第二部プルガトリオ #32

「と、いうわけで。次は、この仮定を実際に世界に対して適用していくことが出来ないということについて話していこうと思います。あーっと、砂流原さんは思われるかもしれませんね。その仮定が仮定自体として問題があるというのならば、それ以上は、もう議論していく必要なんてないのではないかと。あはは、それは間違いですよ。大変、大変、良くない間違いです。なぜなら……先ほどの議論で証明出来たのは、この仮定は原理主義的に適用した時に破綻するということだけだからです。そして、あらゆる仮定は、現実においては原理主義的には適用されません。必ず何かしらの不純物を含めた上で、つまり妥協した上で適用されることになる。そうであるならば、その妥協によって、この仮定が持つ瑕疵も修正される可能性があるわけです。私達がこの仮定を拒否したいというのならば、この可能性も潰しておかなければいけない。

「さて、この仮定は、現実におけるいかなる現象に対して妥協しなければいけないのでしょうか。あはは、言うまでもありませんね。完全に合理的で完全に利己的な個人などというものはこの世界に存在しないという事実です。この世界に住む現実の人間は、必ず、何かしらの共同体に所属しています。そして、何かしらのアイデンティティを有している。ということは、この仮定は、世界の全体に対して無条件に適用することは出来ない、目隠しされた「狩人」などというものが一人として存在しない以上は、そんなことは物理的に不可能だからです。

「そういうわけで、この仮定が適用される時は、以下のような形で適用されることになるでしょう。つまり、ある共同体におけるイデオロギーと別の共同体におけるイデオロギーとがぶつかり合う時に、その二つのイデオロギーのどちらを優先するべきか、あるいはどのようにしてその二つのイデオロギーをセッションさせハーモニーさせていくか、そういう選択肢を探っていく、一種の基準として使っていくということですね。裁定者、もしくは調停者としての役割ということです。

「これは、この仮定を徹底して適用することには程遠いですが。とはいえ、そのために、原理主義的に適用した時に必然的に立ち現れてくる問題からは自由であるということが出来るでしょう。何せ、調整される側は、アイデンティティを有しているのですから。自殺からも孤立の強制からも免れている。そして、この仮定は……そのニュートラル性ゆえに、確かに、調整者として役に立つように思われる。

「そんなわけで、私達がこの仮定を拒否しようとするならば、この仮定が調整者としても役に立たないということを主張しなければいけないわけです。自由であるということ・平等であるということ、それ以外に判断する方法を持たない基準、つまり去勢された調整者が、論理的に役立たずであるということを証明しなければいけないわけです。

「去勢された調整者を特徴付ける二つのルールがあります。一つ目のルールは「全ての人間は他者に被害を与えない限りにおいて完全な行動の自由を保障されるべきである」。もう一つが「ある考えに対して反対することは自由だが「ある考えに対して反対する」権利に対して反対してはいけない」。これ以外にも様々なルールがありますが、最も重要なものはこの二つじゃないでしょうか。ということで、この二つについて反論をしない限りは、私達の目的は達成されないと考えても構わないでしょう。

「そういうわけで、まず一つ目のルールについて考えていきましょうか。これは……あはは、何と言いますか、利益の最大化原理を信仰していらっしゃる方々は、どうも物事を極端に単純化して考える傾向にあるようです。まあ、それはそれで別に構わないのですが、目も鼻も手も足もない、脳さえも見当たらない肉の塊を指差して、これは人間だと主張するような真似をされると、こちらとしてもさすがにコメントに困ってしまいますね。とにもかくにも、このルールは、二つの理由から、すっかり破綻したルールであるといってしまっても構わないでしょう。

「一つ目の理由ですが、あーっと……あはは、こんなこと、わざわざ口に出していうのも恥ずかしいんですがね。人間の行動のほとんどは、他者に被害を与えずにそれをすることは出来ないという、当たり前の事実です。そりゃあね、私が今ここで、一度や二度やまばたきをしたところで、砂流原さんは迷惑をこうむらないかもしれませんよ。そういうたぐいの、大して意味のない行為ならば、なんの被害もありません。しかしですね、ここで問題にしているのは、そんなどうでもいい行動のことではないでしょう? 例えば、それは、思想的な行動の自由であるとか、宗教上の行動の自由であるとか、そういうものであるはずです。

「例えばですよ、以前も例に出した、聖地を巡って争い合う二つの集団について考えてみましょう。当たり前ですが、二つの集団は闘争をしているのであって、お互いに対して被害を与え合っています。ということは、例のルールは、この二つの集団の行為を停止するべきだという結論を出すでしょう。それによって二つの集団の行為を停止したとして……果たして、それは被害ではないんですか? 私が言いたいのはですよ、例のルールによってこの戦闘が停止されなければ、二つの集団のうちのどちらかは、この聖地を手に入れていたことになりますよね。そして、この聖地は二つの集団のどちらにとっても、宗教上かけがえのない重要なものである。それこそ、集団の構成員にとっては、命に代えても欲しているものである。例のルールの決定は、そんな聖地を手に入れる可能性を、二つの集団から奪うことになりますよね。

「あるいは、この反論に対して、例のルールからは次のような再反論が行われるでしょう。別に私達は二つの集団から恒久的に聖地を奪おうというつもりなどない。ただ戦闘を止めたかっただけなのだ。今後私達が仲介役となって二つの集団はこの聖地に関する取扱いを平和的に決定するための外交的な交渉に入ることだろう。そして、最終的には、二つの集団は融和に至り、それによって聖地は、二つの集団によって共同統治されることになるだろう。はあ、そうですか。それは結構なことですがね。あなた方は、一体何様のおつもりなんですか?

「それは、もしも、この闘争が、あなた方によって引き起こされたものならば。つまりですよ、例えば……そうですね……人間至上主義者が、アーガミパータに植民地か何かを作って。もともとは一つの集団であったところの集団を、支配の利便性から二つのグループに分けて。その二つのグループの間に差別的な扱いをした結果として、二つのグループは、自分達のことを二つの集団であると認識するまでになって。そして、ある日、片方の被差別的な扱いをされていたグループが、その扱いに対する不満を噴出させて、その結果として起こった闘争であるならば。もしかして、あなた方は、そういう風に物事を進められるかもしれません。あるいは、もしもこの二つの集団が有する宗教が、一柱の神から発したものであって。その後、その神の宗教的解釈の違いによって二つの集団に分かれたものであるというのならば。それもまた、一つの神という中心点を作ることによって、あなた方が主導する和解の糸口とすることが出来るかもしれないでしょう。

