大な、その扉が。その重さのあまりに蝶番が軋んでいるような、ぎぎい、という音を立てながら開き始めたのだ。二枚の戸板、こちら側の空間を押し潰そうとしているかのように、いかにも重々しく外開きに開いて。その扉が開けば開くほどに、真昼の耳に聞こえているあの音楽が大きくなっていく。

 ああ。

 かくして。

 真昼の、感覚に。

 その饗宴の姿が。

 露わにされる。

 人間のものではない饗宴。

 人間には。

 近付くことさえ。

 許されない饗宴。

 さて。

 それでは。

 それは。

 一体。

 何者のために。

 開かれたのか。

 問うまでもないだろう。

 至極当たり前のことだ。

 それは。

 つまり。

 動物のための饗宴。


 その瞬間に真昼の目に入ってきたのはデナム・フーツの姿だけであった。他のものは、何一つ見えていなかった。それどころか、真昼の肉体が感じているあらゆる感覚が、デナム・フーツのことだけを感じていた。その空間の中に、その時間の中に、充満し氾濫しているその他の全てのものは。真昼にとって、その瞬間だけ、存在さえも概念さえも消失してしまっていた。そして、デナム・フーツだけが真昼の世界にいた。

 扉の向こう側。

 饗宴の、場所。

 その場所は……だが、その場所のことをなんと表現すればいいのだろうか? 一つの言葉で表わすとすれば、それは発狂だ。二つの言葉で表わすとすれば、爆発する発狂だ。

 なんにせよ、まずは空間的な広大さから見ていくことにしよう。それは確かに広大だった。先ほどの回廊も、外から見たあの建築物には収まり切らないような大きさであったが。開かれた扉の向こう側、この、レーグートの言葉を借りるならばバンケット・ホールは。そういうのを遥かに超えて、なんだか悪質な冗談であるかのように思えるほどだった。基本的な形状は半球形であり、いわゆるドーム状と呼ぶのが最も相応しいだろう。そして、その直径が、既に二百ダブルキュビト近くもあるのだ。高さは四十ダブルキュビトを軽く超えており、ひょっとしたら五十ダブルキュビトに達するかもしれない。明らかに、デニーと真昼との二人だけで「ご夕食」を頂くには広過ぎる。

 ということで、いうまでもなく、そのホールで真昼のことを待っていたのはデニーだけではなかった。他にも数え切れないほどの生き物が――あるいは生きていないものが――あたかも絶叫のような猥雑さで、その空間に詰め込まれていたのだ。

 それは。

 もはや罪が存在しないがゆえに。

 律法について気にすることなく。

 ただただ、己の外側にあるものを貪る。

 人間に。

 非ざる。

 者の。

 ための。

 沸騰する。

 躍動する。

 渦巻する。

 白痴。

 まず、これは、絶対に理解しておかなければいけないことなのだが。真昼がその場所に足を踏み入れる前には、そこには人間は一人もいなかった。ホモ・サピエンスという種に属する生命体は、真昼以外には、そこには存在していなかった。そこにいたのは、生きている動物か、死んでいる動物か……あるいは、人間ではない人間だけだったのだ。

 もちろん、人間ではない人間とはカーラナンピアのことである。カーラナンピアとは何か? それは至福である。至福……さて、それは二つの方法によって説明出来るだろう。人間によって恣意的に決定された全てのミステリウムが、より高きところにいる何者かによって、否定されも肯定されもせず、ただ単に無意味なものとして去勢されたところの、一つの像を結ばない星座であった時に。人間性と動物性という境界線が、もはや意味あるものとして存在していない、その状況こそが至福である。あるいは、より単純に……ホロコースト。その全てが火によって焼き尽くされたところの、燔祭の犠牲。主の哀れみによって、もはや苦しみも、もはや痛みも、感じることがなくなったところの、これから先、永遠に救われることのない被造物。それが至福である。

