第二部プルガトリオ #30

「あのですね、砂流原さん。全体主義の中でも最悪の形のもの、つまり、革命権を持たない全体主義というものは、決して「ヴィラン」によって作り出されるものではないんです。そうではなく、それは、「ヒーロー」によって作り出されるものなんです。誰もが、その内的原理における「ヒーロー」になろうとする。誰もが、その内的原理だけが正しいと盲信し、そして、それに反対するあらゆるものを悪であるとして糾弾する。その時に、カキストクラシーとしての全体主義、全体的劣悪制度が誕生するんです。

「つまり、アーガミパータを例とするならば。自分こそが英雄になれると考えた、その感動こそが、アヴィアダヴ・コンダを滅ぼしたということです。あるいは、テロリストに対する憎悪、神国主義に対する憎悪、あらゆる権力・あらゆる権威に対する憎悪こそが、アヴィアダヴ・コンダを滅ぼしたということです。そういった、感動と憎悪とが、不可謬の物語を生み出して。その物語に所属する「ヒーロー」達が、その物語に対して少しでも異議を唱える者を、片っ端から粛清していく。こうして、全体的劣悪制度が。血の蜜と骨の茎と、それに柔らかい内臓の薄片で出来た花びらを持つ、残酷な薔薇の花が、美しく花開いたということなんですよ。

「つまりですね、私が言いたいのは――本当に、私がいいたいことは――「正しさ」なんてどうでもいいということなんですよ。抽象的な「正しさ」、卓越性。人間がeternityになる方法。永続する何か、安定した何か、不死ではない人間が耐えられないような永遠の時の中でも、決して消え去ることのない耐久性を持つもの。公的空間で行われる言葉と行為とによって優れていると認められ、「現実」として固定されるということ。人間にとっての真実、人間にとっての善良、人間にとっての美徳、人間にとっての愛情。「卓越」した方々が、真の幸福と呼ぶもの。つまり、人間が人間であるための条件。そんなものは、どうでもいいんです。

「だって、だってですよ。真善美愛だとか、真の幸福だとか、偉そうなことをいってはいますがね。それを考えてきたのは、それを考えているのは、それを考えていくのは、所詮は人間なんですよ? 不完全な生き物であるところの人間なんです。それは、もちろん、遥か未来の世界では、少しくらいは進歩しているかもしれませよ。人間が神々に近い生き物まで進化していくという可能性も――まあ、私は、人間程度の生き物であれば、そこまで進化する前に絶滅すると思いますが――絶対にあり得ないわけではありません。とはいえ、今の人間は、明らかに下等知的生命体なわけです。そんな人間が、人間として、自分自身の実存と自由とを基準にして考え出したところの「正しさ」。そんなものが素晴らしいものであるはずがないんです。人間が今まで考えてきた、あらゆる価値観、あらゆる内的原理、あらゆる「正しさ」。そんなものは、全て、どれもこれも、似たようなものなんです。ある一つが、他のどれかに対して絶対的に優越したものであるなんていうことがあるはずがない。だって、そのどれもこれも、全く同じように、人間が考え出したものなんですから。

「砂流原さん、砂流原さん、これもまたやはり、勘違いされている方が非常に多いことの一つなんですけれどね。この世界において、悪意によって引き起こされる行動というのは非常に稀有なんです。この世界には、人間も、それ以外の生き物も、全部ひっくるめて、邪悪なんていうものはほとんど存在していない。それはまあ、全くないとは言いませんよ。あはは、デニーさんだとか、レノアさんだとか、そういうタイプの人もいますからね。けれどね、砂流原さん、それは滅多に現れることがないもの、珍しい精神病みたいなものなんです。悪意なんていうのはね、恐らくは真実の善意よりも希少なものなんじゃないですか?

「つまり、人間は、善良でも悪辣でもないんです。ただ単に、生命体として不良品なだけなんですよ。それが「悪」であるならば「悪」ではないものにすることも出来るでしょう。しかしながら、そうではない。本質的に、根本的に、設計図から書き間違えてしまっている。だから直しようがない、修正のしようがない、そういうタイプの、出来損ないの玩具みたいなもの。それが人間なんです。そうであるならば……私達は「悪」について考えても仕方がないんです。私達は「悪」ではないのだから。私達が考えるべきことは、こういうことなんです。不完全な生き物が、いかにして「正しさ」というものを手に入れることが出来るか。あるいは、少なくとも、間違わないでいることが出来るのか。

「私達にとって「正しさ」の内容はどうでもいいんです。私達が問題にすべきなのは、その「正しさ」がどう主張されるか。その方法論なんです。私達はあまりにも不完全で、絶対に「正しさ」を手に入れることが出来ない。神々が「正しさ」の方向に導いてくれるか、それかなんらかの奇跡でも起こるかしない限りはっていうことですがね。とにかく、そうであるならば、私達は、方法を考えるべきなんです。かくも不完全な生き物が、致命的な間違いに至らないための方法を。

「どうすれば間違わずに済むか? どうすれば全体的劣悪制度に陥らずに済むか? あはは、まあ、ここまでの議論で手を変え品を変え、散々言ってきたことですからね。またここで繰り返すのも大変恐縮なんですが、それは、自分が愚かであるということを自覚することです。自分が、この世界で最も愚かな生き物であると理解すること。この世界で唯一信じてはいけないのは、他ならぬ自分自身であると確信すること。そして、これを具体的な行動指針にまで落とし込むならば、つまり……内的原理の絶対化を阻止するということです。

「私達が警戒すべきなのは内的原理の内容ではないんですよ。それが絶対化してしまうこと、不完全な生き物が神になってしまうことこそが問題なんです。要するにですね、価値観自体が危険なのではなく、本当に危険なのは、価値観が持つ「熱量」であるということなんです。この意味で――あはは、また、ちょっとばかり話が逸れてしまいますが――人間至上主義的な、自由民主主義国家というものは、政治形態の中で最悪のものといっても構わないでしょうね。砂流原さんは、それがなぜか分かりますか? もちろん、集団が持つ価値観というものが、容易に絶対化してしまうからです。

「いえ、いえ、違います違います。別に、私は、自由民主主義国家が、政治的な思想統制によって、いとも易々と独裁国家に転落してしまうなんていう、下らない戯言をしたいわけではないんです。というか、独裁国家になれるのならば、それはまだ救いがある方ですよ。だって独裁国家は……少なくとも形あるものですからね。それは破壊することが出来るものであり、本質的に革命権が内在している政治制度です。しかし、自由民主主義国家は違う、全く違う。それは、ある意味で、最も完全な全体主義国家です。

「神国主義は……自由民主主義よりも、遥かに自由で、遥かに民主主義的な制度でした。なぜなら、そこには絶対的な権威というものが存在していなかったからです。以前にも少し申し上げたことですがね、神国の時代には、はっきりとした国境なんていうものは存在していませんでした。なんとなく、ぼんやりと、ここら辺までは、ある神Aの領域であって。そして、そこから先はある神Bの領域であって。その中間地帯には、例えばダコイティだとか、そういった、支配者を持たないアウトサイダーのための領域が残されていた。まあ、確かに、関所だとか関門だとか、そういうものはありましたけれどね。それも、それほどしっかりしたものではありませんでした。ちょっと山の方を通ったりだとか、海の方を通ったりだとか、あるいは……あはは、ここみたいな沙漠を通ったりだとか。そうすれば、簡単に出入りすることが出来たんです。