「しかしですね、このケースはそのどちらでもないわけですよ。この闘争は、人間至上主義によって起こされたものではない。また、二つの集団は、一柱の神から発したものでもない。完全に分かたれたところの、純粋に宗教的な二つの集団が、その神を理由として争っているんです。もちろん、もちろんですよ。その闘争は政治的な理由を含んでいるでしょう。経済的な理由に社会的な理由に、それに文化的な理由まで含んでいるに違いありません。しかしながら、勘違いしてはいけないことは、神国主義における宗教というものと、人間至上主義における宗教というものは、全く別のものなんです。それは生活から乖離したところのちょっとした気晴らしでもなければ、やはり生活から乖離したところの原理主義的な熱狂であるわけでもない。それは、生活なんです。生活の一形式なんです。もっといってしまえば……その二つの集団は、憎悪から闘争しているわけでも、感動から闘争しているわけでもない。それは、一つの生活なんです。

「それは一つの儀式であり、真剣な遊戯であるわけなんですよ。人間至上主義的な意味で行われる戦争ではない、ましてや虐殺などというものでもない。それは会話の一形式なんです、日常的なコミュニケーションなんです。だからこそ、あの三十四人の自殺があり得た。両陣営にとっては、あの戦争が、何よりも神聖な行為であって。互いに敵対し合わなければいけないという一点において、完全に理解し合っているから。だから、その闘争を止められた時に、その理解の外にある何かに対して、共同で非難を行うことが出来たんです。もちろん、ここでいう理解について、あなた方のいう和解のための中心点と出来ないのは当たり前のことです。なぜなら、この理解というのは、あなた方のいう和解を、あなた方から与えられる被害を拒否するという理解なのですから。

「そう、つまるところ、ほとんどの行為は誰かに被害を与えないわけにはいかないんです。そして、あなた方のルールに従って行われた行為もその例外ではない。被害を与えないようにしようとして行われた行為さえも、何かしらの被害を与えうる。

「ちなみに、この場合に「ここで例示された二つの集団は自分達が聖なる戦いをしていると考えている。聖なる戦いにおける負傷・死亡といった犠牲について、二つの集団は被害とは考えていないはずだ。そうであるならば、この闘争において被害は出ておらず、ルールの適用から除外される」という反論は無意味です。なぜなら、この二つの集団には、そういった集団の価値観に対して絶対的な信仰を示していない人間が、必ずいるはずだからです。だってですよ、龍王によって支配されていて、思考ロックがかけられているこの場所でさえ反体制派がいるんですよ? 神々を失った、ただの人間達の集団である、これらの二つの集団に。その集団の宗教に対して反抗の意思を示していない誰かがいないわけがないじゃないですか。そうだとするならば、その誰かにとって、こういった闘争は明らかに被害であるはずです。それも、肉体的な影響が出かねないほどの重大な被害です。

「ということで、こういった現象を解決するためには、そのようにして複雑に絡み合った被害を解きほぐして、その一つ一つに優先順位をつけて、その優先順位に従って対処していくという方法が求められます。それでは、例のルールから、どうやってこの優先順位をつけるというんですか? あるいは、他のあらゆる利益最大化の原理から、どうやって優先順位をつける理論を導けるんですか? それぞれの被行為者にとって、そういった被害から逃れるということは、非常に切迫した利益であるはずです。どれもこれも重要な利益であるというのならば、そして、どの利益を確保するにあたっても被害を与えてしまうというのならば、それらの利益に、どうやって順位づけをするというのですか? あはは、あなた方のルールは、それについて沈黙する以外にはないでしょう。

「要するに、このような問題を解決するにあたっては、次のようなことが重要になってくるということです。利益の最大化原理を絶対的な原理として、他のイデオロギーを有する行為者・被行為者に対して、無理やり適用しようとする不寛容な態度を改めること。そして、もっと寛容な、決疑論的なやり方をしなければいけないということ。そして、そのためには、まず大前提として……利益の最大化原理にとっては絶対的な真実だと考えられているところの、人間の自由だとか人間の平等だとかいった価値観は、そういった人間至上主義的なイデオロギーではない、その他のイデオロギーに属している人々からすれば、極めてどうでもいい価値観なのだということを自覚しなくてはいけません。その上で、そういった、極めてどうでもいい価値観から物事・現象の調整を行おうとするのではなく、きちんと、それぞれの行為者・被行為者にとって本当に重要な、絶対的な真実、つまりは、共同体の生活と密着しているところの、統合的な価値観の立場から判断しようとしなければなりません。それは、つまり、それぞれの行為者・被行為者が、人間の権利という外部の価値観ではなく、それが有しているところの価値観、その共同体の内部にある価値観……まさに、今まで、私達が「運命」という言葉・「超越」という言葉によって言い表してきたところの価値観によって行為を行うということを理解することでもあります。

「あはは、もちろん、利益の最大化原理の信者の方々はそれを理解していません。だってですよ、もしも、それを本当の意味で理解しているのならば。「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」などということをいえるはずがありません。なぜなら、「運命」、あるいは「超越」は、人間という不完全で無価値な存在を犠牲にしたところにこそ成り立つ概念だからです。そういう概念を持つ人々に向かって、「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というのは。人間という生き物を絶対的な価値観であるとする立場から、そうではない立場の人々を、独善的に断罪すること以外のどんな行為でもないわけです。そして……当たり前ですが、それが独善であるのならばそれは不寛容であって、そして、結局のところは、全体的劣悪制度に陥らざるを得ない。

「そう、決疑論とは、「運命」、「超越」、あるいは絶対的な中心、なんと呼んでもいいですが、行為者・被行為者にとって、どうしても譲ることが出来ない何か。その何かのために自分自身を犠牲にしてもいいというような、心の底から信じることが出来る何かがなければ適用不可能なんです。もしも、そういう中心がなければ。結局のところ、人間が、その空白となった場所に置くものは……自分自身なんですよ。あはは、人間という生き物は、それほどまでに自分勝手で自己陶酔的な生き物なんです。そして、そこに自分自身を置いてしまえば、既に、他人という存在は二義的なものになってしまう。そうなれば、あらゆる闘争が暴力と狡猾とが支配するところの剥き出しの搾取になってしまうのは当然なんです。

「自分自身を一つの道具として使っても構わないというような、なんらかの絶対的な中心があって、初めて、そこに、調整の可能性が生まれてくる。例えば、神国主義であれば、神という絶対的な中心があって初めて決疑論的方法が可能になってくる。個々の事例に従って、神を捨てない限り、あらゆる規範を捨てることが可能になってくるんです。もしも、神がいないのにも拘わらず……その代わりに、自分自身などというものを中心に置いて、規範を捻じ曲げようとするのならば。それは、抑えるもののない無限の卑劣へと繋がるでしょう。そして、それこそ利益の最大化原理が最終的に陥る永遠の地獄なのです。