 だから、カーラナンピアは人間ではなく……蛇の姿をしたtheriomorphousなのだ。蛇の鱗を持ち、蛇の感覚器官を持ち、老人であるわけでも子供であるわけでもなく、もちろんそれ以外のいかなる年齢にも見えない。人間にとって一番重要なもの、つまり表情は、その顔から完全に欠如していて。もはや自分自身と分かり合うこと、関係性と和解することさえも必要ない。それは、人間性がどろどろと溶けていき、その存在の内側から流れ去ってしまったというわけではなく……ただ、この世界の全てに対して罪を犯していないというだけの話なのだ。

 だから、だから、ああ、カーラナンピアは……饗宴においてどれほど重要な役割を果たしていることか! 彼らは、彼女らは、いや、「それら」は。来るべき最後の審判の前日であるところのこの生態系において、救世主の音楽を奏でる楽人の役割を果たしているのだ。一人一人のカーラナンピアが一つ一つのorganであり、それゆえに、その全体が一匹の巨大な怪物であるかのようにさえ見えるほどの必然性。

 その数は、百人? 千人? いや、一万人近くはいるだろう。それぞれがそれぞれの楽器を手にしているか、あるいは、ほとんど目を焼く光輝であるかのような装飾品で全身を飾り立てた上で、繰り返し繰り返し、ある一つの数式(人間には明かされることのない数式)を証明しているかのような踊りを踊っている。そして全てのカーラナンピアがそのカーラナンピアがいるべきまさにその場所にいるのだ。

 楽器は……外から聞いた通り、打楽器と弦楽器と管楽器とから成り立っていたのだが。それらの楽器は、さらに細かく、様々な種類の物が使用されていた。

 まず打楽器であるが、これは更に三つの種類の物が使われていた。まず一つ目が真昼も見たことがあるカンジールだ。タンバリンのような形をしている、あのフレームドラム。この楽器を見たのは、デニーと初めて出会った時のことであって……ああ、真昼は、あれからどれほど遠いところにやってきてしまったことだろうか。あるいは、あの時から、どれほど変わり果ててしまっただろうか。それから、ムリダンガムによく似ている両面太鼓も使われていた。けれどもこれは、正確にはパクサヴァーデャと呼ばれる楽器である。ムリダンガムよりもかなり大きい物で、それゆえに、この楽器を使っているカーラナンピアは立って楽器を使用するのではなく座ったままでなければいけないほどだ。また、ムリダンガムとは違い、右側の面と左側の面との大きさが異なっていて、どちらの面を叩くかによって出る音が違ってくるように調整されている。そして、最後の一つはタヴィルと呼ばれている楽器である。基本的にはパクサヴァーデャと同じような、右の鼓面と左の鼓面とが異なった大きさの両面太鼓であるが、パクサヴァーデャよりも随分と小さい。それに、なんだかごてごてと飾り付けられている。この楽器は立ったままで使われているのだが……色鮮やかなひらひらとした布が巻かれていて、この楽器が打ち鳴らされるごとに、それが夢のように揺らめくのだ。また、ほかの二つの打楽器とは違い、この打楽器に関しては、手ではなく撥によって打たれていた。

 次は弦楽器についてであるが、これも三種類に分かれている。最も中心的な役割を果たしているのがカーラ・ヴィーナーと呼ばれている楽器で、アーガミパータで最もポピュラーな弦楽器であるヴィーナーの一種である。これはパクサヴァーデャと同じくらい大きなもので、ということで、やはり座ったまま演奏するタイプのものなのだが、基本的には二つの共鳴胴によって支えられた琴のような形をしている。左右の共鳴胴の大きさは正確に同じであり、その形は、あたかも蛇の卵のように、少しだけ上下に引き伸ばされた長球。そして、琴には八本の主弦と二十四本の共鳴弦が張られていて、それらの弦を三十二の柱が支えているといった感じだ。そして、もう一種類がカーランギーと呼ばれているもの。これはノスフェローティのように、弓で弦を鳴らすことによって音を出す楽器であり、とはいえノスフェローティとは随分違った形をしている。まず、その大きさは半分しかない。また、胴の部分は真ん中がひしゃげた長方形みたいであり、そこから突き出ている棹の部分は胴と同じくらいの太さがある。また、弓の数は一本、主弦の数は四本、共鳴弦の数は三十二本。その音色は……あたかも人間の、いや、カーラナンピアの声のように聞こえるといわれており、そのため、声楽の伴奏によく使われる。最後の一種類はスワーマンダルと呼ばれている楽器で、これは他の二種類とは違ってアーガミパータ中、龍王領以外の場所でもよく使われている。基本的にはパンピュリア共和国で使われているキタラーに似た楽器であり、ただしその形は真ん中のところで斜めに切った長方形、つまり直角台形である。その台形に一つの穴が開いており、サウンドボックスの役割を果たしているということだ。スワーマンダルの弦の数は一定していないのだが、ここで使用されている物については、主弦の数が四本、共鳴弦の数が三十二本であるようだ。この楽器は音楽において調性を確立するためのドローンの役割を果たしている。