「しかもそれだけではありませんでした。例えば、ほとんどの神国では三権分立という非常に優れた制度が採用されていました。あはは、そうそう、このカリ・ユガ龍王領でも採用されていますよね。自由民主主義国家のように、国民の多数派が持つところの「正当なイデオロギー」に全ての権威を持たせるのではなく、もっとニュートラルな権力者、つまり、神権・俗権・軍権という三種類の権力者に権威を分割するということです。こうすることで、「宗教的なイデオロギー」「世俗的なイデオロギー」「軍事的なイデオロギー」という三つのイデオロギーを誕生させる、それらが相互に牽制しあうことによって、一つのイデオロギーに正当性が集中することを防ぐことが出来るわけです。まあ、「三権分立」の「権」とは権力のことを指すのではありますが……もちろん、いうまでもなく、権力よりも権威の方が遥かに危険なわけですからね。この制度の実際の目的は、権威、つまり正当性の分割にある。

「あるいは他にも、非権力的な中間団体がある種の権威的イデオロギーを持つことを許されてもいました。ほら、これですよ、これ。今、私がつけているこのイヤーリング、砂流原さんがつけているそのイヤーリング。これをつければ、神々の思考ロックから逃れることが出来るわけですからね。そうすれば、ある程度、正当な権力者が持つ権威とは違う場所で何かしらの権威を持つことが出来たんです。例えば、職人達が作る同業者組合とか、地主を中心とした土地共同体だとか。それに、「深きところを泳ぐ魚」と呼ばれていた、迫害されていた時代のトラヴィール教徒だとか。そういった、様々な権威が、それぞれ複雑に絡まり合っていたんです。

「だから、それぞれの権威的イデオロギーが持つ「熱量」というものは、非常に限られたものに過ぎませんでした。そもそも、そういった「熱量」を感じることが出来る、あるいは作り出すことが出来る、そのための教育のレベルも、注意深く管理されていましたしね。とにかく、集団の関係知性の中で、たった一つの内的原理が強大な力を持つことはなかったんです。

「その代わりに、そうやって、様々なイデオロギーによって複雑に織り成されたところの、一つの思考の形式が、人間を支配していたわけです。その思考の形式は、一つの集団だけを支配していたわけではありませんでした。その付近にある、空間戦略学的に接続している集団の全てが、その形式によって支配されていたんです。だから、思考を支配されていたから。人々は、逆説的に権力から自由になれたんです。だって、考え方が似通った人々の間では、その考え方によって、自制的な秩序が生まれてきますからね。そのおかげで、絶対的な権力――ここでいう絶対的とは、その力の大きさを指しているのではなく、その不寛容さを指しているわけですが――によって秩序を押し付ける必要はなかったということです。

「しかしながら、自由民主主義国家は、このように自由で寛容な態度をとることは出来ません。そんなこと絶対に不可能です。なぜなら、自由民主主義国家の自由性・民主性というのは、思考の形式に関わるエトセトラだからです。実存的な自分自身以外から、思考の形式を押し付けられないということ。そういった形式を自由に選択出来て、また、民主的に決定出来る。それこそが、自由民主主義という制度だからです。

「この場合、人間同士が相互に理解し合うことを期待することは不可能です。なぜなら、「これこれという考え方をすることが正しい」といういわゆる常識的な判断を、それぞれの人間に対して期待することが出来ないからです。そんなことをしてしまえば、一つの考え方、一つの思考の形式をその人間に押し付けてしまうことになってしまいますからね。人格の形成に対する自由は、絶対に侵害されてはいけない。そうであるならば……あることをしていいのか・してはいけないのか、そういったことを、法律によって決定して。そして、絶対的な権力が、その行動を管理しなければいけなくなるわけです。

「神国主義は、思考の形式からは自由になれないが権力からは自由になれる。自由民主主義は、思考の形式からは自由になれるが権力からは自由になれない。あはは、そうなんです。自由民主主義国家における権力というものは、神国主義における権力よりも、遥かに中央集権的であって、遥かに絶対的な権力なんですよ。そこから自由になることが許されないところの、完全な権力機構。そもそもですね、ある一定の、確定した国境の内側にある領域。その全体を、思考の形式を統一することなしに管理するためには、どうしたって中央集権が必要になってくるんです。自由民主主義国家とは絶対的な権力によって保障されている国家なんです。

「それでは、その権力を持つ者とは一体誰であるのか? そう、人間です。語のそのままの意味で、全き純粋さとしての、人間なんです。その人間は、人間以外が作り出したあらゆる思考の形式を拒否することを求められます。そうして……例えば、神々が作り出した価値観。あるいは、前の世代が、前の前の世代が、前の前の前の世代が、今まで延々と続いてきたところの、過去から未来へと続いていく、「現在よりも少しでもましになろう」としてきた人間達の時間的な集合体、転向し続けてきた思想の歴史。そういった構造を全て相対化して、自分自身という実存のみを絶対化したところの人間が、公的空間における何もかもを決定する。それが、自由民主主義という制度なんです。

「そう、何も纏っていない「裸の人間」が、全ての権力を有しているんです。神権も、俗権も、軍権も。あらゆる権力の一角を執っているんです……え? ああ、すみません、月光国では一般的な言葉ではありませんでしたね。えーと、「一角を執る」っていうのはですね、ヴェケボサンの支配領域だったところでよく使われている比喩表現でして、何かの中心となってそれを支配しているとか、そういう意味を指す言葉です。とにかく、自由民主主義国家においては、権力が分立していない。そして、そのために、あらゆる権力を握っているところの「裸の人間」が、あらゆる権威さえも独占してしまっているんです。

「私はここまで、自由民主主義について、それが多数者による専制に陥ることが問題なのだと申し上げてきましたね。しかしながら、実のところ、それは表面的な問題に過ぎないんです。もっと、もっと、根本的な問題。それこそが、この権威の独占の問題なんです。「裸の人間」だけが、集団を構成しているその他の構成員に対して支配を行うことが出来るとしている。そのために、支配と非常に深い関係性で結び付いているところの権威的イデオロギーさえも、「裸の人間」だけが持つことを許される。それによって、「正しさ」が一本化される。こうして「正しさ」に関する相互監視機能が失われてしまうんです。

「あはは、えーと、誤解がないように、念のために言っておきますがね。もちろん、これは論理的なモデルであって、現実の世界では、ここまで危険な国家というのは、未だ存在していません。例えばEUにおいては、ご存じの通り元帥院が存在しています。これは権威を軍事と民事に分けることによって、「正しさ」の相互監視機能をぎりぎりのところで担保する制度であるわけですね。それ以外にも――人間至上主義国家ではありませんが――パンピュリア共和国においてはノスフェラトゥとトラヴィール教会とで権威を分立させているわけですし、エスカリアでさえ体制派である政権と反体制派であるテロリストとの間で権威のバランスがとられているわけです。