「さて、一つ目の理由についてはこれくらいにして二つ目の理由に移りましょう。この理由についても以前に触れたことのある実際の出来事を例にして考えていくのが分かりやすいでしょうね。その出来事とは、あのアイスクリーム・ガイです。ほら、砂流原さん、覚えていらっしゃいますか? この世界で誰かがアイスクリームを食べたら、自分は絶対に自殺しなければいけないと言っていらっしゃった、あの人ですよ。まあ、言っていらっしゃったというか、最終的には実際に自殺されたんですけれどね。それはそれとして……確か、以前にこの話をした時も、この一つ目のルール、つまり他の人間に迷惑をかなければ何をしてもいい」というルールの反証としてこの例を出したのだったと思うのですけれどね。今回は、もう少し、具体的に考えていく必要があるでしょう。

「以前、この人について触れた時には……なんというか、非常に、他人事としてお話ししたと思います。もしも、こういう方がいらっしゃった時に。いや、というか、実際にいらっしゃったわけですが、とにかく、こういう方がいらっしゃるからといって、世界中でアイスクリームを食べるということを禁止するのか。そういう風に議論を進めていったと思います。しかしながら、今度は、もう少し主観的に考えていってみましょう。もしも、自分が、こういう強迫観念の持ち主だったら。目の前で誰かがアイスクリームを食べたら、死ななければいけないと思い込んでしまったら。果たして、私達は、世界とどう向き合えばいいのか。

「あなたには想像がつきますか? いつでも、どこでも、自分の近くで誰かがアイスクリームを食べるのではないかという恐れを抱きながら生きる人生を。アイスクリームの販売車が流す音楽が聞こえてきたら、すぐにどこかに隠れなければいけない。アイスクリームを置いてあるレストランには入れないし、夏になれば外出することさえ命懸けになる。そんな人生を、あなたは想像出来ますか? あはは、出来ないでしょうね。私だって、似たような目に遭うまでは、全く想像出来ませんでした。えーと、この「似たような目」に遭ったという話は、もう少し後でお話しすることになると思いますけれどね。とにかく、この世界にアイスクリームというものがある限り、あなたはそういう人生を送らなければいけないわけです。そして……もしも、一度、そういう立場に立ってみれば。あなたは、この世界には、他にもたくさんの迫害された人間が存在しているのだろうということに思い当たるはずです。

「例えば、この世界には目についた枯葉を全て食べなければいけないと考えている人間もいるかもしれない。そういう人間にとって街路樹というものは破滅の象徴以外の何物でもないわけです。なにせ街路樹というものは、街のそこら中に何千何万の枯葉を撒き散らすわけですからね。枯葉女にとっては、そういう街路樹は、全て切り倒して欲しい物であるわけです。

「砂流原さん、お分かりになりますか? 私の言いたいことが。あはは、その様子だと、いまいちよくお分かりになってないみたいですね。それでは、回りくどく話すのはやめて、はっきりと言ってしまうことにしましょう。つまり、私はこう言いたいのです。「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」といっている方々は、想像力があまりにも貧困であるため、他人の立場に立って考えることが出来ず、自分が当たり前だと思っていること、自分が正しいと思っていること、つまりは常識に、完全にとらわれ切っているということです。そのせいで、結果的に、自分が他人に迷惑をかけている時は気にも留めないが、他人が自分に迷惑をかけている時には怒り狂うという、最低最悪の生き物になってしまう。

「要するに、わたしが言いたいのは、「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」ということをおっしゃる方々は、無意識のうちに、自分達のどういう行動が他の人に対して迷惑になるのかということを理解していると信じ込んでいるということです。もちろん、ご本人方はそんなことはないとおっしゃるでしょう。自分達は、自分達が間違う可能性があることを理解している。だから、日々、「他者」というものについての理解を深めようと努力している。そして、もしも、宗教について、人種について、思想について、民族について、新しい理解があったら。必ずそれを尊重するような態度をとるように気を付けている。私達は決して常識に縛られないようにしているのだ。

「なるほどなるほど。しかしながらですよ、よくよく考えてみて頂きたいのですが、もしも、あなたがある種の基準を持っていないというのならば。これこれは恐らく迷惑であり、これこれは恐らく迷惑ではないだろうという、曖昧で不定形なものであるにせよ、常識に縛られていないとするならば。どうして、あなた方は「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」なんていうルールを、最も基本的な原則にしようとしたんですか? あなた方は、今おっしゃいましたね? 他人にとって何が迷惑であるのかを理解しようと、常に努力していると。そうであるのならば、こういう原則を置くことなど、あまりにも恐ろしくて出来ないはずではないですか? だって、あなたは、ご存じないんですよね? 他人にとって何が迷惑なのかということを。そうであるのに、あなたは、その分からないことを全ての価値観の基礎に置こうとしているんですか?

「つまり、あなた方は、本当は、思い込んでいるんですよ。自分達は他人のことを理解していると。他人にとって何が迷惑なのかということを知っていると。そして、その「常識」によって、身勝手に、他人にとっての迷惑というものを決めつけている。それでは、その「常識」とは何か? もちろん人間至上主義の常識です。まあ、さすがに、肉体可動性信仰のような原始的な信仰を基準として置いているわけではないでしょうがね。それでも、実存的な人間というものがいて、その一人一人が自由と平等とを望んでいるという例のイデオロギーを、常識として信じ込んでしまっているのは間違いがないでしょう。

「そして、それと対になる概念である秩序と多様とは、あくまでも二義的な価値に過ぎないとする。この二つの概念は、自分達が絶対的な真実と信じるところの概念の、婢に過ぎないとする。あはは、もちろん、口ではおっしゃるでしょう。多様性こそが重要だと。しかしながら、何度も何度も何度でも申し上げますが、その多様性は、あくまでも人間至上主義に逆らわない範囲での多様性に過ぎないんです。例えば、肌の色が白であるか黒であるかという程度の多様性は許すが、その内心で人間の実存について疑うことは許さないというようにね。

「あのですね、常識と自由とという問題は、あなた方が考えているほど簡単で単純なものではないんですよ。私達は、あなた方が考えているよりも、よほど深く常識にとらわれているんです。あなた方がご理解しやすいように、一例を挙げましょうか? 先ほど、少しだけ触れさせて頂いた、枯葉女についての話です。あはは、覚えていらっしゃいますか? 目に入る全ての枯葉を食べなければいけないという強迫観念を持った女です。そうです、その女もやはり実在した人間なんですよ。しかも、それは私です。私が、そういう強迫観念にとらわれていたんです。