 そして、管楽器について。やはり三種類の楽器に分かれていて、最初の一つがシャハナーイーだ。基本的な形状は縦笛、本体に差し込まれているリードの数は二枚、つまりダブルリードの楽器であり、もう一方の端、ベルは、花のように開くフレアードタイプだ。音孔は全部で八つ開いており、猫が上げる悲鳴のような、喉の奥で引き裂かれた金属音のような、そんな感じの音がする。二種類目がアッスィリと呼ばれている物で、こちらは横笛だ。何かの骨を削り出して作られているらしい質感で、八つの穴が開いている。こちらはいかにも笛らしい音で、ただ、なんとなく空虚な感じ、荒野を吹き抜ける風のようなところも感じられた。さて、最後の一つがアヒムカーと呼ばれている楽器である。これは真昼が今まで見たこともないような楽器であった。なんと表現すべきか、蛇の下顎のところから喉にかけての部分を切り取ってきたかのような形をしていて……というか、まさに蛇の下顎のところから喉にかけての部分を切り取ってきたものであった。正確にいうと蛇ではなく舞龍のものであるが、その部分を特殊な方法によって腐敗しないように加工した物だ。この楽器の長さは一つに決まっているわけではなく、様々な種類の物があり、そういった長さによって周波数の高低が決定する。だから、ここにいるカーラナンピア達も、長い物から短い物まで色々なアヒムカーを持っていた。その音は……舞龍が発するあの噴気音を、透き通った氷で出来たフルートの絶叫と混ぜ合わせたような音をしている。なんとなく掠れたところのある冷酷な笛の音楽であった。

 そんな楽人達が。

 あたかも。

 原罪の前の日々のように。

 精神の完全な静止の中で。

 真昼のための音楽。

 これから裁かれる、真昼のための。

 最後の裁きを受ける真昼のための。

 救世主の音楽を奏でている。

 まず、カーラ・ヴィーナーを爪弾く楽人とパクサヴァーデャを掌打つ楽人と。それから、シャハナーイーを口吹く楽人とアッスィリを口吹く楽人と。これらの四人の楽人達がセットになって、ホールの右側と左側とに、なんらかの見えざる手によって並べられた自動機械のように並べられている。その列は四列に並んでいるのだが、その列で数えて十セットごとに、何かの通り道を作っているかのようにして数ダブルキュビトの隙間が開いている。ちなみに、ここを何が通っていくのかということは……もう少し後で触れることになるだろう。

 また、カンジールとタヴィルとを演奏している楽人達。それらの楽人達は踊り子の周りを経巡るようにして歩いていた。それらの楽人達は、踊っているというわけではないのだが……例えるならば、あたかもパレードの行進において凱歌の伴奏を担っているかのように、奇妙な規則正しさによって右回りに円を描いていた。一方で、カーランギーの楽人達はというと。そういった、踊り子を中心とした集団と集団との間、あたかもなんの意味も持たないconnect the dots、その点と点との配置であるかのようにして、そこら中に配置されていた。

 更に、スワーマンダルの楽人達であるが。最初に触れた四人の楽人達のセット、それが四列ごとに並べられた、その四列ごとに一人配置されていて。あたかも、そのセットを音楽的に先導しているかのように見えた。そして、最後に、アヒムカーの楽人達……この楽人達は宙に浮いていた。これは別に比喩でもなんでもない。それらの楽人達は、恐らくなんらかの魔学的な力によって空中に静止している、赤い円盤の上。一ダブルキュビトほどの円盤一枚につき一人が立って、やはり右側と左側とに、とはいえ隙間を開けることなく並んでいた。