「「裸の人間」に限らず、何か単独の人間的権力者に権威を独占させるというような、この上なく愚かなことをしている国家は、幸いなことに誕生していません。それは恐らく、何ものにも規制されることのない自由民主主義だとか、そういった制度が間違いなく危険であるということを、あまりにも低能な人間達も、さすがに理解しているからなのでしょう。あはは、完全な自由民主主義制度! これほど恐ろしいものはなかなか考え付くことが出来ませんね。もしもそんな国家が誕生してしまったら……EUにおける貧困層の生活さえも蜜の味がするニルヴァーナと思えるような、本当の地獄になることは、まず間違いのないことでしょうね。

「とにかく、自由民主主義国家には、自分自身が「正しさ」だと思うところの「正しさ」が本当に正しいものであるのかということを考えるだけの賢明さが欠如しているわけです。そう、その国家には……革命権さえも存在していない。先ほど申し上げたように、いわゆる独裁国家と呼ばれている国家、エスカリアにおいては、反体制派のテロリストが存在しています。そして、存在しているというだけではなく、それが一つの権威となっている。「スペキエースは人間よりも優れた生き物である」「従ってスペキエースは人間をより良き世界へと導くべきだ」、こういう価値観に対して、疑問を抱かせるだけの、集団内部での正当性を獲得している。これは、ある種の革命権です。集団内部に顕性正当性と潜性正当性とが存在している、「命を革める」ための下地があるわけですから。

「一方で、自由民主主義国家は、そういった革命権を内的に担保していないわけです。EUにですよ、潜性正当性の単体となり得そうなテロリストがいますか? もちろん、テロリストはいますよ。人間至上主義に反対して、その打倒をもくろむようなテロリストは、いくらでも存在しています。とはいえ、それらのテロリストは、集団内部での正当性というものを、一切獲得出来ていない。EUにおいては、テロリストはただの犯罪者なんです。

「これがなぜかといえば、自由民主主義という制度は、全ての人間に対して体制派であることを強制するからです。自由民主主義においては、あらゆる構成員が単一の権力単体に吸収されてしまうんですよ。「裸の人間」という構成員にね。そして、そのようにして本来は権力者であるはずの構成員が、テロリストとなって体制派に対する攻撃を仕掛けるのは。それは、その構成員が、自分自身以外の何者かによって、一時的に洗脳されているからだと考えるわけです。そのテロリストとなってしまった構成員は、自分自身を、本当の自分を見失っている。そして、何かしらの構造に捕らわれてしまっている。だから、その構成員の思考の中からその構造を切除して、実存としての自分自身に戻すことさえ出来れば。本当の人間、「裸の人間」に戻すことが出来れば、それこそまさに自由民主主義の権力単体であると考える。

「いやー、あはは、恐ろしいですね。まさに全体的劣悪制度そのものの考え方だと思いませんか? 誰一人として、本当に誰一人として、その制度から逸脱することを許さない。これはですね、砂流原さん。例えば神国主義が人間至上主義のことを間違っているというのとはわけが違うんですよ。いいですか、そういう争い、つまり神国主義が人間至上主義に対して仕掛ける争いというのは、あくまでもどちらの構造が優れているのかという争いに過ぎません。しかしながら、自由民主主義が、人間至上主義が、主張しているところの主張は。人間は、その本質として、人間至上主義者でなければいけないという主張なんです。

「間違っているとか、おかしいとか、そういう相対的な問題ではないんです。もっと絶対的な問題、人間イコール人間至上主義という真理の問題なんです。「そのイデオロギーについて間違っているかもしれないと思うことを許さない」というようなレベルの話ではない。その疑いそれ自体が人間至上主義だといっているんです。人間至上主義者はね、私が、あなたが、その他のあらゆる人間が。真実の姿を、イデアを、取り戻したら、それこそが人間至上主義だといっているんです。人間至上主義は、宗教だとか、思想だとか、という段階にあるのではない。そういったもの全ての土台となるものこそが人間至上主義だといっているんです。

「人は、構造から自由にならなければ疑うことが出来ない。ならば、全ての構造から自由になろうとする自由主義こそが疑いそのものの基盤ではないか? 民主主義は、人間が、人間として、人間のために、集団の方向性を決定していこうとする制度だ。そうであるならば、それは、人間が制度を作ろうとする時の、あらゆる基盤となる制度である。そういうことなんですよ。

「このようにして、自由民主主義国家という制度は、権力の面でも権威の面でも、絶対的な中央集権国家だということです。そして、人間が抱くあらゆる疑いは、自由民主主義国家だからこそ保証されているという論理によって。自由民主主義制度に対する疑いさえも、自由民主主義的な行動だと規定するわけです。あはは、これこそまさに全体的劣悪制度! そういうわけで、私は、自由民主主義制度が、これまでに存在した中で最低最悪の政治制度だと考えているわけです。

「さて、閑話休題。物語というシステムが現実にとっていかに有害であるかという話に戻りましょう。ああ、そう……そうなんですよ。物語とはシステムなんです。「卓越」した方々が真の幸福と呼んでいるものを製造するための、一つの巨大なシステムなんです。「卓越」した方々は、私達が幸福と呼んでいるところの幸福を幸福とは呼びません。私達が幸福と呼んでいるものとは、ここでわざわざ繰り返す必要もないと思いますが、基本的には生存の保証を指しています。しかも、ただの生存ではない。肉体的に安全で生物学的に充足した生存。明日死ぬかもしれないという恐れのない生存のことです。

「「卓越」した方々は、この幸福のことを快楽と呼びます。ただ単に、動物的に満ち足りているに過ぎない。それは人間という種類に特有の、人間にとっての真の幸福という概念とは異なったものだといいます。それでは、「卓越」した方々にとっての真の幸福とは、一体何なのか、それはですね……はははっ! ああ! 失礼! ちょっと、口にするのも憚られるような、あまりにも低能の発想なんですけどね。それは「人間の勝利」です。

「砂流原さん、「人間の勝利」といってもですね、この「勝利」は、私達が勝利という時の勝利とは少しばかり異なっているんです。何か、明確に存在している具体性に対しての勝利ではない、そうではなく、抽象的な・概念的な勝利なんです。例えば、それは……この永遠に対する勝利です。永遠に続く時間というものに対する勝利。私達は死すべき存在ですよね。まあ、ちょっと特殊な方々は――アルファ知性所有者の方々とか――恐らく永遠に生き続けるだろうなってところもありますけれどね。とはいえ、基本的には、私達は死ぬ。死んで、後には、私であったものを何一つ残すことなくcollapseに戻るわけです。