「あはは、これが、後で話すといっていた「似たような目」です。まあ、ちょっと色々とあったんですが……長くなるし、今の議論とはなんの関係もないことなので、ざっと話すだけにとどめておきましょう。スペキエースに関する人体実験についての記事を書くために、とある研究所に潜入取材をしていたことがありましてね。その時に、精神操作系のスペキエース、もちろん実験体の方だったんですが、その方が、ちょっとした能力の暴走を起こされたんですよ。周囲にいた方々の大部分が死んでしまい、他の方々は重度の精神障害を負ってしまったのですが、まあ、私は幸運なことに無事でしてね。そのまま、何事もなく、潜入取材を終えて、EUまで帰ってきて。それで、記事を書こうとしたんですが……何かが、どうもおかしい。具体的には言えないんですが、何か、奇妙な不安のようなものがあったんです。

「自分は、するべきことをしていない。何か、しなければいけないことをしていない。それをしなければ、今にも、今すぐにでも、何か大変なことが起こってしまう。私は、わけのわからない焦燥感のようなものに襲われ、とても苛々して、じっとしていられなくなりました。椅子に座って記事を書いていると、その不安は、どんどんどんどんと大きくなってきます。恐らくは、集中しようとすればするほど、この不安は大きくなっていくのだろう。私は、わけが分からないまま、とにかく気を紛らわせるために、そこら辺を散歩することにしました。

「幸いなことに、季節は夏でしてね。あはは、秋だったら大変なことになっていたでしょうが、とにかく、緑色に柔らかく燃える木々の間を、なんとか不安を紛らわせようと、そぞろそぞろに歩いていると。なんだか、その不安が、頭の中で具体的な形を取り始めようとしていることに気が付きました。砂流原さんは……あはは、理科の実験で、塩の結晶を作るというのをやったことがありますか? 塩を溶かした水の中に、一粒の結晶を落とすと、その結晶の周りに、見る見るうちに大きな結晶が形を表すというやつ。ちょうどあんな感じでしたよ。何かを、何かをしなければいけない。それは何か、何なのか、もう少しで分かりそうな気がする。

「その時に、一本の木が目に入りました。私が歩いている公園には、道の両方に街路樹が植わっていたんですが、そのうちの一本です。最初は、なんでその木が私の目を引いたのかということが全く分かりませんでした。けれども、次第に次第に、私の目が、その木の中の一点に引き寄せられていく。その木は、そのほとんどが緑色の葉で覆われていたのですが……その一点だけが緑色ではなかった。そこだけは、濃いブラウンに染まっていた。つまり、数枚だけですが、枯葉になっていたんです。

「その枯葉を見た途端に、私の中の不安感が、どろどろとした熱を帯び始めたんです。ああ、これだ、私は分かりました。これがいけないんだ、これは、あってはいけないものなんだ。だから、私は、一刻も早くこれをなんとかしなくてはいけない。もちろん、脳髄の違うところでは理解していました。完全に理解していました。あんなものはただの枯葉に過ぎず、私が思うところのあってはいけないものなんかではないということを。ただの自然現象に過ぎない。けれど、それは、あくまでも理性の話です。たとえば、夜・炎、閉所・高所のようなものを怖がるように。私は、理解とは違う部分でそれを恐れていたんです。

「とにかく、あれをなんとかしなくてはいけない。しかし、どうすればいいか? 私の中の理性とは違う部分は、すぐに解決策を思い付きました。食べればいいんだ。私の理性は、すぐにそれに反対しました。私は何を考えているんだ、考えるに事欠いて食べるだなんて! あれが無害な枯葉に過ぎないことは疑いないことであるが、仮に有害であったとして、他にいくらでも解決策はあるだろう。焼いてもいいし、埋めてもいいし、ゴミ箱に捨ててもいい。そのどれも、食べるよりは遥かにましだ。食べるなんて、最悪もいいところだ! しかし、理性とは違う部分は、理性のいうことなんて聞くつもりもないようでした。理性とは違う部分は、むしろ、それが最悪もいいところだからこそ、その方法を採るべきだと考えているようでした。それが悪い考えであればあるほど、それは実行すべき考えだったんです。私は、あの枯葉を食べる。食べるしかないんだ。私は必死に抵抗しましたが、無駄でした。私は、一歩一歩、その木に近付いて行くしかなかった。私は、その木に手を掛けるしかなかった。私は、その枯葉を手に取るしかなかった。そして、私は……その枯葉を、食べるしかなかったんです。他に選択肢はありませんでした。

「あはは、砂流原さんは枯葉を食べたことがおありですか? ない? ああ、そうですか。枯葉という物にも種類がありましてね、食べられる種類の物とあまり食べない方がいい種類の物があるのですが、残念なことに、それはあまり食べない方がいい種類の物でした。なんか、こう、すごいぱりぱりしてるんですよね。硬いんです、とにかく。枯葉ってこんなに硬いのかって思うほど硬い。口の中に突き刺さる。しかも、味がまた良くない。最悪というほどではありませんがね、とにかく埃っぽいんです。たぶん、微細な排気ガスか何かが表面に付着していたんでしょうね。それから、飲み込もうとすると……明らかに、喉が飲み込むことを拒否しているんです。こう、紙だとか、プラスチックだとか、そういう物を飲み込もうとしている時に感じる拒否の感覚を感じる。あれは、たぶん、十分に咀嚼が出来ない物についての拒否の感覚なんでしょうね。とにかく、それでも無理やり飲み込む。ちくちくする感覚が腹に落ちていって……ようやく、私は、一枚を食べ終えることが出来ました。

「しかしながら、私の中の理性ではない部分は、その一枚だけで私のことを許すつもりはないようでした。私は二枚目を食べなければならず、三枚目もやはり食べなければならず、四枚目、五枚目、六枚目、七枚目……結局、手に届く範囲の枯葉を全て食べなければいけなかったのです。

「こうして、ようやく、私の心の中に安寧が訪れたのですが……その安寧は、決して長くは続きませんでした。木から降りた次の瞬間には、不安は、また戻ってきたのです。しかも、先ほどよりもより一層大きくなってね。先ほどの不安は、せいぜいが何かに憑りつかれたような不安感でしかありませんでしたが。今度の不安感は、ほとんどパニックの発作のようなものでした。動悸が激しくなり、呼吸が上手く出来なくなり。夏の暑さによる汗とは全く違う、ぞっとするような発汗が起こる。そして……私は、気が付いたのです。見渡す限りの街路樹、その全てに、いくらかの枯葉が付いている。そして、その全てを、私は食べなければいけないのだと。

「結論から言いますと、私は、それらの枯葉を食べませんでした。渾身の――あはは、この場合の「しん」は「身体」の「身」よりも「心神」の「心」の方がいいでしょうね――渾心の力を振り絞り、自分の中にある不安感に抗って、街路樹の枯葉から目を逸らして。これ以上はどんな枯葉も目に入らないようにしながら、なんとかして会社まで帰ってきて。そして、自分のデスクの中、万が一のことが起こった時のために用意してあった対ノス強化剤を使用したんです。