 これが。

 楽人達に。

 ついてだ。

 さて、そのホールにいたカーラナンピアは、楽人達だけであったわけではない。先ほども少し触れたことなのだが、踊り子達もいた。そういった踊り子達はといえば……普通のカーラナンピアよりも、更に奇形の姿をしていた。それは、なんといえばいいのだろうか、一層のこと人間らしさが失われてしまい、蛇としての側面が強く強く表われていたということだ。

 まず、その全身が、あたかも脊椎以外のあらゆる骨を失ってしまったかのように、極めてぐねぐねとした軟性を示していた。人間ならば、猫背だとか傴僂だとかはあるだろうが、とはいえ、それなりに、肉体における縦のラインが安定しているものだが。踊り子達にはそういうことが一切なかった。中心線が常に揺らいでいて、異様な曲線を描くかのように歪んでいたのだ。

 また、その手足についても触れておかなければいけないだろう。明らかに人間のものよりも長過ぎた。二倍といってはいい過ぎであるが、少なくとも一.五倍の長さがある。また、手のひらは、ある種の扇のようにして大きく。その指先は、一本一本が、まるで別の生き物であるかのように動いている。長さが長いだけではなく、関節があり得ないような角度で曲がるのだ。

 これは、踊り子として特別に調整されたカーラナンピアであって。いわば見世物として作られた生き物である。アナンタの霊族が支配する領域以外で、こういった生き物による舞踏を見ることは出来ないのであって。その物珍しさゆえに、特に人間至上主義諸国から来たような賓客からは非常に評判がいい。

 そんな肉体が身に着けているところの楽人達の服装であるが……以前にも少し触れたことであるが、カーラナンピアは無性である。ということで、その踊り子達が身に着けている服装も、男とも女とも分からないものであった。それはサーティに似ているのだが、けれども、その巻き付け方は、アーガミパータの女性が巻き付けるその方法とは全く異なっていた。それを身に着けたカーラナンピアが踊る時の、戯れるようなひらめき方は……どことなく戦場に飛散する鮮血のようなイメージを起こさせるものだったのだ。

 とはいえ、サーティの色は赤だけでなく、青・黄・緑、紫色に橙色に青緑に、様々な色であったのだが。そういったサーティには、例外なく金糸でなんらかの模様が織り込まれていて。そういった模様は、ミセス・フィストが身に着けていたサーティのものとは違って魔学式ではなかった。あたかも蛇の鱗のようなパターンが繰り返し表わされていたのだ。

 また、カーラナンピアが身に着けているものはサーティだけではなかった。いや、それは……身に着けているのではなかった。その頭から、流れるようにして、何本も何本もの羽根が滴り落ちていたのだ。長い長い羽根で、恐らくは真昼の背丈くらいあるだろう。そういった羽根が百本から二百本くらい、カーラナンピアの頭から生えているということである。これらの羽根は、鱗そのものから進化して表われた物のようで、どこか舞龍のそれと似通ったところがあった。その色彩・その模様が、常に変化していたからだ。とはいえ、それらの羽根は、舞龍のものよりも遥かに長かったのだし……それに、人間の目によっても十分に視認することが出来たのだが。

 そのような踊り子達が。

 先ほども、触れたように。

 このホールのそこここで。

 百人程度の数が、まとまって。

 恐ろしいほどの正確さ。

 非人間的な冷静によって。

 狂舞・乱舞していた。

 以上がカーラナンピアについてだ。ただし、このホールにいたのはカーラナンピアだけではない。他にも様々な動物が犇めいて蠢いていた。例えば、ホールの上に視線を向けてみよう。そこをぐるぐるとうねるようにして飛んでいたのはグラディバーンだ。それらのグラディバーンは、時折口を開けて、その口から何かを吐き出すのだが……それは、炎ではなく、大量の花びらだった。アーガミパータらしいサフラン色の花びら、それは、どうも、グラディバーンが口の中に含んでいた物というよりも……グラディバーンの肉体そのものから排出された物らしかった。グラディバーンがその口を開くごとに、肉体の奥の奥に美しい花束のような物が見えたからだ。恐らくは形相子を組み替えられることによって、神力嚢を、花を育てる器官に変えられてしまったのだろう。