「しかしながら、人間は、その永遠の時間というものに対して勝利することが出来る。いや、まあ、本当は勝利することが出来ると思い込んでいるだけですがね。とにかく、主観的には勝利することが出来る。これもまた、以前申し上げたことではありますが……一つの、任意の集団があると仮定して下さい。その集団の内部で、とある死すべき運命を持っている人間が、私的領域を確保する。そうすると、その人間は、ただ単に人間という動物であることをやめて、公的領域の一員としての人間であることの権利を手に入れるわけです。さて、そうして公的領域の一員となった人間は、もちろん、その集団の中で現実性を手にするわけです。実際に存在していると、公的領域によって承認されるということですね。

「個体であった人間は集団に取り込まれる。公的領域を形作る巨大な構造体の一部になる。そうすることで、人間は――公的領域と同化した人間は――その公的領域が生き続ける限り、生き続けることが出来るようになるわけです。もちろん、ここでいう生きるというのは生物学的に生きるというわけではありませんよ。私であったものが、私という意味が、過去から未来へと続いていく公的領域の意味の一部として、時間的に延長するという意味です。こうすることで、人間は、少なくとも公的領域が続く限りは、永遠という時間に勝利することが出来る。

「あるいは、無限に続く空間に対する勝利も「卓越」した方々にとっての勝利といっていいでしょう。人間は、基本的には、大地に結び付けられている存在です。まあ、特殊なスペキエースの方ならば、飛行能力がある場合もありますけれどね。ただし、人間という種類のベースメントとなる肉体は、飛行という能力が前提となっているものではないわけです。ということは、本来であれば、人間という生物が移動することを許されているのは、無限に続く空間の中のほんの一部分でしかないということです。

「しかしながら――またもやこれも思い込みに過ぎないのですが――人間は、その無限に続く空間にも勝利することが出来る。人間は科学的な力・魔学的な力によって、自分の表面を覆うもの、自分という物質と世界という物質とを隔絶するもの、つまり「皮膚」を強化することが出来るわけです。人間と人間とが協力し合い、巨大な「皮膚」を、あるいは、宇宙空間に耐えることが出来るほどの外殻を作り出すことが出来る。こうすることによって、人間は、無限の世界を移動することが出来るようになる。

「えーと、後になって改めて説明させて頂くことになると思うのですが、今挙げた二つの例は、厳密にいうと少しばかり性質を異にする勝利です。前者はいわゆる実存的な勝利であって、後者はいわゆる科学的な勝利ですね。そして、後者については、それを「人間の勝利」とするには多少の留保が必要となってくるのですが……まあ、とにかく、今は「勝利」の性質についての話を終えてしまいましょう。

「これらの二つの例からお分かり頂けると思うのですが、「卓越」した方々にとっての「勝利」とは、人間という種類の生き物が、人間そのものから実存的に引き出される要素以外の、外的な要素によって拘束されている、その拘束に対する「勝利」だというわけです。つまり、人間そのもの、人間のイデア、人間の……自分自身。そういったものであると、「卓越」した方々が考えているところのもの以外の、あらゆる要素を。押し付けられたレッテル・貼り付けられたラベルとして引き剥がしていく過程のことを、「卓越」した方々は勝利と呼んでいるわけです。

「ただし、ただしですよ。その「勝利」は、あくまでも「人間」のものでなければいけない。そう、「人間の勝利」でなければいけないんです。ここで、先ほど留保した、実存的勝利と科学的勝利との違いの問題が出てくるわけですがね。よくよく考えてみて下さい、この世界に対して、完全に、科学的に勝利した人間のことを。永遠の時間と、無限の空間と。その二つに対して勝利した人間のことを。それは果たして人間と呼べる生き物でしょうか。時間的にも空間的にも、遍く宇宙に膨張した物体。それを人間と呼べるのか? あはは、無理ですよね。それは人間ではありません。それは、何かしらの「科学的動物」です。人間ではない。

「人間自体が勝利しなければいけない。そうでなければ、その勝利は逆転して敗北になってしまうのです。「科学的動物」に対する人間の敗北にね。それでは、人間自体は、いかにして「科学的動物」に勝利しうるのか? 「人間の勝利」とは、「卓越」した人々にとっての信仰の対象、つまり実存というイデアの勝利です。そうであるならば、この科学的勝利を、実存的勝利に落とし込むことが出来れば、それが「人間の勝利」となり得るわけです。

「そうであるならば、先ほど挙げた二つの例のうち、前者について、もう少し考えていく必要があるでしょうね。この実存的な勝利の過程において最も重要な特徴とは何か? それは、現実性です。人間が現実として認識出来るということ。現実として内的原理に適合させることが出来るということ。

「砂流原さん、一足す一は幾つだか分りますか? あはは、もちろん分かりますよね、二です。しかしながら、この「一足す一は二」という数式にこそ、科学的勝利という勝利のあらゆる不完全性が表れているんです。つまりですね、その不完全性とは、「一足す一は二」という数式だけでは、一と一とを足し合わせた答えが二であるということを証明出来ないということです。

「だって、そうでしょう? それが目の前にあるかないか、現実の物体であるかないか、それはどちらでもいいですがね。ある一つの物体と、もう一つの物体と。それらの二つの物体が、実際に二つの物体であるということを理解して初めて、人間は「一足す一は二」であるということを証明することが出来るんです。いや、それどころか。もしも、この世界に、あるいは私達の想像の世界の中に、それらの二つの物体がなければ。私達は、「一足す一は二」であるということを知ることさえ出来なかったでしょう。

「つまりですね、なんらかのin-betweenerによって人間と世界とが媒介されていなければいけないということなんです。そうしなければ、人間にとって世界とは現実になりえない。人間という生き物にとってですね、この世界というものは、基本的には架空の概念に過ぎない。それを、現実という安定性を持った存在にまで高めるためには、人間によって……語の意味そのものの方法で「理解」されなければいけない。それは、人間の理として解体されなければいけないんです。そうしなければ、人間にとって、二足す二は魚だということだってあり得る。

「さて、それでは……その「理解」というものは、いかにしてもたらされるのか? あはは、その一つの方法としては、先ほどのように、自らの感覚として経験するという方法が考えられるでしょうね。しかしながら……実際のところ、これは大変不完全な方法なんです。なぜか? 人間は、一人だけでは、知性というものを持ちえないからです。砂流原さんもご存じのように、人間は、生物学的には関係知性を有する知的生命体に分類されます。ということは、自分自身というものは決定的な評価の基準とはなりえない。なぜなら、人間の持つ知性というものは、その人間が所属するところの集団が持つ関係知性の断片に過ぎないからです。

「ということは、人間が、その現象を、その物質を、「理解」するためには。当然ながら客観的である必要があるということです。もう少しまとまった形で言い換えるならば、現実とは客観的な安定性であるということですね。はははっ! なんだか馬鹿みたいに当たり前な話になってしまいましたね、とはいえ、これを本質的に理解するということはかなり困難なことです。

