第二部プルガトリオ #31

「まあ、ただ、とはいえ……私も、認めなければならないでしょうね。たった一つだけ、あなた方が、あなた方の真実が内包する矛盾を解消することなく、それでいて侵略も奴隷も必要としない方法があったのだということを。あはは、そうです、そうです、どんな密室にだって出口というものは用意されているものなんですよ。なぜなら、密室に閉じ込められるためには、とにもかくにもその密室に入らないといけないわけですからね。

「ああ、いえいえ、違います。イデオロギーに殉じるという方法ではありませんよ。非暴力・無抵抗のままで、人間至上主義というイデオロギーだけを心に抱いて、神国主義によって滅ぼされるという方法ではありません。

「なぜなら、あなた方の真実は、その方法を原理的に許容していないからです。確かに……あなた方の真実は、あなた方の外部にある全ての存在によって押し付けられたところの定義を脱ぎ捨て、あなたが人間そのものになることを要求しています。そうであるならば、生を捨て死を望むという方法でイデオロギーに殉じることによって、逆説的に、歴史の中で不死になるという方法も許されているように感じるかもしれないでしょう。しかしながら、それは誤りです。なぜなら、あなた方が最も重視しているのが、自分自身の実存だからです。自分自身の実存を、人間という肉体の中に閉じ込めておかずに、宇宙の全体に――文字通りの意味で遍く宇と遍く宙とに――広げていくことだからです。その一方で、殉死という方法は非常に閉じた方法です。自分自身の内部に世界を取り込み、そして、その世界と共に死んでいくという方法。実存というものを窒息させる方法。殉死はね、本質的にあなた方の真実とは倒立した原理のもとにあるんですよ。ですから、あなた方が殉死をしてしまえば、あなた方は自動的にあなた方の真実を否定したことになってしまうわけです。

「さて、それでは、あなた方の出口とは一体どこにあったのか? あはは、もちろん、それは、アーガミパータの人間至上主義者達を、その全てを難民として受け入れることです。しかも、その受け入れの根底には「人権」というイデオロギーがあってはいけません。もちろん、口先では何といっていても構いませんよ。むしろ「人権」を口にした方がいいかもしれません。そちらの方が、神国主義と人間至上主義と、その二つの絶対的な真実の相違点が浮かび上がりますからね。とはいえ……それでも、あなた方は、その難民としての受け入れが神国主義を否定する結果とならないように、細心の注意を払わなければいけません。つまり、あなた方がアーガミパータにおける難民を受け入れるのは、神国主義という絶対的な真実と、人間至上主義という絶対的な真実とが、この借星という空間において、競合的に共存するためでなければいけないんです。

「これは極めて難しいことであったでしょう。なぜなら、先ほど申し上げたように、自由民主主義というのはそのイデオロギーの本性からいって多様な真実というものを許さないですからね。けれども、絶対に不可能というわけではない。人々が、世界を軽蔑しているのではなく、自分自身を軽蔑しているのならば。自分の経験、自分の感覚というものを大したものではないと考えているのならば。自分が美しいと思ったもの、その全てさえも、実際のところはそれほどでもないのだろうと、心の隅で考えているのならば。この世界は素晴らしいものである可能性があるが、自分があまりにも愚かであるために、その可能性に気付くことさえ出来ないのだという思いを常に抱えているのならば。自分は愚かであるために、その絶望、その空虚、その虚無さえも、実はどうでもいいことであると、実は本当のことではないと、信じているのならば。何一つとして真剣に考えないということだけを真剣に考え続けるならば。そう、もっと簡単に言えば……死ぬ前に、「ひどい人生だったが、まあ、この世界についてはなんの文句もない」といえるのならば。その時に、あなた方は、自由民主主義者でありながらも、多様な真実を許すことが出来るでしょう。

「そのようにして、アーガミパータの人間至上主義者達を、アーガミパータの外側にある人間至上主義諸国に――まあ、現実的に考えれば、エスペラント・ウニートに――受け入れていたのならば。その時に、初めて、あなた方は、侵略者でも抑圧者でも搾取者でもない何かになれたのです。アーガミパータにはアーガミパータの真実があって、それは全体主義の形をとっている。それは、誰にも否定出来ることではない。こちら側にはこちら側の真実があり、あちら側にはあちら側の真実がある、なぜなら、こちら側とあちら側とではあらゆる条件が異なっていて、こちら側で上手く作動したシステムがあちら側に上手く適合するとは限らないからだ。だから、アーガミパータが全体主義を真実として選んだのならば、差別をその文化の中心として選んだのならば――あはは、まあ、どんな文化でも差別が中心に存在しているものであって、自由民主主義においてもそれはやはり同様なのですが――それもやはり、一つの真実なのだろう。そう考えることによって、初めて、アーガミパータの人々のことを、無知で野蛮な人間以下の存在と見ることなく、本当の意味で、共存することが出来たんです。

「いうまでもなく、ここで絶対にしてはいけないのは、神国主義も人間至上主義も所詮は構造に過ぎず、そのどちらも相対的な真実に過ぎないと考えることです。その態度は、つまり、あらゆる真実は相対的に過ぎないと考える自分自身の実存こそが最高の真実であるとみなす、最低の形の自己愛でしかないのですから。そうではなく、人間至上主義を絶対的な真実として信じていながら、神国主義も、やはり絶対的な真実である可能性があると考えること。そうして、絶対的な真実と絶対的な真実と間のぎりぎりの懐疑――浅いところに埋められた種としての懐疑ではなく深いところに埋められた種としての懐疑――によって、二つの絶対的な真実を相克し合い。そして、真実を信じているところの自分自身を超えていく。これこそが、真の他者性、人間の権利を軽視し・蹂躙し・破棄したところにある複数・多様なんです。

「そして、この方法を採っていたのならば、あなた方は、少なくとも今のような卑劣な振る舞いに及ぶことはなかったでしょう。なぜなら、この方法でならば、あなた方は最悪の破壊と最悪の虐殺とに加担せずに済んだから。つまり、将来においてダコイティを売り渡すであろうことがその思想的必然によって定められていたところの、崇高かつ勇壮な、人間の権利のための戦いを賛美しなくて済んだのだから。しかしながら……あなた方は、その方法は取らなかった。いや、取れなかったといった方がいいかもしれませんね。その不可能性には二つの理由があったでしょう。

「まずは、物理的な理由から。アーガミパータにいる全ての人間至上主義者達、あるいは、全てとまではいわなくとも、目に見え耳に聞こえる人間至上主義者達。アーガミパータ外の集団に難民として受け入れるというのは、不可能とまではいわないにせよ、かなりの困難を伴う行為であったということは間違いがないでしょう。そもそも……あはは、当時は、アーガミパータ内からアーガミパータ外への移動手段がほとんどありませんでしたからね。それはまあ、中央ヴェケボサニアに出るルートはありましたが、あのルートを通る場合には、スカハティ山脈の無教徒達から襲撃を受ける危険性が付きものでした。それに、それ以外のルート、例えば空中を行くルートや海上を行くルートやには、もちろん、それ以上の危険性が伴っていましたから。空中を行けばありとあらゆる集団の格好の標的となったでしょうし、海上を行けば、海賊はもちろんのこと……あはは、もっと致命的な生き物、つまり、泳龍のようなマホウ界の大型生物に襲われる恐れがありました。それに、もし移動させることが出来たとして、果たしてどこが受け入れられたのか。まあ、アーガミパータの全人口からすれば、さほどの人数ではなかったでしょうけれどね。それでも、人間至上主義者の数は、それなりに多くなっていました。その全てを、一度に受け入れられる集団が、果たしてあったのか。