 また、マンティコアの姿も見えた。それらのマンティコアは、床の上、踊り子の集団と踊り子の集団との間を、自らも舞踏に加わっているとでもいうかのように駆け回っていたのだが。その全身に生やされた毛は明らかにマンティコアのものではなかった。黄金のものと白銀のものとの二種類がいたのだが、どちらにしても、マンティコアの体内に満ちた魔学的エネルギーによって光輝いていて。あたかも生きた貴金属細工のように見えた。

 そして、もちろん忘れてはいけないのがウパチャカーナラだ。ウパチャカーナラは、形相子的に組み替えられた様子はなかったが。戦場で見た個体と同じように、頭蓋骨から、さんざめくような水晶が突き出していた。その水晶によって操作されたウパチャカーナラが何をしていたのかといえば……共演には絶対に欠かせない役割、つまり給仕としての役割だ。巨大な鉢のようなものを頭上に掲げるみたいにして持って、そこら中を飛び回っていて。その鉢の中からは、様々な馳走の匂いが――まさに馳走だ――流れ出していた。

 そう。

 食べ物と。

 飲み物と。

 それも。

 この空間に。

 満ちていた。

 アーガミパータにおける宴では、基本的にテーブルを使用しないのだが。とはいえ、この饗宴はアーガミパータの外から来た賓客をもてなすためのものなのであって、それゆえにテーブルが設えられていた。

 いわゆるアーガミパータ料理として最も有名なものといえばパカティだろう。この料理は第二次神人間対戦の際に、アーガミパータの混沌とした闘争状態に突っ込んでいった人間至上主義勢力の兵士達によって、アーガミパータ外の諸国にまで広まって。そして、世界中で愛されるようになったものだ。この料理については真昼もよくよく知っていて、なぜなら月光国でもパカシー・ライスとして非常に愛されているからである。

 こちら側の世界、アーガミパータ外の世界でパカティという場合。それは人間至上主義に属する国々の人間が特に好むということで商業的に決定された幾つかのスパイスを混ぜたもの、いわゆるマサラ・スパイスを使った、煮込み料理全般を指す。ちなみに、マサラという単語は、以前にも少し触れたとおり、アーガミパータにおいてスパイスという意味を表す言葉であるので、このマサラ・スパイスという名前は共通語に直すとスパイス・スパイスとなるのであるが……まあ、「アーガミパータ秘伝のスパイス」程度の意味で取っておけばいいだろう。

 とにかく、そういった料理なのであるが……ただ、ここで一つ注意しておかなければいけないことがある。アーガミパータにはパカティという料理は存在しない。そもそも、この単語はバーンジャヴァ語では「火を通されたもの」という程度の意味しかなく。神々に対して捧げられる、マサラを加えて煮込むことによって浄化された料理の全般を指す言葉であるからだ。具体的なレシピオーがある料理名ではない。

 アーガミパータの言葉をよく知らない人間陣営の兵士達が、神殿に攻め込んで。そこを陥落させた後で、さて食べるものを探していて……見つけた物について「これはなんだ」と聞いたところ「パカティ」という答えが返ってきたために。ああ、これはパカティという名前の料理なのだなと勘違いしたことによって、こんなことが起こったのだ。実際のところ、その答えた何者かは「煮込み」と答えただけである。

 とはいえ、アーガミパータにおいて食べられている料理のほとんどがパカティであることには間違いがない。それには二つの大きな理由がある。このことについては蟻のチャツネだとかなんだとかについて話した時にも触れているのだが……ここではもう少し詳しく説明していくことにしよう。

 一つ目が、アーガミパータでは、そういったマサラが大量に採取出来たからである。ここまで何度も何度も書いてきた通り、アーガミパータはマホウ界とナシマホウ界とが混ざり合っている地域である。それゆえに、マホウ界を支配する原理であるセミハとナシマホウ界を支配する原理であるオルハとがぶつかり合って巨大な「力の渦」のようなものを発生させている。そういったことの影響から異常なまでに生物の発生・成長に適した土地となっているのだ。そのため様々な植物が育つ土地となっていて、自然とマサラの原料になる植物も多い。