「客観性とは何か? それはinter-est、つまり人と人との間にあるということです。とある人間の活働――ちなみにこの場合の「どう」という易字は、ニュートラルな意味の「動く」の字を使うのではなく、目的性を有した「働く」の字を使った方がいいと思いますが――と、別の人間の活働とが、一つの織物のように織り成しあって、何かしらの意味を持つ巨大な集合体を作り出す。そして、その集合体が有する関係知性によって、ある一つの物体ともう一つの物体とが合わさった時に、それは四分の一の魚になるのではなく二つの物体となると認識された時に。初めて、一足す一は二となり得るというわけです。

「そう、もうお分かり頂けましたね? つまり、現実性とは、物語の中で獲得されるものなんです。人間と人間とが互いに関係し合うことによって紡ぎ出される物語、その物語の中に組み込まれることによって初めて、あらゆる物質が、あらゆる現象が、人間にとって理解可能なものとなりうる。現実となりうるんです。

「あはは、もしかして……もう少し踏み込んだ言い方をした方がいいかもしれませんね。私達は、つい先ほど、「卓越」した方々にとっての「人間の勝利」とは人間が実存的な人間として動物的な人間を超えていくことだと規定しました。さて、動物的な人間の、最も動物的な側面とは何か? それは、循環運動という側面です。あらゆる動物には始まりがあって終わりがある。吸気と呼気と、食事と排泄と、生と死と。その循環運動から逃れるためにはどうすればいいか? もちろん、それを直線運動に変えればいいのです。つまり、あらゆる循環運動を車輪に変換する、直線に進むための道具であると認識するということですよ。あらゆる呼吸を、あらゆる消化を、あらゆる生存過程を。何か、一つの、巨大な目的へ向かうための手段だと考える。そうすることによって、初めて、人間は……あはは、栄光の羊となり得る。

「物語とは、システムです。人間に現実性を提供するための、人間に栄光を付加するための、巨大なデミウルゴスであるわけです。そして、このデミウルゴスの手によって、科学を理解可能なものにする。物語の中に組み込むことによって、科学を、魔学を、人間の内的原理のレベルにまで落とし込む。そうすることによって、人間は、初めて、実存的な方法でその結果を享受することが出来ることになる。人間は、人間のままで、人間を超えていくことが出来るようになる。

「と、まあ、このように「卓越」した方々は考えているわけですよ。そして、だからこそ、私達は物語を否定しなければいけないわけです。この、人間が作り出した、何よりも危険な、何よりも愚昧な、一つのデミウルゴスを殺さなければいけないわけです。アヴィアダヴ・コンダを破滅させ、ダコイティを虐殺した、デミウルゴスを殺さなければいけない。

「さて、デミウルゴス殺しを始めるにあたって、まず、最初に指摘しておかなければいけないのは……いわゆる「人間の勝利」というものは、どう考えても「人間の勝利」ではないということです。つまり、生物学的に規定された限界を超えていくのは、人間だけではないということです。

「例えば、永遠の時間に対する「勝利」について考えてみましょう。人間と人間とが一つの公的領域を作り上げ、自らの意味をその一部とすることで永遠となり得るという話です。ただですね、これは、私達からしてみれば、蟻が蟻塚を作るのと何が変わらないのかという話になってくるわけです。蟻と蟻とは、自分達の行為を紡ぎ合わせて、一つの巨大な蟻塚を作り上げます。そして、その蟻塚は、少なくとも蟻の視点から見れば永遠に近いほどの耐久性を持つものです。「卓越」した方々のいう「人間の勝利」というものは、この蟻塚と、一体どんな変わるところがあるというのですか?

「つまりですね、私がいいたいのは、公的領域というのは言葉と言葉とで作り上げられた蟻塚でしかないということです。普通の蟻塚は土くれと土くれとを紡ぎあげて作り上げられますがね、材料が変わったというだけで、それは本質的になんら変わるところはないはずです。

「もちろん、「卓越」した方々からすれば、それは全く異なっていると主張したいところでしょうね。公的領域は蟻塚とは全く違うものだ。公的領域において、人間は循環運動から逃れることが出来る。一方で、蟻塚の中にいようとも、蟻は循環運動から逃れることは出来ない。まあ、それはそうですね。ただ、もう少しよく考えて頂きたいんですけどね、蟻という生き物は、将来的にどうなりますか? まさか未来永劫にわたって蟻のままであるわけではないでしょう。蟻は、最終的には、進化するか絶滅するかするわけです。ということはですね、確かに、蟻という生き物は、その個体のレベルでは循環運動を繰り返してはいますが、その種全体で考えてみれば、人間と同じように、その循環運動から逃れている。どこかからどこかへと向かう直線運動を行っているわけです。ただ、まあ、もちろん、目的意識などというものはないわけですがね。

「そうであるならば、そもそもの話として、自然に生きる全ての生き物が循環運動に拘束されているという規定自体が間違っていたということです。つまり、未来永劫にわたって循環するものなどこの世界には存在しないんですよ。もちろん、本当に、ごくごく一部だけを見れば回帰しているように思えることもあるでしょう。しかしですね、それは……先ほどの例えを使うとすれば、人間という生き物が虫けらのように小さいせいで、世界という車の車輪しか見ていないせいでしかない。

「要するにですよ、「人間の勝利」というものは、「人間」のものではなかったわけです。あらゆる生き物が、今、この時においても、勝利し続けている。それでは、「人間の勝利」の「勝利」の部分はどうでしょうか。人間は、本当に勝利しているのか? もちろん、勝利していません。これは馬鹿みたいに当たり前なことなので、ちょっと口に出して言うことも憚られるんですがね、人間は永遠になり得ないわけですし、人間は無限になり得ないわけです。人間が到達しうる永遠は、蟻にとっての蟻塚の耐久性であるし、人間にとっての無限とは、蟻にとっての蟻塚の高さなんです。

「永遠であれ無限であれ、人間が勝利しうる何かしらではないんです。確かにですよ、人間は、魔学と科学との力によって神々にさえ勝利しました。聖処女イスラエルを底知れぬところに投げ込み、アナンケ王妃とアルディアイオス大王を殺し、現時点での最高神であるヤー・ブル・オンを地上から完全に追放しました。まあ、正確にいえばアナンケ王妃とアルディアイオス大王とを殺したのはノスフェラトゥだったわけですが……それはまあいいとして。人間は、そのように神々に勝利したことによって、勘違いしてしまったんです。自分達が全知全能の存在であると。あるいは、全知全能の存在になりうるものであると。

「それは、まあ、今まで全知全能だと思っていた存在に勝利したんですからね。一時的にそういう考え方をしてしまっても仕方はないと思いますが。ただ、とはいえ、いつまでもいつまでもそんな子供じみた妄想に固執されてしまっては、こちらとしても、ちょっと待ってくれよと思ってしまいますよ。

「あのですね、もちろん、私としても人間ではありますから、未来において人間という種類の生き物が永遠だの無限だのといった何かしらに勝利する可能性がないと言いたくはありませんよ。人間が、人間として、そういう可能性が持てればどんなに素晴らしいだろうとは思います。そうはいっても、ちょっと冷静になって、一度、ご自分の体を見下ろしてみて下さい。そして、自分がどのような物質であるのかということを考えてみて下さい。この皮膚の下には、一体どのような肉体が詰まっていますか? この頭蓋骨の中には、どういう観念が働いていますか? この、醜い細胞と愚かな思考とで作り上げられた生き物の、どこに永遠と無限とに到達出来る要素があるんです?