「あはは、砂流原さんは、なんといっても砂流原家のご令嬢ですからね。当然のようにご存じだと思いますが……対ノス強化剤、対ノスフェラトゥ用肉体及び精神強化剤。その名前の通り、ノスフェラゥとの戦闘時に人間の肉体と精神とをその戦闘に耐えられる程度に強化するための薬品です。あまりに突然に起こった不安の発作、今回のこれは、明らかに、通常のケースとは異なった、なんらかの特殊な事情で起こったということは明らかでした。私は、その原因は、先日被曝した精神操作能力の暴走であると推測したんです。まあ、その推測は結局のところ正しかったわけですが、とにかく、あの暴走で、私の精神は、無事であったように思われたが。実は、感覚出来ないような、微妙で複雑な傷を負っていて。その傷が、つい先ほど開いたのだと推測したんです。

「そうであるならばなんとかしてその傷を塞がなくてはいけない。そこで、私は、応急処置として……あはは、文字通りの弥縫策として、対ノス強化剤を使用したわけです。対ノス強化剤は下等知的生命体の精神を強化します。その強化には精神の回復力も含まれる。だから、対ノス強化剤を使用すると、その使用している間だけ、一時的に精神病が治癒するという効果があるんです。その効果を狙ったということですよ。

「私の狙いはなんとか功を奏し、私の不安感は収まりました。まあ、一時的なものでしたけどね。その後で、すぐに、私は精神操作起因性心的外傷専門の医師にかかって――EUにはどんな病気にも専門医がいるんですよ――数週間の投薬とリハビリテーションとで、ようやく完治したわけです。

「さて、そういう私の経験は、まあ、その経験自体としてはどうでもいいんですけれどね。ここで重要なのは、そのようにして気が狂ってしまった私に対する周囲の反応なんです。特に、私が、なんの前触れもなく街路樹に登り出して。そして、その木の葉を引きちぎり、やにわに食べ始めた時の反応です。あはは、砂流原さん、どうですか? 目の前を歩いていた全く知らない人が、いきなりそんなことをし始めたら。砂流原さんならどのような反応をされますか? 今、砂流原さんが考えた反応と全く同じ反応を、私の周囲の人々はとったわけです。

「つまり、明らかに不審なものを見る目で私のことを見ながら、なるべく近寄らないようにしてそそくさと歩み去ったということですね。後々になって、よく調べてみると、数人の方は警察に通報までされたそうですよ。そりゃあ、まあ、街路樹というのは公共の財産ですからね。それに対する損害をしたとなれば、それは警察の領域でしょう。通報するのも当然の行為です。

「とはいえ、たった今、長々と説明させて頂いた通り。私の側にもやむを得ない事情があったわけですよ。精神操作能力のせいで、精神に異常をきたしていたわけです。一時的に頭がおかしくなっていただけなんです。それに、私は、街路樹の枯葉をちぎって食べていただけだった。たしかにね、公共の財産に損害を与えたといえば、それはその通りですよ。とはいっても、そんなにめちゃくちゃなことはしていないでしょう。木を切り倒しただとか、公園に爆弾を仕掛けたとか、そういうことではない。ただ枯葉を何枚か引きちぎっただけです。それが、そんなに迷惑なことですか? 警察沙汰にしなければいけないほどの罪だったんですか?

「もちろん、それは、罪だったんです。そして、それこそが問題なんです。あのですね、目の前で、いきなり人がそんなことをし始めたら、私だって不快感を覚えますよ。状況が状況だったら警察だって呼ぶかもしれません。そういうものなんです。そして、それは完全に正しい行為なんです。

「なぜか。この世界の全ての秩序は法律だけで成り立っているわけではないからです。もしもですよ、法律に書かれていることだけを守っていればいいというのならば。私達は、一切働く必要はないわけですよ。だって、法律には――確かに集団によっては「労働の義務」なる文言が含まれている場合もありますが――労働をしないことに対する罰則など、一切書かれていないわけですからね。それに、色々な福祉、それに共助に頼れば、今の時代、最低限の生活くらいは出来るわけです。そうであるならば、働く必要などないといい切ってしまっても構わない。それに、もしも法律が絶対だというのならば。スペキエースから人権を剥奪するような、全ての法律も、やはり肯定されなければいけないものだったというわけですか? そんなわけがないでしょう? ということは、法律は絶対ではなく、その上位になんらかの規範がなければいけないんです。その規範から法律が演繹されてくるところの規範がね。

「そして、その規範こそが集団が持つ関係知性なんですよ。いや、違いますね。もう少し正確に言うのならば、関係知性の中で、人間と人間との間の信頼を中心にして醸成された、常識という名の合意なんです。例えばネクタイというものがありますよね。一度、全ての常識を排してあのネクタイというものを見てみると。なぜあんな物をつけているのか分からなくなります。砂流原さんもご存じだと思いますが、ネクタイは、そもそもノスフェラトゥが顔の返り血を拭くために作られたものです。それを、人間の上流社会が真似して、最終的にドレスコードとなった物。ということは、人間がネクタイをする合理的な理由なんて、一切存在しないわけですよ。そうであるにも拘わらず、なぜ私達は、人間至上主義諸国でさえも、ネクタイを使用し続けているのか。

「それは、今の世の中においてネクタイというものが狂人を発見するための制度として機能しているからです。ネクタイという物をつけるということが集団の中で暗黙の了解となっている。そうであるのならば、取り敢えずはつけておこう。そう考える人々、集団が採用している常識を受け入れることが出来る程度の精神的成熟に到達している人々だけを見分けるシステムとなっているんですよ。それ自体にはなんの役割もない、それをつけることになんの合理性もない。だからこそ、そんな不条理な命令であっても、共同体の常識であるならば受け入れるという、一種の試金石として、非常に有用であるわけです。ネクタイをつけないというのは、つまり、自分の不利に働く場合に集団の合意を受け入れない可能性がある危険人物であるということです。

「まあ、とはいえ、私はつけないですけどね、ネクタイ。首を圧迫されるのが嫌いなんですよ。それに何かあって近接戦闘になった時に危険ですし……あはは、それはともかくとして、私のことを不審な目で見た人々、私のことを通報した人々も、やはり、基本的には、このネクタイと同じシステムのもとで行動したということです。これらの人々は、私が公共の財産を損害したから嫌悪感を覚えたわけでは、決してありません。そんな法律的な嫌悪感ではないんです。この人々は、私が、常識に反する行動をしたから嫌悪感を覚えたんです。その常識とはつまり、普通の人間はいきなり街路樹に登って枯葉を食べ始めないという常識です。