 そして、二つ目。アーガミパータのほとんどの地域がクソ熱いということだ。これは何も南アーガミパータに限ったことではなく、スカハティ山脈の上の方には例外的にクソ寒いところもあるが、アーガミパータの大部分は熱帯気候か乾燥気候に属している。このことが意味しているのは、南アーガミパータだけではなく北アーガミパータでも食料が腐敗しやすいということであって……また、更に考えなければいけないことは、アーガミパータが、心構えとかそういうことでもなんでもなく、まさに文字通りの意味で常在戦場であるということだ。

 いくら腐りやすくたって、とったその場で食べられるようならば問題ない。いわゆる南国のイメージとして、毎日毎日、そこら辺になっている木の実をもいで食べたり、そこら辺で泳いでいる魚を釣って食べたり、そういう風な生活をしているというものがあると思うが。それならばスパイスなど必要ない、食材として新鮮なのでそのままおいしく頂ける。だが、戦場ではそうはいかない。食事のタイミングを自分では左右出来ないのだ。だから、自然と、食料を長い間持ち運ばなければいけないことになって……腐ってしまいやすくなる。

 そんなわけで、獣や魚や、そういった肉が腐ってしまった時に。その有毒性を緩和するために火を通さなければいけないし、その腐敗臭を緩和するためにスパイスを使用しなければいけないのだ。ちなみに、それならば煮込む料理だけではなく焼く料理でも構わないのではないかと思うかもしれないが……まあ、それはそうなのだが、より多くスパイスを使うことが出来るのは果たしてどちらだろうか? 焼く料理であれば、せいぜいが肉の周りに付着させる程度であるが、煮込み料理となると、スープのほとんどがスパイスという状態も可能なのだ。ということで、より一層の消臭効果を期待するためには、煮込み料理の方が適切なのである。

 と、いうことで。

 少したくさん。

 話が逸れたが。

 要するに何が言いたいのかといえば、頭の上に掲げるみたいにしてウパチャカーナラが持っている鉢、金属製のボウルに入っていたのは、まさにパカティであったということだ。様々な煮物の料理、野菜を煮た物・果実を煮た物・獣を煮た物・魚を煮た物。それに、スープのようなものだけではなく、蒸し煮にした料理も入っていた。そういった様々な料理には……一つ一つ名前など付けられていなかった。アーガミパータの料理は、もちろん、レシピオーがきちんと決められた物もあるのだが。特にパカティに関していうならば、その土地の音楽と同じように、毎回毎回、シェフのフィーリングによって作られているからだ。スパイスの調合も、その時に使用する食材によって全く違う。肉がどれほど熟しているか、植物がどれほど新鮮であるか。それによって、粉の一粒一粒といった単位まで、スパイスの量が変わってくるのである。これは別に大袈裟にいっているわけではなく、エーカパーダ宮殿の専属シェフはやはりカーラナンピアなのだが、踊り子と同じように料理用に形相子を操作されているため、そういった、人間には不可能な繊細さで味を調整することが出来るのだ。

 そんなパカティを持って、走り回っているウパチャカーナラ達……実のところ、ウパチャカーナラ達がなぜ走り回っているのかというと。これは、賓客のもとに料理を運ぶためではない。この饗宴に招かれている賓客は二人だけであって、そのうちの一人は、たった今辿り着いたばかりなのだ。これほど多くの給仕が走り回って給仕しなければいけない理由などどこにもない。実のところ、ウパチャカーナラ達は、このホールの全体に、おいしそうな匂いを撒き散らすために走り回っているのである。もちろん……もちろん、最高の饗宴とは、そこに招かれた賓客が持つ全ての感覚を満足させることが出来るものなのであって。真昼の嗅覚を満足させるためのちょっとしたserviceといったところか。ちなみに、そんなに走り回って冷めてしまわないのかといえば。大丈夫、問題ない。パカティが入っているこれらのボウルは魔学的に加工されていて、中に入っているパカティが常に一定の温度(真昼の嗜好に合わせた温度)を保つようになっているのだ。