「あはは、もしも人間がですよ、そういったものに到達出来るのならば。いうまでもなく、その前に、とっくの昔に、神々が到達していなければおかしいですよ。デウス・デミウルゴスが、洪龍が、ノスフェラトゥが、ヴェケボサンが、ユニコーンが、到達していなければおかしいんです。絶対に忘れないで下さい。人間は、下等知的生命体なんです。神々などよりも、むしろライカーンやグールやといった生き物に近いんです。人間が、蟻を見て、この生き物は永遠と無限とには到達出来ないと考えるように。神々は、私達を見て、永遠と無限とには到達出来ないと考える。そして、その考えは、恐らく正しいんです。あはは、科学? 魔学? そんなものはですね、所詮は、蟻が蟻塚を作るすべに過ぎないんですよ。

「ということで、「人間の勝利」の「勝利」の部分も、やはり「勝利」ではなかったということです。また……最後に、もう一つ、考えておく必要があることがありますね。それは、いうまでもなく、「人間の勝利」というものが、真の幸福の名に値するかという話です。これは、絶対に考えておかなければいけない問題です。なぜなら、「人間の勝利」というものは、一見すると、私達が理想とするところの「超越」であるかのように見えるからです。あるいは、別の言葉でいうと、その原動力となっている欲望が「清めの欲望」であるかのように見える。そうであるならば、たった今、私達は、この「人間の勝利」という思想を完全に拒否したわけですが。「超越」さえも拒否してしまったということになる。あはは、それは、私達が望むところの結論ではありませんよね。それならば――そして、私達が誠実であろうとするならば――私達は、「人間の勝利」というものが「超越」とどのように異なっているのかということを提示しなければいけないというわけです。

「結論からいえば、「人間の勝利」は、あくまでも、その原理を人間に置いているというところが「超越」と異なっているということです。要するにですね、それは究極のところで自己愛に過ぎないんですよ。自分自身の不完全さを嫌悪し、より完全なものとなろうとするという健全さが、恐ろしいほどに欠如してしまっている。もう少し簡単に言うとすれば……「人間の勝利」とは器を満たすことです。その一方で、「超越」とは器の形を変えることです。

「私達にとって、つまり「超越」にとって、永遠だの無限だのといった概念は、本質的にどうでもいいことなんです。だって、そうでしょう? 永遠にせよ、無限にせよ、それは、結局のところ栄光に過ぎないんです。ああ、ここでいう栄光とはトラヴィール教でいう主の栄光のことではなく、栄光の羊にとっての栄光のことです。それは、あくまでも、二次的な何かに過ぎない。つまり、人間にとって、一次的に重要なものとはなり得ない。

「「永遠」も「無限」も、方法にしかなり得ないんです。自分の手の中に「無限」があって、何か嬉しいですか? あるいは、冷蔵庫の中に「永遠」があって、砂流原さんは、満足を覚えますか? まあ、そういう人もいるかもしれませんがね、少なくとも私は違いますし、人間の大部分もやはり違うと思います。「永遠」も、「無限」も、「卓越」した方々が無理やり押し付けた意味を剥ぎ取ってしまえば、ただの状態に過ぎない。それが人間にとって最高の価値であるとは、とてもではないがいえるものではないんです。

「さて、それでは、「卓越」した方々が押し付けた意味とは何か? それは、物語的な方法によって構築されたところの、人間的状態と世界的状態との区別ということです。人間的状態とは――あくまでも「卓越」した方々にとって――人間によって意味付けされたところの秩序ですね。そして、これもやはり「卓越」した方々にとってということですが、世界的状態とは記号の差異化がされる前の混沌です。そして、「永遠」と「無限」とは、この後者の状態、つまり世界的状態と規定されるわけです。しかも、この二つは、世界的状態の中でも最高のものです。

「だから、そういった混沌を意味付けしていかなければいけない。そうすることによって「永遠」と「無限」とを人間的状態にまで落とし込まないといけない。そうして、初めて、人間は世界の全体を人間的状態とすることが出来るわけです。これによって、「人間の勝利」が可能となる。そんなわけで、「永遠」と「無限」とは、「卓越」した方々にとっての栄光となったというわけです。

「そして、私達は、この前提が間違っていると主張したいわけです。いや、まあ、間違っているかどうかはともかくとして、少なくとも私達は受け入れないと主張したいわけです。なぜなら、私達にとって、秩序と混沌とは、人間的状態と世界的状態とに分かれるというわけではない。記号的状態と人間的状態とに分かれるからです。あはは、いうまでもなく人間的状態というのが混沌を指し示しているわけですよ。

「先ほど議論したように、人間と蟻とは、その現実的側面においてさして違ったものではないわけです、そうであるならば、人間と世界と、人工的なものと自然的なものとを分類すること自体がそもそもおかしい。いや、違いますよ、私が言いたいのは、環境活動家の方々があられもなく叫んでいるような、人間も自然の一部だといったようなことではありません。それに、虚無主義者の方々が馬鹿みたいに繰り返している、人間は動物に過ぎないということでもありません。私がいいたいのはですね、人間もやはり混沌なのだということです。人間も、人間が持つ下等な知性も、やはり混沌なのだということなんです。

「それはもちろん、人間が完全な生命体であるならば、人間は混沌ではないでしょう。あるいは人間が世界であるならば、やはり人間は秩序でしょう。しかし、人間はそのどちらでもありません。ただ単に不完全な生命体であるだけなんです。だからこそ、人間は、世界だけでなく、人間さえも記号によって秩序化していかなければいけない。しかも、大変に不完全な記号によって秩序化していかなければいけない。

「こう考えるのであれば、とてもではないですが人間的状態をそのまま秩序と考えることは出来ないということになるわけです。というか、そもそもの話、人間にとっての世界というものが、人間の知性によって認識された世界に過ぎないというのであれば。人間にとって、究極的に秩序化するべきものは、自然などではなく、自らの知性であるということも出来る。自分自身が自分自身によって秩序化されているということを前提として議論を組み立てるのは、私達からすれば、大変、大変、楽天的な考え方であるということなんですよ。

「そう、これが違いなんです。「人間の勝利」と「超越」との、決して相互理解し得ないところの差異。「人間の勝利」を目指す方々にとっては、自分達の理解しうる方法によって思考すること、つまり自分達にとっての生きた経験の中で思考することというのは、人間が行為しうる何かしらの中で最も優れた行為であるわけです。そして、そういう思考のもとで行われる・そういう思考のために行われるところの活働こそが活働するに値すると考えている。人間にとって、思考だけが、この世界の全てを照らし出すためにその手に持つことが出来る灯明である。そして、その灯明によってのみ、人間は、人間としての真の姿……実存を取り戻すことが出来る。「人間の勝利」を目指す方々は、そのように、信仰の態度をもって信じているわけです。