「また、そういった物理的な理由だけではなく……もちろん、イデオロギー的な理由もありました。つまり、自分自身の実存を中心に置いたところの真実からすれば、アハム・ジャナスミとしての方法、暫定政府としての方法は、肯定されなければいけなかった。なぜなら、以前も述べたように……人間至上主義における実存というものは、実は公的領域においてしか発現し得ないものだからです。いや、まあ、発現し得ないとまでいったらちょっといい過ぎかもしれませんが、公的領域の外においては、その発現が非常に難しいものであった。あはは、全てを脱ぎ捨てるためにまず何かを纏う必要があるというのは非常に矛盾しているように聞こえるかもしれませんがね。とにかく、ここでその必要性についての解説を繰り返すのは避けますが、人間至上主義における実存というものは、公的領域への参加によってのみ成立しうるものであった。

「そうであるのならば、「アーガミパータの人間至上主義者」が実存を手に入れるためには、まずは「アーガミパータの人間至上主義者」としての公的領域を手に入れなければいけないんです。この公的領域とは、いうまでもなく領土とは異なった概念ではありますが……とはいえ、領土抜きに成り立つのかといわれれば、それはなかなか難しいものがある。

「まあ、出来ないことはないでしょうね。特に、その「アーガミパータの人間至上主義者」が難民として受け入れられた先でイデオロギー的に迫害されていれば、それは比較的容易になるでしょう。苦痛というものは常にpassionを生み出すものですし、そのpassionは迫害される原因となったものを象徴的に利用した一つの公的領域を作り出そうとする意志に結び付きやすい。しかしながら、その受け入れ先が、人間至上主義諸国であるのならば。そういった迫害を受けることを期待するのは、それほど合理的なこととはいえない。人間至上主義諸国で人間至上主義的なイデオロギーを迫害されることなんてあり得ないでしょうからね。もっとも、これは後々議論することになりますが……別の形での迫害、passionを生み出しにくい形での迫害はあるでしょうが。

「もしも、どこか、人間至上主義諸国に受け入れられたのならば。「アーガミパータの人間至上主義者」は、少なくともイデオロギー的には、非常に快適な状況下に置かれるでしょう。そして、受け入れ先の社会に、最大限の歓迎とともに受け入れられることになる。そうなれば……その難民達は、きっと、自分達だけで一つの小集団を作ろうという意志を、次第に次第に失っていくことになる。受け入れ先の大集団に同化していってしまうわけです。そして、その同化によって手に入れたところの社会的地位の方に、より強い帰属感を抱くことになるでしょう。もっとあからさまにいうとすれば、その人が貧困層に所属することになれば貧困層に、その人が富裕層に所属することになれば富裕層に。より生活に結び付いた、より切迫した、社会的な所属を重視するようになる。

「そうなれば、その人々は既に「アーガミパータの人間至上主義者」ではなくなってしまうでしょう。ただの「人間至上主義者」になってしまうわけです。すると、どういうことが起こるのか? もちろん、公的領域が失われるのです。一つの領域だったものは、二つに引き裂かれて。やがて、虚無の中に溶けて消えていってしまうことでしょう。そして、もしもそこに公的領域がないのだとすれば、それに伴う公的欲望もなくなるのであって、公的欲望がないのだとすれば、人間から現実性が失われる。現実性が失われれば、当然ながら実存を認識することは出来なくなるのであって、実存が認識出来なくなれば、パライアー性としての他者性もクソもなくなってしまうわけです。

「もちろん、「人間至上主義者」となったとしても、完全に、あらゆる公的領域を失うというわけではありません。受け入れ先の集団、所属先の社会も、やはり公的領域であるわけですからね。しかしながら、この公的領域を公的領域とすることは、難民達に対して非常に深刻な実存の危機をもたらしかねない。なぜならば……それは、欺瞞だからです。先ほども申し上げたように、難民達は、主に貧困層と富裕層とに分裂することになる。そうすれば、当たり前のことですが、富裕層に所属した難民達は、貧困層に所属した難民達のことを搾取せざるを得ないわけです。もともとは一つの公的領域に所属していたところの二つの勢力が、互いに敵対し合うことになる。これは、明らかに欺瞞です。欺瞞は実存への懐疑となり、実存への懐疑を抱いた者は、孤立の幻影に包み込まれることになる。そうなれば、羊は、もう、栄光を信じられない。

「これを避けるためには、どうしても、何かしらの一体的な指向性が必要になってくる。どこかへ向かうためのpassionを生み出すところの、苦痛やら迫害やらが必要になってくる。そうであるならば、「アーガミパータの人間至上主義者」は、結局のところ、アハム・ジャナスミにならざるを得なくなるわけです。アーガミパータ、自分の故郷において、イデオロギー的に迫害されるという方法をとらざるを得ない。そうすれば、確かに生命の危機はあるかもしれませんが……少なくとも実存は保証されますからね。実存さえ保証され続ければ、構造を懐疑し続けられるわけです。

「また、イデオロギー的な理由は、それだけではありません。公的領域についての問題は、受け入れられる側だけではなく、受け入れる側にもあるということです。それは、端的にいえば奴隷の必要性ということです。あはは、皆さん勘違いしていますけれどね、自由民主主義という制度は、基本的に、奴隷の存在なしには成り立たないんですよ。自由民主主義は、いうまでもないことですが、一人一人が実存的に自立したところの個人が、自由的に、民主的に、構築する制度です。ということは……実存的に自立するためには、一体何が必要になるか? 言い換えれば、公的領域に参加するためには、一体何が必要になるか? これもまた、言うまでもない当たり前のことですが、私有財産です。

「この場合に私有財産というところの意味は、一般的にいわれているところの意味とは少し異なっていて、どちらかといえば私的領域という意味に近い。実存とは、生きた経験の中に自らを置き、その経験をもとに、外部から押し付けられた人間としての定義を剥ぎ取っていく過程のことですが。そのためには、もちろん、生命に縛り付けられていてはいけないわけです。というか、いずれは滅びる運命にあるところの生命を維持するための生活に縛り付けれていてはいけないわけです。生活とは、つまり自然です。そして、自然とは秩序化されていないところの混沌であって、そうであるならば、それは、決して人間的状態における生きた経験などではなく、無名の蒙昧に対する敗北であるわけです。簡単にいえば、動物は人間ではないということですね。