 また、食べ物だけでなく。

 飲み物も用意されている。

 一番目立つのは、このホールの真ん真ん中に設えられた噴水だろう。これはそれほど大きなものではないが、それでも直径にして十六ダブルキュビト程度、液体が到達する最高の高さは十ダブルキュビト以上になる。

 その中心部分は、まさにバーゼルハイムが花開いた時のような姿をしている。死ぬことさえも出来ずに眠り続ける姫君のような、梅毒のせいでどろどろに溶けてしまった娼婦のような、そんなれいれいとした緑色の石材を彫刻して作られた土台に、金細工によって様々な宝石が埋め込まれて。そして、そのバーゼルハイムの下にあるのは、あの四本の首を持った蛇の彫刻だ。

 蛇の彫刻は、主に二種類の材料によって作られているようだった。体の部分を形作っている材料であるが、その内側に銀河の深淵でも宿しているかのような、透き通るような冷酷を孕んだ黒い色、磨き抜かれた石材だ。そして、その口の内側に、恐らくは象嵌細工によって紅蓮の炎のような赤色が嵌め込まれている。こちらはどうも特殊な加工を施した赤イヴェール合金らしい。

 つまり、その蛇が、自分の胴体の方にぐうっと身を起こして、ちょうど内向きの曲線を描くような姿勢をとっていて。その内側にバーゼルハイムの花が配置されているということだ。それから、四本の首は、空を凝視しているかのように斜め上の方向に大きく擡げられているのだが。それらの首は、必然的に、バーゼルハイムの花に向かって差し出される形になっているのだ。

 そして、その四本の首が、噴水として液体を吐き出していた。それは、あたかも躍動する生命が持っているところの荒れ狂う力そのものであるかのような、聖なる、聖なる、聖なる光を放っている液体であって。要するに、アヴィアダヴ・コンダのあの森でダコイティ達が飲んでいたソーマと同じ種類の飲み物だった。ただし……あのソーマよりも、こちらのソーマの方が、遥かに純粋であるように思えた。なんというか、例えるとすれば、あちらが濁酒であるならばこちらは清酒という感じ。あくまでも真昼の推測ではあるが……このソーマは、タマリンドのような果実、ああいった果実を経由することなく、直接的に真聖さを注ぎ込まれることによって作られたのだろう。

 とにかく、この噴水(設備の全体をさす噴水です)の噴水(噴き出している液体を指す噴水です)の全てがソーマなのだ。しかも、限りなく純粋なソーマである。もちろん、人間であるところの真昼が飲んでも死なないように調整されてはいるのだが……それでも、噴水に付きものである、そこら中に撒き散らされて飛散させられる霧のような飛沫。それが蒸発し、この空間全体に、どこか煮え滾るほどに猥雑な生命力を漂わせていた。

 これらが。

 この晩餐の。

 基本的な。

 構成要素だ。

 もちろん、それ以外にも様々な料理が用意されていた。もはや狂瀾といってもいいほどの量、明らかに真昼が消費し切れる量ではない量。というか、人間が百人いても食べ切れず飲み切れないほどで……そもそも、これまでになされた描写では、テーブルの上に並べられた料理については一言も触れられていないということからもそのことについてご理解頂けるのではないか?

 そう、テーブルの上。テーブルの上にも、アーガミパータ各地から集められたありとあらゆる食材、真昼が見たことも聞いたこともないような料理が並べ立てられていた。例えば、いわゆる主食、つまり砕粉質を摂取するための食べ物だけをとってみても、眩暈がするほどの量と種類とであった。米と小麦と、主にその二種類が材料であるが、小麦の料理について見ていってみよう。全粒粉の物に小麦粉の物、平べったい物に膨らんだ物、牛乳を混ぜた物に羊血を混ぜた物、焼いた物に揚げた物に蒸した物、それぞれの料理について個別説明していってはきりがないので省略するが、とにかく恐ろしいほどの小麦料理が、皿の上に山のように盛り付けられていた。それに、米料理について。これもまたうんざりするほどのたくさんさだ。ほとんど液状になったおかゆから比較的固く炊かれた物まで、様々なスパイスを混ぜているせいで色合いも鮮やかな米料理。鶏肉から魚肉から、様々な具材と混ぜ合わせて、これでもかというほどだ。