「一方で、「超越」にとっては。世界などというものはどうでもいいわけです。「永遠」などどうでもいい、「無限」もやはりどうでもいい。それらは目指すべきものではなく、また、乗り越えるべきものでもない。「超越」にとって疑うべきもの、乗り越えるべきもの。それは、まさに、その思考なんです。あるいは、「卓越」した方々が、まるで神々に対して信仰を捧げるようにして信仰を捧げているところの、自分自身なんです。

「「卓越」した方々はね、人間の思考、しかも、「卓越」した方々がおっしゃるところの「生きた経験の中で行われる思考」とやらを、まるで壊れやすい宝石のようにして重要視します。曰く、それは非常に繊細なものであり、人間の思考が生きた経験の中にあるという状態は、不断の努力によってしか保つことの出来ないことだ。例えば、tyrannyのもとにある人々のことを考えてみるがいい。その人々からは思考が、自分自身の実存に基づいた思考が奪われていて。そして、周囲の環境に適合する形で、全ての行動は、まるで濁流に飲み込まれるようにして流転を余儀なくされるではないか。

「ふむ、確かにそれはそうですね。tyrannyのもとにある人々は、まるで刺激に反応する出来損ないの人形のように行動するものです。しかしながらですよ、よくよく考えてみて下さい。あなた方は、今までどう行動してきたのですか? 自由民主主義のもとに生まれ、自由民主主義のもとで育ち、自らの実存のみを思考のよりどころにして、生きた経験の中で不断の努力をしようとする、あなた方の行動は、一体どういうものだったというんですか?

「まず最初は、アハム・ジャナスミにおける人間至上主義というイデオロギーが、アーガミパータの神国主義に対して、果敢に立ち向かっていくことを賛美しましたね。そして、アハム・ジャナスミが、実際に、一定の地域を支配していた神国主義勢力を駆逐して。暫定政府という権力主体を作り上げると、その途端に、まるで手のひらをひっくり返すみたいにして批判を開始しました。あはは、それはまるで……権力というものが、何かしらの宗教的な意味を持った穢れであって。そして、それに触れてしまえば、自分達まで穢れてしまうかのように。

「あなた方は……おっしゃるかもしれませんね。自分達は、決して、アハム・ジャナスミが権力主体となることを賛美していたわけではない。アハム・ジャナスミが、無邪気な無思慮によって、神国主義勢力に対する侵略者となることを賛美したわけではない。私達は、つまり、アーガミパータにおける複数性・多様性を肯定するべきものとして肯定していただけなのだ。初期のアハム・ジャナスミ、つまり権力に対する抵抗者としてのアハム・ジャナスミは、いわば「太鼓を鳴らすもの」、パライアーであった。それはある種の追放者であって、自分の家にいながらも常に寄留者である者のことである。自らの公的領域を絶対的に喪失していながら――この絶対的というのは公的領域の構築さえも妨げられているということであるが――それでいて、寄留先の公的空間に、完全には所属し切れていない者。寄留先の公的空間を否定することなく、それでいて、その内部における他者性を担い続ける。そういった存在としての人間至上主義を理想としていたのだ。それにも拘わらず、アハム・ジャナスミは、寄留先の公的空間を排除し、そこに唯一の公的空間として納まってしまった。そうであるならば、私達は、その変節に対して、どうして肯定を示すことが出来ようか?

「ははあ、なるほどなるほど。まあ、確かに、そういわれると、あなた方の行動はとても正しいもののように思われる。特にこの「他者性」という部分が傑作ですね。私達は、つい先ほど権威についての話をしたばかりです。権威というものは一つではなく、適切な数に分立していなければいけない。これは、要するに、集団の内部に「他者性」を維持していなければいけないという話であるということも出来る。そうであるならば、私達の議論とあなた方の議論とは、同一のものであるということになるでしょう。そして、私達は、あなた方の行動はこの上なく正しかったと認めなければいけなくなるはずです。

「ただしね、あはは、残念なことにそうはならないんですよ。なぜなら、私達とあなた方との議論は、根本の部分で異なっているからです。つまり、私達は全体主義を認めているが、あなた方は認めていないということです。あるいは、私達は神国主義がtyrannyとして振る舞うことを認めているが、あなた方はそれを認めていないということです。あなた方は他者性とおっしゃりますがね、その他者性というのはどのレベルでの他者性なんですか? 私達がいっている他者性というのは、集団における内的原理の他者性のことです。つまりですよ、例えば、黒い肌の色と白い肌の色と、「ゼニグ族」という名前と「ヨガシュ族」という名前と、道路の右側を歩くのかと道路の左側を歩くのかと、そういったレベルでの他者性のことをいっているわけではないんです。人間が絶対的な真理だと思い込んでいるところの、その真理の他者性なんです。

「あなた方は、ゼニグ族とヨガシュ族とが共に生きることは許せるでしょう。しかしながら、政権とテロリストとが、差別者と被差別者とが、それにもちろん、全体主義者と自由民主主義者とが。そういった「他者性」が共に生きる、共存していくことは許せないはずです。つまり、あなた方は、自分達は寄留者の立場に甘んじるといっておきながら、その立場であることに耐えられないんです。あなたは、その集団において主人になろうとしている。もちろん、口先では……あくまでも、平等の立場になることだけが望みだというかもしれませんね。平等、平等! はははっ! 何を馬鹿なことを、あなたは、一度でも寄留者に対する主人の気持ちになって考えたことがありますか? 主人からしてみればですよ、たかが寄留者が主人と平等の立場になろうとしている時点で、既にそれは侵略的な行為なんですよ。

「つまりね、あなた方がしていることは、鰓で呼吸する魚が鱗で呼吸する魚を嘲っているに過ぎないんです。どちらも所詮は魚でしかない、どちらも所詮は侵略者でしかないんです。もしも、あなた方の理想の通り、アハム・ジャナスミが神国主義における多様性の担体になるとしましょう、そうであるならば、まず、アハム・ジャナスミは、tyrannyを受け入れなければいけないんです。それを受け入れた上で、それに対して反抗する「他者性」として振る舞わなければいけない。あなた方は、そういうことを望んでいたんですか? 違うでしょう?