「そうであるならば、動物から人間になるためには私的財産が必要になってくる。つまり、自分自身の代わりに生活を行ってくれる何者か、自分自身の代わりに動物になってくれる何者かが必要になってくる。それが、奴隷です。もちろん、自由民主主義者の方々は、自分達の奴隷のことを奴隷とはいいませんよ、そんなことは絶対にいいません。その代わりに、賃金労働者と呼んでいる。例えば、生活必需品の生産に携わる人々。例えば、その輸送と販売とに携わる人々。あるいは……あはは、語の意味そのものの、ハウスキーパーの人々。そういった人々は、本当に公的領域に参加している人々の代わりに生活を担っているところの、動物的人間なんです。そしてそういった人々がいない限りは実存が成り立たず、実存が成り立たないのであれば自由民主主義は成り立たない。

「そういうわけで、難民達の受け入れ先であるところの自由民主主義的な集団において、公的領域を維持するためには奴隷が不可欠であるわけですが。もしも「アーガミパータの人間至上主義者」が難民として受け入れられた場合、masterとして受け入れられるのか、それともfamiliarとして受け入れられるのか? あはは、まあ、その両方でしょうけれどね。とはいえ、familiarとなる方々が多いだろうというのは確かでしょう。

「理由、説明する必要ありますか? まあ、一応ご説明させて頂くとすれば、まず一つ目が教育的理由ですね。アーガミパータから難民としてやってくる方々は、何度も何度も申し上げていますが、まともな教育を受けていない。人間至上主義諸国で人間的人間として受け入れられるだけの教育レベルに達するためには、凄まじい努力が必要となってくる。もちろん、そういった努力を成し遂げる方々もいらっしゃるでしょうが……少なくとも、私は無理ですね。もう一つの理由は、もちろん既得権益の問題です。人間至上主義諸国でmasterとなっていらっしゃる方々は、既にfamiliarを有しています。つまり、生活を維持するための奴隷を所有しているということです。その奴隷というのは、人間の形ではなく、金銭の形で保存されているわけですが、それはまあいいでしょう。そうであるならば、既存のmasterは生活をする必要がないということです。その一方で、難民達は、何一つ所有していません。いや、何一つというのは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも語るに値するだけのものを所有している方々というのは特殊な例外です。と、すれば。難民達がmasterになるためには、それだけの差を克服しなければいけない。

「この二つの条件に、それから他の諸々の条件、ほとんどが難民達にとって不利に働きます。そういうわけで、難民達の大半は、動物的人間であるところの奴隷の立場に貶められざるを得ない。これは……人間至上主義諸国にとっては、大変都合の悪い現実です。難民達は、自分達の実存を失っただけではなく、人間として公的領域に参加する権利さえ奪われるわけですから。そして、結果として、人間至上主義諸国の人権派の方々は、難民達の搾取者になる。それを避けるためには、「アーガミパータにの人間至上主義者」には、どうしてもアーガミパータにいて貰わなければいけないというわけです。

「というわけで、あなた方が現実性の中で自分自身であろうとするのならば。自分自身がmasterとなることができる領土……仮に故郷とでも呼びましょうか? そうですね、故郷が必要となってくるというわけです。まあ、不可欠とまではいいませんけどね。例えば……もしも、故郷を持たず。また、受け入れ先の集団で迫害されていなかったとしても。人間存在そのものに対する実際的な危険性があるところの共通の敵が、継続して存在していれば、なんとかなる可能性もあります。いうまでもないことですけれど、アーガミパータに現存しているところの人間の神国主義者はここでいう「敵」には含まれません。そういった神国主義者が、アーガミパータの外側にまで影響を及ぼし得ますか? そんなことはあり得ないでしょう。だって、あの人々が人間至上主義者と争っているのは、ただただ自分達の「故郷」を守るためなんですから。また、それは一時的な存在であってもいけません。何か巨大な災害が襲い掛かってきたり、すぐに掃討されてしまうテロリストだったり、そういう何か。そういう何かは、現実性が形成されるほど長い間、脅威として継続し得ないですから。ここでいう「敵」となり得そうなものは、例えば、人間という種に敵意を持った神々が、常に人間という種に影響を及ぼそうとし続けている、そんな状況のことです、そういう状況下であれば、例えば「アーガミパータの人間至上主義者」による市民軍などの形で、現実性を提供しうる公的領域を形成することも出来たでしょう。

「しかしながら、現在のナシマホウ界には、そういった脅威となりそうなものは……あー……いや……そうか、アザーズの問題がありましたね……あれは……とはいえ、人間がどうにか出来るものでは……え? ああ、すみませんすみません、こっちの話です。あはは、気にしないで下さい。とにかく、現時点では、人間に対して脅威になりそうな「敵」は存在していないわけです。ゼティウス形而上体のほとんどは追放されてしまいましたし、四大高等種の中でまともに生き残っているのは、対等なとまではいえないまでも、人間と同盟関係にあるところのノスフェラトゥだけです。つまり、あなた方は、人間至上主義者としての市民軍さえも結成出来ないというわけです。ということは、あなた方が現実性を担保するためには故郷が必要だということになる。そして、あなた方が故郷を必要とするにも拘わらず、あなた方がこの世界のどこにも正当な場所を有していないとすれば。それは、必然的に、あなた方が侵略者であるということを示しているわけです。

「と、いうわけで。あはは、随分と長くなってしまいましたが……これで、あなた方のおっしゃるところの「思考」、あまりにも不完全な人間という生き物が、たかだかその知性で把握できる範囲内の因果関係で行う「思考」、が、結局のところ何を引き起こしたのかということを説明することが出来たと思います。そして、そうすることによって、あなた方が主張するところの「人間の勝利」と、私達が主張するところの「超越」と、この二つの概念が、その中心としているところの原理が「自分自身」「実存」「人間」であるか否かという一点で、明確に異なっているということを証明することが出来たのではないでしょうか。

「さてと! デミウルゴス殺しも佳境に入ってきましたね。というか、今の説明によって、物語というものの輪郭もはっきりとしてきたんじゃないでしょうか? いかがです? えーと……いまいちピンときていらっしゃらないようですね。あはは、いいんですいいんです、構いませんよ、全然構いません。そうですね、まず……私達の議論において、物語というものは、実際に存在している世界を内的原理に組み込むためのシステムであると定義付けられていましたね。そのためには、世界を構成する一つ一つの粒子に対して、一つ一つの波動に対して、現実性というものを付与していかなければならないわけです。そして、今の説明の中で、現実性というものがいかにして獲得されうるのかということが、別の観点から考察されましたね。公的領域における実存という問題とは別の方向から捉えられた。つまり、現実性とは、生きた経験の中で思考することによってのみ獲得されうるというのがそれです。どうです! どうです! ああ、もうお分かりになったようですね! そうです、物語の別の名前、それは生きた経験です。

「まあ……ちょっとばかり違うんですけどね。とはいえ、その違いを説明していると長くなってしまうので、ここでは同一のものとして扱ってしまいましょう。あはは、砂流原さんにも、そっちの方が分かりやすいでしょうからね。物語は生きた経験であって……そして、もちろん、生きた経験とは、下等知的生命体が理解出来るレベルまで貶められた世界における経験ということです。そして、私達が物語というものを否定しなければいけない理由、別の言い方をすれば、「人間の勝利」ではなく「快楽」をこそ真の幸福と規定しなければいけない理由は、つまりここにこそあるんです。