「集団の関係知性、その根底にある論理に反するような行動をとった私のことを、反射的に・本能的に危険人物として認定した。集団が共有している規範に逆らうかもしれない人物として、安全化しようとしたんです。そして、その行動は、百パーセント正しい行動なんです。だって、そうでしょう? いきなり木に登って枯葉を食い出すやつというのは、つまり、それをしてはいけないということを理解出来ない人物である可能性が非常に高い。そうであるならば、その人物が、なぜ人を傷付けてはいけないということを理解出来ると断言出来るんですか? いきなり殴りかかってこないとなぜ断言出来るんです? そうであるならば、その誰かがそういう行動をとる前に警察に通報すること、拘束しておくことは、非常に理に適った行為なんです。

「あるいは、その人物が、精神薄弱なのではなく……私のようにただただ気が狂っていた場合。そのために集団の論理よりも個人の利益を優先させてしまう人物であった場合。どうですか? その場合に、私が連続殺人を犯さない理由がどこにあるんです? 今回は、本当に、幸運だったので、私の強迫観念は比較的無害なもので済みましたがね。これが、私が「しなければいけないこと」が、「目に入る枯葉を全て食べること」から「目に入る人間を全て殺すこと」になめらかにスライドしていた場合、一体どうなっていたと思いますか?

「この場合に重要な点は、人は殺されたら生き返らないということです。あはは、まあ、ごく少数の例外を除いてということですがね。精神薄弱者が人を殺し始めてから、あるいは私が人を殺し始めてから、そういった人間のことを拘束するのでは遅過ぎるんです。そういった人間が、頭のおかしい人間であると分かったならば。つまり、集団の論理を理解出来ないか、集団の論理よりも個人の利益を優先するか、そのどちらかであるということが分かったならば。私を見ていた人々は、私のことを拘束するために、なんらかの措置を講じるべきなんです。そういう意味で、いきなり枯葉を食べ始めた私に対して抱いた嫌悪感は……いわば、集団が持つ安全装置として、疑問の余地がないほど正しいものだったわけです。

「そして、この安全装置は、いわゆる常識の立場からしか擁護出来るものではない。あなた方の例のルール、「他の人間に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というルールからは決して擁護出来ないものなんです。なぜなら、先ほども申し上げた通り、私の行動は、私の利益の立場からいわせて頂ければ、完璧に正当なものだったからです。あの時の私は……枯葉を食べていなければ、不安に押し潰された挙句に、本当に発狂してしまっていたでしょう。アイスクリーム・ガイが自殺したようにね。そうであるならば、あなた方のルールからすれば、私の行為は擁護されなければいけない行為であるわけです。

「しかしながら、一方で、本当に危険な枯葉女のことを、あなた方のルールは止めることが出来るのか? 枯葉を食べなければいけないという強迫観念から、人を殺さなければいけないという強迫観念にスライドする可能性がある枯葉女のことを、あなた方のルールは止めることが出来るのか? 出来ませんよね。なぜなら、あなた方は、人を殺さない枯葉女と人を殺す枯葉女とを、その見た目だけで区別することが出来ないからです。確かに、人を殺し始めたのならば。その人間に関しては利益の最大化原理から拘束することが出来るでしょう。しかしながら、あなた方の論理を貫徹するのであれば、ただただ枯葉を食べている枯葉女のことを拘束することは出来ないはずです。なぜなら、その枯葉女は、他の人間には、ほとんど迷惑をかけていないのだから。

「あなた方は、もしかしてこう反論するかもしれません。その枯葉女は確かに迷惑をかけているのだ。なぜならば、例えその枯葉女が人を殺すことがない枯葉女であったとしても。その存在自体が、人を殺す枯葉女を拘束することを妨げているからだ。その存在自体のせいで、私達は、危険な存在を野放しにして、結果的に人間が死ぬという可能性が発生してしまっている。そうであるならば、枯葉女を拘束することは正当化されうる。

「あはは、素晴らしい! あなた方は、実に美しく私の論理を証明して下さいましたね。この反論こそ、この枯葉女の例で私が申し上げたかったことなんです。つまりですね、なぜ、あなた方は、いきなり街路樹に登って枯葉を食べ出す私が、もしかして人を殺す可能性があると認識出来たんですか? 確かに私は人を殺すかもしれませんでしたよ。それは認めます、その通りです。しかし、あなた方は、なぜその可能性があると分かったのか? もちろん、あなた方は、普通の人間は街路樹に登って枯葉を食べ出したりしないという常識と照らし合わせてそう判断したんです。集団の論理、共同体が個人に対して押し付けるところの規範に従ってそう判断したんです。

「先ほども申し上げたように、私達が枯葉女のことを危険だと認識するのは、枯葉女が常識に従わないからです。一つの常識に従わないのならば、他の常識に従わない可能性もあるだろう。そういう考えから、ほとんど本能的な嫌悪感を抱くわけです。このことは、もしも、私達がなんらかの宗教を信じていて、その宗教において街路樹の枯葉を食べることを義務としていたと仮定すれば、よくよくお分かり頂けるでしょう。もしもそういう宗教を信じていたら。私のことを、警察に通報しようと思いますか? あはは、そんなことするわけがないですよね。それどころか、もしもそういう宗教が集団内で正当な地位を獲得していたならば。逆に、そうして警察に通報した人が拘束されることになるでしょう。

「このような例が極端過ぎると思われますか? 馬鹿馬鹿しい、あり得ないようなことだと思われますか? まあ、まあ、私もそう思いますけれどね、ただ、現実には、もっと異様なことが起こっているじゃないですか。つまり、ただ単に首に布切れを巻き付けていないというだけで。それをつけるということに何一つ合理的な理由がないところのネクタイという布切れをつけていないというだけで。私達は、実際に、異常者とみられるじゃないですか。頭がおかしいやつだと思われて、まともな会社に就職出来ず、悲惨な人生を送らざるを得なくなるじゃないですか。常識ってやつはね、いつだって、そういうものなんですよ。

「つまり、あなた方は、無意識のうちに、完全に常識にとらわれてしまっているんですよ。そして、その常識を――それ自体としてはなんの論理的正当性もないが、それを守らない人間を秩序の外にいる人間として浮かび上がらせることによって、安全装置の役割を果たしている常識を――あなた方の判断の根底に置いているんです。あなた方は、実は、利益の最大化原理の大前提として、共同体の常識に縛られているんです。