 主食もすごいのだが、それ以上に凄まじいのはデザートであった。よく、こう、ファンタジー的な御伽噺において、魔王だとかなんだとかを倒した後に、こんな貯め込む必要あるか?と思ってしまうくらいの宝物の山を、魔王の城の宝物庫で見つけたりする描写があるじゃないですか。要するにあの感じです。

 アーガミパータではお菓子のことをミターイーと呼ぶのだが(イパータ語で「甘いもの」という意味である)(そのまんまですね)、これがまた、信じられないほどの種類があるだけでなく、その一つ一つが、馬鹿げた宝石のように、子供用の金銀財宝のように、ひどく派手でひどく繊細なのだ。ちょうど月光菓子のようなものを思い浮かべて貰えば分かりやすいかもしれない。ただし、抑制された静的な感覚というものをかなぐり捨てた、暴力的なまでに過剰な美意識が荒れ狂っているところの月光菓子であるが。ヨーガス・アイスにココナッツ・アイスに、揚げた綿菓子、蜂蜜漬けの果物、野菜を混ぜた餅。ナッツ・クッキー、ライスドーナツにウィートドーナツに、中に色々な甘い物を詰めた饅頭のようなもの。パニールと呼ばれるチーズ、で作ったケーキ。キールと呼ばれる粥、を混ぜたプディング。それに、様々な、様々な種類の砂糖菓子……アーガミパータにおけるあらゆる芸術作品と同じように原色によって彩られていて、時には、金箔だとか銀箔だとか、赤イヴェール合金の粉をかけた物さえもあるくらいだった。

 それ以外にも……特に種類が多いのが植物性料理だ。これは以前にも少し触れたことであるが、アーガミパータにおいてアヒンサー料理と呼ばれる種類の料理がある。不殺生(正確には魂魄不破壊)を絶対的な戒律とするニルグランタにおいて生み出された料理であるが、これが庶民レベルに普及していくにつれて、元々の意味がだんだんと失われていき、なんとなく菜食主義みたいな感じの内容になっていった料理だ。

 そういうわけで、アーガミパータにおいては植物性料理が特に豊富である。ここで野菜料理と書かずにわざわざ植物性料理と書いているのは、野菜だけでなく果物もその材料として使われているからであるが。このテーブルの上に載っているのは、生の野菜や果物やといった物はもちろんのこととして……ライム漬け野菜のサラダ、豆類と一緒に葉野菜を炒めたもの、チーズを詰めて焼いた果物。ヨーガスと刻んだ野菜とを混ぜ合わせたライタと呼ばれるサラダ。芋類を潰して団子状にしたものにナッツをまぶして、軽く揚げたもの。焼いたバナナにマサラをかけたものに、焼いたアヴォカドにマサラをかけたもの。ちなみに、このアヴォカドという単語はイタクァの支配地域の一部で使用されていた言語では「睾丸」を指す言葉であったわけなのだが……まあ、それはともかくとして、色々なアヒンサー料理も用意されていた。

 もちろん。

 肉料理も。

 用意されている。

 それは……あらゆる獣が、あらゆる鳥が、あらゆる爬虫類が、あらゆる両生類が、あらゆる魚が。殺されて、屠られて、おいしく料理された上でテーブルの上に並べられていたということだ。ただし肉料理については、他の料理と比べると驚くほどシンプルであった。マサラか、あるいはヨーガスかライムか。そういった物で味付けをして、そのまま焼いたといった感じなのだ。もちろん下拵えはしている、皮は剥いで・内臓は抜いて、別の料理として使っているのだが。とはいえ、並べられている肉料理で一番目立つのは、その生き物の生前の姿をほとんどそのまま残したところの丸焼きであった。

 牛に。

 羊に。

 豚に。

 犀に。

 熊に。

 鹿に。

 獅子に。

 山羊に。

 鶏に。

 鳩に。

 鶉に。

 鷲に。

 鷹に。

 梟に。

 孔雀に。

 白鳥に。

 亀に。

 蜥蜴に。

 蛙に。

 椒魚に。

 名前も分からないような。

 様々な魚、魚、魚。

 そして。

 それから。

 ユニコーン。

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