「「快楽」、「快楽」、ああ、そうですね。もしかして、「快楽」についても、私達はきちんと考えておかないといけないかもしれません。夜のように透明な天秤の上に二つのものを乗せるとして、片方だけを曖昧なままにしておくことは、それは光です。光というものは光が光である量だけ透明ではありませんからね、不純なものが混じっている。そうであるのならば、天秤の上で、その不純なものの分だけ重みが増してしまうということもあるでしょう。そうであるならば、「快楽」だけを曖昧なままにしておくということは、議論を進めていく上で適切な行為とはいいがたい。

「砂流原さんは、知的生命体としての条件は何だと思いますか? あはは、いや、まあ、知性を有しているということなんですけどね、そういう話ではなく、もっと具体的な条件、何がどうであれば知性を有しているといえるのかという話です。だって……ほら、知性っていっても色々あるじゃないですか。人間であれば関係知性ですけれど、他にも、集合知性とか、流動知性とか、個別知性とか。そういった知性に共通しているのは何か。

「例えば、なんらかの言語を有していることだと定義される方々がいらっしゃいますね。この世界を記号化する。分析・統合し、秩序の状態にすることによって、混沌を把握可能なものに出来ることこそが知性であると。しかしながら、この条件を採用してしまうと、それに当て嵌まらない知的生命体が出てきてしまいます。例えば、ノスフェラトゥはいかがですか? 今でこそ、人間との意思疎通のために言語というものを使用していますが。本来、あの方々は、言語を有していませんでした。この世界の全てを、言語の状態ではなく、もっと原初的な概念の状態で把握して。そして、それを、テレパシーによってやりとりしていたわけですからね。言語どころか、あらゆる記号を必要としていなかったわけです。そうであるならば、言語というのはちょっと違うような気がする。

「あるいは、思考していることこそが条件であると定義される方もいらっしゃいますね。特に、「卓越」した方々ならば、自分自身で思考すること、意志の欠如という全体主義的な現象に抗って、自らの力によって世界の在り方を理解していこうとする態度こそが知性であるとおっしゃるでしょう。まあ、それは……あはは、一つのイデオロギーとしては、ご自由にそうお考えになればいいと思いますがね。とはいえ、それほど正しい定義とはいえないでしょう。例えば舞龍は思考というものを全くしません。あの方々は個別知性をお持ちの方々ですからね。個別知性というものは、世界の一切から独立した、完全に自動的なシステムです。全体主義であるか全体主義でないか以前の問題として、決定的に思考が欠如している。そうであるならば、思考もやはり知性の条件とはいいがたいものがあるでしょう。

「それでは、知性とは一体なんであるか? 端的に申し上げましょう。それは安定した生存を可能とする一つのシステムのことです。そして、知的生命体とは、危険性をニュートラライズして生きることが出来る全ての生命体を指示する言葉です。ちなみに、下等知的生命体と高等知的生命体との区別も、この一点を起点にして行われています。つまり、高等知的生命体とは、「その種が発生した時点での生存環境」を破壊しうる「例外的な脅威」以外の全てのものを「完全」にニュートラライズ出来る生き物を指し、そうではない生き物のことを下等知的生命体と呼ぶということです。ちなみに中等知的生命体という言葉はその言葉の通りこの二つの種類の知的生命体の中間のどこかしらに位置する生命体のことを意味しますが、それはそれとして……要するに、知的生命体の条件は二つだということですね。まず一つ目が「システム」であり、もう一つが「ニュートラライズ」です。

「一つ目の「システム」については、さほどの説明を必要としませんね。極限まで分かりやすい言い方をするとすれば、こういうことが起こった場合にはこのように対応するという、一連の体系化されたシークエンスとでも定義すればいいでしょうか。これならば、言語を必要としないノスフェラトゥや、思考と関係がない舞龍も定義の中に含めることが出来ます。

「そして、もう一つの「ニュートラライズ」とは、生存環境の無害化のことです。いわゆる自然、私達がそう呼んでいるもの。それが自体的に危険性を無害化することによって安全に生活出来るということです。こう定義すれば、例えば、ハキリアリのような生き物を知的生命体から排除することが出来ますね。ああいった生き物は、確かに環境を変化させるためのシステムを有してはいますが、とはいえそれを無害化させるまでには至っていない。つまり、ハキリアリと私達との違いは、環境から安全であるか否かということなんですね。あはは、少なくとも、この定義からいえば。

「ということは、知的生命体の条件、その中でも最も重要なものは「安全」だということです。「自由な意志」でもなく「実存の意志」でもなく、ただ単に安全であるということ。これこそが、私達のような知的生命体が、他の生命体よりも、唯一優れている点なんです。あはは、人間至上主義という偏見を捨てて、ただただ、単純に考えてみて下さい。もしもあなたがハキリアリだったとして、そして、他の種について羨ましがることが出来たとして。あなたは、人間の、何を羨ましいと思いますか? もちろん、人間が安全に生存しているということでしょう。

「さて、ということは。知的生命体とその他の生き物とを区別するものが「安全」であるというのならば。その「安全」というものは、生き物にとってなんらかの判断基準となりうると仮定しても構わないのではないでしょうか。そう、それは、「人間」というレベルではなく、もっともっと根本的な、生物としての判断基準……要するに、「穢れの欲望」としての判断基準。そして、それこそが、私達の主張するところの幸福の一方向。「卓越」した方々が「快楽」と呼ぶところの原理の、中心的な部分なんです。

「そういう意味では、それは一般的にいわれているところの快楽ではありませんね。「卓越」した方々も、一応はそれを理解しているようで、どうやら便宜的に「快楽」と呼んでいるだけみたいですが。しかしながら、私達が幸福と呼んでいるその原理は「快楽」という言葉に収まり切らない程度には複雑な観念であるわけです。そして、私達は、これから始めるところの議論によってその複雑さを解きほぐしていこうとしているのですが、予め言っておくとするならば、それは二つの論理によって解きほぐされるべきものであるはずです。それは……一つ目が遺伝と環境とからなる論理。もう一つが「清めの欲望」と「穢れの欲望」とからなる論理です。

「さて、この議論を進めていくにあたって、絶対に勘違いしてはいけないのは。この「快楽」という原理は、「自分自身」に属するものではないということです。これは本当に重要なことであって、ここを間違えてしまうと、私達は、私達が主張したいと思っている結論ではなく、全く別の結論に辿り着いてしまうことになります。それは、要するに、別の形の人間至上主義です。とはいえ……私達は、例えそれが間違いだと分かっていても、「快楽」というものを、まるで私達が個人的に感じているものであると勘違いしてしまうものです。

「「快楽」とは何か? それを理解する上で、先ほどの議論で出てきた「安全」という概念が役に立つことでしょう。「快楽」とは、基本的には、この「安全」を中心として成り立っているわけですからね。私達が私達であると考えているところの何かが、その外側にある何かから、「安全」であるということ。私達が私達であると考えているところの何かが、苦痛と嫌悪とから免れているということ。ここでは、「快楽」というものの真の定義を理解するための仮の定義として、こう考えておきたいと思います。