「あなた方が望んでいたのは、こういうことじゃないんですか。つまり、アハム・ジャナスミの反抗によって、まるで奇跡のようにして神国主義者達が心を入れ替える。そして、自分達の多様性を増す一つの「他者性」、非常に有益なものとして、人間至上主義を受け入れる。神国主義と人間至上主義とは、多少の摩擦――もちろん、それは、人間の新たな可能性を目覚めさせるだけの熱を生み出すのに十分な摩擦です――を起こしはするが、それでも、根本的な対立、つまりどちらかを排除しようとするような対立を生み出すことなく、平和裏に共存していく。

「あのですね……いってて虚しくならないんですか? そんなことあるわけないじゃないですか。というか、こういうことが仮にあったとして。それはもう神国主義ではありませんよ。少なくとも全体主義的な神国主義ではありません。それは、完全に、自由民主主義です。そんな風に無害化された、一欠片の危険性もない神国主義には、「他者性」の担体としての資格はありません。そう、あなた方は神国主義を去勢してしまったんです。主人を去勢して、自分の飼い犬にしてしまったんです。

「つまり、あなた方は、無邪気なまでに無思慮なんですよ。あなた方は何も理解していない。あなた方が寄留先で同等に扱われると望むこと、それは、ただの侵略者などよりもよほどたちが悪い、「真実」についての侵略者の態度をとっているということなんです。「他者性」とは、そんな生易しいものではない。そんな甘ったるい、学校で教えて貰う「みんなで仲良くしましょうね」というような合言葉ではない。例えば、三権分立でいえば。「宗教への帰依」と「軍事への肯定」と「世俗への適合」と、この三つの、それぞれの絶対的な真実が複雑に交錯しあって。そして、一つの集団が持つ関係知性を舞台として、絶え間なく策略と暴力とが渦巻く、ぎりぎりの戦いを繰り広げる。それこそが「他者性」というものなんです。ある一つのそれ自体で最高の絶対的な真実と、それとは別の、やはりそれ自体で最高の絶対的な真実と。その二つの真実、いや、別に三つでも四つでもいいんですが、とにかく複数・多数の真実の間で、信仰と懐疑とを繰り返す人間達。そういった状況の中からしか、人間を「超越」しようとする意志は生まれ得ないんです。

「あなた方が理想とするところの構造はね、決して、そういった、「超越」を可能とする構造ではないんです。あなた方の理想は、一言でいってしまえば「あらゆる絶対的な真実を相対的な真実にまで引き下げる」という絶対的な真実のみを信仰するということなんです。「あらゆる構造を破壊する」という構造のみを許容するという理想なんです。それは決して「他者性」ではない。あるいは、無理やりにでもそれが「他者性」であるというのならば、それは学校の教室内におけるものでしかない。

「ほら、学校には、色々な人が生徒としてやってきますよね。それまでの背景が全く違う人々が一つの時空間を共有する。確かに、その意味では、教室内には「他者性」が担保されているでしょう。しかしながら、それはぬるま湯の中の「他者性」に過ぎない。なぜなら、学校においては、それまで生徒達が持っていた背景というものは全てが漂白されて、ただのキャラクターにまで貶められるからです。そうして無害化された生徒達のことを、たった一人の先生、たった一人の絶対的な価値観、つまり「みんなで仲良くしましょうね」という価値観が支配する。

「これなんです。あなた方が理想としているところの理想はこれなんですよ。あなた方は、全く大人になり切れていない。誰かしら、自分自身の実存というものを優しく優しく尊重してくれる先生を求め続けているところの子供みたいなものなんです。もちろん、その先生の名前は、ある人々にとってはヴィタ・アクティーヴァであり、ある人々にとってはナショナル・ステートであり、ある人々にとってはユニヴァーサル・ローであるわけです。まあ、私達からしてみれば、どの教師も「人間至上主義」という教員免許を持っているという意味で、全く同じ教師にしか見えないわけなんですけどね。ただ、まあ、確かに、ちょっとした違いはあるかもしれません。それこそ肌の色が白いか黒いかという程度の違いはね。

「というかですね……というかですよ、あなた方が、自分達のイデオロギーには正当性があると主張したから、一応はイデオロギー的な批判を議論として展開してはみましたがね。そもそも、そんな必要はないんですよ。あなた方のしていることは、イデオロギーだのなんだの、そういった机上の空論として間違っているというようなレベルではない。ある一つの現実として、物理的に間違えているんです。

「あはは、だってですよ、あなた方のしたことを一言でまとめてみましょう。テロリストに金を与えた。それだけです。それ以外の何ものでもない。あなた方が、どれほど言葉を尽くしてその事実を糊塗しようとしたとしても無意味です。神国主義という構造的な伝統があり、それでまあまあ上手くやっていたところの集団に、人間至上主義という全く異質なイデオロギーを押し付けて。そうして誕生したところのテロリストに金をやって、神国主義というイデオロギーを駆逐したんです。いや、まあね、私は、別にテロリストに金をやるということを否定したいわけではないんですよ。人間、生きていれば色々ありますからね。テロリストに金をやりたいと思う時もあるでしょう。それは別に構いません、ご自由になさればよろしい。しかしながらですよ、あなた方は、今までどのような主張をしてきましたか? あなた方のイデオロギーでは、テロリストに金を与えるということは、肯定されるべきことですか? 違うでしょう? いや、まあ、私の理解が間違っているのかもしれませんがね、少なくとも、私が理解する限りでは、あなた方は否定していたはずです。テロリストを。あるいは、ある一つの絶対的な真実が、別の絶対的な真実を侵略・抑圧・搾取するということを。

「そうであるならば、あなた方は、あなた方によって裁かれなければいけないはずなんです。あなた方の行動は、あなた方の主張していたところのイデオロギーからして間違っていた行為だった。というか……あなた方は、それ以上に、あなた方のイデオロギーを、あるいは内的原理を疑わなければいけなかった。なぜなら、あなた方は、あなた方の実存に従ってそれをしたのでしょう? その行為は、あなた方の生きた経験から自然に導き出された行為なのでしょう? そうだとするのならば、あなた方は、内的原理のどこかが間違っていたと考えなければいけなかったんです。

「しかし、あなた方はそれをしなかった。それどころか……ある方々は、なんとかして自分の行動を正当化しようと、机上の空論を弄んだ。ある方々はアハム・ジャナスミがしたことは人間至上主義という理想に反することだと非難した。ある方々は、暫定政府から「距離を取って」「客観的な立場を貫いた」。そして、ある方々は――他の方々よりも、少しは恥じらいというものがある方々は――ただただ、口を噤んで何もいわなかった。誰一人として、自分自身を疑った者はいなかった。自分自身の実存を、自分自身の生きた経験を、疑った者はいなかった。「卓越」した方々は、誰もが、誰もが、何もかも自分に都合のいい世界で、自分だけが正しいと叫んでいただけだった。

「あなた方は、最初から最後まで間違えていた。あなた方が絶対的な真理だと思っていたものはその内部に解消しなければいけない矛盾を孕んでいたのだし、しかも、あなた方は、それを解消しようともしなかった。あなた方は、口では侵略と奴隷とを否定していながら、あなた方の真実はその二つを前提としなければ成立しなかったんです。この世界に新しく生まれたあなた方、この世界に居場所のないあなた方は、何かを侵略しなければ、自由も、過程も、孤独さえも手に入れることが出来なかった。そして、あなた方の公的領域、あるいは実存という特権は、大多数の奴隷によって支えられない限りは成立さえしない代物だった。あなた方のいう自由というのはあなた方の自由でしかなく、あなた方のいう民主というのはあなた方の民主でしかなかった。つまり、あなた方は、口ではなんといおうと、絶対的な真実のもとに「あなたではない何者か」を抑圧する全体的劣悪制度の信奉者でしかなかったんですよ。」

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