「そして、そうしなければ、あなた方は集団での生活を送ることも出来ないでしょう。なぜなら、集団における利害関係というのはそれほどまでに複雑であるからです。あなたが人間である限り、あなたがアルファクラス知性所有者でない限り、どのような行為が私達の利益を本当に最大化するのかなんていうことを、完全に知るということは不可能なんです。それに、もちろん、どんな行為が他人に迷惑をかけるのかということもね。ある程度は分かるでしょう。しかしながら、ただ一人の人間がその生活の中で理解出来るそういったことは、集団内部の秩序を維持するためには圧倒的に不十分であるということを自覚しなければいけない。

「いうまでもなく、歴史だとか伝統だとか、そう呼ばれるものだって、そういったことを完全に理解出来るとは申しません。ただ、歴史だとか伝統だとかは、一人の人間よりも二つの理由で優れています。まず一つ目は、たくさんの人間の知識を蓄積出来るという点。これによって、一人の人間よりも、少しは正しい判断を下すことが出来る。そして、もう一つは……こちらがより重要なんですが、歴史や伝統やといった巨大な構造は、それが決定した恣意的な不平等を、集団全体に押し付けることが出来るということです。そういったことは、個人には不可能ですよね。そして、ある決定された規範を、集団の全体に押し付けられないのならば。統制された秩序を期待することは絶対に不可能です。そうであるならば……あはは、少なくとも私であれば、秩序なき不平等よりも秩序ある不平等の方がましだと考えますね。

「これで……私達は、二つの理由によって、例のルールが完全に破綻したルールであるということを主張することが出来たと思います。一つ目の理由によって、このルールが独善的な不寛容に陥るということを。二つ目の理由によって、このルールが秩序を維持することが出来ないということを。それぞれ論理化したわけですからね。そうであるならば、「全ての人間は他者に被害を与えない限りにおいて完全な行動の自由を保障されるべきである」というルールは、少なくとも、私達が人間である限りは、ルールとして適用すべきではないといっても構わないはずです。

「さて、それではもう一つのルールについても考えていきましょう。「ある考えに対して反対することは自由だが「ある考えに対して反対する」権利に対して反対してはいけない」というあれです。砂流原さん、砂流原さん! これほどまでに欺瞞に満ち、これほどまでに独善的なルールを、あなたは聞いたことがありますか? いいですか、砂流原さん、このルールは、いい換えれば、こういうことをいっているわけです。「私はあなたのいうことを聞くつもりはないが、あなたが文句をいうことは許そう」。

「いやー、なんといえばいいのか……あのですね、私が誰かに文句をいう時にはですよ、私は、文句をいいたいから文句をいっているわけではないわけです。私は、その誰かしらに、行動を改善して欲しくて文句をいっているんです。別に、いいんですよ、いらないんです。文句をいう権利なんて。あなたが行動を改善してくれれば、あなたが反省して、自分が間違っていたと認めてくれれば、それで大満足なんです。

「そうであるならば、ですよ。そうであるならば、私の持っている「ある考え」とあなたの持っている「ある考え」とで、どちらが正しい考えであるのかということをはっきりさせなければいけないわけですよ。あるいは、まあ、大抵の場合はどっちも間違っているわけですから、その二つの考えを議論の中で超克していって、より「正しさ」というものに近付いた考えに昇華させていかなければいけないわけです。そして、その議論の中で間違えであると認識された考えにはですよ、私としては、もう黙っていて欲しいわけです。そりゃあ、まあ、そういった議論だって完全なものではないわけですからね。その間違っているという認識だって間違っている可能性がある。とはいえ、とはいえですよ。なんの証拠もないのに、間違っているとされた考えが、いつまでもいつまでもぐずぐずいっていたら、私達が議論をした意味がないわけです。

「いや……やめましょう。こういう価値中立的な立場から反論を組み立てるのは正直な態度とはいえませんからね。もっと、はっきりと言ってしまうことにしましょう。あのですね、私は「ある考えに対して反対する」権利なんてまどろっこしいものはいらないんです。だって、そんな権利があったとして、なんの役に立つっていうんですか? そもそも、あなた方に、私の意見を聞く気がないのに……ああ、違う違う、申し訳ありません、少しだけ違いましたね。あなた方には、私の話を「聞く気」はある。ただ、その話によって、自分達の態度を改めるつもりなんてさらさらないんです。

「つまり、つまりですよ。このルールのどこが破綻していると、私が考えているかといえば。このルールは、一見すると、全ての価値をニュートラルなものとして相対的な立場に置き、その立場から、平等な調整を行っているように見えるにも拘わらず。実際は、この世界には何かの絶対的な価値観、「正しさ」というものがあって、全ての議論はそこに向かっていくべきだという考えを、完全に排除してしまっているというところです。このルールはですね、結局のところ、相対化を絶対的な原理とする一つの不寛容に過ぎないんですよ。

「だって、そうとしか考えられないじゃないですか。「ある考えに対して反対する」権利に対して、私達はあらゆる反論を封じられているわけですよね。そうであるとすれば、そこには、何かしらの「正しさ」などというものはあり得ないことになる。あらゆる「正しさ」が、その反対する権利によって、予め破棄されてしまっているんですから。そういう意味では、このルールは、私達がこれこそ「正しさ」だと考える権利を、最初から、完全に、奪い取ってしまっているんです。

「一方で。もしも、私達が「あなたは間違っている」といったとしますよ。あはは、確かに、そういうことを主張する権利は私達に保証されているわけです。とはいえ、それが受け入れられるかどうかは全く別の問題なんですよ。まあ、その主張によって暴力的に攻撃されたり精神病院に入れられることはないかもしれませんがね。完全に無視される可能性は、大いに、大いに、存在しているわけです。そうであるならば、この「ある考えに対して反対する」権利とやらに、一体なんの意味があるというんですか? 要するにですね、このルールは「私達は他人の意見を聞こうとするだけの寛容さがある」という偽善的な感情を満足させる役割か、あるいは「少なくともあなた方の意見は聞いた」という自己弁護の役割しか果たさないんです。

「そうですね……あなた方は、この主張に対してこう反論なさるかもしれません。あなたは完全に的外れなことをいっている。そして、あなた自身の主張の中に、そのことは完全に表れている。先ほど、あなたは、あなたの主張の中でこういったはずだ。このルールがあることによって、自分達は、少なくとも、暴力的な攻撃の危険性や精神病院に入れられる危険性やからは守られていると。このルールの最も重要な役割はそこにこそあるのだ。このルールは、ある人間とある人間とが議論する時に、その議論とは全く関係のない強制力が働くことを阻止するためにこそ存在しているのだ。