「私達が「快楽」を自分自身のものであると考えてしまう理由は、まさにここにあるわけですね。つまり、それは、一人一人の人間、私という個体が感じるところの感覚であると考えてしまうわけです。しかしですね、ちょっと考えてみて下さい。その感覚というもの、苦痛と嫌悪とを感じ、それを遠ざけようと思う総体的な精神構造は、果たして本当に私だけに属しているものなのかということを。そうすると……実は、人間にとっての苦痛なるもの、嫌悪なるものは、二つのレベルで考えていかなければいけないということが分かってくるはずです。それは、先ほども申し上げた、遺伝と環境とというレベルです。

「まず、遺伝のレベルで考えていくと。この星に住む、あらゆるとまではいかなくても、ほとんどの動物が、生理的反応として、肉体を傷付けられることに対して否定的な反応を示すということが分かります。私達が感じるところの苦痛と嫌悪とも、この否定的な反応をベースとしているということは間違いがないでしょう。ということは、この苦痛と嫌悪とというもの、そのベースは、個人的なものでは全くないということになります。種としての反応、それどころか、動物の全体がそうするであろう反応なのですから、そこに個人的なもの、プライベートなもの、自分自身というものは全く、全然、一欠片も関わってこない。あくまでも、遺伝の結果としてそういう反応を示すだけである。

「とはいえ、全ての人間が、全ての刺激に対して、完全に同じ反応を示すというわけではありません。例えば私が苦痛と考えることに対して砂流原さんが苦痛と考えないこともありますし、砂流原さんが嫌悪することに対して私がどうでもいいと思うようなこともある。つまり、ベースとなる否定的な反応に何かが加わらなければ苦痛と嫌悪とにはならないということです。それでは、それこそが、自分自身に関係しているのか? いえいえ、違います、そうではありません。これも、やはり、自分自身なる曖昧で不確かなるものは関わっていません。環境こそがそれを形作るのです。

「もう少し正確にいえば、関係知性です。関係知性というものは……ある意味では、形相子に似ているでしょう。形相子は、遺伝単体として、一つ一つの細胞の中にありますが。その一つ一つの形相子が、対象となるところの生き物の、完全な設計図を有しているわけです。それ自体が複製するところの細胞は、例えば筋肉であったり、骨格であったり、皮膚であったりするわけですが。それでも、その形相子は、生き物全体の形相子であるわけです。一方で、関係知性というものは……一人一人の人間の中にあるわけですが、その一つ一つは決して個人的な経験ではない。集団の一部ではなく、集団の断片であるわけです。それは全体というものが前提としてあって、そして、その全体が、関係の絶対性として、常に一体のものであり続ける。

「そうであるとするのならば、苦痛と嫌悪とというものは、その一切において、自分自身というものとは全く無関係な位置に存在しているということが理解出来ます。まず、その契機となる部分。外界からの刺激に対する感覚は、純粋に生物学的な現象であり、動物という種の全体に所属している。そして、それが発生する過程、感覚に対する反応は、その個体が断片として一体化しているところの関係知性の結果である。

「そして、先ほども申し上げたことですが、苦痛であれ嫌悪であれ、それが人間的な文脈で使用されている限り、刺激としての契機と過程としての関係知性と、その両方が組み合わされない限りは決して存在し得ません。ただ単に、外部から刺激が入力されて、それを感覚した時点で苦痛と嫌悪とが発生すると、そのように考える方が非常に多いのですが。それは残念ながら間違いと言わざるを得ないでしょう。

「もちろん、それが人間的な――あるいは関係知性を有する生物としての――文脈で使用されるのでなければ、刺激に対する感覚だけで成立し得ることもあるでしょう。例えば、先ほども例としてあげた舞龍のような個別知性の持ち主の場合は、そもそも世界と接続しているわけではありませんからね。その個体がその個体だけで存在しているわけで、当然ながら、関係知性を前提とせずに、なんらかの反応を示すはずです。

「しかしながらその反応は、私達が感じているところの苦痛・嫌悪とは全く異なった何かであるはずです。そもそも、舞龍は感じるということがありませんからね。舞龍が示す反応の全ては、世界とは孤立したところに存在しています。そうであるというのならば、何かと何かとの関係の間にしか発生し得ないところの「感じる」という現象は、舞龍にはあり得ない。舞龍が示す反応は、私達が示す反応と、表面上は似ているかもしれませんが。結局のところ、全くの別物なのです。

「とにかく、不完全な生物である私達は、私達という個体のみでは刺激に対する反応さえも形成しえない。そうですね……あはは、いまいち私の言っていることに納得出来ていらっしゃらないようですね。それでは、具体例を挙げてご説明しましょう。私が主張したいと考えている生物学的不完全さが典型的に表れているところの、非常に分かりやすい具体例を挙げてね。

「それは、つまり、ニルグランタにおけるニルヴァーナという概念についてです。ああ、いえ、いえ、ニルヴァーナ自体がいかなる概念かということについては、ここでは説明しませんよ。というか、私には、それを説明することは不可能です。そもそも、ニルヴァーナというのは、ニルグランタで学ぶもの全てにとっての到達するべき地点であるわけで、ニルグランタの教授レベルの知識を有していなければ、それが何かということを理解することは不可能です。もちろん、そんな知識は私にはないわけでありまして、とにかく、ここでは、私の主張についての具体例となりうる行動だけを切り取ってお話ししたいと思います。

「ニルヴァーナとは、共通語で「消滅した」を意味するニルと、「破壊された」を意味するヴァーナとを合わせた単語です。基本的には解脱と翻訳されていますが、涅槃と訳される場合もあります。その意味は――もちろんこれは、私達にも理解出来るように、非常に単純化され、元の意味から捻じ曲げられた、不完全な意味ですが――私達をこの世界に繋ぎ止めている全てのものから解き放たれた状態、あらゆるものを束縛する原因・結果となるところの業という何かから脱出した状態という意味です。

「このニルヴァーナは……私達が生きているために必要な全て、私達という存在・概念・生命が、ここにあるために必要な全てを放棄することによってのみ達成されます。ということで、いうまでもなく、その一つの段階として、食事をとることを完全に停止します。普通であれば、私達のように、別段この世界から解脱したくないと考えている生き物であれば。食事をしないということ、つまり空腹であるということは、大変な苦痛であるわけです。いや、まあ、この世の中には大変奇特な方もいらっしゃいますからね。私が知っている人の中には、腹の中に食べ物が入っているという感覚が気持ち悪いという理由で餓死してしまった方もいらっしゃいますが。とはいえ、解脱を目指す方の全てがそういう方ではないはずであって。ということは、本来ならば、腹が減っているというのは苦痛であるはずです。

「そうであるにも拘わらず、解脱を目指しているニルグランタの学生、あるいは教授にとっては。空腹というのは、この上なく甘美なことであるらしいのです。まあ、私は解脱を目指したこともありませんし、テレパシストでもありませんので、実際にそうであるかどうかということは分かりませんが。とはいえ、色々な話を聞いたり色々な現場を見たりした限りでは、どうもそれは事実らしい。解脱を目指している人々にとって、空腹というのは、解脱の一歩であるという理由で、どんなに満腹な状態よりも満ち足りたものであるらしい。

「これは、もしも、生物学的な感覚だけで考えるならば、有り得ないことです。あはは、いや、私は生物学を専門に学んだというわけではないので、もしかしたら、生物の中には、空腹を苦痛であると感じるグループと空腹を快感であるというグループとがいて、ニルグランタに所属している人々は、全て後者のグループに属されていらっしゃるのかもしれませんが。とはいえ、私が学校で学んだ知識によれば、そんなことはないわけです。と、するならば。これは、苦痛に対する反応を生じさせるもう一つの要素である関係知性が関わってくることであると考えるのが、最も合理的であるわけです。つまり、ニルグランタという集団が共有している関係知性において、空腹というものは苦痛ではなく快感であると考えられている。それゆえに、その集団の構成員である教授・学生も、その刺激に対して快感としての反応を示す。

「これは、大変、大変、特殊な例ですがね。とはいえ、だからこそ、私が主張したいことが極端な形で表れている。普通であれば、生命の危機となりうるほどの、それゆえに耐え切れないほどの苦痛となるはずの空腹さえも、関係知性の在り方によっては、苦痛と受け取られないことがある。そうであるならば、関係知性を有する知的生命体にとって、感覚に入力された刺激だけでは、苦痛・嫌悪にはなりえないといっても、決して過言ではないでしょう。

「ということで、「安全」については、遺伝と環境と、この二つの観点から考えていかなければいけないということを説明出来たと思います。また、それゆえに、その「安全」を求めるという行為は、自分自身と呼ばれるところの何者かによる主体的なものでは、絶対にあり得ないということも説明出来たと思います。この意味で……世間的に利益の最大化原理と呼ばれている人間至上主義の一形態は、完全に間違っているということが出来るでしょう。利益の最大化原理は、その原理の最小単位を、集団というものを構成する個人個人が追及する利益であるとします。いうまでもなく、この原理は、自分自身だけではなく他者というものも想定に入れてはいますが。それでも、その他者も、主観的には自分自身なのです。つまり、この原理は、関係知性から独立した一個人という、苦痛も嫌悪も感じることが出来ないはずの、現実には存在も概念もしえない異様な生命体を前提に置いているわけです。そのため、利益の最大化原理を正しさとして採用してしまうと、その世界観は必然的に「無縁」となった一個人と一個人とによる利益を巡る殺し合いの状況を呈することになる。

「もちろん、利益の最大化原理を絶対化している方々は、自分達が信じているイデオロギーの構造的帰結として、殺伐暗鬼の無縁状態が発生するということを完全に理解しています。そして、それゆえに、その陥穽へと墜落していってしまうことをなんとかして避けるために、様々な正当化の論理を――あはは、というよりも、破綻しかけた宗教的世界観を弥縫するためのこじつけを――思考実験の形として考えてきたわけです。

「一例を挙げてみましょう。それは一般的には「目隠しされた狩人の仮定」と呼ばれているものです。はははっ! これがまた傑作なんですよ。えーと、どういう思考実験かといいますとね。ちょっと、現在の世界のことを思い描いてみて下さい。人種・宗教・民族・階級・地位というような概念的レベルにおいても、知力・体力・財力・情報・性別というような存在的レベルにおいても、あらゆる種類の人間がいるこの世界のことを。ある日、その世界に住んでいた一人の人間が、何者かによって、この世界とは別の時空間にあるどこかに拉致されてしまいました。そして、そこに拉致される時に、その人間が持っていた概念的・存在的な同一性、資本家であったのか労働者であったのかというところから、身長や肌の色やまで、あらゆるアイデンティティが洗い落とされてしまいました。そして、残ったのは、ただただ合理的に利益を選択するという性質だけを持った、たった一人の純粋な人間です。

「ただし……ここが重要な部分なのですが、その人間は、自分自身のアイデンティティは喪失してしまったのですが、自分がいたところの世界については、全てを覚えている。つまり、その世界において、どういった概念的レベル・存在的なレベルでの、人間と人間との区別があったのかということを、全て覚えているわけです。ただ、その世界において、自分がどの位置を占めていたのかということだけを覚えていない。

「さて、そのような人間に対して、一つの声が語りかけてきました。「あなたは目隠しされた狩人です。あるいは、目隠しされた獲物かもしれません。あなたの手のひらにはスイッチが握られていて、そのスイッチを押すと、狩人が持っている銃から弾丸が発射され、獲物の命が奪われます。しかしながら、あなたは、自分が狩人であるのか獲物であるのか、それが分からないのです」「例え話はこれくらいにして、本題に入りましょう。私は、一つの機会を与えるために、あなたのことを、この時空間に一時的に移動させました。その機会というのは、世界というものを思うがままに変えることが出来る機会です。ただし、そうして変えられた世界の中で、あなたは、あなたが元々そうであったところのあなたに戻らなくてはいけません。そして、あなたは、自分が戻らなくてはいけない何者かが、一体どの人間なのかということが分からないのです。もちろん、あなたは、ある一人の人間にとって都合のいい世界というものを作ることも出来ます。しかしながら、その一人の人間が自分なのかどうなのかということだけは分からないのです。あなたはその人間なのかもしれないし、あるいはその人間の奴隷であるその他大勢の一人なのかもしれない」。さて、このようにして機会を与えられた人間は、一体どのような世界を作のか。

「これが「目隠しされた狩人の仮定」です。利益の最大化原理の中で、この仮定を主張する方々は、この問いに対してこう答えます。あらゆる集団に内在している内的原理から解放された個人は、このような提案を持ち掛けられた時に、その人間が合理的人間、他人についてのあらゆることに無関心であって自分の利益を最大化させることだけを考えている人間であればあるほど、自由的で民主的な、平等な社会を作ろうとするだろう。なぜなら、もしも、少しでも不平等な社会を作ってしまったら。当然ながら、自分が、その不平等の犠牲になる確率があるからだ。その人間が利己的であればあるほど、自分の犠牲には、絶対に耐えられない。従って、絶対的に平等な世界を目指すだろう。

「さて、この仮定を通して、仮定者は一体何がいいたかったのか。それは、こういうことです。あらゆる不平等が発生したのは、アンチファンダメンタリズムな一個人が・共同体的な全体から解き放たれた自分自身が、持っているところの利己的な性質のせいではない。その証拠に、「目隠しされた狩人の仮定」においては、その対象となる人間が利己的であればあるほど世界は平等になるのだから。この世界が不平等であるのは、むしろ、実存としての人間に付着しているファンダメンタルな自己同一性、共同体から貼り付けられたラベルの方なのである。それゆえに、もしも、本当に平等な世界を目指すのならば。あらゆるラベルを剥がされたところの実存的な人間と実存的な人間とが、全ての人間が同じ人間であるということを認め合い、そして、誰もが別の誰かの立場になりうるという前提のもとで、利己的な合意を結ぶことによって世界の一般原則を作り上げるべきである。そうすれば、真に平等な世界、要するに、誰かを傷付けない範囲であれば誰もが利益を最大化出来るという世界を生み出すことが出来るのだ。