「はいはいはい、なるほど、なるほど。それは確かに役に立つルールですね! ただし、もしも、人間が「正しさ」というものを判断出来るほどの知性を有しているのならですが。ある人間とある人間とが議論をするとしましょう。そのどちらかの意見が正しいと、一体、誰が判断出来るんですか? いや、もう少し正確にいうと、誰が「正当に」判断出来るんですか? 議論の調整者、結論を出す誰かしらが人間である限り、その結論は、いつだって間違っているかもしれないという可能性を孕んでいるわけです。とすれば、議論以外の方法を全て封印してしまうというのは、ある種の抑圧に繋がる可能性さえあり得ると考えなければいけないんですよ。

「非常に単純化した例ですが……例えば、教養のある搾取者と教養のない被搾取者が議論しているとしましょう。搾取者の方が首尾一貫した論理を展開出来るのは明白ですし、人間はとてもとても愚かな生き物であって、一貫した論理というものを正しい論理であると誤認することがしばしばあるわけですから、結果としては、搾取者の論理が正しいという結論になる可能性が高いわけです。そうであるならば、ですよ。もしも議論だけで正しいか正しくないかということが決定するならば、教養のない被搾取者には、もう何一つとして救いはなくなってしまうわけです。

「教養のない被搾取者には議論以外の方法しか残されていないんですよ。議論というものを完全に無視する強権的な独裁者に頼るでも、暴力的な革命を起こして権力の重心を被搾取者から奪い取るでもいいですが、そういう方法しか残されていないんです。しかしながら、あなた方のルールは、その方法さえも否定してしまっている。あなた方がいうところの自由で平等な議論という方法で、平和的に決定することしか許されていない。と、いうことは……あなた方の反論は、反論になっていないどころか、あなた方のルールが教養のない被搾取者を抑圧するようなルールであるということの証明にさえなっているんです。そして、大体の被搾取者というものが教養がないということを考えに入れるならば、あなた方のルールが、被搾取者全般を黙らせるために存在しているルールであるとさえいうことが出来るわけです。

「ということで、結論として、この二つ目のルールは、議論の調整者としてはなんの意味もなく、ただただ人間という生き物が絶対的な「正しさ」を追求することを妨げることしかしない。しかも、その上、被搾取者からあらゆる抵抗の手段を奪い取ってしまう可能性さえある。私達としては、そう考える以外にないということになってしまうわけです。そもそも調整者として働かないのですから、その時点でルールとしては完全に破綻しているわけです。しかもその上、様々な弊害をもたらすとあっては、このようなルールがルールとして存在していること自体が、私達からすれば理解出来ないといわざるを得ないでしょうね。

「そんなこんなのどうしたこうした、これくらいで……「目隠しされた狩人の仮定」が、原理主義的に適用された場合だけではなく、現実と妥協した形、つまりは去勢された調整者としての形で適用されたとしても、クソの役にも立たないどころかむしろ有害であるということを証明出来たと思います。

「この仮定の他にも利益の最大化原理は様々な思考実験を行っています。「魚を食べる兎と兎を食べる魚の仮定」だとか「羊を数えることのない羊飼いの仮定」だとか……自分自身の信仰するもの、絶対に正しいと信じ切っているイデオロギーが、実は間違っているということを認めたくないがためにね。けれども、そういった思考実験の一つ一つをいちいち検証していくのは、全く無駄なことでしょう。あはは、だって、どうせ、全部間違っているに決まっているんですから。あのですね、どう足掻いても無駄なんです。利益の最大化原理は間違っている、完全に間違っている。なぜならその原理の最も重要な部分、根源的な部分が間違っているんですから。取り繕って、正しく見せることさえ不可能なんです。そして、もちろん、その間違いとは……原理の中心に自分自身の実存というものを置いてしまったということです。

「つまりですね、私達が真の幸福であると定義している「快楽」という概念と、利益の最大化原理の方々のイデオロギーであるところの「利益」という概念と。「卓越」した方々は、この二つについて、同じように利益であると主張しますが……実際のところは、全く異なっているということなんです。利益の最大化原理が「利益」としているのは総体的な意味での利益ではない。自分自身という実存にとっての利益ということに過ぎないんです。自分自身という絶対的な概念の、下位としての「利益」に過ぎない。その「利益」を「利益」であると感じる主体からは、関係知性に拘束されたところの集団、その集団の断片としての人間という視点は、非常に巧妙に削除されてしまっている。

「そうであるならば、このイデオロギーもまた主観的かつ恣意的な思い込みから逃れることは出来ないんです。自分が所属しているところの関係知性から導き出される判断を普遍的な判断であるとして、なんの疑問もなく、それどころかそれに対して疑問を突き付けるものに対する敵意さえ持って、人間存在そのものが必然的に信じなければいけない価値観として強制するという、全体的劣悪制度の罠から逃れることは出来ない。自分自身という存在が、避けがたくイデオロギーであるということを――血と肉とイデオロギーとで出来ているということを――理解することが出来ない。

「もっと簡単にいうのならば、利益の最大化原理にとって、利益などというのはどうでもいいのです。安全もどうでもいいし、超越もどうでもいい。苦痛も嫌悪も他者も正義も自由も寛容もどうでもいい。利益の最大化原理にとって最も重要なのは、自分自身が神であるということなんです。自立だのなんだのとごちゃごちゃ理屈を付けていますが、ただ単に、嫌だと思っているものを嫌だといっているに過ぎない。しかも、それを嫌だと思っているのは、舞龍のように自己存在から必然的に導き出された感覚でもなんでもなく、集団の内的原理が「嫌だと思うべきだ」と規定したものを優等生的に嫌だと考えているに過ぎない。

「そこにはなんの普遍性もなく、またなんの合理性もありません。その所属する集団によって、人間にとっての利益というものが変わってくるのにも拘わらず、その集団を考慮せずに利益というものを考えるこの原理に、そんなものがあるわけがない。あるいは、この原理には……「正しさ」に向かって進んでいくことが出来るだけの、「眼をつぶったまま絶対へと跳び超えていく」信仰の感覚もない。ということは、個別の集団における具体的なイデオロギーとして、その集団をより良い方向に導いていくことさえ出来ない。要するに、この原理は、ただただ自分自身というものを賛美すること以外には何も出来ないんです。どこかの古道具屋の片隅で忘れられている、綺麗な綺麗な踊り子の人形を取り付けられた、見目麗しいオルゴールのようにね。

「あなた方は神ではなく、あなた方は正しさを理解出来ない。この単純な事実を忘れてしまったがゆえに、利益の最大化原理は、私達が追い求める原理とは全く違う原理になってしまった。「寛容な自分自身」に逆らう者は全て、人間の普遍的な真実に逆らう者、劣った存在として、皆殺しにしても構わないとしてしまうような原理にね。と、いうことで! 私達は、絶対に、その議論の出発点・到達点を、自分自身というイデオロギーに置いてはいけないというわけです。」

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