「いやー……あはは、なんと申し上げればいいのか……「差別が良くないのは差別が良くないからだ」というのと同じレベルのことを、よくもまあこれだけ回りくどいいい方で主張出来るなぁと感心してしまいますね。それはそれとして。いうまでもなく、この主張は間違っているわけです。しかも、前提となっている仮定を世界に適用する時点で間違っているだけではなく、その仮定自体にも欠陥がある。二重に破綻している理論である。

「まずは、仮定自体が有している瑕疵から指摘していきましょう。その瑕疵とは、人間の不完全性という瑕疵です。あはは、またまたまたもや同じ話になってしまいますがね、とはいえ、別に、私としても好き好んで同じ話をしているわけではないのであって。人間至上主義者が、あまりにも人間という生き物を過信しているのがいけないんですよ。とにかく、もしも、あらゆるアイデンティティを漂白された人間が、目の前に選択肢を提示されたとしたら。その人間は、その中からある一つの選択肢を選ぶことなんて出来ないはずなんです。なぜなら、選択には、必ず価値判断が伴うからであって。アイデンティティを漂白された人間は、価値観というものを持たないからです。

「先ほどさせて頂いた「安全」と絡めてお話しするとすればですね、どの集団にも属さない人間というのは、どんな関係知性とも関係していないのであって、それゆえに快楽と苦痛とを区別出来ないということです。もちろん、人間という種が持っている生物学的感覚を感じることは出来ると思いますがね。それに対していわゆる「人間的な反応」を示すことはまず不可能でしょう。恐らくは、赤ん坊のように、泣くか泣かないかというレベルの反応しか返すことが出来ないのではないですかね。

「つまりですね、「目隠しされた狩人の仮定」においてアイデンティティを喪失したとされている人間は、正確にいえば、たった一つのアイデンティティを除いたあらゆるアイデンティティを喪失した人間だということなんです。そして、そのたった一つのアイデンティティとは――これもまた代わり映えのしない結論になってしまいますが――人間至上主義であるというわけです。

「この話はこれでお終いとしてもいいんですけどね。それだと、あまりにも芸がない。決まり切った人間至上主義批判を繰り返しているだけになってしまいます。それに仮定者の方々も、この反論にはなんとなく納得がいっていないでしょう。これはあくまでも思考実験である。そうであるならば、非常に極端な前提を置いても構わないはずだ。例えば……人間が、その選択の基準として、ある特定の関係知性ではなく、この世界全体を一つの集団として統一した上で、そこから抽出したところの完全に抽象的な関係知性によって、選択をするという前提。それならば、人間至上主義の影響から脱出したところで選択することが出来るだろう。

「なるほどなるほど、分かりました。それならば、そのように話を進めていきましょう。人間という種が、一つの全体的な集合として、人間の一個体に対し、中間的な集合体が持っている関係知性よりも大きな影響力を及ぼせるとして。そして、その影響力を、「目隠しされた狩人の仮定」の前提として置いて、話を進めていきましょう。その場合に、「狩人」は、一体どのような世界を作り上げるのか? その答えは、もちろん「どんな世界も作り出さない」です。そういう前提の下では、「狩人」は、人間という種を完全に抹殺することを選択するはずだからです。

「その「狩人」が合理的かつ利己的であればあるほど、一人として生き残ることなく、あらゆる人間が死ぬことを選択するはずです。なぜなら、その「狩人」は、もしかしたら自分が「獲物」になってしまうかもしれないということを恐れるから。言い方を変えるならば、もしかして、自分が、この世界で最も不幸な人間になってしまうかもしれないということを恐れるから。

「この仮定を考えた方は、恐らく、よほど幸せな世界に生きてきた方だったんでしょうね。その方のことはよく知らないのですが、例えば……まず間違いなく、EUの労働者がどのような生活をしているのかということを知らなかったのでしょう。私であれば、そのような生活をする可能性があるくらいならば死ぬことを選びます。そして、私達が人間である限り、その社会の根底には、どうしても、そういう奴隷的生活をする犠牲が必要となってくる。

「「目隠しされた狩人の仮定」から導き出される一般原則は、間違いなく、様々な差別を克服することが出来るでしょう。それについては私も同意します。その一般原則は、あらゆる概念的な差別を克服することが出来るでしょうし、あらゆる存在的な差別を克服することが出来るでしょう。しかしながら、その一般原則は富裕層と貧困層とという差別だけは克服出来ないはずです。なぜならこの差別は……実は、差別ではないからです。これは財力による差別などという単純なものではない。財力による差別ならば、富の再分配などで克服することが出来ます。しかしながら、これは、富裕層と貧困層とという違いは、差別などという単純なものではなく、一つの必然なのです。

「もしも、人間が、あらゆる集団を持たない、たった一人の個体であったならば。それぞれの人間が、完全な個体として、誰も彼もから孤立しているならば。それならば、この必然は発生しないでしょう。自分の生活を自分で生産し、それを自分で消費すればいいんですからね。けれども、それがどんな構造であれ集団が存在して、それがどんな方法であれ人間が所属しているのならば、その瞬間に、必然は必然として発生してしまうんです。なぜなら、その瞬間に、個人の生活は集団の生活になってしまうから。

「最も根本的な集団について考えてみましょう。親子という集団です。親がいて、子がいる。その場合、それぞれの生活はどのように関係し合うことになるか? 子が未成熟である場合。子は、自分の生活を自分で支えることが出来ません。そうであるならば、親は子を支えなければいけない。子は労働することなく生活を消費出来ることになる、つまり富裕層であることが出来るわけです。一方で、子は成熟したのだが、親が衰退してしまった場合。その立場は逆転し、子の方が、親の生活を生産しなければいけなくなる。

「つまり、集団においては、個人個人がそれ自体として有している様々な条件の決定的な不均衡のせいで、差別を超えたところ、生活の生産・消費というシステムの中に、ほとんど物理的ともいってもいいほどの必然性が発生してしまうんです。それは、どちらが生産に適しているか・どちらが消費に適しているかという話ではなく、むしろ集団内部における密度の差異なのであって、差別や適性やといった要素は、むしろ二次的な要素に過ぎない。それは、つまり、個人の中では一対一であった生産・消費の関係性が、集団内部に持ち込まれることによって、必ずそのバランスを崩してしまうという、当然の事実なんです。

「つまり、絶対的な平等というものは孤立からしか生まれ得ないんです。確かに、現代社会における技術的革新は個人の労働から一以上の生活を生産することを可能にしたかもしれません。でもですよ、人間が人間でしかなく、全知全能の力を持たない限りは、どう頑張ったって、ゼロ人の人間からゼロ以上の生活を生産することは出来ないんです。そして、やはり全知全能の力を持たない限りは、一人の人間が消費する生活の量をゼロ以下にすることは出来ない。そうであるならば、いかに技術が革新して、一人の人間が全世界の人間が生活するに十分な生活を生産出来るようになったとしても。その一人は、やはり貧困層として生きていかざるを得ないんです。

「どんなに差別を克服しても、奴隷という現象は克服出来ない。差別の犠牲者をなくすことは出来ても、生産の犠牲者はなくすことが出来ない。誰かは、必ず、労働者にならなければいけないんです。そして、よほど精神的に特殊な方でない限りは、労働が好きだという人間はいないんです。ああ、勘違いしないで下さいね。ここでいう労働とは、例えば私にとっての記者のような、そういった活働のことを指すわけではありません。活働を嫌がる人なんてね、少なくとも人間の中には一人もいませんよ。そうではなく文字通りの労働、日々の生活を途切れさせないためだけに行われるところの循環のエネルギーのことです。えーと、要するに排泄物の処理とかのことですね。これまでの全ての人間集団がそうであったように、これからの全ての人間集団も、そのエネルギーを生産する何者かを必要とする。

「そうであるならば、合理的かつ利己的であればあるほど、「狩人」は、全人類の自殺を選択せざるを得ないんです。その「狩人」が、中間的な集団、いわゆる共同体的な集団から自由であればあるほど、自殺以外の選択肢はなくなっていく。もしもですよ、もしも、その「狩人」が、なんらかの共同体的な感覚を有しているのならば。つまり、自分自身として実存的に選択をするのではなく。何かしら、共同体的なアイデンティティの感覚と共に選択を行うならば。それは、自殺以外の選択をする可能性もあります。

「そもそも、共同体的なアイデンティティというものは、そのようにして必然的に発生するところの富裕層と貧困層とという差異を誤魔化すために生まれたものなんです。いや、というか……むしろ、貧困層が、なぜ労働をしなければいけないのか。それだけを「説明」するために生まれたといった方がいいでしょう。共同体的な集団が共有する関係知性の中で、なぜ、ある特定の人だけが、他の人々よりもより多く労働しなければいけないのか、それを「説明」する。それが、アイデンティティというものの――全てとまでは言いませんが――主要な役割なんです。

「当然ながら、その「説明」なるものは、その共同体に属していない人間から見れば、明らかに不合理なものです。例えば、ある共同体で、女性にだけ生活の生産を押し付ける制度が採用されていたとしましょう。そして、その「説明」として、「男は家の外で働き女は家の中で働く」という論理が使用されていたとしましょう。この論理は、その共同体に属していないものから見れば明らかに不合理なものです。なぜなら、「家の外で働く」というのはつまり活働であって、「家の中で働く」というのは労働であるからです。この二つは等号で結び付けられるようなものではない。しかしながら、この論理が正当であるとされている共同体では……女性は、騙されることでしょう。「男も女も働いている」「それならば平等だ」と思うことでしょう。それどころか、本来は労働でしかない「家の中で働く」という行為は、この論理によって象徴的な意味付けが行われ、女性は、自分達が行っている労働に対して、まるで活働を行っている時に感じるような満足感さえ感じるでしょう。

「つまり、それは一種の洗脳であるわけです。本来は苦痛であるはずのことを幸福として感じさせるための精神的な操作。そして、これがなければ人間の社会というものは成り立たないんです。もちろん、いうまでもなく、この洗脳は巧妙でなければいけません。洗脳されている貧困層自体が、それについて洗脳であると気が付いてしまえば、苦痛を、それがあるがままの姿、つまり苦痛として受け取ってしまうんですからね。例えば、過去から現在へと続く共同体の中で、延々と受け継がれてきた「そうであった」という連続性もなく。ただただ、ある特定の人間に対して、唐突に「お前は貧困層の人間だ」と宣言したところで。そのアイデンティティは全く効力を発揮しないでしょう。このアイデンティティという制度は、非常に繊細であるところの、歴史的に構築された、質量を持つ空虚の上に成り立っていなければいけない。そして、そのアイデンティティこそが、富裕層と貧困層とという必然の中で、貧困層が自ら命を絶つことを、あるいは富裕層を皆殺しにして自分こそが富裕層であろうとすることを防ぐことが出来るのです。

「と、いうことで。このアイデンティティを剥ぎ取られたところの「狩人」は、自分が苦痛と嫌悪とを受けることを避けるために、人類を皆殺しにするしかなくなるということですね。まあ、とはいえ……ただ一つだけ、この「狩人」が、人類を皆殺しにしない方法があります。それは、人間の中に存在する生活の必要性の、その生産・消費の関係性が、完全に一対一となるように一般原則を構築するという方法です。もっと分かりやすく言うとするならば、あらゆる人間が、自分の排泄物を自分で清掃するような世界にするということです。まあ、自分の家の中にバイオトイレットを設置するのでも、あるいは全ての人間に排泄物処理センターへの勤務を義務付けるでもいいですが、そういうことですね。

「それは、あらゆる人間に対して自分自身であるということを強制するという意味で、完全な全体主義であり、また、完全な個人主義であるはずです。まあ、これならば、誰一人として富裕層となるわけでもなく誰一人として貧困層に陥る危険性もありませんからね。もしかして、自殺を選択しないかもしれません。ただし、その「狩人」が、絶対的な孤独を味わうということを絶対的に強制されることに対して、耐え抜いていけるだけの強さを持っている場合に限ってですが。

「あはは、えーと、この方法に対して、それはあまりにも極端過ぎるということおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんね。例えば、ちょっとぐらいの差別、それこそ合理的に我慢出来るぐらいの差別であるのならば、利己的な「狩人」であっても耐えられるのではないかと。まあ、そうですね、「ちょっとぐらいの差別」であれば耐えられるでしょう。しかしながら、その「ちょっとぐらいの差別」というのがどれくらいの差別であるのかということを、「狩人」は何を基準にして決定すればいいというんですか? 「狩人」は、何一つ、外的な基準を有していないというのに?

「もちろん、「卓越」した方々は、自由な個人と自由な個人との対話によって決定されるべきだというでしょう。あはは、「狩人」という一人の人間の中に、二人の自由な人間を生み出して。その二人の人間が議論することによって決定されるべきだとね。しかしながら、その議論、上位にある裁定者もいないというのに、どうやって決着するというのですか? 例えば、例えばですよ。二人の人間の間で、本当に少しばかりの差別、一日の終わりに排泄物を焼却するためのボタンを一度だけ押すという差別を残したと仮定しましょうか。私ならば、その差別にさえ耐えられませんね。だって、毎日毎日、延々と、私だけがそのボタンを押すわけですよ。しかも、私がそのボタンを押さなければいけないという理由は一つもないにも拘わらず。私なら気が狂います。そしてある日、もう一人の人間を殺してしまうでしょうね。

「それを避けるためには、その「ボタンを押す」という行為さえも、厳密に・平等に、分けなければいけないわけです。人間はね、なんの理由もなく押し付けられる理不尽な差別であれば、それがどんなものであれ、最終的には耐えられなくなるものなんです。もちろん、特殊な例外を除いてという話ですが。とにかく、こういう風に一つ一つの例を検証していけば、その結果として、必ず、生産と消費とを一対一で分けるという方法しかなくなるでしょう。

「つまりですね、「目隠しされた狩人の仮定」を一切の妥協なく適用しようとすればするほど、「狩人」が取れる選択肢は二つしかなくなってくるというわけですよ。自殺か、あるいは全体主義的な個人主義か。なぜなら、人間は、その必然として不完全性を孕んでいるから。そんなわけで、この仮定は原理原則の段階で破綻していると言うことが出来るわけです。」

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